サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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凄み

 次の日の朝、スペースホープの旅行事業部のフロアには、いつもより少しだけ浮ついたような、それでいて妙に引き締まった空気が流れていた。

 

 昨日、初めて定期便のフライトに乗ったクミコ、ハズキ、ミドリ、サリー、マユの五人は、早い時間に会社へ戻ってきていた。もっとも、その表情に“帰ってきたばかりの者らしい安堵”はあまりなかった。疲れていないわけではない。むしろ、身体の芯にはしっかり疲労が残っている。脚は少し重く、喉も乾きやすいし、肩にはじんわりと鈍い張りがある。

 

 それでも五人の顔つきは、明らかに変わっていた。

 

 昨日までのような、“これから初めて現場へ出る者”の頼りなさが薄れている。まだ新人だ。未熟さも当然ある。だが、視線の置き方も、立ち方も、言葉を受け止める時の間も、何かが違った。たった一日、たった三便。それだけで人はこんなに変わるのかと、他の乗務員が思わず見入ってしまうほどだった。

 

 そしてその変化は、五人自身よりも先に、周囲が気づく種類のものだった。

 

「……なんか、空気違わない?」

 

 朝のフロアで、ハズキ達が席に着くのを見ながら、若い乗務員の一人がぽつりと呟いた。

 

「分かる。疲れてるはずなのに、妙にしゃんとしてる」

 

「昨日までと立ち方が違うよね」

 

 そんな小声があちこちで交わされる。

 

 クミコ達はそれに気づいているのかいないのか、端末を立ち上げたり、制服の乱れを直したり、それぞれの準備を淡々と進めていた。だが、その動作一つひとつに迷いが少ない。必要以上に慌てず、必要以上にだらけてもいない。現場を一度通った人間特有の、静かな実感が身体に残っているのだろう。

 

 その一方で、今日もまた別の五人が、エリンとペルシアとともに定期便のフライトへ出ていた。

 

 昨日はクミコ達が“最初の五人”として現場に立った。今日は別の五人が、同じように本物のフライトの空気を浴びている。旅行事業部の全員に実地を経験させるというエリンの方針は、着実に進んでいた。

 

 だからこそ、残った乗務員たちは遊んでいるわけにはいかない。

 今日、会社へ戻ってきたクミコ達五人も含め、他の乗務員たちは、ガーネットの元で訓練を続けることになっていた。

 

 シュミレーションルームへ集まった時、最初にその変化へ気づいたのは、やはりガーネットだった。

 

 彼女は、いつものように少し前へ立ち、全員を静かに見渡してから口を開こうとした。だが、その前に、視線が自然とクミコ達五人へ吸い寄せられる。

 

 昨日までと、何かが違う。

 

 それも、単純な“自信がついた顔”ではない。

 もっと細かいところだ。

 

 立ち位置。

 重心。

 返事の前の呼吸。

 人の話を聞く時の視線。

 それらが、訓練だけを積んでいた時とは違う深さを持っていた。

 

 ガーネットは、その違和感を言葉にする前に、まず訓練を始めることにした。

 

「それでは、今日は昨日の基礎を踏まえた上で、サービス動線と緊急時対応を組み合わせて確認します」

 

 いつも通りの、凛とした声。

 

「まずは二班に分けますが――」

 

 そこで彼女は一拍置き、クミコ達五人へ目を向ける。

 

「クミコ、ハズキ、ミドリ、サリー、マユ。あなたたちは最初に前へ出てください」

 

 呼ばれた五人はすぐに動いた。

 その“すぐ”の質が違っていた。

 

 昨日までなら、呼ばれた瞬間に反射的に身体が跳ね、その後で慌てて前へ出るような動きになっていた。だが今は違う。返事をしてから、必要な分だけの速度で出てくる。速すぎず、遅すぎず、空間を乱さない動きだ。

 

 ガーネットは、その時点で内心かなり驚いていた。

 

 たった一日で、ここまで変わるものなのか。

 いや、変わるのだろう。

 本物の現場は、それだけの重さを持っている。

 

