夜のフロアは、昼間の喧騒が嘘みたいに静かだった。
訓練用の端末の画面はすでに落としてある。机の上には今日のシュミレーションで使ったチェックリストと、修正点を書き込んだメモ。乗務員たちの名前が並び、その横に短い言葉が並んでいる。「声が遅れる」「目線が落ちる」「手が近い」「一拍遅い」――どれも責めるためではなく、明日伸ばすための印。
明日からは、もうここにはいない。少しでも伝えるべき事は伝えたかった。
エリンはペンを置き、肩の力を抜いた。気づけば、深く息を吐いていた。
窓ガラスには、ロカA2の夜景が淡く映る。無数の灯りが遠くでゆらいでいる。いつもなら「まだ終わってない」と自分を急かしていた時間帯だ。だが今日は違った。身体は疲れているのに、胸の奥が不思議と軽い。
あの夜、泣くだけ泣いて――そして夢を見て。目が覚めたとき、世界が少し違って見えた。
好きだったのだ。あの空気が。あの、みんなが笑って、仕事をして、誰かの役に立っている感覚が。
エリンは端末を取り、連絡先を開いた。迷うまでもない名前が、そこにあった。
――ペルシア。
呼び出し音が一度、二度。三度目のコールの前に、明るい声が飛び込んできた。
「もしもし、エリン? どうしたの、珍しいじゃない。今ね、ちょうど――」
「うん。今、大丈夫?」
「大丈夫大丈夫。今はね、宇宙管理局じゃないから。怒鳴られないよ」
その言い方に、エリンは思わず笑ってしまった。
「怒鳴られないって……ペルシアが怒鳴る側でしょ」
「それは、必要があれば、ね。で? どうしたの。声がいつもより軽い」
ペルシアはこういうところが鋭い。隠すつもりはないが、言い出す前に見抜かれると、妙に照れる。
エリンは椅子にもたれ、天井を見上げた。少しだけ間を置いて、言葉を選ぶ。
「……決めたよ」
「おっ。なにを?」
「チーフパーサー、引き受けるって返事をした」
電話の向こうで、一瞬だけ空気が止まった気がした。そしてすぐに、弾むような声が返ってくる。
「やった! やったじゃない! ねえ、私今、拍手していい? していい?」
「……ペルシア、電話だよ」
「関係ないって。拍手は拍手でしょ。おめでとう、エリン。ほんとに」
軽口のようでいて、その「おめでとう」には嘘がない。エリンの喉の奥が、少しだけ熱くなる。
「ありがとう」
「で、やっぱりリュウジのおかげだね」
さらっと言い切られて、エリンは息を詰めた。
「……え、そこ?」
「そこ、ってなに? だってそうでしょ。エリンを説得できる唯一の人間だしね。ずるいよね、リュウジって」
ペルシアが「ずるい」と言うときは、本当にそう思っているときだ。からかい半分でも、ちゃんと認めている。
エリンは苦笑いを浮かべながら、机の端を指でなぞった。
「……うん。否定できない。リュウジに、必要だって言われたのが……効いた」
「ほらぁ」
「でも、決めたのは私だよ」
「もちろん。だから、さらに偉い。自分で決めたってことが一番大事。私はね、そこが嬉しいの」
ペルシアの声が少しだけ落ち着く。軽い調子のまま、芯がある。
「逃げなかったんだね、エリン」
その一言に、エリンは小さく笑った。
「逃げようとしたよ。正確には……逃げたくなった」
「うん」
「でも、逃げたらきっと、ずっと後悔するって思った。今回の任務で、私が“できてない”って突きつけられたの、悔しかったし」
「悔しいって言えるの、いいことだよ。悔しいってことは、まだ前向いてるってことだもん」
電話越しに、ペルシアが紙コップでも傾けているような音がした。あの人は今、どこで何をしているんだろうと一瞬思う。だが、今はそれより伝えたいことがある。
「それでね、チーフパーサーとして最初の仕事が決まった」
「ん?」
「スペースホープに出向する。明後日から」
今度はペルシアが黙った。沈黙が長いと、逆に怖い。エリンが「あの」と言いかけたところで、ペルシアが低めの声で言った。
「……大丈夫なの?」
その言葉には、明確な心配が乗っていた。軽口も冗談もない。
「うん。大丈夫って言い切るには、まだ早いけど」
