サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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参戦

 ヘルメットを外したその人物がエリンだと分かった瞬間、訓練用のコックピットは完全に静まり返った。

 

 誰もすぐには声を出せない。

 驚きというものは、あまりに大きいと、一度きれいに音を奪っていくのだと分かるような沈黙だった。

 

 チャコの耳はぴんと立ったまま固まっている。

 サツキは珍しく口を少し開けたまま言葉を失っていた。

 マリは片手を口元へ当てたまま瞬きすら忘れたようにエリンを見つめている。

 クリスタルだけは、数秒遅れて強く息を吸った。

 

「……ちょっと待ちなさいよ!」

 

 ようやく絞り出した声は、怒鳴るというより、現実へ追いつこうとする声だった。

 

 エリンは、そんな皆の反応を前に、少しだけ困ったように、それでも柔らかく笑った。

 ヘルメットを片手で抱え、もう片方の手で軽く前髪を整える。

 その仕草までいつものエリンで、だからこそ余計に信じられなかった。

 

「遅くなってごめんね」

 

 その一言が、ようやく空気を動かした。

 

「遅くなってって、そういう問題ちゃうやろ!」

 

 最初に大きく反応したのはチャコだった。

 副操縦席から身を乗り出し、耳をばたばたさせる。

 

「なんでエリンがおるん!?」

 

「そうですよ!」

 

 サツキまで珍しく勢いよく声を上げる。

 

「どうしてって……え、本当にどうしてですか!?」

 

 マリも、驚きを抑えきれないまま口を開いた。

 

「エリンさん……スペースホープにいるはずでは……」

 

 クリスタルは、そこでようやく腕を組み直した。

 驚きはまだ消えていない。

 でも、今は問いを整理しようとしている顔だ。

 

「本当に何してるのよ」

 

 エリンはその全部の視線を受け止めてから、静かに言った。

 

「私も、未探索領域の調査に参加する」

 

 短い言葉だった。

 けれど、その一言の重さは、この場の誰もがすぐに理解した。

 

 チャコの耳がぴたりと止まる。

 サツキは息を呑み、マリは目を見開いたまま固まった。

 クリスタルだけが、ほんの少しだけ目を細めた。

 

 その顔は、“やっぱりそういうことだったのね”と、“本当に通したの”が半分ずつ混ざっている。

 

「……どうして」

 

 マリがぽつりと呟いた。

 

 それは問いというより、胸の奥からこぼれた言葉だった。

 どうして。

 どうやって。

 何をどうひっくり返して、ここへ来たのか。

 

 エリンは、ヘルメットをそっと近くの台へ置いた。

 その動きは静かで、少しも慌てていない。

 ここにいることを決めるまで、どれだけ考えて、どれだけ整理してきたのかが、その落ち着きだけで分かる気がした。

 

「長くなるよ?」

 

 そう言って、ほんの少しだけ苦笑する。

 

「聞くわよ、当然」

 

 クリスタルがすぐに返した。

 その声音には、まだ呆れも苛立ちも残っている。

 でも、それ以上に知りたい気持ちが勝っていた。

 

 エリンは一度だけ、小さく息を吸った。

 

 病室の白い天井。

 閉じられた本。

 半分冷めた水。

 ペルシアの少し青い顔。

 あの時の空気が、ふっと脳裏へ蘇る。

 

 

 白い病室の中で、ペルシアはベッドの上から身を乗り出し、エリンの耳元へ口を寄せた。

 

 その表情は、入院していた人間とは思えないほど真剣で、悪戯を仕掛ける時みたいな軽さは一切なかった。

 

 そして、ほんの短く囁いたのだ。

 

「エリンが参加する間、私がスペースホープのチーフパーサーをやるから、エリンは調査に参加して」

 

 その瞬間、エリンの目が大きく見開かれた。

 

「本気なの?」

 

 呟いた声は、驚きと戸惑いが半分ずつ混ざっていた。

 ありえない、というほどではない。

 でも、そんなことを本当に言い出すとは思っていなかった。

 そういう揺れ方だった。

 

「本気」

 

 ペルシアは即答した。

 少しも揺れない。

 倒れて寝込んでいた人間とは思えないほど、まっすぐな目だった。

 

 エリンは、しばらく何も言えなかった。

 

 その提案は、きっと自分の頭の中に一度も浮かばなかったわけではない。

 だが、“自分の中で浮かぶこと”と、“それを本当に現実の案として口にされること”は全く違う。

 

 筋。

 責任。

 スペースホープ。

 ラ・スペランツァ。

 ハワード財閥。

 宇宙管理局。

 色々なものが、一気に頭の中でぶつかり合っていく。

 その混乱は、エリンの表情を見れば分かるほどだった。

 

「だけど私一人の判断で……」

 

 エリンが小さく言う。

 

 その言葉は、まさにエリンの本質だった。

 自分がどうしたいかの前に、“自分一人で決めていい話じゃない”と考える。

 正しい。

 すごく正しい。

 だからこそ、ここまで来るのにこんなにも回り道をしている。

 

「お願い、エリン」

 

 ペルシアが言う。

 それは、彼女にしては珍しく、冗談もからかいも削ぎ落としたまっすぐな懇願だった。

 

 エリンは一つ息を飲み、ペルシアの目をじっと見た。

 そこにあるものが、一時の思いつきではないことを確かめるように。

 

 やがて、ゆっくりと息を吐く。

 

「分かった……」

 

 小さいが、はっきりした声だった。

 

 その返事を聞いた瞬間、ペルシアの口元がぱっと緩む。

 

「流石エリン」

 

「まだ何もしてないわよ」

 

 エリンがすぐに釘を刺す。

 だがその声には、さっきまでの固さが少しだけ溶けていた。

 

「出来る事はやってみる」

 