「じゃあ、まずは乗客の乗り入れから、座席までの誘導、そのあと簡易な対応まで一連でやってみてください」

 

 ガーネットの指示に、五人は自然と互いの位置を確認し合った。

 それも、昨日の訓練の時とは違って、誰か一人が勝手に前へ出るのではなく、目線と小さな頷きで役割を確かめている。

 

 クミコが前方。

 ハズキが入口側の空気を作る。

 ミドリが荷物対応を見る。

 サリーが中ほどの流れを拾い、

 マユが後方の座席確認を補う。

 

 その形が、言葉にしなくても自然に整っていた。

 

 模擬の乗客役が動き始める。

 

 最初に声をかけたのはハズキだった。

 

「いらっしゃいませ。本日はご利用ありがとうございます」

 

 明るい。

 けれど、昨日までのように前へ飛び出す明るさではない。

 空気を軽くするのに、うるさくない。

 乗客役を務める他の乗務員も、思わず少しだけ表情を緩めた。

 

 そこからの流れも良かった。

 

 クミコは前へ出すぎず、半歩斜め前の位置で座席までの道を作る。

 ミドリは荷物の向きや通路の詰まり具合を見ながら、必要な時だけ確実に手を入れる。

 サリーは一度、入口側で少し空気が滞りそうになった時、迷わず一人を引き取って中へ流した。

 マユは後方で座席番号に迷う乗客役へ自然な声掛けをし、そのまま動線を崩さずに収める。

 

 一連が終わった瞬間、シュミレーションルームの空気がわずかに変わった。

 見ていた乗務員たちの表情が、はっきりと変わったのだ。

 

「……え、すごくない?」

 

 誰かが思わず小さく呟いた。

 

「昨日までと全然違う」

 

「ていうか、本物っぽい」

 

 その声に混じって、ガーネット自身も静かに息を吐いた。

 

 驚いた。

 本当に、驚いた。

 

「もう一回、今度は通路中ほどで荷物対応が重なった想定で」

 

 そう言って次の場面を作る。

 今度はもっと詰まる。もっと判断が要る。

 だがクミコ達五人は、今度も止まらなかった。

 

 もちろん完璧ではない。

 クミコはまだ前方で流れを引っ張りすぎる気配がわずかにある。

 ハズキは、やはり想定外が入ると声が半拍高くなる。

 ミドリは判断の前に“確認”を入れたがる。

 サリーは気づいたあと、自分が入るまでに一拍だけ空く。

 マユは見られている意識が戻ると表情が硬くなる。

 

 だが、それでも違う。

 

 彼女たちは“自分たち五人で一便を支える形”を、一度本物の空間で経験してきたのだ。

 その経験は、訓練の中でも確実に表に出る。

 

 ガーネットは二回、三回と場面を変えて確認したあと、ついに静かに言った。

 

「……驚きました」

 

 その一言に、クミコ達五人が少しだけ目を見開く。

 

「昨日までと、立ち方も、視線も、間の取り方も違います」

 

 ガーネットは余計な誇張をしない人だ。

 だからこそ、その言葉には重みがあった。

 

「やはり、一度でも現場を知るのは大きいですね」

 

 クミコ達は、何だか少しくすぐったいような気持ちになった。

 褒められている。

 しかも、ガーネットに。

 

 それだけでも大きい。

 けれど、五人の中には同じ思いがあった。

 

 これは、自分たちだけの変化じゃない。

 あのフライトで、エリンとペルシアを間近で見たからだ。

 

 そのことを、誰より早く口にしたのはハズキだった。

 

「いや、でも」

 

 彼女はちょっと興奮したように言った。

 

「ほんと、エリンさんとペルシアさんが凄かったんです」

 

 その一言で、周囲の乗務員たちの耳が一斉にそちらへ向く。

 

「どう凄かったの?」

 

 まだ実地に出ていない乗務員の一人が、思わず身を乗り出す。

 

 すると、今まで少し抑えていたクミコ達の口が、一気に開いた。

 

「同じフライト便に乗れば分かる」

 

 クミコが真顔で言う。

 

「いや、本当に」

 

 ミドリも珍しく強い口調で頷いた。

 

