サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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お酒禁止

 帰投したその日は、身体を休めるために宇宙管理局で夜を過ごした。

 

 長期調査から戻ったばかりの身体は、自分で思っている以上に鈍っている。

 宇宙船の中での生活は、休んでいるようでいて、決して完全に休まるわけではない。

 小さな音、わずかな振動、交代の気配、閉鎖空間の圧、いつ何が起きても反応できるように張っていた神経。

 そういうものが少しずつ身体の奥へ溜まっていて、帰還してベッドへ横になった瞬間、はじめて“ああ、疲れていたんだ”と気づかされる。

 

 エリンも、昨夜はさすがにその疲れを自覚した。

 

 宇宙管理局の宿泊区画に用意された簡素な部屋。

 必要なものだけが整っている、あまりにも宇宙管理局らしい部屋だった。

 余計な飾りはない。

 窓の外には、夜のコロニーの灯りが静かに並んでいる。

 

 ベッドへ腰を下ろした時、ようやく靴を脱いだ足が少しだけ重いと感じた。

 シャワーを浴びたあと、髪を乾かすのも少し億劫で、途中で何度か手を止めそうになったほどだ。

 それでも、眠りは深かった。

 

 深かったのに――。

 

 朝、目を覚ました瞬間に最初に浮かんだのは、やはりスペースホープのことだった。

 

 ペルシアがいる。

 ミラもランもいる。

 皆んな育ってきている。

 だから大丈夫だと頭では分かっている。

 

 それでも、二ヵ月もフロアを離れていたのだ。

 何がどこまで動いているのか、自分の目で見たい。

 いや、見ておきたい。

 

 結局エリンは、誰に言われるでもなく、朝一番の便で火星へ戻ることにした。

 

 

 宇宙管理局から火星への搭乗ゲート前は、朝の光がまだ淡い時間だった。

 

 通路には長く白い照明が走り、搭乗案内の表示板だけが規則的に切り替わっている。

 夜勤明けの職員が足早に通り過ぎていく一方で、朝の便を待つ人影はまだ少ない。

 人の声もまばらで、静けさの方が勝っている時間帯だった。

 

 エリンは、その搭乗ゲートの少し手前で、小さめのバッグを一つ持って立っていた。

 大荷物ではない。

 帰投したばかりだし、スペースホープで仕事を確認したら、そのまままたどこかで休むつもりだったのだろう。

 少なくとも、最初は。

 

「ふぁああ〜……もう行くの?」

 

 欠伸混じりの声が、横から聞こえてきた。

 

 振り向かなくても分かる。

 ペルシアだ。

 

 エリンが顔を向けると、案の定、ペルシアは眠そうな目をしながら手をひらひら振っていた。

 髪も少しだけ乱れていて、どう見ても“無理やり起きてきました”という顔をしている。

 

「ええ」

 

 エリンは少し笑う。

 

「スペースホープに行かなくちゃ」

 

「真面目ねぇ〜」

 

 ペルシアが、肩を落としたまま言う。

 

「スペースホープなら大丈夫だって言ったじゃない」

 

「ええ」

 

 エリンは頷いた。

 

「ありがとうね」

 

 その礼は、本当にまっすぐだった。

 ペルシアがいなければ、エリンは未探索領域の調査へ参加出来なかった。

 スペースホープのチーフパーサーを引き受け、教育便も実務も、そして営業まで回していたことを、エリンはまだ細かく知らなくても理解はしている。

 

「いいってことよ」

 

 ペルシアは、ふわっとした笑みを浮かべる。

 

 寝起きで眠そうなのに、その言い方だけは少し得意げだ。

 

「だからもう少し寝てればいいのに。私なんて眠くて仕方ないのに」

 

「見送りなんてよかったのよ」

 

 エリンが苦笑しながら言う。

 

「見送るまでが仕事だから」

 

 ペルシアは真顔で返した。

 

 その言い方に、エリンは思わず吹き出しそうになる。

 

「ペルシアらしいわね」

 

「あんがと」

 

 ペルシアは、気の抜けた調子で片手を上げた。

 

 けれどその次の瞬間には、少しだけ眠気の抜けた目でエリンを見ている。

 

「みんなによろしく伝えといて」

 

 エリンが言う。

 

「うん、分かった」

 

 ペルシアは頷いた。

 

「それじゃあね」

 

「うん、気をつけて」

 

 短いやり取りだった。

 けれど、二人の間にはそれで十分なものがある。

 

 搭乗案内の表示が切り替わり、エリンは小さく手を振ってゲートの方へ歩き出した。

 ペルシアはその背中を、眠そうに目を細めながら、それでも最後まで見送っていた。

 

 

 火星に着いてから、エリンはまっすぐスペースホープへ向かった。

 

 移動の間も、頭は完全には休まっていない。

 未探索領域から帰還した翌朝だというのに、既に気持ちは“戻る側”に切り替わっていた。

 

 火星の街並みが窓の外を流れていく。

 ここへ来るのも久しぶりだ。

 二ヵ月前、自分はここからアルテミスへ乗るために離れた。

 あの時は見送られる側だった。

 今は、戻ってくる側だ。

 

 スペースホープの建物が見えた時、エリンの胸の奥に小さな緊張が走った。

 大丈夫だと分かっている。

 でも、二ヵ月は短くない。

 何も変わっていないはずがない。

 

 受付を通り、フロアへ向かう。

 自分でもどのフロアを目指しているのか、一瞬だけ迷いかけて、少し苦笑した。

 

 最終的に足が向いたのは、いつものスペースホープのフロアだった。

 

 扉を開けた瞬間。

 

「エリンさん!」

 

 声が上がった。

 

 それも一つではない。

 いくつも、いくつも、重なる。

 

 皆んなが、椅子を鳴らして一斉に立ち上がった。

 その勢いに、エリンの足が一瞬だけ止まる。

 次の瞬間には、何人もの乗務員達が駆け寄ってきていた。

 

「おかえりなさい!」

「エリンさん!」

「無事でよかったです!」

「ほんとに……!」

 

 最初にぶつかるように抱きついてきたのはアズサだった。

 その後ろからクミコも、ミドリも、ハズキも。

 サリーとマユは少しだけ控えめだったが、それでもすぐ近くまで来ている。

 ユウコとナツキは笑いながらも、明らかに嬉しそうだった。

 ミラとランは、少し後ろで微笑みながら見ていたが、二人ともその目元は柔らかかった。

 

 エリンは、一瞬だけ目を見開いた。

 まさかここまで真正面から飛び込んでこられるとは思っていなかったのだろう。

 

 けれど、その温度は嫌ではない。

 むしろ、胸の奥へじんわりと染みていく。

 

「ちょ、ちょっと、皆んな……」

 

 困ったように笑いながらも、エリンはその誰かの肩や背を自然に撫でた。

 

「大丈夫ですか!?」

「疲れてませんか!?」

「ちゃんと寝ました!?」

「どこか痛いところないですか!?」

 

 矢継ぎ早に飛んでくる言葉に、エリンはとうとう吹き出した。

 

「大丈夫よ」

 

 少し笑ってから、ひとつひとつへ返すように続ける。

 

「少し仕事を確認したくてね。確認したら大人しく帰るわ」

 

 その言い方に、ナツキがすぐに眉を上げる。

 

「ほんとですか?」

 

「ほんとよ」

 

「絶対ですか?」

 

「絶対」

 

「怪しいなぁ」

 

 ユウコが横から口を挟む。

 

「エリンさんって、こういう時ほど“ちょっとだけ”って言って帰らないんですよね」

 

「そうそう」

 

 ナツキが頷く。

 

「気づいたら夜になってるやつ」

 

「しないわよ」

 

