サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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旅行フライト

 火星周回観測ステーション宿泊型宇宙地学研修当日。

 火星のエアポートは、朝だというのに既に活気と熱気に満ちていた。

 

 巨大なガラス張りの天井から、人工の青空を思わせる淡い光が差し込み、出発ロビーの床を白く照らしている。頭上では案内放送が定期的に流れ、遠くでは搬送用カートの走る低い駆動音が響く。宇宙船の発着に慣れたエアポートの人間達は忙しなく動いているのに、その動きには無駄がない。張り詰めた緊張と、日常の慣れが同居した、独特の空気だった。

 

 その一角、専用搭乗口の奥に停められたレンタル宇宙船の前に、スペースホープの乗務員達が並んでいた。

 

 エリン。

 ミラ。

 ラン。

 クミコ。

 ハズキ。

 アズサ。

 ユウコ。

 ナツキ。

 サリー。

 

 九人全員が、今日のために整えられた制服に身を包んでいる。

 

 濃紺を基調としたその制服は、以前のスペースホープが好んでいた華美な装いではない。余計な飾りを抑え、清潔感と機能性を優先した意匠だ。けれど、ただ地味なわけではない。襟元や袖口に細く入った銀のラインが、凛とした印象を与えていた。立っているだけで、ああ、この人達は今日ここで“迎える側”なのだと分かるように。

 

 そしてその立ち姿は、数ヶ月前とは比べものにならないほど整っていた。

 

 足裏で立つ。

 骨盤を立てる。

 肋骨を前へ逃がさない。

 肩で頑張らない。

 首を長く、視線を静かに。

 

 サラに叩き込まれたものが、全員の身体にちゃんと残っている。

 無意識になっても崩れないところまで、ようやく入ってきた証だった。

 

 とはいえ、緊張がないわけではない。

 

 それは誰の顔を見ても分かった。

 ハズキはいつもより口数が少なく、アズサは何度も小さく息を吸って吐いてを繰り返している。ユウコは表情こそ普段通りを装っているが、手袋を直す回数が妙に多い。ナツキはそんなユウコを横目で見ながら、自分の肩をそっと落としていた。クミコは、立っているだけなのに胸の奥が落ち着かない。サリーは静かだが、その静けさの奥にいつも以上の集中がある。ミラとランは、後輩達のその緊張を感じ取りながら、自分達もまたわずかに呼吸を深くしていた。

 

 だが、誰もそれを表には出さない。

 

 今日、ここで迎えるのは高等部の生徒十五名と教員三名。

 相手にとっては、スペースホープの事情も、再建の背景も関係ない。

 ただ“この宇宙船に乗って大丈夫か”が全てだ。

 そのことを、乗務員達は全員理解していた。

 

 宇宙船の前方ハッチはすでに開いており、搭乗前の最終確認を終えたクルーだけが中へ出入りしている。

 パイロット達は、もうコックピットに入っていた。

 スペースホープ側のパイロットと、そして今日この便に協力するS級パイロットのリュウジ。

 さらに医療ルームには、クリスタルが先に入り、医療用品と簡易診察スペースの確認を終えているはずだった。

 

 エリンは、宇宙船の機体を一度だけ見上げた。

 

 レンタル機。

 中型。

 客席のほかに食堂、医療ルーム、そしてドリンクを飲めるラウンジを備える機体。

 派手ではない。

 だが、教育研修便としては申し分ない。

 今のスペースホープにとって、これ以上ない“次の一便”だった。

 

「エリンさん」

 

 小さく声をかけたのはランだった。

 

「はい」

 

「学校側の車両、到着します」

 

 エアポートの専用車寄せに、細長い移動車が滑り込んでくる。白を基調にした教育機関用の車体だ。窓越しに、制服姿の生徒達の影がいくつも見えた。中には外を見ている顔もある。緊張しているのか、興奮しているのか、まだ距離があるせいではっきりとは分からない。

 

 エリンは小さく頷いた。

 

「持ち場、確認」

 

「はい」

 

 その一言に、皆の背筋が改めて伸びる。

 

 ミラ、クミコ、アズサが前方へ。

 最初のオリエンテーションと、乗り入れ時の空気作りを担う。

 ランとサリーは少し後ろ。

 全体を見ながら、不安の強い生徒や静かに固まる生徒を拾う位置だ。

 ハズキは前と中ほどを繋ぐ。

 ユウコとナツキは教員との距離を見ながら、荷物対応と中盤の流れを整える。

 エリンは最初に教員へ挨拶し、流れを共有したあと、全体を見ながら必要なところへ入る。

 

 全員がそれぞれの役割へ散るのを確認し、エリンは専用車の前へ歩み出た。

 

 

 車両のドアが開く。

 

 最初に降りてきたのは教員達だった。

 三人とも落ち着いた装いで、資料ケースを抱えている。リディアとの打ち合わせにも出ていた理科担当の青年教師、その横には四十代ほどの女性教員、そして年配の男性教員。資料で見た名前と顔が、エリンの頭の中で一致する。

 

「おはようございます」

 

 エリンが先に頭を下げる。

 

「本日はよろしくお願いいたします。スペースホープ、チーフパーサーのエリンです」

 

 その声音は柔らかい。

 けれど、曖昧さのない落ち着いた声だった。

 

「おはようございます。こちらこそよろしくお願いします」

 

 女性教員が微笑み、青年教師も続けて頭を下げる。年配の男性教員は少し緊張した顔をしていたが、その目には今日への責任感が見えた。

 

「まず、フライトの流れを簡単にご説明します」

 

 エリンは教員達を宇宙船前方の少し静かな場所へ案内した。生徒達はまだ車両の側でまとまっており、ミラ達がその前へ出るタイミングを見ている。

 

