サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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当日

 テストまでの期日は、思っていたよりもずっと早く過ぎていった。

 

 あれほど長く感じていた一日一日のシュミレーションも、振り返ってみれば、息をつく間もなく連なっていたように思える。朝から夕方まで続く指導。冷たく、鋭く、容赦のない言葉。ロッカールームでこぼれる不満と、そこで辛うじて繋ぎ止められる心。それらすべてを抱えたまま、それでも旅行事業部の乗務員たちは前へ進むしかなかった。

 

 そして、その日が来た。

 

 テスト当日――。

 

 まだ朝の人工照明が柔らかい色味を保っている時間帯だというのに、旅行事業部のフロアには、すでに独特の熱気が満ちていた。

 

 暑いわけではない。実際には、火星コロニー内の空調はきっちりと温度を保っていて、肌寒さすら感じるくらいだ。だが、それでも空気が熱を帯びているように感じるのは、そこにいる全員の呼吸と視線と意識が、ひとつの方向に集中していたからだった。

 

 誰もが、今日という日を意識している。

 

 ロッカーから書類を出す手つきに無駄がない。端末の立ち上げも早い。いつもなら朝の挨拶の後に少しだけ混じる雑談も、今日はほとんど聞こえなかった。聞こえるのは、確認の声と、短いやり取りと、椅子を引く音。それだけだ。

 

 けれど、重苦しいわけではなかった。

 

 むしろ、空気は張っているのに、どこか前向きだった。

 

 ミラとランが並んでフロアに入ってきた時、それはさらによく分かった。

 

「おはよう。今日はみんな早いね」

 

 ミラが周囲を見渡しながら言うと、あちこちから声が返ってきた。

 

「おはようございます!」

 

「おはようございます!」

 

「おはよう、ミラさん、ランさん!」

 

 返事の数が、いつもより明らかに多い。

 しかも、その声には怯えよりも勢いがあった。

 

 ランも目を丸くして、それから少しだけ笑った。

 

「本当だね。みんな、ずいぶん早い」

 

 フロアに立つ時のランは、場の空気をほぐす、少し穏やかな姉のような立ち位置にいた。

 

 若い乗務員の一人が、端末を持ったまま振り返る。

 

「今日は絶対、見返してやりますから」

 

 その言葉に、周囲から「そうそう」「今日こそはね」と小さな笑いが起きる。以前なら、こういうやる気は空回りしているように見えたかもしれない。だが今は違う。皆、それぞれが自分の中に現実的な課題を抱えた上で、それでも前を向こうとしているのが分かった。

 

「うん」

 

 ミラは短く頷いた。

 

「その意気込みは悪くない」

 

 すると別の子が、少しだけ唇を尖らせて言った。

 

「悪くない、じゃなくて、褒めてくださいよ」

 

 その言い方に、フロアの空気が少しだけ和らぐ。ミラが思わず笑いそうになる。

 

「じゃあ、言い直す。すごくいい」

 

「ありがとうございます!」

 

 返ってきた声は元気だった。

 

 ランはその様子を見ながら、ほんの少しだけ目を細める。

 

 この二週間で、皆が確実に変わった。

 いや、正確には“変えられた”というより、“変わらざるを得なかった”のかもしれない。

 エリンの冷たさと厳しさに追い詰められ、その中で各自が自分なりに反発し、自分なりに噛みつき、自分なりに立ち上がった。

 

 その結果が、今ここにある。

 

 熱気、だった。

 

 以前のような、どうせ無理だという湿った諦めではない。

 悔しさを燃料にした、少し乱暴で、でも確かな熱。

 

 ランは穏やかに声をかける。

 

「でも、浮き足立ちすぎないようにね。今日は本番だけど、今までやってきたことをそのまま出せばいいんだから」

 

「はい!」

 

「分かってます!」

 

 返事が飛ぶ。

 以前よりも揃っている。声量も、タイミングも。

 そのことにミラも気づいていた。

 

 やっぱり、皆、ちゃんと変わってきている。

 エリンのやり方が正しかったのかどうかは、まだ簡単に言えない。だが少なくとも、無駄ではなかった。それだけは、今の空気が証明していた。

 

 しばらくすると、フロアの出入口の方の空気がわずかに変わった。

 

 誰かが来たのだとすぐに分かる。

 ざわめきが止み、自然と視線がそちらへ向く。

 

