夜風が静かに吹き抜け、星々が空を覆っていた。
木々の葉が微かに揺れ、遠くで夜鳥の鳴く声が聞こえる。
――春はもうすぐそこまで来ている。
けれど、この夜はまだ少し冷たかった。
大いなる木の根元、焚き火の傍でルナは布袋に次々と食料を詰め込んでいた。
干した魚、焼き保存した肉、月梨を薄く切って乾かしたもの。
そして、小さな革袋に入れた香草と塩。
それを丁寧に布で包み、ぎゅっと結ぶ。
「そんなに詰めたら重くなるぞ」
背後から低い声がした。
振り返ると、リュウジが腕を組んで立っていた。
「だって、シンゴたちもう三日も向こうにいるのよ? 食料が足りないかもしれないじゃない」
「足りなくなったら狩りくらいできる。チャコがいるんだ、心配するほどでもない」
「それでも……何かあったら困るでしょ」
ルナはリュウジを見上げながら、小さく息を吐いた。
「少しでも安心して過ごしてほしいの」
その言葉に、リュウジはふっと笑みを浮かべる。
「相変わらずだな。……お前は」
「え?」
「人のことばっかり心配して、自分のことは後回し」
リュウジの声には優しさが混じっていた。
「でも――そういうところ、嫌いじゃない」
その言葉に、ルナは思わず顔を赤らめ、俯いた。
火の明かりが頬を赤く染め、焚き火の音が静かに弾ける。
「……リュウジは、どうして行くことにしたの?」
「この目で見ておきたいんだ。あの遺跡が、今どうなっているのか」
「心配、なんだね。シンゴたちのこと」
「そういうことだ」
短い返事の中に、迷いのない響きがあった。
ルナは袋の口を閉じ、立ち上がる。
「じゃあ、準備はこれで終わり。……行こうか」
「もう行くのか?」
「うん。夜明け頃には着きたいから」
その時、背後から声がした。
「二人とも気をつけて」
ベルが焚き火の影から顔を出し、手を振る。
その隣でシャアラが小さく手を合わせた。
「気をつけてね、ルナ」
「ありがとう。すぐ戻るから」
「二人とも無理するなよ」とメノリの声が続く。
その言葉に、リュウジが軽く頷いた。
火の粉が空へ舞い上がり、夜の空気を照らす。
ルナは袋を背負い、リュウジの横に立った。
「じゃあ――行こう」
「ああ」
二人は焚き火の灯りを背にして歩き出す。
森の方角には、うっすらと霧が漂っている。
ルナはその背中を追いながら、胸の奥で小さく呟いた。
――どうか、無事でありますように。
それは、シンゴたちのことだけでなく、隣を歩く彼への祈りでもあった。
木々の間を抜け、二人の姿は夜の闇へと溶けていった。
残された焚き火の炎が、名残惜しげにゆらめいている。
◇◇◇
夜の帳が少しずつ薄れていく。
空には無数の星がまだ瞬いていたが、東の空の端には淡い光が差し始めていた。
冷たい空気の中、ルナとリュウジは遺跡へ向かって歩いていた。
森の木々がざわめく音だけが、夜明け前の静寂に響いていた。
「……ずいぶん静かね」
ルナがぽつりと呟いた。
その声は夜気の中に溶け、ほんのかすかに震えていた。
「この時間帯は、獣もまだ動かない」
リュウジが短く答える。
彼の声は落ち着いていて、夜明け前の空気によく馴染んでいた。
「……いつも思うけど、リュウジって本当に何でも分かってるみたい」
「そんなことはない。たまたま経験があるだけだ」
「でも、みんなあなたを頼りにしてる。私だってそう」
その言葉に、リュウジは少しだけ歩を緩めた。
「……頼りにされるのは悪くないが、重いな」
「重い?」
「ああ。期待に応えられないと、誰かを失う気がする」
ルナは立ち止まり、リュウジの背を見つめた。
淡い星明かりが彼の肩を照らし、その横顔を柔らかく浮かび上がらせる。
「リュウジ……あの時のこと、まだ気にしてるの?」
「……“悲劇のフライト”のことか」
「うん」
リュウジはしばらく黙り、空を見上げた。
星の光が、彼の瞳に淡く映る。
「忘れられるわけがない。あれは、俺の人生を変えた出来事だ」
その言葉は静かで、しかしどこか遠くを見ているようだった。
ルナは小さく息を吸い、彼の隣に並ぶ。
「……でも、あの夜、リュウジが話してくれたことで、私も変わったよ」
「変わった?」
「うん。人って、どんなに過去に傷ついても、前に進めるんだって思えた」
ルナの声は穏やかで、けれど確かな強さがあった。
リュウジはほんの少しだけ、表情を和らげる。
「お前は、やっぱり強いな」
「そんなことない。怖いよ、今でも。だけど――リュウジがいると、不思議と前を向けるの」
ルナの言葉に、リュウジは少しだけ視線を逸らした。
その頬がわずかに紅く染まっていることに、彼女は気づかない。
「……朝日が出るな」
リュウジが指さした先、遠くの地平線が金色に染まり始めていた。
雪面がその光を反射し、二人の周囲がふっと明るくなる。
「きれい……」
ルナの瞳に朝の光が映り込む。
彼女の横顔を見つめながら、リュウジは心の奥で静かに呟いた。
――この光を、もう一度見られるとは思わなかった。
長い沈黙のあと、ルナが口を開いた。
「ねぇ、リュウジ」
「なんだ」
「帰ったら、みんなで春の食事会をしようよ。新しい季節をお祝いしてさ」
リュウジは少し驚いたようにルナを見る。
「お前、そういうことを考えてる時が一番らしいな」
「でしょ?」
ルナがいたずらっぽく笑う。
その笑顔に、リュウジもわずかに口元を緩めた。
太陽が昇り始め、森の木々の影が長く伸びていく。
二人はその光の中を進みながら、ゆっくりと遺跡へ向かって歩みを重ねていった。
――もう、あの冷たい冬は過ぎたのだ。
◇◇◇
朝日が完全に昇りきったころ、遺跡がある丘陵地帯にたどり着いた。
雪はすっかり溶け、地表から立ち上る白い霧が幻想的に揺らめいている。
ルナとリュウジは、光に照らされた石の回廊をゆっくりと進んだ。
「前に来たときより……雰囲気が違うわね」
ルナが呟くと、リュウジは周囲を警戒するように見渡した。
「空気が動いてる。内部の構造が変わったのかもしれない」
遺跡の入口を抜けると、以前は静寂に包まれていた空間が、今はわずかに振動していた。
壁面の文様が光を帯び、足音に合わせて波紋のように輝く。
やがて二人は中央の広間――かつてコールドスリープの装置が並んでいた場所にたどり着いた。
しかし、その光景は以前とはまるで違っていた。
「……下がってる?」
ルナが息を呑む。
床の中央部分が円形に沈み込み、下層へと続く階段が出現していた。
そして、その先には――薄く開いた扉がひとつ。
その扉の隙間から、ふいに光が漏れた。
まばゆい白の中から、三つの影が現れる。
「ルナ!」
弾むような声が響いた。
チャコが両腕を振りながら走り出してきた。
その後ろから、シンゴとアダムが続く。
「チャコ!? シンゴ、アダムも!」
ルナの声に、リュウジも目を見開く。
「なんだ……お前ら、無事だったのか」
「そっちこそ、元気そうでなによりや!」とチャコが笑う。
アダムは嬉しそうにルナの腰にしがみつき、ルナは優しく頭を撫でた。
「でも、何があったの? この遺跡……まるで別の場所みたい」
「それ、ウチらもびっくりしてん」
チャコが興奮気味に言う。
「ほら、こっち来て! リュウジにも見せたいもんがあるんや!」
導かれるままに進んだ先――それはかつて誰も踏み入れたことのない部屋だった。
円形の天井、壁一面に並ぶモニターとパネル。
