サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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クラウドファンディング

 未探索領域の調査は二ヵ月に及んだ。

 

 出発した当初は、誰もが長い旅になると思っていた。

 ルナもそうだった。

 アルテミスが宇宙管理局のドックを離れていったあの日、見送りのあとに喫茶店で皆んなと進路の話をした時には、二ヵ月という時間はずっと先のことのように思えた。

 

 けれど、時間が過ぎるのはあっという間だった。

 

 もちろん、何もしていなかったわけではない。

 むしろ逆だ。

 

 ルナはこの二ヵ月、何十社もの企業や銀行を回っていた。

 地球で活動することにあたり、惑星開拓の技師としての最初の一歩を踏み出すために、融資をしてもらえないかと頭を下げて回っていたのだ。

 

 朝早くから資料をまとめ、スーツへ着替えて、予約を取った会社へ向かう。

 会社の受付で名前を告げ、応接室へ通され、計画書を開いて、どういうことをしたいのかを説明する。

 ときには銀行の融資担当者の前で、またときには企業の新規事業担当の前で、ルナは自分の夢を何度も言葉にした。

 

 地球で活動したい。

 まだ大きなテラフォーミング建設そのものを請け負えるわけではないけれど、その前段階でもいい。

 地上の環境を見て、小さくても手を入れられる場所を見つけて、そこから積み上げていきたい。

 自分とチャコで、出来ることから始めたい。

 

 そう語るたびに、相手は大抵、最初の数分だけは真面目に聞いてくれた。

 

 けれど、そこから先はどこも似たような反応だった。

 

 信用がない。

 実績がない。

 若すぎる。

 成功する確証がない。

 個人でやるには無謀すぎる。

 リスクが大きい。

 会社へ所属して経験を積んでからでも遅くないのではないか。

 

 言い方は違っても、返ってくる結論は全部同じだった。

 

 ――お断りします。

 

 最初の数回は、ルナも落ち込んだ。

 十社を超えたあたりからは、断られるたびに自分の計画書のどこがいけないのか考えるようになった。

 二十社を超える頃には、断られた後にトイレへ駆け込んで落ち込んだ日もあった。

 三十社を超えた頃には、もう落ち込む元気もなくなっていた。

 

 ただ、肩が落ちるだけだった。

 

 それでも完全には諦められなかった。

 だって、地球で活動するという夢は、ルナの中でまだちゃんと生きていたからだ。

 

 ただ、その夢を持ったまま、今日はまた一つ、重たい足取りで宇宙管理局の本部へ来ていた。

 

 イーナが声をかけてくれたのだ。

 「一度、アルテミスの様子を見に来たらどうですか?」と。

 

 アルテミスに何かあった訳ではない。

 けれど、今のルナにとって“まだ話を聞いてくれる人がいる”というだけで十分にありがたかった。

 

 宇宙管理局の本部は、外から見ると大きく無機質な建物だ。

 けれど中へ入ると、そこで働く人達の気配がきちんとある。

 静かなのに、止まっていない。

 廊下を歩く職員は足早で、誰も彼も忙しそうなのに、無駄なざわめきはない。

 

 ルナはそんな空気の中を、スーツのまま歩いた。

 いつもより少しだけ肩が重い。

 バッグの中には、何度も手直しした計画書が入っている。

 何度手直ししても、誰も首を縦には振ってくれなかった計画書だ。

 

 オペレーションルームの扉の前で、ルナは一度だけ深く息を吸った。

 

 中へ入ると、大きなモニター群と無数の端末が並ぶ空間が目に入る。

 ここに来るたび思うが、宇宙管理局のオペレーションルームは独特だった。

 忙しさの種類が違う。

 皆んな、自分の持ち場で何かを見守り、何かを判断し、何かへ備えている。

 

 そしてその中に、ひらりと手を振る人物がいた。

 

「ルナちゃん」

 

 ペルシアだった。

 

 その声と笑顔を見た瞬間、ルナは少しだけ気が緩みそうになった。

 相変わらずだ。

 こういう場所にいても、この人だけは空気の質が違う。

 

「ペルシアさん」

 

 ルナが近づくと、ペルシアは椅子の背にもたれながらにやりと笑う。

 

「よく来たわねぇ。イーナに呼ばれたんでしょ?」

 

「はい」

 

 ルナは頷いた。

 

「スペースホープはいいんですか?」

 

 その問いに、ペルシアは軽く肩をすくめる。

 

「ええ、もうフライト便はないし、後はここでローズのサポートかな」

 

 その視線の先には、オペレーションルームの中央寄りで仕事をしているローズの姿があった。

 以前よりも動きに迷いがなくなっている。

 ペルシアがここでサポートに入っているからだろう。

 

「ラスペランッァはどうですか?」

 

 ルナは、それを一番聞きたかったのかもしれない。

 

 ペルシアは、端末へ軽く目を落としてから答えた。

 

「ちょうどさっき、セーシング領域内に入ったところよ」

 

「セーシング領域……」

 

 ルナは小さく繰り返す。

 詳しい航路や定義までは分からない。

 でも、それが“帰還に向かっている”流れの中にあることは、ペルシアの表情で分かった。

 

「あと二日もあれば、ここに戻ってくる予定よ」

 

 その言葉に、ルナの顔がぱっと明るくなる。

 

「そうなんですか!」

 

「ええ」

 

 ペルシアは、いつもより少しだけ柔らかい声で言った。

 

「何事もなく、全員無事に帰ってくるわよ」

 

 その一言に、ルナはようやく胸の奥に溜まっていた小さな緊張がほどけるのを感じた。

 

「良かったです……」

 

 本当に、ほっとした声だった。

 アルテミスが出発してから、ルナはずっと気にしていたのだ。

 リュウジも、チャコも、エリンも、皆んな向こうへ行っている。

 未探索領域というだけで怖いのに、それが二ヵ月も続く。

 だから、こうして“あと二日で戻る”と聞けただけで、肩の力が一つ抜けた。

 

 そんなルナの顔を見て、ペルシアは少しだけ目を細める。

 

「それで?」

 

「え?」

 

「ルナちゃんは就活中かしら?」

 

 いきなり本題だった。

 

 ルナは、そこで少しだけ苦笑いを浮かべた。

 

「え、ええ、まぁ……」

 

「どうしたの?」

 

 ペルシアは一目で見抜いている。

 ルナの顔にある“うまくいっていない人の色”を。

 

 ルナは、少しだけ迷った。

 でも、ここまで来て隠しても仕方ない。

 むしろ、誰かに言葉にした方がいい気がした。

 

「実は……地球で惑星開拓を始めたくて、色々と企業や銀行を回ったのですが」

 

 そこで一度、唇が止まる。

 続く言葉は、何度口にしても少しだけ苦い。

 

「どれも駄目でした」

 

 ルナは、寂しそうな笑みを浮かべた。

 

 ペルシアは、その言葉を聞いても驚かなかった。

 ただ、少しだけ頷く。

 

「そうなの?」

 

「はい……」

 

「計画書はある?」

 

 ルナは、すぐにバッグの中へ手を入れた。

 

「はい」

 

 何度も出して、何度も戻して、何度も断られてきた計画書。

 少し角がくたびれている。

 ルナはそれを両手で出して、ペルシアへ差し出した。

 

 ペルシアは受け取ると、その場ですぐに中身を確認し始めた。

 

「うーん」

 

