サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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前日

 午後の訓練が始まったのは、一時を少し回ったころだった。

 

 昼休憩といっても、乗務員たちに与えられた時間は決して長くはなかった。

 午前中の歩き方と姿勢の訓練だけで、脚はすでにじわりと重く、腹筋を使って立つ感覚や、足裏全体で床を踏む意識が、身体のあちこちへ残っている。いつもの訓練よりも地味で、しかし逃げ場がない。それがサラの午前の訓練だった。

 

 休憩中、ククルが「これ、ふくらはぎに来る……!」と半泣きのような顔で言い、ハズキが「分かります! なんか立ってるだけなのに疲れるの、意味分かんないです!」と突っ伏しかけ、ユウコとナツキが「でも、なんとなく自分の歩き方がおかしいのは分かった」と珍しく同じ方向を見て話していた。ミラとランはそんな後輩たちの様子を見ながら、自分たちもまた、基礎をここまで細かく削り直されるのは久しぶりだと静かに息を吐いていた。

 

 だが、午後に待っているのは“いつもやっている訓練”だった。

 

 乗客の乗り入れ。

 荷物対応。

 座席の誘導。

 サービス動線と接遇。

 緊急時の初動。

 教育研修便を前提にした、不安の強い生徒への声かけ。

 ラウンジ利用時の人の流し方。

 食堂区画への案内と、戻しの導線。

 

 エリンがここ数週間、しつこいほど繰り返してきた内容だ。

 だが、それを今日の午後、サラの視線のもとで、もう一度徹底的に通しでやる。

 それがどれだけ骨の折れることかは、まだ訓練前だというのに誰もが分かっていた。

 

 昼休憩を終え、乗務員たちが再びシュミレーションルームへ戻ると、そこにはもう訓練用の客席配置と簡易のラウンジ導線が整えられていた。役割分担用のプレートも机の上に並んでいる。

 

 エリンが全体を見渡す。

 

「午後は二班に分かれます。乗客役と乗務員役を交代しながら、乗り入れから緊急対応まで通しでやるわよ」

 

「はい!」

 

 返事は揃った。

 午前のサラの指導を経たせいか、その声は朝より少し低く、腹から出ていた。サラはそれに小さく頷いたが、褒めることはしない。

 

「班分けはいつも通りでいいですか?」

 

 ミラがエリンへ確認すると、エリンは首を横に振った。

 

「今日は少し崩す。前方に慣れている子と、後方に慣れている子を混ぜるわ。教育研修便で想定外が起きた時、いつもの場所だけを見ていればいいとは限らないから」

 

 それを受けて、乗務員たちは素早く配置を変えていく。

 クミコとユウコ、サリーとアズサ、ハズキとナツキ、ミドリとマユ、ミラとラン。ククルとアズサはそのどちらにも入り、必要に応じて乗客役にも乗務員役にも回る。エリンは全体を見ながら、ときに役に入り、ときに完全に外から見るつもりらしい。

 

 ただ一つ、午前と明確に違ったのは、エリンが“前に出るつもりを持っていない”ということだった。

 

 それは乗務員たちにも分かったし、ククルも気づいた。

 サラが全体を見ている。

 そして、これはあくまで訓練だ。

 エリンがいつものように空気の乱れを事前に拾い、見えないところで整えてしまったら、サラが見たいものが見えなくなる。だからエリンは意図的に、普段なら手を入れる場面でも黙っているつもりなのだ。

 

 その覚悟が見えた瞬間、乗務員たちの緊張はまた一段上がった。

 

 つまり今日は、崩れたらそのまま見られるということだ。

 

 

 最初の通しは、乗客の乗り入れから始まった。

 

 乗客役は教育研修へ向かう高等部生徒と教員役を想定し、少しざわついた空気を意識して動く。乗務員役は、その生徒たちを受け入れる側として、案内、荷物対応、座席への誘導を行う。

 

「それでは始めてください」

 

 サラの一言で、部屋の空気が動いた。

 

 入口付近で最初に声をかけたのはミラだった。

 明るい。

 だが、午前に言われたとおり、明るさだけで押さない。

 歩幅を合わせ、目線を相手の高さへ落とし、道を開く。

 

「ようこそお越しくださいました。本日はよろしくお願いいたします」

 

 その声の奥行きを、サラは無表情のまま聞いていた。

 

 クミコが前方の流れを受ける。

 以前なら少し先走っていただろう一歩が、今日は半歩だけ抑えられていた。

 アズサが、荷物を抱えて少し不安そうに見える乗客役の生徒へ柔らかく手を差し出す。

 ハズキは教員役へ声をかけながらも、後ろから続く生徒役の表情まで見ようとしていた。

 サリーは中ほどで立ち止まりそうな生徒役の気配を拾い、ユウコがそれを自然に受けて流す。

 ナツキは一歩引いた位置で全体を見ながら、必要なところだけ前へ入る。

 ミドリとマユは、後方で座席の混乱が起きないよう視線を配っている。

 ランは目立たずに、それでも全員の呼吸が浅くなりすぎないよう見守っていた。

 

 いつもの訓練なら、ここでエリンが一つ二つ止める。

 今の速度だと早い、視線が前へ飛びすぎている、荷物対応で相手に身体を寄せすぎだ、など。

 だが今日は違った。

 

 サラは黙って見ている。

 ただし、その視線は鋭く動く。

 だから乗務員たちは、自分たちで考えて修正するしかない。

 

「ハズキさん、肩」

 

 突然、サラの声が飛ぶ。

 

「はい!」

 

「上がっています。声だけを前へ出しなさい。肩で頑張らない」

 

「はい!」

 

 ハズキの返事が、少しだけ引き締まる。

 

「ユウコさん、今の生徒役との距離が近い」

 

「……はい」

 

「“親しみやすい”は、相手の逃げ道を残して初めて成立します」

 

「はい」

 

 サラの声は、訓練の流れを止めない。

 止めないまま、必要なところだけへ刃のように入る。

 

「クミコさん、今の一歩は良いでしょう。続けなさい」

 

 その一言に、クミコの背筋が少しだけ伸びた。

 認められた。

 だが、嬉しがる暇はない。次の一歩を崩さないことの方が大事だ。

 

「サリーさん、見すぎです。歩きながら迷わない」

「はい」

「見るなら動きなさい。動けない観察は、客室では足手まといです」

 