 エリンだった。

 

 いつも通りの足取りで、いつも通りの表情で、旅行事業部のフロアに入ってくる。

 何も変わらないように見える。

 けれど、彼女が姿を現しただけで、空気の張り方がもう一段深くなるのだから、その存在感はやはり大きい。

 

「おはようございます!」

 

 今日はその声が、昨日までよりも明らかに大きかった。

 

 あちこちから飛ぶ挨拶を、エリンは短く頷くだけで受け取っていく。

 その表情は相変わらず淡々としていて、特別機嫌がいいようにも、悪いようにも見えない。

 

 彼女は自分の席に向かい、端末と紙の資料を机の上に置いた。

 それから椅子に腰を下ろすことなく、ひとりの名前を呼ぶ。

 

「ミラ」

 

「はい」

 

 ミラはすぐに返事をして、エリンのところへ歩み寄った。

 

 周囲の乗務員たちも、なんとなくそのやり取りに耳を澄ませる。今日がテスト当日である以上、どんな些細な指示にも意味があるように思えたからだ。

 

 エリンは端末から目を上げずに言う。

 

「総務部に申請してあるから、受け取ったらシュミレーションルームに運んでおいて」

 

「これは?」

 

 ミラが書類の一部を受け取りながら聞く。

 

「乗務員の制服よ」

 

「制服!?」

 

 思わず声が大きくなった。

 

 ミラだけではない。周囲で聞いていた乗務員たちからも、驚きの声が上がる。

 

「制服!?」「本当に?」「今日着るんですか?」

 

 エリンはそこで初めて、フロア全体へ向けるように視線を上げた。

 

「今日は本番を想定したテストです。制服も、ちゃんと着てもらう」

 

 その言い方はいつも通りだった。

 淡々としていて、余計な説明はしない。

 

 けれど、その一言の重みは大きかった。

 

 制服。

 

 それはただの布ではない。

 乗務員としての顔であり、責任であり、姿勢そのものだ。

 

 訓練中は動きやすさを優先して簡易な服装で行っていた場面も多かったが、制服を着るとなれば、話は少し変わる。襟元の締まり、袖口の見え方、立ち方、歩き方、すべてが“仕事の顔”になる。

 

 そして何より、エリンが広報部の制服リニューアル案に対して、冷たいほど現実的な視点を向けていたことをミラは思い出した。

 

 ――現場が何を求めているかを聞かずに作る制服に意味はない。

 

 あの時そう言っていたエリンが、今日あえて「制服を着ろ」と言う。

 

 そこに込められている意味はひとつしかない。

 

 現場を、現場の条件ごと試すのだ。

 

 ミラは緊張を飲み込み、頷いた。

 

「分かりました」

 

「それじゃあ、テストは午後から」

 

 エリンは静かに告げた。

 

「それまでは各自、準備をしてください」

 

 その一言で、フロアの空気がまた動き出した。

 

    ◇

 

 ミラはすぐに総務部へ向かった。

 

 廊下を歩きながら、胸の奥が少しずつ熱くなるのを感じる。

 制服を着てのテスト。

 それはつまり、今日の評価がただの“訓練の延長”ではなく、より現実に近いものになるということだった。

 

 総務部のフロアは相変わらず静かだった。

 広い部屋に少ない人員。

 それでも、今日は以前より少しだけ活気があるように見えたのは、気のせいだろうか。

 

「おはようございます」

 

 ミラが声をかけると、総務部の女性職員が顔を上げて微笑んだ。

 

「おはようございます、ミラさん。申請の件ですよね?」

 

「はい。制服を受け取りに来ました」

 

「準備してあります」

 

 机の横に置かれた大きめのケースを示される。

 中には人数分の乗務員制服が整然と畳まれて入っていた。現在使われている、実際のスペースホープの制服だ。派手すぎず、柔らかなラインを意識したデザイン。広報部が好みそうな“華やかさ”と、現場が求める最低限の動きやすさが、半端な形で同居している。

 

 ミラはケースの中を確認しながら、ふと尋ねた。

 

「サイズ、全部揃ってますか?」

 

「はい。エリンさんから、かなり細かく指定が入っていたので」

 

「……そうですか」

 

 そう答えながら、ミラは少し驚いていた。

 

 エリンは、やはり見ている。

 冷たく、厳しく、言葉も足りない。

 それでも、必要なところは抜かりなく押さえている。

 

