サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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倒れた

 未探索領域の調査まで、一ヶ月。

 

 その事実は、とうとう宇宙管理局の内部や一部の関係者だけが知る話ではなくなった。

 正式発表のあと、マスコミ各社が一斉に特番や速報枠を組み、コロニー中のニュース端末や街頭ビジョン、飲食店の壁掛けテレビ、エアポートの待合モニターにまで同じ映像が流れ始める。

 人類未踏の航路。

 南側未探索領域。

 正式調査隊の編成。

 ラ・スペランツァの再集結。

 

 言葉にすればそれだけのことだ。

 だが、その一つひとつの単語が持つ熱は、普段宇宙や飛行にほとんど関わらない人々にまで届くには十分すぎるほど大きかった。

 

 火星コロニーの中央報道局は、宇宙管理局正面玄関前に中継拠点を作り、各局の記者がマイクを持って次々に現場の様子を伝えている。

 映像の下には大きなテロップが流れていた。

 

 ――【未探索領域南側航路 正式調査隊、宇宙管理局に集結開始】

 ――【伝説の調査船ラ・スペランツァ再始動へ】

 ――【S級パイロット リュウジの搭乗も予定】

 

 派手だ。

 いかにも人の目を引く言葉ばかりが並んでいる。

 だが、それを“派手なだけ”とは誰も思えない。

 何故なら、その名前の中には本当に何度も命懸けの任務をくぐり抜けてきた人間達がいるからだ。

 

 

 最初にマスコミの前へ姿を見せたのは、既に宇宙管理局入りしていたクリスタルとマリではなかった。

 彼女達は内部へ早くから入っていたため、報道の映像に大きく映ることはほとんどなかったのだ。

 

 ニュースが大きく取り上げたのは、そのあと正面から入ってきたメンバー達だった。

 

 まず映し出されたのはサツキだった。

 

 長い髪を後ろでまとめ、飾り気のない作業用ジャケットに細身のパンツ、肩から下げた大型のツールバッグ。

 どこからどう見ても、現場の匂いがする人間だ。

 記者の誰かが名前を呼んだが、サツキはそれに大きく反応することなく、軽く会釈だけして建物の中へ入っていく。

 その真面目でぶれない歩き方に、番組コメンテーターが「整備・支援担当らしい落ち着きがありますね」ともっともらしいことを言っていた。

 

 次に映ったのは、チャコだった。

 

 小さなリュックを背負い、丸い耳をぴこぴこと揺らしながら、正面玄関の階段をちょこちょこと上がってくるネコ型ロボット。

 記者達の視線が一気に集まり、さっきまで落ち着いていた現場の空気が少しだけざわついた。

 

「チャコさん! 今回の任務への意気込みは!」

「未探索領域について今どんなお気持ちですか!」

 

 マイクが寄る。

 チャコはわざとらしく胸を張った。

 

「気持ちぃ? そら決まっとるやろ。無事に帰ってくる、それだけや」

 

 その一言に、報道陣の何人かが思わず笑う。

 だがチャコは冗談を言ったつもりはなく、本気だった。

 

 そして、その後ろにはルナの姿があった。

 

 ルナは少し大きめのリュックを背負っている。

 服装は動きやすいものだが、どこか落ち着いた色合いでまとめられていて、チャコの少し後ろを自然な歩幅でついていく。

 記者がルナの方へもマイクを向けるが、彼女は困ったように少しだけ笑いながら、必要以上のことは言わなかった。

 

「サポートに来ただけです。皆さんのお邪魔にならないようにします」

 

 柔らかい、けれどちゃんと距離を取った答え方だった。

 それはまさにルナらしい。

 

 チャコが一度だけ振り返り、ルナが遅れていないか確認する。

 ルナが小さく頷く。

 その何でもないやり取りまで、カメラは丁寧に追っていた。

 

 人は、“大きな任務”の中に見える小さな日常を好む。

 そういう画だと、ニュース制作の人間達は知っているのだろう。

 

 

