サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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不可能

 エリンがスペースホープの社屋に入ってから、まだ半日も経っていなかった。だが、短い時間の中でも、この会社が抱えている空気の重さは、はっきりと感じ取れていた。

 

 火星コロニーの中央区画にあるスペースホープの社屋は、かつて観光企業として大きく成長していた頃の名残をそのまま残している。ガラス張りのエントランス、吹き抜けのロビー、広い通路。設計は華やかで、未来的な美しさがあった。

 

 だが、人がいない。

 

 それが何よりも目立った。

 

 エリンは午前中、会社の構造を把握するため、各部署を回ることにした。

 

 スペースホープには大きく四つの部署がある。

 

 広報部、財務部、総務部、そして旅行事業部。

 

 エリンが所属するのは旅行事業部だが、会社全体の状況を知らなければ、フライト再開の判断などできない。だからこそ、まずは足で見て回ることにしたのだ。

 

 最初に向かったのは、広報部だった。

 

 広報部のフロアは二階にある。エレベーターを降り、廊下を歩くと、すぐに広いオフィスが見えた。

 

 だが、やはり――閑散としている。

 

 広いフロアに、机は十数個あるのに、人がいるのはたった二人だった。

 

 エリンはゆっくりとフロアに足を踏み入れ、穏やかな声で言った。

 

「おはようございます」

 

 声がフロアに響く。

 

 すると、机に座っていた二人の女性が顔を上げた。

 

「おはようございます」

 

「おはようございます」

 

 二人はきちんと返事をした。

 

 先ほどの乗務員フロアとは違い、声はしっかりしている。だが、どこか事務的で、温度が低い。挨拶というより、反射で返した言葉という印象だった。

 

 エリンは軽く微笑み、近づいた。

 

「本日からチーフパーサーとして旅行事業部に出向してきました、エリンです。よろしくお願いします」

 

 二人は少し驚いた顔をしたが、すぐに姿勢を正した。

 

「こちらこそよろしくお願いします」

 

「よろしくお願いします」

 

 その反応を確認してから、エリンは周囲を見渡した。

 

 机の上には資料が広げられている。モニターにはいくつかのデザイン案が映っているようだった。

 

「今は何をやっているのかしら?」

 

 エリンが尋ねると、二人のうちの一人が嬉しそうに答えた。

 

「今は新しい制服を選んでいたんです」

 

「新しい制服?」

 

 エリンは少し首を傾げた。

 

 広報部が制服?

 

 その違和感を表に出さないようにしながら、続きを促す。

 

「はい!」

 

 もう一人の女性が元気よく言った。

 

「スペースホープは定期的に制服をリニューアルしてるんです!」

 

 彼女はモニターを指さした。

 

 そこには複数の制服デザインが並んでいる。宇宙観光企業らしく、未来的なラインの入ったデザインだ。色も数種類あり、かなり凝ったものだった。

 

「スペースホープの伝統ってやつです!」

 

 誇らしげに言う。

 

 その言葉に、エリンはほんの一瞬だけ表情を曇らせた。

 

「……伝統ねぇ」

 

 小さく呟いた。

 

 会社がフライト停止している状態で、制服のリニューアル。

 

 それが“伝統”と言われている。

 

 エリンは静かに質問した。

 

「制服を決めているのは、広報部だけで決めているの?」

 

「はい!」

 

 二人は迷いなく頷いた。

 

「広報部でデザイン案を出して、社内投票して決めるんです」

 

「なるほど」

 

 エリンは穏やかに頷いた。

 

 だが、その目は少しだけ鋭くなっていた。

 

 制服は乗務員が着るものだ。

 

 それを、広報部だけで決める。

 

 現場の意見はどこにも入っていない。

 

 それがこの会社の「伝統」。

 

 エリンはしばらくモニターを見つめてから、柔らかく微笑んだ。

 

「分かったわ。教えてくれてありがとう」

 

 そして軽く会釈し、フロアを後にした。

 

 廊下を歩きながら、エリンは頭の中で整理する。

 

(広報は現場を知らない)

 

(でも、それが悪いわけじゃない)

 

(問題は、誰もそれを止めていないこと)

 

 エリンは次の部署へ向かった。

 

 総務部だ。

 

 

 

 総務部のフロアも、やはり閑散としていた。

 

 広い部屋に、机がいくつも並んでいるのに、人がいるのは二人だけだった。

 

 エリンが扉を開けると、二人の女性がすぐに立ち上がった。

 