「私たち、ずっと一緒に訓練受けてたじゃないですか。でも、現場の二人は、全然違うんです」

 

 そこから先は、五人がそれぞれに言葉を重ねていく形になった。

 

「エリンさんって、目立って前に出るわけじゃないんですけど、気づいたら必要な場所にいるんです」

 

 サリーが言う。

 

「しかも、“今直した”って分からないくらい自然に荷物整えたり、声かけたりしてて」

 

「そうそう!」

 

 ハズキが大きく頷く。

 

「しかも、乗客に気づかれないんですよ。私だったら絶対、“今直しますね”って言っちゃうと思うのに、エリンさんはもう動きの中で済ませてるんです」

 

「あと、全体を見てる感じがすごい」

 

 マユも口を開いた。

 

「前も後ろも見てるし、誰がちょっと詰まってるかも、乗客が何に困りそうかも、全部分かってるみたいで」

 

「ペルシアさんは、もっと別の意味で凄いんです」

 

 今度はクミコだった。

 

「あの人、何か起こる前に動いてるんです」

 

「分かる!」

 

 ミドリが思わず声を上げる。

 

「頼まれてないのに、先に水のこと聞いたり、荷物のこと声かけたりしてて……しかも押しつけっぽくないんです」

 

「あと、子ども連れの人とか高齢の人とか、ちょっと大変そうな人への入り方が自然すぎる」

 

 サリーが続ける。

 

「“助けてます”って感じじゃなくて、“最初からそこに必要だったもの”みたいに入るの」

 

 聞いていた乗務員たちは、みな真剣な顔になっていた。

 まだ実地に出ていない者ほど、その説明に引き込まれていく。

 

「それに」

 

 ハズキがぐっと声を落として言った。

 

「何より、二人のコンビネーションがやばいんです」

 

「やばいって」

 

 誰かが苦笑するが、ハズキは本気だった。

 

「いや、本当に。視線とか、すれ違う時の一言だけで通じてるんですよ」

 

「大きい指示とかじゃないんです」

 

 ミドリが補足する。

 

「本当にちょっとした視線とか、“後ろ、ひとつ”みたいな短い言葉だけで、次の動きが変わるんです」

 

「見てて思いました」

 

 マユが静かに言う。

 

「私たちが“フォローし合おう”って思ってやってることを、あの二人はもっと自然に、もっと前の段階でやってる」

 

「うん」

 

 クミコが頷く。

 

「こっちはやっと“誰かを助けなきゃ”って考えて動くのに、二人はもうその前に次の空気まで作ってる感じ」

 

 ガーネットは、その話を黙って聞いていた。

 

 五人の言葉は、単なる憧れでは終わっていない。

 ちゃんと見た上で言っている。

 その目線が、すでに少し変わっているのだ。

 

 それが何より、昨日のフライトの成果だとガーネットは感じていた。

 

 彼女は静かに口を開く。

 

「そうやって“凄かった”で終わらずに、何がどう凄かったのかを言葉に出来るようになったのも、大きな変化ですね」

 

 クミコ達五人が、少しだけ姿勢を正す。

 

「見てきたことが、ちゃんと自分たちの中に入っている証拠です」

 

 その言葉に、五人はそれぞれ少しだけ胸が熱くなった。

 

 まだ、あの二人みたいにはなれない。

 むしろ、あまりにも遠い。

 

 けれど、ただ圧倒されて終わったわけではない。

 何が凄いのか、どこが違うのか、それを少しでも掴んで持ち帰れたのなら、それは次の自分たちの糧になる。

 

 ガーネットはそこで、全員を見渡して言った。

 

「それでは続けましょう」

 

 静かな声。

 けれど、そこにはいつもより少しだけ熱が混じっていた。

 

「現場を一度見た五人と、まだ見ていない人とで、今は差があるように感じるかもしれません。でも、その差は埋まります。大事なのは、見てきた人が言葉にして残すこと、まだ見ていない人がそれを想像しながら訓練することです」

 

 そしてクミコ達五人へ目を向ける。

 