 その映像は、スペースホープの旅行事業部フロアにある大型テレビにも流れていた。

 

 今日は教育便のフライトがあり、多くの乗務員は現場へ出払っている。

 フロアに残っているのは、非番の人間と、事務処理や明日以降の準備を担当する数人だけだった。

 

 クミコとアズサは、その大型テレビの前方寄りの席に座っていた。

 他に残っている乗務員が三人。

 みんな手は止めていない。資料をまとめたり、明日の確認表を見たりはしている。

 だが、視線は時折、どうしてもテレビへ吸い寄せられてしまう。

 

 画面の中で、チャコが記者へひと言返したところで、アズサが小さく「かわいい……」と呟いた。

 

 クミコも思わず笑う。

 

「ほんとだね」

 

「ね」

 

 アズサが頷く。

 だが、その少しあと、クミコはふっと表情を緩めたまま、ぽつりと言った。

 

「本当はエリンさんも、あそこにいたんだよね」

 

 その一言で、アズサの表情がすぐに変わった。

 

「クミコ、それは言わない約束だよ」

 

 声は責めるというより、慌てて蓋をしようとするみたいだった。

 

「ごめん」

 

 クミコもすぐに謝る。

 自分でも口をついて出てしまったのだろう。

 

 少しだけ気まずい沈黙が落ちたが、アズサはそれ以上その話を引きずらなかった。

 代わりに、テレビの隅へ出ている現在位置表示を見ながら言う。

 

「でも、エリンさん達は今頃、木星近くのスペースコロニーに到着した頃じゃない?」

 

 教育便の便名と時刻、それから運航ルートを頭に入れているからこそ出てくる言葉だ。

 クミコはその一言で、少しだけ気持ちを切り替えた。

 

「そういえばそうだね。今日は大型便だし、運航も遅いしね」

 

「うん」

 

「いーなぁああ、私も行きたかったなぁ〜」

 

 アズサが椅子の背にだらっともたれながら言う。

 その言い方は半分本気、半分甘えだ。

 けれど、本音なのも分かる。

 訓練で積み重ねたものを、やっぱり現場で試したいのだ。

 

「仕方ないよ」

 

 クミコは苦笑しながら言う。

 

「便に合わせて適切な乗務員を選んでるし、それに皆んなに経験させてあげたいんだよ」

 

「そうだけどさぁ」

 

 アズサは口を尖らせた。

 

「やっぱり訓練でやったこと、試したいじゃない」

 

「休むことも訓練のうち、ってエリンさんが言ってたよ」

 

「そんな事言って、クミコも身体を動かしたくてウズウズしてるでしょ」

 

 そこで、クミコは一瞬だけ言葉を失った。

 図星だったからだ。

 

「……そりゃあね」

 

 正直に認めると、アズサの顔が少しだけ明るくなる。

 

「なら一緒。シュミレーションルームで歩かない?」

 

「え? 今?」

 

「うん、今」

 

 アズサはもう立ち上がりかけている。

 

「そろそろリュウジさんがテレビに映るかもしれないよ」

 

 クミコが慌てて言う。

 ここまでの流れからして、次に誰が来るかは気になる。

 特にリュウジの名前が報道に出ている以上、正面に現れれば絶対に大きく映るだろう。

 

 だがアズサは、にやっと笑った。

 

「善は急げって言うじゃない」

 

 そして本当に、クミコの手を引っ張った。

 

「わっ!? 分かったから、行くから!」

 

 クミコが慌てて立ち上がる。

 テレビの前にいた他の乗務員が、そのやり取りを見て思わず笑った。

 

「二人とも、ほどほどにね」

「無理しないでよ」

 

「はーい!」

 

 アズサが元気よく返す。

 クミコは苦笑しながら「行ってきます」と頭を下げ、二人はそのままシュミレーションルームの方へ小走りで向かった。

 

 大型テレビには、まだ宇宙管理局正面玄関前の映像が流れ続けている。

 だが、その頃にはもう、そこへ現れない人間が一人いた。

 

