サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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定期報告

 地学研修二日目も、結局のところ大きな混乱なく終わった。

 

 観測ステーションでの講義や見学を終えた生徒達は、初日とは明らかに顔つきが変わっていた。

 宇宙船に乗る前の、期待と不安が入り混じった表情ではない。自分の目で見て、自分の足で歩いて、観測機器に触れ、火星周回ステーションという場所を体感した者の顔だ。興奮は残っている。だが、それは落ち着きのない騒ぎ方ではなく、心の奥に何かを持ち帰った時の熱に近かった。

 

 帰りのフライトは、行きとはだいぶ空気が違った。

 

 最初の便では、宇宙船に慣れること、不安を取り除くこと、体調の変化を見逃さないことに神経を注いだ。

 だが帰りは違う。生徒達の緊張はほどけ、客室そのものに余裕が生まれていた。

 

 安定飛行に入ると、ミラが食堂の一区画を開け、ランがラウンジの窓際側の流れを整え、クミコが教員達と生徒達の動きを見ながら人数をうまく振り分けていく。

 ユウコとナツキは、飲み物を持っていくついでに自然と会話へ入り、サリーとアズサは静かな子達にも無理なく輪が広がるように動いていた。ハズキは明るさを抑えすぎず、でも軽くなりすぎないところで笑顔を置いていく。

 

 食堂では、観測した内容をもうノートに書き始めている生徒もいれば、窓の外を見ながら「実際に見た方が、教科書より全然すごかった」と素直に言葉を漏らす子もいた。

 ラウンジでは、スワレが身振り手振りを交えて講義で聞いた話を再現しようとして、メノリが「お前は説明より勢いが先だな」と呆れつつも横から補足していた。

 少し離れた席では、行きのフライトで体調を崩した少女が、今度は落ち着いた顔で温かい飲み物を両手で持ちながら、教員と静かに話をしていた。時折、客室乗務員の姿を目で追うが、その視線にはもう不安よりも安心が宿っている。

 

 エリンは、客室の中央より少し後方に立ちながら、その全部を見ていた。

 

 余裕がある。

 それは、単にトラブルがないという意味ではない。

 乗務員達一人ひとりが、自分の持ち場で考えて動けているからこそ生まれる余裕だ。

 

 ミラはもう、前方の空気を自分で持てる。

 ランは、ただ整えるだけでなく、必要な時には自分から場を動かしていた。

 クミコは先頭に立ちながら、前へ急がせない。

 ユウコは自分の明るさの置き方を掴み、ナツキは“後ろから支える”から“一歩前へ出て支える”へ変わりつつある。

 サリーは気づきの先にある一歩を迷わなくなり、アズサは柔らかな声で人を安心させる術を身につけ始めていた。

 ハズキは、元気さと安心感の違いを、自分の身体で少しずつ理解してきている。

 

 エリンは、その背中を見て、小さく息を吐いた。

 

 ちゃんと、育っている。

 

 それが何より嬉しかった。

 

 

 火星のエアポートに到着し、ハッチが開く。

 帰りの生徒達は、行きの時よりずっと自然な足取りで降りていった。

 

「ありがとうございました!」

「すごく楽しかったです!」

「また乗りたいです!」

 

 そんな声が、あちこちから飛ぶ。

 

 ハズキが嬉しそうに笑い、アズサが「ありがとうございます」と何度も頭を下げる。ミラは最初の一歩を受け止めながら、最後まで気を抜かずに見送っていた。ランは後方から全体を見つつ、静かな子達にも必ずひと言を返す。クミコは教員達の荷物まで最後に確認していた。

 

 メノリも列の中にいた。

 行きよりも少しだけ表情が柔らかくなっている。エリンと目が合うと、小さく会釈した。

 

「どうだった?」

 

 エリンが優しく尋ねると、メノリは一度だけ静かに息を吐いた。

 

「とても良かったです」

 

 エリンは思わず口元を緩めた。

 

「そう。ならよかった」

 

「……リュウジにも、よろしくお伝えください」

 

 メノリはそう言ってから、少しだけ気まずそうに目を逸らす。

 

「今度はちゃんと話します」

 

「ええ、伝えておくわ」

 

 その横でスワレが「えー!? 何その意味深な感じ!」と騒ぎ、メノリが「うるさい、早く行くぞ」と押していく。そんな姿まで含めて、帰りの空気は明るかった。

 

 教員達もまた、最後にエリンへわざわざ足を止めた。

 

「本当にありがとうございました」

 

 最初に頭を下げたのは女性教員だった。

 その横で青年教師も深く頷く。

 

「行きは正直、ここまできめ細かく見ていただけるとは思っていませんでした」

 

「生徒達も、とても安心して過ごせていたと思います」

 

 年配の男性教員も続ける。

 

「特に体調を崩した子への対応、本当に助かりました。あのまま不安が広がっていたら、他の生徒達もかなり揺れていたはずです」

 

 エリンは静かに頭を下げた。

 

「いえ。先生方がすぐに連携してくださったからです」

 

「それでもです」

 

 女性教員は柔らかく笑った。

 

「帰りの便で、皆がラウンジや食堂で学んだことを話し合えていたのも、客室の空気が良かったからだと思います」

 

 その言葉は、エリンにとって何より嬉しかった。

 この便がただの移動で終わらず、研修の一部として機能していた証だからだ。

 

「またお願いしたいです」

 

 青年教師が率直に言う。

 

「こちらこそ、ありがとうございました」

 

 エリンはそう返し、最後まで頭を下げた。

 

 生徒達と教員達の背中がエアポートの人混みの中へ消えていく。

 その光景を見送りながら、エリンは胸の奥で静かに思った。

 

 ひとまず、この便は成功だ。

 

 

 スペースホープの会社へ戻ると、旅の余韻に浸る暇もなく、いつもの空気が迎えた。

 

 旅行事業部のフロアを抜けてシュミレーションルームへ向かうと、そこではククルの指導のもと、ミドリ、マユ、その他の乗務員達が訓練をしていた。

 

「はい、そこ! もう一回!」

 

 ククルの元気な声が響く。

 その声に混じって、乗務員達の返事と足音が揃う。

 明るいが、遊んでいる空気ではない。ちゃんと“訓練”の熱がある。

 

 エリンが扉のところへ立つと、ククルが真っ先に気づいた。

 

「あ! エリンさん!」

 

 その声に、ミドリもマユも、他の乗務員達も一斉に振り向く。

 

「皆んな、お疲れ様」

 

 エリンがそう言うと、訓練していた面々が一斉に駆け寄ってきた。

 

「おかえりなさい!」

「どうでしたか!?」

「無事終わったんですか?」

 

 質問が重なる。

 エリンはその勢いに少し笑ってから、ククルへ視線を向けた。

 

「ククル、ありがとう」

 

「いえ、今日までお手伝いの約束でしたから」

 

 ククルは少し照れくさそうに頭をかいた。

 だが、その顔にはやりきった満足感がある。

 

「しっかり訓練をやっていたのね」

 

「はい!」

 

 ククルが元気よく頷く。

 

「そちらはどうでしたか?」

 

「こっちも大丈夫よ」

 

 エリンがそう答えると、シュミレーションルームの空気がふっと明るくなった。

 皆、気にしていたのだ。

 教育研修便としての初の本格的なフライトがどうなったのかを。

 

「よかったぁ」

「やっぱりエリンさんなら大丈夫ですよね」

「ミラさん達もすごかったんだろうな……」

 

 そんな声が上がる。

 

 エリンは、その全部を一度受け止めた。

 それから何か言おうとした、その時だった。

 

 