中央には光を帯びた操作卓が浮かんでいる。
「つまり、この遺跡そのものが……宇宙船なのね」
ルナが息をのむように呟いた。
「間違いないと思う!」
シンゴは頷き、胸を張った。
「ここ、操縦室だったんだよ!」
「動くのか?」
リュウジの低い声に、チャコは耳を伏せるように言った。
「そこが問題やねん。……どういうわけか、うごかへんのや」
「エネルギーの流れも一応生きとるけど、反応せえへん」
「リュウジなら、何かわからへんか?」とチャコが目を輝かせた。
「少し見せてくれ」
リュウジは操作卓に近づき、軽やかに指を動かす。
長い年月で眠っていた装置が、彼の手に呼応するように淡く光を放った。
「何をしてるの?」とアダムが首をかしげる。
「これが宇宙船なら、自己診断プログラムがあるはずだ」
リュウジが呟き、手元のスイッチを押す。
数秒後、モニターが点灯し、遺跡全体の構造図が映し出された。
ライン状のエネルギーフローが網のように広がり、その一角が赤く点滅している。
「これやな、流石やなリュウジ!」
チャコが感心したように声を上げた。
「何、あれ?」
ルナが指差す先――ひとつだけ異常を示す赤いマーク。
「恐らく、重力制御ユニットだろう」
リュウジの言葉に、シンゴの表情が曇った。
「やっぱり、そうなんだね……」
ルナは静かに頷いた。以前リュウジが話していた“東の森の重力異常”のことが、今すべて繋がった気がした。
「でも通信機は使えるんでしょう?」とルナが尋ねる。
「う、うん」とシンゴが頷く。
「皆をここに呼び寄せた方がいいわね」
ルナの瞳が真剣に光る。
「この遺跡……いえ、宇宙船を拠点にした方が安全かもしれない」
その考えにチャコもアダムも頷いた。
「俺が行こう」
リュウジの声が静かに響いた。
全員の視線が彼に集まる。
「悪いけど、お願い」とルナが言った。
「明日の昼には戻ってくる」
リュウジは短くそう告げ、装備を整えて立ち上がる。
ルナは一歩近づき、小さな声で言った。
「気をつけてね」
その声に、リュウジは振り向かず、ただ一度だけ頷いた。
扉が開く音が静かに響く。
彼の背中が光の中へと消えていく。
残されたルナの胸の奥に、言葉にならない不安が静かに広がっていった。
◇◇◇
朝の光が森の枝葉を透かして射し込み、霧が白く漂っていた。
湿った草を踏みしめる音が静かに響く。
リュウジは薄く息を吐きながら、慎重に木々の間を抜けていった。
夜の冷えはまだわずかに残っているが、風の中には春の匂いが混じっていた。
背には食料を包んだ布袋。
その重さよりも、仲間のもとへ早く戻りたいという思いの方が、リュウジの足を速めていた。
やがて、木々の向こうに見慣れた巨大な幹が現れた。
――大いなる木。
陽を浴びて立つその姿は、冬の間に見たときよりもずっと力強く、暖かく見えた。
「おーい! リュウジじゃねぇか! 早かったな!」
「無事だったのね!」とシャアラが顔を覗かせた。
リュウジは手を上げて応え、ロープ梯子を登る。
上ではすでにメノリとベル、カオルが待っていた。
彼らの顔には安堵と、少しの緊張が入り混じっていた。
「ルナはどうした?」
メノリの問いに、リュウジは一息ついて答えた。
「遺跡に残っている。それにシンゴも、チャコも、アダムも全員無事だ」
その言葉に、シャアラがほっと息を吐く。
「よかった……本当に心配してたのよ」
「それで、何があったんだ?」とベルが腕を組む。
リュウジは皆を囲むように腰を下ろし、短く報告を始めた。
「遺跡の内部が変化していた。中心部が沈み、地下に新しい部屋が出現した。
シンゴたちはそこで“操縦室”を見つけた。あの遺跡は――間違いなく、宇宙船だ」
「宇宙船!?」とハワードが目を丸くする。
「すげぇじゃないか! じゃあ帰れるのか!?」
「それが、そう簡単じゃない。重力制御ユニットが壊れているらしい」
「……やっぱりな」とカオルが低く呟く。
「東の森の重力異常。あれはそのユニットの影響かもしれない」
「動かないけど、通信はできる」とリュウジは続けた。
「ルナは皆を呼び寄せようと言ってた。あの場所を拠点にする方が安全だ」
「たしかに……」とメノリが頷く。
「ここも悪くないけど、冬の間に脆くなってる。遺跡なら気候の影響も受けにくいだろう」
「行こうぜ! なんかワクワクしてきた!」とハワードが笑う。
「……お前、こういう時だけ元気だな」とカオルが呆れたように返す。
笑い声が広がる。
長く続いた冬の疲れを、ほんの少し癒すような明るさだった。
リュウジは立ち上がり、皆を見渡す。
「荷物を軽くまとめてくれ。今日中に出る。日が沈む前に半分は進んでおきたい」
「了解」とメノリが短く答える。
ベルは真っ先に槍と荷を背負い、シャアラは毛布を小さく畳み、ハワードは「食料は任せろ!」と張り切っている。
カオルは静かにリュウジの隣に立ち、短く言った。
「先導は俺がやる。夜は冷える。無理はするな」
「助かる」
やがて、出発の時が来た。
夕暮れの光が森の奥に差し込み、木々の影が長く伸びている。
鳥の群れが遠くの空を渡り、春の息吹を告げる風が吹き抜けた。
「じゃあ――行こう」
リュウジの声に、全員が頷く。
ハワードが先に笑いながら言った。
「まるで遠足みたいだな!」
「お前の遠足は騒がしいに決まってる」とメノリが呆れたように言う。
「俺が黙ってたら退屈だろ?」
「……まぁ、それも一理あるな」とベルが苦笑した。
ルナが待つ遺跡へ――
一行は森を抜け、静かな光の道を進んでいった。
◇◇◇
遺跡――いや、“宇宙船”の扉が、静かな音を立てて開いた。
外の冷たい風が流れ込み、長い階段を登ってきたリュウジたちの影が、青白い光の中へと伸びていく。
「アダム……シンゴ……!」
最初にその声を上げたのはハワードだった。
次いでシャアラが駆け出す。
広い操縦室の中央には、ルナ、チャコ、シンゴ、そしてアダムが立っていた。
彼らの背後には、無数の光のパネルが浮かび上がり、遺跡の内部を柔らかい蒼光で満たしている。
ルナが振り向いた瞬間、その瞳に光が反射した。
そして、まるで春の光を抱いたような微笑みを浮かべる。
「リュウジ……! みんな……!」
ルナの声が響いた。
ハワードはその声に反応し、勢いのまま走り寄ってシンゴに抱きついた。
「おい、ハワード! シンゴが倒れる!」とリュウジが慌てて制止するが、ハワードは涙目で笑っていた。
「よかった……ほんとによかったよ! 全員、生きてる!」
その言葉に、誰もが笑みを浮かべた。
長い冬を乗り越え、過酷な旅を終えた仲間たちが、ようやく一つの場所に立っている。
◇◇◇
遺跡の中心――蒼く光る通路の先に、金属製の扉がひときわ存在感を放っていた。
その前に立ち止まったメノリが、眉をひそめながらルナへと問いかける。
「ルナ、あそこが操縦室なのか?」
「ええ」
ルナが扉に手をかけると、静かな空気を切るように「シュー」という音が響き、重い扉が横に滑った。
操縦室の中は、まるで時間が止まっていたかのようだった。
中央には円形の制御台、壁面には無数の光パネル。
「こんな部屋があったんだな……」とメノリが低く呟いた。
だが、その言葉を遮るように――
「ブーブー!」と警告音が鳴り響いた。
「な、なんだ!?」とハワードが肩をすくめる。
次の瞬間、地面が激しく揺れた。