 サリーが息を呑み、それでもすぐに身体を前へ運ぶ。

 

「ミドリさん、後方の荷物対応、遅い。確認は頭でやるものではなく目でやる」

「はい」

「考えてから動くのではなく、見えたら動きなさい」

 

「マユさん、止まらない」

「……はい」

「緊張はしていてよい。止まる方が危険です」

 

 誰かが失敗しても、サラはその場で立たせて説教をするようなことはしない。

 通しの流れはそのまま続ける。

 だが、通しの最中に、逃げられない形で核心だけを言い切る。

 だからこそ、言われた側は“今の自分”から逃げられなかった。

 

 エリンは一歩引いた場所から、その全部を見ていた。

 

 普段なら、自分が手を入れたくなる箇所がいくつもある。

 ハズキの入り方。

 ユウコの距離感。

 サリーの止まりそうな一歩。

 マユの緊張。

 クミコの先頭の作り方。

 どれも、今までなら自分がすぐに拾っていた。

 

 だが今日は拾わない。

 

 サラがそれを見たいのだ。

 乗務員たちが、自分の癖と弱さを、流れの中でどう扱うか。

 エリンもその意図を理解していた。

 だから、前へ出ない。

 空気も整えない。

 今この時間だけは、自分が“便利な答え”にならないと決めていた。

 

 

 訓練は一つの項目だけで終わらなかった。

 

 乗客の乗り入れが終わると、すぐに荷物対応の想定に移る。

 上部収納に入りきらない荷物。

 体格の小さい生徒が持ち上げられない荷物。

 教員が複数の資料ケースを抱えている状態。

 そこへ、予定より早く座席へ着きたがる生徒役が混ざる。

 

「続けて」

 

 サラは止めない。

 

 ユウコが反射的に前へ出すぎて、ナツキと動線がぶつかりかける。

 その瞬間にサラの声が飛ぶ。

 

「ナツキさんは待ちすぎ、ユウコさんは急ぎすぎ」

 

 ぴしゃり、と一刀両断だ。

 

「二人とも“相手に譲る”ことで責任を逃がさない」

 

 その言葉に、ユウコとナツキの表情が揃って引き締まる。

 仲が良くても、張り合っていても、客室では味方でいなければならない。エリンに何度も言われてきた言葉が、ここで別の鋭さを持って落ちてきた。

 

 次は座席の誘導。

 学年の違う生徒が混ざり、席を巡って小さなざわつきが起こる想定だ。

 

 ククルがここで乗務員役へ入った。

 彼女は相変わらず明るい。

 けれど、午前にサラから言われた“明るさに頼りすぎるな”という一言が、どこかでちゃんと効いているのだろう。以前よりも、笑顔の下に静けさがある。

 

 それを見て、ハズキとユウコが必死に目で追う。

 

 どうしてククルの明るさは浮かないのか。

 どうして“頑張ってます”にならず、“大丈夫ですよ”になるのか。

 

 答えは簡単ではない。

 だが、ククルは相手の息の長さを見ていた。目線の泳ぎを見ていた。話し出す前の一拍を待っていた。そういう細かな“残し方”の積み重ねがあるから、明るさが暴れないのだと、二人は少しずつ分かり始めていた。

 

 続いて、サービス動線と対応。

 

 食堂区画への案内。

 ラウンジ利用時の人数制限。

 飲料提供の順番。

 酔いやすい生徒がいた場合の声掛け。

 温かい飲み物を希望する教員への対応と、生徒側への目配り。

 

 ここでも、訓練は止まらない。

 

 ランが一度、教員役との距離を詰めすぎたミラに視線で合図を送る。

 ミラがそれを受けて、ほんの一歩引く。

 そのやり取りを、サラは見逃していなかった。

 

「良いですね、今の目配せ」

 

 珍しく、流れの中で肯定が入る。

 

「ですが、ランさんはもう少し早く合図を出せます。ミラさんは受けたあとに笑顔を落とさない」

 

 二人は同時に「はい」と答えた。

 

 クミコは、飲料提供の際に少しだけ肩が上がった。

 その瞬間に、サラが言う。

 

「クミコさん、腕で運ばない」

 

「はい」

 

「お盆は腕で持つものではありません。体幹で支えるのです」

 

 クミコがすぐに持ち直す。

 それを見て、アズサが自分のお盆の角度も直した。

 サラはそんな“他人の指摘を自分へ返す”動きも、当然のように見ている。

 

 やがて訓練は、緊急時の初動へ移った。

 

 急な揺れ。

 生徒の一人が顔色を悪くする。

 教員が呼ぶ。

 ラウンジ側にも生徒がいる。

 誰が最初に何を言うか。

 誰が残りの生徒を落ち着かせるか。

 医療ルームへの導線をどう確保するか。

 

 ここで、空気が明確に変わった。

 

 いつも以上に、皆の表情が真剣になる。

 楽しい明るさではなく、実際に起きてほしくない状況を想定している顔だ。

 

 ククルが強い子へ寄りすぎて、静かな子を見落としかける。

 それをサラが即座に拾う。

 

「ククルさん。目立つ不安だけが不安ではありません」

 

「……はい!」

 

 ククルの顔が引き締まる。

 

 ミドリは医療ルームへの導線を頭で整理しすぎて一歩遅れる。

 サラはそれを逃さない。

 

「ミドリさん、理解が先行しすぎです。足を動かしながら考えなさい」

 

「はい」

 

 サリーは逆に、人の表情を拾いすぎて自分の指示が一拍遅れた。

 サラが切る。

 

「サリーさん、優しさの順番を間違えない。全体を止めて一人を守るのは違います」

 

 その一言が深く刺さり、サリーは顔を上げた。

 

 午後一時から、休憩することなく、みっちり三時間。

 

 時計の針だけが進み、乗務員たちの表情には徐々に疲れが滲み始めていた。

 太ももが重い。

 足裏が熱い。

 肩も、首も、少しずつ張ってくる。

 声も、油断すると浅くなる。

 

 それでも、誰もそれを表に出すまいとしていた。

 疲れていても、疲れて見せない。

 苦しくても、表情で崩さない。

 それ自体が客室乗務員の訓練だと、もう分かっているからだ。

 