 と、小さく唸る。

 ページをめくる指は早い。

 でも、ただ流しているわけじゃないことは分かる。

 声色や表情の変化が、きちんと要点を拾っていることを示していた。

 

 数ページ見たところで、ペルシアが顔を上げる。

 

「ねぇ、ローズ?」

 

「なんだ?」

 

 中央の席から、ローズが視線だけをこちらへ向けた。

 

「この計画書、どう思う?」

 

 ペルシアが、ルナの計画書をそのままローズへ差し出す。

 

「計画書?」

 

 ローズが受け取る。

 そして、ペルシアと同じように何枚かめくっていく。

 

「うーん、計画的には問題ないと思うが……」

 

 そこまで言いかけた時だった。

 

「え?」

 

 ローズの表情が変わる。

 

「資金が安すぎないか?」

 

 その言葉に、ルナは目を見開いた。

 

「え?」

 

 ペルシアは、すぐに横から言う。

 

「ローズもそう思う?」

 

「ああ」

 

 ローズは頷く。

 

「地球という環境を考えて、テラフォーミングマシンを一から作るとして、作業員の寝床や職場環境を考えると、今考えている倍以上の資金が必要になるよ」

 

 ルナの心臓が、どくりと跳ねる。

 

「そ、そんなにですか!?」

 

「ルナちゃん、考えている資金は?」

 

 ペルシアが問う。

 

「一千万ダールほどです」

 

 ルナは、少しだけ声を小さくして答えた。

 

 するとローズは、迷いなく首を横に振る。

 

「一千万ダールじゃ、とても足りない」

 

 その口調は淡々としていた。

 だが、だからこそ余計に重い。

 

「ざっと計算しても、二千万ダールから三千万ダールは最低限必要だ」

 

「そ、そんなに……」

 

 ルナは、思わずそう呟くしかなかった。

 

 企業や銀行で断られてきた理由の一部が、ようやく具体的な形で見えた気がした。

 自分では“現実的に考えた”つもりでも、それは全然足りていなかったのだ。

 

「その金額を貸してくれる企業や銀行はあるかしら」

 

 ペルシアが静かに言う。

 

 ルナは答えられない。

 答えは分かっているからだ。

 

「厳しいな」

 

 ローズが、率直に言う。

 

「正直言って、頭金もないしね」

 

「頭金か……」

 

 ペルシアが、そこで顎に手を当てて考え込んだ。

 

 ルナは、そのやり取りを聞きながら、胸の奥がじわじわと冷えていくのを感じた。

 やっぱり無理なのだろうか。

 地球で活動するなんて、今の自分には早すぎたのだろうか。

 

 そんな思いが、顔に出てしまっていたのかもしれない。

 

「あ!」

 

 突然、ペルシアが大きな声を上げた。

 

「いい事思いついた!」

 

 その声に、ルナもローズも思わず顔を上げる。

 

 だが次の瞬間、ペルシアは椅子を蹴るように立ち上がり、そのままオペレーションルームの外へ向かって走り出した。

 

「おい、ペルシア!」

 

 ローズが珍しく声を荒げる。

 

 だがペルシアは止まらない。

 ひらりと手を振っただけで、そのまま廊下へ消えた。

 

 ルナは、何が起きたのか分からず、ただ目を瞬かせるしかなかった。

 

「ペルシアさん……?」

 

「何を思いついたんだ、あいつは……」

 

 ローズが額を押さえるようにして呟く。

 

 その時だった。

 

 入れ替わるように、オペレーションルームの扉が開いた。

 

 宇宙管理局長だった。

 

「どうした?」

 

 低く落ち着いた声が響く。

 

 ローズが、少しだけ困った顔で説明する。

 

「い、いえ……ペルシアが“いい事を思いついた”と言って走っていきまして」

 

「そうか」

 

 局長は、あまり驚いた様子もなく答えた。

 どうやら、そういうことは割と日常なのかもしれない。

 

「それで何をしていたんだ?」

 

 ローズはルナの計画書を軽く持ち上げた。

 

「ルナさんが、地球での活動計画について相談に来ていて。資金面を見ていたんです」

 

「なるほど」

 

 局長が、ローズから計画書を受け取る。

 

 数ページ見て、すぐに同じ結論へ達したらしい。

 

「確かに、ローズの言うとおりだな」

 

 局長は、資料を閉じた。

 

「何とかならないでしょうか、局長」

 

 ローズが、珍しく少しだけ踏み込んだ声で言う。

 

 局長は、その問いにすぐには答えなかった。

 代わりに、ルナの方を見た。

 

「何とかしてあげたいが……地球での活動となるとな」

 

 重たい言い方だった。

 言葉を選んでいるのが分かる。

 

「すまんな、ルナさん」

 

 ルナは、慌てて首を横に振る。

 

「い、いえ、謝らないでください」

 

「やっぱり、どこかの会社で経験を積んでからの方がいいんじゃないか?」

 

 ローズが言う。

 

「地球での活動は、まだ誰も手をつけていない。経験を積んでからでも遅くはないと思う」

 

 その言葉は優しい。

 けれど、それは同時に“今はまだ無理だ”という意味でもある。

 

「……そうですよね」

 

 ルナは、小さく答えた。

 

 その声には、どうしても落胆が滲んでしまう。

 頭では分かっている。

 でも、ここまで来てやっと現実的な話をしてもらえたのに、やっぱり結論は同じなのかと思うと、心がついていかなかった。

 

 その時だった。

 

 扉が勢いよく開き、ペルシアが戻ってきた。

 しかも両手にはノートパソコンを抱えている。

 

「ねぇローズ」

 

 息を切らせながらも、声だけは妙に弾んでいる。

 

「頭金ってどれくらいあればいいの?」

 

 唐突な問いだった。

 

「え?」

 

 ローズが目を瞬く。

 

「……そうだな、最低でも五百万ダールぐらいじゃないか?」

 

「五百万ダールっと」

 

 ペルシアは、ローズの返答をそのままパソコンへ打ち込んでいく。

 

「ペルシア、何をやってるんだ?」

 

 ローズが眉を寄せる。

 

 だがペルシアは答えない。

 何かを猛烈な勢いで打ち込んでいる。

 

 キーボードを叩く音が、オペレーションルームの一角へ妙に響く。

 ルナも局長も、ただその様子を見守るしかない。

 

 数十分後。

 

「できた!」

 

 ペルシアが顔を上げた。

 

 そして、そのままパソコンの画面をローズ、ルナ、局長へ向ける。

 

 そこには、青い地球と緑の自然を背景に、ルナの顔写真が大きく映っていた。

 しかもその下には、すでに立派なページレイアウトが組まれている。

 

「クラウドファンディングよ!」

 

 ペルシアが胸を張る。

 

「クラウドファンディング!?」

 

 ローズが、本気で声を上げた。

 

「そ!」

 

 ペルシアは指を立てる。

 

「頭金がないなら、集めればいいのよ!」

 

 局長が静かに目を細める。

 ルナは、何が起きているのか半分も理解できていない。

 

 ペルシアはさらに続ける。

 

「タイトルは――」

 

 そこで少しだけ得意げに間を置く。

 

「“故郷への一歩”なんてどうかしら」

 

 言いながら、まるで今思いついたとは思えない速さで文字を打ち込む。

 

「はい、公開っと」

 

「おい!」

 

 ローズが思わず机を叩きかけた。

 

「公開って、まさか――」

 

 ペルシアは、きょとんとした顔で言う。

 

「宇宙管理局のホームページだけど?」

 

「何を勝手に!」

 

