サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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エトワール養成学校

 次の打ち合わせの日、エリンは前回よりも早く会場へ着いていた。

 

 場所は前回と同じ、火星コロニー教育企画局の会議棟だった。だが、今回はエリン一人ではない。彼女の少し後ろには、ミラ、ラン、そしてクミコの三人が続いている。

 

 ミラはいつも通り、明るく落ち着いた表情を浮かべていたが、背筋の伸び方は普段よりもわずかに硬い。ランは静かな顔のままだったが、指先を軽く組んではほどく動きを見れば、少し緊張しているのが分かる。クミコに至っては、会議棟に入ってからずっと胸の前で資料ケースを抱える手に力が入りっぱなしだった。

 

 無理もない。

 

 今日は学校側の教職員とリディア達との正式な打ち合わせだ。前回の打ち合わせでリディアから「実際に生徒と接する乗務員を何人か同席させてもいい」と言われたことで、エリンはミラとラン、そしてクミコを連れてきた。

 

 ミラは空気を柔らかくする役として。

 ランは全体を静かに支える役として。

 そしてクミコは、まだ若く、経験も十分とは言えないが、それでも今のスペースホープがどれだけ前へ進んでいるかを示す象徴のような存在として。

 

 訓練だけではなく、現場を経験し、悩み、反省し、それでも前へ進もうとする乗務員がここにいる。そのこと自体が、相手へのひとつの説得力になるとエリンは考えていた。

 

 エレベーターの中で、クミコがそっと息を吐いた。

 

「……緊張します」

 

 小さな声だった。

 

 エリンは前を向いたまま、ほんの少しだけ目元を和らげる。

 

「緊張していいのよ」

 

「でも、私なんかが来てよかったんでしょうか」

 

 その問いに、エリンは今度はきちんと振り返った。

 

「来てほしいから連れてきたの」

 

 短い言葉だったが、クミコはそれだけで少しだけ肩の力を抜いた。

 

 ミラが横からくすっと笑う。

 

「クミコ、今日の役目は“完璧に喋ること”じゃないよ」

 

「じゃあ、何ですか?」

 

「ちゃんとここに立ってること」

 

 ミラらしい言い方だった。

 ランも穏やかに続ける。

 

「そうですね。私達は、エリンさんが作ってきた企画が、紙の上だけじゃなくてちゃんと現場に人として存在しているって見てもらうためにいるんだと思います」

 

 その言葉に、クミコは目を瞬いた。

 

 紙の上だけじゃなくて、人として存在している。

 

 なるほど、と心の中で小さく繰り返す。

 企画書に書かれた“乗務員体制”という文字の中に、自分達が本当に立っていると示すためにここへ来たのだと考えれば、少しだけ呼吸がしやすくなった。

 

 会議室の前には、すでにリディアが待っていた。

 

 今日は前回よりも人が多い。リディアの他に、前回同席していた男性と若い女性、さらに学校側の教職員が三名。年配の男性が一人、四十代くらいの女性が一人、そして三十代前半ほどの理科担当らしい青年教師が一人だった。

 

 リディアはエリン達を見ると、目を細めて頷いた。

 

「おはようございます」

 

「おはようございます」

 

 エリンが頭を下げると、ミラ、ラン、クミコもそれに続いた。

 

 理科担当らしい青年教師が、その三人を見て少しだけ興味深そうな顔をする。

 

「この方達が、実際に便へ乗る乗務員の方ですか?」

 

「はい」

 

 エリンが答える。

 

「今日は全員ではありませんが、中心になる乗務員として三名同席させています」

 

 リディアが三人へ視線を向けた。

 

「お名前を伺っても?」

 

 最初にミラが一歩出た。

 

「ミラと申します。客室乗務員として搭乗時の導線と前方の空気づくりを担当予定です。本日はよろしくお願いします」

 

 明るく、けれど軽すぎない。

 会議の場にふさわしい柔らかな声だった。

 

 次にランが静かに頭を下げる。

 

「ランと申します。客室内全体の安定と、緊張の強い生徒さんへのフォローを中心に入る予定です。どうぞよろしくお願いいたします」

 

 最後にクミコ。

 

 一瞬だけ喉が鳴ったが、それでもきちんと顔を上げて言った。

 

「クミコと申します。主に案内と搭乗時のサポートを担当予定です。まだ経験は浅いですが、しっかり務めます。本日はよろしくお願いいたします」

 

 その言い方に、エリンは内心で小さく頷いた。

 余計に飾らない。

 だが、自分の未熟さに逃げ込むような言い方でもない。

 今日のクミコには、それだけで十分だった。

 

 会議室に入り、席へ着く。

 

 前回よりも明らかに空気は固い。

 当然だろう。今日は単なる企画の相談ではなく、具体的な確認と判断の場だからだ。

 

 エリンは資料を広げ、最初に前回からの変更点と補足事項を簡潔に伝えた。

 

「前回ご説明した基本構成に加え、本日は機体確認資料、責任体制の明文化資料、緊急時対応フロー、保護者説明会用の想定項目案までお持ちしました」

 

 その言葉に、学校側の年配の男性教員が「かなり揃えてきましたね」と感心したように呟いた。

 

「必要なことですので」

 

 エリンは静かに返す。

 

 画面に機体の図面と写真が映し出される。

 

「まず、機体確認からご説明します」

 

 エリンは前回と同じように、今回使用予定のレンタル機について説明を始めた。

 

「使用する宇宙船は、中型の教育・視察向け運用実績がある認証済み機体です。整備履歴、認証書類、緊急設備点検記録をこちらに添付しています」

 

 画面には機体外観、客席、食堂、ラウンジ、医療ルームの写真が順に出る。

 

「客席は十八名が余裕を持って着席できる配置です。今回は生徒十五名、教員三名でちょうど十八名ですが、食堂とラウンジの利用タイミングを分けることで、常時客席へ固定せずに運用できます」

 

