サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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お疲れ様

 モンサンビルへ向かう道のりは、たった十分のはずなのに、やけに長く感じられた。

 

 火星コロニーの人工空は、夕刻らしい淡い色合いに切り替わっている。建物の壁面に反射する光はどこか柔らかく、行き交う人々の足取りも昼間より少しだけ緩んでいた。けれど、旅行事業部の乗務員たちだけは違った。誰もが口数少なく、同じ方向へ足を運んでいるのに、それぞれが別々の不安を胸に抱えているのが見て取れた。

 

 モンサンビルは中央区画でも目立つ建物だった。ガラスと金属で構成された近未来的な外観は、昼間は無機質に見えるが、夜に近づくにつれて内側の光が透け、どこか人を飲み込むような雰囲気を纏う。入口の自動ドアが開き、冷ややかな空調が頬を撫でた瞬間、ミラは無意識に背筋を伸ばした。

 

 ここで、何があるのか。

 

 エリンは十六時、七階の大ホールに全員で来いと言った。それ以上の説明はなかった。だからこそ、想像だけが先に膨らんでいく。

 

 エレベーターの前に集まると、誰もが自然とひとつの塊になる。扉が開き、全員が無言のまま乗り込んだ。狭い箱の中には、制服のこすれる音と、誰かが喉を鳴らす小さな音だけが残る。

 

 階数表示がひとつずつ上がっていくのを見つめながら、誰かがぽつりと呟いた。

 

「……もしかして、全員、必要ないって言われたりして」

 

 その声は冗談めかしてもいなかったし、わざと不安を煽るようなものでもなかった。ただ胸の奥に巣食っていた最悪の想像が、ふと口から漏れてしまっただけの声だった。

 

 その瞬間、エレベーターの中の空気がさらに重くなる。

 

 誰もすぐには否定できなかった。

 

 だって、それぐらいのことをエリンなら言うかもしれない、と思ってしまっていたからだ。あの冷たさで、あの容赦のなさで、ここまで皆を追い詰めた人が、最後に「今のあなたたちに現場は任せられない」と告げても、筋は通ってしまう。通ってしまうからこそ、怖い。

 

 ミラは、その言葉にすぐには返せなかった。

 ランも小さく視線を落とした。

 

 けれど、沈黙をそのままにすることもできなかった。

 

「……ないとは言えないけど」

 

 ランが柔らかい声で言った。

 その一言に、皆の肩がわずかに強張る。

 

「でも、もしそういう話なら、エリンさんはもっと早く切ってると思う」

 

 ランは続ける。

 

「わざわざ全員をここまで呼んで、ちゃんと話すって言ったんだから。少なくとも、何かをきちんと伝えるつもりではあると思う」

 

 その言葉は慰めではない。断言でもない。

 けれど、今の皆にはそれが必要だった。

 

 ミラも、呼吸を整えてから言う。

 

「そうね。最悪を考えるのは自由だけど、ここまで来た以上は、聞くしかない」

 

 誰かが小さく「うん」と返した。

 その返事は頼りなかったが、少なくとも空気が崩れるのは防げた。

 

 エレベーターが七階に到着する。

 

 静かな電子音とともに扉が開いた。

 

 出た先の廊下は広く、足音がよく響いた。案内表示に従って進むと、すぐに大ホールの扉が見えた。重厚な木目調の扉で、普段の会議室とは明らかに違う。ここがただの打ち合わせの場ではないことを、それだけで感じさせる。

 

 全員がその前で一瞬、足を止めた。

 

 誰かの呼吸が浅くなる。

 誰かがそっと拳を握る。

 ミラは扉の取っ手に手をかける直前、自分の鼓動がやけに大きく聞こえるのを感じていた。

 

 そして、重い扉を押し開けた。

 

 次の瞬間、全員が立ち尽くした。

 

 ホールの中には、整然と椅子とテーブルが並べられていた。

 しかもただ並んでいるのではない。白いクロスが丁寧に掛けられ、花こそないが、照明の色味まで考えられた、まるで小さなパーティー会場のような空間だった。

 

 そして何より、テーブルの上だ。

 

 綺麗な料理が並んでいる。

 

 彩りのいい前菜。きらりと艶のあるソースがかかった肉料理。小さく盛り付けられた温菜。焼きたてらしい香りのパン。ガラスの器に入った鮮やかなサラダ。どれも社食や簡易なケータリングの域を明らかに超えていた。見た瞬間に“ちゃんとした料理”だと分かる。皿の白さ、盛り付けの高さ、香りの層、その全部が普段の旅行事業部の空気とあまりにかけ離れていた。