足元のパネルが軋み、天井の金属がカタカタと鳴る。
「地震!?」とルナが叫ぶ。
「落ち着け、揺れは長く続かない!」とカオルが低く指示を飛ばす。
数秒後、振動は嘘のように止んだ。
全員が一斉に安堵の息を吐く。
だが――
今度は「ピーピー」という電子音が鳴り響いた。
「なんだ、今度は……?」
チャコが耳をぴくりと動かす。
操縦席の隅で、通信機のランプが点滅していた。
音声が、ノイズを挟みながら明確に響く。
「……こちら、オリオン号。応答せよ。救難信号をキャッチした」
その瞬間、全員の表情が凍りついた。
「い、今の……!」
「救難信号や!」とチャコが叫ぶ。
マイクのホログラムが制御台に浮かび上がり、シンゴが反射的に駆け寄った。
「もしもし!聞こえてますか!?こちらロカA2ソリア学園!」
しばしの静寂――
「聞こえている」
その言葉を聞いた瞬間、全員が息を呑んだ。
「つ、つながったんだ!」とハワードが身を乗り出す。
彼はマイクに顔を近づけると、慌てたように叫んだ。
「助けてくれ!大変なんだ、不時着して、あーもう!早く助けに来てくれーっ!」
「ハワード、邪魔をするな!」とメノリが鋭く叱責する。
「ここはシンゴに任せましょう」とルナも声を上げた。
ハワードはしぶしぶ後ろへ下がり、両手を広げて「ちょっと興奮しただけだよ」と苦笑した。
シンゴはマイクを握り直し、深呼吸をした。
「こちらロカA2ソリア学園。修学旅行中に重力嵐に巻き込まれ、この星に不時着しました」
「現在の状況を伝えろ」
ノイズ混じりの音声が返る。
「けが人はいません。詳しい説明は省きますが、9人と一匹です」
「一人や」とチャコが即座に訂正する。
「宇宙船は?」
「あります!でも重力制御ユニットが故障していて、動きません」
「姿勢制御ユニットは?」
「問題ありません!」
「了解。――そちらに急行する」
その言葉を最後に、通信がプツンと切れた。
「え!? もしもし!? 応答してください!!」
シンゴが必死に呼びかけるが、もう何も返ってこない。
静寂――
遺跡の中に、電子音だけが余韻のように響く。
「どうしたんだ?」とメノリが尋ねる。
「……切れた」とシンゴは小さく答えた。
誰もすぐには言葉を出せなかった。
期待と不安が入り混じった、重たい沈黙が広がる。
「……大気圏に突入して、一旦切れたんやろか?」とチャコがぽつりと言った。
「そうかもしれない」とベルが頷く。
するとルナが顔を上げ、少しだけ明るい声で言った。
「でも、“そちらに急行する”って言ってたもん。
本当に……助けが来るんだよ、きっと」
その言葉に、シャアラの瞳が潤んだ。
「じゃあ……本当に、帰れるのね……!」
彼女は両手を胸に当てて、嬉しそうに微笑む。
「そうだよ!僕たち、帰れるんだ!やったー!」とハワードが跳ねるように叫び、シンゴもそれに笑顔で頷いた。
皆の表情に、希望の色が宿る――だが、その時。
「安心するのはまだ早い」
低く鋭い声が、静寂を切り裂いた。
カオルだ。
全員の視線が彼に集まる。
「俺たちが“大気圏突入”したときのことを思い出せ」
その言葉に、ルナたちの表情が一瞬で曇る。
――あのとき、シャトルは奇跡的に生き延びた。だが二度と飛べる状態ではなかった。
「もしも救助船もそうなって、動かなくなったら……」
シャアラが声を震わせる。
「私たち、一生この島に……」
ルナはすぐにシャアラの肩に手を置き、優しく微笑んだ。
「大丈夫よ。カオルは“はしゃぎすぎるな”って言ってるだけなの。
私たちがここまで生きてこられたのも、あの時、冷静に動けたからでしょ?」
その声に、少しずつ皆の顔が落ち着きを取り戻していく。
リュウジも黙って頷きながら、操縦席のパネルに視線を戻した。
青白い光が再び穏やかに脈打つ。
それは、まるでこの星そのものが、彼らの希望を見守っているかのようだった。
◇◇◇
救難信号の余韻が静まり、操縦室には低い電子音だけが残っていた。
メノリが前へ出て、皆を見回す。
「……救助船の到着までに、私たちにできることは全部やっておこう」
その一言に、全員の表情が引き締まる。
「確かに、どこから来るか分からへんもんな」とチャコが頷いた。
「東西南北……全部、見張りを立てる必要があるね」とルナが言う。
シンゴがすぐに通信機を操作しながら提案する。
「通信機はここで維持しておく。万が一、向こうから再び連絡が入るかもしれないし」
「じゃあ、ウチとアダム、シャアラはここに残るわ」とチャコが答えた。
メノリは頷くと、地図の代わりに床の砂を使って指で描き出す。
「東はハワード、西はカオル、北は私とベル、南はルナとリュウジ。
四方で狼煙を上げれば、救助船がどの方向から来ても分かるはずだ」
「原始的やけど、確実やな」とチャコが笑う。
「いい作戦だ」とリュウジが頷いた。
それぞれが準備を始める中、ルナが焚き火の灰を払いながらリュウジを見た。
「じゃあ、私たちは南ね。行こう」
だがリュウジの反応は鈍かった。
「リュウジ?」
ルナが首を傾げると、彼は少し間を置いて呟いた。
「……通信機の声、どこかで聞いた気がしたんだ」
「え?」
「気のせいだろうけどな」
その顔には、ほんの一瞬、苦い影が差していた。
それぞれが道を分かれ、リュウジとルナ、そしてメノリとベル、カオルは山道を進んでいく。
森の奥から吹く風は湿り気を帯び、木々の間に薄い霧が漂っていた。
歩きながら、ルナが小声で呟く。
「ねぇ、ここ……前にも来た場所だよね」
足元に流れる小川。
その先には、あの滝があった。
リュウジがルナのリュックを取り戻すために飛び込んだ、あの崖。
リュウジは立ち止まり、滝を見上げた。
白い水飛沫が風に舞い、陽光に虹を映している。
「……すこし任せる」
そう言って、リュウジは滝の方へと歩き出した。
「ちょっと、どこ行くの?」とルナが慌てて声を上げる。
だがリュウジは振り返らず、滝壺の縁をゆっくりと進んだ。
滝の裏側には、かすかに口を開けた洞窟があった。
水の音に混じって、冷たい風が吹き抜ける。
リュウジは足元の落ち葉を一枚拾い上げ、軽く握りつぶす。
手を開くと、葉は風に乗って洞窟の奥へと流れていった。
「……やっぱり、続いているな」
彼は小さく呟き、滝を背にして中へと姿を消した。
一方その頃、崖の中腹ではルナとメノリが蔓を頼りに登っていた。
岩肌は濡れて滑りやすく、ルナの手のひらは赤くなっていた。
「気をつけろ、ルナ。足場が悪い」
「うん……メノリも」
ようやく崖の上にたどり着いた時、風が頬を撫でた。
振り返ると、霧の向こうから人影が現れる。
「リュウジ……!」
ルナが思わず声を上げる。
背後の茂みを抜けて現れたリュウジは、肩のあたりが濡れていた。
「滝の裏に洞窟があった。そこを進むと、上へ抜ける道がある」
メノリは真剣な表情で頷く。
「分かった。私が伝えておこう。ルナたちは南の狼煙を」
「分かった」
リュウジとルナは視線を交わす。
風が滝の音を乗せ、二人の間を流れていった。
どこかで鳥が鳴き、太陽が霧を照らす。
◇◇◇
南の崖沿いは、海風が強く、湿った空気が肌を刺すように冷たかった。
空一面を灰色の雲が覆い、今にも雨が降り出しそうだった。
森の木々がうねり、波打つようにざわめいている。
ルナとリュウジは、南側の高台にいた。
