サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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初の定期便

 特別講師の面々が来てから、三日が過ぎていた。

 

 たった三日――そう言ってしまえば、それまでだ。

 けれど、その三日でスペースホープは確実に変わり始めていた。

 

 朝、フロアに入った時の空気が違う。

 以前は、誰かが入ってきても顔を上げない者が多かった。挨拶をしても返事はまばらで、返ってきたとしても細い声がぽつりと返るだけだった。今は違う。旅行事業部はもちろん、総務部でも、財務部でも、広報部でも、扉が開けば自然と「おはようございます」が返ってくるようになっていた。

 

 それは決して大げさな変化ではない。

 けれど、エリンにはそれが何より大きかった。

 

 会社に対する自信と誇りを失った人間は、まず最初に挨拶を失う。

 逆に言えば、挨拶が戻るということは、まだ立ち直れる余地があるということだ。

 

 総務部ではマユミが新しい申請フローの叩き台を作り、職員達がそれを使って実際に備品管理を試し始めていた。何がどこにあるのか、何が不足しているのか、誰が発注し、誰が承認し、どこまで進んでいるのか。その流れがようやく一つの地図として見えるようになってきた。

 

 広報部ではフレデリックの容赦ない添削を受けて、ホームページのトップ案が早くも三度書き直されていた。古い飾り文句は減り、代わりに「いま、この会社が何を取り戻そうとしているのか」が伝わる言葉が少しずつ並び始めている。写真の構図も変わった。見栄えだけではなく、“ここで働く人間の空気”を切り取ろうとする目が生まれ始めていた。

 

 財務部ではフレイが、曖昧なまま流れていた支出を一本ずつ分解し、必要経費とそうでないものを厳密に分け始めていた。断るべきものを断ることは、冷たさではなく会社を生かす責任なのだと、ようやく職員達も理解し始めている。

 

 そして旅行事業部は――。

 

 変化がいちばん大きく、いちばん騒がしかった。

 

 ペルシアとガーネットがそれぞれ見ながら、乗務員としての技術だけでなく、空気の作り方、人との距離の詰め方、緊急時の呼吸の置き方まで、実地に近い形で叩き込み始めていた。ペルシアは相変わらず賑やかで、気づけば関係ない話に脱線しそうになるが、それでも要所では鋭く本質を突く。ガーネットは静かで丁寧だが、曖昧さを許さない。教え方はまるで違うのに、どちらもエリンが信頼して呼んだ理由が、乗務員達には少しずつ分かり始めていた。

 

 エリンはその三日の間、自分が前へ出すぎないよう意識しながら、主にデスクワークへ比重を置いていた。各部署の進捗を整理し、スペースホープの現状を再確認し、今後の流れを組み立てる。旅行事業部だけが整っても駄目だ。会社として“動ける状態”を作らなければ、せっかく芽吹いた変化がすぐに萎れてしまう。

 

 その日も、エリンは自席で端末に向かっていた。

 

 画面には、今後一週間の仮スケジュールと、外部協力先の連絡先が並んでいる。旅行事業部の仕上がり具合から考えれば、本当ならまだ社内訓練を数週間は続けたい。けれど、現場を知らずして技術は完成しない。だからエリンはここ数日、いくつかの知り合いの会社や関係先へ連絡を入れていた。

 

 ――もし可能なら、実際の便の一部を、短期間だけでもスペースホープに任せてくれないか。

 

 無茶なお願いだと、自分でも分かっていた。

 いまのスペースホープは、まだ完全に信頼を取り戻したわけではない。むしろ、外から見れば立て直しの最中の、危うい会社だ。そんなところへ定期便の一部を任せるなど、普通なら断られて当然だった。

 

 それでも、頼まずにはいられなかった。

 

 そして。

 

「本当ですか!」

 

 思わず、エリンは電話機に向かって声を上げていた。

 

 静かなフロアに、その声が想像以上によく響く。

 近くにいた広報部の人間が思わず顔を上げるほどだった。

 

 エリンはすぐに口元を押さえたが、目の奥は一気に明るくなっている。

 

「ええ……はい、分かりました」

 

 椅子から立ち上がる。

 受話器を握る指先に、わずかな震えがあった。

 

 電話の相手は、エリンがドルトムント時代から付き合いのある会社の運航責任者だった。以前、トラブル便のフォローで何度も同じ現場に入ったことがあり、仕事ぶりを見てくれていた人物だ。だからこそ、完全に無理だと切られず、せめて話だけでも聞いてもらえた。