「だってさ、あそこ、あんまりいい噂聞かないんだよね。役員がやらかしたとか、空気が荒れてるとか、残った乗務員は……」
「そういう話は、私も聞いてる」
「だったら――」
「でも、詳しいことは実際に見てみないと分からないかなって思ってる。噂だけで判断したくない」
エリンが言うと、ペルシアは小さく息を吐いた。納得した、というより、エリンらしさを確認したような息だ。
「うん、そうだね。エリンはそういう人だもんね」
「それに、向こうのフライトを“再開するかどうか”も、私の判断に任せるって言われた」
「重いねえ。いきなり重い」
「重いよ」
エリンは率直に言った。今の自分は、弱さを隠さないと決めたから。
「でも、やるだけやってみる」
「うん。やるだけやって。で、潰れそうになったら――」
「潰れそうになったら?」
「潰れそうになったら、私に電話しな。すぐ抜け出して行ってあげる」
「宇宙管理局の統括官が、仕事中に出向先に来るの、前代未聞だと思う」
「暇だから大丈夫」
「大丈夫じゃないよ」
エリンが笑うと、ペルシアも笑った。笑いながらも、声の底に真剣さが残っている。
「まあ、でもね。あそこにはミラとランがいるし、大丈夫か」
ペルシアが言った瞬間、エリンの胸に少しだけ安心が灯った。ミラとラン――名前だけで空気が変わる。頼れる人がいるという事実は、それだけで支えになる。
「うん。私もそれは思ってる。ミラは現場の肌感覚が鋭いし、ランは……淡々としてるけど、必要なときに必要なことを言う」
「でしょ。あの二人、派手じゃないけど外さない。……っていうかさ」
「うん?」
「エリンがスペースホープに行くってことは、こっちの会社、しばらく寂しくなるねぇ」
ペルシアの声が、急にしみじみする。
「副パーサーはカイエ?」
「よく分かるね」
「そりゃ、カイエはペルシア派だし。それにあの子は強いから」
「うん。カイエは強いよ。強いけど……強いだけじゃない。ちゃんと周りを見る」
「ククルは?」
「ククルはククル。走りたがる」
「走らせないでね」
「走らせない」
エリンが即答すると、ペルシアが満足そうに「よし」と言った。
「エマは?」
「エマは、別の班で副パーサーに就く予定。だから、今の班はカイエが中心になる」
「三人とも、ひとり立ちの時期ってことだね」
「そうだね。寂しいけど……必要なこと」
その言葉に、ペルシアがふっと笑う。
「なんかさ、エリンがそういうこと言うと、“戻ってきた”って感じがする」
「戻ってきた?」
「うん。ドルトムントの頃のエリン。ちゃんと現実見て、でもちゃんと前を向くエリン」
エリンは一瞬、言葉を失った。褒め言葉だ。嬉しい。けれど同時に、くすぐったい。
「……ペルシアに言われると、なんか悔しい」
「なにそれ。褒めてるのに」
「褒め方が雑」
「雑じゃない、手早いの。時間がないから」
そう言って笑うペルシアは、やっぱりペルシアだった。
ひと呼吸置いて、ペルシアが少し声を落とす。
「でもさ、スペースホープの件、きつくなったらちゃんと言ってよ。昔みたいに“平気”って顔して、平気じゃないのに進めないで」
エリンは喉の奥で、小さく「うん」と返した。
「言う。ちゃんと言う」
「よし。じゃあ次。……リュウジの話していい?」
唐突な切り替えに、エリンの背中がピンとした。
「……やっぱり来た」
「来るよ。だってさぁ、さっきから“リゅ”って言うたびに声が柔らかいんだもん」
「そんなことない」
「ある。めちゃくちゃある。ねえ、エリン。リュウジに誘われてご飯行ったんでしょ?」
「……それ、どこで知ったの」
「勘」
「勘だけで当てないで」
「当たってるじゃん」
ペルシアの声が愉快そうに弾む。エリンは頬が熱くなるのを感じて、咳払いで誤魔化した。
「別に、普通にご飯食べただけ」
「普通に、ねえ」
「普通に」
「じゃあ聞くけど。どっちが先に食べ終わった?」
「……リュウジ」
「でしょ。で、エリンが『ちゃんと噛んで』って言ったでしょ」
「言ってない」
「言った。絶対言った。だってエリンだもん」
ペルシアは楽しそうに断言した。エリンは反論しきれない。想像が妙に当たっているからだ。