「おはようございます」

 

「おはようございます」

 

 礼儀はしっかりしている。

 

 エリンは同じように挨拶を返した。

 

「おはようございます。本日から旅行事業部に出向してきましたエリンです。よろしくお願いします」

 

「よろしくお願いします」

 

 総務の女性の一人が、少し安心したように笑った。

 

 エリンはそのまま話を続ける。

 

「総務部は備品管理や施設管理と給与の支払いが主ですね?」

 

「はい、その通りです」

 

 すぐに答えが返ってくる。

 

 エリンはさらに尋ねた。

 

「今はどんな仕事をしているの?」

 

 すると女性は端末を指差した。

 

「今は足りない備品の発注業務ですね」

 

「発注業務か」

 

 エリンは少し考えながら言う。

 

「何を発注したの?」

 

 女性は端末の画面を確認した。

 

「今日は希望者の中で、乗務員のデスクの椅子を発注してました」

 

 エリンは一瞬だけ沈黙した。

 

「……椅子?」

 

「はい」

 

 女性は何の疑問もない顔で答える。

 

「古い椅子は座り心地が悪いって意見があったので、新しいのを購入することになりました」

 

 エリンは静かに聞き返した。

 

「財務部からは何も言われないの?」

 

「はい」

 

 女性はあっさり答えた。

 

「この会社は、必要な物は購入するんです」

 

 エリンは小さく息を吐いた。

 

「なるほど」

 

 その言葉には、いろいろな意味が含まれていた。

 

 だが女性は気づかない。

 

「はい。伝統です」

 

 また出てきた言葉だった。

 

 “伝統”。

 

 エリンは軽く頷いた。

 

「教えてくれてありがとう」

 

 そして静かにフロアを出た。

 

 

 

 次に向かったのは、財務部だった。

 

 財務部のフロアも、やはり人が少ない。

 

 広い部屋の奥に二人の女性が座っていた。

 

 エリンは同じように声をかけた。

 

「おはようございます」

 

「おはようございます」

 

「おはようございます」

 

 返事はすぐに返ってくる。

 

 エリンは自己紹介をした。

 

「旅行事業部に出向してきました、エリンです。よろしくお願いします」

 

「よろしくお願いします」

 

 エリンは席の近くまで歩いた。

 

「財務部は予算管理が担当かな?」

 

「はい」

 

 女性が頷いた。

 

「各部から回ってくる請求書の支払い処理をしています」

 

 エリンは少し考えながら言った。

 

「総務部もそうだったけど、買う物のチェックはしないの?」

 

 女性は困ったように笑った。

 

「まぁ……必要と言われちゃいますと」

 

「そうなんだね」

 

 エリンは穏やかに頷く。

 

「各部が必要と思う物は買わないといけないですし」

 

 エリンはその言葉を聞いて、静かに息を吐いた。

 

 この会社は――

 

 誰も止めない。

 

 誰も疑問を持たない。

 

 誰も責任を取らない。

 

 そして、それを“伝統”と呼んでいる。

 

 エリンは穏やかな表情を崩さないまま言った。

 

「……なるほど」

 

 そして丁寧に頭を下げた。

 

「色々と教えてくれてありがとう」

 

 財務部の女性たちは安心したように笑った。

 

「いえいえ」

 

「こちらこそ」

 

 エリンは静かにフロアを出た。

 

 

 

 廊下に出ると、足を止める。

 

 火星コロニーの人工光が窓から差し込んでいた。

 

 エリンは少しだけ目を閉じる。

 

(……想像以上ね)

 

 会社は、壊れていた。

 

 でも。

 

 完全に終わっているわけではない。

 

 広報も総務も財務も――誰も悪意でやっているわけではない。

 

 ただ、誰も「会社を回す人」がいなくなっただけだ。

 

 エリンはゆっくりと目を開いた。

 

(なら、やることは一つ)

 

 まずは。

 

 この会社の“空気”を整える。

 

 そして。

 

 フライトを再開できる会社に戻す。

 

 エリンは静かに歩き出した。

 

 次に向かうのは――旅行事業部だった。

 

 

ーーーー

 

 

 午後のシュミレーションルームは、午前中よりも空気が重かった。火星コロニーの照明は、時間帯に合わせて色温度がわずかに変わる。窓のない訓練区画でも「午後の影」が差したように感じるのは、たぶん人の心が先に疲れを覚えるからだろう。

 

 エリンは扉の前で立ち止まり、端末で開始時刻を確認してから、ゆっくりと中へ入った。

 

