サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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テスト

 ミラとランの予想は、外れた。

 

 あの日、訓練初日の夕方、シュミレーションルームの扉が閉まったあとで、二人はどこかで「明日からは少し変わるのではないか」と思っていた。

 今日あれだけ若い乗務員たちの現状を突きつけたのだから、次からはきっと、エリンが手本を見せるだろうと。厳しさのあとには、あの人らしい丁寧さが戻ってくるのだろうと。

 

 けれど、次の日になっても。

 そのまた次の日になっても。

 エリンの厳しさも、冷たさも、何ひとつ変わらなかった。

 

 むしろ、研ぎ澄まされていった。

 

 朝からシュミレーションは始まる。

 乗り入れ、着席案内、荷物対応、ギャレー動線、サービスの順序、緊急時の初動。

 昼休憩を挟んで、また同じことを繰り返す。

 終わるのは夕方。

 そこまで一日中、ずっと。

 

 そして、指導されるのは経験の浅い乗務員や新人だけではなかった。

 

 ミラにも。

 ランにも。

 エリンの指摘は容赦なく降りかかった。

 

「ミラ、今の間は何?」

 

「ラン、その声は柔らかいけど遅い」

 

「二人とも“知っている”顔をして雑になってる」

 

「経験があるから許されると思わないで」

 

 若い乗務員に向けられるものと同じくらい、あるいはそれ以上に、鋭い言葉が飛ぶ。

 

 それは、明らかに見せしめの意味もあった。

 ベテランに近い二人すらこの程度だと、全員の前で突きつける。

 誰も例外ではない。

 “昔から知っている間柄だから”“一緒に現場をくぐってきたから”という情は、今のエリンにはまるで存在しないように見えた。

 

 ミラは最初の三日で、すでに疲弊しかけていた。

 

 肉体的な疲れというより、精神の方だ。

 自分の動きに対して指摘されること自体は、別に苦ではない。むしろ必要なことだと思っている。

 だが、今のエリンの言い方は、まるで研いだ刃をそのまま相手の喉元に置くようだった。

 

「それでは後輩の見本にならない」

 

「今の受け答え、相手の不安を消せていない」

 

「分かっているつもり、が一番厄介」

 

 言葉は正しい。

 だから痛い。

 

 ミラは何度も、エリンの顔を見た。

 あの目の奥に、昔と同じ温度が残っているのかを確かめたかった。

 

 けれど、エリンはいつも静かだった。

 怒鳴ることはない。感情を荒げることもない。

 むしろ淡々としているからこそ、余計に冷たく感じる。

 

 ランもまた、戸惑いを深めていた。

 

 ランは元々、人の機微に敏い。

 場の空気の揺れや、誰かが何かを飲み込んだ瞬間を、自然と拾ってしまう。

 だからこそ、エリンの言葉が若い乗務員たちの胸をどれだけ削っているかも、手に取るように分かった。

 

 それでも、ランはエリンに直接何かを言うことができなかった。

 言えば、きっとエリンはちゃんと答えるだろう。

 けれど、その答えを聞くのが怖い気もした。

 今のこの冷たさに、エリンなりの確かな理由があるのだとしたら――自分は、それを否定できなくなってしまう気がしたからだ。

 

    ◇

 

 一週間が過ぎる頃には、旅行事業部の空気は、完全に“訓練前提”のものになっていた。

 

 朝、フロアに入る足取りが重い。

 誰も無駄話をしない。

 ロッカーを閉める音や、制服の袖を直す動作まで、どこか張りつめている。

 

 以前なら、挨拶のあとに軽い雑談や冗談が飛んでいた。

 けれど今は違う。

 

 皆、エリンが来る方向を無意識に気にしている。

 その足音が聞こえただけで、背筋が伸びる。

 

 そして、シュミレーションが始まる。

 

「通路の中央に立たないで」

 

「目線が泳いでる」

 

「その言い方は“確認”であって“安心”じゃない」

 