 

「それでは、よろしくお願いします」

 

 エリンは電話越しでも分かるくらい、きちんと頭を下げた。

 

「はい。ええ、本当に……ありがとうございます」

 

 通話を切る。

 

 受話器を置いた瞬間、胸の奥で何かが大きく跳ねた。

 嬉しさと、緊張と、責任の重さとが一気に押し寄せてくる。

 

 やった。

 いや、まだやってはいない。

 けれど、チャンスが来た。

 

 エリンは一度だけ大きく息を吐き、それから端末を閉じた。今ここでじっとしてなどいられない。まずは状況を整理し、誰にどう伝えるかを考えなければならない。

 

 真っ先に思い浮かんだのは、やはりペルシアだった。

 

 エリンは足早にフロアを出て、一班が訓練しているシュミレーションルームへ向かった。

 

 扉を開けると、そこにはちょうど、ペルシアが乗客の座席までの誘導を熱心に指導している最中の場面があった。

 

「違う違う、そこで自分が先に立ちすぎると、お客は“ついてこなきゃ”って焦るでしょ。そうじゃなくて、半歩斜め前。視線は相手の膝から胸元くらいを見る感じ。はい、もう一回」

 

 先ほどのような雑談混じりの空気ではなく、今はちゃんと仕事の顔になっている。

 明るいけれど締まりがあり、言葉が早いのに置いていかれない。乗務員達もペルシアのテンポに食らいつくように動いていた。

 

 ペルシアは扉のところに立つエリンを見つけると、すぐに片眉を上げた。

 

「エリン? どうしたの?」

 

 その声に、乗務員達も一斉にエリンへ視線を向けた。

 

「はい、手を止めない」

 

 ペルシアがすぐに言う。

 

 その一言で、乗務員達は慌ててまた動き始める。エリンはその様子を見て、少しだけ口元を緩めた。

 

「ちゃんとやってるのね」

 

「当たり前でしょ」

 

 ペルシアが鼻を鳴らす。

 

「それで?」

 

 そう言いながら、自然な足取りでエリンの方へ寄ってくる。乗務員達には聞こえない位置まで来ると、ペルシアは何かを察したように声を落とした。

 

 エリンはその耳元へ、ほとんど囁くように言った。

 

「知り合いの会社にダメ元でお願いしてみたんだけど」

 

「うん」

 

「明々後日の定期便から四日間、三便だけだけど、一フロア、スペースホープに任せてくれるって」

 

 その瞬間、ペルシアの目が大きく見開かれた。

 

「まじ!?」

 

 思わず声が出る。

 

 訓練していた乗務員達の肩がぴくっと揺れた。

 何事かと視線が集まりかける前に、エリンは小さく肘でペルシアをつつく。

 

「ええ。あ、皆んなにはまだ言わないでよ」

 

 ペルシアは慌てて口元を押さえた。

 

「今日の最後に私から伝えるから」

 

「うん、分かった」

 

 ペルシアがこくこくと頷く。

 だが、その顔は隠しきれないほど明るかった。

 

 エリンはもう一度だけ訓練中の一班を見た。

 今この瞬間、彼らはまだ知らない。数日後、自分達に本物の便が回ってくるかもしれないことを。しかも訓練便ではなく、実際の定期便。その一フロアを、スペースホープの乗務員達が担当するのだ。

 

 これは、ただのチャンスではない。

 試金石だ。

 失敗すれば、また一歩どころか何歩も後退する。

 けれど、成功すれば――会社の空気そのものが変わる。

 

 エリンは乗務員達に気づかれないよう、静かにその場を離れた。

 

 

 その日の残り時間、エリンの頭の中はそのことでいっぱいだった。

 

 自席に戻ってからすぐ、定期便の時刻、ルート、客層、必要乗務員数、区画の広さ、担当可能な人数、パイロットとの連携方法まで、頭の中にある情報を片端から整理し始める。いくら三便だけとはいえ、現場へ出る以上は半端な準備では済まされない。

 

 四日間で三便。

 明々後日から。

 一フロアだけとはいえ、それは“練習”ではない。

 

 エリンは端末にメモを打ち込みながら、自然と目線をフロアの奥へ向けた。若い乗務員達の姿はまだない。午後の訓練に入っているのだろう。今この瞬間も、荷物対応やサービス動線、緊急時対応を学んでいるはずだ。

 

 ――間に合うか。

 

 ふと、そんな問いが胸をよぎる。

 

 いや、間に合わせるしかない。

 