「本日の流れですが、搭乗前に生徒さん達へ短いオリエンテーションを行います。宇宙船内での過ごし方、緊張した場合の声掛け先、離陸までの基本的な流れをここで共有します」

 

 三人は真剣に耳を傾ける。

 

「搭乗後は、離陸前まで全員着席を基本とします。安定飛行に入った段階で、教員の先生方と連携を取りながら、食堂とラウンジの利用を段階的に開始します。生徒さんを三グループに分け、動線が重ならないようこちらで誘導します」

 

「はい」

 

 青年教師がすぐに頷く。

 その反応の速さに、エリンは少し安心する。事前打ち合わせがちゃんと入っている相手の頷き方だ。

 

「到着後、最初の三十分は休憩と身体の調整を優先します。すぐに観測ステーションの活動へは移らず、一度全員の体調と呼吸を整えてから現地プログラムへ接続します」

 

「助かります」

 

 女性教員が言う。

 

「初めて乗る生徒もいるので、そこはかなり心配していました」

 

「はい。ですので、酔いやすい傾向のある生徒さん、緊張が強い生徒さんにはこちらで特に視線を配ります。事前の健康確認票で把握した内容は、必要な範囲で乗務側にも共有しています」

 

 その言葉に、年配の男性教員が表情を少しだけ和らげた。

 

「ありがとうございます」

 

「なお、医療ルームには医療従事者が常駐しています。軽い体調不良でも、遠慮なく声をかけてください」

 

「分かりました」

 

 エリンはそこで一度、教員達一人ひとりの目を見た。

 

「先生方には、生徒さん達の表情でいつもと違うと感じた時点で、早めに私たちへ共有していただけると助かります。大きな変化になる前の一言が、一番有効ですので」

 

「はい。そこは必ず共有します」

 

 女性教員がはっきりと答える。

 

 そのやり取りを終えたところで、エリンはようやく少しだけ息を緩めた。

 教員側との最初の接触は悪くない。

 落ち着いている。

 あとは生徒達の空気をどう受け取るかだ。

 

 エリンが視線をオリエンテーション側へ向ける。

 

 

 生徒達は、ミラ、クミコ、アズサの前に緩やかな半円を作っていた。

 

 高等部の生徒達らしく、反応は様々だった。

 わくわくを隠さない者。

 緊張しているのに平気そうな顔を作る者。

 友達同士で小声を交わし、落ち着こうとしている者。

 逆に黙って周囲を見ている者。

 肩へ力が入りすぎている子もいるし、無理に笑っている子もいる。

 

 ミラは、その空気を受け止めるように前へ立っていた。

 明るい。

 でも、押しすぎない。

 サラに言われた“なんとなく出来ている風”にならないよう、足裏から立って声を出しているのが分かる。

 

「皆さん、おはようございます。私は今日、前方で案内を担当するミラです」

 

 その声はよく届いた。

 届くのに、強くない。

 緊張している生徒達の肩が、少しだけ下がる。

 

「今日はここから観測ステーションまで向かいますが、分からないことや不安なことがあったら、何回でも聞いてください。宇宙船に乗るのが初めてでも大丈夫です。私たち、そのためにいますから」

 

 その言い方に、エリンは内心で小さく頷いた。

 ミラはもう、自分の明るさを“置いていく”ことが出来るようになっている。

 

 クミコがその横で一歩前へ出る。

 

「ここから搭乗して、しばらくは全員お席で過ごしていただきます。急いで動く必要はありませんので、呼ばれた順に案内に従ってください」

 

 声は少しだけ固かった。

 だが、先頭の空気を作る人間として必要な、落ち着いた輪郭があった。

 以前のように責任感だけで前へ飛び出す感じはない。

 今日のクミコは、“安心を敷く”ように話せている。

 

 アズサは、生徒達の表情をひとつずつ見ながら、柔らかく続けた。

 

「宇宙船の中で具合が悪くなったり、ちょっと怖くなったりしても大丈夫です。無理に我慢しないでくださいね。近くにいる私たちへ、いつでも声をかけてください」

 

 その言葉を聞いて、列の後ろの方にいた一年生らしい女子生徒が、わずかに目を上げた。

 アズサはそれを見逃さない。

 だが、そこで過度に寄らない。

 “必要なら、後で拾える”距離を保つ。

 

 ハズキは少し後ろで、その三人の入り方を見ながら、自分も生徒達へ笑みを向けていた。ユウコとナツキは荷物の量や、教員と生徒のまとまり方を観察している。サリーとランは、列の後ろや端で静かな子を拾う位置だ。

 

 エリンは教員との会話を終え、そのオリエンテーションへ自然に視線を移した。

 全体の空気は悪くない。

 ミラの声で入口が整い、クミコが流れを作り、アズサが気持ちを受け止める。

 そこへ、ハズキとサリー、ランの視線が散っている。

 

 その時だった。

 

 生徒達の中に、一人だけ“想定していなかった顔”があることに気づいた。

 

 見慣れているのに、ここで見るとは思っていなかった顔。

 

 メノリだった。

 

 一瞬、エリンは思考が止まりかけた。

 なぜメノリがここにいるのか。

 高等部向けの研修だ。

 彼女の年齢的におかしくはない。

 だが、今まで一切名前は聞いていなかった。

 健康確認票の記載名簿を見た時にも、そこまで意識していなかったのかもしれない。あるいは、書類上の表記からは気づかなかったのか。

 

 メノリは、オリエンテーションの輪の少し後ろ寄りにいた。

 他の生徒達と同じ制服を着ている。

 姿勢は真っ直ぐだが、周囲へ過剰に合わせるでもなく、必要以上に目立つでもない。

 その静かな佇まいは、いかにもメノリらしかった。

 

