テストが終わった瞬間、シュミレーションルームの中には、奇妙な静けさが落ちた。
警報音も止み、客席を模したエリアの照明も通常の明るさへ戻っている。ついさっきまで張りつめていた空気が、糸の切れたようにふっと緩んだせいだろう。誰もその場で崩れ落ちることはしなかったが、肩から力が抜けるのは隠せなかった。
乗務員たちはそれぞれ自分の持ち場に立ったまま、短く息を吐いた。胸の内では、みな同じようなことを思っていた。
――やった。
――出し切った。
――少なくとも、今までで一番できた。
――あれだけ言われて、それでもここまでやれた。
ミラもそうだった。
制服の襟元は少しだけ汗ばんでいる。喉も乾いていたし、足にも疲労が溜まっている。けれど不思議と苦しさよりも先に、やりきった感覚があった。完璧とは思わない。ミスがひとつもなかったとは到底言えない。けれど、これまでの自分たちと比べれば、間違いなく一番よかった。
ランも、静かに呼吸を整えていた。
彼女は乱れた前髪を指先で耳にかけながら、客席側を一度見渡した。緊急時対応で少し動線が詰まりかけた場面もあった。サービスでは一人、返答が一拍遅れた乗務員もいた。だが、それでも崩れなかった。あの場で誰か一人が焦れば全体が沈むところを、今日は誰かが支え、誰かが埋め、最後まで流れを切らさなかった。
それは、二週間前の旅行事業部にはなかったものだった。
乗客役を務めていた他部署の人たちが、少しずつ出口へ向かい始める。広報部の職員が「お疲れさまでした」と笑い、総務部の女性たちもほっとしたような顔で肩を回している。財務部の人間も「結構、本格的でしたね」と小声で話していた。
その輪の中へ、エリンが歩いていった。
先ほどまで壁際で評価者として立っていた時と違い、その顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。いつもの、他部署が見て知っているエリンの顔だった。
「今日はありがとうございました」
エリンは相手一人ひとりに、丁寧に頭を下げた。
「急なお願いだったのに、細かいところまで付き合ってくださって助かりました」
「いえいえ、とんでもないです」
総務部の女性が手を振る。
「本当に本番みたいでした。こっちまで緊張しちゃって」
広報部の女性もくすりと笑った。
「でも、さすが旅行事業部ですね。皆さん、すごく真剣で」
「ええ。おかげさまで、よく見えました」
エリンは穏やかに答える。声も表情も、先ほどまで乗務員たちへ向けていた冷たさを少しも感じさせない。
ミラは、その横顔を見ていた。
こういう顔をすることを知っている。
知っているのに、今の旅行事業部に向ける時には、ここまで柔らかな表情をほとんど見せない。
それが胸の奥に、ちり、と引っかかる。
ランもまた同じ思いなのだろう。隣でごく小さく息を吐く気配がした。
エリンは他部署の面々を出口まで見送り、最後にもう一度、軽く会釈をした。それから扉が閉まり、外の気配が遠ざかる。
シュミレーションルームの中に残ったのは、旅行事業部の乗務員たちだけだった。
その瞬間だった。
エリンの表情から、笑みが消えた。
まるで仮面が落ちるみたいに、自然で、早かった。柔らかかった顔が、一瞬で引き締まる。口元は結ばれ、視線は鋭さを増し、部屋の空気がまた張りつめていく。
乗務員たちは反射的に背筋を伸ばした。
テストが終わった。
やれることはやった。
力は出し切った。
だからこそ、ここから先に来るのはきっと評価の言葉だと思っていた。厳しいエリンのことだ、手放しで褒めることはないかもしれない。それでも、少なくとも何かしらの手応えが言葉になるだろうと、皆どこかで信じていた。
それが、次の一言で粉々に砕けた。
エリンは全員を見渡し、一つ息を吐いて、言った。
「……なにこれ?」
冷たい声だった。
いつも通りの、容赦のない響きだった。
その一言で、シュミレーションルームの空気が凍る。
さっきまで胸の内を満たしていた達成感が、一瞬で居場所を失った。
若い乗務員たちの表情が止まる。
ミラも、ランも、すぐには呼吸ができなかった。
エリンは続ける。
「あなたたちは一体、誰のためにやっているの?」
誰も答えられない。
答えられない、というより、質問の意味がすぐには飲み込めなかった。
誰のために。
そんなの、決まっているはずだ。
乗務員がやることなど――。
「お客様のためじゃないの?」
エリンが淡々と言う。
言葉そのものは当たり前だ。
当たり前すぎる。
なのに、その当たり前が今、この場では鋭く突き刺さった。
エリンの視線が、ひとりひとりを射抜くように動いていく。
「今日、本番のつもりでって言わなかったかしら?」
その問いに、最初に反応したのはミラだった。
「……言ってました」
声が、自分でも驚くほど乾いていた。
エリンは小さく頷く。
「ええ、言ったわ」
それから、ほんのわずかに眉を寄せた。
