サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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副パーサー

 チーフパーサーがシュミレーションルームへ向かったのは、時計の針が昼に差しかかる少し前だった。

 午前の予定表には「乗務員訓練(エリン指導)」とだけ書かれている。内容は知らされていない。だが、廊下を歩くほどに、妙な予感が濃くなる。

 

 ――静かすぎる。

 

 普段なら、訓練室の前を通るだけで声が漏れる。笑い声、指示、反省の声、あわただしい足音。

 なのに今日は、壁の向こうが妙に“重い”。空気が湿っているような、苦い匂いがする。

 

 チーフパーサーはドアの前で一度立ち止まった。ネームプレートに指を当て、深呼吸する。

 そして、ノックもせずに扉を押し開けた。

 

 途端に、熱が流れ込んできた。

 

 室内は、汗と消毒液と、機材の熱の匂いが混じっている。

 並ぶ乗務員たちの顔は赤い。額も首筋も汗ばんでいて、髪の生え際が濡れている者もいる。手袋を外した指先が白くふやけている者までいた。

 

 整列は完璧だ。姿勢も揃っている。

 ――だが、目が死んでいる。

 

 チーフパーサーは思わず小さく呟いた。

 

「随分と……しごかれたのね」

 

 誰も返事をしない。返事をする力が残っていないのか、返事をしてはいけない空気なのか。

 その理由はすぐに分かった。

 

 訓練用の船内モジュール――模擬客室の入口の方から、明るい声が聞こえたのだ。

 

「うん! 今のはいい感じね!」

 

 弾むような、柔らかな声。

 チーフパーサーは一瞬だけ眉を上げ、心の中で呟く。

 

(……あら。普通なのね)

 

 その“普通”が、いちばん怖い。

 追い詰めている指導者ほど、案外明るい声を出す。明るい声で、淡々と、逃げ道を潰していく。

 

 チーフパーサーが船内モジュールへ一歩踏み入れたときだった。

 

「それじゃあ、もう一回やろうか」

 

 エリンが言った。

 

 次の瞬間、乗務員の一人が、魂が抜けたような声を出した。

 

「……も、もう一回ですか……」

 

 言ってしまった、と気づいた顔で固まる。

 だがエリンは怒らない。顔色も変えない。優しく笑って、言った。

 

「ええ。もう一回」

 

 その笑みは、確かに優しい。

 けれど、刃物みたいに切れ味がある。

 

 乗務員は唇を噛んだ。肩が落ち、息が漏れる。

 それでも彼は姿勢を正した。声を絞り出した。

 

「……わ、分かりました」

 

 その返事に、エリンは満足そうに頷いた。まるで“正解”を与えた教師みたいに。

 

 チーフパーサーは、入口付近の壁に寄り、場の様子をざっと見た。

 模擬客室には“乗客役”が座っている。荷物を上げ、通路を塞ぎ、質問を重ね、時に勝手に立ち上がり――あえて厄介な動きをする者もいる。

 そして“乗務員役”は、笑顔を崩さず、立ち位置を守り、視線の角度を揃え、声の高さを整え、手を添える位置まで揃えて応対している。

 

 ……完璧に近い。

 だが完璧だからこそ分かる。これは、短時間で到達する域ではない。

 

 チーフパーサーは近くにいたエマを見つけ、そっと声をかけた。

 

「エマ。今日はどういう訓練なの?」

 

 エマはびくりと肩を揺らしてから、すぐに姿勢を正した。

 疲れの滲む顔で、それでもきちんと頭を下げる。

 

「あ、チーフ。お疲れ様です」

 

「お疲れ様。それで?」

 

 エマは、短く息を吸った。

 その息が震えているのをチーフパーサーは見逃さなかった。

 

「今日は、基礎の……乗客の乗り入れと船内サービスのシュミレーションです。……なのですが……」

 

 そこで、エマの顔が曇る。言葉を選んでいる顔だ。

 言っていいのか迷っている――だが、言わないと助からない。

 

「……乗客の乗り入れだけで、エリンさんの指導が……かれこれ二時間以上、続いています」

 

「二時間以上!?」

 

 チーフパーサーの声が思わず上がる。

 周囲の乗務員が、視線だけで“助けて”と訴えてくる。声にできない叫びが、空気に染みていた。

 

「はい……」

 

 エマは苦笑いを浮かべた。笑えていない笑いだ。

 

「エリンさんの『もう一回』が、ずっと続いて……耳に残ってます。今も、脳の奥で鳴ってます」

 

 チーフパーサーは、口元に手を当てた。

 確かにこの場に入った瞬間から、どこか“反復の疲労”の匂いがした。

 同じ動作を何十回も繰り返して、神経だけ削られていく、あの独特の疲れ方。

 

「……それは気の毒ね」

 

 チーフパーサーがそう言うと、エマは肩をすくめた。

 

「まあ、エリンさんの“優しい指導”には慣れてますけどね」

 

 言いながら、エマの目が遠くを向く。

 船内モジュールの中心にいるエリン――彼女を見つめる目には、尊敬と恐怖と、そしてどこかの誇らしさが混ざっていた。

 

 チーフパーサーも、その視線の先を追った。

 

 エリンは、乗務員の立ち位置をほんの数センチだけ直し、荷物の持ち方を修正し、乗客役の目線に合わせて声の高さを変え、最後に軽く頷いて言った。

 

「今のは、良かった。……でもね、まだ“安全”じゃない」

 

 優しい声で、厳しいことを言う。

 否定しない。だが、合格も出さない。

 

