サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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 テストが終わった瞬間、シュミレーションルームの中には、奇妙な静けさが落ちた。

 

 警報音も止み、客席を模したエリアの照明も通常の明るさへ戻っている。ついさっきまで張りつめていた空気が、糸の切れたようにふっと緩んだせいだろう。誰もその場で崩れ落ちることはしなかったが、肩から力が抜けるのは隠せなかった。

 

 乗務員たちはそれぞれ自分の持ち場に立ったまま、短く息を吐いた。胸の内では、みな同じようなことを思っていた。

 

 ――やった。

 ――出し切った。

 ――少なくとも、今までで一番できた。

 ――あれだけ言われて、それでもここまでやれた。

 

 ミラもそうだった。

 

 制服の襟元は少しだけ汗ばんでいる。喉も乾いていたし、足にも疲労が溜まっている。けれど不思議と苦しさよりも先に、やりきった感覚があった。完璧とは思わない。ミスがひとつもなかったとは到底言えない。けれど、これまでの自分たちと比べれば、間違いなく一番よかった。

 

 ランも、静かに呼吸を整えていた。

 

 彼女は乱れた前髪を指先で耳にかけながら、客席側を一度見渡した。緊急時対応で少し動線が詰まりかけた場面もあった。サービスでは一人、返答が一拍遅れた乗務員もいた。だが、それでも崩れなかった。あの場で誰か一人が焦れば全体が沈むところを、今日は誰かが支え、誰かが埋め、最後まで流れを切らさなかった。

 

 それは、二週間前の旅行事業部にはなかったものだった。

 

 乗客役を務めていた他部署の人たちが、少しずつ出口へ向かい始める。広報部の職員が「お疲れさまでした」と笑い、総務部の女性たちもほっとしたような顔で肩を回している。財務部の人間も「結構、本格的でしたね」と小声で話していた。

 

 その輪の中へ、エリンが歩いていった。

 

 先ほどまで壁際で評価者として立っていた時と違い、その顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。いつもの、他部署が見て知っているエリンの顔だった。

 

「今日はありがとうございました」

 

 エリンは相手一人ひとりに、丁寧に頭を下げた。

 

「急なお願いだったのに、細かいところまで付き合ってくださって助かりました」

 

「いえいえ、とんでもないです」

 

 総務部の女性が手を振る。

 

「本当に本番みたいでした。こっちまで緊張しちゃって」

 

 広報部の女性もくすりと笑った。

 

「でも、さすが旅行事業部ですね。皆さん、すごく真剣で」

 

「ええ。おかげさまで、よく見えました」

 

 エリンは穏やかに答える。声も表情も、先ほどまで乗務員たちへ向けていた冷たさを少しも感じさせない。

 

 ミラは、その横顔を見ていた。

 

 こういう顔をすることを知っている。

 知っているのに、今の旅行事業部に向ける時には、ここまで柔らかな表情をほとんど見せない。

 

 それが胸の奥に、ちり、と引っかかる。

 

 ランもまた同じ思いなのだろう。隣でごく小さく息を吐く気配がした。

 

 エリンは他部署の面々を出口まで見送り、最後にもう一度、軽く会釈をした。それから扉が閉まり、外の気配が遠ざかる。

 

 シュミレーションルームの中に残ったのは、旅行事業部の乗務員たちだけだった。

 

 その瞬間だった。

 

 エリンの表情から、笑みが消えた。

 

 まるで仮面が落ちるみたいに、自然で、早かった。柔らかかった顔が、一瞬で引き締まる。口元は結ばれ、視線は鋭さを増し、部屋の空気がまた張りつめていく。

 

 乗務員たちは反射的に背筋を伸ばした。

 

 テストが終わった。

 やれることはやった。

 力は出し切った。

 

 だからこそ、ここから先に来るのはきっと評価の言葉だと思っていた。厳しいエリンのことだ、手放しで褒めることはないかもしれない。それでも、少なくとも何かしらの手応えが言葉になるだろうと、皆どこかで信じていた。

 

 それが、次の一言で粉々に砕けた。

 

 エリンは全員を見渡し、一つ息を吐いて、言った。

 

「……なにこれ?」

 

 冷たい声だった。

 

 いつも通りの、容赦のない響きだった。

 

 その一言で、シュミレーションルームの空気が凍る。

 

 さっきまで胸の内を満たしていた達成感が、一瞬で居場所を失った。

 若い乗務員たちの表情が止まる。

 ミラも、ランも、すぐには呼吸ができなかった。

 

 エリンは続ける。

 

「あなたたちは一体、誰のためにやっているの?」

 

 誰も答えられない。

 

 答えられない、というより、質問の意味がすぐには飲み込めなかった。

 

 誰のために。

 そんなの、決まっているはずだ。

 乗務員がやることなど――。

 

「お客様のためじゃないの?」

 

 エリンが淡々と言う。

 

 言葉そのものは当たり前だ。

 当たり前すぎる。

 なのに、その当たり前が今、この場では鋭く突き刺さった。

 

 エリンの視線が、ひとりひとりを射抜くように動いていく。

 

「今日、本番のつもりでって言わなかったかしら?」

 

 その問いに、最初に反応したのはミラだった。

 

「……言ってました」

 

 声が、自分でも驚くほど乾いていた。

 

 エリンは小さく頷く。

 

「ええ、言ったわ」

 

 それから、ほんのわずかに眉を寄せた。

 

「テストとは言った。けれど、それに囚われすぎてる」

 

 沈黙。

 

「全員の意識が、私に向いていた」

 

 その一言が落ちた瞬間、ミラの胸の奥で何かが音を立てて崩れた。

 