 若い女性が資料の人数欄へ視線を落とす。

 

「生徒は十五名で確定ですか?」

 

「はい」

 

 ここで学校側の女性教員が口を開いた。

 

「参加予定者は高等部一年から三年まで混合になります。引率教員は三名。私を含めて理科担当が二名、生活指導担当が一名です」

 

 なるほど、とエリンは内心で思う。

 学年が混在するなら、空気の作り方も少し変わる。高学年は平気そうな顔をして無理をすることがあるし、一年生は逆に緊張を隠しきれない場合が多い。教員の構成も悪くない。理科担当が二名いれば現地での学習導線は作りやすく、生活指導担当がいるなら体調面や生徒間の空気も拾いやすい。

 

 エリンは頷きながら続けた。

 

「ありがとうございます。学年混在であれば、搭乗時の座席配置はあらかじめ教員側と調整した方が良いと考えています。初めて宇宙船へ乗る生徒、酔いやすい傾向のある生徒、不安を口にしづらい生徒は、乗務員の視線が届きやすい位置へ配置したいです」

 

 理科担当の青年教師が興味深そうに身を乗り出した。

 

「そこまで事前に席を分けるんですね」

 

「はい。教育便では、移動中の不安を“個人の問題”にしないことが大切です」

 

 その言葉に、女性教員が小さく頷いた。

 

 エリンは食堂とラウンジについても説明する。

 

「食堂区画は、安定飛行後に時間を区切って利用します。全員を一度に移動させるのではなく、三つのグループに分け、教員と乗務員が交互に付きます。食事は消化の良いものを中心にし、刺激の強いものは避けます」

 

「ラウンジ区画は、単なる休憩所ではなく、呼吸を整える場として使います。特に往路では、緊張の強い生徒が客席以外で一度気持ちを落ち着かせられるようにするつもりです。帰路では、観測ステーションでの体験を振り返るための小さな会話の場にも使えます」

 

 リディアが、そこで穏やかに言った。

 

「この“ラウンジを学びの延長として使う”という考え方は、前回より整理されていますね」

 

「前回いただいたご意見を踏まえました」

 

 エリンが答えると、リディアは小さく笑みを浮かべた。

 

 次に責任体制のページへ移る。

 

 ここから先は、より厳しい視線が来ることをエリンは分かっていた。

 

「今回の便では、責任の所在を曖昧にしないため、運航責任、客室責任、医療責任、引率責任を分けて明記します」

 

 画面には四つの枠組みが映し出される。

 

「運航責任については、機体運航と飛行判断を担当する操縦士に帰属します。客室責任については私、エリンがチーフパーサーとして担います。医療責任については同乗する医療従事者が一次判断を行い、引率責任については学校側教職員の代表の方に窓口をお願いしたいと考えています」

 

 学校側の年配の男性教員が口を開いた。

 

「責任体制をここまで分けるのはいいのですが、緊急時に誰の判断が優先されますか?」

 

「緊急時の種類によります」

 

 エリンは即座に答えた。

 

「飛行安全に関わる判断は操縦士が最優先です。医療的緊急対応の初動判断は医療従事者。その上で、未成年の生徒に関する最終的な対応方針には教職員代表の意見を必ず入れます。私はその橋渡しを行います」

 

 その答えに、年配の男性は資料へ何か書き込んだ。

 

 そして、その質問は当然やってきた。

 

「操縦士は、誰が担当する予定ですか?」

 

 会議室の空気が、そこでわずかに変わる。

 

 エリンはそれを感じた。

 ここは重要な箇所だ。

 相手が見たいのは“すごい名前”ではない。

 だが、誰が飛ばすかは、教育機関にとって最も大きな安心材料の一つでもある。

 

 エリンは、まっすぐ相手を見て答えた。

 

「スペースホープで抱えるパイロットと、仲間のS級パイロット、リュウジに任せます」

 

 その瞬間、教職員も、リディア達も、驚きを隠せなかった。

 

「え……」

 

 若い女性が思わず声を漏らし、理科担当の青年教師は完全に目を見開いた。年配の男性教員ですら資料から顔を上げたまま数秒止まっている。リディアだけは声を上げなかったが、それでも目の奥に明らかな驚きが走った。

 

「S級……リュウジ、というのは」

 

 青年教師が確認するように問う。

 

 エリンは落ち着いたまま頷いた。

 

「はい。皆さんがご存じの、そのリュウジです」

 

 それで会議室の空気がまた一段ざわついた。

 

 もちろん無理もない。

 S級パイロットの名前は、教育機関に勤める人間であっても聞いたことがある。宇宙輸送の安全性を語る上で、今や一種の象徴のような存在だ。実際に名前が出るとは思っていなかったのだろう。

 

 女性教員が半ば呆然としたまま言う。

 

「そんな方が、教育研修便に……?」

 

「今回の企画について話が回り、本人から協力の申し出がありました」

 

 それは事実だ。

 もちろん、最初に話をしたのはエリンではない。

 

 エリンはそこで、必要だと判断して補足した。

 

「最初にこの話を伝えたのは私ではありません」

 

 リディアが静かに耳を傾ける。

 

「今回の航路申請を事前に宇宙管理局に提出したところ、宇宙管理局の仲間がどこかで知ったみたいでして、その後、リュウジ本人から私に連絡がありました」

 

 つまり、自分から“来てほしい”と泣きついたわけではない。

 そこは、相手にもきちんと伝わるべきだとエリンは思った。

 

「彼は今回に限り、信頼回復の初便という意味合いを理解した上で、操縦協力を申し出てくれています」

 

 青年教師がまだ信じきれないように問う。

 

「報酬は……」

 

「もちろん、いらないとのことです」

 

 その一言がまた衝撃だったらしい。

 

「いらない……?」

 

 今度は男性教員が反応する。

 教育機関の予算担当も兼ねているのかもしれない。費用面の現実に一番敏感な反応だった。

 

 エリンは静かに言う。

 