「テストとは言った。けれど、それに囚われすぎてる」
沈黙。
「全員の意識が、私に向いていた」
その一言が落ちた瞬間、ミラの胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
ああ、そういうことか。
理解したくないのに、理解してしまった。
たしかに今日の全員は、“エリンを見返す”ことに燃えていた。
今日こそはすごかったと言わせる。
今日こそはこの二週間を無駄じゃなかったと認めさせる。
そんな思いが、誰の胸にもあった。
それ自体が悪いことではないと、さっきまでは思っていた。
だが、エリンはそこを見ていた。
「お客様を見ていたつもりで、あなたたちは私を見ていた」
エリンの声は静かだ。
怒鳴っていない。責め立ててもいない。
それでも、刃のように鋭い。
「『ここで止められないか』『ここで違うと言われないか』『ここで減点されないか』。頭の中がそれでいっぱいだった」
若い乗務員の一人が、はっとした顔になる。
別の一人が唇を噛む。
エマに似た気質の子は、拳をぎゅっと握りしめていた。
エリンは容赦なく続けた。
「だから、動きは整っていても、息が違った」
その表現に、ランの肩がわずかに揺れた。
“息が違った”。
それはあまりにも的確な指摘だった。
たしかに今日の皆は、崩れなかった。
だが、その理由の大半は“お客様の安心を守るため”ではなく、“エリンに崩れた姿を見せたくないから”だったかもしれない。
エリンは一歩前へ出る。
「お客様の不安を受け止めるつもりで立つ人間と、評価されることを恐れて立つ人間は、同じ言葉を使っても空気が違う」
誰も顔を上げられない。
あれほど満ちていた達成感が、今はただひたすら痛い。
「今日のあなたたちは、確かに二週間前より動けていた。連携も取れていた。声も、視線も、判断も、前よりずっとまし」
そこで一瞬、言葉が止まる。
“まし”。
その単語が、余計に胸を抉る。
褒められているわけではない。
認められているようでいて、根本では否定されている。
「でも、本番ではなかった」
エリンが言う。
「本番のつもり、だっただけ」
静かな絶望が、部屋のあちこちに落ちていく。
若い乗務員の中には、目を潤ませる者もいた。
だが、泣くこともできない。
今ここで泣けば、それすら“自分のため”になると分かってしまうからだ。
ミラは苦しかった。
悔しい。
腹も立つ。
せっかくここまでやったのに、と思う気持ちも消えない。
でも、それ以上に――エリンの言っていることが分かってしまうのが、苦しかった。
ランも同じだった。
彼女はエリンの言葉を受けながら、胸の内で静かに自分を振り返っていた。
乗客役を相手にしている時でさえ、どこかでエリンの視線を意識していた。
大丈夫か、今の動きで止められないか、あの人は何を見ているのか。
そんなことを考えながら、“お客様のために”を完全には保てていなかった。
見透かされていた。
しかも、最後の最後まで。
エリンは大きくため息をついた。
その音さえ、今は冷たく聞こえる。
「ラン」
突然、名前を呼ばれたランが背筋を正す。
「はい!」
敬語が自然に出る。
声も、無意識に張ってしまう。
エリンは振り返りざまに言った。
「残りの時間で反復練習してなさい」
ランは一瞬だけ言葉を失った。
「……はい」
かろうじて返事をする。
けれど、その声には戸惑いが滲んでいた。
エリンはそのままシュミレーションルームの扉へ向かって歩き出す。
ミラが思わず一歩前へ出そうとした、その時だった。
「あの、エリンさんは?」
ランが問いかけた。
その声は穏やかだったが、わずかに震えていた。
問いかけずにはいられなかったのだろう。
このまま、この空気の中に全員を残して、本当に去るつもりなのかと。
エリンは足を止める。
振り返りはしないまま、言った。
「私は用があるから」
それだけ。
そして、ほんの少し間を置いて付け加える。
「時間になったら帰っていいから」
あまりにも素っ気ない言い残し方だった。
扉が開く。
外の廊下の静かな空気が、一瞬だけ流れ込む。
次の瞬間、エリンの背中がそのまま部屋の外へ消えた。
扉が閉まる。
音は大きくなかった。
それなのに、やけに重く響いた。
◇
取り残されたシュミレーションルームの中には、しばらく誰も声を出せなかった。
ほんの少し前まで、ここには達成感があった。
やった、出し切った、見返した。
そう思っていた。
それが今は、ただ恥ずかしかった。
誰かが小さく息を吸う。
誰かが視線を床に落とす。
若い乗務員の一人は、今にも泣きそうな顔で制服の袖を握っていた。
別の一人は、呆然と扉の方を見ている。
「……そういう、ことか」
ミラがようやく絞り出した。
自分に言い聞かせるような声だった。
ランは数秒沈黙してから、そっと頷く。
「うん……」
その声にも、悔しさが滲んでいた。
「私たち、エリンさんを見てたんだ」