 サラの目には、その努力も当然映っていた。

 

 声の裏に出る呼気。

 指先のわずかな力み。

 笑顔の端に差す疲労。

 けれど、誰も投げ出さない。

 誰も泣かない。

 そのことを、サラは静かに見ていた。

 

 

 一通りの訓練が終わると、サラは全員を集めた。

 

 乗務員たちは、内心では“ここから振り返りか、追加で何かあるのか”と身構えていた。

 だが、サラは意外なことを言った。

 

「それでは、本日の訓練はここまでにします」

 

 一瞬、全員の顔に驚きが広がった。

 

 最初に口を開いたのはミドリだった。

 

「もう終わりなんですか?」

 

 問いというより、本気で意外だったのだろう。

 サラは、ごく自然に頷いた。

 

「ええ、終わりです」

 

 今度はマユが思わず言う。

 

「まだ就業まで一時間以上ありますよ」

 

「承知しています」

 

 サラは表情を変えずに答えた。

 

「終わりと言っても、訓練が終わりという意味です。皆さんは腰を下ろしてください」

 

 乗務員たちは少し戸惑いながらも、その場に腰を下ろしていく。

 シュミレーションルームの床や壁際、簡易の椅子。皆それぞれ近くに場所を見つけて座った。

 足を投げ出したい気持ちはあったが、まだサラの前だと思うと、どこか遠慮が残る。

 

 するとサラは、持っていた紙袋をエリンへ差し出した。

 

「エリン、こちらを配ってください」

 

「はい」

 

 エリンが受け取り、中身を確認する。

 それを見た瞬間、彼女の表情が少しだけ緩んだ。

 

 袋の中には、ひとつずつ丁寧に包まれたどら焼きが入っていた。

 

 エリンはそれを一人ひとりへ配っていく。

 

 受け取った乗務員たちは、最初こそきょとんとしていたが、包みを見た瞬間、あちこちから小さな声が上がった。

 

「どら焼きだ!」

「え、なんで?」

「訓練のあとに、どら焼き……?」

 

 その反応をよそに、サラは静かに言った。

 

「私は必ず訓練の後、ブリーフィングを行います」

 

 誰も包みを開けないまま、顔を上げる。

 

「ブリーフィングがない本番はありません。必ず今日の訓練を振り返り、出来たこと、出来なかったことを考える時間は必要です」

 

 理屈としてはその通りだった。

 だが、“どら焼きを食べながら”というのが、どうにも意外すぎる。

 

 乗務員たちは困惑したように、どら焼きを持ったまま手が止まってしまう。

 サラはその様子を気にすることなく、自分の包みを開け、静かにどら焼きを口へ運んだ。

 

 ぱくり。

 

 それがあまりにも自然で、場の静寂が妙に際立った。

 

 クミコが包みを見つめる。

 ハズキは周りの様子をうかがう。

 ユウコは「え、先生ってこういうタイプなんだ……」と戸惑い気味に思い、ナツキは「食べていいのかな」と視線だけで確認する。

 誰も最初の一口へ行けない。

 

 その静寂を突き破ったのは、やはりククルだった。

 

「このどら焼き美味しい!」

 

 包みを開けた瞬間に一口食べてしまっていたらしい。

 屈託のない声だった。

 

 その明るさに、空気がふっと緩む。

 

「あ、本当だ」

「美味しい……」

「なんか、すごく普通に美味しい」

「皮がふわふわしてる」

 

 ククルの声につられたように、乗務員たちも次々にどら焼きを口にする。

 安堵と、少しの笑いが混ざった空気がシュミレーションルームへ広がった。

 

 エリンは、その様子を見ていた。

 サラもまた、無表情のままではあったが、ククルの一声がこの場を救ったことをちゃんと見ていた。

 

 ここでも、ククルの明るさが生きた。

 だがそれは、軽く騒ぐ明るさではなく、“空気をほどく”明るさだった。午前にサラが言っていたことが、こうしてちゃんと形になっている。

 

 サラはどら焼きを食べ終えると、改めて全員を見渡した。

 

「それにしても」

 

 ぽつりと、しかしよく通る声で言う。

 

「皆さんは本当に経験の浅い乗務員なのですか?」

 

 その問いに、一瞬、皆の動きが止まる。

 ミラがすぐに姿勢を正した。

 

「はい。ここにいるほとんどは、フライトも数えるほどしか経験していない者ばかりです」

 

「そうですか」

 

 サラは静かに頷く。

 

「それにしては、歩き方と姿勢はしっかりとできていましたね」

 

 その言葉に、クミコが思わず顔を上げた。

 

「それはエリンさんのおかげです」

 

 その一言に、他の乗務員たちも自然と頷き始める。

 

「はい」

「そうです」

「ずっと細かく見てもらってきたので」

「エリンさんがいなかったら、たぶん今も全然だと思います」

 

 口々にそう言う。

 エリンは少しだけ困ったように眉を下げた。

 

「そうですか」

 

 サラは短く言った。

 それだけなのに、どこか納得している響きがあった。

 

「それに」

 

 サラは続ける。

 

「乗務員一人ひとりが、きっちりと本番を想定していることが伝わりました」

 

 その言葉に、今度は全員が静かになる。

 褒められている。

 はっきりと。

 

「特にクミコさん」

 

「は、はい」

 

 名を呼ばれ、クミコが慌てて背筋を伸ばす。

 

「あなたはしっかりと自分の癖を理解した上で訓練に臨んでいましたね。すばらしい事です」

 

 クミコの頬が、みるみるうちに赤くなっていく。

 

「ありがとうございます」

 

 照れながらも、きちんと頭を下げる。

 

 ハズキが横で小さく「よかったね」と囁き、クミコはさらに照れてしまう。

 

 サラはそこで、全体へ視線を戻した。

 

「皆さんも覚えておいてください。訓練で意識することは大事ですが、それは難しいことなのです」

 

 サリーが、少し不思議そうに問う。

 

「難しいんですか?」

 

「ええ」

 

 サラは頷く。

 

「本番では、お客様の要望や宇宙船の揺れなど、様々な要素が絡み合います。その中で最後まで意識し続けるのは困難なのです」

 

 乗務員たちは静かに聞いている。

 

「一人ひとり、身体の作りや骨格などは異なります。その中で、自分に合った歩き方や姿勢を見つけ、身体に覚えさせることが大事なのです」

 

