サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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シュミレーション

 三日間の療養を終えたペルシアが退院し、ようやく復帰する頃。

 

 ラ・スペランツァの面々も、いよいよ本格的にシュミレーションへ入ろうとしていた。

 

 場所はアルテミスの訓練用ドック。

 実機を用いたシミュレーションが出来るよう、宇宙管理局側が特別にスケジュールを押さえてある。

 アルテミスは長期航行向けの生活設備が比較的整っており、今回の南側航路調査にはうってつけだと判断されたのだった。

 

 コックピットでは、既に幾人かが持ち場につき始めていた。

 

 副操縦席にはチャコ。

 通信席にはマリ。

 後方の整備・監視席近くにはサツキ。

 リュウジは機長席に腰を下ろし、目の前の表示を確認している。

 

「結局、宇宙船は決めたんか?」

 

 副操縦席に座っていたチャコが、脚をぶらぶらさせながら聞いた。

 

「ああ、今回はアルテミスを使おうと思う」

 

 リュウジが答える。

 

「いいんじゃないか?」

 

 通信席のマリが言う。

 

「アルテミスなら生活設備も整っているし、何よりシャワーが使える」

 

「そんなに重要か?」

 

 リュウジが視線だけ向ける。

 

「当たり前や! レディに何ちゅうことを言うんや!」

 

 チャコがすぐに反応する。

 

「まったくだ!」

 

 マリも珍しく強く同意した。

 

 その時、後方からサツキが顔を出す。

 

「だけどシャワーは貯水タンクと繋がってるから、使っても二週間に一回ぐらいだよ」

 

「そうなのか?」

 

 マリが一気に現実へ引き戻された顔をする。

 

「まあね」

 

 サツキが頷く。

 

「設計ミスやないんか?」

 

 チャコが眉を寄せる。

 

「違うわよ」

 

 サツキはあっさりと言う。

 

「それにシャワーなんてなくてもよくない?」

 

 その一言に、マリとチャコは同じ女性とは思えなかった。

 二人は揃って「ええ!?」という顔をしている。

 

「そもそもチャコはシャワー使わないだろ」

 

 リュウジが淡々と言う。

 

「気持ちや!」

 

 チャコが即座に反論した。

 

 そのやり取りの最中に、コックピット後方の扉が開く。

 

「随分と騒がしいわね」

 

 クリスタルが現れ、そのまま補助席へ腰を下ろした。

 いつものように落ち着いた顔だが、ここ数日の調整疲れがまるで見えないわけではない。

 

「クリスタルさんもシャワーは毎日、浴びたいですよね!?」

 

 マリがすかさず振る。

 

「シャワー?」

 

 クリスタルが首を傾げる。

 

「せや! サツキとリュウジは入らなくてもええみたいやねん」

 

「なるほどね」

 

 クリスタルは少しだけ考えてから、さらりと言った。

 

「私も別に入らなくてもいいけど」

 

「ええ!?」

 

 今度はマリが本気で驚く。

 

「宇宙ハンターをやってた時はシャワーなんてなかったしね」

 

 その一言はあまりにも強かった。

 マリとチャコは、一瞬だけ何も言えなくなる。

 

「ラ・スペランツァにレディはおらんのか?」

 

 チャコが嘆くように言う。

 

「私がいるだろ」

 

 マリが即座に返した。

 

 そうして少しだけ空気が和んだところで、クリスタルが本題へ戻す。

 

「それよりペルシアは?」

 

 補助席へ深く座りながら、辺りを見回した。

 

「コックピットコンディションがいないとシュミレーションにならないから、三日も待ったのに」

 

 サツキが苦笑しながら答える。

 

「ペルシアさんなら、ローズにまだ教え込まなきゃいけないから、シュミレーションはパスって言ってましたよ」

 

「何考えてるのよ」

 

 クリスタルが呆れたように言う。

 

「何か考えがあるんか?」

 

 チャコが首を傾げる。

 

「さぁ?」

 

 サツキが肩をすくめる。

 

「でも助っ人を送るって言ってたよ」

 

「助っ人?」

 

 マリが首を傾げる。

 

 その時だった。

 

 シュミレーションルームへ繋がる扉が、すっと開いた。

 

「あ、あの、本日はよろしくお願いします!」

 

 可憐な声が、コックピットの中へ響く。

 

「誰や?」

 

 チャコが振り向く。

 

「誰?」

 

 クリスタルも言う。

 

「誰かしら?」

 

 サツキも目を向ける。

 

 マリは一瞬だけ目を見開いたが、まだ声には出さなかった。

 

 そして、次の瞬間。

 

「……クミコ!?」

 

 リュウジが驚きの声を上げた。

 

 扉のところに立っていたのは、スペースホープの制服姿のクミコだった。

 髪はきちんとまとめられ、姿勢もまっすぐだが、明らかに緊張している。

 それでも必死に表情を崩さず、ぺこりと頭を下げた。

 

「あ、リュウジさん。よろしくお願いします」

 

「なんでここに?」

 

 リュウジの問いは、ごく自然なものだった。

 教育便以来、クミコのことは知っている。だが、未探索領域調査のシュミレーションに彼女が現れるとは、想定していなかった。

 

「なんや知り合いか?」

 

 チャコが興味津々で聞く。

 

「まあ……」

 

 リュウジが短く答える。

 その反応だけで、クミコの方が少しだけ気まずそうにしていた。

 

「エリンさんに言われて、スペースホープから応援に来ました」

 

 クミコが説明する。

 

「エリンに?」

 

 クリスタルが目を細める。

 

「はい!」

 

 クミコは大きく頷いた。

 

「私が行けない代わりに、シュミレーションを手伝ってあげてって言われました」

 

 その言葉が落ちた瞬間、コックピットの空気がほんの僅かに変わる。

 

 エリンが行けない代わりに。

 それは、ここにいる誰もが分かっていて、でもあまり表には出さずにいた事実だ。

 それを、エリン自身がこういう形で前へ進めている。

 

「そうなんか」

 

 チャコが頷く。

 

「よろしゅう頼むで」

 

「よろしくお願いします!」

 

 クミコがもう一度頭を下げる。

 

「クミコ一人で来たの?」

 

 サツキが聞く。

 

「ペルシアさんが言ってた応援か」

 

 マリが納得したように言う。

 

「私一人ではありません」

 

 クミコがすぐに答えた。

 

「もう一人来るって……あ、来ました!」

 

 そう言って振り向いた先から、もう一人の女性が静かに入ってくる。

 

 姿勢がよく、歩幅が安定していて、場に入る時の気配がとても自然だ。

 その顔を見た瞬間、リュウジの目が少しだけ細くなる。

 

「カイエです。よろしくお願いします」

 

 丁寧に頭を下げたのは、ハワード財閥の旅行会社の制服を着たカイエだった。

 

「カイエもか」

 

 リュウジが言う。

 

 カイエは顔を上げ、落ち着いた笑みを浮かべた。

 

「久しぶりですね、リュウジさん」

 

「副パーサーになったらしいな」

 

「はい。まだ新人副パーサーですけど」

 