「今日は、あなたたちが見た現場の空気を、ここにいる皆へ少しでも還元してください」

 

「はい」

 

 今度の返事は、以前よりずっと落ち着いていた。

 

 そこからの訓練は、昨日までとはまた違う色を帯びた。

 

 クミコ達五人は、ただ指示を受けて動くだけではなく、「エリンさんならここで前に出すぎない」「ペルシアさんならこの人へ先に声をかける」といった形で、自分たちが現場で見たものを言葉にしながら練習へ落とし込んでいった。

 

「クミコ、今ちょっと前に出すぎ」

 ハズキが言う。

「うん、分かってる。エリンさんなら、もう半歩後ろだった」

 クミコがすぐに位置を直す。

 

「ハズキ、その人ちょっと急いでるけど、こっちが速くなりすぎると逆に空気乱れる」

 ミドリが言う。

「了解。じゃあ先に“すぐご案内します”って入れる」

 ハズキがやってみせる。

 

「サリー、その人少し困りそう」

 マユが小さく言う。

「うん、今入る」

 サリーが前へ出る。

 

 そうしたやり取りが、訓練の中に自然と生まれていく。

 

 見てきた五人が、まだ見ていない者へ現場の温度を伝える。

 それは、エリンやペルシアが教えるのとはまた違う意味を持っていた。

 

 同じ新人目線だからこそ伝わることがある。

 どこで怖くなったか。

 どこで視野が狭くなったか。

 どこで“あ、こうすればいいんだ”と繋がったか。

 それを自分たちの言葉で語れることが、何より大きかった。

 

 昼を回る頃には、ガーネットですら明らかな変化を認めざるを得なかった。

 

 一度現場を経験した五人がいるだけで、シュミレーションルームの空気が変わる。

 訓練が単なる反復ではなく、“本物に近づくための確認”へ変わる。

 

 ガーネットは内心で、やはり実地の経験は大きいと改めて思った。

 もちろん、経験だけでは駄目だ。

 ただ現場へ出しても、振り返りがなければ雑な自信になる。

 だが、エリンはそこを外していない。

 

 現場へ出す。

 反省させる。

 共有させる。

 そしてまた訓練へ戻す。

 

 この循環があるからこそ、たった一日でも人は変わるのだ。

 

 休憩を挟んだあとも、訓練は続いた。

 

 今度はガーネットが、わざと少し難しい場面を入れてみる。

 

「では、ここで予定変更です」

 

 その一言で、乗務員たちの背筋が伸びる。

 

「後方で荷物入れが一つ閉まらない想定。さらに、中央列で座席番号を勘違いした乗客が出ます。入口側には子ども連れ」

 

 少し前なら、この時点で空気が止まっただろう。

 だが今日は違った。

 

 クミコ達五人が、まず先に微かに目配せを交わす。

 大丈夫、というほど明確ではない。

 でも、“分かってる”という合図は、ちゃんとそこにあった。

 

 その動きに、まだ現場を見ていない乗務員たちも引っ張られるように反応する。

 入口を作る人間。

 中ほどを見る人間。

 後方へ回る人間。

 誰かが止まれば、誰かが拾う。

 

 その流れを見ながら、ガーネットは静かに思った。

 

 昨日までのスペースホープとは、もう違う。

 まだ未熟だ。

 まだ足りない。

 でも、確かに動き始めている。

 

 訓練の終わり際、ハズキがふと他の乗務員へ向かって言った。

 

「ほんと、定期便に一回乗ると分かるよ」

 

「何が?」

 

 まだ未経験の乗務員が聞く。

 

「エリンさんとペルシアさんの凄さ」

 

 ハズキが真顔で言う。

 

 クミコ、ミドリ、サリー、マユも、ほとんど同時に頷いた。

 

「うん」

「ほんとに」

「同じフライト便に乗れば分かる」

「見れば、絶対分かる」

 

 その言い方には誇張がなかった。

 ただ、実際に見た者にしか出せない確信があった。

 

 ガーネットは、その様子を見ながら、ほんの少しだけ笑った。

 