若い乗務員のひとりが呟いた。
それはほとんど独り言だったが、全員の胸に落ちた。
そうだ。
お客様のために動いているつもりで、実際にはエリンの評価ばかりを気にしていた。
もちろん、全くお客様を見ていなかったわけではない。
だが、意識の中心が違っていた。
だから、空気が違った。
それを、エリンは見抜いていた。
ミラは唇を噛む。
ここまで来ても、まだ足りなかった。
悔しい。
それでも、その悔しさはもう、エリンに対する反発だけではなかった。
自分たち自身への悔しさだ。
ランは周囲を見渡した。
皆、傷ついた顔をしている。
けれど、ただ折れた顔ではない。
痛い。
苦しい。
それでも、心のどこかで全員が分かっている。
エリンの言葉が、またしても正しかったことを。
だから、余計に悔しい。
「……やろうか」
ランが静かに言った。
その声音は柔らかかったが、芯ははっきりしていた。
「反復練習」
誰もすぐには返事をしない。
だが、逃げるような沈黙でもない。
ミラが顔を上げる。
「そうね」
短く答えてから、全員の方を見る。
「まだ時間はある」
その言葉に、若い乗務員たちの視線が少しずつ戻ってくる。
「エリンさんに言われたからじゃない」
ミラは言った。
「今のまま、終わるのが悔しいなら、やるしかない」
その一言が、再び小さな火をつけた。
若い乗務員の一人が、ぎゅっと袖を握っていた手を離す。
「……やります」
別の一人も、目元を拭って言う。
「私も」
「もう一回、最初から……やりたいです」
声が少しずつ重なっていく。
ランはそれを聞きながら、穏やかに頷いた。
「うん。じゃあ、最初からやろう」
それはエリンのような冷たい命令ではなかった。
けれど甘やかしでもない。
「今度は、本当にお客様を見ることだけを考えて」
その言葉に、皆が頷く。
さっきまでの熱気とは違う。
もっと静かで、もっと深い火だった。
ミラは呼吸を整え、制服の襟を指先で直した。
ランは通路側へ歩き、若い乗務員たちは再び位置につく。
扉の向こうにエリンはいない。
見ている視線もない。
評価する声もない。
それでも、今度こそ。
今度こそ、お客様のためにやる。
それは、見返すための闘志ではなく、ようやく仕事に向くための覚悟に近かった。
シュミレーションルームの空気は、また静かに張りつめ直していった。
さっきまでの達成感はもうない。
代わりにあるのは、痛みと悔しさと、それでも前に進もうとする気持ちだった。
そしてその気持ちは、たぶん今日が終わったあとも、簡単には消えないのだろうと、ミラは思った。
エリンは、やはり冷たかった。
容赦もなかった。
けれど、その冷たさの先で、自分たちが今どこを見て立つべきかだけは、ようやく見え始めていた。
ーーーー
その日の訓練が終わった頃には、誰もが心の底から疲れ切っていた。
身体よりも先に、神経が擦り切れていた。
午後のテストが終わった瞬間、あれだけ張りつめていた糸が一度は緩み、やり切ったという手応えに胸が熱くなった。けれど、その直後にエリンから突きつけられた言葉が、すべてをひっくり返した。
――なにこれ。
――誰のためにやっているの。
――全員の意識が私に向いていた。
その言葉は、今も耳の奥に残っていた。
エリンが去ったあと、乗務員たちは残された時間いっぱいまで反復練習をした。最初は重かった空気も、動いているうちに少しずつ変わっていった。今度こそ本当に乗客を見ることだけを意識して、声の置き方を変え、視線の流れを整え、通路の歩幅を合わせた。夕方が近づくころには、足も喉も限界だったが、それでも誰ひとり途中で投げ出さなかった。
だからこそ、だった。
終わったあとに押し寄せてきた感情は、単なる疲労では済まなかった。
ロッカールームの扉が閉まった瞬間、抑え込んでいたものが一気に溢れた。
最初にロッカーの扉を勢いよく閉めたのは、以前も真っ先に怒りを口にしていた若い乗務員だった。金属のぶつかる乾いた音が、狭い空間に鋭く響く。
「もう、なんなの!!」
叫びに近い声だった。
着替えの途中だった何人かが、びくりと肩を震わせる。
だが、今日はもう誰も「落ち着いて」とすぐには言えなかった。
自分たちの中にも、同じものが煮えたぎっていたからだ。
「エリンさんの言うことが間違ってないのは分かるよ! 分かるけど!」
その子はロッカーに片手をついたまま、息を荒くしている。
「でも、まず最初に言うことあるでしょ!? お疲れ様とか、よくやったとか、そこじゃないの!? なんで、いきなりあれなの!」
その言葉に、あちこちで「そう」「ほんとに」と小さな同意の声が上がった。
それが火種になった。
「そうだよ! あそこまでみんな頑張ったのに!」
「確かに意識がエリンさんに向いてたのはそうかもしれないけど、だからって、あんな言い方しなくてもいいじゃない!」
「しかも、自分だけ先に帰ってるし……!」
誰かが吐き出したその一言で、ロッカールームの空気が一気に荒れた。
