教育便をチーフパーサーとしてきっちり回し切った翌日。
スペースホープの旅行事業部のフロアには、久しぶりに少しだけ穏やかな空気が戻っていた。
もちろん、完全に気が抜けているわけではない。
未探索領域へ出たアルテミスのことは皆んな気にしているし、エリンがいない今、どこかで普段より一段だけ気を張っている。
それでも、昨日の便が大きな問題なく終わったことは確かに大きかった。
ペルシアがチーフパーサーとして立ち、ミラ達がその下で動き、教育便を最後まで崩さず回せた。
その実感は、七人だけでなく、フロアに残っていた他の乗務員達にもじわじわと伝わっている。
だから、朝の旅行事業部のフロアには、ほんの僅かだが“次もやれるかもしれない”という空気があった。
その中心にいる当の本人――ペルシアは、そんな前向きな空気を台無しにしかねない顔で、端末の前に座っていた。
宇宙事業部から借りている大きめのスケジュール端末を、片肘をつきながら眺めている。
画面には、来月と再来月の予定表が月単位でずらりと並んでいた。
そして、その大半が白い。
真っ白だ。
びっくりするほど、真っ白。
ペルシアはその画面をしばらく無言で見ていたが、やがて本当に呆れたようにぽつりと呟いた。
「真っ白なんだけど」
その声は、聞こえるか聞こえないかの絶妙な大きさだった。
だが、フロアの中でその手のぼやきを聞き逃す者はいない。
少し離れた席で、次便の乗務記録を整理していたミラが顔を上げる。
「それはそうですよ」
あまりにも当然、という言い方だった。
「少しずつですが、予約が入り始めたばかりですから」
ミラの返答に、ペルシアはゆっくりと顔を上げた。
「いや、分かってるわよ? 分かってるけど」
言いながら、端末の画面を指でつつく。
「ここまで真っ白だと、逆に不安にならない?」
「私はちょっとなります」
と、近くで書類を揃えていたクミコが正直に答える。
「でしょう?」
ペルシアが勢いよく食いつく。
「ねぇ、ちょっと怖いよね?」
「怖いというか……落ち着かないです」
「でしょでしょ」
ペルシアは、そこで急に元気になった。
対して、ミラは淡々としている。
「でも、今月に入って教育便と小規模便の話が少しずつ増えてきてますし」
「増えてるけど、まだ少ないのよ」
ペルシアが即座に言い返す。
「シュミレーションばっかりだと面白くないしなぁ〜」
その言い方に、ミラは何とも言えない顔になった。
面白いかどうかで仕事を語るのは、いかにもペルシアらしい。
だが、言っていること自体は間違っていないのも困る。
現場経験を積ませるには、やはり実際の仕事量が欲しいのだ。
「そうだ」
唐突に、ペルシアが顔を上げた。
目がきらりとした。
そのきらりを見た瞬間、ミラの背筋に嫌な予感が走る。
「いい事、思いついた」
ペルシアが言う。
ミラは、ほとんど反射で小さく呟いた。
「何か嫌な予感がする……」
その声は本当に小さかった。
だが、ペルシアにはしっかり聞こえていたらしい。
「ひどくない?」
すぐに抗議が飛んでくる。
「まだ何も言ってないのに」
「ペルシアさんの“いい事”は大体ろくでもないんです」
ミラが真顔で返すと、近くにいたランとクミコが思わず吹き出した。
「ちょっと、ランまで笑ってるじゃない」
ペルシアがむっとする。
ランは慌てて口元を押さえた。
「い、いえ……失礼しました」
「でも否定しないんですね」
クミコがぽつりと言うと、今度はフロアの空気が少しだけ和んだ。
ペルシアは、そんな反応を一度ぐるりと見回してから、ふっと笑った。
「まあいいわ。今回はちゃんと仕事の話よ」
その一言で、旅行事業部の面々の顔つきが少しだけ真面目になる。
ペルシアは、もう一度端末を引き寄せると、別画面を立ち上げた。
そこには宇宙管理局の内線番号と、役員一覧に近い連絡先データがずらりと並んでいる。
「まずは、こっちからね」
そう言って、宇宙管理局長の連絡先を開いた。
ミラが一瞬だけ目を見開く。
「え、局長ですか?」
「そう」
ペルシアは迷いなく発信ボタンを押す。
「営業はまず偉い人からやるの」
「営業って……」
ミラが呆れ半分で呟く。
でも、止められない。
ペルシアは既に通話モードに入っていた。
数コールのあと、繋がる。
『……はい』
低く落ち着いた、しかし少しだけ疲れた声だった。
宇宙管理局長だ。
未探索領域の調査を送り出したばかりなのだから、疲れていない方がおかしい。
「局長ぉ〜」
ペルシアの声が、一瞬で二段階ほど柔らかくなる。
『その声はペルシアか』
「そうです、愛しの部下です」
『面倒な前振りだな。要件はなんだ?』
即座に切られた。
ペルシアはそれにもめげない。
「まずは未探索領域の調査の進捗確認!」
『順調だ』
「ほんとに?」
『ほんとだ』
「エリンとか、皆んな、揉めてない?」
『今のところはな』
その短いやり取りに、ミラ達は少しだけほっとした。
アルテミス側は順調らしい。
それをペルシアも感じ取ったのか、少しだけ息を抜いてから本題へ入る。
「で、ここからが要件なんだけど」
『やはりな』
「未探索領域が終わったら、宇宙管理局の社員旅行にスペースホープを使わない?」
フロアが一瞬、静まった。
ミラが無言で目を閉じる。
ランは静かに天井を見た。
クミコは思わず「社員旅行」と小さく口に出してしまう。
だが、ペルシアは気にしない。
『……は?』
局長の声が、本気で間の抜けたものになった。
「だから、社員旅行」
『聞こえている』
「じゃあ話早いじゃない」
『早くない』
局長の返答は重い。
当然だ。