 その一言は簡単に聞こえて、とても重い。

 エリンが“やってみる”と言う時は、本当にやる時だ。

 筋も、立場も、周りの事情も全部整理したうえで、それでも前へ出る時の言葉なのだから。

 

 ペルシアはようやく胸の奥のしこりが少しだけ取れた気がした。

 倒れるまで無茶をしたのは格好悪い。

 でも、この一言を引き出せたなら、倒れた甲斐があったと思ってしまう自分もいる。

 そういうところが、たぶん自分はどうしようもなく性格が悪いのだろう。

 

「それと」

 

 その時、エリンがふっと微笑んだ。

 

「条件がある」

 

 ペルシアがきょとんとする。

 

「条件?」

 

「ええ」

 

 エリンは、そのまま穏やかな笑みを崩さなかった。

 優しいのに、有無を言わせない笑みだ。

 ペルシアは、その顔を見た瞬間に“これは碌でもない条件を出してくる顔だ”と直感した。

 

 エリンは、ベッド脇の椅子へ腰を下ろし直し、静かに続けた。

 

「私が参加するなら、スペースホープの子達をラ・スペランツァのシュミレーションに参加させること」

 

 ペルシアが、ぱちりと瞬きをする。

 

「……は?」

 

「経験を積ませたいの」

 

 エリンは、まっすぐに言った。

 

「今のあの子達は、本物の現場を知らない。そんなことは分かってる。だけど、だからって何も見せないまま置いていくのは違う」

 

 病室の空気が、そこで少し変わった。

 

 ペルシアは、最初の数秒だけ本当に驚いた。

 自分が出るための条件として、まず真っ先にそれを言うのか、と。

 

 けれど次の瞬間には、もう納得していた。

 ああ、そうだ。

 それがエリンだ。

 

「クミコもミラも、他の子達も、今のままじゃ“高い壁”が高い壁のままで終わる」

 

 エリンは続ける。

 

「でも、一度でも本物を見て、空気を知って、何が違うのかを身体で感じれば、その後の訓練の質が変わる」

 

「……」

 

「副パーサーとかチーフパーサーって、言葉だけ先に憧れても仕方ないのよ。何を背負うか、何を支えるか、見せておきたい」

 

 ペルシアは、そこでようやく小さく息を吐いた。

 

「ほんと、あんたって」

 

 呆れたような、でもどこか嬉しそうな顔で笑う。

 

「何よ」

 

「自分のことより先に、そういう条件出してくるんやなって思って」

 

「当たり前でしょ」

 

 エリンは少しだけ眉を寄せた。

 

「私が行くことでスペースホープに穴が空くのよ。その穴をただ“ペルシアが埋めるからいい”で済ませる気はない」

 

 その言い方は静かだが、芯がある。

 

「私がいない間に、あの子達に一つでも多く持ち帰らせたい。それが条件」

 

 ペルシアは、数秒だけ黙ってエリンを見つめた。

 

 なるほど、と思う。

 そりゃあこの人は、ここまで来るのに回り道をするはずだ。

 参加する、しないの二択じゃない。

 行くなら、その意味を複数の場所へ残そうとしているのだから。

 

「……分かった」

 

 今度は、ペルシアの方が頷いた。

 

「それ、通すわ」

 

「簡単じゃないわよ」

 

「分かってるって」

 

 ペルシアは肩をすくめる。

 

「だからこそ、やりがいあるんでしょ」

 

 その笑みは、病み上がりの人間のそれではなかった。

 厄介な仕事を前にした時だけ浮かべる、あの顔だ。

 

「でも、その代わり」

 

 今度はペルシアが指を一本立てた。

 

「参加させる子はこっちで選ぶからね。中途半端なの入れても意味ないし」

 

「ええ」

 

 エリンも頷く。

 

「そこは任せる」

 

「よろしい」

 

 ペルシアは、満足そうに笑った。

 

 病室の外では、遠くでカートの音がした。

 白い壁も、閉じた本も、半分冷めた水も、何も変わらない。

 それなのに、今この小さな病室の中で、確かに何かが動き始めていた。

 

 

 エリンは、そこまでを静かに話し終えて、コックピットの皆んなを見渡した。

 

 チャコが、ぽかんと口を開けたまま言う。

 

「……なるほどって言う前に、だいぶ無茶しとるやん」

 

 その言葉に、エリンは少しだけ困ったように笑った。

 

「そうかもね」

 

「そうかも、やないやろ」

 

 チャコは呆れたように耳を揺らすが、その声音にはもう先ほどの驚きだけではなく、どこか納得も混ざっていた。

 

 マリが小さく息を吐く。

 

「なるほど、それで……」

 

 皆の視線がマリへ集まる。

 

 マリは少し姿勢を正した。

 

「それで、皆んな来ていたのですね」

 

「ええ」

 

 エリンが頷く。

 

「もちろん、みんなの邪魔にならないように、シュミレーションが回る副パーサー級の子達も一緒に派遣したんだけどね」

 

 その言い方に、クリスタルが思わず小さく吹き出した。

 

「“邪魔にならないように”って、あんたね」

 

「だって本当でしょ」

 

 エリンは平然としている。

 

「あの場に入れるなら、最低限“見るだけで終わらない子”じゃないと意味がないもの」

 

 サツキがそこで「ああ……」と納得したように声を漏らした。

 

「だから人選が妙に的確だったんですね」

 

「ええ」

 

 エリンは頷いた。

 

「カイエは支え方を知り始めてる。エマは出しすぎない補助が出来る。ククルは場の呼吸を軽く出来る。ミラは空気を読む。ランは温度を動かさない」

 

 そこまで一人ずつ言ってから、少しだけ口元を和らげる。

 

「スペースホープの子達は、悔しがれるから」

 

 その一言が、ここにいた皆には十分に意味が伝わった。

 

 クリスタルが、そこでゆっくりと腕を組み直した。

 

「本当に全部、そこまで考えてたのね」

 

「考えてたわよ」

 