 携帯端末が鳴った。

 

 着信表示を見て、エリンは少しだけ目を瞬かせる。

 

「ペルシア……?」

 

 その名前を口に出した瞬間、ククルが「おっ」と目を輝かせ、ミドリとマユも少しだけ興味深そうな顔をする。エリンは苦笑しながら、一歩だけ部屋の端へ移動して通話に出た。

 

「もしもし」

 

『エリン!? 今大丈夫!?』

 

 ペルシアの声は、開口一番から妙に高かった。

 興奮している。

 それもかなり。

 

「大丈夫だけど、どうしたの?」

 

『決まったのよ! 未探索領域の調査!』

 

 エリンの目が少しだけ見開かれる。

 

「未探索領域……?」

 

『そう! やっとよ! 正式決定! しかも操縦はもちろんリュウジ!』

 

 その声の勢いは止まらない。

 

『久しぶりにラ・スペランツァの再集結よ!』

 

 その単語が耳に入った瞬間、エリンの胸の奥が小さく跳ねた。

 

 ラ・スペランツァ。

 

 それは、ただのチームの名ではない。

 苦しかったことも、笑ったことも、守られたことも、守ったことも、全部がそこへ繋がっている。

 

 エリンは、思わずシュミレーションルームの床へ視線を落とした。

 

『もちろんエリンも行くよね?』

 

 ペルシアが当然のように言う。

 

 その問いに、エリンはすぐに返事が出来なかった。

 

 行きたい。

 その気持ちは確かにある。

 未探索領域。

 ラ・スペランツァの再集結。

 リュウジが操縦し、ペルシアがいて、自分もそこへ乗る。

 その光景を想像しただけで、胸の奥に灯るものがある。

 

 でも――。

 

 エリンは少しだけ目を閉じた。

 

「……少し考えさせて」

 

『えっ?』

 

 ペルシアの声が少しだけ落ちる。

 予想外だったのだろう。

 

『考えるって、どういうこと? エリン、こういうの絶対来ると思ったのに』

 

「そうなんだけど……」

 

 エリンは言葉を濁す。

 今、うまく説明できる気がしない。

 

『もしかして、スペースホープ?』

 

 さすがに勘がいい。

 エリンは小さく息を吐いた。

 

「……うん」

 

 その短い返事で、ペルシアはだいたい察したらしい。

 しばらく無言になり、それから少しだけ真面目な声で言った。

 

『分かった。じゃあ、すぐに返事しろとは言わない』

 

「ありがとう」

 

『でも、ちゃんと考えてよ。これはエリンにとっても大きい話なんだから』

 

「うん」

 

『じゃあ、また連絡する』

 

 通話が切れる。

 

 エリンは、端末を手にしたまましばらく動かなかった。

 

 未探索領域の調査。

 ラ・スペランツァ。

 久しぶりの再集結。

 

 心は、確かに揺れていた。

 

 その時だった。

 

「エリンさん!」

 

 今度は別の声が飛び込んできた。

 

 振り返ると、総務の若い女性が息を切らしながら走ってきていた。

 どうやら旅行事業部のフロアから、エリンを探してここまで来たらしい。

 

「エリンさん! 大変です!」

 

 その切羽詰まった様子に、周囲の空気が一瞬だけ張る。

 ククルまで思わず背筋を伸ばした。

 

「落ち着いて」

 

 エリンはすぐに言う。

 

「どうしたの?」

 

 総務の女性は何度か息を整えてから、ぱっと顔を上げた。

 

「旅行フライトの予約が入ってきました!」

 

 一瞬、エリンは意味を取りそこねた。

 

「……え?」

 

「旅行フライトです! しかも一件じゃありません!」

 

 総務の子は興奮したように続ける。

 

「なんでも、リディアっていう人の紹介ということで、火星の学校からたくさんです!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、シュミレーションルームの空気が弾けた。

 

「ええっ!?」

「本当ですか!?」

「やった!!」

「ついに来た!」

 

 ククルが真っ先に飛び跳ねそうな勢いで喜び、ミドリとマユも思わず顔を見合わせる。

 今までずっと、エリンと社長が営業に回り、頭を下げ、断られ、ようやく繋いだ一件があった。

 そこから、今度は紹介で次の予約が入る。

 それは、会社にとってただの予約以上の意味を持つ。

 

 エリンは、その場で少しだけ目を伏せた。

 

「それは良かったわ」

 

 声は落ち着いていた。

 だが、その胸の内は複雑だった。

 

 良かった。

 本当に良かった。

 スペースホープは、ようやくここまで来たのだ。

 最初の一便が次へ繋がり、紹介で仕事が入る。

 それは再建の流れが本物になり始めた証拠だ。

 

 けれど同時に、その知らせは別の意味も持っていた。

 

 今、この会社を離れられるのか。

 ラ・スペランツァの再集結に心が揺れる一方で、ここから本格的に走り出すスペースホープを置いていけるのか。

 

 ククルが嬉しそうに言う。

 

「すごいじゃないですか! エリンさん!」

 

「うん……そうね」

 

 エリンは微笑んだ。

 ちゃんと笑えていたか、自分では少し分からなかった。

 

 総務の女性はまだ興奮冷めやらぬ様子で言う。

 

「社長も大喜びで、すぐにエリンさんに共有してって!」

 

「分かったわ。詳しい内容、後で全部見せて」

 

「はい!」

 

 総務の子はぱっと頷いて、また走って戻っていった。

 

 ククルや他の乗務員達はまだざわざわしている。

 喜びと期待が、部屋の中で一気に膨らんでいた。

 

 エリンはその空気の真ん中に立ちながら、胸の奥で静かに二つの道を見ていた。

 

 未探索領域。

 ラ・スペランツァ。

 

 そして、今ようやく風を受け始めたスペースホープ。

 

 どちらも、自分にとって大事なものだった。

 

 だからこそ、その喜びの中で、エリンだけが少しだけ複雑な顔をしていた。

 

 

ーーーー

 

 

 その夜、エリンは久しぶりに、誰もいない自宅の静けさを強く感じていた。

 

 スペースホープの会社から戻り、玄関の扉を閉めた瞬間に、外の空気と切り離されたような感覚があった。

 部屋の中は、朝に出た時のまま整っている。

 脱ぎっぱなしの服もなければ、散らかった書類もない。小さなリビングに置かれたテーブルとソファ、壁際の棚、観葉植物、淡い色の照明。そのどれもが、慣れた自分の生活の一部なのに、今日ばかりは少しだけ遠く感じた。

 

 エリンは上着を脱ぎ、鞄をソファの横へ置くと、そのままゆっくりと腰を下ろした。

 

 疲れていないわけではない。

 むしろ、身体はかなり重かった。

 地学研修の二日間、緊張の高いまま客室を持ち、教員達と連携し、生徒達の体調にも気を配り、ステーションとの段取りも見てきた。

 乗務員達はよくやった。

 ミラもランも、クミコも、ユウコも、ナツキも、サリーも、アズサも、ハズキも、それぞれの場所でちゃんと役目を果たした。

 会社へ戻ったあと、ククルが嬉しそうに“どうでしたか?”と聞いてきた顔も思い出せる。

 旅行フライトの予約が新たに入ったと総務の子が駆け込んできた時の、あのシュミレーションルームの空気も、まだはっきり身体の中へ残っていた。

 

 それなのに、今、自宅の静けさへ身を沈めると、心は別の場所へ流れていった。

 

 ラ・スペランツァ。

 

 その名前を心の中で呼んだだけで、胸の奥が少し熱を帯びる。

 

 目を閉じると、狭い宇宙船の中の空気が、驚くほど鮮やかに蘇った。

 

