サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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役割

 エリンとクミコとマユがスペースホープへ戻った頃には、もうコロニーの人工空も深い夜の色へ変わっていた。

 

 旅行事業部のフロアは昼間ほどの人の気配こそないものの、照明はまだ落ちていない。総務部の奥からはかすかに端末を打つ音が聞こえ、遠くで清掃ロボットが規則正しく床を磨いている。大きな窓の向こうに見えるコロニーの街明かりは穏やかで、それがかえって社内の静けさを際立たせていた。

 

 三人はエントランスを抜け、旅行事業部の方へ歩いていた。

 定期報告と社長室での話、ハワード財閥の旅行会社の訓練風景、クルーズ達の言葉。

 どれもまだ頭の中へ整理しきれていないまま、気づけばこんな時間になっていた。

 

 エリンは歩きながら、ほんの少しだけ肩を回す。

 社長室で話している間は張っていた気持ちも、スペースホープの建物へ戻ってきたことで、別の意味で重さを持ち始めていた。

 ここが今、自分の現場だ。

 そういう感覚が、足を一歩進めるたびに強くなる。

 

「本当に良かったの?」

 

 ふとエリンが足を緩めて、後ろを歩くクミコとマユへ振り返った。

 

「もう夜だし、そのまま帰っても良かったのに」

 

 その言い方は、ごく自然な心配だった。

 今日は朝から動きっぱなしだ。ハワード財閥の旅行会社まで足を運び、緊張の多い場へ同席し、帰り道では喫茶店に寄って話までしている。

 普通なら、そのまま寮なり自宅なりへ帰して休ませるのが自然だろう。

 

 だが、マユは少しだけ目を丸くしたあと、真面目な顔で答えた。

 

「いえ、エリンさんが戻るのに、帰る訳にはいきません」

 

 その返答には、マユらしい律儀さがにじんでいる。

 

 クミコもすぐに頷いた。

 

「それに、皆んなまだ訓練してると思いますし」

 

 それは完全な推測ではなかった。

 今の旅行事業部なら、今日みたいにエリンが不在だった日は特に、誰かしら居残っている可能性が高い。

 ミラとランが見ていればなおさらだ。

 エリンも、それは分かっていた。

 

「そう」

 

 エリンは小さく笑った。

 

「なら私は社長の所に行くから、二人も早く切り上げて帰りなさい」

 

「分かりました」

 

「はい」

 

 二人は揃って頷く。

 

 その返事を聞いてから、エリンは一つだけ息を吐いた。

 このあと、社長へ話を通さなければならない。

 未探索領域の件。

 ハワード財閥側で聞いた支援の可能性。

 そして、自分がどう考えているか。

 考えるだけで済ませてはいけない話が、まだ山ほど残っている。

 

「じゃあ、また後で」

 

「はい。お疲れ様です」

 

 クミコとマユが頭を下げる。

 エリンは軽く手を上げて、それぞれ別の方向へ歩き出した。

 

 エリンの足取りは真っ直ぐ社長室へ向かう。

 クミコとマユは、少しだけ立ち止まってその背中を見送ってから、同時に小さく息を吐いた。

 

「……行っちゃったね」

 

 クミコがぽつりと呟く。

 

「うん」

 

 マユも頷く。

 その一言の中へ、色々な気持ちが混じっていた。

 

 エリンが未探索領域を諦めようとしていること。

 その理由の大きな一つに、自分達やスペースホープの現状があること。

 そして、それを止めたい気持ちと、止めきれない現実。

 どれもまだ胸の中でうまく言葉になっていない。

 

「……行こうか」

 

 クミコがそう言うと、マユも静かに頷いた。

 

 向かう先は、自然と一つしかなかった。

 シュミレーションルームだ。

 

 

 シュミレーションルームの扉を開けると、そこには予想どおり、まだ熱の残る空気があった。

 

 床の上には歩行用の目印テープ。

 仮設客席の並ぶ中央通路。

 ギャレーを模した作業台。

 壁際には使い終えたマニュアルや飲みかけのボトルが整然と並べられている。

 照明は昼より少しだけ落としてあるが、それでも訓練を続けるには十分な明るさだった。

 

 そして、その中でまだ動いていたのは、ミラ、ラン、ユウコ、ナツキ、ハズキ、ミドリ、サリー、アズサだった。

 

 ミラが前方の位置で動線を見て、ランが少し後ろから全体を拾っている。

 ユウコとナツキは乗客役と乗務員役を入れ替えながら細かな対応を詰めており、サリーはそのすぐ脇で静かな視線を流していた。

 ハズキは少し息を切らしながらも明るさを失わず、ミドリとアズサは何度も姿勢と歩幅を修正している。

 

 クミコとマユが入ってきた瞬間、最初に気づいたのはミラだった。

 

「あ、帰ってきた!」

 

 その声で、他の面々も一斉に振り返る。

 

「おかえり!」

「どうだった!?」

「遅かったね!」

 

 口々に声が飛ぶ。

 まるで家族が帰りを待っていたみたいで、クミコは一瞬だけ胸が温かくなった。

 

「ただいま戻りました」

 

 クミコがそう言って頭を下げると、アズサがすぐに近寄ってくる。

 

「どうだった? ハワード財閥の旅行会社!」

 

 目をきらきらさせている。

 ハズキも「気になるー!」とその横から顔を出した。

 

 マユは少しだけ困ったように笑った。

 その反応が妙に新鮮だったのか、サリーが静かに目を細める。

 

 ランがすぐに空気を整えた。

 

「とりあえず、座りましょうか」

 

「そうだね」

 

 ミラも頷く。

 

 訓練の手を一旦止め、皆が自然と中央の客席へ腰を下ろしていく。

 クミコとマユは、その輪の中へ迎え入れられるように座った。

 

「それで?」

 

 ユウコが待ちきれないといった様子で聞いてくる。

 だが、その声音も以前より少しだけ落ち着いている。

 ナツキは横で腕を組み、「まず順番に」とでも言いたげな顔をしていた。

 

 クミコは、どこから話すべきか少しだけ迷った。

 ハワード財閥の旅行会社の空気。

 シュミレーションルームで見たカイエとエマ。

 社長室での定期報告。

 未探索領域の件。

 副パーサー派遣を断られたこと。

 そして、エリンが諦めようとしていること。

 

 その全部を一息で言うには、あまりにも重すぎる。

 

「まず……」

 

 クミコが口を開く。

 

「ハワード財閥の旅行会社、すごかったです」

 

 その一言に、ハズキが「やっぱり!」と反応する。

 ミドリも興味深そうに身を乗り出した。

 

「空気が、もう全然違ったんです」

 

 今度はマユが続けた。

 

「建物の中を歩いてる人も、受付の人も、通路の立ち方まで整ってて……なんていうか、どこも揃ってる感じで」

 

「へぇ……」

 

 ハズキが感嘆する。

 

「息するの忘れそうだった」

 

 クミコが正直に言うと、ミラが思わず笑った。

 

「分かる。最初そうだよね」

 

「ミラさんもそうだったんですか?」

 

「うん。ドルトムントの時はだいぶね」

 

 ミラは肩をすくめる。

 

 ランも小さく頷いた。

 

「私も最初は、すごく緊張したよ」

 

 それだけで、クミコとマユは少しだけ救われた気がした。

 今、こうして自分達の前にいるミラとランも、最初から平気だったわけではないのだと分かったからだ。

 

 クミコはそこで本題へ移るように息を整えた。

 

「それで……エリンさんに、まずシュミレーションルームへ案内されて」

 

「シュミレーションルーム?」

 

 ユウコが目を丸くする。

 

「そこでは、副パーサーになったカイエさんとエマさんが、それぞれ別の班で訓練をしてました」

 

 その瞬間、空気が少し変わった。

 

 ミラとランは分かっている顔をした。

 他の面々はまだ理由が読めないまま、クミコの次の言葉を待っている。

 

「エリンさん、私にはカイエさんを見せたかったんだと思います」

 

 クミコは、自分の中で整理しながら言った。

 