 ああ、そういうことか。

 

 理解したくないのに、理解してしまった。

 

 たしかに今日の全員は、“エリンを見返す”ことに燃えていた。

 今日こそはすごかったと言わせる。

 今日こそはこの二週間を無駄じゃなかったと認めさせる。

 そんな思いが、誰の胸にもあった。

 

 それ自体が悪いことではないと、さっきまでは思っていた。

 だが、エリンはそこを見ていた。

 

「お客様を見ていたつもりで、あなたたちは私を見ていた」

 

 エリンの声は静かだ。

 怒鳴っていない。責め立ててもいない。

 それでも、刃のように鋭い。

 

「『ここで止められないか』『ここで違うと言われないか』『ここで減点されないか』。頭の中がそれでいっぱいだった」

 

 若い乗務員の一人が、はっとした顔になる。

 別の一人が唇を噛む。

 エマに似た気質の子は、拳をぎゅっと握りしめていた。

 

 エリンは容赦なく続けた。

 

「だから、動きは整っていても、息が違った」

 

 その表現に、ランの肩がわずかに揺れた。

 “息が違った”。

 それはあまりにも的確な指摘だった。

 

 たしかに今日の皆は、崩れなかった。

 だが、その理由の大半は“お客様の安心を守るため”ではなく、“エリンに崩れた姿を見せたくないから”だったかもしれない。

 

 エリンは一歩前へ出る。

 

「お客様の不安を受け止めるつもりで立つ人間と、評価されることを恐れて立つ人間は、同じ言葉を使っても空気が違う」

 

 誰も顔を上げられない。

 あれほど満ちていた達成感が、今はただひたすら痛い。

 

「今日のあなたたちは、確かに二週間前より動けていた。連携も取れていた。声も、視線も、判断も、前よりずっとまし」

 

 そこで一瞬、言葉が止まる。

 

 “まし”。

 

 その単語が、余計に胸を抉る。

 褒められているわけではない。

 認められているようでいて、根本では否定されている。

 

「でも、本番ではなかった」

 

 エリンが言う。

 

「本番のつもり、だっただけ」

 

 静かな絶望が、部屋のあちこちに落ちていく。

 

 若い乗務員の中には、目を潤ませる者もいた。

 だが、泣くこともできない。

 今ここで泣けば、それすら“自分のため”になると分かってしまうからだ。

 

 ミラは苦しかった。

 

 悔しい。

 腹も立つ。

 せっかくここまでやったのに、と思う気持ちも消えない。

 

 でも、それ以上に――エリンの言っていることが分かってしまうのが、苦しかった。

 

 ランも同じだった。

 

 彼女はエリンの言葉を受けながら、胸の内で静かに自分を振り返っていた。

 乗客役を相手にしている時でさえ、どこかでエリンの視線を意識していた。

 大丈夫か、今の動きで止められないか、あの人は何を見ているのか。

 そんなことを考えながら、“お客様のために”を完全には保てていなかった。

 

 見透かされていた。

 

 しかも、最後の最後まで。

 

 エリンは大きくため息をついた。

 その音さえ、今は冷たく聞こえる。

 

「ラン」

 

 突然、名前を呼ばれたランが背筋を正す。

 

「はい!」

 

 敬語が自然に出る。

 声も、無意識に張ってしまう。

 

 エリンは振り返りざまに言った。

 

「残りの時間で反復練習してなさい」

 

 ランは一瞬だけ言葉を失った。

 

「……はい」

 

 かろうじて返事をする。

 けれど、その声には戸惑いが滲んでいた。

 

 エリンはそのままシュミレーションルームの扉へ向かって歩き出す。

 ミラが思わず一歩前へ出そうとした、その時だった。

 

「あの、エリンさんは?」

 

 ランが問いかけた。

 

 その声は穏やかだったが、わずかに震えていた。

 問いかけずにはいられなかったのだろう。

 このまま、この空気の中に全員を残して、本当に去るつもりなのかと。

 

 エリンは足を止める。

 振り返りはしないまま、言った。

 

「私は用があるから」

 

 それだけ。

 

 そして、ほんの少し間を置いて付け加える。

 

「時間になったら帰っていいから」

 

 あまりにも素っ気ない言い残し方だった。

 

 扉が開く。

 外の廊下の静かな空気が、一瞬だけ流れ込む。

 次の瞬間、エリンの背中がそのまま部屋の外へ消えた。

 

 扉が閉まる。

 

 音は大きくなかった。

 それなのに、やけに重く響いた。

 

    ◇

 

 取り残されたシュミレーションルームの中には、しばらく誰も声を出せなかった。

 

 ほんの少し前まで、ここには達成感があった。

 やった、出し切った、見返した。

 そう思っていた。

 

 それが今は、ただ恥ずかしかった。

 

 誰かが小さく息を吸う。

 誰かが視線を床に落とす。

 若い乗務員の一人は、今にも泣きそうな顔で制服の袖を握っていた。

 別の一人は、呆然と扉の方を見ている。

 

「……そういう、ことか」

 

 ミラがようやく絞り出した。

 

 自分に言い聞かせるような声だった。

 

 ランは数秒沈黙してから、そっと頷く。

 

「うん……」

 

 その声にも、悔しさが滲んでいた。

 

「私たち、エリンさんを見てたんだ」

 

 若い乗務員のひとりが呟いた。

 それはほとんど独り言だったが、全員の胸に落ちた。

 

 そうだ。

 

 お客様のために動いているつもりで、実際にはエリンの評価ばかりを気にしていた。

 もちろん、全くお客様を見ていなかったわけではない。

 だが、意識の中心が違っていた。

 