 コックピットにいるリュウジ。

 操縦席へ座り、前を見据えたまま、それでもこちらの気配や声をちゃんと拾っている。

 必要な時には短く、必要以上のことは言わないくせに、誰かが限界を越えそうになった瞬間には、何もかも見えていたような顔で手を打つ人。

 

 リュウジの隣ではチャコが騒いでいる。

 あの独特の調子で、緊張しかけた空気をぐしゃっと崩して、でも崩しっぱなしにはせず、気づいたら皆の呼吸を元へ戻している。

 元気で、うるさくて、でも不思議なくらい頼もしい。

 

 座席の間ではクリスタルがいて、落ち着きながら人の表情の変化を早く拾っていた。

 “別に、当然でしょ”みたいな顔をしながら、大事なところは絶対に外さない。

 

 サツキは機材や整備を見ながら、飄々としているようでいて、いざという時に頼りになる。

 マリは管理局側の連絡や調整を引き受け、全体の流れが止まらないよう、裏側でいくつもの糸を結んでいた。

 

 そして、無線機から聞こえてくるペルシアの声。

 軽い。

 明るい。

 でも、あの声が一本入るだけで、狭い船内の空気がどこか温かくなる。

 冗談を言っているように聞こえるのに、肝心な時には誰よりも早く真実へ辿り着いている。

 昔からそうだった。

 

 狭い宇宙船の中なのに、あの空間はどこか暖かくて、心地よかった。

 

 それは、豪華だからでも、最新だからでもない。

 むしろ、時には窮屈で、余裕もなくて、常に何かしらが起こる船内だった。

 それでも、あの場所には確かに“帰る”と言いたくなるような空気があった。

 

 エリンはソファへ背を預けたまま、小さく息を吐いた。

 

 やっぱり、行きたい。

 

 その気持ちは嘘じゃなかった。

 未探索領域の調査。

 ラ・スペランツァの再集結。

 リュウジが操縦し、ペルシアが無線で騒ぎ、チャコがいて、クリスタルがいて、サツキとマリもいる。

 その中へ、自分も乗る。

 想像するだけで、胸が強く引かれる。

 

 けれど――。

 

 エリンは目を開け、天井を見上げた。

 

 今のスペースホープは、ようやく予約が入り始めたところだ。

 地学研修便の成功が、次の仕事に繋がった。

 それは、本当に大きい。

 会社が“もう一度仕事を任せてみよう”と思われ始めた証拠だ。

 ここを逃せば、せっかく繋がった流れが途切れるかもしれない。

 

 チーフパーサーである自分が抜けるわけにはいかない。

 

 いくら乗務員達が育ってきているとはいえ、まだまだ技術的に足りないところはある。

 今日の便だって、たしかに上手く回った。

 でもそれは、教育研修便という比較的管理しやすい条件だったからだ。

 旅行フライトになればまた違う。

 客層も変わる。

 期待される“楽しさ”の質も変わる。

 乗客が求める空気も、同行者との関係も、スケジュールの詰まり方も、全部違ってくる。

 

 それに何より、本番で力を発揮できずに悔しい思いをするのは、乗務員自身だ。

 

 今のミラとランなら、かなり持てる。

 クミコも、先頭へ立つ力を伸ばしている。

 ユウコとナツキの連携も、かなり見えてきた。

 サリーは静かな強さを持っているし、アズサは柔らかく人を支えられる。ハズキも、粗さはありながら、場を明るくする力は本物だ。

 

 でも、まだ足りない。

 

 せめて、あと一人。

 

 副パーサークラスの乗務員が、あと一人いれば。

 

 そうすれば、ミラとランに何か負荷が偏った時、全体を拾える層が厚くなる。

 クミコを押し上げるのか。

 ユウコか。

 ナツキか。

 あるいは別の誰かなのか。

 そこまでは、まだ見極めきれていない。

 だが、“あと一人”の存在が今のスペースホープには決定的に必要だということだけは、エリンにもはっきり分かっていた。

 

 ぼんやりとそんなことを考えていると、壁際に掛かったカレンダーが目に入った。

 

 エリンは少しだけ身体を起こし、日にちを確かめる。

 

 ――そういえば。

 

 今週は、一度、ハワード財閥の旅行会社に定期報告へ行く日がある。

 

 それは、出向している身として当然の義務でもあった。

 スペースホープでの進捗、予約状況、乗務員育成の状況、今後の見通し。

 定期的に報告し、必要があれば向こうから意見を受ける。

 それだけのはずの場だ。

 だが今のエリンには、そこが一つの分岐点にも思えた。

 

 一度、そこで相談してみよう。

 

 今のスペースホープの状況。

 未探索領域での調査の件。

 そして、副パーサーの件。

 

 自分一人で抱えて決めるには、どれも少しだけ重すぎる。

 ハワード財閥の旅行会社には、より高いレベルの現場を知る人達がいる。

 何より、自分をここへ送り出した側の人間でもある。

 ならば、一度きちんと現状を見せたうえで、意見をもらうべきだろう。

 

 エリンはそう決めると、ようやく胸の中のもやが少し晴れた気がした。

 

「……よし」

 

 小さくそう呟いて立ち上がる。

 端末を取りに行き、まずはチーフパーサーへ連絡を入れることにした。

 

 

 連絡は、思っていたよりもずっとあっさり通った。

 

『もちろん構わないわよ』

 

 端末越しに聞こえたチーフパーサーの声は、いつものように落ち着いていた。

 

『むしろ、向こうへ現状を見せるなら、スペースホープの乗務員も一緒に連れて行った方がいいでしょう』

 

 エリンは少しだけ肩の力を抜く。

 

「ありがとうございます」

 

『誰を連れて行くかは、あなたに任せるわ。今のあの子達に必要なのは、“現場だけじゃない空気”を見ることでもあるもの』

 

 その言い方に、エリンは小さく頷いた。

 やはり、チーフパーサーも同じことを考えているらしい。

 

『ただし』

 

 そこで少しだけ声のトーンが変わる。

 

『見学じゃなくて、“次に繋げるため”に連れて行くのよ。そこは忘れないで』

 

「はい」

 

『あなたなら大丈夫でしょうけど』

 

 最後にそう付け加えて、通話は終わった。

 

 エリンは端末を下ろし、少し考え込んだ。

 

 誰を連れて行くべきか。

 

 まず一人は、クミコだとすぐに決まった。

 彼女は責任感が強い。

 強すぎるくらいだ。

 だからこそ、今の自分の視野がどれだけ広がるべきかを知る必要がある。

 ハワード財閥の旅行会社の空気を見ることは、クミコにとって大きいはずだ。

 “先頭に立つ”ということの意味を、もっと具体的に掴めるだろう。

 

 もう一人を誰にするかで、エリンは少し迷った。

 

 ミラやランを連れて行くという選択肢もある。

 けれど、二人はもうスペースホープの中で見るべきものをかなり見ている。今必要なのは、これから押し上げたい層を連れて行くことではないか。

 

 どの顔を思い浮かべても、それぞれに理由はある。

 だが、少し考えた末に、エリンの中で一人の名前が定まった。

 

 マユ。

 

 決して目立つタイプではない。

 声も大きくない。

 前へ前へ出るタイプでもない。

 だが、だからこそ連れて行く意味があるとエリンは思った。

 

 マユは、緊張を隠さずに持ったまま進めるようになってきた。

 それは強みだ。

 自分が怖いことを知っている人間は、人の怖さにも敏感になれる。

 ただ、今のマユはまだ“与えられた範囲を正確にこなす”ことに力を使いすぎている。

 もう一歩先、“全体をどう見るか”という空気へ触れれば、伸び方が変わるかもしれない。

 

