リュウジは無言で操縦室の扉を開けた。
雨で濡れた外気が一気に流れ込み、室内の空気がぴんと張る。
「行く」──短い声だけを残して、彼は扉の向こうへ歩き出す。
その背中には、怒りでも哀しみでもない、ただ一点に向かう冷たい決意が宿っていた。
室内に残された者たちは、誰一人として声を発せなかった。
メノリは唇を固く結び、ポルトは眉を寄せ、チャコは小さく「はよ行け」とだけ呟いたが、それは励ましにも見え、諫めにも見えた。
カオルは拳を握りしめ、ベルは黙って空を仰いだ。誰もが胸の奥で何かを抑えている。
その沈黙の重さに、ルナだけが耐えられずに立ち上がった。
「リュウジ!」
彼女は扉の外へ駆け出した。雨で髪が顔に張り付く。足元は滑りやすい岩だが、構わない。リュウジの姿を見つけると、ルナは少し息を切らしながら彼の腕を掴んだ。
リュウジは振り返らない。指先にはわずかに力が入っているのが見えた。
「離せ、ルナ」と、声は低く冷たく響いた。
「ハワードは、必ず助ける」怒りが鎌首をもたげるのを抑えるように、肩だけが震えた。
ルナは顎を引き、真っ直ぐに彼の目を見つめる。声は震えていたが、言葉は確かだった。
「お願い、考え直して。一緒に”考えればきっとなんとかなる筈よ!」
リュウジの目に、一瞬、過去の影が走る。悲劇のフライト、火と煙、取り返しのつかない喪失。
「俺が……俺があの日を終わらせなきゃ、また誰かが──」と彼は低く言った。言葉の端に血が滲むようだった。
「わかってる」ルナは強く頷き、雨粒を振り払うようにして続けた。
「でも、誰か一人が“その役目”を背負うことにしたら、あなたが壊れてしまう。リュウジ、あなたはもう一人じゃない。あなたが一人で背負うって決めるたびに、私たちが壊れるんだよ」
リュウジの肩の力が、ほんのわずかに抜ける。だが、口元は硬い。
「最悪の場合、犠牲は一人の方がいいんだ。多くの仲間を危険に晒すわけにはいかない」
ルナは彼の腕を更に強く握った。雨音が二人の言葉を包み込む。
「そうやってまた、“一人でなんとかする”って言う。あの日から何も変わってない。リュウジ、あなたは変わったって私は見てる。仲間を信じられるようにもなった。だから、お願い、皆んなで考えよう」
ルナの声は次第に熱を帯び、瞳に光が宿った。彼女の手のひらに伝わる彼の脈拍を確かめながら、彼女は続ける。
「ハワードを取り戻すんでしょ? でも、それは“あなたが死ぬこと”で成し遂げるものじゃない。私たち皆でやるべきこと。リュウジ、あなたが一人で行って、もしものことがあったら……残された私たちがどうする? 私、嫌だよ、そんな終わり方。あなたがいなくなるの、絶対に嫌だ」
リュウジの目が揺れた。拳の白さが変わる。彼の胸の中で、何かが軋んで崩れそうになるのが見て取れた。
「ルナ……」と、彼はかすかに唇を震わせた。言葉がごく短く、しかし熱を帯びる。
リュウジの頬に、雨が一粒落ちた。彼はその雨粒を見つめ、やがてゆっくりと大きく息を吐いた。
拳の力が抜け、ルナの手の中に腕を任せるようにして、彼は小さく首を振った。
「……お前は本当に、変わらないな」
苦笑いを浮かべるその表情には、怒りよりも安堵が滲んでいた。
「分かった。作戦を立てよう」
ルナは目を見開き、一つ息を吐いた。
「ありがとう、リュウジ」
リュウジはそれからゆっくりと向き直り、操縦室の方を見た。背中はまだ冷たく堅かったが、雨の中のその姿には、どこか安心が混じっていた。二人は互いの手を握り合い、短い沈黙の後、静かに戻って行った。
操縦室に入ると、皆が息を呑んで見つめていた。ルナは小さく合図をし、リュウジは無言でうなずく。
メノリが口を開く前に、ポルトが低い声で言った。
「よかろう。準備は任せんか。ワシも手を貸す」
外の雨は止み、雲の隙間から薄い光が差し込んでいた。運が傾いているなら、今はその傾きを味方に変えるしかない──皆の顔に、決意が灯る。
⬜︎
操縦室の簡易作戦盤に、泥で擦った地図が置かれた。灯りは薄く、外の雨で湿った空気が重い。全員が輪になり、メノリが声を絞り出すように計画を読み上げた。
「まず前提を確認する。救出チームは――ルナ、ベル、メノリ、カオル、リュウジの五名だ。到着地点は東の森と滝の境、滝の下の岩場。脱獄囚たちはそこでハワードと接触する。いいな?」
メノリはゆっくりと、命令口調だが冷静に続ける。
ルナが力強く頷く。
「ええ、私たちでハワードを取り戻す。無駄な衝突は避けたい。」
ベルは小さく息をついて言った。
「俺も問題ない」
カオルは黙って地図を指差す。短く「了解」とだけ告げた。表情に余計な感情はない。
リュウジは地図を見下ろし、低い声で確認する。
「位置取りは俺たちの前方を塞がないように。滝の前で姿を見せずに、脱獄囚に武器を置かせる──そのタイミングを合わせる」
メノリが手を合わせて指示を細分化する。
「手順を箇条書きで。まず一、脱獄囚が滝下に到着したら、我々は姿を見せずに待機する。二、彼らが滝下に降りたら、レーザー銃と電気ウィップを地面に置かせる。三、数歩前に進ませたところで私が姿を現す。『ハワードを先に渡せ』と要求する。四、もし動いたら、その場で姿勢制御ユニットは川に落とすと宣言する。いいだろう?」
「うん、それで行こう」ルナは言葉に迷いなく頷いた。顔には引き締まった決意がある。
カオルが低く呟く。
「こっちは滝の裏の洞窟から静かに近づく。レーザー銃と電気ウィップの奪取は俺がやる。動きを見て合図を出す」
メノリはさらに細かく配置を指示した。
「私が正面に出るときの位置取りはこうだ。リュウジ、あなたは私の側で牽制を担当する。ルナ、ベルは援護に回れ。ルナは撤退判断権を持つ。カオルは奪取後すぐに合図、全員で川に飛び込んで対岸へ撤退。川は流れを確認済みだ。対岸で集結、そこから更に離脱だろう」
リュウジが頷いた。
「受け渡しは一瞬、手渡しじゃなく『見える場所に置かせる』形にする。取りに来たら、即撤退だ」
ベルは静かに拳を握りしめる。
「荷物は最低限、流されても良いように縛る。治療具はすぐ使えるようにしておく」
ルナがメンバーを見渡し、最後に声を張った。
「もし交渉が破綻したら、誰かを囮にして長引かせるなんてしない。全員で撤退する。誰か一人に任せるんじゃない、みんなで動くの。私たちでハワードを取り戻すのよ」
メノリは鋭く頷いた。
「わかっている。指示は私が出す。だが実行は全員だ。動いたらメモリーは川に落とす、という脅しは私が行う。それで彼らが油断して武器を置けば、カオルが奪う。速やかに、かつ冷静に行動しろ。いいか、皆」
チャコがいつもの関西弁で励ますように叫ぶ。
「ウチらで息を合わせたら、どないかなる!」
シャアラは緊張した声で言う。
「私、外で待機して負傷者の手当てをする。誰か怪我したらすぐ連れてくるから」
ハワードの名を出すと、皆の表情に一層の緊張が走ったが、同時に一列に並ぶような確かな連帯感が生まれた。
メノリが最後に、短く命令調でまとめる。
「では、最終確認。到着したら姿を見せず待機。武器を置かせ、数歩前に来させる。私が出る。『ハワードを先に渡せ』と命じる。動いたらユニットを川へ落とすと脅し、カオルが滝裏洞窟から静かに接近、武器を奪取。奪取完了の合図で全員が川へ飛び込み、対岸へ移動。ルナ、撤退判断は一任する。いいか、皆、怯まず、だが慎重に」
全員が一斉に頷いた。小さな声でそれぞれが自分の覚悟を確認する。外は晴れ間が差し始め、滝の水音が低く響く――光が戻れば、相応の危険もまた戻る。だが、作戦は固まった。互いに背中を預け合う約束が、静かに空気を満たした。
⬜︎
滝の下。空はまだ薄暗く、岩場にしみ込んだ朝露が冷たく光る。
ルナたちは昨夜の通りに身を隠していた──カオルは滝の裏の洞窟へ、メノリとリュウジは同じ岩陰に、ベルとルナはその後ろの岩にしずかに潜む。息は殺し、鼓動だけがやけに大きく耳に響いた。
