サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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出発

 未探索領域の調査、前日。

 

 宇宙管理局の朝は、いつもより静かだった。

 

 誰も声を荒げているわけではない。

 慌ただしく走り回る者もいない。

 それなのに、空気は確かに張っている。

 

 それはきっと、ここまでの数週間が、あまりにも濃かったからだろう。

 リュウジが組んだ本番想定のシュミレーション。

 サツキとチャコが何度も繰り返した機器系統の切り分け。

 マリが積み重ねた通信遅延への対処。

 クリスタルが拾い続けた小さな揺れ。

 そしてエリンが入ってから、一気に噛み合い始めたコックピットの空気。

 

 調査はまだ始まっていない。

 でも、ここにいる皆んなはもう十分に“始まる前の重さ”を抱えていた。

 

 その日の訓練も、朝から容赦がなかった。

 

 コックピットはいつものように照明が落ち、前面モニターへ未探索領域を模した暗い航路が広がる。

 生活区画、仮眠室、キッチン、食料区画の各表示は細かく切り替わり、機関系のログと通信ログが常時流れていた。

 

 リュウジの設定は前日だからといって甘くはならない。

 むしろ、今まで重ねてきたものを“どこまで自然に出せるか”を見るような組み方をしていた。

 

 機器不具合は起きる。

 通信遅延も起きる。

 仮眠室の利用リズムの乱れも、食料消費の偏りも、クルーの気持ちの波も起きる。

 ただ、それらが“訓練用に用意されたもの”として見えるか、“もう実際に起きているもの”として捌けるか。その差だけが問われているようだった。

 

 エリンも、もう完全にこの船の中へ馴染んでいた。

 

 誰かの仕事を奪うのではなく、誰かが少しでも働きやすくなるように、空気の流れを調整する。

 その一つひとつは小さい。

 だが、それが積み重なると明らかに全体のストレスが減る。

 前より少ない言葉で、前より深く、皆んなが自分の仕事へ入っていける。

 

 だが、今はもう「凄い」で片づけられる段階を越えていた。

 それがここに必要なものだと、皆が知ってしまっている。

 

 そして昼過ぎ。

 

 いつものようにもう一本来ると思っていたところで、リュウジが前面表示を閉じた。

 

「今日は終わりだ」

 

 その一言に、全員が一瞬だけ固まった。

 

 チャコが最初に反応する。

 

「……は?」

 

 耳をぴくりと動かし、副操縦席から振り向く。

 

 サツキも後方で思わず手を止めた。

 マリは通信席で瞬きを一つする。

 クリスタルに至っては、補助席で腕を組み直したまま、じっとリュウジを見た。

 

 エリンが一拍遅れて、わずかに目を細める。

 

「終わり?」

 

「ええ」

 

 リュウジは短く答える。

 

「あと半日は、ゆっくり身体を休めておけ」

 

 その言い方には、判断を覆させない種類の静かさがあった。

 ただ、全員がそれを素直に飲み込むほど、ここまでの数週間で神経が鈍っているわけでもない。

 

 チャコがまず口を開いた。

 

「珍しいこと言うやんか」

 

「珍しくない」

 

 リュウジが返す。

 

「明日から本番だ。今日、無理に詰める意味はない」

 

「まあ、それはそうかもしれへんけど」

 

 チャコが少し首を傾げる。

 

 クリスタルはそのやり取りを聞きながら、ジョッキでもあれば今すぐ飲みたい顔をしていた。

 けれど今ここで口を開く前に、エリンが先に言った。

 

「それはこっちのセリフよ」

 

 全員の視線が集まる。

 

 エリンはヘルメットを机へ置きながら、静かにリュウジを見た。

 

「どうせ一人でシュミレーションやるつもりでしょ」

 

 リュウジは、数秒だけ黙った。

 

 その沈黙が答えだった。

 

 チャコが、ほら見ろと言いたげに耳をぴんと立てる。

 サツキは思わず小さく笑いそうになるのを堪え、マリは「やっぱり」とでも言いたげに目を伏せた。

 クリスタルは額を押さえたくなるのをぐっと我慢している顔だった。

 

「まったく」

 

 エリンはため息混じりに言う。

 

「今日は禁止!」

 

 言い切った。

 

 その声音は強い。

 でも怒鳴っているわけではない。

 ただ、“駄目なものは駄目”と最初から決めている人の声だ。

 

 リュウジは、また少しだけ間を空けた。

 そして、珍しく素直に答えた。

 

「……分かりました」

 

 その一言に、チャコが盛大に吹き出した。

 

「エリンには素直やなあ!」

 

 サツキも思わず顔を逸らして笑い、マリは静かに口元を押さえる。

 クリスタルは呆れたように肩をすくめた。

 

「ほんと、そこは迷いがないのよね」

 

 リュウジはそれに対して何も言い返さなかった。

 ただ前を向いたまま、小さく息を吐いただけだった。

 

 エリンも、そこでようやく少しだけ表情を緩めた。

 

「よろしい」

 

 その一言が、妙に自然に聞こえる。

 この場で、リュウジへそう言える人間が何人いるだろう。

 そして、そう言われて本当に引く人間が何人いるだろう。

 

 たぶん、どちらもほとんどいない。

 

 

 こうして、訓練前日の午後は強制的に空いた。

 

 それぞれが、思い思いの場所で時間を過ごすことになった。

 

