サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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繋がり

 二日目の訓練が終わった時には、アルテミスのコックピットの空気は朝とは別物になっていた。

 

 照明が通常に戻り、前面モニターに流れていた航路シミュレーションの表示も静かに閉じていく。

 さっきまで張りつめていた緊張が、少しずつ解けていくのが分かった。

 

 サツキが後方の機器ログを確認し終えて、小さく肩を回す。

 マリは通信席のデータを保存し、チャコは副操縦席の上でぐったりと耳を寝かせた。

 クリスタルは補助席から立ち上がると、いつものように乱れのない手つきで端末を閉じる。

 リュウジだけは最後まで機長席から立たず、前方を見据えたまま、ほんの僅かに息を吐いた。

 

 その横顔は相変わらず静かだった。

 けれどクミコには、昨日よりも今日の方が、皆んなの呼吸が揃っていたように見えた。

 

 もちろん、リュウジからすればまだ足りない。

 本人がそう言っていたのだから間違いない。

 それでも、少しずつではあるが、船の中に一本の芯が通り始めている――そんな感覚があった。

 

「それじゃあ、私はここまでです」

 

 その空気を切り替えるように、カイエが一歩前へ出て頭を下げた。

 

「二日間、ありがとうございました」

 

 カイエの声は落ち着いていたが、その口元にはほんの少しだけやり切ったあとの柔らかさがあった。

 アルテミスのコックピットに初めて入った時と比べれば、彼女自身もこの場の重さを測り終えているのだろう。

 

「こちらこそ」

 

 クリスタルが先に答える。

 

「助かったわ」

 

「はい。私も本当に勉強になりました」

 

 カイエがそう言って、次にリュウジの方を見る。

 

「リュウジさん、ありがとうございました」

 

「……ああ」

 

 短い返答。

 それでも、昨日より僅かに温度がある。

 

 チャコが副操縦席からぴょんと飛び降りる。

 

「カイエ、ええ動きやったで。最初よりだいぶ空気読むん上手くなっとったわ」

 

「ありがとうございます」

 

「けど、まだ硬い時あるな」

 

「……はい」

 

 即座に頷くカイエに、チャコはにししと笑う。

 

「素直でよろしい」

 

 マリも通信席から顔を上げた。

 

「生活区画側の補助、非常に助かりました。情報の粒が揃っていたので、こちらも整理しやすかったです」

 

「ありがとうございます、マリさん」

 

「ただ、後半は少し先読みが強かったな」

 

 サツキが後ろからぽつりと言う。

 

「悪くはないけど、リュウジの判断とぶつかる一歩手前まで行ってた」

 

 カイエの背筋がぴんと伸びた。

 

「……はい。自分でもそう思います」

 

 クミコは、そのやり取りを聞きながら、やっぱりすごいなと思った。

 褒められたことにも浮かれず、指摘されたことにも言い訳をしない。

 それを真正面から受け取って、次へ繋げようとする。

 

 たぶんそれは、エリンの影響もあるのだろう。

 けれど今のカイエは、もう“教わる側”から少しずつ抜け始めている。

 自分で受け止めて、自分で立て直せる人の顔になっていた。

 

 そんなカイエが、今度はクミコの方を向く。

 

「クミコ」

 

「は、はい!」

 

「二日間、お疲れ様」

 

「い、いえ……私はほとんど見ていただけで……」

 

「それでもだよ」

 

 カイエはやわらかく笑った。

 

「ちゃんと見て、ちゃんと考えてたでしょ」

 

 クミコは返事に少し詰まる。

 

「……はい」

 

「なら十分。見て考えるのも訓練だから」

 

 その一言が、昨日の夜の言葉と重なった。

 

 クミコの胸の奥が少しだけ熱くなる。

 まだ全然届かない。

 でも、二日間ここにいた意味は確かにあったのだと、少しだけ思えた。

 

 カイエはそこで一度、皆んなを見渡した。

 

「それから、明日から二日間はエマが来ます」

 

 その名に、クミコは思わず顔を上げた。

 エマ。

 ハワード財閥の旅行会社で、カイエとは別の班で副パーサーになった女性。

 クミコも何度か見たことはあるが、こうして同じ現場に入るのは初めてだ。

 

「エマ?」

 

 チャコが首を傾げる。

 

「誰やったっけ」

 

「ハワード財閥の旅行会社の副パーサーです」

 

 カイエが簡潔に説明する。

 

「私とは別班の同期みたいなものなので」

 

「なるほどな」

 

 チャコが頷く。

 

「次から次へと、エリンもよう考えるわ」

 

 クリスタルがその言葉に小さく息をついた。

 

「本当よ。あの子、来られない代わりに人だけはきっちり回してくるんだから」

 

「それだけ必死なんやろ」

 

 チャコがぽつりと言う。

 その言葉に、誰もすぐには返さなかった。

 

 エリンが今、どれだけぎりぎりの所でやっているか。

 皆んな薄々どころではなく、はっきり理解しているからだ。

 

「それじゃあ、本当に失礼します」

 

 カイエはもう一度頭を下げた。

 

「二日間、ありがとうございました」

 

 そうして彼女は、コックピットを出て行った。

 

 扉が閉まる直前、クミコの方だけを見て、小さく目で「頑張って」と伝えてくれた気がした。

 クミコは、胸の前で小さく拳を握り返した。

 

 

 それから、助っ人の顔ぶれは入れ替わっていった。

 

 クミコの代わりにマユが入り、エマと組む形で二日間。

 マユは几帳面だった。

 報告内容をその場で頭の中だけで処理するのではなく、一度自分の中で順番を整えてから言葉にする癖がある。

 それがアルテミスのサポートでは意外なほど噛み合った。

 

 エマはカイエよりも一段落ち着いた空気を持っていた。

 前へ出るより、後ろで全体を見て必要なものだけ差し出すタイプだ。

 マユはその横で、必死にその“出しすぎない補助”を学んでいた。

 

 次にエマと入れ替わる形でククルが来た。

 