東の空がじわりと白みを帯び、空気が凍りつくように静まった瞬間、崖上に四つの影が現れた。
ロープで両手と胴を縛られているハワードの姿を見つけると、ルナは胸をなでおろした。無事だ――その安堵はひとときのものだった。
だが、次の瞬間ベルが焦りの声を上げた。
「洞窟の方に向かってるぞ!」
「やはり、リュウジの意図を理解していなかったか」とメノリが低く言った。
あえてリュウジが「ロープを降りた場所」と言ったのは、洞窟側から奇襲するためだった。
それに気づかず、ハワードが洞窟の方向へ歩いていくのを見て、全員の胸が冷えた。
しかし、ハワードが何かを思い出したように足を止め、向きを変え、ロープの方に歩き出した。
「ちゃんと気づいたみたいね」とルナが呟いた。
⬜︎
脱獄囚たちが滝下に降りると、その巨大な東の森を見上げ、三人は驚きつつ苛立ちを露わにした。
「どこにいやがる! 日の出の時刻はとっくに過ぎてるぞ!」とボブが声を上げる。
メノリは視線で一息合図を送ると、思い切って叫んだ。
「ここにいる!」
「姿を見せろ」ブリンドーの低い声が響く。
「お前たちが武器を持っていることは分かっている。おいそれと出て撃たれるわけにはいかない」
沈黙の後、メノリはさらに言葉を重ねた。
「レーザー銃と電気ウィップを地面に置け」
ボブが怒気混じりに取り上げる。ハワードの首に手をかけ、脅す。
「何を! 今すぐこのガキを殺したって構わないんだぜ!」
メノリの語気は強まる。
「ならば姿勢制御ユニットを破壊する」
「落ち着け、ボブ」ブリンドーが静かに制した。
「いいだろう。武器は置く」
シルヴァが訝しげにブリンドーを見上げる。
「いいの? ブリンドー」
「構わん、こっちにはまだ手がある」
ブリンドーとシルヴァ、ボブが地面に武器を置いた。
「これで満足か?」
ブリンドーが宥めるが、メノリは一歩も引かない。さらに命じる。
「そこから前に歩いてこい」
しばしの応酬のあと、ブリンドーは渋々命令を通す。シルヴァが不敵に笑いながら数歩前に進み、動きを止める。
「これでいいだろう!」とブリンドーが声を張ると、メノリが岩陰から姿を現した。
ハワードがか細く「メノリ〜」と漏らす。ロープに縛られた足取りはぎこちないが、表情には安堵の色がある。
「姿勢制御ユニットは?」とブリンドーが迫る。メノリは右手で背中からユニット(偽物)を取り出して見せつけた。
「本物かい?」とシルヴァが疑う。ボブが一歩詰めるその瞬間、メノリは冷たく宣言する。
ボブが一歩近づこうとした瞬間、メノリが叫んだ。
「動くな! 一歩でも動いたら、川に捨てる!」
「ハワードをこっちへ!」
ブリンドーが舌打ちし、ボブに合図した。
ボブがハワードの背を押す。
縛られたまま、ハワードはふらつきながらメノリに近づく。
その時――。
ブリンドーは背後に何かを感じた。
反射的に振り返る。
「どこに隠れてやがった!!」
洞窟から静かに近づいていたカオルの姿が、視界に入った。
カオルはすぐに飛び退き、放たれた金属針が背後の岩に突き刺さる。
隙を突いてシルヴァとブリンドーが武器に襲いかかる。
「レーザー銃だけは取らせるか」とカオルは弓を手早く引き絞り、ブリンドーめがけて放つ。矢は寸前で躱されるが、その一瞬でシルヴァが電気ウィップに手をかけた。事態が急転する。
「ハワード、川に飛び込んで!」とルナが叫ぶが、縛られたハワードは状況を把握できず、動きが止まる。ボブがハワードに近づこうとしたとき、ベルの投げた槍がズボンを貫き、ボブの足を止めた。槍は地面に深く刺さり、ボブは呻いて動けない。
「急いで!」ルナが矢をシルヴァめがけて放つが、シルヴァは躱してなお電気ウィップを振る。ウィップは腰に巻き付き、激しい電撃が走る。ルナはハワードをかばい、悲鳴を上げた。痛みによろめくが、ルナは踏ん張る。
「ルナ!くそ!」
メノリは歯を食いしばり、姿勢制御ユニットを空へ放り投げた。
ボブとシルヴァの視線がそちらに釘づけになる。
「うおぉぉお!!!」
ベルが咆哮を上げながら、ルナとハワードを押し込むようにして川に飛び込んだ。
「このガキが!」シルヴァが針を放ち、ハワードの臀部に命中する。
「ぐあっ!」
「苦しみながら死ね!」シルヴァは笑いながら走る。
ボブを追い抜いていく。だがシルヴァの身体は速い。ユニットをキャッチし、走り去ろうとしたその瞬間、メノリが躊躇なく川へ飛び込んだ。
事態は一気に混沌と化した。カオルも弓を収め、滝裏から飛び込んで対岸へ泳ぐ。ルナとメノリは水の冷たさに耐えながら、ハワードを必死に支える。対岸に到着した瞬間、背後でガラガラと岩が崩れる音がした。ブリンドーがレーザー銃を構え、対岸の岩陰から低くつぶやくように言った。
「そこも射程距離だ」
ブリンドーの顔には怒りと興奮が混じっている。シルヴァは残虐な笑みを浮かべ、ボブは偽物を握りつぶして憤る。レーザー銃の照準は、ルナのこめかみへと向けられた。銃声が一閃すれば、すべてが終わる。
だがその瞬間、「ゴンッ」という硬い衝撃音が響き、レーザー銃と黒曜石のナイフが同時に地面へ落ちた。リュウジの投げたナイフがレーザー銃に当たり、銃の照準が逸れたのだ。
朝日の光を背に、リュウジが岩陰から現れた。
「次、会った時は容赦しないんじゃなかったのか?」
不敵な笑みを浮かべるリュウジ。
ルナは息を呑んだ。
彼の背に射す光はまるで救いのようだった。
「ベル、槍を」
ベルは無言で投げる。
リュウジは視線を逸らさずにキャッチした。
「お前らは先に行け」リュウジが命じる。メノリが即座に指示を飛ばす。
「ベルはハワードを。カオルはルナを背負え!」
カオルは躊躇なくルナを抱え上げ、暗闇を背に森の中へと走り出す。ベルはハワードを担ぎ、その後を追う。メノリは血の気の引いた表情のまま殿を務めた。
「誰かを残すなんてダメだって言ったじゃない!」ルナは息が荒く、だが必死に叫んだ。カオルは振り返らずに走る。
「すまない、ルナ。今はリュウジに賭けるしかないんだ」カオルの声は短く、決然としていた。
メンバーは森の奥へと散っていく。背後の岩陰にはブリンドーが立ち、冷たい笑みを浮かべる。
「ガキどもに本当の恐怖を教えてやろうかね」シルヴァが楽しげに呟く。ボブは偽物を握りつぶし、怒りで震えている。
背に負われながら、ルナは振り返る。
滝のしぶきの向こうに立つリュウジの姿。
その瞳は鋭く、炎のように燃えていた。
――「生きて、帰ってきて。」
ルナの小さな呟きは、滝の轟音に溶けていった。
⬜︎
滝壺の音が響く。
霧を含んだ風が流れ、岩肌を打つ水飛沫が空気を震わせていた。
太陽は雲に隠れ、淡い灰色の空が広がっている。
森の奥へ消えたルナたちの足音が、ようやく遠ざかる。
リュウジはその場に立ち尽くし、静かに息を整えた。
逃げ切るまで、少しでも時間を稼がなければならない。
滝の轟音が響く中、リュウジはわずかに身を低くして三人を見据えていた。
彼の足元を水が流れ、光が滝に反射して揺らめく。
「……チッ、生意気なガキだ」
ボブが吐き捨て、また一歩、前に出る。
その筋肉質な肩が上下に揺れ、地面を踏むたびに土が弾けた。
「おい、やめとけ」
ブリンドーの声がしたが、ボブは聞いちゃいない。
「いいだろ? 少しくらい痛い目に遭わせても。なあ、ブリンドー」
「好きにしろ。ただし殺すな。利用価値はある」
その一言に、リュウジの瞳がわずかに光を帯びた。
「利用価値……ね」
小さく呟いた声は、滝の音に紛れて消えた。
ボブが突進した。
巨体が風を切り裂き、リュウジの目前に迫る。
だがリュウジは構えを崩さない。動じず、ただ観察する。
次の瞬間、ボブの拳が地面を砕いた。
そのわずかな隙に、リュウジの足がほんの数センチ、右へずれた。
ボブの巨腕が空を切る。