 そのために特別講師を呼んだのだし、リュウジにも来てもらった。マユミ達にも、会社全体の立て直しを頼んだ。ここで躊躇すれば、せっかく開いた扉が閉まる。

 

 エリンはそこで、一度だけ深く息を吸い込んだ。

 不安がないわけではない。

 むしろ、不安の方が大きい。

 

 けれど、不安があるから止まるのではなく、不安があるから準備する。

 それが、宇宙で働く人間のやり方だと、エリンはもう知っていた。

 

 午後の時間も過ぎていく。

 

 広報部ではフレデリックが声を張り、総務部ではマユミが「だからそうじゃないってば!」と笑いながら職員達を引っ張り、財務部ではフレイの冷静な説明に職員達が青ざめていた。パイロット班の方からは、時折リュウジの短い指示が響く。

 

 そして旅行事業部の二班と一班も、それぞれの特別講師の下で、朝よりずっと濃い時間を過ごしているはずだった。

 

 日が傾き始め、人工照明の色味が少しずつ変わってくる頃、フロアへ戻ってくる足音が聞こえてきた。

 

 先に現れたのは、やはり一班だった。

 

 疲れている。

 それは一目で分かる。

 

 けれど、顔が沈んでいるわけではない。午前よりもさらに、何かを掴んできた顔をしていた。ペルシアが何をどう教えたのかは見なくても想像できる。騒がしく、笑わせて、でも最後にはしっかり芯を残す。そういう指導をしたのだろう。

 

 ミラがフロアに入ってきて、エリンの姿を見つける。

 その瞬間、エリンの胸の奥で小さく熱が生まれた。

 

 伝えなければならない。

 

 今日の最後に、自分の口から。

 そして、その意味も重さも、ちゃんと話さなければならない。

 

 エリンは椅子からゆっくり立ち上がった。

 その動きに気づいて、旅行事業部の乗務員達が少しずつ足を止める。

 

 ペルシアはエリンの方を見て、ほんの少しだけ目元を細めた。

 言うのね、とその表情が語っている。

 

 ガーネットとランを含む二班も、少し遅れてフロアへ戻ってきた。

 気づけば、旅行事業部の全員がそこに揃っていた。

 

 静かになる。

 

 エリンは一人ひとりの顔を見た。

 この三日で、皆の顔つきは明らかに変わっている。まだ荒削りで、まだ未熟で、それでも今なら、言える。

 

 エリンは口を開いた。

 

 その前に、ほんの一瞬だけ、自分の胸の奥にある緊張を自覚する。

 期待させることは、怖い。

 でも、期待のないまま立ち直ることなど、もっと難しい。

 

 だから。

 

 エリンは旅行事業部の全員を見渡しながら、静かに言った。

 

「皆んな、少しいい?」

 

 その声には、いつもより少しだけ、はっきりとした熱が宿っていた。

 

 

ーーーー

 

 

 エリンの声がフロアに落ちると、旅行事業部にいた全員の視線が自然と彼女へ集まった。

 

 さっきまで笑い混じりに話していたペルシアも、今は腕を組みながら、少しだけ口元を引き締めてエリンを見ている。ガーネットは二班を連れて戻ってきたばかりで、まだ資料を片手に持っていたが、そのまま静かに足を止めた。ミラとランも、それぞれの班の後ろから一歩前へ出るようにして、エリンの言葉を待つ。

 

 フロアの空気が、ゆっくりと静まっていく。

 

 エリンは一人ひとりの顔を見た。

 この三日で、皆の表情は変わった。まだ未熟で、まだ危うくて、まだ整えなければならないところは山ほどある。けれど、それでも最初にこの会社へ来た時とは違う。あの頃の、どこか宙に浮いたような目ではない。叱られても、疲れても、悔しくても、それでも前を向こうとする目になっている。

 

 だからこそ、今なら伝えられると思った。

 

「さっき、一本電話がありました」

 

 エリンは静かに口を開いた。

 

 乗務員たちの間に、わずかなざわめきが走る。

 ペルシアだけは何も言わず、にやりともせず、ただ黙ってエリンを見ていた。さっき耳打ちされた内容を知っているのは、まだ彼女だけだ。

 

「私の知り合いの会社に、ダメ元でお願いしていたんだけど」

 

 そこで一度、言葉を切る。

 

「明々後日から四日間、三便だけ。定期便の一フロアを、スペースホープに任せてもらえることになりました」

 

 次の瞬間、旅行事業部のフロアに驚きの声が弾けた。

 

