サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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新たな仕事

 特別講師達の特訓から、数ヶ月が経った。

 

 スペースホープの旅行事業部は、毎日のようにシュミレーションを繰り返していた。

 

 乗り入れ。

 荷物対応。

 座席までの誘導。

 サービス動線。

 急病人への初動。

 機体トラブル時の連携。

 緊急時のアナウンス。

 乗客の不安をどう拾い、どう空気を整えるか。

 

 エリンはその全てを、基礎から一つひとつ厳しく見ていた。

 

 ほんの半歩、立ち位置がずれるだけで止める。

 声をかける順番が違えば止める。

 緊急時の対応で、言葉が一つ曖昧なら止める。

 誰かに判断を任せるべきところを、抱え込んだら止める。

 疲れてくると、乗務員の癖は必ず表に出る。だからこそ、疲れた時ほど止める。

 

 乗務員達から見れば、相変わらず容赦がない。

 だが、その厳しさは確実に彼らを形にしていた。

 

 まだまだ粗い。

 動きに迷いもある。

 緊急時の想定では、判断の遅れも出る。

 それでも、最初にこの会社へ来た頃と比べれば、見違えるほどだった。

 

 そして何より、成長が早い。

 

 エリンが想定していた以上に、乗務員達は変わっていた。

 現場を一度知った者は、その後の訓練の飲み込みが違う。

 旅行事業部全体が、少しずつ、だが確実に前へ動いている。

 

 それは喜ばしいことだった。

 

 このまま成長し続けるなら、何も心配はいらない。

 エリンは何度も、そう思いたかった。

 

 だが、現実はそこまで甘くない。

 

 シュミレーションだけで出来る成長には限界がある。

 どれだけ本物に近づけても、本物そのものにはなれない。

 やはり現場で経験を積んでこそ、乗務員は次の段階へ進む。

 乗客の目線。

 通路の圧。

 急ぎ足の気配。

 疲れた呼吸。

 その場に立つ者にしか分からない空気が、どうしてもある。

 

 それに、乗務員達自身も、もう自分の力を試したいと思っている頃だろう。

 あの定期便の四日間は大きな刺激になった。

 エリンとペルシアの背中を見て、現場の手応えを少しでも知ってしまった以上、ただ訓練だけを繰り返す日々では、どこかで息が詰まる。

 

 あの定期便以来、定期便も、旅行フライトも、新しい仕事は来ていない。

 

 もちろん、待っているだけではなかった。

 エリンも、スペースホープの社長も、連日のように過去にスペースホープと付き合いのあった会社を回っていた。

 かつて研修旅行を任せてくれた学校。

 部活動の移動便で関わりのあった教育機関。

 視察旅行や企業研修を頼んでいた会社。

 過去の取引先を一つずつ辿って、直接話をしに行っていた。

 

 だが、旅行フライトの話を受けてくれるところはなかった。

 

 今のスペースホープは、立て直しの途中だ。

 役員の不祥事、業績悪化、フライト停止。

 表向きの信頼が落ち切った会社に、大切な生徒や社員を預けたいと思う相手は、そう多くない。

 

 それでもエリンは歩いていた。

 

 今日もまた、火星コロニーで以前取引のあった学校へ足を運んでいた。

 校舎は綺麗に整っていて、ガラス張りの通路には柔らかな人工光が差し込み、廊下には生徒達の研究発表や旅行の写真が飾られていた。そういう光景を見るたびに、エリンは胸の奥が少しだけ痛んだ。

 

 ここで働く人達も、生徒達も、きっと旅を必要としている。

 ただ移動するだけではなく、学びや経験の場としての旅を。

 けれど、それを今のスペースホープに託すには、まだ足りない何かがあるのだ。

 

 応接室で丁寧に断られたあと、エリンはいつも通りに頭を下げて学校を後にした。

 

 校門を抜ける。

 人工芝の手入れが行き届いた中庭を横切る。

 遠くでは部活動を終えたのか、生徒達の笑い声が風に混ざっていた。

 

 エリンは少しだけ肩を落とした。

 

 断られたのは今月に入って、これで二十社目だった。

 

 数字にすると、思っていた以上に重い。

 もちろん一件ごとに理由は違う。

 予算の都合。

 理事会の反対。

 今は様子を見たい。

 現状では難しい。

 いつかまた。

 丁寧に断られるほど、余計に胸に残る。

 

 やっぱり新規開拓の方がいいのか。

 過去の付き合いを頼るより、今のスペースホープに価値を感じてくれる相手を一から探した方がいいのだろうか。

 だが、新規の相手にこそ、今の会社の状態は厳しく映るはずだ。

 

 エリンは眉を寄せたまま歩いていた。

 そうしているうちに、ぐぅぅとお腹が鳴った。

 

 思っていたより大きな音で、自分でも少し驚く。

 

 足を止め、思わずお腹を押さえる。

 時刻はすでにお昼を回っていた。

 

 そういえば、朝から何も食べていなかった。

 最初の学校へ向かう途中で軽く何かを入れようと思っていたのに、気づけば時間がなくなってそのまま来てしまったのだ。

 

 空腹が一気に身体へ落ちてくる。

 緊張や気の張りで誤魔化していたものが、断られたあとにようやく表へ出てきたらしい。

 

 ちょうど足を止めた場所のすぐ近くに、小さな喫茶店のような店があった。

 落ち着いた木目の外観で、店先にはその日のメニューが手書きで並んでいる。サンドイッチ、スープ、パスタ、焼き菓子。店内からは、バターとコーヒーの匂いが薄く流れてきていた。

 

「ちょうどいいや……」

 

 エリンは小さく呟き、その店へ入った。

 

 中は思っていたよりも上品だった。

 昼時のせいか人も多い。だが騒がしくはなく、店員も静かに動いている。

 入口近くに立っていたウェイターへ、エリンは声をかけた。

 

「すみません。一人、入れますか?」

 

 ウェイターは一礼してから、申し訳なさそうに顔を上げた。

 

「申し訳ございません。当店は全席予約制でして」

 

 その言葉に、エリンは一瞬だけ目を瞬かせた。

 なるほど。たしかに店内の落ち着き方を見ると、そういう店なのかもしれない。

 

「そうでしたか。ご迷惑をおかけして、すみません」

 

 すぐにそう返すと、ウェイターの方がむしろ恐縮したように頭を下げた。

 

「いえ、申し訳ございません」

 

「ありがとうございました」

 

 エリンは軽く会釈し、そのまま立ち去ろうとした。

 

 その時だった。

 

「エリンさん?」

 

 不意に、店の奥から声がした。

 

 自分の名前を呼ばれ、エリンは足を止める。

 振り返ると、窓際の席にいた一人の女性がこちらを見ていた。

 

 年は四十代半ばくらいだろうか。

 深い青のスーツを上品に着こなし、姿勢はすっと伸びている。長い黒髪を後ろでまとめていて、目元には優しさと鋭さが同居していた。仕事のできる人特有の静かな存在感がある。席には彼女のほかに、書類を広げた男性と、若い女性が一人座っていたが、その二人もエリンへ視線を向けていた。

 

 エリンは、その女性の顔を見て、記憶を探る。

 

 見覚えがある。

 だが、すぐには思い出せない。

 

 女性の方が、ふっと笑った。

 

「やっぱり。エリンさんですよね」

 

「……あの」

 

 エリンが戸惑いながら近づくと、女性は立ち上がった。

 

「覚えていらっしゃらないかもしれませんが、以前、ドルトムントの便でお世話になったんです。私はリディア・フェルナーと申します」

 