「はい。今回の件については、スペースホープの再建支援の意味合いが大きいので、報酬は不要だと本人から申し出がありました」

 

 リディアが、そこで初めて深く息を吐いた。

 

「……そこまでしてくれるのですね」

 

「はい」

 

 エリンは頷く。

 

 だが、そこで安易に“だから安心してください”とは続けなかった。

 名前の大きさに頼りすぎるのは違うと思ったからだ。

 

「ただし」

 

 エリンは資料の責任体制に視線を戻す。

 

「重要なのは、名前の大きさではなく、便全体の運営です。S級パイロットが一人いるから何でも大丈夫という考え方は取りません。だからこそ、機体、医療体制、客室運営、教員連携をここまで細かく設計しています」

 

 その言葉に、リディアがゆっくりと頷いた。

 

「その姿勢は、良いと思います」

 

 会議室のざわめきは少しずつ落ち着いていった。

 そして今度は、別の意味で相手の視線が変わる。

 

 驚きだけではない。

 この企画が、本気で組まれているのだという認識が、じわじわと広がる。

 

 ミラとランは、その空気の変化をしっかり感じていた。

 クミコはリュウジの名前が出た瞬間こそ驚きを隠せなかったが、今はエリンの説明に必死でついていっている。ここで自分の表情を崩してはいけないと分かっているのだ。

 

 若い女性が資料の中の“乗務員同行説明会”の欄を指した。

 

「この事前オリエンテーションですが、実際に今回同席されている皆さんも説明会へ参加されますか?」

 

 エリンは頷いた。

 

「はい。その予定です」

 

「では、せっかくですから、少しだけお話を伺っても?」

 

 その視線が、ミラとラン、そしてクミコへ向けられる。

 

 一瞬、クミコの背筋がさらに伸びた。

 けれど、エリンはその前に一度だけ目で合図を送る。

 大丈夫。

 それだけでいい。

 

 最初に答えたのはミラだった。

 

「はい。私は搭乗時、生徒さんが最初に宇宙船へ入る時の空気を整える役を想定しています」

 

 会議の場に合わせた落ち着いた声。

 だが、ミラらしい明るさは消していない。

 

「初めての方は、思っている以上に“最初の一歩”で緊張します。なので、必要以上に堅くしないことと、でも緩みすぎないこと、その両方を意識して対応したいと思っています」

 

 女性教員がその言葉に小さく頷く。

 

「生徒達、そういうところありますね」

 

 次にランが話す。

 

「私は後方を見ながら、表に不安が出にくい生徒さんを拾う役になると思います」

 

「表に不安が出にくい?」

 

 年配の男性教員が聞き返す。

 

「はい」

 

 ランは静かに言う。

 

「不安な子は、分かりやすく声に出る場合もありますが、逆に静かになりすぎたり、平気そうに見えて急に表情が固くなったりする場合もあります。私はそういう変化に早く気づけるよう、後方から全体を見るつもりです」

 

 その丁寧な言葉に、理科担当の青年教師が少し感心したように息を吐いた。

 

 最後に視線がクミコへ向いた。

 

 まだ新人で、経験も浅い。

 だからこそ、この場にいる意味がある。

 エリンはそう考えていた。

 

 クミコは、資料ケースの端をそっと握り、それから顔を上げた。

 

「私は、案内と最初のサポートを担当する予定です」

 

 声は少しだけ緊張していた。

 だが、それでも十分届いていた。

 

「まだ経験は浅いです。でも、だからこそ初めて宇宙船に乗る生徒さんの気持ちに近いところで立てると思っています。分からないことや怖いことを、“そのまま言っていい空気”を作れるようにしたいです」

 

 その言葉に、女性教員がふっと表情を和らげる。

 

「……その言い方、いいですね」

 

 クミコは少し目を見開いた。

 褒められたというより、“届いた”のだと分かった瞬間だった。

 

 エリンは、そこで会議の流れがきちんと乗ったのを感じた。

 

 企画書は紙の上だけではない。

 今、目の前にいるこの人達が実際に生徒を迎えるのだと、相手の頭の中に少しでも具体的な景色が浮かび始めている。

 

 そのあとも打ち合わせは続いた。

 

 保護者向け説明会の時期。

 事前の健康確認票の回収方法。

 機内での飲料提供の種類。

 ラウンジ利用時の人数制限。

 火星周回ステーション到着後、最初の三十分の休憩導線。

 帰路での振り返り用シートの扱い。

 

 ひとつひとつ、細かい。

 だが教育研修便としては必要な話ばかりだった。

 

 会議の終盤、リディアが資料を閉じた。

 

「ありがとうございます」

 

 その言葉は、前回よりもさらに深いものだった。

 

「かなり具体的に詰めてきていただけたと思います」

 

 男性教員も、今度はきっぱりと頷いた。

 

「ここまで準備しているとは正直思っていませんでした」

 

 理科担当の青年教師は、少しだけ興奮を隠しきれない様子で言う。

 

「観測ステーションへの移動まで含めて、教育プログラムとして組めそうですね」

 

 そして、女性教員が最後に言った。

 

「私は保護者説明の部分を見ていて、かなり安心しました。特に医療体制と、初めて乗る生徒への心理面の配慮は大きいです」

 

 エリンは、静かに頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

 リディアはそこで、少しだけ間を置いてから言った。

 

「こちらとしては、前向きに進めたいと思います」

 

 クミコが思わず息を止めた。

 ミラも、ランも、表情を変えなかったが、その目の奥がわずかに揺れた。

 

 リディアは続ける。

 

「理事会と最終調整は必要です。ただ、私はこの案で進めることに賛成します」

 

 男性教員も頷く。

 

「私も異論はありません」

 

 女性教員も同じく頷いた。

 

「ぜひお願いしたいです」

 

 理科担当の青年教師は、今にも「ありがとうございます」と言いそうな顔をしていたが、学校側であることを思い出したのか、ぎりぎりで口を閉じた。

 