 乗務員が喉を鳴らす。誰かが笑いそうになって、咳で誤魔化す。

 追い詰められているのに、場が崩れない。崩れないどころか、妙に“締まっている”。

 

 チーフパーサーは、ゆっくりと歩き出し、エリンに声を届かせた。

 

「エリン。もうお昼になるし、そろそろシュミレーションを終わりにしたらどうかしら?」

 

 船内モジュールの空気が一瞬止まる。

 乗務員たちの目が、祈りみたいにチーフパーサーへ集まった。

 

 エリンが振り返る。

 表情は明るい。普通だ。いつものエリンだ。

 ――けれど、その目だけが“仕事の目”だった。

 

「チーフ……もうそんな時間?」

 

 エリンは端末で時刻を確認し、軽く息を吐いた。

 

「……ほんとだ」

 

 そして、すぐに現場の空気をまとめる声で言う。

 

「それじゃあ、今日はここまでにしましょう」

 

 その瞬間、乗務員たちから同時に安堵の息が漏れた。

 まるで酸素を配給されたみたいに、肩が落ちる。膝が少し緩む。

 誰かが心底ほっとした顔で笑いそうになって、慌てて真顔に戻した。

 

 チーフパーサーは内心で頷いた。

 

(……助かった、って顔。あれだけで午前がどれほど濃かったか分かる)

 

 だが、エリンは“優しい終わり”で締めない。

 

「予定の半分も行かなかったから」

 

 乗務員たちの顔が一斉に曇る。

 

「続きはまた今度やりましょう」

 

 何人かが、静かに絶望した。

 だがエリンは笑っている。悪気はない。本気で言っている。

 この人は、必要なら何度でも“今度”を積むのだ。

 

 チーフパーサーは咳払いをして、話題を切り替えた。

 

「それと、エリンに話があるから少しいい?」

 

「分かりました」

 

 エリンは即答し、姿勢を正す。

 さっきまでの厳しい指導者の目が、ほんの少し柔らかくなる。

 

 エリンは振り返り、場を引き継ぐ。

 

「カイエ、後は任せるわよ」

 

「分かりました」

 

 カイエの返事は短く、強い。彼女はもう“午前の地獄”に慣れている。

 むしろ、その地獄を支える側だ。

 

 チーフパーサーは、エリンの横に立った。

 

「それじゃあ行きましょう」

 

 エリンが頷く。

 そして二人が船内モジュールを出ていくとき――背後から、小さな声が漏れた。

 

「……助かった……」

 

 「聞こえた」と言わないのが、エリンの優しさだ。

 だが、聞こえていないはずがない。

 彼女は何も言わずに歩き続けた。歩幅も、速度も、いつも通り。

 

 チーフパーサーは廊下へ出た瞬間、肩の力を抜いた。

 そして、隣を歩くエリンを横目に見た。

 

 ――昨日までの“迷い”の気配がない。

 今のエリンは、何かを決めた人間の背中をしている。

 

 ただ、決めた人間ほど、容赦がない。

 そして、そういう指導は――確かに乗務員を強くする。

 

 チーフパーサーは、少しだけ唇を引き結んだ。

 

(さて。……今度は、あなたに何を任せるか。任せても折れないか。

 それを測る時間ね)

 

 二人の足音が、廊下に響いた。

 シュミレーションルームの扉の向こうでは、残された乗務員たちが、まだ震える手を整えながら――次の“今度”に備えて、静かに動き始めていた。

 

ーーーー

 

午前のシュミレーションをいったん切り上げたあと、チーフパーサーとエリンはビルの外に出た。昼前の光はまだ柔らかいのに、アスファルトの上だけが妙に眩しい。

 

 歩いて数分。会社の近くの喫茶店は、外観こそ落ち着いていたが、中は思ったより賑わっていた。昼休憩の社員、近隣の作業員、ひと息つきに来た客室乗務員らしき制服姿もいる。コーヒーの香りと、焼きたてのパンの匂いが混ざって、鼻の奥をくすぐった。

 

「ここでいい?」

 

 チーフパーサーがそう言って、窓際の席を指差す。エリンは軽く頷いた。

 

「はい。静かに話せそうです」

 

 席に着くと、二人は簡単にランチを頼んだ。チーフパーサーはサンドとスープ、エリンは軽めのパスタとサラダ。仕事の合間だ、味よりも“続けられる量”が大事だと分かっている。

 

 料理が来るまでの間、チーフパーサーはエリンの顔を一度だけじっと見た。昨日までの迷いの影が薄くなったようにも見える。だが、目の奥にはまだ残る疲れがある。疲れは隠せても、消せない。

 

「さっきの訓練、ずいぶん絞ったのね」

 

 チーフパーサーが軽く笑うと、エリンも小さく笑った。

 

「絞ったというより……戻しただけです。基礎を」

 

「基礎に見えなかったわよ。倒れそうな顔の子が何人もいた」

 

「倒れない程度に、です」

 

 エリンはそう言って、フォークを指先で整えた。几帳面な仕草。習慣であり、心を落ち着かせる癖でもある。

 

 料理が運ばれてきた。湯気が上がるスープの香りに、チーフパーサーが満足そうに息を吐く。エリンもサラダの彩りを確認して、ようやく肩を落とした。

 

 数口食べたあと、チーフパーサーが紙ナプキンで口元を押さえ、こちらへ視線を向ける。いよいよ本題だ、と空気が変わった。

 

「エリン。あなたのチーフパーサーとしての最初の仕事だけど」

 