 その受け答えには、以前より少しだけ芯が増していた。

 リュウジはそれを聞いて、短く頷く。

 

「なぁ、誰なんや?」

 

 チャコが改めて聞く。

 

 リュウジは視線を二人へ向けたまま説明する。

 

「ああ。カイエはハワード財閥の旅行会社、クミコはエリンさんが出向しているスペースホープの乗務員だ」

 

「つまり二人とも、エリンの弟子ってわけか」

 

 クリスタルが言う。

 

 クミコは慌てて首を振りかけたが、カイエが先に穏やかに笑った。

 

「そう言っていただけるほどではありませんが、お世話になっているのは事実です。今回はエリンさんに頼まれて、私は非番の二日間だけ、協力させてもらいます」

 

 カイエが続ける。

 

「私は三日間、になります」

 

 クミコも言った。

 

「もちろん、入れ替わりで他の乗務員も来ます」

 

 カイエが補足する。

 

「なるほどな」

 

 リュウジが小さく呟く。

 

 つまりこれは、単なる“応援”ではない。

 エリンが、ペルシアが、そして今の各社の事情を含めて、ぎりぎりの線で組んだ仕組みなのだ。

 病み上がりのペルシアがすべてのシュミレーションへ出るのは難しい。

 だから、その穴を埋めるために、エリンの育ててきた現場の視点を、短期間だけでも送り込む。

 しかも一人ではなく、交代制で。

 

「ペルシアも病み上がりやし、ええんちゃうか?」

 

 チャコが言う。

 

「私も賛成」

 

 サツキがすぐに続ける。

 

「私も構わない」

 

 マリも静かに頷いた。

 

「なら決まりね」

 

 クリスタルが言う。

 

「二人とも、よろしく頼むわね」

 

「よろしくお願いします!」

 

 クミコとカイエが揃って頭を下げる。

 

 コックピットの中に、ほんの少しだけ新しい風が入った気がした。

 

 

 それから、実際のシュミレーションが始まるまでには、もう少し時間がかかった。

 

 クミコとカイエへ、それぞれアルテミスの現在設定、今回の訓練シナリオ、コックピットと客室の連絡動線、想定する未探索領域特有の事象がざっと説明される。

 カイエは落ち着いてメモを取り、クミコは必死に頭へ叩き込んでいた。

 

「そんなに緊張せんでもええで」

 

 チャコが副操縦席から声をかける。

 

「は、はい……!」

 

 クミコの返事は、緊張している人間のそれだ。

 それを見て、サツキが少しだけ笑った。

 

「大丈夫。今日はテストじゃなくてシュミレーションだから」

 

「そう言われても緊張します……」

 

「分かる」

 

 カイエが小さく笑う。

 

「でも、クミコなら大丈夫よ」

 

「カイエさん……」

 

 クミコは少しだけ救われた顔になる。

 今回、カイエが一緒に来てくれたことは大きかった。

 自分一人では、きっとここまで落ち着いて立っていられなかっただろう。

 

 リュウジは、そのやり取りを横目で見ながら、エリンの意図を少しずつ理解していた。

 

 クミコは、スペースホープの現場から来た“今の客室”の視点を持っている。

 カイエは、ハワード財閥の旅行会社で副パーサーとして一段高い視点を得始めている。

 その二人をここへ入れることで、単に人手を足すのではなく、エリンは“客室側の呼吸を見失わないための支点”を置こうとしているのだ。

 

 エリンらしい。

 そして、ペルシアがこの案を通したのだとしたら、それもまた実に二人らしい。

 

「それじゃ、始めましょうか」

 

 クリスタルが手元のシナリオデータを閉じる。

 

「一便目は軽めの設定。南側航路想定で、航行二日目、生活リズムがまだ整いきっていない状況から入る」

 

「了解」

 

 リュウジが短く答える。

 

 チャコが副操縦席へ座り直し、マリが通信席の表示を切り替え、サツキは後方で機関系のダミー設定を立ち上げる。

 クミコとカイエは、客室側からの報告役としてコックピット後方の補助席についた。

 

 開始の合図と同時に、アルテミスのコックピット照明がわずかに変わる。

 シミュレーションモード。

 外部映像には、南側航路を模した暗い宇宙の景色が映し出され、航行ログが流れ始めた。

 

「二日目、重力調整やや不安定」

 

 サツキが読み上げる。

 

「給水ライン正常。生活区画、湿度やや高め」

 

「通信遅延、平常値より四%増し」

 

 マリが続ける。

 

「クルー全員、行動開始」

 

 カイエが報告を上げる。

 その声は落ち着いていて、必要以上の情報を乗せない。

 

「クルーの一名、軽度の睡眠不足傾向あり。現時点で業務続行可能」

 

 今度はクミコが少しだけ緊張した声で続けた。

 

 リュウジは、その報告を聞きながらすぐに分かった。

 荒い。

 まだ粗さはある。

 だが、ちゃんと訓練されている。

 そして何より、“今コックピットが欲しい形”に寄せようとしているのが伝わる。

 

 エリンの教えだろう。

 

 クリスタルも、さりげなくクミコの方を見ていた。

 ペルシアの代役には到底ならない。

 だが、それでいい。

 最初からそこを求めていない。

 今は“客室の揺れを、ちゃんと報告へ変えられる人間”が一人いるだけでも大きいのだ。

 

 最初のシナリオは比較的穏やかに進んだ。

 小さな重力の揺れ。

 通信のわずかな遅延。

 生活区画から上がってくる、些細だが無視できない変化。

 その一つ一つを、カイエとクミコが報告し、マリが通信へ繋ぎ、サツキが機関系の裏付けを取り、クリスタルが必要な医療観点を差し込み、チャコが副操縦席から流れを拾っていく。

 

 数十分後、最初のシミュレーションが一区切りついた。

 

 照明が通常へ戻る。

 クミコがほっと大きく息を吐いた。

 カイエも肩から力を抜いている。

 

「悪くないわね」

 

 最初に口を開いたのはクリスタルだった。

 

 クミコがびくりとする。

 怒られるかと思っていたのだろう。

 

「え、あ、ありがとうございます……?」

 

「疑問形なのやめなさい」

 

 クリスタルが即座に言うと、コックピットの空気が少し緩む。

 

 マリが端末を見ながら頷いた。

 

「客室側からの報告があるだけで、かなり違いますね」

 

「やろ?」

 

 チャコが胸を張る。

 

「やっぱり、こういうのはおるとおらんでちゃうんや」

 

「ええ」

 

 サツキも頷く。

 

「しかも二人とも、ちゃんと“何を言わないか”を意識してる」

 

 それは褒め言葉だった。

 情報は多ければいいわけではない。

 必要なものを、必要な形で通すことが重要なのだ。

 

 クミコは少しだけ目を見開く。

 

「それ、エリンさんにすごく言われました」

 

「でしょうね」

 

 クリスタルが言う。

 

「分かるわ」

 

 リュウジはそんなやり取りを聞きながら、静かに表示をリセットしていた。

 その口元が、ほんの少しだけ和らいでいるのを、近くにいたチャコだけが気づいた。

 