 

「何これ……」

 

 ミラが、ぽつりと呟いた。

 

 その声は、自分でも信じられないものを見た時の、それそのままだった。

 

 他の乗務員たちも、呆気に取られたまま入口で立ち尽くしていた。誰もすぐには中へ入れない。ここが自分たちのために用意された場所だと、頭では理解しても心が追いつかない。

 

 その時だった。

 

「皆んな、どうしたの?」

 

 ホールの奥から、優しい声が聞こえた。

 

 ミラはびくりと肩を揺らし、反射的にそちらを見た。

 

「え、エリンさん!?」

 

 驚いた声が、自分でも思った以上に大きく出た。

 

 そこにいたのはエリンだった。

 けれど、旅行事業部で見るエリンではなかった。

 

 厳しさも、冷たさも、刃のような視線もない。

 そこに立っていたエリンは、柔らかな笑みを浮かべていた。肩の力が抜けていて、声の温度も穏やかで、あのシュミレーションルームで見せる表情とはまるで違う。

 

 いや、違うのではない。

 ミラとランにはすぐに分かった。

 

 ――これが本来のエリンだ。

 

 ドルトムントの頃、厳しい現場の中にも必ずあった、あの人のやわらかさ。必要な時にはきっぱりと切るのに、それ以外では誰よりも丁寧に人を見る、あのエリン。

 

「ほら、早く中に入って」

 

 エリンが優しい声で促すと、皆の足がようやく動いた。

 

 誘われるまま、恐る恐る中へ進む。

 椅子の位置まできちんと調整されていて、テーブルの並びも全員の顔が見えるように配置されている。エリンがこの場を“ただの食事会”としてではなく、“全員とちゃんと向き合う場”として整えたのだと、それだけで伝わってくる。

 

 それぞれが席に座っていくのを見届けてから、エリンはホールの中央あたりへ出た。

 その顔には、シュミレーションの時とは違う、やわらかな笑みが浮かんでいる。

 

「それじゃあ、皆んなの話を聞こうか」

 

 その言葉に、一瞬、全員がぽかんとした。

 

 話をする。

 向き合う。

 そのつもりで来たはずなのに、目の前の光景があまりにも予想外すぎて、何から口にしていいのか分からない。

 

 先に声を出したのはランだった。

 

「い、いや、その前に、これは何ですか!?」

 

 いつも穏やかなランにしては珍しく、声が少し上ずっていた。

 無理もない。この場の全員が同じ気持ちだった。

 

 エリンはきょとんと首を傾げる。

 

「え?」

 

 本当に不思議そうな顔だった。

 

「何って、何が?」

 

「いや、私たちに話があるって、ここに呼ばれたんですよね」

 

 ランがさらに言うと、エリンは一拍置いてから、くすっと笑った。

 

「そうだけど、見て分からない?」

 

 その言い方に、皆がまた呆気に取られる。

 

「これは私から」

 

 エリンはそう言って、並べられた料理を手で示した。

 

「ささやかだけど、一ヶ月、皆んなが頑張ったご褒美よ」

 

「ええ!?」

 

 全員が口を揃えて驚いた。

 

 それは本当に、見事なくらい綺麗に重なった声だった。

 

「そんなに驚くこと?」

 

 エリンがクスッと笑う。

 

「驚きますよ!」

 

 今度はミラが思わず言い返していた。

 

「だってエリンさん、人が変わったようにすごく厳しくて、冷たくて、怖かったですもん!!」

 

 その言葉は、ここ数週間ずっと胸の奥に溜めていたものだった。

 責めるつもりで言ったというより、やっと外に出た本音だった。

 

 エリンは一瞬だけ黙った。

 

 それから、ほんの少し目を伏せ、またクスッと笑う。

 

「……ごめんね」

 

 その謝り方があまりにも自然で、皆の方が一拍遅れてしまう。

 

 ランが、ようやく表情を引き締めた。

 

「でも、ミラの言う通りですよ。どうしてあんな態度を取ったんですか?」

 

 まっすぐな問いだった。

 ここにいる全員が知りたかったことを、そのまま口にした形だ。

 

 エリンは、その問いを真正面から受け止めた。

 

「それは」

 

 少しだけ間を置く。

 

「乗務員全員が、自信と誇りを失っていたからよ」

 