 広い。必要以上に広い。

 艦内を模した通路、座席列、ギャレー、乗り込み口のゲート。演出用のアナウンス設備に、モニター類。金だけはかかっている。ここだけ見れば、会社が潰れかけているようには見えない。

 

 ――だから余計に、空虚だ。

 

 訓練スペースの中央に、二列の隊列がある。左右に十人ずつ。合計二十人。

 

 その中に、ミラとランがいた。

 

 ミラは背筋がまっすぐで、視線が一点に定まっている。緊張していても、緊張に飲まれない立ち方だ。

 ランは一見、肩の力が抜けている。けれど足幅と重心が揺れない。力を抜くべきところを知っている立ち方だった。柔らかい雰囲気に見せながら、必要な瞬間に必ず動ける。そういう人間の「穏やかさ」だ。

 

 残りの十八人は若い。

 制服の着方は綺麗に整えている者もいるが、呼吸が浅い。目線が落ち着かない。つま先がそわそわ動く。緊張と不安を隠すために、笑顔を貼りつけている者もいる。笑顔だけが上手い――そういう若さが、あちこちに見えた。

 

 エリンは全員を一度見渡してから、淡々と口を開いた。

 

「今日は初めてだから、まずは形を見るね。二班に分かれて、乗客の乗り入れから船内対応まで。一通り」

 

 声は大きくない。けれど、部屋の隅まで届く。言葉に余計な飾りがない分、聞く側の背筋を勝手に伸ばす。

 

「分かりました」

 

 返事をしたのはミラだった。短い。だが、揃っている。まっすぐだ。

 

 その後に若い乗務員たちの「はい」「分かりました」が続いた。

 けれど、揃わない。音がバラバラで、返事が「声」ではなく「空気の確認」になっている。安心したいから返事をしている、という音だ。

 

 エリンは気づいても、何も言わない。

 

 今日は口を挟まないと決めていた。何よりも先に、“今の彼ら”を見ておきたかった。

 

「班分けは私が決める。ミラとランは別の班に入って」

 

 ミラが頷く。

 ランは、少し穏やかに「はい」と言ってから、軽く頭を下げた。

 

「よろしくお願いします、エリンさん」

 

 敬語だが硬すぎない。普段のランの口調が想像できる、やわらかい敬語。立ち位置をわきまえた言い方だった。

 

 エリンは一度だけ視線で返す。頷きはしない。ただ、受け取ったと分かる目だった。

 

 端末で班を割り振り、役割を告げる。

 

「A班が乗務員役。B班が乗客役。B班は遠慮なく“困って”。分からない、疲れた、怒ってる、急いでる、荷物が重い、席が見つからない、足が痛い、子どもが泣いてる――好きにやっていい。現場は優しくないから」

 

 若い乗務員たちが息を飲む。目が少しだけ大きくなる。

 その反応を見ても、エリンは表情を変えない。

 

「私は今日は口を挟まない。止めもしない。見ているだけ。……始めて」

 

 その最後の一言が、いちばん効いた。

 訓練は始まるのに、守ってくれる人がいない。――そう思った瞬間、人は一気に“素”が出る。

 

 ゲートのライトが点き、アナウンスが流れる。

 

 B班の乗客役が入ってくる。最初に歩みを進めたのはミラだった。彼女は上手かった。わざと不安げな顔を作り、荷物を重たそうに持ち、歩幅を狭くして、迷子の乗客の雰囲気を纏う。

 

「すみません。座席が分からなくて……これ、どこですか?」

 

 A班の若い乗務員がチケットを覗き込む。

 距離が近い。相手のパーソナルスペースに入りすぎている。無意識に“覗き込む癖”が出ているのだ。

 

「えっと……えっと……」

 

 声が上ずる。

 チケットの文字を追う速度が遅い。焦りが生まれる。

 焦ると、声の高さがさらに上がる。

 

 そこへ、別の乗客役が割り込んだ。

 

「ちょっと、荷物持ってくれるって聞いたんだけど!」

 

 少し強い口調。

 ランの班の乗客役だった。ラン本人は、少し後ろから状況を見る位置にいる。誰がどう崩れるか、目で追っている。

 

 乗務員役が反射的に荷物へ手を伸ばし、片手で取っ手を掴み、勢いで持ち上げた。

 

 荷物が大きく揺れ、壁にぶつかりそうになる。

 

「あっ!」

 