 ククルはドックへ入ってきた瞬間から、場の空気を少しだけ明るくした。

 真剣なのに重くしすぎない。

 張りつめた場でも、人の呼吸を一つだけ軽くする。

 それは訓練の厳しさを緩めるものではなく、むしろ長く集中を保つための潤滑油みたいなものだった。

 

「すごいねえ、これが本物の本番想定ってやつかぁ……」

 

 と最初こそ目を丸くしていたが、いざ始まればククルは持ち前の吸収力でどんどん馴染んでいった。

 ただし――。

 

「ククル、喋りすぎ」

 

 クリスタルにそう一言で切られて、「はいっ」とぴたりと背筋を伸ばす場面が何度かあった。

 

 その次にサリーが入る。

 サリーは地味だ。

 だが、こういう長期調査想定の訓練では、その地味さが妙に強かった。

 

 目立とうとしない。

 余計なことをしない。

 でも必要な時には、必要なことだけを静かに差し込む。

 

 ククルの次にはランが来た。

 

 ランがアルテミスへ入った日は、チャコが開口一番に言った。

 

「なんや、めっちゃ静かなのおるな」

 

「ランです」

 

 ククルが笑いながら紹介すると、ランはぺこりと頭を下げた。

 

「短い間ですが、よろしくお願いします」

 

 その声はいつも通り穏やかだ。

 けれど、アルテミスの中ではその穏やかさが逆に際立って見えた。

 

 ランは、驚くほど“温度を動かさない”。

 慌てない。

 焦らない。

 必要以上に場へ影響を与えない。

 それでいて、誰の視線が今どこへ向いているかをきちんと見ている。

 

 マリが通信を捌いている時に一度だけ端末の補助表示が遅れたことがあった。

 その時ランは何も言わず、自然な手つきで紙のバックアップメモを横へ差し出していた。

 マリは一瞬だけ目を上げて、「助かる」と短く言っただけだったが、あの一瞬にランの凄みが詰まっていたように見えた。

 

 その次にミドリ、そしてハズキが入る。

 

 ミドリは慎重で、最初は少し硬かった。

 でも一つ一つ確認しながら噛み砕いていく力がある。

 ハズキは反応が素直で、驚く時も感心する時も全部顔へ出る。

 最初こそそれをクリスタルに「顔に出しすぎ」と言われたが、後半にはその素直さが“吸収の早さ”として出てきた。

 

 助っ人が変わるたび、アルテミスの空気も少しずつ変わる。

 けれど変わらないものもあった。

 

 リュウジの厳しさ。

 サツキとチャコの機器対応の鋭さ。

 マリの通信整理の正確さ。

 クリスタルの人の崩れを見る冷静さ。

 そして、どれだけ顔ぶれが変わっても、シュミレーションが積み上がっていくごとに、未探索領域の空気だけが濃くなっていくこと。

 

 出発まで、あと一週間。

 

 その頃には、宇宙管理局の訓練ドックへ入る人間の歩き方まで変わっていた。

 誰も大声では喋らない。

 無駄な動きが減る。

 ただし、沈んでいるのではない。

 皆んな、それぞれの持ち場で、自分のやるべきことだけを磨き続けていた。

 

 その一方で、どうしても目につくことが一つあった。

 

 ペルシアが、いまだにシュミレーションへ顔を出していないことだ。

 

 

 出発まで一週間を切ったその日。

 

 宇宙管理局の一角にある職員用の休憩スペースで、クリスタルの声が響いた。

 

「一体、どういうつもりなの!?」

 

 机がドン!!と大きな音を立てる。

 

 休憩スペースにいた職員が一斉に肩を震わせた。

 通りがかった若い局員などは、持っていた書類を危うく落としそうになっている。

 

 だが、その中心で当の本人は涼しい顔だった。

 

 唖然とした周囲をよそに、ペルシアはカウンター席でラーメンを啜っていた。

 しかも、驚きすらほとんどない。

 湯気の立つ丼を片手で押さえながら、のんびりと麺をすすっている。

 

「何怒ってるのよ」

 

 もぐもぐと咀嚼しながら、ペルシアが言う。

 

 その態度に、クリスタルのこめかみがぴくりと引きつった。

 

「怒るわよ!」

 

 クリスタルは机へ両手をついたまま、身を乗り出した。

 

「一体、いつまでシュミレーションに参加しないつもりなのよ!」

 

「仕方ないでしょ」

 

 ペルシアはちっとも悪びれない。

 

「ローズに色々教えてるんだから」

 

「それは聞いてる!」

 

 クリスタルの声がさらに上がる。

 

「でも、もう一週間切ってるのよ!?」

 

 その一言に、休憩スペースの空気が少しだけ凍った。

 “あと一週間”という現実が、改めて音になるとやはり重い。

 

 ペルシアはようやく麺を飲み込み、箸を置いた。

 それでも表情には余裕がある。

 

「分かってるって」

 

「分かってるように見えないのよ!」

 

「それに私なら三日もあれば十分でしょ」

 

 さらりと言う。

 あまりにも、さらりと言う。

 

 クリスタルは目を見開いた。

 

「あなたね……」

 

 そして、呆れ半分、怒り半分の声で言い放つ。

 

「前に“宇宙舐めるな”って言ってなかったかしら?」

 

 その言葉に、周囲で聞き耳を立てていた局員が内心で「確かに」と思った空気があった。

 だが、ペルシアは一切ひるまない。

 

「舐めてないわよ」

 

 即答だった。

 

「事実を言ってるだけ」

 

「事実、ねぇ……」

 

 クリスタルは深く息を吸った。

 本気で怒っている。

 けれどそれ以上に、苛立ちの根っこにあるのは不安だった。

 

 ペルシアが来れば、確実に場は締まる。

 それはクリスタルも分かっている。

 むしろ、来ないことで今のシュミレーションが“どこか足りない”ことも分かっていた。

 

 リュウジ達は高いレベルで回している。

 助っ人の乗務員たちも想像以上に健闘している。

 だが、本番へ持っていくには、最後の一段を詰めなければならない。

 その“最後の一段”に、ペルシアがいるはずなのだ。

 

「それに、リュウジは何か言ってるの?」

 

 ペルシアが再びラーメンを啜りながら聞く。

 

「……特には」

 