「えっ!?」

「ほんとに!?」

「定期便!?」

「うそ……!」

 

 誰もが反射的に声を上げていた。

 それは無理もない。定期便という言葉の重みを、この場にいる乗務員たちはよく知っている。

 

 旅行会社のフライトと定期便は、似ているようでいて違う。

 旅行フライトは、目的そのものが“旅”だ。乗客は最初から非日常を楽しみにしているし、多少の余裕もある。空間の演出や会話の仕方、ちょっとした驚きや感動をどう作るかが大きい。

 

 けれど定期便は違う。

 そこには、仕事で移動する人間もいれば、生活のために乗る人間もいる。疲れている人、時間に追われている人、気持ちに余裕のない人もいる。旅を楽しみにしているお客様ばかりではない。だからこそ、求められるものが違う。華やかさよりも、正確さ。演出よりも、安心。空間の美しさも大事だが、それ以前に“乱れないこと”が何より重要になる。

 

 それを、ここにいる全員が理解していた。

 

 だからこその驚きだった。

 

 エリンは、その反応を受け止めながら続ける。

 

「旅行会社のフライトと定期便は違う」

 

 その言葉に、乗務員たちも自然と口を閉じた。

 

「でも、だからこそ、皆んなにとっていい経験になると思うの」

 

 声は穏やかだった。

 けれど、その中にははっきりとした意思があった。

 

「実際の宇宙船。実際の時間の流れ。実際のお客様。社内のシュミレーションではどうしても埋めきれないものがある。そこを知ることは、たぶん、今の皆んなにとって一番必要」

 

 誰も軽々しく返事はしなかった。

 嬉しい。怖い。信じられない。やってみたい。無理かもしれない。さまざまな感情が胸の内を一気に通り抜けていく。

 

 そんな中で、最初に声を出したのはペルシアだった。

 

「いいんじゃない?」

 

 軽やかな声。

 だが、その言葉は驚くほど場を落ち着かせた。

 

「実際にお客と接する、いい機会になるし」

 

 ペルシアは肩をすくめるようにして笑う。

 

「どうせ、どれだけシュミレーションしても、本番とは違うんだから。だったら、早めに“本物”を知っといた方がいいわよ」

 

 その物言いはいつものようにあっけらかんとしていたが、核心を突いていた。

 

 すぐに、ガーネットも頷く。

 

「私も賛成です」

 

 凛とした声が、フロアにまっすぐ通る。

 

「宇宙船という実際の環境を知る、いい機会です。重力の微妙な変化、通路の狭さ、音の響き方、乗客の目線の流れ、そういうものは教室では覚えきれません。経験することでしか、身につかない感覚があります」

 

 その言葉に、乗務員たちの肩から、ほんの少しだけ余分な力が抜けた。

 エリンが言うだけでは、まだ怖さが残る。

 けれど、ペルシアとガーネットが揃って背中を押したことで、その話が「無茶な挑戦」ではなく、「必要な機会」に見え始める。

 

 ミラとランも、無意識に顔を見合わせていた。

 

 定期便。

 宇宙船。

 現場。

 

 あの空気にもう一度近づけるかもしれない。

 そう思っただけで、胸の奥が静かに熱くなる。

 

 エリンはフロアを見渡しながら、続けた。

 

「ただし、一度に全員は乗せられない」

 

 当然の話だった。

 フロアを任せると言っても、いきなり二十人全員を送り込めるはずがない。実務には適正な人数があるし、定期便側の運航にも影響が出る。

 

「だから、五人一組で、四日間の定期便を全員に体験してもらう」

 

 また小さなざわめきが広がる。

 五人一組。

 つまり何便かに分けて、段階的に実地へ出すのだ。

 

「一便につき、スペースホープ側から乗り込むのは五人。そこに定期便側の最低限の既存クルーが入る形になるそうです。完全に丸投げされるわけではないけど、“任される側”として乗ることに変わりはないわ」

 

 その説明は、逆に乗務員たちの緊張を現実的なものへ変えた。

 夢のような話ではない。

 実際に、自分たちが働く場になるのだ。

 

 エリンは手元のメモを一度見て、それから顔を上げた。

 

「それじゃあ、最初の便の五人を言います」

 

 その瞬間、フロアに目に見えない緊張が走る。

 誰の名前が呼ばれるのか。

 まだ早いと思う者もいれば、自分は選ばれるのかと身構える者もいる。

 

 エリンははっきりとした声で告げた。

 

「クミコ、ハズキ、ミドリ、サリー、マユ」

 