 たぶん、エリンが聞けば「大げさよ」と言うだろう。

 ペルシアが聞けば「もっと言って」と調子に乗るだろう。

 けれど、今の五人にとってその実感は本物だった。

 

 圧倒されるほど凄い背中を見た。

 その背中が、ただ遠いだけではなく、自分たちを引き上げるために前へ立ってくれていることも知った。

 

 だからこそ、クミコ達は変わったのだ。

 

 ガーネットは、最後に全員へ向かって言った。

 

「では、今日はここまでにします」

 

 乗務員たちが一斉に姿勢を整える。

 

「ただし、今日の訓練で終わりではありません。現場に出た人は、見てきたことを言葉にして残すこと。まだ出ていない人は、それを聞いて想像しながら訓練すること。そこまでが今の学びです」

 

「はい!」

 

 返事が揃う。

 その響きは、以前よりずっとしっかりしていた。

 

 クミコ達五人は、その返事の中で、少しだけ誇らしい気持ちになっていた。

 まだまだ足りない。

 でも、確かに前へ進んでいる。

 その実感が、今日の訓練の空気にも、皆の声にも、ちゃんと宿っていた。

 

 

ーーーー

 

 

 それから次の日も、そしてその次の日も、新しい五人が定期便に参加していった。

 

 最初のクミコ、ハズキ、ミドリ、サリー、マユの五人が現場へ出た日から、旅行事業部の空気は確実に変わっていた。

 ただ訓練しているだけではなく、誰かが実際に宇宙船に乗り、帰ってきて、その空気を持ち帰る。

 その繰り返しが、まだ現場を知らない乗務員たちの想像力を、少しずつ現実へ近づけていた。

 

 最初の便を終えた五人は、翌日からガーネットの訓練の中で、何度も同じことを口にした。

 

「エリンさん、ほんとに凄かった」

「ペルシアさんも、もう意味わかんないくらい凄かった」

「同じフライト便に乗れば分かる」

「見たら絶対分かるから」

 

 それはただの興奮ではなかった。

 実際に見て、支えられて、同じ空間で働いて、ようやく分かる種類の凄さがあったのだ。

 

 そして、二組目の五人がフライトを終えて帰ってきた時も、やはり同じことを言った。

 

 最初は半信半疑だった者たちも、帰還した乗務員の表情を見ると、それが大げさな話ではないことをすぐに悟った。皆、疲れている。足も重そうだし、声も少し掠れている。なのに、目だけは妙に冴えていて、何かを見てきた者の目をしていた。

 

「どうだった?」

 

 まだ現場に出ていない乗務員たちが、休憩もそこそこに駆け寄る。

 

 すると二組目の一人が、椅子に腰を下ろす間も惜しむように言った。

 

「いや、本当に、エリンさんが凄い」

「ペルシアさんも」

「何がって言われても、全部なんだけど」

「でも一番凄いのは、やっぱりあの二人の連携」

 

 そこで別の者が、昨日クミコたちもほとんど同じことを言っていたのを思い出したのだろう、思わず吹き出した。

 

「またそれ?」

 

「またじゃないって。ほんとなんだって!」

 

 必死な反論に、逆に説得力がある。

 やがて三組目の五人も、四組目の五人も、同じように定期便から戻ってきた。そしてやはり、口を揃えて同じことを言った。

 

「エリンさん、やっぱり凄かった」

「ペルシアさんも」

「なんであんなに動けるのか分からない」

「同じ乗務員のはずなのに、全然違う」

「しかも、あの二人、通じ合いすぎてて怖い」

「目線と一言だけで、もう次の動き決まってる」

 

 最初のうちは、まだ現場を知らない者たちも半分は憧れ、半分は“そんなに?”と疑っていた。だが、別々の便に乗って戻ってきた者全員が、少しも違わない言葉でその二人の凄さを語るとなると、もう疑う余地はなくなる。

 

 しかも、それは単に「仕事ができる」という話ではなかった。

 

 エリンは空気そのものを整えていた。

 誰かが困る前に、違和感が空気へ滲む前に、荷物を直し、声をかけ、動線を開き、表情の硬さを一段だけ落とす。

 ペルシアはその先を読んでいた。

 何かが起きる前に動き、誰も頼んでいないのに必要な場所へ入り、乗客の気持ちが波立つ前に、軽やかに空気を撫でてしまう。

 