「それ! それだよ!」
「私たちには『反復練習してなさい』って言って、自分は“用があるから”って帰るの?」
「なんで? 今いちばん、説明するべき場面じゃなかった?」
「結局、いつも投げっぱなしじゃない!」
言葉が次々と重なっていく。
涙声の者、怒りで声が裏返る者、静かに言う方がかえって怖いほど冷えた口調の者。
感情の温度はそれぞれ違うのに、向いている先だけは同じだった。
ミラはロッカーの前で立ち尽くしていた。
止めなければいけない。
そう頭では分かっている。
だが、今日はいつものようにすぐ「落ち着いて」とは言えなかった。
自分の中にも、同じ怒りがあったからだ。
エリンの言うことは間違っていない。
それは痛いほど分かる。
自分たちが“お客様のため”ではなく、“エリンに認めさせるため”に燃えていたのも事実だ。
けれど、それでも。
あれだけやって、何も言わずに去るのは違うんじゃないか。
せめて一言くらい、別の言い方があったんじゃないか。
自分たちをあそこまで追い込んでおいて、最後に何も残さずに背中を向けるなんて、あまりにも冷たすぎる。
そんな思いが、ミラの中にもあった。
ランが先に動いた。
「みんな……」
柔らかな声だった。
だが、それだけでは空気を止められない。
「落ち着こう。いったん、深呼吸して」
「落ち着けないよ!」
すぐに返ってきたのは、ほとんど悲鳴に近い声だった。
「ランさんは優しいからそう言えるんだよ! でも私たち、ずっとずっと言われっぱなしで……今日だって、本当に頑張ったのに……!」
その子の目には涙が浮かんでいた。
怒っているのに、泣きそうで、悔しそうで、情けないと思っている自分にも腹が立っている。そんな顔だった。
ランはその表情を見て、胸の奥をぎゅっと掴まれるような気持ちになった。
「うん……分かるよ」
ランは静かに言う。
「私も、今日はつらかった」
その言葉に、一瞬だけ周囲が静まる。
ランがそう言ったこと自体が、皆にとって意外だったのだろう。
「ランさんも……?」
「うん」
ランは小さく頷く。
「つらかったし、苦しかったし、あの言い方はないよって思った」
その言葉が出た瞬間、今度は別の意味で空気が揺れた。
ランまで同じことを思っていた。
その事実が、皆の感情をさらに解き放った。
「でしょ!?」
「やっぱりそうだよね!?」
「なんであんなに冷たいの!?」
言葉がまた一斉に溢れ出す。
ロッカールームの空気は、もう完全に抑えが利かないところまで来ていた。
ミラはそこでようやく口を開いた。
「みんな!」
珍しく、強く張った声だった。
その一言で、何人かがはっとして口を閉じる。
ミラは大きく息を吸い、吐く。
胸の内では感情が渦を巻いている。
それでも、今ここでまとめるのは自分しかいないと思った。
「……私も、思ってる」
その一言に、全員の視線が集まる。
「今日のエリンさんの言い方が、しんどかったのは事実。あれだけやって、何もかけないまま帰るのはどうなんだって、私も思ってる」
認めた瞬間、空気の熱がさらに上がった。
だが同時に、皆がミラの次の言葉を待つようになった。
「でも」
ミラは続ける。
「ここでただ怒って終わっても、何も変わらない」
ロッカールームの中の誰かが、小さく舌打ちした。
納得できない。分かっていても納得できない。そういう音だった。
「分かってるよ」
ミラはそちらを見ずに言う。
「分かってる。でも、本当に変えたいなら、ちゃんと話さなきゃダメ」
「話したって、あの人聞くかな……」
ぽつりと漏れた不安げな声。
その問いに、ミラは少し黙った。
聞くかどうかは、正直分からない。
今のエリンが、どこまで自分たちの気持ちを汲むつもりでいるのか、ミラ自身にも見えなくなってきていた。
けれど、だからといって何もしないままでは、このまま本当に誰かが折れる。
それだけははっきりしていた。
若い乗務員のひとりが、ロッカーにもたれたまま言う。
「前にさ……一ヶ月は頑張るって決めたよね」
その言葉に、何人かがうつむいた。
そうだ。
ロッカールームで不満が爆発した時、あの時はミラが「一ヶ月は見よう」と言った。
それでも変わらなければ、自分がエリンに言う、と。
そして今、その約束の期限がまだ来ていないのに、皆の気持ちはもう限界に近いところまで膨れ上がっている。
「……もう十分じゃない?」
別の子が絞り出すように言った。
「これ以上待つ意味あるのかな」
「わたし、もう明日またあの感じで始まるの、無理かもしれない……」
ぽろりと涙が落ちる。
隣にいた子が慌てて背中をさする。
ランは、その様子を見て目を伏せた。
ここまで来ている。
このまま「もう少し様子を見よう」は通じない。
皆を繋ぎ止めるには、はっきりとした行動を示すしかない。
ランはゆっくりと顔を上げ、ミラを見た。
「……ミラ」
その呼び方に、ミラはすぐ意味を察した。