「自信と誇り?」

 

 ミラが聞き返す。

 

「ええ」

 

 エリンは静かに頷いた。

 

「まだまだ未熟者の私だけど、いつの間にか自分なりの物差しができたの。倒産寸前の会社では、大企業でも小さな会社でも、同じ現象が起きる」

 

 乗務員たちは固唾を呑んでその言葉を聞く。

 

「挨拶です」

 

 その一言に、何人もの顔色が変わった。

 

「倒産する会社は、社外や社内の人に挨拶をしなくなっていく。会社に対する自信と誇りがなくなるからよ」

 

 その言葉は、あまりにも的確だった。

 

 旅行事業部の乗務員たちは、一斉に過去の自分たちを思い出した。

 エリンが来る前のフロア。

 閑散として、どこか投げやりで、誰も大きな声で挨拶をしなかった日々。

 広報も総務も財務も、それぞれが自分の仕事だけを見て、会社全体の空気は死にかけていた。

 

 もちろん、旅行事業部だけの問題ではなかった。

 けれど、旅行事業部もまた、その空気に完全に飲まれていた。

 

「もちろん、旅行事業部に限ってのことじゃないけどね」

 

 エリンが言う。

 

 その補足に、何人かが小さく頷いた。

 

 そこで、乗務員の一人――クミコが、思わず口を開いた。

 

「じゃあ、どうして私たちだけに厳しく……」

 

 言ってから、あっと口元を押さえる。

 自分がこんなふうに問い返すとは思わなかったのだろう。

 

 だがエリンは気にした様子もなく、すぐに答えた。

 

「それは、ここが旅行専門の会社だから」

 

 全員が耳を澄ませる。

 

「旅行専門の会社の評価は、総務部や広報部よりも、乗務員の質が問われる」

 

 エリンの声は穏やかだが、その言葉には重みがあった。

 

「旅行の最初と最後を締めくくるのは、私たち乗務員よ。これからの旅行を楽しむかどうかも、旅の余韻に浸れるかどうかも、その空間を整えられるのは私たちなの」

 

 その言葉に、皆が胸の内で“なるほど”と思った。

 

 総務がどれだけ備品を整えても。

 広報がどれだけ綺麗な広告を打っても。

 財務が帳簿を整えても。

 実際にお客様が触れるのは、宇宙船の中で出会う乗務員だ。

 

 その最前線が崩れていれば、旅行会社としての信頼は戻らない。

 

「もちろん、それだけじゃないわよ」

 

 エリンが言う。

 

「宇宙船という暗闇の中で船内を整えるには、連携や個人の実力以前に、信頼関係が必要なの」

 

「……信頼」

 

 クミコが小さく呟く。

 

「そう」

 

 エリンは頷いた。

 

「だから皆んなに冷たく当たって、不満を募らせるようにしたの」

 

 その言葉に、場がざわつく。

 

 ミラが思わず聞く。

 

「でも、どうして……」

 

 エリンは、そこで優しく微笑んだ。

 

「ちゃんと副パーサーが皆んなを纏められるか、それを見たかったのよ」

 

 ミラは息を呑んだ。

 

 ランも、目を見開く。

 

「ミラもランも、乗務員の不満をちゃんと抑えて、そして皆んなを代表して私に話をしに来た」

 

 エリンの視線が、二人に向く。

 

「副パーサーとして、しっかり出来てたわよ」

 

 その言葉が、ミラの胸の奥にまっすぐ刺さった。

 

 それは、ここ数週間ずっと張りつめていたものを一気にほどく一言だった。

 ミラは自分でも止められないほど、ぽろぽろと涙を零し始めた。

 

「ミラ、泣かないの」

 

 エリンが少し困ったように笑う。

 

「だって、だって……エリンさん、人が変わったように見えて……」

 

 ミラは涙声のまま言った。

 本当に、そのことが怖かったのだ。

 大好きで、尊敬して、追いかけてきた人が、まるで別人のように冷たくなってしまったように見えていたから。

 

 エリンは、ほんの少しだけ表情を和らげた。

 

「ふふっ。皆んなも辛かっただろうけど、私も辛かったのよ」

 

 その声音には、今まで見せなかった疲れが混じっていた。

 

「嫌われ役を演じるのは」

 

 その一言に、何人もの乗務員がはっとした顔になる。

 自分たちだけが一方的に傷ついていたのではなく、エリンもまた、それを分かった上で演じていたのだ。

 

