サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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ミラとラン

 夜のフロアは、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。

 

 訓練用の端末の画面はすでに落としてある。机の上には今日のシュミレーションで使ったチェックリストと、修正点を書き込んだメモ。乗務員たちの名前が並び、その横に短い言葉が並んでいる。「声が遅れる」「目線が落ちる」「手が近い」「一拍遅い」――どれも責めるためではなく、明日伸ばすための印。

 明日からは、もうここにはいない。少しでも伝えるべき事は伝えたかった。

 

 エリンはペンを置き、肩の力を抜いた。気づけば、深く息を吐いていた。

 

 窓ガラスには、ロカA2の夜景が淡く映る。無数の灯りが遠くでゆらいでいる。いつもなら「まだ終わってない」と自分を急かしていた時間帯だ。だが今日は違った。身体は疲れているのに、胸の奥が不思議と軽い。

 

 あの夜、泣くだけ泣いて――そして夢を見て。目が覚めたとき、世界が少し違って見えた。

 

 好きだったのだ。あの空気が。あの、みんなが笑って、仕事をして、誰かの役に立っている感覚が。

 

 エリンは端末を取り、連絡先を開いた。迷うまでもない名前が、そこにあった。

 

 ――ペルシア。

 

 呼び出し音が一度、二度。三度目のコールの前に、明るい声が飛び込んできた。

 

「もしもし、エリン? どうしたの、珍しいじゃない。今ね、ちょうど――」

 

「うん。今、大丈夫?」

 

「大丈夫大丈夫。今はね、宇宙管理局じゃないから。怒鳴られないよ」

 

 その言い方に、エリンは思わず笑ってしまった。

 

「怒鳴られないって……ペルシアが怒鳴る側でしょ」

 

「それは、必要があれば、ね。で? どうしたの。声がいつもより軽い」

 

 ペルシアはこういうところが鋭い。隠すつもりはないが、言い出す前に見抜かれると、妙に照れる。

 

 エリンは椅子にもたれ、天井を見上げた。少しだけ間を置いて、言葉を選ぶ。

 

「……決めたよ」

 

「おっ。なにを?」

 

「チーフパーサー、引き受けるって返事をした」

 

 電話の向こうで、一瞬だけ空気が止まった気がした。そしてすぐに、弾むような声が返ってくる。

 

「やった! やったじゃない! ねえ、私今、拍手していい? していい?」

 

「……ペルシア、電話だよ」

 

「関係ないって。拍手は拍手でしょ。おめでとう、エリン。ほんとに」

 

 軽口のようでいて、その「おめでとう」には嘘がない。エリンの喉の奥が、少しだけ熱くなる。

 

「ありがとう」

 

「で、やっぱりリュウジのおかげだね」

 

 さらっと言い切られて、エリンは息を詰めた。

 

「……え、そこ?」

 

「そこ、ってなに? だってそうでしょ。エリンを説得できる唯一の人間だしね。ずるいよね、リュウジって」

 

 ペルシアが「ずるい」と言うときは、本当にそう思っているときだ。からかい半分でも、ちゃんと認めている。

 

 エリンは苦笑いを浮かべながら、机の端を指でなぞった。

 

「……うん。否定できない。リュウジに、必要だって言われたのが……効いた」

 

「ほらぁ」

 

「でも、決めたのは私だよ」

 

「もちろん。だから、さらに偉い。自分で決めたってことが一番大事。私はね、そこが嬉しいの」

 

 ペルシアの声が少しだけ落ち着く。軽い調子のまま、芯がある。

 

「逃げなかったんだね、エリン」

 

 その一言に、エリンは小さく笑った。

 

「逃げようとしたよ。正確には……逃げたくなった」

 

「うん」

 

「でも、逃げたらきっと、ずっと後悔するって思った。今回の任務で、私が“できてない”って突きつけられたの、悔しかったし」

 

「悔しいって言えるの、いいことだよ。悔しいってことは、まだ前向いてるってことだもん」

 