「なるほど」

 

 ハズキが素直に言う。

 今日一日で、ようやくその意味が少し分かった気がしたからだ。

 

 サラは視線を少しずらし、ククルを見る。

 

「例えば、ククルさんは、つま先から足をつくようなイメージで歩いていますね」

 

「はい」

 

 ククルがすぐに頷く。

 

「私は走ってしまう癖があったので、どうすれば落ち着けるのか考えた時に、今のやり方が合っているように感じました」

 

「そうです」

 

 サラは短く言う。

 

「このように、歩き方一つでも考えて、より良い方法を身につけてください」

 

「はい」

 

 今度の返事は、皆かなり揃っていた。

 

 サラは少しだけ目を細め、それから思い出したように言った。

 

「それでも、私の訓練を受けて泣かなかったのは、ペルシア以来ですね」

 

 一拍遅れて、その言葉の意味が部屋へ広がった。

 

「泣きませんよ」

 

 ユウコが真顔で言う。

 それに、あちこちから笑いが起こった。

 どら焼きの甘さもあってか、空気はかなり柔らかくなっている。

 

 だが、サラはそんな反応の中で、淡々と続けた。

 

「エリンは毎日、泣いていましたね」

 

 次の瞬間、エリンが目を見開いた。

 

「先生、どうしてそれを!?」

 

 本気で驚いた声だった。

 

 サラは何でもないことのように答える。

 

「ペルシアが言っていましたよ。訓練が終わるたびに、トイレで一人泣いていたと」

 

 その場にいた乗務員たちの視線が、一斉にエリンへ集まった。

 

 エリンは、さすがに頬を赤らめて顔を伏せる。

 

「……ペルシア」

 

 その名前の言い方に、恨みがこもっていた。

 だが、乗務員たちはもう我慢できずに笑いを零していた。

 

「えっ、エリンさんが!?」

「毎日!?」

「ちょっと想像できないんですけど……」

 

 ハズキなどは、笑っていいのか戸惑いながらも口元を押さえている。

 

 サラはさらに続けた。

 

「“サラ先生、エリンが毎日泣いているから、もう少し優しくしてあげたら?”と言われたものです」

 

 その情景が目に浮かぶようで、乗務員たちは思わず「ペルシアさんなら言いそう」と同じことを考えていた。

 

「後にも先にも、私に提案してきたのはペルシアだけでしたが」

 

 その一言に、また笑いが起こる。

 でもどこか、学生時代のエリンとペルシアが少しだけ近くに感じられて、皆の表情は温かかった。

 

 そこでランが、おそるおそる手を上げた。

 

「学生時代のペルシアさんとエリンさんは、どうだったんですか?」

 

「ラン!」

 

 エリンがすぐに止めようとする。

 だが、サラは気にした様子もなく「そうですね」と言った。

 

「才能の塊のペルシアと、努力を惜しまないエリン。対照的な二人でしたが、優秀な生徒でした」

 

「……先生」

 

 エリンの声は少しだけ小さかった。

 照れもあれば、くすぐったさもある。

 

 サラは、そんなエリンを一瞥してから続ける。

 

「ただ、二人とも研修のフライトで、先方のチーフパーサーにダメ出しをしたのは肝を冷やしましたが」

 

 今度は、乗務員たちの視線が再びエリンへ向く。

 

 エリンはしばらく黙っていたが、やがて少しだけ眉を寄せて言った。

 

「……それは、あのチーフパーサーが酷かったからです」

 

 その返しに、皆の笑いがまた広がる。

 

 ククルは「やっぱりエリンさんもそういうこと言うんだ」と目を丸くし、ミラとランはドルトムント時代に似たような話を聞いた気がすると、どこか懐かしそうに笑った。

 

「まあ、そんなこともありましたが」

 

 サラは静かに締めくくる。

 

「今では立派なチーフパーサーとして頑張っているようなので、安心しています」

 

「はい」

 

 エリンの返事は、今度は真っ直ぐだった。

 

 その時、終礼の呼び鈴が鳴った。

 

 時間だった。

 

 サラは立ち上がり、いつものように背筋を伸ばす。

 

「それでは、今日は終わりにしましょう。ありがとうございました」

 

「ありがとうございました!」

 

 返事が返る。

 今度の声は朝よりもずっと整っていて、腹から出ていた。

 

 サラはそれを聞いて、ほんの少しだけ満足そうに目を細めた。

 

 

 そのままサラは帰り支度をしようと、旅行事業部のフロアへ戻ろうとした。

 

 だが、そこで足を止めることになる。

 

 誰一人として、すぐに戻ろうとしなかったからだ。

 

 乗務員たちは、終礼が終わったあとも、その場から動かなかった。

 いや、正確には、すぐには“帰る方向”へ動かなかった。

 

 サラが振り返る。

 

「皆さん、戻らないのですか?」

 

 すると、ミドリが一歩前へ出た。

 

「私たちは、まだ訓練をやります」

 

 その言葉に、サラの目がほんのわずかに動く。

 

 続けて、ハズキが言う。

 

「今日、教わったことの復習もしたいですし」

 

 その横でクミコも頷き、サリーも静かに「今のうちに身体へ入れたいです」と付け足した。アズサ、ユウコ、ナツキ、マユも、他の乗務員達も、それぞれ自然に動き出している。誰かに言われたからではない。今、やらなければ抜けると分かっているからだ。

 

「そうですか」

 

 サラは、短くそう言っただけだった。

 

 だが、その声は少しだけ柔らかかった。

 

 次の瞬間には、ほとんどの乗務員が各々の訓練を再開していた。

 

 壁沿いで姿勢の確認を始める者。

 足裏の感覚を確かめながら歩く者。

 ククルをつかまえて笑顔の入り方を聞くハズキとユウコ。

 ミラとランは、後輩たちを見ながらも、自分たちもまた午前中の指摘を黙々と反復している。

 

 サラはその光景をしばらく見つめていた。

 

 それから、近くにいたミラへ声をかける。

 

「皆さん、いつも居残りをしているんですか?」

 

 ミラは少しだけ照れたように笑った。

 

「強制ではないですが……最初は私とランが、エリンさんに居残りで指導をお願いしたのがきっかけだったんです」

 