「なんや、リュウジ。ちょっと安心した顔してへん?」

 

「してない」

 

「しとるやん」

 

「気のせいだ」

 

「分かりやすなあ」

 

 チャコがにやにやする。

 リュウジはそれを無視したが、完全には否定しきれていなかった。

 

 クミコとカイエの登場で、少なくとも今日のシュミレーションは前へ進む。

 それは間違いなかった。

 

 そして、エリンは来ていない。

 それでも、エリンの意志はこうして形になってここへ届いている。

 

 それが、何より大きかった。

 

 

 最初のシュミレーションが一区切りつき、アルテミスのコックピットに、ほんの僅かな緩みが戻った。

 

 前方パネルを埋めていた各種ログが一旦整理され、外部投影も仮想航路図の待機画面へ切り替わる。

 人工重力の微細な揺れを再現していた床の振動も止まり、警告音も消えた。

 

 機長席のリュウジは、前方表示を流し見しながら次の設定へ切り替える準備を始めている。

 副操縦席のチャコは、前脚を伸ばして大きく欠伸をした。

 通信席のマリは端末上のログを整え、後方のサツキは機関系と生活設備系の記録を確認していく。

 補助席に座るクリスタルは、手元のデータパッドへ簡単なメモを取っていた。

 

 そして、今回サポートとして入っている乗務員は、カイエとクミコの二人だ。

 

 アルテミスは旅客船ではない。

 今回の未探索領域調査で使われる船内構成も、あくまで少人数のクルーが長期間持続して動けるようにするためのものだ。

 

 船内には仮眠室があり、簡易的なキッチンがあり、食料区画がある。

 七人で長期間航行する以上、そこが乱れれば、じわじわと全体へ響いてくる。

 

 だから、カイエとクミコの役割は、旅客便のように誰かをもてなすことではない。

 生活区画、仮眠室、キッチン、食料区画の状況を拾い、リュウジ達が判断しやすい形へ整えて支えること。

 あくまで中核はラ・スペランツァ側にあり、二人はそこを補助する立場だった。

 

 クミコは、そこでようやく止めていた息をそっと吐いた。

 

 さっきの段階でも十分に緊張した。

 

 “まだ問題と呼ぶほどではないもの”を見つけて、必要な形で前へ渡す。

 ただそれだけなのに、頭の中は思った以上に忙しかった。

 

「悪くないわね」

 

 最初に口を開いたのはクリスタルだった。

 

 その一言で、クミコの肩から少しだけ力が抜ける。

 怒られなかった、という安堵がまず先に来た。

 カイエも隣で静かに呼吸を整えている。

 

 リュウジは何も言わない。

 だが、その沈黙が逆に、“前へ進める程度には成立していた”ことを示しているようでもあった。

 

 クミコは、ほんの少しだけ安心した。

 

 だが、その安堵は次の一言であっさり吹き飛んだ。

 

「次、強度を上げる」

 

 リュウジが、前方表示を見たまま淡々と言ったのだ。

 

 その声は大きくない。

 なのに、コックピットの空気が一瞬で張りつめる。

 

 チャコが「お、来たな」と楽しそうに耳を揺らし、サツキは後方で「あー……」と小さく息を吐く。

 マリは姿勢を正し、クリスタルは待っていたようにデータパッドを閉じた。

 

 クミコだけが、一拍遅れてその意味を理解した。

 

 強度を上げる。

 さっきの段階でも、かなりいっぱいいっぱいだった。

 生活区画と仮眠室の利用状況。

 キッチンと食料区画の動き。

 それらがクルーの疲労や集中へどう繋がるか。

 それを見て、整えて、必要なものだけを前へ渡す。

 それだけで頭の中は散らかりそうだった。

 

 それをさらに上げる。

 

 喉の奥が少し乾いた。

 

 その時、隣のカイエが静かにクミコへ顔を向けた。

 

「クミコは見ていて」

 

 落ち着いた声だった。

 

「……ですが」

 

 クミコは反射的にそう返していた。

 ここで外されたくない。

 せっかく来たのに、ただ見ているだけで終わりたくない。

 そういう気持ちが、そのまま口に出たのだと思う。

 

 カイエはその視線をまっすぐ受け止めた。

 

「ごめん」

 

 一度そう言ってから、はっきり続ける。

 

「強度を上げるなら、私はリュウジさん達への補助に集中したいの。クミコをフォローしながらだと、中途半端になる」

 

 その言い方は、厳しい。

 でも、冷たくはなかった。

 ただ、今どこに力を割くべきかを分かっている人の言葉だった。

 

「今回の強度だと、生活区画の情報を拾ってまとめるだけじゃ足りない。リュウジさん達が今、何を必要としてるかまで見ながら補助しないといけない」

 

 クミコはすぐに返事が出来なかった。

 

 悔しい。

 その気持ちが真っ先に来る。

 でも同時に、それが正しいとも分かってしまう。

 

 カイエは続けた。

 

「今のクミコに、それが出来ないって言ってるんじゃないよ」

 

 そこで少しだけ声を柔らかくする。

 

「でも、今日はまず見た方がいい。どうやって“支えてるか”を」

 

 その一言が、クミコの胸へ真っ直ぐ落ちた。

 

 ただ外されるわけじゃない。

 見ていろ、と言われている。

 今の自分にはまだ、そこへ入る余裕がないから、まずは“見ること”が役目だということだ。

 

「……分かりました」

 

 クミコは、ようやく頷いた。

 

 カイエはその返事を聞くと、ほんの少しだけ表情を和らげる。

 

「ごめんね」

 

 そして、静かに続けた。

 

「でも、ちゃんと見てて」

 

「……はい」

 

 今度の返事は、さっきより少しだけ芯があった。

 

 

 強度を上げた第二段階のシュミレーションが始まる。

 

 クミコは後方の補助席へ一歩下がった。

 今の役目は、実務参加ではなく観察と記録。

 自分の端末表示も最低限に絞り、目の前で何がどう繋がっていくのかを追うことへ集中する。

 

 リュウジがシナリオを切り替える。

 外部映像が再び動き出し、南側未探索航路を模した暗い宇宙空間が映し出された。

 機体の姿勢補正ログと生活設備の状態表示が、同時に前方パネルへ流れ始める。

 

「条件変更」

 

 リュウジの声が落ちる。

 

「南側航路六日目。外部観測ノイズ増加。航路修正幅拡大。通信遅延九%。生活区画Bの空調不安定継続。加えて仮眠室利用サイクル乱れ。食料区画の一部在庫に偏り発生」

 

 前回よりも、明らかに“生活”へ寄った問題が増えている。

 

 サツキが後方から機関系ログを読む。

 

「補助空調系、一・五系統が不安定。致命的ではないけど、仮眠室側の温度差が出る」

 

 マリも通信席から続ける。

 

「外部通信は簡略化可能。観測ログの再同期に時間がかかる。しばらくは船内判断優先」

 

 そこでカイエが、リュウジ達を補助する乗務員として口を開く。

 