 オリエンテーション中ということもあり、メノリは声を出さない。

 ただ、エリンの視線に気づくと、ほんのわずかに会釈した。

 

 それは一瞬だった。

 けれど、確かに“ここにいます”という意思のある会釈だった。

 

 エリンも、表情を崩さないまま、優しく微笑み返した。

 

 どうしてここにいるのか。

 何か偶然なのか、それとも必然なのか。

 

 聞きたいことはいくつもあった。

 だが今は、チーフパーサーとして立っている時だ。

 ここで私情を混ぜるわけにはいかない。

 

 エリンはすぐに意識を戻した。

 

 オリエンテーションは終盤へ差しかかっている。

 

「それでは、これから順番に搭乗を始めます」

 

 ミラが言う。

 

「先生方の後に、こちらでグループごとにご案内します。荷物が重い人は無理せず言ってください」

 

 クミコが続ける。

 

「席へ着いたら、離陸前までは勝手に移動せず、そのままお待ちください」

 

 アズサが柔らかく締める。

 

「緊張しても大丈夫ですからね。深呼吸しながら、ゆっくり行きましょう」

 

 その言葉で、生徒達の表情がほんの少しだけほどけた。

 完全に緊張がなくなったわけではない。

 だが、“この人達に任せていいかもしれない”という小さな信頼が、たしかに芽生え始めているのが分かった。

 

 エリンはそこで、全体へ向けて一歩前へ出た。

 

「それでは、搭乗を開始します」

 

 その一言に、教員達が動く。

 生徒達も自然と姿勢を正す。

 

 ミラが最初の導線を開いた。

 クミコがその半歩後ろで流れを受ける。

 アズサが少し不安そうな生徒の横へ入る。

 ハズキが荷物を持とうとして空回りしないよう、気持ちを一拍落ち着かせてから手を伸ばす。

 ユウコとナツキは、教員達の持つ資料ケースと生徒達の荷物量を見て、中盤で滞りが起きないよう立ち位置を変える。

 サリーとランは、黙っている子、無理に平気を装う子を拾える位置へ滑り込む。

 

 こうして、火星周回観測ステーション宿泊型宇宙地学研修の搭乗が始まった。

 

 会社の次の一便。

 生徒達の学びへ向かう一便。

 そして、スペースホープの乗務員達が“訓練の先”を本当に答える一便。

 

 エアポートの空気の中で、その最初の一歩が、ようやく動き出した。

 

    ◇

 

 宇宙船への乗り入れが始まると、エアポートに満ちていた熱気は、少しずつ別の緊張へと姿を変えていった。

 

 教員達が先に入り、その後を生徒達が続く。

 ミラが前方で入口の空気を作り、クミコがその半歩後ろで流れを整え、アズサが初めて宇宙船へ乗る生徒達の不安を拾う。

 ハズキは荷物を持とうとする生徒へ声をかけ、ユウコとナツキは教員達の資料ケースや手荷物の位置を見ながら、通路が詰まらないよう微妙に立ち位置を変えていく。

 サリーとランは全体の中ほどと後方で、静かに視線を巡らせていた。

 

 その動きは、決して派手ではない。

 だが、訓練を重ねた者にしか出せない整った流れがそこにはあった。

 

 エリンは前方の扉付近に立ち、生徒達の顔を一人ひとり見ていた。

 宇宙船の前で強がって笑っていた子も、ハッチをくぐる直前になると、ほんの少し呼吸が浅くなる。逆に、怖そうにしていた子が、機体の内側の明るさや思っていたよりも広い通路を見て、少しだけ表情を和らげることもある。

 

 そういう一つひとつを、エリンは見逃さなかった。

 

 その途中だった。

 

「エリンさん」

 

 落ち着いた声で呼ばれ、エリンはそちらへ視線を向けた。

 

 メノリだった。

 

 学生服姿ではなく、今日の研修用に整えられた制服に身を包み、資料の入った小さなバッグを肩へ掛けている。姿勢は相変わらず真っ直ぐで、目元には静かな知性があった。大勢の生徒の中にいても、どこか空気の密度が違う。

 

「メノリ」

 

 エリンの口元が、自然と柔らかくなる。

 

「ご無沙汰してます」

 

 メノリは軽く会釈をしながら言った。

 オリエンテーションの途中であることもあって、声量は控えめだ。だが、その言葉はきちんと届いた。

 

「久しぶりね、メノリ。メノリがいるからびっくりしちゃったわ」

 

 エリンがそう言うと、メノリはほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「私もびっくりしてます」

 

 その返し方がいかにもメノリらしくて、エリンは思わず少し笑ってしまう。

 

「あ、そうだ」

 

 エリンが少しだけ声を潜めた。

 

「操縦室にはリュウジがいるわよ」

 

 その言葉に、メノリの目がわずかに見開かれる。

 

「リュウジがですか?」

 

「ええ」

 

 エリンは頷く。

 

「今度の便、色々あって協力してくれることになったの」

 

 メノリは一瞬、言葉を失ったようだった。

 それから、少し呆れたような、それでいて納得しきれないような声で言う。

 

「こんな地学研修のフライトを操縦するなんて、想像もしてませんでした」

 

「普通はやらないわ」

 

 エリンは苦笑する。

 

「でも、リュウジは私達、スペースホープの会社を心配してくれてね」

 

 その説明を聞いても、メノリの表情にはまだ少しだけ複雑な色が残っている。

 彼にとって“リュウジがここにいる”という事実は、それだけで色々な意味を持つのだろう。

 

「エリンさんは、ハワード財閥の旅行会社のはずではなかったのですか?」

 

 メノリが問い返す。

 

「今はスペースホープに出向してるのよ」

 

「そうなんですか……」

 

 メノリは短く息を吐いた。

 