 名を呼ばれた五人から、一斉に声が上がった。

 

「ええっ!?」

「わ、私ですか!?」

「うそ、最初!?」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 それも当然だった。

 呼ばれた五人は、この旅行事業部の中でもフライト未経験の新人五人だったからだ。

 

 周囲からもどよめきが起きる。

 もっと経験のある者が先だと思っていた人間も少なくない。ミラも一瞬、意外そうに目を瞬いた。ランも、驚きと同時にエリンの意図を探ろうとするような表情になった。

 

 クミコなどは、ほとんど立ち上がりそうな勢いで言った。

 

「で、でも、私たちまだ新人ですよ!?」

 

「そうです!」

「一番最初って、普通、もっと経験ある人からじゃ……」

 

 ハズキも、ミドリも、サリーも、マユも、それぞれが口々に不安を漏らす。

 

 エリンはその反応を予想していたのだろう。少しも動じなかった。

 

「大丈夫」

 

 静かに、けれどはっきりと言う。

 

「チーフパーサーとして、私も搭乗するから」

 

 その一言で、空気が変わった。

 

 驚きが、別の形へ変わる。

 エリン自身が乗る。

 それはつまり、ただ新人を放り込むのではなく、自分が前に立って連れていくということだ。

 

「なら、安心じゃん」

 

 すかさず言ったのはペルシアだった。

 

 その軽さが、また少しだけ皆の不安を和らげる。

 

「それと」

 

 エリンが続ける。

 

「臨時の副パーサーとして、ペルシアにも同行してもらうから」

 

 その言葉に反応したのは、真っ先にミラとランだった。

 

 目の前の景色が、ほんの少しだけ遠くなるような感覚があった。

 

 チーフパーサーのエリン。

 副パーサーのペルシア。

 

 その組み合わせを、二人は知っている。

 いや、知っているどころではない。自分たちがまだ右も左も分からなかった頃、一度だけ、その二人の下でフライトに参加したことがある。

 

 あの時の機内の空気。

 エリンの落ち着いた指示と、ペルシアの鋭くて速い判断。

 表と裏、静と動、まるで違うのに、不思議なほど噛み合っていた二人。

 新人だった自分たちはただ必死だったのに、それでも“この人たちが前にいるなら大丈夫だ”と、言葉にしなくても思えた。

 

 その二人が、もう一度同じ便に乗る。

 しかも今度は、自分たちの会社の新人達を連れて。

 

 ミラの胸の奥が、じんわりと熱くなった。

 ランもまた、言葉にはしなかったが、その表情は明らかに柔らかくなっていた。

 

 嬉しい。

 純粋に、そう思った。

 

 もちろん、自分たちがその便に乗るわけではない。

 最初に行くのはクミコたち五人だ。

 それでも、エリンとペルシアが揃って現場へ出ると聞くだけで、旅行事業部の空気が変わるように感じられた。

 

 ペルシアは両手を腰に当て、にやりと笑う。

 

「久々ねぇ、エリン」

 

「そうね」

 

 エリンも短く頷く。

 

「でも、遊びじゃないわよ」

 

「分かってるって」

 

 そう言いながらも、ペルシアの顔にはどこか懐かしそうな色が浮かんでいる。

 きっと彼女も同じなのだろう。あの頃の緊張と高揚が、少しだけ蘇っている。

 

 そのやり取りを見て、クミコたちはまだ不安そうな顔をしていたが、完全な恐怖ではなくなっていた。自分たちだけで投げ込まれるわけではない。前にはエリンがいて、隣にはペルシアがいる。それは、どれだけ未経験でも、大きな支えになる。

 

 エリンは五人へ視線を向けた。

 

「最初に未経験者を入れる理由、分かる?」

 

 クミコたちは小さく首を振った。

 エリンは静かに言う。

 

「変な慣れがないからよ」

 

 フロアが静まる。

 

「未経験者は怖い。何も知らないから、全部が怖い。でも、その分、最初に見たものが基準になる。最初に正しい空気、正しい動き、正しい緊張感を身体に入れれば、それはこの先ずっと基礎になるの」

 

 その言葉に、ミラもランも納得したように頷いた。

 たしかにそうだ。中途半端に自己流で覚えたものを矯正するより、何も色がついていない状態で“本物”を体験させた方が、後の伸びは大きい。

 

「もちろん、簡単な仕事しかしないわけじゃない」

 

 エリンは続ける。

 