「生活区画より補助報告。仮眠室の休息サイクルずれが二名、睡眠の質低下が一名。現時点で勤務継続可能ですが、次交代で再調整が必要です」

 

 クミコは、その報告を聞いてまず驚く。

 

 カイエは“誰が眠い”とそのまま言わない。

 今の船全体にどう影響するかへ変換してから、必要な形で渡している。

 

 リュウジが短く返す。

 

「了解。次交代までは航路修正維持」

 

 それで話が通る。

 つまり、カイエの報告は今コックピットが欲しい形にきちんと収まっているのだ。

 

 カイエは続ける。

 

「キッチン稼働率、計画よりやや高め。原因は温食偏重。食料区画の乾燥保存食消費が遅いです」

 

 クミコは目を見開いた。

 そこまで拾うのか。

 だが、よく考えれば当然でもある。

 クルーが七人しかいない長期調査では、食事の偏りはそのまま疲労や気分の揺れに繋がる。

 

「対応案は?」

 

 クリスタルが問う。

 

「次の食事サイクルで温食を一段抑えます。選択肢は残すけど、固定化は避けた方がいいと思います」

 

「いいわね」

 

 クリスタルが頷く。

 

 そこでクミコは、また一つ痛感する。

 カイエは、ただ異常を報告しているんじゃない。

 リュウジ達が判断しやすいように、今すぐ取れる運用案まで添えている。

 

 つまり、主役ではない。

 あくまでサポートだ。

 でも、そのサポートの質が高いから、コックピットは迷わず前へ進める。

 

 リュウジが次の条件を追加する。

 

「観測ログ断片共有。生活区画Cで外部状況の誤認発生。噂の芽」

 

 クミコは思わず姿勢を正した。

 

 乗客はいない。

 でもクルーだけだからこそ、こういう小さな不安の広がりは危険なのだろう。

 同じ空間で働き、食べ、眠る相手だからこそ、一度濁ると長く尾を引く。

 

「生活区画C、誤認は限定的です」

 

 カイエが言う。

 

「広がりは浅いので、大きく動かす必要はありません。発生源のみ静かに切ります」

 

「了解」

 

 リュウジが即答する。

 

 クミコの胸がまた、どくんと鳴る。

 

 大きく動けば、“何かあった”と船内へ余計に知らせることになる。

 だから、まだ芽の段階なら静かに切る。

 それもまたサポートなのだ。

 自分が目立って前へ出るのではなく、船全体が静かに回るように補助する。

 

 クリスタルが補足する。

 

「発生源、疲労由来なら短時間で切り替え優先」

 

「了解です」

 

 カイエが短く返す。

 

 クミコは、そこで改めて思い知る。

 カイエは一人で何でも決めているわけじゃない。

 でも、“何をどこまで上げるか”“誰の視点を繋ぐか”を、自分の中で決めている。

 

 エリンが言っていた。

 

 ――副パーサーは、自分一人で背負わないこと。

 ――でも、どこへ何を渡すかは持つこと。

 

 今のカイエは、それを自然にやっていた。

 

 

 リュウジはさらに強度を上げる。

 

「次。生活区画B、クルー一名が自発的に休息時間を削って勤務継続希望。理由は観測作業への責任感。加えてキッチン側で消耗品管理の記録漏れ一件」

 

 クミコは息を止めた。

 

 あまりにも現実的だった。

 体調不良ではない。

 でも、“自分がやらなきゃ”で無理を通そうとする人。

 そして、生活を回す小さな区画で起きる記録漏れ。

 どちらも派手ではない。

 でも、七人しかいない船では確実に効いてくる。

 

 リュウジが問う。

 

「勤務継続希望者、切れるか」

 

「切れます」

 

 カイエが即答する。

 

「本人希望でも却下した方がいいです。短期的な責任感より、勤務循環維持の方を優先します」

 

 その一言に、クミコは思わず目を伏せた。

 

 今の自分なら、そこまで言い切れるだろうか。

 “頑張りたい”と言う人へ、迷わず“駄目です”と線を引けるだろうか。

 多分、まだ無理だ。

 少なくとも、今の自分には感情が先に揺れる。

 

 サツキが記録漏れの方へ口を出す。

 

「それは人の問題というより運用の問題だね。記録位置が悪い」

 

 マリがすぐに続ける。

 

「食料区画とキッチンの導線が長いから、書き忘れる構造か」

 

「そう」

 

 サツキが頷く。

 

「人を責めるより、置き場所変える方が早い」

 

 クミコは、そこでまた一つはっとする。

 問題が起きた時、誰が悪いかより、構造が悪いのではないかと見る。

 それもまた、ラ・スペランツァ側のレベルだった。

 

 クミコは、見ているだけなのに少しずつ息苦しくなっていた。

 身体はほとんど動いていない。

 それなのに、流れていく判断と連携の密度が高すぎて、ただ追いかけるだけで頭が熱くなる。

 

 そして、その中心にいるリュウジは一度も焦らない。

 

 リュウジは全部を聞いている。

 サツキの機関系の見立ても。

 マリの通信整理も。

 クリスタルの人の兆候の読みも。

 カイエの生活区画支援のまとめも。

 チャコの副操縦席からの補助も。

 その全部を受け取った上で、何を前へ通し、何を少し後ろへ置くかを瞬時に決めている。

 

 クミコは、教育便で見たリュウジの凄さを思い出す。

 でも、あれは乗客を乗せた一便の中で見えた凄さだった。

 今ここにあるのは、もっとむき出しのものだ。

 クルーだけの船を、長期にわたって崩さず進めるための判断と支え合い。

 

 ――これが、ラ・スペランツァ。

 

 クミコは、痛いほどそれを感じていた。

 

 

 強度を上げたシュミレーションは、それからさらに四十分近く続いた。

 

 仮眠室での休息不足。

 キッチンの稼働偏重。

 食料区画の偏った消費。

 生活区画での小さな不安の芽。

 どれも派手ではない。

 でも、静かに船を削る。

 

 乗客がいないからこそ、誤魔化しが利かない。

 七人しかいないからこそ、一人の揺れが全体へ響く。

 

 クミコは、そこでようやく理解した。

 

 カイエと自分の役割は、コックピットの中核になることじゃない。

 ラ・スペランツァが前へ進めるよう、船内の小さな揺れを拾って、必要な形へ整えて渡すこと。

 つまり、主役ではなく、徹底して支える側だ。

 

 でもその“支える”の質が、今の自分の想像よりずっと高かった。

 

 遠い。

 

 クミコは、その遠さを身体の奥で感じていた。

 副パーサーになりたい。

 早く上に行きたい。

 その気持ちは今も消えていない。

 でも今ここで見ているものの前では、その言葉は簡単には口に出来なかった。

 

 これは、昨日や今日で埋まる差じゃない。

 訓練本数だけの問題でもない。

 場数。

 経験。

 そして、人の小さな無理や生活の偏りを、問題になる前に見る力。

 その蓄積が、この一つ一つのサポートへ繋がっている。

 

 ――今じゃない。

 ――今は地に足をつけて、一歩ずつ前に進んでほしい。

 

