サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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引く

 

清掃を終えたエリン達は、本日宿泊するホテルに移動していた。

 

 火星周回観測ステーションに隣接する宿泊施設は、研修や視察で訪れる団体客を受け入れるために作られた建物らしく、外観は簡素だが中はよく整えられていた。白を基調にした壁、無駄のない動線、どこを見ても清潔感がある。宇宙港や観測ステーションの近くにあるからか、装飾よりも機能を優先した造りだ。それでも、長時間の移動と初めての宇宙船で緊張していた生徒達にとっては、こういう落ち着いた空間の方がむしろありがたいのだろうと、エリンはロビーを見ながら思っていた。

 

 既に地学研修の一日目を終えた生徒達も、ホテルへ移動してきていた。

 今はホテル内の大きな会議室で、明日の観測に向けた講習を受けているらしい。

 エリン達が客室へ入る前に、ミラ、ラン、クミコの三人が教員達と共に状況確認へ行っていたので、エリンはロビー脇で彼女達の戻りを待っていた。

 

 ハズキとアズサは、さすがに少し疲れた顔をしている。

 ユウコとナツキは言葉こそ少ないが、互いの制服や髪の乱れをさりげなく見合って整えていた。

 サリーは静かに立っているが、まだ目線が動いている。客室を離れた今も、どこかで“次に何があるか”を拾おうとしているのだろう。

 

 やがて、会議室の方から三人が戻ってきた。

 

 ミラは歩きながら小さく手を振り、ランはいつものように柔らかく一礼する。クミコはまだ少し気が張っているのか、姿勢がきっちりしすぎていた。

 

「お疲れ様」

 

 エリンが声をかける。

 

「はい。今、教員の先生方と確認してきました」

 

 ランが代表して答えた。

 

「生徒さん達は少し疲れている様子もありますが、講習自体は落ち着いて受けられています。途中で気分が悪くなる子も今のところはいません」

 

「そう」

 

 エリンは小さく頷いた。

 

「最初の三十分も、予定どおり呼吸を落ち着けることを優先しました。最初はやっぱり興奮気味でしたけど、今はだいぶ静かです」

 

 今度はミラが続ける。

 

「クミコは?」

 

 そう問われたクミコは少しだけ目を瞬かせてから、慌てて言葉を繋いだ。

 

「えっと……最初の移動の時、前の方のグループが少しだけ早く歩きそうになったんですけど、先生方と合わせてゆっくり行くように声をかけました。あと、あの……一人、少しボーッとしている子がいたので、ランさんに視線で合図しました」

 

「うん」

 

 エリンは素直に頷いた。

 

「ちゃんと見てるわね」

 

 その一言に、クミコの頬がほんの少しだけ緩む。

 

 エリンはそこで全員を見渡した。

 

「後は変わるから、皆んなはホテルでゆっくり休んでいて」

 

「え?」

 

 ハズキが思わず声を上げる。

 

「でも、エリンさんは?」

 

「私はこのあと先生方と最終確認して、講習が終わるまでは近くにいるわ」

 

 さらりと答える。

 それがあまりにも自然なので、一瞬誰も何も言えなかった。

 

「大丈夫なんですか? ずっと動きっぱなしじゃないですか」

 

 ミラが少しだけ眉を寄せる。

 エリンは困ったように笑った。

 

「大丈夫よ。今日はまだ一日目だもの。ここで私が先に緩んだら、明日に響くでしょう?」

 

 その理屈はもっともだった。

 もっともすぎるからこそ、反論しにくい。

 

 ランも、いかにもエリンらしいという顔で小さく息を吐く。

 

「分かりました。何かあればすぐ連絡ください」

 

「ええ」

 

「本当に、無理はしないでくださいね」

 

 サリーが静かに言うと、エリンは少しだけ目を細めた。

 

「ありがとう。皆んなもね」

 

 そう言って、エリンはまた会議室の方へ向かって歩き出した。

 

 その背中を見送りながら、アズサがぽつりと呟く。

 

「やっぱり、エリンさんってエリンさんですね」

 

 それにミラが小さく笑って答えた。

 

「うん。そういうところ、全然変わらない」

 

 

 夕食時。

 

 火星ステーションの中に入っている飲食店は、外から見るよりもずっと落ち着いた雰囲気だった。

 観測ステーションへ出入りする職員や教員、視察団体の大人が利用することが多いらしく、照明は少し落ち着いていて、テーブルの配置も余裕がある。店の窓からは火星の赤い地表ではなく、ステーションの整然とした内部通路が見えていた。宇宙の近くにある施設らしく、どこか無機質な建物の中に、食事の温かさだけが浮いているような場所だった。

 

 ユウコ、ミラ、ラン、ハズキ、サリー、そしてナツキは、その店へ入っていた。

 

 本当は全員で来るはずだった。

 だが、エリンの姿はない。

 

「やっぱり呼びに行っても無理かなぁ……」

 

 ハズキがメニューを見ながらそんなことを言う。

 

「無理じゃないかな」

 

 ナツキが即答する。

 

「エリンさん、そういうの決めたら絶対ぶれないし」

 

「ですよねぇ」

 

 ハズキがしょんぼりする。

 

 そこへ、ふと声がかかった。

 

「偶然ね」

 

 振り向くと、先に来ていたクリスタルとリュウジがいた。

 

 クリスタルは既に席へ着いており、温かい飲み物の入ったカップを手にしている。

 リュウジはその向かいに座っていたが、料理より先に水だけが置かれていた。

 

「あ、クリスタルさん!」

 

 ミラがまず声を上げる。

 

「リュウジさんもいらっしゃったんですね」

 

 ランが続けて会釈する。

 ハズキは一瞬だけ「えっ」と目を丸くし、ユウコとナツキは自然に姿勢を正した。サリーも静かに頭を下げる。

 

「二人とも、お酒は飲んでないんですね」

 

 ユウコがテーブルを見てそう言うと、クリスタルが肩をすくめた。

 

「いつ病人が出るかも分からないのに、お酒なんて飲めないでしょ」

 

「俺は未成年だ」

 

 リュウジが簡潔に言う。

 その返答に、ハズキが「あ、そうだった」と少し気まずそうに笑った。

 