 その名前を聞いた瞬間、エリンの中で記憶が繋がった。

 

 リディア・フェルナー。

 火星コロニーの教育機関を束ねる評議会の一員で、いくつかの学校の理事を兼ねている人物だったはずだ。ずっと前、ドルトムントの旅行会社で働いていた頃に、学校関係者として視察便に乗っていた。たしかその時、同行していた生徒の一人が離陸前にひどく不安がっていて――。

 

「あ……」

 

 エリンの口から、小さく声が漏れる。

 

「思い出しました。視察便でご一緒しましたよね」

 

「ええ」

 

 リディアは嬉しそうに頷く。

 

「あの時、うちの生徒の一人が出発前に泣き出してしまって。でも、あなたがずっと目線を合わせてくれて、落ち着くまで付き添ってくれたでしょう?」

 

 エリンは、ようやくその場面を思い出した。

 

 初めて宇宙船に乗る中等部の女子生徒だった。

 外は平気だと言っていたのに、いざゲートをくぐる段になって急に怖くなったのだ。同行していた教師達も戸惑っていたが、エリンは無理に引き離さず、まずは呼吸を落ち着かせることから始めた。ペルシアが後ろで他の生徒をうまく捌き、その子にはエリンがついた。最終的に離陸の頃には泣き止み、着陸後には窓の外の景色を嬉しそうに話していた。

 

 リディアは、そのことを覚えていたのだ。

 

「あなたのことは印象に残っていました。あの時の生徒、今では宇宙地学の道を志しているんですよ」

 

 その言葉に、エリンの胸が少しだけ温かくなった。

 

「そうなんですね」

 

「ええ。それで、さっき入口でお見かけして……まさかと思いました」

 

 リディアはそう言って、テーブルの向かい側の空いた席を示した。

 

「もしお時間があるなら、ご一緒しませんか? ちょうど席は空いていますし」

 

 エリンは一瞬迷った。

 仕事の途中だ。

 それに、相手は明らかに打ち合わせ中だった。こちらから割って入るのは気が引ける。

 

「いえ、そんな。ご迷惑になるので」

 

「迷惑にはなりません」

 

 リディアの声は穏やかだったが、はっきりしていた。

 

「むしろ、少しお話ししたいと思いました」

 

 そのタイミングで、エリンのお腹がまた、控えめに鳴った。

 今度は先ほどほど大きくはなかったが、近くの者には十分聞こえたらしい。

 

 若い女性が思わず笑いを堪えたように口元を押さえる。

 エリンは少しだけ頬を赤くした。

 

 リディアもくすっと笑った。

 

「まずはお昼にしましょう。立ち話で済ませるには惜しい縁です」

 

 そう言われてしまうと、もう断りきれなかった。

 

「……それでは、お言葉に甘えます」

 

 エリンが頭を下げると、リディアは満足そうに頷いた。

 

 

 案内された席に座ると、ようやく人心地ついた気がした。

 

 テーブルには既に軽食の皿や温かい飲み物が並んでいたが、エリンのために新しくメニューが差し出される。空腹もあって、どれも魅力的に見えたが、あまり時間を取らせるのも悪いと思い、サンドイッチと温かいスープのセットを選んだ。

 

 注文を終えると、リディアが改めてエリンへ向き直る。

 

「今は、どちらでお仕事を?」

 

 その問いに、エリンは少しだけ姿勢を正した。

 

「今はハワード財閥の旅行会社から出向する形で、スペースホープの旅行事業部に入っています」

 

「スペースホープ」

 

 リディアの隣にいた男性が、わずかに眉を動かした。

 やはりその反応になる。

 エリンはもう慣れていた。

 

「立て直しの最中、というところです」

 

 必要以上に飾らずに言う。

 

「なるほど……」

 

 リディアは短く相槌を打った。

 その顔には露骨な警戒も、安易な同情もなかった。

 

「では、今日もその関係で?」

 

「はい」

 

 エリンは頷いた。

 

「以前お付き合いのあった会社や学校を中心に、少しずつ話をしに回っています」

 

「それで、上手くいかなくて少し肩を落としていたんですね」

 

 リディアがそう言ったので、エリンは一瞬だけ目を見開いた。

 

「……見えていましたか」

 

「ええ。受付へ向かう途中で、少しだけ」

 

 リディアは悪びれずに微笑む。

 

「あと、予約がないと知っても、店員さんにきちんと礼を言って出ようとしたでしょう? ああいうところは、やはり変わらないのねと思いました」

 

 その言い方は、褒めているようでいて、観察している人のものだった。

 

 エリンは少しだけ息を吐く。

 

「仕事が取れなくても、八つ当たりしても仕方ないですから」

 

「ええ。そういうところです」

 

 リディアはそう言ってから、少し声の温度を変えた。

 

「それで、今のスペースホープは、正直に言ってどこまで立て直せているのですか?」

 

 隣の男性が資料を閉じる。

 若い女性も真剣な顔になる。

 

 打ち合わせの続きではない。

 これは、ちゃんとした問いだ。

 

 ちょうどそのタイミングで、エリンの料理が運ばれてきた。

 バターの香るホットサンドと、具だくさんの温かいスープ。食欲を刺激する匂いが立ち上る。だが、エリンはすぐには手をつけなかった。

 

 リディアがそれに気づき、少しだけ笑う。

 

「食べながらで構いませんよ。むしろ空腹で誤魔化さず、正直に聞きたいくらいです」

 

 その言い方に、エリンも少しだけ肩の力を抜いた。

 

「では、失礼します」

 

 そう言って一口スープを飲む。

 温かさが胃へ落ちた瞬間、朝から張りつめていたものがほんの少しほどける。

 

「正直に言えば、まだ足りません」

 

 エリンは、スプーンを置いて言った。

 

 リディアは何も言わずに続きを待つ。

 

「乗務員の基礎は形になりつつあります。緊急時対応も、以前よりずっと良くなっています。でも、まだ現場経験が圧倒的に足りません。現場に出た時にしか身につかない判断もあります」

 

「なるほど」

 

「それでも、この数ヶ月で旅行事業部そのものはかなり変わりました。以前のスペースホープの乗務員達とは、もう別だと言っていいくらいには」

 

 エリンはそこで一度言葉を切る。

 

「ただ、それを証明する機会が足りないんです」

 

 リディアの目が静かに細くなる。

 

「だから仕事が必要」

 

「はい」

 

「でも、仕事を得るためには信頼が必要」

 

「ええ」

 

「その信頼を得るには、仕事で証明しなければならない」

 

「……はい」

 

 堂々巡りだ。

 その現実を、エリンは痛いほど分かっていた。

 

 隣の男性が、初めて口を開いた。

 

「厳しいことを申し上げれば、どの学校もそこを恐れているのでしょう。生徒を預ける以上、“これから良くなる”では判断できない」

 

「分かっています」

 

 エリンはまっすぐ答えた。

 

「だから、無理に大きな仕事をくださいとは言いません。今の私達にできる範囲で、確実にやり切れる仕事から始めたいんです」

 

「今のあなた達にできる範囲、とは?」

 

 その問いに、エリンは少しだけ前へ身を乗り出した。

 

「規模の小さい移動便でもいいです。視察、研修、少人数の教育プログラム。乗務員の配置も経験に応じて絞れますし、必要であれば私自身も前へ立ちます」

 

 隣の若い女性がメモを取り始める。

 

 リディアは、エリンの顔をじっと見ていた。

 それは値踏みするような視線ではなく、“この人はどこまで本当のことを言うのか”を見ている目だった。

 