 クミコとマユ。

 

 責任感で前へ出る子と、静かに仕事を拾う子。

 この二人を同席させるのが、今のスペースホープにはいい気がした。

 

 エリンは、そのまま二人へ声をかけることにした。

 

 

 翌日、旅行事業部のフロアはいつものように朝の準備の空気に包まれていた。

 

 端末を立ち上げる音。

 軽い挨拶。

 訓練前の確認。

 最近は旅行フライトの予約が入り始めたこともあって、以前よりフロア全体の声色が少しだけ明るい。

 

 クミコは自席で資料を確認していた。

 ここ数日、教育便の振り返りもあって、前よりもさらに姿勢が良くなっている。

 マユはその少し離れた席で、静かに端末へ入力をしていた。

 いつものように目立たない。

 だが、周囲の動きをちゃんと拾っている視線の流れは、エリンにはよく見えていた。

 

「クミコ、マユ」

 

 エリンが声をかける。

 

 二人が同時に顔を上げた。

 

「はい」

「はい」

 

「少し、いい?」

 

 その声色に、二人とも少しだけ姿勢を正す。

 

 呼ばれた理由がすぐには分からないらしい。

 特にクミコは、“何か見落としただろうか”という顔を一瞬した。

 マユはマユで、“私に何だろう”という戸惑いがそのまま目に出ていた。

 

 エリンは二人を、フロアの少し静かな端へ連れて行く。

 周囲の乗務員達も気になったらしく、ちらりと視線を向けたが、すぐに自分の作業へ戻っていった。

 

 クミコが先に口を開く。

 

「何か、ありましたか?」

 

 その問いに、エリンは少しだけ笑った。

 

「そんなに身構えなくていいわよ」

 

「す、すみません」

 

 クミコがすぐに背筋を伸ばす。

 マユも少しだけ肩の力を抜いた。

 

 エリンは本題を切り出す。

 

「今週、ハワード財閥の旅行会社へ定期報告に行くの」

 

 その一言で、二人の目が少しだけ大きくなる。

 

「はい」

 

「それで、今回はスペースホープの乗務員も同席していいって許可をもらったの」

 

「え……?」

 

 クミコが素で驚く。

 マユもまばたきを繰り返した。

 

 エリンは、その反応を確認してから続けた。

 

「クミコとマユ、二人に一緒に来てほしいの」

 

 完全に予想外だったのだろう。

 二人とも、一瞬だけ言葉を失った。

 

「わ、私ですか?」

 

 クミコが一歩半ほど前へ出る。

 

「はい」

 

「私も……ですか?」

 

 今度はマユが、ほんの少し不安そうに問う。

 

「ええ」

 

 エリンは迷わず頷く。

 

「どうして私達を……?」

 

 クミコの問いは率直だった。

 エリンはその問いを待っていたように、すぐ答える。

 

「クミコには、もっと広い視点を見てほしいの」

 

 クミコは黙って聞く。

 

「今の貴方は、責任感で前に立てる。でも、その責任感はまだ“自分がちゃんとやらないと”の方向へ寄りがちでしょう」

 

 その指摘に、クミコはぐっと言葉を飲み込んだ。

 図星だったからだ。

 

「ハワード財閥の旅行会社の空気を見ることで、“一人で背負う責任感”じゃなくて、“全体で持つ責任”がどんなものか、少し掴めると思う」

 

 エリンはそう言ってから、今度はマユを見る。

 

「マユには、“持ち場の外”を見てほしいの」

 

 マユは少しだけ目を見開く。

 

「今の貴方は、自分が与えられた範囲を丁寧にこなす力がある。でも、それをもう一段上げるには、“その外側で何が動いてるか”を知る必要があるわ」

 

 マユは唇をきゅっと結んだ。

 不安もあるのだろう。

 でも、それ以上に、真剣に言葉を受け止めている顔だった。

 

「定期報告の場では、今のスペースホープの状況を話す。だから、二人にはただ“ついてくる”んじゃなくて、ちゃんと見て、聞いて、考えてほしいの」

 

 エリンの声音は静かだったが、その分だけ重みがあった。

 

「自分がこれからどこへ向かうのか。そのために何が足りないのか。現場だけじゃなく、外からも一度見てほしい」

 

 クミコは、胸の奥が熱くなるのを感じていた。

 選ばれた。

 それだけでも嬉しい。

 でも同時に、怖い。

 ハワード財閥の旅行会社。

 今よりも、もっと高いレベルの空気。

 そこへ自分が行って何を見るのか、想像すると緊張の方が先にくる。

 

 マユもまた、同じような気持ちだった。

 自分が選ばれるとは思っていなかった。

 目立つわけでもない。

 前へ出るのも得意ではない。

 それなのにエリンは、“外を見てほしい”と言った。

 

 それが、嬉しかった。

 

 エリンは最後に、少しだけ表情を和らげた。

 

「もちろん、不安なら不安って言っていいわよ」

 

 二人とも顔を上げる。

 

「でも、私は二人に来てほしいと思って声をかけてる」

 

 その言葉は、いつものように真っ直ぐだった。

 

 クミコは、まず深く息を吸った。

 

「……行きます」

 

 声は少しだけ硬い。

 だが、逃げないと決めた人の声だった。

 

 マユも、その隣でしっかり頷く。

 

「私も、行きたいです」

 

 エリンは小さく微笑んだ。

 

「よかった」

 

 その一言に、二人の緊張が少しだけほどける。

 

「じゃあ、明後日。時間はあとで送るから、予定は空けておいて」

 

「はい」

「はい」

 

 二人の返事が揃った。

 

 その様子を少し離れた場所から見ていたミラとランは、何となく事情を察したように目を合わせていた。

 クミコとマユが選ばれたこと。

 それが、今のスペースホープの中で何を意味するのか。

 それぞれに理解しながら。

 

 エリンは二人へ背を向け、自席へ戻りながら思う。

 

 未探索領域か、スペースホープか。

 その答えはまだ出ていない。

 けれど、少なくともこの定期報告の場は、自分にとっても、クミコとマユにとっても、大きな意味を持つはずだ。

 

 その場で何を見るか。

 何を感じるか。

 そこから、次が決まっていく。

 

 旅行事業部のフロアには、いつもの朝の空気が流れていた。

 けれどエリンの中では、少しずつ次の風が動き始めていた。

 

 

ーーーー

 

 

 ハワード財閥の旅行会社が入るビルは、相変わらず静かで、無駄がなかった。

 

 火星コロニーの中心部に近い一等地に建つその建物は、外から見ればただ洗練されているだけの巨大なビジネスビルに見える。けれど一歩中へ入ると、そこで働く人間達の密度が空気そのものを変えていた。

 受付の応対一つ、通路を歩く社員の速度一つ、エレベーター前での立ち位置一つとっても、どこか揃っている。

 張りつめている、というより整っているのだ。

 初めてこの会社へ足を踏み入れた時、エリンが息苦しさにも似た感覚を覚えた理由を、今のクミコとマユなら少しは理解できるかもしれないと、エリンは思っていた。

 

 自動扉をくぐった瞬間、クミコの背筋が目に見えて伸びる。

 マユは逆に、目だけでそっと周囲を追っていた。

 無理もない。

 スペースホープとは空気が違いすぎる。

 同じ旅行会社だとしても、ここに流れている空気は“立て直しの途中”のそれではない。もっとずっと前から、積み重ねられ、磨かれ、守られてきた会社の空気だ。

 

 エリンは二人の様子を見ながら、少しだけ歩幅を落とした。

 