勢いのまま足を取られ、体勢を崩したボブは泥の上を転げ、ブリンドーたちの足元に戻る。
「て、てめぇ……!」
息を荒くしながら起き上がるボブを、ブリンドーが押さえた。
「下がれ。相手が悪い」
ブリンドーはレーザー銃を構えた。
狙いを定め、引き金を引く――。
閃光が走り、空気が焦げる。
その弾丸がリュウジの頬をかすめ、細い焦げ跡を残した。
煙が立ち上る中、リュウジは目を細めた。
「……お前、レーザー銃、下手だな」
その言葉に、ブリンドーの表情が凍る。
リュウジは静かにこめかみを指で叩いた。
「狙うなら――ここだ」
「……ほぅ」
ブリンドーの口元に笑みが浮かぶ。
「面白ぇ。じゃあ、その通りにしてやろうか」
引き金が引かれた。
しかし、その光弾はリュウジの頬を再び掠めただけだった。
彼の体はまるで風そのもののように滑らかに動き、弾道を見切っていた。
「なっ……!」
ブリンドーの声に、わずかな焦りが混じる。
「何者だい、あんた……?」
シルヴァが警戒の声を漏らす。電気ウィップを手に、目を細めている。
リュウジは答えない。ただ、静かに視線を向けるだけだった。
その瞳の奥には、氷のような冷たさと、どこか哀しげな光が宿っていた。
「油断するな」
ブリンドーの低い声が響く。
「こいつは……“悲劇のフライト”の、パイロットだ」
その言葉に、シルヴァとボブの顔色が変わった。
「……へぇ、あのフライトの?」
シルヴァの口元に薄笑いが浮かぶ。
「じゃあ、お前が――あの時のガキか」
リュウジの指がわずかに動いた。
だが、攻撃の構えではない。
ただ、心の奥に沈む何かを抑え込むように、拳を握り締めただけだった。
「そうだ。お前たちのせいで、あの日……全部が終わった」
静かな声。
だが滝の音を押し返すほどの重さがあった。
「終わりじゃないさ」
ブリンドーの唇が歪む。
「始まりだったんだよ。お前がこうして、生きて地獄を見るためのな」
空気が張り詰める。
滝の水飛沫が光を受けて散り、音が遠のいた気がした。
リュウジはただ静かに、彼らを見据えていた。
――戦うためではない。
仲間を守るために、ここに立っている。
「……もう一度言う。油断するな」
ブリンドーが呟き、再びレーザー銃を構えた。
今度こそ、殺意がこもっている。
だがリュウジの瞳には、恐怖はなかった。
ただ、凪いだ海のような静けさと決意が映っていた――。
⬜︎
滝の轟音が響き渡る中、ブリンドーの冷たい笑みが広がった。
「……シルヴァ、やれ」
その合図と同時に、シルヴァの指先が動く。
瞬間――。
バチィィッ!
青白い閃光が夜明けの空気を裂いた。
電気ウィップが唸りを上げ、蛇のようにリュウジへと襲いかかる。
「消し炭にしてあげる!」
シルヴァが叫び、鞭が地面を叩くたびに土が爆ぜ、焦げた匂いが漂った。
だが――リュウジは一歩も動じない。
電気ウィップが彼の肩をかすめた瞬間、彼は体をひねり、風のように後方へと滑る。
髪先を掠める閃光。
その動きには焦りがなく、まるで攻撃の軌跡を読むかのようだった。
「ちょろちょろと……!」
シルヴァの眉が吊り上がる。
左の腕を翻し、袖口から小さな機構が展開される。
カチリ、と音を立て、細い針が数本、装填された。
「逃げられると思う?」
微笑んだ次の瞬間、**シュッ!**と音を立てて毒針が放たれた。
光を反射しながら幾本もの針がリュウジを襲う。
リュウジは地面に手をつき、身を低く沈めた。
その動きは滑らかで、一本、また一本と針が彼の背後の岩に突き刺さっていく。
毒が岩肌を焦がし、白い煙を上げた。
「……やるわね」
シルヴァの瞳に光るのは、怒りではなく、獲物を仕留める悦び。
「でも次は――外さない!」
再び、ウィップが唸りを上げる。
同時に、ボブが突進した。
「こいつは俺が仕留める!」
リュウジの視線が一瞬だけボブに向く。
だが、彼の体は動かない。
次の瞬間、電気ウィップが空を裂き、ボブの腕をかすめた。
「うおっ!? おい、どこ狙ってんだシルヴァ!」
「うるさい! 前に出ないでよ!」
そんな二人のやり取りの隙を縫って、リュウジは一歩、後退する。
だがその足取りには逃走の気配はない。
――誘っている。
滝壺の飛沫が彼の頬を濡らし、陽光が差し込み始める。
その姿はまるで、嵐の中に立つ影のようだった。
「……リュウジ」
ブリンドーが呟く。
「お前、何を考えてやがる」
リュウジはわずかに口を開いた。
「考えるまでもない」
静かな声だった。
「俺はもう――誰も失いたくない。それだけだ」
その言葉が、風に流れた。
ブリンドーの表情がわずかに歪む。
「悲劇のフライトの時もそう思ってたか?」
リュウジの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
滝の音が遠ざかる。
頭の奥で、あの日の記憶――
炎と、崩壊と、叫び声がよみがえる。
「……あの時は、守れなかった」
リュウジは呟いた。
「でも今度は違う」
「甘いな」
ブリンドーが唇を歪め、レーザー銃を再び構える。
銃口が、真っすぐリュウジの胸元を狙った。
「もう終わりだ」
「終わりかどうかは、お前が決めることじゃない」
静かに言い放つリュウジ。
滝の水音が一層強く響き、光が彼の横顔を照らした。
ブリンドーの口元が歪んだ。
「終わりだ、リュウジ!」
言葉と同時に、レーザー銃の閃光が空を裂いた。
光線が岩肌を焼き、リュウジの頬をかすめ、焦げた匂いが漂う。
――速い。でも、狙いが甘い。
リュウジはわずかに目を細め、冷静に体をひねって距離を取った。
頬を伝う血を拭いながら、口角を上げる。
「クソガキがぁぁ」
ブリンドーの怒声と同時に、シルヴァが動いた。
右手のウィップが唸りを上げ、電撃が夜気を裂いた。
バチィィン!
鋭い閃光がリュウジのすぐ横を走り、焦げた草が煙を上げる。
同時に――彼女の左腕の機構が開き、細い毒針が連射された。
「チッ……!」
リュウジは瞬時に身を翻した。一本、二本……三本目。
避けきれず、針が右腕と脇腹、太腿に突き刺さった。
焼けるような痛みが走る。
血とともに、痺れがじわじわと広がっていく。
――神経系を狙うタイプか。
リュウジは顔を歪め、右手で針を抜こうとした。だが、指先が震え始めている。
呼吸を整えようとする彼に、さらに追い討ちがかかる。
「今だ、ボブ!!」
ブリンドーの声。
それに応じるように、ボブが地面を蹴った。
「死ねぇぇぇっ!!」
巨体が地鳴りを上げて突進してくる。
リュウジは寸前で体をひねったが、毒の影響で反応が遅れた。
ドンッ!
ボブの肩が腹にめり込み、体が宙を舞う。
背中が巨木に激突。鈍い音が響く。
「ぐっ……!」
視界が白く弾け、呼吸が止まりそうになる。
「ざまぁみろ!」
ボブが勝ち誇ったように叫ぶ。
だがその瞬間――
ボブの額部のサイボーグ装甲がピシリとひび割れた。
「な……!」
ボブが驚きに眉をひそめる。
木の衝撃で自分の強化装甲にヒビが入ったのだ。
「……ふっ、サイボーグでも壊れるんだな。」
リュウジが低く笑う。
だがボブの表情が一変した。
「このガキィィィ!!」
怒りで顔を真っ赤にし、地面を踏み鳴らす。
金属音を響かせながら、ボブは再び突進の体勢を取った。
ブリンドーがそれを制し、冷ややかに言う。
「まあいい……三対一にしては、よく頑張ったもんだ。」
リュウジは肩で息をしながらも、静かに笑った。
「……所詮、三対一だ。」
ブリンドーが眉をしかめる。
リュウジは空を見上げ、滝の音の向こうに聞こえる風の音を確かめた。
――もう、時間は稼げた。
次の瞬間、リュウジは滝壺へと走り出した。
「逃がすな!」とブリンドーの怒声が飛ぶ。
レーザーの閃光が再び走るが、リュウジの体は滑るように躱した。
そして、走りながら腰の黒曜石のナイフを抜く。
彼は振り向きざまにナイフを放った。
キィン!