「多くの営業担当は、まず“問題ありません”と言います」

 

 リディアが静かに言う。

 

「でも、あなたは最初に“まだ足りません”と言った」

 

 エリンは少しだけ視線を落とした。

 

「嘘を言っても、現場に出れば分かりますから」

 

「そうね」

 

「でも、足りないことと、任せられないことは同じではないです」

 

 その言葉は、エリンの中にある本音だった。

 

「今の子達には素質があります。現場で吸収する力もあります。定期便を経験させた時も、それははっきり分かりました。だから、小さな仕事からでも機会があれば、ちゃんと形に出来ます」

 

 リディアはしばらく黙っていた。

 

 窓の外では、火星コロニーの人工空を模した柔らかな光が街路を照らしている。店内ではカップの触れ合う小さな音がする。エリンは、それ以上何も付け足さなかった。言い過ぎれば安くなる。言わなければ伝わらない。そこの線を、今は慎重に見ていた。

 

 やがて、リディアがふっと息をついた。

 

「実は、今日あなたが会いに行った学校とは別に、もう一件、私が関わっている教育企画があるんです」

 

 エリンは顔を上げた。

 

「教育企画、ですか?」

 

「ええ。火星コロニーの高等部を対象にした、小規模の宇宙地学研修です」

 

 その言葉に、エリンの指先がわずかに止まる。

 

「本来なら、来月の終わりに十数名の生徒と教員数名を連れて、火星周回の観測ステーションへ一泊二日で出す予定でした」

 

 隣の若い女性が補足する。

 

「ただ、今までお願いしていた会社の便が、日程の都合で難しくなりまして」

 

「代替を探していたところです」

 

 リディアが続ける。

 

 エリンの胸の奥で、何かが大きく鳴った。

 だが、ここで飛びつくような顔をしてはいけない。

 

「規模としては大きくありません」

 

 男性が言う。

 

「ですが、教育プログラムですから、時間の乱れや対応の甘さは許されません」

 

「はい」

 

「加えて、生徒達には初めて宇宙船に乗る者もいるでしょう。不安へのケアも必要です」

 

 その条件を聞けば聞くほど、エリンの頭の中で人員配置と動線が組み上がっていく。

 人数。

 教員の人数。

 生徒の年齢層。

 保護者説明の必要性。

 緊急時体制。

 夜間の乗務配置。

 食事対応。

 酔いやすい子への備え。

 

 全部、想像できる。

 そして全部、今のスペースホープでやるとしたら何が必要かも分かる。

 

「すぐに契約、という話ではありません」

 

 リディアが念を押す。

 

「ただ、あなたの話を聞いて、一度ちゃんと企画案を見てみたいと思いました」

 

 エリンは、目の前のスープから立ち上る湯気を見つめながら、気持ちが逸りそうになるのを抑えた。

 

「……ありがとうございます」

 

「企画書を作れますか?」

 

「作れます」

 

 その返答は、間髪入れずに出た。

 

「乗務員の配置、緊急時体制、生徒向けの事前説明、教員との連携、全部込みで出してください」

 

「はい」

 

「そして、正直に。今できることと、今できないことを分けて書いてください」

 

「分かりました」

 

 リディアは、その返事を聞いて少しだけ満足そうに頷いた。

 

「なら、来週、改めて話をしましょう」

 

 エリンは、一瞬だけ言葉を失いそうになった。

 今月二十社断られてきた。

 受付で資料すらちゃんと見てもらえないこともあった。

 そんな中で、“来週、改めて話をしましょう”という一言が、どれほど大きいか。

 

 それでもエリンは、感情を前に出しすぎないように言った。

 

「ありがとうございます。必ず、持っていきます」

 

 リディアは微笑んだ。

 

「楽しみにしています」

 

 そこでようやく、エリンはホットサンドに手を伸ばした。

 一口かじると、思っていた以上に美味しかった。

 温かくて、塩気がちょうどよくて、胃の底に空いていた場所へ静かに収まっていく。

 

 リディアがその様子を見て、ふっと笑う。

 

「やっと食べましたね」

 

「……お腹が空いてたので」

 

「でしょうね」

 

 そのやり取りに、席の空気が少しだけ柔らかくなる。

 

 だが、エリンの頭の中はもう次へ向かっていた。

 

 企画書。

 人員配置。

 誰を乗せるか。

 ミラとランは外せない。

 クミコ達はどう組み込むか。

 規模が小さいなら、育成も兼ねられる。

 でも、初回で絶対に失敗は出来ない。

 

 火星周回の観測ステーション。

 一泊二日。

 高等部の地学研修。

 

 小さい。

 けれど、十分だ。

 今のスペースホープにとっては、喉から手が出るほど欲しかった“次の現場”だった。

 

 リディアはそんなエリンの顔を見て、最後に静かに言った。

 

「エリンさん」

 

「はい」

 

「あなた、諦めていなかったでしょう」

 

 その問いは優しかった。

 

 エリンは少しだけ目を伏せ、それから素直に答える。

 

「はい」

 

「何十社断られても?」

 

「……はい」

 

 リディアはゆっくり頷いた。

 

「なら、その諦めなさを、来週は企画書で見せてください」

 

 エリンは、今度こそはっきりと笑った。

 

「分かりました」

 

 店を出た時、火星コロニーの通りは、来た時と同じはずなのに少しだけ違って見えた。

 

 断られて肩を落として歩いていた時と同じ道。

 同じ空。

 同じ人の流れ。

 

 それでも、胸の中には確かなものがあった。

 

 まだ決まったわけではない。

 仕事が取れたわけでもない。

 だが、ようやく本気で前へ進める扉が、ほんの少しだけ開いたのだ。

 

 エリンは、歩きながら携帯端末を取り出した。

 

 まず頭に浮かんだのは、ペルシアの顔だった。

 きっと話せば、「ほらね、諦めなかったでしょ」と笑うだろう。

 ミラやランは、企画に必要な乗務員の選定をすぐに考え始めるはずだ。

 社長には、まず今日中に報告しなければならない。

 

 端末を握る指先に、自然と力が入る。

 

 まだやれる。

 いや、ここからだ。

 

 エリンは小さく息を吸い込み、もう一度前を向いて歩き出した。

 

 

ーーーー

 

 

 

  喫茶店を出たあと、エリンの足取りは、来た時とは明らかに違っていた。

 

 断られたあとの重さは、もうそこにはなかった。

 もちろん、仕事が決まったわけではない。

 来週、企画書を持って話をする。まだその段階だ。条件だって厳しいだろうし、相手が本当にスペースホープへ任せるかどうかも分からない。ここで浮かれてはいけないことは、エリン自身が一番よく分かっていた。

 

 それでも。

 

 ようやく、次へ進める扉がひとつ見えたのだ。

 

 火星コロニーの通りを歩きながら、エリンの頭の中ではすでに仕事が始まっていた。

 一泊二日の宇宙地学研修。

 火星周回の観測ステーション。

 高等部の生徒十数名と教員数名。

 初めて宇宙船に乗る者がいる可能性が高い。

 教育プログラムである以上、単に安全に運ぶだけでは足りない。移動そのものもまた、学びの一部として整えなければならない。

 

 乗務員の配置はどうする。

 誰を前へ立たせる。

 誰を中ほどに置く。

 誰に生徒達の不安を拾わせる。

 誰なら教員との連携を自然に繋げられる。

 

 エリンは端末を握りしめたまま、無意識に歩く速度を上げていた。

 