「ほう」

 

「そしたら、段々、居残りする人が増えまして」

 

 その言葉に、サラは小さく頷いた。

 

「そうですか」

 

 それだけ言って、もう一度フロアを見渡す。

 

 残って練習する姿。

 疲れているはずなのに、自分から立ち上がる姿。

 教わったばかりのことを、忘れないうちに身体へ入れようとする姿。

 

 その光景が、サラの中に古い記憶を呼び起こした。

 

 昔の、エトワール養成学校。

 訓練のあと、誰もいなくなった教室。

 そこに最後まで残っていた、二人の少女。

 

 よくエリンとペルシアは残って訓練をしていた。

 

 ペルシアは、最初こそ「もう疲れたー」などと騒ぐのに、結局最後にはエリンの横でやっていた。才能の塊でありながら、自分が出来ないものに出会うと子どものように悔しがった。エリンはエリンで、泣いても泣いても次の日にはまた同じ場所へ立ち、同じことを繰り返した。

 

 あの二人の残り方は、少し違っていた。

 ペルシアは負けず嫌いから。

 エリンは、追いつきたい一心から。

 でも、どちらも自分の足で残っていた。

 

 目の前の光景は、それに少し似ている。

 

 サラはふと、そんなふうに思った。

 

 まだ未熟だ。

 まだ粗い。

 まだ、形になり始めたばかりだ。

 

 けれど、この子達は残る。

 誰かに言われなくても、足りないものを埋めようと、自分から残る。

 

 それは、教える側にとって何より嬉しい資質の一つだった。

 

 エリンが、その横へ静かに立った。

 

「どうでしたか」

 

 短い問い。

 だが、その中には、先生としての評価を求める気持ちだけではない。

 自分が今育てているこの子達を、どう見ているのか知りたいという、チーフパーサーとしての問いでもあった。

 

 サラは、しばらく答えなかった。

 ただ、訓練を続ける乗務員たちの姿を見ていた。

 

 やがて言う。

 

「素質の高い子達ですね」

 

 それだけだった。

 だが、エリンにとっては十分すぎる言葉だった。

 

「はい」

 

 自然に返事が出る。

 

「ただし」

 

 サラはやはり続ける。

 

「甘やかしてはいけません」

 

「分かっています」

 

「あなたは優しいですからね」

 

「……先生に言われると、少し複雑です」

 

 エリンが苦笑すると、サラはごくわずかに口元を緩めた。

 

「優しいことは悪くありません。ですが、優しさで間に合わせると、客室は崩れます」

 

「はい」

 

「本番まで一ヵ月を切っているのでしょう」

 

「そうです」

 

「なら、まだ足りないことも分かっているはずです」

 

「はい」

 

「でも、間に合うでしょう」

 

 その言葉に、エリンは静かに目を伏せた。

 

 朝もそうだった。

 午前の訓練の最後にも、サラは“間に合う”と言った。

 今また、同じことを言う。

 

 それがどれほど心強いか、エリンはよく知っていた。

 

「間に合わせます」

 

 そう返すと、サラは小さく頷いた。

 

「ええ。そうしなさい」

 

 フロアの端では、ククルがハズキとユウコに笑顔の入り方を説明しながら、でも午前に言われたとおり足元を意識している。ミラはクミコの歩幅を見て「今の半歩、良かった」と伝え、ランはサリーとマユへ“見ることと立つこと”の順番をもう一度整理している。アズサはナツキと一緒にお盆の支え方を繰り返し、ミドリは一人、壁際で足裏の感覚を確かめながら黙々と歩いている。

 

 その全てを見ながら、サラは静かに思った。

 

 ああ、たしかに似ている。

 昔、自分の前で何度も転んで、泣いて、それでも残った二人の姿に。

 

 今この場所にも、ちゃんと火はあるのだと。

 

 そしてその火を、エリンはもう一人で守っているわけではない。

 ミラやランがいて、ククルがいて、後輩たちが自分から残っている。

 そういう積み重ねが、きっと次の一便を飛ばすのだ。

 

 サラは帰り支度の手を止めたまま、もう少しだけそこに立っていた。

 今日の訓練は終わった。

 だが、この場所では、まだ終わっていない時間が流れていた。

 それはきっと、良い兆しだった。

 

 

ーーーー

 

 

 サラの特訓は、火星周回観測ステーション宿泊型宇宙地学研修の日までの間、容赦なく続いた。

 

 最初の数日は、旅行事業部の乗務員達にとって、まるで毎日が新しい壁にぶつかるような日々だった。

 

 朝は必ず、歩きと姿勢から始まる。

 

 ジャージ姿でシュミレーションルームへ集められ、五列縦隊、あるいは二列、三列とその日の課題に応じて並び替えられる。

 サラはスーツ姿のまま、ただ静かに立っている。

 それだけで空気が張る。

 

「立ちなさい」

 

「歩きなさい」

 

「止まりなさい」

 

 指示は短い。

 短いのに、一言ごとに逃げ道がない。

 

 足裏の置き方。

 膝のゆるめ方。

 骨盤の立て方。

 肩の力の抜き方。

 首の角度。

 視線の落とし方。

 顎の高さ。

 呼吸の位置。

 声を出す前の一拍。

 

 それらを、サラは一切の妥協なく見ていった。

 

 ハズキは何度も「明るい」と「浮ついている」の違いを叩き込まれた。

 ユウコは“話しかけやすさ”と“距離の甘さ”を何度も切り分けさせられた。

 ナツキは引きすぎる癖を、「遠慮深さではなく逃げ」と言われて顔を赤くした。

 サリーは気づきすぎるあまり自分の軸を外へ預ける癖を見抜かれ、「優しさは立った人間が持って初めて使える」と言われて深く頷いた。

 マユは緊張を隠そうとするたびに止められ、「隠すな、止まるな」と何度も何度も言われた。

 アズサは顎が上がるたびに、「笑顔を上へ逃がさない」と修正を入れられた。

 ミドリは確認に頭を使いすぎる癖を、「見えたら動く、考えてからでは遅い」と削られた。

 

 そしてクミコだけは、少し違った。

 