ランは“どうするの”と問うているのではない。
“決めて”と言っているのだ。
ミラは喉の奥に溜まったものを飲み込んだ。
正直、怖かった。
エリンに直接話す。
今の自分たちの不満を、そのままぶつけるわけではないにせよ、問いただす。
それがどれだけ勇気のいることか、誰よりも分かっていた。
けれど、もう逃げられない。
「……分かった」
ミラは静かに言った。
ロッカールームがしんと静まる。
皆がミラの言葉だけを待っている。
「明日の朝一で、私がエリンさんに話す」
その言葉が落ちた瞬間、空気が大きく揺れた。
安堵と不安と期待と恐れが、全部混ざった揺れだった。
「本当に……?」
涙を拭きながら、若い乗務員が聞く。
「本当に」
ミラは頷く。
「ちゃんと聞く。どういうつもりなのか。なんでああいうやり方なのか。今日みたいな場面で、どうしてああいう言い方になるのか」
「……怒られない?」
「怒られるかもね」
ミラは苦笑にもならない表情で言った。
「でも、それでも聞かないと、もう先に進めない」
ランが、そっと言葉を添える。
「私も一緒に行くよ」
ミラはランを見る。
「いいの?」
「うん」
ランは柔らかく笑った。疲れてはいるけれど、その笑みには覚悟があった。
「私も、ちゃんと聞きたいから。エリンさんが何を見て、何を考えて、ここまでやってるのか」
その一言で、ミラの肩の力が少しだけ抜ける。
ひとりじゃない。
それだけで、胸の奥の怖さがほんの少し薄まった。
若い乗務員のひとりが、おずおずと口を開く。
「……もし、ちゃんと話しても変わらなかったら?」
ミラは少しだけ考えた。
その先のことは、本当はまだ決めていない。
けれど、今は曖昧な言葉では駄目だと思った。
「その時は、その時でまた考える」
ミラははっきり言う。
「でも、少なくとも黙ったまま耐えるだけ、は終わりにする」
その言葉に、誰かが小さく息を吐いた。
それはため息ではなく、少しだけ救われたような息だった。
ロッカールームの空気はまだ重い。
怒りも消えていない。
悔しさも、疲れも、今にも泣き出しそうな気持ちも、そのままだ。
それでも、さっきまでの“どうしようもない爆発”とは少し違っていた。
向き先ができたからだ。
エリンに話す。
明日の朝一で。
ミラが。
ランも一緒に。
その約束が、ばらばらに燃え上がっていた感情を、どうにかひとつに束ねた。
若い乗務員のひとりが、小さく言った。
「……分かった。じゃあ、明日」
「うん」
「ミラさん、お願いします」
「お願いします」
その言葉が、少しずつ重なっていく。
誰も手放しで安心してはいない。
だが、それでも「お願いします」と言えるだけの信頼は、まだミラとランに残っていた。
ランはその声を聞きながら、胸の奥が痛んだ。
頼られるのは嬉しい。
けれど、それは同時に、皆がもうそこまで追い詰められているということでもある。
ミラはロッカーに手をつき、一度目を閉じた。
明日の朝、何をどう切り出すか。
怒りのままぶつけても意味はない。
責めるだけでも駄目だ。
でも、曖昧に濁しても伝わらない。
難しい。
あまりにも難しい。
それでも、やるしかない。
着替えを終えた者から、少しずつロッカールームを出ていく。
誰も大きな声を出さない。
疲れ切った足取りではあるが、それでもさっきまでよりは、ほんの少しだけ前を向いていた。
最後の方まで残っていたミラとランは、ほとんど無人になったロッカールームで並んで立っていた。
「……大丈夫?」
ランが聞く。
声は柔らかい。
ミラは苦く笑う。
「全然大丈夫じゃない」
「うん。私も」
ランも正直に言った。
少しだけ、二人の間に沈黙が落ちる。
静かなロッカールームには、遠くの廊下を誰かが歩く足音だけが微かに響いていた。
「でも」
ミラはゆっくり言った。
「言わなきゃダメだと思う」
「そうだね」
ランが頷く。
「明日の朝一、行こう」
「うん」
短いやり取りだった。
けれど、その短さの中に必要なものは全部あった。
ロッカールームの灯りは白く、少し冷たい。
その下で、ミラは深く息を吸った。
明日、何が変わるのかは分からない。
エリンが何を考えているのかも、まだ見えない。
けれど、ようやく一歩だけ、自分たちの側から踏み出すことができる。
怒りも、悔しさも、全部そのままでいい。
それでも、ちゃんと話をする。
そう決めた夜だった。
ーーーー
次の日の朝、スペースホープ旅行事業部のフロアには、何とも言えない空気が漂っていた。
静かだった。
それは、穏やかな静けさではない。
嵐の前に空気が重く沈み込むような、押し殺された静寂だった。
始業時刻より少し前だというのに、乗務員たちのほとんどがすでに出勤していた。いつもならロッカーから聞こえてくるはずの小さな雑談も、朝の挨拶に混じるような笑い声もない。端末を立ち上げる音、椅子を引く音、紙をめくる音ばかりが、やけに大きく聞こえていた。