 だから、空気が違った。

 

 それを、エリンは見抜いていた。

 

 ミラは唇を噛む。

 

 ここまで来ても、まだ足りなかった。

 悔しい。

 それでも、その悔しさはもう、エリンに対する反発だけではなかった。

 

 自分たち自身への悔しさだ。

 

 ランは周囲を見渡した。

 皆、傷ついた顔をしている。

 けれど、ただ折れた顔ではない。

 

 痛い。

 苦しい。

 それでも、心のどこかで全員が分かっている。

 エリンの言葉が、またしても正しかったことを。

 

 だから、余計に悔しい。

 

「……やろうか」

 

 ランが静かに言った。

 

 その声音は柔らかかったが、芯ははっきりしていた。

 

「反復練習」

 

 誰もすぐには返事をしない。

 だが、逃げるような沈黙でもない。

 

 ミラが顔を上げる。

 

「そうね」

 

 短く答えてから、全員の方を見る。

 

「まだ時間はある」

 

 その言葉に、若い乗務員たちの視線が少しずつ戻ってくる。

 

「エリンさんに言われたからじゃない」

 

 ミラは言った。

 

「今のまま、終わるのが悔しいなら、やるしかない」

 

 その一言が、再び小さな火をつけた。

 

 若い乗務員の一人が、ぎゅっと袖を握っていた手を離す。

 

「……やります」

 

 別の一人も、目元を拭って言う。

 

「私も」

 

「もう一回、最初から……やりたいです」

 

 声が少しずつ重なっていく。

 

 ランはそれを聞きながら、穏やかに頷いた。

 

「うん。じゃあ、最初からやろう」

 

 それはエリンのような冷たい命令ではなかった。

 けれど甘やかしでもない。

 

「今度は、本当にお客様を見ることだけを考えて」

 

 その言葉に、皆が頷く。

 

 さっきまでの熱気とは違う。

 もっと静かで、もっと深い火だった。

 

 ミラは呼吸を整え、制服の襟を指先で直した。

 ランは通路側へ歩き、若い乗務員たちは再び位置につく。

 

 扉の向こうにエリンはいない。

 見ている視線もない。

 評価する声もない。

 

 それでも、今度こそ。

 

 今度こそ、お客様のためにやる。

 

 それは、見返すための闘志ではなく、ようやく仕事に向くための覚悟に近かった。

 

 シュミレーションルームの空気は、また静かに張りつめ直していった。

 さっきまでの達成感はもうない。

 代わりにあるのは、痛みと悔しさと、それでも前に進もうとする気持ちだった。

 

 そしてその気持ちは、たぶん今日が終わったあとも、簡単には消えないのだろうと、ミラは思った。

 

 エリンは、やはり冷たかった。

 容赦もなかった。

 けれど、その冷たさの先で、自分たちが今どこを見て立つべきかだけは、ようやく見え始めていた。

 

 

ーーーー

 

 

 その日の訓練が終わった頃には、誰もが心の底から疲れ切っていた。

 

 身体よりも先に、神経が擦り切れていた。

 午後のテストが終わった瞬間、あれだけ張りつめていた糸が一度は緩み、やり切ったという手応えに胸が熱くなった。けれど、その直後にエリンから突きつけられた言葉が、すべてをひっくり返した。

 

 ――なにこれ。

 ――誰のためにやっているの。

 ――全員の意識が私に向いていた。

 

 その言葉は、今も耳の奥に残っていた。

 

 エリンが去ったあと、乗務員たちは残された時間いっぱいまで反復練習をした。最初は重かった空気も、動いているうちに少しずつ変わっていった。今度こそ本当に乗客を見ることだけを意識して、声の置き方を変え、視線の流れを整え、通路の歩幅を合わせた。夕方が近づくころには、足も喉も限界だったが、それでも誰ひとり途中で投げ出さなかった。

 

 だからこそ、だった。

 

 終わったあとに押し寄せてきた感情は、単なる疲労では済まなかった。

 

 ロッカールームの扉が閉まった瞬間、抑え込んでいたものが一気に溢れた。

 

 最初にロッカーの扉を勢いよく閉めたのは、以前も真っ先に怒りを口にしていた若い乗務員だった。金属のぶつかる乾いた音が、狭い空間に鋭く響く。

 

「もう、なんなの!!」

 

 叫びに近い声だった。

 

 着替えの途中だった何人かが、びくりと肩を震わせる。

 だが、今日はもう誰も「落ち着いて」とすぐには言えなかった。

 自分たちの中にも、同じものが煮えたぎっていたからだ。

 

「エリンさんの言うことが間違ってないのは分かるよ! 分かるけど!」

 

 その子はロッカーに片手をついたまま、息を荒くしている。

 

「でも、まず最初に言うことあるでしょ!? お疲れ様とか、よくやったとか、そこじゃないの!? なんで、いきなりあれなの!」

 

 その言葉に、あちこちで「そう」「ほんとに」と小さな同意の声が上がった。

 

 それが火種になった。

 

「そうだよ! あそこまでみんな頑張ったのに!」

 

「確かに意識がエリンさんに向いてたのはそうかもしれないけど、だからって、あんな言い方しなくてもいいじゃない!」

 

「しかも、自分だけ先に帰ってるし……!」

 

 誰かが吐き出したその一言で、ロッカールームの空気が一気に荒れた。

 

「それ! それだよ!」

 

「私たちには『反復練習してなさい』って言って、自分は“用があるから”って帰るの?」

 

「なんで? 今いちばん、説明するべき場面じゃなかった?」

 