 スペースホープの社屋に着くと、すぐに旅行事業部のフロアへ向かう。

 夕方に近い時間だったが、フロアにはまだ人が残っていた。訓練を終えた者、書類を整理している者、翌日のシフト確認をしている者。以前のような、ただ“そこにいるだけ”の空気ではない。皆、それぞれに今やるべきことへ手を伸ばしている。

 

 その中でエリンが戻ってきたことに気づいたミラが、すぐに席を立った。

 

「エリンさん、お帰りなさい」

 

「ただいま」

 

 エリンは短く返しながらも、目線はすでに自分の席へ向いている。

 ミラは、その顔を見て何かあったことを察したのだろう。少しだけ声の温度を上げた。

 

「何かありました?」

 

 エリンは自席に着く前に足を止め、ミラとラン、それから近くにいたクミコ達へ一度視線を向けた。

 

「まだ決まったわけじゃないけど」

 

 その前置きだけで、皆の背筋が伸びる。

 

「火星周回の観測ステーションへ向かう、高等部向けの宇宙地学研修の企画を見てもらえることになった」

 

 一瞬、誰も声を出せなかった。

 意味を理解するのに、ほんの数秒かかったからだ。

 

「え……」

 

 最初に小さく声を漏らしたのはハズキだった。

 

「それって……」

 

「仕事の可能性があるってこと」

 

 エリンがそう言った瞬間、フロアの空気が一気に変わった。

 大きな歓声こそ上がらなかったものの、息を呑む気配と、抑えきれない期待の熱が一斉に広がる。

 

 クミコは思わず両手を胸の前で握りしめた。

 サリーはぱっと表情を明るくし、マユは「本当ですか」と小さく繰り返している。ランは静かに息を吐き、ミラは明らかに目を輝かせた。

 

 だが、エリンはそこで手を軽く上げる。

 

「まだ企画書の段階よ。浮かれるのは早い」

 

 そう言われても、乗務員達の胸はもう高鳴っていた。

 それでもエリンの表情は真剣だ。

 だから皆も、すぐに気持ちを引き締め直す。

 

「今日中に、研修内容と乗務体制、安全対策をまとめる。明日から数日で叩き台を整えて、来週持ち込む」

 

 そう言ってから、エリンは少しだけミラとランの方を見た。

 

「ミラ、ラン。後で少し時間ちょうだい」

 

「はい」

「分かりました」

 

 即答だった。

 

 それからエリンは自席に腰を下ろし、端末を立ち上げた。

 画面の白い作業領域が開かれる。

 そこへ、まずは大きく企画書のタイトルを打ち込む。

 

 火星周回観測ステーション宿泊型宇宙地学研修 実施提案書

 

 その文字を見た瞬間、ようやく“始まった”という実感が少しだけ湧いた。

 

 

 企画書づくりは、その日のうちにすぐ本格化した。

 

 まず必要なのは、相手が一目で安心できる骨組みだ。

 どんな理念を掲げるかではない。

 誰を、どこへ、どう運び、どう守り、どう学びに繋げるか。

 その順番と現実味が、何より大事だった。

 

 エリンは端末へ次々と項目を打ち込んでいく。

 

 一、研修目的。

 一、実施日程。

 一、対象人数。

 一、輸送計画。

 一、乗務体制。

 一、安全管理体制。

 一、緊急時対応。

 一、教育的配慮。

 一、保護者説明への対応。

 一、事前オリエンテーション案。

 

 どれも外せない。

 

 スペースホープは今、信用を取り戻す途中にある。

 だからこそ、曖昧さや勢いだけでは通らない。

 “気持ち”ではなく、“設計”で信頼を得なければならない。

 

 教育機関向けである以上、乗務員の明るさやサービスの丁寧さだけでは不十分だった。

 学校側が見たいのは、まず安全だ。

 次に、時間の正確さ。

 そして、初めて宇宙へ出る生徒達の不安をどう扱うか。

 その上で、研修そのものが円滑に進むよう、移動時間も含めて学びの質を損なわないこと。

 

 エリンは企画書の中に、単なる“移動便”ではなく、“研修の一部としての移動空間”という考え方をそっと織り込んだ。

 機内アナウンスの内容も、通常の案内だけでなく、生徒達がこれから向かう観測ステーションへの期待を高めつつ、不安を煽らないトーンで設計する。

 初めて乗る生徒向けに、乗務員が声をかけるタイミングも事前に定める。

 酔いやすい生徒、緊張が強い生徒、過去に閉所で不安を感じたことがある生徒への対応案まで入れていく。

 

 書きながら、エリンは何度も頭の中で現場をシミュレーションした。

 搭乗口に並ぶ生徒達。

 教員の人数。

 引率の立ち位置。

 最初に目が泳ぐ子。

 緊張を隠そうとして喋りすぎる子。

 逆に無口になる子。

 そういう子達へ、どの乗務員がどう入るか。

 

 そこで、乗務員の選定が始まった。

 

 今回は、絶対に外せない人間がいる。

 

 まず、エリン自身。

 これは迷う余地がない。

 この仕事は、現時点のスペースホープにとって大きすぎる。初回で失敗は許されない。チーフパーサーとして、自分が前へ立つのは当然だった。

 

 そして、ミラとラン。

 

 この二人は、今の旅行事業部において、最も全体を見られる存在だった。

 ミラは、空気を前向きに引き上げる力がある。緊張した場でも明るさで押し切るのではなく、自然に周囲の肩の力を抜かせられる。前方での乗り入れ、教員とのやり取り、少し活発な生徒の流れを整える役として非常に強い。

 

 ランはその逆で、静かに全体を整える力がある。

 目立ちすぎない。

 けれど、息の乱れや空気の綻びを見つけるのが上手い。中ほどから後方にかけて、乗務員同士の動線を繋ぎ、サポートが必要な生徒を自然に拾うのに向いている。

 

 この二人は、今のスペースホープでは事実上の副パーサークラスだ。

 教育研修という不確定要素の多い便において、この二人を外す理由はなかった。

 

 次に選んだのは、クミコだった。

 

 クミコはまだ新人だ。

 だが、定期便の経験を経て、前を作る力が急激に伸びていた。責任感が強く、任されたことを最後までやろうとする。以前はその責任感が前に出すぎる原因にもなっていたが、今は少しずつ“安心を敷く案内”を覚え始めている。高等部の生徒達の最初の不安を受け止める入り口の位置で、ミラの下につければ、大きく伸びるはずだった。

 

 ハズキも入れる。

 

 ハズキの明るさは、この企画で絶対に活きる。

 高等部の生徒達は、子どもではない。けれど、大人ほど平然ともしていない。わくわくと不安が入り混じる年頃だ。そんな時、過度に堅い空気だけでは、機内全体が必要以上に緊張する。ハズキの持つ“場を明るくする力”は、そこに必要だった。もちろん、速度が上がりすぎないよう誰かが隣で見ていることが条件になる。だからこそ、エリンの近くへ置く。

 

 サリーも外せなかった。

 

 サリーは、人の呼吸を拾うのが早い。

 気づくのが早い。

 困っている人、困りそうな人、少しだけ空気から浮きそうな人を見つける力がある。教育研修の便では、教員だけでは拾い切れない生徒一人ひとりの不安が必ず出る。その時、サリーの目は大きな武器になる。まだ入るタイミングに迷いはあるが、ランの近くへ配置すれば、その迷いもかなり減るだろう。

 

 そこまでで、六人。

 

 残る三人を、エリンは慎重に考えた。

 