黒曜石の刃が閃光を裂き、ブリンドーのレーザー銃の照準部に突き刺さった。
「なっ……!」
リュウジは一瞬だけ振り返り、薄く笑う。
「こうやって狙うんだよ。」
そのまま滝壺へと身を投げた。
冷たい水飛沫が舞い、彼の姿は霧の中に消えた。
⬜︎
遺跡の入り口に足音が近づく音が響いた。
湿った空気を押し分けて姿を現したのは、全身ずぶ濡れで泥と血にまみれたリュウジだった。
その顔には疲労が刻まれているが、瞳は鋭く、まだ光を失っていなかった。
「リュウジ!」
待っていたシャアラが駆け寄る。彼女の手には、藻を溶かしたランタンが淡く光っていた。
「……無事、だったのね」
「なんとか、な」
短い返答。だが、その一言にすべての重みが込められていた。
二人が遺跡の奥へ進むと、金属の壁が湿っている。
空気は冷たいが、静電気のような微光が床の溝を走っていた。
仲間たちは中央の円形ホールに集まり、ハワードは毛布に包まれて眠っている。
「よし、解毒は進んでおる。毒素は抜けたはずじゃ」
「ポルトさん……ありがとうございます」
ルナの声が震えていた。
「この子は運がええ。針が浅かったのと、わしの薬がまだ残っとった」
老人はひげを撫でて言い、リュウジをちらりと見た。
「おぬしも、よく戻ってきおったな。まったく命知らずじゃ」
ルナが振り向いた。
リュウジの姿を見た瞬間、その表情が凍る。
「そんな……リュウジ、傷が……!」
彼の腕や肩には浅い切り傷、そして毒針が二、三本刺さったままだ。
「ちょっと、動かないで!」
ルナが慌てて近づく。
「もう抜けてる。毒は効かない」
「でも――」
「S級パイロットは毒性への抗体を植え付けられてる。心配いらない」
淡々とした口調に、ルナは息を詰めた。
「それでも、血が……!」
彼女が手を伸ばそうとした時、メノリの声が飛んだ。
「ルナ、焦るな。まずは衛生を確保するんだ。シャアラ、水を用意してくれ」
「わかったわ」
シャアラが水の入った容器を持ってくる。
「俺は布を裂いてくる」
カオルが黒曜石のナイフを使って布を裂き始めた。
「ウチも手伝うで!」
チャコが軽い足取りでそのあとを追う。
「僕も手伝うよ」
シンゴが走り出し、アダムもその背中を追った。
「……わしは休憩じゃな。年寄りは腰が痛くてたまらん」
ポルトは冗談めかして腰をさすり、笑みを浮かべる。
ルナは静かにリュウジの前に膝をついた。
「……ごめんね」
その一言に、リュウジは眉をひそめる。
「てっきり怒鳴られると思ったんだが」
「怒らないわ」ルナは首を振った。
「結局、最後はあなたに頼っちゃった。撤退は“全員で”って、私が言ったのに……守れなかった」
湿った空気の中、金属の壁が冷たく響く。
リュウジは少し間を置き、かすかに笑みを浮かべた。
「怖かっただろ。よく頑張ったな」
その手が、そっとルナの頭に触れた。
力強くも優しい手のひら。ぽん、ぽんと二度。
「……っ」
ルナは俯き、声を詰まらせた。
目の奥が熱くなり、視界が滲む。
「生きて帰ってきてくれて……ありがとう」
それは、涙に滲んだ声であった。そして、その表情は、泣き顔と笑顔の中間だった。
「リュウジ」
カオルの声がした。戻ってきた彼は裂いた布を差し出す。
「包帯、巻いとけ」
「ふん、心配性だな」
「お前が無茶するからだ」
そしてベルが来て、小さな光球をランタンに注ぐと、淡い青光が遺跡の壁を照らした。
「これで少しは明るくなるね」
「ありがとう、ベル」ルナが微笑む。
「……ハワードも落ち着いたし、今夜は休めそうだな」カオルが呟く。
「そうじゃ。若いもんは寝とけ。夜明け前にゃ空が明るうなる」ポルトが笑う。
ルナはその光景を見渡した。
――自分たちは、確かにここまで生きてきた。
命を賭け、涙を流し、それでも仲間でいる。
⬜︎
夜。
遺跡の中は、しんとした静けさに包まれていた。
壁の模様に沿って、かすかに光の筋が流れ、青白く波打つように床を照らしている。
外では風が木々を揺らす音が微かに響き、遠くで水の滴る音が繰り返されていた。
仲間たちはそれぞれの場所で眠りについていた。
メノリは地図を胸に抱え、カオルは壁際で警戒しながら目を閉じている。
シャアラは小さな布をアダムの肩にかけ、チャコは静かにその隣で丸くなっていた。
ポルトはハワードの様子を見守りながら、いつの間にか机にもたれて眠っている。
そしてシンゴは遺跡の端に置かれた通信装置の近くで、眠るようにうたた寝していた。
ルナは一人、遺跡の中央にいた。
そこにはリュウジがいた。
背を金属の壁に預けたまま、上半身を少し傾け、深く眠っている。
腕には包帯が巻かれ、破れた服の隙間から覗く皮膚に、まだ戦いの痕が残っていた。
ルナはそっと彼の傍にしゃがみ込んだ。
毛布を取り出し、音を立てないようにその肩にかける。
微かな呼吸音が聞こえるたびに、彼が確かに生きていることを感じた。
「……ほんとに、無茶ばかりするんだから」
小さく呟いて、ルナは苦笑する。
その表情には安堵と、少しの哀しさが混ざっていた。
目の前のリュウジの寝顔は、いつもと違っていた。
険しさが消え、年相応の静けさをたたえている。
その顔を見ていると、不思議と胸があたたかくなった。
「ありがとう、リュウジ……」
声にならないほどの小さな囁きが、遺跡の空気に溶けた。
ルナは膝を抱え、静かに今日を思い返す。
脱獄囚たちとの戦い。
作戦が崩れ、ハワードが囚われ、恐怖で足がすくんだあの瞬間。
それでも――リュウジは最後まで冷静だった。
仲間を逃がすため、自分を犠牲にしてまで時間を稼いでくれた。
あの瞬間、ルナは痛いほどに思い知った。
自分がどれほど彼に頼っていたのかを。
――「怖かっただろ、よく頑張ったな」
思い出しただけで、胸の奥が熱くなる。
その優しい声が、まだ耳に残っていた。
「……怖かったよ」
ルナは小さく呟いた。
「でもね、みんながいたから……。あなたが、いたから……私は、逃げなかった」
彼女の瞳に、淡い光が宿る。
涙ではなく、今は静かな決意の光。
ふと見ると、リュウジの手が微かに動いた。
寝言のように、彼が何かを口にした。
「……ルナ……無事で、よかった……」
その言葉に、ルナの胸が一瞬震えた。
「うん……。みんな、無事だよ」
答える声は、彼の眠りを妨げないように柔らかかった。
遺跡の天井の光が、ゆっくりと弱まっていく。
ルナは立ち上がり、ランタンの火を細める。
静かにもう一度、リュウジに毛布を直してかけた。
彼の額にかかる髪が少し濡れていた。
ルナはためらいながらも、指先でその一筋をそっと避けた。
「おやすみ、リュウジ」
その言葉は、夜の遺跡に消えていった。
そしてルナは壁にもたれ、リュウジの隣で膝を抱えたまま、目を閉じた。
微かな振動が床を伝い、どこかで遺跡がゆっくりと息をしているように感じた。
――長い一日が、ようやく終わった。
だが、明日はまた、新しい戦いが始まる。
それでも今は、この静けさの中で。
仲間の息遣いと、リュウジの穏やかな寝息を聞きながら。
ルナは、初めてほんの少しだけ、心から安心して眠りについた
⬜︎
薄い朝靄が漂い、遺跡の外は静寂に包まれていた。
夜の名残を溶かすように、淡い陽光が東の森の上から射し込み、湿った石壁をゆっくりと照らしていく。
風がひとすじ流れ、木々の葉を微かに揺らした。
その中で、リュウジは一人、外気を吸い込むように深く息をついていた。
体の傷はまだ痛むが、動くには支障ない。毒もすでに体内から抜けている。
彼は遠くの空を見上げながら、どこか思索に沈んでいた。
そのとき、遺跡の入り口から小さな足音が近づいてくる。
振り向くと、そこに立っていたのはハワードだった。
寝ぐせのついた金髪、どこかまだ眠そうな表情。だが、その瞳には迷いの色があった。
「……リュウジ」
呼びかける声は震えていた。
リュウジはゆっくりと振り返る。
「どうした、ハワード。まだ休んでてもいい時間だぞ」
そう言いながらも、リュウジの声は穏やかだった。
ハワードは少し唇を噛み、視線を落としたまま小さく首を振る。
「僕……どうしても、今、言わなきゃって思って」
「言わなきゃいけないこと?」
リュウジの問いに、ハワードは拳を握りしめた。
その指先が震えている。
僕が、避難シャトルの“切り離しボタン”を押したんだ」
ハワードの声は小さかった。
それでも、はっきりと届く。
「……あの時、皆んなが止めてくれたのに、操縦席でふざけて、ボタンを押しても何にも起きないと思ってた。」
彼の拳が震え、唇を噛む音が静寂に響いた。
リュウジは目を細め、ハワードをじっと見つめた。
その表情は怒りでも軽蔑でもなかった。むしろ、どこか遠くを見つめるような穏やかさがあった。