「緊張してる?」

 

 振り返らずに問いかけると、クミコがすぐに答えた。

 

「……少し」

 

 その返事があまりに正直で、エリンは思わず口元を緩める。

 

「私も最初はそうだったわよ」

 

「エリンさんでもですか?」

 

 マユが少し意外そうに聞き返す。

 

「もちろん」

 

 エリンは軽く肩をすくめる。

 

「この会社、慣れるまでは息継ぎの場所が分からないもの」

 

 その言い方に、二人とも少しだけ笑った。

 笑ったせいで、張っていたものがほんの少しだけ緩む。

 それで十分だった。

 

「今日はまず、定期報告に行く前に寄る場所があるの」

 

 エリンがそう言うと、クミコとマユは顔を見合わせた。

 

「寄る場所、ですか?」

 

「ええ」

 

 それ以上はあえて言わない。

 エリンには、今日この二人へ最初に見せたいものがあった。

 

 

 案内されたのは、社内の奥にあるシュミレーションルームだった。

 

 ハワード財閥の旅行会社にあるその訓練施設は、スペースホープのものよりはるかに広い。

 客席の再現だけでなく、食堂区画、ラウンジ動線、ギャレー、緊急時用の仮設導線まで、複数のレイアウトに即座に組み替えられるようになっている。

 広さも設備も違う。

 だがエリンが二人をここへ連れてきた理由は、それだけではなかった。

 

 扉を開くと、まず耳に飛び込んできたのは、澄んだ指示の声だった。

 

「その一歩、速い。お客様より半歩前に出ない」

 

 凛としたその声に、クミコがぴくりと反応する。

 

 左側の訓練区画では、カイエが副パーサーとして一つの班を見ていた。

 姿勢はまっすぐで、声は落ち着いている。

 厳しい。けれど、ただ鋭いだけではない。

 指摘を入れたあと、相手が何をどう直すべきかがすぐに分かる言葉の置き方をしている。

 

「今の案内、言葉は丁寧。でも視線が先にお客様を置いてる。『案内する』じゃなくて、『一緒に進む』つもりでやって」

 

 指導を受けている乗務員が「はい」と返し、すぐに動きを修正する。

 カイエはそれを見て、今度はほんの少しだけ頷く。

 

「そう。それなら伝わる」

 

 そのやり取りを見た瞬間、クミコの目つきが変わった。

 食い入るように見ている。

 エリンはその横顔を横目で見て、心の中で小さく頷いた。

 

 やはり、クミコにはカイエを見せたかった。

 責任感が強く、前へ出る癖があって、けれど根っこでは繊細で、誰よりも“ちゃんとしないと”を背負い込む。

 それは、今のクミコにもある。

 そして、かつてのカイエにも強くあった。

 

 カイエは今でこそ、落ち着いた副パーサーの顔をしている。

 だがそこへ辿り着くまでに、どれだけ自分を削り、整え、前へ出ることと引くことを覚えてきたか、エリンは知っている。

 だからこそ、その背中をクミコに見せたかった。

 

 クミコは、しばらく言葉もなくカイエを見つめていた。

 

 カイエの立ち位置。

 班全体の視線をどう持つか。

 誰か一人へ寄りすぎず、それでいて必要な子には迷わず一歩入る距離感。

 厳しい言葉を投げても、相手の心まで折らない温度。

 そして何より、“私が全部やる”ではなく、“この班を持つ”という視点。

 

 その全部が、クミコには新鮮だった。

 

 同じ頃、右側の訓練区画からは別の声が聞こえていた。

 

「はい、一度止まってみようか」

 

 エマだった。

 

 声の印象はカイエより柔らかい。

 だが柔らかいだけではない。

 言葉の奥に、相手の緊張をほどきながらも逃がさない芯がある。

 

「今の案内、悪くはないよ。でも、ちょっと“正解を言おう”としすぎてるかな」

 

 エマがそう言うと、訓練中の乗務員が戸惑った顔をする。

 

「正解を……ですか?」

 

「うん。言葉は合ってる。でも、お客様の顔をちゃんと見てないと、その正解って空回りするんだよね」

 

 そう言って、エマは自分で一歩前へ出る。

 

「たとえばね、同じ『こちらへどうぞ』でも、この人が今、不安で足が止まってるのか、ただ景色に見入ってるのかで、声の置き方が変わるでしょ?」

 

 そして、実際にやってみせる。

 一つは少しだけ呼吸を合わせて、待ちながら促す声。

 もう一つは、軽やかに次へ引っ張る声。

 

「ほら、全然違う」

 

 その違いが、聞いているだけで分かる。

 

 マユの指先が膝の上でわずかに動いた。

 エリンはそれを見逃さない。

 

 マユには、エマを見せたかった。

 

 今のマユは丁寧だ。

 与えられた役目をきちんとこなし、緊張を持ったままでも崩れず進める。

 だが、その丁寧さが時々、“正解を外さないこと”へ寄りすぎる。

 エマもまた、かつてそういうところがあった。

 けれど今の彼女はそこを越えて、“相手を見て言葉を変える”ところまで来ている。

 

 エマはその後も、相手の目線の高さに合わせてしゃがみ込み、笑顔の形ではなく“安心の置き方”を見せ、少し離れた位置から全体の流れも拾っていく。

 柔らかい。

 けれど曖昧ではない。

 相手を守るために優しいのだと分かる指導だった。

 

 マユは、呼吸を忘れたように見つめていた。

 

 エリンは、そんな二人を静かに見守る。

 

 ここへ連れてきた目的は、もう半分は果たしたようなものだった。

 クミコには、“前へ立つ責任感のその先”にいるカイエを。

 マユには、“丁寧さのその先”にいるエマを。

 言葉で説明するより、まず自分の目で見ておいてもらいたかった。

 

 会社の空気の中で、同じように苦しみ、同じように鍛えられてきた二人が、今どう立っているのか。

 それは今のクミコとマユにとって、きっと大きな意味を持つ。

 

 しばらくしてから、エリンは二人の横へそっと近づいた。

 

「……さて、行きましょうか」

 

 その声で、クミコとマユがようやく我に返る。

 

「あ……はい」

 

 クミコは慌てて頷いたが、その目はまだカイエを追っていた。

 マユもまた、エマが次の乗務員へどう言葉をかけるかを最後まで見てから、ようやく一歩下がる。

 

 エリンは、その名残惜しそうな二人の横顔に、ほんの少しだけ優しい笑みを浮かべた。

 

 

 定期報告と聞いていたから、クミコもマユも当然、チーフパーサーの部屋へ案内されるものだと思っていた。

 

 だから、エリンが迷いなく向かった先が社長室のフロアだと気づいた時、二人とも明らかに足取りを一瞬だけ止めた。

 

「……社長室?」

 

 クミコが小さく呟く。

 

 マユも息を呑んだ。

 この会社に来ること自体が特別なのに、そのまま社長室に入るなど、想像もしていなかったのだろう。

 

 エリンはそんな二人を見て、軽く振り返る。

 

「大丈夫よ。食べられたりしないから」

 

 その冗談に、二人は笑う余裕もなく、ただ「はい」と返すしかなかった。

 

 社長室の前に立つと、秘書がすでに待っていた。

 丁寧な一礼のあと、扉が開かれる。

 

「お待ちしておりました」

 

 その一言で、クミコの喉がごくりと動いた。

 マユは自分の手のひらに、わずかに汗が滲んでいるのを感じていた。

 

 中へ入る。

 