 エリンは静かに言う。

 

「調査に参加するって決めるなら、置いていくものにも意味を持たせたかったから」

 

 その声には、もう迷いがなかった。

 

 チャコが、ふっと鼻を鳴らす。

 

「やっぱりエリンはエリンやなあ」

 

 その言い方は呆れ半分、感心半分だ。

 けれど、そこには確かな信頼があった。

 

 サツキも小さく笑う。

 

「でも、よかったです」

 

「何が?」

 

 エリンが聞く。

 

「来てくれて」

 

 サツキは素直に答えた。

 

「やっぱり、今日のシュミレーション……全然違いました」

 

 マリも静かに頷く。

 

「はい。空気が、変わっていました」

 

 クリスタルは、その二人の言葉に続いて、少しだけ肩をすくめた。

 

「本当に悔しいけど、その通りよ」

 

 そして少しだけ、口元に笑みを浮かべる。

 

「来るなら来るで、最初から言いなさいよ」

 

「それじゃ面白くないでしょ」

 

 エリンより先に、どこかから聞こえてきそうなペルシアの台詞みたいなことをエリンが言って、チャコが「うわ、うつっとるやん」と思わず突っ込んだ。

 

 その瞬間、コックピットにようやく笑いが広がる。

 

 張りつめていた空気が、そこで初めて自然にほどけた。

 

 その中で、エリンがふとリュウジの方を見る。

 

「リュウジは気付いてたんでしょ」

 

 その一言で、皆の視線が一斉にリュウジへ向いた。

 

 機長席のリュウジは、さっきからほとんど表情を変えていない。

 驚いた様子もなければ、今の種明かしに特別大きく反応しているわけでもない。

 ただ、ずっと“そうなるだろうと思っていた”人間の落ち着きだけがそこにあった。

 

「確証はなかったですけど」

 

 リュウジが短く言う。

 

「エリンさんの意図はだいたい」

 

 その言葉に、チャコが「やっぱりか」と唸り、クリスタルは苦笑した。

 

「ほんと、この二人だけ妙に冷静なのよね」

 

「そういうもんやろ」

 

 チャコが肩をすくめる。

 

 エリンは、そんなリュウジへ向かって、少しだけ目を細めた。

 

「ありがとう」

 

 その声は、いつもより少しだけやわらかかった。

 

「貴方のおかげで、皆んな良い経験を積めたわ」

 

 リュウジはその礼に対して、すぐには答えなかった。

 ほんの少しだけ視線をずらし、それから小さく息を吐く。

 

「俺は何もしてないです」

 

「してるわよ」

 

 エリンは即座に言った。

 

「分かってて止めなかった。ちゃんと見せてくれた。十分よ」

 

 その言葉に、リュウジは少しだけ目を伏せた。

 

 止めなかった。

 確かにそうだ。

 エリンが何をしようとしているのか、完全な確証があったわけではない。

 だが、ヘルメットの中の動きと空気で、途中から“これはそういうことだろう”とは分かっていた。

 

 そして、だからこそ止めなかった。

 

「……そうかもしれないですね」

 

 リュウジがようやくそう答えると、エリンは少しだけ笑った。

 

 そのやり取りを見ながら、クリスタルは内心で“本当に面倒くさい二人ね”と思った。

 けれど、その面倒くささが嫌ではないことも、もう認めるしかない。

 

 訓練用のコックピットには、まだヘルメットの熱が残っている。

 計器の灯りも、生活区画のログも、通信の待機表示も、何も消えてはいない。

 未探索領域の調査は、まだ始まってすらいない。

 なのに、この短い時間の中で、確かに何かが一段深く噛み合った気がした。

 

 エリンが入ることで整う空気。

 それを皆が目の当たりにしたこと。

 そして、その“整う”ということが、これから先、自分達が目指すべきものとして共有されたこと。

 

 それは大きかった。

 

 クリスタルが最後に、軽く息を吐いて言う。

 

「……まあいいわ。来たなら来たで、もう容赦しないから」

 

「望むところよ」

 

 エリンが即座に返す。

 

「ほんまに大丈夫なんか、この二人」

 

 チャコが呆れたように耳を垂らすと、サツキとマリが思わず笑った。

 

 その笑いの中で、リュウジが短く告げる。

 

「休憩は終わりだ」

 

 空気が、再び引き締まる。

 

「次は本番想定のまま、エリンさん入りで回す」

 

 その一言に、全員の表情が変わった。

 

 驚きの時間は終わり。

 種明かしも終わり。

 ここから先は、本当に前へ進めるかどうかの時間だ。

 

 エリンは、もう一度ヘルメットへ手を伸ばした。

 

 その動きに迷いはない。

 そしてそれを見ながら、クリスタルもチャコもサツキもマリも、皆んな同じことを思っていた。

 

 ――ようやく、揃った。

 

 未探索領域まで、あと僅か。

 その僅かな時間で、どこまで研ぎ澄ませるか。

 ラ・スペランツァの本当の追い込みは、ここから始まるのだった。

 

 

ーーーー

 

 

 

 それからの訓練は、驚くほど滑らかに進んでいった。

 

 もちろん、楽になったわけではない。

 むしろ逆だ。

 リュウジが設定する本番想定の強度は、エリンが合流する前よりさらに一段上がっていたし、サツキとチャコが対応する機器不具合も、マリが捌く通信遅延も、クリスタルが拾うクルーの小さな揺れも、どれ一つ取っても軽いものではない。

 

 それでも、前とは決定的に違った。

 

 回る。

 

 皆んなが、そう感じていた。

 

 サツキが機器のログへ意識を集中していても、次に必要になる道具や確認表が、視線を切る前に手の届く場所へ来ている。

 チャコが副操縦席でリュウジの判断を補助しながら不具合対応へ半歩足を踏み出しても、その動きを邪魔するものがない。

 マリは通信の整理と航路データの照合へ集中できる。

 クリスタルは、目の前の対処に削られず、“次に崩れそうなもの”を見る余裕を残せる。

 そしてリュウジは、それら全てを乗せたまま、判断の速度を落とさない。

 