 電話越しに、ペルシアが紙コップでも傾けているような音がした。あの人は今、どこで何をしているんだろうと一瞬思う。だが、今はそれより伝えたいことがある。

 

「それでね、チーフパーサーとして最初の仕事が決まった」

 

「ん?」

 

「スペースホープに出向する。明後日から」

 

 今度はペルシアが黙った。沈黙が長いと、逆に怖い。エリンが「あの」と言いかけたところで、ペルシアが低めの声で言った。

 

「……大丈夫なの?」

 

 その言葉には、明確な心配が乗っていた。軽口も冗談もない。

 

「うん。大丈夫って言い切るには、まだ早いけど」

 

「だってさ、あそこ、あんまりいい噂聞かないんだよね。役員がやらかしたとか、空気が荒れてるとか、残った乗務員は……」

 

「そういう話は、私も聞いてる」

 

「だったら――」

 

「でも、詳しいことは実際に見てみないと分からないかなって思ってる。噂だけで判断したくない」

 

 エリンが言うと、ペルシアは小さく息を吐いた。納得した、というより、エリンらしさを確認したような息だ。

 

「うん、そうだね。エリンはそういう人だもんね」

 

「それに、向こうのフライトを“再開するかどうか”も、私の判断に任せるって言われた」

 

「重いねえ。いきなり重い」

 

「重いよ」

 

 エリンは率直に言った。今の自分は、弱さを隠さないと決めたから。

 

「でも、やるだけやってみる」

 

「うん。やるだけやって。で、潰れそうになったら――」

 

「潰れそうになったら?」

 

「潰れそうになったら、私に電話しな。すぐ抜け出して行ってあげる」

 

「宇宙管理局の統括官が、仕事中に出向先に来るの、前代未聞だと思う」

 

「暇だから大丈夫」

 

「大丈夫じゃないよ」

 

 エリンが笑うと、ペルシアも笑った。笑いながらも、声の底に真剣さが残っている。

 

「まあ、でもね。あそこにはミラとランがいるし、大丈夫か」

 

 ペルシアが言った瞬間、エリンの胸に少しだけ安心が灯った。ミラとラン――名前だけで空気が変わる。頼れる人がいるという事実は、それだけで支えになる。

 

「うん。私もそれは思ってる。ミラは現場の肌感覚が鋭いし、ランは……淡々としてるけど、必要なときに必要なことを言う」

 

「でしょ。あの二人、派手じゃないけど外さない。……っていうかさ」

 

「うん?」

 

「エリンがスペースホープに行くってことは、こっちの会社、しばらく寂しくなるねぇ」

 

 ペルシアの声が、急にしみじみする。

 

「副パーサーはカイエ?」

 

「よく分かるね」

 

「そりゃ、カイエはペルシア派だし。それにあの子は強いから」

 

「うん。カイエは強いよ。強いけど……強いだけじゃない。ちゃんと周りを見る」

 

「ククルは?」

 

「ククルはククル。走りたがる」

 

「走らせないでね」

 

「走らせない」

 

 エリンが即答すると、ペルシアが満足そうに「よし」と言った。

 

「エマは?」

 

「エマは、別の班で副パーサーに就く予定。だから、今の班はカイエが中心になる」

 

「三人とも、ひとり立ちの時期ってことだね」

 

「そうだね。寂しいけど……必要なこと」

 

 その言葉に、ペルシアがふっと笑う。

 

「なんかさ、エリンがそういうこと言うと、“戻ってきた”って感じがする」

 

「戻ってきた?」

 

「うん。ドルトムントの頃のエリン。ちゃんと現実見て、でもちゃんと前を向くエリン」

 

 エリンは一瞬、言葉を失った。褒め言葉だ。嬉しい。けれど同時に、くすぐったい。

 

「……ペルシアに言われると、なんか悔しい」

 

「なにそれ。褒めてるのに」

 

「褒め方が雑」

 

「雑じゃない、手早いの。時間がないから」

 

 そう言って笑うペルシアは、やっぱりペルシアだった。

 

 ひと呼吸置いて、ペルシアが少し声を落とす。

 