「せっかくだし、一緒に食べようよ」

 

 クリスタルが気軽に言う。

 

「え、いいんですか?」

 

 ミラが尋ねると、クリスタルは頷いた。

 

「いいわよ。どうせ人数増えた方が賑やかでしょ」

 

 そう言われて、皆が同じテーブルを囲む形で腰を下ろしていく。

 クリスタルの隣にサリー、向かいにミラとラン。

 その横にユウコとナツキ、ハズキ。

 少し空いた席にクミコとアズサが来ればちょうどいい、そんな配置になった。

 

 だが、全員が座りきるより先に、リュウジが口を開いた。

 

「エリンさんは?」

 

 その問いは低く、しかし自然だった。

 

 ミラがすぐに答える。

 

「エリンさんは今、クミコとアズサが呼びに行ってます」

 

「そうか」

 

 リュウジは短く告げた。

 それ以上は何も言わなかったが、その返事のあと、ほんのわずかに視線が落ちたのをミラは見逃さなかった。

 

 しばらく皆んなで談笑する。

 

 今日のフライトのこと。

 観測ステーションへ着いた時の生徒達の反応。

 クリスタルが見たメディカルルームの少女の変化。

 ハズキが「最初の一歩、やっぱり緊張しました!」と身振り手振りを交えて話し、ナツキが「でも途中から調子乗りかけてた」とすかさず釘を刺す。

 ユウコが「ナツキさんだって最初、引きすぎてたじゃないですか」と返し、二人のやり取りにクリスタルが「元気でいいわね」と笑う。

 ランとサリーは、教員側の落ち着きがありがたかったという話を静かにしていた。

 

 そんな中で、店の入口の方に二つの影が見えた。

 

「来ました」

 

 ミラが言う。

 

 クミコとアズサだった。

 二人とも少しだけ足取りが重い。

 

 それを見て、ランがすぐに察した。

 

「あれ? エリンさんは?」

 

 クミコは、椅子の横まで来ると少しためらうように口を開いた。

 

「それが……」

 

 

 少し前。

 

 クミコとアズサは、ホテルの上階にあるエリンの部屋の前まで来ていた。

 

 客室の並ぶ廊下は静かだった。

 観測ステーション隣接の宿泊棟だけあって、防音はしっかりしているらしい。遠くの足音もほとんど響かない。

 クミコはその静けさの中で、なぜだか少し緊張していた。

 

「大丈夫かな」

 

 小さく呟く。

 

「大丈夫だよ。きっと」

 

 アズサはそう言うが、声のトーンには少し不安が滲んでいた。

 エリンは、皆んなで食べに行こうと誘われても、きっとすんなりは来ない。二人ともなんとなく分かっていた。

 

 それでも呼びに来たのは、やっぱり一緒に食べたかったからだ。

 

 クミコがノックする。

 

 こん、こん、と控えめに二回。

 

 少し間があって、中から返事が返る。

 

「はーい」

 

 すぐに扉が開き、エリンが顔を出した。

 

 制服の上着は脱いでいて、ブラウスの袖を少しだけまくっている。

 片手には端末。

 テーブルの上には資料が広がっているのが、扉の隙間からちらりと見えた。

 どうやら本当に、報告書を書いていた最中らしい。

 

「どうしたの?」

 

 エリンが柔らかく尋ねる。

 

 クミコは一瞬、部屋の中の資料へ目がいってしまった。

 それだけで、今もエリンが仕事をしていたのだと分かってしまって、少しだけ言葉が詰まる。

 

「皆んなで夕食に行くんですけど、エリンさんも一緒にどうですか?」

 

 それでも何とかそう言うと、横からアズサが続けた。

 

「美味しいお店みたいですよ」

 

 アズサは嬉しそうに言った。

 言いながらも、どこか“来てくれたらいいな”という祈るような顔をしている。

 

 エリンは、その二人を見て少しだけ表情を和らげた。

 それから、ほんの少し考えるように視線を落とす。

 

「……ごめんね」

 

 申し訳なさそうに告げられたその一言に、アズサが真っ先に反応した。

 

「ええ!?」

 

 予想していたはずなのに、やっぱりショックだったらしい。

 

「行きましょうよ」

 

 クミコも思わず言葉を重ねる。

 

「気持ちは嬉しいけど」

 

 エリンは困ったように微笑んだ。

 

「何かあった時に、連絡が取れる乗務員がいた方が教員の皆さんもいいでしょう?」

 

 それは、たしかにその通りだった。

 観測ステーションに宿泊中とはいえ、研修中の生徒達はまだ完全に落ち着いているわけではない。夕食後に体調を崩す子が出るかもしれないし、講習内容で不安になる子もいるかもしれない。教員が何か相談したい時、すぐ連絡がつく乗務員がいるというだけで安心感は違う。

 

 分かる。

 分かるのだ。

 でも、そう言われると余計に反論できなくなる。

 

 エリンは続けた。

 

「私は近くのコンビニで済ませるわ」

 

 そう言って笑う。

 無理に明るくした笑顔ではなく、二人を困らせまいとする柔らかな笑みだった。

 

 クミコは思わず視線を落とした。

 

「そうですか……」

 

 アズサも、さすがにこれ以上は強く言えず、唇を引き結ぶ。

 

「そんな顔しないで」

 

 エリンが少し困ったように言う。

 

「皆んなで楽しんできて」

 

 その声は本当に優しかった。

 優しいからこそ、余計に胸がちくりとする。

 

 クミコは何とか頷いた。

 アズサも小さく「はい」と返す。

 

「じゃあ、何かあったらすぐ連絡すること。私も、終わったら報告書を送るから」

 

「はい」

 

「行ってらっしゃい」

 

 そう言って扉が静かに閉まる。

 

 廊下に残されたクミコとアズサは、しばらくその場で立ち尽くしていた。

 

「……やっぱり、来なかったね」

 

 アズサがぽつりと呟く。

 

「うん」

 

 クミコは短く返す。

 

 だが、その一言の中に色々な感情が入っていた。

 エリンさんらしい。

 でも、やっぱり寂しい。

 それに、そんなエリンを一人にして、自分達だけ食べに行っていいのだろうか。

 そんな気持ちまで混ざっていた。

 