 サツキは機関系の最終確認記録をまとめに整備区画へ戻った。

 “休め”と言われても、何もせずにいるより、手を動かしている方が落ち着くらしい。

 マリは通信ログの整理を終えたあと、しばらく一人で静かな資料室に籠もると言っていた。

 クリスタルは「少し寝るわ」と言いながらも、どうせその前に軽く酒でも引っかけるつもりなのだろうと誰もが思った。

 チャコはルナに連絡を入れると言って、小さな身体を揺らしながらどこかへ行ってしまった。

 

 エリンも、最初は一人で少し歩こうと思っていた。

 

 訓練は終わった。

 明日には出る。

 だからこそ、あまり考えすぎたくない。

 でも、まったく考えないでいられるほど器用でもない。

 

 宇宙管理局の中を当てもなく歩く。

 

 昼下がりの廊下は静かだ。

 行き交う職員も少なく、みなそれぞれに“明日からのこと”を胸へ抱えているように見える。

 窓の外には、コロニー内の人工空が白く広がっていた。

 天気も風もないのに、妙に澄んで見えるのは、自分の気持ちが少しだけ揺れているからだろうか、とエリンは思う。

 

 そうして角を曲がった時だった。

 

 向こうから歩いてくる人影が見えた。

 

 黒に近いジャケット。

 癖のない足取り。

 無駄のない姿勢。

 

 リュウジだった。

 

 エリンは思わず足を止める。

 リュウジの方も、こちらに気づいてわずかに足を緩めた。

 

 さっき、今日は禁止と言ったばかりだ。

 もし今からまたドックへ戻るつもりなら、ここで捕まえた方がいい。

 そう思ったのと同時に、エリンは不思議と少しだけ笑ってしまった。

 

「どこ行くの?」

 

 先に声をかける。

 

 リュウジは一瞬だけ視線をずらして、それから答えた。

 

「……別に」

 

「別に、は大抵怪しいんだけど」

 

 エリンがそう言うと、リュウジは少しだけ眉を下げた。

 

「シュミレーションはしません」

 

 その言い方が、子どもみたいで、エリンはまた少し笑ってしまう。

 

「ならよかった」

 

「信用ないですね」

 

「あるわよ」

 

 エリンは即座に返した。

 

「でも、念のため確認しただけ」

 

 リュウジは何も言わず、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 それだけで、さっきまでの張りつめた空気が少し和らぐ。

 

「ねえ」

 

 エリンが、そこで少しだけ声の温度を変えた。

 

「ちょっと喫茶店でお茶してく?」

 

 その提案は、自然に出た。

 無理に何かを話そうと思ったわけでもない。

 でも、明日から未探索領域へ出る前に、一度この人とちゃんと“訓練じゃない会話”をしておきたいと思ったのだ。

 

 リュウジは、ほんの少しだけ目を見開いた。

 意外だったのだろう。

 エリンの方から、そういう誘い方をしてくることは多くない。

 

「……今からですか」

 

「うん」

 

 エリンは頷く。

 

「嫌ならいいけど」

 

「嫌じゃないです」

 

 即答だった。

 その速さに、今度はエリンの方が少しだけ驚く。

 

「じゃあ、決まりね」

 

 そう言って、近くの職員用喫茶スペースへ向かうことになった。

 

 

 宇宙管理局内の喫茶スペースは、外来向けの大きなカフェとは違って、落ち着いた造りだった。

 

 木目のテーブル。

 低めの照明。

 壁際には簡単な本棚があり、宇宙航行や調査記録に関する雑誌が何冊か並んでいる。

 時間が半端なせいか、人は少ない。

 端の席で若い局員が端末を開いているくらいだった。

 

 エリンは窓際の二人席を選んだ。

 向かい合う形でもよかったが、今日はなんとなく横並びに近い角度の席へ座りたい気分だった。

 リュウジも特に何も言わず、自然にその向かい斜めの椅子へ腰を下ろす。

 

 二人とも温かい飲み物を頼んだ。

 エリンは紅茶。

 リュウジはコーヒー。

 

 飲み物が来るまでの短い時間、どちらからともなく言葉が途切れる。

 気まずいわけではない。

 むしろ、こういう沈黙を変に埋めなくても平気なこと自体が、この二人の長い時間を物語っていた。

 

 先に口を開いたのはエリンだった。

 

「リュウジ」

 

「はい」

 

「明日から、いよいよね」

 

 その一言に、リュウジはカップへ視線を落としたまま、小さく頷く。

 

「はい」

 

 それだけの返事なのに、そこへ色々なものが入っているのが分かる。

 緊張。

 覚悟。

 責任。

 そして、言葉にしなくてもそこにある静かな重さ。

 

 エリンは、紅茶の湯気を見つめながら言った。

 

「不思議ね」

 

「何がですか」

 

「私、本当に来ることになると思ってなかった」

 

 その言葉に、リュウジが少しだけ顔を上げる。

 

「……そうですね」

 

「でしょう?」

 

 エリンは少し笑う。

 

「最後まで、来られない方の準備をしてたもの」

 

「分かります」

 

「分かる?」

 

「はい」

 

 リュウジは短く答える。

 

「エリンさん、来るための準備より、来られない時にどう残すかを先に考そうなので」

 

 その言い方が、あまりにも正確で、エリンは思わず苦笑した。

 

「やっぱり、見透かされてるわね」

 