「笑顔を作るな。安心している人の顔をしなさい」

 

「何度も同じことを言わせないで」

 

 冷たく、短く、逃げ道のない言葉。

 

 最初の数日は、若い乗務員たちも必死についていこうとしていた。

 だが、一週間を越えたあたりから、少しずつ綻びが表に出始める。

 

 笑顔のまま目だけが死んでいく者。

 言葉数が減っていく者。

 何を言われても「はい」としか返せなくなる者。

 涙を堪えるのが上手くなっていく者。

 

 そしてそれを見ているミラとランの中にも、じわじわと黒いものが溜まっていった。

 

 ある日、訓練には新たな“観客”が現れた。

 

 スペースホープが辛うじて抱えている、二人のC級ライセンスの宇宙飛行士たちだ。

 

 飛行士と言っても、今はフライト停止中で実機に乗る機会はない。

 だからこそなのか、あるいは暇なのか、彼らは時々シュミレーションルームに顔を出していた。

 年齢は二十代前後だろうか。プライドだけは高く、現場が崩れていることを“自分たちとは別の問題”だと思っている節がある。

 

 その日も、彼らは壁際に腕を組んで立ち、乗務員たちの訓練を眺めていた。

 

 若い乗務員が通路誘導で詰まり、ギャレーの受け渡しも遅れ、空気が一度大きく崩れた時だった。

 そのうちの一人が、鼻で笑うように言った。

 

「これじゃ、操縦に集中できないな」

 

 その言葉は、シュミレーションルームの空気をさらに冷やした。

 

 若い乗務員たちの顔が強張る。

 何人かは悔しそうに唇を噛んだ。

 ミラの胸の内で、かっと熱が上がる。

 

 ――何様のつもりなの。

 

 ランも同じだった。

 普段なら、こういう“現場を知らないくせに上から見下ろす物言い”には真っ先に腹が立つ。

 しかも、乗務員が崩れると操縦に集中できない、という言葉自体は事実でもあるから、余計に質が悪い。真実を盾にして、人を嘲るのは最低だ。

 

 ミラは今にも何か言い返しそうになった。

 だが、その前にエリンが口を開いた。

 

「その通り」

 

 ミラもランも、一瞬、本当に自分の耳を疑った。

 

 若い乗務員たちも、顔を上げる。

 

 エリンはC級ライセンスの飛行士に向けた視線を、今度は乗務員たちへと移した。

 

「あなたたちがしっかりしないから、そう言われるの」

 

 静かな口調だった。

 だが、その静けさがあまりにも残酷だった。

 

 乗務員たちの間に、言葉にならない衝撃が走る。

 ミラは、喉の奥がひどく熱くなるのを感じた。怒りなのか、悲しみなのか、自分でも分からない。

 

 ランもまた、驚きのあまり呼吸が浅くなった。

 

 エリンなら、少なくともああいう言い方に同意はしないと思っていた。

 仮に乗務員側に落ち度があったとしても、飛行士が嘲る形になった時には、その空気ごと制する人だったはずだ。

 それが、何も言わないどころか、肯定した。

 

 しかも、“あなたたちがしっかりしないから”と。

 

 その言葉は若い乗務員たちの心を深く抉った。

 ミラにも、ランにも。

 

 その日の訓練が終わった後、若い乗務員の一人がロッカーの前で小さく言った。

 

「……なんか、もう、分かんないです」

 

 誰に向けた言葉でもなかった。

 けれど、その呟きが全員の胸に刺さった。

 

    ◇

 

 エリンが来てから二週間。

 

 不満は、破裂寸前まで膨れ上がっていた。

 

 ロッカールームは、以前なら訓練後の疲れを流すための場所だった。

 今日の失敗を笑い話にしたり、明日の不安を半分冗談に変えたり、ちょっとした菓子を分け合ったり。

 そんな、ほんのわずかな緩衝材として機能していたはずの場所。

 

 だが今は違う。

 