そこからは、遠くの海が鈍く光って見える。
風が唸り、焚き木を積むルナの髪を激しく揺らした。
「風が強いね……火がつくかな」
ルナが火打石を握りながら呟いた。
火花が何度か散るが、湿った木がなかなか燃え上がらない。
「……乾いた葉を下に敷け。上から風を逃がさないように石で囲むんだ」
リュウジが低い声で指示を出す。
ルナは頷きながら手際よく動いた。
しばらくして、小さな炎が生まれ、徐々に広がっていく。
「うまくいったね」
「ああ。……これで南は問題ない」
リュウジは風上に立ち、雲の流れを見つめていた。
厚い雲の合間から光が一筋差し込み、彼の横顔を淡く照らす。
ルナは少し間をおいてから口を開いた。
「ねぇ、リュウジ。……さっきの救難船、信じてる?」
リュウジは目を細め、海の彼方を見た。
「正直、期待はできない」
「どうして?」
ルナの声は風にかき消されそうになりながらも、まっすぐに彼へ届いた。
「無線の通信……反応が速すぎた。音声の間もおかしい。
まるで、俺たちが呼びかけるのを“待っていた”ようだった」
リュウジの声は冷静だったが、どこか警戒を帯びていた。
ルナは炎を見つめ、唇を噛んだ。
リュウジは続ける。
「俺はS級パイロットだった。未知の宙域を何度も航行してきた。
だが――この惑星どころか、この星系の近くにも、生命を確認できるような星はなかった。
たまたま救助船が通るなんて、あり得ない」
風が強まり、炎が一瞬かすかに揺れた。
ルナはそっと手をかざして炎を守る。
「……じゃあ、あの声は?」
「わからない。ただ、どこかで聞いたことがある気がする」
リュウジは短く言った。その表情には、かすかな迷いが浮かんでいる。
「気のせいじゃないの?」
「そうだといいがな」
ルナは黙って空を見上げた。
灰色の雲は重く垂れこめ、光はほとんど届かない。
それでも彼女の目には、小さな炎の明かりが確かに映っていた。
「……ねぇ、リュウジ」
「なんだ」
「もし、本当に誰も来なかったとしても――私たちで生きていけるよね?」
リュウジは少しだけ息を呑み、そして小さく笑った。
「お前はほんと、強いな」
「強くなったの。みんながいたから」
その言葉に、リュウジは何も返さなかった。
ただ、風の中で小さく頷き、炎を見つめた。
遠くで雷鳴が低く響く。
今にも雨が降り出しそうな空の下、二人の狼煙がゆらゆらと立ち上っていった。
◇◇◇
ポツリ――と、空から冷たい雫が落ちてきた。
それはすぐに数を増し、灰色の空の下で、音を立てて地面を叩き始めた。
風が強まり、焚き木の炎が一瞬だけ揺らいで消える。
「……降ってきたね」
ルナが小さく呟いた。頬に伝う雨粒が冷たく、指先までじんと痺れる。
「薪を濡らすな。あっちの岩陰に運ぶぞ」
リュウジの声が雨音の中でもはっきりと響く。
二人は急いで薪木を抱え、近くの岩の下に移動させていく。
地面はぬかるみ始め、靴の底にまとわりつく泥が重い。
息を切らせながら、ルナが空を仰いだそのとき――
「……あれ?」
ルナの声がかすかに震えた。
「リュウジ、見て! 東の空――!」
リュウジが顔を上げる。
厚い雲の切れ間、遠くの地平線の向こう――
灰色の帳を突き破るように、一筋の光が現れた。
それは、まるで夜明けを裂く流星のように尾を引きながら、ゆっくりと降下していく。
雨雲を貫き、金色の閃光が東から西へと移動していった。
「……間違いない、救難船だ!」
ルナの瞳が大きく見開かれ、声が震える。
その視線を追って、リュウジも息を呑んだ。
光は確かに、人工的な軌跡を描いていた。
自然の流星ではありえない滑らかな動き。
それは確かに“誰かが操縦している”ものだった。
だが――
「火をつける!」
ルナが叫ぶ。
リュウジは首を振る。
「この雨じゃ間に合わない!」
焚き木はすでに濡れ、火打石を叩いても火花すら立たない。
ルナは悔しそうに唇を噛み締めた。
二人はただ、丘の上から東の空を見つめ続けた。
光は次第に低くなり、やがて雲の下へ消えていく。
その軌道は島の上空を横切り、西の海へと続いていた。
リュウジの目が鋭く光る。
「……あれは、降りる。海面に――」
次の瞬間、遠くで閃光が走り、遅れて低い爆音が響いた。
海の向こうに白い水柱が上がる。
救難船が、不時着したのだ。
ルナは胸を押さえ、震える声で言った。
「……見えた。確かに、見えたわ」
だが、リュウジは別のものに目を留めていた。
落下の途中、救難船から――
一瞬、何か光るものが切り離され、雨空を滑るようにして島の北方へ落ちていったのだ。
「今の……」
「何か、落ちたよね?」
「ああ。確認しないといけないな」
リュウジはそう呟き、長く息を吐いた。
雨脚はさらに強くなり、地面を叩きつける。
視界の向こうでは、すでに光は消えていた。
「今日はもう無理だ。戻ろう」
「……うん」
二人は薪木を岩陰に残し、濡れた道を駆け出した。
南の風に押されながら、泥を蹴って進む。
灰色の空の下、彼らの背後では、遠くで雷鳴が轟いていた。
やがて、“みんなの家”が木々の間に見えてくる。
そのときもなお、ルナの胸は高鳴っていた。
――確かに、見たのだ。
あの東の空を裂く光を。
◇◇◇
“みんなの家”の入り口には、雨音が木の壁を叩く音が響いていた。
ルナとリュウジが戻ったとき、すでにカオル、ベル、メノリの三人が焚き火の傍に座っていた。
濡れた外套を脱ぎながら、リュウジが扉を閉めると、外の風の唸りがかすかに遠のく。
「おかえり」
ベルが立ち上がり、二人に布を差し出した。
「すごい雨だな。そっち、大丈夫だったか?」
「なんとかね」
ルナは息を整え、濡れた髪を払いながら答える。
肩にかかる雫が床に落ちて、パチンと音を立てた。
カオルが焚き火越しに顔を上げる。
「西の海岸を見てきた。かなり遠い沖合いだが……確かに、海面に降りてた」
その声は低く、湿った木々の香りと共に、部屋に重く響いた。
「本当に……不時着したのね」
ルナの言葉に、メノリが腕を組む。
「普通じゃない。あの天候で、あの高度。まともな航行とは思えない」
リュウジは黙って火を見つめていた。
やがてゆっくりと口を開く。
「……やはり、様子がおかしいな」
その口調には、確信と警戒が混じっていた。
「低空飛行のままバランスを失ってた。機体が制御を失ってるような動きだった。あれが救難船なら、操縦士は相当追い詰められてる」
焚き火の炎が、リュウジの瞳を淡く照らす。
その表情は、どこか険しい。
ルナは静かに頷き、少し言いづらそうに言葉を続けた。
「私たち、見たの。空から……何かが落ちたの」
「落ちた?」
ベルが驚いたように身を乗り出した。
ルナはリュウジと視線を交わす。
「ええ。救難船が海に降りる前に、光るものが一つ……途中で離れて、北の方に落ちていったの」
その瞬間、場の空気が凍りついた。
焚き火の爆ぜる音が、やけに大きく聞こえる。
「それは……部品じゃなくて?」とメノリ。
「分からない。でも、自然な落下じゃなかった」
リュウジの声が低く響いた。
「まるで、意図的に切り離したような……そんな感じだった」
「……機体を軽くするため、か」
カオルが腕を組み、目を細める。
「もしそうなら、燃料切れか、制御不能。どちらにしても無事じゃすまん」
ベルが不安そうに呟く。
「じゃあ、助けが来たと思ったのに……」