 ミラはケースを受け取り、それをカートに乗せてシュミレーションルームへ運んだ。

 

 途中ですれ違った若い乗務員たちが、それを見て目を輝かせる。

 

「本当に制服だ……」

 

「なんか、急に実感わいてきた」

 

「緊張する……」

 

 その言葉の裏には、怖さと同じくらい、少しの高揚もあった。

 いよいよここまで来た、という感覚。

 曖昧な訓練ではなく、本番を想定した“勝負”が始まるのだと、皆が同じように感じている。

 

 シュミレーションルームにケースを運び終え、戻ってくる途中で、ミラはランと合流した。

 

「もう運んだの?」

 

「うん。サイズごとに分けておいた」

 

「ありがとう。みんな、ちょっと浮き足立ってる」

 

 ランが少し笑う。

 

「分かる。私も、制服って聞いた瞬間、胸のあたりが変になった」

 

「ランでも?」

 

「私でも」

 

 ランは柔らかく頷く。

 

「やっぱり制服って、気持ち変わるから」

 

 その言い方に、ミラも小さく笑った。

 

「そうね」

 

 二人は並んでフロアへ戻る。

 

 中では、若い乗務員たちがすでに各自で準備を始めていた。

 ある者はノートを見返している。

 ある者は鏡の前で笑顔を作る練習をしている。

 ある者は廊下の端を使って歩幅を確認している。

 そして、何人かは黙って座り、目を閉じていた。頭の中で動きをなぞっているのだろう。

 

 ミラは、その一つひとつが少し愛おしく思えた。

 ここまで来たのだ。

 怒って、泣いて、悔しがって、それでも投げずにここまで来た。

 

 だからこそ、今日だけは、せめて自分たちが自分たちを信じてやらなければならない。

 

    ◇

 

 昼前の時間帯になると、エリンはあえて何も言わず、各自の準備に任せた。

 

 それもまた異様だった。

 いつもなら細かいところまで視線を飛ばしてくるのに、今日は必要以上に声をかけない。

 それが、逆に緊張を煽る。

 

 若い乗務員の一人が小声で言った。

 

「……なんか、逆に怖い」

 

 それを聞いた別の子が頷く。

 

「分かる。あの人が黙ってると余計怖い」

 

「でも、今さら逃げられないし」

 

「逃げないよ。今日こそ見返すって決めたし」

 

 その言葉に、周囲の何人かが頷いた。

 

 ランはそれを聞きながら、そっと口を開く。

 

「うん。その気持ちは、きっと大事」

 

 柔らかな声だった。

 

「でも、“見返す”っていうのは、エリンさんに勝つことじゃないよ」

 

 若い乗務員たちが視線を向ける。

 

「自分が自分で納得できる動きをすること。昨日までの自分より、ちゃんと前に出ること。そこを忘れないで」

 

 その言い方は、少し前のエリンに似ていた。

 隣で聞いていたミラは、ほんの少し胸が詰まる。

 

「ランさん……」

 

 誰かが呟く。

 

 ランは少しだけ笑った。

 

「大丈夫とは言わない。でも、やってきたことは消えないから」

 

 その言葉に、何人かの肩から少し力が抜けた。

 

 ミラもそこで口を挟む。

 

「そうよ。今日ここで崩れたとしても、今までやってきたことがなくなるわけじゃない。だけど、せっかくここまで来たんだから、崩れない方がいい」

 

 その言い方に、小さな笑いが起きる。

 ほんの少しだけ、いつもの空気が戻る。

 

    ◇

 

 昼休憩に入る頃、旅行事業部のフロアには、緊張と静かな高揚が同居していた。

 

 誰も大声ではしゃいだりしない。

 だが、誰も俯いてもいない。

 

 それぞれが、自分の中で、今日という日に向けた何かを整えている。

 

 エリンは自席で書類を確認していた。

 いつも通りの横顔。

 表情に揺れはない。

 

 その姿を見ながら、ミラはふと思う。

 

 この人は、今の空気をどう見ているのだろう。

 乗務員たちの熱気に気づいているのだろうか。

 それとも最初から、こうなることまで計算していたのだろうか。

 

 分からない。

 でも、きっと気づいている。

 あれだけ人の微細な変化を見抜く人が、ここまで目に見えて変わったフロアの熱を見逃すはずがない。

 