 エリンが言い返すと、皆んなが少しだけ笑った。

 

 その笑い声に、フロアの緊張がふっとほどける。

 帰ってきた。

 ちゃんと、帰ってきたのだ。

 

 エリンは、その輪の中からようやく抜け出すようにして、自分の席へ向かった。

 二ヵ月ぶりの自席だ。

 机の上には、ちゃんと整理された書類束と、共有端末、連絡メモが積まれている。

 誰かがきちんと整えていたのだろう。

 

 その几帳面さに、エリンは小さく目を細めた。

 

「ミラ」

 

「はい」

 

 すぐ後ろでミラが答える。

 

「ペルシアは大丈夫だった?」

 

 その問いは自然だった。

 まずそこを聞くのが、やはりエリンらしい。

 

 ミラは一瞬だけ間を置いた。

 

「はい、フライトも問題なく……」

 

 そこまで言って、わずかに言葉が濁る。

 

 エリンは、そのわずかな歯切れの悪さを聞き逃さなかった。

 だが、今は深追いしない。

 

「そっか」

 

 穏やかに頷く。

 

「ありがとう」

 

 それだけ言って、エリンは書類の束へ手を伸ばした。

 

 まずは便の記録。

 教育便の実施報告。

 乗務割り振り。

 機内トラブルの有無。

 訓練メモ。

 営業関係の資料――。

 

 ペラペラと何枚かめくる。

 目の動きは早い。

 長期調査帰りとは思えないほど、情報を拾う速度が戻っている。

 

 けれど、十数枚進んだあたりで、エリンの手が止まった。

 

 ぴたり、と。

 

 フロアの空気が、その止まり方へ敏感に反応する。

 

 エリンは、もう一度同じページを見た。

 次のページをめくった。

 さらに次も。

 そして、ゆっくりと顔を上げる。

 

「ちょっと待って」

 

 声の温度が変わっていた。

 

「なんでこんなにフライトの予約が入っているの?」

 

 一瞬、フロアが静まり返る。

 

 ミラとランが、ほとんど同時に視線を逸らしかけて止めた。

 クミコ達も、顔を見合わせる。

 ナツキが口元を引き結び、ユウコは「ほら来た」とでも言いたげに小さく息を吐いた。

 

 エリンは、手元の書類をもう一度見下ろした。

 

 予約便の一覧。

 仮押さえではない。

 かなり具体的な日程で入っている。

 来月。

 再来月。

 教育便。

 小規模研修便。

 役員視察便。

 短期旅行便。

 しかも、ひと目で分かるほどの量だ。

 

 エリンの頭の中で、何かがゆっくりと嫌な音を立て始めた。

 

「……ミラ」

 

「はい」

 

「これ、どういうこと?」

 

 ミラは、観念したように小さく息を吸った。

 

「ペルシアさんが……営業として取ってきた予約です」

 

 その一言で、エリンは一度だけ目を閉じた。

 

 嫌な予感が、二ヵ月前からどこかでずっと背中に張りついていた気がする。

 帰還間際にアルテミスの中で妙に背筋が寒くなったあの感覚。

 あれの正体が、今、ようやく形を持って目の前に現れた気がした。

 

「宇宙管理局の慰安旅行や、宇宙管理局の役員関係、それから研修や視察の便も……」

 

 ランが静かに補足する。

 

「……そう」

 

 エリンの声は、驚くほど落ち着いていた。

 だが、その落ち着きが逆に怖い。

 

 クミコが、恐る恐る言う。

 

「ペルシアさん、本当にすごくて……企画書をガーネットさんにお願いして、その叩き台を直して、役員さん達に送って、片っ端から電話して……」

 

「局長の慰安旅行まで取りました」

 

 ユウコが、もはや隠しようもないといった顔で付け足した。

 

 エリンは、そこで再び書類を見下ろした。

 

 頭が痛くなった気がした。

 

 予約を取りすぎだ。

 

 いや、正確に言えば“取ってきたこと”自体は悪くない。

 むしろ、現場経験を積ませる意味ではありがたい。

 白かったスケジュールが埋まるのは、本来なら喜ぶべきことだ。

 

 でも問題は、その先だった。

 

 予約相手との詳細調整。

 どの便にどの乗務員を当てるか。

 教育的な意味と、実務としての安定をどう両立させるか。

 機体運用の割り振り。

 役員側との打ち合わせ。

 内容の擦り合わせ。

 研修便なら目的設定と船内導線の再構築。

 慰安旅行なら運航時間と過ごし方の調整。

 小規模便なら、逆に過剰品質にならない線引き。

 

 それら全部が、まだこれからだ。

 

 しかも、その量がかなりある。

 

 エリンは、一枚一枚めくり直しながら、頭の中で組み上がっていく仕事量をざっと見積もった。

 

 来月前半でこれ。

 中旬にここ。

 再来月の前半で役員便が重なる。

 教育便との兼ね合い。

 スペースホープの育成途中の乗務員達。

 ハワード財閥旅行会社との調整。

 ガーネットとペルシアの現在地。

 戻ってきたばかりの自分の身体。

 

 ――帰れない。

 

 エリンは、あっさりと理解した。

 

(今日は帰れないな)

 

 それは諦めではなかった。

 事実の確認に近い。

 

 少し仕事を確認したら大人しく帰る。

 ついさっき、そう言ったばかりなのに。

 だが、その“少し”で済む量では、もうなかった。

 

 ナツキが、恐る恐る訊く。

 

「……エリンさん?」

 

「うん?」

 

 エリンは、顔を上げた。

 その表情は、意外にも崩れていない。

 頭を抱えるでもなく、怒鳴るでもなく、ただ静かに仕事モードへ入っている。

 

「怒ってます……?」

 

 それを聞いて、エリンは少しだけ目を瞬いた。

 それから、ふっと笑う。

 

「怒ってはいないわよ」

 

 その笑顔が、だからこそ余計に怖い。

 

「でも、頭は痛いわね」

 

 率直だった。

 

 フロアの何人かが、小さく肩をすくめる。

 やっぱりそうだよね、という空気だ。

 

「ペルシアさん、やりすぎましたよね……」

 

 ハズキが小声で呟く。

 

「やりすぎたわね」

 

 エリンは、あっさり認めた。

 

「でも、仕事を取ってきたこと自体は悪いことじゃないの」

 

 その言い方に、ミラとランが少しだけ顔を上げる。

 

「問題は、その後」

 

 エリンは書類を整えながら続ける。

 

「取った便をどう運航へ落とすか。誰を乗せるか。どう育成と組み合わせるか。何を優先して、どこを削るか。そこを詰めないと、ただ“予約が入った”だけで終わっちゃう」

 

 その言葉に、クミコがごくりと唾を飲み込んだ。

 

 そうだ。

 自分達は“仕事が増えた、嬉しい”という気持ちで見ていた。

 でもエリンが見ているのは、その先の現実だ。

 

「だから」

 

 エリンは、そこで一度だけ深く息を吸った。

 

「今日は帰れないわね」

 

 あまりにも自然に言われて、皆んなが一瞬だけ黙る。

 

 ナツキが、すぐに呆れたように言った。

 

「やっぱり帰らないじゃないですか」

 

「ごめんね」

 

 エリンが苦笑する。

 

「でも、これは今日中に仕分けしておかないと後が怖いの」

 

「……ですよね」

 

 ユウコが、素直に頷いた。

 

 ミラが、そこで一歩前へ出る。

 

「何をしますか」

 

 その問いは、もう“エリンさんを休ませた方が”という次元を越えていた。

 ここから先は、全員で乗り切るしかない。

 ミラにもそれが分かっている。

 

 エリンは、すぐに答えた。

 