 そして二人が揃うと、その空間はまるで別のものになる。

 

 旅行事業部の乗務員たちは、現場から戻ってくるたびに、自分たちの見たものを言葉にしようとした。

 なぜ凄かったのか。

 どこが凄かったのか。

 自分たちと何が違ったのか。

 

 最初は「全部」としか言えなかったそれが、日を追うごとに少しずつ具体的になっていく。

 

「エリンさん、荷物入れがちょっと浮いてるだけでもすぐ気づくんだよ」

「でも“直します”って感じで前に出ないの。流れの中で自然に整えてる」

「ペルシアさんは、お客さんが困る前に声かけてる。あれ、どう見てるのか全然分かんない」

「あと、あの二人って互いに助けるっていうより、最初から一つの流れみたいなんだよね」

「そうそう。フォローしてるって感じじゃなくて、もともとそう動く予定だったみたいに繋がるの」

 

 訓練の質も、当然変わっていった。

 

 ガーネットはそうした“帰ってきた声”をうまく拾いながら、シュミレーションの中へ落とし込んでいった。

 ただ立ち方を直すだけでなく、「今の場面ならエリンだったらどう見るか」「ペルシアなら何を先に拾うか」という問いを自然と入れるようになった。

 乗務員たちも、昨日までより具体的に想像できるようになっている。

 だから訓練の中での迷い方も変わった。

 何となく止まるのではなく、“どこを見るべきか分からずに止まる”から、“見えたけれど、どの順番で動くべきか迷って止まる”へ変わっていく。

 それは大きな違いだった。

 

 ミラとランは、その変化を静かに見ていた。

 

 ふたりは元々、他の乗務員たちよりも一歩引いた位置から旅行事業部全体を見ることが多かった。副パーサーとしての役割もあるし、エリンがこの会社へ来てからの変化も、わりと近くで見てきた。

 それでも、日を追うごとに“現場に出た者たち”の顔つきが変わっていくのを見ると、やはり本物の力は大きいのだと改めて思わされる。

 

 そして、ふたり自身もまた、その本物を知っていた。

 

 ドルトムントの頃。

 まだ自分たちが右も左も分からず、ただ言われたことに食らいつくだけで精一杯だった時、一度だけ、エリンとペルシアが前に立つ便へ乗ったことがある。

 

 あの時のことを、ミラもランも忘れたことはなかった。

 

 前にいるのに前に出すぎず、

 静かなのに空気を支え、

 互いに補いながら、でも補っていると感じさせない。

 

 チーフパーサーのエリン。

 副パーサーのペルシア。

 

 あの二人の下で働く時間は、厳しかった。

 怖くもあった。

 だが、何よりも安心できた。

 自分たちがどれだけ未熟でも、この便は絶対に崩れないと、身体が勝手に理解していた。

 

 だからこそ、ミラもランも、もう二度とあの二人と同じ便に乗ることはないのだろうと、どこかで思っていた。

 

 あの頃はドルトムント。

 今はスペースホープ。

 会社も違う。

 立場も違う。

 時間も流れた。

 だから、同じ景色をもう一度見ることはないのだと、半ば勝手に決めつけていたのだ。

 

 けれど、実際にはそうではなかった。

 

 エリンがスペースホープへ来て。

 ペルシアが特別講師として入り。

 定期便の実地が決まり。

 その流れの中で、ミラとランにも、再びあの二人の下で飛ぶ便が回ってきた。

 

 それは、四日間の終盤のことだった。

 

 

 その日の便を終えて、ミラとランは、他の乗務員たちより少し遅れてフロアへ戻ってきた。

 

 夕方の旅行事業部は、書類の整理や反省の共有、次の訓練準備でまだざわついていたが、ミラとランの姿を見つけた者たちは、自然とそちらへ視線を向けた。現場を終えて戻ってきた者がどんな顔をしているか、もはやそれ自体が、この数日で皆の関心事になっていたからだ。