 今回必要なのは、単に“出来る人”ではない。

 教育研修という空気の中で、明るさ、気配り、親しみやすさ、そして不測の対応をバランス良く置く必要がある。

 

 そこでエリンの頭に浮かんだのが、アズサだった。

 

 アズサはクミコと同じ新人乗務員で、まだ経験は浅い。

 だが、明るい笑顔が自然で、押しつけがましさがない。

 それに加えて、周囲のちょっとした変化に気づける。

 誰かの資料が落ちかけていれば拾う。

 迷っている相手がいれば、さりげなく一歩寄る。

 その“気配り”が、まだ荒削りながら確かにある。高等部の生徒達と接する上で、その柔らかさは大きい。

 

 アズサを入れることで、クミコにも良い刺激になる。

 同じ新人同士、ただ競わせるのではなく、違う長所を持つ者同士で見せ合う方が、この便では意味がある。

 

 次にユウコ。

 

 客室乗務員三年目。

 経験者であり、フレンドリーな性格と明るさが持ち味だ。

 人との距離の詰め方がうまく、初対面の相手でも会話の入り口を作れる。

 教育機関向けの便では、教員との連携も大事だが、生徒達が“話しかけていい人”と感じられる乗務員の存在も重要になる。ユウコはそこに向いている。三年目としての経験もあり、完全な新人を支える余裕もある。

 

 そして、ナツキ。

 

 ナツキも客室乗務員三年目で、人懐っこい性格だ。

 同じ三年目のユウコとは仲が良い。だが、その関係にはほんのりとしたライバル意識もある。

 それをエリンは悪いことだと思っていなかった。

 むしろ、互いに意識し合うことで、仕事の精度が一段上がるなら、それは十分に使える。ナツキは人懐っこさの裏に観察眼があり、相手の空気に乗るのがうまい。ユウコほど前へ出ないぶん、中ほどから後方にかけて空気を柔らかく保つ役として使える。

 

 この三人を加えて、九人。

 

 エリンは、画面の中の乗務体制欄に、その名を一人ずつ打ち込んでいく。

 

 チーフパーサー:エリン

 副パーサー補佐:ミラ、ラン

 客室乗務員:クミコ、ハズキ、サリー、アズサ、ユウコ、ナツキ

 

 名簿が並んだ瞬間、企画書が一気に現実味を帯びた。

 

 エリンはそこで、乗務体制の説明欄に一人ずつの役割を書き込んでいく。

 

 ミラは前方責任者補佐。

 搭乗時の空気作り、教員との初期連携、明るい導入を担う。

 

 ランは後方責任者補佐。

 全体の安定、緊張の強い生徒へのフォロー、乗務員同士の流れを整える。

 

 クミコは前方導線の一部。

 案内と最初の安心づくり。

 ハズキは前方補助と空気の柔軟化。

 サリーは中ほどから後方の気配りと拾い上げ。

 

 アズサは新人ながら、笑顔と気配りを活かし、座席誘導と不安の拾い役。

 ユウコは教員・生徒双方との接点を広く持ち、機内全体の明るさを保つ。

 ナツキは中盤のフォローと、ユウコとは別方向の柔らかな接客で後方を支える。

 

 書きながら、エリンはそれぞれの顔を思い浮かべた。

 

 クミコはきっと最初、緊張する。

 だがミラが前にいれば、焦って走ることはない。

 ハズキは明るすぎて最初の数分だけ浮きかけるかもしれない。そこはエリン自身が横で落ち着かせる。

 サリーは中ほどで必ず光る。

 アズサは、初めての生徒達に一番近い目線で寄り添える。

 ユウコは教員にも生徒にも話しかけやすい。

 ナツキはユウコに負けたくないと思うほど、ちゃんと仕事を詰めるだろう。

 

 そしてミラとランが、その全部を繋ぐ。

 

 そこまで考えたところで、エリンは端末を閉じずに立ち上がった。

 

 ミラとラン、それからクミコ達がまだ残っているフロアの一角へ歩いていく。

 彼女の足音に気づいて、自然と皆が視線を向けた。

 

「少しいい?」

 

 その一言で、ミラ、ラン、クミコ、ハズキ、サリーがすぐに席を立つ。

 少し遅れて、アズサ、ユウコ、ナツキも呼ばれたことに気づき、慌てて近づいてきた。

 

 アズサは明るい茶色の髪を後ろでひとつにまとめた、笑顔の柔らかい新人だ。

 ユウコは胸元で腕を組みかけて慌ててほどき、何だろうと少し嬉しそうな顔をしている。

 ナツキはユウコをちらりと見てから、でも何も言わずにエリンへ視線を向けた。

 

 九人が、自然と小さな輪になる。

 

 エリンは、全員の顔を一度見てから言った。

 

「まだ正式決定じゃないけど、来週、火星周回の観測ステーションへ向かう高等部向け宇宙地学研修の企画書を持ち込む予定です」

 

 一気に、全員の目が変わった。

 

「その案の中で、乗務員として考えているのが、ここにいる九人」

 

 その言葉に、クミコが息を呑み、ハズキが「え」と声を漏らし、アズサがぱっと表情を明るくした。ユウコとナツキは互いに一瞬だけ視線を交わし、それからすぐ前を見る。ミラとランは、やはりというように小さく頷いた。

 

「チーフは私。ミラとランに全体補佐をお願いしたい」

 

「はい」

 

「分かりました」

 

「クミコ、ハズキ、サリーは、定期便の経験があることを前提に、研修便でも中心に入ってもらう」

 

 三人は緊張しながらも、はっきり頷いた。

 

「アズサ」

 

「はい!」

 

 元気な返事。

 

「あなたには新人ならではの目線と、気配りを期待してる。初めて乗る生徒に近い立場で見て」

 

 アズサは驚いたように目を丸くしたあと、まっすぐ頷いた。

 

「はい、頑張ります!」

 

「ユウコ」

 

「はい」

 

「明るさを使って。教員とも生徒とも、話しやすい空気を作ってほしい」

 

 ユウコは、少しだけ得意そうに笑う。

 

「任せてください」

 

「ナツキ」

 

「はい」

 

「あなたには、ユウコとは別の柔らかさを期待してる。表に出すぎなくていい。中ほどと後方の空気を整えて」

 

 ナツキは一瞬だけユウコを見た。

 その目に、ほんの少しだけ燃えるものがある。

 

「……はい」

 

 短い返事だったが、気持ちは十分伝わった。

 

 説明が終わったあと、しばらく誰も声を出さなかった。

 この九人の中に選ばれたことへの驚き。

 まだ正式ではないという不安。

 でも、もし通れば、本当に自分たちが次の現場に立つのだという重さ。

 それらが一度に胸へ入ってきたからだ。

 

 最初に口を開いたのは、やはりハズキだった。

 

「……えっと」

 

「なに?」

 

「通ったら、ですよね?」

 

「もちろん」

 

 エリンは頷く。

 

「まだ企画書の段階。でも、通った時に“今から考えます”では遅いから、先に想定しておく」

 

 その言葉に、全員が少しずつ現実へ戻ってきた。

 

 ミラが静かに問う。

 

「教育研修向けなら、普段の旅行フライトとはかなり組み方が変わりますよね」

 

「そうね」

 

 エリンもすぐに返す。

 

「だから九人にしたの。人数を削りすぎると対応の余白がなくなるし、初回で無理はさせたくない」

 

 ランが少し考え込むように言う。

 

「初めて乗る生徒さんが多いなら、事前説明もかなり大事になりそうですね」

 

「ええ。そこも企画書に入れる」

 

 クミコが、ごくりと唾を飲んでから口を開いた。

 