 扉が閉まった瞬間に堰が切れる。

 

「なんなの、あのチーフパーサーは!!」

 

 最初に声を上げたのは、まだ十九になったばかりの若い乗務員だった。

 いつもは明るくて、訓練中も必死に食らいつこうとしている子だ。

 その子が、ロッカーの扉を叩きそうな勢いで怒鳴った。

 

「何をやってもダメ、ダメ、遅い、雑、って……! こっちだってちゃんとやってるのに!」

 

「落ち着いて」

 

 すぐに別の子が宥めようとする。

 だが、宥める側の顔にも余裕はない。

 

「落ち着けるわけないでしょ!」

 

 別の子が言った。

 今度は涙声だった。

 

「毎日毎日、朝から夕方までやって、何一つ褒められないし、何も教えてくれないし……! わたしたち、そんなにダメなの!?」

 

 その問いに、誰もすぐには答えられなかった。

 

 黙っていた別の子が、ぽつりと言う。

 

「……他の部署の人には、評判いいんでしょ」

 

 その言葉に、ロッカールームの空気がぴんと張った。

 

「広報の人が言ってた。『新しく来たチーフパーサーさん、優しくて丁寧ですよね』って」

 

「総務の人も言ってたよ。『物腰が柔らかくて話しやすい方ですね』って」

 

「なんで私たちにだけあんななの?」

 

 次々に言葉が出る。

 

「もしかして、わざとなんじゃない?」

 

「わざと?」

 

「この会社を潰そうとしてるとか……」

 

「え……」

 

「見捨てられてるのかも」

 

 その一言が落ちた瞬間、何人かの顔色が変わった。

 冗談で済ませたかった。

 だが、あまりにも今の状況にぴったり嵌まってしまって、誰もすぐには否定できなかった。

 

「やめてよ、そういうの」

 

 弱々しくそう言った子がいたが、声に力はなかった。

 

「でも、そうじゃなきゃ説明つかないじゃない!」

 

「他の部署では優しくて、私たちには冷たくて、何も教えなくて……!」

 

「見捨てられてるんだよ、きっと……」

 

 そこで、とうとう一人が泣き出した。

 それにつられるように、別の子も目元を押さえる。

 ロッカールームのあちこちで、堪えていた感情が決壊していく。

 

 怒鳴る子。

 泣き出す子。

 その背中をさする子。

 何も言えずに立ち尽くす子。

 

 もう、今にも爆発しそうな空気だった。

 

 その中で、ミラとランは顔を見合わせた。

 

 限界だ、と二人とも思った。

 何もしなければ、ここで本当に何かが壊れる。

 

 ミラが一歩前に出る。

 

「落ち着いて!」

 

 その声は思った以上に強く出た。

 一瞬だけ、ロッカールームが静まる。

 

「落ち着いて、聞いて」

 

 ミラは呼吸を整えながら続けた。

 

「私も……正直、今のやり方が全部正しいとは思ってない」

 

 その言葉に、皆の視線が集まる。

 ミラがそう言ったこと自体が意外だったのだろう。

 

「でも、ここで“見捨てられてる”って決めつけるのは違う」

 

「じゃあ何なの……!」

 

 涙声が返る。

 

「分からないよ!」

 

 ミラも少し強く言った。

 正直な気持ちだった。

 

「分からない。私だって分からない。エリンさんがどうしてああいうやり方をしてるのか、全部は分からない」

 

 声が少し震える。

 それでも、言わなければならない。

 

「でも、あの人がこの会社を潰そうとしてるなんて、私は思わない」

 

 その一言に、少しだけ空気が揺れた。

 

「どうしてそう言い切れるの?」

 

 誰かが聞く。

 

 ミラは答える前に、隣に立ったランを一瞬見た。

 ランは小さく頷いた。続きを託すように。

 

「……エリンさんは、そんなやり方をする人じゃない」

 

 ミラは言った。

 