 

「そんな事がありまして……」

 

 クミコが、店のテーブルでそう締めくくる。

 

 その話を聞いたミラは、予想していたという顔で小さく息を吐いた。

 

「エリンさんらしい」

 

 その一言に、誰も否定しなかった。

 リュウジもまた、静かに頷いていた。

 

「なんだ、せっかく一緒にご飯食べれると思ったのに」

 

 ハズキが頬を膨らませる。

 

「ね! 色々とお話したかった」

 

 サリーも珍しく少し残念そうな顔を見せる。

 

 だが、クミコの胸の中には、残念とは少し違う引っかかりがあった。

 

「でも、いいのかな」

 

 ぽつりと漏らす。

 

「どうしたの?」

 

 ナツキが目を向ける。

 

「いやぁ……エリンさんは待機してるのに、私達だけ楽しんでいいのかなって」

 

 その言葉に、テーブルの空気が少しだけ静かになる。

 

 アズサがすぐに言った。

 

「でも、エリンさんは楽しんでって言ってたよ」

 

「うん、言ってたけど……」

 

 クミコはそれでも言い淀む。

 その責任感の強さは、もうここにいる皆が知っていた。

 

「クミコは本当に責任感が強いね」

 

 ナツキが半ば呆れたように、でもどこか柔らかく言う。

 

 クミコは「そうですかね」と小さく返すだけだった。

 それを見ていたユウコが、ふいに顔を上げた。

 

「じゃあ、こうしましょう」

 

 その声に全員の視線が集まる。

 

 ユウコは、少し考えをまとめるように手元の水へ視線を落としてから、顔を上げた。

 

「ここで食べるのやめて、コンビニとかで色々買って、エリンさんの部屋でみんなで食べればいいんじゃないですか?」

 

 一拍の静けさ。

 

「え?」

 

 ハズキが真っ先に声を上げる。

 

「でも、それだとエリンさんは待機しながらになりませんか?」

 

「だからちょうどいいんじゃない?」

 

 ユウコが言う。

 

「何かあったらすぐ動けるし、でも一人でコンビニ飯って感じにはならないし」

 

 その発想に、クミコがぱっと顔を上げた。

 

「あ……」

 

 ランも、小さく目を見開く。

 

「たしかに、その方が自然ね」

 

 ミラがふっと笑う。

 

「さすがユウコ」

 

 アズサも嬉しそうに頷く。

 

「いいですね! それ!」

 

 クリスタルは、そんなやり取りを見てくすっと笑った。

 

「やるじゃない」

 

 リュウジもまた、わずかに口元を緩めていた。

 

 その二人の表情を見て、ユウコは少しだけ照れくさそうに肩をすくめる。

 

「別に、大したことじゃないです」

 

「いや、いいと思うわよ」

 

 クリスタルがはっきり言う。

 

「エリンも、それなら断りにくいでしょ」

 

 その言い方に、皆が少しだけ笑う。

 たしかにそうだ。

 “皆んなで外へ来て”という誘いは断れても、“待機しながら部屋で一緒に食べる”なら、エリンも断る理由が減る。

 

 リュウジがそこで静かに言った。

 

「その方が、エリンさんもちゃんと食べるだろ」

 

 短い一言だったが、それが妙に本質を突いていた。

 

 エリンは仕事をしていると、食事を後回しにしがちだ。

 何かあればそれを優先してしまう。

 だからこそ、誰かが“食べる空気”を持ち込まないと、本当にコンビニで買っただけで済ませて終わってしまうだろう。

 

「決まりね」

 

 ランが頷く。

 

「じゃあ、お店はまた今度にして、今日は買い出しだ!」

 

 ハズキが元気よく言うと、テーブルの空気が一気に明るくなる。

 

 その様子を見ながら、クリスタルは満足そうに立ち上がった。

 

「じゃ、私達はここで適当に済ませるから、あんた達は行ってらっしゃい」

 

「ありがとうございます!」

 

 アズサが元気よく頭を下げる。

 

 リュウジはそれ以上何も言わなかったが、出ていく一行へ小さく頷いた。

 その頷きが、“その方がいい”という意思表示であることは、なんとなく皆に伝わっていた。

 

 

 その後、一行はホテルへ戻る前に、ステーション内のコンビニへ寄った。

 

 店内は思っていたより広く、研修や視察向けの宿泊客が多いからか、普通のコンビニよりも少し品揃えが豊富だった。

 おにぎり、サンドイッチ、温めるだけのパスタ、スープ、サラダ、デザート、飲み物。

 深夜勤務の職員向けなのか、温かい総菜まである。

 

「わ、どれにしよう」

 

 アズサが目を輝かせる。

 

「とりあえず、エリンさんの分は絶対いるね」

 

 ハズキが真っ先に言う。

 

「うん」

 

 クミコはすぐに頷いた。

 だが、そこで止まる。

 

「……エリンさんって、こういう時何食べるんだろ」

 

 その問いに、皆が一瞬だけ黙る。

 

「サラダだけとか選びそう」

「いや、逆におにぎり二個だけかも」

「スープは欲しい気がする」

「コーヒー買いそうだけど、今はお茶の方がいいんじゃない?」

 

 あちこちから意見が飛ぶ。

 だが、どれも“なんとなくエリンさんっぽい”でしかない。

 

 そこへミラが、少し考えてから言った。

 

「エリンさんって、疲れてる時ほどちゃんと温かいものの方がいいと思うんだよね」

 

 その一言に、ランが静かに頷く。

 

「うん。温かいスープか、軽く食べられるものがいいかもしれないね」

 

 結局、エリンの分は、鮭のおにぎり、卵サンド、具だくさんのスープ、カットフルーツ、そして温かいお茶に決まった。

 

「ちょっとお母さんみたいになってない?」

 

 ユウコが笑うと、クミコが真剣な顔で答える。

 

「いいんです。ちゃんと食べてほしいので」

 

「クミコ、本当に責任感強いね」

 

 ナツキが呆れ半分に言う。

 

「いいじゃないですか、そういうの」

 