 会議室の空気が、そこでようやく少しだけ緩んだ。

 

 エリンはすぐには声を出せなかった。

 胸の奥にあった硬いものが、一気にほどけそうになるのを必死で押さえたからだ。

 

 まだ正式決定ではない。

 でも、ここまで来た。

 

 小さな一便。

 たった十五名の生徒と三名の教員。

 それでも今のスペースホープには、あまりにも大きい。

 

「正式なご連絡は、理事会後にお伝えします」

 

 リディアが言う。

 

「はい。お待ちしています」

 

 エリンは、ようやくそれだけを返した。

 

 会議が終わり、資料を片付け、礼を交わし、会議室を出る。

 

 廊下へ出たところで、クミコが思わずその場に立ち止まった。

 

「……通る、かもしれないんですよね」

 

 声が震えていた。

 

 ミラが深く息を吐く。

 

「うん。まだ決定じゃないけど……かなり前向きだった」

 

 ランは少しだけ目を閉じて、それから静かに笑った。

 

「やっと、ですね」

 

 エリンは、そんな二人とクミコの顔を見て、ふっと笑みを浮かべた。

 

「浮かれるのはまだ早いわよ」

 

 そう言ってから、少しだけ声を柔らかくする。

 

「でも、今日はよくやってくれた」

 

 クミコはその言葉に、ようやく強張っていた肩を落とした。

 

 ミラが、少しだけ悪戯っぽく言う。

 

「エリンさんも、ちゃんと緊張してましたよね」

 

「してないわよ」

 

「してました」

 

 ランが静かに追い打ちをかける。

 

「最後に資料を閉じる時、ほんの少しだけ指先に力が入っていました」

 

 エリンが一瞬、言葉に詰まる。

 

「……見てたの?」

 

「見てました」

 

 ランは穏やかに答える。

 

 ミラが笑う。

 

「でも、その方が少し安心しました。エリンさんでも緊張するんだなって」

 

「何それ」

 

「だって、私達だけガチガチだったら恥ずかしいじゃないですか」

 

 その言い方に、クミコまでくすっと笑ってしまった。

 

 廊下の窓の外には、火星コロニーの午後の光が広がっている。

 ほんの少し前まで、何度も断られて、資料だけを抱えて歩いていた道の上だ。

 

 エリンはその光を見ながら、胸の奥で静かに思った。

 

 ここからだ。

 本当に、ここからなのだと。

 

 まだ決まっていない。

 でも、仕事はもう動き始めている。

 そしてそれは、スペースホープがただ“立て直そうとしている会社”ではなく、“次の一便をちゃんと飛ばそうとしている会社”になった証でもあった。

 

 エリンは、端末を取り出した。

 

 最初に連絡する相手の名前は、今回もすぐに浮かんだ。

 

 ペルシア。

 

 たぶん、送ればすぐに「でしょ?」と返ってくるに違いない。

 そして、その次には「リュウジにも言っとく」と勝手に話を広げるだろう。

 それが少しだけ想像できて、エリンは自然と笑っていた。

 

 

ーーーー

 

 

正式に運行を任されてからというもの、スペースホープの動きは目に見えて早くなった。

 

 まるで、それまでどこか薄い膜の向こう側にあった仕事が、ようやく現実の重さを持って目の前に落ちてきたようだった。

 

 火星周回観測ステーションへ向かう高等部向け宇宙地学研修。

 生徒は十五名、教員は三名。

 小規模ではあるが、今のスペースホープにとっては、会社の信頼を取り戻すための大きな一便だった。

 

 エリンは、その一便を“ただ飛ばす”つもりはなかった。

 

 保護者向け説明会の時期。

 事前の健康確認票の回収方法。

 機内での飲料提供の種類。

 ラウンジ利用時の人数制限。

 火星周回ステーション到着後、最初の三十分の休憩導線。

 帰路での振り返り用シートの扱い。

 教員との連携窓口。

 不安の強い生徒への初動対応。

 機内での食事提供の順番と、酔いやすい生徒への配慮。

 保護者から来るであろう質問の想定と、その回答文案。

 

 どれも、抜けていいものではなかった。

 

 そして、それらの細かな実務を、エリンは一人では抱えなかった。

 

 補佐としてつけたのは、クミコとアズサだった。

 

 クミコは、今や旅行事業部の中でも一歩前へ出る力を身につけ始めていた。

 最初の頃のように、責任感だけで前のめりになるのではなく、「どうすれば相手が安心できるか」という視点を持って動けるようになりつつある。資料整理や確認業務でも、以前よりずっと落ち着いて全体を見られるようになっていた。

 

 アズサは、新人らしい初々しさをまだ残しながらも、明るい笑顔と気配りが自然に出来る子だった。

 誰かが困っていれば先に手を出す。

 無駄にでしゃばらない。

 でも、黙って見ているだけでもない。

 そういう柔らかな実務力が、今のエリンにはありがたかった。

 

 だから最近のエリンの周りには、いつもその二人の姿があった。

 

「クミコ、健康確認票の未提出者、学校側へ再確認して」

「はい」

「アズサ、保護者説明会で配る資料、飲料提供の欄だけ修正して。炭酸は除外、温かい飲み物はカフェインありとなしで分けたい」

「分かりました!」

 

 そんなやり取りが、ここ数日の旅行事業部では当たり前になっていた。

 

 資料が増えれば、クミコが仕分ける。

 日程が変われば、アズサが教員側との共有シートを更新する。

 エリンはその合間に、乗務員達の訓練にも顔を出し、ミラとランへ方針を伝え、社長と最終調整を行い、機体手配の進捗も確認していた。

 

 時間はいくらあっても足りない。

 

 フライトまでは、一ヵ月を切っていた。

 

 教育研修便として初めて任される以上、絶対に失敗は出来ない。

 もちろんエリンは全力でやる。だが、全力でやることと、一人で抱えることは違う。

 