「でもさ、スペースホープの件、きつくなったらちゃんと言ってよ。昔みたいに“平気”って顔して、平気じゃないのに進めないで」

 

 エリンは喉の奥で、小さく「うん」と返した。

 

「言う。ちゃんと言う」

 

「よし。じゃあ次。……リュウジの話していい?」

 

 唐突な切り替えに、エリンの背中がピンとした。

 

「……やっぱり来た」

 

「来るよ。だってさぁ、さっきから“リゅ”って言うたびに声が柔らかいんだもん」

 

「そんなことない」

 

「ある。めちゃくちゃある。ねえ、エリン。リュウジに誘われてご飯行ったんでしょ?」

 

「……それ、どこで知ったの」

 

「勘」

 

「勘だけで当てないで」

 

「当たってるじゃん」

 

 ペルシアの声が愉快そうに弾む。エリンは頬が熱くなるのを感じて、咳払いで誤魔化した。

 

「別に、普通にご飯食べただけ」

 

「普通に、ねえ」

 

「普通に」

 

「じゃあ聞くけど。どっちが先に食べ終わった?」

 

「……リュウジ」

 

「でしょ。で、エリンが『ちゃんと噛んで』って言ったでしょ」

 

「言ってない」

 

「言った。絶対言った。だってエリンだもん」

 

 ペルシアは楽しそうに断言した。エリンは反論しきれない。想像が妙に当たっているからだ。

 

「……言ったかもしれない」

 

「ほらぁ!」

 

「ペルシア、嬉しそうだね」

 

「嬉しいよ。だってさ、あのリュウジが、エリンに捕まってるんだもん。昔からだけどさ。あいつ、エリンの言うことは聞くのに、私の言うことは半分しか聞かないのよ?」

 

「それは……ペルシアが無茶言うからじゃない?」

 

「無茶じゃない。夢」

 

「無茶だよ」

 

 エリンが呆れたように言うと、ペルシアが「ほら、こうやって」と言わんばかりに笑う。

 

「でもさ、リュウジ、今回ほんとに戻ってきたんだね。S級ってだけじゃなくて――なんていうか、心が」

 

 ペルシアの声が、少しだけ静かになる。からかいの皮が薄くなる瞬間。

 

「うん」

 

 エリンは短く答えた。

 

「戻ってきた。戻ってきたけど……相変わらず不器用」

 

「そこがいいんでしょ?」

 

「……それとこれは別」

 

「別じゃないよ、エリン」

 

 ペルシアは笑いながら言う。

 

「で? スペースホープ行く前に、リュウジに何か言わせるつもり?」

 

「何を」

 

「『行ってきます』とか『待ってて』とか『無理するな』とか」

 

「……誰が誰に」

 

「エリンがリュウジに。もしくはリュウジがエリンに。どっちでもいいけど、私は見たい」

 

「見なくていい」

 

「見る」

 

「見ないで」

 

「見るって」

 

 堂々と言い切られて、エリンは笑ってしまった。ペルシアは本当に、こういうところで空気を軽くする。

 

 それでも――エリンは最後に、少しだけ本音を混ぜた。

 

「……リュウジがいてくれて、助かったのは本当。あの言葉がなかったら、私はまた逃げてたと思う」

 

「でしょ」

 

 ペルシアの声が、柔らかい。

 

「だからさ。ちゃんと言いなよ。『ありがとう』って。エリンはそれ、ちゃんとできる人でしょ」

 

「……できるよ」

 

「よし。じゃあ、私は安心して“からかい”に戻るね」

 

「戻らなくていい」

 

「戻るの。エリン、聞いて。スペースホープでさ、もし新しい班ができてさ、また誰かが走ったらさ」

 

「走らせない」

 

「走らせるんじゃないの。……走ってる子を見て、エリンが昔みたいに笑えるなら、それが一番だと思う」

 

 ペルシアがそう言った瞬間、エリンの胸がきゅっと締まった。からかいじゃない。本心だ。

 

「……うん」

 

「じゃ、最後にもう一個だけ。リゅウジはね、エリン派筆頭なんだから、責任取りなさい」

 