「……言ったかもしれない」
「ほらぁ!」
「ペルシア、嬉しそうだね」
「嬉しいよ。だってさ、あのリュウジが、エリンに捕まってるんだもん。昔からだけどさ。あいつ、エリンの言うことは聞くのに、私の言うことは半分しか聞かないのよ?」
「それは……ペルシアが無茶言うからじゃない?」
「無茶じゃない。夢」
「無茶だよ」
エリンが呆れたように言うと、ペルシアが「ほら、こうやって」と言わんばかりに笑う。
「でもさ、リュウジ、今回ほんとに戻ってきたんだね。S級ってだけじゃなくて――なんていうか、心が」
ペルシアの声が、少しだけ静かになる。からかいの皮が薄くなる瞬間。
「うん」
エリンは短く答えた。
「戻ってきた。戻ってきたけど……相変わらず不器用」
「そこがいいんでしょ?」
「……それとこれは別」
「別じゃないよ、エリン」
ペルシアは笑いながら言う。
「で? スペースホープ行く前に、リュウジに何か言わせるつもり?」
「何を」
「『行ってきます』とか『待ってて』とか『無理するな』とか」
「……誰が誰に」
「エリンがリュウジに。もしくはリュウジがエリンに。どっちでもいいけど、私は見たい」
「見なくていい」
「見る」
「見ないで」
「見るって」
堂々と言い切られて、エリンは笑ってしまった。ペルシアは本当に、こういうところで空気を軽くする。
それでも――エリンは最後に、少しだけ本音を混ぜた。
「……リュウジがいてくれて、助かったのは本当。あの言葉がなかったら、私はまた逃げてたと思う」
「でしょ」
ペルシアの声が、柔らかい。
「だからさ。ちゃんと言いなよ。『ありがとう』って。エリンはそれ、ちゃんとできる人でしょ」
「……できるよ」
「よし。じゃあ、私は安心して“からかい”に戻るね」
「戻らなくていい」
「戻るの。エリン、聞いて。スペースホープでさ、もし新しい班ができてさ、また誰かが走ったらさ」
「走らせない」
「走らせるんじゃないの。……走ってる子を見て、エリンが昔みたいに笑えるなら、それが一番だと思う」
ペルシアがそう言った瞬間、エリンの胸がきゅっと締まった。からかいじゃない。本心だ。
「……うん」
「じゃ、最後にもう一個だけ。リゅウジはね、エリン派筆頭なんだから、責任取りなさい」
「責任って何」
「エリンが元気でいる責任。あと、エリンが泣いたらリュウジが落ち込む責任。あと、リュウジが余計なこと抱え込んだらエリンが叱る責任」
「責任が多い」
「当たり前でしょ。チーフパーサーなんだから」
ペルシアは得意げに言い切った。
エリンは笑いながら、でもしっかり言葉を返す。
「……ペルシアも。無茶しないで」
「しないしない。し……ないように努力する」
「努力じゃなくて、しない」
「厳しいなぁ。エリンがチーフパーサーになると、みんな厳しくなる」
「厳しいのと、心配は別」
「はいはい。分かった分かった。……じゃあさ、また連絡する。スペースホープの初日、どうだったか報告しなさいよ」
「うん。報告する」
「よし。じゃ、私は今から寝る。明日早い」
「ペルシアが早いって言うの、珍しい」
「農作業の癖が抜けてないの。朝五時起き、舐めないで」
「……お疲れさま」
「エリンも、お疲れさま。チーフパーサー、初日から飛ばしすぎないでね」
「飛ばさない」
「嘘、飛ばす」
「飛ばさない」
「飛ばす。じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
通話が切れる。
静けさが戻ったフロアで、エリンは端末を握ったまましばらく動かなかった。
胸の奥が温かい。
怖さは消えない。重圧もある。噂通り、スペースホープが荒れているかもしれない。自分が行っても変えられないかもしれない。
それでも――進む。
エリンはゆっくり立ち上がり、デスクのメモを一つにまとめた。
そして小さく呟く。
「……ありがとう、リュウジ」
言葉にした瞬間、もう逃げない自分が、そこにいた。
ーーーー
スペースホープが火星のコロニーに移ったのは、悲劇のフライトの後、間もない頃だった。