「よりによって、スペースホープなんですね」

 

 その言い方に、エリンは少しだけ目を細めた。

 軽い皮肉。

 だが本気で見下しているわけではない。

 メノリは、元々そういう言い方をする。真っ直ぐな疑問を、そのまま少し辛口の形で出す癖がある。

 

「そう悪いことばかりじゃないわよ」

 

 エリンは穏やかに返した。

 

「今日のフライト、メノリの目で確かめてみて」

 

 メノリはその言葉を聞き、ほんのわずかに目を伏せた。

 それから、静かに頷く。

 

「はい、そうします」

 

 その時だった。

 

「メノリ〜! 何話してるの?」

 

 少し離れたところから、明るい声が飛んでくる。

 スワレだった。

 相変わらず人懐っこい調子で、友人の名前を遠慮なく呼ぶ。

 

「今行く」

 

 メノリがそちらへ短く返し、エリンへ向き直った。

 

「それでは」

 

「ええ。楽しんで行ってね」

 

 エリンがそう言うと、メノリは小さく会釈して列へ戻っていった。

 

 その背中を一瞬だけ見送ってから、エリンはすぐに視線を全体へ戻した。

 

 今は、メノリとの再会に気を取られている場合ではない。

 今日の自分の仕事は、この宇宙船の空気を整え、全員を安全に、安心して観測ステーションまで運ぶことだ。

 

 

 乗り入れは、驚くほど滑らかに進んだ。

 

 ミラが先頭で生徒達の一歩目を受け止める。

 その半歩後ろでクミコが流れを作り、アズサが不安そうな表情を見逃さず、小さな声で「大丈夫です、ゆっくりで」と添える。

 ハズキは張り切りすぎないよう自分を押さえながら、それでも明るさを失わずに案内し、ユウコとナツキは教員達の荷物の重さと動線を見て、通路の滞りを出さないように動いている。

 サリーとランは、目立たない。

 だが、目立たないことこそが今の二人の力だった。

 誰かが立ち止まりそうになれば、ほんの少しの声掛けで流す。

 無理に元気づけるのではなく、“ここにいていい”という空気を置く。

 

 エリンは、その全体を見ながら、必要なところにだけごく自然に手を入れていた。

 目立たないように。

 乗務員にも生徒にも気づかれないように。

 今日の便は、彼女が前へ出すぎてしまえば、せっかくここまで仕上げてきた九人の動きが“エリンがいるから何とかなった”で終わってしまう。

 だからこそ、支えるなら見えない位置から支える。

 

 ある生徒の手荷物が少し重そうだと見れば、ユウコへ目線だけで合図を送る。

 ラウンジ側へ興味を向けて足を止めた生徒がいれば、ナツキが自然にその視線を受け止める前に、ハズキへ一歩遅らせるよう視線を投げる。

 クミコが少しだけ肩に力を入れたと感じれば、エリンは一瞬だけ自分の肩を落とし、その視界へ入る位置で呼吸を見せる。

 直接何かを言わなくても、クミコはそれで自分の肩が上がっていたと気づき、ほんの少し力を抜いた。

 

 その全部が、訓練の延長だった。

 だが、これは本番だ。

 目立たず、静かで、でも確実なサポート。

 エリンは、その絶妙なところに神経を使い続けていた。

 

 

 全員が着席し、ハッチが閉まり、離陸前の最終確認が進む。

 

 客席は、打ち合わせどおりの配置になっていた。

 不安が強そうな生徒は視線の届きやすい位置へ。

 教員は前方と中ほどと後方に一人ずつ。

 グループのまとまりは保ちつつ、誰か一人に緊張が集中しないような組み方。

 メノリとスワレは中ほどにいた。スワレは窓側に体を寄せて「うわ、ほんとに飛ぶんだね」と興奮気味に囁き、メノリは冷静そうに見えて、シートベルトへ触れる指先にわずかな硬さがあった。

 

 離陸案内はエリンが行った。

 

 声は落ち着いていて、無駄な装飾がない。

 だが、冷たくもない。

 必要な情報を、必要な順番で、余計な不安を煽らずに落としていく。

 

「これより火星周回観測ステーションへ向け、出発いたします。離陸前はお席を立たず、シートベルトをしっかりとお締めください。緊張される方もいらっしゃると思いますが、気分が優れない時や不安が強い時は、無理をせず近くの乗務員へお声掛けください」

 

 その声が客席へ届くと、何人かの生徒がわずかに深呼吸した。

 

 宇宙船が静かに動き出す。

 床を通して伝わる振動。

 エアポートの光景が窓の外でゆっくりと流れ、やがて速度を増していく。

 

 客席には、緊張特有の沈黙が降りた。

 

 その沈黙の中で、乗務員達はそれぞれの位置を守っている。

 離陸中は不用意に動けない。

 だからこそ、視線の配り方がものを言う。

 

 ミラは前方から中ほどへ視線を流し、

 ランは後方の静かな空気を見て、

 サリーは“平気そうにしている子”の肩の高さを拾い、

 クミコは自分の呼吸を一定に保ちながら、見える範囲を落ち着いて見る。

 エリンはその全体を見ながら、コックピットと客室の間にある静かな緊張へ身を置いていた。

 

 そして、安定飛行へ入る少し前。

 

 エリンの目が、一人の少女に止まった。

 

 ぱっと見ただけでは、分からない。

 顔色も、まだそこまで悪くはない。

 座っている姿勢も崩れていない。

 視線も前を向いている。

 

 だが、違和感があった。

 

 右手の指先だけが、シートの端を少し強く掴んでいる。

 喉を鳴らすタイミングが、離陸の揺れと噛み合っていない。

 平気そうな顔をしているのに、呼吸が浅く、吐く方が短い。

 それに何より、機内アナウンスの途中から、ほんのわずかに表情の筋肉が硬くなっていた。

 