 

 ミラは制服の襟元を整えながら、椅子へ腰を下ろす前に大きく息を吐いた。

 ランはその隣で、少しだけ目を閉じてから静かに瞬きをする。

 

 その様子を見て、クミコが一番に駆け寄ってきた。

 

「どうでした?」

 

 声には期待と、少しの興奮が混じっている。

 ハズキも、ミドリも、サリーも、マユも、気づけばその周りへ集まっていた。

 

 ミラは最初、何から話せばいいのか分からないように少し笑った。

 だが、すぐに顔を上げる。

 

「……やっぱり凄かった」

 

 その一言で、周囲の空気がぴたりと揃う。

 

「エリンさんとペルシアさんの、あの二人の連携」

 

 ミラの声は、少し震えていた。

 疲れからではない。

 思い出しただけで胸が熱くなるような、そんな震えだった。

 

「凄かった、じゃ足りないくらい」

 

 ランも、静かに言葉を継いだ。

 

「もう二度と、あんな運航をみれるとは思っていなかった」

 

 その言い方が、妙に深く周囲へ刺さった。

 

 クミコたち五人は、自然と息を呑む。

 まだ自分たちはエリンとペルシアの凄さを知ったばかりだ。けれど、ミラとランの言葉には、もっと長い時間を経た人間だけが持つ実感があった。

 

「そんなに……ですか」

 

 マユが小さく聞く。

 

 ミラは、少し遠くを見るような目になった。

 

「ドルトムントの時に、一度だけ一緒の便に乗ったことがあるの」

 

 その言葉に、まだ事情を詳しく知らない若い乗務員たちの目が丸くなる。

 

「私も」

 

 ランが頷く。

 

「その時、私はまだ本当に何も出来なくて。ただ目の前のことで精一杯でした。でも、前に立つエリンさんとペルシアさんを見て、“この便は絶対に崩れない”って思ったんです」

 

 ランの声は柔らかい。

 けれど、その言葉の中にははっきりとした確信があった。

 

「今回、久しぶりに同じ便に乗って……ああ、やっぱり変わらないんだって思いました」

 

「変わらない、どころじゃないよ」

 

 ミラが強く言う。

 

「むしろ、昔よりもっと洗練されてた」

 

 その一言に、ハズキが目を見開く。

 

「えっ、昔より?」

 

「うん」

 

 ミラは即答した。

 

「エリンさん、昔から全体を見るのがとにかく凄かった。でも今は、それがもっと静かになってる。前より目立たないのに、前より広く届いてる感じ」

 

 それは、実際に今のエリンを間近で見た者だけが言える表現だった。

 

「ペルシアさんも、昔から先回りが上手かったけど、今は“起こる前に消してる”って感じだった」

 

 ランが続ける。

 

「乗客が困るかもしれないこと、不安になるかもしれないこと、疲れているかもしれないこと……そういうものが、表に出る前に整っていくんだよね」

 

「しかもさ」

 

 ミラが少しだけ笑う。

 

「あの二人、ほんとに通じ合いすぎ」

 

 その言葉に、既に何度も同じ話を聞いているクミコたちも、やっぱり頷いてしまう。

 

「分かります」

「ほんとに」

「見てて怖いくらいです」

 

 ハズキが勢いよく言うと、ミラは「そう、それ」と苦笑した。

 

「昔もそうだった。でも今回改めて見て、なんていうか……もう“連携してる”って感じじゃないんだよね」

 

「最初から、同じ空気の中にいるような感じですよね」

 

 ミドリが静かに補足する。

 

 ランが、その表現に穏やかに頷いた。

 

「そうですね。目線と短い言葉だけで、もう次の動きが決まっているんです」

 

「しかも、あの二人って」

 

 サリーが少し考えるように言う。

 

「本当は前に出すぎたくないんですよね」

 

「うん」

 

 ミラがすぐに頷く。

 

「自分たちが動けば早いって分かってるのに、それをやりすぎると下が育たないってことも分かってる。だから本当はもっと任せたいはずなんだよ」

 

「でも、他社の便でそれは出来ない」

 