「責任感で前に立つところとか、班を持つ時の重さとか……たぶん、近いって思ったんだと思います」

 

 マユも続く。

 

「私はエマさんを見せたかったんだと思う」

 

「どういう意味?」

 

 ハズキが素直に聞く。

 

「私、自分の持ち場をちゃんとやることばかり考えてたから」

 

 マユは少しだけ視線を落とした。

 

「でもエマさんは、相手の表情も、全体の流れも、言葉の置き方も全部一緒に見てた」

 

 サリーがそこで小さく目を細める。

 それは彼女自身にも刺さる話だった。

 

「へぇ……」

 

 アズサが静かに息を吐く。

 

「それで、そのあと社長室に行ったんです」

 

 クミコがそう続けた瞬間、今度はユウコとナツキが同時に顔を上げた。

 

「社長室!?」

「いきなり?」

 

 ナツキまで少しだけ驚いている。

 それほど想定外だったのだろう。

 

「はい。クルーズ社長と、旅行事業部本部長と、宇宙事業部本部長がいて……」

 

「うわ」

 

 ハズキが本音を漏らす。

 ミドリまで「それは緊張する」と真顔で頷いていた。

 

「そこで、エリンさんが今のスペースホープについて話したの」

 

 クミコの声が、少しずつ真剣になる。

 

「素質があるって。きっと立て直せるって。いずれ旅行会社を代表する会社に成長するって」

 

 その言葉が、シュミレーションルームの中へ静かに落ちた。

 

 ミラは目を伏せた。

 ランも、わずかに息を吐く。

 その場にいたわけではないのに、エリンがそう言い切った時の顔が目に浮かぶ気がした。

 

「エリンさん、そんなふうに……」

 

 アズサが胸の前で手を握る。

 

「はい」

 

 マユが頷いた。

 

「私達のことも、人の素質が消えてないって言ってた」

 

 その一言に、ハズキもミドリも、ユウコもナツキも、それぞれ表情を変えた。

 嬉しい。

 でも、それ以上に重い。

 エリンは本気でそう言っているのだ。

 

 クミコはそこで、ようやく一番大きい話へ触れた。

 

「それで……エリンさんに未探索領域の調査の依頼が来ている話もありました」

 

 その瞬間、ほとんど全員が同時に反応した。

 

「未探索領域!?」

「えっ!?」

「そんな話があるの!?」

 

 驚きの声が重なる。

 自然な反応だった。

 スペースホープの乗務員にとって、未探索領域は物語の向こう側みたいな場所だ。

 しかも、その話がエリンに関わっているというのだからなおさらだった。

 

 最初に落ち着いた声を出したのは、やはりミラだった。

 

「……エリンさん、以前にも未探索領域の調査に行ってるよ」

 

 その言葉に、ユウコ達が一斉にミラを見る。

 

「そうなんですか!?」

 

 ハズキが目を丸くする。

 サリーも、明らかに初耳という顔をしていた。

 

「うん」

 

 ランが静かに引き継ぐ。

 

「それどころか、S級のブライアンさんを助けてるしね」

 

 その一言に、またどよめきが走る。

 

「ええっ!?」

「ブライアンさんって、あの!?」

「本当に!?」

 

 ミドリがほとんど叫ぶように言い、アズサまで口元を押さえている。

 

 ミラは苦笑しながら頷いた。

 

「本当。私達も最初聞いた時、信じられなかった」

 

「エリンさん、そんな……」

 

 ハズキが呆然と呟く。

 

「すごいっていうのは分かってたけど、そこまでとは……」

 

 ユウコの声音にも、素直な驚きがにじんでいた。

 ナツキも黙ったまま、明らかに頭の中で何かを組み替えている顔をしている。

 

 クミコは、そんな皆の反応を見ながら、やはり今言わなければならないことへ戻した。

 

「だからこそ……」

 

 言葉が少しだけ詰まる。

 マユがその横で、静かに続きを受け取った。

 

「エリンさん、行きたいんだと思う」

 

 その一言で、皆がまた静かになった。

 

「でも」

 

 今度はクミコが続ける。

 

「私達のことや、今のスペースホープのことを思って……諦めるつもりでいるみたい」

 

 今度こそ、シュミレーションルームの空気がはっきりと変わった。

 

 驚き。

 罪悪感。

 戸惑い。

 痛み。

 

 その全部が、一瞬で皆の顔に出る。

 

「諦めるって……」

 

 ハズキがかすれた声を出す。

 

「私達のために?」

 

 アズサも信じられないように言う。

 

「うん」

 

 マユが頷いた。

 

「副パーサーの代わりが必要で、その相談もしてた。でも、人は借りられなかった」

 

 そこまで聞いて、ミラとランはほとんど同時に視線を落とした。

 

 社長室でどんな話があったかまでは分からなくても、繋がった。

 エリンが抜けるには、まだ現場が足りない。

 だから諦める。

 それはあまりにもエリンらしい選択だった。

 

 ユウコが、少しだけ眉を寄せて言う。

 

「……エリンさん、本当にそう言ったの?」

 

「喫茶店で」

 

 クミコが答える。

 

「今回の未探索領域の調査は諦めようと思うって言ってました」

 

 ナツキがそこで、長く息を吐いた。

 

「そっか」

 

 短い一言だったが、その中へ色々な感情が詰まっていた。

 

 サリーが膝の上で両手を組み直す。

 

「でも、それって……すごく嫌です」

 

 珍しいほどはっきりした言い方だった。

 皆がサリーを見る。

 

 サリーは少しだけ迷ったが、それでも続けた。

 

「エリンさんがやりたいことを、私達がまだ足りないからって理由で諦めるのは……嫌です」

 

 その言葉に、ユウコがゆっくり頷いた。

 

「私も」

 

「私も」

 

 アズサもすぐに言う。

 

「だって、エリンさんにそんな顔させたくない」

 

 ハズキが拳を握る。

 その目には、悔しさがはっきり見えていた。

 

 ミドリも静かに言う。

 

「私達、まだそこまで足りないんだね……」

 

 その言い方は、自己否定というより現実を受け取った時のものだった。

 

 ミラはしばらく黙っていたが、やがて小さく顔を上げた。

 

「……たぶん、エリンさんは私達のせいだとは本気で思ってないよ」

 

 皆の視線が集まる。

 

「でも、“今の現場を置いていけない”って思ってるのは本当だと思う」

 

 その声には、エリンを長く見てきた者にしかない確信があった。

 

「エリンさんって、自分のやりたいことと責任がぶつかった時、責任の方を取る人だから」

 

 ランも静かに頷く。

 

「しかも、それが正しいと分かっている時ほど、余計にそうする」

 

 ユウコが苦い顔をする。

 

「厄介ですね……」

 

「厄介だね」

 

 ミラが苦笑する。

 

「でも、それがエリンさんなんだよね」

 

 その言葉に、誰も反論出来なかった。

 

 クミコは、皆の顔を順番に見た。

 さっき喫茶店で聞いたエリンの言葉が、改めて胸に蘇る。

 

 “いずれは副パーサー、そしてチーフパーサーになる器だけど、それは今じゃない”

 “今は地に足をつけて、一歩ずつ前に進んでほしい”

 

 その正しさは、分かる。

 だからこそ苦しい。

 

「私……」

 

 クミコがぽつりと口を開く。

 

「エリンさんに、“行ってほしい”って言った」

 

 その一言で、また皆が静かになる。

 

「でも、エリンさんはそういう訳にはいかないって言ってた」

 

 クミコは、喫茶店での会話を少しずつ思い出すように言葉を繋いでいく。

 

「私達はいずれは副パーサー、チーフパーサーになる器だけど、それは今じゃないって。今は地に足をつけて、一歩ずつ前に進んでほしいって」

 

 マユも、その横で静かに続けた。

 

「副パーサーになるにはどうすればいいか聞いたんだけど、そう簡単な話じゃないって」

 

「……そうだろうね」

 

 ランが小さく呟く。

 

「副パーサーって、役職じゃなくて在り方の話でもあるから」

 