 ――気分が悪くなり始めている。

 

 それも、本人が「気持ち悪い」と自覚する前の段階だ。

 普通なら見落とす。

 だが、エリンはそういう“崩れる前”の仕草を見逃さなかった。

 

 少女は、気分が悪いだけではない。

 どこか、平静を装いながら、意地を張っているようにも見えた。

 不安を認めたくない。

 弱いと思われたくない。

 そういう、思春期特有の硬さも混じっている。

 

 エリンはその場で判断した。

 

 今ならまだ、静かに入れる。

 だが自分が直接行くと、“特別に心配された”と少女が感じる可能性がある。

 ここは、少し距離の柔らかい相手がいい。

 

 エリンは通路側へ一歩だけ寄り、ユウコがこちらへ視線を向けた瞬間を捉えた。

 

 ごく小さく、耳打ちする。

 

「三列目、右窓側。顔色が落ちる前。まずは静かに」

 

 ユウコの目が、すっと変わる。

 

「分かりました」

 

 それだけ言って、ユウコは何でもないような顔でその少女の方へ近づいた。

 

 安定飛行へ入った直後、シートベルト着用サインがまだ完全には消えていないタイミングを見て、ユウコは通路側から腰を落とすように少し身を屈めた。

 いきなり覗き込まない。

 上からかぶさらない。

 でも、必要ならすぐに声が届く距離。

 

「大丈夫?」

 

 声は小さい。

 友達に話しかける一歩手前くらいの柔らかさだった。

 

 少女はびくっとしたように目を向けた。

 

「……はい」

 

 反射でそう答える。

 だが、ユウコはその返事をそのまま信じなかった。

 サラに言われ、エリンに叩き込まれた通り、“言葉より先に息を見る”。

 

「そっか。でもちょっと顔色がしんどそうに見えたから」

 

 ユウコは優しく言いながら、背中へそっと手を当てた。

 押さない。

 撫でるでもない。

 ただ、そこに支えがあると分かるくらいの温度で触れる。

 

「離陸って、思ってるより身体にくることあるんだよね。深呼吸できる?」

 

 少女は少しだけ視線を逸らした。

 

「……できます」

 

 そう言うが、呼吸は浅いままだ。

 

 ユウコは焦らない。

 背中へ置いた手の位置をほんの少しだけ上へずらし、呼吸の揺れを感じ取る。

 

「無理しなくて大丈夫。気持ち悪くなる前にメディカルルームで少し横になってもいいし」

 

 その提案をした瞬間、少女の顔に初めてはっきりとした感情が出た。

 

「……やだ」

 

 小さかったが、拒絶の色は強かった。

 

 ユウコは少しだけ目を瞬かせる。

 こういう反応は珍しくない。

 でも、その“嫌がり方”が、ただの不安とは少し違った。

 

「そっか。嫌なんだね」

 

 否定せずに受ける。

 

 少女は口をきゅっと結び、少しだけ顔色を悪くしながらも言った。

 

「行きたくない」

 

「どうして?」

 

 ユウコの声はあくまで穏やかだ。

 

 少女は少し迷ったように視線を揺らし、それから、ほんの少しだけ顔を赤くしながら言った。

 

「……この宇宙船に、S級のリュウジがいるから」

 

 ユウコは一瞬だけ表情を止めた。

 予想外の理由だった。

 

「え?」

 

「会いたいから……行きたくない」

 

 その言い方は、恥ずかしさと、意地と、憧れと、今にも気分が悪くなりそうな弱さが全部混ざっていた。

 

 なるほど、と思う。

 

 この子はただ体調が悪いのではない。

 憧れの存在がこの便にいる。

 だからこそ、弱った姿を見せたくないし、せっかくの機会を逃したくもない。

 だから平気なふりをして、でも身体はもう限界に近づき始めている。

 

 ユウコはその複雑さを理解した。

 そして同時に、“ここで無理をさせたらまずい”とも分かった。

 

 背中をさする手はそのままに、ユウコは一度だけ視線を上げた。

 少し離れた位置で全体を見ているエリンと目が合う。

 

 ユウコは、ごく小さく眉を寄せた。

 理由は少し特殊。

 けれど、状態は放置できない。

 

 エリンはその一瞬で大体を理解した。

 少女の表情。

 ユウコの戸惑い。

 リュウジの名前が出たのだろうと、経験上ほぼ察した。

 

 ほんの少しだけ、エリンの胸の奥で苦笑に近いものが動く。

 

 ――こんなところでも、あの人は厄介ね。

 

 だが、それを表には出さない。

 

 エリンは静かに一歩近づき、通路越しに少女の様子を見た。

 顔色はさっきより確実に悪くなっている。

 唇の色もわずかに白い。

 このまま意地を張らせていても、数分後にはもっと辛くなる。

 そうなれば、本人の望む“リュウジに会う”どころではなくなる。

 

 エリンは、声の角度を少しだけ変えた。

 

「会いたいのね」

 

 少女がびくっとして、エリンを見上げる。

 自分の本音を、あっさり受け止められたのが予想外だったのだろう。

 

「……はい」

 

 今度の返事は小さかった。

 でも、正直だった。

 

 エリンは少しだけ微笑んだ。

 

「だったら、なおさら今無理はしない方がいいわ」

 

 少女が目を瞬かせる。

 

「え……?」

 

「顔色が悪いままで会っても、きっとちゃんと話せないでしょ」

 

 その言葉は、少女の心へまっすぐ届いたらしい。

 さっきまでの拒絶とは別の揺れが目に浮かぶ。

 

「……でも」

 

「大丈夫」

 

 エリンは、柔らかいのに、逃げ道のない声で言った。

 