 コックピットにいる全員が、それぞれの仕事へ深く潜っていける。

 

 余計な引っ掛かりがない。

 誰かのために生まれるはずだった小さなストレスが、先に消されている。

 だから、皆んなが少しずつ“本来の自分の仕事”へ寄っていけるのだ。

 

 それがどれほど異常なことかを、一番よく分かっていたのは、たぶんクリスタルだった。

 

 最初の一回だけではない。

 二回目も。三回目も。

 少しずつ設定を変え、負荷のかかり方を変え、機器の癖も、仮眠室の利用状況も、生活リズムの乱れ方も変えていく。

 

 そのたびにコックピットの空気は揺れるはずだった。

 実際、前までならどこかで小さな摩擦が起きていた。

 

 なのにエリンが入ってから、その摩擦が露骨に減った。

 

 露骨に、というより――綺麗に、だ。

 

 綺麗に消えていく。

 

 目立たない。

 だから余計に恐ろしい。

 

「ほんと、何なのかしらね……」

 

 何本目かのシュミレーションが終わったあと、クリスタルは補助席でヘルメットを持ったまま、小さくそう呟いた。

 

「何がだ?」

 

 リュウジが前を向いたまま聞く。

 

「エリンよ」

 

 クリスタルは正直に答える。

 

「いたら楽なのは分かる。でも、楽っていうか、これだと……」

 

 言葉が少し詰まる。

 ちょうどその時、エリンはコックピット後方で、次のシナリオ用に使う簡易記録シートを静かに並べ替えていた。

 本人は会話へ入る様子もなく、ただ手元を整えている。

 

 クリスタルはその背中を見ながら言った。

 

「皆んなが、自分のことだけ考えていられるのよね」

 

「そうやな」

 

 チャコが副操縦席から耳を揺らす。

 

「気ぃ散らん。ウチ、さっき一回も余計なこと考えてへんかったわ」

 

「私は逆に、余計なことを考える余裕が出てきました」

 

 マリが通信席で淡々と言う。

 

「良い意味で、です。次の遅延を先に見られる」

 

 サツキも後方で頷く。

 

「私は単純に作業の順番が見やすいです」

 

 そこで、前方の表示を閉じたリュウジが一つだけ息を吐いた。

 

「だから必要なんだろ」

 

 短い。

 でも、その一言で十分だった。

 

 必要。

 そうだ。

 エリンが何をしているのかを言葉で全部説明しきれなくても、“必要”という一語で大半が片付いてしまう。

 

 エリンは、そこでようやく振り返った。

 

「何か言った?」

 

「別に」

 

 クリスタルが即答する。

 

「聞こえてるわよ」

 

「だったら聞かないで」

 

 そのやり取りに、小さな笑いが起きた。

 

 

 訓練はさらに重ねられていった。

 

 一回ごとに、船の中で起きる事象が変わる。

 時には仮眠室の利用が偏り、二人だけ睡眠の質が極端に落ちる想定。

 食料区画のラベル管理が乱れ、予定していた栄養配分が後ろへずれることもあれば、観測データの断片的な共有がクルーの不安を刺激する場面もあった。

 

 そのたびに、エリンは前へ出過ぎない。

 

 ここが重要だった。

 

 もしエリンが、全部自分で拾い、自分で整え、自分で指示を出していたら、楽は楽でも意味が違っていた。

 それは“エリンがいるから何とかなった”で終わる。

 でも今、エリンがやっているのはそうではない。

 

 サツキが動きやすい位置へ、次に必要になるものを置く。

 チャコの横で、リュウジの視界を塞がない角度から補助記録を差し出す。

 マリが通信席で処理しやすいよう、生活区画側から上がる情報の粒度を無言で整える。

 クリスタルが副操縦席へ移った時、戻った時、そのどちらでもストレスが生まれないように動線を作る。

 

 そして何より、誰かが“今、自分は少し詰まりかけている”と自覚する前に、そこから余計な負荷を一つ外している。

 

 それは、本当に小さなことばかりだった。

 目線の先に置かれた水差し。

 無言で開かれる簡易記録。

 立つ位置がほんの半歩変わること。

 発言する前に頷いて、相手が説明を省ける空気を作ること。

 

 でも、その“小さなこと”が、長期調査では恐ろしく効く。

 

 今ここにあるのは、もっと剥き出しだ。

 喜ばせる相手はいない。

 見せる相手もいない。

 ただ、七人しかいない船を二ヶ月近く壊さず回すためだけの空気。

 

 

 何本目かの本番想定シュミレーションを終えた時だった。

 

 訓練用のコックピットは、一度長めの静けさに包まれていた。

 誰もヘルメットを外した直後はすぐに喋らない。

 そのくらい集中していたのだろう。

 

 ようやくリュウジが顎紐を外し、ヘルメットを持ち上げる。

 汗で少しだけ額へ張りついた前髪を、無造作に指で払った。

 

「……今日はいいだろ」

 

 その一言に、コックピットの全員が、ほとんど同時に小さく息を吐いた。

 

「やっと言うたか」

 

 チャコが耳をだらりと寝かせる。

 

「流石に今日は濃かったね」

 

 マリも通信席で肩の力を抜く。

 

「私はもう少しやってもよかったけど」

 

 サツキが言うと、チャコがすぐに振り返った。

 

「嘘つけや。さっき一瞬、背中さすっとったやろ」

 

「それはちょっと凝っただけ」

 

「一緒や」

 

 そのやり取りに、クリスタルが小さく笑った。

 

「私も今日はもう十分だと思うわ」

 

 さすがに今日は濃い。

 濃い、どころではない。

 もしここでさらに一本追加されたら、頭の方が先に焼き切れそうだった。

 