 ローズの声が、本気で上ずった。

 

 局長も、さすがに「おい」と低く言いかけた。

 だがペルシアは、ここで一歩も引かなかった。

 

「だって考えてみてよ」

 

 もっともらしい口調になる。

 

「地球での活動は、今後の宇宙開拓にとっても先行モデルになり得るでしょ?」

 

 ローズが言い返そうとしたところへ、さらに被せる。

 

「しかも、これはただの個人支援じゃないの。若い技師志望者が、地球という未整備の現場で一歩を踏み出すための支援。宇宙管理局が“未来への挑戦を応援する”って形で見せるには、すごくいい題材じゃない?」

 

 局長が、そこで少しだけ黙った。

 

 ペルシアは止まらない。

 

「しかも頭金の五百万ダールよ? 全部を宇宙管理局で出せって話じゃない。広く一般に呼びかけて、支援の形を作る。これなら局の負担は最小限、話題性は十分、若い人材支援にもなる」

 

 ルナは、口を開いたままその言葉を聞いていた。

 自分の話が、いつの間にか“若い技師志望者への支援モデル”みたいなものへ変換されている。

 

 ローズが、眉間を押さえる。

 

「理屈は分かる……だが、順序というものが」

 

「順序は今やった」

 

 ペルシアが言い切る。

 

「公開してから止めるより、公開してから乗った方が早いでしょ?」

 

「むちゃくちゃだ」

 

「でも間違ってないわよ」

 

 その一言が、妙に強かった。

 

 局長は、しばらく画面を見つめていた。

 

 ページには、簡潔だが心を引く文章が並んでいた。

 地球での新しい一歩。

 個人として挑む若い技師。

 未来の開拓へ向けた小さな先行事例。

 必要額五百万ダール。

 支援者には進捗報告と現地レポートを約束。

 支援の意義は、“故郷への一歩を共につくること”。

 

 ……悔しいが、うまい。

 

 局長はゆっくりと息を吐いた。

 

「お前は本当に……」

 

 そこまで言って、言葉を切る。

 

「今回は、私が見なかったことには出来ないな」

 

 ペルシアがにっと笑う。

 

「じゃあ同意ってことで」

 

「そうは言っていない」

 

 局長が返す。

 だが、その声音はさっきまでほど怒っていない。

 

「ただし」

 

 と、局長は人差し指を立てた。

 

「責任は持て。局の名前を使う以上、内容の裏取りと今後の運用はきっちりやること」

 

「もちろん」

 

 ペルシアが即答する。

 

「ルナちゃん、聞いた?」

 

「え、あ……はい!」

 

 ルナは、やっと我に返ったように頷いた。

 

 局長は、ルナを真っ直ぐに見た。

 

「私は、ただ夢を応援するつもりで頷いたわけじゃない」

 

「……はい」

 

「これが動いた以上、ルナさんはちゃんと進捗を見せる義務がある。支援してくれた人間に対しても、宇宙管理局に対してもだ」

 

 その言葉は重い。

 だが、重いということは、つまり“本当に動き始めた”ということでもある。

 

「分かっています」

 

 ルナは、今度はしっかりと答えた。

 

「やります」

 

 ペルシアは、その返事に満足そうに笑った。

 

「よろしい」

 

 ローズはまだ頭を抱えていたが、最後には小さくため息をつくしかなかった。

 

「……ペルシア、お前が絡むといつもこうなるな」

 

「褒め言葉?」

 

「違う」

 

 即答だった。

 

 それでも、ローズの口元にはほんの少しだけ苦笑が浮かんでいる。

 完全に反対ではないのだ。

 

 ルナは、その場で深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 その声は、震えていた。

 嬉しいのか、不安なのか、驚きなのか、自分でも全部は分からない。

 ただ一つ分かるのは、さっきまで閉ざされていた扉が、ほんの少しだけ開いたということだ。

 

 ペルシアは、そんなルナの肩を軽く叩いた。

 

「ほら」

 

 にやっと笑う。

 

「次はそのスーツの肩、もう少し上げて来て」

 

 ルナは、その言葉に思わず涙が出そうになるのを堪えながら、笑った。

 

「はい」

 

 今度は、ちゃんと前を向いた声で答えられた。

 

 オペレーションルームの大きなモニターには、未探索領域の航路が静かに流れている。

 アルテミスは今も、あの暗い宇宙の中を進んでいる。

 エリンも、リュウジも、チャコも、みんなそれぞれの場所で戦っている。

 

 ルナもまた、ここで新しい一歩を踏み出したのだった。

 

 

ーーーー

 

 

 ルナが頭を下げたあとも、オペレーションルームの空気はまだ少しだけ揺れていた。

 

 それだけで、胸の奥で固まりかけていたものが、ほんの少し解けた気がした。

 

 けれど同時に、ルナは理解もしていた。

 最初の一歩は、自分で掴まなければいけない。

 今のルナには、その最初の一歩が一番重い。

 

「ありがとうございます」

 

 もう一度、ルナは頭を下げた。

 

「いいんだ」

 

 局長が穏やかに言う。

 

「これも未来への投資だ」

 

 その声には、管理局長としての重みと、一人の大人として若い挑戦を見ている優しさが混じっていた。

 ローズも何も言わなかったが、さっきまでの“今はまだ早いんじゃないか”という顔つきから、少しだけ表情が緩んでいる。

 

 だが、その静かな余韻を、ぴしゃっと切るような声が響いた。

 

「よし、送信」

 

 ペルシアだった。

 

 いつの間にか彼女は統括官席へ入り込んでいた。

 ローズの席だ。

 その卓上にある端末を慣れた手つきで叩き、ルナのクラウドファンディングページを宇宙管理局の公式ホームページに紐づけた上で、関連先への通知設定まで一気に済ませてしまっている。

 

 ローズが頭を抱える。

 

「ちょっと待て、何をどこまでやった」

 

「何って、見ての通りよ」

 

 ペルシアは涼しい顔で答える。

 

「公開したなら、次は初速を作らないと意味ないでしょ?」

 

 その言い方は当然すぎて、もはや誰も一拍ではついていけない。

 

「初速……?」

 

 ルナが小さく繰り返すと、ペルシアは振り向きもせずに言う。

 

「クラウドファンディングってね、最初が大事なの。動いてるって見せなきゃ、誰も乗ってこない」

 

 その理屈は妙に説得力があった。

 ローズも、局長も、そしてルナ自身も、ぐうの音も出ない。

 

 ペルシアはそう言うと、今度は統括官席のマイクを引き寄せた。

 オペレーションルームの通信ラインの一つ。

 それは、未探索領域を航行中のアルテミスへも繋がる優先通信だった。

 

 ローズが、ぎょっとする。

 

「おい、まさか」

 

「まさかよ」

 

 ペルシアがにやっと笑う。

 

「こういう時に使えるものは全部使うの」

 

 ルナは、まだ何をされるのか分からなかった。

 ただ、嫌な予感と、そしてほんの少しの期待が同時に胸の中で膨らむ。

 

 ピッ、という短い通信音のあと、オペレーションルーム全体へ少しだけノイズが走った。

 それから、遠い宇宙の向こうから返ってくるような声が聞こえる。

 

『……こちらアルテミス』

 

 リュウジの声だった。

 少しだけ圧縮された音質なのに、すぐに分かる。

 低くて、余計な感情を乗せない声。

 

 ペルシアはそのまま、何の前置きもなく口を開いた。

 