「責任って何」

 

「エリンが元気でいる責任。あと、エリンが泣いたらリュウジが落ち込む責任。あと、リュウジが余計なこと抱え込んだらエリンが叱る責任」

 

「責任が多い」

 

「当たり前でしょ。チーフパーサーなんだから」

 

 ペルシアは得意げに言い切った。

 

 エリンは笑いながら、でもしっかり言葉を返す。

 

「……ペルシアも。無茶しないで」

 

「しないしない。し……ないように努力する」

 

「努力じゃなくて、しない」

 

「厳しいなぁ。エリンがチーフパーサーになると、みんな厳しくなる」

 

「厳しいのと、心配は別」

 

「はいはい。分かった分かった。……じゃあさ、また連絡する。スペースホープの初日、どうだったか報告しなさいよ」

 

「うん。報告する」

 

「よし。じゃ、私は今から寝る。明日早い」

 

「ペルシアが早いって言うの、珍しい」

 

「農作業の癖が抜けてないの。朝五時起き、舐めないで」

 

「……お疲れさま」

 

「エリンも、お疲れさま。チーフパーサー、初日から飛ばしすぎないでね」

 

「飛ばさない」

 

「嘘、飛ばす」

 

「飛ばさない」

 

「飛ばす。じゃ、おやすみ」

 

「おやすみ」

 

 通話が切れる。

 

 静けさが戻ったフロアで、エリンは端末を握ったまましばらく動かなかった。

 

 胸の奥が温かい。

 

 怖さは消えない。重圧もある。噂通り、スペースホープが荒れているかもしれない。自分が行っても変えられないかもしれない。

 

 それでも――進む。

 

 エリンはゆっくり立ち上がり、デスクのメモを一つにまとめた。

 

 そして小さく呟く。

 

「……ありがとう、リュウジ」

 

 言葉にした瞬間、もう逃げない自分が、そこにいた。

 

 

ーーーー

 

 

  スペースホープが火星のコロニーに移ったのは、悲劇のフライトの後、間もない頃だった。

 

 ――あの事故で、幸いにも「命が助かった」人間は多かった。だが、助かったからといって、何も失わずに済んだわけではない。

 

 ミラもランも、身体だけは無事だった。骨も折れていないし、大きな後遺症もない。医療班に「軽症」と言われた時、安堵より先に、胸の奥が冷えたのを覚えている。軽症。たった二文字が、ひどく遠いものに感じた。

 

 辞める選択肢は、確かにあった。

 

 あの地獄を見た後に、宙の仕事を続ける必要はない。そう言ってくれる人もいた。家族も、友人も、同僚も。「もう十分だよ」と。誰も責めなかった。責められる方が楽だったかもしれない、とミラは時々思う。

 

 けれど。

 

 エリンが目を覚ましていないと聞いた瞬間、ミラの中で“辞める”という言葉は、いったん凍った。

 

 彼女は――エリンは、辞めない。

 

 たとえ身体が動かなくても、目を閉じていても、あの人ならきっと、心の中で乗務員でいる。誰かを守ろうとしている。乗務員という仕事を、誇りだと信じている。

 

 だったら。

 

 目を覚ました時に、何も変わっていない自分を見せたくなかった。

 

 目を覚ました時に、「あなたがいない間、私は逃げました」と言いたくなかった。

 

 ミラとランは、火星コロニーに移った。

 

 スペースホープは、旅行フライト専門の会社だった。ドルトムントほど巨大じゃない。設備も人も、どこかこぢんまりしていて、最初の印象は「静か」だった。

 

 静かで、優しくて、甘かった。

 

 ドルトムントの地獄みたいな現場に比べたら、何もかもが平坦だった。急かされない。怒鳴られない。理不尽に足を引っ張られない。だがそれは、同時に“鋭さ”がないということでもあった。

 

 だから、最初の頃のミラとランは、周りより自分たちの方ができると感じた。

 

 それは錯覚ではなく、客観的な評価でもあった。

 