 エリンの言葉が、今になってようやく身体へ落ちた。

 

 リュウジが終了を告げた時、クミコは見ているだけなのに肩が強張っていたことに気づいた。

 

「ここまでだ」

 

 その一言で、ようやくアルテミスの中の緊張が少しほどける。

 

 照明が通常へ戻り、シナリオ表示が止まる。

 サツキが肩を回し、チャコが「ふうー」と大袈裟に息を吐いた。

 マリも通信席で長く息を逃がす。

 

 クミコは、その場ですぐには動けなかった。

 見ていただけなのに、心が少し重い。

 でも、それは嫌な重さではない。

 自分の足りなさを、ちゃんと知った時の重さだった。

 

 カイエが、そんなクミコの方へ静かに振り返る。

 

「どうだった?」

 

 その問いは穏やかだった。

 でも、ごまかしを許さない優しさがある。

 

 クミコは少しだけ考えてから、正直に答えた。

 

「……レベルが高すぎて、ちょっと笑えませんでした」

 

 思ったより率直な言葉になった。

 

 カイエは一瞬だけ目を丸くして、それから小さく笑った。

 

「そう」

 

「はい」

 

 クミコは頷く。

 

「でも、何が高いのか、前より分かった気がします」

 

 今度はクリスタルが興味深そうに聞く。

 

「何が高かった?」

 

 クミコはゆっくり息を整えた。

 言葉にしないと、自分の中でも曖昧なまま終わる気がした。

 

「速い、だけじゃなかったです」

 

 慎重に言葉を選ぶ。

 

「皆さん判断が速いんですけど、それより……まだ問題になってないことを最初から問題として見てる感じがしました」

 

 マリが通信席で小さく頷く。

 サツキも納得したように目を細める。

 

「あと……」

 

 クミコは続けた。

 

「皆さん、前に出てるわけじゃないのに、ちゃんと支えてるんです」

 

 少しだけ眉を寄せる。

 うまく言葉にしきれない。

 

 カイエが、そこで補うように言った。

 

「任せてるのに、離れてない」

 

「……はい、それです」

 

 クミコがすぐに頷く。

 

「それが、一番すごいと思いました」

 

 クリスタルが口元を少しだけ上げる。

 

「ちゃんと見てるじゃない」

 

 その一言が、クミコには思っていた以上に嬉しかった。

 “見ていて”と言われた役目を、少しは果たせた気がしたからだ。

 

 リュウジはその会話を黙って聞いていたが、やがて淡々と口を開く。

 

「なら次は、それを見ながら一つだけ持て」

 

 クミコが顔を上げる。

 

「一つだけ、ですか」

 

「全部はいらない」

 

 リュウジは言う。

 

「今日見た中で、自分が今持てるサポートを一つ選べ。それを次のシュミレーションで形にしろ」

 

 その言い方は、いかにもリュウジらしかった。

 慰めではなく、次へ進むための課題だけを置く。

 

 でも今のクミコには、それが何よりありがたかった。

 

 遠い。

 でも、遠いからといって、ただ眺めて終わりでは駄目なのだ。

 今日見たものの中から、一つだけでもいい、自分のものにする。

 それがきっと、エリンの言う“一歩ずつ前に進む”ということなのだろう。

 

「……はい」

 

 クミコは、今度は迷わず頷いた。

 

 その返事を聞いて、カイエが小さく笑う。

 

「うん。だったら今日は来た意味があったね」

 

 その言葉に、クミコはようやくほんの少しだけ笑えた。

 

 まだ遠い。

 まだ届かない。

 でも、その遠さをきちんと知れたことが、今の自分には必要だったのだと、クミコは静かに思った。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 訓練を終えた頃には、宇宙管理局の外はすっかり夜の色に沈んでいた。

 

 昼間は取材陣や関係車両で騒がしかった建物の周辺も、夜になると一転して静かになる。

 表通りにはまだ明かりが残っているが、宇宙管理局の裏手へ回れば、聞こえるのは空調設備の低い唸りと、遠くを走る搬送車の音くらいだ。

 

 クミコとカイエは、エリンが手配してくれたホテルへ向かって歩いていた。

 宇宙管理局から徒歩数分。

 長期滞在者や出張者がよく使う、実用本位の落ち着いたホテルだ。

 

 外観は派手ではない。

 灰色がかった外壁に、縦長の窓が整然と並び、エントランスの灯りだけが柔らかく足元を照らしている。

 だが、派手さがない分だけ安心感があった。

 今日みたいに頭を酷使したあとは、これくらい静かな方がいい。

 

「……はぁ」

 

 ホテルの自動扉をくぐったところで、クミコは思わず小さく息を漏らした。

 

 疲れていた。

 身体も疲れている。

 でもそれ以上に、頭が熱い。

 

 今日一日で見たもの、聞いたもの、感じたものが、まだ全然整理しきれていない。

 ラ・スペランツァのシュミレーション。

 アルテミスのコックピット。

 リュウジの判断。

 カイエの支え方。

 クリスタル達の連携。

 

 どれも鮮明に残っているのに、何から考えればいいのか分からないほど密度が高かった。

 

「疲れた?」

 

 フロントでチェックインを済ませながら、カイエが横目で聞く。

 

「……はい」

 

 クミコは正直に頷いた。

 

「見てるだけなのに、こんなに疲れるんだって思いました」

 

「見てるだけ、じゃないからだよ」

 

 カイエはルームキーを受け取ると、淡々とした調子で言った。

 

「ちゃんと考えながら見てたでしょ」

 

「……はい」

 

「だったら疲れるよ」

 

 そう言って、カイエは少しだけ笑った。

 

 大きく褒めるわけでもない。

 でも、その言い方は不思議と温かかった。

 

 部屋はツインだった。

 内装は簡素だが清潔で、ベッドが二つ、窓際に小さな丸テーブル、壁際にソファ代わりの細い長椅子がある。

 照明は少し落ち着いた色で、室内の空気は静かだった。

 

 クミコが鞄を下ろして一息ついている間に、カイエは迷いなく自分のベッド側へ行き、ジャケットを脱ぎ、靴を脱ぎ、端末を充電器へ差し込む。

 その一連の動きに無駄がない。

 

「お風呂、先どうぞ」

 

 クミコが言うと、カイエは首を横に振った。

 

「クミコが先でいいよ。私はその間、ちょっとゲームしてるから」

 

「ゲーム?」

 

「うん」

 

 カイエはごく自然に答えると、端末の別画面を立ち上げた。

 次の瞬間には、もう指先が軽快に動き始めている。

 

 クミコは目を瞬いた。

 

「えっ……今からですか?」

 

「うん」

 

「この流れで?」

 

「この流れで」

 

 即答だった。

 

 クミコは思わず笑ってしまう。

 

「すごいですね……切り替え早すぎます」

 

「切り替えないと、頭が煮えるからね」

 

 カイエはゲーム画面を見たまま言った。

 

「私、訓練のあとずっと真面目に考えてると逆に駄目になるの」

 

「そういうものですか?」

 

「そういう時もある」

 