「ラスペランッァ、聞こえる?」

 

『どうした?』

 

 リュウジの返しも相変わらず短い。

 だが、オペレーションルームの通信卓にいるペルシア相手だと、その素っ気なさすら“いつものこと”にしか聞こえない。

 

 ペルシアは嬉しそうにマイクへ身を寄せる。

 

「今、ルナちゃんが来ててね。地球での活動資金の話になってね。クラウドファンディングをやることになったから、ラスペランッァでも寄付しなさい」

 

 一息だった。

 

 ローズがもう一度頭を抱えた。

 局長は「はぁ……」と小さく息を吐く。

 ルナは口を開けたまま固まるしかない。

 

 そして、通信の向こうから返ってきたのは、あまりにも当然の反応だった。

 

『は?』

 

 リュウジの声が、ほんのわずかに低くなる。

 

『いきなり何言うとんねん』

 

 今度はチャコだった。

 関西弁混じりの呆れた声が、少しだけ後ろから被る。

 

 ペルシアは、その反応をまるで予想済みだったみたいに、ふふんと鼻で笑った。

 

「何って、未来への投資よ」

 

『説明になってへんわ』

 

 チャコが即座に突っ込む。

 

『そもそも何でいきなり寄付なんや』

 

「だって必要なんだもの」

 

 ペルシアは一切引かない。

 

「ルナちゃん、地球で開拓技師として活動を始めたいんだけど、頭金が足りないのよ」

 

『頭金?』

 

 今度はエリンの声が少し近くで聞こえた。

 いつの間にか、向こうでも皆が通信へ耳を寄せているらしい。

 

「そう」

 

 ペルシアは、ここぞとばかりに話を盛り始める。

 

「企業も銀行も、夢は買ってくれないわけ。現実的な数字と、ちゃんとした頭金が必要なの。だからまず五百万ダールを目標に、クラウドファンディングを立ち上げたのよ」

 

『五百万……』

 

 クリスタルの声が、少し低く唸る。

 

『それなりにいるわね』

 

『せやけど、そないいきなり――』

 

 チャコがなおも食い下がろうとする。

 そこへペルシアは、いかにももっともらしい声音を作って被せた。

 

「チャコ」

 

『なんや』

 

「ルナちゃんの未来よ?」

 

 一拍。

 

「それに、故郷への一歩って素敵じゃない?」

 

『……』

 

「しかも、まだ誰も本気で手をつけてない地球の現場を、ルナちゃんが自分の足で切り開こうとしてるの。これは応援しない方が人としてどうかしてるでしょ」

 

『そらそうやけど』

 

 そう言いながらも、チャコの声には最初ほどの勢いがない。

 ルナは思わず目を見開いた。

 ペルシアが、チャコを押している。

 しかも、いつもの調子のまま、でも妙に筋が通って聞こえる形で。

 

「それにね」

 

 ペルシアは更に畳みかける。

 

「ルナちゃんが地球で活動を始めたら、あんたが自慢できる場所がまた一つ増えるのよ?」

 

『……そんなん別に』

 

「ほら、少しは心動いた」

 

『動いてへんわ!』

 

 チャコが慌てて否定する。

 だが、その慌て方が既に怪しい。

 

 ローズが、通信卓の横で小さく呟く。

 

「言いくるめられてる……」

 

「すごいですね……」

 

 ルナも、呆然としたままそう漏らしてしまった。

 

 すると、向こうで少しだけ笑う気配がした。

 エリンだろう。

 

『話は分かったわ』

 

 その声は穏やかだった。

 

『それで、ペルシアはいくら寄付するの?』

 

 その問いに、オペレーションルームの空気がぴんと張った。

 ルナの肩まで硬くなる。

 

 そうだ。

 言い出した本人はいくら出すつもりなのか。

 ペルシアは、そこで一切迷わなかった。

 

「十万ダール」

 

 即答だった。

 

「ペルシアさん!?」

 

 ルナが思わず声を上げる。

 

 十万ダール。

 それは、軽く出していい額ではない。

 少なくともルナにとっては、とんでもなく大きい額だ。

 

 しかしペルシアは、まるで大したことではないみたいな顔をしていた。

 

「なによ、その顔」

 

「いや、だって……」

 

「ルナちゃんの未来でしょ」

 

 あまりにもさらりと言われて、ルナはそれ以上何も言えなくなる。

 

 その直後、通信の向こうからエリンの声が返ってくる。

 

『そうなの? じゃあ私も同じ額で』

 

「エリンさん!?」

 

 今度はルナが、さっきよりも大きな声を出した。

 

 オペレーションルームの中でも、ナミが「えっ」と小さく目を丸くする。

 フレイが少しだけ眉を動かし、ジェームズは腕を組み直した。

 

 だが、エリンの声は本当にいつもどおりだった。

 

『だって、言い出したのがペルシアで、しかも未来への投資なんでしょう?』

 

「そうよ」

 

 ペルシアが満足げに頷く。

 

『じゃあ私も出すわ』

 

 そこへ、クリスタルが入ってきた。

 

『エリンとペルシアがそんなに出すなら、私も同じでいいわ』

 

「クリスタルさんまで……」

 

 ルナの声が震える。

 

 クリスタルは、少しだけ呆れたような声音で続ける。

 

『私達、こう見えてちゃんと稼いでるから』

 

「そう、みんな稼いでるから」

 

 ペルシアが被せるように言って、ローズが横で「お前が言うと妙に生々しい」と小さく呟いた。

 

 通信の向こうで、マリが少しだけ遠慮がちな声を出した。

 

『では……私とサツキは一万ダールずつで』

 

『私もいいわ』

 

 サツキの短い声が続く。

 

「ありがとうございます……!」

 

 ルナは、もう頭を下げることしか出来ない。

 視界の端が少しだけ熱くなる。

 

 だが、まだ終わらなかった。

 

「ありがと、リュウジは?」

 

 ペルシアが、ごく自然に最後の大物へ振る。

 

 一瞬の静寂。

 ルナは、無意識に息を止めた。

 

 リュウジなら、断るわけではないだろう。

 でも、いくら出すのかなんて想像もつかない。

 

 やがて、リュウジの声が返ってきた。

 

『俺は、今回の報酬を全部、寄付に回してくれ』

 

 オペレーションルームの全員が、ほんの一瞬、言葉を失った。

 

「リュウジ!?」

 

 ルナが、ほとんど悲鳴みたいに声を上げる。

 

『え?』

 

 通信の向こうのリュウジは、まるで何でもないことを言ったみたいな反応だった。

 

『別に今すぐ使う予定もないし』

 

「太っ腹!」

 

 ペルシアが、実に楽しそうに叫ぶ。

 

「流石うちのS級!」

 

『うちのじゃないわよ』

 

 クリスタルが向こうで呆れたように返し、チャコが「せやせや」と合いの手を入れる。

 

 それでも、ルナにはもう胸がいっぱいだった。

 報酬全部。

 それがどれだけの額になるのか、ルナには想像もつかない。

 けれど、それが“本気の言葉”であることだけは分かる。

 

 そして、ペルシアはまだ止まらなかった。

 

「それで、チームペルシアは?」

 

 その言葉に、オペレーションルームの空気がまた一度ざわりとする。

 

 ルナが振り返ると、フレイ、ジェームズ、シャオメイ、イーナ、ナミが、それぞれに顔を上げていた。

 

 “チームペルシア”などと勝手に括られていることには、皆んな若干不本意そうだ。

 だが、その不本意さより先に、彼らは顔を見合わせていた。

 