未探索領域の調査を送り出したばかりで、今度は社員旅行の話をされているのだから。
それでもペルシアはにこにこしている。
「ほら、仕事ってさ、外から降ってくるの待つだけじゃ駄目じゃない?」
『それを宇宙管理局に言うか』
「言うわよ。だって局長、今なら私に恩あるでしょ?」
『ない』
「えー」
『ない』
きっぱりしている。
だが、ペルシアは止まらない。
「でも、未探索領域終わったら局員の皆んな、絶対疲れてるじゃない。そこでぱーっと一回、教育と慰労を兼ねた旅行でも――」
『“ぱーっと”で決まるような規模じゃない』
「そこを何とか」
『何とかならん』
即答。
ミラが内心で“当然です”と頷く。
だがペルシアは、そこで急に話の角度を変えた。
「じゃあさ、社員旅行は置いといても、役員にも仕事として使うよう宣伝していい?」
『……は?』
「研修とか視察とか、外部連携とか、そういう名目でスペースホープ使っていい? って話」
局長はしばらく黙った。
その沈黙だけで、頭の中で“面倒だな”と“だが完全に無視も出来ん”がぶつかっているのが分かる。
『……とりあえず』
やがて、非常に渋い声が返ってきた。
『明確に宇宙管理局の名前を出して勝手な宣伝をしない限りは、好きにしろ』
「やった!」
『ただし、トラブルは持ち込むな』
「持ち込まない持ち込まない」
『信用できないな』
「ひどい」
『では切るぞ』
「局長愛してる!」
通話が切れた。
ペルシアは満足そうに端末を置いた。
その顔は、本当に満足げだった。
まるで大きな契約を一つ決めてきた営業マンみたいな顔である。
「……渋々ですけど、了承は取れたんですか?」
ミラが慎重に聞く。
「取れた取れた」
ペルシアが軽く手を振る。
「よかったじゃない」
「よかった、ですかね……」
クミコが首を傾げる。
「局長さん、ものすごく嫌そうでしたけど」
「そこは気にしない」
ペルシアは即答する。
「大事なのは、“好きにしろ”を取ったことだから」
その理屈に、ランが静かに苦笑した。
確かに、そうとも言える。
言えるが、普通はそこから先を慎重に進めるものだ。
しかし、ペルシアは普通ではない。
「じゃあ次」
と、もう次の連絡先を開き始めていた。
「え?」
「役員」
さらりと答える。
「営業は足でやるものだけど、今は電話の方が早いし」
「……もう始めるんですね」
ミラの声に、疲れが滲んだ。
「当たり前でしょ。鮮度が大事なんだから」
何の鮮度なのか分からないが、ペルシアの中では重要らしい。
そして、そのまま本当に役員へ電話をかけ始めた。
◇
最初の相手は、宇宙管理局の外郭に近い部署の役員だった。
「はい、もしもし。ペルシアですぅ」
最初の声音は、仕事用の柔らかい声。
だが、その中に妙な勢いがある。
「今、少しだけお時間いいです? スペースホープの件で」
それを聞いて、ミラはそっと額を押さえた。
嫌な予感は当たる。
やはりろくでもない方向へ進んでいる。
電話の向こうで何か返答がある。
それに対してペルシアは、にこやかに説明を始めた。
「そうですそうです。今、教育便も順調でして。今後、研修や視察や小規模旅行で、スペースホープを使っていただけないかと――」
だが、そう簡単にはいかない。
役員の返答は、ほぼ一様だった。
難しい。
前例がない。
安全面はどうか。
実績は十分か。
判断材料が足りない。
ペルシアはそれでも引かない。
「だったら一回、企画書を見てもらえれば」
その言葉を、自分で言った瞬間だった。
フロアの空気が、ぴたりと止まった。
ミラが目を見開く。
ランが無言で顔を上げる。
クミコは「企画書」と口の中で繰り返した。
電話口の役員は、しばらく何かを言ったあと、結局こう返したらしい。
「とりあえず企画書を見て判断したい」
ペルシアは、その瞬間だけ満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます! では早急に!」
そう言って電話を切る。
端末を置く音が、妙に明るかった。
「よし」
ペルシアが満足そうに頷く。
「ミラ、企画書作って」
間髪入れず、それだった。
ミラは、反応が一拍遅れた。
「……え?」
「企画書」
ペルシアが当然のように言う。
「今の聞いてたでしょ」
「無理ですよ」
ミラは、ほとんど反射で答えていた。
「作った事ないですし」
「え?」
今度はペルシアの方が目を丸くする。
「ランは?」
ランが、静かに首を横へ振る。
「私もないです」
その言い方があまりにも落ち着いていて、一瞬だけ説得力が倍増する。
「えっ、じゃあ誰が作るの?」
ペルシアが本気で困った顔をする。
クミコは思わず手を上げかけて、いや自分ももちろん作れないと気づいて止めた。
アズサも口を開いたまま固まっている。
ミドリとサリーは、そもそも“企画書”の段階で少し身構えていた。
「エリンから企画書の作り方聞いてる人いる?」
ペルシアが言う。
シーン、とフロアが静まる。
誰も手を挙げない。
当然だ。
エリンは現場の訓練も、教育便の積み上げも、マニュアルの調整もやっていた。
だが“企画書の作り方講座”まではやっていない。
ペルシアは、その沈黙を見渡してから、ぽつりと呟いた。
「エリンの職務怠慢だ」
「違いますよ!」
ミラが即座に言い返す。
ペルシアは不服そうだ。
「だって必要じゃない、こういうの」
「必要かもしれないですけど、今言います?」
「今必要になったんだから今言うのよ」
理屈が通っているような通っていないような、絶妙な言い分だった。
その時、クミコが恐る恐る口を開いた。
「ペルシアさんは、作れないんですか?」
その問いは素朴だった。