「でも」

 

 エリンはそこで少しだけ口元を引き締める。

 

「私が言ったこと、指摘したことは間違ってないからね」

 

 柔らかく言うのに、そこだけは譲らない。

 その切り替えが、やっぱりエリンらしかった。

 

 ミラは涙を拭きながら、思わず笑ってしまう。

 

「……怖いです」

 

「怖くていいのよ」

 

 エリンも笑った。

 

 それから、ミラとランだけではなく、乗務員全員を見渡す。

 

「皆んなも、今回のテストでは、一ヶ月前と比べたら本当に良くなった」

 

 その言葉に、あちこちから声が上がる。

 

「本当ですか!?」

 

「え、ほんとに!?」

 

「やった……!」

 

 それは、初めてエリンから“褒められた”に近い言葉だった。

 皆、その一言が欲しくて欲しくて仕方なかったのだ。

 たったそれだけで、顔が一気に明るくなる。

 

「もちろん、意識が私に向いていたことは駄目だけど」

 

 エリンがすぐに釘を刺す。

 

「あー……」

 

 何人かが肩を落とすが、その空気すら少し明るい。

 

「だけど」

 

 エリンは続けた。

 

「私に向けられた気迫や闘志は、しっかりと伝わったわよ」

 

 その声はやわらかかった。

 

「ありがとう」

 

 そして、エリンは全員に向かって頭を下げた。

 

 その姿に、乗務員たちは一瞬息を止める。

 頭を下げられるとは思っていなかった。

 しかも“ありがとう”と言われるとは。

 

 ランが静かに立ち上がるような気持ちで言った。

 

「エリンさん、これからもよろしくお願いします」

 

「ええ」

 

 エリンは頷いた。

 

「それじゃあ、皆んなで食べましょう」

 

 そう言って、テーブルの方へ手を向ける。

 

「今日はこのビルの十五階にあるエスコフィから、特別に料理を作ってもらってるから」

 

「ええ!? あの高級レストランの!?」

 

 今度は本気の驚きが爆発した。

 

 エスコフィ。

 火星コロニーでも評判の高級レストランで、ちょっとした記念日や役員クラスの接待でもなければ滅多に縁がない場所だ。料理好きの者なら名前だけは聞いたことがあるし、そうでなくても“高い”“美味しい”“予約が取りにくい”の三拍子が揃った店として知られている。

 

「ええ」

 

 エリンはどこか楽しそうに頷く。

 

「さぁ、楽しみましょう」

 

 その一言で、張りつめていた空気がようやくほどけた。

 

 最初は遠慮がちだった乗務員たちも、少しずつ料理へ手を伸ばし始める。

 皿を取る手つきはまだ慎重で、会話も探り探りだ。だが、それでも一口食べた瞬間にあちこちから感嘆の声が漏れる。

 

「おいしい……!」

 

「これ、すごい……」

 

「ソースが全然違う……」

 

 エリンはそんな様子を見て、やっと本当に安心したように笑っていた。

 

 ミラはその横顔を見ながら、胸の奥にあった重たい塊がすっと溶けていくのを感じた。

 

 やっぱり、この人はエリンだ。

 厳しくて、怖くて、でも最後までちゃんと見ている。

 嫌われ役を演じてでも、皆を立たせようとする。

 そういう人だ。

 

 ランも、柔らかな表情でグラスを手に取る。

 

「本当に……長かったね」

 

 小さく言うと、ミラは笑った。

 

「うん。でも、来てよかった」

 

「うん」

 

 その短いやり取りの向こうで、若い乗務員たちの笑い声が少しずつ増えていく。

 さっきまで怯えていたのが嘘みたいに、皆の顔が明るくなっていく。

 

 それを見ながら、エリンは静かに思った。

 

 この一ヶ月は、誰にとっても楽ではなかった。

 でも、必要だった。

 ただ優しく手を引くだけでは立ち上がれなかったものが、今日ようやく、自分たちの足で立とうとしている。

 

 宇宙船の中で空間を整える仕事は、技術だけでは足りない。

 人を信じ、人とぶつかり、人と繋がる覚悟が要る。

 今日、ここにいる旅行事業部の乗務員たちは、その入口にようやく立てたのだ。

 

 ホールには料理の香りと、安堵の笑い声が満ちていく。

 重かった一ヶ月の終わりにようやく訪れた、温かい夜の始まりだった。

 

 

ーーーー

 

 