「でも、いきなり全部を背負わせるつもりもない。まずは現場に立つこと。宇宙船の空気を知ること。お客様の目線を浴びること。そして、何より“自分たちができる仕事”と“まだできない仕事”を知ること」

 

 クミコたち五人は、真剣な顔でその言葉を受け止めていた。

 

 ハズキが、恐る恐る手を挙げる。

 

「……その、もし失敗したら、どうなりますか」

 

 正直な質問だった。

 きっと五人全員が聞きたかったことだろう。

 

 エリンは一拍だけ考えるように間を置いてから答えた。

 

「失敗するわよ」

 

 その言葉に、何人かが息を呑む。

 

「でも、それでいいの」

 

 エリンはすぐに続けた。

 

「現場に出て、一つも失敗しない人間なんていない。大事なのは、失敗しないことじゃない。失敗をどう小さくするか。失敗した時に、どう立て直すか。自分一人で抱え込まず、ちゃんと周りに繋げられるか。その方がずっと大事」

 

 クミコたちの表情が、少しずつ変わっていく。

 まだ怖い。

 でも、怖いままでいいと言われたような気がしたのだろう。

 

 そこでガーネットも静かに言葉を添えた。

 

「初めて現場に出る時、怖いのは当たり前です」

 

 その声には、自分自身もそれを知っている者の強さがあった。

 

「でも、怖いからこそ見えることがあります。お客様の表情、自分の癖、仲間の動き。全部が教科書になります。私は、それを知ることが出来るだけでも十分意味があると思います」

 

 ランはその言葉を聞きながら、ガーネットらしいと思った。

 恐怖を否定しない。

 でも、そのまま前へ連れていく。

 それが彼女の教え方だ。

 

 ペルシアはその空気を少し軽くするように言った。

 

「まぁ、何かあったら私がどうにかするわよ」

 

「軽い……」

 

 ミドリが思わず呟く。

 

「いやいや、本当よ?」

 

 ペルシアは胸を張る。

 

「私はこう見えて、本番に強いんだから」

 

「それは知ってますけど……」

 

 クミコが苦笑いを浮かべると、フロアに少しだけ笑いが戻る。

 

 エリンはその笑いが広がりすぎる前に、穏やかに言った。

 

「まだ時間はある。明々後日まで、五人は最優先で実地向けの訓練に入ります。他の皆んなも、自分たちには関係ないと思わないで。次は自分たちだから」

 

 その言葉に、五人以外の乗務員たちも気を引き締めた。

 最初の便は新人五人。

 だが、それで終わりではない。四日間、三便、全員が順に現場へ出るのだ。

 

「じゃあ、今日の残り時間から、便ごとの編成も少しずつ組んでいくわ」

 

 エリンは手元のメモを閉じた。

 

「五人は後で別に時間を取る。細かい説明はそこで。まずは全員、今の話を頭に入れて」

 

「はい!」

 

 返事が揃う。

 その声は、朝よりも明らかに大きかった。

 

 ミラはその響きを聞きながら、胸の奥で静かに思った。

 

 始まるのだ。

 本当に。

 もう、訓練だけではない。

 

 そして、もし可能なら。

 自分も、またあの二人と同じ便に立ちたい。

 エリンとペルシアの前で、新人だった頃とは違う自分を見せたい。

 

 そんな気持ちが、思いがけず強く湧き上がってくる。

 

 隣にいたランが、小さく息を吐いた。

 

「……嬉しいね」

 

 ごく小さな声だった。

 ミラだけに聞こえるくらいの。

 

「うん」

 

 ミラも、同じ温度で返す。

 

「すごく」

 

 前方では、クミコたち五人がまだ少し青ざめながらも、お互いの顔を見ていた。怖い。緊張する。けれど、逃げたいだけではない。そんな複雑な顔だ。

 

 ペルシアが、そんな五人の前にわざとらしく大きく回り込む。

 

「はいはい、新人五人組。そんな顔しなーい」

 

 手を叩く。

 

「エリンと私が乗るんだから、これ以上ないくらい豪華な初フライトよ?」

 

「そういう問題じゃないです!」

 

 ハズキがすぐに返し、フロアに笑いが広がる。

 

 エリンも思わず口元を少しだけ緩めた。

 

 緊張と不安と期待と高揚。

 その全部が混ざった、少し騒がしくて、でも確かに前向きな空気が、旅行事業部のフロアに満ちていた。

 

 それは、スペースホープが“変わり始めている”というより、“動き始めている”空気だった。

 もう止まれないし、止まる気もない。

 そういう熱が、そこにはあった。

 

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