「医療ルームで少し休んで、落ち着いたら、状況を見て考えましょう。少なくとも、今ここで我慢してもっと気持ち悪くなるよりは、その方がずっと可能性がある」

 

 ユウコも、そこへ言葉を重ねる。

 

「うん。今ちゃんと休めば、そのあと元気にいられる時間の方が長いよ」

 

 少女は、唇を噛むように少しだけ俯いた。

 行きたくない。

 でも、このままでは本当にまずい。

 そのせめぎ合いが、そのまま表情へ出ている。

 

 エリンは急かさない。

 ただ待つ。

 

 やがて、少女はほんのわずかに頷いた。

 

「……少しだけなら」

 

「ええ、少しだけでいいわ」

 

 エリンが答えると、ユウコがそのまま立ち上がるサポートに入った。

 いきなり引っ張らない。

 背中と腕を支え、視界が揺れないようにゆっくりと立たせる。

 

 エリンは周囲の生徒達が不安にならないよう、空気を乱さない位置取りを保つ。

 サリーがすぐに一歩入って、近くの席の生徒へ軽く笑みを向ける。

 ランは後方から全体の視線の揺れを拾い、必要なら別の会話を起こせるよう準備していた。

 

 少女は足元を少し不安そうにしながらも、ユウコに支えられて通路へ出る。

 エリンはその横で言った。

 

「大丈夫。すぐ近くだから」

 

 少女は小さく頷いた。

 その顔にはまだ緊張と未練が残っていたが、さっきほどの意地はもう見えなかった。

 

 メディカルルームの扉が静かに開く。

 中にはクリスタルがいて、エリンとユウコの表情を見ただけで状況を察したように立ち上がった。

 

 だがその続きは、まだこれからだった。

 

 客室ではフライトが始まり、乗務員達は動き続けている。

 そして、その流れの中で、エリンはまた全体へ視線を戻す。

 

 今日の便は、まだ始まったばかりだった。

 

 

 メディカルルームに少女を預けたあと、エリンとユウコはすぐに客室へ戻った。

 

 医療ルームの中では、クリスタルがすでに落ち着いた手つきで少女を座らせ、顔色と呼吸の状態を見ていた。

 少女はまだ少し青ざめていたが、医療ルームへ入ったことで張っていた糸が少しだけ緩んだのか、さっきまでよりも素直にクリスタルの言葉へ耳を傾けていた。

 ユウコが背中を支え、エリンが「少し休んだらまた様子を見に来るわね」と声をかけると、少女は恥ずかしそうに目を伏せながらも、小さく頷いた。

 

 医療ルームの扉が静かに閉まる。

 

 その瞬間、エリンは一度だけ深く息を吐いた。

 最初の揺れは抑えた。

 まだ大きなトラブルではない。

 むしろ、早い段階で拾えたのはよかった。

 だが、便はまだ始まったばかりだ。

 この一件で客室の空気が過度に緊張していないか、すぐに確認しなければならない。

 

 ユウコもまた、客室へ戻る前に小さく肩を回した。

 背中をさする手つきも、声の温度も、気持ちを持っていかれすぎないようにするためのものだ。

 乗務員は誰か一人へ深く入り込むことが出来る。

 でも、そのままそこへ意識を置きすぎると、客室全体を落とす。

 今のユウコは、その線をちゃんと知っていた。

 

「大丈夫?」

 

 エリンが小さく問う。

 

「はい、大丈夫です」

 

 ユウコは、普段より少しだけ低い声で答えた。

 落ち着いている。

 無理に元気を装っていない、そのことにエリンは内心で小さく頷く。

 

「戻りましょう」

 

「はい」

 

 二人は足早に客室へ戻った。

 

 

 客室の空気は、思っていたよりもずっと賑やかだった。

 

 もちろん、騒々しいのとは違う。

 大声で騒いでいるわけでも、秩序が崩れているわけでもない。

 生徒達の声は、宇宙へ向かう期待と楽しみが膨らんだ時に出る自然な熱を帯びていた。

 

「見て、あの雲みたいなの、火星の上層のやつかな」

「まだそんなに高くないでしょ」

「でも、さっきより色違わない?」

「あとでラウンジ行けるんだよね?」

「食堂って本当にあるの?」

 

 そんな声があちこちで小さく交わされている。

 

 教員達も、その熱が過度に上がりすぎないよう見守りつつ、今のところは無理に静かにさせていなかった。

 緊張していた子達が、少しずつこの空間へ慣れていく過程としては、むしろ悪くない空気だ。

 

 ミラは前方で、その賑やかさが“浮ついた騒ぎ”へ変わらないよう、柔らかな笑顔で生徒達の会話へ短く返しながら整えていた。

 ランは後方で、静かな子達の表情を拾い、サリーと視線を交わしていた。

 ハズキは、興奮気味のグループへ飲み物の説明を入れながら、速度を少し落とす役に回っている。

 アズサは、最初に緊張の強かった生徒達の呼吸が落ち着いたことを確認しつつ、中ほどの動線を見ていた。

 ナツキはラウンジ側の準備を整えながら、ユウコが戻ってきたことへ気づいて小さく頷く。

 クミコは、通路の中央で立ち位置を固定しすぎず、前方と中ほどの橋渡しをしていた。

 

 よかった。

 

 エリンは心の中でそう思う。

 誰か一人の不調が、客室全体の空気を不安で塗り替えることはなかった。

 それは今ここにいる乗務員達が、ちゃんと“自分の持ち場を持てている”ということでもある。

 

 だが、その賑やかな空気の中に、わずかに取り残された気配があった。

 

 エリンは、それを見つけた。

 