 さらっと言われる。

 でも、その言葉に妙な説得力があった。

 

 結局、クミコは先に風呂を済ませることにした。

 熱すぎない湯に肩まで浸かると、ようやく身体の緊張が少しだけほどけていく。

 それでも頭の方は完全には静かにならない。

 目を閉じると、今日見たコックピットの光景がまたすぐ浮かんでくる。

 

 リュウジの「次、強度を上げる」。

 あの一言だけで空気が変わったこと。

 カイエが迷いなく“見ていて”と言ったこと。

 そして、自分が悔しいと思ったこと。

 

 湯船の中で、クミコは膝を抱えるように少しだけ身体を縮めた。

 

(悔しかったな……)

 

 正直に、そう思う。

 見ているだけで終わったことが悔しい。

 でも、それ以上に、自分が“まだそこじゃない”と分かったことが悔しい。

 

 だけど――それで終わらせたくない。

 

 風呂から上がって部屋へ戻ると、カイエは本当に携帯ゲームに没頭していた。

 

 ベッドの背にもたれ、片足を軽く曲げ、表情一つ変えずに画面を見ている。

 操作は速い。

 速いのに、焦っている感じは全然ない。

 

「……本当にやってる」

 

 クミコが呟くと、カイエはちらっとだけこちらを見た。

 

「だから言ったでしょ」

 

「いや、そうですけど……」

 

「お風呂どうだった?」

 

「気持ちよかったです」

 

「ならよかった」

 

 それだけ言って、またゲームに戻る。

 クミコは思わず苦笑した。

 

 同じ部屋なのに、妙に空気が重くならないのはカイエのこういうところかもしれない。

 必要以上に気を遣わせない。

 でも放ってもおかない。

 距離の取り方が自然なのだ。

 

 クミコは自分のベッド側へ座り、それからなんとなく窓際へ歩いた。

 カーテンを少しだけ開ける。

 

 宇宙管理局の外灯が、一定の間隔で白く並んでいる。

 その向こうに、夜のコロニーの街明かり。

 地上の夜景とは違う、どこか人工的で、それでも人が生きている温度を感じる明かりだ。

 

 その景色を見ていると、不意に端末が震えた。

 

「……あ」

 

 画面を見る。

 着信表示に出た名前を見た瞬間、クミコの表情がぱっと明るくなった。

 

「エリンさん……!」

 

 クミコが慌てて通話を取る。

 

「もしもし、エリンさん!」

 

『もしもし、クミコ? 今大丈夫?』

 

 聞き慣れた声が、耳へ柔らかく届いた。

 落ち着いた声。

 それだけで、胸の奥が少しほっとする。

 

「はい! 大丈夫です!」

 

『よかった。ホテルには着いた?』

 

「はい、さっき着きました!」

 

『そう。なら安心した』

 

 エリンのその一言に、クミコは自然と背筋を伸ばしていた。

 大丈夫かどうか。

 ちゃんと着いたかどうか。

 そういうことを確認してくれる声が、今はとてもありがたかった。

 

『今日はお疲れ様』

 

 その言葉が、静かに落ちる。

 

 クミコは、一瞬だけ返事に詰まった。

 お疲れ様。

 ただそれだけなのに、今日の自分には妙に染みる。

 

「……ありがとうございます」

 

『どうだった?』

 

 問われて、クミコは窓の外を見たまま少し考えた。

 なんと言えばいいのだろう。

 難しかった。

 悔しかった。

 すごかった。

 全部本当だ。

 

「すごかったです」

 

 結局、最初に出たのはその言葉だった。

 

「思ってたより、ずっと……」

 

『うん』

 

「見てるだけで、いっぱいいっぱいになりました」

 

 電話の向こうで、エリンが小さく笑った気配がした。

 

『そうだろうね』

 

「はい……」

 

『でも、いい経験になるから頑張って』

 

 その声は優しい。

 優しいけれど、慰めるような甘さだけじゃない。

 ちゃんと前を向かせる響きがある。

 

『クミコは今、あの中で何が起きてるかを自分の目で見られてる。それはすごく大きいことだよ』

 

 クミコは、端末を持つ手へ少しだけ力を込めた。

 

「……はい」

 

『まあ、明日からは見てるだけになるかもだけど』

 

「えっ」

 

 思わず声が裏返る。

 すると、電話の向こうでエリンがくすっと笑った。

 

『ふふっ。でも、それも大事だからね』

 

「そ、そうですけど……」

 

『今日、カイエから聞いたわ。ちゃんと見てたって』

 

「……」

 

『悔しかった?』

 

 その問いに、クミコは少しだけ目を伏せた。

 

「……はい」

 

『うん』

 

 エリンは、それを否定しなかった。

 

『悔しいのはいいことだよ』

 

「いいこと……ですか?」

 

『うん。悔しいってことは、自分の足りなさが見えたってことだから』

 

 静かな声だった。

 

『でもね、足りないって見えたからって、急に全部を背負いにいっちゃ駄目だよ』

 

 その言葉は、少し前に言われたものと同じだった。

 でも今は、あの時よりずっとよく分かる。

 

『今のクミコに必要なのは、“自分が持てるものを一つずつ増やすこと”』

 

「……はい」

 

『遠く見えたでしょ?』

 

「……見えました」

 

『そうだろうね』

 

 少しだけ間が空く。

 

『でも、遠く見えたからって、歩けないわけじゃない』

 

 クミコは、そこで目を閉じた。

 

 エリンの言葉は、いつもそうだ。

 厳しい現実を消してはくれない。

 でも、その現実の中でどう立てばいいかを、ちゃんと示してくれる。

 

「……頑張ります」

 

『うん』

 

 そして、エリンは少しだけ声色を変えた。

 

『それと、カイエいる?』

 

「はい、います」

 

『ゲームしてる?』

 

 クミコは思わず振り返った。

 カイエは本当にベッドの上で携帯ゲームをやっている。

 しかも、かなり真剣だ。

 

「……はい、してます」

 

『やっぱり』

 

 エリンが呆れたように笑う。

 

『ゲームはほどほどに、って伝えて』

 

 クミコは思わず吹き出しそうになった。

 

「はい。伝えます」

 

『お願いね』

 

「でもエリンさん、なんで分かったんですか?」

 

『なんとなく』

 

 それだけ言って、エリンは小さく笑った。

 

『あの子、緊張が抜けるとだいたいそういうことするから』

 

「なるほど……」

 

『それじゃ、今日はちゃんと休んで』

 

「はい!」

 

『おやすみ、クミコ』

 

「おやすみなさい、エリンさん!」

 

 通話が切れたあとも、クミコはしばらく端末を握ったまま立っていた。

 胸の奥が、少しだけ温かい。

 

「……どうだった?」

 

 ゲーム画面から目を離さないまま、カイエが聞いてくる。

 

「エリンさんでした」

 

「うん、そうだろうね」

 

「カイエさんに、ゲームはほどほどにって伝えてって言われました」

 

 その瞬間、カイエの指がぴたりと止まった。

 珍しく、はっきりと止まった。

 

「……見えてるのかな、あの人」

 