 そして、気づいた上で、何も言わないのだ。

 

 ミラは少しだけ口元を引き締めた。

 

 ――だったら、なおさらだ。

 

 今日こそ、見せてやる。

 若い乗務員たちだけではない。

 ミラもランも、そして旅行事業部全体が、この二週間をただ削られて過ごしてきたわけではないと。

 

    ◇

 

 午後が近づく。

 

 シュミレーションルームには、すでに制服が並べられていた。

 ケースから出されたそれらは、きちんとサイズごとに分けられ、人数分が整然と置かれている。

 

 若い乗務員たちが一人、また一人と制服に袖を通し始める。

 

 襟を正す。

 袖を整える。

 鏡で全身を確認する。

 

 ただ服を着替えるだけなのに、空気が変わる。

 

 制服を着た瞬間、自分が“仕事の顔”になる。

 遊びではなくなる。

 評価される側であり、同時に、見られる側でもあるという自覚が、身体の輪郭を少しだけ変える。

 

「似合ってる」

 

 エマに似た雰囲気の若い乗務員が、隣の子に言う。

 言われた方は照れくさそうに笑ってから、すぐに表情を引き締めた。

 

「ありがとう。でも、今日はそれどころじゃない」

 

「うん。でも、だからこそ言っとく」

 

 そんなやり取りが、あちこちで小さく交わされる。

 

 ランも制服に袖を通しながら、静かに息を吐いた。

 やはり制服は違う。

 訓練着では出ない緊張が、背筋に一本通る。

 

 ミラはネクタイを整えながら、鏡越しに自分を見た。

 

 少し痩せた気がする。

 ここ二週間の疲れが顔に出ていないとは言えない。

 それでも、目だけは以前より強くなっているように見えた。

 

 外では、午後の始まりを告げるアナウンスが流れている。

 火星コロニーの人工空は変わらず穏やかだが、旅行事業部の胸の内は静かではない。

 

 熱い。

 怖い。

 悔しい。

 そして、やるしかない。

 

 エリンはシュミレーションルームの入口で全員が揃うのを待っていた。

 

 誰も無駄口を叩かない。

 誰も足を止めない。

 

 全員が、それぞれの場所へ向かっていく。

 

 テストは、もうすぐ始まる。

 

 そしてその直前、ミラはふと気づく。

 誰に言われたわけでもないのに、皆の呼吸が揃っていた。

 

 それだけで、胸の奥が少し熱くなった。

 

 ――ここまで来た。

 

 あとは、やるだけだ。

 

 

ーーーー

 

 

 午後のシュミレーションルームには、張り詰めた静けさが満ちていた。

 

 壁際に設置された訓練用のモニターはすでに起動している。乗り入れゲートの表示灯も、客席を模したエリアの照明も、すべて本番を想定した設定に切り替わっていた。床に引かれた動線ライン、ギャレーの収納位置、緊急用具の格納棚、どれも普段と同じはずなのに、今日はまるで別の場所のように見える。

 

 違うのは、そこに立つ人間の気持ちだった。

 

 乗務員たちは制服姿で二列に整列していた。襟元を正し、袖口を整え、姿勢を崩さず、誰も無駄な話をしない。呼吸だけが、静かに、しかし確かに熱を持っていた。

 

 ミラは列の前方に立ちながら、正面を見据えていた。

 隣ではランが、いつもの柔らかい表情のまま、けれど目元だけは少し鋭くして立っている。若い乗務員たちも、それぞれ緊張を抱えているのが見て取れた。唇をきつく結んでいる者。指先をそっと握っている者。目を閉じて呼吸を整えている者。誰もが、今日が単なる訓練ではないと分かっていた。

 

 ――見ていろ。

 

 その言葉を、誰も口には出さない。

 だが、ここにいる全員の胸の内に、同じ火が灯っていた。

 

 ほどなくして、扉が開いた。

 

 エリンが入ってくる。

 

 いつものように、無駄のない足取りだった。

 姿勢も視線も変わらない。淡々とした顔のまま、整列する乗務員たちの前へ歩いてくる。その後ろには、記録用端末を持った総務部の職員と、訓練補助として入ることになった数名の他部署職員の姿もある。乗客役の一部として配置されるのだろう。普段よりも明らかに本番に近い体制だった。

 

 エリンは列の正面で足を止めた。

 