でも、フロアの全員が同じことを思っていた。
ペルシアほど色々やってきた人なら、当然作れるのではないか、と。
ところが、ペルシアは胸を張って答えた。
「無理無理」
あまりにもあっさりしていた。
「どちらかと言うと私は審査する側だし」
その返答に、フロア中が妙な沈黙に包まれる。
なるほど。
作る側ではなく、見る側。
たしかに、そう言われると妙に納得してしまうのが腹立たしい。
「しょうがないわねぇ」
ペルシアは、全く懲りた様子もなく端末を開いた。
「外部から調達するか」
「企画書をですか?」
アズサが本気で目を丸くする。
「人材をよ」
ペルシアが当然のように答える。
そして、まずククルへ連絡した。
◇
「ククル? 今忙しい?」
開口一番、甘い声だった。
どうやら通話相手はすぐに出たらしい。
ククルの元気な声が、外へ漏れるほど大きく聞こえてくる。
『忙しいですよ! どうしたんですか急に!』
「やっぱり?」
『やっぱりって何ですか!』
「いやあ、企画書作ってほしいなぁって」
『無理です!』
即答だった。
フロアの皆んなが、思わず同時に目を伏せる。
「早くない?」
『早くないです! 今こっちも便の準備と書類で手一杯ですから!』
「じゃあ、一行だけでも」
『一行でも無理です!』
ぴしゃりと切られる。
「薄情」
『なんでですか!』
ククルの声は最後まで元気だったが、やはり忙しいのだろう。
通話はあっさり切れた。
「はい、次」
ペルシアは切り替えが早い。
今度はカイエへかける。
「カイエちゃん、元気〜?」
『その呼び方でかかってくる時点で嫌な予感しかしません』
受話器の向こうで、既にガードが固い。
ミラが少しだけ感心した。
カイエ、学んでいる。
「企画書作って」
『嫌です』
これも即答だった。
「何でよ」
『今、私は副パーサーとして自分の便の準備があります』
「それ終わってからでいいから」
『終わったら休みます』
「若いんだから寝なくていいじゃない」
『寝ます』
こちらも容赦ない。
通話が切れたあと、ペルシアは本気で頬を膨らませた。
「最近の子、冷たい」
「いや、当然だと思います」
ミラが冷静に言う。
だがペルシアは聞いていない。
次はエマへ連絡していた。
「エマちゃん」
『嫌です』
「まだ何も言ってない」
『企画書ですよね』
「何で分かったの?」
『カイエから連絡きました』
早い。
あまりにも早い。
「仕事が速いのね」
『断る方も仕事が速いんです』
その一言で、またフロアに笑いが起こる。
ペルシアは「もぉ〜」と不満そうに端末を睨んだ。
ククル、カイエ、エマ。
三人に断られた。
しかも、断り方に一切の迷いがない。
これではもう脈がないのは明らかだ。
「しょうがないわね」
ペルシアは、そこで本当に少しだけ考え込んだ。
次の相手を脳内で探しているのだろう。
ミラは、その横顔を見ながら“お願いだからもう無茶を言わないでほしい”と思っていた。
だが、ペルシアの中では既に答えが出たらしい。
「あ」
と小さく呟く。
「いたじゃない」
その“いた”に嫌な予感しかしない。
「誰ですか」
ランが静かに聞く。
ペルシアは、にやりと笑った。
「ガーネット」
ミラは思わず目を閉じた。
クミコは「ああ……」と小さく声を漏らす。
アズサは“最後の砦”みたいな響きを感じ取って、少しだけ背筋を伸ばした。
ペルシアは迷わず発信する。
数コール。
そして、通話が繋がった。
『はい、ガーネットです』
受話器越しでも分かる。
整った声。
仕事中の、少しも乱れのない声音。
「ガーネットちゃん〜」
ペルシアの声が一気に甘くなる。
『その呼び方の時は面倒な話ね』
即座に見抜かれた。
「ひどい」
『要件は?』
ガーネットは本当に揺らがない。
その声に、フロアの何人かが“やっぱりガーネットさんってすごい”と心の中で頷いた。
ペルシアは、最初こそ軽く入ろうとしたが、途中で作戦を変えたらしい。
やや大げさに、しかし本気で困っていることを前面に出し始めた。
「企画書が必要なのよ〜」
『ええ』
「でも誰も作れないの」
『ええ』
「ククルもカイエもエマも断るし」
『当然でしょ』
「そこを何とか」
『私は今、忙しいのよ』
「知ってる」
『ならどうして』
「ガーネットしかいないのよ!」
その一言は、妙に真実味があった。
フロアにいる皆んなも、思わず頷いてしまう。
実際そうなのだ。
ガーネットなら、作る。
しかも、ちゃんとしたものを。
だが、ガーネットも簡単には折れない。
『私も今の仕事があるので』
「そこを何とか……」
『無理』
「お願い、ガーネット」
『……』
少しだけ沈黙。
ペルシアは、そこで最後の手段に出た。
「エリンがいない今、私、一人で宇宙事業部と旅行事業部の間を走り回ってるのよ」
これは事実だ。
「しかも営業までやって、仕事取ろうとしてるの。偉くない?」
『最後の一言で台無しよ』
ガーネットの返しは鋭い。
フロアでは、思わず笑いを堪える者が何人もいた。
だが、ペルシアは止まらない。
「でも、本当に困ってるの」
今度は少しだけ本気の声になった。
「せっかく話は繋がったのに、企画書一つで止まりたくない」
その言葉だけは軽くなかった。
ガーネットも、それを感じ取ったのだろう。
受話器の向こうで長く息を吐く気配があった。
『……いつまでに必要なの』
その一言に、ペルシアの目がぱっと輝く。
「今日!」
『無理』
即座に切られる。
「じゃあ明日!」
『明日もかなり厳しい』
「明後日!」
『……』
「ガーネットぉ」
『分かったわよ』
ようやく、折れた。
『たたき台だけなら作るから、でも私一人で全部は無理』