「ね、エリン」

 

 クリスタルが視線を向ける。

 

「今日のところは満足?」

 

 少し意地悪く聞く。

 だが、その問いに対するエリンの返答は、皆の予想を軽く超えた。

 

「んー……」

 

 ヘルメットを片手に持ったまま、エリンは少しだけ首を傾げる。

 

「もっと上手く立ち回れるわね」

 

 ぽつり、と。

 まるで独り言みたいに言った。

 

 一瞬、コックピットが静まる。

 

 そのあとで。

 

「……あれで?」

 

 最初に呆れた声を出したのはクリスタルだった。

 

「え?」

 

 エリンがきょとんとする。

 

「え、じゃないわよ」

 

 チャコが副操縦席で耳をぴんと立てた。

 

「今の見て、まだ言うことあるんかいな」

 

「あるけど…」

 

 エリンは本気で不思議そうだった。

 

「さっきも一回、サツキの後ろへ入るのが半歩遅れたし」

 

「半歩!?」

 

 サツキが素っ頓狂な声を出す。

 

「いや、全然気になりませんでしたけど……」

 

「私は気になるの」

 

 エリンは即答した。

 

「あと、マリの通信席に記録流す時、二回目の時だけちょっと視線を遮っちゃったし」

 

 マリが思わず苦笑する。

 

「一瞬ですし、それもほとんど分からない程度でしたよ」

 

「でも分かったでしょ?」

 

「まあ……はい」

 

 認めるしかない。

 マリは静かに頷いた。

 

「ほら」

 

 エリンが言う。

 その“ほら”が、まるで当然みたいで、クリスタルは頭を抱えそうになった。

 

「本当にあれで? って感じなんだけど」

 

 クリスタルが半ば呆れたように言うと、チャコも「ウチも同感や」と肩をすくめた。

 

 あれだけ出来ていて。

 あれだけ皆んなが仕事しやすくなっていて。

 それでもエリンの中では、“まだもっと上手く立ち回れる”なのだ。

 

 だから、こういう人が上へ行くのだろう。

 そう思うしかなかった。

 

 エリンは、皆んなの呆れた視線を受けても特に気にした様子はない。

 少しだけ考え込むように眉を寄せ、それからふとサツキの方を見た。

 

「サツキ」

 

「はい?」

 

「後でアルテミスの船内案内してくれる?」

 

 その言葉に、サツキが一瞬だけ目を丸くした。

 

「え?」

 

「構いませんけど……」

 

 戸惑いながらも答える。

 

「まだ中に入ったことないから、この目で見てみたいの」

 

 エリンは、ごく自然にそう言った。

 

 

 そうか。

 確かにそうだ。

 エリンは今日までコックピットへだけ入っていた。

 実際のアルテミスの生活区画――仮眠室やキッチンや食料区画は、まだ自分の目でちゃんと見ていないのだ。

 

 クリスタルが、すぐにその意味へ気づいた。

 

「ああ……そういうこと」

 

「そういうこと?」

 

 チャコが首を傾げる。

 

「エリン、たぶんもうコックピットだけじゃ足りないのよ」

 

 クリスタルが言う。

 

「生活区画の中を見ないと、支え方の精度を上げられないんでしょうね」

 

 エリンは少しだけ笑った。

 

「うん」

 

「やっぱりか」

 

 クリスタルは肩をすくめる。

 

 サツキは、そこでようやく小さく息を吐いた。

 

「分かりました。案内します」

 

「ありがとう」

 

 エリンが素直に礼を言う。

 

「でも、そんなに長くは見られないですよ。まだ片付けもありますし」

 

「大丈夫。大まかでいいの」

 

 そう言ってから、少しだけ視線を細める。

 

「仮眠室とキッチンと食料区画、それから動線が見られれば十分」

 

 その言葉に、サツキは本当に少しだけぞくりとした。

 的確すぎるのだ。

 案内してほしいと言われても、ただ興味本位で“船内を見たい”のではない。

 見るべき場所が最初から定まっている。

 

 クリスタルが苦笑混じりに言う。

 

「ほどほどにしときなよ」

 

 その声音には、呆れと心配と理解が同時に混ざっていた。

 

 エリンは肩をすくめる。

 

「分かってるわよ」

 

「分かってるって言って分かってないのが、あなたでしょ」

 

「ひどい言い方」

 

「事実よ」

 

 そのやり取りに、また小さな笑いが起きる。

 

 チャコが副操縦席から飛び降りながら言う。

 

「でも、エリンが中まで見たら、また色々気づいてまうんやろなぁ」

 

「気づくんでしょうね」

 

 マリが静かに頷く。

 

「そして、たぶん私達が思ってる以上に細かく修正してくる」

 

「うわ、ありそう」

 

 サツキが思わず漏らす。

 

 エリンはそんな皆の反応を前にして、少しだけ困ったように、でも楽しそうに笑った。

 

「そんな大したことしないわよ」

 

「いや、する顔してる」

 

 クリスタルが即答する。

 チャコも「しとるしとる」とすぐ乗り、ランとサツキは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。

 

 皆んな、もう自然にエリンがいる前提で喋っている。

 

 数十分前まで、あんなに驚いていたのに。

 でも、それだけで分かる。

 エリンがこの場にいることが、どれだけしっくりきているか。

 

 リュウジは、そんなやり取りを横目で見ながら、前方パネルの最終ログを閉じた。

 その表情に大きな変化はない。

 けれど、さっきまでの張りつめ方とは違う、少しだけ落ち着いた空気がある。

 

「片付けいい。行ってこい」

 

 リュウジが短く言う。

 

 その言葉が誰に向けたものか、一瞬分かりにくかった。

 だが、エリンとサツキの方を見ればすぐに分かる。

 

「いいんですか?」

 

 サツキが聞く。

 

「ああ」

 