 エリンは背筋を伸ばした。口の中のものをきちんと飲み込み、頷く。

 

「はい」

 

「スペースホープを任せたいと思ってる」

 

 名前が出た瞬間、エリンの瞳がわずかに動いた。記憶の棚が静かに開く音がする。

 

「スペースホープ……確か、あの会社は……」

 

「うちと業務提携を結んでいる会社ね」

 

 チーフパーサーは淡々と告げた。淡々としているのに、その口調がすでに“火種”の匂いを含んでいる。

 

「ええ、知っています。ですが、スペースホープは昨年……」

 

「そう。役員の横領が発覚して、会社としての信頼は落ちて、業績も落ち込んでいる」

 

 スープをひと口。チーフパーサーはそのまま続けた。

 

「あなたも耳にしてるでしょ。フライト業務は停止。それどころか、辞めた社員も多い」

 

 エリンは、フォークを止めたまま視線を落とした。

 

 ――止まった現場。抜けた人員。残された乗務員。

 それは“空席”になる。空席はやがて“穴”になり、穴は“崩壊”につながる。

 

「それで……私にスペースホープを任せるというのは?」

 

 エリンの声は落ち着いていた。けれど、芯のところに張りがある。今のエリンは“逃げるために答える”人ではない。

 

 チーフパーサーは頷いた。

 

「スペースホープは旅行フライト専門の会社。だけど横領の件で信頼が落ちて、フライト業務は今、止まってる。残っている社員も、心が折れかけてる」

 

「……」

 

「このままなら、潰れる。そうならないためには、再開するしかない」

 

 言葉が、短く切られる。余計な飾りがない。現実の言い方だ。

 

「ただし、再開は“やればいい”じゃない。乗務員は恐怖を抱えている。乗客は疑っている。整備も運航も、外側から見れば全部、信用が落ちている。そういう現場に必要なのは、誰だと思う?」

 

 エリンは、少しだけ息を吸った。

 

「……乗務員を指揮するチーフパーサー、です」

 

「そう。だからあなたに任せたい」

 

 エリンはすぐに頷かなかった。判断を急がないのは、怖いからではない。現場を舐めたくないからだ。

 

「つまり私は、今残っている乗務員たちと、フライトを再開しろということですね」

 

「そのとおり」

 

 チーフパーサーは、スプーンをソーサーに置いて一拍置いた。

 

「ただし。再開するにしろ、しないにしろ、その判断はあなたに任せる」

 

 エリンはそこで顔を上げた。少し驚いた表情になる。

 

「私に……判断を?」

 

「ええ」

 

 チーフパーサーは当然のように言う。

 

「私が机の上で“行け”と言っても、あなたが現場で“無理だ”と判断するなら止める。現場の空気と人間を見ない判断は、いつか誰かを殺すから」

 

 その言葉に、エリンの胸の奥が少し熱くなった。

 “責任”という言葉の扱いが、この人は正確だ。

 

 エリンは小さく頷き、静かに言った。

 

「……なるほど」

 

「引き受けるか受けないかも、あなたに任せるわ」

 

 エリンは一拍遅れて首を横に振った。迷いではなく、否定の形だ。

 

「え? それは……もちろん引き受けます」

 

 チーフパーサーは、呆れたように、けれど少し嬉しそうに眉を上げた。

 

「あなた、そんな簡単に決めていいの? 物凄く大変なことよ」

 

「理解しています」

 

 エリンははっきりと言った。

 

「でも、実際にこの目で見ないと分からないことも多いです。怖さはあります。……ただ、何とかしてみます」

 

 その言葉は、根性論じゃない。

 “やる”と言う人間の口調だった。覚悟がある人間の声だった。

 

 チーフパーサーはしばらくエリンを見つめてから、スープを飲み干した。

 

「……まあ、あなたが言うなら大丈夫そうね。なら、この話は正式に進めるわ」

 

「よろしくお願いします」

 

 エリンは頭を下げる。深く、しかし過剰ではない。礼儀が、相手を疲れさせない角度で決まっている。

 

 そしてチーフパーサーは、ふっと話題を切り替えた。

 

「それと……あなたの後の副パーサーを誰にするか、そろそろ決めたいのよね」

 

「副パーサー……ですか?」

 

「ええ。あなたが適任だと思う人を選んでいいわ」

 

 エリンは一瞬、言葉に詰まった。

 スペースホープの件は“外”だが、副パーサー選びは“内”だ。しかも、チームの心臓部を決める話だ。

 

「でも……私はこの会社での副パーサー歴も短いです。適任を決めろと言われても……」

 

 チーフパーサーは首を横に振った。

 

「他の班から連れてくる必要はないわ。今、あなたの下にいるメンバーから選んでいい」

 

 その瞬間、エリンの脳裏に浮かぶ顔は三つだけだった。

 

 現場の空気を読めるカイエ。

 人の感情に寄り添えるエマ。

 そして、明るさで船内を動かせるククル。

 

 エリンは迷いを隠さず、正直に言った。

 

「……それでしたら、エマ、カイエ、ククルの中から選びたいです」

 

 チーフパーサーが小さく頷く。

 

「あの三人は、ドルトムントで働いていただけあって、他の乗務員ともレベルが違う」

 

「はい。場数も……人を見る目も、違います」

 

 エリンはそう言って、少しだけ笑った。

 あの三人と一緒に働いた時間を思い出すと、胸が落ち着く。守りたいものが、具体的になる。

 