 クリスタルが少しだけ苦い顔をする。

 

「今のままでいいって」

 

「なら、いいじゃない」

 

 ずぞ、と音を立ててペルシアが麺をすする。

 

 その呑気さに、クリスタルは本気で頭を抱えたくなった。

 

「よくないわよ」

 

「いいのよ」

 

「よくない!」

 

 ぴしゃりと言い返す。

 

 ペルシアはようやく丼から顔を上げた。

 その目には、いつもの軽さの奥に、わずかな真剣さがある。

 

「クリスタル」

 

「なによ」

 

「焦ってるでしょ」

 

 その一言で、クリスタルは少しだけ言葉を詰まらせた。

 

 図星だった。

 

 焦っている。

 当たり前だ。

 出発まで一週間。

 現場は回っている。

 回っているが、まだ“回っている”の域を出ていない。

 本番はそんな生易しいものじゃない。

 だからこそ、最後にペルシアが必要だとクリスタルは思っている。

 

「焦るわよ」

 

 クリスタルは正面から認めた。

 

「今のままでも高いのは分かってる。でも高いだけじゃ駄目でしょ。崩れないところまで持っていかなきゃ」

 

 ペルシアはその言葉を静かに聞いていた。

 ふざけて遮ることもなく、茶化すこともない。

 

「……うん」

 

 短く、相槌を打つ。

 

「分かってる」

 

 その声だけは、さっきまでとは違っていた。

 

「だったら!」

 

「だから助っ人送ってるでしょ」

 

 ペルシアが丼を置いて、ようやくクリスタルの方へ完全に身体を向けた。

 

「エリンが動いてくれてる。スペースホープやハワード財閥の子たちも順に入れてる。無駄にしてないわよ」

 

「それは助かってる」

 

 クリスタルは即座に認める。

 

「本当に助かってる。でも、それとこれとは別よ。あなた自身が入るのとは意味が違う」

 

 ペルシアはそこで少しだけ笑った。

 

「買いかぶりすぎ」

 

「買いかぶってない」

 

 クリスタルはきっぱり言う。

 

「あなたが入ると、あの空気は変わる」

 

 休憩スペースが一瞬、静まる。

 

 誰も口を挟まなかった。

 それは冗談ではなく、事実として皆が理解しているからだ。

 

 ペルシアはその沈黙の中で、視線を少しだけ落とした。

 湯気の消えかけたラーメンの表面を見つめる。

 

「……変えるつもりはあるわよ」

 

 ぽつりと、そう言った。

 

「だったら!」

 

「でも今は、ローズを中途半端なまま放り出せないの」

 

 その言い方には、珍しく迷いがなかった。

 

「統括官席を預ける以上、最低限じゃ駄目。私がいなくても回るところまで持っていかないと意味がない」

 

 クリスタルは口を閉じた。

 

 そこは否定出来ない。

 ローズに何を背負わせているかを思えば、ペルシアの言い分も正しいのだ。

 

 ペルシアは少し肩をすくめる。

 

「二つ同時に完璧には出来ないわよ。だから順番にやってるだけ」

 

「……」

 

「こっちが片付いたら、ちゃんと行く」

 

「三日で?」

 

「三日で」

 

 またそれを言う。

 クリスタルは深く、深く息を吐いた。

 

「本当に大丈夫かしら……」

 

 心底そう思った。

 不安は消えない。

 けれど、これ以上ここで言い合っても答えは変わらないことも分かっている。

 

 そんなクリスタルへ向かって、ペルシアは少しだけ口元を上げた。

 

「それから」

 

「まだあるの?」

 

「あるわよ」

 

 ペルシアは箸を置き、軽く指を立てた。

 

「今日からミラとクミコが助っ人で来るからよろしく」

 

 クリスタルが目を瞬く。

 

「ミラとクミコ?」

 

「そう。ミラは現場の空気を読むのが上手いし、クミコは今のアルテミスを見て、ちゃんと悔しがれる子だから」

 

「……そこを基準にしてるの?」

 

「大事よ、悔しがれるかどうかは」

 

 ペルシアはさらっと言う。

 

「悔しがれない子は伸びないもの」

 

 クリスタルは、思わず小さく鼻で笑った。

 

「あなた、そういうところは昔から一貫してるわね」

 

「でしょ?」

 

 そこでようやく、ほんの少しだけいつもの調子が戻る。

 

 クリスタルはもう一度、大きく息を吐いた。

 怒りはまだ完全には消えていない。

 不安も消えていない。

 でも、ここで机を叩いたところで前へ進まないのも事実だった。

 

「……分かったわよ」

 

 そう言ってから、最後にじろりと睨む。

 

「でも、三日って言ったの、忘れないで」

 

「忘れないわよ」

 

「絶対よ」

 

「しつこいわね」

 

「しつこく言わないと、あなたは本当に三日でどうにか出来ると思ってる顔してるからよ」

 

 ペルシアは吹き出した。

 

「それはそうでしょ。出来るし」

 

「もう!」

 

 クリスタルがまた机を叩きかけて、ぐっと堪える。

 その様子に、周囲の局員がひそかに安堵した。

 

 ひとまず、大爆発は収まったらしい。

 

 ペルシアは、少し冷めたラーメンを啜り直しながら、心の中で静かに計算していた。

 三日。

 本当に三日で足りるかどうか。

 ぎりぎりだ。

 でも、ぎりぎりなら、やるしかない。

 

 そしてその前に――今日来るミラとクミコが、どこまであの場に食い込めるか。

 それもまた、一つの鍵になると分かっていた。

 

 クリスタルはそんなペルシアの横顔を見ながら、最後にもう一度だけ思った。

 

(本当に大丈夫かしら……)

 

 でも、その問いに答えが出るのは、もう少し先のことだった。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 ミラとクミコがコックピットコンディションの補助としてアルテミスに入った。

 

 スペースホープの中でエリンの下についていた二人なら、少なくともコックピット側が何を嫌がり、何を必要とするのか、その輪郭だけは分かっている。

 もちろん、それだけでラ・スペランツァの中へ完全に馴染めるわけではない。

 けれど、何も知らないまま放り込まれるのとは全く違った。

 