「見透かしてるわけじゃないです」

 

 リュウジは静かに言う。

 

「エリンさんがそうする人だって知ってるだけです」

 

 その言葉に、エリンはしばらく黙った。

 “そうする人”だと知っている。

 簡単なようで、深い言い方だ。

 

 飲み物が運ばれてくる。

 ふわりと立つ湯気に、少しだけ張っていた空気がほどける。

 

 エリンはカップへ手を添えてから、ぽつりと言った。

 

「ねえ、リュウジ」

 

「はい」

 

「私、乗務員続けててよかったわ」

 

 その一言は、思っていたよりも静かに出た。

 でも、驚くほどまっすぐな本音だった。

 

 リュウジは、カップを持ち上げかけた手をわずかに止める。

 

「……」

 

「今日とか、ここ最近の訓練もそうなんだけど」

 

 エリンは視線を窓の外へ向けた。

 

「必要だって言ってもらえて、ああ、まだ私はここにいていいんだって思えたの」

 

 それは誰にでも言う言葉ではない。

 エリン自身も、そう簡単に口へ出す言葉ではない。

 でも今は、この人になら言ってもいいと思えた。

 

「出向して、スペースホープに行って、立て直して、またこっちへ戻ってきて……」

 

 エリンは小さく息を吐く。

 

「正直、時々分からなくなる時があったのよ。私は何をやってるんだろうって」

 

 リュウジは黙って聞いている。

 ただ、それだけで十分だった。

 

「もちろん、スペースホープでやってきたことに意味がないなんて思ってないわ」

 

 エリンは続ける。

 

「ミラもランも、クミコも、皆んな頑張ってる。あの子達を見てると、来てよかったって思う。だけど……」

 

 言葉が少しだけ細くなる。

 

「ラ・スペランツァの話が出てからは、どうしても心が揺れたの」

 

 リュウジは、その一言にごく小さく頷いた。

 当然だ。

 とでも言うように。

 

「行きたい。すごく行きたい。でも行けない。行けないのに、行きたいって思う自分がいる」

 

 エリンは、カップの縁へ指を添えた。

 

「その間ずっと、なんだか中途半端な気がしてた」

 

 そこで少しだけ笑う。

 

「変よね。自分で決めた道なのに」

 

「変じゃないです」

 

 リュウジが、そこで初めてはっきり口を挟んだ。

 

 エリンが振り向く。

 

「変じゃないです」

 

 同じ言葉をもう一度、少しだけ丁寧に言う。

 

「エリンさんは、どっちも本気だから揺れただけです」

 

 その言葉に、エリンは目を瞬いた。

 

 どっちも本気。

 そうかもしれない。

 スペースホープも本気だった。

 ラ・スペランツァも本気だった。

 だから、切り分けられずに苦しかったのだ。

 

「……そうね」

 

 エリンは、小さく頷いた。

 

「たぶん、そう」

 

 リュウジは少しだけ視線を落としてから続ける。

 

「それに、必要だって言ったのは本当です」

 

 エリンの手が、カップの上でわずかに止まる。

 

「エリンさんみたいな乗務員は必要です」

 

 今度は、はっきりと言った。

 

 その声に迷いはない。

 仕事上の都合で言っているのでもない。

 気休めでもない。

 必要だから、必要だと言っている。

 

 エリンは、その言葉を聞いて数秒だけ何も返せなかった。

 

 必要。

 その二文字が、今の自分には思っていた以上に深く刺さる。

 ここへ来てから何度も思った。

 自分はいていいのか。

 今さら戻ってきて、邪魔にはならないか。

 置いてきたものとの両立を口にして、それでもなおここに立つ資格があるのか。

 

 そういう迷いを、リュウジはたった一言で切った。

 

「……ありがとう」

 

 ようやく出た声は、少しだけ掠れていた。

 

 リュウジは首を横に振る。

 

「礼を言われることじゃないです」

 

「言うわよ」

 

 エリンは小さく笑った。

 

「だって、私、今その言葉にすごく助けられたもの」

 

 その言い方に、今度はリュウジの方が少しだけ言葉を失う。

 エリンは、それを見てさらに少しだけ笑った。

 

「私ね」

 

 紅茶をひと口飲んでから、ゆっくり続ける。

 

「乗務員って、誰かに必要とされる仕事だって分かってたつもりだったの。乗客にも、クルーにも、運航にも。でも、こうして改めて必要だって言われると、やっぱり違うのね」

 

「……」

 

「続けてきてよかったって思える」

 

 静かな声だった。

 でも、その中には長い年月が詰まっていた。

 

 エリンは旅客便でも、教育便でも、緊急対応でも、ずっと誰かを支える側にいた。

 その全部を“当然の仕事”としてこなしてきた。

 だからこそ、“必要だ”と改めて言われることの意味が今は大きい。

 

 リュウジは、コーヒーへ視線を落としたまま言う。

 

「エリンさんがいないと、今日みたいには回らないです」

 

 また、必要だと言う。

 形を変えて、もう一度。

 

 エリンはその言葉に、少しだけ照れたように目を細めた。

 

「そんなに言うと、調子に乗るわよ」

 

「乗ってください」

 

 リュウジが本気で返す。

 

「その方が多分、ちょうどいいです」

 

 その返しに、エリンはとうとう吹き出した。

 

「何それ」

 

「本気です」

 