「やったぁ!」
ペルシアが本気で嬉しそうに声を上げる。
クミコが思わず拍手しそうになる。
アズサは「すごい……」と呟き、ミラは“本当に通した”と額を押さえた。
『ただし、そっちでも情報整理はしなさいよら』
「するする!」
『本当?』
「本当よ!」
『信用していないけど、一応期待してるわ』
そこで通話が切れる。
ペルシアは端末を抱きしめるようにして、満面の笑みを浮かべた。
「やっぱり持つべきものは優秀な仲間ね」
「泣きついてましたよね、今」
ミラが冷静に指摘する。
「泣きついてないわよ」
「かなり泣きついてました」
「表現の違い」
「違いません」
そのやり取りに、フロア中の緊張がふっと緩んだ。
企画書はまだない。
仕事もこれからだ。
でも、少なくとも“動くための最初の一歩”は繋がった。
ペルシアは、そのままくるりと振り返る。
「よし」
そして、にっと笑った。
「皆んな、情報出して。今から企画書の材料集めるわよ」
その一言に、旅行事業部の空気が再びきりっと引き締まる。
やっぱり、この人が上に立つと忙しい。
忙しいし、振り回される。
でも、不思議と止まってはいられなくなる。
ミラは深く一つ息を吐いてから、端末を開いた。
嫌な予感は、たいてい当たる。
でも、それが全部悪い方向へ行くとは限らないのだと、最近少しずつ分かってきていた。
ーーーー
次の日の朝。
旅行事業部のフロアは、前日までの慌ただしさを少しだけ引きずりながらも、いつもどおりの始業時間を迎えていた。
とはいえ、“いつもどおり”というには少しばかり空気が浮ついている。
それも無理はない。
昨日、ペルシアが宇宙管理局長を巻き込み、役員へ電話をかけ、企画書を出せば判断するというところまで話を持っていったのだ。
普通なら、それで一旦止まる。
いや、正確には、止まるしかない。
企画書がないのだから。
だが今の旅行事業部には、“叩き台をガーネットが作る”という、半ば奇跡のような細い糸が一本だけ繋がっていた。
その糸が本当に今日届くのか。
明後日になるのか。
そもそも、どの程度の仕上がりで来るのか。
皆んながそれぞれに気になっていた。
そして、その中で一番落ち着きがないように見えて、一番平然としているようにも見えるのがペルシアだった。
始業してからまだ十分も経っていないというのに、ペルシアは自分の端末を前にしながら、机の端に肘をついて、足を軽く組み替えている。
視線は一見すると穏やかだが、ミラから見れば分かる。
あれは、待っている。
ミラはその少し離れた席で、受信ボックスを整理しながら、こっそりとそんなペルシアの様子を見ていた。
(落ち着いてるようで、絶対そわそわしてる)
そう思った瞬間だった。
「ペルシアさん」
フロアの奥から声がした。
ユウコだ。
端末を片手に、少しだけ早足でこちらへ来る。
「どうしたの?」
ペルシアが、努めてなんでもない風を装って顔を上げる。
「ガーネットさんから、企画書の叩き台が届いてます」
その一言で、旅行事業部の空気がぴしりと変わった。
ペルシアが椅子から半分立ち上がりかける。
「ほんと!?」
「はい」
ユウコは少しだけ目を丸くした。
だがすぐに頷く。
「今、私の方に共有で来ました」
「え、もう?」
ペルシアが端末を引き寄せる。
「明後日って言ってたけど、もう仕上げてくれたのね」
その声音には、素直な驚きと、そして少しだけ嬉しさが混じっていた。
「ガーネットさんですから」
ランが静かに言う。
「約束したものは早いんじゃないですか」
「いや、それにしても早いわよ」
ペルシアは本気で感心していた。
「ほんと優秀よねぇ……私の仲間たち」
その言い方に、ミラは小さく苦笑する。
昨日、電話口でほとんど泣きつくように頼み込んでいたことは、きれいさっぱり棚へ上げている。
だが、そんなことを指摘する暇もなく、ペルシアはもうデータを開いていた。
ガーネットから送られてきた企画書の叩き台は、最初のページを開いた瞬間に“ああ、ガーネットだ”と分かるものだった。
無駄がない。
表紙は質素だ。
色も飾りもほとんどない。
だが、タイトルは明確で、何の企画なのか一目で分かる。
――スペースホープ教育・研修便活用企画書(案)
その下には、目的、背景、想定対象、運航の特色、安全面、教育効果、費用感、実施モデル――そういった項目が、過不足なくきっちり並んでいる。
派手さはない。
営業向きの香りもまだ薄い。
だが、骨組みとしては異様に強い。
ミラは、少し離れた場所から画面を見て、思わず息を呑んだ。
ガーネットは、やはりエリンに近い。
余計なことは書かない。
でも、必要なことは全部入っている。
ペルシアは、最初の二ページを流し読みしたところで、口元をわずかに上げた。
「うん」
その短い相槌には、満足がはっきり滲んでいる。
「骨は完璧」
それだけ言って、次の瞬間には指が動き始めた。
旅行事業部の面々は、その空気に引き寄せられるように、自然とペルシアの周りへ集まり始めていた。
アズサが一番近くに来て、画面を覗き込む。
クミコとハズキも気づけば立ち上がっている。
ミラとランは少し引いた位置から見ていた。
サリー、マユ、ミドリ、ナツキも、それぞれの席から端末を持ったまま視線を寄せている。
ペルシアは、もう周囲を意識していなかった。
ガーネットの叩き台を土台にしながら、しかしそのまま使うわけではない。
目的の書き方を変える。
“教育・研修便として利用可能”という事実だけでは弱い。
そこへ“組織内連携の強化”“福利厚生と研修の両立”“閉鎖環境下における危機対応意識の醸成”といった、役員が好きそうな言葉を滑り込ませる。