 

 リュウジが宇宙管理局へ入ったのは、正面玄関ではなく裏口からだった。

 

 それは、彼にしてみれば当然の判断だった。

 未探索領域の調査にS級パイロットとして参加するとなれば、報道陣が正面で待ち構えていることくらい簡単に想像がつく。

 わざわざそこへ突っ込んでいく理由もない。

 

 裏口は、搬入用通路と職員専用出入口を兼ねている。

 正面の華やかさとは正反対で、照明も少し落ち着いていて、人も少ない。

 壁際には資材ケースが積まれ、警備ロボットが一定の間隔で巡回している。

 その無機質な通路の一角で、リュウジはフード付きのジャケットを脱ぎながら、少しだけ息を吐いた。

 

「悪い、助かった」

 

 その言葉の先にはルナがいた。

 

 ルナは通路脇でリュウジを待っていたのだろう。

 チャコを正面から入らせ、自分もそこへ付き添ったあとで、一旦人目の少ない導線へ回ってきたらしい。

 彼女はいつもの柔らかな笑みを浮かべた。

 

「ふふっ。お礼を言われるほどじゃないよ」

 

「それにしても助かった」

 

 リュウジが率直に言う。

 正面から入っていたら、記者に囲まれてかなり面倒なことになっていただろう。

 

「ううん」

 

 ルナは首を横に振った。

 

「リュウジなら絶対、正面から来ないって思ったし」

 

 その言葉に、リュウジはほんの一瞬だけ黙った。

 

 図星だったからだ。

 

「……」

 

「分かりやすいなぁ」

 

 ルナがくすっと笑う。

 

 リュウジは少しだけ視線を逸らした。

 

「別に、分かりやすくしてるつもりはない」

 

「してなくても分かる時は分かるよ」

 

 ルナは優しく返した。

 その声音にからかいはあっても、嫌味はない。

 むしろ、こうして裏から入れるようにして待っていてくれたこと自体が、ルナの気遣いだった。

 

 リュウジはそれ以上は何も言わず、通路の先を一度だけ確認した。

 警備上の問題はなさそうだ。

 だが、すぐには歩き出さなかった。

 ルナの方も、今は急いで先導するというより、短い時間でも話しておきたいことがあるように見えた。

 

「チャコは?」

 

 リュウジが聞く。

 

「正面から入ったよ。マスコミに囲まれてた」

 

「そうか」

 

「すごかったよ。記者さん達、みんなチャコを撮ってた」

 

「だろうな」

 

 リュウジは簡潔に返した。

 チャコは目立つ。

 旧式のネコ型ロボットペットというだけでも十分に絵になるのに、それが未探索領域の調査へ同行するとなれば、報道的には格好の素材だ。

 

 ルナは少しだけリュックの肩紐を持ち直した。

 その仕草に、リュウジはふと気づく。

 

「ルナも結構荷物あるな」

 

「あ、うん」

 

 ルナが少しだけ目を伏せて笑う。

 

「ちょっと長くなるかもしれないから、必要そうなものを持ってきたの」

 

「長く?」

 

「うん。今日は最後まで見送ろうと思って」

 

 リュウジはそこで、ようやく少しだけ表情を和らげた。

 

「……そうか」

 

 短い一言。

 でも、その中にちゃんと気持ちは入っていた。

 

 ルナは、その反応に安心したように微笑んだ。

 

「リュウジ」

 

「ん?」

 

「絶対に無事に帰ってきてね」

 

 その言葉は真っ直ぐだった。

 冗談も、ぼかしもない。

 ただ、それだけを言いたかったのだとすぐ分かる。

 

 リュウジは一瞬だけ言葉を止めた。

 こういう時、軽く笑って「当たり前だ」と言うことも出来る。

 けれどルナの目は、そんなふうに適当に返されることを望んでいない目だった。

 

「全力でやってくる」

 

 だから、そう答えた。

 