 近くの乗務員役が慌てて支える。

 支えた拍子に通路の動線が詰まる。

 詰まりを見た乗客役が、わざと声を荒げる。

 

「何してるの? 遅いんだけど! 通れない!」

 

 声が重なり、空気が乱れる。

 乱れた空気を抑える役がいない。

 

 エリンは、表情を変えずに見ていた。

 

 胸の内では、冷静に判断していた。

 

(距離感。荷物の持ち方。通路管理。声の出し方。……全部、型がない)

 

 型がない、というのは“才能がない”という意味ではない。

 ただ、“身体に入っていない”という意味だ。

 教科書で覚えた文言は、予想外の刺激が入った瞬間に崩れる。崩れたときに戻る場所がない。それが今、目の前で起きている。

 

 乗務員役が「すみません、すぐに」と謝る。

 謝るのは簡単だ。けれど謝っただけでは状況は改善しない。

 

 必要なのは、判断だ。

 誰が荷物を持ち、誰が通路を開け、誰が座席誘導に戻り、誰が周囲の乗客へ声をかけるのか。

 その“割り振りの声”がない。

 

 ミラが一瞬だけ眉を動かした。助けたい、という動きだった。

 だがミラは動かない。エリンが今日、口を挟まないと決めていることを理解している。

 

 ランも動かない。ただ、静かに見ている。

 まるで「今は見せて」と言うように。

 

 訓練は続く。

 

 次は船内サービスの想定。

 

 ギャレー役が慌てる。

 トレイを水平に保てない。カップの配置が甘い。動線が詰まり、同じ場所に二人が立ってぶつかりそうになる。

 

 乗客役がわざと小声で言う。

 

「ねえ、この会社、大丈夫……?」

 

 それを聞いた若い乗務員役が顔色を変える。

 反射的に弁解をしようとする。

 

「だ、大丈夫です! えっと……」

 

 言葉が出てこない。

 

 そこで“落ち着いた声”を出すだけでも、空気は変わるのに。

 そういう基本が、まだ身体に入っていない。

 

 エリンは、心の中で確信する。

 

(これではフライトは無理)

 

 無理もない。

 ベテランがいない。

 残っているのは若い乗務員ばかりで、育つ土壌そのものが崩れている。

 

 彼らが怠けているわけではない。

 彼らは、どうすればいいか分からないまま、必死にやっている。

 必死にやっているのに、空回りする。

 空回りして、さらに焦る。

 焦って、さらに崩れる。

 

 悪循環。

 

 そして、悪循環の中心には「誰も舵を取らない」という事実がある。

 

 訓練が一通り終わった頃、若手の頬には汗が滲んでいた。疲労というより、緊張で汗をかいている。終わった瞬間、膝が抜けそうな顔をしている者もいる。

 

 ゲートのライトが落ちる。

 区切りのアナウンスが鳴る。

 

 静寂。

 

 その静寂が、若手たちの息を揃える。誰もがエリンを見た。

 

 エリンは、一歩前へ出た。

 表情は穏やかだ。けれど、温い穏やかさではない。

 

 エリンは何も“総括”をしない。

 何も“指導”をしない。

 ただ、事実だけを口にする。

 

「……今のままでは、フライトは無理」

 

 それだけだった。

 

 責める声ではない。

 怒る声でもない。

 ただ、天気予報のように淡々としていた。

 

 それが逆に、重い。

 

 若手の一人が唇を噛みしめた。

 別の一人が、目を伏せた。

 そして、数人が顔を上げる。悔しい、という色が目に宿る。

 

 エリンはそれを見て、何も言わない。

 慰めもしない。

 励ましもしない。

 

 言葉を足せば、彼らは“言葉”に逃げる。

 今日は逃がさない。

 

 ミラが一歩だけ前に出た。

 

「……エリンさん。次、どうしますか」

 

 エリンはミラを見る。

 

「同じことを、もう一回やる」

 

 それも淡々とした返事だった。

 

 ミラが頷く。

 ランが少し息を吐いて、穏やかに言った。

 

「……分かりました。私も、できることやります。よろしくお願いします」

 

 敬語のまま。けれど、柔らかい声。

 それが場の空気をわずかに支える。

 

 若手の中にも、ぽつぽつと頷きが広がっていく。

 誰かが喉を鳴らし、そして小さな声で「はい」と返した。

 その「はい」に、もう一人が重なる。

 

 まだ揃っていない。

 まだ弱い。

 でも、“折れていない”。

 