「まず、全部の便を目的別に分ける。教育、研修、慰安、視察。次に、日程の優先順位を付ける。絶対に落とせないものと、ずらせるものを分ける」

 

 言いながら、書類を四つの山へ分け始める。

 

「ランは、相手先の一覧作って。誰がどの部署で、窓口が誰か。もう一回整理したい」

 

「分かりました」

 

「ミラは、現時点の乗務員ごとの実務経験を出して。便の種類ごとに誰がどこまで行けるか見たい」

 

「はい」

 

「クミコ、アズサ、ハズキ、サリー、ミドリ、マユ、ユウコ、ナツキ」

 

 一気に名前を呼ばれて、皆んなが背筋を伸ばす。

 

「今日は全員、帰る時間が読めなくなるかもしれないけど、大丈夫?」

 

 一瞬の沈黙のあと、返ってきたのは揃った声だった。

 

「大丈夫です!」

 

 その返事に、エリンは小さく目を細めた。

 

「ありがとう」

 

 そして、その表情がきりっと締まる。

 

「じゃあ、やりましょう」

 

 帰還したその日の朝。

 本当なら、少し休んで、少し確認して、少しだけ安心して終わるはずだった。

 

 けれど、現実はそうならない。

 

 ペルシアが勝ち取ってきた予約は、エリンへ休む暇など与えてくれなかった。

 それでもエリンは怒鳴らない。

 投げ出さない。

 ただ、目の前の山をどう崩すかを考え始める。

 

 その姿を見て、ミラはふと、胸の奥で何かが静かに熱を持つのを感じていた。

 

 帰ってきた。

 そして、やっぱりエリンさんだ。

 

 そう思うと同時に、ナツキは心の中で、火星と宇宙管理局の方角へ向けてひとつだけ呟く。

 

(ペルシアさん、絶対怒られると思ったけど……想像以上かも)

 

 もっとも、その頃のペルシアは、きっとまだ自分がどれだけの“爆弾”を残したのか、半分ぐらいしか分かっていなかっただろう。

 

 スペースホープのフロアでは、その日、エリンが帰れないことが静かに決定した。

 そして、その決定と同時に、フロア全体もまた、長い一日へ入っていった。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

結局、未探索領域の調査から戻ってきてからのエリンは、休む暇もないほどの慌ただしさに追われていた。

 

 アルテミスから降りたその足で、半ば強引に火星へ戻り、スペースホープのフロアで山のような予約票と向き合ったあの日から、毎日が目の回るような連続だった。

 旅行先との調整。

 各部局との打ち合わせ。

 便に合わせた内容の擦り合わせ。

 教育便なのか、慰安旅行なのか、研修を含むのか、それとも純粋な観光寄りに振るのか。

 そして、それぞれの便に応じた乗務員の割り振りと、乗り入れからラウンジ、食堂、帰路までを想定したシュミレーションの組み直し。

 

 ペルシアが営業として勝ち取ってきた仕事は、どれも魅力的で、今のスペースホープに必要なものばかりだった。

 だからこそ断れない。

 だが、だからこそエリンの仕事は増える。

 

 しかも、ただ量が多いだけではない。

 便ごとに客層も目的も違う。

 教育便なら、教職員と生徒の動き。

 研修便なら、受講者同士の関係性や研修内容との連動。

 視察便なら、説明の質とタイミング。

 慰安旅行なら、楽しさと安全の両立。

 そのどれもが、ただ飛ばせばいいわけではなかった。

 

 エリンは毎日、各便の資料へ目を通し、シュミレーションルームで動線を組み、時には一人で夜遅くまで座席配置と休憩導線を書き換えた。

 ミラとランは既に、その補助だけではなく、かなりの部分で前に立てるようになっている。

 クミコ、マユ、サリー、ハズキ、ミドリ、アズサも、それぞれの便で必要な役割を担えるようになってきていた。

 それでも、最初の数便はやはり神経を使う。

 戻ってきたばかりのエリンにとっても、いきなり現場へ放り込まれるようなものだった。

 

 その中でも、最初の旅行便は特別だった。

 

 宇宙管理局の慰安旅行。

 

 それは、ペルシアが営業として半ば強引に、しかし見事に勝ち取ってきた予約の中でも、ひときわ大きく、ひときわ象徴的な便だった。

 局長、ローズ、ペルシア。

 フレイ、ジェームズ、シャオメイ、イーナ、ナミといった“チームペルシア”の面々。

 さらにはラスペランッァの皆んな。

 そして宇宙管理局の局員達まで含めると、総勢およそ百名。

 

 ただの慰安旅行、と片づけるには大きい。

 しかも、宇宙管理局の名前がつく以上、失敗は出来ない。

 失敗すれば、スペースホープへの信頼回復にも直撃する。

 成功すれば、その逆だ。

 

 行き先は木星からロカC3のキャンプ場。

 自然の残るキャンプエリアで数時間過ごし、その日のうちに戻る日帰りの便。

 距離も、拘束時間も、初便としては悪くない。

 だが、慰安旅行である以上、“楽しさ”が前へ出る。

 そして、“楽しさ”が前へ出る便ほど、空気は崩れやすい。

 

 エリンは、そのことを嫌というほど知っていた。

 

 だから、出発当日の朝、フロアに並んだ乗務員達を前にして、普段よりも少しだけ長く話をした。

 

 今回、対応する乗務員は九人。

 

 エリン。

 ミラ。

 ラン。

 クミコ。

 サリー。

 アズサ。

 マユ。

 ハズキ。

 ミドリ。

 

 スペースホープとして今出せる、かなり厚めの布陣だった。

 

 制服に着替え終えた皆んなの前で、エリンは小さく息を吸った。

 

「今日は慰安旅行です」

 

 その一言だけで、空気が少し変わる。

 教育便でもなく、研修便でもない。

 “楽しむための便”。

 その意味を、皆んな理解している。

 

「だから、普段の教育便や視察便とは少し違います」

 

 エリンは一人一人の顔を見ながら続けた。

 

「皆さんが楽しむことが目的です。でも、“楽しい”と“崩れる”は違う。そこを見誤らないで」

 

「はい」

 

 声が揃う。

 

「それと」

 

 エリンはそこで少しだけ間を置いた。

 

「今回、一番の注意点は何だと思う?」

 

 いきなりの問いに、アズサが少しだけ目を泳がせる。

 ミドリは真面目に考え込み、ハズキは「一番……?」と小さく呟いた。

 

 最初に答えたのは、やはりミラだった。

 

「お酒、ですか?」

 

「そう」

 

 エリンは頷く。

 

「慰安旅行ですから、普段より気が緩む。しかも宇宙管理局の皆さんは、今日ばかりは“客”として乗ってこられる。そこにお酒が入ると、場は一気に変わる」

 

 その言葉に、クミコ達の背筋が少しだけ伸びた。

 

「楽しい空気を止める必要はない。でも、線は守らせる。そこが今日の難しいところ」

 

 ランが静かに頷く。

 

「線、ですね」

 

「ええ」

 

 エリンは答える。

 

「駄目なものを全部止めると、慰安旅行らしさがなくなる。でも好きにさせすぎると、帰りの便まで崩れる」

 

 ユウコとナツキはいないが、今日の九人はこれまでの教育便でかなり経験を積んでいる。

 それでも、百名規模の慰安旅行はまた別物だ。

 

「ミラとランは、いつも以上に全体を見て。私が前に出る場面もあると思うけど、二人は“その次”を拾って」

 

「はい」

 

 二人が同時に返す。

 

「クミコ、マユ、サリー、ハズキ、ミドリ、アズサは、自分の持ち場を崩さないこと。今日は誰か一人の好不調に引っ張られないで、全体の流れを優先する場面が出ると思う」

 