ハワードは続けた。
「……あの事故のあと、僕、ずっと怖かった。
みんなに嫌われるのが、怖くて。
だから冗談ばっか言って……バカやって……。でも、本当は、ずっと心の中では、謝りたくて……。
でも今の僕にとって、みんなは……大切な家族なんだ。
やっと出会えた仲間なんだ……!」
ハワードは頭を深く下げた。
「本当に……ごめん」
その言葉に、長い沈黙が流れた。
森の鳥が一羽、鳴き声を上げる。
リュウジはゆっくりと歩み寄り、ハワードの肩に手を置いた。
「……そうか」
低いが、優しい声だった。
ハワードが顔を上げると、リュウジは穏やかに笑っていた。
「お前も……俺も、恵まれてるな」
「え……?」
「誰だって、間違える。でも――仲間がいる。
謝ることも、守ることもできる。それって、すごいことだと思うよ」
リュウジは少しだけ空を見上げた。
薄い雲の切れ間から、朝日が覗いている。
「……もう、自分を責めるな。過去は消せないけど、これからどうするかは自分で決められる」
そう言うと、彼はゆっくりと遺跡の階段を降り始めた。
「リュウジ……」
ハワードが呼び止めようとする。
だが、リュウジは背を向けたまま振り返らずに言った。
「朝の空気はうまいな。……お前も来るか?」
一瞬、ハワードは何も言えなかった。
胸の奥がじんと熱くなる。
涙をこらえながら、彼は笑みを浮かべてうなずいた。
「……うん」
二人の背に朝日が差し込む。
冷たい風が頬を撫で、遠くでルナの声が聞こえた。
「リュウジ、ハワード! 朝ごはんできたよ!」
その声に、二人は同時に顔を見合わせ、少しだけ笑った。
そして、光の射す方へ、ゆっくりと歩き出した
⬜︎
遺跡の天井の裂け目から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。
湿った石の床には夜露の冷たさがまだ残り、吐く息がほんのり白い。
カオルは夜明けと同時に出発しており、その姿はもう見えなかった。
仲間たちは、遺跡の中央に石を積んで作った即席の「調理台」を囲んでいた。火は焚かれていないが、温めた石に乗せた焼き網の上では、昨夜の残りの魚の切り身がじりじりと焼かれている。
ベルが焙った月梨の皮をめくりながら言った。
「……やっぱり、こうやって食べる朝は落ち着くな」
彼の口調は穏やかだったが、どこか疲労が滲んでいた。
その隣で、メノリが腕を組みながら周囲を見渡す。
「今日は外に出るのは最小限にしたほうがいいだろう。カオルが戻るまでは、下手に動くべきじゃない」
チャコが石の上で魚をひっくり返しながら、尻尾をぴくりと動かした。
「ウチもそう思うわ。あの脱獄囚ら、どんな動きしとるかわからへんもん」
アダムはそのやり取りをじっと見ていたが、ふと手を伸ばして、焼き上がった魚を少しだけ口に運んだ。
「……あつい。でも、おいしい」
その素朴な一言に、場が少しだけ和んだ。
ルナは皆の様子を確認しながら、石の器に注いだ果実汁を配って回る。
その横で、リュウジは黙って座り、片腕に包帯を巻いたまま静かに空を見ていた。
ルナはその姿に一瞬だけ視線を止めたが、何も言わずに隣へ座る。
「……痛まない?」
小さな声で尋ねると、リュウジは首を横に振った。
「もう平気だ。それより、お前こそ寝たのか?」
「うん……少しだけ」
「ならいい」
その短い会話のあと、しばし沈黙が流れた。
リュウジはさっきまで起きていたハワードが毛布に包まって、眠りについている姿を見て呟いた。
「ポルトさんの薬、効いたんだな」
ポルトは焚き石の向こう側で器具を拭きながら、ニヤリと笑う。
「そりゃあ当然じゃ。ワシがいなければ、ハワードは今頃、青い顔して寝とったわい」
その言葉に、ルナは思わず笑った。
「ふふっ……本当に、ポルトさんがいてくれて良かった」
「まったくじゃ。年寄りを軽く見るもんじゃないぞい」
その笑い声の隣で、ハワードが布団代わりの毛布にくるまりながら寝息を立てていた。
顔はまだ青白いが、安らかな寝顔だ。
ルナが見つめると、シンゴが隣から顔を覗かせた。
「昨日は……怖かったね、ルナ」
「うん……でも、みんながいたから大丈夫だったよ」
「リュウジがいなかったら、どうなってたか分からなかったけどね」
その言葉に、リュウジは軽く肩を竦めた。
「……余計なこと言うなよ、シンゴ」
「へへっ、ごめん。でも本当のことだよ」
メノリが立ち上がり、皆に目を配る。
「今日はこのまま遺跡に滞在して、体を休める。
カオルが戻ったら今後の動きを決めよう」
その言葉に皆が頷く。
ポルトは魚を一口食べながらうなるように言った。
「ワシらがこうして穏やかに飯を食うのも、リュウジが時間を稼いでくれたおかげじゃな」
ルナはその言葉に反応して、リュウジの顔を見つめる。
だが彼はただ、焼き魚の切れ端を器に乗せ、淡く笑った。
「……みんなが無事なら、それでいい」
シャアラが柔らかく笑いながら言葉を添える。
「ねえ……この味、なんだか懐かしいね」
「うん。焦げてるけど、あったかいね」とアダムが微笑む。
誰もが疲れていたが、確かな安堵がそこにあった。
外では鳥の声が響き、風が遺跡の天井を抜けていく。
原始の世界の中で、彼らは再び小さな日常を取り戻しつつあった。
⬜︎
昼前、遺跡の外から足音が響いた。
それは規則的で、警戒と疲労が入り混じった音。
入り口に現れたのはカオルだった。背中には泥と雨の跡が残り、肩には槍を背負っている。
「カオル!」
最初に声を上げたのはルナだった。
リュウジも振り返り、眉をわずかに上げる。
「無事だったか」
「なんとか、な」
カオルは短く答えると、息を整え、壁際に置かれた石の上に腰を下ろした。
その顔には、長時間の偵察で得た確かな緊張が宿っていた。
「……で、どうだった?」とメノリが尋ねる。
カオルは頷き、低く言った。
「やつら、地形を把握し始めてる。川の流れ、崖の位置、遺跡の周囲……すべて地図に落としていた」
その言葉に、一同の表情が固まった。
チャコの尾がピンと立つ。
「ウチらの拠点、バレるのも時間の問題やないか……」
「二、三日もすれば、この遺跡に近づくはずだ」
カオルのその一言が、静まり返った空気をさらに重くする。
ルナは唇を噛みしめた。
「……まだ、船は動かないのよね?」
するとポルトが工具を片手に顔を上げた。
「うむ、重力制御ユニットの調整が終わっとらん。チャコとシンゴが補助系統をつないどる最中じゃ」
その横でシンゴが苦い顔をした。
「動力線が腐食しててさ、手作業で繋ぎ直してるんだ。あと少しなんだけど……」
「もう少しで終わるやろ?」とチャコが励ますように言う。
「うん。でも時間が足りない……」
ルナは両手を握りしめて立ち上がった。
「じゃあ、少しでも時間を稼がなきゃ」
リュウジが顔を上げた。
「……罠を張るか」
「罠?」とハワードが首を傾げる。
「うん。遺跡の周りに“人が踏み込めば崩れる足場”や“動くと音が鳴る罠”を仕掛けよう」
ルナは即座に答えた。
「古典的だが、効果的だろう」とメノリも頷く。
ルナは頷き、皆を見渡した。
「じゃあ決まりね。今日は“防衛線の日”。ここを、絶対に守ろう」
その言葉に、全員の表情が引き締まった。
シャアラはそっとルナの背に手を当てて微笑む。
「……きっと大丈夫。だって、今度はみんな一緒だから」
その一言に、ルナは小さく息を吸い込んでうなずいた。
⬜︎
昼下がり。遺跡の奥では、金属音とチャコの小さな声が響いていた。
「こっちの接続、もう一回確認してみるで!」
「了解、チャコ。……出力、安定してきた!」とシンゴ。
「あと少しで、重力制御ユニットも動くじゃろう」ポルトの低い声が重なる。
一方そのころ――
森の縁では、ルナたちが静かに防衛の準備を始めていた。
「リュウジ、ここを掘るの?」
ルナが膝をついて湿った土を掘り返す。
リュウジは頷き、地面の傾斜を指差した。
「ここなら水が溜まらない。踏んだら一気に崩れる」
ベルが少し離れた場所で大きな丸太を持ち上げながら言う。
「罠の上にかぶせる木はこれでいい?」
「ああ、それを渡しておけ。葉と泥で隠せば、見た目じゃ分からない」リュウジが淡々と返す。
木の葉を集めているハワードが、息を切らしながら笑った。
「僕、こういうの映画でしか見たことないよ……本当にやるんだね」
「映画より現実の方が厄介だ。相手は銃を持ってる」とカオルが短く言う。
「……でも、やるしかないのよ」とルナが言いながら、掘り出した土をならした。
少し離れた場所では、メノリとシャアラが縄を編んでいた。
「この蔓、けっこう強いね」とシャアラが手を動かしながら言う。