 無事を約束するとは言わない。

 でも、全力で帰ってくるつもりで行く。

 その言葉の方が、リュウジには嘘がなかった。

 

 ルナは、その返答を聞いて小さく頷いた。

 だが、その表情は晴れきらない。

 むしろ、何か言うか迷っているような、少し深刻な色が差していた。

 

 リュウジはそれを見て、眉をわずかに動かす。

 

「どうした」

 

「え?」

 

「まだ何かある顔してる」

 

 その指摘に、ルナは少し驚いたように目を見開いた。

 すぐに小さく笑おうとしたが、うまくいかなかった。

 

「……分かりやすい?」

 

「少しな」

 

「そっか」

 

 ルナは、そこで一度だけ視線を落とした。

 何をどう言うべきか迷っているのが、立ち方だけでも分かる。

 

 リュウジは急かさなかった。

 裏口の通路は静かで、すぐに誰かが来る気配もない。

 なら、ここで聞いておいた方がいい。

 そういう話だと、本能的に分かった。

 

 数秒の沈黙のあと、ルナがようやく口を開く。

 

「……ペルシアさんのことなんだけど」

 

 その名前が出た瞬間、リュウジの目が少しだけ鋭くなる。

 

「ペルシアがどうした」

 

 ルナは今度こそ、まっすぐリュウジを見た。

 その顔は、さっきまでの柔らかい笑みを全部引いた、本当に深刻な顔だった。

 

「体調を崩して、入院してるの」

 

 言葉の意味は明確だった。

 なのに、リュウジの中でそれが一度、音のないところへ落ちる。

 

「……入院?」

 

 聞き返した声は、思ったよりも低かった。

 

「うん」

 

 ルナは静かに頷く。

 

「ずっと無理してたみたいで……倒れたって」

 

 裏口の通路が、急に冷たくなった気がした。

 

 リュウジは、しばらく何も言わなかった。

 頭の中では、ペルシアの顔がいくつも浮かんでいる。

 いつも通りに笑って、軽口を叩いて、誰よりも先に本質を見抜いて、それでいて自分の無茶だけは平気な顔で隠す女。

 

 倒れる。

 入院。

 その二つの言葉が、どうしてもその姿とうまく結びつかない。

 

 だが、結びつかないからこそ分かることもある。

 それだけ無理をしていたということだ。

 

 ルナは、リュウジの沈黙の意味をちゃんと分かっているようだった。

 だから余計な言葉は重ねず、ただ静かに続ける。

 

「命に別状があるとか、そういう話じゃないよ」

 

 その一言に、リュウジの胸の奥で張りつめていたものが、ほんの少しだけ緩む。

 けれど、安心には程遠い。

 

「でも、しばらく絶対安静だって聞いたよ」

 

「……いつからだ」

 

「そんなに前じゃないと思う。報道が出る少し前くらいって」

 

 つまり、かなり直前だ。

 調査の準備が本格化し、宇宙管理局へ人が集まり始めていたこのタイミングで。

 ペルシアがどれだけ無茶をしていたかは想像に難くない。

 

 リュウジは、ゆっくりと息を吸った。

 それでも、すぐには言葉が出ない。

 

 ルナが、そんな彼を見上げる。

 

「……ごめんね」

 

「なんでお前が謝る」

 

 その返しは即座だった。

 

「だって、今言うべきか迷ってて……でも、知らないまま入るのも違う気がして」

 

「そうだな」

 

 リュウジは短く答えた。

 それは責めていないという意味だった。

 

 ルナは少しだけ肩の力を抜く。

 けれど表情はまだ硬い。

 

「私も、詳しいこと全部知ってるわけじゃないの」

 

「誰から聞いた」

 

「チャコ経由。あと、少しだけ宇宙管理局の人から」

 

 リュウジはその情報の重みを頭の中で量る。

 噂ではない。

 少なくとも、信じていい種類の話だ。

 

 通路の向こうで、誰かが台車を押していく音がかすかに聞こえた。

 それが妙に遠く感じる。

 

「……そうか」

 