「うん」

 

 ミラも頷く。

 

「でも、だからって何もしないでいいわけじゃない」

 

 その言い方に、ユウコが顔を上げる。

 

「じゃあ、どうするんですか?」

 

「どうするか……」

 

 ミラは少し考えるように目を伏せた。

 そして、すぐには答えを出さないまま、代わりにクミコへ尋ねる。

 

「クミコ、エリンさん、他に何か言ってた?」

 

 クミコは記憶をたどる。

 副パーサーになる条件。

 自分の仕事を安定して出来ること。

 隣の二、三人を見られること。

 緊急時に頭の中を静かに保つこと。

 相手を見て言葉を変えられること。

 自分一人で背負わないこと。

 

 どれも重い。

 でも、今はそれを全部話した方がいい気がした。

 

「言ってました」

 

 クミコが息を整える。

 

「副パーサーになるには、まず自分の仕事を安定して出来ること。出来る時もある、じゃ駄目で、緊張してても疲れてても大きく崩れないこと」

 

 ユウコとナツキが、自然と真顔になる。

 

「次に、自分の隣の二、三人を同時に見られること。いきなり全体じゃなくて、まずはそこからでいいって」

 

 サリーの目がわずかに動いた。

 その条件は、自分にも関わっていると分かったのだろう。

 

「それから、緊急時に頭の中を静かに出来ること。焦っても、順番を守れること」

 

 今度はユウコの表情が引き締まる。

 あの教育便の一件を思い出したのだろう。

 

「人を見て、言葉を変えられること。あと……」

 

 クミコはそこで少しだけ言いにくそうにした。

 

「自分一人で背負わないこと」

 

 その一言に、ミラとランが同時に目を伏せる。

 それは二人にとっても、まだ完全に通り過ぎた課題ではなかった。

 

 シュミレーションルームの空気は、先ほどまでの驚きと違う静けさへ変わっていた。

 皆、自分のどこが足りないかを自然と探し始めている。

 

 エリンが未探索領域を諦めるかもしれない。

 その事実は痛い。

 でも、その痛みはただの感情で終わらせられない。

 自分達が何者なのか、何が足りないのかを突きつけられる痛みだった。

 

 やがて、ナツキが低く言った。

 

「……じゃあ、結局やることは一つじゃない」

 

「何ですか?」

 

 アズサが聞く。

 

「少しでも早く、持てるようになるしかない」

 

 その言葉は冷たくも聞こえる。

 だが、それが一番現実的でもあった。

 

 ユウコがその横で頷く。

 

「うん。エリンさんが今じゃないって言うなら、今じゃないんだと思う。でも、“じゃあ今のままでいい”にはならないよね」

 

 ハズキが唇を引き結ぶ。

 

「悔しいけど……そうだね」

 

「うん」

 

 ミドリも静かに頷いた。

 

「行ってほしいなら、行けるだけの現場を作るしかない」

 

 ミラがそこで顔を上げた。

 

「そう」

 

 短い一言。

 だが、それで全員の意識が少しだけ揃った気がした。

 

「エリンさんを無理やり行かせるのは違う。でも、“私達のせいで行けない”って状況を変えることは出来るかもしれない」

 

 ランもその隣で頷く。

 

「そのためには、今日の話を“可哀想”で終わらせないこと」

 

 その言葉が、静かに、しかし深く皆の胸へ入る。

 

 可哀想。

 申し訳ない。

 行ってほしい。

 そんな気持ちは当然ある。

 でも、それだけでは何も変わらない。

 エリンの選択を少しでも変えたいなら、自分達の在り方を変えるしかない。

 

 クミコは、その空気の変化を感じながら、胸の奥で小さく息を吐いた。

 まだ遠い。

 副パーサーも、チーフパーサーも、ずっと先に見える。

 それでも今、この場にいる皆の顔を見ていると、一人で遠さを抱えるよりはましだと思えた。

 

「訓練……続けます?」

 

 アズサが少しだけ不安そうに、でも前向きに聞く。

 

 ミラは、その問いに対して少しだけ考えた。

 時間は遅い。

 エリンも“早く切り上げて帰りなさい”と言っていた。

 けれど今ここでこの空気を切るのも違う気がする。

 

「少しだけやろうか」

 

 そう言ったのはランだった。

 

 皆がランを見る。

 ランは柔らかい声のまま続けた。

 

「ただし、無理はしないで。今日は“痛いほど分かったこと”を一つでも形にして帰るために」

 

 その言い方に、誰も無理だとは感じなかった。

 

「じゃあ……」

 

 ユウコが立ち上がる。

 

「まずは“隣の二、三人を見る”からやりますか」

 

 ナツキもゆっくり立ち上がった。

 

「いいね。それなら、今の私達でも出来る」

 

 ハズキがぱっと顔を上げる。

 

「よし、やります!」

 

 ミドリも頷く。

 

「私も」

 

 サリーは言葉こそ少ないが、もう立ち上がっていた。

 アズサも、自分の位置へ小走りで戻っていく。

 

 クミコとマユもまた、自然と立ち上がった。

 喫茶店での話。

 ハワード財閥の旅行会社で見た背中。

 エリンの言葉。

 全部を今すぐ飲み込めるわけじゃない。

 でも、だからこそ今は一つだけ形にしたかった。

 

「クミコ」

 

 ミラが声をかける。

 

「今日は、あなた前ね」

 

「はい」

 

「マユはその一つ後ろ。自分の動きだけじゃなくて、クミコの呼吸と、その隣も見て」

 

「はい」

 

 ランが静かに位置を整える。

 

「私は後ろで見るわ。ミラは前方の入口対応役を」

 

「了解」

 

 そうして、またシュミレーションルームに足音が戻っていく。

 

 今夜の訓練は、昼間までのそれとは少し違うものになるだろう。

 技術をなぞるだけではない。

 自分が何を持ち、何が足りないのかを知ったうえでの一歩だ。

 

 エリンが未探索領域を諦めるかもしれない。

 その事実は、皆の胸を確かに痛めた。

 けれどその痛みは、今この瞬間、前へ進むための熱にも変わり始めていた。

 

 シュミレーションルームの照明の下で、クミコは一つ息を吸う。

 その呼吸の音を、マユが後ろで拾う。

 ミラが前方で静かに頷き、ランが後方から全体を見ている。

 

 遠い。

 でも、遠いと知った今なら、前より一歩は正確に進める。

 

 その夜の訓練は、いつもより静かで、いつもより深かった。

 

 

ーーーー

 

 

 次の日の朝、スペースホープの旅行事業部には、いつもと同じように朝の光が差し込んでいた。

 

 広い窓の外には、火星コロニー特有の淡く赤みを帯びた人工空が広がっている。清掃を終えたフロアは整っていて、机の上には端末と資料が並び、壁際には訓練用の備品がきちんと戻されていた。いつもと変わらない、仕事が始まる前の静かな空気だ。

 

 それなのに、その朝の旅行事業部には、目には見えない小さな違和感が浮いていた。

 

 それは大きなものではない。

 誰かが泣いているわけでもなければ、誰かが怒鳴っているわけでもない。

 挨拶が途切れているわけでもない。

 むしろ、皆いつも通りに「おはようございます」と言い、資料を手に取り、シュミレーションルームへ向かう準備をしていた。

 

 ただ、ほんの僅かに、呼吸が揃っていない。

 

 エリンは、フロアへ入った瞬間にそれを感じ取っていた。

 

 誰がどうという話ではない。

 けれど、全体の空気がほんの少しだけ前のめりだ。

 何かが一段分、早い。

 歩き方か、視線の動きか、返事の間か――そういう細部のどこかに、皆の呼吸を乱す原因がある。

 

 エリンは、それを言葉にする前に、だいたいの見当をつけていた。

 

 昨日、ハワード財閥の旅行会社から戻ったクミコとマユ。

 社長室で聞いた話。

 喫茶店で交わした会話。

 そして、夜遅くまでシュミレーションルームで残った皆の空気。

 