「踏んだ瞬間に足に絡むようにするんだ。……テンションはこんなもんでいいだろう」
メノリは木の枝を支点にして、巧みに蔓を固定する。
「これで足を取られたら、逆さ吊りになるはず」
「すごい……メノリ、本当に器用ね」
「器用というより、必死なだけだ」と小さく笑い、もう一度結び目を締めた。
ルナが二人の様子を見に行くと、シャアラが少し不安そうに尋ねた。
「……ルナ、本当にこれで大丈夫なの?」
「完璧じゃなくていいの。少しでも時間を稼げれば、それでいいの」
「うん……」
ルナの言葉に、シャアラの顔にも少しだけ力が戻る。
リュウジとカオルはもう一つの仕掛けを組み上げていた。
太い枝と木の幹を組み合わせて、木の楔を打ち込み、上部には石と丸太を括りつけている。
「縄を切れば、この木が落ちてくる。……檻代わりだ」
リュウジが言うと、カオルがうなずく。
「重さは十分あるな。人間一人じゃ持ち上げられん」
「逃げ道を制限するにはちょうどいい」
「……お前、こういうの慣れてるな」
「S級パイロットはあらゆる事を叩き込まれるからな」
リュウジは一瞬だけ表情を固くしたが、すぐに小さく笑って答えた。
作業の合間、ベルが丸太を肩に担いだまま近づいてきた。
「ルナ、こっちの穴は埋め終わったよ」
「ありがとう、ベル。ほんと、助かるわ」
「力仕事なら任せてくれ」
笑顔を見せるベルに、ルナも自然と笑顔を返す。
以前の気弱な面影はなく、今は確かな頼もしさがあった。
太陽が傾き始める頃、全ての仕掛けが完成した。
縄が木々を渡り、葉で隠された罠がいくつも森に潜む。
風が吹くたびに、木の軋む音がわずかに響く。
「これで……よし」
メノリが手についた土を払い、全体を見渡した。
リュウジが隣に立ち、静かに言う。
「三日はもたないだろう。それでも、遺跡を守るには十分な時間だ」
「向こうが動くのはいつ?」とルナが尋ねる。
「たぶん二日以内だ」とカオルが断言するように言った。
「森の地形を測ってた。次はこっちを探る」
ルナは息を飲んだ。
恐怖ではなく、覚悟のために。
「――どんなに危なくても、絶対に誰も失わない」
その言葉に、全員が頷いた。
遠く、遺跡の方向からかすかにチャコの声が風に乗って届く。
「ルナー! こっちはあとちょっとやでー!」
「分かった! こっちも終わったわ!」とルナが笑顔で返す。
夕陽が森を橙に染めていた。
原始的な罠たちが、まるでこの星そのもののように静かに息づいている。
彼らの決意と希望を乗せながら――。
⬜︎
夜。
森の奥に流れる風が、葉をかすかに揺らしていた。
焚き火はあえて焚かず、代わりに月の光だけが地面を照らす。
遠くではカオルが巡回を終えて、岩の上に腰を下ろしている。ベルとメノリは見張りを交代しながら休息をとり、遺跡の中ではシンゴとチャコとポルトがまだ修理を続けている。
その少し離れた場所。
リュウジは木の幹に背を預け、夜空を見上げていた。
彼の横に、そっとルナがやってきた。
「……交代の時間、じゃないけど」
「眠れないのか?」
「うん。色々考えちゃって」
リュウジは小さく息を吐き、夜空から視線を落とした。
空には薄く雲が流れ、月の光が時折、樹々の隙間を照らす。
「昼間の罠、すごかったね。ベルもハワードも、メノリも、みんな……本気で守ろうとしてる」
「当たり前だ。あいつらにとっても、ここが“帰る場所”になってるんだ」
リュウジの声は低く、だが柔らかかった。
ルナはその横顔を見ながら、少しだけ微笑んだ。
「……あなたも、そう思ってくれてるの?」
「ん?」
「“ここが帰る場所”って」
一瞬、リュウジは答えを探すように黙り込んだ。
風が二人の髪を揺らし、森の葉がざわりと鳴る。
「……そうだな。たぶん、俺にとってもそうだ」
「えっ?」
「今さら帰る場所があるとは思ってなかった。でも……お前たちと過ごしてるうちに、そう感じるようになったんだ」
リュウジの声には照れもなく、ただ静かな本音が滲んでいた。
ルナは胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
それを悟られないよう、少しうつむく。
「……ありがとう、リュウジ」
「何がだ?」
「いつも、助けてくれるから。今日だって、本当は私がみんなを守るって決めたのに、またあなたに頼っちゃった」
「頼られるのは悪くない」
「え?」
リュウジは少し笑って続けた。
「お前は一人で背負いすぎる。けど、リーダーってのは全部を抱え込むことじゃない。仲間を信じて任せることだ」
「……でも、あなたは一人で残ったじゃない」
「それは違う。俺は――信じたからだ。お前たちが逃げ切るって」
ルナはハッと顔を上げた。
月光に照らされたリュウジの横顔は静かで、どこか切なげだった。
「怖くなかった?」
「怖くないわけないさ。……でも、あの瞬間は迷わなかった」
リュウジはそう言って小さく笑った。
「お前の声が聞こえてた気がしたからな。“生きて帰ってきて”って」
「……えっ」
ルナの頬が一気に熱くなった。
「ま、幻聴かもしれないけどな」
「も、もう……からかわないでよ」
ルナは俯きながら呟き、両手で頬を覆った。
リュウジは少しだけ笑い、そのまま夜空に視線を戻した。
風が流れ、森の奥から鳥の羽音が響いた。
「ルナ、もし……明日、何かあっても、怖がるな」
「なに、それ。縁起でもないこと言わないで」
「違う。怖くても、立ち止まるなってことだ。お前が動けば、みんなも動ける」
「……そんな風に言われたら、泣いちゃうじゃない」
「泣いてもいいさ。泣いて、また立てばいい」
ルナは小さく頷き、リュウジの肩にそっと頭を寄せた。
彼は驚いたように一瞬固まったが、何も言わなかった。
静寂の中で、虫の音と風の囁きだけが響く。
それは戦いの前夜とは思えないほど、穏やかな時間だった。
⬜︎
夜が明ける前、まだ遺跡の内部は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。
中央のホールには、罠づくりを終えたルナたちが集まっていた。
シンゴとチャコ、ポルトは奥の機関室で重力制御ユニットの調整を続けている。
リュウジはその手前に立ち、工具を置く音に耳を澄ませながら、静かにみんなの顔を見渡した。
「作戦の最終確認をしておこう」
メノリの声に皆が頷いた。
ルナは地面に棒で地図を描きながら、罠の配置と動線を指差した。
「メノリが囮になって、ボブを誘導する。ベルと私は罠のロープを切るタイミングを合わせて、上から檻を落とす。カオルはシルヴァを引きつける。――それでブリンドーを孤立させる」
「それであの三人を一気に制圧するってわけだな」とベルが確認するように言った。
ルナは頷き、「うん。……あとは慎重に」と言葉を締めた。
全員の顔に緊張が走る。
その時、リュウジが低い声で口を開いた。
「俺も行く」
その一言に場が静まり返った。
ルナが目を見開き、思わず立ち上がる。
「ダメ。今回は……私たちでやるの」
「何?」とリュウジがわずかに眉を寄せる。
「いつも、あなたに頼ってばかりだった。危険な時も、決断の時も……。でも、もうみんな分かってるの。あ私たちはやれるって」
ルナの声は小さかったが、その瞳には確かな光が宿っていた。
メノリが腕を組み、「ルナの言うとおりだ」と静かに頷く。
「私たちももう、子どもじゃない。リュウジに頼らずにやり遂げるべき時だろう」
「そうそう! ウチらだって成長しとるで」とチャコも自信ありげに言う。
「なあ、リュウジ。俺達を信じてほしい」とベルが穏やかに笑った。
リュウジはしばらく沈黙していた。
燃料タンクの低い唸りだけが響く中で、彼の瞳は一人ひとりの顔をゆっくりと見つめていた。
やがて、わずかに笑みを浮かべる。
「……分かった。信じる」
その声には、どこか優しさが混じっていた。
ルナは安堵の息を漏らす。
「ありがとう。でも、私たちが戻るまで、ここを頼むね」
「ああ。お前たちが帰る場所は、ちゃんと守っておく」
リュウジは背中を壁に預け、腕を組んだ。
その横顔には、頼もしい仲間を見送る誇りと、どこか父親のような静けさがあった。
⸻
出発の時 ――夜明けに向かって
遺跡の出口。
薄明の光が差し込み、森の外では鳥の声がかすかに響いていた。
ルナたちは装備を整え、互いに頷き合った。
「行こう。……みんな、気を引き締めて」
「おう! 任せとけ!」とベルが力強く答えた。
メノリは背負った槍を確かめ、「作戦に狂いはない。焦らなければ勝機はある」と冷静に言う。
「気をつけるんだよ」とシンゴの声が遺跡の奥から聞こえ、チャコが「ウチらのぶんまで頑張ってな」と笑顔を見せる。
その声を背に、ルナたちは静かに遺跡を後にした。