 その日を境に、エリンのシュミレーションの指導には、確かに“元のエリン”が戻っていた。

 

 翌朝、旅行事業部のフロアに入ってきたエリンは、いつも通りに静かで、姿勢も変わらず真っ直ぐだった。だが、前までのような張り詰めた冷たさはなかった。挨拶をする乗務員たちに対して、ごく自然に「おはよう」と返し、端末を立ち上げる前に一人ひとりの顔を見て、小さく頷く。その僅かな違いだけで、フロアの空気は目に見えて和らいだ。

 

 前日、モンサンビルの大ホールで話したことが、皆の中でちゃんと消化されていたのも大きかったのだろう。エリンがなぜあそこまで冷たく、厳しく、嫌われ役に徹していたのか。その理由を知った今となっては、あの一ヶ月の重みも、痛みも、まるごと意味を持ち始めている。

 

 だが――それと、訓練が楽になるかどうかは、まったく別の話だった。

 

 エリンは優しくなった。

 柔らかくなった。

 丁寧さも戻った。

 

 けれど、厳しさだけは一切、変わらなかった。

 

 むしろ、別の意味で“前より手強くなった”と感じる者すらいた。

 

    ◇

 

「じゃあ、今日は歩き方から始めましょうか」

 

 そう言って、エリンはシュミレーションルームの中央へ歩み出た。

 

 乗務員たちは思わず顔を見合わせる。

 前日も歩き方だった。

 一昨日も、確か歩き方だった。

 その前も、そのまた前も――。

 

 だがエリンはそんな空気をまるで気にせず、穏やかに続ける。

 

「まず、私がやるから見て」

 

 前までとはそこが違った。

 

 冷たく“違う”“遅い”“雑”と言い切って終わりではない。必ず自分の身体で、こうやるのだと見せる。しかも、それが見惚れるほど綺麗だった。

 

 エリンは姿勢を整え、背筋を伸ばし、肩の力を抜いた。

 たったそれだけなのに、空気が変わる。

 

「これが、ただ歩く人の姿じゃなくて、“船内を預かる人間”の立ち方」

 

 そう言って、一歩、また一歩と歩き出す。

 

 音が、ほとんどしない。

 かといって、忍び足のようでもない。

 膝から下だけで動いているのではなく、重心ごと滑らかに前へ流れていく。

 頭の位置がぶれず、視線は遠すぎず近すぎず、通路の奥と手前、両方を自然に捉えている。

 

 歩いているだけなのに、“船内の空気を乱さない”という意味が、ひどくよく分かる。

 

「分かる?」

 

 エリンが振り返る。

 

 ククルなら目を輝かせて「すごいです!」と声を上げそうなところだが、今ここにいるのはスペースホープの若い乗務員たちだ。皆、真剣な顔で見入っていた。ミラとランも、結局は何度見ても見惚れてしまう。

 

「歩き方ってね、性格も、気分も、疲れも、全部出るの」

 

 エリンは言う。

 

「焦ってる人は速くなる。自信のない人は足元を見る。苛立ってる人は踵から強く鳴らす。気持ちが沈んでる人は肩が落ちる。ね?」

 

 そこで一人の若い乗務員に視線を向けた。

 

「クミコ、ちょっと歩いてみて」

 

「え、わ、私ですか?」

 

「そう、お願い」

 

 優しい言い方だ。

 だが、逃げられないことも皆もう知っている。

 

 クミコは緊張した顔で通路の端に立ち、そこからまっすぐ歩き始めた。

 足運び自体は悪くない。以前よりもずっと整っている。

 だが、三歩目でエリンが止めた。

 

「うん、今の三歩で分かることがある」

 

 クミコがびくりとする。

 前なら、その一瞬の強張りにエリンはすぐ切り込んだだろう。

 だが今は、声の温度が違う。

 

「まず、綺麗に歩こうとしてるのは伝わる。そこはいい。ちゃんと意識してる証拠だから」

 

 クミコの顔に、ほんの少しだけ安堵が浮かぶ。

 

「でも、綺麗に見せようとしすぎてる」

 

「……え?」

 

「足を揃えようとしてるでしょ。でも、それだと“床の上を歩いてる”だけになるの。船内を整える人の歩き方じゃなくなる」

 

 そう言って、エリンはクミコの隣に立った。

 

「いい? 一緒にやろう」

 

 クミコがこくりと頷く。

 