 広い。

 だが、見せびらかすような豪奢さはない。

 大きな窓、整然としたデスク、いくつかの来客用ソファ。壁に飾られた資料や写真は少ないが、どれもこの会社が積み上げてきた歴史の断片なのだろうと思わせる落ち着きがある。

 

 そこにはクルーズがいた。

 

 ハワード財閥の旅行会社社長、ハワード・クルーズ。

 そして、その横には旅行事業部本部長、さらに宇宙事業部本部長までいる。

 

 クミコとマユの緊張は、一気に限界まで上がった。

 

 エリンはそんな二人を横目で見ながら、先に一歩進み出る。

 

「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

 

 深く一礼する。

 

 クルーズは、相変わらず人のよさそうな穏やかな笑みを浮かべていた。

 けれどその目は、こちらの小さな変化も見逃さない経営者のものだ。

 

「こちらこそ。帰ってきたばかりなのに悪いね、エリン」

 

「いえ」

 

 エリンは顔を上げ、続けた。

 

「スペースホープの現状について、定期報告を兼ねてお話しさせていただきます」

 

 クルーズが頷く。

 

「ああ、聞かせてくれ」

 

 エリンはそこで、クミコとマユを軽く振り返った。

 

「今日は、今のスペースホープの乗務員から二人同席させています。クミコとマユです」

 

 二人は一瞬遅れて、ほとんど反射のように頭を下げた。

 

「クミコです。よろしくお願いいたします」

「マユです。よろしくお願いいたします」

 

 声は少しだけ硬い。

 だが、崩れてはいなかった。

 

 クルーズはその二人を見て、柔らかく目を細める。

 

「そうか。こちらこそよろしく」

 

 旅行事業部本部長も、宇宙事業部本部長も、興味深そうに二人を見ていた。

 値踏みするような視線ではない。

 だが、エリンがなぜこの二人を連れてきたのかを考えている目だ。

 

 エリンはソファへ案内されると、落ち着いた声で話し始めた。

 

「現在のスペースホープですが、教育研修便を一件終え、その成功を受けて、火星の学校から複数の旅行フライト予約が入り始めています」

 

 クルーズが頷く。

 旅行事業部本部長の目元も少しだけ和らぐ。

 

「営業と現場の両輪で、ようやく再建の流れが見え始めました。まだ件数としては多くありませんが、“任せてもいい”と思っていただけるだけの信用は、少しずつ戻りつつあります」

 

「うん」

 

「乗務員の育成状況については、ミラとランを中心に、全体を持てる層が育ってきています。まだ粗さはありますが、教育便レベルでは自分達で空気を支えられるところまできました」

 

 旅行事業部本部長がそこで口を開いた。

 

「教育便“レベル”と区切ったのは?」

 

「旅行フライトではまだ経験が足りません」

 

 エリンははっきり答える。

 

「求められる空気の質も、動線の精度も違います。現状では、私が抜けた際に全体を拾いきれるだけの副パーサークラスが、まだもう一枚足りません」

 

 その言葉に、クミコとマユは思わず息を止めた。

 副パーサークラス。

 さっきエリンが自分達に見せたものと、今ここで話されているものが、ちゃんと繋がっているのだと分かる。

 

 エリンは続ける。

 

「ですが、素質はあります」

 

 その声は静かで、迷いがなかった。

 

「私は、スペースホープはきっと立て直せると思っています」

 

 クルーズがわずかに目を細める。

 社長室の空気が、そこで少しだけ変わった。

 

「いずれ、旅行会社を代表する会社に成長します」

 

 その言葉に、クミコもマユも胸が熱くなるのを感じた。

 自分達が今いる会社を、エリンはここまで言い切ったのだ。

 ただ“頑張っています”ではない。

 “成長する”“代表する会社になる”と、未来の形まで口にした。

 

 旅行事業部本部長が組んでいた足をほどき、少し身を乗り出す。

 

「そこまで言い切る理由は?」

 

 エリンは即座に答えた。

 

「人です」

 

「人?」

 

「はい」

 

 エリンは頷く。

 

「最初に見た時、確かに会社としては崩れていました。技術も、自信も、部署間の繋がりも弱かった。ですが、人材の素質そのものは消えていなかった」

 

 そう言ってから、クミコとマユへちらりと視線を向ける。

 

「前へ立てる責任感を持つ子がいる。静かに全体を支えられる子がいる。明るさで空気を持ち上げる子がいる。柔らかく安心を置ける子がいる。まだ粗いですが、それぞれに芯があります」

 

 宇宙事業部本部長が腕を組みながら問う。

 

「つまり、今のスペースホープは“仕組み”より“人”が先に立ち上がり始めている、と?」

 

「そうです」

 

 エリンは即答した。

 

「だから私は立て直せると思っています。逆に言えば、人が伸びる速度に会社の仕組みと仕事量が追いつけば、一気に変わる可能性があります」

 

 クルーズはしばらく黙ってそれを聞いていた。

 やがて、小さく息を吐きながら口元を緩める。

 

「君らしい報告だね」

 

 穏やかな声だった。

 

「数字や予約件数だけじゃなく、そこにいる人間の息づかいまで一緒に持ってくる」

 

 エリンは何も言わずに頭を下げた。

 それが褒め言葉であることは分かっていた。

 

 その時だった。

 

 クルーズが、不意にクミコとマユへ視線を向けた。

 

「では、君達にも聞いてみようか」

 

 完全に不意打ちだった。

 

 クミコとマユの背筋が、ほとんど同時にぴんと伸びる。

 

「はい……!」

 

 クミコの声が少し上ずる。

 マユも呼吸を整えるのに一拍必要だった。

 

 クルーズは柔らかい笑みを浮かべたまま問う。

 

「今のスペースホープを、君達はどう見ている?」

 

 シンプルで、逃げ場のない問いだった。

 

 クミコは、自分が先に答えるべきか迷った。

 だが、エリンがわずかに目で促したのを見て、ぎゅっと膝の上の手を握り直す。

 

「……最初は、正直に言えば、自信がありませんでした」

 

 部屋の中は静かだった。

 その静けさが、かえって言葉を押し出す。

 

「自分達に何が足りないかも、会社がどこへ向かうべきかも、ちゃんと見えていなかったと思います。でも……」

 

 クミコはそこで一度だけ呼吸を整えた。

 

「今は、変われると思っています」

 

 旅行事業部本部長が目を上げる。

 

「理由は?」

 

「エリンさんが来てくださったことも大きいです。でも、それだけじゃありません」

 

 クミコは、自分でも驚くくらい落ち着いて話せていた。

 

「エリンさんが前に立って、私達に見せてくれたものがあります。乗務員、それぞれ得意なことがあって……皆んなが少しずつ、自分の役目を持ち始めています」

 

 “皆んな”という言葉に、エリンの目がほんの少しだけ柔らかくなる。

 

「私は、まだ足りないところだらけです。今日ここに来て、訓練を見て、それをもっと思いました」

 

 そこで初めて、クルーズ達の目が少しだけ鋭くなる。

 ただの精神論ではなく、さっき見たものまで自分の中へ入れて答えていると分かったからだ。

 

「でも、足りないからこそ、伸びる余地があると思っています」

 

 クミコは、最後にはっきり言った。

 

「だから、スペースホープは立て直せると思います」

 

 言い終わると、胸がどくどく鳴っているのが自分でも分かった。

 だが、不思議と怖くはなかった。

 

 次に視線が向いたのはマユだった。

 

 マユは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに顔を上げる。

 

「私は……」

 

 声は小さい。

 でも、ちゃんと届く声だった。

 

「最初、スペースホープに来た時は、自分が何をすればいいのか分からないまま仕事をしていた気がします」

 