「私たちが知ってるあの人は、もっと違う教え方をする。だから、今のやり方に戸惑ってるのは私も同じ。でも、それでも“潰そうとしてる”とは思わない。そんな遠回りで人を壊す人じゃないから」

 

 ランも、そこで穏やかに口を開いた。

 

「私も、ミラと同じ気持ち」

 

 ランの声は柔らかかった。

 柔らかいが、揺れてはいない。

 

「今のやり方は、つらいよね。見てる私たちもしんどいし、受けてるみんなはもっとしんどいと思う」

 

 その言葉に、泣いていた子が少しだけ顔を上げる。

 “分かってもらえた”と感じたのだろう。

 

「でも、今ここで全部投げるのは、違うと思う」

 

 ランは続ける。

 

「少なくとも、もう少しだけ見たい。エリンさんが何をしようとしてるのか。どこへ持っていこうとしてるのか」

 

「でも、いつまで……?」

 

 弱々しい声が返る。

 

 その問いに、ミラはしばらく黙って考えた。

 そして、はっきり言った。

 

「とりあえず、一ヶ月」

 

 皆が息を呑む。

 

「一ヶ月だけ、頑張ってみよう」

 

 ミラの言葉は、自分自身に言い聞かせるものでもあった。

 

「それでも変わらないなら、その時は私がエリンさんに言う」

 

 ロッカールームが静まり返る。

 

 ミラは続けた。

 

「直接聞く。今のやり方が何なのか。どういうつもりなのか。私たちをどうするつもりなのか。ちゃんと聞く」

 

 その言葉に、何人かの表情が少しだけ和らいだ。

 “誰かが言ってくれる”というだけで、人はほんの少しだけ耐えられる。

 

「……本当に?」

 

 クビを振りながら泣いていた子が、かすれた声で聞く。

 

「本当に」

 

 ミラは頷いた。

 

「約束する」

 

 ランも隣で静かに頷いた。

 

「私も一緒にいるよ」

 

 その一言が、また少し空気を和らげた。

 

 誰かが大きく息を吐く。

 別の誰かが、「一ヶ月……」と呟く。

 簡単ではない。

 でも、“終わり”ではなく“猶予”が与えられただけで、少しだけ気持ちは整う。

 

 やがて、一人が小さく言った。

 

「……分かった。とりあえず、一ヶ月」

 

 それに別の子が続く。

 

「私も……頑張ってみる」

 

「一ヶ月だけなら……」

 

「ミラさんが言うなら……」

 

 少しずつ、言葉が重なっていく。

 

 完全に納得したわけじゃない。

 不満が消えたわけでもない。

 けれど、爆発寸前だった空気は、辛うじてひとつの方向へまとめられた。

 

 最終的には、それで話は纏まった。

 

 ――とりあえず、一ヶ月は頑張ってみる。

 ――それでも何も変わらないなら、ミラがエリンに言う。

 

 その“約束”を、皆が共有することで、どうにかその場は収まった。

 

 ロッカールームを出る頃には、泣いていた子たちも目元を冷やし、怒鳴っていた子たちもようやく声を落とし、宥めていた子たちも疲れ切った顔で壁にもたれていた。

 

 ミラはロッカールームの扉を閉めた後、長く息を吐いた。

 

 ランが隣に立つ。

 

「……ありがとう」

 

 ランが言う。

 

「私ひとりじゃ、あそこまでまとめられなかった」

 

 ミラは首を振った。

 

「私だって、勢いで言っただけ。正直、一ヶ月って言いながら、こっちが先に折れるかもしれないって思ってる」

 

 ランは少しだけ笑った。優しい、けれど疲れた笑みだった。

 

「うん。私も思ってる」

 

 二人はしばらく無言で廊下を歩いた。

 ロッカールームの外は、さっきまでの喧騒が嘘のように静かだった。

 この静けさの向こうで、エリンは何を考えているのだろう。

 

 ミラは、胸の奥の重さを抱えたまま呟いた。

 

「……変わったよね、エリンさん」

 