「まず、胸を少しだけ開いて。肩は下げるけど、落とさない。顎を上げすぎない。目線は一点じゃなくて、面で見る感じ」

 

 エリンが後ろから軽く肩の位置を直し、顎に手を添えて視線の向きを整える。

 それは厳しい指導でありながら、どこか驚くほど丁寧だった。

 

「じゃあ、一歩だけ」

 

 二人で、同じタイミングで踏み出す。

 

「……あ」

 

 クミコの口から声が漏れた。

 自分でも分かるのだろう。重心の置き方が少し変わっただけで、身体が前へ運ばれる感覚がまるで違う。

 

「そう。今の感じ。自分の脚で“歩く”んじゃなくて、空間の中を“進む”の」

 

 その表現は曖昧なようでいて、妙にしっくりきた。

 

 他の乗務員たちも真剣に見ている。

 ミラはその横顔を見ながら思う。エリンはやはり、こうして見せながら教える人だ、と。

 

 けれど、そのあとでエリンはにっこりと笑って言った。

 

「じゃあ、クミコ。今の感じで向こうまで十往復しましょうか」

 

「じゅ、十往復ですか!?」

 

「そう。身体に入るまで」

 

 その言葉に、クミコは一瞬だけ目を丸くした。

 だが、エリンは柔らかい笑みのままだ。

 

「大丈夫。私も見るし、一緒にやるから」

 

 優しい。

 確かに優しい。

 けれど、容赦はない。

 

 これが、今のエリンだった。

 

    ◇

 

 それからの毎日は、まるで“歩き方と姿勢”に支配されていた。

 

 朝、シュミレーションルームに入る。

 整列する。

 エリンが今日の確認をする。

 そして開口一番、

 

「じゃあ、歩こうか」

 

 で始まる。

 

 最初の数日は、皆もまだ納得していた。

 船内サービスも乗り入れも、結局は身体の使い方が基本だ。

 歩き方がぶれれば、トレーの水平も保てないし、通路ですれ違う時に空気を乱す。

 姿勢が崩れれば、声も視線も不安定になる。

 

 頭では分かる。

 

 だが、その“基本”だけが延々と続くと、さすがに心が折れそうになる。

 

「もう一回やろうか」

 

 エリンは優しく言う。

 

「はい……」

 

「うん、今のはさっきより良かった。でも、まだ肩に余計な力が入る。もう一回」

 

「はい……」

 

「今のは足音が少し強いかな。急いでるように聞こえる。もう一回」

 

「……はい」

 

「そうそう。じゃあ次は、目線を少し広くして。もう一回」

 

 耳にタコができるどころではない。

 夢に出てきそうなほど、“もう一回”を聞いた。

 

 若い乗務員の間では、休憩中に小声で物真似が流行ったくらいだ。

 

「そうそう、いい感じ。じゃあ、もう一回」

 

「肩は落とさないで。緩めるだけ。はい、もう一回」

 

 誰かがエリンの口調を真似ると、周囲が笑う。

 だがその笑いは乾いていた。

 笑わなければ、たぶん皆、本当にしんどかったからだ。

 

 しかも、シュミレーションのほとんどが歩き方と姿勢の指摘だけで終わる。

 サービスの練習まで辿り着かない。

 乗客の乗り入れ想定も、緊急時対応も、ほとんどできない。

 

 朝から始まって、昼を挟み、夕方まで。

 気づけばその日も、

 

「今日はここまでにしましょう」

 

 とエリンが言う頃には、また一日中、歩いていただけ、という日が続く。

 

「……私たち、いつになったら接客するんだろ」

 

 ある日の昼休憩、若い乗務員の一人が床に座り込みそうな勢いで呟いた。

 

「分かる」

 

 別の子が即座に頷く。

 

「今日なんて、午前中ずっと“肩を落とすな”しか言われてない気がする」

 

「私は“つま先でごまかさない”を七回言われた」

 

「私は“綺麗に歩こうとしないで”かな……綺麗に歩こうとしないって、もう何をすればいいのか……」

 

 そこへミラが水の入ったボトルを持って近づく。

 

「でも、前より良くなってるのは本当よ」

 

「ミラさん、それ毎日言ってくれますけど、実感がないです」

 

「私もあるとは言い切れない」

 

「ええ!?」

 

 若い乗務員たちが一斉に声を上げる。

 ミラは苦笑した。

 

「でもね。前は“歩いてるだけでその人の不安が見える”なんて、考えたこともなかったでしょ?」

 