 アズサが嬉しそうに言う。

 

「なんか、仲間って感じします」

 

 その言葉に、皆が少しだけ笑った。

 

 それぞれ自分の分も買い込んでいく。

 ハズキは結局デザートを二つも入れていた。

 サリーはスープと小さなパンを選び、ナツキはパスタ、ユウコはサンドイッチとサラダ、ミラはバランスよくおにぎりとサラダチキン、ランはおにぎりと味噌汁、アズサはプリンをしっかり入れている。

 

「これ、多くない?」

 

「多いくらいでいいの!」

 

 ハズキが紙袋を掲げながら言う。

 

 そうして、皆でホテルへ戻った。

 

 

 その頃エリンは、自室で今日のフライトの報告書を作成していた。

 

 ホテルの部屋は、一人用としては十分すぎる広さだった。

 ベッドと小さなソファ、壁際のデスク。

 デスクの上には端末と資料、教員側へ送るための簡易報告の下書きが広がっている。

 既にある程度の目処は立っていた。

 乗り入れ時の状況。

 体調不良者の対応。

 客室全体の空気。

 観測ステーション到着後の引き継ぎ。

 それらを一つずつ整理し、必要なところだけをまとめていく。

 

 エリンは、疲れていないわけではなかった。

 むしろ肩も脚も重く、気を抜けばそのままベッドへ倒れ込みたいくらいだった。

 それでも、今日のことは今日のうちにある程度形にしておきたかった。

 

 端末へ文字を打ち込みながら、ふと時刻を見る。

 

 そろそろ何か買いに行こうか。

 そう思ったところで、再びドアがノックされた。

 

 エリンは一瞬だけ首を傾げる。

 この時間に誰だろう。

 

「はーい」

 

 立ち上がって扉を開ける。

 

 そこに立っていたのは、クミコ、ミラ、ラン、アズサ、ハズキ、ユウコ、ナツキ――そして少し後ろからサリーも顔を覗かせていた。

 皆、両手に紙袋やコンビニの袋を抱えている。

 

「エリンさん!」

 

 ハズキが持っていた紙袋を掲げた。

 

「一緒に食べましょう!」

 

「たくさん買ってきましたから」

 

 サリーが静かに続ける。

 

 エリンは、その光景を前に一瞬だけ言葉を失った。

 

「貴方たち……」

 

「皆んなで食べた方が美味しいです!」

 

 クミコが少し前へ出る。

 

「そうです!」

 

 アズサも元気よく頷く。

 

「私達は仲間なんですから」

 

 ミラが柔らかく言う。

 

「そうですよ」

 

 ランもその隣で微笑む。

 

「ま、これもユウコの提案だけど」

 

 ナツキがさらっと言った。

 

「ちょっと! 勝手にバラさないでくださいよ!」

 

 ユウコが慌てて抗議する。

 

「いいでしょう別に!」

 

 ナツキも負けじと返す。

 

 そのやり取りを見て、エリンはふっと笑みを浮かべた。

 

「ありがとう、皆んな」

 

 その声は、今日一日の中で一番柔らかかったかもしれない。

 

 

 ユウコの提案のとおり、エリンの部屋でコンビニで買ってきたご飯を食べることになった。

 

 ホテルの部屋は一人用なので、さすがに全員が椅子へ座ることは出来ない。

 ベッドの端、ソファ、床に広げたタオルの上。

 自然とそんな形で丸く集まる。

 

「なんか、修学旅行みたいね」

 

 アズサが楽しそうに言う。

 

「たしかに」

 

 ハズキが笑う。

 

「でも先生役がエリンさんって感じ」

 

「やめてよ」

 

 エリンが苦笑すると、皆も少し笑った。

 

 紙袋の中身が広げられていく。

 おにぎり、サンドイッチ、パスタ、スープ、サラダ、デザート、飲み物。

 思っていた以上にたくさんある。

 エリンは思わず目を丸くした。

 

「こんなに買ってきたの?」

 

「だって、みんなで食べるなら多い方がいいかなって」

 

 ミラが言う。

 

「エリンさんの分も、ちゃんと温かいの選びました」

 

 クミコが少し得意げにスープを差し出す。

 

 その真剣さに、エリンの胸がじんわりと温かくなる。

 

「ありがとう」

 

 そう言って受け取ると、クミコはやっと安心したように笑った。

 

 食事を始めると、部屋の空気はすぐに和んだ。

 

 最初に話題へ上がったのは、やはり今日のフライトのことだった。

 

「でも本当に、最初の吐いちゃった子はびっくりしました」

 

 ハズキがサンドイッチを頬張りながら言う。

 

「うん。私も一瞬、心臓止まるかと思った」

 

 アズサが頷く。

 

「でもユウコ、あの時すごかったよ」

 

 ミラが言うと、部屋の視線が一斉にユウコへ向く。

 

「え、やめてくださいよ」

 

 ユウコが顔をしかめる。

 

「だって、本当に見事だったもの」

 

 ランも静かに言う。

 

「最初の一言で、あの場の空気が変わった」

 

 ユウコは照れくさそうに視線を逸らした。

 

「いや……正直、頭真っ白だったんですけど」

 

「真っ白であれが出るのがすごいのよ」

 

 エリンがそう言うと、ユウコはますます困ったような顔になる。

 

「褒めすぎですって」

 

「褒めてるんじゃない。事実を言ってるの」

 

 その返しに、ナツキが小さく肩を震わせた。

 さっき自分がユウコへ言ったことと、ほとんど同じだったからだ。

 

「ナツキもね」

 

 エリンはすぐに視線を向ける。

 

「入れ替わり、良かった」

 

 短い一言。

 だが、ナツキはその一言で十分だったらしい。

 目を丸くしてから、少しだけ頬を赤くした。

 

「……ありがとうございます」

 

 素直に礼を言う。

 

 その素直さに、ユウコが横からにやっとした。

 

「珍しく素直ね」

 

「うるさい」

 

「さっき私に言ったくせに」

 

「それはそれ」

 

 そんな二人のやり取りに、部屋の空気がまた少し明るくなる。

 

 その後も話題は尽きなかった。

 