 その言葉は、責めるようでもあり、寂しがるようでもあった。

 

 ランは少し考えてから、静かに答えた。

 

「うん。変わったと思う」

 

「前のあの人なら、もっと違うやり方をした」

 

「そうだね」

 

「でも、それでも」

 

 ミラは言葉を切る。

 

「それでも、私はまだ……あの人が私たちを見捨てたとは思いたくない」

 

 ランはその言葉に、ゆっくりと頷いた。

 

「私も」

 

 短い返事だった。

 

 それで十分だった。

 

 廊下の先には、明日の訓練が待っている。

 明後日も、その次も。

 一ヶ月。

 それが長いのか短いのかは、まだ分からない。

 

 だが少なくとも、彼女たちはまだ立っている。

 怒りも、戸惑いも、不満も、全部抱えたままで。

 

 そしてその“抱えたまま立つ”ことこそが、たぶん今のスペースホープにいちばん必要な力なのだと、ミラは薄々感じ始めていた。

 

 それでも――苦しいことに変わりはなかった。

 

 

ーーーー

 

 

 ロッカールームで燻っていた不満や怒りは、結局その日、一つの約束に変わった。

 

 ――とりあえず、一ヶ月は頑張ってみる。

 ――それでも何も変わらないなら、ミラがエリンに言う。

 

 その約束は、希望というにはあまりに頼りなく、反発を抑えるための細い杭のようなものだった。だが、少なくとも乗務員たちはそれに縋った。今この場で折れるよりは、一ヶ月先に答えを先送りした方がまだ立っていられたからだ。

 

 そして、その“密やかな取り決め”を、エリンは知らないはずだった。

 

 知らないはずなのに――。

 

 その翌日からさらに数日が過ぎ、旅行事業部の空気が乾ききったころだった。

 朝の点呼のあと、エリンはいつものように全員の前に立った。

 

 表情は変わらない。

 声の温度も変わらない。

 朝から夕方まで続くシュミレーションに、全員の心身がどれだけ削られているかを知っているのか知らないのか、そんなことを悟らせる気配すらなかった。

 

「二週間後に、一度テストをします」

 

 それだけだった。

 

 あまりにもいつも通りの口調で告げられたその言葉に、一瞬、誰も反応できなかった。

 

 ミラが最初に瞬きをする。

 ランがわずかに眉を上げる。

 若い乗務員たちは、言葉の意味を受け取るのに一拍遅れた。

 

「……テスト?」

 

 誰かが小さく呟いた。

 それは反抗でも質問でもなく、ほとんど反射だった。

 

 エリンは端末を開いたまま、淡々と続ける。

 

「内容は、乗客の乗り入れから船内サービス、緊急時対応までの通し。個人評価と、班としての連携の両方を見ます」

 

 そこで一度、全員を見渡した。

 

「その時点で基準に達していない者は、現時点ではフライトに関わらせません」

 

 またしても、言い方に一切の装飾がなかった。

 

 不安を和らげる言葉もなければ、「でも大丈夫」といった甘さもない。

 ただ、事実と判断基準だけを突きつけてくる。

 

 部屋の空気が、じわりと重くなる。

 

 若い乗務員の中には、一瞬で顔色が悪くなる者もいた。

 これ以上、何を試されるのか。

 まだ毎日のシュミレーションだけでもいっぱいいっぱいなのに、その先にさらに“評価”が待っている。

 

 そう思って当然だった。

 

 だが――その重さの中に、昨日までとは少し違う熱が混ざったのを、ミラは感じた。

 

 恐怖だけではない。

 苛立ちだけでもない。

 

 どこかで、皆が同じことを思ったのだ。

 

 ――見ていろ。

 

 エリンは何も知らない顔で、端末を閉じた。

 

「質問は?」

 

 誰も口を開かなかった。

 

 本当は聞きたいことだらけだ。

 評価基準はどこにあるのか。

 どの程度までできればいいのか。

 チームは固定なのか。

 誰がどこを見るのか。

 基準に達しなければ、本当に現場から外されるのか。

 

