サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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夢の一歩

  宇宙管理局のホームページに掲載されたルナのクラウドファンディングは、最初こそ驚くほど順調だった。

 

 公開されたその日から、宇宙管理局の関係者、ラスペランッァの面々の知人、過去に名前を聞いたことがあるという一般の支援者まで、少しずつ、けれど確かに数字が積み上がっていった。

 更新のたびに金額が増える。

 支援者の名前や、短い応援のメッセージが並ぶ。

 画面の向こうには、自分のことを知らないはずの人までいて、「頑張ってください」「地球での挑戦、応援しています」「小さな一歩を期待しています」といった言葉を残してくれていた。

 

 ルナは、そのたびに胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 最初の数日は、本当に夢みたいだった。

 昨日まで何十社もの企業や銀行に断られ続けていたのに、今日は自分の挑戦へお金を出してくれる人がいる。

 それだけで、落ち込んでいた気持ちが少しだけ救われた気がした。

 

 しかも、宇宙管理局やラスペランッァの面々が最初に動いてくれたことは大きかった。

 局長、ローズ、ペルシア、フレイ、ナミ、ジェームズ、シャオメイ、イーナ。

 そしてエリン、クリスタル、マリ、サツキ、リュウジ。

 それぞれが“未来への投資”として出してくれた額は、数字としても、気持ちとしてもとても重かった。

 

 ルナは公開ページを見るたびに、その最初の支援者達の名前を何度も何度も見返した。

 

 これでいけるかもしれない。

 そう思った。

 

 だが。

 

 世の中は、そう簡単には出来ていなかった。

 

 最初の勢いが落ち着いてくると、伸びは一気に緩やかになった。

 新しい支援は入る。

 応援の言葉も届く。

 それでも、目標の五百万ダールへ届くにはあまりにも遠い。

 

 百ダール。

 五百ダール。

 時々、一万ダールという大きめの支援もある。

 でも、それでも足りない。

 五百万という額は、やはり大きかった。

 

 ルナは、端末の画面を見ながら、何度も現在額と目標額の差を計算した。

 足りない。

 全然足りない。

 順調といえば順調なのだろう。

 でも、実際に必要な額から見れば、まだ道の途中どころではなかった。

 

「うーん……」

 

 ある日の夜、自室の机で端末を見ながらルナは小さく唸った。

 画面には現在の達成率が表示されている。

 数字だけ見れば悪くない。

 でも、その先にある現実を知ってしまった今では、“悪くない”では足りないのだ。

 

 チャコがベッドの上でごろんとしながら言う。

 

「また見とるんか」

 

「見ちゃうのよ」

 

 ルナは苦笑した。

 

「だって、少しでも増えてたら嬉しいじゃない」

 

「増えとるんは増えとるやろ」

 

「うん」

 

「なら、今日はもう見んでもええやん」

 

 チャコの言うことはもっともだった。

 それでも、ルナは端末から目を離せなかった。

 

 応援してくれる人がいる。

 それが嬉しい。

 でも同時に、その期待へ応えられるのかという不安も大きい。

 その両方が、画面の数字を見るたびに胸の中でぶつかるのだ。

 

「チャコ」

 

「なんや」

 

「もし……このまま足りなかったら、どうしよう」

 

 その問いに、チャコは一瞬だけ黙った。

 普段ならすぐに何か軽口を返すところだが、こういう時だけはちゃんと考える。

 

「どうしよう、やないやろ」

 

「え?」

 

「足りんかったら、また考えるだけや」

 

 チャコは、耳を小さく揺らしながら言った。

 

「最初から全部うまくいくとは限らん。せやけど、今は集める方法が一つ増えたっちゅうだけやろ。前より前に進んどるやん」

 

 ルナは、その言葉に少しだけ救われる。

 

「そう……だよね」

 

「せや」

 

 チャコは、そこで少しだけ得意げに鼻を鳴らした。

 

「それに、ルナのことや。どうせまだ諦めへんやろ」

 

 その言い方に、ルナは思わず笑った。

 

「うん。諦めない」

 

「なら、それでええ」

 

 チャコの声は、どこかあたたかかった。

 

 だが、その翌日。

 クラウドファンディングの状況は、ルナの予想もしていなかった形で動くことになる。

 

 

 その日は朝から外回りの予定もなく、ルナは久しぶりに少しだけ遅く起きた。

 と言っても、普段より一時間ほど遅いだけだ。

 端末を開き、まずはクラウドファンディングのページを確認する。

 もう半分、習慣のようになっていた。

 

 そして画面を開いた瞬間、ルナは一度、本気で目を疑った。

 

「……え?」

 

 表示された達成率が、昨日見た数字と全く違う。

 

「え、ちょ、ちょっと待って……」

 

 ルナは寝起きの頭のまま画面を見つめ、次に更新ボタンを押し、もう一度同じ数字が表示されるのを確認した。

 

 足りない額が、消えている。

 

 目標の五百万ダールに足りなかった差額、そのほとんどすべてが、たった一件の支援で埋まっていた。

 

「チャコ!!」

 

 思わず叫ぶ。

 

「なんや!? 朝からうるさ――」

 

 寝ぼけたように顔を出したチャコも、ルナの端末画面を見た瞬間に言葉を失った。

 

「……なんやこれ」

 

「分かんない! でも、これ……」

 

 支援者名を見たルナは、さらに目を見開いた。

 

「カラス……?」

 

 表示されていた名前は、あまりにも見覚えがありすぎた。

 

 カラス。

 

 あの、どこか飄々としていて、何を考えているのか分かりにくくて、でも妙に肝心なところで動く男。

 ルナは、一度しかじっくり話したことはない。

 けれど、存在感だけは強く残っている。

 

「カラスって……あのカラスか?」

 

 チャコも耳を立てる。

 

「たぶん……」

 

 ルナは、画面を見つめたまま小さく答えた。

 

「ほかにこんな名前、いないと思う」

 

 しかも支援額は、目標額へ足りていなかった残りのすべてだ。

 中途半端な数字ではない。

 ぴたりと届くように埋めている。

 

「……やることが妙に綺麗やな」

 

 チャコが呆れたように言う。

 

 ルナは、その通りだと思った。

 まるで“足りないなら埋めておいた”とでも言うみたいな支援額だ。

 

 画面には、支援者からのコメント欄も表示されている。

 そこに書かれていたのは、あまりにもカラスらしい一文だった。

 

 ――儲けるための投資です。

 

 ルナは、しばらくその文から目を離せなかった。

 

「儲けるための投資……」

 

「相変わらずよう分からん言い方やなぁ」

 

 チャコがぼやく。

 

 けれど、そのよく分からなさの中にも、不思議とカラスらしい筋が通っていた。

 情で出した、とは言わない。

 応援している、とも書かない。

 でも、“投資”とわざわざ言うことで、ルナの挑戦を“見込みのあるもの”として扱ってくれているのだと分かる。

 

 ルナは、何とも言えない気持ちになった。

 嬉しい。

 驚いた。

 そして、少しだけ怖い。

 これで本当に、前へ進まなければならなくなったからだ。

 

「……ありがとう、カラスさん」

 

 ルナは、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

 

 

 資金の目処が立った以上、次はもう一度、企業側と話をしなければならない。

 

 頭金がないから難しい。

 そう言われた。

 なら、頭金が出来た今、改めて話を聞いてもらえないか。

 

 ルナはそう考え、以前一度断られた大手企業の一つへ、再度面談の打診を入れた。

 地球環境開発や資材運用をいくつものグループ企業で束ねている、大きな母体だ。

 先方は最初こそ渋い反応だったが、「状況が変わったのなら、一度だけ話を聞く」と言ってくれた。

 

 そして今日。

 

 ルナは、改めてその企業の本社ビルを訪れていた。

 

 高層のエントランス。

 整いすぎているロビー。

 磨かれた床へ映る自分の姿が、妙に小さく見える。

 

 受付で名前を告げ、来訪証を受け取り、案内される。

 前回と同じ会議室。

 同じような表情の担当者達。

 

 ただ違うのは、ルナの中に“頭金が出来た”という一点だけがあることだった。

 

「先日はありがとうございました」

 

 ルナが頭を下げる。

 

「本日は、その後の状況の変化についてお話したく……」

 