――あの事故で、幸いにも「命が助かった」人間は多かった。だが、助かったからといって、何も失わずに済んだわけではない。
ミラもランも、身体だけは無事だった。骨も折れていないし、大きな後遺症もない。医療班に「軽症」と言われた時、安堵より先に、胸の奥が冷えたのを覚えている。軽症。たった二文字が、ひどく遠いものに感じた。
辞める選択肢は、確かにあった。
あの地獄を見た後に、宙の仕事を続ける必要はない。そう言ってくれる人もいた。家族も、友人も、同僚も。「もう十分だよ」と。誰も責めなかった。責められる方が楽だったかもしれない、とミラは時々思う。
けれど。
エリンが目を覚ましていないと聞いた瞬間、ミラの中で“辞める”という言葉は、いったん凍った。
彼女は――エリンは、辞めない。
たとえ身体が動かなくても、目を閉じていても、あの人ならきっと、心の中で乗務員でいる。誰かを守ろうとしている。乗務員という仕事を、誇りだと信じている。
だったら。
目を覚ました時に、何も変わっていない自分を見せたくなかった。
目を覚ました時に、「あなたがいない間、私は逃げました」と言いたくなかった。
ミラとランは、火星コロニーに移った。
スペースホープは、旅行フライト専門の会社だった。ドルトムントほど巨大じゃない。設備も人も、どこかこぢんまりしていて、最初の印象は「静か」だった。
静かで、優しくて、甘かった。
ドルトムントの地獄みたいな現場に比べたら、何もかもが平坦だった。急かされない。怒鳴られない。理不尽に足を引っ張られない。だがそれは、同時に“鋭さ”がないということでもあった。
だから、最初の頃のミラとランは、周りより自分たちの方ができると感じた。
それは錯覚ではなく、客観的な評価でもあった。
ドルトムントで揉まれた経験。エリンの下で叩き込まれた基礎。反射で身体が動くほどの訓練。乗客の呼吸、機内の空気、非常時の一秒――それらが、手に染みついていた。
スペースホープに来てから二年。
ミラとランは副パーサーの地位に辿り着いた。
早すぎる昇格だと囁く声もあった。けれど、結果がすべてだ。現場では、昇格した者が“仕事で示す”しかない。二人は必死に、それをやった。必死に、必死に――息をつく暇もないほどに。
それなのに。
それなのに、だ。
――会社は、壊れた。
役員の横領。隠蔽。責任の押し付け合い。現場が汗を流して積み上げてきた信頼は、机の上の数字ひとつで崩れた。フライト停止。契約解除。予約キャンセル。炎上するニュース。乗務員が、整備士が、受付が、次々辞めていく。
かつて百人はいた乗務員フロアが、朝の光の中でガラガラに見えた時――ミラは初めて、胃の底が沈む感覚を覚えた。
その日から、会社は“減っていく”ものになった。
今日も、減った。
そして、残った。
残っているのは、二十人。
しかも、そのほとんどが新人か、経験二、三年の若い乗務員たちだった。ベテラン勢はすでに別の会社へ移り、火星の別区画で働いている。名前も知らない企業の制服が、時々モールで見える。すれ違うたびに、ミラは胸の奥が痛んだ。
今日も朝が来る。
ミラはいつものように、事務所のドアを押した。
「おはよう」
自分でも分かるくらい、声が乾いていた。
返事は返ってこない。
それどころか、誰も顔を上げない。端末の画面、椅子の背もたれ、机の角。視線の落ちる先は皆バラバラで、同じ場所に向いていない。空気は薄いのに、重い。誰も走っていないのに、息苦しい。
ミラの背後から、同じように事務所へ入ってきたランが、静かに言った。
「仕方ないよ」
ランの声も、以前より抑揚がない。怒りすら薄い。怒れるほどの熱量が残っていない時の声だと、ミラは知っている。
「仕方ないで済ませたら、もっと仕方なくなるのに」
「分かってる。でも、ここにいる人はもう、やる気も誇りも失ってる」
ランは淡々と告げる。事実だけを並べるように。
ミラとランは並んで歩き、自分たちの席に座った。椅子が軽い。背もたれの軋む音がやけに響く。百人がいた頃は、こんな音は海の底に沈んでいた。今は、音が浮いている。