 彼女は自分の歩き方の癖を理解したうえで、すでに“自分なりの矯正”を身体へ入れ始めていた。

 歩くのが早くなる。

 先へ出すぎる。

 責任感が前に出る。

 その全部を知っているからこそ、踵から地面へつく意識を持ち、半歩だけ待つ訓練を重ねてきた。

 サラはそれを見て、初日から「良い考えです」と肯定した。

 その一言はクミコの胸に深く残り、その後の訓練で彼女をさらに前へ押した。

 

 午前の訓練が終われば、短い休憩を挟み、午後は実務に直結した通しの訓練になる。

 

 乗客の乗り入れ。

 荷物対応。

 座席の誘導。

 サービス動線。

 食堂区画への案内。

 ラウンジ利用時の人数制限。

 初めて宇宙船へ乗る生徒への声掛け。

 不安の強い子、わざと平気そうにしている子、友人に合わせて無理に笑っている子への入り方。

 軽い酔い。

 急な揺れ。

 教員からの呼び出し。

 医療ルームへの導線確保。

 

 これらを、サラは“止めずに”見た。

 

 普通なら、エリンは途中で止める。

 今の言葉は速い。

 今の笑顔は浅い。

 そこは一人で抱えない。

 そうして細かく止めながら、ひとつずつ形へしていく。

 

 だが、サラは違った。

 

 流れを止めない。

 通しの中で、必要なところだけを切る。

 

「ミラさん、今の一歩で後ろが急ぎました」

 

「ユウコさん、近い。あなたが入りたいのではなく、相手が入れていい距離かを見なさい」

 

「ランさん、整えすぎです。あなたが静かすぎると周りが学ばない」

 

「ククルさん、目立つ不安に寄りすぎです。静かな子を置いていかない」

 

「ハズキさん、今の声は元気ではなく焦りです」

 

「ナツキさん、引いた一歩が逃げになっています。退く前に置きなさい」

 

「クミコさん、その半歩はいいでしょう。続けなさい」

 

 鋭い。

 正確だ。

 そして、驚くほど流れを止めない。

 

 だから乗務員達は、言われたその瞬間から、自分で修正し続けるしかなかった。

 誰かが“答え”として前に出て、空気を整えてしまうことがない。

 エリンも、サラの意図を理解しているからこそ、その時間だけは一歩引いていた。

 今、自分が便利な答えになれば、この子達は自分で客室を持たなくなる。

 そう分かっていたからだ。

 

 そのかわり、エリンは訓練が終わったあとに、必要な言葉だけを残した。

 

「今のユウコの入り方、教員相手にはいいけど生徒相手には強いわ」

「はい」

「ナツキは引きすぎた。でも、あの一歩前なら自然に見える」

「分かりました」

「ククル、笑顔が先に走ると軽くなる。相手が息を吐いてから入って」

「うん」

「ミラ、前方の空気はもう十分持ててる。だからこそ、無理に持ち上げない」

「はい」

「ラン、全部を自分の静けさで包まない。今日は一回、ハズキに揺れを返せたの、良かった」

「……はい」

 

 サラの鋭さと、エリンの実務的な言葉。

 そこにククルの明るさが混ざる。

 

 ククルは午後の訓練の中で、たびたび“空気のほぐし役”として入った。

 高等部の生徒役を前にして、初めて宇宙船へ乗るときの不安をどう扱うか。

 いきなり「大丈夫です」と言わない。

 「怖いなら怖いでいい」と先に言う。

 「何回聞いても大丈夫です」と逃げ道を作る。

 「私たち、そのためにいますから」と、明るいのに軽くない声で伝える。

 

 ハズキとユウコは、そのククルの入り方を何度も目で追った。

 なぜククルの明るさは“うるさい”にならず、“安心する”になるのか。

 なぜ笑っているのに、相手を置いていかないのか。

 サラに「見て真似るのではなく、何を見て、何に先に反応しているのかを見なさい」と言われた意味が、少しずつ分かり始めていた。

 

 そして夕方。

 

 サラはどの日も、必ず訓練を終わらせたあとにブリーフィングを入れた。

 

 紙袋から出てくるのは、どら焼きだったり、薄いバタークッキーだったり、時には小さな蒸し菓子だったりした。

 最初は訓練のあとにお菓子、という組み合わせに戸惑っていた乗務員達も、今ではそれが“切り替えの時間”なのだと理解していた。

 

「ブリーフィングがない本番はありません」

 

 サラは毎回のように言った。

 

「出来たことと出来なかったことを、身体が温かいうちに言葉へ落としなさい。でなければ、ただ疲れただけで終わります」

 

 その言葉どおり、乗務員達は訓練のあと、甘いものを口にしながらその日の反省を口にするようになっていた。

 

「今日の私は、教員役に意識が行きすぎて生徒役を見落としました」

「私は笑顔で押そうとしてました」

「今の動線、頭で分かってても足が止まりました」

「途中で自分の肩が上がってるの、分かってたけど戻せませんでした」

「でも、ラウンジへ誘導する時の言葉は昨日より良かったと思います」

 

 そうやって、自分の言葉で振り返る。

 それが、この数週間で旅行事業部に根づいた新しい習慣になっていった。

 

 

 サラの特訓が始まって十日ほど経ったある日だった。

 

 その日も朝から暑かった。

 火星コロニーの空調は一定に保たれているはずなのに、外の熱気に引っ張られるように建物全体が少しだけ熱を帯びている。

 旅行事業部のフロアも例外ではなく、訓練が始まる前からどこかむっとしていた。

 

 午前の基礎訓練を終え、乗務員達が汗を拭きながら短い休憩に入った頃。

 

 フロアの扉が勢いよく開いた。

 

「やっほー!」

 

 明るい、というより騒がしいくらいの声が響く。

 

 反射的に視線が集まる。

 そこに立っていたのは、金髪を揺らしながら片手を上げたペルシアだった。

 

「ペルシアさん!?」

 

 ハズキが思わず声を上げる。

 クミコも「えっ、本物!?」みたいな顔をする。

 ミラとランは、ああと納得したように笑った。仕事の都合で火星へ来ることがあるとは聞いていたが、ちょうどこのタイミングで顔を出すとは思っていなかったのだろう。

 

「ちょっと会議でこっち来ててさ。ついでに様子見に来たのよ」

 

 そう言いながら、ペルシアはフロアの中を見渡す。

 そこで、ぴたりと動きが止まった。

 