「私……大丈夫でしょうか」

 

 正直な問いだった。

 その場にいた誰も、軽くは受け取らなかった。

 

 エリンはクミコをまっすぐ見た。

 

「不安?」

 

「はい」

 

「いいことよ」

 

 エリンは静かに言う。

 

「不安があるってことは、ちゃんとこの仕事の重さが見えてるってことだから」

 

 その言葉に、クミコは少しだけ肩の力を抜いた。

 不安を責められない。

 それだけで、前を向ける。

 

「ただし、不安があるからこそ、準備するの。通るかどうかはまだ分からない。でも通った時に、“不安です”で止まるつもりはないでしょう?」

 

「……はい」

 

 クミコの返事は、小さかったけれど芯があった。

 

 アズサがそこで、ぱっと手を挙げた。

 

「私、まだ定期便は一回しか乗ってないですけど、大丈夫でしょうか」

 

 その問いに、エリンは少しだけ目元を和らげた。

 

「だから入れたのよ」

 

「え?」

 

「初めて宇宙船に乗る生徒に近い感覚を、あなたはまだ持ってる。そこは武器になる。もちろん足りない経験は訓練で埋める。でも、“分からない人の気持ちが分かる”のは大きいわ」

 

 アズサは目を瞬かせ、それから嬉しそうに頷いた。

 

「はい!」

 

 ユウコは腕を組みそうになって、また途中でやめる。

 

「なるほどねぇ。生徒向けなら、たしかに明るさも必要か」

 

 言いながら、隣のナツキを見る。

 

「で、ナツキは後ろで静かにいいとこ持ってく感じ?」

 

 その軽口に、ナツキの眉がぴくりと動く。

 

「別に、いいとこ持ってくとか思ってないけど」

 

「でも負けたくはないでしょ?」

 

 ユウコがにやっと笑う。

 

「……そっちこそ」

 

 ナツキが小さく返す。

 そのやり取りを見て、ハズキが思わず「仲良いですね」と言い、二人同時に「よくない」と返した。

 

 少しだけ笑いが起こる。

 重くなりすぎていた空気が、その分だけ柔らかくなる。

 

 エリンはそれを見て、内心で少し安心した。

 この九人なら、組める。

 もちろん、まだ磨くべきところは山ほどある。

 でも、現時点での最善を考えた時、この顔ぶれが一番だった。

 

「正式に進むかどうかは、来週の打ち合わせ次第」

 

 エリンが言うと、皆が一斉に頷く。

 

「それまでは、浮かれないこと。特別扱いもしない。ただ、この便を想定した訓練は入れていく」

 

「はい」

 

 返事が揃う。

 

「じゃあ、解散」

 

 そう言ってから、エリンはふと思い出したように付け加えた。

 

「ユウコ、ナツキ」

 

「はい」

「はい」

 

「張り合うのは自由だけど、便の中でだけは味方でいなさい」

 

 その一言に、ユウコが苦笑し、ナツキが少しだけ頬を赤くした。

 

「分かってますよ」

「もちろんです」

 

 それを聞いて、エリンは小さく頷く。

 

 九人がそれぞれ席へ戻っていく。

 だが、その足取りはさっきまでとは少し違っていた。

 まだ決まったわけじゃない。

 でも、もし通れば、自分たちが前へ出る。

 その現実が、一人ひとりの背筋をわずかに伸ばしていた。

 

 エリンは自席へ戻ると、再び企画書の画面を開いた。

 

 乗務体制の欄の次に、安全管理体制へ進む。

 医療連携。

 生徒名簿の事前共有。

 酔いやすい生徒への座席配慮。

 夜間の見回り体制。

 観測ステーション到着後の引率動線。

 教員との情報共有表。

 保護者向け事前説明会の項目案。

 

 書くことは山ほどあった。

 でも、手は止まらなかった。

 

 ようやく、次へ進むための土台が見えたのだ。

 それを形にするのが、今の自分の仕事だった。

 エリンは端末の光に照らされたまま、静かに、けれど迷いなくペンを進めていった。

 

 

ーーーー

 

 

 打ち合わせ当日の朝、エリンはいつもより少しだけ早く目を覚ました。

 

 窓の外には、火星コロニー特有のやわらかな朝の光が広がっている。人工空は雲一つない穏やかな青で、街路に沿って植えられた低木の葉先が静かに揺れていた。眠れなかったわけではない。むしろ、身体はしっかり休んでいる。それでも胸の奥は、起きた瞬間からわずかに張っていた。

 

 今日は、喫茶店でリディアと再会してから約束された打ち合わせの日だ。

 

 あの日からエリンは、ほとんどそれだけのために時間を使ってきた。

 仕事の合間、訓練の合間、夜の静かな時間まで端末に向かい、企画書を作り込み続けた。

 安全管理体制。

 乗務員の配置。

 緊急時の対応。

 生徒への配慮。

 引率教員との連携。

 保護者向けの説明項目。

 食事の提供方法。

 初めて宇宙船に乗る生徒が不安を抱えた時の導線。

 全部を、一つずつ言葉に落としていった。

 

 最初の草案を見たミラは「ここまで細かく書くんですね」と少し驚いていたし、ランは「むしろこれくらい必要ですよね」と静かに頷いていた。クミコ達は、自分達の名前が企画書の乗務員配置案に入っていることを見て緊張しながらも、その分、訓練での眼差しを明らかに変えていた。

 

 準備はした。

 出来る限りのことはした。

 だからこそ、今日の打ち合わせに出ていくしかない。

 

 エリンはベッドから起き上がり、洗面台の前に立つ。顔を洗い、鏡を見る。いつもの自分の顔だ。だが、目の奥だけは少しだけ鋭い。

 

「よし」

 

 小さく呟いて、自分で自分の背中を押した。

 

 

 打ち合わせ場所は、火星コロニーの教育企画局が入る管理棟の会議室だった。

 

 前回は喫茶店で偶然再会しただけだったが、今回は正式な場だ。リディアは“企画書を見せてほしい”と言った。その言葉の真意がどこまでかは分からない。興味本位ではないと信じたいが、企画書を聞いたうえで「やはり難しい」と言われる可能性だって当然ある。

 

 だからエリンは、甘い期待を持たないことに決めていた。

 

 必要なのは、誠実さと、具体性だ。

 今のスペースホープに出来ることと出来ないことを正直に示し、それでも任せる価値があると、相手に自分の頭で判断してもらう。そこへ持ち込めれば、今回は十分だと思っていた。

 

 管理棟へ入ると、受付で名前を告げ、指定された階へ向かう。

 エレベーターの扉が閉まる。

 鏡張りの壁に映る自分へ視線を向ける。手には資料ケース。中には企画書の紙資料と、補足用の端末。

 呼吸は落ち着いている。

 足も震えていない。

 それなのに胸の中心だけ、じわりと熱い。

 

 会議室の前には、すでにリディアが立っていた。

 

 青みの強いスーツに身を包み、相変わらず姿勢はまっすぐだ。隣には前回喫茶店で同席していた男性と若い女性もいる。男性は少し年配で、眼鏡の奥の視線が静かに鋭い。若い女性はタブレット端末を抱え、今日もきっちりまとめた髪が乱れていない。

 

「おはようございます」

 

 エリンが頭を下げると、リディアが穏やかに微笑んだ。

 

「おはようございます、エリンさん。時間ぴったりですね」

 

「遅れるわけにはいかないので」

 

 そう返すと、男性がわずかに口元を緩めた。

 

「今回は前回のように予約制の店で追い返すこともありませんから、安心してください」

 