 そしてある夜、エリンは自席に残って書類を眺めながら、はっきりと思った。

 

 ――無事に乗り切るには、私一人では時間が足りない。

 

 乗務員達は確実に伸びている。

 けれど、今必要なのは“あと一段階、短期間で精度を上げること”だ。

 そのためには、エリン自身が実務から完全に手を離すことは出来ない以上、訓練の質をさらに引き上げてくれる誰かが必要だった。

 

 そこでエリンは、二人の人物に依頼をかけた。

 

 

 熱気のある朝だった。

 

 火星コロニーの人工空は朝だというのにすでに明るく、建物のガラス越しに差し込む光には、じんわりとした熱が混ざっている。旅行事業部のフロアにも、その朝の熱気が少し流れ込んでいた。

 

 乗務員達は、いつも通りの時間に出社し、端末を立ち上げ、軽く挨拶を交わしながら一日の準備を始めていた。

 ミラとランは今日の訓練メニューを確認し、クミコとアズサはエリンから預かった資料の整理を終えたばかりだった。ハズキは相変わらず朝から少し声が大きく、サリーはその横で静かに全体を見ている。ユウコとナツキは、表向きは普通に会話しているものの、同じ便に乗ることを意識しているせいか、どこか互いの仕上がりを測り合っている気配があった。

 

 そんな中、エリンがフロアの前方へ立った。

 

「皆んな、ちょっといい?」

 

 その一言で、乗務員達の視線が集まる。

 

 エリンは一人ひとりの顔を見てから、静かに口を開いた。

 

「今日から二人ほど、フライトまでの間、特別講師を呼びました」

 

 一瞬、ざわりと空気が揺れる。

 

「えっ、特別講師!?」

「ペルシアさん!?」

「ガーネットさんかも!」

「え、二人ってことはペルシアさんとガーネットさん!?」

 

 予想どおり、フロアはすぐにざわついた。

 定期便の四日間を共に乗り切った乗務員達にとって、ペルシアとガーネットの存在はあまりにも大きかった。だから名前が真っ先に出るのも無理はない。

 

 エリンは少しだけ苦笑しながらも、すぐに手を上げた。

 

「はい、静かに」

 

 その声で、ざわめきが収まる。

 

「それじゃあ、入ってきてください」

 

 フロアの扉が開く。

 

 最初に入ってきたのは、赤いポニーテールを揺らしながら、ぱっと明るい笑顔で手を振る女性だった。

 

「よろしくお願いします!」

 

 その元気な声が響いた瞬間、ミラの表情が一気に明るくなる。

 

「ククルさん!」

 

 思わず声が弾んだ。

 

「わっ、ミラ!」

 

 ククルはすぐにミラのところへ駆け寄る。

 そのまま勢いよく抱きついた。

 

「久しぶり! 元気そうでなにより!」

 

「ククルさんも、元気そうで良かったです」

 

 ランも自然と笑みを浮かべる。

 ククルは今度はランにも抱きついた。

 

「ランも変わってないねぇ!」

「そうでしょうか」

「うん、でも前よりちょっと大人っぽくなったかも」

「ありがとうございます」

 

 そのやり取りだけで、フロアの空気がふっと明るくなる。

 

 ククルは昔からそうだった。

 いるだけで場の温度を少し上げる。

 騒がしいのではなく、明るい。

 緊張を一段だけほどいてくれる。

 

 エリンはその様子を見てから、乗務員達へ説明した。

 

「彼女はククル。ハワード財閥の旅行会社から応援に来てもらいました」

 

 ククルはぱっと姿勢を正し、改めて頭を下げた。

 

「精一杯、頑張りますので、よろしくお願いします!」

 

「よろしくお願いします!」

 

 乗務員達から返事が返る。

 

 その返事に、ククルは嬉しそうに笑った。

 彼女がいるだけで、フロアの空気が明るくなる。エリンはそのことを、改めて実感していた。

 

 そして、もう一人が入ってきた。

 

 見た目の年齢は五十代か六十代だろうか。

 灰色がかった上質なスーツに身を包み、背筋はぴんと伸びている。髪は一つにまとめられ、顔立ちは穏やかそうにも見えるが、その目の奥には一切の緩みがない。歩く速さも一定で、無駄な揺れがない。静かに入ってきただけなのに、フロアの空気がひとつ締まった。

 

「皆さん、おはようございます」

 

 女性の声はよく通った。

 

 乗務員達から一斉に返事が返る。

 

「おはようございます!」

 

 だが、その返事を聞いた女性は、すぐに言った。

 

「声が揃っているのはいいでしょう。ですが、挨拶はお腹から声を出しなさい」

 

 いきなりの指摘だった。

 

 乗務員達は一瞬、何を言われたのか分からないという顔になる。

 朝の挨拶に対して、ここまで即座に、しかも具体的に刺してくる人は今のスペースホープにはいない。驚くのも無理はなかった。

 

 エリンはその様子に少しだけ苦笑しながら、説明する。

 

「こちらの方は、私が通っていた乗務員学校で教鞭をとっていた恩師のサラ先生です」

 

 その言葉に、ククルが先に反応した。

 

「えっ、エリンさんが通っていた学校って、エトワール養成学校ですよね!?」

 

 その単語が出た瞬間、フロアがまたざわつく。

 

「エトワール養成学校!?」

「え、あの!?」

「全コロニーで一番厳しいって言われてる学校!?」

「卒業生ほとんど出ないって聞いたことある……!」

 

 無理もない。

 

 エトワール養成学校。

 全コロニーの中で最も厳しいと言われる乗務員の学校だ。

 十歳から五年間、あらゆる技術を叩き込まれ、姿勢、歩き方、声、視線、サービス、緊急時対応、礼節、教養、体力、その全てにおいて高い基準を求められる。

 卒業できるのはごく僅か。

 卒業者がいない年すら珍しくない。

 今では“伝説みたいな学校”として語られることの方が多い場所の教師が、目の前にいるのだ。驚かないはずがなかった。

 