 最初の日、アルテミスのコックピットへ入るなり、ミラは静かに息を飲んだ。

 何度か教育便や補助便でリュウジの操縦席を見たことはある。

 だが、今ここにあるのは“便”ではなく“任務”の空気だった。

 

 前方パネルを埋める航路情報。

 生活区画のログ。

 仮眠室とキッチンと食料区画の状態表示。

 マリの通信席に集まる断続的なデータ。

 サツキが開いている機関系の分解ログ。

 どれも旅客便のコックピットとは違う。

 誰かを目的地へ安全に運ぶための計器ではなく、七人しかいない船を二ヶ月近く“壊さず保つ”ための情報ばかりが並んでいた。

 

 そのコックピットの中央で、リュウジが静かに言った。

 

「今日からヘルメットを装着する」

 

 突然の一言だった。

 

 ミラとクミコは反射的に顔を上げる。

 チャコが副操縦席で耳をぴくりと動かし、サツキも後方から前を見た。

 マリは通信席で瞬きを一つする。

 クリスタルだけが、ごく小さく「そう」と呟いただけだった。

 

「本番想定の強度を上げる」

 

 リュウジが続ける。

 

「機器の不具合だけじゃない。視界制限、会話量の抑制、酸素管理の意識、長時間装着のストレスも含めて慣らす」

 

 その言葉は簡潔だった。

 だが、意味は重い。

 

 未探索領域の調査では、常にヘルメットを被ったまま行動するわけではない。

 それでも、何かが起きた時に素早く装着し、その状態で作業と判断を継続出来なければ話にならない。

 しかもアルテミスのような長期航行船では、一時的な環境不良や隔離対応を前提に動く可能性もある。

 “いつもの顔”のまま意思疎通する前提を捨てておく必要があるのだ。

 

 ミラは胸の奥で小さく息を吸った。

 なるほど、と思う。

 ただの演出ではない。

 ヘルメット一つで、視界も聞こえ方も表情の伝わり方も全部変わる。

 それはつまり、連携の組み方そのものを一段変えるということだ。

 

「ミラさん……」

 

 隣でクミコがほんの少しだけ声を潜める。

 

「うん」

 

「これ、思ったより……」

 

「うん」

 

 ミラは小さく頷いた。

 

「大変そうだね」

 

 それだけ言って、二人はそれ以上会話を続けなかった。

 今はもう、余計な言葉を重ねる時間ではない。

 

 支給されたヘルメットは、旅客機の緊急装備よりずっとしっかりした造りだった。

 軽量化されているとはいえ、頭に乗せればそれなりの重みがある。

 首の後ろへ鈍い負荷がかかり、視界は自然と狭まる。

 声も少しだけ籠る。

 顔の半分以上が覆われるため、表情の細かな変化はほとんど伝わらない。

 

 クミコは装着した瞬間、自分の呼吸音が妙に近くなった気がした。

 すう、と吸う音。

 細く吐く音。

 その繰り返しが、普段より少しだけ耳元で鳴る。

 たったそれだけなのに、落ち着かなくなる。

 

「ヘルメット装着状態で、生活区画側の補助報告は出来ますか?」

 

 マリが振り返らずに問いかける。

 

「はい」

 

 ミラがまず答えた。

 クミコもすぐに続く。

 

「はい!」

 

 返事の仕方一つまで、少し違う。

 ヘルメット越しでは声の輪郭が鈍る。

 なら、少しだけ腹から出さないといけない。

 そんな細かいことまで、訓練が始まる前から突きつけられる。

 

 リュウジは、それ以上は説明しなかった。

 

「始めるぞ」

 

 その一言だけで十分だった。

 

 

 それから三日間、アルテミスのシュミレーションは一段と厳しさを増していった。

 

 ヘルメットを装着したまま、生活区画の温度差を報告し、仮眠室の休息サイクルのずれを拾い、キッチンの稼働率と食料区画の消費偏りを前へ通す。

 それだけならまだいい。

 問題は、その最中に機器不具合や通信遅延やクルー側の緊張の波が重なることだった。

 

 ミラは、やはり強かった。

 エリンの下で長く見てきた時間があるだけに、“何を言わないか”の感覚が最初からかなり出来ている。

 乗務員として前へ出る華やかさではなく、支える位置から空気を整える術を身につけているのだと、リュウジ達の側もすぐに理解した。

 

 クミコは、必死だった。

 ただ、以前のように“必死で前へ出る”のではなく、“必死に支える”へと意識を変えようとしていた。

 それだけでも、この数週間での成長が分かる。

 

 けれど三日経っても、どうしても埋まらない違和感が残っていた。

 

 ラ・スペランツァとしての連携は高まっている。

 ミラやクミコが入ることで、生活区画側の補助も明らかに滑らかになっている。

 それでも、どこか一段、最後の噛み合いが足りない。

 

 それは誰も口にしないまま、しかし皆んなが感じていた。

 そしてその正体を、誰もが同じ一人の名前で理解していることもまた、分かっていた。

 

 ペルシア。

 

 出発まで一週間を切っているのに、まだコックピットへ姿を見せない女。

 

 クリスタルが休憩スペースで机を叩いて怒鳴ったその日の夜も、ペルシアは「三日あれば十分」と言ってのけた。

 誰も本心から安心はしていない。

 けれどリュウジは「今のままでいい」と言い、実際、そのまま三日が過ぎた。

 

 そして今日。

 

 今日はペルシアが参加する、と聞いていた。

 

 

 アルテミスのコックピットは、普段より少しだけ早い時間から人が揃っていた。

 

 サツキは機関系の最終確認。

 マリは通信席の同期データチェック。

 チャコは副操縦席で足をぶらぶらさせながら表示切り替えの確認。

 クリスタルは補助席の背に片手を置き、入口の方をちらちらと見ている。

 

 

 なのに、肝心のペルシアだけが来ない。

 

 時刻はもう、開始五分前を切っていた。

 

「ねぇ、いいの?」

 

 とうとうクリスタルが口を開いた。

 

「何がだ?」

 

 リュウジは前を向いたまま返す。

 