 メノリのこと。

 スワレの興奮ぶり。

 リュウジが客室で機長挨拶をした時の空気。

 クリスタルが淡々としながらも、どれだけ頼りになったか。

 食堂への第一陣の流し方。

 ラウンジの窓際で生徒達が息を呑んだ瞬間。

 教員達が意外と落ち着いていてくれたこと。

 

「それにしても、メノリって子、リュウジさんの友達なんだね」

 

 ハズキが言う。

 

「普通に会話しててびっくりした」

 

 アズサも頷く。

 

「ね。しかも、るなに言うぞって」

 

 ミラが思い出して笑う。

 

「クミコ、その時のリュウジさんの顔見た?」

 

「見ました……すごかったです」

 

 クミコが真面目な顔で答える。

 

「一瞬で黙りました」

 

 その言い方に、皆が吹き出した。

 エリンまで少し肩を震わせている。

 

「そんなに?」

 

「はい。あれは効いてました」

 

 クミコの報告があまりに真剣で、余計に面白い。

 

「でも」

 

 サリーが静かに口を開く。

 

「エリンさんがすぐにアナウンス入れたの、すごいと思いました」

 

 その言葉に、他の皆も頷く。

 

「あのままだと、ほんとに収拾つかなかったかも」

「一気に“ファンイベント”みたいになりそうでしたよね」

「でも機長挨拶になったら、ちゃんと“フライト”に戻ったし」

 

 そう口々に言われ、エリンは少しだけ肩をすくめた。

 

「仕方なかっただけよ」

 

「でも、あの機転って大事ですよね」

 

 ランが言う。

 

「予定にないことが起きた時、何へ変換して空気を戻すか」

 

 その言葉に、エリンは小さく頷いた。

 

「そう。訓練どおりにはいかないからね。だから“何が起きても戻せる場所”を自分の中に作っておくの」

 

 それは、今日のフライトを通して全員が実感したことだった。

 

 食事をしながら、そうやって自然と振り返りになっていく。

 サラがいたらきっと「またブリーフィングをしていますね」と言うだろう。

 けれど今のこの時間は、ただ厳しく振り返るだけではない。

 仲間として同じものを食べ、同じ一日を笑いながら確かめる時間でもあった。

 

 エリンはその輪の中にいて、改めて思う。

 

 一人ではない。

 今日の便をここまで持ってこられたのは、自分だけの力じゃない。

 ミラが前方を作り、ランが後方を支え、クミコが先頭を整え、ユウコとナツキが繋ぎ、サリーが気づき、アズサとハズキが空気へ温度を置いた。

 その全部があったからこそ、あの客室は崩れなかった。

 

 そして今、この部屋の中で、誰に言われたでもなくこうして集まっている。

 

「エリンさん」

 

 ふと、クミコが少し改まった声で呼んだ。

 

「なに?」

 

「今日は……その、ありがとうございました」

 

 急にそう言われて、エリンが目を瞬かせる。

 

「どうして?」

 

「色々です」

 

 クミコは少しだけ恥ずかしそうに言う。

 

「フライトのことも、今こうして一緒に食べてるのも、全部です」

 

 その言葉に、アズサも大きく頷いた。

 

「はい。私もそう思います」

 

 ミラとラン、ハズキ、サリー、ユウコ、ナツキも、言葉にはしなくても同じ顔をしていた。

 

 エリンは、少しだけ困ったように笑う。

 

「それを言うなら、私の方こそありがとう、でしょ」

 

「え?」

 

 ハズキが目を丸くする。

 

「皆んながいたから、今日ちゃんと飛べたんだから」

 

 その言葉は、さっきユウコへ向けたものと同じ種類のまっすぐさだった。

 

 部屋の空気が、ふわりと温かくなる。

 誰もすぐには言葉を返せなかった。

 それほど、その一言は素直で、そして嬉しかった。

 

 やがてハズキが、照れ隠しみたいに明るく言った。

 

「よし、じゃあ明日も頑張れますね!」

 

「単純ね」

 

 ナツキが呆れたように言う。

 

「単純で悪いですかー!」

 

「悪くない」

 

 ユウコが笑う。

 

 その笑いにつられて、皆もまた笑った。

 

 部屋の中には、コンビニのご飯の匂いと、長い一日を終えた安堵と、仲間といる時だけの緩さが満ちていた。

 

 この夜があるから、きっと明日も頑張れる。

 誰もそんなふうに口にはしなかったが、同じように思っていた。

 

 エリンは紙コップのお茶を一口飲みながら、その輪の中心にいるようでいて、でも少しだけ外側から皆を見ていた。

 

 頼もしくなった。

 優しくなった。

 強くなった。

 そして、自分もまた少し変わったのかもしれない。

 

 そんなことを、静かに思う夜だった。

 

 

ーーーー

 

 

 夜もだいぶ更けてきていた。

 

 エリンの部屋に集まっていた面々は、コンビニで買ってきた夕食を平らげ、ひとしきり笑って、ようやく落ち着いたところだった。

 ベッドの上に置いた紙袋はすでに空になり、スープの容器も、食べ終えたサンドイッチの包みも、きれいにまとめられている。

 ハズキが途中で「デザートは別腹です!」と宣言して皆を笑わせ、アズサがそれに全力で頷き、ユウコとナツキがまた言い合いをして、ミラとランがそれを穏やかに見守る。

 そんな時間が、長い一日の終わりにはちょうどよかった。

 

 やがて時計が遅い時間を指し始めると、ひとり、またひとりと席を立った。

 

「それじゃあ、明日もあるし、そろそろ戻ろうか」

 

 ミラがそう言うと、皆も名残惜しそうに頷いた。

 明日は二日目の研修だ。

 生徒達のサポートもあるし、戻りの便もある。

 しっかり休まなければならない。

 

 ハズキが立ち上がりながら、大きく伸びをする。

 

「いやぁ〜、でも来てよかったです。やっぱり一人で食べるより、皆んなで食べる方が絶対いいですね」

 

「それはそうね」

 

 アズサも素直に笑う。

 

「本当に、来て正解でした」

 

「提案者に感謝だね」

 