「なんとなくだそうです」

 

「なんとなく、でそこ当てるの怖いなあ」

 

 そう言って、カイエはようやく端末を伏せた。

 それから少しだけ肩を回す。

 

「じゃあ今日はもう終わりにするか」

 

「エリンさんの言うこと、ちゃんと聞くんですね」

 

「聞くよ。あの人には借りがあるし」

 

「借り?」

 

「いっぱいある」

 

 それだけ言って、カイエはそれ以上詳しくは語らなかった。

 でも、その言い方に軽さはなかった。

 

 クミコは、ベッドの端へ腰を下ろした。

 部屋の照明が柔らかい色へ切り替わっている。

 もう休む時間だ。

 

「クミコ」

 

「はい?」

 

「明日、多分もっときついよ」

 

 カイエは淡々と言った。

 

「……ですよね」

 

「うん。だから今日は変に考え込みすぎないで寝た方がいい」

 

「はい」

 

「でも、今日見た中で一つだけ持つものは決めた方がいい」

 

 その言葉に、クミコは少しだけ姿勢を正した。

 

「一つだけ……」

 

「うん。一つでいい」

 

 カイエはベッドへ横になりながら言う。

 

「全部やろうとすると、全部こぼすから」

 

 クミコはしばらく考えた。

 今日見た中で、自分が持てるもの。

 全部は無理だ。

 でも一つだけなら。

 

「……私は」

 

「うん」

 

「問題になってからじゃなくて、問題になる前を見ることを意識したいです」

 

 カイエは少しだけ目を細めた。

 

「いいと思う」

 

「まだ全然出来ないですけど」

 

「最初から出来るなら、ここ来てないでしょ」

 

 その言い方に、クミコは少しだけ笑った。

 

「そうですね」

 

「そう」

 

 カイエは毛布を引き上げる。

 

「じゃあ寝よう。明日は本当に長いと思うから」

 

 クミコもベッドへ入った。

 部屋の明かりが落ちる。

 静かな天井を見上げながら、今日のことを思い返す。

 

 悔しい。

 でも、その悔しさは昨日より少しだけ形が見えている気がした。

 

 そして、そのままクミコは浅い眠りへ落ちていった。

 

 

 次の日の朝、空気は昨日より重かった。

 

 宇宙管理局近くのホテルを出てアルテミスの訓練区画へ向かう道すがら、クミコは自然と無駄口が減っていた。

 カイエも同じだ。

 別にぴりぴりしているわけではない。

 けれど、今日が昨日より厳しくなることを、お互いに分かっている。

 

 訓練ドックへ入ると、すでにリュウジ達は揃っていた。

 

 サツキは後方の設備ログを確認している。

 マリは通信席で航路データを同期し、チャコは副操縦席に片脚を乗せて、何やらぶつぶつ言いながら表示を切り替えていた。

 クリスタルは補助席近くでデータパッドを見ている。

 

 そして機長席には、リュウジ。

 

 昨日と同じ場所。

 同じ座り方。

 でも、何かが違った。

 

 クミコがその違和感を言葉に出来る前に、リュウジが顔を上げた。

 

「クミコ」

 

「は、はい!」

 

「今日は見ていろ」

 

 昨日よりも、さらに簡潔だった。

 

「……はい」

 

 即答するしかない。

 その言い方に反論の余地はなかったし、今のクミコにもそれは分かる。

 

 リュウジはそのまま続けた。

 

「今日は本番のつもりでやる」

 

 たったそれだけの言葉だった。

 だが、その瞬間、アルテミスのコックピットの空気が変わった。

 

 重い。

 冷たい。

 それでいて騒がしくはない。

 

 昨日までは“訓練”の空気だった。

 今日は違う。

 今ここで何か一つ遅れれば、そのまま崩れる。

 そんな前提の空気が、リュウジを中心に静かに広がっていく。

 

 クミコは、ごくりと唾を飲み込んだ。

 

 サツキが表情を引き締める。

 チャコも耳の角度が変わる。

 マリは背筋をさらに伸ばし、クリスタルは何も言わずにデータパッドを閉じた。

 カイエだけが、わずかに呼吸を深くしてから定位置へ入る。

 

 そして、シュミレーションが始まった。

 

 照明が切り替わる。

 外部映像が動き出し、南側未探索航路の暗い空間が前面へ広がる。

 計器の光が静かに増え、床へわずかな振動が戻った。

 

「開始」

 

 リュウジの声が落ちる。

 

 そこから先は、本当に“本番のつもり”だった。

 

 最初の数分は静かだった。

 航路修正。

 通信遅延。

 生活区画側の微細な違和感。

 そういった小さなものが、いつも通り積み重なっていく。

 

 だが、十分も経たないうちに一気に負荷が跳ね上がった。

 

「機器系統異常」

 

 サツキがすぐに声を上げる。

 

「補助空調じゃない。制御系の応答が一部遅れてる」

 

「どこや」

 

 チャコが副操縦席から身を乗り出す。

 

「姿勢補助じゃない、生活区画側の環境制御に繋がってる補助系」

 

「そっちか……!」

 

 チャコの声色が変わる。

 つまり、単なる機械の不具合では終わらない。

 船内の生活環境へそのまま響く種類の問題なのだ。

 

 サツキはもう後方へ回っていた。

 チャコも副操縦席の表示を切り替えながら、それに合わせて補助制御の処理へ入る。

 

「サツキ、右のライン見る!」

 

「見てる!」

 

「切るなよ、落ちる!」

 

「分かってる!」

 

 短い。

 だが、その短いやり取りだけで、二人の間に必要な情報は通っている。

 

 その時、クリスタルが静かに動いた。

 

 補助席から立ち上がり、そのまま副操縦席側へ回り込む。

 

「チャコ、ずれて」

 

「おう」

 

 チャコが少しだけ席を譲り、クリスタルが副操縦席の横から表示へ目を落とす。

 医療担当の彼女がそこへ入る意味を、クミコはすぐに理解した。

 

 環境制御の不具合は、そのままクルーの体調へ繋がる。

 つまり“人がどう崩れるか”を見る目が必要なのだ。

 

「マリ」

 

 リュウジが呼ぶ。

 

「通信遅延、上がる」

 

「もう来てる」

 

 マリはすでに対応に入っていた。

 

「外部との往復が鈍ってる。定時報告簡略化に切り替える。内部ログ優先」

 

「了解」

 

 リュウジが返す。

 

 マリの指は速かった。

 通信ログを整理し、どれを今通し、どれを一旦後ろへ置くかを瞬時に分けていく。

 しかも声は落ち着いている。

 慌ただしさを空気へ広げないためだろう。

 

 そして、カイエはその全体のサポートへ入っていた。

 

 昨日みたいに、生活区画の情報をただまとめるだけじゃない。

 今は、誰が何を見て、どこへどう渡せばこの流れが滞らないかを見ている。

 

「生活区画側、仮眠室利用予定を一時凍結できます」

 

 カイエが言う。

 

「環境制御の乱れが収まるまで、人の動線を減らした方がいい」

 

「理由」

 