「ペルシアよ」

 

 クリスタルの声には、明らかな苛立ちが混じっていた。

 

「まぁ大丈夫だろ」

 

 あまりにも淡々とした返答だった。

 

「それよりシュミレーションを始めるぞ」

 

「ええんか?」

 

 チャコが副操縦席から振り向く。

 

「クミコとミラがまだやろ」

 

 それは“生活区画側補助がまだ来ていない”という意味だ。

 

 だが、リュウジは少しも表情を変えない。

 

「遅い奴が悪い」

 

 そう言って、ためらいなくヘルメットを被った。

 

 その動作につられるように、皆んながヘルメットを手に取る。

 

 チャコが「ほんまにやるんやな」と小さく呟きながら装着し、サツキも黙って被る。

 マリはゆっくりと顎紐を締め、クリスタルは苛立ちを飲み込むように一度だけ深く息を吐いてから装着した。

 ミラとクミコも慌てて被る。

 

 その時だった。

 

 コックピットの扉が、すっと開いた。

 

 入ってきたのは、すでにヘルメットを被っている一人の人物だった。

 

 歩き方に迷いがない。

 動きに無駄がない。

 そのまま静かにコックピットへ入り込んでくる。

 

「遅いわよ、ペルシア」

 

 クリスタルが呆れたように言う。

 

 だが、ペルシアは何も言わず、ただ軽く片手を上げるだけだった。

 

「まったくもう……」

 

 クリスタルが小さく呟く。

 

 普段なら何か一言返してきそうなものだが、ヘルメット越しで声を無駄に使いたくないのだろうか。

 そう思えば、まあ不自然ではない。

 

「シュミレーションを始めるぞ」

 

 今度はリュウジが告げる。

 

 その声を合図に、コックピットの照明が切り替わった。

 

 

 始まって、すぐだった。

 

 皆んなが、同じことに気づいた。

 

 落ち着く。

 

 仕事がやりやすい。

 

 ストレスを感じない。

 

 空気が、整っている。

 

 最初は、誰もその違和感を言葉に出来なかった。

 ただ、昨日までとは何かが決定的に違うのだ。

 

 視界の端にある動きが、気にならない。

 必要なものが、言葉にする前にすっと手元へ来る。

 誰かの発する情報が、前へ出る前に自然に“噛み合う形”へ整っている。

 

 サツキが機器の状態を確認しながら、一瞬だけ眉を上げる。

 マリは通信ログを捌きながら、無意識に「やりやすい」と心の中で呟いた。

 チャコは副操縦席で耳をぴくりと動かす。

 クリスタルでさえ、補助席で小さく目を細めた。

 

 原因は、すぐに分かった。

 

 ペルシアだ。

 

 ――その動きは自然だった。

 

 必要なタイミングで、必要な物だけを差し出す。

 それも、目立たない位置から。

 気を散らさない位置取りで。

 誰かの視線が前へ固定されたままでも、邪魔にならない角度で。

 しかも、先読みしたかのように、次に要るものが既にそこにある。

 

 サツキが後方で機器不具合への対応を始めれば、その横には交換ログの簡易整理板が置かれている。

 マリが通信遅延への再整理に入れば、彼女が一瞬だけ必要とするバックアップ記録が、自然に手元へ滑ってくる。

 クリスタルが副操縦席へ寄れば、その時点で必要なクルーコンディションの短縮メモが差し込まれる。

 チャコが補助制御へ手を伸ばせば、邪魔にならない位置で器具の接続状態が既に整えられている。

 

 それら全部が、派手ではない。

 むしろ、派手さとは正反対だった。

 

 “動いている”ように見えない。

 なのに、明らかに楽なのだ。

 

 今までのシュミレーションで積み上げてきた連携が、まるで“ただ繋がっていただけ”だったのではないかと錯覚するほどだった。

 実際にはそんなことはない。

 これまでの積み重ねがあったからこそ、この変化が分かるのだ。

 だが、それでも衝撃は大きかった。

 

 ペルシアは、終始ほとんど言葉を発しなかった。

 必要以上の会話をしない。

 ただ位置を変え、ものを置き、気配を消し、必要な時だけ手を伸ばす。

 

 まるで、船の中へ“余白”が一つ増えたみたいだった。

 

 その結果、コックピットは驚くほど滑らかに回った。

 

 リュウジの判断はさらに速くなる。

 チャコの副操縦も、余計な苛立ちなく噛み合う。

 サツキの機器対応は一段深く入り、マリの通信整理は滞りがない。

 クリスタルは人の崩れを読むことに集中出来る。

 

 これが、本物。

 

 シュミレーションは、そのまま高い密度を保ったまま最後まで流れきった。

 

 

 終了の合図が鳴った時、誰もすぐには動かなかった。

 

 照明が通常に戻る。

 前方の外部映像が静止し、各表示が待機状態へ落ちる。

 ヘルメットの中にこもっていた自分の呼吸音が、やけに大きく感じられた。

 

 最初に口を開いたのはサツキだった。

 

「凄かったです、ペルシアさん!」

 

 声に混じる興奮が隠しきれていない。

 

 続いて、マリが静かに言う。

 

「流石ですね」

 

 チャコは副操縦席から振り返り、感心したように耳を揺らした。

 

「見事なもんやな」

 

 クリスタルも、補助席で腕を組みながら小さく息を吐く。

 

「本当に三日で仕上げてきたのね」

 

 ペルシアは、何も言わなかった。

 

 ヘルメット越しに、ただ静かに立っている。

 それがまた、らしいと言えばらしい。

 

 クリスタルが少し呆れたように言う。

 

「ヘルメットぐらい取ったら?」

 

 その言葉に、ようやくその人物がゆっくりと手を動かした。

 

 ヘルメットの固定を外す。

 動作に無駄がない。

 ゆっくりと持ち上げる。

 

 皆んなの視線が、自然とそこへ集まった。

 

 そして、ヘルメットが外される。

 

 最初に見えたのは、整った額と髪。

 次に、すっと通った鼻筋。

 そして、柔らかく可憐な笑み。

 

 その顔を見た瞬間。

 