「結局、いつも投げっぱなしじゃない!」

 

 言葉が次々と重なっていく。

 涙声の者、怒りで声が裏返る者、静かに言う方がかえって怖いほど冷えた口調の者。

 感情の温度はそれぞれ違うのに、向いている先だけは同じだった。

 

 ミラはロッカーの前で立ち尽くしていた。

 

 止めなければいけない。

 そう頭では分かっている。

 だが、今日はいつものようにすぐ「落ち着いて」とは言えなかった。

 

 自分の中にも、同じ怒りがあったからだ。

 

 エリンの言うことは間違っていない。

 それは痛いほど分かる。

 自分たちが“お客様のため”ではなく、“エリンに認めさせるため”に燃えていたのも事実だ。

 

 けれど、それでも。

 

 あれだけやって、何も言わずに去るのは違うんじゃないか。

 せめて一言くらい、別の言い方があったんじゃないか。

 自分たちをあそこまで追い込んでおいて、最後に何も残さずに背中を向けるなんて、あまりにも冷たすぎる。

 

 そんな思いが、ミラの中にもあった。

 

 ランが先に動いた。

 

「みんな……」

 

 柔らかな声だった。

 だが、それだけでは空気を止められない。

 

「落ち着こう。いったん、深呼吸して」

 

「落ち着けないよ!」

 

 すぐに返ってきたのは、ほとんど悲鳴に近い声だった。

 

「ランさんは優しいからそう言えるんだよ! でも私たち、ずっとずっと言われっぱなしで……今日だって、本当に頑張ったのに……!」

 

 その子の目には涙が浮かんでいた。

 怒っているのに、泣きそうで、悔しそうで、情けないと思っている自分にも腹が立っている。そんな顔だった。

 

 ランはその表情を見て、胸の奥をぎゅっと掴まれるような気持ちになった。

 

「うん……分かるよ」

 

 ランは静かに言う。

 

「私も、今日はつらかった」

 

 その言葉に、一瞬だけ周囲が静まる。

 ランがそう言ったこと自体が、皆にとって意外だったのだろう。

 

「ランさんも……?」

 

「うん」

 

 ランは小さく頷く。

 

「つらかったし、苦しかったし、あの言い方はないよって思った」

 

 その言葉が出た瞬間、今度は別の意味で空気が揺れた。

 ランまで同じことを思っていた。

 その事実が、皆の感情をさらに解き放った。

 

「でしょ!?」

 

「やっぱりそうだよね!?」

 

「なんであんなに冷たいの!?」

 

 言葉がまた一斉に溢れ出す。

 ロッカールームの空気は、もう完全に抑えが利かないところまで来ていた。

 

 ミラはそこでようやく口を開いた。

 

「みんな!」

 

 珍しく、強く張った声だった。

 その一言で、何人かがはっとして口を閉じる。

 

 ミラは大きく息を吸い、吐く。

 胸の内では感情が渦を巻いている。

 それでも、今ここでまとめるのは自分しかいないと思った。

 

「……私も、思ってる」

 

 その一言に、全員の視線が集まる。

 

「今日のエリンさんの言い方が、しんどかったのは事実。あれだけやって、何もかけないまま帰るのはどうなんだって、私も思ってる」

 

 認めた瞬間、空気の熱がさらに上がった。

 だが同時に、皆がミラの次の言葉を待つようになった。

 

「でも」

 

 ミラは続ける。

 

「ここでただ怒って終わっても、何も変わらない」

 

 ロッカールームの中の誰かが、小さく舌打ちした。

 納得できない。分かっていても納得できない。そういう音だった。

 

「分かってるよ」

 

 ミラはそちらを見ずに言う。

 

「分かってる。でも、本当に変えたいなら、ちゃんと話さなきゃダメ」

 

「話したって、あの人聞くかな……」

 

 ぽつりと漏れた不安げな声。

 

 その問いに、ミラは少し黙った。

 

 聞くかどうかは、正直分からない。

 今のエリンが、どこまで自分たちの気持ちを汲むつもりでいるのか、ミラ自身にも見えなくなってきていた。

 

 けれど、だからといって何もしないままでは、このまま本当に誰かが折れる。

 それだけははっきりしていた。

 

 若い乗務員のひとりが、ロッカーにもたれたまま言う。

 

「前にさ……一ヶ月は頑張るって決めたよね」

 

 その言葉に、何人かがうつむいた。

 そうだ。

 ロッカールームで不満が爆発した時、あの時はミラが「一ヶ月は見よう」と言った。

 それでも変わらなければ、自分がエリンに言う、と。

 

 そして今、その約束の期限がまだ来ていないのに、皆の気持ちはもう限界に近いところまで膨れ上がっている。

 

「……もう十分じゃない?」

 

 別の子が絞り出すように言った。

 

「これ以上待つ意味あるのかな」

 

「わたし、もう明日またあの感じで始まるの、無理かもしれない……」

 

 ぽろりと涙が落ちる。

 隣にいた子が慌てて背中をさする。

 

 ランは、その様子を見て目を伏せた。

 

 ここまで来ている。

 このまま「もう少し様子を見よう」は通じない。

 皆を繋ぎ止めるには、はっきりとした行動を示すしかない。

 

 ランはゆっくりと顔を上げ、ミラを見た。

 

「……ミラ」

 

 その呼び方に、ミラはすぐ意味を察した。

 ランは“どうするの”と問うているのではない。

 “決めて”と言っているのだ。

 