 チーフパーサーは、サンドの最後の一切れを口に運びながら言った。

 

「やっぱりあなたなら、あの三人を選ぶと思ったわ」

 

「……」

 

「それなら、カイエね」

 

 エリンは目を瞬かせた。

 

「カイエですか。……ククルやエマは?」

 

 チーフパーサーは、仕事の顔に戻った。

 

「エマには来月から、他の班の副パーサーについてもらう予定よ」

 

 エリンの中で、納得がひとつ落ちる。

 エマは“支える側”に立てる。あの子は誰かの背中を守れる。

 

 だが、次の言葉でエリンの眉がわずかに寄った。

 

「それとククルは……今回の救助任務に行ったことも含めて、とりあえず見送りにするよう言われてるわ」

 

「見送り……」

 

 エリンは小さく繰り返した。

 責めているわけではない。現実を噛み砕いているだけだ。

 

「そうなんですね……」

 

 エリンは視線を落とした。

 ククルは頑張った。それは理解している。

 でも会社は、感情で動けない。特例は前例になる。前例は規則を歪ませる。

 

「それにね」

 

 チーフパーサーは言葉を少し柔らかくした。

 

「あの三人は三位一体で力を発揮するけど……そろそろ“ひとり立ち”するにはいい頃よ」

 

 エリンは、静かに頷いた。

 

「はい。私もそう思います」

 

 胸の奥が少し痛む。

 “ひとり立ち”は、成長だけど、別れでもあるから。

 

 エリンは息を整えて言った。

 

「カイエには私から伝えます」

 

「ええ、分かったわ」

 

 チーフパーサーはコーヒーをひと口飲み、エリンを見た。

 その視線には、確認が混じっている。

 

 ――この人は、逃げない。

 ――引き受けると決めたら、現場を見て、判断して、責任を背負う。

 

 エリンは、その視線を受け止めたまま、背筋を伸ばした。

 

 スペースホープ。

 崩れかけた会社。折れかけた乗務員。止まったフライト。

 そして、再開か、停止かの判断。

 

 重い。確かに重い。

 でも、昨日までの“重さ”とは違った。

 これは逃げたくなる重さではなく、踏み込むべき現場の重さだ。

 

 エリンは心の中で、短く自分に言った。

 

(まず、見に行こう。

 何が残っていて、何が壊れているのか。

 そこからだ)

 

 窓の外で、昼の光が揺れていた。

 コーヒーの表面に映るその光は、どこか“これから”の色に見えた。

 

ーーーー

 

 翌朝。

 

 ロカA2のハワード財閥旅行会社のフロアは、いつも通りの音で満ちていた。端末の起動音、点呼の応答、椅子が床を擦る気配。規律があるのに、硬すぎない。どこか呼吸のしやすい空間――それが、この会社の“当たり前”になっている。

 

 けれど今のエリンの目には、そこに薄い膜がかかって見えた。

 

 笑顔はある。対応は丁寧だ。手順も揃っている。

 なのに、ほんの少しだけ緊張が足りない。ほんの少しだけ、目が泳ぐ瞬間がある。

 “何も起こらない前提”の空気が、わずかに漂っている。

 

 エリンは朝の挨拶を済ませ、軽くフロアを見渡すと、カイエの背中を視界に捉えた。書類の束を抱え、確認事項を短く周囲に伝え、すぐに端末へ視線を戻す。その動きに無駄がない。慌てず、騒がず、抜けもない。

 

 頼もしい、とエリンは思う。

 そして、だからこそ今日――話さなければならなかった。

 

 エリンは自分の端末で、短いメッセージを一通送る。

 

『カイエ、五分だけ時間いい? 喫茶スペースで待ってるね』

 

 返事はすぐに来た。

 

『承知しました。すぐ伺います』

 

 エリンは歩き出し、フロアの奥、社員用の小さな喫茶スペースへ向かった。自販機のコーヒーが並ぶだけの簡素な場所だが、壁際の席は少し静かだ。椅子に腰を下ろして呼吸を整える。

 

 窓越しに見える空は、澄んでいる。

 今日も、何事もなく終わるかもしれない。

 ――それでも、何事もない日こそ“整える”日だと、エリンは知っている。

 

 程なくして、カイエが現れた。髪をきちんとまとめ、制服の皺もない。歩幅も一定だ。こういうところにこそ、彼女の“質”が出る。

 

「お呼びでしょうか、エリンさん」

 

「うん。来てくれてありがとう。座って」

 

 カイエは一礼して椅子を引き、背筋を伸ばしたまま座った。何かを覚悟するような目だった。エリンはその目を見て、逆に少し笑ってしまう。

 

「そんなに構えなくていいよ。怒る話じゃないから」

 

「いえ、構えます。エリンさんがわざわざ呼び出す時点で、優しい話だけではないと判断しました」

 

「……そこは変わらないね」

 

 エリンは頬杖をつくでもなく、手を組んだ。目線は逸らさない。逃げない。曖昧にしない。今日の話は、そういう話だ。

 

「昨日、チーフパーサーから正式に承認が下りたの。私がチーフパーサーとして動くことになった」

 

 カイエは瞬きを一つして、静かに頷いた。

 

「おめでとうございます。……いえ、言葉が軽いですね。おめでとうというより、当然です。エリンさんなら」

 

「ありがとう。で、今日は次の話」

 

 エリンは息を吸って、言葉を整えてから告げた。

 

「カイエ。副パーサーに着任してほしい」

 

 一瞬、空気が止まった。

 