 やっと出たのは、それだけだった。

 

 だが、その二文字の中に、理解も動揺も、そしてこれからどうするかを考え始めた重さも全部入っていた。

 

 ルナは、少しだけ心配そうに言う。

 

「リュウジ、大丈夫?」

 

 その問いは、自分でも変なことを聞いていると分かっているような顔だった。

 でも、聞かずにはいられなかったのだろう。

 

 リュウジは一度だけ目を閉じ、すぐに開いた。

 

「大丈夫かどうかは分からない」

 

 正直な答えだった。

 

「でも、知れてよかった」

 

 その一言に、ルナは小さく頷く。

 

 黙っていた方がよかったのではないか。

 タイミングが悪かったのではないか。

 そんな迷いが、少しだけ解けたようだった。

 

「ありがとう」

 

 リュウジが言う。

 

 さっき裏口へ回してもらった時にも礼は言った。

 でも今の「ありがとう」は、それとは違う重みを持っていた。

 

 ルナは、少しだけ困ったように笑った。

 

「ううん」

 

 それから、ほんの少しだけ間を置いて言う。

 

「……リュウジ、無理しないでね」

 

 その言葉は、さっきの“無事に帰ってきて”よりも、さらに個人的な響きだった。

 ペルシアの件を知った今、リュウジがどんな顔でこの中へ入っていくのか。

 ルナはそれを考えていたのだろう。

 

 リュウジは、その言葉を受けて数秒だけ黙る。

 無理しないで。

 そう言われて、そのまま守れる仕事ではないことは分かっている。

 けれど今ここで、ルナの心配を軽く流す気にもなれなかった。

 

「気をつける」

 

 だから、それだけ言った。

 

 ルナは、その答えに少しだけ安心したように見えた。

 完全ではない。

 でも、何も言わずに中へ行かれるよりはずっとよかったのだろう。

 

 しばらく、二人はそのまま立っていた。

 宇宙管理局の裏口通路には、相変わらず無機質な明かりが落ちている。

 その冷たい光の中で、さっきまでの任務前の張りつめ方とは違う、もっと生々しい不安がリュウジの胸へ広がっていた。

 

 ペルシアが倒れた。

 入院している。

 絶対安静。

 

 それは、未探索領域の準備の裏側で、誰かが限界を越えていたということだ。

 そしてきっと、それはペルシア一人の問題では終わらない。

 

 リュウジは、ようやく一歩だけ前へ出た。

 

「行く」

 

「うん」

 

 ルナが小さく頷く。

 

「後で、もし会えるなら……ペルシアのところも行ってみる」

 

 ルナはそこで少しだけ目を見開いた。

 だがすぐに柔らかく頷く。

 

「うん。その方がいいと思う」

 

 リュウジは最後に、ルナを一度だけ見た。

 

「また後でな」

 

「うん。気をつけて」

 

 ルナのその声を背中で受けながら、リュウジは宇宙管理局の内部通路へ歩き出した。

 

 背筋はまっすぐだ。

 歩幅も乱れていない。

 だが、その胸の中にはさっきとは別の重さが確かに増えていた。

 

 未探索領域の調査。

 ラ・スペランツァの再集結。

 そこへ乗るはずだった人間が一人欠け、代わりに前へ出ていた人間が倒れた。

 

 任務は始まる前から、もう静かには済んでいなかった。

 

 そしてその事実を抱えたまま、リュウジは白い廊下の奥へ進んでいった。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 白く塗られた天井が、ぼやけた輪郭のまま視界の奥に揺れていた。

 

 消毒液の匂い。

 一定の間隔で小さく鳴る機械音。

 身体のどこかへ繋がれているらしい、ひどく現実的な重み。

 

 ペルシアは、最初それがどこなのかすぐには分からなかった。

 

 目蓋が重い。

 身体も鉛みたいにだるい。

 頭の奥ではまだ、宇宙管理局のオペレーションルームの光景がちらちらしていた。端末の表示、ローズの強張った声、クリスタルの呆れ顔、ナミが持ってきた書類の束――そういうものがまだ意識の縁に残っているのに、目を覚ました先にあるのは静かな病室だった。