 その軽い冗談に、エリンも少しだけ肩の力が抜ける。

 

「ありがとうございます」

 

 挨拶を交わしたあと、四人は会議室の中へ入った。

 

 

 会議室は広すぎず、狭すぎず、ちょうど打ち合わせに適した規模だった。

 中央に長机が一つ。

 壁際には大型の表示モニター。

 窓の外には、火星コロニーの中心区画が見える。空中通路を行き交う人影や、遠くを走る輸送車両が小さく見えた。

 

 席につき、資料を配る。

 エリンは自分の前の紙資料を一度整え、それから顔を上げた。

 

 リディアが頷く。

 

「では、お願いします」

 

 エリンは、小さく息を吸った。

 

「本日はお時間をいただきありがとうございます。スペースホープ側からご提案する、火星周回観測ステーション宿泊型宇宙地学研修の実施案について説明いたします」

 

 声は落ち着いていた。

 最初の一文が滑らかに出たことで、エリンの中の緊張が少しだけ整う。

 

 モニターへ企画書の表紙が映る。

 タイトルの下には、簡潔な副題が添えられている。

 

 ――安全な移動と学びの両立を目的とした、少人数教育研修便運営計画

 

 エリンはページをめくった。

 

「まず、今回想定している参加人数ですが、生徒は十五名、引率教員は三名です」

 

 その数字を、はっきりと示す。

 

「人数としては大規模ではありませんが、初めて宇宙船に乗る生徒が含まれる可能性が高く、また教育目的の移動であるため、通常の団体移動便以上に、心理面と学習導線への配慮が必要と考えています」

 

 リディアの隣の男性が、その一文のところで資料へ何か書き込んだ。

 

 エリンはそこを見逃さなかったが、気にせず次へ進む。

 

「輸送に使用する宇宙船は、自社保有機ではなく、認証を受けたレンタル機を使用します」

 

 ここで、若い女性が顔を上げる。

 

「レンタル品、というのは?」

 

 エリンはすぐに補足する。

 

「教育機関向けの少人数宿泊研修に適した、運用実績のある中型機です。整備履歴、機体認証、非常設備の点検記録も全て事前提出可能です」

 

「なるほど」

 

 女性が頷く。

 

 エリンはモニターの画像を切り替えた。

 そこには、今回使用を想定している宇宙船の簡易図面が表示される。

 

「この機体は、客席の他に食堂、医療ルーム、そしてカフェのようにドリンクを飲めるラウンジスペースを備えています」

 

 その言葉に、リディアが少し身を乗り出した。

 

「ラウンジ、ですか」

 

「はい」

 

 エリンは図面上の位置を示す。

 

「こちらが通常の客席区画です。移動中の着席を基本としますが、飛行が安定した後、教員判断と機体状況に応じてラウンジスペースの利用を可能にする想定です」

 

 図面には、前方に客席、中央寄りに小規模な食堂、後方側に医療ルーム、そして側面窓のあるラウンジが描かれている。

 

「食堂は、長時間移動での食事を安全に取るためのものです。簡易な温食の提供が可能で、着席した状態で落ち着いて食事ができます。ラウンジは、通常の客席よりもリラックスした姿勢で休める区画で、温かい飲み物や軽いドリンクを提供できます。研修に向かう生徒達の緊張を緩めたり、帰路で学習内容を振り返る場としても使えます」

 

 リディアが資料に目を落としながら言う。

 

「ただの輸送便ではなく、移動中の空間も研修の一部と考えているのですね」

 

「はい」

 

 エリンはまっすぐ答える。

 

「特に初めて宇宙船へ乗る生徒は、目的地に着く前の段階で既に多くの刺激を受けます。そこで過度に緊張したまま移動してしまうと、現地での学習にも影響します。ですから、乗務員側で“不安をほどく時間”と“学びへ意識を向ける時間”を設計する必要があります」

 

 男性がそこで口を挟んだ。

 

「つまり、単に座って運ぶのではなく、移動そのものの質を管理する、ということですか」

 

「その通りです」

 

 エリンは頷いた。

 

「教育研修ですので、現地プログラムの価値を落とさない移動空間が必要だと考えています」

 

 そこまで話してから、エリンは次のページへ移る。

 

「次に、運航体制についてです」

 

 少しだけ、会議室の空気が締まる。

 ここは相手が最も気にする部分の一つだろう。

 

「操縦士と医療従事者については、私の方で手配いたします」

 

 その一言で、若い女性の眉がわずかに動いた。

 

「医療従事者も、ですか?」

 

「はい」

 

「そこまで必要でしょうか」

 

 その問いは、疑問というより確認に近い。

 エリンは、相手がそう聞くことも想定していた。

 

「今回の対象は未成年を含む教育研修です。加えて、宇宙船への初搭乗者がいる可能性があります。大きな事故や急病を前提にするわけではありませんが、酔い、不安発作、軽い外傷、体調急変への初動体制を明示しておくことは、保護者説明の段階でも重要だと考えています」

 

 リディアが静かに頷く。

 

 エリンは続ける。

 

「医療ルームは、ただ“ある”だけでは意味がありません。使える状態にしておく必要があります。ですので、乗務員の応急対応に加え、医療従事者を一名配置する形を取ります」

 

 若い女性がタブレットに何かを入力しながら言う。

 

「医療従事者は、研修全行程に同行する形ですか?」

 

「はい。往復便と滞在初動までを含めた形を想定しています」

 

 男性が資料をめくりながら問う。

 

「操縦士については?」

 

「運航経験のある者を手配します。教育機関向けである以上、安全最優先で選定します」

 

 ここでエリンは、あえて具体名を出さなかった。

 まだ確定していない段階で、先に名前だけを見せるのは得策ではない。相手が知りたいのは誰かより、どういう基準で選ぶかだからだ。

 

 リディアは、その言い方をどう受け止めたのか、少しだけ目を細めた。

 

「乗務員体制についても、説明をお願いします」

 

「はい」

 

 エリンは、乗務員配置のページを映した。

 

 そこには九人の構成案が整理されている。

 チーフパーサーとしてエリン。

 全体補佐としてミラ、ラン。

 その他の乗務員としてクミコ、ハズキ、サリー、アズサ、ユウコ、ナツキ。

 

「今回の便では、チーフパーサーとして私が全体統括に入ります。その上で、前方導線、後方導線、緊張の強い生徒へのフォロー、教員との連携、食事とラウンジ運営、安全確認を分担できるよう九名体制を想定しています」

 

 リディアの視線が、配置説明の欄を辿っていく。

 エリンは一人ずつ、簡潔に役割を口にした。

 

「ミラは前方導線と初期の空気づくりに強い者です。搭乗時、生徒達が最初に宇宙船へ入る場面で、緊張を和らげつつ流れを作ります」

 

「ランは後方導線の安定と、全体の呼吸を整える役として配置します。表に出すぎず、でも不安の強い生徒に気づける乗務員です」

 

「クミコは案内導線に強く、ハズキは明るさで空気を和らげることが出来ます。サリーは乗客の細かな変化に気づく力があり、アズサは新人ですが、初めての利用者に近い目線で寄り添えるのが長所です」

 

「ユウコとナツキはともに経験三年目で、対人対応に強い。教員・生徒双方との距離を自然に詰められるため、移動中の空気を柔らかく保つ役割を担います」

 

 男性がそこで尋ねる。

 

「経験年数にばらつきがありますね」

 

 予想していた質問だった。

 

「はい」

 

 エリンは素直に認める。

 