 クルーズは頷きもせず、ただ聞いている。

 だがその“ただ聞いている”ことが、逆に言葉を引き出してくる。

 

「失敗しないことばかり考えていました。正解を外さないことばかり見ていました」

 

 その自己認識の正確さに、エリンは内心で小さく頷いた。

 

「でも、教育研修便を経験して、今日ここで訓練を見て、自分はまだ“自分の役目の中”だけで仕事をしていたんだと思いました」

 

 旅行事業部本部長が、そこでわずかに目を細める。

 

「役目の中、だけ?」

 

「はい」

 

 マユは頷く。

 

「自分に与えられたことをちゃんとやるのは大事です。でも、それだけだと客室全体は見えないんだと、最近やっと分かり始めています」

 

 その言葉に、エリンは少しだけ息を止めた。

 マユは自分でそこまで言葉に出来るところまで来ていたのかと、少し驚いたのだ。

 

「だから私は、スペースホープが立て直せるかどうかは、私達がそこまで行けるかどうかにもかかっていると思います」

 

 クルーズが今度ははっきりと頷いた。

 

「いい答えだ」

 

 短い一言。

 だがマユの頬がわずかに熱を帯びる。

 

 宇宙事業部本部長がそこで、興味深そうにエリンを見る。

 

「連れてきた理由が分かるな」

 

 旅行事業部本部長も腕を組んだまま口元を緩めた。

 

「ええ。ちゃんと見えてる子達だ」

 

 クルーズは改めて、クミコとマユを見つめた。

 

「君達は、今の会社をどうにかしたいと思っているんだね」

 

 その問いに、今度は二人が同時に頷いた。

 

「はい」

「はい」

 

 クルーズは満足そうに目を細める。

 

「なら、きっと大丈夫だ」

 

 その一言は、励ましでもあり、ある種の保証のようでもあった。

 

 エリンは、そのやり取りを静かに見ながら思った。

 やはり連れてきてよかった。

 クミコとマユ自身のためにも。

 そして、ハワード財閥側へ今のスペースホープの“人”を見せる意味でも。

 

 この場は、ただの定期報告では終わらない。

 きっとここから、次の相談へ繋がっていく。

 

 未探索領域の件。

 副パーサーの件。

 そして、自分がどこへ立つべきかという問題。

 

 それらを切り出すには、今がちょうどいいタイミングだと、エリンは感じていた。

 

 

ーーーー

 

 

 社長室の空気は、クミコとマユが答え終えたあともしばらく静かだった。

 

 緊張で張っていたものが少しだけほどけた反面、次にどんな言葉が落ちてくるのか分からない静けさでもある。

 

 クルーズはソファへ深く腰掛けたまま、しばらく何も言わなかった。

 旅行事業部本部長は腕を組み、宇宙事業部本部長は顎へ手を当ててエリンを見ている。

 その視線の意味を、クミコもマユも正確には読み切れない。

 だが少なくとも、今の答えが軽く流されたわけではないことだけは分かった。

 

 やがて、クルーズがふっと息を吐いた。

 

「よく育ってるね」

 

 その一言は、クミコとマユへ向けたものでもあり、同時にエリンへ向けたものでもあった。

 

 エリンは軽く頭を下げる。

 

「ありがとうございます」

 

「うん。エリンが今のスペースホープに賭けてる理由は、よく分かった」

 

 クルーズの声は穏やかだった。

 それでも、その先へ話を進めるための地ならしでもあることをエリンは感じ取っていた。

 

 ここからだ。

 

 エリンは自分の膝の上で、指先をほんのわずかに組み直した。

 クミコとマユは、その小さな仕草にだけ、エリンが少しだけ気持ちを整えたことを察した。

 

 そしてエリンは、まっすぐに顔を上げた。

 

「もう一件、相談があります」

 

 その言葉で、社長室の空気がまた少しだけ締まる。

 

「未探索領域の件かい?」

 

 クルーズは、ほとんど先回りするように言った。

 

 エリンは一瞬だけ目を瞬かせる。

 だが、すぐに小さく頷いた。

 

「……はい」

 

 旅行事業部本部長が、ちらりと宇宙事業部本部長へ目をやる。

 宇宙事業部本部長は「やはりその話か」というように、肩をわずかに動かした。

 

 クミコとマユは、ここで初めて自分達の前で話される内容の輪郭を理解した。

 未探索領域。

 それは、ただの旅行業務や教育便の延長ではない。

 もっと危険で、もっと不確定で、もっと特別な仕事だ。

 そしてその話が、今ここでエリンの口から出るということは――。

 

 クルーズは、ソファの背へ身体を預け直してから穏やかに言う。

 

「いいよ。話してごらん」

 

 エリンは一度だけ息を整えた。

 

「未探索領域の調査任務が、正式に動くことになりました」

 

「ああ」

 

「操縦はリュウジです」

 

「それは聞いてる」

 

 クルーズはごく自然に答える。

 その様子を見る限り、既に水面下ではそれなりに情報が回っているのだろう。

 

「ラ・スペランツァのメンバーも、一部再集結する形になると思います」

 

「なるほど」

 

 旅行事業部本部長が小さく呟く。

 その表情には、どこか懐かしさも混じっていた。ラ・スペランツァという名前は、この会社の中でも特別な響きを持っているのだろう。

 

 エリンはそこで、少しだけ視線を落としてから、再び上げた。

 

「私は……行きたいと思っています」

 

 その一言は、はっきりしていた。

 迷っていないわけではない。

 でも、そこだけは嘘にしたくなかったのだ。

 

 クミコとマユは思わず息を呑む。

 エリンのこういう“個人の気持ち”に近い言葉を、こんなにまっすぐ聞くことはあまりない。

 いつもは、自分の感情より先に会社や乗務員全体を考える人だからこそ、その一言の重さが伝わってきた。

 

 クルーズはその告白を受け止めるように、ゆっくり頷いた。

 

「そうか」

 

 短い。

 だが、その中に“分かるよ”という含みがあった。

 

 それでも、エリンは続ける。

 

「ただ、それを決めるには会社の許可が必要です」

 

 その言い方は、どこか自分へ言い聞かせるようでもあった。

 行きたい。

 でも、行きたいだけで動ける立場ではない。

 そう口にすることで、自分の足元を確かめているようにも見える。

 

 だが、クルーズはそこで首を横に振った。

 

「それは違うな」

 

 エリンが目を上げる。

 

「違う……?」

 

「エリン、君は今、うちの会社の人間ではあるけど、立場としてはスペースホープに出向している」

 

 クルーズの声は、柔らかいがきっぱりしていた。

 

「なら、その件を最終的に決めるのは、うちじゃない。スペースホープの社長だ」

 

 社長室の中に、その言葉が静かに落ちる。

 

 クミコとマユは思わず顔を見合わせた。

 どこかで、エリンが元いた会社に“許可をもらう”ものだと思っていたのだ。

 だがクルーズの言葉は逆だった。

 

 宇宙事業部本部長も同じ意見らしく、頷きながら言う。

 

「君を今、現場でどう扱うかは、出向先が決めることだ。もちろん、うちとして意見を言うことは出来る。だが、最終判断の筋はそっちにある」

 

 旅行事業部本部長も静かに口を開く。

 

「君自身が“会社の許可が必要だ”と思っていること自体は正しい。けれど、その会社は今の所属先としてのスペースホープを指すべきだろうね」

 

 エリンは、その言葉を受けてしばらく黙っていた。

 

 どこかで、まだ自分の感覚がハワード財閥側へ残っていたのかもしれない。

 出向という形でここにいる。

 だがその“元の場所”に対して、自分の立場をまだきれいに切り分けられていなかったのだろう。

 