 エリンはそこで初めて、小さくだけ頷いた。

 

 それは「よし」という許可ではない。

 ただ、「見ている」という合図だ。

 

 そしてエリンは、その場を離れた。

 

 背中に、若い乗務員たちの視線が刺さる。

 怖いのだろう。

 でも、その怖さは悪いものじゃない。

 

 怖いから、学ぶ。

 怖いから、型を求める。

 怖いから、強くなる。

 

 エリンは歩きながら、自分の胸の奥にある静かな覚悟を確かめる。

 

 ここは、崩れている。

 正直、想像以上にひどい。

 

 それでも――

 

 「無理」と言ったのは、終わりの宣告ではない。

 

 “ここから作る”ための、最初の線引きだ。

 

 午後の訓練はまだ続く。

 この会社の再生も、まだ始まったばかりだった。

 

 

ーーーー

 

 

  その後の訓練も、散々だった。

 

 最初の一巡だけで、基礎の不足は十分すぎるほど見えた。だが、だからといって二巡目、三巡目で劇的に何かが変わるわけではない。むしろ、一度崩れた者たちは、自分がどこで崩れたのかをうまく言葉にできないまま、同じ場所で足を取られていく。

 

 乗客役の若手が通路の中央で立ち止まる。

 それを見た乗務員役が左右から寄りすぎて、動線が完全に塞がる。

 荷物を預かる位置が曖昧で、身体の向きが乗客に正対しすぎる。

 緊張すると声が高くなる。

 謝ることはできる。

 だが、謝った先の一手が出ない。

 

「すみません、少々お待ちください」

 

 その“少々”が、どれほど乗客を不安にさせるのか。

 その“不安”が、どれほど速く船内全体へ広がるのか。

 

 若い乗務員たちは知らない。

 知らないこと自体は罪じゃない。問題は、知らないまま現場に立てると思っている空気の方だった。

 

 ミラは二巡目に入ってから、意図的に少し癖のある乗客を演じた。声量は落としたまま、要求だけを鋭くする。怒鳴るわけではない。怒鳴られた方がまだ楽だ。静かに不満を言う乗客の方が、現場ではよほど厄介なことを、ミラは身をもって知っている。

 

「この席、窓側でお願いしたはずなんですけど」

 

 乗務員役の若い女性が端末を確認する。視線が端末に落ちたまま戻らない。相手の顔を見ない。見られない。

 

「あ……ええと、確認します」

 

「確認します、じゃなくて。どうなるんですか?」

 

 間髪を入れずに追い打ちが飛ぶ。

 女性乗務員の喉が、小さく上下した。正しい言葉を探している。だが、“正しい言葉”を探している時点で遅い。現場では言葉より先に、空気を支える態度が必要だ。

 

 エリンは、何も言わなかった。

 

 ただ、見ていた。

 

 誰が固まり、誰が助けに入り、誰が視線を逸らし、誰が見ないふりをするのか。

 声を出した人間が、場を整えているのか、それともただ音を増やしているだけなのか。

 その全てを、淡々と目で拾っていく。

 

 ランは乗客役に入る時、わざと少しだけ疲れた空気を纏った。怒るでもなく、急ぐでもなく、ただ「説明が足りない人」に見えるように立つ。こういう乗客は多い。自分でも何に困っているのか上手く説明できないまま、不安だけを溜めている人間だ。

 

「すみません。僕、こういうの初めてで……」

 

 柔らかく、しかし頼りなく聞こえる声でそう言うと、若手の乗務員は目を泳がせた。安心させるべき相手に、自分が先に飲まれている。

 

「だ、大丈夫です。えっと、こちらに……」

 

 “こちらに”の先がない。

 どこに案内するのか。

 何を見せるのか。

 相手の何を先に解消すべきか。

 

 そこが全部、曖昧だ。

 

 エリンは、端末のメモ欄に短く言葉を追加した。

 

 ――言葉が先走る。

 ――判断より先に謝る。

 ――乗客を見る前に端末を見る。

 ――役割分担がない。

 ――“大丈夫”の根拠がない。

 

 若い乗務員たちの額に汗が滲み始める。

 疲労というより、神経の消耗だった。身体を動かしているのに、上手くいかない。そのたびに、自分が足りないことだけがはっきり見えてしまう。

 

 だが、エリンは声をかけなかった。

 

 今、ここで「違う」「そうじゃない」「こうして」と言うのは簡単だ。

 けれど、それをすれば彼らはエリンの正解をなぞるだけになる。

 なぞるだけでは、船内で崩れた時に自分で立て直せない。

 