 

 あーあ、やっちゃった。

 

 そんな言葉が、まず最初に胸の中へ浮かぶ。

 

 まったく、無様なものだ。

 人のことを「無茶しないで」とか「ちゃんと寝なさい」とか言う側のくせに、自分が倒れてベッドに寝かされているのだから笑えない。

 

 笑えないのに、ペルシアは心の中で少しだけ笑った。

 そのくらいじゃないと、ひどく惨めに思えてしまいそうだった。

 

 もう一度、ゆっくり目を開ける。

 視界が白く滲んだあと、徐々に輪郭がはっきりしてきた。

 

 ベッド脇の簡素なサイドテーブル。

 その上に置かれた水差しと、まだ半分ほどしか減っていないコップ。

 窓際へ寄せられた椅子。

 そして、その椅子に腰掛けて、本を読んでいる人影。

 

 淡い照明の下、その人は膝の上で開いた本へ静かに視線を落としていた。

 横顔は穏やかで、けれど少しだけ疲れて見える。

 見慣れたようでいて、今この場所で見るにはあまりにも場違いな姿だった。

 

 ペルシアは瞬きを一つした。

 夢かもしれないと思った。

 いや、こんなに都合のいい夢を見るほど可愛げのある人間だっただろうか、とも思った。

 

 その気配に気づいたのか、本から視線が上がる。

 優しい色の瞳が、こちらを見た。

 

「起きた?」

 

 声が落ちる。

 

 その瞬間、ペルシアの意識は完全に覚醒した。

 

「え、エリン!?」

 

 反射だった。

 ベッドの上で勢いよく飛び起きる。

 だが、起き上がった途端に頭の奥がぐらりと揺れた。視界の端が一瞬だけ白く飛び、身体が思うようについてこない。

 

「急に動いて大丈夫なの?」

 

 エリンが読んでいた本を閉じながら、少しだけ眉を寄せる。

 

「大丈夫というか、なんでアンタがここにいるのよ!」

 

 驚きと困惑と、ほんの少しの動揺が全部混ざった声だった。

 それでもペルシアらしく、最初に出てくるのは抗議めいた言い方になる。

 

 エリンは、本を膝の上に置いたまま、小さく肩をすくめた。

 

「誰かさんが倒れたって、クリスタルから連絡もらったのよ」

 

 ああ、あの女か。

 余計なことを、とは一瞬思ったが、思ったところでどうにもならない。

 むしろ、クリスタル以外にこの状況を適切な人間へ伝える者はいなかっただろう。

 

「たまたま木星近くのスペースコロニーに教育便に乗ってたから、様子を見にきたのよ」

 

 さらりと言う。

 さらりと言っているのに、その言葉の中にどれだけのことが含まれているかは、ペルシアにも分かった。

 

 木星近くのスペースコロニー。

 教育便。

 つまり、今エリンは仕事の真っ最中だったということだ。

 

 ペルシアは、驚きからほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「教育便を放り投げて私の所に来るなんて、いいとこあるじゃない」

 

 冗談めかした言い方だった。

 けれど、その中には本音もあった。

 

 エリンは、それにすぐ首を横に振る。

 

「まさか。ちゃーんとミラとランに任せてあるし、既にスペースコロニーには到着済みよ」

 

 淡々とした言い方。

 でも、その淡々としたところがいかにもエリンらしい。

 

「可愛くない」

 

 ペルシアが言うと、エリンは小さく笑った。

 

「ふふっ」

 

 その笑い方を見ただけで、ペルシアの胸の中に、張っていたものが少しだけゆるむ。

 ああ、エリンだ。

 いつものエリンだ。

 それが分かるだけで、病室の白さが少しだけ冷たくなくなった気がした。

 

 けれど、その優しい時間は長くは続かなかった。

 