「まだ分からないわ」
ルナがベルの言葉を遮るように言った。
その表情には不安と、かすかな決意が同居していた。
「でも確かに、空を裂くように光ってたの。私たちは、それを見たの」
カオルは黙って頷き、焚き火に薪を足した。
炎が再び大きくなり、部屋の中が暖かく満たされていく。
ルナは焚き火を見つめた。
雨はまだ止まない。
けれど――あの光は確かに、希望のように空を裂いていた。
その希望が、本当に救いなのか、あるいは新たな試練なのかは、まだ誰にも分からない。
⬜︎
雨脚が強くなっていた。
灰色の空が海と地平を区別できないほど低く垂れ込め、冷たい風が頬を刺す。
「火は西の海岸に起こしてきた。湿気がひどいが、なんとか燃えてる」
カオルが振り返りながら言う。その肩にはまだ雨粒が滴っていた。
「ありがとう、カオル。これで目印になるわ」
ルナは小走りで隣に並びながら言い、マントを握る手に力が籠る。
道はぬかるみ、踏みしめるたびに泥が靴の裏にまとわりつく。
雨が木々を打ち、枝葉がしなりながら滴を落としていた。
しばらく歩いた後、視界の向こうに海が見えた。
灰色の波間に、巨大な影がゆらめいている。
「……見えるな」
リュウジが呟く。
「やっぱり、相当でかいな」
カオルもその視線を追い、眉をひそめた。
「……あの大きさ、どう見ても恒星間輸送船だろうな」
「俺もそう見える」
リュウジは濡れた前髪を払いながら答える。
「だが……どうして、こんな所に」
風が一層強まり、潮の香りが鼻を突いた。
カオルが唇を引き結ぶ。
「まさか、俺たちと同じように――」
「重力嵐に巻き込まれたのかもしれない」
リュウジが言葉を継ぐ。
その声音には確信と、どこかに滲む警戒の色があった。
「……だが、違和感があるな」とカオル。
「何がだ?」
「輸送船が単独航行してるなんて、普通はありえない……」
リュウジは無言で頷いた。
海の彼方に浮かぶその影を、まるで睨むように見つめる。
波間に漂う残骸のような光が、ちらちらと稲光に照らされている。
「……沈む前に、何が起きたか確かめる必要がある」
リュウジの声は、冷静で、それでいて決意に満ちていた。
ルナはその二人の背を見つめながら、胸の奥がざわついた。
あの光――
あれが本当に“救い”の光なのか、それとも――
「雨、強くなってきたわ。行きましょう」
ルナの声に、三人は頷いた。
足音と雨音が重なり、海岸の方へと彼らの影が消えていった。
⬜︎
雨は相変わらず降り続いていた。
灰色の空の下、西の海岸には、焚き火の煙がかすかに立ち上っている。
火を守るように岩の窪みがあり、その中に数人の影が揺れていた。
「ベル!」
ルナの声に反応して、大柄な少年が手を振った。
「ルナ!無事だったんだね!」
その後ろから、シャアラ、シンゴ、チャコ、アダム、そしてハワードが現れる。
ずぶ濡れの姿だったが、皆の顔には安堵の笑みが浮かんでいた。
「おお、みんな揃ったやないか!」とチャコが嬉しそうに声を上げる。
「遺跡の方も問題なかったで。無線も通っとる」
「よかった……ほんとに、全員無事で」
ルナは胸を撫でおろし、濡れた髪をかき上げた。
アダムはルナの腕に小さくしがみつき、「迎えに来てくれてありがとう」と呟く。
「とにかく中に入れ。濡れたままだと体力を削られる」
リュウジの一声で、全員が岩の窪みへと移動した。
内側は意外と広く、壁の岩が外気を遮り、かすかな暖かさを保っていた。
メノリが火のそばでマントを絞り、ハワードは肩をすくめて呟く。
「雨のせいで服がベタベタだよ……髪も最悪だ」
「贅沢言うな」
カオルが淡々と返すと、ハワードはむくれた表情で火を見つめた。
ルナは皆の顔を順に見渡しながら、安堵の息を漏らした。
そのとき、背後からリュウジの声がした。
「ルナ、少し来てくれ」
振り返ると、リュウジは海の方を見つめていた。
「どこへ行くの?」とルナが尋ねると、リュウジは短く答えた。
「……救助船から、何かが落ちたのを見ただろう。
あれを確認しておきたい」
ルナは目を丸くした。
「でも、この雨の中を?」
「雨は弱まってきてる。夜になれば潮が満ちる。今しかない」
その言葉に、ルナは少しの間考えたが、結局頷いた。
「わかった、私も行く。
二人の方が早いでしょ」
リュウジは少しだけ驚いたように目を向けたが、反対はしなかった。
「無理はするなよ」
二人は焚き火のそばにいる皆に軽く声をかけ、海岸へ向かった。
外は薄暗く、雨脚は弱まりつつある。
雲の切れ間から、淡い夕光が波に反射していた。
潮の香りが強くなり、海面には救助船の光がゆらめいている。
その光に導かれるように、リュウジとルナは並んで歩いた。
「……あの光、どこに落ちたんだろう」
ルナが呟くと、リュウジは少し先を見据えながら答える。
「浜辺の端、岩場の方だと思う。海流が弱いから、まだ流されていないはずだ」
波が足元を洗い、二人の影が濡れた砂に揺れる。
ルナはふと、隣を歩くリュウジの横顔を見た。
雨に濡れた髪が頬に張り付き、真剣な瞳がわずかに光を映している。
(……この人は、どこまで覚悟しているんだろう)
胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
だが、その思いを口には出さず、ただ一歩、彼の後を追った。
――海の果てで輝く“光”が、
やがて彼らの運命を、大きく変えていくとも知らずに。
⬜︎
冷たい雨は止む気配を見せなかった。
灰色の空と荒れた波が溶け合い、世界はまるで薄い霧の幕の中に沈んでいるようだった。
リュウジとルナは波打ち際を進みながら、海面の先に漂う青白い光を見つけた。
「このあたり……ね」
ルナが濡れた髪をかき上げながら呟く。
リュウジは頷き、視線を鋭く走らせた。
雨の帳の中で、砂の上に金属の塊が半ば埋もれていた。
近づくと、外殻には焼け焦げた跡があり、波に打たれながらも微かに光を放っている。
「……脱出ポッドだな」
リュウジの声は低く、確信に満ちていた。
ルナは驚いて目を見開く。
「誰か、乗ってるの……?」
「生命維持ランプが点いてる。中に人がいる」
リュウジは側面のレバーを引き、緊急開放装置を操作した。
「プシィィィ……」と空気の抜ける音が響き、ハッチがゆっくり開く。
中から、白髪まじりの男性が姿を見せた。
濡れた作業服を着て、頬には油の汚れが残っている。
しかし、その目には確かな力が宿っていた。
「おじいさん……?」
ルナが思わず声を漏らす。
男は軽く咳き込みながら、のそりと上体を起こした。
「……ふぅ、死ぬかと思ったわい。あー、腰が……」
その声には不思議と張りがあり、雨の音を押し返すように響く。
「無理に動かないで!」
ルナが慌てて支えると、男は片手を上げて笑った。
「大丈夫じゃ、嬢ちゃん。年寄りをなめたらいかん」
リュウジは目を細め、落ち着いた口調で尋ねた。
「……あんた、どこの船の乗組員だ?」
男は額の汗と雨をぬぐい、胸のタグを指さした。
そこにはかすれて読みにくい文字で「POLTO」と刻まれている。
「ワシはポルト。恒星間輸送船《オリオン号》の整備士じゃ」
その一言に、リュウジとルナは顔を見合わせた。
「オリオン号って……救助船の?」
ルナの声に、ポルトは眉をひそめ、雨を見上げた。
「救助船、じゃと……? あの連中、まだ動いておったか……」