 必要なのは、今の自分たちでは無理だ、と自分たち自身が知ることだ。

 その悔しさと恥ずかしさが、基礎を受け入れる入口になる。

 

 三巡目に入ったころには、若手たちの目の色が変わっていた。

 最初のような、どこか他人事の緊張ではない。

 “できない自分”を見た人間の目だ。

 

 悔しさが、遅れてやってくる。

 

 それでも結果は散々だった。

 

 座席誘導では詰まる。

 ギャレーでは動線が重なる。

 乗客の不満が一人から二人へ、二人から周囲へ伝染していく。

 誰も嘘はついていない。誰も怠けていない。なのに、現場としては成立しない。

 

 エリンは、ようやく一つ息を吐いた。

 

 十分見た。

 十分以上に見た。

 

 今のスペースホープの旅行事業部で、ミラとランを除けば、すぐにフライトに出せる人材はいない。

 それが冷酷な現実だった。

 

 エリンは壁際から身を離し、静かに歩いた。

 全員の視線が、自然と集まる。

 

 何か言うのか。

 ようやく総括が来るのか。

 叱責か、指導か、それとも、救いの言葉か。

 

 だが、エリンは彼らの期待する形では口を開かなかった。

 

 ランの前で足を止める。

 

「ラン」

 

「はい」

 

 ランは穏やかに返事をした。その声音に無理な強さはない。だが、逃げる気配もない。

 

「後は任せるわ。時間になったら切り上げていいから」

 

 訓練室の空気が少し揺れた。

 若手たちにとっては、それが予想外だったのだろう。エリンが最後まで全部見ると思っていた。あるいは、ここで何か大きな言葉を落とすと思っていた。

 

 ランは一瞬だけ目を細めた。

 そして、すぐに理解したように頷いた。

 

「分かりました。……ありがとうございます」

 

 敬語は崩れない。だが声は柔らかい。

 エリンが“訓練の場”を自分に預けた意味も、言葉にしないまま受け取っている。

 

 エリンはそれ以上何も言わず、訓練室を後にした。

 

 背後では若手たちの張り詰めた気配が続いていた。

 誰もまだ座らない。

 誰も「終わった」と思っていない。

 それでいい、とエリンは思う。

 

 扉が閉まる音が、やけに小さく聞こえた。

 

    ◇

 

 エリンが次に向かったのは、スペースホープの社長室だった。

 

 火星コロニーにあるこの社屋は、見た目だけならまだ体裁を保っている。磨かれた床、必要以上に広い廊下、役職ごとに色分けされた案内表示。だが、人が減った建物の静けさは、どんな装飾より残酷だ。

 

 社長室の前で、エリンは一度立ち止まった。

 ノックを三回。

 中から、少し丸みのある柔らかな声が返ってくる。

 

「どうぞ」

 

 扉を開くと、広すぎる執務室が現れた。

 大きなデスク。壁際の本棚。窓の向こうには火星コロニーの人工空が広がっている。光の入り方まで計算されているはずなのに、部屋全体がどこか“人の体温”に欠けていた。

 

 デスクの向こうに座っていたのが、社長のケヴィンだった。

 

 小柄で、丸めた小太りの男性。

 髪はやや薄く、丸い眼鏡の奥の目は穏やかだ。口元も柔らかく、怒鳴ったり誰かを威圧したりする姿は、たしかに想像しにくい。

 エリンが最初に抱いた印象は、優しそうな人、だった。

 

 けれど、優しそうな人間が、優しい経営をするとは限らない。

 

 ケヴィンはエリンを見ると、椅子から少し腰を浮かせた。

 

「やあ、エリンさん。どうだったかな、スペースホープは」

 

 柔らかな口調。

 だが、その“どうだったかな”の軽さに、エリンは小さく眉を寄せた。もちろん顔には出さない。

 

 エリンは椅子を勧められ、静かに腰を下ろした。

 そして一拍置いて、答えた。

 

「……思っていたよりも、崩れている印象です」

 

 その言葉は、社長室の空気には似合わないほど真っ直ぐだった。

 

 ケヴィンは少し驚いたように目を瞬かせた。だがすぐに苦笑のようなものを浮かべる。

 

「そうか。まあ、確かに色々あったからね」

 

 “色々”。

 

 その曖昧な言葉に、エリンの胸の内で何かが冷えた。

 

 エリンは視線を逸らさず、続けた。

 