 ミラは喉の奥に溜まったものを飲み込んだ。

 正直、怖かった。

 エリンに直接話す。

 今の自分たちの不満を、そのままぶつけるわけではないにせよ、問いただす。

 それがどれだけ勇気のいることか、誰よりも分かっていた。

 

 けれど、もう逃げられない。

 

「……分かった」

 

 ミラは静かに言った。

 

 ロッカールームがしんと静まる。

 皆がミラの言葉だけを待っている。

 

「明日の朝一で、私がエリンさんに話す」

 

 その言葉が落ちた瞬間、空気が大きく揺れた。

 安堵と不安と期待と恐れが、全部混ざった揺れだった。

 

「本当に……?」

 

 涙を拭きながら、若い乗務員が聞く。

 

「本当に」

 

 ミラは頷く。

 

「ちゃんと聞く。どういうつもりなのか。なんでああいうやり方なのか。今日みたいな場面で、どうしてああいう言い方になるのか」

 

「……怒られない?」

 

「怒られるかもね」

 

 ミラは苦笑にもならない表情で言った。

 

「でも、それでも聞かないと、もう先に進めない」

 

 ランが、そっと言葉を添える。

 

「私も一緒に行くよ」

 

 ミラはランを見る。

 

「いいの?」

 

「うん」

 

 ランは柔らかく笑った。疲れてはいるけれど、その笑みには覚悟があった。

 

「私も、ちゃんと聞きたいから。エリンさんが何を見て、何を考えて、ここまでやってるのか」

 

 その一言で、ミラの肩の力が少しだけ抜ける。

 ひとりじゃない。

 それだけで、胸の奥の怖さがほんの少し薄まった。

 

 若い乗務員のひとりが、おずおずと口を開く。

 

「……もし、ちゃんと話しても変わらなかったら?」

 

 ミラは少しだけ考えた。

 その先のことは、本当はまだ決めていない。

 けれど、今は曖昧な言葉では駄目だと思った。

 

「その時は、その時でまた考える」

 

 ミラははっきり言う。

 

「でも、少なくとも黙ったまま耐えるだけ、は終わりにする」

 

 その言葉に、誰かが小さく息を吐いた。

 それはため息ではなく、少しだけ救われたような息だった。

 

 ロッカールームの空気はまだ重い。

 怒りも消えていない。

 悔しさも、疲れも、今にも泣き出しそうな気持ちも、そのままだ。

 

 それでも、さっきまでの“どうしようもない爆発”とは少し違っていた。

 向き先ができたからだ。

 

 エリンに話す。

 明日の朝一で。

 ミラが。

 ランも一緒に。

 

 その約束が、ばらばらに燃え上がっていた感情を、どうにかひとつに束ねた。

 

 若い乗務員のひとりが、小さく言った。

 

「……分かった。じゃあ、明日」

 

「うん」

 

「ミラさん、お願いします」

 

「お願いします」

 

 その言葉が、少しずつ重なっていく。

 誰も手放しで安心してはいない。

 だが、それでも「お願いします」と言えるだけの信頼は、まだミラとランに残っていた。

 

 ランはその声を聞きながら、胸の奥が痛んだ。

 頼られるのは嬉しい。

 けれど、それは同時に、皆がもうそこまで追い詰められているということでもある。

 

 ミラはロッカーに手をつき、一度目を閉じた。

 明日の朝、何をどう切り出すか。

 怒りのままぶつけても意味はない。

 責めるだけでも駄目だ。

 でも、曖昧に濁しても伝わらない。

 

 難しい。

 あまりにも難しい。

 

 それでも、やるしかない。

 

 着替えを終えた者から、少しずつロッカールームを出ていく。

 誰も大きな声を出さない。

 疲れ切った足取りではあるが、それでもさっきまでよりは、ほんの少しだけ前を向いていた。

 

 最後の方まで残っていたミラとランは、ほとんど無人になったロッカールームで並んで立っていた。

 

「……大丈夫?」

 

 ランが聞く。

 声は柔らかい。

 

 ミラは苦く笑う。

 

「全然大丈夫じゃない」

 

「うん。私も」

 

 ランも正直に言った。

 

 少しだけ、二人の間に沈黙が落ちる。

 静かなロッカールームには、遠くの廊下を誰かが歩く足音だけが微かに響いていた。

 

「でも」

 

 ミラはゆっくり言った。

 

「言わなきゃダメだと思う」

 

「そうだね」

 

 ランが頷く。

 

「明日の朝一、行こう」

 

「うん」

 

 短いやり取りだった。

 けれど、その短さの中に必要なものは全部あった。

 

 ロッカールームの灯りは白く、少し冷たい。

 その下で、ミラは深く息を吸った。

 

 明日、何が変わるのかは分からない。

 エリンが何を考えているのかも、まだ見えない。

 けれど、ようやく一歩だけ、自分たちの側から踏み出すことができる。

 

 怒りも、悔しさも、全部そのままでいい。

 それでも、ちゃんと話をする。

 

 そう決めた夜だった。

 

 

ーーーー

 

 

 次の日の朝、スペースホープ旅行事業部のフロアには、何とも言えない空気が漂っていた。

 

 静かだった。

 

 それは、穏やかな静けさではない。

 嵐の前に空気が重く沈み込むような、押し殺された静寂だった。

 

 始業時刻より少し前だというのに、乗務員たちのほとんどがすでに出勤していた。いつもならロッカーから聞こえてくるはずの小さな雑談も、朝の挨拶に混じるような笑い声もない。端末を立ち上げる音、椅子を引く音、紙をめくる音ばかりが、やけに大きく聞こえていた。

 

 誰もが、昨日のロッカールームでのやり取りを胸に抱えたままだった。

 