低く唸るように呟いたあと、ポルトは息を整えて言った。
「……《オリオン号》はジャックされたんじゃ。脱獄囚どもにのう。
ワシはどうにか脱出ポッドで逃げ出したが……」
「ジャック……?」
ルナの瞳が大きく揺れた。
ポルトは苦笑した。
「まったく、年寄りに厳しい時代じゃ。宇宙のど真ん中で犯罪者と一緒になるとは思わんかったわい」
それでも、その口調には不思議な明るさがあった。
まるで死の淵をくぐり抜けてきた人間の、達観した強さのように。
リュウジは真剣な表情でポルトの手首を取り、脈を確かめた。
「……問題ないな。だが休め。外はまだ冷える」
「気づかい、痛み入る。若いの」
ポルトは笑いながら立ち上がり、
「ふむ……この重力、地球型か。いい星じゃな」と空を見上げた。
冷たい雨が、白髪の上に降り注ぐ。
その姿は、どこか頼もしく、そして不思議な存在感を放っていた。
ルナは濡れたマントを外し、ポルトの肩にかけた。
「今は岩の窪みに避難しましょう。仲間もいるんです」
「おお、助かるわい。礼はあとでたっぷり言わせてもらう」
三人は雨の中、足を取られながらも岩陰へと戻った。
波の向こう、救助船《オリオン号》の灯が、
遠くで静かに瞬いていた――その光が、本当に“救い”なのかも知らぬまま。
⬜︎
警告――
雨脚はいっそう強まっていた。
波音と雨音が混ざり合い、遠くの海も空もひとつに溶けているようだった。
ルナとリュウジは、ポルトを支えながら岩の窪みに戻った。
中では、焚き火の明かりがわずかに灯り、他の仲間たち――カオル、メノリ、ベル、シャアラ、ハワード、シンゴ、チャコ、アダム――が身を寄せ合っていた。
「戻ったのね!」
ルナの姿を見つけたシャアラが、安堵の笑みを浮かべる。
だがその背後から、ルナに支えられた老人の姿を見て、全員の表情が変わった。
「だれ……?」
ハワードが警戒心をあらわにする。
ルナは息を整え、言葉を選ぶように告げた。
「この人はポルトさん。オリオン号の整備士さんよ」
その名を聞いた瞬間、全員が息を呑んだ。
「オリオン号……って、救助船の?」とベルがつぶやく。
ポルトは湿った髪を撫でつけながら、にかっと笑った。
「そうじゃ。まあ“元”整備士じゃがの。命からがら脱出してきたわい」
その声に一瞬安堵の空気が流れた――が、次の瞬間、ポルトの動きに皆が目を見張った。
老人は無言で、足元の焚き火に手を伸ばし、掴んでいた砂をばさりとかけたのだ。
「なっ……何をするんですか!」
シャアラが驚いて声を上げる。
火は一瞬で消え、窪みの中は闇に包まれた。
ただ、雨と風の音だけが響く。
「……火を見られるわけにはいかん。あいつらに気づかれる」
低く、しかし明瞭な声だった。
「“あいつら”って、誰のことだ?」
カオルの鋭い声が響く。
ポルトはゆっくりと腰を下ろし、濡れた作業服のポケットから、小型の金属部品を取り出した。
「お前たちの無線を聞かせてもらった。重力制御ユニットを探しておるんじゃろ? それなら、これを持ってきた」
手のひらの上で、部品がかすかに光を放っていた。
チャコが目を見開き、思わず前に出た。
「そ、それ……まさか、ユニットの中核部か!?」
「左様じゃ。これがなければ、ユニットは目を覚まさん。
……だがのう、あの救助船、いや――《オリオン号》には、まだ“奴ら”が乗っとる」
全員が息を呑んだ。
「どういうこと?」とルナが声を震わせる。
ポルトは眉を寄せ、苦々しい笑みを浮かべた。
「三人の脱獄囚じゃ。ワシが整備中に潜り込み、船を乗っ取った。
航行中に重力嵐に巻き込まれたが、奴らはまだ諦めとらん。
もし生きていれば、この星に降りてきとる」
「じゃあ……救助じゃなくて、奴らが……?」
ルナの声が小さく震えた。
ポルトは頷き、雨の外を見た。
「雨が降っているうちが好機じゃ。足跡を消しながら、お前達の宇宙船まで行く。
あのユニットを使えば、重力制御を復旧できる。先に手を打たんと、取り返しがつかん」
カオルが無言で立ち上がる。
「……なら、俺はここに残る。あの船を監視する」
「カオル?」
ルナが振り返ると、カオルは小さく頷いた。
「奴らの動きを見ておく。こっちに来るようなら、すぐに知らせる」
そしてリュウジに視線を向ける。
「ルナを頼む」
リュウジは短く頷いた。
「任せろ」
ルナは唇を噛み、カオルに言った。
「……気をつけてね」
「お前もな」
ポルトはリュウジの肩に手を置いた。
「案内を頼む。……年寄りは雨に弱くてな」
「無理しないでください」
ルナが言うと、ポルトはにこやかに笑った。
「はは、こう見えても、まだ現役の整備士じゃよ」
三人は、雨の闇の中へと消えていく。
背後に残ったカオルは、焚き火の灰を指でなぞりながら呟いた。
「――脱獄囚、か。…何事もなく済めばいいがな」
外では雷鳴がとどろき、オリオン号が遠くで、赤く瞬いた。
⬜︎
冷たい雨が降りしきるなか、一行は泥の道を慎重に進んでいた。
森の木々が風にしなり、葉のしずくが一滴、また一滴と落ちてくる。
ルナは肩にかけた布袋を押さえながら、前を行くポルトとリュウジを追いかけた。
カオルは海岸に残り、脱獄囚の様子を監視している。
遺跡へ向かうのは、ルナ、リュウジ、メノリ、ハワード、ベル、シャアラ、シンゴ、チャコ、アダム――そして、ポルトの九人だった。
「滑るから気をつけて」
ルナが声を張ると、ベルがうなずいて先頭のリュウジに続く。
「まったく、雨ばっかりだな。靴の中がもう池だよ」
ハワードがぼやく。
「文句を言う前に足を動かせ」
メノリの冷静な声が返り、ハワードは口をつぐんだ。
「この湿気、ウチの内部センサーも誤作動起こしそうや」
チャコがぼやくと、隣を歩くアダムが心配そうに覗き込む。
「チャコ、大丈夫? さっきから震えてる」
「ウチのは震えてるんやない、味わっとるんや。この星の“雨”っちゅうもんをな」
「……なんか詩的ね」
シャアラがくすっと笑い、少しだけ空気が和らいだ。
その時、ポルトがふと振り返った。
「おぬしら……ロカA2の“ソリア学園”の生徒たちじゃな?」
ルナは驚いて足を止めた。
「え……? どうして、それを?」
「いやぁ、わしもずいぶん前にニュースで見た。
“重力嵐に巻き込まれ、修学旅行船ノヴァ・セレスティア行方不明”――あれは銀河でも相当な騒ぎになったんじゃよ」
「……銀河でも?」
ルナの瞳が大きく揺れた。
「うむ。各コロニーで報道された。探索艦が十隻以上派遣され、
なかでもハワード財閥が懸賞金をかけておった。“息子を見つけた者には百億単位の報奨金”とな」
「ひゃ、百億ぅ!? 俺そんな価値あったのか!?」
ハワードは叫び、顔を引きつらせた。
ベルが苦笑して肩をすくめる。
「ハワード、自分で言っても……でも、すごい話だな」
「すごいどころじゃない」
メノリは驚きとともに呟いた。
「銀河規模のニュース……私たちの存在が、まだ覚えられていたなんて」
「それだけじゃない。おぬしらの親たちは、今でも探しとる。
ハワード家だけやない、他のコロニーからも捜索チームが出とったんじゃ」
ポルトはしわの刻まれた手で杖代わりの棒を突きながら言った。
ルナは、胸の奥が熱くなった。
「……ずっと、誰にも知られずに生きてると思ってた。
でも、探してくれてたんだね……」
「けどな」