安全面の説明も変える。
“安全です”と書いても響かない。
“既存運航実績”“教育便における運航管理体制”“緊急時の即応フロー”といった、審査側が安心しやすい形へ整理し直す。
研修モデルの見出しも、ただ“宇宙船見学”では弱い。
“次世代人材育成プログラム”“幹部候補者向け視座拡張研修”“チームビルディング型短期航行プラン”――そういった単語に変換されていく。
ガーネットの叩き台は、土台として極めて優秀だった。
だからこそ、ペルシアはそこへ“売るための言葉”を乗せていける。
ミラは、その作業を見ていて、少しずつ寒気にも似た感覚を覚えていた。
(すごい……)
素直にそう思う。
昨日までは、企画書がないことに頭を抱えていた人だ。
しかも自分では作れないと堂々と言い切っていた。
だが、いざ土台が来れば違う。
どこを足せば、誰が食いつくか。
どの表現を変えれば、“ただの教育便”が“組織にとって使う意味のある企画”へ見えるか。
それを、ほとんど迷いなくやってのける。
エリンが企画書を書く時は、もっと丁寧に順番を積み上げていくのだろう。
読み手の不安を一つずつ消し、現場との整合性を落とさずに磨いていく。
対してペルシアは、明らかに“読む相手の顔”から逆算している。
審査されるものとしてではなく、通すものとして直しているのだ。
ミドリが、思わず小声で呟く。
「なんか……」
サリーがその続きを拾うように言う。
「言葉が、どんどん変わっていく」
「うん」
マユも頷く。
「でも、嘘っぽくはならない」
「そこなのらよね」
ランが静かに言った。
「ただ盛ってるわけじゃないのよね。見せ方を変えてるだけで」
クミコは、その言葉を聞きながら画面から目を離せなかった。
ガーネットの叩き台も十分にきれいだった。
でも、今ペルシアが直していくうちに、同じ内容がまるで別の企画のように“立ち上がって”くる。
対象別の見出し。
利用目的ごとのモデルプラン。
研修・視察・福利厚生・小規模旅行への転用性。
エリンが残していった教育便の実績。
今後の宇宙管理局との連携可能性。
あちこちに繋がる線が見えてくる。
アズサはぽかんとした顔で画面を見つめたまま、本気で感嘆していた。
「すご……」
ハズキも、ほとんど同じタイミングで呟く。
「すごい……」
クミコは、その二人の言葉に頷くことしか出来なかった。
ペルシアは、そこからさらに一時間近く、ほとんど一言も無駄話をせずに端末へ向かい続けた。
指が止まる時は、言葉を選ぶ時だけ。
その選び方も、消して、戻して、迷って、というより、“今のは弱い”“こっちの方が通る”と即断していく。
そして。
最後のページのレイアウトを整え、送付用の表題を付けたところで、ペルシアは大きく伸びをした。
「できた!」
その声が、フロアに響く。
アズサ、ハズキ、クミコは、思わず顔を見合わせてから、まるで示し合わせたみたいに同時に呟いた。
「すごい……」
ミラは、そこでようやく深く息を吐いた。
本当に仕上げた。
しかも、ちゃんと“通しにいく企画書”として。
「よし」
ペルシアは、そこで満足げに肩を回した。
「後は営業ね」
その言葉に、ミラの眉がぴくりと動く。
「……まだあるんですか」
「何言ってんのよ」
ペルシアがきょとんとする。
「企画書は送るだけじゃ駄目でしょ。送った後に電話して、“読ませる”の」
その理屈は、間違っていない。
間違っていないからこそ、誰も何も言えなかった。
◇
そして、ペルシアは本当に企画書を役員達へ片っ端から送りつけた。
“送る”というより、“撃ち込む”に近い勢いだった。
部署ごと、役職ごと、立場ごとに、送付文の前書きまで微妙に変えていく。
ある者には“研修効果”を前面に。
ある者には“視察名目での運用可能性”を。
福利厚生寄りの部署には“少人数高付加価値便”を。
保守的な相手には“既存実績と安全面”を強調する。
そして送った端から、また電話だ。
「もしもし、ペルシアです。今お送りした企画書、三ページだけ見てもらえます?」
最初の役員は、いかにも忙しそうな声だった。
だがペルシアはひるまない。
「そうですそうです、“幹部候補者向け視座拡張研修”って書いてあるところ。そこ、御社の今の育成方針とかなり相性いいと思うんですよね」
相手が何か返す。
ペルシアは、その言葉尻を逃さない。
「ええ、もちろん費用対効果の話にもなりますよね。だからこそ、通常の地上研修との差別化をここで出してるんです」
ミラは、少し離れた席でそのやり取りを聞きながら、目を見開いていた。
すごい。
いや、本当にすごい。
相手が迷った時の声の色。
そこへどの言葉を差し込むか。
“教育的意義”が刺さらない相手には“対外的アピール”を。
“面白さ”に反応しそうな相手には“先進的な取り組み”を。
とにかく、相手が今一番拾いやすいものを投げる。
ランも、静かにその横顔を見つめていた。
ペルシアが客室でやっていたことと、今やっていることは、形は違うのに本質が同じだと気づく。
相手の空気を読む。
必要なものを、必要な形で渡す。
そして、通す。
今度の電話の相手は、最初から難色を示していた。
『いや、うちはそういう娯楽的なものはちょっと』
「娯楽じゃありませんよ」
ペルシアの声が一段落ちる。
柔らかいが、芯が入る。
「もちろん楽しい時間にも出来ます。でも、今回の提案は“宇宙環境を使った組織内研修”として見ていただきたいんです」
相手が少しだけ黙る。
「閉鎖空間、役割分担、限られたリソース。そういう状況の中で、チームがどう動くかを見るには、地上よりずっと分かりやすいです」