 担当者の一人が頷き、資料へ視線を落とす。

 ルナは、前回よりもずっと整理した資料を開いた。

 クラウドファンディングによって目標額の頭金が確保出来たこと。

 宇宙管理局側も一定の支援姿勢を示していること。

 事業の入口を、いきなり大規模なテラフォーミングではなく、前段階の現地調査や小規模環境診断へ絞ったこと。

 

 それらを、なるべく落ち着いて、一つずつ説明した。

 

 担当者達は前回よりは長く聞いてくれた。

 途中で何度か質問も入った。

 クラウドファンディングの支援元。

 リスクヘッジ。

 作業員確保の見込み。

 地球での法規制との整合。

 

 ルナは、一つずつ答えた。

 全部に完璧な答えがあるわけではない。

 けれど、前回の“夢を語るだけ”の状態ではない。

 そこには、自分なりに叩き直してきた現実がちゃんとあった。

 

 だから、少しだけ期待もしてしまった。

 

 もしかしたら。

 今度こそ。

 少しは前に進むんじゃないかと。

 

 だが、現実はやはり甘くなかった。

 

 会議の最後、年配の担当者が申し訳なさそうに言った。

 

「頭金が出来たこと自体は、大きな前進だと思います」

 

「ありがとうございます」

 

「ですが……やはり現時点で弊社として援助、あるいは出資の形へ進むのは難しいです」

 

 ルナの胸が、また少しだけ冷える。

 

「難しい、ですか……」

 

「はい」

 

 担当者は、言葉を選びながら続けた。

 

「ルナさん個人の熱意や、今回のように資金を集められたことは評価できます。ですが、事業として見た場合、やはりまだ不確定要素が多すぎます」

 

 別の担当者も頷く。

 

「特に地球での実績がゼロであること、現地協力体制が未確定であること、継続的な収益化の見通しが弱いこと。このあたりが、どうしても大きいです」

 

「……そうですか」

 

 ルナは、深く頭を下げた。

 分かってはいた。

 前回よりはマシでも、すぐに通る話ではないと。

 それでも、ほんの少しだけ期待していたのも本当だった。

 

 だから、やはり落ち込まないわけではない。

 

「本日は、お時間をいただきありがとうございました」

 

 ルナが立ち上がる。

 

 担当者達も立ち上がり、形式どおりの挨拶を返してくる。

 会議室の扉が閉まり、廊下へ出る。

 

 そこでようやく、ルナは小さく息を吐いた。

 

(やっぱり、駄目か……)

 

 頭金が出来ても、それだけで道が開くわけではない。

 当たり前だ。

 頭では分かる。

 でも、気持ちはなかなか割り切れない。

 

 もう帰ろう。

 そう思ってエレベーターの方へ向かいかけた、その時だった。

 

「ルナさん?」

 

 不意に、後ろから声がした。

 

 穏やかで、よく通る男の声。

 けれど、どこかで聞いたことがある気がする。

 

 ルナが振り返る。

 

 そこにいたのは、上質なスーツをきっちり着こなした男だった。

 年齢は四十代半ばから後半ほどだろうか。

 無理に威圧感を出しているわけではない。

 なのに、その場の空気がほんの少し変わるのが分かる。

 周囲を歩いていた社員達も、彼の姿を見た瞬間、自然と背筋を伸ばしていた。

 

 ルナは、その顔に見覚えを探した。

 

「……貴方は……」

 

 男は、穏やかに微笑んだ。

 

「お久しぶりです」

 

 その言い方は丁寧で、押しつけがましくない。

 けれど、ルナが思い出すには十分だった。

 

「ブライアンの壮行会で、一度だけお話しさせていただいた」

 

 そう言って、男は軽く一礼する。

 

「ステファン・レヴィンです」

 

「あ……!」

 

 ルナの表情が変わる。

 

「その節は、お世話になりました」

 

 慌てて頭を下げる。

 

 ステファン・レヴィン。

 この巨大企業グループを束ねる総帥。

 名前だけなら何度も聞いたことがある。

 だが、実際にまともに顔を合わせたのは、ブライアンの壮行会で悲劇のフライトについて交わしたあの時だけだ。

 

 それなのに、こうして自分のことを覚えていたのかと、ルナは少し驚いた。

 

 ステファンは、そんなルナの反応を面白がるでもなく、静かに頷いた。

 

「今日はどうしたんですか?」

 

 その問いは、何気ないようでいて、逃げ場がない。

 このタイミングでここにいるということは、何かの話をしに来たに決まっているのだから。

 

 ルナは、一瞬だけ迷った。

 でも、ここで取り繕っても仕方がない。

 むしろ、この人なら真正面から言った方がいい気がした。

 

「実は……」

 

 ルナは、小さく息を吸った。

 

「地球での活動資金の援助をお願いしに来ていました」

 

 ステファンの眉が、ほんのわずかに動く。

 その反応は大きくない。

 けれど、“興味を持った”ことは分かる。

 

「地球での活動、ですか」

 

「はい」

 

 ルナは頷いた。

 

「私は、地球で惑星開拓の技師として活動を始めたいと思っています」

 

 ステファンは黙って続きを待っている。

 その沈黙に促されるように、ルナの中で言葉がほどけていく。

 

「サヴァイヴで、私は本物の風を知りました」

 

 自分でも、少し意外なくらいまっすぐに言葉が出た。

 

「太陽の熱や、海の匂いや、自然の中で生きる感覚を、あそこで知ったんです」

 

 ステファンは何も言わない。

 だが、その目は外していない。

 

「もちろん、地球はサヴァイヴとは違います。今の地球には、過去に人間が起こしたたくさんの過ちが残っていると思います。でも……だからこそ、蔑ろにしたくないんです」

 

 ルナは、少しずつ言葉へ力が入るのを感じた。

 ここで上手くまとめようとしなくていい。

 どうせ綺麗な営業トークにはならない。

 だったら、自分の言葉でぶつけるしかない。

 

「誰かが壊したから、もう手をつけない。そういうふうに見ないふりをしたくないんです」

 

 ステファンの表情は変わらない。

 だが、その静けさが逆にルナの言葉を受け止めているようにも見えた。

 

「私は、地球で出来ることをやりたいです。大きなことはまだ無理でも、小さくてもいい。現地を見て、必要なところへ手を入れて、少しずつでも前へ進めたい。そう思って、資金集めも、計画も、ずっと続けてきました」

 

 そこで一度だけ息を継ぐ。

 

「でも、やっぱり企業や銀行から見ると、まだまだ無謀な計画なんだと思います。今日も、改めてそう言われました」

 

 それは敗北の報告に近い。

 けれど、不思議と惨めではなかった。

 ステファンの前で、今の自分をそのまま出しているだけだったからだ。

 

「それでも、私はやりたいんです」

 

 最後に、そう言った。

 

 廊下は静かだった。

 遠くでエレベーターの到着音がして、誰かの靴音が小さく響く。

 それでも、この一角だけが少しだけ別の空気みたいだった。

 

 ステファンは、すぐには答えなかった。

 

 ルナの話を聞き終えて、わずかに視線を落とし、何かを考えている。

 その沈黙は短いようでいて、ルナには長く感じられた。

 

 言いすぎただろうか。

 いや、でも、もう遅い。

 言ってしまったものは戻らない。

 

 やがて、ステファンが顔を上げた。

 

「……そうですか」

 

 その声は、依然として穏やかだった。

 

「え?」

 

 ルナが小さく息を呑む。

 

 ステファンは、少しだけ口元を和らげた。

 

「ここでは落ち着きませんね」

 

 そう言って、ルナの横に立つ秘書らしき女性へ目配せをする。

 すぐに女性が一歩前へ出た。

 

「応接室に移動しましょう」

 

 ステファンが告げた。

 

 その言葉に、ルナは一瞬、理解が追いつかなかった。

 今、何と言われたのか。

 少なくとも“今日はここまでですね”ではない。

 話を切られたわけでもない。

 むしろ――。

 

「よろしいですか?」

 

 ステファンがもう一度静かに尋ねる。

 

「は、はい!」

 

 ルナは慌てて頷いた。

 

 胸の奥で、何かがどくんと大きく鳴る。

 ここから先がどう転ぶのかなんて、まだ全然分からない。

 けれど少なくとも、この人は今、自分の話を“ここで終わらせない”と決めたのだ。

 

 ルナは、自然と背筋を伸ばしていた。

 

 ステファン・レヴィンは、そんなルナを一度だけ見て、穏やかに歩き出す。

 ルナもその後を追う。

 