 エリンに話をする。

 ミラが言う。

 ランも一緒に立つ。

 

 あの時はそれで、どうにか皆の気持ちをまとめた。明日の朝一でちゃんと話すと約束しなければ、誰かが本当に折れていたかもしれなかった。

 

 けれど、いざ“明日”になってみると、その約束の重さが現実として肩にのしかかってくる。

 

 ミラは自席で端末を開いていたが、ほとんど画面を見ていなかった。

 立ち上がった画面の光が目に入っているだけで、文字は頭に入ってこない。胸のあたりがずっと落ち着かず、呼吸も少し浅い。

 

 ドルトムントにいた頃ですら、エリンに対して“話がある”と真正面から切り出したことなどなかった。

 もちろん、意見を言い合ったことはある。けれど、それはあくまで現場の流れの中でのことだった。

 今度は違う。

 

 エリンのやり方に対して、乗務員全員の代表として向き合う。

 それがどれだけ重いことか、ミラは痛いほど分かっていた。

 

 ランも同じだった。

 

 彼女は普段通り、柔らかい表情で自分の席に座っていた。けれど、それが“普段通りに見せている”だけだということを、ミラにはすぐ分かった。指先が時折無意識に端末の端を撫でる。視線が落ち着かず、何度も時計を見てしまう。そういう小さな癖が、ランが緊張している時の特徴だった。

 

 ミラが小さく息を吐くと、ランがこちらを見た。

 

「……眠れた?」

 

 ランが小声で聞く。

 

 ミラは少しだけ笑った。

 

「全然」

 

「私も」

 

 ランも、ほんのわずかに肩をすくめる。

 

「でも、話さないわけにはいかないね」

 

「うん」

 

 短い会話だったが、その一言一言に、覚悟と不安が両方滲んでいた。

 

 周囲の乗務員たちも、二人の様子をそれとなく窺っていた。

 皆、何も言わない。

 けれど、その沈黙の中に、「お願いします」「頼みます」「ちゃんと聞いてきてください」という無数の視線が混ざっているのが分かった。

 

 そして――。

 

 いつも通りの時間に、フロアの入り口の空気が変わった。

 

 エリンが入ってきた。

 

 その姿を見た瞬間、空気がさらに一段沈んだように感じた。

 昨日の今日だ。

 誰もが、彼女の顔色を読み取ろうとしてしまう。

 

 けれど、エリンは何も変わらなかった。

 

 表情は淡々としていて、歩調も一定。

 周囲に漂う重たい気配に気づいていないはずはないのに、それを気にする素振りすら見せない。まるでいつもと何ひとつ変わらない朝であるかのように、自席へ向かい、椅子を引き、腰を下ろした。

 

 それから、手慣れた手つきでPCを起動し、既に机の上に置いてあった資料に目を通し始める。

 

 今日に限っては、誰からも「おはようございます」の声は上がらなかった。

 

 それがどれほど異様なことか、ここにいる全員が分かっていた。

 これまでどれほど空気が悪くても、挨拶だけはしていた。

 けれど今日は違う。

 挨拶をしないというより、できなかった。

 喉の奥に何かがつかえたまま、誰も声を出せなかったのだ。

 

 それでも、エリンは気にする様子を見せなかった。

 

 その無関心さが、かえってフロアの全員の胸をざらつかせる。

 

 ミラは自分の手を膝の上で握った。

 今しかない。

 ここで行かなければ、また一日が始まってしまう。

 

 ランと目が合う。

 ランは小さく頷いた。

 

 二人は立ち上がった。

 

 フロアのあちこちで、その動きに気づいた乗務員たちの呼吸が止まる。

 誰も声を出さない。

 ただ、二人の背中を見つめている。

 

 エリンの机の前まで歩み寄る。

 足音が妙に大きく響いた。

 

 エリンは、気づいているのかいないのか、しばらく資料から目を上げなかった。

 そのことが、ミラにはわずかに痛かった。まるで、自分たちの決意も迷いも全部、まだ“仕事の邪魔をする前の音”でしかないように思えたからだ。

 

 それでも、ここで引くわけにはいかない。

 

「あ、あの、エリンさん」

 

 ミラが声を出した。

 喉が少し引きつっているのが自分でも分かった。

 

 エリンは何も言わずに、資料からほんの少しだけ目を逸らし、ミラとランへ視線を向けた。

 その目は静かだった。冷たいというより、余計なものを挟まない目だ。

 

「なに?」

 

 素っ気ない一言。

 

 それだけで、ミラの心がちくりと痛んだ。

 分かっていたはずなのに、やはりこうして正面からその温度の低さを向けられると、胸の奥が強張る。

 

 けれど、その痛みが、逆にミラの背を押した。

 

 ここで怯んだら、本当に終わる。

 自分だけではない。ここにいる全員の気持ちを背負っているのだ。

 

 ミラは呼吸を整え、声を強くした。

 

「エリンさん、話があります。お時間いただけないですか?」

 

 その言葉は、自分でも驚くほどまっすぐだった。

 フロアのあちこちで、乗務員たちの肩がわずかに上がる。

 

 エリンのまなざしが少しだけ深くなる。

 

「……それは貴方個人の話?」

 

 間を置いて、そう聞いた。

 

「それとも副パーサーとして?」

 

 その問いに、ミラは一瞬だけ息を詰まらせた。

 

 見透かされている。

 

 いや、見透かすというより、確認されているのだろう。

 立場を曖昧にしたまま言葉を発することを、エリンは許さない。個人なのか、役職なのか、それとも別の何かなのか。まずそこを明確にしろ、と言われている。

 