 リュウジが短く聞く。

 

「移動増やすと体感差が大きくなる。無駄な不安を起こしやすいです」

 

「了解」

 

 それで即採用される。

 

 クミコは、息をするのも忘れそうになっていた。

 

 速い。

 でも、それだけじゃない。

 カイエは今、前に出ているように見えて、実際には全体の流れを止めないための補助に徹している。

 自分が主役になるのではなく、必要なところへ必要なだけ差し込む。

 

 それがどれほど難しいことか、クミコにはもう分かっていた。

 

 訓練はさらに苛烈になる。

 

 環境制御の不具合が一時的に仮眠室側へ波及。

 温度差発生。

 その影響で休息予定のクルーのリズムがずれる想定。

 通信遅延は一段上がり、マリが外部連携を絞り込む。

 サツキとチャコは機器側の切り分けに入り、クリスタルは人の崩れ方を読んで副操縦席横から補助線を引く。

 

 誰も声を荒げない。

 でも一秒たりとも緩まない。

 

 クミコは後方で、ただそれを見ていた。

 

 圧倒的だった。

 

 昨日見たものより、さらに冷たい。

 さらに実戦に近い。

 余計な言葉が少ない。

 判断の一つひとつが、まるで刃物みたいに鋭い。

 

 リュウジの空気がそうさせているのだと、クミコには分かった。

 

 昨日のリュウジは“訓練を進める人”だった。

 今日のリュウジは、“崩れたら終わる前提で動く人”だった。

 

 機長席に座るだけで、あそこまで場の温度を変えられるのか。

 クミコは、そのこと自体に息を呑んだ。

 

 さらに十分ほど経ったところで、機器系統の不具合は一応の安定を見せた。

 だが、そこで終わらないのが今日の訓練だった。

 

「次」

 

 リュウジが言う。

 

 その一言で、また空気が張る。

 

「通信遅延継続。環境制御復帰不完全。生活区画側に“問題は解決した”と誤認が出る想定」

 

 クミコは、そこで心臓が跳ねた。

 

 なるほど。

 機械の不具合が落ち着いたからといって、人の方まで落ち着くとは限らない。

 むしろ、半端に安心した時の方が危ない。

 そこまで見ているのだ。

 

「カイエ」

 

「はい」

 

「どう支える」

 

 問われたカイエは、一瞬も迷わなかった。

 

「“解決した”じゃなくて、“落ち着いた”に表現を揃えます」

 

 短く、はっきり。

 

「完全復帰じゃないなら、安心させすぎる言葉は使わない方がいいです。気の緩みで次が遅れます」

 

「了解」

 

 リュウジが返す。

 

 そのやり取りを聞いた瞬間、クミコは鳥肌が立った。

 

 支える、というのは、優しい言葉をかけることだけじゃない。

 むしろ、本当に支えるためには、気持ちよくさせすぎないことも必要になる。

 

 それは、今のクミコにはまだ難しい感覚だった。

 落ち着かせたい。

 安心させたい。

 そう思う方が自然だ。

 でも本番の支え方は、それだけでは駄目なのだ。

 

 そして、そのすべてを支えているのは、やはり連携だった。

 

 サツキとチャコは、機器側の不具合対応だけで終わらず、その結果が人へどう響くかまで見ている。

 クリスタルは人の崩れ方を読みながら、必要な時だけ一歩前へ出る。

 マリは通信の整理をしつつ、コックピットが余計な情報で詰まらないようにしている。

 カイエはその流れの中へ、生活区画側の支援情報を最適な温度で差し込んでいく。

 そしてリュウジは、それらを全部受けて、全体を少しも鈍らせない。

 

 クミコは、もう途中から完全に言葉を失っていた。

 

 すごい。

 そんな一言では足りない。

 ラ・スペランツァのシュミレーションが高いのは分かっていた。

 でも、ここまでとは思っていなかった。

 

 これは、ただ仲がいいから出来る連携ではない。

 お互いを信頼しているから、だけでもない。

 たぶん、何度も何度も崩れかけたものを、そのたびに繋ぎ直してきた人達だけが持つ連携だ。

 

 訓練は、さらに二十分ほど続いた。

 

 最後には、明らかに皆の呼吸が少しずつ重くなっているのが分かった。

 それでも誰一人、集中を切らさない。

 

 そして、ようやく。

 

「終了」

 

 リュウジがそう告げた瞬間、張りつめていた空気が少しだけほどけた。

 

 照明が通常へ戻る。

 外部映像が停止し、ログの流れも落ち着いていく。

 サツキがゆっくり息を吐き、チャコが「ふぅ……」と長く息を漏らした。

 マリも通信席で肩の力を抜き、クリスタルは副操縦席横から静かに離れる。

 

 クミコは、しばらく動けなかった。

 

 圧倒された。

 ただ、その一言に尽きる。

 

 悔しいとか、頑張りたいとか、そういう感情も確かにある。

 でも今はそれ以前に、純粋に圧倒されていた。

 

 リュウジは機長席から立ち上がらなかった。

 前を向いたまま、小さく息を吐く。

 そして、ぽつりと言った。

 

「まだダメだな」

 

 その声は大きくない。

 でも、はっきり全員に届いた。

 

 チャコが耳をぴくりと動かす。

 サツキも振り返り、マリは通信席で顔を上げた。

 カイエも姿勢を正す。

 

「もっと連携を上げないと崩れる」

 

 リュウジが言う。

 

「今のままだと、一個遅れたところから全部引きずられる」

 

 誰も反論しなかった。

 出来ないのではなく、反論する余地がないのだ。

 

 クミコは、その言葉を後方で聞きながら、胸の奥がずしんと重くなるのを感じた。

 

 これで、まだダメなのか。

 

 今、自分から見たら十分すぎるほどすごかった。

 到底届かないと思うほど高かった。

 それでも、リュウジから見れば“まだ崩れる”のだ。

 

 その差に、くらくらしそうになる。

 

 けれど同時に、クミコは少しだけ分かった気もした。

 

 リュウジが見ているのは、“今回は回った”かどうかじゃない。

 未探索領域の本番で、疲労が蓄積し、時間が伸び、判断が鈍る中でも、それでも崩れないかどうか。

 そこを見ているのだ。

 

 だから、今ここでの“出来た”では足りない。

 

 クミコは、静かに拳を握った。

 

 遠い。

 本当に遠い。

 

 でも、その遠さの意味が、今日は昨日よりずっと分かる。

 

 そして、リュウジが最後に短く言う。

 

「明日もやる」

 

 それだけだった。

 でも、その言葉の中にある重さは十分すぎた。

 

 クミコは、ただ静かにその場で頷いた。

 自分に向けられた言葉ではない。

 それでも、その一言が自分の中にも深く沈んでいく。

 

 まだ足りない。

 もっと連携を上げないと崩れる。

 それは、ラ・スペランツァだけの話じゃない。

 きっと、いつかスペースホープも同じ場所へ立つために必要な言葉なのだ。

 

 クミコは、アルテミスの静かなコックピットの中で、胸の奥にその言葉を刻み込んだ。

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