 静かな廊下を進みながら、ルナの手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。

 緊張。

 不安。

 期待。

 その全部が一緒くたになって、胸の中で渦を巻いている。

 

 けれど、それでもルナは思った。

 

 もしかしたら。

 今度こそ、本当に次の扉が開くのかもしれない、と。

 

 

 

ーーーー

 

 

  応接室は、先ほどまでルナが案内されていた会議室よりもずっと静かで、ずっと落ち着いた空気を持っていた。

 

 壁はやわらかな灰色で統一され、余計な装飾はほとんどない。

 けれど、置かれている家具や調度の一つひとつに品があり、そこが単なる面談室ではなく、この企業グループの総帥が使うための部屋なのだと自然に分かる。

 

 大きな窓の外には、火星の都市部が広がっていた。

 高層ビル群のガラス面に光が反射し、その間を流れる交通ラインが細い筋となって見えている。

 遠くから見れば美しい景色だ。

 でも、ルナにはその景色をゆっくり眺める余裕はなかった。

 

 ソファへ座るよう勧められて腰を下ろしたものの、背筋はほとんど伸びきったままだ。

 膝の上に置いた手も、意識しなければ力が入りそうになる。

 

 ステファン・レヴィンは、向かいの席へゆっくりと腰を下ろした。

 動作に無駄がない。

 急がない。

 相手を急かすでもなく、しかし待たせている感じも与えない。

 そういう一つひとつの所作だけで、長いあいだ大勢の人間の前に立ち、決断し続けてきた人なのだと分かる。

 

 秘書が静かにお茶を置き、音も立てずに部屋を出ていく。

 扉が閉じると、室内の静けさが一段深くなった。

 

 ステファンは、ルナを見て、穏やかに言った。

 

「まず、計画書を見せていただけますか」

 

「は、はい」

 

 ルナは慌ててバッグを開けた。

 何度も出し入れして少し角が柔らかくなった計画書だ。

 それを両手で丁寧に差し出す。

 

「こちらです」

 

「ありがとうございます」

 

 ステファンは受け取ると、すぐには話し始めなかった。

 ページを一枚めくり、もう一枚めくる。

 その視線は速すぎず、遅すぎない。

 流して読んでいるのではないことが、ルナにも分かる。

 

 部屋には紙の擦れる音だけが小さく響いていた。

 

 ルナは、思わず息を浅くする。

 この沈黙が苦手だ。

 けれど、今ここで何かを足してしまうのは違う気がして、ただ黙って待つしかない。

 

 数ページ読み進めたところで、ステファンがふと顔を上げた。

 

「こちらは、宇宙管理局側の助言を反映されたものですか」

 

「はい」

 

 ルナはすぐに答えた。

 

「最初の案では、資金も工程もかなり甘かったみたいで……宇宙管理局の方々に見ていただいて、現実的な形へ直していただきました」

 

「なるほど」

 

 ステファンは小さく頷き、また目を落とす。

 

「それで、クラウドファンディングで頭金を確保した、と」

 

「はい」

 

「目標額の五百万ダールですね」

 

「はい」

 

 また静かな間が落ちる。

 

 ルナは、自分の喉がわずかに乾いていることへ気づいた。

 目の前のお茶に手を伸ばそうかと思ったが、なんとなくそのタイミングを失ってしまう。

 

 ステファンはページの後半へ進み、資金計画の欄で指先を止めた。

 それから、まるで自分の中で一度計算をし直すように、視線をそのまま少しだけ動かした。

 

「足りない資金は、一千五百万ダールから二千五百万ダールですか」

 

 その問いは、確認でもあり、同時に計画の核心を突いてもいた。

 

「はい」

 

 ルナは頷いた。

 

「もちろん、資金計画はこれからも見直して、コストは下げるように尽力するつもりです」

 

「どの部分を下げるつもりですか」

 

 問いはすぐに返ってくる。

 

 ルナは一度息を吸った。

 

「まず、初動で常時雇用を前提にしていた要員の確保方法を見直します。必要な時だけ業務委託に切り替えられる部分は切り替えるつもりです。それから、機材についても新品の一括購入ではなく、リースや既存設備の転用を優先して――」

 

 言いながら、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づく。

 企業や銀行を何十社と回ってきたおかげなのだろう。

 以前ならこの場で言葉が詰まっていたかもしれない。

 今は、少なくとも“何を考えているか”は口に出来る。

 

「あと」

 

 ルナは続ける。

 

「最初から大きなテラフォーミング建設を請けるのではなく、前段階の現地調査、小規模な環境診断、既存設備の状態確認から始めるようにしています。その方が現実的だと教わりました」

 

 ステファンは、そこで初めて少しだけ笑みを見せた。

 

「教わりました、ですか」

 

「はい」

 

 ルナは正直に答える。

 

「私一人で考えていた時は、もっと甘かったです」

 

「そうですか」

 

「はい」

 

 ルナは少しだけ視線を落とした。

 

「たくさん断られましたから」

 

 その一言には、どうしても実感が滲む。

 何十社も回って、何度も同じ言葉を聞いた。

 信用がない。

 実績がない。

 無謀だ。

 若い。

 熱意だけでは難しい。

 そういうものを積み重ねた末に、今の計画書がある。

 

 ステファンは、その言葉にすぐ反応はしなかった。

 ただ、一ページだけ戻ってまた読み直した。

 

 そして、ゆっくりと資料を閉じた。

 

「分かりました」

 

 その言葉が、静かに落ちる。

 

 ルナは思わず背筋を強くした。

 何が“分かった”のか。

 駄目なのか。

 それとも――。

 

 次に続いた言葉は、ルナの予想を越えていた。

 

「我々が支援しましょう」

 

 ルナは、一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと思った。

 

「……え?」

 

 思わず、そんな間の抜けた声が漏れる。

 

 ステファンは表情を変えない。

 まるで、当然のことを告げているみたいに落ち着いていた。

 

「正式に支援させていただきます」

 

「い、いいんですか!?」

 

 ルナは思わず身を乗り出した。

 反応が子どもっぽくなったかもしれない、とその瞬間どこかで思ったが、もう抑えられなかった。

 

「ええ」

 

 ステファンは頷く。

 

「グループ傘下の会社にも、私から声をかけさせてもらいます」

 

「あ……ありがとうございます!」

 

 ルナは、勢いよく頭を下げた。

 深く、深く。

 額が膝につきそうなくらい。

 

 ありがとうございます。

 その言葉しか出てこない。

 いや、本当はそれだけでは足りない。

 けれど、今のルナにはそれ以外の言葉をすぐに形へすることが出来なかった。

 

「頭を上げてください」

 

 ステファンの穏やかな声が聞こえる。

 

 ルナは慌てて顔を上げた。

 目の奥が熱い。

 まだ泣くには早い。

 話はここで終わりじゃないのだと、自分へ言い聞かせる。

 

 ステファンは、そこで言葉を選ぶように少しだけ間を取った。

 

「もちろん、社内の正式な手続きや、支援の枠組みを整理する必要はあります。ですが、方向としては支援で問題ありません」

 

「本当に……?」

 

「ええ」

 

 ステファンは静かに頷く。

 

「先ほどの会議室でのやり取りを少し聞いていましたし、資料も拝見しました。少なくとも、“何もない夢想”ではないと判断しています」

 

 ルナは、その言い方にまた胸の奥が熱くなるのを感じた。

 

 夢想じゃない。

 ただの無謀じゃない。

 ちゃんと見てくれた上で、そう言ってくれている。

 

 ステファンは続ける。

 

「条件も、一般的な融資とは少し違う形にしましょう」

 

 ルナが目を瞬かせる。

 

「条件、ですか?」

 

「はい」

 

「どのような……」

 

 問いかけた声には、自然と緊張が混じった。

 ここからだ。

 支援すると言っても、当然、厳しい条件や担保の話が出るものだと思っていた。

 むしろ、それが普通だ。

 

 だが、ステファンの返答はまたしても予想を外した。

 

「返金に利子は要りません」

 

「……え?」

 

「それから、無担保で構いません」

 

 ルナは、今度こそ本当に言葉を失った。

 

 利子がいらない。

 無担保。

 そんな条件が、あり得るのだろうか。

 

「どうして……」

 

 気づけば、その疑問が口から零れていた。

 