 最初に口を開いたのはフレイだった。

 

「……一万ダールずつで」

 

 静かな声だった。

 でも、迷いはない。

 

 それにナミがすぐ続く。

 

「私もそれで」

 

 イーナも、小さく頷く。

 

「ええ、同じで」

 

 ジェームズは、ほんの少しだけ肩をすくめた。

 

「未来への投資、だろう?」

 

 シャオメイも短く言う。

 

「一万で」

 

 ルナは、その場で言葉を失った。

 

「皆さん……」

 

 気づけば、また頭を下げていた。

 

 その背に、ペルシアの満足げな声が降ってくる。

 

「ほら、集まるじゃない」

 

「ほら、じゃない」

 

 ローズが横で呆れたように言う。

 だがその口元は、完全に不機嫌ではなかった。

 

 ペルシアは、そこで最後の二人に視線を向ける。

 

「ローズと局長は?」

 

 その聞き方が、完全に逃がす気のないものだった。

 

 局長は、小さく息を吐いた。

 

「私は二十万ダール出そう」

 

 その額に、ルナはもう驚きすぎて声が出ない。

 

 ローズも、少しだけ眉を上げたあと、すぐに言う。

 

「俺は十万ダールだ」

 

「ありがとうございます……!」

 

 ルナの声は、今にも泣きそうだった。

 いや、実際にはもうかなり危うかった。

 喉の奥が熱くて、視界も少しぼやけている。

 

 オペレーションルームの中と、未探索領域を航行するアルテミスの向こう側。

 遠く離れた場所にいる皆んなが、今この瞬間、自分の未来のためにお金を出そうとしてくれている。

 

 それがどれほど重いことか。

 どれほどありがたいことか。

 ルナには、とても一言では言い表せなかった。

 

「みんな、未来への投資を行うってわけ」

 

 ペルシアが、得意げに胸を張る。

 

「あと、他にも口を聞くから待ってて」

 

 その言い方に、フレイとナミがほぼ同時に突っ込んだ。

 

「恫喝しないでくださいよ」

 

「ほんとにやめてくださいね」

 

 ペルシアは、にっこり笑う。

 

「大丈夫!」

 

 そして、何の大丈夫か分からないまま、さらりと続けた。

 

「ギリギリ攻めるから」

 

「大丈夫じゃないです」

 

 フレイが即答する。

 ナミも深く頷いた。

 

 ローズはもう何も言わず、ただ額を押さえている。

 局長は、小さく息を吐いてから苦笑した。

 

 だが、そのやり取りさえも、今のルナには眩しく見えた。

 

 厳しい現実が消えたわけではない。

 必要な資金が膨らんだ事実も変わらない。

 企業や銀行が簡単に振り向いてくれるわけでもないだろう。

 

 それでも今、確かに道が開いた。

 

 しかもそれは、ただの“頑張ってね”ではない。

 皆んなが自分の大事なお金を出してくれるという形で、ルナの夢に触れてくれたのだ。

 

「……ありがとうございます」

 

 ルナは、泣きそうになりながらも、ちゃんと笑って言えた。

 

「絶対、無駄にしません」

 

 その言葉に、通信の向こうでエリンが柔らかく笑った気配がした。

 

『ええ、そうしなさい』

 

 リュウジは何も言わなかった。

 けれど、その沈黙は不在ではない。

 ちゃんとそこにいて、聞いている沈黙だった。

 

 チャコは、少しだけ誇らしそうな声で言う。

 

『良かったやんか、ルナ。ようやく始まったやんか』

 

「うん」

 

 ルナは、小さく、でもしっかり頷いた。

 

 始まった。

 まだ何も終わっていない。

 むしろ本当にここからだ。

 けれど、たしかに始まったのだ。

 

 ペルシアはマイクを卓へ置くと、くるりと椅子を回してルナの方を見た。

 

「ほら、言ったでしょ」

 

「何をですか?」

 

「そのスーツの肩、少しは上がったじゃない」

 

 ルナは、一瞬だけきょとんとした。

 そして次の瞬間、涙がこぼれそうになるのをこらえながら、嬉しそうに笑った。

 

「はい」

 

 今度は、本当にそうだった。

 さっきまで落ちていた肩が、少しだけ上がっている。

 

 オペレーションルームのモニターには、未探索領域の航路が静かに流れている。

 アルテミスは、あと二日で戻ってくる。

 その二日後、きっとルナの前にはまた新しい現実が並ぶだろう。

 やることは山ほどある。

 現実は甘くない。

 でも、今はそれでもいいと思えた。

 

 だって、こんなふうに未来へお金を出してくれる人達がいる。

 未来へ賭けてくれる人達がいる。

 

 それだけで、人はもう少しだけ前を向けるのだと、ルナは初めて知った。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

それから二日後。

 

 ルナのクラウドファンディングは、宇宙管理局のホームページに掲載されたこともあって、驚くほど順調に伸びていた。

 

 最初の一時間で、宇宙管理局内部の職員や関係者からの支援が入り、そこへ“ラスペランッァの面々も支援しているらしい”という話がどこからともなく広がった。

 若い技師志望者が、地球という未整備の現場へ小さな一歩を踏み出そうとしている。

 しかも、ただ夢を語っているだけではなく、宇宙管理局の人間達までそこへ金を出している。

 その事実は、想像以上に人の興味を引いた。

 

 もちろん、まだ目標額には届いていない。

 けれど、ページを開くたびに増えていく数字は、ルナにとって“自分の夢を誰かが現実として見てくれている”証のようだった。

 

 そして、それと同じ頃――。

 

 未探索領域へ出ていたアルテミスが、宇宙管理局へ帰港する日を迎えた。

 

 

 宇宙管理局のドックは、出発の日に負けないくらいの熱気に包まれていた。

 

 けれど、その熱気の色は少し違う。

 出発の日は、未知へ向かう者達を送り出す緊張と高揚が中心だった。

 今日は違う。

 今日は“帰ってくる”日だ。

 

 見届けようと集まった観客。

 局員達。

 報道陣。

 宇宙関連の専門記者だけではなく、一般ニュースまで入ってきている。

 ドックへ続く上層の見学通路にまで人がいるほどだった。

 

 大型モニターには、帰港航路へ乗ったアルテミスの情報が映し出されている。

 進入角度、速度、ドック接続のタイミング。

 それらが刻一刻と変化し、それに合わせて現場のざわめきも少しずつ大きくなっていく。

 

 ルナは、その人混みの中にいた。

 

 チャコ達を見送りに来た時と同じく、今日はまた少しだけ胸が落ち着かない。

 無事だと分かっていても、こうして実際にドックへ入ってくる姿を見るまでは、どこかで身体の奥が強張る。

 

 その少し前方には、ペルシア、ローズ、局長の姿があった。

 帰還報告を受けるため、正式な立場としてドックの中央寄りへ立っている。

 ペルシアは腕を組んでいたが、その指先は普段よりわずかに落ち着かなかった。

 ローズは表情を崩していない。

 局長はいつもと同じように見えたが、背筋の硬さが少し違う。

 

 皆んな、待っている。

 

 やがて、ドックの奥の大型扉の向こうで、接続作業が完了したことを知らせる低い起動音が響いた。

 

 人のざわめきが一瞬だけ止まり、次の瞬間、ドック全体へ白い照明が一段明るく灯る。

 

 アルテミスが、帰ってきたのだ。

 