 中ほどより少し後ろ。

 窓側の席に座る一人の男子生徒だ。

 周囲の同級生達は小声で感想を言い合い、窓の外を見て、これから始まる研修への期待を膨らませている。

 その中で、その少年だけは、姿勢を崩さないまま視線を前へ固定していた。

 

 顔色は悪くない。

 呼吸も乱れていない。

 だから普通なら、“静かな子”で済む。

 

 けれどエリンは、その子の両手が膝の上でぴたりと揃いすぎていることに気づいた。

 喋らないのではなく、“喋らないようにしている”ときの手の置き方だ。

 周囲の会話へ入りたくないのか、入れないのかはまだ分からない。

 でも、このまま客室の楽しさだけが膨らむと、取り残された感覚が強くなる可能性がある。

 

 エリンは迷わなかった。

 

 再び、ユウコへごく小さく合図を送る。

 

 ユウコはすぐに目で返してくる。

 

「後方寄り、窓側。ひとりで固めてる」

 

 耳打ちは短い。

 それで十分だった。

 

「分かりました」

 

 ユウコはすぐに表情を柔らかく整え、その生徒のところへ向かった。

 

 彼女の歩き方には、ここ最近の訓練がはっきりと出ていた。

 近づきすぎない。

 でも遠くない。

 相手へ“話しかけていい”距離を残したまま入る。

 

「こんにちは」

 

 ユウコはその少年の通路側へ軽く腰を落とすようにして言った。

 

「今、少し落ち着いてきた?」

 

 唐突でもなく、探りすぎでもない入り方だった。

 

 少年は少しだけ肩を揺らし、ユウコを見た。

 

「……はい」

 

 短い返事。

 でも、嫌がってはいない。

 

「そっか。よかった」

 

 ユウコは背中へ手を置くようなことはせず、まずは同じ高さへ視線を揃えた。

 

「周り、ちょっと賑やかだもんね。酔ってない?」

 

 少年は視線を逸らし、少し考えてから答える。

 

「酔っては、ないです」

 

 その言い方の途中に、一拍だけ迷いがあった。

 ユウコはそれを見逃さない。

 

「気持ち悪い感じとか、胸のところが変な感じとかは?」

 

「……ちょっとだけ」

 

 今度の返事は、本音だった。

 

 ユウコはそこで初めて、ごく自然に背中へ手を添えた。

 嫌がるならすぐ引けるような軽さで。

 でも、支えがあると分かる程度には温度を乗せて。

 

「分かった。じゃあ、少し深呼吸してみよっか」

 

 少年は言われるままに息を吸う。

 だが、その吸い方が少し浅い。

 緊張なのか、軽い酔いなのか、あるいはその両方か。

 

「うん、無理に大きく吸わなくていいよ。吐く方をゆっくりね」

 

 ユウコはそう言いながら、周囲の生徒達がこのやり取りを過度に気にしないよう、自分の身体で少しだけ視線を遮る位置を取った。

 それは前よりもずっと自然に出来るようになっていた。

 

 エリンは、その様子を少し離れた場所から見ていた。

 

 あの子はユウコに任せれば問題ない。

 

 そう思えた。

 ユウコは、少し前まで“明るさで押す”癖が強かった。

 でも今は違う。

 相手が自分のペースで息を吐けるように待てる。

 無理に話させず、でも一人にもさせない。

 今のユウコなら、このくらいの揺れはきっと大丈夫だ。

 

 だからエリンは、その少年のことを一度ユウコへ預け、再び周囲へ視線を配らせた。

 

 食堂区画の準備はどうか。

 ラウンジへ流すタイミングは早すぎないか。

 メノリ達のグループは、興奮しすぎずに会話出来ているか。

 教員達の呼吸はどうか。

 

 問題ない。

 今のところ、客室はとてもいい空気だ。

 

 そう思った、まさにその矢先だった。

 

「オエッ」

 

 大きな嗚咽が、客室の空気を引き裂いた。

 

 その一音だけで、エリンの心臓が跳ねた。

 

 視線が反射的にそちらへ向く。

 振り返るより先に、身体がそちらへ動きかける。

 

 ユウコがついていた生徒だった。

 

 少年は前へ身を折り、そのまま嘔吐していた。

 床ではなく、前かがみになった自分の膝元へ。

 だがユウコが支えに入ったせいで、吐瀉物の一部はユウコの制服へもかかっている。

 通路側のスカート、袖口、手元。

 遠目でも分かるほどはっきり汚れていた。

 

「きゃっ……!」

「えっ、うそ」

「大丈夫!?」

「先生!」

 

 周りの生徒達から声が上がる。

 ざわめきが一気に広がる。

 今まで“期待と楽しみ”で膨らんでいた客室の空気が、別の意味で張りつめ始めた。

 

 まずい。

 

 エリンはそう思った。

 この一瞬で空気が不安へ転ぶかもしれない。

 生徒本人はもちろん、周囲の子達も動揺する。

 教員が立ち上がれば通路が詰まる。

 客室全体へ波が広がる。

 

 我を忘れて駆け寄ろうとした、その瞬間だった。

 

 ユウコの声が、はっきりと届いた。

 

「お召し物は汚れませんでしたか?」

 

 柔らかい声だった。

 

 吐いた本人へ向ける一言として、それはあまりにも落ち着いていた。

 驚きでも、慌てた慰めでもない。

 まず最初に、その子の“守られるべきもの”を確認する声だった。

 

 少年は顔を真っ赤にし、目に涙を浮かべたまま、かすれる声で答える。

 

「……はい」

 

 その一言を聞いて、ユウコは少しだけ頷いた。

 

「それなら良かったです」

 

 その言い方に、責める色は一切なかった。

 “汚してしまった”ではなく、“あなたが大丈夫ならまずはそれでいい”と伝える声だ。

 

「で、でも……」

 