 視線の先には、いつものようにスーツ姿で立つサラがいる。

 

 数秒、完全な沈黙。

 

 それから、ペルシアの口から本音が漏れた。

 

「げっ!? サラ先生!?」

 

 フロアの空気が、また一段止まった。

 

 サラは、ゆっくりとペルシアへ視線を向ける。

 

「げっとは何ですか?」

 

 低くはない。

 怒鳴ってもいない。

 だが、怖い。

 

「いえ、なんでも」

 

 さしものペルシアも、たじろいだ。

 その様子を見て、乗務員達は心の中で一斉に驚く。

 あのペルシアが。

 何を言われても軽口で返してしまいそうなペルシアが、ちゃんと怯んでいる。

 

 サラは一呼吸置いてから、淡々と言った。

 

「まあいいでしょう。ペルシア、貴方も訓練に参加しなさい」

 

「えっ!? 私も?」

 

 さすがに想定外だったらしく、ペルシアの声が裏返る。

 

「ペルシアという名前は、貴方しかいないでしょう」

 

「……はーい」

 

「返事!」

 

「はい!」

 

 ぴしりと返す声が、妙に学生っぽくて、フロアの何人かが思わず吹き出しそうになる。

 だがもちろん、今この空気で本当に笑える者はいない。

 

 結局その日、ペルシアは徹底的に扱かれた。

 

 歩き方。

 姿勢。

 視線の置き方。

 声を出すタイミング。

 明るさの使い方。

 そして、軽さと軽薄さの違い。

 

「才能がある人ほど、雑にすると罪が重いのです」

 

 サラにそう言われて、ペルシアは本気で嫌そうな顔をした。

 

「私、宇宙管理局なのに!?」

 

 午後の通し訓練の途中で、ついにそんな泣き言まで漏らした。

 

 だがサラは一切動じない。

 

「所属は関係ありません。今ここにいる以上、乗務員として見ます」

 

「うわーん、エリン助けて!」

 

「無理」

 

 エリンが即答する。

 

「今日は私も止められないから」

 

「薄情!」

 

 そんなやり取りに、乗務員達は必死で顔を伏せた。

 笑ってはいけない。

 でも、面白い。

 しかも、あのペルシアが自分達と同じように指摘され、同じように直されている姿は、妙な励みにもなった。

 

 才能の塊みたいな人でも、こうして扱かれるのだ。

 なら、自分達が扱かれるのは当然かもしれない。

 そんなふうに思わせるには十分すぎる光景だった。

 

 そして何より、サラはペルシアにも一切容赦しなかった。

 その公平さが、逆に乗務員達の信頼を強めてもいた。

 

 

 そうして日々は過ぎていった。

 

 サラの特訓は、火星周回観測ステーション宿泊型宇宙地学研修の前日まで、厳しく、しかし確実に続いた。

 

 クミコの歩き方は、もう“急ぐと前へ出てしまう人”のものではなくなっていた。

 本人が自分の癖を分かったうえで、どう修正するかを身体へ入れている。だから本番で多少揺らいでも、ちゃんと戻ってこれる歩き方になっていた。

 

 ハズキは、明るさの奥に落ち着きを持ち始めた。

 相手を引っ張るのではなく、相手が一歩踏み出せるように笑顔を置くことを、ようやく掴みかけていた。

 

 サリーは“気づく”だけで終わらず、“気づいたあとにどう入るか”を迷わなくなってきた。

 優しさを抱えたまま立てるようになってきたのだ。

 

 アズサは、新人らしい柔らかさを失わずに、それを仕事の精度へ繋げることを覚えつつあった。

 ただ感じの良い人ではなく、“安心して頼める人”の輪郭が少しずつ見え始めていた。

 

 ユウコとナツキは、相変わらず互いを意識していた。

 だがその競い合いは、もう表面的な張り合いではない。

 同じ便を支える者同士として、相手に負けない精度を目指すようになっていた。

 

 ミラは前に立つ人間としての雑さを削られ、ランは静けさの中に他人へ返す強さを持ち始めた。

 そしてククルは、持ち前の明るさをさらに一段“使えるもの”へ磨き直されていた。

 

 エリンはその全部を見ていた。

 

 どの子も、間に合う。

 まだ完璧ではない。

 けれど、ここまで来た。

 あとは、最後の一歩の精度だ。

 

 

 そして、火星周回観測ステーション宿泊型宇宙地学研修の前日。

 

 その日の訓練は、朝からいつも以上に張り詰めていた。

 

 もう明日だ。

 明日には本当に飛ぶ。

 教育便として。

 会社の次の一便として。

 失敗の許されない本番として。

 

 だから誰も、口数が多くなかった。

 いつもならハズキが朝一番で余計な一言を言い、ユウコとナツキが軽くやり合い、ククルがそこへ笑いを入れる。そんな空気が、この日ばかりはどこか静かだった。

 

 訓練そのものは、最後まで容赦なく行われた。

 

 歩き。

 姿勢。

 乗り入れ。

 荷物対応。

 座席誘導。

 サービス動線。

 ラウンジの使い方。

 緊急時の初動。

 医療ルームへの導線。

 帰路の振り返りシート配布まで想定した終盤の流れ。

 

 全部やった。

 やりきった。

 

 夕方、最後の通しが終わると、乗務員達は息を整えながら自然と一箇所へ集まった。

 誰かに言われたわけではない。

 ただ、終わったのだと全員が分かっていたからだ。

 

 サラはその前に立つ。

 

 静かなスーツ姿。

 初日と何一つ変わらないように見えて、その場にいる全員が、今日のこの人の前では以前より少しだけまっすぐ立てるようになっている。

 

 サラはゆっくりと一人ずつの顔を見た。

 

「明日から本番です」

 

 その一言だけで、空気がまた締まる。

 

「訓練は終わりました。ですから、今日ここで言うことは多くありません」

 

 サラは淡々と続ける。

 

「皆さんは、この数週間で確かに変わりました」

 

 誰も動かない。

 けれど、その言葉は一人ひとりの胸へ確実に入っていく。

 

「最初の日、私が見た皆さんは、まだ“教わって動く人”でした」

 

 その事実を、誰も否定できない。

 教わって、直して、見てもらって。

 そうしてようやく進んできたのだ。

 

「ですが今の皆さんは、“自分で意識して動ける人”になり始めています」

 