「ありがとう」

 

 エリンが答える。

 

 必要なことだけ言って、無駄がない。

 それなのに冷たくない。

 

 ラ・スペランツァの中では、こういうやり取りが当たり前なのだろう。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 

 訓練終わりの夜。

 

 宇宙管理局の食堂は、昼間の慌ただしさとは打って変わって、どこか肩の力が抜けた空気に包まれていた。

 

 壁際の大型窓の向こうには、コロニー内の夜景が静かに広がっている。人工光に照らされた通路、一定の間隔で走る搬送車の白いライン、遠くに見えるドック区画の赤い警告灯。その全部が、仕事はまだ終わっていないのだと告げているのに、食堂の中だけは少しだけ別の時間が流れていた。

 

 夕食のピークはとうに過ぎていて、人影はまばらだ。

 遅番を終えた局員達が数人、端の席で静かに食事をしている。

 食器の触れ合う音も、小さな話し声も、昼間に比べればずいぶん遠い。

 

 そんな食堂の隅、いつも同じような席を確保している四人がいた。

 

 クリスタル、サツキ、マリ、そしてチャコだ。

 

 クリスタルは、ジョッキに入ったビールを片手に、いかにも不満そうな顔でテーブルに肘をついていた。

 サツキの前には温かいスープと簡単なプレート。

 マリは薄い色のカクテルグラスを静かに傾けている。

 チャコは当然のようにジュースだ。ストローのついた背の高いグラスを前にして、椅子の上へちょこんと座っていた。

 

「ちょっと、エリンは!?」

 

 クリスタルが、ビールをぐいと飲んだあとで声を上げた。

 

 その勢いは、さっきまで食堂全体に漂っていた穏やかな空気を少しだけ押しやった。

 とはいえ、もう周囲の人間もだいたいこの四人の調子を知っているのか、ちらりと視線を向けるだけで特に驚きもしない。

 

「もうちょいで来るやろ」

 

 チャコがジュースをちゅうっと吸いながら言う。

 

「さっき連絡来とったし」

 

「“もうちょい”って、十分前にも聞いたわよ、それ」

 

 クリスタルがぴしゃりと言い返す。

 

「えらいピリピリしとるなあ」

 

「当たり前でしょ!」

 

 クリスタルが即座に返した。

 

「呑んでなきゃやってられないわよ!」

 

 その言い方に、サツキが小さく目を瞬いた。

 

「そこまでですか?」

 

「そこまでよ」

 

 クリスタルはジョッキを少し持ち上げる。

 

「今日何本やったと思ってるの。しかも、エリンが入ってから妙に滑らかになりすぎて、逆に腹立ってくるのよ」

 

「腹立ってるんですか……」

 

 マリが静かに尋ねる。

 

「ええ、腹立ってるわ」

 

「なんでや?」

 

 チャコが耳をぴくりと動かした。

 

「だってそうでしょ」

 

 クリスタルは本気で言う。

 

「こっちは何日もかけて必死に繋いでたのに、あの子が入った途端に“あ、そこまで楽に回るのね”ってなるんだから」

 

「それは……」

 

 サツキが少しだけ苦笑する。

 

「分からなくもないです」

 

 マリもグラスを置いて頷いた。

 

「はい。私も今日は何度か“あ、ここまで削れるんだ”と思いました」

 

「ほら見なさい」

 

 クリスタルが、半分満足そうに、半分まだ苛立ったように言う。

 

「私だけじゃないのよ」

 

「でも、それって凄いってことやろ?」

 

 チャコがストローをくわえたまま首を傾げる。

 

「凄いわよ」

 

 クリスタルはきっぱり言った。

 

「凄いから腹が立つの」

 

「難儀やなあ」

 

 チャコが呆れたように耳を寝かせる。

 

 その時、マリがふと辺りを見回した。

 

「リュウジは?」

 

 静かな問いだった。

 

「リュウジはもう少しシュミレーションしてるって」

 

 サツキがスープを口に運びながら答える。

 

「“今日のところは終わりだ”って言ったあとで、一人で確認したいことがあるって」

 

「まったく、あの二人は……」

 

 クリスタルが、今度はジョッキを置きながら深々とため息をつく。

 

「片方は“もっと上手く立ち回れるわね”とか言ってるし、もう片方は“ちょっと確認してくる”で平然と残るし。どっちも基準がおかしいのよ」

 

「それは分かります」

 

 サツキが即答する。

 

「私も思いました。今日のあれで“もう少し”って、普通言わないです」

 

「でしょ?」

 

「はい」

 

「でも、リュウジが残るのも少し分かります」

 

 マリが言う。

 

「今日の環境制御の揺れ方、後半の設定で少し癖が出ていたので」

 

「マリまでそっち側や」

 

 チャコがジュースを持ったまま肩をすくめる。

 

「ウチだけや、まともなん」

 

「どこがよ」

 

 クリスタルが即座に返す。

 だが、その時だった。

 

「お待たせ」

 

 聞き慣れた声がして、四人が一斉に振り向いた。

 

 エリンが、小走りで食堂へ入ってきたところだった。

 

 今日は訓練後もそのまま動いていたのだろう。

 髪は軽くまとめ直してあるものの、襟元や袖口にまだ少しだけ作業後の気配が残っている。

 それでも表情はいつもの穏やかなものに戻っていて、どこか夜の食堂の空気に馴染んでいた。

 

「遅い!」

 

 クリスタルが真っ先に言う。

 

「ごめんね」

 

 エリンが素直に謝る。

 

「ミラとクミコとペルシアを見送ってたから」

 

 その名前に、サツキが顔を上げる。

 

「ミラとクミコは今日で終わりでしたね」

 

「ええ」

 

 エリンが頷く。

 

「ペルシアさんはスペースホープに?」

 

 マリが続けて尋ねる。

 

「ええ、明日からペルシアはチーフパーサーをやってもらうから」

 