「スペースホープは今、瀕死の状態にあります」

 

 ケヴィンの笑みがわずかに止まる。

 

「それでも、社員の皆さんはそのことを十分には理解していないように見えました。『伝統』という言葉に、胡座をかいています」

 

 社長室に、短い沈黙が落ちた。

 

 ケヴィンは椅子の背に少し体重を預け、困ったように笑う。

 

「でも、伝統を守ることは大事だよ?」

 

 その言い方は、あまりに穏やかだった。

 責める気も、反論する気もない。ただ、自分にとって当たり前の価値観を、当然のように言っただけ。

 

 エリンは頷いた。

 

「それは理解しています」

 

 理解している。

 伝統は必要だ。

 だが、必要だからこそ、使い方を間違えてはいけない。

 

 エリンは、午前中に見た光景を思い出しながら、言葉を選んだ。

 

「例えば、広報部が作成している制服もそうです」

 

 ケヴィンが目を向ける。

 

「制服は、最終的に着るのは乗務員です。現場が何を求めていて、どのような制服を望んでいるのか――その意見を聞かずに、広報部だけで決定している」

 

 エリンは淡々と告げる。事実だけを並べる。

 

「総務部も同じです。今ある備品を活用する発想より先に、新しい椅子を発注していた。財務部も、歳入がほとんどない状態で、必要と言われた支出をそのまま通している」

 

 ケヴィンの顔から、穏やかな笑みが少しずつ薄れていく。

 

「それは……各部署が必要だと判断したものだろう?」

 

「はい」

 

 エリンは頷く。

 

「問題は、その“必要”を、部署を超えて誰も共有していないことです」

 

 ケヴィンは言葉に詰まった。

 その反応を見て、エリンは確信する。

 この社長は悪人ではない。だが、組織がどう壊れていくかを、具体的に見てこなかった人間だ。

 

 エリンは少しだけ前のめりになる。声を強めはしない。だが、言葉の輪郭をはっきりさせた。

 

「伝統を守ることは、大事です」

 

「……うん」

 

「ですが、社員の皆さんが部署を超えて問題を共有できれば、スペースホープは息を吹き返すと思います」

 

 ケヴィンが眉を寄せる。

 “息を吹き返す”。

 その言葉は希望だ。だが、同時に今が“死にかけている”と認める言葉でもある。

 

「広報部は、乗務員と話していない。総務部は、財務の現状を肌で感じていない。財務部は、各部署が本当に必要としているものを見極める仕組みを持っていない。旅行事業部は、自分たちが今どれほどフライト再開から遠い位置にいるのか、十分に共有できていない」

 

 エリンは一つ息を吸った。

 

「この会社には、横の繋がりがありません」

 

 ケヴィンの指が、机の上でわずかに動いた。

 落ち着きのない動きだ。言葉を受け流したくても、受け流せなくなった時の癖なのだろう。

 

「……それでも、伝統があったから、ここまでやってこられたんじゃないかな」

 

 エリンは、そこで少しだけ表情を和らげた。

 否定のためにここへ来たわけではない。

 壊すためではなく、戻すために来たのだ。

 

「ええ。そうだと思います」

 

「……」

 

「どんなに素晴らしい伝統も、それに縛られて“生きる力”を失えば、未来には引き継げません」

 

 その言葉を告げた瞬間、社長室の空気が少しだけ動いた。

 

 ケヴィンの目が、わずかに見開かれる。

 その言葉は、彼にとって思ってもみなかった切り口だったのかもしれない。

 

 エリンは静かに続けた。

 

「伝統は、守るものです。ですが、それは形だけを残すことではありません。『なぜそれが必要だったのか』を、今の現場に合わせて残していくことです」

 

 制服のリニューアル。備品の購入。支払い処理。

 どれもそれ自体が悪ではない。

 問題は、“何のために”が抜けていることだった。

 

「今のスペースホープは、伝統を守っているようでいて、伝統の意味を見失っているように見えました」

 

 ケヴィンは口を閉じたまま、ゆっくり息を吐いた。

 優しい顔立ちが、急に年齢を見せる。疲れているのだろう。社長として、何も見ていなかったわけではないはずだ。ただ、見てもどうしていいか分からないうちに、ここまで来てしまったのだ。

 

「……君は、厳しいね」

 

 ようやく出た言葉が、それだった。

 

 エリンは否定しなかった。

 

「現場は、もっと厳しいです」

 