「揃ってるわね」

 

 短い一言。

 それだけで、空気がさらに一段深く締まる。

 

 エリンは端末を開き、視線を落とさないまま告げた。

 

「これより、テストを開始します。内容は事前に伝えた通り、乗客の乗り入れから船内サービス、座席誘導、荷物対応、緊急時対応までの通し。個人の対応力、班としての連携力、状況判断、視野、声掛け、動線、すべてを見ます」

 

 誰も身じろぎしない。

 

「今日は私の指導は入りません。止めません。やり直しもありません」

 

 その言葉に、何人かの喉が小さく鳴るのが聞こえた。

 普段は冷たくても、途中で止められれば、そこにはまだやり直しの余地がある。だが今日は違う。崩れたとしても、そのまま進むしかない。

 

「一度始まったら、最後まで続けます。そこで見せたものが、現時点でのあなたたちの実力です」

 

 エリンはゆっくりと全員を見渡した。

 

「質問は?」

 

 ない。

 いや、本当はある。だが、今さら聞くつもりの者はいなかった。

 

 ミラもランも、若い乗務員たちも、ただまっすぐ前を見たまま立っている。

 

 エリンはほんのわずかに頷いた。

 

「なら、始めましょう」

 

 それだけを告げて、壁際の観察位置へ下がる。

 

 その瞬間、ミラの胸の奥で何かが大きく燃え上がった。

 今日、この人に言わせる。

 少なくとも、二週間前の自分たちではないと。

 凄かった、とまでは言わなくてもいい。だが、その顔にほんの少しでも「見違えた」という色を出させてやる。

 

 ミラだけではない。

 隣のランも、後ろに並ぶ若い乗務員たちも、皆同じ気持ちだった。

 

 静かな闘志を胸に、テストは始まった。

 

    ◇

 

 最初の想定は、通常便の乗り入れだった。

 

 ゲートのランプが点灯し、乗客役の他部署職員と若い乗務員たちが列を作って入ってくる。年配者、子ども連れ、仕事帰りの客、不機嫌そうな客、初めて利用する不安げな客――それぞれ役割が割り振られており、今日は普段の訓練以上に多彩だった。

 

 乗り入れ口の先頭に立った若い女性乗務員が、一度だけ息を吸う。

 

 以前なら、そこで肩が上がっていた。声が細くなり、笑顔だけが先に走っていた。

 だが今日は違う。

 

「おはようございます。ご搭乗ありがとうございます」

 

 声は低すぎず高すぎず、はっきりと通った。

 完璧ではない。わずかに硬さは残っている。

 それでも、二週間前の彼女を知るミラには、その違いがはっきり分かった。

 

 乗客役の一人が、わざと少し苛立った声を出す。

 

「この便、ちょっと急いでるんだけど」

 

 女性乗務員は怯まない。視線を相手の顔に置き、すぐに後ろの流れを確認する。

 

「承知しました。ご案内を急ぎますので、こちらへどうぞ」

 

 短い。無駄がない。

 そして何より、“相手に急がされている”声ではなく、“自分が主導権を持っている”声だった。

 

 壁際で見ているミラの指先に、力が入る。

 

 いい。

 いいぞ。

 

 次に、荷物対応へ移る。大きめのキャリーケースを持った乗客役が通路で少しもたつく。若い男性乗務員が一歩前へ出る。

 

「お預かりします。少し持ち上げますね」

 

 言葉をかける位置がいい。

 手を伸ばす角度も、相手の身体の外側から入っていて、圧迫感がない。

 受け取るタイミングも、以前ほど迷いがない。

 

 以前なら、ここでエリンに「遅い」と切られていた。

 だが今は切られない。

 切られないからこそ、自分たちの積み重ねだけで進むしかない。

 

 その緊張感が、かえって皆の集中力を引き上げていた。

 

 乗客役の中には、ミラやランもいる。

 

 ミラは今日は少し癖のある乗客を演じることになっていた。席が分からない上に荷物が多く、しかも同行者とはぐれて不安を強めているという設定だ。

 

「すみません、この席、どこですか? あと、連れがまだ来てなくて……」

 

 若い乗務員がチケットを受け取る。

 ほんの一瞬だけ緊張が走る。

 だが、彼女はチケットだけを見すぎない。ミラの表情もきちんと見ている。

 