 ルナは慌てて「すみません」と続けかけたが、ステファンは首を横へ振って制した。

 

「当然の疑問です」

 

 そう言って、少しだけ視線を窓の外へ流した。

 

 そこには火星の街並みがある。

 でも、その目が見ているのは、今この景色ではないようにも見えた。

 

「私は以前、リュウジさんに相談もせず、悲劇のフライトの真実を公にしました」

 

 静かな声だった。

 

 ルナは、その言葉の意味をすぐに理解する。

 

「はい……壮行会の時にお話ししましたね」

 

「ええ」

 

 ステファンは頷いた。

 

「あの時、私は“事実を公にすることが正しい”と判断しました」

 

 その口調には、後悔を演出する湿っぽさはない。

 もっと静かで、もっと重い。

 自分が下した決断を、ちゃんと今も自分で引き受けている人の声だった。

 

「もちろん、今もあれが全て間違いだったとは思っていません」

 

「……はい」

 

 ルナは小さく頷く。

 

 悲劇のフライト。

 その真実が公にされたことで、社会は動いた。

 人々は知った。

 隠されていたものが表へ出た。

 それはたしかに必要だったのかもしれない。

 

 でも同時に、その過程で傷ついた人達がいた。

 リュウジも、その一人だった。

 

「ですが」

 

 ステファンはそこで言葉を継いだ。

 

「私は一つだけ、ずっと気にしていたことがあります」

 

 ルナは黙ってその先を待った。

 

「ルナさん、あなたはあの時、壊れてもおかしくなかった」

 

 その言葉が、静かに胸へ落ちる。

 

 ルナは少しだけ目を見開いた。

 そう言われたことはない。

 でも、そうだったのかもしれない。

 

 サヴァイヴでのこと。

 地球でのこと。

 そして悲劇のフライトにまつわるあれこれ。

 あまりにも色んなことが重なっていた。

 

「けれど、あなたは前を向いた」

 

 ステファンの声は、そこでほんの僅かにやわらいだ。

 

「え……」

 

「安心しました」

 

 そう言って、ステファンはまっすぐルナを見る。

 

「ルナさんが、まだ、あの時と同じで前を向く人であってくれて」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ルナの胸の奥にしまっていた何かが、そっと揺れた。

 

「ステファンさん……」

 

 小さく名前を呼ぶことしか出来ない。

 

 ステファンは、穏やかに続けた。

 

「私が今、支援を決めた理由は、事業性だけではありません」

 

 もちろん事業性が全くないわけではない。

 ステファンほどの人間が、そこを見ずに動くはずもない。

 けれど、それだけではないのだと、彼ははっきり言った。

 

「過去に、本来もっと丁寧に向き合うべきだった人達へ、私は正しさの名の下に急ぎすぎた」

 

 ルナは、その言葉の重さを黙って受け止める。

 

「だから今度は、前を向こうとしている人に対して、もう少し“未来の側”へ賭けてみたいと思っています」

 

 それは謝罪ではなかった。

 償いとも少し違う。

 けれど、きっとそれに近いものでもあるのだろう。

 

「必ず、地球での活動を成功させてください」

 

 ステファンの声が、少しだけ強くなった。

 

「私も、本物を知りたいですから」

 

 その言い方に、ルナは一瞬だけ息を止めた。

 

 本物。

 

 その言葉が、サヴァイヴの風を思い出させる。

 肌に触れた熱。

 土の匂い。

 海の色。

 自然の音。

 人間がかつて失いかけ、でも完全には消せなかったもの。

 

 それを、ただ“懐かしい”で終わらせたくなかった。

 だからこそ、地球で活動したいと思ったのだ。

 

「分かりました」

 

 ルナは、はっきりと答えた。

 

 声は少しだけ震えていた。

 でも、それは不安の震えではなく、何か大きなものを受け取ってしまった時の震えだった。

 

「必ず、やってみせます」

 

 ステファンは、その返答に満足したように、わずかに目を細めた。

 

「よろしい」

 

 それから彼は、実務的な声へ戻る。

 

「ただし、ここから先は感情だけでは進みません」

 

「はい」

 

「グループ各社へ話を回すにあたって、もう少し整えたい資料があります。特に、地球での初期活動をどこまで絞るのか。最初の半年で何を成果として示すのか。その二点は、もう少し明確にしてください」

 

「分かりました」

 

 ルナはすぐに頷く。

 

「あと、クラウドファンディングで支援してくださった方々への進捗共有も軽く見ないこと。今回の資金は、ただ集まったお金ではなく、信用の前払いでもあります」

 

「はい」

 

 その言葉も、深く入ってくる。

 

 信用の前払い。

 たしかにそうだ。

 ルナは、今ここで様々な人達の信用を先にもらっている。

 だからこそ、それに応える責任がある。

 

「もしよろしければ」

 

 ルナは、そこで少しだけ前のめりになった。

 

「今後の資料の整え方についても、少しご相談してもいいですか」

 

 ステファンは、すぐに頷く。

 

「もちろんです」

 

 そして、卓上の端末へ手を伸ばした。

 

「こちらでも担当をつけましょう。財務、実務、法務、それぞれ一度整理した方がいい」

 

「ありがとうございます」

 

 ルナは、また頭を下げそうになって、でも今度は途中で止めた。

 ただ頭を下げるだけではなく、ちゃんと受け取って、ちゃんと前へ進まなければいけない。

 そう思えたからだ。

 

 ステファンは、そんなルナの表情の変化を見て、少しだけ口元を和らげた。

 

「表情が変わりましたね」

 

「え?」

 

「ここへ入ってきた時より、ずっといい顔をしています」

 

 ルナは、一瞬だけ戸惑った。

 そんなに顔に出ていたのだろうか。

 でも、言われてみれば、自分でも分かる。

 さっきまでの自分は、“また断られるかもしれない人”の顔をしていた。

 今は違う。

 

 まだ何も終わっていない。

 むしろ、やることは増えた。

 でも、それでも前へ進むための道筋が見えた今の自分は、少なくともさっきまでよりずっと立っていられる。

 

「……ありがとうございます」

 

 ルナは、今度はゆっくりと言った。

 

 その言葉に、ステファンは小さく首を横へ振る。

 

「礼を言うのは、成功してからで構いません」

 

 その一言に、ルナは思わず笑った。

 

「はい」

 

「ただし、途中経過の報告は歓迎します」

 

「分かりました」

 

「楽しみにしています」

 

 その“楽しみにしています”は、軽い励ましではなかった。

 出資者としての言葉。

 支援者としての言葉。

 そして、自分自身も何かを知りたいと思っている人の言葉。

 

 ルナは、その重みをしっかり受け取るように、もう一度だけはっきり頷いた。

 

「必ず、報告します」

 

 その返事を聞いて、ステファンは満足したように資料を整えた。

 

 部屋の外では、秘書が静かに待機している気配がする。

 火星の都市は変わらず窓の向こうに広がっていて、世界は何も変わっていないように見える。

 けれど、ルナにとっては確かに何かが変わった。

 

 応接室を出る頃には、最初に入ってきた時の“断られた帰り道の人”の顔はもうしていなかった。

 

 もちろん、不安が消えたわけではない。

 必要な資金が完全に揃ったわけでもない。

 準備すべきことは山ほどある。

 計画書はまた直さなければならない。

 グループ各社との話も、これからだ。

 地球での活動が本当に軌道に乗るまでには、まだまだ長い時間がかかるだろう。

 

 それでも。

 

 さっきまで閉じかけていた扉は、今、はっきりと開き始めている。

 

 ルナは、応接室の扉の前で、一度だけ深呼吸した。

 

 サヴァイヴで知った本物の風。

 太陽。

 海。

 自然。

 あれを、ただ遠い記憶のままにはしたくない。

 

 その思いが、ようやく現実の方へ足を伸ばし始めていた。

 

 そしてその一歩を、今度は絶対に止めたくないと、ルナは強く思った。

 

 

ーーーー

 

 

 

 宇宙管理局の慰安旅行は、予定どおりロカC3のキャンプ場へ到着した。

 

 船を降りた瞬間、参加者達の口から小さなどよめきが漏れる。

 

 ロカC3のキャンプ場は、単なる屋外施設ではなかった。人工的に整えられた自然とはいえ、その作り込みは本格的で、緩やかな起伏のある緑地の中に木々が配置され、歩道の先には木造風のロッジが点在している。中央には大きな炊事場があり、屋根付きの調理スペースと長い作業台が並び、網や鉄板を置くための区画までしっかり分けられていた。