 コックピットの全員が、息を呑んだ。

 

 チャコの耳がぴんと立ち、サツキは完全に固まった。

 マリですら、珍しくはっきりと動揺を顔に出した。

 クリスタルだけは、一瞬遅れて目を見開き、それから言葉を失う。

 

 そこにいたのは――。

 

 ペルシアではなかった。

 

 可憐な笑みを浮かべてヘルメットを抱えているその人物は、エリンだった。

 

 静寂が落ちる。

 

 誰も、すぐには何も言えない。

 だって、そうだろう。

 出向中のスペースホープに残り、未探索領域の調査には来られないはずだったチーフパーサーが、何故ここにいるのか。

 

 それも、ペルシアと思わせるようにヘルメットを被って、最初から最後までコックピットコンディションの中核を回していたのだ。

 

 チャコが「なんやて!?」と飛び上がり、サツキが「ちょ、えっ、え!?」と珍しく言葉を乱す。

 マリは口元へ手を当て「エリンさん……!?」と声を震わせた。

 クリスタルに至っては、数秒遅れてようやく叫んだ。

 

「ちょっと待ちなさいよ!!」

 

 エリンはそんな皆んなの反応を見ながら、少しだけ困ったように、でも嬉しそうに笑っていた。

 

 その笑みが、あまりにもいつものエリンで。

 

 だからこそ、驚きはさらに大きかった。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 エリンがアルテミスのコックピットでゆっくりとヘルメットを外している、その頃。

 

 宇宙管理局のドック区画から少し離れた観測室では、別の静寂が流れていた。

 

 広くはない部屋だ。

 壁一面に設置されたモニターが、アルテミスのコックピット内部をいくつもの角度から映し出している。

 正面からの広い映像。

 副操縦席の手元が見える斜めの画。

 後方補助席の動きが分かる天井寄りの視点。

 それから、機関席と通信席の表情を拾う細いカメラ。

 

 その全部を、ミラとクミコは食い入るように見つめていた。

 

 そして、その二人の少し後ろ、椅子へ気怠げに身体を預けていたのは、ペルシアだった。

 

 頬の色はほんの少し薄いし、長く座っている時の身体の預け方にも、完全には戻りきっていない疲れが残っている。

 それでもペルシアは、足を組み、片肘を肘掛けへ乗せ、口元に笑みを浮かべながら画面を見ていた。

 

 まるで、すべて最初から分かっていたみたいに。

 

 ミラもクミコも、言葉が出なかった。

 

 モニターの中で、ヘルメットを外した人物。

 可憐な笑み。

 皆んなの驚愕。

 そこへいたのが、ペルシアではなくエリンだったという事実。

 

 頭では理解している。

 でも、理解と感情が追いついていない。

 

 ミラは、唇を少し開いたままモニターを見ていた。

 クミコは両膝の上でぎゅっと拳を握っている。

 驚きで肩がこわばっているのが、自分でも分かるくらいだった。

 

「どうだった?」

 

 そんな二人へ向かって、ペルシアがのんびりとした声で言った。

 

 軽い調子だった。

 けれど、その声音には、ほんの少しだけ“答えは分かってるけどね”という響きも混じっている。

 

 ミラは、ようやくそこで我に返ったように瞬きをした。

 

「……どう、って」

 

 声が少し掠れていた。

 クミコも、口を開いたものの、すぐには続かない。

 

 結局、先に言葉を拾えたのはクミコだった。

 

「……凄かった、です」

 

 それは、あまりにも単純な言葉だった。

 けれど、それ以外に出てこなかった。

 

「うん」

 

 ミラも小さく頷く。

 

「本当に……凄かったです」

 

 ペルシアは、それを聞いて満足そうに口元を緩めた。

 

「でしょ?」

 

 その言い方が少し誇らしげで、少しだけ可笑しい。

 エリン自身がここにいるわけでもないのに、まるで自分が褒められたみたいな顔をしている。

 

 でも、ミラにはそれが不思議と嫌じゃなかった。

 むしろ、少しだけ納得してしまう。

 

 エリンの凄さを、こうして“見せた”のは、きっとペルシアでもあるのだろう。

 

 クミコはまだ画面から目を離せなかった。

 モニターの中では、クリスタルが何か言っている。

 チャコが耳をぴんと立てて飛び跳ねている。

 マリは完全に固まり、サツキですら珍しくあからさまに目を見開いていた。

 

 それほどの衝撃だった。

 

「私……」

 

 クミコがぽつりと呟く。

 

「シュミレーションが、初めて回ってるように見えました」

 

 その言葉に、ペルシアの視線が少しだけやわらかくなった。

 

「うん」

 

 静かに頷く。

 

「それ、正しいわよ」

 

 ミラが、そこでようやくペルシアの方を見た。

 

「正しい……?」

 

「そう」

 

 ペルシアは椅子の背にもたれたまま、足を組み直す。

 

「今までだって回ってたのよ。皆んな頑張ってたし、ちゃんと積み上がってた。リュウジ達も、助っ人で来た子達も、全部無駄じゃない」

 

 そこまではっきり言ってから、少しだけ間を置く。

 

「でもね、“繋がってる”のと“回ってる”のは別なの」

 

 その一言に、ミラもクミコも黙る。

 

 ペルシアは、そういうところだけは妙に分かりやすい言葉を選ぶ。

 軽そうに見えて、核心だけは真っ直ぐ刺してくるのだ。

 

「今までのシュミレーションは、皆んながちゃんと役割を持って繋がってた。でもエリンが入った瞬間、あの船の中に“無駄な摩擦”が消えたでしょ?」

 

 ミラは、ゆっくりと息を吸った。

 

「……はい」

 

「うん」

 

 クミコも頷く。

 

 まさにその通りだった。

 誰かの動きが邪魔にならない。

 必要なものが必要な場所へ自然にある。

 視線が散らない。

 言葉が少なくて済む。

 自分の仕事以外の小さな引っかかりが消えていく。

 

「それが“回る”ってことよ」

 

 ペルシアは言う。

 

「エリンはね、皆んなが自分の仕事をするための空気を整えるのが、とんでもなく上手いの」

 