 エリンは続ける。

 

「サラ先生は今は退職されていて、今は乗務員学校で講演や指導をされています」

 

「すごい人が来た……」

「やばい……」

「え、私たち大丈夫かな……」

 

 ざわざわとした声があちこちで漏れる。

 だが、それを止めたのはサラ本人だった。

 

「エリン」

 

「え?」

 

 いきなり名前を呼ばれ、エリンが少しだけ目を丸くする。

 

「いつまで話をしているのですか?」

 

 その一言は静かだったが、容赦がなかった。

 

「あなた達は時間がないのでしょう? 早く訓練をしなくていいのですか?」

 

 エリンは一瞬だけ口を閉じ、それからすぐに頭を下げた。

 

「すみません」

 

 ククルがその横で「やっぱり怖い……!」と小さく思ったが、もちろん口には出さない。

 

「それじゃあ、皆んな、すぐに準備して」

 

「は、はい!」

 

 乗務員達が一斉に動こうとした、その時だった。

 

「待ちなさい」

 

 サラの声が落ちる。

 

 全員の動きがぴたりと止まった。

 この一言の止め方は、エリンに少し似ている。だが、もっと深いところへ直接入ってくる感じがあった。

 

 サラは一同を見渡し、淡々と言った。

 

「全員、制服ではなく、ジャージに着替えてください」

 

「わ、分かりました!」

 

 今度こそ、乗務員達は慌ただしく動き出した。

 

 

ーーーー

 

 

 ジャージ姿に着替えたのは、乗務員達だけではなかった。

 

 エリンも、そしてククルも同じようにジャージへ着替えていた。

 

 旅行事業部の乗務員達は更衣室を出たあと、どこか落ち着かない足取りでシュミレーションルームへ向かっていた。いつもの制服ではない。それだけでも少し調子が狂う。だが、それ以上に、待っているのがサラだということが皆の足を妙に重くしていた。

 

 エトワール養成学校。

 

 その名前を聞いた時のざわめきは、まだ胸のどこかに残っている。

 全コロニーの中で一番厳しいと呼ばれる乗務員学校。十歳から五年間、呼吸、声、姿勢、歩き方、礼法、接遇、緊急時対応、その全てを叩き込まれる場所。卒業まで辿り着ける者は少なく、卒業生が一人も出ない年すら珍しくない。そんな学校で長く教鞭をとってきた人が、今日から自分達を見てくれるのだ。

 

 光栄だとか、ありがたいだとか、そういう気持ちがないわけではない。

 だが、今この時点で乗務員達の胸に大きくあるのは、純粋な緊張だった。

 

 シュミレーションルームの扉を開けると、そこには既にサラがいた。

 

 当然のようにスーツ姿のままだ。

 灰色がかった上質なスーツは皺一つなく、背筋はまっすぐで、両手は背で軽く組まれている。立っているだけで、空気が張る。訓練が始まる前だというのに、皆の呼吸が少し浅くなるのが分かった。

 

 エリンが最初に一歩前へ出る。

 

 するとサラはすぐに口を開いた。

 

「エリン、五列縦隊に整列」

 

「はい」

 

 短い返事と共に、エリンが右端へ移動する。

 その動きに続いて、乗務員達も慌てて列を整え始めた。五列縦隊。普段の旅行事業部ではまず使わない整列だ。だがエリンは迷わず右端に入り、そこを基準に並び始める。

 

 クミコがエリンの左隣に入る。

 その後ろにハズキ、サリー、アズサ。

 反対側にはミラ、ラン、ユウコ、ナツキ、マユ。

 そしてククルは、六列目と呼ぶべきか、やや外れた端の位置で立っていた。

 

 彼女はきょろきょろと辺りを見てから、自分がここでいいのか不安そうにエリンを見たが、エリンが小さく頷いたことで少し落ち着いた。

 

 全員が並び終わると、エリンが声をかけた。

 

「よろしくお願いします」

 

 それに続いて、乗務員達が声を揃える。

 

「よろしくお願いします!」

 

 返事は揃っていた。

 だが、その直後だった。

 

「エリン」

 

「はい」

 

「声の質が良くなりましたね」

 

 一瞬、褒められたのかと思って、何人かの乗務員がほっとしかけた。

 だが、サラの言葉はそこで終わらない。

 

「ただ、僅かに上擦っています。腹筋十回」

 

 空気が、ぴたりと止まった。

 

「はい」

 

 エリンは一切の言い訳をせず、その場で床に仰向けになった。

 

 乗務員達は固まる。

 エリンが、である。

 今のスペースホープにおいて、絶対的に前を引いているエリンが、何のためらいもなくジャージのまま床に寝て、腹筋を始めている。

 

 一回。

 二回。

 三回。

 

 反動のない、静かで正確な腹筋だった。

 サラは一度も表情を変えない。

 ククルは目を丸くして「ほんとにやるんだ……」と喉の奥だけで呟き、ハズキはその場で口を半開きにしたまま動けなかった。ミラとランは驚きつつも、どこか「やっぱりそうなるよね」という納得もあった。

 

 十回終えると、エリンはすぐに起き上がり、乱れた呼吸も見せずに言った。

 

「終わりました」

 

 サラはこくりと小さく頷いた。

 それで終わりだった。

 褒めもせず、次へ進む。

 

「それでは、午前中は歩きと姿勢を見させてもらいます」

 

 声は穏やかだが、容赦のない響きがあった。

 

 そこでサラは、ふと端にいるククルへ視線を向けた。

 

「ククルさんはどうしますか?」

 

 サラはエリンに尋ねた。

 

 エリンは少しだけ目元を和らげて、ククルを見た。

 

「はい、ククルも同じように訓練に参加してくれる?」

 

「はい!」

 

 返事だけは元気よく、ククルは背筋を伸ばす。

 だが、その頬は少しだけ引きつっていた。

 