言葉に、現場感がある。
ただの営業文句ではない。
だから相手も、完全には切れない。
「ええ、そうです。ですから一度、小規模からでもご検討いただければ」
数分後。
その役員は完全な了承ではないにせよ、“じゃあ一度、内部で回してみます”というところまで来ていた。
ペルシアは通話を終えると、にやりと笑う。
「一件目」
その言い方が、狩りを終えたみたいで、アズサが思わずごくりと唾を飲み込んだ。
そこから先は、もう凄かった。
電話を切る。
次をかける。
また切る。
必要なら少しだけ企画書の文面を修正してから送り直す。
“その部署向け”の言い回しへ一行だけ差し替える。
そしてまた電話する。
ミドリは、いつの間にか自分の仕事の手を止めて見入っていた。
サリーも同じだ。
ナツキは腕を組みながら、思わず小さく笑う。
「なんだかんだで」
ぽつりと言う。
「ペルシアさん、やっぱり凄いですね」
「うん……」
ミドリが素直に頷く。
「なんていうか、営業ってこうやるんだって感じ……」
「営業、というより」
マユが静かに言葉を選ぶ。
「相手を落としに行ってますね」
「落としに行くって言い方、ちょっと危ないけど」
ナツキが笑う。
「でも分かる」
サリーも、小さく頷いた。
「しかも、押すだけじゃないです」
「そうそう」
ランがそこへ加わる。
「押す時は押すけど、引く時も早い。無理に今答えを取ろうとしない」
ミラは、そこでようやく自分の感想を口にした。
「多分、相手が“今どこまで言えるか”をちゃんと聞いてる」
それは客室でやっていたことと同じだ。
今、どの言葉が相手に入るのか。
今、どこまで押すと嫌がられ、どこまでなら“検討する”に持っていけるのか。
その境目を、ペルシアはほとんど本能みたいに読んでいる。
その読みが当たるから、電話の本数の割に成果が出る。
昼を回る頃には、明確に“前向きに検討する”と言った役員が三人。
小規模研修案として部内回覧に回すと言った部署が二つ。
来月の短期視察便として日程のたたき台を欲しいと言ってきた部署が一つ。
完全な予約確定ではない。
だが、昨日までの真っ白な予定表を思えば、とんでもない前進だった。
ペルシアは、最後の通話を切ったあと、大きく椅子へもたれた。
「はー」
深く息を吐く。
「やっぱり仕事って、待ってるだけじゃ駄目ね」
その言い方に、ミラは苦笑した。
「待ってるだけじゃ駄目なのはそうですけど」
「けど?」
「ペルシアさんのやり方は、ちょっと普通じゃないです」
その指摘に、ペルシアはにこっと笑った。
「褒めてる?」
「……たぶん」
「よろしい」
その返しまで軽い。
でも、その軽さの下に、確かな手応えがあった。
ランは、静かに画面へ映る更新済みの予定表を見ていた。
白かった部分に、ほんの少しずつ色が乗り始めている。
仮押さえ。
企画検討。
研修候補。
小規模視察便。
まだ確定ではない。
でも“何もない白”ではなくなった。
クミコは、その画面を見ながら胸の奥が熱くなるのを感じていた。
エリンがいない。
未探索領域へ出ている。
それでもこちらは止まっていない。
むしろ、止まらずに前へ進もうとしている。
その中心で、ペルシアは営業という別の戦い方で仕事を取ってきた。
アズサが、ぽつりと呟く。
「なんか……」
「うん」
ハズキが先に頷いた。
「すごかった」
その感想が、一番素直で正しい気がした。
ミラも、ランも、サリーも、マユも、ミドリも、ナツキも。
誰も否定しない。
なんだかんだで、ペルシアさんはやっぱり凄い。
その思いが、フロアのあちこちに静かに広がっていった。
ーーーー
旅行事業部のフロアに、甲高い歓声が響いた。
「よっしゃー!」
ペルシアが、ほとんど椅子から飛び上がるような勢いで叫んだのだ。
その声に、フロア中の視線が一斉に集まる。
ミラは端末から顔を上げ、ランは静かに瞬きを一つした。
クミコは思わず肩を揺らし、アズサとハズキは「えっ、何!?」と顔を見合わせる。
サリーでさえ、珍しくはっきりと反応していた。
ペルシアは、そんな皆の注目を一身に浴びながら、端末を高く掲げた。
「ほぼ役員全員からフライトの予約、勝ち取ったわよ!」
一瞬、間。
そして次の瞬間、フロアがどっと沸いた。
「ええっ!?」
「すごい!」
「ほんとですか!?」
「そんなに!?」
アズサが両手を口元へ当て、ハズキが目を丸くする。
クミコは驚きすぎて、椅子から半分立ち上がっていた。
ミドリとマユも、画面を覗き込みたい気持ちを隠せず席を離れ始める。
ミラだけは、ほんの一拍置いてから、ゆっくりと息を吐いた。
「……やっぱり」
「何よ、その“やっぱり”って」
ペルシアが不服そうに唇を尖らせる。
「いや、そこまで行くんだろうなとは思ってましたけど」
「褒めてる?」
「褒めてます」
ミラが真顔で答えると、ペルシアはすぐに機嫌を直した。
「ふふっ」
その笑い方が、もう隠しきれていない。
完全に調子へ乗っていた。
端末の画面を勢いよく開き、フロアの皆へ見せるように向ける。
「見て見て」
言いながら、来月と再来月のスケジュール表を拡大する。
昨日まで、あれほど白かったマス目が、今は見る見るうちに色付いていた。
仮押さえ。
候補日。
検討確定。
社内研修便。
役員視察便。
少人数小規模旅行。
教育・交流プログラム。
それぞれ違う色の帯が、ほとんど隙間なく入り始めている。
「ふふっ、再来月のスケジュールがびっしり埋まったわよ」
ペルシアが胸を張る。
その言い方に、ナツキが小さく吹き出した。
「“ふふっ”じゃないですよ、ほんとに埋まってるじゃないですか」