 カイエの表情は変わらない。変わらないが、瞳孔がほんの僅かに開く。体の奥で衝撃を受け止めているのが分かる。それでもカイエは、取り繕うように笑わなかった。笑う余裕がない時に笑う人間は信用できない。そういう意味で、カイエは誠実だった。

 

「……無理です」

 

 エリンは驚かなかった。むしろ、カイエならそう言うと分かっていた。

 

「理由を聞かせて」

 

「私は……まだ、副パーサーとしては未熟です。私が目指している副パーサーには、遠く及ばない」

 

 その言葉を聞いた瞬間、エリンの胸の奥に浮かぶ顔がある。

 軽口で空気を動かして、修羅場では誰より鋭く、誰より速く、誰より“責任”を引き受ける人。

 

 ペルシア。

 

 カイエがその名を口にしなくても、分かる。彼女が目指している背中は、きっとそこにある。

 

 エリンはゆっくり頷き、否定ではなく事実として言った。

 

「……誰のことを言ってるのか、私には分かるよ」

 

 カイエの喉が小さく鳴った。バレた、という顔にはならない。けれど、心臓を掴まれたような気配がした。

 

「でもね、カイエ。あなたの実力は充分に匹敵してる。少なくとも、この会社の副パーサーとして“足りない”なんてことはない」

 

「いえ」

 

 カイエは首を横に振る。その否定は頑固ではない。むしろ、怖さに似ていた。背負うことが怖い。期待が怖い。間違えることが怖い。――それは、責任ある人間の怖さだ。

 

「副パーサーは、間違えられません」

 

「間違えるよ」

 

 エリンは即答した。

 

「副パーサーだって、チーフパーサーだって、統括官だって。間違える。大事なのは、間違えないことじゃない。間違えたあとに“どう立て直すか”。それができる人が、副パーサーなの」

 

 カイエは言葉を返せず、視線を落とした。

 指先が、膝の上でぎゅっと握られている。自分を押さえている。感情を暴れさせないように。

 

 エリンはそこで、話を一段、深いところへ落とした。

 

「カイエ。ひとつ聞きたい」

 

「……はい」

 

「この会社に来て、違和感を感じていない?」

 

 カイエは顔を上げた。予想外の質問だったのだろう。眉がわずかに寄る。

 

「違和感……ですか?」

 

「ええ。ドルトムントと比べて、ね」

 

 カイエの表情がほんの少しだけ曇る。

 “比べる”という言葉に、過去が引っ張り出される。思い出したくないものも一緒に。

 

 だがカイエは逃げなかった。口を開くまでに一拍置き、慎重に言葉を選んで答える。

 

「違和感という訳ではありません。ただ……」

 

「ただ?」

 

「ドルトムントの時と比べて、この会社は……楽です」

 

 その言葉は、罪悪感を伴っていた。

 “楽”と言うことが悪いみたいに、カイエの声は小さくなる。

 

 エリンは、否定しなかった。頷いた。

 

「うん。そうだね。楽だと思う」

 

 カイエの目が少し丸くなる。

 同意されると思っていなかったのだろう。

 

 エリンは続けた。

 

「この会社は、仕組みがある。人員もいる。手順も整ってる。教育の導線も、ドルトムントよりずっと分かりやすい。無理をしなくても回るように作ってある」

 

「はい」

 

「それは良いこと。間違いなく良いこと。……でもね」

 

 エリンは机の上の紙ナプキンを一度だけ指で撫でた。些細な動作で、気持ちを整える。

 

「“楽”は、人を鈍らせることもある」

 

 カイエの瞳が揺れた。

 その言葉に、覚えがあったのだ。自分の胸の奥で、ずっと感じていた感覚に名前をつけられたような顔。

 

「ドルトムントは、厳しかった。理不尽も多かった。人も入れ替わった。やる気のない乗務員だっていたし、空気だって荒んだ」

 

 エリンは淡々と語る。昔話のように、しかし今も痛い話として。

 

「それでも、あそこには……何かがあったの。乗客を守る、っていう“圧”が」

 

 カイエは無意識に頷いていた。あの圧を知っている。

 背中に貼りつく緊張。肌が乾くほどの集中。

 それは怖かった。だけど、同時に――生きていた。

 

「この会社は“安全”に見える。でも、安全に見える場所ほど、油断が起きる」

 

 エリンはまっすぐカイエを見る。

 

「カイエ。あなたは“楽”だと感じた。その感覚は正しい。だからこそ、その中で私たちがやるべきことがある」

 

「……やるべきこと」

 

「“楽”の中で、基準を落とさないこと。楽だからこそ、基礎を徹底して、ちょっとした綻びを放置しないこと。そうしないと、いざという時に――崩れる」

 

 カイエは唇を噛んだ。

 崩れる。

 その言葉に、北の未探索領域の救助任務が脳裏をよぎる。あの時、もし誰かが一つ判断を誤っていたら。もし一つの配線、一つの手順、一つの声掛けが遅れていたら。

 

 命は簡単に落ちる。

 

「副パーサーは、その基準を“守る役目”なの」

 

 エリンは優しく言った。だが、甘くはない。

 

「私が現場で前を向いて走るなら、副パーサーは横で、後ろで、全体を見て、基準を維持して、支える。たとえ私が疲れていても、たとえ私が迷っても、背骨を保つ役目」

 

 カイエの瞳が、少しずつ強くなる。

 逃げる前の目ではない。受け止める目だ。

 

 カイエは小さく息を吐いて言った。

 

「……私には、その覚悟がありません」

 