 エリンはそこで、ハズキとユウコへ視線を向けた。

 

「それから、ハズキとユウコはククルの動きをよく見ていなさい」

 

「はい!」

「分かりました」

 

 二人が返事をする。

 

 ハズキは少し不思議そうだった。

 ユウコも眉を上げる。

 だが、言われた意味は何となく分かる。ククルは“人を安心させる明るさ”を持っている。ハズキもユウコも、それぞれ明るさやフレンドリーさを武器にしているが、その扱い方にはまだ粗さがある。だからククルの動きと言葉を間近で見ろということなのだろう。

 

 サラは、そんな個々の反応を一瞬で見抜いているかのように言った。

 

「見て真似るのではありません。何を見て、何に先に反応しているのかを見なさい」

 

「はい」

 

 今度は二人の返事に、わずかに緊張が混じる。

 

 こうして、歩きと姿勢の訓練が始まった。

 

 

 最初の指示は、ただ歩くだけだった。

 

「壁から壁まで。往復。声はいりません。歩きだけ見ます」

 

 その一言で、最初の列が動き始める。

 

 靴音が床に落ちる。

 ジャージ姿のせいか、普段よりも一人ひとりの癖が露骨に見えた。

 肩から入る者。

 膝から前へ出る者。

 腰だけで歩こうとする者。

 急いでいないのに急いで見える者。

 立つことと歩くことがまだ一つに繋がっていない者。

 

 サラは、一歩も動かずに、それを見ていた。

 ただ視線だけが、静かに、しかし鋭く流れていく。

 

 やがてサラは、納得したように小さく頷いた。

 それは良い意味での納得ではない。

 “今の状態を把握した”という類の頷きだった。

 

 その中で、一人の生徒――いや、乗務員が目に止まった。

 

「クミコさん」

 

 名前を呼ばれた瞬間、クミコの肩がびくっと跳ねる。

 だが足は止めず、言われたとおり端まで歩き切ってから振り返り、小さく返事をした。

 

「はい」

 

「あなただけは、歩き方が少し他と違うようですけれど」

 

 その言葉に、周囲の乗務員達も思わずクミコを見る。

 

 クミコは一瞬ためらった。

 サラの声には、説明を求める強さがあった。だが、ここで余計なことを喋ると怒られそうだという予感も同時にある。

 

 それでも、恐る恐る口を開いた。

 

「はい、私は癖で歩くのが早くなってしまう時があるので、踵から地面につくようなイメージで歩いているからでしょうか?」

 

 言い終えた直後、クミコは自分で「あ、喋りすぎたかも」と思った。

 案の定、サラはすぐに言った。

 

「聞いているのはこちらです」

 

「すみません」

 

 クミコがすぐに頭を下げる。

 

 サラは、数秒だけクミコを見つめたあと、静かに言った。

 

「なるほど。良い考えです。続けてください」

 

 思わぬ肯定だった。

 

 クミコは一瞬だけ目を見開いた。

 だが、ほっとする暇はない。サラは次の者へ視線を移している。

 

 それでもその一言は、クミコの胸にじんわりと残った。

 今までエリンに言われ、何度も何度も自分で修正してきた歩き方が、ちゃんと理にかなっていると認められたのだ。

 

 隣で見ていたハズキが、ほんの少しだけ安堵したように息を吐く。

 ミラとランも、表情には出さなかったが、内心ではクミコの成長を嬉しく思っていた。

 

 

 サラは、次々と指摘を飛ばした。

 

「ハズキさん、口角が先に上がっています。笑顔は足裏から作りなさい」

「えっ、足裏からですか?」

「そうです。浮いた体で作る笑顔は、相手を不安にさせます」

 

「ユウコさん、あなたは人に近づくのが早い。親しみやすさと距離感の甘さは違います」

「……はい」

「“話しかけやすい”と“踏み込みすぎる”の境目を体で覚えなさい」

 

「サリーさん、人を見ながら自分の軸がぶれています」

「はい」

「優しい人ほど、相手の呼吸に引っ張られます。まず立ちなさい。立ってから、人を見なさい」

 

「アズサさん、笑顔はいいですが顎が上がります」

「はい」

「明るさを上へ逃がさない。相手の目線まで下ろすのです」

 

「マユさん、緊張を隠そうとしていますね」

「……はい」

「隠す必要はありません。止めるな、と言いました。緊張したままでも、進みなさい」

 

 その一つひとつが、痛いほど的確だった。

 

 ただ厳しいのではない。

 “今どこがずれていて、それがどう見えるか”まで明確に言葉にされる。だから逃げ場がない。

 

 ハズキは何度目かの往復の途中で、額に汗を浮かべながら思っていた。

 自分は明るさが武器だと思っていた。

 でも、その明るさが、こんなにも簡単に“浮ついて見える”に変わるのかと。

 

 ユウコは、普段なら平気で受け流してしまいそうな軽口も、今日は一つひとつ胸に刺さる。

 親しみやすい。

 でも、その親しみやすさが距離感の甘さになれば、初めて宇宙船へ乗る生徒にとっては逆に負担になることもある。

 

 サリーは、やっぱり見抜かれたかと思った。

 人を見る。気づく。拾う。

 それは自分の長所だ。

 だが、それと同じだけ、自分が相手の呼吸に引っ張られてしまう弱さもある。サラはそこを、迷いなく言葉にした。

 

 アズサは最初こそ緊張していたが、指摘を受けるほどに逆に集中が増していった。

 顎。視線。笑顔の高さ。

 こうして細かく言われると、自分の“なんとなく良い感じ”が、実はずいぶん曖昧だったのだと分かる。

 

 マユは、ただただ必死だった。

 サラの前では、隠せない。

 緊張していることも、怖いことも、全部見抜かれる。

 だからこそ、止まるわけにはいかなかった。

 動き続ける。

 それだけを繰り返す。

 

 

 そして、ミラとランの番になる。

 