「本気なのが余計におかしいんだけど」

 

 二人の間に、ようやく少しだけ笑いが落ちる。

 

 それは訓練中の緊張とも、食堂での軽い冗談とも違う、もっと静かな笑いだった。

 

 窓の外では、コロニーの人工灯が一定の明るさで並んでいる。

 夜でもない、昼でもない、人工の時間。

 けれど、明日から未探索領域へ出る自分達にとっては、こうして温かい飲み物を前にしている時間こそが、たぶん一番贅沢なのだろう。

 

「リュウジは?」

 

 エリンがふと尋ねる。

 

「明日からのこと、どう思ってる?」

 

 その問いに、リュウジは少しだけ考えた。

 

「どう、ですか」

 

「うん」

 

「……やるだけです」

 

 答えは、いかにも彼らしかった。

 短くて、飾りがない。

 

 でも、それだけでは終わらない。

 少し間を置いてから続ける。

 

「不安がないわけじゃないです」

 

 その一言に、エリンは静かに顔を上げた。

 

「でも、不安があるから止まるわけでもないです」

 

「うん」

 

「皆んな揃ったので」

 

 リュウジは、そこで初めて真っ直ぐエリンを見る。

 

「今なら行けると思ってます」

 

 その眼差しには、静かな確信があった。

 過信ではない。

 今まで積み上げてきたものを全部見たうえで、それでも前へ出ると決めている人の目だ。

 

 エリンは、その顔を見ながら思う。

 ああ、この人は本当に変わらない。

 いや、変わっていないようでいて、きっと前よりもっと深く、静かに強くなっている。

 

「そう」

 

 エリンは小さく笑った。

 

「じゃあ、私もやるだけね」

 

「はい」

 

 リュウジが頷く。

 

 その頷きだけで、言葉は十分だった。

 

 喫茶スペースの時計が、静かに時間を刻んでいる。

 そろそろ戻らなければならない。

 でも、こうして少しだけ立ち止まれたことが、思っていた以上に大きかった。

 

 エリンは最後に紅茶をひと口飲み、カップを置いた。

 

「ありがとう」

 

 もう一度、今度は少しだけ笑って言う。

 

「ほんとに、助かった」

 

 リュウジは少しだけ視線を逸らしてから答える。

 

「それなら、よかったです」

 

 それだけのやり取りなのに、エリンの胸の奥は少しだけ軽くなっていた。

 

 必要だと言われたこと。

 乗務員を続けてきてよかったと思えたこと。

 そして、明日からの未探索領域へ、自分の意志でちゃんと前を向けたこと。

 

 喫茶店での短い時間は、それだけのものを確かにくれた。

 

 席を立つ時、エリンはふと笑って言う。

 

「でも、今日一人でシュミレーションしてたら、この時間なかったんだからね」

 

 リュウジは一瞬だけ黙り、それから小さく息を吐いた。

 

「……そうですね」

 

「でしょ?」

 

「はい」

 

「素直でよろしい」

 

 その言い方が、あまりにもさっきの続きみたいで、今度はリュウジの方がほんの少しだけ口元を緩めた。

 

 二人は並んで喫茶スペースを出る。

 廊下は静かで、明日からの任務を前にした宇宙管理局の夜が、どこか深く息を潜めているようだった。

 

 けれどエリンの足取りは、さっきより少しだけ軽かった。

 そしてそのことを、隣を歩くリュウジも、たぶん気づいていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 未探索領域の調査、出発の日。

 

 宇宙管理局の朝は、これまでのどの日よりも早く、そして騒がしく始まっていた。

 

 まだ通常業務の始業時刻にも届かないうちから、正面玄関前には報道各社の中継車が並び、伸びたケーブルが地面を這い、各局のマイクを持った記者達が何度も立ち位置を確認している。

 大型モニターには、本日の予定として大きくこう映し出されていた。

 

 ――未探索領域南側航路・正式調査隊出発

 ――ラ・スペランツァ搭乗員記者会見

 ――宇宙船アルテミス、午前出航予定

 

 その文字列だけで、コロニー中の注目が集まっていることが分かる。

 観光便でも教育便でもない。

 危険があると分かっている先へ、わざわざ正式な調査として踏み込んでいくのだ。

 話題にならない方がおかしい。

 

 宇宙管理局の会見ホールも、既に人で埋まっていた。

 

 前列には主要メディア。

 その後ろに専門誌や宇宙開発系の記者。

 端には一般向け情報番組のリポーターまでいる。

 机の上に並ぶ録音端末とカメラのレンズが、一斉に前方を向いていた。

 

 やがて扉が開き、ラ・スペランツァの面々が姿を見せる。

 

 先頭にエリン。

 その後ろにクリスタル、マリ、サツキ、チャコ。

 ……そして、本来そこにいるはずの人物が一人、いない。

 

 リュウジだ。

 

 記者達の間にざわめきが広がる。

 

「S級パイロットのリュウジさんは?」

「搭乗予定では?」

「機長は会見に出席されないんですか?」

 

 いきなり飛んできたその問いに、エリンは心の中で小さくため息をついた。

 

(でしょうね)

 

 そうなると思っていた。

 いや、正確には“そうなるのに、あの人は逃げるだろうな”と思っていた。

 そして見事に逃げた。

 