 

 さらに少し奥へ目を向ければ、陽光を反射してきらきらと光る人工の湖まである。岸辺にはベンチや小さな桟橋のようなものも設けられていて、いかにも“休日”という風景が完成していた。

 

「うわぁ……」

「思ったより本格的」

「すごいな、これ」

「宇宙管理局の慰安旅行って、もっと堅いの想像してたんだけど」

 

 局員達が口々に感想を漏らしている。

 普段、無機質な管制室や整備区画、会議室ばかり見ている彼らにとって、この景色はそれだけで十分に非日常だった。

 

 スペースホープの乗務員達も、船を降りてからすぐに制服を私服へ着替えていた。

 

 それは、ペルシアが気を回したからだった。

 

「いつも頑張ってるんだから、現地じゃ少しぐらい楽しみなさいよ」

 

 ペルシアはそう言ったのだ。

 エリンは最初、その提案を聞いて少しだけ考えた。

 

 乗務員は乗務員として最後まで動くべきではないか。

 現地でも制服の方が、気持ちが切り替わるのではないか。

 そういう思いがなかったわけではない。

 

 けれど、今回は宇宙管理局の慰安旅行だ。

 ただ料理を出し、飲み物を回し、最後まで“仕える側”だけで終わるのは、もったいないとも思った。

 

 宇宙管理局の人間達と自然に話し、顔を覚えてもらい、どんな仕事をしている人がいるのかを知る。

 そういう繋がりは、今後のスペースホープにとって大きな財産になる。

 

 だからエリンは、最終的に皆へこう告げた。

 

「今日は仕事だけじゃなくて、ちゃんと関わってきなさい」

 

 その一言で、ミラ達の顔色が少し変わった。

 “楽しんでいい”ではない。

 “関わってきなさい”だ。

 つまり、慰安旅行の場そのものを次へ繋げる場として使いなさい、という意味である。

 

 そんなわけで、今、炊事場の近くには、制服ではなく私服姿のスペースホープの面々の姿があった。

 

 エリンは、シンプルな白いシャツに淡いベージュのパンツという、動きやすいけれど品のある装いだった。

 ミラは落ち着いた青のブラウスにロングスカート、ランは柔らかな色のニットに細身のパンツ。

 クミコは元気の出るような明るい色の上着を羽織り、アズサはカジュアルながらも清潔感のある服装で、見るからに表情まで軽くなっている。

 サリー、マユ、ハズキ、ミドリも、それぞれが少しだけ肩の力を抜いた私服姿だった。

 

 炊事場では、既にいくつものグループに分かれて火起こしが始まっていた。

 炭が組まれ、着火材へ火が入り、ぱちぱちと乾いた音がする。

 鉄板の上へ油が落ちる音、野菜を切る音、誰かが笑う声、それに混じる軽い歓声。

 あちこちから上がる煙まで含めて、“バーベキューが始まる前の匂い”が漂っていた。

 

「いやー、やっぱりこれこそ慰安旅行だ」

 

 満足そうに言ったのは、やはりペルシアだった。

 

 炊事場の中央寄りに陣取るように立ち、片手にはまだ開けていないビール缶がある。

 顔はもうだいぶ上機嫌だ。

 いや、船内で酒を禁止されたことを思えば、上機嫌に見えるのが逆に不思議なぐらいである。

 

 その時だった。

 

「ペルシア、間違えてるわよ」

 

 背後から、穏やかな声が飛ぶ。

 

 ペルシアが振り向くと、そこにはエリンが立っていた。

 その手には、透明なペットボトルが一本。

 

「……焼酎?」

 

 ペルシアが真顔で言う。

 

 周囲にいた局員達やラスペランッァの面々が、一拍遅れて吹き出した。

 

「水よ?」

 

 エリンは何を言っているのという顔で小さく笑う。

 

「いや、私、お酒飲みたいんだけど!?」

 

 ペルシアが抗議する。

 その言い方があまりにも素直すぎて、局員の何人かがまた笑った。

 

「え?」

 

 今度はエリンが、本当に不思議そうに首を傾げる。

 

「今日はお酒禁止でしょ」

 

 さらりと言う。

 

「そうだっけ?」

 

 ペルシアが、とぼけた顔を作る。

 

 だがエリンは、微笑みを崩さないまま言葉を重ねた。

 

「ええ。お酒禁止にするか、宇宙に放り出されたいか、選んでいいわよって言ったら、お酒禁止を選んだじゃない」

 

 一瞬、場が止まる。

 

 そして、その場にいたほとんど全員が同じことを思った。

 

(そんな話になってたんだ……)

 

 ローズは腕を組んだまま目を細め、フレイは思わず口元を押さえ、ナミは「それ選択肢になってたんだ……」と小声で呟いた。

 チャコは耳をぴくぴくさせながら「エリン、ほんま容赦ないなぁ」と笑い、クリスタルは「妥当じゃない?」という顔をしている。

 

 ペルシアは、そんな周囲の空気を感じながらも、しばらくビール缶とエリンの差し出したペットボトルを見比べていた。

 

「……分かりました」

 

 やがて、素直にペットボトルを受け取る。

 

「よろしい」

 

 エリンも満足そうに頷いた。

 

「ちゃんと飲みなさいね」

 

「はーい……」

 

 ペルシアの返事は、完全にしょんぼりしていた。

 だが、そのしょんぼりした顔が妙に珍しくて、周囲の空気はかえって和む。

 

 そこで、ナミ、イーナ、シャオメイが、まるで示し合わせたようにエリンへ近づいてきた。

 

「エリンさん」

 

 最初に口を開いたのはナミだった。

 

「なぁに?」

 

「その……」

 

 ナミは、一度だけペルシアの方をちらりと見た。

 ペルシアはペットボトルの水を、まるで酒みたいに不満そうに眺めている。

 

「ペルシアさんをどうすれば上手く扱えるのか、教えてもらってもいいですか?」

 

 その問いに、炊事場のあちこちから笑いが漏れた。

 聞き耳を立てていたローズとジェームズが、いかにも“自分もそれは気になる”という顔をしている。

 局長に至っては、最初から楽しそうにそのやり取りを見ていた。

 

「おい」

 

 ペルシアがすぐに反応する。

 

「私、家具とか猛獣みたいに言われてない?」

 

「猛獣ではありますよね」

 

 シャオメイが即答する。

 

「ひどい!」

 

 ペルシアが言うが、イーナまで小さく頷いたので、もはや反論しきれない。

 

 エリンは、そんな三人を見て少しだけ笑った。

 

「難しい質問ね」

 

「やっぱり難しいんですね……」

 

 ナミが真顔で言う。

 

「ええ」

 

 エリンは頷く。

 

「でも、いくつかコツはあるわ」

 

 その一言で、ローズとジェームズがさらに耳を傾けた。

 局長は腕を組みながら、いかにも面白そうに頷く。

 

「まず」

 

 エリンは、ペルシアの方を見ないまま言った。

 

「真正面から“駄目”だけを言わないこと」

 

「え?」

 

 ナミが目を丸くする。

 

「例えば今日のお酒みたいに、“飲ませない”だけを前に出すと、絶対に隠れて何かするでしょ」

 

「しましたね」

 

 シャオメイが淡々と言う。

 

「したわね」

 

 エリンも同意する。

 

「だから、“どうならいいか”を先に決めるの」

 

「どうならいいか……」

 

 イーナが繰り返す。

 

「ええ。今日は“自席で、量を見て、乗務員の指示に従って”って線を引いたの。全部取り上げると暴れるから」

 

「暴れないわ!」

 

 ペルシアがすぐに抗議する。

 

「精神的には大暴れやったで」

 

 チャコが横から茶々を入れる。

 

「チャコ、うるさい」

 

 ペルシアがむっとするが、エリンはそのまま話を続けた。

 

「次に、役割を与える」

 

「役割?」

 

 ナミが首を傾げる。

 

「そう。ペルシアって、単に好き放題したいんじゃなくて、“自分が場を回してる”って感じがあると大人しくなる時があるの」

 

「なるほど……」

 

 ジェームズが思わず小さく呟く。

 ローズも横で深く頷いていた。

 

「たとえば?」

 

 イーナが聞く。

 

「今日は、“皆んなが楽しめてるか見る役”とか、“珍しい酒の解説をする役”とかね」

 