「はい!」

 

 今度は六人の返事が揃った。

 

「それと――」

 

 エリンは、そこでほんの僅かに苦笑した。

 

「多分、最初から騒がしい人が一人いる」

 

 その言葉に、皆んなが一斉に誰を思い浮かべたのかは明白だった。

 

 フロアのあちこちで、小さな笑いが漏れる。

 

「ペルシアさん、ですよね」

 

 アズサが恐る恐る言うと、エリンは「ええ」と頷く。

 

「だから、皆んな落ち着いて。いつものことと思って対処しましょう」

 

「いつものこと……」

 

 ハズキが小さく繰り返し、ミラとランが同時に目を伏せた。

 その反応だけで、どれほど“いつものこと”なのかが伝わってくる。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

そして、エアポート。

 

 宇宙管理局の慰安旅行組は、搭乗口の周辺に広がるように集まっていた。

 普段はきっちりした制服や業務服姿の局員達も、今日は私服やラフなジャケット姿が目立つ。

 それだけで、仕事の日とは空気が違う。

 

 局長やローズ、フレイ達はさすがに整った服装だったが、それでも“今日は利用者側”の空気があった。

 もっとも、その中でも最も“利用者らしい”顔をしていたのは、やはりペルシアだった。

 

 遠目にその姿を見つけた瞬間、ミラの足が一度だけ止まる。

 

「……あ」

 

 その声に、ランが隣で小さく息を吐いた。

 

「いましたね」

 

 エリンも、その視線の先を見て、表情を一瞬だけ止める。

 

 ペルシアが、すでに顔を真っ赤にしていた。

 

 しかも、その手には瓶と紙コップがある。

 嫌な予感しかしない。

 近くの局員達も、既に同じようなカップを持って笑っている。

 搭乗前だというのに、ペルシアは自分で持ち込んだ酒を配っていた。

 

「おっはよー!」

 

 最初に気づいたのは向こうだった。

 ペルシアは、にこにこと大きく手を振る。

 

 声が弾みすぎている。

 既にかなりご機嫌だ。

 

 クミコが目を瞬かせる。

 

「もう酔ってる……?」

 

「え、まだ乗ってないよね?」

 

 アズサが困惑し、ハズキは思わず「早い」と呟いた。

 

 エリンは、皆んなの前に一歩出た。

 表情は穏やか。

 でも、目の奥だけが少しだけ鋭い。

 

「ペルシア」

 

「なぁに? エリン〜」

 

 呼ばれると、ペルシアはちゃんと顔を向ける。

 そこだけは昔から変わらないのだろう。

 

「なんで、もう酔ってるの?」

 

 エリンの問いは静かだった。

 静かだからこそ、近くにいた局員達まで一瞬だけ空気を止める。

 

 ペルシアは、きょとんとした顔で答えた。

 

「慰安旅行だから」

 

 意味が分からない。

 だが、本人の中では完璧な理屈らしい。

 

 ローズが近くで深く息を吐き、局長は額に手を当てそうになっていた。

 チャコはまだ搭乗前なのにその様子を見て既に肩を揺らしている。

 

「そういう問題じゃないわ」

 

 エリンは即座に返す。

 

「搭乗前に配らない」

 

「えー」

 

「えー、じゃない」

 

 穏やかなまま、ぴしゃりと切る。

 

「飲むなら自席で。離陸して安定飛行に入ってから。量は管理する」

 

「自席ぃ?」

 

「そう。ラウンジに集めると絶対に大騒ぎになるでしょ」

 

 その言い方に、ペルシアだけではなく、周囲の局員達まで小さく吹き出した。

 ローズも「それはそうだ」と渋い顔で頷く。

 

「でも、皆んなでもっとわいわいしたいじゃない」

 

「わいわいはするわよ」

 

 エリンは少しだけ口元を緩める。

 

「ただし、自席で」

 

 そこへクミコ、サリー、アズサが素早く入る。

 

「お預かりしますね」

「後で各席にお持ちします」

「種類だけ控えますので」

 

 三人の手が、慌ただしくも丁寧に、ペルシアの持っていた瓶やカップを回収していく。

 ペルシアは不満そうに唇を尖らせたが、エリンがいる前で本気で抵抗はしない。

 

「没収じゃないのよね?」

 

「違うわ」

 

 エリンが答える。

 

「後でちゃんと出す。ただし、自席で、量を見て、乗務員の指示に従って」

 

「はーい」

 

 返事だけは素直だった。

 その返事を信じる気にはなれないが、それでも前に進めるしかない。

 

 ミラが小声で言う。

 

「行きからこれって、帰りどうなるんだろう」

 

「考えるのは後にしましょ」

 

 ランが小さく返す。

 

 それは本気だった。

 今はまず、乗り入れを崩さないことが先だ。

 

 

 搭乗が始まると、エアポートの空気は一気に動き出した。

 

 慰安旅行の参加者は、教育便のようにまとまって動かない。

 研修便のように、指示に従って一定の速度で進んでもくれない。

 仲のいい者同士で固まり、話し込み、笑い、途中で別の知り合いを見つけては足を止める。

 

 そこへ酒気が少しだけ混じっているのだから、最初の流れはかなり読みにくい。

 

「ミラ、前方の列、一回広げて」

 

「はい」

 

 エリンの指示がすぐに飛ぶ。

 ミラは前方で、局長やローズ、フレイ達の流れと、一般局員達の流れが自然に分かれるよう位置を調整した。

 

「ローズさん、こちらどうぞ」

 

「すまない」

 

「フレイさんとナミさんは、その後ろで大丈夫です」

 

「ありがとうございます」

 

 ランはその少し後ろから、ペルシアに引っ張られて妙に声が大きくなっている局員達の流れを拾う。

 

「後ろの皆さん、ゆっくりで大丈夫です。お席に飲み物回しますから、慌てなくていいですよ」

 

 その一言だけで、“先にラウンジへ行かなきゃ”という空気が少し落ちた。

 今日の鍵はそこだった。

 皆んなが一つの場所に集まると危ない。

 だから、各自の席で楽しませる。

 

 自席で酒を飲みながら、各々の会話が生まれる形にした方が、百名規模ではむしろ安定する。

 エリンがそう判断したのは正しかった。

 

 クミコとアズサは、座席に着く人達へ小さなボトルや紙コップを配っていく。

 ただし量は一定。

 局長クラスと一般局員で露骨に差を出さない。

 でも、明らかに酔いが早そうな人へは水を一緒につける。

 その細かな差配に、サリーとマユが補助で入る。

 

 すると、自然に各席で酒が開き始め、船内はラウンジに集まる前から妙に楽しげな熱を持ち始めた。

 

 

 乗り入れの最中から、あちこちで会話が弾んでいた。

 

 前方では、局長が席へ着いた瞬間にペルシアが身を乗り出す。

 

「局長、今日はちゃんと楽しむのよ?」

 

「お前が言うな」

 

「何よ、いいじゃない」

 

「いいが、お前は既に楽しみすぎだ」

 

「それは否定しない」

 

 その隣でローズが額を押さえる。

 

「最初からこれか……」

 

「ローズも飲みなさいよ」

 

「いらん」

 

「なんでよ」

 

「帰りまで残っている神経が減る」

 

「ひどい」

 

 だがそのやり取りに、近くの局員達が笑う。

 局長やローズを、こんな近くで、こんな空気で見ることは滅多にないのだろう。

 

 少し後ろの席では、チームペルシアの面々が早くも妙な盛り上がりを見せていた。

 

「ナミ、今日は何杯までなら怒られないと思う?」

 

 ペルシアが後ろを振り向いて聞くと、ナミが即答する。

 

「一杯です」

 