 クミコの胸が、どくりと鳴る。

 

 それは、さっき目の前で見たことだ。

 でも、見ただけではまだ言葉に出来なかった。

 ペルシアはそれを、あっさりと言葉にしてしまう。

 

「旅客便でもそう。調査船でもそう。あの子は、乗客が快適に過ごせる空気を作るだけじゃなくて、クルーが余計なストレスなく働ける空気も作れる」

 

「……」

 

「しかも、自分がやったように見せない」

 

 そこでペルシアは少しだけ笑った。

 

「だから厄介なのよね。凄いことやってるくせに、本人は“別に普通だけど?”みたいな顔するから」

 

 ミラは、その言い方に思わず小さく笑ってしまった。

 

「言いそうです」

 

「でしょ?」

 

 ペルシアも笑う。

 

 その笑いの中に、長い付き合いの温度がある。

 ミラとクミコはそこへ少しだけ見入った。

 

 ペルシアは、あらためてモニターの中のエリンを見る。

 ヘルメットを外し、驚く皆んなを前に、少し困ったように、それでも嬉しそうに笑っている。

 あの顔だ。

 あの、全部を背負ってもまだ誰かを安心させようとする顔。

 

「エリンはね」

 

 ペルシアが、今度は少しだけ声音を落とした。

 

「きっと二人に見せたかったのよ」

 

 ミラとクミコが、同時にペルシアを見る。

 

「私達に……ですか?」

 

 ミラが尋ねる。

 ペルシアは頷いた。

 

「そう」

 

「どうして……」

 

 クミコの声は、小さかった。

 自分達なんかに、と思っているのがそのまま出ていた。

 

 ペルシアはその反応に、ほんの少しだけ目を細める。

 

「逆に聞くけど、見せる意味があるからでしょ」

 

 軽い言い方だったが、その中身は重い。

 

「ミラ、あなたには“上に立つ人間がどう空気を作るか”を見せたかった。クミコ、あなたには“支えるって何か”を見せたかった」

 

 クミコは息を止めた。

 

「支えるって……」

 

「そうよ」

 

 ペルシアは当然みたいに言う。

 

「あなた、最近ようやく、“前に出る”だけが上じゃないって分かってきたところでしょ」

 

「……」

 

 図星だった。

 だから何も言い返せない。

 

 ペルシアは続ける。

 

「副パーサーとかチーフパーサーって聞くと、皆んなすぐ“指示を出す人”とか“前に立つ人”って思うの。でも実際は違う。上に立つ人間ほど、前に出る回数は減るのよ」

 

 その言葉に、ミラも静かに目を伏せた。

 それは、今まさに自分が痛感していることでもあったからだ。

 

「エリンは、それを見せたかったの」

 

 ペルシアの声は穏やかだった。

 

「上に立つってどういうことか。空気を整えるってどういうことか。誰かが仕事をしやすくなるって、どういうことか」

 

 クミコは、モニターの中のエリンを見つめたまま、小さく唇を噛んだ。

 

 そうなのかもしれない。

 いや、きっとそうなのだろう。

 

 今日、自分達がこの部屋で見ていたこと。

 どうしてコックピットの中に入れてもらえなかったのか。

 どうして“見ていて”だったのか。

 

 全部、ここへ繋がる。

 

 ミラがそっと口を開く。

 

「でも……すごく大変だったんじゃないですか?」

 

「そりゃそうよ」

 

 ペルシアは肩をすくめた。

 

「苦労したのよ。シュミレーションに貴方達を参加させるように根回しするの」

 

 その言い方が、いかにもペルシアらしい。

 愚痴っぽく言いながら、どこか楽しそうでもある。

 

「えっ……」

 

 クミコが目を丸くする。

 

「根回し、ですか?」

 

「そうよ」

 

 ペルシアは当然のように頷いた。

 

「ラ・スペランツァの本番想定シュミレーションに、外部の乗務員を入れるなんて簡単に通る話じゃないんだから」

 

 ミラも思わず息を呑んだ。

 それは、言われてみればその通りだ。

 ここはただの訓練ではない。

 未探索領域調査の、ほとんど本番みたいなものだ。

 そこへ、今はまだ直接の正式メンバーでもない自分達を入れる。

 それがどれだけ異例かは、少し考えれば分かる。

 

「誰に、話したんですか?」

 

 ミラが静かに問う。

 

「誰にって、色々よ」

 

 ペルシアは指を折るような仕草をした。

 

「宇宙管理局側の運用にも筋通して、役員や宇宙蓮舫に、エリンにも“本気で寄越すなら中途半端な子は駄目”って釘刺して」

 

 さらっと言っているが、内容は全然さらっとしていない。

 ミラとクミコは、思わず顔を見合わせた。

 

「……そんなに」

 

「そんなによ」

 

 ペルシアは笑う。

 

「しかも、出向中の子をどのタイミングで何日動かせるかっていう調整もあるしね。エリン一人じゃ無理。だからカイエやエマやククルも来てらったの」

 

 クミコは、そこでやっと実感した。

 自分達がこの場へ来られているのは、たまたまでも好意だけでもない。

 たくさんの人が、色んな場所で、少しずつ無理をして繋いでくれた結果なのだ。

 

「どうして、そこまで……」

 

 クミコは、ぽつりと呟いた。

 

 自分でも分かっていない質問だった。

 どうしてそこまでして、自分達をこの場へ入れたのか。

 どうしてそこまでして、エリンの代わりに“見せる”ことを選んだのか。

 

 ペルシアは、その問いに少しだけ目を細める。

 

「簡単よ」

 

「……」

 

「必要だから」

 

 それだけだった。

 

 でも、その一言は重かった。

 

「エリンがいない。でもエリンがいないまま終わらせる気もない。なら、エリンが今持ってるものを、少しでも次に繋ぐしかないでしょ」

 

 ミラの胸の奥が、きゅっと締まる。

 

 エリンは今、スペースホープにいる。

 出向中で、責任を抱えて、未探索領域には本来来られないはずだった。

 それでも、こうして一瞬だけでもこの場へ現れて、自分達に“見せた”。

 

 そしてペルシアは、それを通すために根回しをした。

 