「解説したい!」

 

 ペルシアがすぐに身を乗り出す。

 

「ほら」

 

 エリンが肩をすくめる。

 

「こういうこと」

 

 その実演があまりにも分かりやすくて、その場でどっと笑いが起きた。

 

「たしかに……」

 

 ナミが感心したように言う。

 

「何もさせないより、“何かを任せる”方が制御しやすいんですね」

 

「そう」

 

 エリンは頷く。

 

「それと、褒めるところはちゃんと褒める」

 

「それも必要なんですか?」

 

 シャオメイが珍しく少しだけ興味を見せる。

 

「必要よ」

 

 エリンはきっぱり言った。

 

「“また余計なことして”だけだと、拗ねるから」

 

「拗ねてないわよ」

 

「今、かなり拗ねてるじゃない」

 

 エリンが言うと、ペルシアはペットボトルを抱えたまま目を逸らした。

 その態度だけで、答えは出ている。

 

「でも、“ここは助かった”“これは流石だった”を先に言うと、その後の注意が入りやすいの」

 

「たしかに……」

 

 ローズが思わず口を挟む。

 

「それは分かる気がする」

 

 ジェームズも低く頷いた。

 

「納得はするな」

 

 ペルシアが不満げに言う。

 

 局長は、そのやり取りを見ながら本当に楽しそうだった。

 

「勉強になるな」

 

「局長まで」

 

 ペルシアがじとっとした目を向ける。

 

「いや、実際面白い」

 

 局長は笑う。

 

「組織運営にも近い話だ。止めるだけではなく、動かしながら線を引くというのはな」

 

「そう言われると、なんだか仕事みたいですね」

 

 イーナがくすっと笑う。

 

「仕事よ」

 

 エリンはさらっと言った。

 

「ペルシア相手は、だいたい仕事」

 

「ひどい!?」

 

 ペルシアがまた叫ぶ。

 だが、そのやり取りの中で、周囲の空気はますますほどけていった。

 

 炊事場では、既にいくつかの網の上で肉が焼け始めていた。

 油が落ちるたびに火が上がり、「おおっ」と声が上がる。

 局員達の中には、普段仕事が出来る人ほど妙なところで不器用な者もいて、「ちょっと待って、それまだ生焼け」「野菜から焼くんじゃないのか?」といった声が飛び交う。

 

 その中で、スペースホープの面々も自然に輪へ入っていった。

 

 ミラとランは会話している局員達の話を拾っている。

 クミコとアズサは、楽しそうに肉をひっくり返している若い局員達に混ざりつつ、危なっかしい手つきを見つけると即座に声をかける。

 サリーとマユは、あまり前へ出すぎず、それでも誰かが困る前に必要なものを手元へ置いていた。

 ハズキとミドリは、少し遠慮がちだったが、それでもラスペランッァの面々やチームペルシアと会話するようになっていた。

 

「ミドリさん、そっちのお皿取ってくれる?」

 

 マリが言う。

 

「あ、はい」

 

「ありがと。サツキ、こっち焦げそう」

 

「分かってるよ」

 

 サツキがトングを持って返しながら、ふとハズキへ向く。

 

「ハズキ、こういう時、火に近づきすぎると髪の先が危ないから気をつけて」

 

「あ、ほんとだ。ありがとうございます」

 

 そんな何気ないやり取り一つでも、関係は少しずつ近くなる。

 

 一方で、チャコはもう完全に宴会の空気を楽しんでいた。

 

「おっ、ええ匂いやなぁ!」

「チャコさん、食べます?」

「食べる食べる! けど、ちゃんと焼いてからな。ウチ、旧式やけど胃は繊細やねん」

「ロボットなのに?」

「気持ちの問題や!」

 

 その一言に、周囲がまた笑う。

 

 クリスタルは、少し離れたところでエリンと目が合うと、グラスではなく紙コップのお酒を軽く掲げた。

 

「お互い大変ね」

 

「ええ、ほんとに」

 

 エリンも苦笑する。

 

「でも、まあ……悪くないわ」

 

「でしょ」

 

 クリスタルは頷いた。

 

「たまにはこういうのも必要よ」

 

「そうね」

 

 その会話の少し後ろで、リュウジが局員達に囲まれていた。

 囲まれているといっても、マスコミの時のような圧ではない。

 少し酔って気が大きくなった局員達が、普段は聞けないことを聞いているのだ。

 

「リュウジさんって、やっぱり未探索領域でも平常心なんですか?」

「平常心でいないと危ないだけだ」

「うわ、かっこいい」

「それでサラッと肉も焼いてるのが余計に」

 

 リュウジは「焼いてるだけだ」と淡々と返すが、その横でチャコが「地味に面倒見ええからなぁ」と茶々を入れ、局員達がまた盛り上がる。

 

 そうしてロカC3のキャンプ場には、炭の匂いと笑い声が広がっていった。

 

 

 しばらくして、ナミ達の“ペルシアの扱い方講座”は、なぜか少しだけ正式な場みたいになっていた。

 

「じゃあまとめると」

 

 ナミが指を折る。

 

「真正面から止めるだけじゃなくて、“どうならいいか”を先に決める」

 

「うん」

 

 エリンが頷く。

 

「役割を与える」

 

「そう」

 

「褒めるところは先に褒める」

 

「ええ」

 

「で、最後に?」

 

 ナミが続きを促す。

 

 エリンは、少しだけ考えるように目を細め、それから言った。

 

「最後は、絶対に譲らない線を持つこと」

 

 その一言で、周囲の空気が少しだけ引き締まる。

 

「譲らない線……」

 

 イーナが静かに繰り返す。

 

「そう」

 

 エリンはペルシアの方を一度だけ見た。

 

「どこまでならいいかを決めるのと同時に、ここから先は絶対に駄目、って線は曖昧にしないこと。そこを揺らすと、後で倍になって返ってくるから」

 

「倍で済みますか?」

 

 シャオメイが真顔で言う。

 

「済まないかもしれないわね」

 

 エリンが苦笑する。

 

 ローズが腕を組んだまま小さく息を吐いた。

 

「……身に染みるな」

 

「ローズも大変そうだもんねぇ」

 

 ペルシアが茶化すように言うと、ローズはじろりと睨む。

 

「原因の一人が言うな」

 

「一人じゃないでしょ」

 

「お前が主だ」

 

 即答だった。

 

 局長は、そんなやり取りを聞きながら笑っていた。

 

「しかし」

 

 と、ふいに口を開く。

 

「エリン」

 

「はい」

 

「君は本当に、うまく人を見るな」

 

 その言葉に、周囲が少し静かになる。

 

 エリンは、一拍だけ目を瞬いた。

 

「いえ……」

 

「いや、褒めている」

 

 局長は続ける。

 

「スペースホープの便でも感じたが、人を動かすというより、“崩れないように回している”感じがある。今日もそうだ。酒が入って、気が緩んで、各々が好きにしたがる場なのに、妙に空気が壊れない」

 

 エリンは少しだけ照れたように目を伏せた。

 

「私一人じゃありません。皆んなが動いてくれているからです」

 

 そう言って、自然に視線をミラ達へ向ける。

 ミラとランは少しだけ背筋を伸ばし、クミコ達も一瞬きょとんとしてから、嬉しそうに目を合わせた。

 

「それも含めてだ」

 

 局長が穏やかに言う。

 

「自分だけで回している顔をしないのが、なおさら良い」

 

 その一言は、エリンだけでなく、スペースホープの面々にも静かに染み込んだ。

 

 ペルシアは、水のペットボトルを片手に、少しだけ得意そうに笑う。

 

「でしょ? 私が連れてきたんだから」

 

「そこは私達が見つけた、でしょ」

 

 クリスタルが呆れたように返す。

 

「細かいことはいいのよ」

 

「便利な言葉だなぁ」

 

 チャコが感心したように言うと、サツキが「便利に使いすぎだよ」と小さく笑う。

 

 

 そうして、慰安旅行の場は、ただ飲んで騒ぐだけの時間にはならなかった。

 

 酒もあり、肉もあり、笑いもある。

 でもその中で、宇宙管理局の人間とスペースホープの乗務員達は確かに言葉を交わし、顔を覚え、空気を共有していた。

 

 エリンが最初に思ったとおり、これはただの“休暇の場”ではない。

 関わりを作る場でもある。

 