 会見の控室に入る寸前まで姿はあった。

 だが、気づけばいない。

 恐らく面倒でどこかへ消えたのだろう。

 その“どこか”がだいたい想像できてしまうのが余計に腹立たしい。

 

 だが、今ここでそれを顔に出すわけにはいかない。

 

 エリンは穏やかな笑みを浮かべ、マイクへ向かった。

 

「リュウジは、アルテミスの最終確認に入っています」

 

 声は落ち着いている。

 にこやかですらある。

 その完璧な仕事顔に、チャコが隣で小さく「こわ」と呟いたが、当然マイクには拾われなかった。

 

「本日は出発直前ということもあり、最終の安全確認を優先させています。申し訳ありません」

 

 エリンがそう続けると、記者達もそれ以上は深く突っ込みづらくなった。

 安全確認を優先と言われては、文句も言いにくい。

 

 もっとも、エリンの頭の中では別の言葉が並んでいる。

 

(最終確認じゃなくて、ただ逃げたのよ。面倒で)

 

 だがそんな本音は、絶対に表へ出さない。

 それもまたプロだ。

 

 会見が始まると、場の空気は一気に動いた。

 

 最初に質問を浴びたのは、意外にもチャコだった。

 

「今回の調査についてどう思いますか?」

「危険について怖さはありませんか?」

 

 マイクを向けられたチャコは、丸い耳をぴんと立て、むしろ少し楽しそうですらあった。

 

「怖ない言うたら嘘やな」

 

 関西弁が、そのまま会見場に響く。

 

「せやけど、怖いから行かんのと、怖いけど行くんやったら、ウチは後者や」

 

 その一言に、場がわずかに沸く。

 記者の何人かは思わず笑みを浮かべ、何人かは急いでメモを取った。

 

「それに、ウチらだけやないからな。皆んなおるし」

 

 そう言って横を見る仕草まで自然で、会見映えする。

 チャコは自分が注目を集めていることをちゃんと分かったうえで、場を重くしすぎない言い方を選んでいた。

 

 続いてサツキに質問が飛ぶ。

 

「技術担当として、最も懸念している点は?」

「アルテミスの整備面での強みは?」

 

 こういう質問になると、サツキは少しだけ目の色が変わる。

 普段は淡々としているのに、自分の土俵へ話が乗ると、不思議と声の調子が安定するのだ。

 

「強みは、長期運用前提の生活設備と、補助系の柔軟さです」

 

 サツキは無駄なく答える。

 

「ただし、長期航行では“壊れないこと”より“壊れた時にどれだけ静かに切り替えられるか”の方が重要になるので、そこを重点的に見ています」

 

 その言葉は、派手ではない。

 でも、現場の人間の言葉だった。

 

 記者達も、それが分かるのだろう。

 “技術者の答え”として真剣に聞いている空気があった。

 

 マリは、問われれば丁寧に答えた。

 過不足なく、感情を前へ出しすぎず、しかし必要な熱は失わない。

 

「通信遅延は想定内です。ただ、想定していることと対処できることは別ですので、その差をいかに小さくするかが今回の課題です」

 

 言葉の選び方に無駄がない。

 宇宙管理局で鍛えられた整理の仕方そのものだ。

 

 クリスタルは、もっと淡々としていた。

 

「危険はあります。だから訓練してきました。万全という言葉は好きではないです。ですが、出来る限りは積みました」

 

 その言い方は少し冷たく聞こえるかもしれない。

 けれど、そこに嘘がないからこそ、むしろ記者達は言葉を失う。

 耳障りのいい美辞麗句ではなく、実際に命を預かる側の現実の声だからだ。

 

 そして、その全員を横で見ながら、エリンは会見の流れを整えていた。

 

 質問が偏ればさりげなく戻す。

 答えに補足が必要なら短く入れる。

 記者達の空気が少し熱くなりすぎれば、柔らかい言葉で温度を落とす。

 

 そんな中、やはり避けられなかった質問が飛ぶ。

 

「エリンさんは、もともと今回の調査へ参加しない見込みだったと聞いています。なぜ最終的に参加されることになったのですか?」

 

 場の空気が少しだけ静まる。

 

 クリスタルが視線だけで“さあどう言うのよ”と送ってくる。

 チャコは面白そうに耳を揺らし、サツキとマリは黙ってエリンを見る。

 

 エリンは、ほんの一拍だけ間を置いてから答えた。

 

「必要と言ってくれる人達からです」

 

 短い。

 だが、それで十分だった。

 

「もちろん、私一人の判断ではありません。色々な立場と調整があって、その上で参加することになりました」

 

 そこまで言ってから、少しだけ笑う。

 

「ただ、最終的には“今の自分に出来ることをする”という結論に落ち着いただけです」

 

 その言葉に、記者達はまた一斉に筆を走らせた。

 

 会見は、その後もいくつもの質問を受けながら続いた。

 危険区域の定義。

 食料計画。

 帰還予定。

 過去の未探索領域で起きた事故との違い。

 どれも軽くはない内容ばかりだ。

 

 だが、ラ・スペランツァの面々はきちんと応じた。

 チャコは場を少し和らげ、サツキは実務の現実を伝え、マリとクリスタルは必要な温度を保つ。

 そしてエリンがその全部を繋いでいく。

 

 会見が終わった時には、会場の空気は出発前特有の重みを保ったまま、しかし妙に整理されていた。

 

 

 会見を終え、控室へ戻る廊下で、エリンは足を止めた。

 