 ミラがそう言って、視線をユウコへ向ける。

 ユウコは「やめてくださいよ」と言いながらも、満更でもなさそうだった。

 

 サリーも静かに立ち上がる。

 

「エリンさん、遅くまでありがとうございました」

 

「こちらこそ。皆んな、ちゃんと寝るのよ」

 

 エリンがそう返すと、部屋の中に小さな笑いが生まれる。

 まるで本当に引率教師みたいだと、誰もが同じことを思ったのだろう。

 

 ハズキとアズサ、ユウコとナツキ、サリーとクミコが順番に部屋を出ていく。

 最後に扉のところでクミコが一度だけ振り返った。

 

「エリンさん」

 

「なに?」

 

「……今日は、本当にありがとうございました」

 

 さっき皆んなの前でも言った言葉だった。

 けれど今は、もっと個人的な、静かな響きがあった。

 

 エリンは少しだけ目を細めて答える。

 

「うん。こちらこそ、ありがとう。おやすみ」

 

「おやすみなさい」

 

 クミコは深く頭を下げて、そっと扉を閉めた。

 

 部屋に残ったのは、エリンと、ミラと、ランだけだった。

 

 

 扉が閉まってからも、しばらく三人は黙っていた。

 

 静かだった。

 さっきまでの賑やかさが嘘みたいに、部屋の中に夜の気配が満ちていく。

 遠くで空調の回る音がかすかに聞こえ、窓の外には観測ステーションの人工灯が点々と並んでいた。

 皆んなが帰ったあとの部屋には、食事の匂いと、まだ抜け切っていない笑いの余韻と、それから一日を終えた者にだけ分かる、少しだけ寂しい静けさが残っている。

 

 エリンは立ち上がると、机の端に寄せていたゴミ袋を手に取り、空になった容器をまとめ始めた。

 ミラもすぐに動く。

 

「私もやります」

 

「ありがとう」

 

 ランも静かに袋を持ち上げる。

 

「これ、分別した方がいいですよね」

 

「ええ。こっちが紙で、こっちがプラスチック」

 

 三人で片づけ始めると、狭かった部屋の中の動きも自然に落ち着いていった。

 こういうところが、昔からミラとランらしいとエリンは思う。

 楽しく笑っていても、最後にちゃんと空気を整えるのを忘れない。

 だからエリンは、この二人を信頼している。

 

 だが、その静かな後片づけの最中に、ミラがふと口を開いた。

 

「エリンさん」

 

「なに?」

 

 エリンは振り返らずに応じる。

 だが、ミラの声のトーンで、雑談ではないとすぐに分かった。

 

「前のフライトから、ずっと気になっていたんですけど」

 

 そこで一度言葉を切る。

 その代わりに、ランが横から静かに続けた。

 

「エリンさん、フライト中、引くことが多くなっていませんか?」

 

 その言葉に、エリンの手がほんの少しだけ止まった。

 

 だが、驚いた顔はしない。

 いつか聞かれると思っていたのだろう。

 

 ゴミ袋の口をまとめてから、ようやく二人へ向き直る。

 

「……やっぱり、気づいてたのね」

 

 ミラとランは、同時に小さく頷いた。

 

「はい」

 

「前の定期便の頃から、少しずつ」

 

 ランの言葉は柔らかい。

 だが、その中にはごまかしたくないという意思がはっきりあった。

 

 ミラも続ける。

 

「もちろん、全部放ってるとか、見てないとか、そういう意味じゃないです」

 

「うん」

 

「むしろ、すごく見てくださってるのは分かります。でも……」

 

 ミラはそこで少し迷う。

 言葉の選び方を間違えたくないのだろう。

 

「前だったら、エリンさんならここで入るだろうなってところで、一歩引いて見てることが増えた気がして」

 

 エリンは、二人の顔を順番に見た。

 ミラの目はまっすぐだ。

 ランの目は穏やかだが、その奥に揺らぎがある。

 

 この問いは、責めているのではない。

 でも、不安でもあるのだろう。

 自分達が何か見落としているのか。

 それともエリンの中で、もうどこか次の段階へ進んでしまっているのか。

 そんなことまで、二人は感じ取っているのかもしれない。

 

 エリンは、少しだけ息を吐いた。

 

「信頼してるからよ」

 

 まずは、そう答える。

 

 短くて、正しい答えだった。

 だが、ミラとランの表情はそれで晴れなかった。

 

 ミラがほんの少しだけ眉を寄せる。

 

「それは……分かるんです」

 

「はい」

 

 ランも頷く。

 

「でも、それだけではないですよね」

 

 静かな指摘だった。

 

 エリンは少しだけ目を伏せた。

 この二人に対して、曖昧な答えでは駄目だ。

 もう、そんな段階ではない。

 

 部屋の中の明かりが、三人の間に落ちる。

 遠くでまた空調の音が回る。

 

 エリンはベッドの端へ腰を下ろした。

 

「座って」

 

 そう言うと、ミラとランも近くの椅子とソファへ座った。

 自然と、少し改まった空気になる。

 

 エリンは両手を膝の上で軽く組み、少しだけ言葉を探してから話し始めた。

 

「私は、出向という形でここにいるの」

 

 その一言で、二人の背筋が少しだけ伸びる。

 

「それは、分かってるつもりでした」

 

 ミラが静かに言う。

 

「でも、あまり意識しないようにしてたんだと思います」

 

 ランの声音は穏やかだったが、その言葉は本音だった。

 

 エリンは小さく頷く。

 

「うん。私も、必要以上に口にしないようにはしてた」

 

 それは、あえてだった。

 “自分はいつかいなくなる”という前提を最初から強く出しすぎると、ここにいる皆の心が落ち着かない。

 それに、エリン自身も、最初から“いずれ戻る人間”として距離を取りたくなかった。

 

「でも、事実として私は出向で来てる。ずっとここにいるわけじゃない」

 

 その言葉が、静かに部屋へ落ちる。

 

「いずれ、ハワード財閥の旅行会社に戻る」

 

 ミラの喉が小さく動く。

 ランの指先が、膝の上でそっと重なった。

 

 分かっていたはずなのに、改めて言葉にされるとやはり重い。

 