 だが、そのどれを聞いても、エリンが優しく答える気がしないことも、皆もう知っていた。

 それに、ここで質問すること自体が、負けのように思えてしまった。

 

 沈黙を確認したエリンは、短く言う。

 

「なら、始めましょう」

 

 いつものように。

 本当に、いつものように。

 それだけで、朝の空気は一瞬で訓練の色へ塗り替えられた。

 

    ◇

 

 その日から、シュミレーションはさらに密度を増した。

 

 乗り入れの導線確認ひとつ取っても、エリンの指摘は前よりも細かく、鋭くなった。

 

「足音が急いてる」

 

「今の返事は聞かせるための返事。安心させる返事じゃない」

 

「その身体の向きだと通路を塞ぐ」

 

「『大丈夫です』の根拠がない」

 

「目線が乗客を追ってない。自分の不安しか見ていない」

 

「考えるのが遅い。遅いというより、考える順番が悪い」

 

「今のは配慮じゃない。自己満足」

 

「優しい顔をしようとしてるだけ。相手を見ていない」

 

 痛い。

 痛いが、もうそれを“ただの理不尽”として受け取る者は減り始めていた。

 

 もちろん、つらさが消えたわけではない。

 冷たさに傷つく者もいる。

 泣きそうになる瞬間もある。

 けれど、二週間後にテストがあると明言されたことで、指摘のひとつひとつが「漠然と責められている」のではなく、「そこを見られるのだ」と具体的に繋がり始めた。

 

 目の前の痛みが、少しだけ形を持つ。

 すると、人は耐えやすくなる。

 

 若い乗務員たちは、明らかに変わっていった。

 

 前まではエリンに指摘されるたび、ただ萎縮していた。

 だが今は違う。萎縮しながらも、どこかで噛みつこうとしている。

 

 もちろん口に出して反論するわけではない。

 そんなことをすればエリンの一言で叩き落されるのは、もう皆分かっている。

 

 だからこそ、彼らは心の中で火を灯した。

 

 ――今に見てろ。

 ――今度は止まらない。

 ――次は同じことで言われない。

 ――そのテストで、絶対に通ってやる。

 

 その静かな闘志を、最初に強く見せたのは、あのロッカールームで真っ先に怒鳴った若い乗務員だった。

 

 彼女は乗り入れの担当を任され、乗客役の前に立つ。

 前なら笑顔を作ることに必死で、声だけが高く浮いていた。

 だがこの日は違った。

 

 一度息を吸う。

 肩を落とす。

 目線を相手の顔に置き、それから少しだけ全体を見る。

 

「おはようございます。ご搭乗、ありがとうございます」

 

 声はまだ硬い。

 けれど前より低い。安定している。

 

 エリンの視線が向く。

 若い乗務員の背中が一瞬だけ緊張で強張る。

 

「……前よりはまし」

 

 それだけだった。

 

 褒め言葉とは言えない。

 だが、あのエリンから出る「まし」は、今の旅行事業部にとってほとんど勲章だった。

 

 その一言で、その若い乗務員の目の奥に火が灯る。

 

 ――だったら、次は“良い”って言わせる。

 

 そんな気迫が見えた。

 

 別の場面では、荷物対応に入った若い男性乗務員が、乗客役の鞄に手を伸ばしかけて、一瞬だけ動きを止めた。

 それから半歩位置をずらし、視線を合わせて言う。

 

「お預かりします。少し持ち上げますね」

 

 タイミングはまだわずかに遅い。

 言葉も完璧ではない。

 だが、“取る”のではなく“預かる”意識が、動きに滲み始めていた。

 

「遅い」

 

 エリンが言う。

 

 少女の乗務員は、前ならそこで肩を落としていた。

 だが今は違う。

 

「はい」

 

 返事をして、もう一度位置を確認し、同じ動作をやり直す。

 無言のまま、食らいつく。

 