 白銀の船体は、出発の時より少しだけ“旅をしてきた”気配をまとっていた。

 大きく損傷しているわけではない。

 けれど、ただ停泊していた船とは違う。

 長い航行と、暗い宇宙の中を進んできた時間が、確かにそこへ染みついているように見えた。

 

 接続が完了し、外部扉が開く準備に入る。

 

 観客席から小さな歓声が上がる。

 報道陣が一斉にカメラを構えた。

 局員達も、自然と前へ身体を寄せる。

 

 ルナの心臓が、一度だけ大きく鳴る。

 

 そして。

 

 アルテミスのハッチが、静かに開いた。

 

 

 最初に姿を見せたのはリュウジだった。

 

 フラッシュが、一斉に焚かれる。

 眩しいほどの白い光が、何度も何度もドックの空気を切り裂いた。

 

 リュウジは、その光に顔をしかめることもなく、ただ真っ直ぐ前を見て降りてくる。

 長期航行の後だから、当然疲れはあるだろう。

 だが、それを大袈裟に出さないのがこの人らしかった。

 

 そのすぐ後ろにチャコ。

 耳をぴんと立てて、けれど浮かれすぎないように口元を引き締めている。

 その後ろにクリスタル。

 マリ。

 サツキ。

 そして最後に、エリン。

 

 六人が並ぶと、ドックの空気が一気に熱を帯びた。

 

「ラスペランッァだ!」

「帰ってきた!」

「無事だった!」

「リュウジ!」

「チャコちゃん!」

 

 観客達の声が飛び交う。

 マスコミのフラッシュは止まらない。

 見学通路からも拍手が降ってくる。

 

 ルナは、その中でエリンの姿を見つけた瞬間、胸の奥がふわっとほどけた。

 少し痩せた気もする。

 でも立ち姿は変わらない。

 静かで、しなやかで、ちゃんと“帰ってきた人”の足取りをしていた。

 

 ラスペランッァの面々は、そのまま局長、ローズ、ペルシアの待つ位置まで歩いていく。

 

 フラッシュの嵐の中でも、足取りに乱れはない。

 長い調査を終えた直後とは思えないほど整っている。

 それだけで、この二ヵ月がどんなものだったのかを逆に想像させた。

 

 局長の前で、六人が足を止める。

 

 最初に口を開いたのはリュウジだった。

 

「未探索領域南側航路、予定調査を終了し、帰投しました」

 

 その声は、いつもと同じように短く、無駄がない。

 だが、そこへ乗る重みはいつも以上だった。

 

 局長が一つ頷く。

 

「ご苦労だった」

 

 短い。

 しかしその言葉だけで十分だった。

 

 ローズも、少しだけ表情を和らげて言う。

 

「全員無事で何よりだ」

 

「ええ」

 

 クリスタルが静かに答え、チャコも「無事戻ったで」と軽く耳を揺らした。

 

 ペルシアは、最初こそ腕を組んだまま涼しい顔をしていた。

 けれど、いざ目の前に皆んなが立つと、その口元が少しだけ緩んだ。

 

「おかえり」

 

 その一言は、いつものように軽い。

 でも、軽いからこそ余計に本音だった。

 

「ただいま」

 

 エリンが、小さく笑って答える。

 

 その短い往復を、ルナは少し離れた場所から見ていた。

 胸の奥がじんと熱くなる。

 ああ、本当に帰ってきたのだと、今ようやく実感が追いついてくる。

 

 

 

 帰還報告を終えた直後、本来ならそこで一度、場は区切られてもよかった。

 

 局長への正式な報告は済んでいる。

 ローズもペルシアも、その場で必要な確認は受け取った。

 未探索領域の詳細については、後日、整理された報告として出すことになる。

 だから、本当ならそのまま帰還したクルーを休ませてもよかったのだ。

 

 だが、そうはならなかった。

 

 宇宙管理局のドックに集まっていたマスコミは、最初からそのつもりなどなかったのである。

 

 報道陣は、一つの塊になって押し寄せてきたわけではない。

 むしろ逆だった。

 

 リュウジの周りには、宇宙連邦連盟の公式記者や全国放送の大型局、宇宙開発専門誌が一気に集まった。

 チャコの周りには、一般ニュースや娯楽系の記者まで混ざっている。

 クリスタルには、安全管理や医療支援の観点から質問を投げたい記者達。

 マリとサツキには、それぞれ通信運用と機関・整備系の取材班。

 そしてエリンの周りには、運航、客室、教育便、そしてスペースホープに関心を持っている記者達が流れていった。

 

 つまり、ラスペランッァの面々は、それぞれがそれぞれの理由で囲まれる形になった。

 

 ドックの中央で一つの会見になるのではなく、帰還したその場で、いくつもの小さな囲み取材が同時に立ち上がる。

 フラッシュが連続して焚かれ、長いマイクが何本も差し出され、各局のロゴが付いたカメラがそれぞれの顔を追う。

 

 エリンも、気づけば自然にその輪の中へ入っていた。

 

 前方に二本のマイク。

 右手にハンドカメラ。

 左には肩載せの大型カメラ。

 後方では音声スタッフがブームマイクを少しだけ高く上げている。

 

 疲れていないわけがない。

 二ヵ月に及ぶ未探索領域の調査から、つい今しがた帰ってきたばかりだ。

 身体にはまだ宇宙船の生活の名残があるし、地上の広い空間に完全に感覚が戻り切っているとも言えない。

 

 それでも、エリンの顔は崩れなかった。

 

「エリンさん、お疲れさまでした!」

 

 最初に声をかけてきたのは、全国ネットの報道番組らしい若い女性記者だった。

 その声は明るいが、興奮を抑えきれていない。

 マイクを差し出しながら、やや早口で続ける。

 

「今回の映像は全国放送でも流れる予定です。まずは帰還した今のお気持ちをお願いします」

 

 ――全国放送。

 

 その言葉を聞いた瞬間だった。

 

 エリンの背筋が、すっと伸びた。

 

 ほんの僅かな変化だ。

 けれど、その場にいた者にははっきり分かる変化でもあった。

 

 顎の位置。

 肩の線。

 立ち方。

 息の整え方。

 

 それまで“帰還したばかりの人”だったエリンが、その一言で“今ここで言葉を預かる人”へ切り替わったのだ。

 

「ありがとうございます」

 

 エリンは、まずきちんと一礼した。

 

「長期の調査でしたので、こうして全員無事に帰ってこられたことに、今はほっとしています」

 

 声は穏やかで、無理に張ってはいない。

 だが、後ろのざわめきに飲まれない通り方をしていた。

 

「詳細については、後日、宇宙管理局の正式な報告が出ると思います。ただ、まずは現場として、全員が無事に帰還できたことをご報告できてよかったと思っています」

 

 最初の答えとしては模範的だった。

 言いすぎない。

 でも何も言わないわけでもない。

 必要な温度だけを置いていく。

 

 すぐに別の記者が口を挟む。

 

「二ヵ月という長期の閉鎖空間で、最も大変だったのはどの部分でしょうか」

 

 エリンは一拍だけ置いた。

 それは迷いではなく、質問の軸を確かめるための間だった。

 

「一つに絞るのは難しいですが」

 

 柔らかく前置きしてから続ける。

 

「やはり、限られた空間の中で、全員がそれぞれの役割を果たしながら、余計な負荷を増やさないように日々を回し続けることだと思います」

 

「余計な負荷、ですか?」

 

「はい」

 

 エリンは頷く。

 