 ドルトムントで揉まれた経験。エリンの下で叩き込まれた基礎。反射で身体が動くほどの訓練。乗客の呼吸、機内の空気、非常時の一秒――それらが、手に染みついていた。

 

 スペースホープに来てから二年。

 

 ミラとランは副パーサーの地位に辿り着いた。

 

 早すぎる昇格だと囁く声もあった。けれど、結果がすべてだ。現場では、昇格した者が“仕事で示す”しかない。二人は必死に、それをやった。必死に、必死に――息をつく暇もないほどに。

 

 それなのに。

 

 それなのに、だ。

 

 ――会社は、壊れた。

 

 役員の横領。隠蔽。責任の押し付け合い。現場が汗を流して積み上げてきた信頼は、机の上の数字ひとつで崩れた。フライト停止。契約解除。予約キャンセル。炎上するニュース。乗務員が、整備士が、受付が、次々辞めていく。

 

 かつて百人はいた乗務員フロアが、朝の光の中でガラガラに見えた時――ミラは初めて、胃の底が沈む感覚を覚えた。

 

 その日から、会社は“減っていく”ものになった。

 

 今日も、減った。

 

 そして、残った。

 

 残っているのは、二十人。

 

 しかも、そのほとんどが新人か、経験二、三年の若い乗務員たちだった。ベテラン勢はすでに別の会社へ移り、火星の別区画で働いている。名前も知らない企業の制服が、時々モールで見える。すれ違うたびに、ミラは胸の奥が痛んだ。

 

 今日も朝が来る。

 

 ミラはいつものように、事務所のドアを押した。

 

「おはよう」

 

 自分でも分かるくらい、声が乾いていた。

 

 返事は返ってこない。

 

 それどころか、誰も顔を上げない。端末の画面、椅子の背もたれ、机の角。視線の落ちる先は皆バラバラで、同じ場所に向いていない。空気は薄いのに、重い。誰も走っていないのに、息苦しい。

 

 ミラの背後から、同じように事務所へ入ってきたランが、静かに言った。

 

「仕方ないよ」

 

 ランの声も、以前より抑揚がない。怒りすら薄い。怒れるほどの熱量が残っていない時の声だと、ミラは知っている。

 

「仕方ないで済ませたら、もっと仕方なくなるのに」

 

「分かってる。でも、ここにいる人はもう、やる気も誇りも失ってる」

 

 ランは淡々と告げる。事実だけを並べるように。

 

 ミラとランは並んで歩き、自分たちの席に座った。椅子が軽い。背もたれの軋む音がやけに響く。百人がいた頃は、こんな音は海の底に沈んでいた。今は、音が浮いている。

 

「午後からシュミレーションだっけ」

 

 ランが端末のスケジュールを確認しながら言う。

 

「うん。いつフライトが来るか分からないんだもん。準備は必要だよ」

 

 ミラが返すと、ランは小さく頷いた。

 

「そうだね。私たちが持ってる技術を、この子たちにも教えてあげないと」

 

 ミラは「教えてあげないと」という言葉に、ほんの少しだけ引っかかった。

 

 “教えてあげないと”。

 

 以前なら、二人はこう言っていた。「一緒に作ろう」「一緒に守ろう」「一緒に回そう」。そこに上下はなかった。今は、上下というより、隔たりができている。隔たりができてしまったのは、きっと若い子たちのせいじゃない。空気が、会社が、そうさせた。

 

 事務所の奥の方から、可憐な声が聞こえた。

 

「おはようございます」

 

 声は綺麗だった。礼儀もある。誰かに習ったような丁寧な発音。

 

 けれど、返事は返ってこない。

 

 ――ミラも、ランも、返せなかった。

 

 返さなかったわけじゃない。

 

 返そうとしたのに、喉が動かなかった。返したところで、この空気の中に飲まれて消える気がした。声が消えていく感覚が怖かった。だから、黙った。

 

 新人たちも、同じだったのだろう。誰かが返事をしなければ、返しづらい。返して浮くのが怖い。浮いたら、もう二度と戻れない。

 