リュウジが雨の向こうを見つめながら口を開いた。
「この惑星は、どの星図にも載っていない。
重力嵐に巻き込まれた時点で、座標が数光年単位でずれている可能性もある。
――偶然、ここに流れ着いたのは奇跡だ」
「……それでも、希望はある」
ルナがまっすぐ前を見た。
「だって、誰かが探してくれてるんだもん。今も、どこかで」
ポルトはゆっくりと頷き、微笑んだ。
「おぬしはええ子じゃな。希望はな、消えんもんじゃ」
その言葉に、シャアラがほっとしたように息をついた。
「……なんだか、心が少しあったかくなりました」
雨の音が再び強くなる。
ポルトは立ち止まり、空を見上げた。
「もうすぐや。――この先を抜ければ、遺跡が見えてくる」
その声に、一行は顔を上げた。
重い雨雲の下を進む彼らの足取りには、不安も希望も入り混じっていた。
――この星で、生き延びてきたすべての時間を抱えて。
⬜︎
遺跡の入り口に着いた頃、雨はまだ細かく降り続いていた。
濡れた岩肌が淡く光り、冷たい風が頬をなでていく。
「ここが……」
ポルトは目を細め、壁面を見上げた。
「なんちゅう構造じゃ……ワシの知っとるどの宇宙船とも違う。
古代技術か、あるいは……ずっと前の文明の遺産かもしれん」
その声に、ルナも息をのんだ。
遺跡の内部には白く光る管が通り、かすかに鼓動のような振動を伝えている。
まるでこの建造物そのものが“生きている”ようだった。
「ポルトさん、重力制御ユニットの取り付けはどこで?」とシンゴが尋ねる。
「こっちじゃ」
ポルトは奥の円形台座へ向かい、チャコと並んで配線を確認した。
「出力ライン、正常!」
「データ端子、接続完了や!」
「電源、投入――」
わずかな音とともに、ユニットのコアが淡い光を放つ。
遺跡全体が静かに脈打ち、空気が変わった。
「やった……! 本当に動いた!」
ルナが笑顔を見せると、ポルトは少し照れくさそうに頷いた。
「まだ仮稼働じゃが、安定しとる。これで気候制御も戻るはずじゃ」
その時、外から吹き込む風がぴたりと止まった。
リュウジが入口に立ち、雨の止みかけた空を見上げる。
雲の切れ間から、うっすらと光が差していた。
だが――その目には、喜びよりも警戒の色が浮かんでいた。
「……晴れてきたね」
ルナが彼の横に並んで呟く。
「ああ」
リュウジの声は低かった。
「雨が止めば、奴らが動く。――脱獄囚どもが」
ルナの表情が一瞬にして強張る。
「……そんな」
「天候が回復すれば、煙も足跡も見えるようになる。
カオルが見張ってるが、もし気づかれたらここまで来るのも時間の問題だ」
ルナは唇を噛み、遺跡の奥を振り返る。
チャコとシンゴが作業を続け、ポルトは制御盤の数値を確認している。
平穏な光景なのに――胸の奥がざわついた。
「……そういえば、あの無線の声。思い出せた?」
ルナが問うと、リュウジは静かに首を振った。
「いや……まだだ。過去の記憶をいくら辿っても、輪郭が掴めない。
でも……聞いたことがある気がする」
その声には、ほんのわずかな戸惑いが滲んでいた。
ルナは彼の横顔を見つめながら、小さく呟いた。
「……どんな人なんだろうね」
「それが問題だ」
リュウジは目を細め、遠くの空を睨んだ。
「もし敵なら、この星の平穏は一瞬で壊れる」
外では、雨が完全に止み、雲の隙間から青がのぞき始めていた。
湿った地面から蒸気が立ち昇り、森の匂いが濃くなる。
だがその静けさが、かえって不気味に思えた。
「ルナ」
「なに?」
「もし、何かあったらすぐにアダムと一緒にここを離れろ。いいな」
「リュウジ……」
その声の奥に、ただならぬ覚悟があった。
ルナは何も言えず、ただ小さく頷いた
⬜︎
海岸に吹きつける雨は、ますます勢いを増していた。
灰色の雲が低く垂れ込め、遠くの海面は白い波頭で覆われている。
岩の窪みに身を潜め、カオルは静かに息を殺していた。
見張り役は自分ひとり。
冷たい潮風が頬を刺すたび、雨粒が地面の砂を黒く染めていく。
――動いたな。
沖合のオリオン号が、わずかに傾いた。
艦の側面から、黒い影が三つ、海へ滑り降りる。
小型ボートが波間に落ち、静かに水を切って進みはじめた。
カオルは身を低くして、濡れた岩越しにその様子を見守る。
エンジンの音はない。
風と波の音に紛れ、ただ異様な静けさだけが漂っていた。
やがて、先頭に立つ男が手を海面に伸ばした。
その瞬間、海が爆ぜるように盛り上がり――ボートが一気に加速した。
ボートはあっという間に波を駆け抜け、西の海岸に滑り込む。
浅瀬にぶつかる寸前、三つの影が軽やかに飛び降りた。
砂浜を踏みしめる音が、雨音の中で異様に響く。
カオルは岩陰からじっとその姿を見据えた。
一人は、腰に黒光りするレーザー銃を提げた中年の男。
無精ひげを生やし、眼光は鋭い。
リーダーのようだ――その周囲の空気が違っていた。
もう一人は、長い銀髪の女。
腰には、蛇のようにうねる電気ウィップが巻かれており、
時折、青白い火花を散らしては雨を照らしていた。
その笑みには、楽しげな残酷さが宿る。
三人目は――巨躯の男。
全身の半分が金属に覆われ、機械の義肢が鈍く光を放っている。
歩くたびに「ギシ…ギシ…」と、鉄が軋む音が響いた。
カオルは喉の奥で息を止めた。
(……あれが脱獄囚、ってわけか)
彼らは海岸に立ち、空を見上げていた。
何かを探すように、周囲を見回している。
リーダー格の男が指を鳴らすと、サイボーグの男が頷き、
海辺に立つ岩を軽々と持ち上げた。
信じがたい腕力――人間のものとは思えない。
「……やっぱり、ただの犯罪者じゃないな」
カオルは低く呟き、雨の音に紛れて立ち上がった。
――ルナたちに知らせないと。
だが、今はまだ動けない。
この雨が止むまでは、足跡を残すわけにはいかない。
カオルは岩陰に戻り、静かに呼吸を整えた。
稲光が一閃し、空を裂く。
雷鳴が響いた瞬間、海岸の影がふと振り返る。
カオルは体を伏せた。
心臓が高鳴る――
だが、そのまま奴らは海の方へ視線を戻す。
「……危ない」
小さく吐き出した息が、冷たい風に消えた。
遠く、雨に煙る遺跡の方角を見つめながら、カオルは歯を食いしばった。
「……早く知らせないと」
⬜︎
遺跡の入口に、荒い足音が響いた。
振り向いたリュウジの視線の先には、ずぶ濡れのカオルが立っていた。
雨に打たれた髪から滴が落ち、息は荒く、手には泥がこびりついている。
「……カオル!」
ルナが駆け寄ると、カオルは肩で息をしながら低く告げた。
「――脱獄囚たちだ。……奴ら、もう“みんなの家”にいる」
その一言に、全員の表情が凍りついた。
「みんなの家に!?」とシャアラが声を上げ、
「まさか、俺たちの拠点を……」とベルが拳を握りしめた。
「間違いない。三人だ。銃と電撃武器、それにサイボーグの化け物が一人」
カオルの声は低く、焦りを押し殺している。
「オリオン号からボートで渡ってきた。……今は様子を伺ってるが、いずれ動く」
沈黙が落ちた。
だがその沈黙を破ったのは、カオルの鋭い視線だった。
「……ところで、ハワードは?」
その問いに、場の空気が変わった。
ルナが周囲を見回し、ポルトも眉をひそめた。
「さっきまで、ここにおったはずじゃが……?」
「ハワード?」
シャアラが声を上げたが、返事はない。
いつも賑やかな彼の姿が、どこにも見当たらなかった。