「覚悟は、最初からある人の方が少ないよ」

 

 エリンは言い切った。

 

「覚悟って、決めるものじゃない。やりながら、育つもの」

 

「でも、私が目指している副パーサーは……」

 

「うん」

 

 エリンは頷いた。ここで、ペルシアの名を出すことは簡単だ。けれど、エリンはあえて出さなかった。カイエの憧れを“言葉”で固定してしまうと、本人がその影から出られなくなる。

 

「憧れは、大事。目標は、必要。だけどね、カイエ」

 

 エリンは少し声を落とした。

 

「憧れの人と同じになろうとしなくていい。あなたはあなたで、副パーサーになればいい」

 

 カイエの目が潤んだように見えた。

 泣きそう、ではなく。ようやく息ができた、という顔。

 

「……私が、副パーサーに」

 

「うん」

 

 エリンは微笑んだ。

 

「あなたの良さは、冷静さ。言葉が少なくても、必要な情報を落とさない。周りを見て、先回りできる。焦ってる人間に合わせて、空気を壊さない。……それって、簡単にできることじゃない」

 

 カイエの指先がほどけた。膝の上の拳が、ゆっくり開く。

 

「私は……」

 

 カイエは言葉を探した。

 “無理です”の続きではない。別の言葉を探している。

 

「エリンさん。もし私が副パーサーになって、チームが崩れたら……」

 

「崩れないように、崩れかけたら戻すために、副パーサーがいるんでしょ」

 

 エリンは当たり前のように言った。

 

「それに、崩れるのは副パーサーのせいだけじゃない。私のせいでもある。全員のせいでもある。……責任って、ひとりのものじゃないよ」

 

 その言葉に、カイエの肩が少し下がった。

 責任が“軽くなる”わけではない。

 でも、責任が“ひとり”じゃなくなるだけで、人は立てる。

 

 カイエは静かに息を吸い、そして言った。

 

「……この会社が“楽”だと思った時、少しだけ怖かったです」

 

「うん」

 

「楽で、回っていて、笑顔があって……それで、油断したら終わる、って。ドルトムントで……たくさん見ましたから」

 

 エリンは頷いた。見た。見すぎた。だから今、分かる。

 

「だから、あなたが副パーサーになって、“楽”の中で基準を守ってほしい」

 

 エリンは最後に、優しい声で言った。

 

「カイエ。あなたは、もう充分に強い。足りないのは実力じゃない。自分を信じる許可だけ」

 

 カイエは目を閉じた。

 そして、ゆっくり開ける。

 

「……分かりました」

 

 その言葉は、震えていなかった。

 震えを飲み込んで、前に出た声だった。

 

「副パーサー……着任します。ただし、条件があります」

 

「うん。聞くよ」

 

「エリンさん。私が迷った時、逃げそうになった時、遠慮なく叱ってください」

 

 エリンは、思わず笑ってしまった。

 

「それは任せて。優しいと甘やかしは違うからね」

 

 カイエも小さく笑った。

 たぶん、あの三人――ククル、エマ、カイエが、昔のエリンを思い出す時の“合図”は、今も変わらない。

 

「それと」

 

 エリンは少し真面目な顔に戻る。

 

「副パーサーになったら、あなたの理想の副パーサー像、少しずつ私にも教えて。私はあなたの憧れを否定しない。でも、あなたの副パーサー像も、ちゃんと形にしたいから」

 

 カイエは一拍置き、深く頷いた。

 

「……はい。ありがとうございます」

 

 喫茶スペースの空気が、少しだけ柔らかくなった。

 遠くで誰かが笑っている。コーヒーの抽出音が鳴っている。

 “何も起こらない日常”の音だ。

 

 でも、その日常を守るために。

 日常の裏側で、誰かが基準を整え続ける。

 

 エリンは立ち上がった。

 

「じゃあ、フロアに戻ろうか。副パーサー、カイエ」

 

 カイエは、少しだけ照れたように視線を逸らしてから、背筋を伸ばした。

 

「……はい、エリンチーフ」

 

ーーーー

 

 シュミレーションルームの扉が開いた瞬間、空気が一段、引き締まった。

 

 整列していた乗務員たちが背筋を正し、視線を正面に揃える。いつもなら「おはようございます」の声が少しばらつくところだが、今日は不思議なくらい揃っていた。昨日の“もう一回”が、まだ身体に残っているのだろう。

 

 そして、その整列の前に――エリンが立った。

 

 いつも通りの制服。いつも通りの穏やかな表情。けれど目の奥は、以前より澄んでいた。迷いが剥がれ落ちた人間の目だ。

 

「おはよう。みんな、ありがとう。まず、最初にひとつ伝えることがあるの」

 

 ざわ、と微かな気配が走る。何か重大な連絡だ、と全員が察していた。

 

 エリンは目を動かし、カイエを見た。カイエは一歩前へ出る。足取りは静かだが、迷いはない。

 

「カイエ。ちょっと、前に」

 

「はい」

 

 カイエが立つと、ククルが口元に手を当て、エマが「来た」とでも言うように息を呑んだ。カイエが呼ばれた――それだけで、何が告げられるのか分かってしまう。

 

 エリンは全員へ向けて、はっきり言った。

 

「今日から、カイエに副パーサーをお願いすることになりました」

 

 次の瞬間、空気が弾けた。

 

 拍手が湧く。椅子の脚が鳴る。誰かが小さく歓声を漏らし、誰かが「やっぱり!」と呟いた。

 