 少年の目が、ユウコの汚れた制服へ向く。

 自分がやってしまったことへの羞恥と、申し訳なさで、今にもまた泣きそうな顔だ。

 

 だがユウコは、その視線の先をわざと気にしないように微笑んだ。

 

「大丈夫ですよ」

 

 そして、そこでタイミングをぴたりと合わせるように、ナツキが静かに近寄ってきた。

 

 この連携は見事だった。

 

 誰かに呼ばれたわけではない。

 だがナツキは、吐瀉音が聞こえた瞬間から状況を理解し、必要な位置へ最短で入ってきていた。

 走らない。

 慌てて見せない。

 でも、速い。

 

 ユウコは少年から視線を外さずに言った。

 

「私は少し着替えて来ますので、失礼しますね」

 

 その言葉は、周囲へも向けられていた。

 “今から大ごとになるわけではない”と、空気へ伝えるための一言でもある。

 

 ナツキは、入れ替わるようにその席へ腰を落とした。

 

「びっくりしたね」

 

 声は低めで穏やかだった。

 ユウコの明るい柔らかさとは違う。

 だが今のこの子には、その少し静かな温度の方が合っている。

 

「大丈夫。ここからは私が一緒にいるから」

 

 少年は涙を浮かべたまま、何とか頷く。

 ユウコはそれを確認すると、動揺した様子を一切見せず、静かにギャレーへ下がっていった。

 

 その背中を見て、エリンは一瞬だけ言葉を失った。

 

 助けられた。

 

 そう思った。

 

 あの一言がなければ。

 あの落ち着きがなければ。

 客室の空気は、もっと大きく乱れていたかもしれない。

 

 同時に、ユウコの強さが胸へ刺さる。

 服が汚れた。

 身体にもかかった。

 それでも最初に出た言葉が、“自分”ではなく“相手のお召し物は汚れませんでしたか”だった。

 

 そしてナツキとの入れ替わりも、訓練で何度もやった“表に出さない連携”そのものだった。

 ユウコが残れば、本人のケアと自分の処理が中途半端になる。

 ナツキが入ることで、少年は一人にならず、ユウコは汚れの処理と着替えへ回れる。

 しかもその全部が、目立つ騒ぎにならない速度で行われた。

 

 エリンは、ほんの一拍だけ感嘆した。

 そしてすぐにチーフパーサーへ戻る。

 

 今、最優先は客室全体を守ることだ。

 

 エリンは少年の近くへ歩み寄った。

 だが駆け寄らない。

 速く見せない。

 周囲の子達の不安を煽らないためだ。

 

 通路の手前で、動揺して立ち上がりかけた教員へ軽く手を出し、目で「大丈夫です」と伝える。

 ランはすでに後方からその動きを支え、近くの生徒達が過度に見すぎないよう、さりげなく別の話題を起こそうとしていた。ハズキは少し離れた位置で、驚いた顔の生徒へ「びっくりしたよね。でも大丈夫だからね」と小さく声をかけている。サリーは汚れた周辺の導線を、必要最小限の動きで整理し始めていた。

 

 エリンはナツキの横へ来ると、短く、しかし明確に言った。

 

「メディカルルームへ誘導して」

 

「はい」

 

 ナツキは即答した。

 

 その返事の早さに、迷いはない。

 

「立てそう?」

 

 ナツキが少年へ優しく尋ねる。

 

 少年はまだ涙目だが、少しだけ呼吸は戻ってきていた。

 吐いてしまったことで、逆に張りつめていたものが少し切れたのかもしれない。

 

「……はい」

 

「じゃあ、ゆっくり行こうね」

 

 ナツキはそう言って、まず自分の制服のポケットから清潔なハンカチを取り出し、少年の口元と手元へ渡した。

 急がせない。

 でも、止めすぎない。

 そのバランスが絶妙だった。

 

 エリンはその横で、近くの生徒達へ穏やかに声を落とす。

 

「少しだけ通路を空けてくださいね。大丈夫、すぐ整いますから」

 

 その言葉に、周囲の子達ははっとして身体を引いた。

 メノリも、その少し先の席から静かに視線を向けていた。

 スワレは明らかに驚いていたが、メノリが小さく目で制したことで、余計な声を出さずに済んでいた。

 

 少年がナツキに支えられて立ち上がる。

 吐瀉物の処理は後回しだ。

 まず本人を安全な場所へ移す。

 

 その一歩目を見て、エリンはすぐにランへ小さく合図を送る。

 ランが頷く。

 サリーもそれを受け、汚れた周辺の乗客へ一時的に視線と気持ちを散らす役に回る。

 ハズキは遠くから「少し換気の調整入りますね」と、あくまで落ち着いた声で客室の空気を整える方向へ動いていた。

 ミラは前方側で“何かあったのでは”という不安が広がりすぎないよう、教員の一人と短く確認を入れ、前寄りの席の生徒達へ穏やかに笑みを向ける。

 アズサは着替えに下がったユウコの導線を確保し、クミコは一瞬固まりかけたものの、すぐにエリンの視線を受けて自分の位置へ戻った。

 

 誰も止まらない。

 

 それが、エリンには何より頼もしかった。

 

 ナツキが少年を連れてメディカルルームの方へ進む。

 エリンはその背中を一拍見送り、すぐに客室全体へ意識を戻した。

 

 まだ終わっていない。

 むしろ、ここから客室の空気をどう戻すかが本番だ。

 

 だが今の彼女の胸には、確かなものがあった。

 

 ユウコは強かった。

 ナツキとの連携は見事だった。

 そしてこの客室には、崩れそうになっても支え合える乗務員達がいる。

 

 それなら、立て直せる。

 

 エリンはそう確信しながら、次の一手を静かに考え始めていた。

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