「でしょ?」
ペルシアはご満悦だった。
「最初の何件かは研修名目で取って、そこから視察と小規模旅行に広げたの。あと役員向けは“福利厚生と組織内連携の活性化”って言葉が妙に刺さるわね」
その分析が、もう完全に営業の人間だった。
ランが静かに画面を見つめる。
「……すごいですね」
その一言には、本当に実感がこもっていた。
「昨日の時点では“話を聞く”ぐらいだった役員もいましたよね」
「いたわよ」
ペルシアが頷く。
「でも、そこは押し方の問題」
「押し方……」
クミコが呟く。
「そう」
ペルシアは人差し指を立てた。
「“今すぐ決めてください”は駄目。でも、“今押さえておけば判断の余地があります”は通るのよ」
ミラが腕を組む。
「予約を決めさせるんじゃなくて、“保留する権利”を取りにいかせたんですね」
ペルシアがにっと笑った。
「そういうこと」
それを聞いて、マユが感心したように小さく息を吐いた。
「怖い……」
「褒め言葉よね?」
「たぶんですけど」
マユは正直に答える。
フロアの空気は、完全に熱を帯びていた。
最初の教育便をこなし、次の実務へ向けて少しずつ前へ出る。
その“少しずつ”どころではない速度で、ペルシアが仕事を引っ張ってきたのだ。
現場経験も必要。
教育も必要。
だが、その前提として“便そのもの”がなければ話にならない。
そして今、その便が一気に増えた。
それがどれだけ大きいか、旅行事業部の面々はきちんと理解していた。
アズサが、きらきらした目で言う。
「これ、私達、本当に全部乗るんですか?」
「乗るわよ」
ペルシアが当然のように返す。
「全部とは言わないけど、少なくともかなり動くことになるわね」
「わぁ……」
アズサは、明らかに嬉しそうだった。
緊張もあるだろう。
でも、それ以上に“本番が増える”ことへの高揚が顔に出ている。
ハズキも、端末画面を見ながらぽつりと呟く。
「やばい……急に現実味がすごい……」
「今までは“訓練して待つ”だったからね」
ミドリが静かに言う。
「でも、これからは“訓練してすぐ本番”になる」
サリーがその横で小さく頷いた。
「忙しくなりますね」
「いいことじゃない」
ペルシアが笑う。
「忙しい方が生きてる感じするし」
その価値観はやっぱりどこか危うい。
だが、今この瞬間に限っては、誰もそれへ真面目に突っ込まなかった。
むしろ皆、同じようにスケジュール表を見つめていた。
空白が埋まる。
それだけで、こんなに気持ちが違うのかと。
エリンがいない今、旅行事業部はどう進むのか。
そこに不安がなかったわけではない。
だがペルシアは、エリンとは全く違うやり方で、その不安を押し流していく。
訓練で締める時は締める。
営業で取る時は取る。
そして、仕事が入れば皆んなが前へ進む理由になる。
そういう意味では、ペルシアもまた間違いなく“上に立つ人間”だった。
◇
そして、その勢いのまま。
ペルシアは、まだ終わらなかった。
「よし」
端末を見下ろしながら、もう一つ頷く。
「次は最後の大物ね」
「……大物?」
ミラの嫌な予感が、またゆっくりと首をもたげる。
ペルシアは、にやりと笑った。
「宇宙管理局長」
その一言に、フロアがまた妙に静まり返った。
クミコが「また……」と小さく呟き、ナツキが思わず顔を覆った。
ランだけは静かに目を閉じた。
諦めたのだろう。
この人は、行くと決めたら行く。
ペルシアはもう躊躇なく発信していた。
数コール。
そして、向こうが出る。
『……はい』
前回と同じ、低く落ち着いた声。
だが今回は、明らかに“またお前か”が混ざっている。
「局長ぉ〜」
『嫌な予感しかしないな』
「失礼ね」
『前回の時点で嫌な予感しかしなかった』
「それは気のせい」
『で、何だ』
「実は嬉しいご報告がありまして」
その声音は、いかにも営業を終えた側の明るい声だった。
『……報告?』
「はい」
ペルシアは、わざと一拍置いてから言った。
「スペースホープ、役員便、ほぼ取りました」
通話の向こうが、一瞬だけ本当に無音になった。
フロアの面々は、皆んな息を止めてそのやり取りを聞いている。
『……本当にか?』
「ほんとほんと」
『本当に動いたんだな』
「ひどくない? 私が動かないみたいな言い方」
『普段は無駄に動く』
「今のは必要な動き」
その返しが妙に早い。
局長はしばらく何か考えている様子だったが、やがて小さく息を吐いた。
『それで? 報告だけで終わるはずがないな』
「流石、話が早い」
『それでどうしたんだ?』
「慰安旅行、どう?」
即座だった。
ミラが思わず顔を覆う。
クミコは口元を押さえ、アズサは“本当に言った……”という顔で固まる。
『……まだ言うのか、それを』
「だって、今言うのが一番いいでしょ」
ペルシアは全く悪びれない。
「役員便も動き出したし、宇宙管理局としても一回ぐらい、“実際に使う”って前例を作っといた方がいいじゃない」
『前例か……しかしだなぁ」
「でも大事よ? 上が乗れば、下も安心するし」
局長の沈黙が少し長くなる。
ペルシアは、それを逃さない。
相手が切る前に、次の言葉を滑り込ませる。
「それに、未探索領域の調査が無事終わった後でしょ? 慰労と気分転換を兼ねて、少人数からでもいいじゃない」
『予算にも限りがあるしな』
「小規模でいいって言ってるでしょ」
『前例がないと言っているだろ』
「今作ればいい」
『手続きが面倒だ』
「そこはそっちで頑張って」
『相変わらずだな……』
局長の声に、疲労と本気の呆れが混じる。
だが、ペルシアはさらに畳みかける。