 ミラがフレイと何やら真面目な話をしている。

 ランはナミと一緒に焼き加減を見ながら、どこかで笑い合っていた。

 クミコは局員の一人へ手際よくトングの持ち方を教え、アズサはイーナと一緒に皿を配っている。

 サリーとマユは、さりげなく炊事場全体の動きを整え、ハズキとミドリは少しずつ自分から会話へ入れるようになっていた。

 

 そして、その全部を見ながら、ペットボトルの水をちびちび飲んでいるペルシアがいた。

 

「……やっぱりお酒飲みたい」

 

 ぼそっと零す。

 

「聞こえてるわよ」

 

 すぐ隣から、エリンの声。

 

「ひぃっ」

 

 ペルシアが肩をすくめる。

 その反応だけで、周囲がまた笑った。

 

 ロカC3の人工の湖は、午後の光を受けて静かに揺れている。

 炊事場では、肉の焼ける匂いと笑い声が混ざり、宇宙管理局の慰安旅行は、少し騒がしくて、でもどこか温かい時間の中を進んでいった。

 

 

 

ーーーー

 

 お肉も焼け、お酒も周り、ひと段落着くと、スペースホープはスペースホープ組で集まっていた。

 ペルシアがひょいとエリンから逃げるようにそのスペースホープのテーブルへ顔を出した。

 

「楽しんでる?」

 

 手にしているのはビールではない。

 透明なペットボトルだ。

 

 それを見た瞬間、クミコとアズサの口元がゆるみ、ミラは思わず少しだけ目を細めた。

 ランに至っては、最初にそこへ視線が行ったらしい。

 

「ありがとうございます、ペルシアさん」

 

 ミラが礼を言う。

 

「ほんとに、私服にさせてもらえて助かってます」

 

「でしょ?」

 

 ペルシアは得意げだ。

 

「ずっと制服で肉焼いてたら、何しに来たんだか分かんないもの」

 

「本当に飲んでないんですね」

 

 ランが、やや感心したように言う。

 

 ペルシアは水の入ったペットボトルを持ち上げて見せた。

 

「バレたら本当に殺されそうだし」

 

「殺されはしないと思いますけど……」

 

 ミドリが小さく呟く。

 

「いや、でもエリンさんの“宇宙に放り出すか、お酒禁止にするか選んでいいわよ”は、だいぶ怖かったですよ」

 

 マユが言うと、皆が一斉に頷いた。

 

「でしょ?」

 

 ペルシアは、なぜかそこだけ誇らしそうだ。

 

「エリンってそういう言い方するのよ。優しく言うのに逃げ道がないの」

 

「実体験なんですね」

 

 サリーが落ち着いた声で言うと、ペルシアはじとっとした目を向けた。

 

「そうね。今日の私は身をもって学んでる最中よ」

 

「大変ですね」

 

 サリーの返しがあまりにも真面目で、アズサが吹き出した。

 

 その時だった。

 

 少し離れた鉄板の前で、ひときわ大きなフライ返しを使いながら焼きそばを焼いているリュウジの姿が目に入る。

 エプロンなどしていないのに妙に板についていて、しかも手つきが無駄に慣れている。

 

「あ、リュウジ〜! 焼きそば持ってきて」

 

 ペルシアが、実に気軽に声を飛ばした。

 

 スペースホープの面々は一瞬、全員が固まった。

 

 相手は、あのS級パイロットのリュウジだ。

 宇宙管理局でも一目置かれている。

 ラスペランッァの中心人物の一人でもある。

 そんな相手へ向かって、ペルシアはまるで近所の気のいい友人にでも頼むみたいな調子で叫んだのである。

 

 だがリュウジは、鉄板から視線を外さずに答えた。

 

「どれくらいだ?」

 

「たくさん!」

 

「分かった」

 

 それだけである。

 

 そのやり取りを見て、クミコがぽかんと口を開ける。

 

「……すごい」

 

「ええ……」

 

 アズサも同じ顔だ。

 

「S級パイロットのリュウジさんに対して、ペルシアさんの扱いがすごい……」

 

 ハズキが小声で言うと、ペルシアは不思議そうに首を傾げた。

 

「何が?」

 

「いや、だって……」

 

 ミドリが言葉を探す。

 

「もっとこう、すごい人って感じで接するのかと思ってたので」

 

「リュウジはリュウジだもん」

 

 ペルシアがあっさり言い切る。

 

「すごいのはすごいけど、それとこれとは別でしょ」

 

 その理屈が通っているのか通っていないのか、スペースホープの面々には判断がつかなかった。

 ただ、ペルシアの中では完全に筋が通っているらしい。

 

 その横で、ミドリはまだ端末を覗き込んでいた。

 何やら集中している。

 

「それより、ミドリは何を見てるの?」

 

 ペルシアがひょいと横から覗き込む。

 

「あ、えっと」

 

 ミドリが少し慌てる。

 

「今日、旅行会社の特集をやってるんです」

 

「え、面白そう」

 

 アズサがすぐに身を乗り出す。

 

「何それ、今?」

 

「今ちょうど始まったところです」

 

 ミドリが端末の画面を少し傾けると、自然と皆がテーブルの中央へ顔を寄せた。

 

 そこでは、“今注目の新興旅行会社”という特集が流れていた。

 華やかな映像とともに、最近急成長している旅行会社の紹介がテロップ付きで映し出されている。

 

「スペースホープは出ないですけど」

 

 ミドリが少し残念そうに言う。

 

「今はスペンサーって会社が人気なんです」

 

「スペンサー?」

 

 ちょうどそのタイミングで、リュウジが大皿いっぱいの焼きそばを持ってやってきた。

 鉄板から直接移したらしく、まだ湯気が立っている。

 

「待ってました!」

 

 ペルシアが歓声を上げる。

 

「ありがと、リュウジ」

 

「熱いから気をつけろ」

 

 リュウジは大皿をテーブルの中央へ置きながら言った。

 その動作がまた妙に自然で、スペースホープの面々は二重の意味で感心してしまう。

 

「リュウジさんは知らないんですか?」

 

 マユが、焼きそばを取り分けながら聞いた。

 

「何がだ?」

 

「スペンサーっていう旅行会社です」

 

「知らないな」

 

 リュウジは肩をすくめる。

 

「興味がないのもあるがな」

 

「だと思った」

 

 ペルシアが、既に焼きそばを口へ運びながら言う。

 

「スペンサーって会社はね、元々は旅行会社なんてやってなかったのよ」

 

「へぇ」

 

 クミコが興味津々で聞く。

 

「じゃあ、何の会社だったんですか?」

 

「資材運用と輸送寄りだったはずよ」

 

 ペルシアは箸を動かしながら答える。

 

「でも悲劇のフライトとドルトムントの解体があったでしょ?」

 

 その単語に、一瞬だけテーブルの空気が少し変わる。

 ミラとランの表情が、ごく僅かに硬くなった。

 

 ペルシアは、そこを無理に避けなかった。

 

「その時に解雇になった乗務員を、あそこはかなり根こそぎ集めたの。で、新規で旅行部門を立ち上げた」

 

「ドルトムントの……」

 

 リュウジが低く呟く。

 

「ええ」

 

 ペルシアは頷く。

 

「ミラやランは、スペースホープに早く再就職してたから声はなかったと思うけど」

 

 そこで、ミラとランが顔を見合わせる。

 たしかに、二人には話が来ていない。

 ただ、その次の言葉で、席の何人かが少し目を見開いた。

 

「カイエやククル、エマは話があったみたいよ」

 

「えっ」

 

 アズサがすぐに反応する。

 

「カイエさん達に?」

 

「そう」

 

 ペルシアは、面白がるように笑った。

 

「そりゃ、声かけるわよ。あの子達、現場の質も高いもの」

 

「実質、新たなドルトムントみたいなものか?」

 

 リュウジが焼きそばを自分の皿へ取りながら言う。

 

 その言い方に、ミラが少しだけ眉を下げた。

 ランも黙ったままだ。

 

「まぁね」

 

 ペルシアは、そこは否定しなかった。

 

「でも、箱だけ真似しても同じにはならないでしょ」

 

 その言い方には、軽さの中にも少しだけ現実が混じっていた。

 

「そこのチーフパーサー、ホーネットは凄いらしいわよ」

 

「そうなんです!」

 

 ミドリがぱっと顔を上げる。

 