誰もが、昨日のロッカールームでのやり取りを胸に抱えたままだった。
エリンに話をする。
ミラが言う。
ランも一緒に立つ。
あの時はそれで、どうにか皆の気持ちをまとめた。明日の朝一でちゃんと話すと約束しなければ、誰かが本当に折れていたかもしれなかった。
けれど、いざ“明日”になってみると、その約束の重さが現実として肩にのしかかってくる。
ミラは自席で端末を開いていたが、ほとんど画面を見ていなかった。
立ち上がった画面の光が目に入っているだけで、文字は頭に入ってこない。胸のあたりがずっと落ち着かず、呼吸も少し浅い。
ドルトムントにいた頃ですら、エリンに対して“話がある”と真正面から切り出したことなどなかった。
もちろん、意見を言い合ったことはある。けれど、それはあくまで現場の流れの中でのことだった。
今度は違う。
エリンのやり方に対して、乗務員全員の代表として向き合う。
それがどれだけ重いことか、ミラは痛いほど分かっていた。
ランも同じだった。
彼女は普段通り、柔らかい表情で自分の席に座っていた。けれど、それが“普段通りに見せている”だけだということを、ミラにはすぐ分かった。指先が時折無意識に端末の端を撫でる。視線が落ち着かず、何度も時計を見てしまう。そういう小さな癖が、ランが緊張している時の特徴だった。
ミラが小さく息を吐くと、ランがこちらを見た。
「……眠れた?」
ランが小声で聞く。
ミラは少しだけ笑った。
「全然」
「私も」
ランも、ほんのわずかに肩をすくめる。
「でも、話さないわけにはいかないね」
「うん」
短い会話だったが、その一言一言に、覚悟と不安が両方滲んでいた。
周囲の乗務員たちも、二人の様子をそれとなく窺っていた。
皆、何も言わない。
けれど、その沈黙の中に、「お願いします」「頼みます」「ちゃんと聞いてきてください」という無数の視線が混ざっているのが分かった。
そして――。
いつも通りの時間に、フロアの入り口の空気が変わった。
エリンが入ってきた。
その姿を見た瞬間、空気がさらに一段沈んだように感じた。
昨日の今日だ。
誰もが、彼女の顔色を読み取ろうとしてしまう。
けれど、エリンは何も変わらなかった。
表情は淡々としていて、歩調も一定。
周囲に漂う重たい気配に気づいていないはずはないのに、それを気にする素振りすら見せない。まるでいつもと何ひとつ変わらない朝であるかのように、自席へ向かい、椅子を引き、腰を下ろした。
それから、手慣れた手つきでPCを起動し、既に机の上に置いてあった資料に目を通し始める。
今日に限っては、誰からも「おはようございます」の声は上がらなかった。
それがどれほど異様なことか、ここにいる全員が分かっていた。
これまでどれほど空気が悪くても、挨拶だけはしていた。
けれど今日は違う。
挨拶をしないというより、できなかった。
喉の奥に何かがつかえたまま、誰も声を出せなかったのだ。
それでも、エリンは気にする様子を見せなかった。
その無関心さが、かえってフロアの全員の胸をざらつかせる。
ミラは自分の手を膝の上で握った。
今しかない。
ここで行かなければ、また一日が始まってしまう。
ランと目が合う。
ランは小さく頷いた。
二人は立ち上がった。
フロアのあちこちで、その動きに気づいた乗務員たちの呼吸が止まる。
誰も声を出さない。
ただ、二人の背中を見つめている。
エリンの机の前まで歩み寄る。
足音が妙に大きく響いた。
エリンは、気づいているのかいないのか、しばらく資料から目を上げなかった。
そのことが、ミラにはわずかに痛かった。まるで、自分たちの決意も迷いも全部、まだ“仕事の邪魔をする前の音”でしかないように思えたからだ。
それでも、ここで引くわけにはいかない。
「あ、あの、エリンさん」
ミラが声を出した。
喉が少し引きつっているのが自分でも分かった。
エリンは何も言わずに、資料からほんの少しだけ目を逸らし、ミラとランへ視線を向けた。
その目は静かだった。冷たいというより、余計なものを挟まない目だ。
「なに?」
素っ気ない一言。
それだけで、ミラの心がちくりと痛んだ。
分かっていたはずなのに、やはりこうして正面からその温度の低さを向けられると、胸の奥が強張る。
けれど、その痛みが、逆にミラの背を押した。
ここで怯んだら、本当に終わる。
自分だけではない。ここにいる全員の気持ちを背負っているのだ。
ミラは呼吸を整え、声を強くした。
「エリンさん、話があります。お時間いただけないですか?」
その言葉は、自分でも驚くほどまっすぐだった。
フロアのあちこちで、乗務員たちの肩がわずかに上がる。
エリンのまなざしが少しだけ深くなる。
「……それは貴方個人の話?」
間を置いて、そう聞いた。
「それとも副パーサーとして?」
その問いに、ミラは一瞬だけ息を詰まらせた。
見透かされている。
いや、見透かすというより、確認されているのだろう。