 そこまでして、次へ渡したかったのだ。

 

「貴方達には、見ておいてほしかったのよ」

 

 ペルシアが、今度ははっきりとそう言った。

 

「リュウジ達がどんなレベルで動いてるか。エリンが何をしてるのか。支えるって何なのか。全部」

 

 クミコは、目が熱くなるのを感じた。

 

 嬉しいのか。

 悔しいのか。

 ありがたいのか。

 自分でもよく分からない。

 

 ただ一つ分かるのは、今日見たものを、このまま“凄かった”だけで終わらせてはいけないということだった。

 

「……私」

 

 クミコが声を絞り出す。

 

「悔しかったです」

 

「うん」

 

 ペルシアは、あっさり頷いた。

 

「でも、それでいい」

 

「よくないです」

 

 クミコは珍しく、少しだけ強く言った。

 

「だって、全然届かないって思いました。自分がやってきたことなんて、まだ全然足りないって……」

 

 声が震えていた。

 でも、止めたくなかった。

 

「クミコ」

 

 ミラが、隣から小さく名前を呼ぶ。

 落ち着かせようとしたのではない。

 ただ、ちゃんと聞いているよと伝えるみたいに。

 

 ペルシアは、クミコの言葉を遮らず、最後まで聞いてから言った。

 

「届かないって思えたなら、今日は大成功じゃない」

 

「……え?」

 

「本気で言ってるのよ」

 

 ペルシアの口調から、いつもの軽さが少しだけ抜ける。

 

「届かないって分かるの、すごく大事なの」

 

「……」

 

「だって、届くと思って勘違いしたまま上へ行く子が一番危ないもの」

 

 その一言に、クミコははっとした。

 

 少し前の自分を思い出す。

 副パーサーになりたい。

 早く上へ行きたい。

 その気持ちだけが先に走って、何を背負うのかをちゃんと分かっていなかった自分。

 

「今のあなたは、届かないって分かったでしょ」

 

 ペルシアは続ける。

 

「じゃあ、後は届くように一歩ずつ積めばいいだけよ」

 

 ミラは、その言葉を聞きながら静かに息を吐いた。

 

 ペルシアは、本当に不思議な人だと思う。

 乱暴なようでいて、ちゃんと人の進み方を見ている。

 優しいようでいて、甘やかさない。

 だからこそ、エリンとあれだけ噛み合うのだろう。

 

「ミラ」

 

 今度は、ペルシアがミラの方を見る。

 

「はい」

 

「あなたはどうだった?」

 

 その問いに、ミラは少しだけ考えた。

 そして、ゆっくり言う。

 

「……怖かったです」

 

「うん」

 

「でも、それ以上に、安心しました」

 

 ペルシアが少しだけ目を細める。

 

「安心?」

 

「はい」

 

 ミラはモニターの中のエリンを見つめたまま続ける。

 

「エリンさん、やっぱり凄いんだなって、改めて思いました」

 

 自分が言うと少し変だな、とミラは心の中で思った。

 そんなこと、最初から知っていたはずなのに。

 でも、知っていたことと、今日みたいに“突きつけられる”ことは違う。

 

「それと」

 

 ミラは少しだけ笑う。

 

「エリンさん、やっぱりエリンさんなんだなって思いました」

 

 その言い方に、ペルシアが吹き出した。

 

「なにそれ」

 

「上手く言えないですけど……」

 

 ミラも少し照れくさそうに笑う。

 

「どこにいても、何してても、あの人なんですよね」

 

「そうね」

 

 ペルシアが頷く。

 

「それはそう」

 

 三人の間に、少しだけ柔らかい空気が流れた。

 

 モニターの中では、まだコックピットの驚きが続いている。

 クリスタルが何か言っていて、チャコが飛び跳ねている。

 マリは口元へ手を当てたまま固まり、サツキは珍しく目を丸くしていた。

 

 その様子を見ながら、ペルシアはふっと笑う。

 

「ま、あの反応は見ものよね」

 

「そうですね……」

 

 ミラが苦笑する。

 クミコも、ようやく少しだけ笑えた。

 

「クリスタルさん、本気で怒ってそうでした」

 

「怒ってるわよ。絶対」

 

 ペルシアが即答する。

 

「でも、それも計算のうち」

 

「計算なんですか?」

 

「そりゃそうでしょ」

 

 ペルシアは肩をすくめる。

 

「びっくりさせるなら、中途半端にする意味ないもの」

 

 その言い方に、またミラとクミコは顔を見合わせた。

 エリンもペルシアも、本当に容赦がない。

 でも、そういうところがあるからこそ、人の記憶に深く残るのだろう。

 

 クミコは、膝の上でそっと拳を握る。

 

 今日見たもの。

 今日感じた距離。

 今日知った“支える”の意味。

 それら全部を、絶対に忘れたくないと思った。

 

 そしてペルシアは、そんな二人を見て、少しだけ満足そうに目を細めた。

 

「さ、感動するのはいいけど、ぼーっとしてる暇はないわよ」

 

 いつもの調子が戻る。

 

「今日見たもの、ちゃんと整理しなさい。エリンがわざわざ見せた意味、無駄にしたら承知しないから」

 

「はい!」

 

 クミコがすぐに返事をする。

 ミラも「はい」と静かに頷いた。

 

 ペルシアはその返事に満足したように笑った。

 

「よろしい」

 

 そう言ってから、再びモニターへ視線を戻す。

 

 エリンは、ようやくコックピットの中で何かを話し始めたようだった。

 その姿を見ながら、ペルシアは心の中で小さく呟く。

 

(これで、少しは繋がったかしらね)

 

 エリンが抱えているもの。

 自分が引き受けているもの。

 リュウジ達が守ろうとしているもの。

 全部を、誰かへ少しずつ渡していく。

 

 それはきっと、一度で終わる話じゃない。

 でも今日、ミラとクミコは確かに見た。

 見て、悔しがって、息を呑んで、それでも前を向こうとしている。

 

 だったら十分だと、ペルシアは思った。

 

 少なくとも、今日ここへ二人を連れてきた意味は、ちゃんとあったのだから。

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