嫌な予感が走る。
リュウジが壁際に置かれた装置の箱を覗き込み、
「……無い」
と低く呟いた。
「何が?」
ルナが尋ねる。
「姿勢制御ユニットの収納ケースだ。中身が空だ」
「ええっ!? まさか、ハワードが――」
メノリの声が強張る。
ポルトがすぐに遺跡のコンソールを確認し、険しい顔で言った。
「落ち着け。ハワードが持ってったのは“本体”やない。
ここに残っとるデータを見るに、奴が持ってったのは――
“姿勢制御ユニットのメモリー”じゃ」
「メモリー?」
ルナが聞き返す。
「要は、ただのバックアップや。本体とリンクしてなきゃ意味はない。
宇宙船本体に影響は出ん」
安堵の息がいくつか漏れたが、リュウジの顔は曇ったままだ。
「だが、問題は別だ。……奴らに見つかれば、ハワードが狙われる」
「行くぞ」
リュウジが即座に立ち上がる。
「カオル、もう一度案内してくれ。ルナ、メノリ、ここを頼む。
万が一に備えてポルトさんたちはユニットを守ってください」
ルナは頷きながらも、胸の奥に不安が広がっていくのを感じた。
――ハワード、お願い、無事でいて。
そのとき、外の空が再び唸りを上げた。
厚い雲の隙間から、陽光が差し込み、湿った森が不気味に光る。
その光の向こうには、すでに“異質な影”が動き出していた。
⬜︎
遺跡の操縦室には、雨が滴るような静けさが満ちていた。
リュウジとカオルは救助装備を手早く整え、外に出ようとしたその瞬間――
無線機が突如、低い唸りを上げた。
「……おい! 聞こえるか! 聞こえたら返事をしろ!」
冷たく乾いた声。
威圧的ではないが、どこか底の見えない圧があった。
リュウジは即座に動きを止め、ルナが無線機に手を伸ばした。
「全員、ここに集まれ!」
メノリの声で、仲間たちは次々と操縦室へ駆け込む。
雨音が壁を叩き、遠くで雷鳴が響いた。
ポルトが顔をしかめ、無線機に耳を寄せた。
「……この声は……ブリンドー! 脱獄囚の一人じゃ!」
その名が告げられた瞬間、リュウジの瞳が鋭く見開かれた。
――やはり、奴か。
「メカニックのジジイか!」
無線の向こうから、怒声が響いた。
「おいこのクソジジイ! よくも一人で逃げやがったな!」
「当り前じゃ!」
ポルトがふてぶてしく鼻を鳴らした。
「なんだったら輸送船ごとぶっ飛ばしてやればよかったわ!」
「なんだと! 今度会ったらボキボキにへし折ってやる!」
無線の奥で、何人かが笑っている。
その軽薄さが、かえって不気味だった。
ルナは声を整え、静かに問うた。
「それで――要件はなんなの?」
間を置いて、ブリンドーの声が返る。
「ハワードとかいうガキは預かった。
こいつを返してほしかったら、本物の“姿勢制御ユニット”を持って来い」
操縦室の空気が一気に重くなった。
カオルが拳を握りしめ、唇を噛む。
「……間に合わなかったか」
雨音だけが響く中、無線からさらに声がした。
「返事はどうした?」
メノリがルナを見る。
「ルナ、どうする?」
ルナは黙って数秒考え、唇を結んだまま答えた。
「……ハワードの無事を確認させて」
「裏切者がどうなろうとも構わないってことか?」
ブリンドーの声は嘲るように冷たい。
「違うわ。ただ、ハワードの声を聞かせて。彼が生きてる証拠を」
「いいだろう。……来い!」
数秒後、無線から震える声が聞こえた。
「ルナ……僕だ。許してくれ……本当は、上手くいくはずだったんだ……」
その声にルナが息を呑む間もなく、甲高い女の声が割り込んだ。
「ごちゃごちゃ言ってないで、さっさと命乞いでもしたらどうなの!」
バチッ――!
電撃がはぜる音、そしてハワードの悲鳴が響いた。
「分かったわ! もういいわ!」
ルナが思わず叫ぶ。
「じゃあ取引成立だ」
ブリンドーの声には、嗜虐的な笑みが滲んでいた。
「まだよ!」
ルナの声が鋭く跳ねる。
「……なんだ?」
「あなたたちが武器を持っていることは分かっている。
姿勢制御ユニットを渡したあとで殺されたんじゃたまらないわ!
命の保証がほしいの!」
短い沈黙が流れた。
無線機の奥で、ブリンドーが笑った。
「保証だと? ふざけるな……」
次の瞬間、怒鳴り声が響く。
「交渉は決裂だ! ゆっくり狩りだしてやるから覚悟しておけ!」
通信が切れかけたその時――
「待て、ブリンドー」
低く、鋭い声が空気を裂いた。
操縦室にいた全員が息を呑む。
雨音が途切れたような一瞬の静寂。
無線機の奥から、湿った低音が再び響いた。
「……誰だ、貴様」
それに応じたリュウジの声は、まるで氷を伝うように冷ややかだった。
「――ドルトムント財閥の旅客機の時は随分と世話になったな」
操縦室の空気が一瞬、張り詰めた。
ルナも、メノリも、息を呑む。
その名が出るということは――彼が言う“あの事件”の真実に触れている。
ブリンドーは短い沈黙のあと、低く笑った。
「ほう……。その声、忘れちゃいねえ。
あの時のガキか。まだ生きてやがったとはな」
「お前のほうこそ。まだ空気を吸ってるとは思わなかった」
リュウジの口調は淡々としている。だが、その奥には確かな怒りがあった。
「ふん、あの事故で何人死んだ? 百? 二百? それとももっとか?」
ブリンドーの声に、嘲りが混じる。
「どっちにしろ、お前もその中の一人になるはずだった。
まさかあの宇宙船から生きて戻るとはな」
リュウジは言葉を噛み締めるように呟いた。
「お前たちは、どうしてあんなことをしたのか理由はなんだ!」
「理由?」
ブリンドーは軽く鼻で笑った。
「この宇宙のどこに、理由のある死がある?
欲と命令、それだけだ。たまたま金の匂いがする宇宙船を狙った
それだけのことだ」
「たまたま、だと……?」
ルナが息を呑んだ。リュウジの拳が小さく震える。
「その“たまたま”で、何百人もが犠牲になったんだぞ」
「へぇ。じゃあお前はその亡霊どもを背負って、まだ生きてるわけだ」
ブリンドーの声に揶揄が滲む。
「まったく、滑稽なもんだな。英雄気取りのガキが、地べたを這いずって生き延びてるなんて」
その言葉に、操縦室の温度が下がった気がした。
リュウジの目は、もはや怒りでも悲しみでもない――静かな怒りが宿っていた。
リュウジは無線に顔を近づけた。
「――お前のような奴が、また誰かを殺すのは、絶対に許さない」
「ククッ……いいねぇ、あの時と変わらねえ」
ブリンドーが満足げに笑う。
「いいだろう。お前に免じて、交渉には乗ってやる」
「条件は明日の日の出。
場所は東の森との境にある滝の下――場所はハワードが知ってる。ロープを降りた所だ。そこでハワードと姿勢制御ユニットを交換する」
リュウジの声は、まるで軍人のように正確だった。
「ふん……。妙な真似はするなよ、ガキが。
今度は、逃がしはしねえ」
「俺もだ。
あの日の決着を――この惑星でつけてやる」
その言葉と同時に、無線がブツリと切れた。
誰も息をしていないかのような静寂。
雨音だけが、遠くで囁くように続いている。
ポルトが小さく頭を振った。
「……あやつは危険じゃ。交渉など信じるな」
「分かってる」
リュウジの目は一点を見つめていた。
そこには恐怖ではなく、静かな覚悟があった。
ルナはそんな彼の横顔を見つめ、胸の奥に言葉にならない感情が込み上げる。
――リュウジは、まだ“あの日”に囚われている。