 エリンは閉じた本をサイドテーブルへ置くと、今度は真っ直ぐペルシアを見た。

 

「まったく、無茶しすぎよ」

 

 声音は柔らかい。

 けれど、そこにあるものは明らかに叱責だった。

 

「クリスタルから全部聞いたわよ。碌に食事も取らなくて栄養失調で倒れたって」

 

 ああ、やっぱりそこまで話が行っているのか。

 ペルシアは小さく息を吐く。

 

「仕方ないでしょ」

 

 ほとんど反射みたいにそう返す。

 言い訳だと、自分でも分かっている。

 でもそれでも、そう言うしかなかった。

 

「誰かさんが来ないって言うから、何とかしないといけないでしょ」

 

 その一言が落ちた瞬間、病室の空気が少し変わる。

 

 エリンの目がほんの僅かに揺れた。

 図星だからだ。

 そして、それが責めるための言葉ではなく、本当にペルシアがそう思って動いていたのだと分かるからこそ、痛いのだ。

 

「それこそ仕方ないでしょ」

 

 エリンは静かに返した。

 

「私も色々と代わりのチーフパーサーや副パーサーは探したのよ」

 

 その言葉には、簡単に言っているようでいて、実際には相当な労力が含まれていたのだろう。

 ハワード財閥の旅行会社。

 外部のつて。

 立場と事情のある人間達へ、頭を下げたり、打診したり。

 それをしてなお、断られたのだ。

 

「だけど繁忙期だし、断られちゃったのよ」

 

 そう言ってから、エリンはほんの少し視線をずらした。

 あまりにあっさりした言い方だったが、その裏にある悔しさは隠しきれていない。

 

 ペルシアは少しだけ目を細める。

 

「ガーネットにも?」

 

 その問いに、エリンはすぐに首を振った。

 

「ガーネットに頼めるわけないでしょう」

 

 言い切る。

 迷いのない言い方だった。

 

「ガーネットは今の仕事もあるし、私がいない間を全部任せる訳にはいかない」

 

 その一言に、ペルシアは少しだけ口元を緩めた。

 

「ちゃんと考えてるんだ」

 

「当たり前でしょ」

 

 エリンがすぐに返す。

 

「私一人の所為で周りを巻き込む訳にはいかない」

 

 ああ、そうだ。

 やっぱりこの人はこう言う。

 そう思って、ペルシアはふっと笑った。

 

「私は巻き込まれて倒れたけどね」

 

 その言葉に、エリンは一瞬きょとんとしたあと、すぐに口元を緩めた。

 

「それもそうね」

 

 二人は同時に笑った。

 

 笑ったはずなのに、その笑いの奥には苦さが残る。

 ペルシアが倒れたのは、冗談では済まない事実だ。

 そしてその原因の一端に、自分が参加しないと言ったことがあるのだと、エリンも分かっている。

 だからこそ、完全には軽く出来ない。

 

 数秒の沈黙が落ちる。

 

 病室の外では、誰かがカートを押していく音が聞こえた。

 遠くで小さなナースコールの電子音が鳴る。

 宇宙コロニーの病院も、どこか地上の病院と似ている。

 無機質で、静かで、でも人の気配が完全には消えない。

 

 ペルシアは、その静けさの中でふと、エリンの顔をじっと見た。

 

 やっぱり来てる。

 ちゃんと、来てくれてる。

 

 教育便の途中で。

 木星近くのスペースコロニーへ到着したばかりのタイミングで。

 ミラとランに任せて、それでも様子を見に来た。

 

 そういうところなのだ。

 自分のことは後回しにするくせに、他人のところへは躊躇なく飛んでくる。

 だから厄介で、だから好きなのだと、ペルシアは改めて思った。

 

「エリン」

 

 少しだけ声音を落として呼ぶ。

 

「なぁに?」

 

 エリンはすぐに応じる。

 その返事が、昔からずっと変わらない。

 

「一つ提案があるんだけど」

 

 その言葉に、エリンの目が少しだけ鋭くなる。

 ペルシアがそういう言い方をする時は、大体ろくでもないか、とんでもないか、その両方かだ。

 