 皆、少し黙る。

 

「それは、まあ……」

 

「そういう意味では、変わってる」

 

 ミラが言うと、ランも隣に座って頷いた。

 

「うん。たぶん、今は“歩くこと”そのものじゃなくて、“人からどう見えるか”を身体に入れてるんだと思う」

 

「でも、それ二週間以上ですよ……」

 

 泣きそうな声で言う子もいる。

 

 無理もない。

 優しさが戻ったとはいえ、訓練の厳しさそのものは変わっていない。

 むしろ、以前より丁寧になった分、逃げ道がなくなったとも言える。

 

 冷たく切られる方が、ある意味では諦めがつく。

 だがエリンは今、“できるまで付き合う”のだ。

 

「大丈夫。もう一回やろうか」

 

 その笑顔で、十回でも二十回でもやらせる。

 そして本当に最後まで付き合う。

 

 だからこそ、つらい。

 

    ◇

 

 ある日の午後、エリンは珍しく全員を止めて言った。

 

「はい、今日はここで一回、姿勢だけ確認しよう」

 

 皆が一斉に足を止める。

 そしてほとんど同時に、小さなため息が漏れた。

 

 また姿勢。

 今日は午前中ずっと歩いて、午後に入っても歩いて、それでもまだ姿勢。

 

 エリンはその空気を感じ取っているのか、いないのか。

 ただ穏やかに言う。

 

「じゃあ、ミラ。前に出て」

 

「私ですか?」

 

「そう」

 

 ミラが前へ出る。

 

「今の姿勢、皆に見せて」

 

 ミラは言われた通りに立つ。

 背筋を伸ばし、肩を落とし、視線を置く。

 自分ではだいぶ整ってきたと思っていた。

 

 だが、エリンはすぐに首を傾げた。

 

「うーん、惜しい」

 

 その言葉に、ミラの眉がぴくりと動く。

 

「肩甲骨の位置はいい。でも、胸の開き方が“準備してる人”なのよね」

 

「……準備してる人?」

 

「そう。今のミラは“これからちゃんとやります”って身体になってる。でも、本当に必要なのは、“既に整っている人”の身体なの」

 

 意味が分かるような、分からないような説明だった。

 だがエリンはすぐに実演する。

 

「見てて」

 

 自分がミラの立っていた位置に立つ。

 同じように見える。

 けれど違う。

 

 肩の力の抜け方。

 胸の開き方。

 足裏の置き方。

 そして何より、そこに立っているだけで“この人に任せれば大丈夫だ”と思わせる空気。

 

「……あ」

 

 ミラの口から、思わず声が漏れた。

 

 分かる。

 立っているだけなのに、全然違う。

 

「だから、皆がいま練習してるのは“歩き方”じゃないの」

 

 エリンが全員を見渡す。

 

「“安心させる身体”の作り方」

 

 その言葉に、若い乗務員たちがしんとする。

 

 そこまで言われて、ようやく腑に落ちるものがあったのだろう。

 

「お客様ってね、言葉より先に空気を見るの。大丈夫そうか、この人に預けていいか、ここで安心していられるか。それを判断してるのは、最初の数秒なのよ」

 

 そしてエリンは、いつものように微笑んだ。

 

「だから、もう一回やろうか」

 

 その一言に、何人かが「またですかぁ……」と情けない声を漏らした。

 するとエリンはくすっと笑う。

 

「またです」

 

「エリンさん、鬼……」

 

「知ってる」

 

 その返しに、皆が少しだけ笑う。

 以前の冷たさの中では生まれなかった笑いだった。

 

 でも、そのあと本当にまた二十往復やることになるのだから、結局は厳しい。

 

    ◇

 

 それが二週間以上も続いた。

 

 旅行事業部の乗務員たちは、半ば本気で「自分たちは歩き方専門の部署になったのではないか」と思い始めていた。

 

 朝起きると足裏が重い。

 ふくらはぎが張る。

 首と肩の変なところが痛い。

 立っているだけなのに疲れる。

 

「歩くって、こんなに筋肉使うの……?」

 

「今までの人生、何して歩いてたんだろうって思う」

 

「私はもう、姿勢って言葉を一生分聞いた気がする」

 

「エリンさんの“もう一回やろうか”が子守歌になりそう」

 

 若い乗務員たちは、休憩のたびにそんなことを言い合った。

 