 原因はおそらく一つだ。

 分かっている。

 けれど、今日は最初から自分が口を出すつもりはなかった。

 

 旅行事業部の乗務員達は、今、エリン一人で整える段階ではない。

 前に立つべき人間がいる。

 その背中を、後ろから見ている人間もいる。

 だからエリンは、いつものように皆の準備を一通り眺めたあと、何も言わずにシュミレーションルームへ足を運んだ。

 

 

 訓練は、いつも通りに始まった。

 

 今日のメニューは、乗客の乗り入れから座席誘導、ラウンジと食堂への流し方、それから客室内での細かいサービス動線の確認。スペースホープに今必要な、基礎と実践の境界にあるような訓練だ。

 

 ミラが前方の入り口近くへ立ち、ランが中ほどから後方まで見渡せる位置を取る。

 ユウコとナツキは、今日は乗務員役として互いに別のラインへ入り、ハズキ、ミドリ、サリー、アズサがそれに続く。

 クミコとマユも、その中へ自然に組み込まれていた。

 

 最初の合図が入り、乗客役の数人が客席へ流れる。

 

「いらっしゃいませ。こちらへどうぞ」

 

 クミコの声が響く。

 声そのものは悪くない。

 姿勢もいい。

 だが、一歩が早い。

 

 そのすぐ後ろでマユが動く。

 視線の配り方も、立ち位置も、昨日までなら“丁寧”で済んだはずだ。

 それなのに今日は、丁寧である前に“構えすぎている”のが分かった。

 

 隣のハズキが乗客役の一人へ自然に笑顔を向けようとした瞬間、クミコが一歩先に入ってしまう。

 サリーが後方の動線を拾おうとした時には、マユが先回りして言葉を置こうとする。

 悪いわけではない。

 決して悪意もない。

 むしろ真面目に、良くしようとしているのだ。

 

 だが、それが今は全体と合っていなかった。

 

 “自分がやらなきゃ”という意識が、一歩ずつ先へ出ている。

 しかもその一歩が、皆の呼吸と噛み合っていないから、客室の中に小さな引っかかりが生まれていく。

 

 ユウコは一度だけ視線を横へ流した。

 ナツキも、無言のまま動きを修正している。

 ハズキはいつもの明るさを置こうとして、逆に置く場所を失いかけていた。

 アズサの柔らかい入り方も、今日は少しだけ後ろへ押されている。

 ミドリとサリーは、それを見て自分の足を迷わせ始めていた。

 

 エリンには、原因が手に取るように分かった。

 けれど、最初に口を開いたのはやはりミラだった。

 

「ちょっと一回止まろうか」

 

 その一言で、動いていた全員の足が止まる。

 

 声は強くない。

 けれど、場を止めるだけの力があった。

 ミラのその声音に、エリンは内心で小さく頷く。

 前の空気を持つとは、こういうことだ。

 

 ランも一歩だけ前へ出る。

 

「何かあったの? クミコ、マユ」

 

 言い方は柔らかい。

 責める響きはない。

 だが、誤魔化しを許さない静けさがあった。

 

「え、いや……」

 

 クミコが言葉を詰まらせる。

 マユも、はっとしたように目を瞬かせた。

 

「別に責めてるって訳じゃないのよ」

 

 ミラがすぐに続ける。

 

「ただ、二人ともどこか張り切りすぎてるように見えてね」

 

 クミコの肩が僅かに揺れる。

 図星だったからだろう。

 マユも同じだった。

 

「ええ」

 

 ランが静かに引き継ぐ。

 

「ただそれが、皆んなと合ってないから、ね」

 

 その言葉は優しい。

 だが、核心を外していない。

 

「何があったの?」

 

 ランがもう一度尋ねる。

 

 沈黙が落ちた。

 ハズキが不安そうに視線を泳がせ、アズサがクミコとマユの顔を見比べる。

 ユウコは腕を組んだまま、ナツキは少しだけ眉を寄せていた。

 エリンは壁際に立ったまま、何も言わずに見ている。

 

 やがて、クミコが腹を括るように息を吸った。

 

「私達……早く副パーサーになりたいんです」

 

 その言葉は、思っていた以上にはっきり響いた。

 

「副パーサー!?」

 

 アズサとハズキが、ほとんど同時に驚きの声を上げる。

 

「一体どうしたの?」

 

 ミドリが思わず言う。

 マユは、その問いにすぐには答えられず、視線を落とした。

 

「いや、その……」

 

 口ごもるマユを横目に、ユウコが先に口を開いた。

 

「別に普通なんじゃないですか?」

 

 全員がユウコを見る。

 

「乗務員をやってるなら、副パーサーやチーフパーサーを目指すのは当たり前じゃないですか?」

 

 その言い方は、いかにもユウコらしい。

 真正面からで、遠回しがない。

 

「確かにそうですね」

 

 サリーも静かに同意する。

 

 だが、そこでユウコは少しだけ眉を寄せた。

 

「だけど、自分達の実力を分かってるの?」

 

 その一言で空気が少し引き締まる。

 

「私だって不本意だけど、こいつの力が必要なんだよ」

 

 そう言って、ユウコがナツキを指差す。

 

 ナツキは呆れたような顔をしながらも、口元を少しだけ上げた。

 

「私の力がないとできないもんね」

 

「そこまで言ってない」

 

「言ってるのと同じ」

 

「違う」

 

「いや、違わないでしょ」

 

 二人がそのまま言い合いに入りかける。

 それはいつもの光景に見える。

 でも今は、そのいつも通りのやり取りが逆に場を少しだけ和らげてもいた。

 

 ミラは、その様子を見てからふっと息を吐いた。

 

「なるほどね。だからか」

 

 その一言で、また全員の意識が戻る。

 

「気持ちは分かるけど、副パーサーは一長一短でなれるものじゃないのよ」

 

 ミラの声は、普段の柔らかさのままだった。

 けれど、その奥にある重さは隠していない。

 

「それに」

 

 今度はランが静かに続ける。

 

「勝手に背負う物を増やすと全体が乱れるでしょ。もしやり方を変えるなら、先に言わないとね」

 

「……はい」

 

「すみません」

 

 クミコとマユが、ほぼ同時に申し訳なさそうに頷く。

 

 アズサが少しだけ身を乗り出す。

 

「それで、何があったの?」

 

 その問いは、責めるものではなく、本当に知りたいという顔だった。

 ハズキも、ミドリも、サリーも、皆同じ顔をしている。

 ミラとランも、もちろん分かっている部分はあるのだろうが、二人の口から話させたいと思っているようだった。

 

 そこまで見届けて、エリンがようやく壁際から一歩前へ出た。

 

「分かったわ。私から話をするわ」

 

 その声が落ちた瞬間、空気が変わる。

 誰もが自然と背筋を伸ばした。

 

 エリンは、皆の顔を一人ずつ見渡した。

 クミコとマユは少しだけ顔を強張らせている。

 ミラとランは静かに一歩下がり、場をエリンへ渡した。

 ユウコとナツキは腕を解き、ハズキ達も姿勢を正す。

 

 その全部を見てから、エリンは落ち着いた声で言った。

 

「私に、未探索領域の調査依頼が来ているの」

 

 その一言は、昨日クミコとマユから聞いた者以外には、やはり衝撃的だった。

 

「未探索領域!?」

「えっ、!?」

「本当に!?」

 

 ハズキとアズサが真っ先に反応し、ミドリも目を大きく見開く。

 サリーは驚きこそ声にしなかったが、明らかに息を止めていた。

 

 ミラとランは、やはり知っていたかのような顔をしていた。

 もっと正確に言えば、“何か大きな理由があるだろう”とは思っていたのだろう。

 その理由が未探索領域だと聞いても、すぐに取り乱さなかった。

 

 エリンはその反応が収まるのを少しだけ待ってから、続けた。

 

「でも、私は諦める選択をしたわ」

 

 今度は、さっきの驚きとは別の意味で空気が止まった。

 

「諦める……」

 

 ミドリがぽつりと繰り返す。

 

「どうしてですか?」

 