 いた。

 

 予想通り、少し離れたところの非常用搬入口近くで、壁にもたれて静かに端末を見ている。

 まるで最初からそこにいたみたいな顔で。

 

 リュウジだ。

 

 エリンは無言で歩み寄る。

 足音に気づいたリュウジが顔を上げた瞬間、エリンは笑顔で言った。

 

「逃げたわね?」

 

 笑顔だ。

 笑顔なのに、目が全然笑っていない。

 

 リュウジは一瞬だけ視線を逸らした。

 

「逃げてないです」

 

「逃げたのよ」

 

「最終確認を――」

 

「してないでしょ」

 

 即座に切られる。

 

「してました」

 

「じゃあ何を確認したの?」

 

「……」

 

「ほら」

 

 エリンが一歩詰める。

 

「やっぱり逃げた」

 

 その時、少し後ろからチャコがひょこっと顔を出した。

 

「怒られとる怒られとる」

 

 耳を揺らして面白そうに言う。

 サツキとマリもクリスタルも、その少し後ろで苦笑していた。

 

「まったくもう」

 

 エリンがため息をつく。

 

「一言くらい出ればよかったじゃない」

 

「記者会見は苦手です」

 

 リュウジの返答は真面目だった。

 だからこそ余計に可笑しい。

 

「苦手なのは知ってるけど、そういう問題じゃないの」

 

「……すみません」

 

「次は一言ぐらいは出なさい」

 

「善処します」

 

「本当に善処して」

 

 そこまで言って、エリンもようやく少しだけ肩の力を抜いた。

 今日ここで本気で怒るつもりはない。

 出発前に無駄な消耗を増やしても仕方ないからだ。

 

 チャコが横からにやにやと口を挟む。

 

「ほんま、エリンには素直やなあ」

 

 リュウジはそれに何も返さなかった。

 ただ、少しだけ耳のあたりが赤くなっていたのを、サツキだけが見て見ぬふりをした。

 

 

 それからしばらくして。

 

 宇宙船アルテミスへ向かうドックへ続く通路――出発用の長いブリッジは、人で埋まっていた。

 

 両側に張られた簡易柵の向こうには、記者、マスコミ、局員、整備士、そして一目見ようと集まった見物客が溢れ返っている。

 カメラのフラッシュが何度も瞬き、ざわめきが空間全体を震わせていた。

 

 中央の通路だけが、ぽっかりと空いている。

 そこを、ラ・スペランツァの面々が歩いていく。

 

 先頭にはリュウジ。

 その少し後ろにチャコ。

 並ぶようにサツキとマリ。

 クリスタル。

 そしてエリン。

 

 歩幅は揃いすぎているわけではない。

 けれど崩れない。

 それだけで、この六人がもう十分に一つの流れを持っていると分かる。

 

 記者達が声を上げる。

 見物客が手を振る。

 子どもが「頑張れー!」と叫ぶ。

 その中で、エリンの目にある一団が止まった。

 

 スペースホープの乗務員達だった。

 

 ミラ、ラン、クミコ、ハズキ、サリー、ミドリ、マユ、アズサ、ユウコ、ナツキ。

 他にも、訓練へ出ていた顔ぶれが何人もいる。

 

 皆んな、仕事着ではなくそれぞれの私服だ。

 なのに立ち方だけで、乗務員達だと分かる。

 

 エリンの表情が、ほんの少しだけ和らぐ。

 

「貴方達、訓練は?」

 

 少し嬉しそうで、少し呆れたような声だった。

 

 ミラがすぐに一歩前へ出る。

 

「それは帰ってからやります」

 

 きっぱりした返答だ。

 ランも、その隣で柔らかく笑う。

 

「それに皆んな、エリンさんを見届けたいんです」

 

 クミコが続ける。

 

「カイエさん達は来れないから、ちゃんと見送ってきてって言われました」

 

 その一言に、エリンは思わず小さく吹き出しそうになった。

 

「そう」

 

「はい!」

 

 アズサが元気よく頷く。

 その目は少し赤い。

 泣くまいとしているのが見え見えで、エリンは胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

「もう、皆んな本当に……」

 

 そう言いながらも、声はやわらかい。

 

 ユウコがにやっと笑う。

 

「エリンさんがいない間、こっちは任せてください」

 

 ナツキがすぐ横から肩を小突く。

 

「言うじゃん」

 

「事実でしょ」

 

 そのやり取りに、ミドリとサリーが思わず笑う。

 マユは静かに、けれど真っ直ぐにエリンを見ていた。

 

「帰ってきたら、また訓練つけてください」

 

 その言葉に、エリンは小さく息を飲んだ。

 

「……ええ、もちろん」

 

 短い返事だった。

 でも、その中にはきっと色々入っていた。

 

 その少し離れたところで、サツキもまた別の顔ぶれに呼び止められていた。

 宇宙管理局の整備班の仲間達だ。

 

「サツキ、ヘマすんなよ」

「帰ってきたら、アルテミスの癖ちゃんと全部聞かせろ」

「こっちで取れたログも回しとくから」

 

 ぞんざいな言い方だが、それが彼らなりの信頼なのだろう。

 サツキは珍しく口元を少しだけ和らげて頷く。

 

「分かってる」

 

 短い。

 でも、その短さの中に“任せろ”がちゃんとある。

 

 マリの周りには、宇宙管理局の面々がいた。

 