「少なっ」

 

「エリンさんに聞いてください」

 

「エリンは今仕事中」

 

「じゃあ二杯です」

 

「増えた!」

 

 その会話に、イーナがくすっと笑う。

 

「ナミ、優しい」

 

「優しくないよ。これでも譲歩したの」

 

 フレイは、自席へ配られた酒を見下ろしながら少しだけ目を細めた。

 

「ペルシアさん、自分が持ち込んだものを自分で回収されて、そのあと自分で飲むことになるの、だいぶ面白いですね」

 

「面白いでしょ」

 

 ペルシアは全く気にしていない。

 

「でも結果的に皆んな飲めてるからいいのよ」

 

 ジェームズが、そのやり取りを聞きながら小さく肩をすくめる。

 

「理屈が強引だ」

 

「でも間違ってないでしょ?」

 

「間違っているかどうかの前に、面倒くさい」

 

 シャオメイが短く言うと、チームペルシアの席で小さな笑いが起こる。

 

 中ほどでは、ラスペランッァの面々の会話も始まっていた。

 

 チャコは既に紙コップを片手に、隣のマリへ身を乗り出している。

 

「マリ、何飲んどるん?」

 

「果実酒」

 

「ええやん。ウチにも少しくれへん?」

 

「自分のがあるだろ」

 

「ちょっと味見や、味見」

 

 マリは呆れたように言いながらも、ほんの少しだけカップを傾ける。

 

 サツキは、その隣で小さく笑った。

 

「チャコって、本当にこういう時だけ元気だよね」

 

「こういう時だけとは何や!」

 

「普段から元気だけど、今日は三割増し」

 

「せやろ?」

 

「褒めてないよ」

 

 そこへクリスタルが水のボトルを持って入ってくる。

 

「はい、チャコ。先に水」

 

「何でや!」

 

「酔うと面倒だから」

 

「もう十分面倒やろ」

 

 マリがぽつりと言うと、サツキが吹き出した。

 

 少し離れた位置では、リュウジが静かに席へ着いていた。

 紙コップも一応受け取っているが、まだ口をつけていない。

 

 そこへペルシアがわざわざ寄ってくる。

 

「リュウジ〜、飲まないの?」

 

「飲まない」

 

 声は低く落ち着いている。

 

「つまんなーい」

 

「離陸前から飲む方がおかしい」

 

「慰安旅行だから」

 

「それ、今日何回目だ」

 

 リュウジが呆れたように言うと、近くにいたチャコが「それな」と大きく頷いた。

 

「リュウジは何飲むん?」

 

「コーヒー」

 

「色気なっ!」

 

「色気いるのか?」

 

「慰安旅行にはいるやろ」

 

「いらない」

 

 その短いやり取りに、クリスタルが肩を揺らして笑う。

 

 そしてその少し後方では、一般局員達同士の会話も盛り上がっていた。

 

「え、ローズさんって本当に来てるんですか?」

「来てる来てる、前の方」

「うわ、珍しい……」

「局長までいるしな」

「今日、宇宙管理局じゃなくて別の会社みたいだ」

 

 そう言って笑い合う声に、ミドリが通路側からさりげなく入る。

 

「すみません、お席に着いたままで大丈夫ですよ。飲み物追加の時はこちらからお声がけします」

 

「ありがとうございます」

 

 局員達は素直に頷き、また会話へ戻っていく。

 

 ミドリは、その様子を見ながら内心で少し驚いていた。

 教育便の時は、“案内する側”の言葉がもっと強く必要だった。

 でも今日は違う。

 相手は大人で、しかも楽しみに来ている。

 だから、強く押すのではなく、“席にいても楽しい”と思わせれば落ち着く。

 

 その感覚を、実際の便の中で少しずつ掴んでいく。

 

 ハズキは、逆に“会話へ入りすぎないこと”の難しさを感じていた。

 

 慰安旅行で乗っている人達は、皆んな気が緩んでいる。

 乗務員へも気さくに話しかけてくる。

 

「お姉さんも飲まないの?」

「今日は大変だねえ」

「スペースホープって、最近すごいね」

 

 そういう会話に、つい足を止めそうになる。

 でも、止まりすぎると次の流れが読めなくなる。

 

 だからハズキは、笑って返しつつ、身体の向きだけは次へ向けていた。

 

「ありがとうございます。後でまた回りますね」

「はい、お酒はご自身の席でお願いします」

「戻る時も楽しいままで帰りたいですから」

 

 その言い方を、行きのシミュレーションでエリンが何度も繰り返していたことを思い出す。

 

 楽しさを否定しない。

 でも、線は守らせる。

 

 それが、今日の便だ。

 

 

 そして、その全体を見ているエリンは、離陸前から既に忙しかった。

 

 前方。

 中ほど。

 後方。

 ペルシア。

 局長。

 ローズ。

 ラスペランッァ。

 一般局員達。

 

 誰がどの程度のテンションで、誰が早く酔いそうか。

 誰と誰が隣にいると盛り上がりすぎるか。

 その逆に、誰と誰を近くに置くと空気が落ち着くか。

 

 視線だけで拾い、必要なところへ必要な人を差し込んでいく。

 

「サリー」

 

「はい」

 

「後方左列、三人組の声、今はいい。でもこれ以上上がるなら水を一緒に」

 

「分かりました」

 

「マユ」

 

「はい」

 

「局長の後ろ、少し静かすぎるから一回だけ飲み物確認して。放っておくと逆に固まる」

 

「はい」

 

「クミコ、ペルシアの自席、今のうちに水増やして」

 

「はい!」

 

 クミコがぴょこんと返事をして、すぐにペルシアの席へ向かう。

 ペルシアは「何で私だけ水多いのよ」と抗議したが、クミコは「何ででしょうね」と初めて少しだけ笑顔で流した。

 

 その返しに、近くの局員達から笑いが起こる。

 

 エリンは、その空気のほどけ方を見て、小さく目を細めた。

 

 皆んな、やれるようになってきている。

 

 慰安旅行。

 百名規模。

 酒あり。

 しかもペルシア付き。

 

 普通に考えれば、かなり厄介な初便だ。

 でも、その厄介さの中で、皆んなちゃんと自分の足で立っている。

 

 そして船内のあちこちから、会話の波が聞こえてくる。

 

「未探索領域って、実際どうだったんです?」

「いや、映像で見るよりずっと静かだったよ」

「静かって逆に怖くないですか?」

「怖いよ。だからこうして帰ってくると酒がうまい」

 

 局員達のそんな会話。

 あるいは――

 

「エリンさん、これ全部ペルシアさんが取ってきた仕事なんですよね」

「そうね」

「やっぱり怖いですか?」

「営業としてはすごいわよ」

「営業として“は”って付きますよね?」

「付くわね」

 

 近くにいたクミコとエリンの小さなやり取り。

 そして――

 

「ローズ、ほんとに飲まないの?」

「仕事じゃないが、今日は見てる方で十分だ」

「真面目だなぁ」

「お前が言うな」

 

 ペルシアとローズの、いつも通りの応酬。

 

 その全部が、自席で酒を飲みながら、船内のあちこちで生まれている。

 ラウンジへ一か所に集めるより、エリンの判断は正しかった。

 分散しているからこそ、会話は豊かで、空気は広がり、でもまだ崩れない。

 

  宇宙船が安定飛行へ入ってからしばらくすると、船内の空気は、行きの乗り入れの時とはまた別の熱を帯び始めていた。

 

 自席で飲む。

 ラウンジへ集めず、席で楽しんでもらう。

 

 エリンが最初にそう線を引いたことで、百名規模の慰安旅行便は、変に一箇所へ熱が集中することなく、あちこちで小さな賑わいが生まれる形になっていた。

 