 ハズキがほとんど反射のように聞き返した。

 エリンは、その問いを真っ直ぐ受け止めた。

 

「今のスペースホープを離れるわけにはいかないからよ」

 

 その言葉は静かだった。

 だが、重みは十分すぎるほどあった。

 

「ようやく予約が入り始めて、これからが大事な時期でしょう? ここでチーフパーサーの私が抜けるのは、現場に負担が大きすぎる」

 

 誰も何も言えなかった。

 その理屈が正しいことは、皆分かっている。

 

 エリンはそこで、クミコとマユへ視線を向けた。

 

「クミコ、マユ、言ったわよね」

 

 二人がぴくりとする。

 

「貴方達に必要なのは、急に上を背負うことじゃないって」

 

「……はい」

 

「はい」

 

 二人の返事は小さい。

 だが、そこに反発はなかった。

 昨夜の喫茶店で聞いた言葉が、今こうして皆の前でもう一度置かれたことで、その意味がさらに重くなる。

 

「貴方達の成長速度には、目を見張るものがある」

 

 エリンは、そこで少しだけ表情を和らげた。

 

「二人には悪いけど、はっきり言ってミラとランが新人でドルトムントに居た頃よりも、ずっとレベルは高いわ」

 

「エリンさん!?」

 

 ミラとランが同時に声を上げた。

 あまりにも予想外だったのだろう。

 

 ユウコ達も一斉に二人を見る。

 ミラは「いやいや」とでも言いたげに目を丸くし、ランは珍しくはっきりと動揺していた。

 

 エリンはそんな二人に、少しだけ笑ってみせる。

 

「ふふっ」

 

 それから、またクミコとマユへ戻る。

 

「だけど」

 

 その一語で空気がまた引き締まる。

 

「新人の頃の二人と、今の貴方達とは、決定的に違うことがある」

 

 ランが、そこで静かに口を開いた。

 

「……現場経験ですね」

 

「そう」

 

 エリンは頷いた。

 

「ミラとランは、ドルトムントで新人の頃から、現場で過ごす時間がずっと長かった。乗客からの不安や不満も、理不尽も、期待も、全部、身体で受け止めてきた」

 

 ミラは、その言葉を聞きながら、昔の自分達を少しだけ思い出していた。

 無茶な客。

 泣き出す子供。

 予定変更への苛立ち。

 初めての宇宙船に怯える客。

 上から降ってくる厳しい指示。

 それらを、ただ必死で受け止めてきた時間。

 

 ランもまた、静かに目を伏せている。

 

「現場って、訓練と違って順番どおりに来ないの」

 

 エリンは続ける。

 

「不安も不満も、こっちの都合なんて待たない。こちらが疲れていても、知識が足りなくても、立場がまだ低くても、来るものは来る」

 

 その現実を、皆、まだ十分には知らない。

 教育便で少し触れた。

 だが、旅行フライトの本番はまた別だ。

 

「だから今は」

 

 エリンは、改めて言葉を置いた。

 

「地に足をつけて、一歩ずつ前に進んでほしいの」

 

 その一言は、喫茶店でクミコとマユに言った時よりも、皆の前で言う今の方がずっと重かった。

 

「でも、それだとエリンさん……」

 

 クミコが思わず口を開く。

 その言葉には、未探索領域へ行けなくなることへの悔しさと申し訳なさが混じっていた。

 

 だが、エリンはすぐにそれを遮った。

 

「私のことは良いのよ」

 

 その声音に、強さがあった。

 

「今は自分達のことを心配しなさい」

 

 はっきりとした言い切りだった。

 

 その瞬間、クミコはそれ以上何も言えなくなった。

 エリンは本気なのだ。

 自分のやりたいことを脇に置いてでも、まず現場と皆を立たせる。その覚悟の上で今ここに立っている。

 

 誰も、しばらく声を出せなかった。

 

 

 最初にその沈黙を破ったのは、意外にもハズキだった。

 

「……でも、やっぱり悔しいです」

 

 その声は震えていた。

 ハズキ自身も、こんなに感情が前へ出るとは思っていなかったのだろう。

 

「だって、エリンさん、本当は未探索領域の調査に行きたいのに」

 

 その真っ直ぐさに、アズサの目もじわりと潤む。

 ミドリは唇を噛み、サリーはただ静かにエリンを見ていた。

 

 ユウコが長く息を吐く。

 

「ハズキの言いたいことも分かる」

 

 エリンがそちらを向く。

 ユウコは、いつもの勢いだけで話している顔ではなかった。

 

「でも、だからって“行ってください”だけ言うのも違う」

 

 その言い方に、ナツキが小さく頷く。

 

「そうだね。それだとエリンさんが困るだけ」

 

「うん」

 

 ミラがそこで静かに引き取った。

 

「エリンさんは、優先順位を間違えてるわけじゃないの」

 

 皆がミラを見る。

 

「今のスペースホープに必要なものと、自分がしたいこと。その二つがぶつかった時に、ちゃんと必要な方を見てるだけ」

 

 それは、擁護でもあり、残酷な事実の確認でもあった。

 

「だから私達が今やるべきなのは、“可哀想”って言うことじゃない」

 

 ランも、その隣で静かに続ける。

 

「“エリンさんがいなくても回る現場”に少しでも近づくこと」

 

 その言葉が、空気を少しだけ変えた。

 

 そうだ。

 そこなのだ。

 

 エリンが未探索領域を諦めるかもしれない。

 その事実に胸を痛めるのは自然だ。

 でも、胸を痛めているだけでは何も変わらない。

 今の自分達が、どれだけ前へ進めるか。

 それだけが、未来を少しでも変えられる可能性になる。

 

 クミコは、自分の胸の奥でゆっくり息を整えた。

 

「……私、今日、勝手に背負いすぎてた」

 

 ぽつりとそう言う。

 

「副パーサーになりたいって気持ちばかり先に行って、皆んなと合わなくなってた」

 

 その自己認識に、ミラが小さく頷く。

 

「うん。でも、気づいたなら大丈夫」

 

 マユも静かに続ける。

 

「私も、正解っぽい動きばかりしようとしてた。全体を見ようって思ったのに、逆に周りが見えなくなってた」

 

 ランが少しだけ目を細めた。

 

「そこまで分かってるなら、次は変えられるよ」

 

 その言葉が、二人の肩をほんの少しだけ軽くする。

 

 アズサが、おずおずと手を挙げるように言った。

 

「じゃあ……今の私達に出来ることって、何ですか?」

 

 その問いは、誰もが聞きたいことだった。

 

 エリンは少しだけ考え、すぐに答えた。

 

「まず、今日みたいに一人で先に背負わないこと」

 

 クミコとマユが小さく頷く。

 

「次に、役目を上げたい時は、自分で勝手に変えないで先に言うこと。訓練の組み方で出来ることもあるから」

 

 ミラとランが、その言葉を受けて同時に頷いた。

 

「ええ。先に言ってくれれば、任せ方も考えられる」

 

「“いきなり全部”じゃなくて、“一つだけ上の役目”を持たせることも出来ます」

 

 ユウコがそこで「なるほど」と小さく呟く。

 

「少しずつ、ってそういう意味なんですね」

 

「そう」

 

 エリンは頷く。

 

「副パーサーになるって、明日から名札が変わることじゃないの。見える範囲と、持つ責任の量を少しずつ増やしていくことなのよ」

 

 サリーが静かに口を開いた。

 

「なら、今日の訓練も……」

 

「ええ」

 

 エリンはすぐに応じる。

 

「無駄じゃない。むしろ、今みたいにずれたことに気づけたなら意味はある」

 

 ミドリが、そこで少しだけほっとしたように息を吐いた。

 

「よかった……」

 

「ただし」

 

 エリンが続ける。

 

「意味があったで終わらせないで、次の動きに変えること」

 

 その一言で、皆が自然と表情を引き締める。

 

 ハズキが小さく拳を握る。

 

「じゃあ、今日の後半はやり方変えませんか」

 

 その提案に、ユウコが目を向ける。

 

「どう変えるの?」

 