立場を曖昧にしたまま言葉を発することを、エリンは許さない。個人なのか、役職なのか、それとも別の何かなのか。まずそこを明確にしろ、と言われている。
ミラはほんの少しだけ視線を落とし、それからすぐに顔を上げた。
「……どちらも違います」
「そう」
エリンは短く返す。
その反応に温度はない。だが、先を促しているのは分かった。
ミラは喉の奥に引っかかる緊張を無理やり押し下げる。
「ここにいる乗務員全員の話です」
はっきりと言い切った。
その瞬間、エリンの視線が変わった。
机の上に置いていた資料を、音も立てずにそっと脇へ置く。
それからゆっくりと立ち上がり、乗務員全員の方へ視線を向ける。
フロアの空気が、今度こそ本当に止まった。
「それは全員の総意なの?」
冷静な声だった。
けれど、この場にいる誰もが、その問いの重さを理解した。
ここで曖昧な返事をすれば終わる。
誰か数人が勝手に騒いでいるだけ、と切り捨てられても文句は言えない。
ミラが返事をするよりも先に、ランが一歩前へ出た。
「総意です」
声は柔らかかったが、揺れてはいなかった。
その返答に、後ろにいた乗務員たちがそれぞれ息を呑む。
ランが言った。
なら、もう引けない。
エリンは、その言葉を聞いたあとで小さく頷いた。
「そう」
そして、ほんのわずかに目を細める。
「ちょうど良かったわ」
その一言に、今度はミラたちがわずかに息を止める番だった。
「私も、貴方たち全員に話があったのよ」
静かな声。
だが、その響きには先ほどまでとは別の重さがあった。
フロアの乗務員たちが一斉に身構えるのが分かる。
誰も声を出さない。
ただ、それぞれが無意識に姿勢を正していた。
エリンは続けた。
「ここから歩いて十分のところにモンサンビルがあるでしょう」
モンサンビル。
その名前を聞いて、何人かの乗務員が目を瞬かせた。
旅行事業部の者なら誰でも知っている。火星コロニーの中央区画にある、大きな複合ビルだ。会議室や貸しホール、講演スペースまで備えた施設で、普段は社外向けの説明会や合同研修にも使われている。
「そこに十六時。七階の大ホールに、ここにいる全員で来てちょうだい」
その言葉に、フロア全体がざわつきかけた。
大ホール。
乗務員全員。
十六時。
話の規模が、思っていたより大きい。
「乗務員全員ですか?」
ミラが思わず聞き返す。
「ええ」
エリンは即座に答えた。
「貴方たち、総意の話なんでしょ」
それは、皮肉のようでもあり、確認のようでもあった。
だが、言葉自体は筋が通っている。全員の話なら、全員の前でするべきだと。
「……はい」
ミラは頷くしかなかった。
エリンは今度はフロア全体を見渡した。
「皆んなも分かったわね」
「はい!」
返事が、今度はきれいに揃った。
驚くほど自然に出た声だった。おそらく全員が、ここで曖昧にするわけにはいかないと感じたからだろう。
その返事を聞くと、エリンはそれ以上何も言わずに、すぐ次の言葉を口にした。
「それじゃあ、ラン」
「……はい」
名を呼ばれたランが、ほんの少しだけ背筋を伸ばす。
「時間まで、いつも通りシュミレーションをやっていなさい」
一瞬、フロアの空気が抜けたような感覚があった。
――今から?
――この状況で?
誰も口にはしなかったが、皆同じことを思ったはずだ。
ランも、さすがに一拍遅れた。
「……分かりました」
それでも、きちんと返事をする。
エリンはミラの方も一瞬だけ見たが、特に何も言わなかった。
そして、淡々と続ける。
「私は用があるから」
その言葉のあと、エリンは机の上の端末と資料を手に取ることもなく、そのまま旅行事業部のフロアを出ていった。
扉が閉まる。
沈黙。
本当に何とも言えない時間が、そこに生まれた。
◇
数秒間、誰も動けなかった。
ミラもランも、その場に立ったままだった。
さっきまで“今ここで話をする”つもりでいたのに、突然十六時に場所を移して全員で、と言われた。しかもそのあと、何事もなかったかのように「それまでいつも通り訓練をしていなさい」と命じられた。
頭が追いつかない。
先に反応したのは、後方にいた若い乗務員だった。
「……え?」
小さな呟き。
それが引き金になって、フロアにざわめきが広がる。
「モンサンビル?」
「七階の大ホールって……」
「全員で?」
「なんでそんな大ごとみたいに……」
不安と戸惑いが一斉に表へ出る。
怒りというより、これは完全な混乱だった。
ミラは振り返って皆を見る。
皆の顔に、同じような戸惑いが浮かんでいる。
けれど、その中にほんの少しだけ、“ついに来るのかもしれない”という気配も混じっていた。
ランがまず、場を整えるように言った。
「……とりあえず、みんな落ち着こうか」
その声は柔らかい。
けれど、今はそれが必要だった。
「私たちも正直、何の話になるのか分からない」
ランは正直に言った。
「でも、エリンさんが“全員に話がある”って言った以上、逃げずに行こう」