 クミコが小さく息を吸う。

 ハズキの喉がわずかに動く。

 サリーは静かに目を伏せ、アズサは少しだけ背筋を伸ばした。ミラとランは、ただまっすぐサラを見ている。

 

「本番では、訓練どおりにはいきません」

 

 サラの声は変わらない。

 

「お客様は訓練どおりには動かない。宇宙船も、教科書どおりには揺れない。教員の表情も、生徒の不安も、全部がその場で変わります」

 

 そこまで言って、ほんの少しだけ間を置く。

 

「ですが、それでいいのです」

 

 その言葉に、数人がわずかに顔を上げた。

 

「訓練は、“そのまま使うため”ではありません。“崩れた時に戻るため”にあります」

 

 誰もが静かに聞いている。

 

「皆さんはもう、崩れた時に何へ戻ればいいのかを知っています。足裏。呼吸。視線。立ち方。笑顔。声。相手を見る順番。だから、焦らなくていい」

 

 その言葉は、厳しいだけの指導の最後に落ちるには、あまりにもあたたかかった。

 

「自分を信じなさい、とは言いません」

 

 サラは、はっきりとそう言った。

 

「ですが、今日までやってきた訓練は信じなさい」

 

 その一言が、深く刺さった。

 

 信じるのは、ふわふわした自信ではない。

 毎日の訓練。

 居残り。

 反復。

 泣きそうになりながら直した歩き方。

 何度も失敗して修正した動線。

 それらの積み重ねだ。

 

「それから」

 

 サラは一人ひとりを見た。

 

「お客様にとっては、皆さんの事情は関係ありません。緊張していることも、準備が大変だったことも、会社の再建途中であることも、何も関係ない。そこにあるのは、“この宇宙船に乗って大丈夫か”というただ一つの問いだけです」

 

 重い言葉だった。

 だが、本当のことだ。

 

「ならば、答えなさい」

 

 サラの声がまっすぐ落ちる。

 

「言葉でなく、立ち方で。視線で。案内で。声で。明日、皆さんはそれを答えるのです」

 

 クミコの胸が熱くなる。

 ハズキは、笑顔を作る時の足裏を思い出していた。

 サリーは、自分の軸を立ててから相手を見る順番を反復していた。

 ミラとランは、前に立つことと全体を支えることの意味を静かに噛みしめていた。

 

 サラは最後に、少しだけ声の温度を下げた。

 

「特に、明日乗務に入る皆さん」

 

 今回の便に実際に入るメンバーへ視線が注がれる。

 

「自分が主役だと思わないこと。ですが、脇役だとも思わないこと。皆さん一人ひとりが、その便の空気を作ります」

 

 そして、ほんのわずかだけ口元を和らげた。

 

「大丈夫です。今の皆さんなら、できます」

 

 それが、サラにしては最大限の鼓舞だった。

 

 乗務員達の胸の中で、何かが静かに燃えた。

 泣く者はいない。

 でも、皆、目の奥が少しだけ熱かった。

 

 エリンは、そんな乗務員達の横顔を見ていた。

 

 サラを呼んで良かった。

 ククルにも来てもらって良かった。

 この数週間は厳しかった。

 時間も足りなかった。

 でも、確かにこの子達はここまで来たのだ。

 

 終礼が終わり、ククルがいつも通り「わ、なんか私まで緊張してきた……!」と小さく笑い、ハズキが「でも、やるしかないですね」と拳を握り、ユウコがナツキへ「明日、足引っ張らないでよ」と言って「そっちこそ」と返される。そんな少しだけいつも通りの空気も戻ってきた。

 

 やがて乗務員達が明日の最終確認へ散っていく中、サラはエリンを呼び止めた。

 

「エリン」

 

「はい」

 

 エリンが振り返る。

 

 サラは他の誰にも聞こえない程度の距離まで歩み寄った。

 目は真っ直ぐだった。

 厳しさも、静けさも、そのままだ。

 

「このメンバーで、フライトが万に一つ失敗したら」

 

 一瞬、空気が止まったように感じた。

 

 サラははっきりと言った。

 

「それは貴方の所為よ」

 

 エリンは、言葉を失わなかった。

 

「はい」

 

 それだけを、真っ直ぐに返した。

 

 サラは続ける。

 

「皆はここまで来ています。技術も、意識も、十分ではなくても、必要なところまで持ってきた。ならば最後に足りないものがあるとすれば、それは全体を束ねる人間の責任です」

 

「はい」

 

「明日、皆が迷ったら、貴方が戻すのです。皆が硬くなったら、貴方が整えるのです。皆が前へ出すぎたら、貴方が引き、皆が引きすぎたら、貴方が押すのです」

 

 その一言一言が、エリンの胸の奥へ静かに沈んでいく。

 

「乗務員を育てるというのは、そういうことです」

 

 サラはそう言って、ほんの少しだけ目元を和らげた。

 

「ですが」

 

 一拍。

 

「今の貴方なら、できます」

 

 それは、サラにしては珍しいほど真っ直ぐな信頼だった。

 

 エリンは、胸の奥が熱くなるのを感じながら、深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 サラは短く頷いただけだった。

 

「泣くのは終わってからにしなさい」

 

 その言葉に、エリンは思わず顔を上げた。

 

「先生……」

 

 昔のことをまだ言うのか、と半ば呆れたような、でも少しだけ照れたような顔になる。

 サラは、わずかに口元を緩める。

 

「ペルシアから聞いていますから」

 

「……やっぱり」

 

 エリンが小さく苦笑すると、サラはそのまま背を向けた。

 

 背中はまっすぐだった。

 最初の日と何も変わらないように見えて、その背中を見送るエリンの気持ちは、もうあの日とは全く違っていた。

 

 明日、飛ぶ。

 

 火星周回観測ステーション宿泊型宇宙地学研修。

 生徒十五名、教員三名。

 スペースホープの次の一便。

 そして、自分達がここまで積み上げてきたものを、本当に客室の中で答えとして出す日。

 

 エリンは一度だけ深く息を吸い込み、ゆっくり吐いた。

 

 もう迷わない。

 もう準備はした。

 あとは、飛ぶだけだ。

 

 彼女はそのまま、明日の最終確認のために再びフロアへ向かって歩き出した。

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