「なぁに?」

 

 それでも、逃げずに聞く。

 それもまたエリンらしい。

 

 ペルシアはベッドの上で少しだけ身を乗り出した。

 点滴の管が邪魔をするが、構わない。

 エリンも自然と少し身体を寄せる。

 

 そして、ペルシアはエリンの耳元へ口を寄せて、ほんの短く何かを囁いた。

 

 ――その瞬間。

 

 エリンの目が、大きく見開かれた。

 

「本気なの?」

 

 呟いた声は、驚きと戸惑いが半分ずつ混ざっていた。

 

「本気」

 

 ペルシアは即答した。

 少しも揺れない。

 倒れて寝込んでいた人間とは思えないほど、まっすぐな目だった。

 

 エリンは、しばらく何も言えなかった。

 

 その提案は、たぶん自分の中に一度もなかったわけではない。

 だが、“それを本当にやる”と口にされると、話は別だ。

 筋。

 責任。

 スペースホープ。

 ラ・スペランツァ。

 ハワード財閥。

 宇宙管理局。

 色々なものが、一気に頭の中でぶつかり合っているのが、その表情を見るだけで分かった。

 

「だけど私一人の判断で……」

 

 エリンが小さく言う。

 

 その言葉は、まさにエリンの本質だった。

 自分がどうしたいかの前に、“自分一人で決めていい話じゃない”と考える。

 正しい。

 すごく正しい。

 だからこそ、ここまで来るのにこんなにも回り道をしている。

 

「お願い、エリン」

 

 ペルシアが言う。

 それは、彼女にしては珍しく、まっすぐな懇願だった。

 

 冗談めかしていない。

 からかってもいない。

 ただ、本当に頼んでいる声だ。

 

「……」

 

 エリンは一つ息を飲んだ。

 

 そして、ペルシアの目をじっと見つめる。

 そこにあるものが、一時の思いつきではないことを確かめるように。

 病室の静けさの中で、その視線だけがしばらく真っ直ぐ交わされた。

 

 やがて、エリンはゆっくりと息を吐いた。

 

「分かった……」

 

 小さいが、はっきりした声だった。

 

 その返事を聞いた瞬間、ペルシアの口元がぱっと緩む。

 

「流石エリン」

 

「まだ何もしてないわよ」

 

 エリンがすぐに釘を刺す。

 だがその声には、さっきまでの固さが少しだけ溶けていた。

 

「出来る事はやってみる」

 

 その一言は、簡単に聞こえてとても重い。

 エリンが“やってみる”と言う時は、本当にやる時だ。

 筋も、立場も、周りの事情も全部整理したうえで、それでも前へ出る時の言葉なのだから。

 

 ペルシアは、ようやく胸の奥のしこりが少しだけ取れた気がした。

 倒れるまで無茶をしたのは格好悪い。

 でも、この一言を引き出せたなら、倒れた甲斐があったと思ってしまう自分もいる。

 そういうところが、たぶん自分はどうしようもなく性格が悪いのだろう。

 

「それと」

 

 その時、エリンがふっと微笑んだ。

 

「条件がある」

 

 ペルシアがきょとんとする。

 

「条件?」

 

「ええ」

 

 エリンは、そのまま穏やかな笑みを崩さなかった。

 

 その笑顔は優しい。

 優しいのに、どこか妙に有無を言わせない感じがある。

 ペルシアはその顔を見た瞬間、ああこれは碌でもない条件を出してくる顔だ、と直感した。

 

 けれど、その続きを聞く前に、病室の空気はそこでふっと止まった。

 

 エリンはまだ微笑んでいる。

 ペルシアはその笑顔を見返しながら、ほんの少しだけ身構えた。

 

 病室の外では、また遠くでカートの音がした。

 白い壁も、閉じた本も、半分冷めた水も、何も変わらない。

 それなのに、今この小さな病室の中で、何かが確かに動き始めていた。

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