 だが、文句を言いながらも、誰も本気で投げ出そうとはしなかった。

 なぜなら、自分たちでも少しずつ変わっているのが分かってきたからだ。

 

 鏡の前に立つと、以前より姿勢が自然に整う。

 通路を歩く時、足音を気にしなくてもいい具合に運べる。

 人とすれ違う時、身体を逃がすタイミングが分かってきた。

 何より、フロアにいる時の雰囲気そのものが変わってきた。

 

 挨拶の声が自然に出る。

 歩く時に背中を丸めなくなる。

 座っている時ですら、だらしなく崩れない。

 

 その変化に一番敏感だったのは、他部署の人間かもしれない。

 

「最近、旅行事業部の皆さん、なんだか雰囲気変わりましたね」

 

 総務部の女性が、ある日そう言った。

 

「前より、こう……しゃんとしてるというか」

 

 広報部の職員も似たようなことを口にした。

 

「歩いてるだけで“あ、乗務員さんだ”って感じします」

 

 それを聞いた若い乗務員たちは、照れくさそうにしながらも、内心では嬉しかった。

 

 エリンはその報告を受けても、「そう」と短く返すだけだった。

 だが、その口元がほんの少しだけ柔らかくなったのを、ミラは見逃さなかった。

 

    ◇

 

 ある日の夕方、全員で最後の確認をしていた時だった。

 

「じゃあ、最後に全員、一列で歩いてみましょうか」

 

 エリンが言う。

 

 皆が一列に並ぶ。

 順番に歩く。

 視線、足音、重心、肩、腕の振り、首の角度。

 

 エリンは一人ひとりを見ていた。

 そして、最後まで誰も止めなかった。

 

 歩き終わったあと、若い乗務員たちは思わず顔を見合わせる。

 止められなかった。

 初めて、全員が最後まで歩き切れた。

 

 エリンはしばらく黙ってから、ゆっくり頷いた。

 

「うん。ようやく、次に行けそうね」

 

 その一言に、皆の胸が大きく跳ねた。

 

「次、ですか!?」

 

 誰かが勢いよく聞き返す。

 

「そう。次」

 

 エリンは穏やかに言う。

 

「明日から、ようやく乗り入れとサービスに入ります」

 

 一瞬、間が空いた。

 それから――。

 

「やったぁ!!」

 

 シュミレーションルームに歓声が上がった。

 

「長かった……!」

 

「本当に長かった!」

 

「歩き方卒業だ……!」

 

「まだ卒業ではないけどね」

 

 エリンが笑いながら釘を刺す。

 

「歩き方と姿勢はこれからも毎日見ます」

 

「えぇぇ……」

 

 落胆の声と笑いが同時に起きる。

 

 けれどその表情は明るかった。

 歩くことだけに費やした二週間以上が、無駄ではなかったとようやく形になる気がしたからだ。

 

 ミラはその光景を見ながら、小さく息を吐いた。

 

 長かった。

 本当に長かった。

 

 けれど今なら分かる。

 

 エリンは、いきなりサービスや接客をさせても意味がないと思っていたのだ。

 その前に、乗務員として空間に立つための身体を作らなければならなかった。

 どれだけ言葉が丁寧でも、どれだけ笑顔が綺麗でも、立ち方と歩き方に不安が滲んでいれば、それは全部お客様に伝わる。

 

 だからまず、そこからだった。

 

 遠回りに見えて、いちばん近い道。

 

 ランも、穏やかに笑みを浮かべて言った。

 

「やっと次に進めるね」

 

「うん」

 

 ミラは頷く。

 

「でも、たぶんここからが本番なんだろうな」

 

「そうだね」

 

 ランも静かに頷いた。

 

 歩き方と姿勢を徹底的に叩き込まれた二週間。

 優しさと丁寧さを取り戻したエリンに、何十回も“もう一回”を言われ続けた日々。

 耳にタコができるどころか、もはや夢の中でも歩いていたような時間。

 

 その全部が、ようやく次へ繋がる。

 

 シュミレーションルームの照明の下で、旅行事業部の乗務員たちは、それぞれに疲れた顔をしながらも、確かな笑みを浮かべていた。

 

 そしてエリンは、その真ん中で穏やかに言う。

 

「じゃあ、今日はここまで。明日から忙しくなるから、しっかり休んでおいてね」

 

「はい!」

 

 返事は、前よりもずっと揃っていた。

 声も、姿勢も、立ち方も。

 ようやく、乗務員としての土台が形になってきた証拠だった。

 

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