その言葉に、若い乗務員たちが少しずつ黙っていく。
「それまでは……」
ランは一度だけ息を整える。
「いつも通り、やろう。たぶん、それしかない」
ミラもようやく気持ちを切り替えるように頷いた。
「そうね。今ここで騒いでも、何も分からないまま時間だけ過ぎる」
言いながら、自分でもその通りだと思った。
さっきまでの決意とは形が変わったが、結局、エリンが向き合う場を用意したのだ。しかも全員を呼ぶ形で。
それが罠なのか、説明なのか、答えなのかは分からない。
けれど、少なくとも逃げるつもりはないという意思だけは感じた。
「じゃあ……やるしかないか」
誰かがぽつりと言う。
「訓練、ですよね」
「……はい」
返事が弱い。
それでも皆、どうにか自席へ戻り始める。
シュミレーションルームへ向かう準備をしながら、フロアにはずっと微妙なざわめきが残っていた。
モンサンビル。
十六時。
七階の大ホール。
全員で。
その一つひとつの言葉が、頭の中で何度も反芻される。
◇
シュミレーションルームへ移動してからも、空気は落ち着かなかった。
いつもなら、訓練に入れば皆それぞれの役割へ集中していく。
だが今日は違う。
動いているのに、心のどこかがずっと十六時に向いたままだ。
ミラはそのことを自覚しながら、苦笑いにもならない感情を飲み込んだ。
今日の午前中だけで、どれだけ気持ちを揺さぶられるのか。
ランが簡単に班分けを指示し、訓練を始める。
だが、やはり皆どこか上の空だった。
返事が半拍遅れる。
足が少し重い。
視線が定まらない。
それでも、ランは必要以上に責めなかった。
今は責めても意味がないことを知っているからだ。
「大丈夫。動きながら整えよう」
そう声をかけると、若い乗務員たちも少しずつ呼吸を戻していく。
ミラは途中から通路誘導の確認に入り、個別に短く声をかけた。
「今のはよかった」
「そこ、もう半歩だけ外」
「大丈夫。慌てないで」
自分でも少し不思議だった。
つい昨日まで、エリンの冷たい言葉に引きずられて、自分の声まで強張っていたのに、今は自然と“支える声”が出てくる。
たぶん、それだけ今の皆が不安定だということだろう。
訓練の合間、若い乗務員の一人が小声でミラに聞いた。
「ミラさん……十六時、本当に何があるんでしょう」
ミラは一瞬返事に迷った。
「分からない」
結局、それが正直な答えだった。
「でも、きっとちゃんと聞ける」
「エリンさんの、本当の考えをですか?」
「……たぶん」
自信満々には言えない。
それでも、エリンが大ホールに全員を呼んだのだ。何もないまま終わることはないだろう。
ランも別の場所で似たような質問を受けていた。
「ランさん、なんか……怒られるんですかね」
「どうだろう」
ランは柔らかく首を傾げた。
「でも、ここまで来たら怒られるだけじゃ済まない気がする」
「それ、怖いです」
「うん、怖いね」
ランは正直に頷く。
その“怖い”を否定しないことが、今は大事だと思った。
「でも、怖いままでいいから、ちゃんと行こう」
「……はい」
若い乗務員は小さく返事をした。
◇
時間は、思ったよりもゆっくりで、思ったよりも早かった。
訓練をしている間も、時計を見る回数が増える。
昼休憩を挟み、午後に入っても、誰も完全には落ち着かなかった。
ミラはそのたびに、自分の中で何度も整理しようとした。
もしあの場で話していたら、何を言うつもりだったか。
エリンに対して、何を聞きたかったのか。
乗務員全員の総意とは、結局何だったのか。
“つらい”こと。
“冷たすぎる”こと。
“やり方が見えない”こと。
“置いていかれている気がする”こと。
それら全部が本当だった。
だが、それだけをぶつけても意味はない。
エリンがそれに対して、ただ「そう」と返したら終わってしまう。
だからこそ、全員の前で話す必要があるのかもしれない。
ミラはそんなことまで考え始めていた。
十六時が近づくにつれ、旅行事業部のフロアはまた朝とは違う緊張に包まれていく。
訓練を切り上げ、全員が一度フロアへ戻る。
制服の乱れを整え、水を飲み、端末を置き、必要なものだけを持つ。
誰も大きな声を出さない。
誰も笑わない。
それでも、足を止める者もいない。
ミラは、支度を終えた若い乗務員たちを見渡した。
ここにいる全員が、自分たちの言葉で立ちたいと思っている。
そのことだけは、はっきり分かった。
ランが隣に来る。
「……行こうか」
「うん」
短く頷く。
フロアの出口へ向かう足取りは重い。
けれど、逃げるための重さではなかった。
モンサンビルまで歩いて十分。
その十分が、やけに長く感じられそうだった。
何が待っているのかは、まだ分からない。
ただ一つ分かっているのは、エリンがようやく、逃げずに自分たち全員と向き合うつもりだということだ。
それがどんな形になるにせよ――。
旅行事業部の乗務員たちは、今度こそ本当に、全員でその場へ向かおうとしていた。