 特集の画面には、ちょうど“敏腕チーフパーサー・ホーネット”というテロップが映っていた。

 

「噂によると、視界が物凄く広くて、三百六十度を見渡せるらしいです!」

 

「三百六十度?」

 

 ハズキが素で驚く。

 

「それって、もう後ろまで見えてるってこと?」

 

「比喩でしょうけど……でも、業界では有名らしいです」

 

 ミドリが興奮気味に説明する。

 

「どこにいても全体の流れが頭に入ってて、何か起きる前から先に動けるって」

 

「なんか……」

 

 ランが小さく苦笑する。

 

「ペルシアさんと系統が似てますね」

 

「そうね」

 

 ペルシアは、まるでその評価を待っていたみたいに頷いた。

 

「いわゆる才能型ね」

 

「エリンさんが嫌いなタイプですね」

 

 ランが何気なく言うと、テーブルのあちこちで笑いが起きた。

 

「言い方ぁ!」

 

 ペルシアが抗議する。

 

 だが、ランも少し笑っている。

 

「嫌いっていうか……苦手そうじゃないですか。努力型の人だから」

 

「まぁねぇ」

 

 ペルシアが焼きそばをもぐもぐしながら言う。

 

「エリンは“皆んなの事をちゃんと頑張る”人が好きなのよ。自分勝手な奴より“周りの事を考えて努力する人”の方を信じるタイプ」

 

 その言い方には、妙に実感があった。

 ミラが小さく頷く。

 

「たしかに、そうかもしれないです」

 

「でしょ?」

 

 ペルシアは得意げだ。

 

 そこへ、ばたばたと足音が近づいてきた。

 

「リュウジ! 大変やで!?」

 

 チャコだった。

 

 かなり驚いたような顔で、耳までぴんと立っている。

 ペットボトルか何かを持っていたはずなのに、途中でどこかへ置いてきたのか、両手ぶらで走ってきた。

 

「どうした?」

 

 リュウジがすぐに顔を上げる。

 

「ルナの援助してくれる会社が見つかったでぇ!!」

 

 一瞬、テーブルの時間が止まった。

 

 次の瞬間、ペルシアが真っ先に立ち上がりかける。

 

「今、連絡があったんや! 宇宙管理局にも報告したいから、今から来るそうや!」

 

「会社って、どこの!?」

 

 ペルシアが目を輝かせる。

 

「そこまではまだ聞いてへん! けど、とにかく援助してくれるって!」

 

「ほら見なさい! 私のルナちゃん、凄いでしょ!」

 

「なんでペルシアさんのになるんですか」

 

 ハズキが思わず突っ込む。

 

「そこはいいの!」

 

 ペルシアは全く気にしない。

 

「ルナちゃんはね、やる時はやるのよ!」

 

「よかったな」

 

 リュウジが、そこで小さく息を吐いた。

 

 その言い方は短い。

 でも、本当に安堵しているのが分かる。

 

 テーブルの空気が、一瞬で明るくなる。

 さっきまで旅行会社の特集やホーネットの話をしていたのに、今はもう全部が吹き飛んでいた。

 

 そこへ、少し離れたところで話をしていたエリンが、何事かと戻ってきた。

 

「どうしたの?」

 

 声をかけた瞬間、皆の顔色でただならぬ良いニュースだと分かったのだろう。

 ペルシアが、待ってましたとばかりに振り向く。

 

「エリン! 聞いて! ルナちゃんの援助してくれる会社が見つかったんだって!」

 

 エリンの目が、ぱっとやわらいだ。

 

「本当に?」

 

「せや!」

 

 チャコが胸を張る。

 

「今、連絡があったんや! 宇宙管理局にも報告したいから、もうすぐ来るらしいで!」

 

「そう……!」

 

 エリンは、ふっと息を吐いた。

 その顔には本当にほっとした色が出ている。

 

「よかったわ」

 

 その一言に、そこにいる全員の気持ちが少しだけ重なった気がした。

 

 ルナはクラウドファンディングを立ち上げてから、少しずつ、でも確かに前へ進んでいた。

 それでも、企業や銀行から見れば“足りない”部分がまだ多いのだろうと思っていた。

 だからこそ、“援助してくれる会社が見つかった”という事実は、ここにいる皆にとっても嬉しかった。

 

「今日はお祝いね」

 

 エリンが、ぽつりと言う。

 

 その言い方が、妙に優しかった。

 

 次の瞬間、エリンは少しだけ考えた顔をしてから、自分の足元近くに置いてあったクーラーボックスへ手を伸ばした。

 

 そして、中からビール缶を一本取り出す。

 

 ペルシアの目が、見る見るうちに輝いた。

 

「え、いいの?」

 

「特別よ」

 

 エリンが缶を差し出す。

 

「ルナに感謝しなさい」

 

「する!」

 

 ペルシアが即答する。

 

「一杯だけよ」

 

 エリンが念を押す。

 

「うん! 分かった!」

 

 そこまではよかった。

 

 だが、その直後。

 

「いっぱい呑む!」

 

 ペルシアがやっほい! とでも言わんばかりに缶を掲げて騒ぎ始めたので、周囲から一斉に突っ込みが入る。

 

「一杯って言いましたよね!?」

「今、自分で言ってたのに!」

「やっぱりペルシアさんだ!」

 

 アズサとハズキが同時に言い、クミコが吹き出し、ミドリはもう笑いを堪えきれない。

 

「まったくもう」

 

 エリンは呆れたように言う。

 

 けれど、その呆れ方はどこか甘い。

 今この瞬間ぐらいは、少しだけ緩めてもいいと思っているのかもしれない。

 

 ペルシアは、ビール缶を大事そうに抱えながら、今にも泣きそうなほど嬉しそうだった。

 

「エリン、好き」

 

「はいはい」

 

「本当に好き」

 

「はいはい」

 

「ルナちゃんも好き」

 

「それは知ってるわ」

 

「今日、最高の日かもしれない」

 

「まだ途中よ」

 

 エリンが返すと、チャコが大きく頷く。

 

「せや。ルナが来てからが本番やで」

 

「そうね」

 

 クリスタルもグラス――ではなく紙コップを持ち上げる。

 

「それまでに、ちゃんと酔い潰れない程度にしてよ、ペルシア」

 

「分かってるって」

 

 ペルシアは言うが、その信用度は低い。

 

「ほんとかなぁ」

 

 ナミが小さく言い、フレイが「怪しいですね」と真面目に続ける。

 ジェームズは肩をすくめ、ローズは半ば諦めたような顔をしていた。

 

 局長だけが、少し離れたところからその様子を見て、穏やかに笑っている。

 

「賑やかでいいな」

 

 そう呟いた声は、近くにいたイーナにだけ聞こえた。

 イーナも、同じように笑う。

 

「はい。こういうのも、慰安旅行らしくていいですね」

 

 炊事場の火はまだ勢いを保ち、湖の向こうでは午後の光が少しずつ傾き始めていた。

 スペースホープのテーブルでは、焼きそばの皿があっという間に空になり、次の肉が運ばれてくる。

 誰かが「野菜も食べなさい」と言い、別の誰かが「今日は肉の日でしょ」と返し、また笑いが起きる。

 

 その中で、ルナの新しい未来の話が、誰の胸の中にも小さな灯りとして残っていた。

 

 エリンは、そんな皆の顔を見渡しながら、ふと心の中で思う。

 

 仕事は山ほどある。

 スペースホープの便もまだまだ続く。

 戻ったばかりなのに毎日慌ただしいし、ペルシアの営業の後始末も終わっていない。

 

 それでも。

 こうして笑える瞬間があるのなら、まだまだ前へ進める。

 

「じゃあ」

 

 エリンが、空気をまとめるように口を開いた。

 

「ルナに先に乾杯しておきましょうか」

 

「さんせーい!」

 

 ペルシアが真っ先に叫ぶ。

 ビール缶を持って。

 

「だから、一杯だけって言ったでしょ」

 

 エリンが即座に突っ込むと、テーブルの全員がまた笑った。

 

 そして、それぞれが手にしていた飲み物を少しだけ持ち上げた。

 

 水。

 お茶。

 ジュース。

 そして、特別に許されたビール缶が一本。

 

「ルナに」

 

 エリンが静かに言う。

 

「乾杯」

 

「乾杯!」

 

 声が重なり、ロカC3の人工の自然の中へ明るく響いた。

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