 ナミが真っ先に前へ出る。

 

「マリ」

 

 その声に、マリは少しだけ表情を緩めた。

 

「ナミ」

 

「気をつけて」

 

「うん」

 

 それ以上は、あまり多くを言わない。

 長く話せば余計な感情が前へ出ると分かっているのだろう。

 その代わり、ナミの隣にいたローズが小さく会釈する。

 

「こっちは任せてくれ」

 

「お願いします、ローズさん」

 

 マリは静かに頭を下げた。

 そのやり取りは短いのに、交わされる信頼は深かった。

 

 クリスタルは、少し離れた位置でスターフォックスの面々と話していた。

 

 昔からの付き合いなのだろう。

 冗談めいた言葉のやり取りをしながらも、どこかでちゃんと“帰ってこい”が伝わっている空気がある。

 クリスタルは珍しく肩の力を抜いた笑い方をしていた。

 

 そして、チャコとリュウジのところには、別の一団が集まっていた。

 

 ルナ。

 メノリ。

 シャアラ。

 ハワード。

 ベル。

 シンゴ。

 カオル。

 

 ラ・スペランツァの出発を見送るために、皆んなが集まっていたのだ。

 

「なんや、皆んな来てたんか」

 

 チャコが嬉しそうに耳を揺らす。

 

「全員が集まるのは久しぶりだな」

 

 リュウジも静かに言う。

 

「当たり前よ!」

 

 真っ先に言い返したのはシャアラだった。

 

「仲間を見送るんだから!」

 

「シャアラの言うとおりだ」

 

 ベルが落ち着いた声で続ける。

 

「ここで来ない理由がない」

 

 ハワードは、いつものようにどこか芝居がかった動きで紙袋を差し出した。

 

「差し入れも持ってきたぞ!」

 

 チャコが首を傾げる。

 

「これは、なんや?」

 

 ハワードは胸を張る。

 

「僕が出演している舞台の映像だ! 寂しくなったらいつでも見ていいぞ!」

 

 その場に一瞬、微妙な沈黙が落ちた。

 

 リュウジが「……ああ」とだけ言って受け取る。

 ベルが苦笑し、シャアラも肩を揺らす。

 シンゴは笑いを堪えきれていない。

 メノリだけが、ほとんど表情を変えずにそのやり取りを見ていた。

 カオルとルナは呆れた様子で苦笑していた。

 

「無茶だけはするな」

 

 メノリが、静かな声で言う。

 

「危険だと思ったら、帰ってこい」

 

 その言葉は、短い。

 でも飾りがない分、真っ直ぐだった。

 

 リュウジは、その視線をきちんと受けて頷く。

 

「分かってる」

 

 シンゴが、その横でチャコの方を見る。

 

「チャコもだよ」

 

「分かっとるがな」

 

 チャコがすぐに返す。

 

「ヘマするなよ」

 

 カオルが少しぶっきらぼうに言う。

 リュウジはその言葉に、わずかに口元を緩めた。

 

「そういえばカオルは、そろそろ宇宙飛行士の試験だろ」

 

「ああ」

 

 カオルが短く答える。

 

「お前こそヘマするなよ」

 

「分かってる」

 

 そのやり取りに、ルナが少しだけ困ったように笑った。

 

「二人とも」

 

 優しい声だった。

 

「何があっても無事に帰ってきてね」

 

 チャコがすぐに胸を張る。

 

「もちろんや」

 

 リュウジも、短く、しかしはっきりと答えた。

 

「ああ」

 

 ルナは、その返事を聞いて小さく頷く。

 その目には、心配も不安ももちろんある。

 でもそれ以上に、信じるしかないという静かな覚悟があった。

 

 メノリは、その横で少しだけ目を細めていた。

 何か言いたそうに見えたが、結局何も言わない。

 その沈黙自体が、彼女なりの“帰ってこい”なのだろう。

 

 

 そうして、それぞれの見送りが一段落した時だった。

 

 まるでタイミングを図ったみたいに、ラ・スペランツァの面々は自然と中央へ集まっていた。

 

 エリンがスペースホープの乗務員達へ最後に一度だけ手を振る。

 サツキは整備士達へ短く頷き、マリはナミ達へ小さく会釈する。

 クリスタルはスターフォックスの仲間達へ軽く肩を上げてみせた。

 チャコとリュウジも、ルナ達の前で足を止め、ほんの少しだけ呼吸を整える。

 

 両サイドの記者や見物客のざわめきが、一瞬だけ大きくなる。

 

 フラッシュが連続で光る。

 誰かが名前を呼ぶ。

 誰かが「行ってらっしゃい!」と叫ぶ。

 

 その中央で、六人は振り返らなかった。

 いや、正確には、振り返る必要がなかったのだろう。

 背中で十分に受け取っているからだ。

 

 前方には、宇宙船アルテミスへ続くドックブリッジが真っ直ぐ伸びている。

 白銀の船体は、既に起動準備の灯りを静かに灯していた。

 長期航行仕様の船体は、華やかな旅客船とは違う。

 どこか実直で、飾り気がなく、それでも確かな頼もしさがある。

 

 リュウジが、わずかに顎を上げた。

 

「行くぞ」

 

 その一言で十分だった。

 

 六人は、歩き出す。

 