 そして一番先に飛び出したのは――ククルだった。

 

「カイエ!!」

 

 ククルが勢いよく抱きつき、カイエの腰のあたりに腕を回した。エマも遅れまいと近づき、反対側から抱きしめる。

 

「おめでとう! カイエ、ほんとにおめでとう!」

 

「……ありがとう」

 

 カイエは一拍遅れて、二人の背中に手を置いた。ぎこちないようで、でも、その手は確かに温かい。

 

 ククルは顔を上げ、目を潤ませたまま笑う。

 

「だって、カイエが副パーサーとか……もう、安心しかないです!」

 

「安心しきるのは早い。私は、まだこれからだ」

 

 カイエの返しはいつも通り硬い。だが、その硬さに、今日は柔らかい芯が混じっていた。エマがにやりとする。

 

「ほらほら、カイエ。そういうの、後で言えばいいんだよ。今日は“おめでとうの日”」

 

「……分かってる」

 

 その「分かってる」に、ほんの少し照れが混ざった瞬間、周りの乗務員たちがまた拍手を大きくした。

 

 エリンは、その光景を見守りながら、少しだけ目を細めた。よかった、と思う。三人が三人のまま、ちゃんと前に進んでいる。

 

 そしてエマが、ふと我に返ったように言った。

 

「……え、待って。じゃあ、エリンさんはどうなるんですか?」

 

 場の空気が、再びピンと張る。

 

 エマの問いは素朴だが、全員が聞きたい問いだった。副パーサーが決まるということは――その上が動いたということ。誰もが、薄々察していたが、言葉として聞くのが怖かった。

 

 カイエが一度、エリンを見てから、乗務員たちへ向けて言った。

 

「エリンさんは、チーフパーサーになった」

 

 刹那、静寂が落ちた。驚きのあまり拍手が止まったのではない。言葉を飲み込むための静けさだった。

 

 次の瞬間、ククルとエマの視線が一斉にエリンへ向かう。

 

「……え?」

 

「……ほんとに?」

 

 二人の声が重なった。エリンは小さく頷いた。

 

 ククルとエマは、今度はカイエではなくエリンへ突進した。

 

「おめでとうございます!!」

 

「エリンさん! おめでとうございます!」

 

 左右から抱きつかれ、エリンは一瞬、身体が揺れる。けれど倒れない。笑って受け止める。

 

「ふふっ、ありがとう。二人とも、勢いがすごい」

 

 エリンは二人の頭を軽く撫でた。指先が触れただけで、ククルの表情がふわっとほどける。エマもその瞬間、安心したように息を吐いた。

 

 他の乗務員たちからも拍手が起きる。フロアのどこかで「やっぱりエリンさんだよね」と呟く声がした。別の誰かが「ついに来た」と小さく笑った。

 

 その空気を見届けてから、エリンはわざと、口角を上げた。

 

「……これからは、厳しくしていくわよ」

 

 乗務員たちの顔が、見事に引きつった。

 

 誰かが「えっ」と声にならない声を漏らし、誰かが反射的に背筋を伸ばす。ククルは抱きついたまま固まり、エマは目を丸くした。カイエは肩を落とす。

 

 その全員の反応を見て――エリンは堪えきれず笑った。

 

「冗談よ」

 

 緊張が解け、空気がゆるむ。あちこちで安堵の笑いが漏れた。ククルは胸を撫で下ろし、エマが「もう!」と頬を膨らませる。

 

「エリンさん、ほんとに……心臓に悪いです」

 

「ごめんごめん。でも、言っておかないとね」

 

 エリンは、笑みを残したまま声を落とした。

 

「ただ、冗談だけじゃない。ここから大事な話」

 

 空気が再び締まる。

 

 エリンは深呼吸し、全員へ向けた。

 

「私はチーフパーサーとしての最初の仕事で、明後日からスペースホープへ出向することが決まりました」

 

「ええ!?」

 

 驚きの声が上がる。今度は本物の動揺だ。

 

 エマが一歩出そうとして止まり、ククルの顔色が変わった。カイエは視線だけを鋭くする。

 

「それじゃあ……エリンさん、いなくなっちゃうんですか!?」

 

 ククルの声は揺れていた。さっきの「おめでとうございます」と同じ口で言っているのに、温度が違う。怖いのだ。エリンが遠くへ行ってしまうのが。

 

「いなくなる、って言ってもね……」

 

 エリンは言葉を探すように小さく笑って、続けようとしたが――カイエが間に入った。

 

「期間は?」

 

 カイエの声は短く、実務の声だった。だがその裏に、同じ怖さが隠れているのがエリンには分かった。

 

 エリンはカイエを見て、はっきり言った。

 

「最低、一年かな」

 

 空気が沈む。

 

 乗務員たちの表情が一斉に曇った。誰かが「一年……」と小さく繰り返す。ククルは唇を噛み、エマは目を伏せた。カイエは、ほんの僅かに眉を寄せるだけで耐えた。

 

 エリンは、その反応を受け止めた上で、優しく言った。

 

「そんな顔をしないで。一生の別れじゃないんだから」

 

 優しい声だ。けれど甘やかしではない。現実を受け止めさせる声。

 

「私はスペースホープでやるべきことがある。でも、あなたたちはここで、あなたたちの仕事を続ける。……そのために、副パーサーも決めたの」

 

 カイエの背中が、少しだけ大きく見えた。受け取ったのだ。重さを。

 

 エリンは、最後にいつもの明るさをひとつ足した。

 

「さぁ。今日もビシバシ教えていくからね」

 