「午後からシュミレーションだっけ」
ランが端末のスケジュールを確認しながら言う。
「うん。いつフライトが来るか分からないんだもん。準備は必要だよ」
ミラが返すと、ランは小さく頷いた。
「そうだね。私たちが持ってる技術を、この子たちにも教えてあげないと」
ミラは「教えてあげないと」という言葉に、ほんの少しだけ引っかかった。
“教えてあげないと”。
以前なら、二人はこう言っていた。「一緒に作ろう」「一緒に守ろう」「一緒に回そう」。そこに上下はなかった。今は、上下というより、隔たりができている。隔たりができてしまったのは、きっと若い子たちのせいじゃない。空気が、会社が、そうさせた。
事務所の奥の方から、可憐な声が聞こえた。
「おはようございます」
声は綺麗だった。礼儀もある。誰かに習ったような丁寧な発音。
けれど、返事は返ってこない。
――ミラも、ランも、返せなかった。
返さなかったわけじゃない。
返そうとしたのに、喉が動かなかった。返したところで、この空気の中に飲まれて消える気がした。声が消えていく感覚が怖かった。だから、黙った。
新人たちも、同じだったのだろう。誰かが返事をしなければ、返しづらい。返して浮くのが怖い。浮いたら、もう二度と戻れない。
そんな空気の中に、突然、別の温度が差し込んだ。
「……あら。ここは乗務員のフロアじゃないのかしら?」
強い口調だった。
怒鳴っているわけではない。だが、声が“真っ直ぐ”だった。真っ直ぐで、逃げ道がない。視線を落としてやり過ごすことを許さない声。
ミラの心臓が、遅れて跳ねた。
ランも同じだったのだろう。隣で、僅かに呼吸が止まる気配がした。
そして、事務所全体の視線が、ひとつの場所へ向いた。
入口付近。
そこに立っていたのは、見慣れた制服ではない。ハワード財閥の旅行会社の制服。背筋が真っ直ぐで、髪はきちんとまとめられ、手袋の指先まで無駄がない。荷物は少ない。けれど存在感が重い。まるで、その人が立った場所だけ空気が整っていくみたいに。
ミラの目が大きく開く。
ランも同時だった。
二人は椅子から立ち上がっていた。自分でも分からない。立ち上がるつもりなんてなかったのに、身体が先に動いてしまった。
「え、エリンさん!?」
声が揃ってしまった。揃った瞬間、互いに互いの声が聞こえて、少しだけ恥ずかしくなる。けれどそれどころではなかった。
エリンが――ここにいる。
夢じゃない。幻じゃない。目の前にいる。
エリンは二人へ視線を向けた。ほんの一秒、優しく。懐かしさが滲む。だがすぐに、フロア全体を見渡す視線へ切り替わる。
あの視線だ、とミラは思った。
乗務員全員を“数える”視線。空気の乱れを“点検する”視線。誰が何を隠しているかを“見抜く”視線。
エリンは一歩前に出て、呼吸を整え、丁寧に頭を下げた。
「ハワード財閥の旅行会社から出向してきました、エリンと言います。本日からチーフパーサーとして、皆さんと共に頑張っていきます。よろしくお願いします」
その瞬間、フロアに小さな波紋が走った。
「チーフパーサー」。
それは肩書きだけではない。現場の空気を背負う人間の名前だ。責任の矢面に立つ人間の位置だ。叩かれ、責められ、信頼を背負う場所だ。
ミラの胸が、熱くなった。熱いのに、冷たい汗も出る。
驚きと同時に、恐怖が湧く。
――この人が来たら、変わってしまう。
いい意味で。悪い意味でではなく、逃げる余地がなくなる意味で。
「ええ!?」
ミラが間抜けみたいに声を漏らした。ランも同じような顔をしている。
周囲の新人たちも、ようやく顔を上げていた。遅れて現実が追いついた人間の顔だ。誰かが小さく「まじで」と呟く。別の誰かが「ハワード財閥って……」と囁く。
エリンはそのざわめきを、責めない。叱らない。だが、見逃さない。
ゆっくりと目を細め、柔らかい声で言った。
「……返事がないのね」
責める声ではない。ただの事実確認。
だが、その一言が刺さった。
ミラは喉が鳴った。ランが一瞬、唇を噛む。新人の一人が、遅れて「あ、ご、ごめんなさい」と言いかける。だが、言いかけた言葉は途中で萎んだ。何に謝ればいいのか、分からないのだ。