 ブリッジを渡る足音は、思ったよりも静かだった。

 周囲のざわめきが大きいせいもある。

 けれど、その静かな足音が、逆に彼らの覚悟を際立たせていた。

 

 エアロック手前で、もう一度だけ小さな区切りがある。

 ここで外と中が分かれる。

 

 エリンはその瞬間、ほんの少しだけ後ろを見た。

 遠くに、スペースホープの乗務員達がまだ立っている。

 ミラが真っ直ぐこちらを見ていて、ランは静かに微笑んでいる。

 クミコが両手をぎゅっと握り、アズサは今にも泣きそうな顔で手を振っていた。

 その少し向こうには、ルナ達もいる。

 チャコへ向けて大きく手を振るシンゴ。

 じっと見ているメノリ。

 口元に手を当てたシャアラ。

 紙袋を抱えたまま大きく頷くハワード。

 ベルとカオルも、何も言わずにその場に立っていた。

 

 十分だ、とエリンは思う。

 

 ちゃんと見送ってもらえた。

 ちゃんと置いていくものもある。

 そして、ちゃんと帰ってこなければならない場所もある。

 

 それだけで、人は前へ進めるのだろう。

 

「エリンさん」

 

 隣でリュウジが小さく呼ぶ。

 

「ん?」

 

「行きます」

 

 それは確認ではなかった。

 ただ、一緒に進むための短い声だ。

 

「ええ」

 

 エリンは頷く。

 

 エアロックが開き、六人はアルテミスの中へ入った。

 

 

 船内へ入ると、外のざわめきは急に遠くなる。

 

 代わりに聞こえてくるのは、船内空調の一定の音。

 わずかに震える機器の始動音。

 生活区画へ繋がる灯りの連なり。

 そして、これから長い時間を共にする船の気配だ。

 

 サツキはまず機関区画側へ。

 マリは通信席の起動確認へ。

 チャコは副操縦席の補助系統を立ち上げる。

 クリスタルは医療区画とコックピットを繋ぐ動線を確認し、エリンは生活区画側の最終チェックへ向かう。

 

 リュウジだけが、真っ直ぐコックピットへ入った。

 

 それぞれが迷いなく自分の持ち場へ散る。

 何度も何度も訓練してきた流れだ。

 今さら確認し合う必要すらない。

 

 エリンは、仮眠室の入口を一度だけ見た。

 キッチンの配置。

 食料区画の扉。

 数日前、サツキに案内してもらいながら頭へ叩き込んだ動線が、そのまま身体へ落ちている。

 

 大丈夫。

 自分はここで働ける。

 

 その確信を持ったまま、エリンはコックピットへ戻る。

 

 全員が揃う。

 席へ着く。

 表示が一つずつ生きる。

 

 外部モニターへ、宇宙管理局のドックが映し出された。

 小さく揺れる人影。

 手を振る人々。

 カメラのフラッシュ。

 全部がもう少ししたら遠ざかる。

 

「最終確認、終わり」

 

 サツキの声が後方から届く。

 

「通信回線、正常」

 

 マリが続く。

 

「医療区画、問題なし」

 

 クリスタル。

 

「補助系、いけるで」

 

 チャコ。

 

「生活区画、船内、問題なし」

 

 エリン。

 

 最後に、リュウジが一つ頷いた。

 

「発進する」

 

 それだけだ。

 

 宇宙管理局側の管制から、ローズの落ち着いた声が届く。

 

『こちら宇宙管理局管制。アルテミス、発進許可』

 

 その声の端に、どこかペルシアの影を感じたのは気のせいではないだろう。

 今、あちら側を支えているのも、また大事な仲間なのだ。

 

「アルテミス、了解」

 

 リュウジが返す。

 

 次の瞬間、船体が静かに震えた。

 

 大きく揺れるわけではない。

 けれど、内部の床を通じて、確かにエンジンの意志が伝わってくる。

 固定具が外れる。

 ドックアームが離れる。

 船体が、ゆっくりと前へ押し出された。

 

 外部モニターの中で、宇宙管理局のドックが少しずつ遠ざかる。

 見送りの人影が小さくなっていく。

 それでも、まだ見える。

 スペースホープの乗務員達が揃って手を振っている。

 ルナが胸の前で手を組み、チャコへ向かって大きく頷いていた。

 メノリは最後まで真っ直ぐにこちらを見ていた。

 

 チャコが、モニターを見ながら小さく呟く。

 

「行ってくるで」

 

 それは誰に向けたものだったのか、きっと本人にも分かっていない。

 でも、それで十分だった。

 

 アルテミスは、ゆっくりとドックを離れ、やがてコロニーの外郭へ向かって進路を取る。

 

 人工光が流れていく。

 規則正しい壁面が遠ざかる。

 そしてその先に、黒い宇宙が開いた。

 

 どこまでも深い闇。

 それでも、ただの闇ではない。

 無数の星が散り、遠くに火星の光が浮かび、その向こうに未探索の空間が広がっている。

 

 リュウジが操縦桿へ手を置く。

 サツキが機関の安定を見守り、マリが通信の遅延値を確認する。

 クリスタルは全員の気配を一度だけ見て、チャコは副操縦席で耳を揺らした。

 エリンは深く、静かに息を吸う。

 

 とうとう始まる。

 

 訓練は終わった。

 見送りも終わった。

 ここから先は、全部が本番だ。

 

 アルテミスは、静かに宇宙へと飛び立っていった。

 

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