 その言葉に、チャコが「ほんまにやるんやなあ」と感心したように呟いた。

 

 エリンは席へ着くと、ひとまず水を一口飲んだ。

 そこでクリスタルが、待ってましたとばかりに身を乗り出す。

 

「それで?」

 

「何が?」

 

「何が、じゃないわよ」

 

 クリスタルが言う。

 

「今日のあれ。あんた、よくあそこへいきなり入って回せるわね」

 

 その問いは、半分責めるようでいて、半分は本気の感心だった。

 

 チャコもすぐに続く。

 

「せやで。ウチも思うたわ。あんだけ間空いて、ようあそこまでピタッとはまるなあって」

 

 サツキも頷く。

 

「しかも、ただ入るだけじゃなくて、こっちの流れを一気に揃えましたから」

 

「通信も楽でした」

 

 マリが静かに付け足す。

 

「余計な説明が減りました」

 

 四人の視線が集まる。

 

 エリンは、その視線を受けて少しだけ首を傾げたあと、淡く笑った。

 

「まあ、一度、一緒に乗ってるからね」

 

 さらりとした言い方だった。

 

「だいたい覚えているわ」

 

 一瞬、食堂の空気が止まる。

 

 次の瞬間。

 

「凄いことをサラッと言うなやぁ!」

 

 チャコが思わず叫んだ。

 

「“だいたい覚えてる”で済む話ちゃうやろ!」

 

 サツキも苦笑を隠せない。

 

「それを普通のことみたいに言うの、反則です」

 

 マリまで小さく肩を揺らした。

 

「はい。普通は、だいたい覚えていても、実際に入ると別物だと思います」

 

「そうよ」

 

 クリスタルがジョッキを持ち直しながら、少し呆れたように言う。

 

「普通なら、“覚えてる”と“回せる”の間にはものすごく大きな溝があるの」

 

 エリンは、そんな反応に少しだけ困ったように笑う。

 

「もちろん、シュミレーションしないと分からない部分はあるけどね」

 

「そうなんかぁ?」

 

 チャコがじとっとした目を向ける。

 

「リュウジとは息ぴったりに見えたで」

 

 その一言に、エリンは少しだけ視線を落としてから答えた。

 

「まあ、リュウジとは一緒に宇宙船に乗る機会が多かったから」

 

 その声音はあくまで自然だった。

 だが、その自然さの中に、これまで積み重ねてきた時間の長さが滲んでいる。

 

 クリスタルがそこを逃さない。

 

「“多かったから”で済ませるのね」

 

「事実だもの」

 

「その“事実”がどれだけ重いかって話をしてるの」

 

 クリスタルはそう言いながら、ビールをもう一口飲んだ。

 

 エリンは少しだけ笑う。

 

「でも本当に、それは大きいと思う」

 

 今度は、少しだけ真面目な声だった。

 

「リュウジがどこで何を切りたいか、どのくらいの言葉で十分か、逆にどの時は短すぎると駄目か、その辺は一緒に乗ってないと分からない部分もあるから」

 

 サツキが「なるほど」と小さく頷く。

 

「確かに、今日は言葉の量が少ないのに詰まらなかったですね」

 

「うん」

 

 エリンも頷いた。

 

「リュウジは情報を嫌うんじゃなくて、情報の“形”にうるさいから」

 

「その言い方、本人がいたら嫌がりそう」

 

 クリスタルが呟く。

 

「そうかしら」

 

「そうよ」

 

 そのやり取りに、また小さく笑いが起こる。

 

 マリが、そこで少しだけ身を乗り出した。

 

「エリンさん」

 

「なぁに?」

 

「今日、途中で休息サイクルの情報を一度止めましたよね」

 

「ええ」

 

「最初は“まだ共有しないのかな”と思ったんですが、その後のタイミングで一気に渡した方が、確かにリュウジの判断が速くなっていました」

 

 エリンは、その問いにすぐ答えた。

 

「うん。あの時は、サツキとチャコが機器側で少し深く入ってたでしょう」

 

「はい」

 

「そこへ休息サイクルの話を入れても、今は“分かった”で終わるだけだったの」

 

「……ああ」

 

 マリが静かに頷く。

 

 サツキも、少しだけ顔を上げた。

 

「つまり、情報が間違ってるんじゃなくて、入れる順番が違うってことですか?」

 

「そういうこと」

 

 エリンは微笑んだ。

 

「情報って、正しいだけじゃ駄目なの。今、その人が受け取れる形で渡さないと意味がない」

 

 チャコがストローをくわえ直しながら、感心したように言う。

 

「ほんま、それよなあ」

 

「何が?」

 

 クリスタルが聞く。

 

「ウチ、今日何回か思うたんよ。エリンって“何をやるか”より“いつやるか”が異様に上手いって」

 

 その言葉に、クリスタルが少しだけ目を細める。

 

「それはあるわね」

 

「タイミング?」

 

 サツキが小さく繰り返す。

 

「うん」

 

 エリンは頷いた。

 

「同じことでも、今やるのと三秒後にやるのじゃ、意味が変わるから」

 

 マリがグラスを静かに置く。

 

「三秒後……」

 

「そう」

 

 エリンは、少しだけ遠くを見る目をした。

 

「特にクルーだけの長期航行だと、皆んな一つのことだけ見てるわけじゃないでしょう。機器、通信、休息、食事、全部が少しずつ重なってる。だから“正しいことを正しい順番で出す”だけじゃ足りなくて、“その人が今どれを受け取れるか”まで見ないと駄目」

 

 クリスタルが、小さく鼻で笑う。

 

「ほんと、相変わらず嫌になるくらい細かいわね」

 

「褒めてる?」

 

「半分はね」

 

「ならよかった」

 

 さらっと返すエリンに、クリスタルは呆れたように肩をすくめた。

 

 そのやり取りを見ながら、サツキは少しだけ表情を和らげる。

 