 クルーズは、そんなエリンの揺れを見抜いているように、少しだけ笑った。

 

「君は真面目だからね。筋を通そうとするのはいいことだ」

 

 そう言ってから、少しだけ声音を落とす。

 

「でも今の君は、スペースホープのチーフパーサーだ。そこは自分でもちゃんと引き受けないといけない」

 

 その言葉は優しい。

 だが、痛いほど真実だった。

 

 エリンは、ゆっくりと頷いた。

 

「……はい」

 

 その返事は静かだったが、ちゃんと芯があった。

 クミコは、その横顔を見ながら思う。

 エリンは、どこまで行っても自分の立場と責任から逃げない人なのだと。

 

 

 クルーズはそこで、少し身体を前へ傾けた。

 

「じゃあ、改めて聞こうか」

 

 その声に、エリンも背筋を伸ばす。

 

「未探索領域の調査に行くことについて、君自身はどう考えてる?」

 

 さっきも“行きたい”とは言った。

 だが今度はもっと広い意味で問われている。

 気持ちだけではなく、現実も含めて、どう考えるか。

 

 エリンは、正面からその問いを受け止めた。

 

「行きたい気持ちはあります」

 

 まず、そこは隠さない。

 

「ラ・スペランツァのメンバーと再び組めることもそうですし、未探索領域という任務そのものにも意味があると思っています」

 

 宇宙事業部本部長が頷く。

 そこはまさに宇宙事業本部の管轄に近い話でもあるからだ。

 

「ただ、今のスペースホープを考えると、即答は出来ません」

 

 エリンは続ける。

 

「ようやく予約が入り始めたところです。これから本格的に旅行フライトが動き出す流れの中で、チーフパーサーである私が抜けることは、現場に大きな影響が出ます」

 

 旅行事業部本部長の目が少し鋭くなる。

 その懸念は、まさに旅行事業の感覚として現実的だ。

 

「乗務員達は育ってきています。でも、まだ“育ってきている”段階です。ここで本番の機会が増えた時、支える人間が薄くなると、本人達が一番悔しい思いをします」

 

「ああ」

 

 クルーズは静かに頷く。

 

「それで?」

 

 エリンは、膝の上の手を少しだけ組み直す。

 

「だから、もし未探索領域の調査へ行くにしても、最低条件があります」

 

「エリンの代わりだね」

 

 旅行事業部本部長が先に言った。

 

「……はい」

 

 エリンは頷く。

 

「最低でも一人、私の代わりに全体を拾える副パーサークラスの人間が必要です」

 

 その言葉で、クミコとマユの背筋がまた少しだけ伸びた。

 副パーサークラス。

 さっきから何度も出てくるその言葉が、今度はエリン自身の選択に直結しているのだと分かったからだ。

 

 エリンはそのまま、今回この場に来たもう一つの本題へ踏み込んだ。

 

「その件で、相談があります」

 

 クルーズは軽く顎を引く。

 

「聞こう」

 

「ハワード財閥の旅行会社から、期間限定でもいいので、副パーサークラスを一人、スペースホープへ派遣していただくことは可能でしょうか」

 

 クミコは思わず息を止めた。

 マユも、手のひらの中で指先をぎゅっと握る。

 

 それは、エリンが自分の穴埋めを“誰か一人でしてほしい”と言っているのではない。

 今のスペースホープの現場を持たせるために、経験値のある一枚がほしいのだ。

 その意味は痛いほど分かる。

 でも同時に、それがどれほど難しい願いかも、ここまでこの会社の空気を見ただけで何となく理解できてしまった。

 

 旅行事業部本部長はすぐには答えなかった。

 宇宙事業部本部長は視線を横へ流し、クルーズは少しだけ目を細める。

 

 その沈黙が、答えを半分示していた。

 

 やがて、旅行事業部本部長が最初に口を開いた。

 

「……それは難しい」

 

 はっきりとした言い方だった。

 期待を持たせないための、切り方でもある。

 

 エリンは表情を変えない。

 だが、その返答が来ることはある程度分かっていたのだろう。

 

「理由を伺ってもよろしいですか」

 

「もちろん」

 

 本部長は腕を組み直しながら続けた。

 

「うちの会社も、これから繁忙期に入る」

 

 クミコとマユは、そこであらためて自分達がいる場所の規模を思い出す。

 ハワード財閥の旅行会社。

 星間移動を含む大型便、定期便、観光便、法人案件。

 ここが回す便数も、抱えている乗務員数も、スペースホープとは比べものにならない。

 

 それでも、“回せない”と言うのだ。

 

「今の時期は、こちらも副パーサーを含めて現場配置をかなり細かく組んでいる。そっちに回せる人間どころか、副パーサーとなればまず無理だ」

 

 その言葉には、申し訳なさより現実があった。

 

「一人抜くだけで回らなくなる、という意味ではない」

 

 旅行事業部本部長は、さらに説明する。

 

「ただ、副パーサークラスは“誰かの代わり”で使う人間じゃない。班そのものの呼吸を作る人間だ。だからこそ、こちらも安易に抜けない」

 

 その理屈は、今のクミコとマユにも理解できた。

 シュミレーションルームで見たカイエとエマの姿を思い出せばなおさらだ。

 副パーサーとは、単に経験年数が長い人間ではない。班を持ち、空気を整え、前後の流れを作る人間だ。

 それを“余っているから貸す”という発想は、この会社では成立しないのだろう。

 

 宇宙事業部本部長も口を開いた。

 

「仮に一時的に回せたとしても、その人間がそっちで機能するかは別問題だ」

 

 エリンが目を向ける。

 

「機能するか、ですか」

 

「会社が違えば、班の空気も違う。育ててきたやり方も違う。現場を知る前にいきなり“代わりに持て”と言われても、それは本人にもスペースホープにも負担が大きい」

 

 それも、まったくその通りだった。

 

 副パーサークラスであれば誰でもいいわけではない。

 スペースホープの空気、今の再建段階の温度、まだ粗い層の中へ入って、それでも支えられる人間でなければ意味がない。

 そしてそういう人材ほど、当然ハワード財閥側でも簡単には動かせない。

 

 クルーズは、しばらく黙ってそのやり取りを見ていた。

 それから穏やかに言った。

 

「つまり、派遣そのものが無理というより、“副パーサークラスを都合よく一枚切り出す”ことは出来ない、ということだね」

 

「その通りです」

 

 旅行事業部本部長が頷く。

 

「特に今の時期は」

 

 エリンは、静かにその言葉を受け止めていた。

 

 落胆していないわけではない。

 しかし、想定外でもない。

 むしろ、ここで安易に「分かった、一人回そう」と言われる方が、ハワード財閥の旅行会社という組織への信頼が揺らいだかもしれない。

 それほどまでに、副パーサーという層は重いのだ。

 

 クミコは、そこではじめて“副パーサークラスになれ”と言われることの意味を、ほんの少しだけ実感した気がした。

 それは役職名の話ではない。

 会社の繁忙期の配置にまで関わるほど、客室の質を左右する存在のことなのだ。

 

 マユもまた、自分の膝の上で手を組みながら考えていた。

 今の自分には、まだとても届かない。

 けれど、その遠さを知れたこと自体が、大きな学びだった。

 

 エリンは、少しだけ視線を落としてから、再び上げた。

 

「承知しました」

 

 その一言は静かだった。

 だが、諦めの色ではなかった。

 

「無理を承知でお願いしました。理由も、理解できます」

 

 クルーズはそんなエリンを見つめ、ふっと息を吐いた。

 

 

 

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