 前方では局長とローズの周辺に、程よく緊張した笑いがある。

 中ほどではチームペルシアが、仕事の延長みたいな軽口を叩きながら少しずつ肩の力を抜いている。

 ラスペランッァの面々は、その少し後ろで、普段の延長とも、慰安旅行らしい緩さとも言える空気を作っていた。

 さらに後方では、一般局員達が普段見せない砕けた顔で、同僚と杯を交わしている。

 

 それらを、エリン達、スペースホープの乗務員が通路を行き来しながら見守っていた。

 

「今のところ、悪くないですね」

 

 前方から少し下がってきたミラが、エリンへ小さく言う。

 

「ええ」

 

 エリンは頷く。

 

「まだ、ね」

 

 その“まだ”の意味を、ミラも分かっていた。

 慰安旅行の便は、始まってすぐが難しいわけではない。

 酒が入り、場が温まり、人の気が大きくなってきた頃が一番危ない。

 

 ランは、その少し後ろで客席の様子を見ていた。

 ペルシアの席は中ほどの少し広いエリアだ。

 最初は自席で静かに飲んでいたはずなのに、気づけば周囲の席まで巻き込み、小さな宴会場みたいな空気を作り始めている。

 

「ペルシアさん、もう二本目ですかね……」

 

 ランが小さく呟く。

 

「三本目じゃない?」

 

 エリンはポツリと答えた。

 代わりに、近くでマユが不安そうな顔をしていた。

 

 その不安は、しばらくして現実になる。

 

 

 最初は本当に自然だった。

 

 ペルシアは、自席に座ったまま、配られた酒を飲んでいた。

 局長やローズ、チームペルシアの面々が近くにいることもあって、会話も少しずつ弾んでいく。

 

「局長、こうして私と酒飲めるなんて光栄でしょ?」

 

「その言い方をする時点で光栄さが減る」

 

「減らないわよ。むしろ増すわ」

 

「理屈が分からん」

 

 ローズが横から呆れたように言い、ペルシアが「ローズも飲みなさいよ」とまたグラスを差し出す。

 ローズは相変わらず渋い顔をしているが、結局ほんの少しだけ口をつけた。

 

「ほら、美味しいでしょ?」

 

「……悪くはない」

 

「ほーらね」

 

 得意げだ。

 

 その後ろで、フレイがやや引いた顔でグラスを見ている。

 

「なんだか、いつもより質がいい気がするんですが」

 

「気のせいじゃないわよ」

 

 ペルシアがにやりと笑う。

 

「今日は慰安旅行だもの」

 

「慰安旅行って言葉、便利ですね」

 

 ナミがぽつりと言うと、イーナが小さく笑った。

 

 シャオメイが一口飲んで、珍しく素直に言う。

 

「……美味しい」

 

 その一言で、周囲の視線が一斉にペルシアへ向く。

 

「でしょ?」

 

 待ってましたとばかりに胸を張る。

 

「どれも上質なやつよ」

 

「“どれも”って、他にもあるんですか?」

 

 ジェームズが眉を寄せる。

 

 ペルシアは、口元だけで笑った。

 

「あるわよ」

 

 その言い方に、フレイが少しだけ嫌な顔をする。

 

「その笑い方、何か隠してます?」

 

「隠してない隠してない」

 

 隠している顔である。

 

 だが、その場はそこで一旦流れた。

 局員達も楽しそうだし、酒自体が確かに上質なのも分かる。

 普段、局内の打ち上げや慰労会で出るものとは少し違う。

 香りも、舌触りも、後味もいい。

 

 だから、気分が上がるのも早かった。

 

「これ、どこの銘柄ですか?」

「私も初めて飲みました」

「うちの部署、今度これにしたいな……」

 

 そんな声があちこちで上がるたび、ペルシアの顔はますます得意げになる。

 

 クリスタルは、その少し後ろで、グラスを傾けながら肩をすくめた。

 

「妙に張り切ってると思ったら、こういうことね」

 

 マリは、少しだけ頬を赤くしながら頷く。

 

「でも、本当に美味しいです」

 

「でしょぉ?」

 

 ペルシアが聞きつけてすぐに反応する。

 

「ほら、クリスタル。私のセンスって最高でしょ」

 

「酒のセンスだけはね」

 

「“だけは”って何よ」

 

 サツキも、珍しく少しだけ表情をゆるめていた。

 

「これならお酒苦手な人でも飲みやすいね」

 

「そうなのよ。ちゃんとそういうのも考えてるの」

 

 ペルシアが自慢げに胸を張る。

 

 チャコは、そのやり取りを少し離れたところから見ながら、耳をぴくぴくさせていた。

 

「嫌な予感するわぁ」

 

「何がだ」

 

 隣でコーヒーを飲んでいたリュウジが聞く。

 

「いや、ペルシア、今ちょうど調子乗る手前の顔しとるねん」

 

「今更だろ」

 

「ちゃうちゃう。今はまだ“手前”や。あの先があるんや」

 

 その予言じみた言い方に、リュウジは少しだけ視線をペルシアの方へ向けた。

 ペルシアは既に、追加の酒を求め始めていた。

 

「クミコ〜」

 

 自席から、やけに甘い声が飛ぶ。

 

「はい?」

 

 クミコが通路から振り返る。

 

「さっきの白いの、もう一本ちょうだい」

 

「量を見ながらなので、すぐには」

 

「えー、私まだ全然平気なのに」

 

「平気そうに見えないです」

 

 クミコが正直に返すと、近くで笑いが起きた。

 ペルシアはむっとしたが、笑われていると分かると何故か機嫌がいい。

 

「じゃあ、後でね」

 

「後で、です」

 

 クミコはそう言って、次の席へ向かった。

 

 だが。

 

 その数分後には、ペルシアの手元にまた別の酒が現れていたのである。

 

 

 最初の異変に気づいたのは、サリーだった。

 

 サリーは後方から中ほどへ戻る途中、ペルシアの周辺に配られているグラスの色が、さっきまでと微妙に違っていることに気づいた。

 最初に出したボトルの数と、今、皆んなの手にあるグラスの量が、どう考えても合わない。

 

 しかも、エリン達が管理している提供分より、酒の回り方が早い。

 それはつまり――別口があるということだ。

 

 サリーは足を止めずに、そのままマユのそばへ行った。

 

「マユ」

 

「ん?」

 

 マユが振り返る。

 

 サリーは声を落とす。

 

「ペルシアさんのところ、お酒の量、おかしくない?」

 

 マユは一瞬だけ目を瞬いた。

 それから、さりげなくそちらへ視線を流す。

 

 たしかに、おかしい。

 

 さっき配った量で、あの人数があそこまで飲めるはずがない。

 しかも今、局長の近くの席にいる若い局員が、明らかにさっきとは違う銘柄の感想を言っている。

 

「……ほんとだ」

 

 マユが小さく言う。

 

「なんで?」

 

「分からない。でも……」

 

 サリーは、ほとんど確信していた。

 

「持ち込んでる気がする」

 

 マユは、そこで一度だけ目を閉じた。

 納得してしまったのだ。

 そういうことをやる人だ。

 そして今のご機嫌な顔を見る限り、やっていても何の不思議もない。

 

「ランさんに言おう」

 

「うん」

 

 二人はすぐに動いた。

 

 ランは前方寄りで飲み物の補助をしていたが、マユの顔色を見た瞬間に何かを察したらしい。

 

「どうしたの?」

 

「ペルシアさんの席です」

 

 マユが端的に告げる。

 

「提供してる量と合わないです。多分、別に持ち込んでます」

 

 ランの眉が、ぴくりと動いた。

 