 ランが静かに言葉をつなぐ。

 

「だから、必要なところでは前に出る。でも出すぎない。見せるために動く。あれは……簡単に真似できることじゃない」

 

 その説明を聞いていた乗務員たちは、皆それぞれに表情を引き締めていた。

 

 凄い。

 憧れる。

 だけではなく、その凄さの中身が少しずつ見えてくるからだ。

 

 クミコが、思わず口を開いた。

 

「ミラさんたちでも、そう思うんですね」

 

 その言い方に、ミラは少しだけ笑った。

 

「そりゃ思うよ。むしろ私たちの方が、昔を知ってるぶん余計にそう思った」

 

「私、正直……」

 

 ランが少し言い淀んでから、でもちゃんと言葉にした。

 

「もう二度と、あの二人と同じ便に乗れるとは思わなかった」

 

 フロアが、静かになる。

 

「会社も変わりましたし、立場も変わりましたし……だから、あの頃の空気をまた見ることはないんだろうなって、どこかで思っていた」

 

 その横顔は、少しだけ懐かしそうだった。

 

「でも、違った」

 

 そう言って、ランは小さく笑う。

 

「同じだった。たぶん、もっと凄くなってた」

 

 ミラも頷く。

 

「うん。あの二人は、やっぱりあの二人だった」

 

 それは、妙に静かな結論だった。

 叫ぶような興奮ではなく、見てきた者が最後に落ち着く先の確信だった。

 

 しばらくして、ハズキがぽつりと言った。

 

「なんか、すごいですね」

 

「何が?」

 

 クミコが聞く。

 

「私たち、そんな人たちに教わってるんだなって」

 

 その言葉に、誰もすぐには返せなかった。

 

 でも、皆、同じことを思っていた。

 

 エリン。

 ペルシア。

 あの二人は遠い。

 今の自分たちには、まだ遠すぎる。

 

 けれど、その人たちが今、自分たちの目の前にいて、現場を見せてくれている。

 それがどれほど貴重なことか、現場に出た者ほど分かるのだ。

 

 ガーネットは、少し離れたところからその会話を聞いていた。

 

 そして、静かに思う。

 

 ああ、これでいいのだと。

 

 現場へ出た者が持ち帰るものは、技術だけではない。

 空気。

 温度。

 背中。

 その全部を、自分の言葉で他の者に伝えていく。

 それが、今のスペースホープには必要だった。

 

 旅行事業部のフロアには、少しずつ、だが確実に、自信と誇りのようなものが戻り始めていた。

 

 まだ会社そのものは不安定だ。

 経験も足りない。

 人数も少ない。

 先行きだって明るいとは言い切れない。

 

 それでも、ここにいる乗務員たちは、もう前みたいに“ただ流されるだけの人たち”ではなくなっていた。

 

 現場を知り、凄い背中を見て、自分たちなりに変わろうとしている。

 それが何より大きかった。

 

 ミラは、最後に缶コーヒーを一口飲んだような顔で息をついてから、小さく笑った。

 

「でも、やっぱり悔しくもなるね」

 

「悔しい?」

 

 サリーが首を傾げる。

 

「うん」

 

 ミラはあっさり頷いた。

 

「だって、あんなの見せられたら、自分ももっとやりたくなるじゃない」

 

 その言葉に、ランも静かに微笑んだ。

 

「私も同じ」

 

 若い乗務員たちは、その表情を見て、少しだけ驚いた。

 ミラとランは、すでに自分たちよりずっと上にいる人たちだと思っていたからだ。

 その二人でさえ、まだ悔しいと思うのだ。

 

 エリンとペルシアの背中は、それほど大きい。

 

 そして、その大きさに触れた人間は皆、少しだけ前を向きたくなるのかもしれなかった。

 

 フロアの奥では、今日の便から戻る次の五人を迎える準備が始まりつつあった。

 四日間の定期便。

 その一便一便が、スペースホープの乗務員たちの中に、確かな何かを残している。

 

 それはまだ名前のつかない熱だった。

 けれど、間違いなく、会社を動かし始める種類の熱だった。

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