 ミラはほんの少しだけ視線を落とし、それからすぐに顔を上げた。

 

「……どちらも違います」

 

「そう」

 

 エリンは短く返す。

 その反応に温度はない。だが、先を促しているのは分かった。

 

 ミラは喉の奥に引っかかる緊張を無理やり押し下げる。

 

「ここにいる乗務員全員の話です」

 

 はっきりと言い切った。

 

 その瞬間、エリンの視線が変わった。

 

 机の上に置いていた資料を、音も立てずにそっと脇へ置く。

 それからゆっくりと立ち上がり、乗務員全員の方へ視線を向ける。

 

 フロアの空気が、今度こそ本当に止まった。

 

「それは全員の総意なの?」

 

 冷静な声だった。

 けれど、この場にいる誰もが、その問いの重さを理解した。

 

 ここで曖昧な返事をすれば終わる。

 誰か数人が勝手に騒いでいるだけ、と切り捨てられても文句は言えない。

 

 ミラが返事をするよりも先に、ランが一歩前へ出た。

 

「総意です」

 

 声は柔らかかったが、揺れてはいなかった。

 

 その返答に、後ろにいた乗務員たちがそれぞれ息を呑む。

 ランが言った。

 なら、もう引けない。

 

 エリンは、その言葉を聞いたあとで小さく頷いた。

 

「そう」

 

 そして、ほんのわずかに目を細める。

 

「ちょうど良かったわ」

 

 その一言に、今度はミラたちがわずかに息を止める番だった。

 

「私も、貴方たち全員に話があったのよ」

 

 静かな声。

 だが、その響きには先ほどまでとは別の重さがあった。

 

 フロアの乗務員たちが一斉に身構えるのが分かる。

 誰も声を出さない。

 ただ、それぞれが無意識に姿勢を正していた。

 

 エリンは続けた。

 

「ここから歩いて十分のところにモンサンビルがあるでしょう」

 

 モンサンビル。

 

 その名前を聞いて、何人かの乗務員が目を瞬かせた。

 旅行事業部の者なら誰でも知っている。火星コロニーの中央区画にある、大きな複合ビルだ。会議室や貸しホール、講演スペースまで備えた施設で、普段は社外向けの説明会や合同研修にも使われている。

 

「そこに十六時。七階の大ホールに、ここにいる全員で来てちょうだい」

 

 その言葉に、フロア全体がざわつきかけた。

 大ホール。

 乗務員全員。

 十六時。

 

 話の規模が、思っていたより大きい。

 

「乗務員全員ですか?」

 

 ミラが思わず聞き返す。

 

「ええ」

 

 エリンは即座に答えた。

 

「貴方たち、総意の話なんでしょ」

 

 それは、皮肉のようでもあり、確認のようでもあった。

 だが、言葉自体は筋が通っている。全員の話なら、全員の前でするべきだと。

 

「……はい」

 

 ミラは頷くしかなかった。

 

 エリンは今度はフロア全体を見渡した。

 

「皆んなも分かったわね」

 

「はい!」

 

 返事が、今度はきれいに揃った。

 驚くほど自然に出た声だった。おそらく全員が、ここで曖昧にするわけにはいかないと感じたからだろう。

 

 その返事を聞くと、エリンはそれ以上何も言わずに、すぐ次の言葉を口にした。

 

「それじゃあ、ラン」

 

「……はい」

 

 名を呼ばれたランが、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。

 

「時間まで、いつも通りシュミレーションをやっていなさい」

 

 一瞬、フロアの空気が抜けたような感覚があった。

 

 ――今から?

 

 ――この状況で?

 

 誰も口にはしなかったが、皆同じことを思ったはずだ。

 

 ランも、さすがに一拍遅れた。

 

「……分かりました」

 

 それでも、きちんと返事をする。

 

 エリンはミラの方も一瞬だけ見たが、特に何も言わなかった。

 そして、淡々と続ける。

 

「私は用があるから」

 

 その言葉のあと、エリンは机の上の端末と資料を手に取ることもなく、そのまま旅行事業部のフロアを出ていった。

 

 扉が閉まる。

 

 沈黙。

 

 本当に何とも言えない時間が、そこに生まれた。

 

    ◇

 

 数秒間、誰も動けなかった。

 

 ミラもランも、その場に立ったままだった。

 さっきまで“今ここで話をする”つもりでいたのに、突然十六時に場所を移して全員で、と言われた。しかもそのあと、何事もなかったかのように「それまでいつも通り訓練をしていなさい」と命じられた。

 

 頭が追いつかない。

 

 先に反応したのは、後方にいた若い乗務員だった。

 

「……え?」

 

 小さな呟き。

 それが引き金になって、フロアにざわめきが広がる。

 

「モンサンビル?」

 

「七階の大ホールって……」

 

「全員で?」

 

「なんでそんな大ごとみたいに……」

 

 不安と戸惑いが一斉に表へ出る。

 怒りというより、これは完全な混乱だった。

 

 ミラは振り返って皆を見る。

 皆の顔に、同じような戸惑いが浮かんでいる。

 けれど、その中にほんの少しだけ、“ついに来るのかもしれない”という気配も混じっていた。

 

 ランがまず、場を整えるように言った。

 

「……とりあえず、みんな落ち着こうか」

 

 その声は柔らかい。

 けれど、今はそれが必要だった。

 

「私たちも正直、何の話になるのか分からない」

 

 ランは正直に言った。

 

「でも、エリンさんが“全員に話がある”って言った以上、逃げずに行こう」

 

 その言葉に、若い乗務員たちが少しずつ黙っていく。

 