 それだけで十分だった。

 怒っているわけではない。

 でも、“やっぱり”と思った顔だ。

 

「確認してくる」

 

 そう言って、ランは姿勢を変えた。

 

 ランは、普段は柔らかい。

 声も穏やかで、目元もきつくない。

 だが、こういう時だけ、エリンに似た真っ直ぐさが出る。

 

 ペルシアの席へ近づくと、ちょうどそこではペルシアが新しい瓶を開けようとしていた。

 

「ペルシアさん」

 

「なぁに、ラン」

 

 もう声が少し甘い。

 相当ご機嫌だ。

 

「それ、どこから出しました?」

 

 ランが、にこりともせずに尋ねる。

 

 ペルシアは一拍だけ止まった。

 そして、次の瞬間にはにっこり笑う。

 

「どこからだと思う?」

 

「当てる遊びをしてるんじゃありません」

 

 ランがぴしゃりと言う。

 近くにいたチャコが、遠くから「うわ、本気や」と小さく言った。

 

「持ち込んだんですか?」

 

 ランの問いは真正面だった。

 

 ペルシアは、それでも悪びれない。

 

「うん」

 

 あっさり認めた。

 

「ちょっとだけね」

 

「ちょっとじゃないです」

 

 ランの視線が、既に瓶の本数を数えている。

 

「エリンさんにバレたら怒られますよ!?」

 

 その言い方が、ほとんど“今ならまだ間に合います”と言っているようだった。

 だが、ペルシアは高笑いした。

 

「バレるわけないでしょ!」

 

 その声が、周囲の席へも響く。

 フレイが片手で目を覆い、ナミが「言っちゃった」と小さく呟く。

 ローズは無言で額を押さえた。

 

 そして遠くからそれを見ていたチャコが、紙コップを口元に持っていきながら言う。

 

「……あかんな、いつもの展開や」

 

「関わらない方がいい」

 

 リュウジが、相変わらず静かな声で言う。

 

 その横でクリスタルが少しだけ肩を揺らした。

 

「もう止まらないわね、これ」

 

「止まらへんやろなぁ」

 

 チャコが頷く。

 

「けど、エリンに見つかったら終わりやで」

 

「それもいつもの流れだろ」

 

 リュウジの言い方は淡々としている。

 だが、その目はちゃんとペルシアの方を見ていた。

 

 

 案の定、そこからペルシアの勢いはさらに上がった。

 

 隠し持っていた酒は、どうやら一種類ではなかったらしい。

 手荷物の中から次々と瓶が出てくる。

 しかもどれも上質で、甘いもの、すっきりしたもの、重めのもの、香りの強いものと、驚くほど種類が揃っている。

 

「ちょっと待って、なんでそんなに入ってるの?」

 

 フレイが本気で呆れる。

 

「努力」

 

 ペルシアが言い切る。

 

「努力の方向が間違ってる」

 

「間違ってないわよ。慰安旅行なんだから」

 

 またそれだ。

 

 だが、その酒が本当に美味いのだから、余計に始末が悪い。

 

「これ、すごいですね」

「さっきのより香りが強い」

「うわ、後味が全然違う……」

「ペルシアさん、何者なんですか」

 

「すごい人よ」

 

 ペルシアは即答する。

 

「今さら?」

 

 クリスタルが呆れたように笑う。

 

「今さらやろ」

 

 チャコも乗る。

 

「やけど、この酒のラインナップは確かにすごいわ」

 

「でしょ?」

 

 ペルシアは、完全にいい気分だった。

 

 しかも酒が入り、機嫌も上がっているせいか、今度はスペースホープの乗務員達の話までし始めた。

 

「ねぇ、知ってる?」

 

 ペルシアが、近くの局員やラスペランッァの面々へ向けて言う。

 

「今のスペースホープの子達、ほんっとによくやってるのよ」

 

「へぇ?」

 

 局員の一人が興味深そうに聞き返す。

 

「クミコなんてね、最初は緊張しすぎて顔が固まってたのに、今じゃお酒没収できるぐらいには育ったし」

 

 遠くでクミコが「没収って言わないでください」と赤くなる。

 周囲から笑いが起こる。

 

「ミラとランはもう言うことないし」

 

 ペルシアはグラスをくるくる回しながら続ける。

 

「ミラはちゃんと周りが見えるし、ランは柔らかい顔してるのに中身はエリンに似てきてるし」

 

「え、私ですか?」

 

 前方で補助に入っていたミラが思わず振り返る。

 ランは小さく目を伏せた。

 

「似てきてるの、分かってた?」

 

 クリスタルが面白そうに聞くと、ランは小さく首を振る。

 

「……あまり嬉しくないです」

 

「なんでよ」

 

 ペルシアが抗議する。

 

「エリン、めちゃくちゃ優秀なのよ?」

 

「そこは否定してません」

 

「じゃあいいじゃない」

 

「言われ方の問題です」

 

 その返しに、近くの席で笑いが広がった。

 

 ペルシアは止まらない。

 

「サリーもすごいのよ。静かだけど、あの子、崩れそうな空気を拾うの上手いし」

 

 サリーが、少し離れたところで目を丸くする。

 

「マユはね、危ないところに気づくのが早いの。ハズキとミドリはまだ揺れるけど、その分、乗り越えると伸びるし。アズサはねぇ、あの明るさが本番で効くのよ」

 

 褒められた本人達が、遠くから困ったような、でも嬉しそうな顔をしている。

 マユは少しだけ頬を染め、アズサは分かりやすく目を輝かせた。

 ハズキは「なんか照れる……」と呟き、ミドリはうつむきながらも口元が緩んでいる。

 

「へぇ、そんなに?」

 

 局員の一人が言う。

 

「そんなによ」

 

 ペルシアが即答する。

 

「今のスペースホープ、見てて面白いわよ。ちゃんと伸びてるもの」

 

「お前、なんだかんだで好きなんだな」

 

 ローズがぼそりと言う。

 

 ペルシアは、少しだけ目を丸くしてから、にやりと笑った。

 

「そりゃあね」

 

 その言い方が、妙に素直だった。

 

 だからこそ、その場の空気も少しだけ柔らかくなる。

 

 だが同時に――。

 

 エリンの目には、船内で提供している酒量と、今ペルシアの席周辺で消費されている量の差が、もう誤魔化しようもなく映っていた。

 

 ミラが前方から下がってきて、小さく報告する。

 

「エリンさん」

 

「ええ」

 

「やっぱり、隠し持ってました」

 

「そう」

 

 短い返答。

 だが、その静かさが逆に怖い。

 

「どうしますか?」

 

 ランが訊く。

 

 エリンは、ほんの一秒だけ考えた。

 それから、ふっと微笑んだ。

 

「お客様とお話してくるわ」

 

 その笑みが、あまりにも綺麗で。

 ミラもランも、ほぼ同時に“あ、怖い”と思った。

 

 

 ペルシアの席周辺では、まだ笑いが続いていた。

 

「だからね、エリンって怖いのよ」

「またその話ですか?」

「ほんとよ? 優しい顔してるくせに、怒ると一番静かになるの」

「それ一番怖いやつでは」

 

 そこへ、すっと影が差す。

 

「楽しそうですね」

 

 冷たい笑顔だった。

 

 声は穏やか。

 でも、温度だけがない。

 

 ペルシアの笑いが、ぴたりと止まる。

 フレイもナミも、グラスを持つ手だけが一瞬固まった。

 ローズは、ほんの少しだけ肩を落とす。

 クリスタルは口元を押さえて笑いを堪え、チャコは遠目でそれを見つけて「きよったで」と呟いた。

 

「提供していますお酒の量が合わないのですが」

 

 エリンは、怖い笑みを浮かべたまま言う。

 