「その時に、皆んなが“エリンがいないと回らない”じゃ駄目なのよ」

 

 エリンはまっすぐに言った。

 

「それじゃあ、私がここに来た意味がない」

 

 ミラが視線を落とす。

 ランは黙って聞いている。

 

「最初にここへ来た時、スペースホープは正直、ほとんど崩れてた」

 

 エリンの声は静かだった。

 責める色はない。

 ただ、現実をそのまま見つめている声だ。

 

「乗務員の技術も足りなかった。自信も誇りもなくなってた。部署同士の繋がりも弱かった。何より、“この会社をもう一度立て直すんだ”って本気で思ってる人が、少なかった」

 

 それは、あの頃の旅行事業部を知る二人には痛いほど分かる話だった。

 ミラとラン自身も、ミラとランだからこそ持ちこたえていたようなものだ。

 もしエリンが来なければ、自分達もいずれどこかで折れていたかもしれない。

 そう思うことすらある。

 

「だから最初は、私が前に出るしかなかった」

 

 エリンは続ける。

 

「前で空気を作って、後ろで拾って、誰かが崩れたら自分で戻して、全部のバランスを自分で持つしかなかった」

 

「……はい」

 

 ミラが小さく返す。

 

「でも、今は違う」

 

 エリンははっきりと言う。

 

「ミラもランも、もうあの頃とは全然違う。クミコも、ユウコも、ナツキも、サリーも、アズサも、ハズキも、皆んなちゃんと自分の役目を持ち始めてる」

 

 その一人ひとりの名前が出るたびに、二人の目がほんの少しだけ揺れた。

 

「だから私は、少しずつ引いてる」

 

「……やっぱり」

 

 ミラがぽつりと呟く。

 

「ええ」

 

 エリンは頷く。

 

「ただの信頼だけじゃない。必要だから、引いてるの」

 

 ランが静かに問う。

 

「必要、ですか」

 

「そう」

 

 エリンはランを見る。

 

「私が全部拾い続けたら、皆んなはいつまでも“私がいる前提”で動くようになる」

 

 その言葉は、残酷なようでいて、厳しい現実だった。

 

「それは安心でもあるけど、成長の邪魔にもなる」

 

 ミラはそこで、小さく息を吐いた。

 

「たしかに……そうかもしれません」

 

「ミラは、前方の空気をもう自分で持てるわ」

 

 エリンは、ミラへ視線を向けた。

 

「前は“明るさで何とかしよう”としてた。でも今は違う。相手の呼吸を見て、置く言葉を選んでる。あれはもう、“前に立てる人”のやり方よ」

 

 ミラは、そんなふうに真正面から言われると思っていなかったのか、少しだけ言葉を失った。

 

「私なんて、まだ……」

 

「まだ足りないところがあるのは当然よ」

 

 エリンがすぐに言う。

 

「でも、“足りない”と“立てない”は違う」

 

 その一言が、ミラの胸へ深く入る。

 

 エリンは今度はランを見る。

 

「ランもそう」

 

「……はい」

 

「貴方は全体を整える力がある。静かな子を見落とさないし、空気が乱れた時にどこへ手を入れればいいかも分かってる」

 

 ランは目を伏せた。

 褒められているのに、素直に受け取りきれないのは、自分の中にまだ“私は支える側で、前に立つ側ではない”という感覚が強いからだ。

 

「でも、それだけじゃ駄目」

 

 エリンの声はやはり厳しい。

 

「貴方は整えられるからこそ、前にも立てるようにならないといけない」

 

 ランが顔を上げる。

 

「前に……ですか」

 

「ええ」

 

「私は、ミラの方が……」

 

「もちろん、ミラは前に立つ力がある」

 

 エリンは頷く。

 

「でも、チーフパーサーって一人しかいないわけじゃないのよ」

 

 その言葉に、二人とも一瞬、目を瞬かせた。

 

「ミラとランは、チーフパーサーにまで行かないといけない」

 

 部屋の空気が、そこでまた少しだけ張りつめる。

 

 エリンは、はっきり言い切った。

 

「他のみんなもそう。皆んな、副パーサークラスの実力はつけないといけない」

 

 ミラが思わず口を開く。

 

「副パーサークラス……全員ですか?」

 

「ええ」

 

 エリンは迷いなく頷く。

 

「もちろん、今すぐじゃない。でも、目指す場所はそこ」

 

 ランが、少しだけ苦しそうに微笑む。

 

「随分と高いですね」

 

「高いわよ」

 

 エリンはさらりと答えた。

 

「でも、今のスペースホープに必要なのはそれくらい」

 

 そう言ってから、少しだけ視線を遠くへ向けた。

 

「仕事を取って、フライトを回して、会社として信頼を取り戻す。そのためには“誰か一人がすごい”じゃ足りないの。乗務員一人ひとりが、次の一手を読めるくらいじゃないと」

 

 それは、ドルトムントで見てきた現実でもあったのだろう。

 エリンの言葉には、経験の重みがある。

 理想論ではなく、実際にそういう客室を知っている人の言い方だった。

 

「だから私は、引いてるの」

 

 もう一度、同じことを言う。

 

「見てる。支えてる。必要なら入る。でも、前よりは引く。そうしないと、皆んなが“自分で持つ”練習にならないから」

 

 ミラは、膝の上で手を組み直した。

 

「……それって」

 

 少しだけ言いにくそうにしてから、ようやく続ける。

 

「私達にとっては、少し怖いです」

 

 ランも静かに頷いた。

 

「はい。信頼してくださっているのは分かります。でも、同時に……少しずつ手を離されていくみたいにも感じてしまって」

 

 その本音は、静かで、でもとても切実だった。

 

 エリンは、二人の顔をしっかり見た。

 

 ミラの目には、寂しさがある。

 ランの目には、不安と、それでも理解したいという意思がある。

 

 エリンはそこで、少しだけ表情を和らげた。

 

「手を離してるわけじゃないわよ」

 

 その声は柔らかかった。

 

「むしろ逆。前よりもっと、ちゃんと見てる」

 

 二人とも顔を上げる。

 

「前は、見てる余裕がなかったの。自分で動かなきゃいけなかったから」

 