 その変化を、ミラははっきり感じていた。

 

 エリンの厳しさは何も変わっていない。

 いや、むしろ増している。

 だが、乗務員の受け止め方が少しずつ変わり始めていた。

 

 傷つく。

 腹が立つ。

 悔しい。

 

 その先に、ようやく「じゃあどうする」が生まれ始めている。

 

    ◇

 

 ミラとランにも、その火は伝染した。

 

 ある日の午後、通路誘導の訓練で、ランが乗客役を相手に一瞬だけ判断を迷った時だった。

 相手が高齢者で、しかも足取りが不安定という設定。付き添い役の乗務員が遅れ、通路も狭い。複数の要素が重なり、ランはほんのわずかに優先順位を取り違えた。

 

「ラン」

 

 エリンの声が飛ぶ。

 

「今のは?」

 

 短い問いだった。

 だが、その短さが逆に鋭い。

 

 ランは一度だけ呼吸を整え、答える。

 

「通路の確保より、相手の足元を先に見てしまいました」

 

「そう」

 

 エリンは頷く。

 

「優しい。でも、順番が違う」

 

 ランは黙る。

 

「あなたは昔から“目の前のひとり”には強い。でも、船は“全体”で動く」

 

 それは、ランにとって痛い指摘だった。

 実際、その通りだからだ。

 

「視野が狭くなった瞬間、あなたの優しさは事故になる」

 

 冷たい言い方だった。

 だが、ランはその言葉に妙な熱を感じた。

 突き放しているようで、エリンはちゃんとランの癖を覚えている。

 

 ランは静かに答えた。

 

「……分かりました」

 

 敬語のまま。

 けれど、その目には怯えではなく、静かな悔しさがあった。

 

 ミラも同じだった。

 

 ギャレーからのサービス導線で、彼女は速さを優先するあまり、後ろを確認しないまま通路へ出た。

 その動き自体は、経験があるからこそできる滑らかさだった。

 だが、滑らかさは時に“確認不足”を隠してしまう。

 

「ミラ」

 

 呼ばれる。

 

 ミラは足を止めた。

 

「慣れで動かないで」

 

 たったそれだけだった。

 

 けれど、その一言が一番刺さった。

 

 ミラは、自分が“慣れている側”であることにどこか甘えていた。若い子たちよりはできる、という自負があった。

 だが、エリンはそこを容赦なく切ってきた。

 

「……はい」

 

 短く返すしかない。

 

 だが、その胸の内でミラもまた思う。

 

 ――見ていろ。

 ――私は、こんなところで止まらない。

 

 若い乗務員たちだけではない。

 ミラも、ランも、二週間後のテストに向けて、静かに燃え始めていた。

 

    ◇

 

 その火は、ロッカールームの空気まで変えていった。

 

 以前は、訓練後に出る言葉のほとんどが不満だった。

 

「またあの言い方……」

「何であんなに冷たいの」

「他の部署には優しいくせに」

「本当に潰す気なんじゃないの」

 

 けれどテストが告げられてから数日後には、その言葉の中身が少しずつ変わっていく。

 

「今日のあれ、また言われた」

「でも昨日よりは詰まらなかったよね」

「私はまだ通路で焦る」

「ギャレーの出方、ランさんの見てたら分かったかも」

「ランさん、足の止め方どうしてるの?」

「ミラさん、あの返事の声ってどうやって出してるんですか?」

 

 不満が消えたわけではない。

 エリンへの反発も、完全には消えていない。

 

 だが、その反発が「ただ嫌だ」で終わらなくなってきていた。

 “だからこそ見返したい”という方向へ、少しずつ向かい始めている。

 

 ミラはそれに気づいていた。

 

 ある日のロッカールームで、若い乗務員の一人が鏡の前で何度も笑顔の練習をしていた。

 別の一人は、ロッカーの扉を使って足幅を確認している。

 誰かが荷物を持つ角度を試し、誰かが小声で接客の言葉を繰り返す。

 