「クミコとマユに、少しだけ一つ上の役目を持ってもらうとか」

 

 ハズキは言いながら、自分でも少し緊張した顔になる。

 

「でも、いきなり全部じゃなくて。さっきエリンさんが言ったみたいに、一つだけ」

 

 ミラがその提案を面白そうに受け取った。

 

「へえ」

 

 ランも頷く。

 

「いいね」

 

「たとえば?」

 

 ナツキが実務的に問う。

 

 今度はクミコ自身が口を開いた。

 

「私……入口側の流しを持ちます」

 

 皆が見る。

 

「でも、全部じゃなくて、最初の三人分だけ」

 

 その言い方に、エリンがほんの少しだけ目を細めた。

 ちゃんと“全部”へ飛ばず、区切りを作ったのだ。

 それだけで昨夜より一歩進んでいる。

 

「私は、その後ろの二人を見る」

 

 マユが続ける。

 

「自分の役目をやりながら、クミコと、その隣の動きも見る」

 

 ランが満足そうに頷いた。

 

「うん。いいと思う」

 

 ミラも笑う。

 

「じゃあ後半、それでやろうか」

 

 そう言って立ち上がる。

 その動きに、皆も自然と続いた。

 

 エリンは、その様子を少し後ろから見ていた。

 胸の奥にはまだ、未探索領域の件が静かに残っている。

 諦めたつもりでいても、完全には切れていない。

 けれど、その迷いを抱えたままでも、今ここで前へ進むべきものがある。

 

 シュミレーションルームの中央通路へ、また足音が戻る。

 ミラが前に立ち、ランが後ろを持つ。

 クミコが入口側へ出て、マユがその後ろへつく。

 ユウコとナツキは左右のラインへ入り、ハズキ、ミドリ、サリー、アズサも位置についた。

 

「じゃあ、もう一回やろうか」

 

 ミラの声が落ちる。

 

「今度は、皆んなで合わせて」

 

「はい!」

 

 返事が揃う。

 今度の返事は、朝のそれよりもずっと腹から出ていた。

 

 エリンは、その響きを聞いて小さく息を吐く。

 

 大丈夫。

 まだ足りない。

 でも、ちゃんと進んでいる。

 

 それを信じることも、今の自分の役目の一つなのだと、エリンは改めて思った。

 

 

ーーーー

 

 

 それから数週間。

 

 スペースホープでは、エリンが中心となって新たに入った学校の教育便と、その合間を縫うように入ってくる旅行フライトの準備に追われていた。

 訓練は毎日のように続き、乗務員達は目の前の便に食らいつくので精一杯だった。

 未探索領域の調査の話は、あれから誰の口からも出なくなった。

 まるで最初からそんな話はなかったかのように、エリンはスペースホープのために動き、ミラ達はその背中を追っていた。

 

 だが、その一方で。

 

 ラ・スペランツァの側では、別の時間が、着実に、静かに動き始めていた。

 

 

 宇宙管理局のオペレーションルームは、いつもと同じように整然としていた。

 

 広い部屋の壁一面に並ぶ大型モニター。

 中央の円形机。

 その上に並べられた端末と各種データパッド。

 無機質なはずの空間なのに、この部屋だけは妙に人の熱が残る。

 それはたぶん、ここがただの会議室ではなく、何度も判断と覚悟が積み重なった場所だからだろう。

 

 最初に集まったのは、宇宙管理局所属のクリスタルとマリだった。

 

 二人は並んでオペレーションルームへ入る。

 クリスタルは相変わらず歩くのが速く、マリはそれに半歩遅れずきっちりついてくる。

 仕事で顔を合わせること自体は珍しくない。けれど、こうしてラ・スペランツァのために集まるのは、やはり特別だった。

 

「あれ? ナミ、もう来てたの?」

 

 クリスタルが部屋の奥を見て言う。

 

 そこには、オペレーション端末の前で資料を整えていたナミの姿があった。

 ナミはすぐに立ち上がり、軽く頭を下げた。

 

「こんにちは」

 

「はい、こんにちは」

 

 マリも会釈する。

 

「でも、クリスタルさんとマリも早いですね。集合は一ヶ月前って聞いてましたけど」

 

「私とクリスタルさんは宇宙管理局だし、早めにここに入ったんだ」

 

 マリが答えると、ナミが少しだけ口元を上げた。

 

「なるほどね。冥王星の管制で鈍ってないわよね?」

 

「それはこっちのセリフだ」

 

 マリがすぐに返す。

 ナミが小さく笑った。

 

 クリスタルはそんな二人のやり取りを横目で見ながら、部屋の奥へ視線を向けた。

 

「それで? ペルシアは?」

 

 ナミは統括官席を指差した。

 

「ペルシアさんなら、あそこでローズさんに色々と仕込んでます」

 

 そこには統括官席に座るローズと、その横で身振り手振りを交えながら何かを叩き込んでいるペルシアの姿があった。

 

 ローズの前には、航路図、管制表示、通信ログ、優先順位表がいくつも開かれている。

 ローズは必死にそれを追い、ペルシアは横から容赦なく言葉を飛ばしていた。

 

「違う違う、ローズ。そこは数字だけ追うんじゃないの。統括官席は“今、何を先に通すか”を決める場所でしょ」

 

「分かってるって」

 

「分かってないから言ってるのよ。いい? 船内が揺れてる時に、全部の報告を同じ重さで上げたら現場が潰れるの」

 

「……じゃあ、今は医療ブロックからの報告を後に回す?」

 

「違う。後に回すんじゃなくて、一度こっちで意味を整理するの。統括官は“そのまま流す人”じゃないでしょ」

 

 ローズがぐっと唇を結ぶ。

 額には汗が滲み、目には疲れが見えていた。

 その横で教えているペルシアの額にも、同じように汗が浮いている。

 

「頑張ってるようね」

 

 クリスタルがぽつりと言う。

 

「ええ、ですけど頑張りすぎてます」

 

 ナミが即座に返した。

 

「どういう意味なんだ?」

 

 マリが尋ねると、ナミはため息混じりに言う。

 

「ペルシアさん、今回はエリンさんの役割を引き受けるんでしょ」

 

「ああ……」

 

 マリが小さく頷く。

 

 それはもう、この調査に関わる人間の中では暗黙の了解になりつつあった。

 エリンが来られないかもしれない以上、あの人が船内で担っていた役割を、一番近い場所にいるペルシアが背負うしかない。

 

「だから、ペルシアさんはコックピットコンディションのシュミレーションを自分でやりながら、ローズさんにはペルシアさんが本来やるはずだった“統括官としての役割”を叩き込んでるんです」

 

 ナミの言葉に、マリはようやくはっきりと状況を理解した。

 

 そういうことか。

 

 エリンの役割を、ローズへ乗せようとしていたわけではない。

 それは無理だ。

 無理だと、ペルシア自身も分かっている。

 

 代わりに――。

 

 エリンがいない穴はペルシアが埋める。

 そのせいで空くペルシア本来の統括官席の役割を、ローズへ乗せようとしている。

 

 その構図が、今やっとくっきり見えた。

 

「なるほど……」

 

 マリが低く呟く。

 

 ナミはさらに続けた。

 

「コックピットコンディションのシュミレーション、ローズさんの指導、仕事の引き継ぎ、それとペルシアさんが宇宙船に乗るための役員への根回し。完全にオーバーヒートよ」

 

「相変わらず無茶してるのね」

 

 クリスタルが呆れたように言う。

 

「はい。ここのところ宇宙管理局に寝泊まりしてますから」

 

「分かったわ。少しは休むように言ってみる」

 

「すみません。忙しいのに」

 

「いいのよ。私にとっても大事なことだから」

 

 ナミはそのままオペレーションルームを後にした。

 

 扉が閉まる。

 

 少しだけ静かになった室内で、クリスタルが横目でマリを見る。

 

「マリってナミと仲良いんだね」

 

「一応、同期ですから」

 

 マリはそう返した。

 そしてすぐに、視線を統括官席へ戻した。

 

「それよりも、ペルシアさんです」

 