「でも、今日船内見てもらえてよかったです」

 

「そう?」

 

「はい」

 

 サツキは素直に頷いた。

 

「たぶんコックピットだけ見てても、あそこまで整えられないと思うので」

 

「ええ、それは本当にそう」

 

 エリンはすぐに認めた。

 

「実際に仮眠室の距離感とか、キッチンの狭さとか、食料区画との導線を見たら、想像してたのと違うところ結構あったもの」

 

 チャコが耳をぴくっと動かす。

 

「ほらな、やっぱり何か見つけとるやん」

 

「そりゃ見つかるわよ」

 

 エリンは少しだけ笑った。

 

「見たら分かるもの」

 

「見たら分かる、で済むんがすごいねんて」

 

 チャコが本気で言う。

 マリも小さく頷いた。

 

「はい。私は今日、船内案内のあと少しだけ動線を見直しましたけど、それでも“まだこう変えられる”っていう視点には届きませんでした」

 

「マリは十分見えてる方よ」

 

 エリンがそう返すと、マリは少しだけ目を丸くした。

 

「そうですか?」

 

「ええ」

 

「珍しいわね」

 

 クリスタルがビールを傾けながら言う。

 

「エリンがそんなにあっさり褒めるなんて」

 

「別に、褒める時は褒めるわよ」

 

「自覚ないだけよ、それ」

 

 クリスタルの返しに、また小さく笑いが起きる。

 

 その時だった。

 

 食堂の入口の方で、微かに足音がして、マリが先にそちらを見た。

 

「……来ましたね」

 

 皆んなが振り向く。

 

 遅れて現れたのはリュウジだった。

 

 黒に近い色のジャケットを軽く羽織り、いつもの無駄のない足取りで食堂へ入ってくる。

 訓練後もアルテミスに残っていたせいか、髪は少しだけ乱れている。

 それでも、その表情に疲れを全面へ出さないあたりが、やはりこの人らしい。

 

「遅い!」

 

 クリスタルが、さっきと同じ調子で言う。

 

 リュウジは、そんな反応にも慣れているのか、小さく肩をすくめた。

 

「確認してただけだ」

 

「一人で?」

 

「一人で」

 

「好きねえ、ほんと」

 

 クリスタルが呆れたように言う。

 

 リュウジは返事の代わりに、空いている席へ腰を下ろした。

 その位置は自然とエリンの隣になった。

 

 チャコがにやりとする。

 

「ほれ、噂の二人、揃ったで」

 

「噂にしないで」

 

 エリンがすぐに言い返す。

 

「事実やろ」

 

「何の事実よ」

 

「よう回る二人やってことや」

 

 その一言に、サツキが思わず吹き出しかけ、マリも口元へグラスを当てたまま少しだけ目を細めた。

 

 クリスタルは、そこでジョッキを軽く持ち上げる。

 

「まあ、何にしても」

 

 皆んなの視線が集まる。

 

「ようやく、って感じね」

 

 その言葉に、誰もすぐには反論しなかった。

 

 ようやく。

 まさにそうだ。

 

 エリンが入った。

 リュウジがいる。

 サツキ、マリ、チャコ、クリスタルも揃っている。

 ペルシアはスペースホープ側へ回る。

 残された時間は少ない。

 でも、ようやく本当に“揃った”感じがする。

 

 エリンはその言葉を聞いて、静かに頷いた。

 

「うん」

 

 ただ、それだけ。

 けれど、その一つの頷きに、いろんな感情が入っているのが分かる。

 

 離れたくなかった場所。

 置いてきたもの。

 それでも来たこと。

 そして、ここへ来た以上、絶対に中途半端では終わらせないという覚悟。

 

 リュウジが、そんなエリンを横目で一度だけ見た。

 何かを言うわけではない。

 でも、その視線は短いのに不思議と多くを含んでいる。

 

 チャコが、その気配を察したのか、わざとらしく咳払いした。

 

「まあ、何や」

 

「なによ」

 

 クリスタルが見る。

 

「今日は乾杯しといた方がええんちゃう?」

 

 その提案は意外と真っ当だった。

 マリがすぐに頷く。

 

「そうだね」

 

 サツキも静かに賛成する。

 

「うん。今日が一つの区切りなのは間違いないし」

 

 クリスタルはジョッキを見下ろしてから、ふっと笑った。

 

「そうね」

 

 そして今度は、少しだけ柔らかい声で言った。

 

「じゃあ、ようやく揃ったことに」

 

 チャコがジュースを持ち上げる。

 マリもカクテルを。

 サツキはスープのカップを。

 リュウジは注文したばかりの水を。

 エリンはグラスの水を持ち上げた。

 

「未探索領域に向けて」

 

 クリスタルが続ける。

 

「乾杯」

 

 小さくグラスが触れ合う音がした。

 

 派手ではない。

 でも、それで十分だった。

 

 夜の宇宙管理局の食堂は静かだ。

 静かなのに、このテーブルだけは確かに熱を持っている。

 

 出発まで、あと僅か。

 訓練は続く。

 課題も山ほどある。

 それでも、今ここにいる皆んなは同じ方向を見ていた。

 

 そしてその中で、エリンはふと、グラスを置いたあとで小さく呟く。

 

「……もっと上手く出来るわね」

 

 それを聞いたクリスタルが、即座に額を押さえた。

 

「ほら始まった」

 

 チャコが笑い、サツキが吹き出し、マリまで小さく肩を震わせた。

 リュウジだけは、ごく僅かに口元を緩めた。

 

 その反応を見て、エリンも少しだけ笑う。

 

 まだ足りない。

 まだもっと出来る。

 そうやって前を向く人間がここには揃っている。

 

 だからきっと、もう少しだけ先へ行ける。

 

 夜の食堂の窓の外では、人工の星みたいにコロニーの灯りが静かに瞬いていた。

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