 みっともないほど必死だ。

 だが、それが少し嬉しかった。

 

「……変わってきたね」

 

 ミラがぽつりと呟くと、隣で制服の袖を整えていたランが頷いた。

 

「うん。少しずつ」

 

「まだ、つらそうだけど」

 

「つらいと思う」

 

 ランは柔らかく言う。

 

「でも、前みたいに“どうせ無理”って顔ではなくなったかな」

 

 ミラは小さく笑った。

 

「それは確かに」

 

 少し前まで、ロッカールームには諦めが漂っていた。

 今はまだ、怒りも不満も疲れもある。

 けれど、その中に“どうにかしたい”という気配が混ざっている。

 

 その火をつけたのがエリンだという事実が、ミラにはまだ複雑だった。

 

 優しくない。

 丁寧でもない。

 少なくとも、旅行事業部に向けるエリンの指導は、昔自分たちが知っていたものとはまるで違う。

 

 それなのに、その厳しさが、結果として皆の中に闘志を生んでいる。

 

 ランは少しだけ視線を落として言った。

 

「……エリンさん、分かっててやってるんでしょうね」

 

「だと思う」

 

 ミラも即座に返す。

 

「悔しいけど」

 

「うん。悔しい」

 

 ランは素直に認めた。

 

「でも、今のこの子たちには、もしかしたら……最初に“優しさ”をもらうより先に、“悔しさ”が必要だったのかもしれない」

 

 その言葉に、ミラは少しだけ黙った。

 

 分かる。

 分かってしまう。

 

 もし最初から優しく包まれていたら、ここまで誰も本気にならなかったかもしれない。

 痛みがあったからこそ、皆は「見返したい」と思った。

 エリンは、そこまで計算していたのだろうか。

 

 そう考えると、ますます腹立たしい。

 

 そして、ますます尊敬してしまう。

 

    ◇

 

 ある朝。

 訓練開始前の静かな時間、旅行事業部のフロアには妙な熱があった。

 

 誰もそれを言葉にはしない。

 だが、皆が同じ方向を見ている。

 

 二週間後のテスト。

 

 その日が、ただ怖いだけの日ではなくなっていた。

 

 エリンはいつものように現れた。

 足音も、表情も、変わらない。

 だが、若い乗務員たちの目はもう、以前のように“怯え”だけでは彼女を見ていなかった。

 

 エリンが前に立つ。

 

「今日は乗り入れから緊急時対応まで、止める回数を減らします」

 

 それだけ言った。

 

 若い乗務員たちの背中に、緊張が走る。

 けれど、逃げるような空気はない。

 

 むしろ全員の胸に、ひとつの言葉が燃えていた。

 

 ――見ていろ。

 

 エリンに対して。

 あの冷たい指導に対して。

 この二週間、自分たちを削り続けてきたその目に対して。

 

 見ていろ。

 次は、崩れない。

 次は、止まらない。

 次は、同じことで言われない。

 

 その闘志は静かだった。

 誰かが声を荒げるわけでもない。

 拳を振り上げるわけでもない。

 

 ただ、呼吸の置き方が変わった。

 立ち方が変わった。

 目線の高さが変わった。

 

 ミラはそれを見て、胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

「……燃えてるね」

 

 小さく言うと、ランが穏やかに笑う。

 

「うん。静かにね」

 

 エリンはその変化に気づいているのか、いないのか。

 表情には何も出さない。

 

「始めて」

 

 短く告げる。

 

 その一言で、空気が走った。

 

 若い乗務員たちは、それぞれの位置につきながら、胸の内で同じ火を抱えていた。

 

 エリンに言われた痛みを、今度は燃料に変えてやる。

 あの冷たさに、結果で返してやる。

 厳しいだけなら、それでもいい。

 その壁を越えてみせる。

 

 静かな闘志だった。

 けれど、それは確かに、旅行事業部の心を繋ぎ始めていた。

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