「それまでは……」

 

 ランは一度だけ息を整える。

 

「いつも通り、やろう。たぶん、それしかない」

 

 ミラもようやく気持ちを切り替えるように頷いた。

 

「そうね。今ここで騒いでも、何も分からないまま時間だけ過ぎる」

 

 言いながら、自分でもその通りだと思った。

 さっきまでの決意とは形が変わったが、結局、エリンが向き合う場を用意したのだ。しかも全員を呼ぶ形で。

 

 それが罠なのか、説明なのか、答えなのかは分からない。

 けれど、少なくとも逃げるつもりはないという意思だけは感じた。

 

「じゃあ……やるしかないか」

 

 誰かがぽつりと言う。

 

「訓練、ですよね」

 

「……はい」

 

 返事が弱い。

 それでも皆、どうにか自席へ戻り始める。

 

 シュミレーションルームへ向かう準備をしながら、フロアにはずっと微妙なざわめきが残っていた。

 

 モンサンビル。

 十六時。

 七階の大ホール。

 全員で。

 

 その一つひとつの言葉が、頭の中で何度も反芻される。

 

    ◇

 

 シュミレーションルームへ移動してからも、空気は落ち着かなかった。

 

 いつもなら、訓練に入れば皆それぞれの役割へ集中していく。

 だが今日は違う。

 動いているのに、心のどこかがずっと十六時に向いたままだ。

 

 ミラはそのことを自覚しながら、苦笑いにもならない感情を飲み込んだ。

 今日の午前中だけで、どれだけ気持ちを揺さぶられるのか。

 

 ランが簡単に班分けを指示し、訓練を始める。

 だが、やはり皆どこか上の空だった。

 返事が半拍遅れる。

 足が少し重い。

 視線が定まらない。

 

 それでも、ランは必要以上に責めなかった。

 今は責めても意味がないことを知っているからだ。

 

「大丈夫。動きながら整えよう」

 

 そう声をかけると、若い乗務員たちも少しずつ呼吸を戻していく。

 

 ミラは途中から通路誘導の確認に入り、個別に短く声をかけた。

 

「今のはよかった」

 

「そこ、もう半歩だけ外」

 

「大丈夫。慌てないで」

 

 自分でも少し不思議だった。

 つい昨日まで、エリンの冷たい言葉に引きずられて、自分の声まで強張っていたのに、今は自然と“支える声”が出てくる。

 

 たぶん、それだけ今の皆が不安定だということだろう。

 

 訓練の合間、若い乗務員の一人が小声でミラに聞いた。

 

「ミラさん……十六時、本当に何があるんでしょう」

 

 ミラは一瞬返事に迷った。

 

「分からない」

 

 結局、それが正直な答えだった。

 

「でも、きっとちゃんと聞ける」

 

「エリンさんの、本当の考えをですか?」

 

「……たぶん」

 

 自信満々には言えない。

 それでも、エリンが大ホールに全員を呼んだのだ。何もないまま終わることはないだろう。

 

 ランも別の場所で似たような質問を受けていた。

 

「ランさん、なんか……怒られるんですかね」

 

「どうだろう」

 

 ランは柔らかく首を傾げた。

 

「でも、ここまで来たら怒られるだけじゃ済まない気がする」

 

「それ、怖いです」

 

「うん、怖いね」

 

 ランは正直に頷く。

 その“怖い”を否定しないことが、今は大事だと思った。

 

「でも、怖いままでいいから、ちゃんと行こう」

 

「……はい」

 

 若い乗務員は小さく返事をした。

 

    ◇

 

 時間は、思ったよりもゆっくりで、思ったよりも早かった。

 

 訓練をしている間も、時計を見る回数が増える。

 昼休憩を挟み、午後に入っても、誰も完全には落ち着かなかった。

 

 ミラはそのたびに、自分の中で何度も整理しようとした。

 

 もしあの場で話していたら、何を言うつもりだったか。

 エリンに対して、何を聞きたかったのか。

 乗務員全員の総意とは、結局何だったのか。

 

 “つらい”こと。

 “冷たすぎる”こと。

 “やり方が見えない”こと。

 “置いていかれている気がする”こと。

 それら全部が本当だった。

 

 だが、それだけをぶつけても意味はない。

 エリンがそれに対して、ただ「そう」と返したら終わってしまう。

 

 だからこそ、全員の前で話す必要があるのかもしれない。

 ミラはそんなことまで考え始めていた。

 

 十六時が近づくにつれ、旅行事業部のフロアはまた朝とは違う緊張に包まれていく。

 

 訓練を切り上げ、全員が一度フロアへ戻る。

 制服の乱れを整え、水を飲み、端末を置き、必要なものだけを持つ。

 

 誰も大きな声を出さない。

 誰も笑わない。

 それでも、足を止める者もいない。

 

 ミラは、支度を終えた若い乗務員たちを見渡した。

 

 ここにいる全員が、自分たちの言葉で立ちたいと思っている。

 そのことだけは、はっきり分かった。

 

 ランが隣に来る。

 

「……行こうか」

 

「うん」

 

 短く頷く。

 

 フロアの出口へ向かう足取りは重い。

 けれど、逃げるための重さではなかった。

 

 モンサンビルまで歩いて十分。

 その十分が、やけに長く感じられそうだった。

 

 何が待っているのかは、まだ分からない。

 ただ一つ分かっているのは、エリンがようやく、逃げずに自分たち全員と向き合うつもりだということだ。

 

 それがどんな形になるにせよ――。

 

 旅行事業部の乗務員たちは、今度こそ本当に、全員でその場へ向かおうとしていた。

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