「大きなトラブルが起きた時だけが大変なのではなくて、何も起きていないように見える時間の中で少しずつ溜まっていく緊張や疲れの方が、長期航行では重いことがあります。そういう時に、誰かの負担を誰かが増やしてしまわないようにする。あるいは、小さな違和感を小さいうちに拾う。そういう積み重ねが大切でした」

 

 質問した記者が深く頷く。

 その答えには現場感がある。

 単なる精神論でも、美談でもない。

 

 別の局の記者が手を挙げるようにマイクを差し出した。

 

「エリンさんは、現在ハワード財閥の旅行会社からスペースホープへ出向されている立場ですよね?」

 

「はい」

 

 エリンは、そこでごく自然に視線を向けた。

 

「現在は、ハワード財閥の旅行会社からスペースホープへ出向という形で客室運用や教育便の立ち上げに関わっています」

 

 その答えを聞いた記者は、さらに踏み込む。

 

「その立場で今回のラスペランッァにも参加されたわけですが、出向元と出向先、両方の現場を見ている今、感じていることはありますか」

 

 いい質問だと、エリンは思った。

 

 そして、そういう質問ならきちんと返したいとも思った。

 

「そうですね」

 

 エリンは少しだけ目を細める。

 

「ハワード財閥の旅行会社は、もともと大きな組織の中で長く運航の実績を積み重ねてきた現場です。一方で、スペースホープは今まさに、もう一度信頼と実績を積み上げ直している途中にあります」

 

 マイクの向こうで、記者達が一斉に手帳を開く。

 “信頼を積み上げ直している”という表現に反応したのだろう。

 

「でも、だからこそ見えるものもあります。大きな組織の中で磨かれてきた技術や運用の考え方を、今のスペースホープの現場へ落とし込むこと。それから、現場の一人一人が経験を重ねながら、実際の便の中で育っていくこと。その両方が、これからの運航にはすごく大切だと感じています」

 

 そこへ、少し年上の男性記者が口を挟んだ。

 

「そのスペースホープですが」

 

 声の色が変わる。

 質問の角度が、今度は“現場”から“組織の問題”へ向いた。

 

「役員の横領問題がありました。現時点でも、そのイメージは決して軽くないと思います。率直に言って、利用する側としては“問題のある会社ではないか”と感じる人もいると思うのですが、その点についてはどうお考えですか」

 

 その一瞬だけ、周囲の空気が少し引き締まった。

 

 厳しい質問だった。

 しかも、かなり真っ直ぐだ。

 

 だが、エリンは目を逸らさなかった。

 

「おっしゃるとおりです」

 

 最初の一言が、それだった。

 

 記者の目が少しだけ見開かれる。

 否定から入らない。

 ごまかさない。

 

「役員による不正があったこと自体は、軽く扱っていい話ではありません。利用者の方や関係先の方が不安に思われるのも当然だと思います」

 

 その言い方は、守りに入っていない。

 むしろ、真正面から受けている。

 

「ですから今、スペースホープに必要なのは、“問題はありません”と急いで言うことではなくて、信頼回復に向けて、日々の運航と対応を一つずつ積み重ねることだと思っています」

 

 エリンは、そこで少しだけ言葉を区切った。

 

「実際に、現場では安全管理や運航体制、教育の見直しも含めて、できることを一つずつやっています。もちろん、それで過去の問題が消えるわけではありません。でも、“これからどうするのか”を見せ続けることは出来ると思っています」

 

 記者は、その答えを黙って聞いていた。

 押し返そうとしていた空気が、少しだけ変わる。

 

 だが、そのままでは終わらない。

 

「ただ、そうした信頼回復に向けて動けているのは、スペースホープの中だけの力ではありません」

 

 エリンは、静かに続けた。

 

「今のスペースホープがあるのは、私が出向しているハワード財閥の旅行会社が、現場を信頼して支えてくれていることが大きいですし、実際に協力してくれている乗務員達の存在もとても大きいです」

 

 その言葉に、別のカメラが少し寄る。

 

 エリンは、さらに少しだけ声の温度を上げた。

 

「それだけではなくて、以前から現場を知っている元同僚や、便の立ち上げに関わってくれた方達、教育便を使ってくださった学校や関係者の方達、そういう様々な人達が、“今の現場”を見て力を貸してくれたから、ようやく少しずつ前へ進めているんです」

 

 派手な言葉ではない。

 でも、その実感は確かだった。

 

 ハワード財閥の旅行会社。

 カイエ。

 エマ。

 ククル。

 特別講師達。

 エリンと同じように手を貸してくれた元同僚。

 現場を信じて教育便を任せてくれた人達。

 そして今、スペースホープで必死に育とうとしているミラやランやクミコ達。

 

 その全部がなければ、今のスペースホープはなかった。

 

 エリンは、それを飾らずに言葉へした。

 

「ですから、会社の名前だけでなく、そこで今動いている現場を見てもらえるように、これからも一つ一つ積み上げていくしかないと思っています」

 

 そこまで言い切った時、さっき質問を投げた男性記者は、ほんの少しだけ表情を変えた。

 

 完全に納得したわけではないだろう。

 だが、少なくとも“逃げた答えではない”と分かったのだ。

 

 別の記者が、その流れを受けるように言う。

 

「では、現在のスペースホープは、再建の途中にあると?」

 

「再建、という言葉でもいいと思います」

 

 エリンは答える。

 

「ただ、私個人としては、“壊れたものを元へ戻す”というより、“今の現場で新しく信頼を作り直している”感覚の方が近いです」

 

「新しく信頼を作り直している」

 

「はい」

 

 エリンは頷いた。

 

「利用してくださる方にとって大事なのは、過去に何があったかだけでなく、今どう運航されているか、今そこにいる人達がどう向き合っているかだと思いますから」

 

 その答えは、きれいだった。

 そして、きれいなだけではなく、ちゃんと現場の汗がにじんでいた。

 

 さらに別の若い記者が、少しだけ明るい質問へ切り替える。

 

「今回の長期調査を経て、教育便や旅行便など、日頃の便への見方に変化はありましたか?」

 

 エリンは、その問いには自然に微笑んだ。

 

「むしろ、日頃の便の大切さを再確認しました」

 

「再確認?」

 

「ええ」

 

 頷く。

 

「特別な任務だから急に何かが出来るようになるわけではありません。普段の教育便や旅行便の運航の中で、人をどう安全に運ぶか、限られた空間でどう安心して過ごしていただくか、そうしたことを一つずつ積み上げるからこそ、長期の閉鎖環境でも踏みとどまれるんだと思います」

 

 そして、そこでほんの少しだけ言葉を選んでから続けた。

 

「そういう意味では、ハワード財閥の旅行会社のように長く積み重ねてきた現場も、スペースホープのように今まさに教育便や実務便の中で力をつけている現場も、どちらもとても大切だと思っています」

 

 これもまた、宣伝らしくない宣伝だった。

 

 “うちを使ってください”とは言わない。

 だが、教育便や研修便の価値を話し、その担い手としてハワード財閥の旅行会社とスペースホープの名前を自然に置く。

 しかも、過去の問題を隠さずに話した上で、今の現場の積み重ねとして語るから、いやらしさがない。

 

 記者の一人が確認するように言う。

 

「つまり、教育便や旅行便の現場が、今回のような長期調査にも繋がっていると」

 

「はい」

 

 エリンは、きっぱりと答えた。

 