「ご同行の方がまだお見えでないんですね。お席はこちらです。お荷物はこちらでお持ちしますので、まずお座りいただいて大丈夫です」

 

 ミラは内心で小さく驚いた。

 

 “まずお座りいただいて大丈夫です”。

 

 その一言が入るだけで、不安の重心が変わる。

 以前なら、席だけを案内して終わっていたはずだ。

 今はちゃんと、“相手が何に不安を感じているか”を拾おうとしている。

 

 ミラはそのまま乗客役を続けながらも、胸の奥が熱くなった。

 

 変わっている。

 確かに、変わってきている。

 

    ◇

 

 乗り入れが終わり、全乗客の着席までが一つ目の山だった。

 

 ここで崩れると、その後のサービス全体が崩壊する。

 だから皆、通路の流れに神経を尖らせていた。

 

 通路中央で足を止める者が出れば、すぐに周囲が詰まる。

 手荷物の収納が遅れれば、後ろに不満が溜まる。

 高齢者への対応に人数を取られれば、他の客への目配りが薄くなる。

 そうした“綻び”をどれだけ早く、どれだけ小さいうちに潰せるか。

 

 それが、今日のテストの第一関門だった。

 

 ランは今日は付き添いの必要な乗客役に入っていた。歩く速度が遅く、しかも周囲の様子に落ち着かない。普通なら乗務員の気を散らす厄介な客だ。

 

「すみません、ここ、狭いですね」

 

 柔らかな口調でそう言って、わざと通路の途中で少しだけ立ち止まる。

 すると、付き添っていた若い乗務員は慌てて前に回り込むのではなく、半歩だけ横へ位置をずらした。

 

「申し訳ありません。少しだけお身体をこちらに向けていただけますか」

 

 声も落ち着いている。

 そして後方の確認を忘れていない。

 

 ランはその一連の動きに、思わず心の中で頷いた。

 二週間前なら絶対に詰まっていた場面だ。

 今はまだぎこちなさが残るものの、少なくとも“崩れ方”を知っている動きになっている。自分がここで止まると全体が止まると分かっている人間の動きだ。

 

 通路誘導が終わり、着席確認が進む。

 

 若い乗務員たちは、ただ席番号を伝えるだけではなく、視線の向きや荷物の位置、隣席との距離感まで見ていた。まだ完璧ではない。余裕はない。だが、“見ようとしている”のが伝わる。

 

 エリンは壁際で何も言わない。

 表情も変わらない。

 それが逆に、全員の胸をざわつかせる。

 

 何か言ってほしい。

 せめて止めてほしい。

 そう思う瞬間もある。

 

 けれど、誰もその沈黙に負けたくなかった。

 

 見ていろ。

 今日こそ、最後まで崩れずにやる。

 

    ◇

 

 第二関門は、船内サービスだった。

 

 ギャレーに立つ者、通路を回る者、補助に入る者。

 ここでは個人の技術だけでなく、班としての連携が露骨に出る。

 

 若い乗務員の一人が、サービス表を確認しながらトレーを持ち上げる。

 別の乗務員が、それに合わせて通路側へ体を流す。

 誰かが声を出しすぎることなく、しかし必要な合図だけは通る。

 

「温かい飲み物、通ります」

 

「前、少し空けます」

 

「右側、先に入ります」

 

 小さな声だ。

 だが、以前よりずっと明確だった。

 

 乗客役の中には、わざと要求の多い客も混ざっている。

 飲み物の種類を変えたい者。

 追加のブランケットを求める者。

 食事のアレルギー対応を尋ねる者。

 不満を声に出す者。

 

 若い乗務員たちは、その一つひとつに追われるようでいて、以前ほど取り乱さない。

 

「確認いたします。少々お待ちください」

 

 そう言ったあと、本当に確認へ行く者。

 近くの仲間に視線だけで合図を送り、別の動線へ仕事を流せる者。

 足が止まりそうになっても、一拍で立て直せる者。

 

 もちろん、ミスがないわけではない。

 

 トレーの角度が少し甘くなった瞬間もある。

 返答が一手遅れた場面もある。

 乗客役の問いに対して、言葉がやや説明過多になったところもあった。

 

 だが――崩れない。

 

 以前のように、ひとつの綻びから全体が瓦解することがない。

 

 それは、大きな進歩だった。

 