「そうね」

 

 クリスタルも同じ方向を見る。

 

「エリンがいない負担を、一人で引き受けてるからね」

 

 

 二人はそのまま統括官席へ近づいた。

 

 ローズはまだ端末と格闘していた。

 表示の切り替え、優先順位の再配置、仮想通信の要約。

 普段のローズでもこなせる仕事ではある。

 だが今は、その全部が“ペルシアの代役”というプレッシャーの上に置かれていた。

 

「ペルシア」

 

 クリスタルが呼ぶ。

 

 ペルシアはようやく振り返った。

 

「あら、来たのね。早かったじゃない」

 

「早かったじゃない、じゃないわよ」

 

 クリスタルが腕を組む。

 

「ナミから聞いたわ。ここに寝泊まりしてるんですって?」

 

「大げさねえ。仮眠室をちょっと使ってるだけよ」

 

「それを寝泊まりって言うの」

 

 即答だった。

 

 マリも真面目な顔で言う。

 

「ペルシアさん、少し休んだ方がいいです」

 

「大丈夫よ」

 

「大丈夫じゃないです」

 

 マリにしては珍しく、ほとんど被せるような言い方だった。

 それだけ本気で心配しているのだろう。

 

 ペルシアは一瞬だけ目を細めたが、言い返す前にローズが小さく立ち上がった。

 

「私は少しデータの整理してくる」

 

「いいのよ、ローズ」

 

 クリスタルが止める。

 

「今は休憩しなさい」

 

「でも――」

 

「でもじゃない」

 

 クリスタルは有無を言わせない調子で言った。

 

「その顔でまだやる気?」

 

 ローズは一瞬だけ反論しかけたが、結局何も言えず、近くの椅子へ腰を下ろした。

 座った瞬間、張っていた肩が一気に落ちる。

 

 ペルシアもようやく統括官席の横にある簡易椅子へ身体を預けた。

 

「はいはい、じゃあ五分休憩」

 

「五分じゃ足りない。十五分」

 

「長い」

 

「じゃあ二十分」

 

「増えてるじゃない」

 

「十五分」

 

「……分かったわよ」

 

 ペルシアが折れる。

 それだけで、ローズの顔に少しだけ安堵が浮かんだ。

 

 

 少し離れたオペレーション卓へ移動し、四人は簡単な飲み物を手にした。

 

 クリスタルはブラックコーヒー。

 マリは温かいお茶。

 ローズは水。

 ペルシアはカフェインの強いエネルギードリンクを選びかけたが、クリスタルに睨まれて普通のコーヒーへ変えた。

 

「それで」

 

 クリスタルが口火を切る。

 

「今、どこまで進んでるの?」

 

 ペルシアはコーヒーを一口飲んでから答えた。

 

「私の方は、エリンの役割を乗せるためのシュミレーションを回してる」

 

 その言葉に、ローズが少しだけ顔を上げる。

 

「船内の温度感、操縦への上げ方、長期調査の中でのクルーの疲れ方、そのへんを頭に叩き込んでる最中」

 

「で、ローズには?」

 

 クリスタルが続ける。

 

「私の役割」

 

 ペルシアはあっさり答えた。

 

「統括官席で何を拾って、どこまで整理して、どういう順番で流すか。宇宙管理局側の中継点としての役割ね」

 

 マリが小さく息を吐いた。

 

「やっぱり、そうなんですね」

 

「そうよ。エリンの代わりをローズにやらせるつもりはないわ」

 

 ペルシアはそこで少しだけ眉を寄せる。

 

「そんなの無理に決まってるでしょ」

 

 その言葉に、ローズが小さく肩を竦めた。

 自分でも同じことを思っていたのだろう。

 

「私はペルシアじゃないし、エリンでもないからね」

 

 ローズがぼそっと言う。

 

 その口調は、クリスタルやペルシアに対して遠慮をしない普段のものだった。

 マリへ向ける時よりも、少しだけくだけている。

 

「そういうこと」

 

 ペルシアが頷く。

 

「だから私はエリンの役割を引き受ける。で、私が抜けた統括官席をローズに持たせる。そういう形」

 

 クリスタルは少しだけ納得したように頷いた。

 

「理屈は分かるわ。でも、それを一人で抱えてるから死にそうな顔してるんでしょ」

 

「死にそうってほどじゃないわよ」

 

「十分死にそうよ」

 

 クリスタルが即答する。

 

 マリも静かに口を開いた。

 

「ペルシアさん、やっぱり無理しすぎです」

 

「マリまで」

 

「当然です」

 

 マリは真顔だった。

 

「エリンさんの役割だけでも重いのに、その上で自分の役割の引き継ぎまで一人で回してたら、持つ方がおかしいです」

 

 ペルシアは少しだけ黙った。

 図星を突かれた時の顔だった。

 

 ローズが、コップを両手で持ったまま小さく言う。

 

「私もそう思う」

 

 三人がローズを見る。

 

 ローズは少しだけ言いにくそうにしながらも続けた。

 

「今のペルシア、私に教えながら、自分の方でも全部抱えてるでしょ」

 

「まあね」

 

「それ、見てて分かる」

 

 ローズの声は低かった。

 

「私に怒ってるんじゃなくて、時間が足りないことに怒ってる時あるし」

 

 その指摘に、クリスタルが思わず肩を揺らした。

 

「見抜かれてるじゃない」

 

「ローズ……」

 

 ペルシアが少しだけ目を細める。

 

「だって本当でしょ」

 

 ローズは普通の口調のまま言った。

 

「私が遅いのもあるけど、それ以上にペルシアが一気に全部進めようとしすぎてる」

 

 痛いところを突かれたのだろう。

 ペルシアは一度視線を逸らしてから、コーヒーを飲んだ。

 

 

 そこでクリスタルが、少しだけ真面目な声で言った。

 

「はっきり言うわよ」

 

 誰も口を挟まない。

 

「エリンがいない穴を、ペルシア一人で埋めるのは無理じゃない。あんたなら出来る」

 

 ペルシアが少しだけ皮肉っぽく笑う。

 

「褒めてる?」

 

「まだ途中よ」

 

 クリスタルは冷静に続ける。

 

「でも、その代わりに抜ける“ペルシアの役割”を、ローズ一人へ丸ごと渡すのは危ない」

 

 ローズが息を止める。

 マリも、同じことを考えていたのだろう、小さく頷いた。

 

「ローズの能力が足りないって話じゃないわ」

 

 クリスタルはそこをはっきりさせる。

 

「ただ、ペルシアの統括官としての動きって、情報整理だけじゃないでしょ。どこで会話を切るか、誰を待たせるか、誰の報告を軽くして、誰の報告を重く通すか。そういうの全部入ってる」

 

「そうですね」

 

 マリがすぐに同意する。

 

「統括官席って、ただログを流す場所じゃないです」

 

 ローズも小さく頷いた。

 

「やってみて分かった。全然違う」

 

 ペルシアはそれを聞きながら、指先でカップの縁をなぞった。

 自分でも分かっているのだ。

 ローズが悪いわけではない。

 むしろ短期間でよくついてきている。

 だがそれでも、今やっていることは無茶だ。

 

「じゃあどうするのよ」

 

 ペルシアが少しだけ投げるように言う。

 

 今度はマリが答えた。

 

「分けるべきです」

 

「分ける?」

 

「はい」

 

 マリは落ち着いて続ける。

 

「ペルシアさんの統括官席の役割を、ローズさん一人に乗せようとしてるから重いんです」

 

 ローズがマリを見る。

 マリはそこで、ローズに対しては丁寧に言葉を選び直した。

 

「ローズさんは、まず“整理して流す”ところに集中した方がいいと思います」

 

「整理して流す……」

 

「はい。優先順位を決める基準を全部持つんじゃなくて、最初は“決まった基準に沿って整理して通す”ことに集中するんです」

 

 クリスタルが「それなら現実的ね」と頷く。

 

「私が拾える人の疲れや医療絡みの揺れは、私から上げる」

 

 クリスタルはいつも通りの通常口調で言う。

 