「人を見ること。空間を見ること。小さな違和感を拾うこと。そういう力は、派手な場所だけで育つものではありません。日々の便の中で育てていくものだと思います」

 

 それが、エリンの答えだった。

 

 その一言で、質問の流れはきれいに着地した。

 

 これ以上深掘りしようとすれば、後日の正式発表を待つべき領域へ踏み込むことになる。

 記者達も、それを理解したのだろう。

 

 エリンは最後にもう一度だけ会釈した。

 

「詳しい内容は、正式な報告が出た後で、必要な形でお伝えできると思います。今日は、まず全員無事に戻れたことをお伝え出来ればと思います」

 

 その締め方も、申し分なかった。

 

 マイクが少し引く。

 カメラの角度が変わる。

 囲みの圧が、ようやく少しだけゆるむ。

 

 エリンはその場で、小さく息を吐いた。

 

 全国放送。

 ハワード財閥の旅行会社。

 スペースホープ。

 横領問題。

 信頼回復。

 どれも軽く扱える話ではなかった。

 

 でも、逃げずに答えた。

 しかも、必要なものはちゃんと伝えた。

 今のスペースホープが、現場の努力と、信頼してくれる人達の協力の上で立っていること。

 ハワード財閥の旅行会社やその乗務員、元同僚、様々な人達の力があって、ようやく少しずつ前へ進めていること。

 そして、その積み重ねが、今回の長期調査とも無関係ではないこと。

 

 十分だった。

 

 少しだけ人波から離れようとしたその時、エリンはふと周囲を見渡した。

 

 ドックのざわめき。

 別の取材を受けているリュウジ達。

 見学通路の観客。

 そして、その少し離れた場所に――。

 

 ハワード財閥旅行会社の乗務員達がいた。

 

 先頭にはカイエ。

 その隣にエマ。

 ククルが、赤いポニーテールを揺らしながら大きく拍手している。

 その後ろにも、何人もの乗務員達が並んでいた。

 

 皆んな、エリンを見ていた。

 

 さっきのマスコミ対応も、きっと見ていたのだろう。

 全国放送だと聞いて背筋を伸ばし、質問へ一つずつ答え、ハワード財閥の旅行会社とスペースホープの名前を、嫌味なく、でも確かに残した、その全部を。

 

 エリンは、その視線を受けて、胸の奥がふっとほどけるのを感じた。

 

 ようやく、ほんとうに帰ってきたのだと思えた。

 

 戻ってきた。

 無事に。

 長かったようで短かった二ヵ月。

 その緊張が、今やっと少しだけほどける。

 

 最初に目に入ったのは、先頭に立つカイエだった。

 背筋を伸ばし、でも目元は少しだけ緩んでいる。

 その隣にエマ。

 エマは、いつものように凛とした顔をしているのに、その口元だけがわずかに嬉しそうだった。

 

 そのさらに横には、ククル。

 赤いポニーテールを揺らしながら、両手を大きく使って拍手している。

 そしてその後ろにも、ハワード財閥旅行会社の乗務員達が並んでいた。

 

 皆んな、エリンを見ていた。

 

 拍手をしていた。

 

 口々に何かを言っている。

 おかえりなさい。

 お疲れ様でした。

 よかった。

 帰ってきた。

 

 その言葉は遠くて、フラッシュの音や人々のざわめきに紛れて全部は聞こえない。

 でも、十分だった。

 

 エリンは、そっと一歩踏み出した。

 

 その足取りは、さっきまでマスコミの前で立っていた時よりも少しだけゆっくりだった。

 緊張が切れたのか。

 それとも、目の前の光景があまりにもまっすぐ胸へ入ってきたからか。

 

 カイエが、先に一歩前へ出る。

 

「エリンさん」

 

 その呼びかけは、はっきりと届いた。

 

「おかえりなさい」

 

 エマも続く。

 

「ご無事で、本当に良かったです」

 

 ククルは、もう隠しきれない嬉しさのまま笑っていた。

 

「お疲れさまでした! すっごく心配したんですよ!」

 

 その声を聞いた瞬間だった。

 

 エリンの胸の奥で、ずっと張っていた糸がふっと緩んだ。

 

 未探索領域。

 暗い宇宙。

 閉鎖空間。

 気を張り詰めていた時間。

 帰投まで崩さないようにしていたもの。

 そういう全部が、今、ようやく“戻ってきた”という形になったのだ。

 

 エリンは、そのまままた一歩、二歩と歩み寄る。

 

 すると、自分でも気づかないうちに、頬へ何か温かいものが伝っていた。

 

 涙だった。

 

 ほっとしたのかもしれない。

 嬉しかったのかもしれない。

 あるいはその両方かもしれない。

 

 とにかく、頬を伝う涙はとめられなかった。

 

 ククルが、あっと息を呑む。

 

「え、エリンさん……!」

 

 カイエも一瞬だけ目を見開いた。

 エマは、ほんの少しだけ目を細める。

 

 エリン自身は、泣くつもりなんてまるでなかったのだろう。

 少し困ったように、けれど隠すこともせず、小さく笑った。

 

「やだ……」

 

 自分で自分に呆れたような言い方だった。

 

「帰ってきたって思ったら……」

 

 その先は、言葉にならなかった。

 

 カイエが、静かに一歩近づく。

 

「お疲れさまでした」

 

 その声が、優しかった。

 

 ククルも、今度は少しだけ声を落として言う。

 

「ほんとに、無事でよかったです」

 

 後ろの乗務員達の拍手は、まだ続いていた。

 派手ではない。

 でも温かい。

 迎え入れる拍手だった。

 

 エリンは、その中でようやく息をついた。

 

 ハワード財閥旅行会社。

 出向。

 スペースホープ。

 未探索領域。

 いろんな場所を跨いできた。

 どこに自分の居場所があるのか、少しだけ分からなくなる時もあった。

 

 けれど今、この拍手を受けて、少なくとも一つだけははっきり分かった。

 

 自分が帰ってくる場所は、ちゃんとあったのだ。

 

 少し離れたところで、その様子を見ていたクリスタルが、小さく笑う。

 

「やっぱりあの子、こういうのに弱いのよね」

 

 チャコが耳を揺らす。

 

「せやなあ」

 

「でも、ええやん」

 

 チャコは、そう言いながらどこか嬉しそうだった。

 

「帰ってきたんやって、ちゃんと思えるやろ」

 

 リュウジは、その少し後ろで黙ったままエリンの背中を見ていた。

 何も言わない。

 けれど、その視線には穏やかなものがあった。

 

 ルナもまた、少し離れた位置からその光景を見つめていた。

 エリンが泣いている。

 けれど、それは悲しい涙じゃない。

 無事に帰ってきて、迎えられて、ようやく肩から何かを下ろした人の涙だ。

 

 ルナは、自分の胸の奥も少しだけ熱くなるのを感じていた。

 

 宇宙管理局のドックには、まだフラッシュが散っている。

 記者達は別の角度からラスペランッァの面々を追い続けている。

 ざわめきも消えない。

 

 それでもその一角だけは、不思議と別の時間が流れていた。

 

 エリンは頬を伝う涙をぬぐいながら、カイエ、エマ、ククル、そして後ろに並ぶ乗務員達を見た。

 

「ありがとう、皆んな」

 

 その声は、少しだけ掠れていた。

 

 でも、笑っていた。

 

 乗務員達の拍手が、もう一段だけ大きくなる。

 その音を聞きながら、エリンはやっと、本当に帰ってきたのだと思えた。

 

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