リュウジは最後まで見送っていた。
彼の胸の奥には、不安と誇り、そして――一抹の寂しさが入り混じっていた。
(あいつら……本当に強くなったな)
リュウジは小さく息を吐き、腰の黒曜石ナイフを握りしめた。
「信じるってのは……こういうことか」
そして彼は、再び遺跡の奥に戻り、重力制御ユニットの様子を確かめに歩き出した
⬜︎
東の森の奥は、朝の光が届いても薄暗かった。巨木の根が地を盛り上げ、蔓とシダが幾重にも垂れ下がる。湿った土の匂い、遠くで水が滴る音。わずかに軽い重力のせいで、枝葉は人の気配に敏感に揺れた。
「――始めよう」
メノリが小さく告げる。声は低く、芯がある。「配置、間違えるな。合図は二度の指笛だ。いいな」
「うん。……行こう」ルナが頷き、ベルと目を合わせる。ベルは静かに太い蔓縄のテンションを確認し、ナイフの刃先で結び目の位置を測った。
カオルは短く「俺は滝筋の上段だ」と告げ、影に溶けるように消えた。
メノリは囮役。白い腕に土を塗り、足音がわずかに響くよう落葉を選んで踏む。巨木と巨木の間を抜けると、茂みの向こうで低い唸り声がした。
「見つけたぞォ……!」
ボブだ。樹皮を裂くような足音で突進してくる。金属が擦れる鈍い音――頭部のサイボーグ補強が朝の光を鈍く弾いた。
「こっちだ」
メノリは振り向かない。呼吸だけ整え、計った歩幅で木々の間を縫う。狙いは一本の太い枝。そこから吊られた偽の蔓橋――下は浅く偽装した落ち窪み。さらに数歩先、仕上げの“檻”の直下。
「逃がすかよッ!」
ボブの影が迫る。吐息が熱い。茂みの縁でメノリの踵が一瞬沈む。その瞬間、茂みの中でルナが小さく指を立てた。
「今」
ベルが頷き、太蔓に噛ませた楔支点のロープをルナと同時に切る。
バサン――!
頭上の枝組が落ちると同時、積み上げた角木の檻が重力に従って真下へ。
「ぐっ……ぬおおおお!」
ボブの肩に檻の梁がのしかかり、脚が木枠に絡まって動きが止まる。鉄ではない。けれど、湿った木と楔の噛み合わせは強固だ。サイボーグの頭部が梁にぶつかり、表面に入った細いヒビが、今日ふたたび軋んだ。
檻の外でベルが素早く予備蔓を回し、柱に巻き付けて固定する。
「ベル、結び目、もう一段!」
「了解。……よし、動けないはずだ」
「離れて!」ルナが手で合図し、二人は葉の影に身を滑らせた。
*
森の反対側、湿った岩棚の上。
ヒュッ――と短い指笛。
シルヴァの足が止まる。「こっちにいる……?」
電気ウィップが唸り、青白い火花が葉を焼く。
「遊んであげる。出てきなさいよ」
「……悪いが、踊りは得意じゃない」
カオルが真正面から歩み出る。槍の穂先が低く揺れ、狩人の目だけが笑わない。
シルヴァが先に打つ。裂帛の一閃――ウィップの軌道をカオルは幹に沿って滑らせ、穂先で絡みを外す。逆手に持ち替えた瞬間、女の左袖から針が弾けた。
「――ッ」
身を屈め、岩肌に針が刺さる音を背で聞く。カオルの槍が返る。シルヴァは踝で地面を蹴り、紙一重で躱した。
一歩、また一歩。互いに間合いが縮まらない。
ウィップが空気を裂けば、槍が線を断つ。針が唸れば、影が沈む。
どちらも一撃を許さない。森の奥気だけが、二人の間で熱を帯びていく。
*
その頃。
ブリンドーは一人、地図でもなぞるように静かに森を歩いていた。足跡を追わず、地形の“癖”を読む。
「……足音を消してるな。だが、蔓の張りは消えん」
彼が踏み出す一歩――
足首に柔らかい感触、次の瞬間には乾いた滑車音。
ガシャン!
視界が反転し、世界が逆さになる。
「チッ」
宙に引かれ、ぶら下がる。足に食い込む蔓縄が軋む。
「ガキの仕事にしては筋がいいな」
彼は落ち着いて上体を反らし、レーザー銃を持ち上げた。
岩陰に、走る影――。
赤い光条が走り、岩角が爆ぜる。砕片が葉を散らす。
「ルナ!」
ベルが覆い被さる。「大丈夫か」
「平気……行くよ!」ルナは息を詰め、合図を送る。退き線へ。
影がすべり、葉が跳ねる。
「ガキの遊びだ」
ブリンドーが吐き捨てると、銃口を自分の上――吊り縄に向けた。
ドン、と短い発光。蔓が焦げ切れ、体が落ちる。
膝で衝撃を殺し、そのまま回転、着地。
「さて、狩りの続きといこうか」
逃げる背に、真紅の線が伸びた。
ジュ――ッ。
「っ……!」
メノリの上腕の布が焼け、白い肌に赤い線が走る。
「メノリ!」
「大丈夫だ、掠っただけだ」メノリは歯を食いしばり、声は揺らさない。「ベル、ルナを先に――いや、ここは私が押さえる。ルナ、退け。次の罠まで下がるんだ」
「でも――」
「リーダーは前で倒れるべきじゃないだろう」
メノリは自分の傷口に短く布を巻きながら、顎で森の奥を示した。瞳はまっすぐ、いつもの厳しさの裏に、柔らかな信頼が宿る。
ルナは息を呑み、それでも頷く。「分かった。――ベル、右へ。次の窪地へ誘導する」
「了解。ルナ、足元に気をつけて」
背後で、ブリンドーの気配が迫る。葉の擦れる音が、重く近い。
遠く、カオルとシルヴァの金属音がまだ続く。互いに一撃も入らない、拮抗の音。
東の森は、罠と息遣いと、決意の匂いで満ちていく。
ルナは振り返らない。
(信じて。――私たちで、やり遂げる)
胸の奥でそう言い切って、次の影の中へと仲間を導いた。
⬜︎
東の森の奥。
木々のざわめきの中に、金属が擦れる音と荒い息づかいが響いていた。
カオルは鋭い眼光を放ちながら、シルヴァの攻撃をかわしていた。
電気ウィップが地面を焦がし、毒針が木の幹に突き刺さる。
静寂と殺気が交錯する。
「フッ……反応が早いわね、坊や」
シルヴァの唇が笑みを描く。
「そっちもな。だが――焦ってるのはお前のほうだ」
カオルの低い声が森に響いた。
互いに一歩も譲らず、攻防が続く。だがその時、遠くで「ピシュッ!」と鋭い音が響いた。
空気を震わせるレーザーの音――。
カオルの顔色が変わる。
「……ルナたちか!」
シルヴァの隙を突き、カオルは枝を蹴り上げるようにして一気に離脱。
シルヴァが追おうとしたが、すぐに電気ウィップを引き戻し、舌打ちをした。
「……あの子たちね。面白いわ」
カオルはその声を背に、森を駆け抜けていった。
⸻
その頃――
ルナたちは、切り立った崖を背に追い詰められていた。
正面にはブリンドーが立ち、レーザー銃を構えている。
その黒い銃口が、わずかに陽光を反射した。
ルナは呼吸を整え、両手を広げて仲間の前に立った。
ブリンドーの口角がゆっくりと上がる。
「その勇気に免じて――お前から殺してやるよ」
ルナの心臓が跳ねる。
恐怖を押し殺しても、膝がわずかに震えていた。
――その時だった。
崖の上から「シュッ」と風を裂く音が走り、「ガンッ!」と鋭い衝撃音。
ブリンドーの手からレーザー銃が弾き飛ばされた。
「なっ……!」
ブリンドーが驚きに顔を上げる。
崖の上から降り注ぐ陽光を背に、カオルが立っていた。
手には槍。無言のまま、崖を滑るように降りてくる。
「……カオル!」
ルナが叫ぶ。
カオルは足を地につけると同時に、低く呟いた。
「下がれ。ここから先は、俺がやる」
その一言に、ルナの胸が熱くなる。
ブリンドーの意識がカオルへと移った、その瞬間――。
「うおおおおおおおッ!!」
ベルが叫び声を上げ、両腕で大きな岩を持ち上げた。
その巨体が地面を踏みしめ、渾身の力で岩を放る。
岩はブリンドーにではなく――足元のレーザー銃へと正確に飛んだ。
「なっ――!」
ドンッという鈍い衝撃。
銃身が歪み、火花が散った。
爆発というほどではないが、閃光と煙が走り、ブリンドーが咄嗟に腕で顔を覆う。
わずかに後退したブリンドーの足元に、焦げた地面が広がった。
「……チッ、やるじゃねぇか」
煙の中からカオルが前に出て、槍を構えた。
「次は外さねぇぞ」
その声に、ブリンドーは口角を上げたまま一歩引く。
ルナはその隙を見逃さなかった。
「今よ、みんな!」
ルナ、メノリ、ベル――3人が同時に動く。
崖の陰から光が差し込み、森の奥で風が吹き抜けた。
戦いの緊張が、一瞬だけ緩む
⬜︎
土埃がまだ舞っている。
岩肌に散らばる破片の中、ルナたちは息を切らしながら、森の奥――遺跡の方角へと駆け抜けていた。
「こっちだ!」とベルが声を張り上げる。
ルナ、メノリ、カオルが続き、枝をかき分けながら走る。
だが、その時だった。
――バキッ。
茂みが不自然に動いた。
反射的にルナが立ち止まる。
次の瞬間、樹々の陰から、丸太を抱えた巨体――ボブが現れた。
「逃がすかァ!!」
その声と同時に、丸太が横薙ぎに振り払われる。
風圧だけでも地を削るほどの威力。
ルナたちは一斉に飛び退いた。
「こっちの道を――」
メノリが進路を変えようとした瞬間、地面が青白く光を放った。
バチィッ!!