「ミラさん」

 

「はい」

 

 ミラは一歩前へ出る。

 彼女は前方に立つ人間としての資質を持っている。声も届くし、空気も柔らかく出来る。エリンもそれを高く評価してきた。だが、だからこそ、サラの目は甘くない。

 

「あなたは前に立つことに慣れていますね」

 

「はい」

 

「それ自体は良いことです」

 

 ミラの胸に一瞬だけ安堵がよぎる。

 だが次の瞬間、サラは淡々と続けた。

 

「ですが、慣れている人は雑になります」

 

 ミラの背筋がすっと伸びる。

 

「自分の明るさで場が動くと知っているからこそ、“これくらいで大丈夫”が増える。あなたはそこが危険です」

 

「……はい」

 

「前に立つ人ほど、基礎が雑だと全部に響きます。あなたの一歩が雑なら、後ろの全員が雑になる」

 

 その言葉に、ミラは深く息を吸った。

 厳しい。

 けれど、その通りだと思った。

 

 サラは今度はランを見る。

 

「ランさん」

 

「はい」

 

 ランが一歩前へ出る。

 

「あなたは整える力があります」

 

「……ありがとうございます」

 

「礼は不要です」

 

「はい」

 

「整える力がある人は、乱れを吸収しすぎます」

 

 ランの目が少しだけ揺れる。

 

「周囲が崩れても、自分が静かでいれば何とかなると思っているでしょう」

 

「……少し、あります」

 

「それが良い時もあります。ですが、後輩を育てる立場では、それでは足りません」

 

 サラの目がまっすぐランを射抜く。

 

「時には、自分が整えるのではなく、相手に乱れを返して気づかせなさい。全部抱えていたら、相手は一生育ちません」

 

 ランは小さく頷いた。

 

「はい」

 

 その返事には、いつもより少し深いものがあった。

 

 

 ククルは、その一連の指導を見ながら、何度も自分の立ち位置を確かめていた。

 

 自分は応援に来た。

 けれど、今日は一緒に訓練を受けている。

 そしてそれは決して無意味ではないと、もう分かっていた。

 

 サラはククルの方を見た。

 

「では、ククルさん」

 

「はい!」

 

「歩いてください」

 

 ククルは一瞬だけ息を整え、それから歩き始めた。

 

 ククルの歩き方は、柔らかい。

 明るい人間特有の軽さがある。

 だがその軽さは、時に重心の浅さにも繋がる。

 

 ハズキとユウコは、言われた通りククルの動きをよく見ていた。

 

 たしかにククルは、空気を明るくする。

 でも、その明るさの奥には、相手を置いていかない速度がある。

 早すぎない。

 軽すぎない。

 笑っていても、ちゃんと立っている。

 

 サラはククルの歩きを見て、短く言った。

 

「良いでしょう」

 

 ククルの顔がぱっと明るくなる。

 だが、その直後に当然のように続く。

 

「ただし、良いのは“軽さ”ではなく“残し方”です」

 

「残し方、ですか?」

 

「そうです。あなたは明るい。でも、その明るさが後ろへ残る。だから相手が一人置いていかれない。そこは大事にしなさい」

 

 ククルは、言葉の意味を完全には掴みきれなかったが、それでも大切なことを言われているのだと分かった。

 

「はい!」

 

 そしてその横で、ハズキとユウコが静かに考え込んでいた。

 

 明るいだけでは駄目。

 前に飛ぶのではなく、後ろへ残す。

 相手を置いていかない明るさ。

 

 それは、二人にとって今まさに必要な視点だった。

 

 

 午前の終盤には、全員が汗だくになっていた。

 

 歩き方と姿勢だけ。

 それだけなのに、ここまで体力も神経も削られるのかと、誰もが思っていた。

 だが、その分だけ、自分の体がいかに曖昧なまま仕事をしていたかも見えてくる。

 

 サラは最後に全員をもう一度整列させた。

 

「今の段階で言えることは一つです」

 

 その声で、皆の意識が一点へ集まる。

 

「あなた達は、思っているよりずっと形になっています」

 

 一瞬、空気が止まった。

 

 褒められた。

 その事実が、すぐには飲み込めない。

 

 だがサラは、当然それで終わらせない。

 

「ですが、それは“形になり始めている”という意味です。完成ではありません」

 

 ほっとしかけた気持ちを、またぴたりと締め直される。

 

「これから一ヵ月。歩き方、姿勢、声、視線。全部、甘やかす時間はありません」

 

 誰も言葉を挟まない。

 挟めない。

 

「ただし」

 

 そこで、ほんのわずかに声の温度が変わった。

 

「今のまま正しく詰めれば、間に合います」

 

 その言葉は、何より重かった。

 

 間に合う。

 サラがそう言うのだ。

 

 エリンは、その一言を聞いて、胸の奥で静かに息を吐いた。

 自分一人で抱えていた焦りが、少しだけ外へ出ていくような感覚だった。

 

 クミコも、ハズキも、サリーも、アズサも、ユウコも、ナツキも、マユも、ミラも、ランも、そしてククルも。

 皆、それぞれにその言葉を受け取っていた。

 

 午後は、また別の訓練が待っている。

 ククルの笑顔と声掛け。

 生徒役を交えた導線確認。

 ラウンジでの空気の作り方。

 初めて宇宙船に乗る十五人をどう迎えるか。

 

 やることは山ほどある。

 けれど、この朝の訓練で、少なくとも一つだけはっきりしたことがあった。

 

 厳しい。

 怖い。

 逃げ出したくなるほど細かい。

 それでも、この訓練は確かに、自分達を本番へ近づけている。

 

 サラは最後に言った。

 

「十分休んで、午後に備えなさい」

 

「はい!」

 

 今度の返事は、朝よりずっと低く、腹から出ていた。

 

 サラはそれを聞いて、ほんのわずかだけ目を細めた。

 それは多分、彼女なりの満足だったのだろう。

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