 言い逃れの余地を一切残さない入り方だった。

 

 ペルシアは、ぎくりと肩を揺らした。

 だが、まだ最後の抵抗を試みる。

 

「えーっと……気のせい?」

 

「そうでしょうか?」

 

 エリンが首を少しだけ傾げる。

 

「えーっと……皆んな、よく飲むから?」

 

「そうですね。飲んでますね」

 

 エリンは頷く。

 

「でも、こちらが管理している本数と合わないんです」

 

 にっこり。

 

 その笑顔に、局員達が一斉に視線を逸らし始める。

 さっきまであれだけ賑やかだったのに、急に自席の天井や窓の外へ興味が移ったみたいだ。

 

「お楽しみのところ申し訳ありませんが」

 

 エリンは、周囲へきちんと視線を向けて言った。

 

「ペルシアをお借りしてもよろしいですか?」

 

 その言い方が、あまりにも丁寧だった。

 だからこそ、全員が“あ、これはダメなやつだ”と直感する。

 

「……やだ」

 

 ペルシアが、小さな声で言った。

 

 だが、エリンがゆっくりと視線を向ける。

 

「何か言った?」

 

 とは口にしない。

 でも、そうとしか聞こえない視線だった。

 

 ローズが、迷いなく言う。

 

「どうぞ」

 

 即答だった。

 

「ローズ!?」

 

 ペルシアが悲鳴を上げる。

 

 だが、誰も助けない。

 

「それでは失礼しますね」

 

 エリンは変わらず笑みを浮かべたまま、ペルシアの手首をすっと取った。

 

「ちょっと!? 誰か助けて!? 私、死んじゃう気がする!?」

 

 ペルシアの悲痛な叫びが、客席のあちこちへ響く。

 局員達の中には本気で笑いを堪えきれない者もいた。

 だが、助けようと立ち上がる者は誰もいない。

 

 チャコが、遠くからその様子を見ながら言う。

 

「ほらな」

 

「いつもの展開だ」

 

 リュウジが淡々と返す。

 

 エリンとペルシアの姿が、そのままギャレーへ消えていく。

 扉が閉まった瞬間、周囲の席で一斉に、ほっとしたような息が漏れた。

 

「はぁ……」

「やっぱり怒られますよね」

「そりゃそうだろ……」

「でも、ちょっと見たかったかも」

 

 そんな小声が飛び交う。

 

 クリスタルはグラスを傾けながら肩を揺らした。

 

「生きて帰ってくるかしら」

 

「口頭注意ぐらいやろ」

 

 チャコが言う。

 

 

 そして、数十分後。

 

 ギャレーの扉が開いた。

 

 戻ってきたペルシアは、さっきまでの勢いが嘘のようにしおれていた。

 目元をぐすぐすと拭いながら、ゆっくりと席へ戻ってくる。

 

 その様子に、周囲の視線が一斉に集まった。

 誰もが聞きたいのだ。

 何を言われたのか。

 どうなったのか。

 

 ペルシアは、自席へ座ると、しばらく黙ったまま目元を拭いていた。

 そして、皆んなの期待する沈黙の中で、やっと口を開く。

 

「……もう、私だけお酒禁止だって」

 

 一拍。

 そして、その場の全員が同じことを思った。

 

(ああ、こっぴどく怒られたな)

 

 ローズが口元を押さえる。

 フレイは目を閉じ、ナミは「やっぱり」と小さく呟いた。

 クリスタルはもう我慢できずに吹き出した。

 チャコは膝を叩いて笑い、マリとサツキもさすがに肩を揺らす。

 

「お酒禁止、辛い……」

 

 ペルシアは、まるで子どもみたいにぐずりながら言う。

 

「私だけってひどくない? 慰安旅行なのに……」

 

「いや、やりすぎたんや」

 

 チャコが即座に返す。

 

「隠し持っとったやろ」

 

「ちょっとだけじゃない」

 

「ちょっとの量ちゃうかったで」

 

 ローズまで低く言う。

 

 ペルシアは、ぐす、と鼻を鳴らした。

 

「でも皆んな、美味しいって言ってたもん……」

 

「そこは否定せん」

 

 クリスタルが笑いながら言う。

 

「ほんとに美味しかったし」

 

「でしょぉ……」

 

 そこだけは少しだけ元気が戻る。

 

「でも禁止なんだもん……」

 

 またしおれる。

 

 マリが、少しだけ困ったように聞く。

 

「そんなに怒られたんですか?」

 

「……うん」

 

 ペルシアは目元を拭いながら、しょんぼりと言う。

 

「エリンがすごい静かな声で、“今日はお客様側なんだから、ルール守って”って……」

 

「それは効くな」

 

 ジェームズがぽつりと漏らす。

 

「しかも、“楽しませるために乗ってる子達の仕事増やさないで”って……」

 

 その一言で、近くにいたスペースホープの乗務員達の顔が一瞬だけ浮かぶ。

 ミラ、ラン、クミコ、サリー、マユ、ハズキ、ミドリ、アズサ。

 今日の便を回しているのは、皆んなだ。

 

 ペルシアはそこまで言ってから、またぐすっと鼻を鳴らした。

 

「怒られるより、お酒禁止が辛い」

 

 その結論に、周囲の全員がまた笑った。

 

 つまり、ペルシアにとって一番刺さったのは、叱責そのものよりも“酒を取り上げられた”という事実だったのだ。

 

「ほんま子どもやな」

 

 チャコが呆れ半分で言う。

 

「うるさい」

 

「でも、エリンらしいわね」

 

 クリスタルが、笑いながらグラスを揺らす。

 

「怒鳴るんじゃなくて、そこを止めるの」

 

「そうそう」

 

 ローズも、今度は少しだけ表情を緩めた。

 

「一番効くところを押さえたな」

 

 ペルシアは、それに不満そうに唇を尖らせる。

 

「ひどい人達……」

 

「自業自得です」

 

 フレイが、静かにとどめを刺すように言った。

 

 ナミも頷く。

 

「むしろ、酒禁止だけで済んでよかったんじゃないですか」

 

「え?」

 

 ペルシアが顔を上げる。

 

「それ以上あったら泣いてたわよ、私」

 

「今も泣いてるじゃないですか」

 

 ナミの指摘に、周囲がまた吹き出す。

 

 そして、その少し後ろでは、スペースホープの乗務員達が再び自分達の仕事へ戻っていた。

 何事もなかったように。

 でも、ほんの少しだけ肩の力を抜きながら。

 

 ミラが遠くからその様子を見て、小さく息をつく。

 

「収まりましたね」

 

「ええ」

 

 ランも頷く。

 

「一番いい形で」

 

 クミコは、通路側で水を持ちながら小さく笑った。

 

「ペルシアさん、本当にお酒禁止が一番辛そうですね」

 

「そうね」

 

 エリンが、そのすぐ後ろで苦笑する。

 

 戻ってきたエリンの顔は、もう冷たくはなかった。

 ただ少しだけ疲れたように、でもどこかで“まあ、この程度で済んでよかった”という顔をしている。

 

「でも、これでしばらくは静かになるわ」

 

 その言い方に、皆んなが小さく頷く。

 

 慰安旅行の便は、まだ続く。

 笑いも、会話も、酒も続く。

 けれど、少なくとも一番大きな爆弾は、一度ここで処理されたのだった。

 

 そしてペルシアは、自席で水のボトルを抱えながら、未練がましく最後に一度だけ呟いた。

 

「お酒禁止、つらい……」

 

 その声に、また小さな笑いが起きる。

 

 宇宙管理局の慰安旅行便は、こうして騒がしくも、どこか温かい空気のまま、木星からロカC3へ向かって進んでいった。

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