エリンは一歩、さらに前へ出た。
――距離が縮まる。
その距離感の取り方が、もう“チーフ”だった。近づきすぎないのに、遠くない。守る距離であり、逃がさない距離でもある。
「私は、今日ここに来て、まず皆さんの声を聞きたいと思っていました」
エリンの声は穏やかだった。穏やかなのに、芯が硬い。
「おはよう、と言ったら、おはようが返ってくる。それだけで、船内は安定します。たったそれだけで、人は助かります」
ミラは息を呑んだ。
“人は助かります”。
この人は、朝の挨拶を“命”につなげる。大袈裟に聞こえるかもしれない。けれど、彼女は本気でそう思っている。そして、それができるだけの現場を知っている。
エリンはフロアを見渡し、最後にミラとランへ視線を戻した。少しだけ、目元が緩む。
「ミラ、ラン。久しぶり」
その言葉で、ミラの中の何かが崩れそうになった。久しぶり。その二文字に、二年分の汗と、諦めと、悔しさと、祈りが詰まっている。
「エリンさん……どうして……」
ミラが絞り出すように言うと、エリンは短く笑った。
「“どうして”は、後でちゃんと話すわ。まずは、今のフロアの空気を整えたい」
そう言って、エリンは新人たちの方へ視線を向ける。
「改めて。おはようございます」
今度は、はっきりと、丁寧に言った。
返事が返らなかったらどうしよう。フロアの空気が凍りつく。ミラは一瞬、そんな最悪を想像した。
だが。
誰かの息が吸われ、そして返事が飛んだ。
「お、おはようございます!」
続けて、別の声。
「おはようございます……!」
遅れて、さらに。
「おはようございます!」
波が広がっていくように、返事が増えた。ぎこちない。揃っていない。けれど、“返ってきた”。
エリンは小さく頷いた。
「よし。今のが、最初の一歩」
まるでシュミレーションの開始合図のように、エリンは淡々と言った。
ミラとランは、互いに視線を交わした。
胸が、熱い。
嬉しいのか、怖いのか分からない。だが、その両方が本物だ。
エリンは、ここを“立て直しに”来た。
そんなことをしようとする人間が、この会社に来るなんて、あり得ないと思っていたのに。
エリンは視線をミラとランに戻す。
「午後からシュミレーションがあるって聞いたわ。準備はできてる?」
ランが、短く頷いた。
「……一応。いつフライトが来るか分からないから、準備は必要だと思って」
「そうね。必要よ」
エリンは即答した。そして、少しだけ声の温度を上げる。
「でも、“必要だと思う”だけじゃ足りない。必要なら、やるの。やるなら、やり切るの」
ミラの背中が、ぞくりとした。
ああ、戻ってきた。
優しいエリン。けれど、甘いエリンではない。優しいと厳しいを両方持っているエリンだ。
エリンは一度、深く息を吸う。フロアの空気を胸いっぱいに入れて、吐いた。
「私はここで、皆さんと一緒に働きます。いいことも悪いことも、全部見ます。全部聞きます」
新人たちが固まる。ミラとランは、その言葉の重さを知っている。エリンが「見る」と言ったら、本当に見る。エリンが「聞く」と言ったら、本当に聞く。
だからこそ――救われる。
エリンは最後に、もう一度頭を下げた。
「改めて、よろしくお願いします」
フロアの空気が、ほんの少しだけ変わった。
重さは消えない。人は減った。信頼も落ちた。現実は厳しい。
それでも。
ミラは胸の奥で、小さく火がつくのを感じた。
――この人が来たなら、もう一度やれるかもしれない。
隣でランが、いつもより少し強い声で言った。
「……エリンさん。午後のシュミレーション、私たちも入ります。新人だけに任せません」
エリンは頷いた。
「当然。あなたたちは副パーサーでしょう。ここで“支える側”に戻りなさい」
その言葉に、ミラは思わず背筋を伸ばした。
逃げ場はない。
でも、それが――どこか嬉しかった。
事務所の中で、誰かが小さく息を吐いた。緊張の息か、安堵の息か分からない。けれど、さっきまでの“諦めの息”とは違う。
火星のコロニーの朝に、ようやく「始まり」の音がした。