 乗務員たちが「ひっ」と小さく声を漏らした。

 

 だがその顔は、さっきの引きつりではない。覚悟を決める顔だった。ククルが深く息を吸い、エマが頷く。カイエは短く「はい」と返した。

 

 その瞬間、エリンは確信する。

 

 この空気を、また作れる。

 自分がいなくても、続けられる。

 そして、自分が戻ってきた時――もっと強くなったみんなに会える。

 

 

 そして次の日。

 

 シュミレーションルームの空気は、昨日よりさらに張っていた。基礎訓練。乗客の導線。緊急時の声掛け。荷物の誘導。身体の向き。目線。距離。間合い。

 

 細かい。とにかく細かい。

 

 エリンは優しく言う。口調は柔らかい。表情も穏やかだ。

 なのに、逃げ場がない。

 

「はい、今の誘導はいいね。……でも、もう一回」

 

 乗務員たちが一斉に苦い顔をした。

 

「え、ええと……」

 

「もう一回だよ。今のままだと、乗客が不安になる。まず“声”が遅れてる。次に“手”。最後に“目線”。順番を変えないで」

 

 エリンの指摘は容赦がない。だが人格を否定しない。やり方を否定する。だからこそ、乗務員たちは立ち上がれる。

 

 ククルが汗を拭いながら言う。

 

「はい! もう一回、いきます!」

 

「走らない」

 

「……はい!」

 

 エリンは小さく笑った。

 

「それでいい。じゃあ、スタート」

 

 やり直し。

 またやり直し。

 そして、また。

 

「もう一回」

 

 声が耳に残る。だけど、残るのは苦しさだけじゃない。

 

 “整っていく感覚”がある。

 自分たちの手が、目が、声が――揃っていく。

 

 そして午後、最後のシミュレーションが終わった。

 

 全員が汗だくで、制服の内側が湿っている。息が荒い。膝に手を当てる者もいる。

 けれど、誰も座り込まない。最後まで立つ。それが“仕事”だと分かっているからだ。

 

 エリンは一歩前に立ち、全員を見渡した。

 

「……お疲れさま。今日の反省を言うね」

 

 乗務員たちが背筋を正す。

 

「まず、声掛けが遅い。焦ると声が細くなる。声が細いと乗客は不安になる。次に、手の位置。誘導は押すんじゃない。示すの。触れないで伝える方法を身につけて。最後に、目線。あなたたちが見るべきは床じゃない。乗客の“顔”」

 

 エリンは淡々と言う。

 そして、少し間を置いてから、柔らかく続けた。

 

「でも、良くなってる。昨日のあなたたちより、今日のあなたたちの方が確実に良い。……だから、またやろう。何度でも」

 

 乗務員たちの顔に、苦笑が浮かぶ。

 だけど、そこに諦めはない。

 

 その空気を見て、カイエが前に出た。まだ副パーサーになったばかりの背中だ。けれど声は落ち着いていた。

 

「エリンさん」

 

「ん?」

 

「スペースホープでも……頑張ってください」

 

 短い言葉だった。

 だけど、そこに詰まっているものは多い。

 

 エリンは微笑んで頷いた。

 

「うん。頑張る」

 

 次の瞬間。

 

「じゃじゃーん!」

 

 ククルとエマが、二人がかりで大きなケーキを運んできた。箱ではない。ホールケーキだ。しかも、サイズが大きい。明らかに“本気”だ。

 

「え、ちょっと待って。これ……どこから?」

 

 エリンが驚くと、エマが胸を張った。

 

「予約してたの。エリンさんが戻ってくるって、昨日の夜に確信したから」

 

「確信?」

 

 ククルが勢いよく頷く。

 

「昨日のエリンさん、目が“戻ってた”から!」

 

 周りの乗務員が笑った。カイエも口元を緩める。

 

 エリンはケーキを見つめて、そして――少しだけ目尻を赤くした。

 

「……ありがとう」

 

 ククルがすかさず言う。

 

「泣かないでくださいね! 泣いたら私も泣きます!」

 

「ふふっ、泣かないよ」

 

 エリンはそう言って、ケーキの上の飾りに指先を触れそうになって止めた。

 “触らない”。

 さっきまで教えていた通りに。

 

「でも、これは……嬉しい」

 

 その一言で、場の温度が上がった。

 

 エリンは手を叩いて、いつもの調子に戻す。

 

「じゃあ、今日はここまで。片付けは副パーサーに任せて――」

 

 カイエが即答した。

 

「任される」

 

 それを聞いて、ククルが小さく笑う。

 

「……かっこいい」

 

 エマが頷く。

 

「うん、カイエ、もう副パーサーの顔してる」

 

 カイエは照れたように視線を逸らし、それでも言った。

 

「……エリンさんの顔の方が、よほどチーフパーサーだ」

 

 その言葉に、エリンは笑った。

 

「よし。じゃあ、食べよう。みんな、よく頑張ったご褒美」

 

 ケーキの箱が開かれると、甘い香りが広がった。

 疲れた身体に、その匂いだけで少し救われる。

 

 その瞬間、エリンは思う。

 

 スペースホープへ行く。

 新しい現場が待っている。荒れた空気が待っているかもしれない。

 でも、ここで培ったものを持っていく。

 

 そして――必ず戻ってくる。

 

 戻ってきた時、この場所が“基準”を落とさずに回っていたら。

 それが、チーフパーサーとしての一番の誇りになる。

 

 エリンはケーキの前で、静かに笑った。

 

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