 その言葉に、二人は息を呑む。

 

「でも今は、皆んなが持てるようになってきたから、その分ちゃんと見られるようになった。誰がどこで迷うか、誰が何に向いてるか、どのタイミングで押せば伸びるか」

 

 エリンはゆっくり続けた。

 

「だから、手を離してるんじゃない。次の場所へ押してるの」

 

 ミラの胸がじんわり熱くなる。

 ランも、目を伏せたままその言葉を受け止めていた。

 

「それに」

 

 エリンは少しだけ笑った。

 

「私はまだ、帰らないわよ」

 

 その一言に、二人が同時に顔を上げた。

 

「え?」

 

「ええ」

 

 エリンは肩をすくめる。

 

「いずれ戻る、とは言った。でも、それは“今すぐ”じゃない。ちゃんと皆んなが自分で持てるようになるまでは、帰るつもりないわ」

 

 ミラが思わず声を落とす。

 

「……よかった」

 

 それはほとんど無意識だった。

 言ってしまってから少し気恥ずかしくなったのか、ミラは視線を逸らす。

 

 だがエリンは何も茶化さない。

 ただ、そう言ってもらえたことが少し嬉しそうだった。

 

 ランが小さく笑う。

 

「では、私達はまだ甘えていていいんですね」

 

「それは違う」

 

 エリンが即答する。

 

 あまりにもはっきりしていて、三人とも少し笑ってしまった。

 

「甘えるのは違うわ」

 

 エリンも笑いながら言う。

 

「でも、頼るのはいい。分からないことを分からないままにしないで。怖いなら怖いって言って。自信がないなら、その自信がどこで抜けるのかを一緒に見つける。それは、まだ私の役目でもあるから」

 

 ランは、その言葉にゆっくり頷いた。

 

「……はい」

 

「ミラも」

 

「はい」

 

「貴方達はもう、守られる側じゃない。でも、いきなり全部を背負う側でもない」

 

 エリンは二人を見つめる。

 

「その間を、今やってるのよ」

 

 ミラは、そこでようやく自分の中のもやもやが少し晴れていくのを感じた。

 そうか。

 エリンが前ほど入ってこないのは、見限られたからではない。

 押し出されているのだ。

 次の場所へ。

 次の役目へ。

 

 怖い。

 でも、誇らしい。

 そんな、両方の気持ちが胸へ広がる。

 

「……エリンさん」

 

 ミラが小さく呼ぶ。

 

「なに?」

 

「私、ちゃんとチーフパーサーになれますか」

 

 その問いは、半分冗談みたいに聞こえるかもしれない。

 だが、本気だった。

 ミラは明るい。

 前にも立てる。

 でも、自分の中にはまだ“私は誰かの背中を追う側だ”という感覚が強く残っている。

 

 エリンは、少しも迷わず答えた。

 

「なれるわよ」

 

「……そんなにあっさり」

 

「だって、なれるもの」

 

 その言い切り方に、ミラは少しだけ笑った。

 

「ランも」

 

 急に名前を呼ばれ、ランが目を瞬かせる。

 

「はい」

 

「なれるわよ」

 

 ランは、ほんの一瞬だけ返事ができなかった。

 

 その言葉が、自分にも向けられるとは思っていなかったのだろう。

 やがて、ゆっくりと頷く。

 

「……はい」

 

 その“はい”は、いつものようにきれいだったが、少しだけ震えていた。

 

 エリンは、そんな二人を見て、少しだけ微笑んだ。

 

「ただし、簡単にはなれないけどね」

 

「やっぱり」

 

 ミラが苦笑する。

 

「当然でしょ」

 

 エリンも笑う。

 

「だから明日も、ちゃんと見てるわよ」

 

「それはもう、覚悟してます」

 

 ミラが肩をすくめると、ランも小さく笑った。

 

「私もです」

 

 部屋の中の空気は、最初にこの話を切り出した時よりずっと柔らかくなっていた。

 さっきまで残っていた不安や寂しさは、まだ完全になくなったわけではない。

 でも、それはもう“分からない不安”ではなく、“これから越えるべき段差”として見え始めている。

 

 エリンは立ち上がり、空になったお茶のカップを手に取った。

 

「さて」

 

 小さく区切るように言う。

 

「明日もあるんだから、そろそろ寝なさい」

 

「はい」

 

 ランが素直に返す。

 

「ミラも」

 

「はいはい」

 

「その返事は何よ」

 

「すみません」

 

 そんなやり取りに、また小さな笑いがこぼれる。

 

 二人も立ち上がった。

 

 扉の前まで来て、ミラが一度だけ振り返る。

 

「エリンさん」

 

「なに?」

 

「私、頑張ります」

 

 それはまっすぐな宣言だった。

 

 エリンは、少しだけ目を細める。

 

「うん。頑張りなさい」

 

「はい」

 

 今度の返事は、さっきよりもずっと腹から出ていた。

 

 ランも、その隣で静かに頭を下げる。

 

「私も、もっと持てるようになります」

 

「期待してるわ」

 

 エリンがそう返すと、ランはほんの少しだけ笑った。

 

「はい」

 

 そして二人は部屋を出ていく。

 

 扉が閉まる。

 再び、静かな夜が部屋へ戻ってくる。

 

 エリンはひとり、しばらくその扉を見ていた。

 それから小さく息を吐き、机の上に広げた報告書へ視線を戻す。

 

 疲れている。

 でも、不思議と心は少し軽かった。

 

 ミラもランも、もう次の場所へ進み始めている。

 他の皆んなも、少しずつその背中を追っている。

 

 だから、自分は引く。

 見て、支えて、必要なら押す。

 そうやって、いずれ自分がいなくても持てる客室を作る。

 

 それはきっと、寂しいことではない。

 むしろ、ここへ来た意味そのものなのだと、今のエリンは前より少しだけはっきり分かっていた。

 

 机へ戻り、報告書の続きを開く。

 窓の外には、火星ステーションの灯りが静かに並んでいる。

 

 明日も、まだ長い一日になる。

 けれど、きっと大丈夫だ。

 

 エリンはそう思いながら、もう一度端末へ指を置いた。

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