電撃が地を這い、空気が焼ける匂いが広がる。
「ひっ……!」
シルヴァが姿を現した。
片手には電気ウィップ、もう片方の手首からは細い針のような装置が覗いている。
「またお前たちね。学習能力のないガキども」
艶めいた笑みを浮かべながら、電撃の鞭を振る。
その背後、木々の間からは――ゆっくりと歩いてくるブリンドーの姿が見えた。
「ほう……逃げ足は早いようだな」
低く響く声。
レーザー銃を失った右手には、折れた金属片を握りしめている。
額には血が滲んでいたが、目の奥は冷え切っている。
三方向から、逃げ場を塞ぐように迫ってくる。
森の空気が一気に重くなった。
ルナたちは息を詰め、一歩……また一歩と後ずさる。
湿った土が足元で崩れる音がした。
「もう少しだ……もう少し下がれば、落とし穴がある」
カオルが低い声で囁く。
「でも……三人同時は無理よ!」
メノリの焦った声がかすれた。
その瞬間――。
ヒュッ。
風を切る音がした。
続いて、ブチッと何かが切れる音。
「なっ……!」
ブリンドーが顔を上げる。
次の瞬間、シルヴァの真上――木々の間から巨大な檻が落ちてきた。
ドゴォッ!
木片が弾け、土煙が舞う。
「きゃっ……!? な、なにこれっ!」
シルヴァが電気ウィップを振るうが、檻の格子に絡まって電撃が反射し、青白い火花を散らす。
「今だ、走れ!」
ベルが叫ぶ。
ルナ、メノリ、カオルの三人は同時に背後へと飛び出した。
全力で駆ける足音が森に響く。
「おい!待ちやがれ!」
ボブが丸太を放り捨て、怒号と共に追いかける――が。
ズボッ!!
足元の地面が崩れ落ち、ボブの巨体がそのまま落とし穴に吸い込まれた。
「ぐわあああっ!!」
木屑と土を巻き上げ、もがく音が響く。
ブリンドーは歯ぎしりをしながら、落とし穴の縁に視線を向けた。
「ガキどもが……なるほど、罠か」
ルナたちの姿が森の奥へ消えていく。
ブリンドーは拳を握りしめ、低く呟いた。
「――もう遊びは終わりだ」
その声には、怒りというよりも冷徹な殺意が宿っていた。
⬜︎
息を切らしながら、ルナ、メノリ、ベル、カオルの四人が遺跡へと戻ってきた。
森を抜け、石造りの壁が見えた瞬間、全員の足が自然と速まる。
入り口の前ではリュウジとハワード、シャアラ、アダムが待っていた。
「……戻ったか」
リュウジの低い声。焚き火もない薄暗い朝の光の中で、その輪郭が浮かぶ。
「どうだった?」とハワードが不安げに声を出す。
「もうすぐ来るわ。森の奥まで進んできてる」
ルナが告げると、空気が一気に張り詰めた。
ベルは汗をぬぐい、短く息を吐いた。
「……追いつかれるのは時間の問題だ」
「まだ宇宙船は直っていない。なら、ここで迎えるしかないだろう」
メノリの声は落ち着いているが、どこか緊張を隠せない。
リュウジはしばらく黙っていたが、やがて静かに頷いた。
「――遺跡を使うか」
ルナはその言葉に目を向ける。
「……うん。ここで立て籠もる。もう逃げてばかりじゃ終わらない」
その決意を聞いたアダムが小さく手を上げた。
「ぼくが扉を閉めるよ」
その目は幼さの奥に、強い意志が宿っていた。
「お願い、アダム」
ルナがそう言うと、アダムは深く頷き、両手を広げた。
遺跡の入り口の両脇に埋め込まれた石板が、かすかに光を帯びる。
重く鈍い音――ガコン、ガコンと響き、巨大な石扉がゆっくりと降り始めた。
外の光が少しずつ細くなり、やがて完全に閉ざされる。
「これで……入れないわね」
シャアラが小さく呟く。
その声には安堵と、わずかな恐れが混じっていた。
ベルが周囲を確認しながら言う。
「こっちの入り口からじゃ簡単には入れない。厚みも相当だ」
「……だが安心はできん。あいつら、頭も回る」
カオルは壁に手をつきながら、外の気配を探るように目を細めた。
その中で、ルナがふとリュウジのほうを見た。
いつものように冷静な表情。しかし、その背中は確かに疲れているように見えた。
ルナは一歩近づき、小さく呟く。
「……ありがとう、リュウジ」
「何のことだ?」
リュウジは眉を上げてとぼけるように言う。
「……檻よ。シルヴァを捕まえた罠。あれ、リュウジが作動させたんでしょう?」
「……」
一瞬だけ、リュウジの目が細められる。
「見間違いじゃないのか」
「リュウジのナイフを見間違えるわけないわ。あの音、あのタイミング――私、ちゃんと聞いてたもの」
ルナの言葉に、リュウジは少しだけ息を漏らした。
「……そうか」
短い返事。しかしその中に、どこか安堵と照れが混じっていた。
「どうして助けに来たの?」
ルナの問いに、彼は肩をすくめた。
「助けたわけじゃない。罠の調整が甘かっただけだ」
ルナはくすっと笑った。
「嘘つき」
その一言に、リュウジは小さく目を逸らした。
「……まったく、お前はよく見抜くな」
その時、遺跡の奥からシンゴの声が響く。
「重力制御ユニット、あと少しで動きそうだ!」
機械音と共に、金属を打つ音が反響する。
「チャコ、そっちの回路をもう一度確認して!」
「了解や! ウチに任せとき!」
ポルトはその隣で黙々と手を動かしながら、低く呟いた。
「……まだ少し時間がかかる。だが、もうすぐだ」
ルナはその声に少しだけ笑みを浮かべた。
「みんな、本当に頼もしくなったね……」
リュウジは壁にもたれかかりながら腕を組む。
「――お前の影響だろ」
「え?」とルナが目を瞬かせる。
「お前が、みんなを変えた。俺もな」
そう言うと、リュウジは外の光が消えて暗くなった入り口の方を見つめた。
ルナはその横顔を見つめ、静かに言葉を落とした。
「……今度は、私たちがあなたを守る番だよ」
リュウジはわずかに笑みを浮かべた。
「守られるのは柄じゃないが……悪くない」
ルナは頷き、遺跡の奥へと歩き出した。
その背中に、リュウジの静かな視線がしばらく注がれていた。