 ミラは今日は途中から補助役としてサービスの流れに入ったが、あえて手を出しすぎないようにしていた。

 若い乗務員たちが自分たちで回していくのを見るためだ。

 

 そして、それができている。

 

 完璧とはとても言えない。

 だが、“任せることが怖い”段階からは、確実に抜けてきている。

 

 ランも、乗客役として彼らの動きを見ながら同じことを思っていた。

 

 皆、顔つきが違う。

 前はエリンの一言に怯え、自分のことでいっぱいだった。

 今は違う。怖さを抱えたままでも、乗客役のこちらを見る余裕が生まれている。

 

 その違いが、何より大きかった。

 

    ◇

 

 そして最後の山場――緊急時対応。

 

 これは通常のサービスよりもさらに難しい。

 平常時には誤魔化せる小さな粗が、非常時には一気に命取りになるからだ。

 

 警報音が鳴る。

 客席エリアの照明が一段落ちる。

 乗客役たちがざわめきを作る。

 

 設定は、軽微な機内トラブルによる一時待機。

 大事故ではない。だが、乗客の不安を押し返せるだけの声と判断が必要になる。

 

 最初に声を上げたのは、若い男性乗務員だった。

 

「皆さま、落ち着いてそのままお待ちください。状況を確認しております」

 

 声量がある。

 通る。

 以前のように裏返らない。

 

 続いて別の女性乗務員が、客席の端から順に視線を走らせる。

 

「体調の悪い方はいらっしゃいませんか。お荷物はそのままで結構です」

 

 乗客役がわざと不安そうに言う。

 

「何が起きてるんですか?」

 

 その問いに、以前なら誰かが説明を増やしすぎて空気を乱していた。

 だが今回は違う。

 

「ただいま確認中です。案内があるまで席を離れずにお待ちください」

 

 簡潔。

 余計なことを言わない。

 それでいて突き放しすぎない。

 

 ミラの胸がまた熱くなる。

 

 ああ、ここまで来たんだ。

 皆、本当に、ここまで来た。

 

 もちろん、完璧ではない。

 緊急時対応の中盤で、一人の若い乗務員が合図の順番を間違えた。

 別の乗務員が、焦って一歩前に出すぎた。

 

 だがその瞬間、隣にいた仲間がさりげなく位置を修正する。

 言葉は交わさない。

 けれど、班として動いていた。

 

 それが何よりも大きかった。

 

 ミラもランも、若い乗務員たちも、皆それぞれの持ち場で思う。

 

 ――見ていろ。

 ――私たちは、ここまで来た。

 ――今日の私たちは、二週間前とは違う。

 

 そして、何より。

 

 ――凄かったと言わせる。

 

 その思いだけが、全員の中で確かな熱を持って燃えていた。

 

    ◇

 

 警報音が止み、緊急時対応のフェーズが終了する。

 

 客席エリアに、静寂が落ちる。

 

 それは、訓練が終わったからではない。

 全員が、一斉にエリンの方を見たからだ。

 

 エリンは壁際から動かない。

 端末を片手に持ち、いつものように、感情の読めない顔をしている。

 

 その表情が、いっそ憎らしいほど変わらない。

 

 だが、乗務員たちはもう逃げなかった。

 この沈黙も含めて、今日のテストなのだと知っている。

 

 ミラは汗ばんだ手を制服の脇でそっと握り、ランは静かに呼吸を整え、若い乗務員たちもそれぞれの位置で立ち尽くす。

 

 誰も崩れない。

 最後まで、自分たちの足で立っている。

 

 その事実だけで、胸の奥に小さな誇りが生まれる。

 

 エリンは、しばらく全員を見ていた。

 

 その視線は、いつもと同じように鋭く、冷静で、容赦がない。

 けれど今日だけは、その沈黙の長さが少し違うように感じられた。

 

 ミラは唇を結ぶ。

 

 どうだ。

 見たか。

 私たちは、ここまでやった。

 

 ランも、若い乗務員たちも、皆が心の中で同じことを言っていた。

 

 見ていろ、と。

 そして今は、見ただろう、と。

 

 誰かが小さく喉を鳴らす。

 制服の襟が汗で少しだけ肌に張りつく。

 シュミレーションルームの空気は、始まる前よりずっと熱くなっていた。

 

 テストは、確かに終わった。

 

 そして、その結果を言葉にするのは――これからだった。

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