「マリは?」

 

「私は外との通信を絞ります」

 

 マリが即答する。

 

「今までペルシアさんがまとめていた部分のうち、外部とのやり取りでローズさんが迷わないように、私が一段整理してから統括官席へ上げます」

 

 ローズの表情が、そこで少しだけ明るくなった。

 

「それなら……少し持てるかもしれない」

 

「持てるようにするの」

 

 クリスタルが言う。

 

「いきなりペルシアになれなんて誰も言ってないでしょ」

 

「それはそうだけど」

 

 ローズが苦笑する。

 

 ペルシアは、そのやり取りを聞いてようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 

「……ほんと、皆んな好き勝手言うわね」

 

「好き勝手じゃないわよ」

 

 クリスタルが言う。

 

「死なれると困るから言ってるの」

 

「縁起でもない」

 

「そういう言葉が出る時点で疲れてる証拠」

 

 クリスタルが容赦なく返すと、ローズが吹き出しそうになるのを堪えた。

 マリも、口元だけ少しだけ緩めた。

 

 

 しばらくして、話は自然とエリンの不在そのものへ戻った。

 

「でも」

 

 ローズがぽつりと言う。

 

「ペルシアがエリンの役割を引き受けるって決まっても、やっぱりエリンが来ないのは厳しいよね」

 

 その一言に、また少しだけ空気が重くなる。

 

 クリスタルが腕を組み直す。

 

「そりゃそうよ」

 

「エリンがいたら、私がそこまでやらなくていいって意味じゃないわよ?」

 

 ペルシアも言う。

 

「でも、エリンがいると船の呼吸が変わる」

 

 その言葉は、以前のテレビ会議で皆が口々に言ったものと同じ結論へ戻っていく。

 

 マリが静かに頷いた。

 

「はい。私もそう思います」

 

「マリから見て、どのあたりが一番違う?」

 

 クリスタルが問う。

 

「……情報の“迷い”が減ります」

 

 マリは少し考えてから答える。

 

「エリンさんがいると、上がってくる情報に迷いが少ないんです。今、何が必要で、何はまだ上げなくていいかが整理されてる」

 

「そうね」

 

 クリスタルが頷く。

 

「しかも、それをやってる感じが出ないのが厄介なのよ」

 

 ペルシアが苦笑する。

 

「ほんとそれ」

 

「私から見ると」

 

 ローズが続ける。

 

「ペルシアは“流れを前に進める”でしょ。でも、エリンは“流れを乱さず前に進める”感じ」

 

 その表現に、三人とも少しだけ目を見開いた。

 

「へえ」

 

 クリスタルが感心したように言う。

 

「ローズ、いいこと言うじゃない」

 

「たまたま」

 

「たまたまでそれ言えるなら十分よ」

 

 ペルシアも、小さく息を吐いてから頷いた。

 

「そうね。私がやると、たぶん多少荒っぽくなる」

 

「そこを自覚してるだけまだマシ」

 

 クリスタルが言う。

 

 ローズは、そこで少しだけ真面目な顔になった。

 

「だから、ペルシアがエリンの役割を引き受けるなら、余計に周りが細かく支えないと危ない」

 

 その言葉に、マリが静かに続く。

 

「はい。ペルシアさん一人の力量に頼る形だと、いつか破綻します」

 

「ひどい言い方ねえ」

 

 ペルシアが言うが、怒ってはいない。

 

「ひどくないです。事実です」

 

 マリはきっぱり言った。

 クリスタルが横でうっすら笑う。

 

「マリ、冥王星行って少し強くなった?」

 

「そうでもないです」

 

「いや、強くなってるわよ」

 

 ローズも小さく頷いた。

 

 その何気ないやり取りに、少しだけ空気が和む。

 

 

 それでも、最終的に結論は変わらなかった。

 

 エリンがいない調査は、やはり厳しい。

 その穴を埋めるのは、今回はペルシアしかいない。

 そして、ペルシアが抜けた統括官席を、ローズへ無理やり丸ごと渡すのではなく、周囲が分けて支える形へ修正していくしかない。

 

 それはつまり、全員が少しずつ無理をするということでもある。

 だが、それでも“一人に全部押しつける”よりはずっとましだ。

 

 クリスタルは最後に、ペルシアを真っ直ぐ見た。

 

「いい? あんたが引き受けるのはエリンの役割」

 

「分かってる」

 

「でも、それで“自分の役割まで全部面倒見る”のは違う」

 

「……はいはい」

 

「返事が軽い」

 

「分かったって」

 

 ペルシアは苦笑しながらも、今度はきちんと頷いた。

 

「ローズ」

 

「なに?」

 

「あなたはペルシアにならなくていい」

 

 クリスタルが言う。

 

 ローズは、少しだけ目を瞬かせた。

 

「整理して流す。今はそこを確実に。足りないところは私達が埋める」

 

「……うん」

 

「“うん”じゃなくて?」

 

 クリスタルが少しだけ意地悪く言う。

 

 ローズはそこで、わざとらしく息を吐いた。

 

「分かった」

 

「よろしい」

 

 マリも静かに頷いた。

 

「私も、出来るだけ支えます」

 

「ありがとう」

 

 ローズが素直に言う。

 マリは少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。

 

 

 話が一区切りついたころには、さっきよりも皆の表情が少しだけ落ち着いていた。

 

 問題は山ほどある。

 エリンはまだ来ないかもしれない。

 ペルシアの役員根回しも通るか分からない。

 調査の詳細もまだ固まりきってはいない。

 

 それでも、少なくとも今ここで、“どうしようもない不安”だけを抱えている状態ではなくなった。

 やることが見えれば、人は少しだけ前を向ける。

 

 クリスタルは紙コップの残りを飲み干すと、席を立った。

 

「さて」

 

「もう再開するの?」

 

 ペルシアが嫌そうな顔をする。

 

「今日はしない」

 

 その言葉に、ローズが明らかに安堵した。

 

「でも、その代わり」

 

 クリスタルは少しだけ口元を上げる。

 

「ペルシア、あんたはちゃんと寝る」

 

「またそれ?」

 

「またそれよ」

 

 マリもすぐに頷いた。

 

「今日はもう終わりにした方がいいです」

 

 ローズも珍しく、すぐに乗った。

 

「そうして。じゃないと明日も持たない」

 

 ペルシアは、三方向から同じことを言われてさすがに観念したのか、大きくため息を吐いた。

 

「……分かったわよ」

 

「ほんとに?」

 

 クリスタルが念を押す。

 

「ほんとに」

 

「仮眠室じゃなくて?」

 

「仮眠室よ」

 

「やっぱりじゃない」

 

「でもちゃんと横になる」

 

 そのやり取りに、ローズが少しだけ笑った。

 マリも、ようやく肩の力を抜く。

 

 オペレーションルームの照明は変わらず白い。

 端末は静かに待機し、巨大モニターには未探索領域の航路図が映ったままだ。

 その線の先には、まだ見ぬ場所が広がっている。

 

 そしてその手前には、エリンの不在という大きな穴がある。

 

 けれど、その穴をただ見つめて立ち尽くす段階は終わりつつあった。

 誰が何を持つか。

 誰がどこで支えるか。

 少しずつでも、それを決めていくしかない。

 

 ペルシアは最後に、統括官席を振り返った。

 その席は今、自分ではなくローズへ向かって開かれている。

 でも、そこへただ押しつけるのではなく、一緒に持つ形に変える。

 それが今日、ようやく出来たことだった。

 

「……ほんと、世話の焼ける任務ね」

 

 ペルシアがぼそっと言う。

 

 クリスタルが横で鼻を鳴らす。

 

「今さらでしょ」

 

「それもそうか」

 

 ペルシアは小さく笑った。

 

 まだ何も解決していない。

 それでも、少しだけ進んだ。

 

 エリンがいないことについて、目を逸らさずに考えた。

 その上で、自分がその重さを引き受けると決めた。

 そして、自分一人では抱えない形をようやく作り始めた。

 

 それだけでも、今夜は十分だった。

 

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