「別に豪華便じゃなくていいのよ。短時間の交流型でも、半日研修型でも。宇宙管理局の名前で使ってくれれば、こっちは実績になるし、そっちは疲れた局員の慰労になる。ほら、誰も損しない」
『お前だけものすごく得する顔をしてる』
「気のせい」
即答だった。
局長はそこで、本当に長い沈黙に入った。
フロアの皆んなも、息を潜めたまま端末を見つめている。
誰一人、今このタイミングで物音を立てようとしない。
やがて。
『……小規模で、一度だけだ』
その一言が落ちた。
ペルシアの目が、はっきりと輝く。
『正式な申請が通る前提で、調整に乗ってやる。だが、日程も内容もこちらで選ぶがいいか?』
「やったー!」
ペルシアが本気で声を上げる。
フロアの皆んながびくっと肩を揺らした。
『まだ決定ではない』
「でも予約は取った」
『仮だ』
「仮でも予約は予約」
『話を聞け』
局長の声にはもう怒る気力もない。
「ありがとう局長! 愛してる!」
そこで通話は切れた。
一拍。
そして今度こそ、フロアがどっと沸いた。
「えええ!?」
「局長さんまで!?」
「すごい!」
「ほんとに取った!」
アズサがほとんど跳ねるように言い、ハズキが「もう何でも取れそう」と本気で呟く。
クミコは笑っていいのか驚いていいのか分からず、ただ両手を胸の前でぎゅっと握っていた。
ミラは、額に手を当てたまま深く息を吐く。
「……取ったんだ」
「取ったわよ」
ペルシアが胸を張る。
「慰安旅行も勝ち取った」
その言い方が、完全に戦場帰りの人間だった。
再来月のスケジュールは、ほぼ埋まった。
来月も色が増え始めている。
そして宇宙管理局の小規模慰安旅行まで視野に入った。
旅行事業部のフロアは、今や完全に“何もない白い空間”ではなくなっていた。
仕事が来る。
人が乗る。
便が動く。
つまり、現場が増える。
ランは、そんなスケジュール表を静かに見つめていた。
エリンがいたら、きっとまずは段階的に整理しただろう。
どの便に誰を乗せるか、育成と実務のバランスを見ながら、一つずつ。
対してペルシアは違う。
まず取る。
空白を埋める。
現場を増やす。
そこから回しながら整える。
危うさもある。
だが、今のスペースホープに必要なのは、もしかするとこっちなのかもしれない、とランは思った。
ミドリが、小さく呟く。
「なんだか、勢いがすごいです」
「でも嫌いじゃないでしょ」
ナツキが横から言う。
ミドリは少し考えてから、正直に頷いた。
「……はい」
マユも静かに口を開く。
「なんだかんだで、ペルシアさんはやっぱり凄いですね」
その言葉に、サリーが小さく同意した。
「はい」
ミラも、今度は否定しなかった。
「そうですね」
しみじみとした口調だった。
「すごいです」
クミコは、そこでようやく笑った。
なんだかんだで。
ほんとうに、なんだかんだで。
ペルシアさんはやっぱり凄い。
客室でも。
営業でも。
調子に乗る時でさえ、なぜか最後には結果を持ってくる。
そのことを、旅行事業部の面々は改めて思い知っていた。
◇
一方その頃。
宇宙の南側、未探索領域の暗い航路を進むアルテミスでは、静かな時間が流れていた。
外は変わらず黒い。
何もないように見える闇。
けれど、その“何もない”が人の感覚を少しずつ鈍らせ、また妙に研ぎ澄ませもする。
コックピットでは交代時間の合間だった。
エリンは生活区画から戻ってきたところで、ふと身体をさすった。
ほんの僅かに、背筋を何か冷たいものが走ったような感覚があったのだ。
「どうしたの?」
クリスタルがすぐに気づいて声をかける。
エリンは少しだけ首を傾げた。
「いや、ちょっと背筋が凍った感じがして」
「風邪でも引いたんじゃないの?」
クリスタルが半ば冗談みたいに言う。
「ちゃんと休まないから」
「ちゃんと休んでるわよ」
エリンはすぐに返す。
その言い方がいつもどおりで、だからクリスタルも深追いはしない。
チャコが副操縦席寄りから耳を動かした。
「なんや不吉やな」
「いや、風邪というか……」
エリンは少しだけ眉を寄せる。
「何か嫌な予感がして」
その一言に、チャコが「うわあ」と露骨に顔をしかめた。
「それ、いっちゃん嫌なやつやん」
リュウジは前を向いたまま何も言わない。
だが、エリンのそういう感覚を軽視しないことは皆知っている。
「調査のこと?」
クリスタルが少し真面目に聞く。
「ううん」
エリンは首を横に振った。
「調査というより……何か別の事だと思う」
自分でもうまく説明は出来ない。
何かが起きたわけではない。
数値も通常。
船内も安定している。
なのに、妙に“嫌な引っかかり”がある。
チャコが小さく肩をすくめた。
「まあ、気のせいやろ」
「そうね」
エリンも、そこで無理に深掘りしなかった。
「気のせいかしら」
そう言って、少しだけ笑う。
この時、エリンはまだ気づいていなかった。
何も考えずに空いたスケジュールを埋めるだけの気持ちで、ペルシアが勝ち取った予約の量を。
来月と再来月の予定表が、ほとんど白ではなくなり、旅行事業部のフロアに小さな歓声が何度も上がっていたことを。
そしてその結果、自分が未探索領域から戻った後、目を疑うような密度の実務が待っていることを。
背筋を走った冷たい感覚の正体は、宇宙の闇でも、船内の気圧変化でも、風邪の前触れでもなかった。
それはもっと、地上的で、現実的で、そして確実にエリンの頭を抱えさせる種類のものだったのだが――。
今のエリンはまだ、それを知らない。
アルテミスは静かに前へ進んでいく。
そしてスペースホープのフロアでは、ペルシアが上機嫌で次の便の話を始めていた。