「ですが、全員を同じ熟練度で揃えることが目的ではありません。今回重要なのは、生徒達の心理的安全と、教育便としての空気の安定です。経験者だけで固めるより、相性と役割を見て組んだ方が、この企画には向いていると判断しました」

 

 さらに言葉を足す。

 

「もちろん、経験の浅い乗務員を単独で立たせることはしません。必ず前後に支えを置き、判断を孤立させない形にします」

 

 リディアはその答えを聞いて、少しだけ椅子へ深く座り直した。

 

「興味深いわね」

 

 彼女の声には、本当に興味を持ち始めた響きがあった。

 

 エリンはそこで、企画書の後半へ進む。

 

「次に、事前説明についてです。今回、私は保護者向け説明資料の作成も含めてご用意します」

 

「保護者向けも?」

 

 若い女性が少し驚く。

 

「はい。未成年の教育研修ですので、保護者の不安は当然あります。宇宙船の設備、医療体制、食事、安全確保、緊急時連絡系統を事前に明文化し、学校側の説明負担を減らします」

 

「そこまで考えているんですね」

 

「必要だと思っています」

 

 エリンは迷いなく言う。

 

「今回の企画で最も大事なのは、“無理をして任せてもらうこと”ではなく、“任せても大丈夫だと判断していただくこと”ですから」

 

 その言葉に、会議室は少しだけ静まった。

 

 リディアが、資料から顔を上げる。

 

「エリンさん」

 

「はい」

 

「あなたは、この企画が通れば、自分で便に乗るんですよね」

 

「はい」

 

「なぜ?」

 

 その問いに、エリンは一瞬だけ目を瞬いた。

 けれど、答えはすぐに出た。

 

「今のスペースホープにとって、これは“次の一便”だからです」

 

 会議室の空気が、また一段と静かになる。

 

「小規模でも、教育研修でも、たった一便でも、今の私達には大きい仕事です。だから最初は、私が前に立つべきだと思っています」

 

 それは営業用の言葉ではなかった。

 あまりにも率直で、だからこそまっすぐ届く言葉だった。

 

 男性が、腕を組んで尋ねる。

 

「もし、この企画が通ったとして。あなたが思う一番の不安要素は何ですか」

 

 その問いは厳しかった。

 だが、逃げるべきではない問いでもあった。

 

 エリンは少し考え、それから答える。

 

「生徒十五名という人数自体は大きな問題ではありません」

 

「では?」

 

「初めて宇宙へ出る人が複数いる場合、乗務員側が“緊張の質の違い”を見誤ることです」

 

 男性が眉を動かす。

 

「緊張の質?」

 

「はい。騒がしくなる子、黙る子、平気そうに見えて急に不安が強くなる子。表に出る不安と、出ない不安は違います。そこを一括りにせず見られるかが、今回の便では大事だと思っています」

 

 リディアが、ふっと息を漏らす。

 

「なるほど」

 

「だからこそ、乗務員配置を役割で分けています。誰が全体を見るか、誰が入り口を作るか、誰が静かな子を拾うか。それを最初から設計しています」

 

 若い女性が、ページをめくる手を止めた。

 

「この“静かな子を拾う”っていう視点、学校側にはとてもありがたいです」

 

 その言葉に、エリンの胸の奥で小さく何かが灯る。

 

 説明はその後も続いた。

 食堂の利用時間と席順の考え方。

 ラウンジではアルコールや刺激の強い飲料を扱わないこと。

 観測ステーション到着後、最初の三十分は生徒を一箇所へ集め、呼吸と体調を整えてからプログラムへ移すこと。

 教員三名のうち一名は常に乗務員との連絡窓口になってもらうこと。

 帰路では簡易な振り返りシートを配り、移動中の気づきも学習の一部として扱えるようにすること。

 

 話しながら、エリンは一つひとつ相手の表情を見る。

 困惑。

 納得。

 疑問。

 その揺れに合わせて、説明の順番や深さを微調整していく。

 

 やがて、一通りの説明が終わった。

 

 会議室に短い沈黙が落ちる。

 

 エリンは、自分の手が意外なほど落ち着いていることに気づいた。

 全部話した。

 ごまかさずに。

 盛らずに。

 出来ることと、出来るように準備することを。

 

 リディアが、ゆっくりと資料を閉じた。

 

「ありがとうございます」

 

 その一言は、前回よりずっと重かった。

 

「正直、ここまで具体的に持ってくるとは思っていませんでした」

 

 エリンは何も言わず、次の言葉を待つ。

 

 男性も資料を置く。

 

「企画としては、かなり現実的です」

 

 その言い方に、エリンの心臓が一度だけ強く打った。

 

「ただし」

 

 当然、続きがある。

 

「学校側としては、実際に使う機体の確認と、運航に関わる責任体制の明文化が必要です」

 

「はい」

 

「それが出せるなら、次の段階へ進めます」

 

 “次の段階”――。

 その言葉を、エリンは頭の中で繰り返した。

 

 リディアが穏やかに、しかしはっきりと言う。

 

「私は前向きに進めたいと思っています」

 

 若い女性も頷く。

 

「私もです。特に保護者説明まで見越している点は評価できます」

 

 男性は少しだけ慎重な顔のままだったが、それでも首を横には振らなかった。

 

「機体確認と責任体制の文書が揃えば、理事会へ上げる材料にはなります」

 

 そこまで聞いて、ようやくエリンは少しだけ息を吐いた。

 

 決まったわけではない。

 でも、断られたわけでもない。

 それどころか、“前向きに進めたい”という言葉を、今、確かに受け取ったのだ。

 

「ありがとうございます」

 

 エリンは、深く頭を下げた。

 

「必要書類は、今週中に揃えます」

 

「お願いします」

 

 リディアが答える。

 

「それから」

 

 彼女は少しだけ口元を和らげた。

 

「出来れば、次回はあなたが考えた乗務員達のうち、中心になる方を何人か同席させてもいいかもしれません」

 

 その提案に、エリンは顔を上げた。

 

「学校側も、実際に生徒と接する人の雰囲気を見たいと思うので」

 

「……分かりました」

 

 ミラとラン、あるいはクミコ達の誰か。

 頭の中で、すぐに候補が動き出す。

 

 会議はそこで一区切りとなった。

 

 資料を片付け、礼を交わし、席を立つ。

 会議室の扉が開いた瞬間、廊下の少しひんやりした空気が流れ込んできた。

 

 エリンは外へ出て、数歩歩いたところでようやく立ち止まった。

 

 胸の奥で、今まで押しとどめていたものが、じわりと溢れそうになる。

 

 まだ終わっていない。

 むしろここからだ。

 機体確認もある。

 責任体制の文書も詰めなければならない。

 理事会を通す必要もある。

 乗務員達の想定訓練もさらに細かくしなければならない。

 

 それでも。

 

 やっと、ここまで来た。

 

 エリンは、廊下の窓から見える火星コロニーの人工空を見上げた。

 静かな青だった。

 あの日、二十社断られたあとに歩いた街と同じ景色なのに、今日は少しだけ光の色が違って見える。

 

 彼女は端末を取り出した。

 

 まず最初に連絡すべき相手の名前は、もう決まっている。

 

 画面に表示されたのは、ミラだった。

 少し考えたあと、ランも含めたグループに変える。

 それから短く打つ。

 

 打ち合わせ終わった。前向き。戻ったら話します。

 

 送信したあと、エリンは今度こそ、少しだけ笑った。

 

 スペースホープの次の一便は、まだ夢じゃない。

 ちゃんと、手の届くところまで来ていた。

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