 その一言に、ケヴィンは目を伏せた。

 

 たぶんこの人は、現場が厳しいことを頭では理解している。だが、肌では知らない。だから、ここまで“優しいまま”でいられた。

 

 エリンはそこで一度だけ、言葉の温度を下げた。

 

「私が見た旅行事業部の訓練状況では、現時点でフライト再開は不可能です」

 

 ケヴィンが顔を上げる。

 

「そこまで……?」

 

「はい」

 

 迷いなく答える。

 

「ミラとランを除いて、基礎がなっていません。今のまま飛ばせば、乗客を守れない」

 

 社長室の静けさが、少し重くなる。

 

 エリンは、ここで慰めの言葉を入れなかった。

 慰めれば、この人は安心してしまう。

 安心していい状況ではない。

 

「ですが」

 

 エリンは、はっきりと続けた。

 

「立て直せないとは言っていません」

 

 ケヴィンの目に、わずかな光が戻る。

 

「部署を超えて問題を共有し、何が本当に必要かを見直せば、スペースホープはやり直せます」

 

 エリンの目はまっすぐだった。

 

「ただし、そのためには社長であるあなたが、現状を『大変だね』で終わらせないことです」

 

 その言葉は鋭い。

 しかし、責めるための鋭さではない。

 現実を立ち上がらせるための鋭さだ。

 

 ケヴィンは、しばらく何も言えなかった。

 

 やがて、机の上で組んでいた手をほどき、小さく苦笑する。

 

「……耳が痛いな」

 

 エリンは何も返さない。

 耳が痛いで終わらせるつもりなら、この話に意味はない。

 

 ケヴィンは視線を窓の方へ向けた。人工空は穏やかで、何も知らない顔をしている。

 

「私は……たぶん、優しさを履き違えていたのかもしれない」

 

 ぽつりと漏れた独白のような言葉だった。

 

「社員に強く言わないことが、守ることだと思っていた。各部署に任せることが、信頼だと思っていた」

 

 エリンは、ようやく少しだけ表情を緩めた。

 

「任せることと、見ないことは違います」

 

 ケヴィンが、ゆっくり頷く。

 

「そうだね」

 

 その頷きが、本気なのか、その場しのぎなのか。

 まだ、エリンには分からない。

 

 だが、少なくともこの人は今、初めて“伝統の外側”から会社を見ようとしている。

 

「ハワード財閥は、ずいぶん怖い人を寄越してきたんだな」

 

「優しいですよ、私は」

 

 エリンが淡々と言うと、ケヴィンは目を丸くしたあと、本当に可笑しそうに肩を震わせた。

 

「なるほど。それなら、現場は相当厳しいんだろうね」

 

「はい」

 

 エリンもわずかに口元を和らげる。

 

 その短いやり取りで、社長室の空気が少しだけ軽くなった。

 だが、問題が軽くなったわけではない。

 

 エリンは最後にもう一度、はっきりと言う。

 

「社長。スペースホープはまだ終わっていません」

 

 ケヴィンが、真っ直ぐエリンを見る。

 

「ただし、このままなら終わります」

 

 言い切る。

 逃げ道はない。

 

「私は旅行事業部から立て直します。でも、それだけでは足りません。社長にも動いていただきます」

 

 ケヴィンはしばらく黙っていたが、やがて大きく息を吐いた。

 

「……分かった」

 

 その返事は、今までで一番重かった。

 

 エリンは静かに頷いた。

 

「お願いします」

 

 立ち上がると、椅子の脚が小さく鳴る。

 ケヴィンもつられるように立ち上がった。

 

 エリンは一礼する。

 

「それでは、失礼します。」

 

「……ああ。頼む」

 

 その「頼む」は、最初に感じた柔らかいだけの頼み方とは少し違っていた。

 ようやく、自分の会社を“人任せではなく、共に背負う”側の声になりかけている。

 

 社長室を出たあと、エリンは長い廊下をまっすぐ歩いた。

 足取りは重くない。軽くもない。

 

 やることが、はっきりしただけだ。

 

 訓練は散々。

 会社も崩れている。

 伝統に胡座をかいて、部署同士が繋がらず、誰も全体を見ていない。

 

 それでも。

 

 ようやく、最初の一手は打てた。

 

 エリンは小さく息を吸い、胸の内で呟く。

 

(ここからだ)

 

 火星コロニーの空は、今日も変わらず穏やかだった。

 その穏やかさに騙されることなく、エリンは再び、現場へと戻っていった。

 

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