 そんな空気の中に、突然、別の温度が差し込んだ。

 

「……あら。ここは乗務員のフロアじゃないのかしら?」

 

 強い口調だった。

 

 怒鳴っているわけではない。だが、声が“真っ直ぐ”だった。真っ直ぐで、逃げ道がない。視線を落としてやり過ごすことを許さない声。

 

 ミラの心臓が、遅れて跳ねた。

 

 ランも同じだったのだろう。隣で、僅かに呼吸が止まる気配がした。

 

 そして、事務所全体の視線が、ひとつの場所へ向いた。

 

 入口付近。

 

 そこに立っていたのは、見慣れた制服ではない。ハワード財閥の旅行会社の制服。背筋が真っ直ぐで、髪はきちんとまとめられ、手袋の指先まで無駄がない。荷物は少ない。けれど存在感が重い。まるで、その人が立った場所だけ空気が整っていくみたいに。

 

 ミラの目が大きく開く。

 

 ランも同時だった。

 

 二人は椅子から立ち上がっていた。自分でも分からない。立ち上がるつもりなんてなかったのに、身体が先に動いてしまった。

 

「え、エリンさん!?」

 

 声が揃ってしまった。揃った瞬間、互いに互いの声が聞こえて、少しだけ恥ずかしくなる。けれどそれどころではなかった。

 

 エリンが――ここにいる。

 

 夢じゃない。幻じゃない。目の前にいる。

 

 エリンは二人へ視線を向けた。ほんの一秒、優しく。懐かしさが滲む。だがすぐに、フロア全体を見渡す視線へ切り替わる。

 

 あの視線だ、とミラは思った。

 

 乗務員全員を“数える”視線。空気の乱れを“点検する”視線。誰が何を隠しているかを“見抜く”視線。

 

 エリンは一歩前に出て、呼吸を整え、丁寧に頭を下げた。

 

「ハワード財閥の旅行会社から出向してきました、エリンと言います。本日からチーフパーサーとして、皆さんと共に頑張っていきます。よろしくお願いします」

 

 その瞬間、フロアに小さな波紋が走った。

 

 「チーフパーサー」。

 

 それは肩書きだけではない。現場の空気を背負う人間の名前だ。責任の矢面に立つ人間の位置だ。叩かれ、責められ、信頼を背負う場所だ。

 

 ミラの胸が、熱くなった。熱いのに、冷たい汗も出る。

 

 驚きと同時に、恐怖が湧く。

 

 ――この人が来たら、変わってしまう。

 

 いい意味で。悪い意味でではなく、逃げる余地がなくなる意味で。

 

「ええ!?」

 

 ミラが間抜けみたいに声を漏らした。ランも同じような顔をしている。

 

 周囲の新人たちも、ようやく顔を上げていた。遅れて現実が追いついた人間の顔だ。誰かが小さく「まじで」と呟く。別の誰かが「ハワード財閥って……」と囁く。

 

 エリンはそのざわめきを、責めない。叱らない。だが、見逃さない。

 

 ゆっくりと目を細め、柔らかい声で言った。

 

「……返事がないのね」

 

 責める声ではない。ただの事実確認。

 

 だが、その一言が刺さった。

 

 ミラは喉が鳴った。ランが一瞬、唇を噛む。新人の一人が、遅れて「あ、ご、ごめんなさい」と言いかける。だが、言いかけた言葉は途中で萎んだ。何に謝ればいいのか、分からないのだ。

 

 エリンは一歩、さらに前へ出た。

 

 ――距離が縮まる。

 

 その距離感の取り方が、もう“チーフ”だった。近づきすぎないのに、遠くない。守る距離であり、逃がさない距離でもある。

 

「私は、今日ここに来て、まず皆さんの声を聞きたいと思っていました」

 

 エリンの声は穏やかだった。穏やかなのに、芯が硬い。

 

「おはよう、と言ったら、おはようが返ってくる。それだけで、船内は安定します。たったそれだけで、人は助かります」

 

 ミラは息を呑んだ。

 

 “人は助かります”。

 

 この人は、朝の挨拶を“命”につなげる。大袈裟に聞こえるかもしれない。けれど、彼女は本気でそう思っている。そして、それができるだけの現場を知っている。

 

 エリンはフロアを見渡し、最後にミラとランへ視線を戻した。少しだけ、目元が緩む。

 

「ミラ、ラン。久しぶり」

 

 その言葉で、ミラの中の何かが崩れそうになった。久しぶり。その二文字に、二年分の汗と、諦めと、悔しさと、祈りが詰まっている。

 

「エリンさん……どうして……」

 

 ミラが絞り出すように言うと、エリンは短く笑った。

 

「“どうして”は、後でちゃんと話すわ。まずは、今のフロアの空気を整えたい」

 

 そう言って、エリンは新人たちの方へ視線を向ける。

 

「改めて。おはようございます」

 

 今度は、はっきりと、丁寧に言った。

 

 返事が返らなかったらどうしよう。フロアの空気が凍りつく。ミラは一瞬、そんな最悪を想像した。

 

 だが。

 

 誰かの息が吸われ、そして返事が飛んだ。

 

「お、おはようございます!」

 

 続けて、別の声。

 

「おはようございます……!」

 

 遅れて、さらに。

 

「おはようございます!」

 

 波が広がっていくように、返事が増えた。ぎこちない。揃っていない。けれど、“返ってきた”。

 

 エリンは小さく頷いた。

 

「よし。今のが、最初の一歩」

 

 まるでシュミレーションの開始合図のように、エリンは淡々と言った。

 

 ミラとランは、互いに視線を交わした。

 

 胸が、熱い。

 

 嬉しいのか、怖いのか分からない。だが、その両方が本物だ。

 

 エリンは、ここを“立て直しに”来た。

 

 そんなことをしようとする人間が、この会社に来るなんて、あり得ないと思っていたのに。

 

 エリンは視線をミラとランに戻す。

 

「午後からシュミレーションがあるって聞いたわ。準備はできてる?」

 

 ランが、短く頷いた。

 

「……一応。いつフライトが来るか分からないから、準備は必要だと思って」

 

「そうね。必要よ」

 

 エリンは即答した。そして、少しだけ声の温度を上げる。

 

「でも、“必要だと思う”だけじゃ足りない。必要なら、やるの。やるなら、やり切るの」

 

 ミラの背中が、ぞくりとした。

 

 ああ、戻ってきた。

 

 優しいエリン。けれど、甘いエリンではない。優しいと厳しいを両方持っているエリンだ。

 

 エリンは一度、深く息を吸う。フロアの空気を胸いっぱいに入れて、吐いた。

 

「私はここで、皆さんと一緒に働きます。いいことも悪いことも、全部見ます。全部聞きます」

 

 新人たちが固まる。ミラとランは、その言葉の重さを知っている。エリンが「見る」と言ったら、本当に見る。エリンが「聞く」と言ったら、本当に聞く。

 

 だからこそ――救われる。

 

 エリンは最後に、もう一度頭を下げた。

 

「改めて、よろしくお願いします」

 

 フロアの空気が、ほんの少しだけ変わった。

 

 重さは消えない。人は減った。信頼も落ちた。現実は厳しい。

 

 それでも。

 

 ミラは胸の奥で、小さく火がつくのを感じた。

 

 ――この人が来たなら、もう一度やれるかもしれない。

 

 隣でランが、いつもより少し強い声で言った。

 

「……エリンさん。午後のシュミレーション、私たちも入ります。新人だけに任せません」

 

 エリンは頷いた。

 

「当然。あなたたちは副パーサーでしょう。ここで“支える側”に戻りなさい」

 

 その言葉に、ミラは思わず背筋を伸ばした。

 

 逃げ場はない。

 

 でも、それが――どこか嬉しかった。

 

 事務所の中で、誰かが小さく息を吐いた。緊張の息か、安堵の息か分からない。けれど、さっきまでの“諦めの息”とは違う。

 

 火星のコロニーの朝に、ようやく「始まり」の音がした。

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