サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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衝突

 宇宙管理局の慰安旅行便と、ペルシアが半ば強引に、しかし見事に勝ち取ってきた宇宙管理局の役員向け研修便も、どうにかこうにか無事に終わった。

 

 終わってみれば、どちらもスペースホープにとっては大きな実績だった。

 

 もちろん、慰安旅行便ではペルシアが持ち込んだ酒で一悶着あったし、研修便では局員のスケジュール変更に合わせて内容を当日朝に組み直すような場面もあった。

 だが、そういう細かな綻びはあったとしても、便そのものを崩さずに運航しきれたことの意味は大きい。

 

 それに、役員達や宇宙管理局の局員達が“実際に使ってみた”ことで、紹介の輪も少しずつ広がり始めていた。

 

 今は、完全に予約がないわけではない。

 役員達の紹介を受けた会社から、ぽつり、ぽつりと小規模の便が入ってきている。

 ただ、それでも以前のような、エリンが帰れなくなるほど予約が密集している状態ではなかった。

 

 だからこそ、今は貴重な“整える時間”でもあった。

 

 便がない日に、シミュレーションを重ねる。

 次の便へ向けて役割を組み替え、動線を磨き、誰がどこまで任されるのかを少しずつ押し広げていく。

 今のスペースホープに必要なのは、仕事をこなすことと同じくらい、“次の一段”へ備えることだった。

 

 

 その日の朝、宇宙事業部のフロアは、普段より少しだけ早い時間から人が動いていた。

 

 大きな予約便こそ入っていないが、午後からは小規模な教育便を想定したシミュレーションがある。

 その準備のため、ミラとランはすでにスケジュール表を見ながら今日の流れを確認していたし、クミコ達も私服から制服へ着替え終えて、端末や筆記具を持ってあちこちを行き来している。

 

 エリンは自席で、その日のシミュレーション用の資料へ目を通していた。

 

 未探索領域の調査から戻ってからずっとそうだが、彼女が机へ向かっている時の集中は相変わらず深い。

 周囲で多少の声がしていても、必要なものと必要でないものをきっちり分けて拾っている。

 

 そこへ、少し緊張したような足音が近づいてきた。

 

「エリンさん」

 

「ん?」

 

 顔を上げると、そこにいたのはスペースホープの若い二人のパイロットだった。

 どちらもまだ経験は浅く、現在の等級はC級。

 だが、近頃は教育便や小規模便でもよく顔を出すようになってきていて、エリンにとっても既に見慣れた顔だ。

 

 ただ、こうして二人そろって改まった顔でデスクの前に来るのは珍しい。

 

「お願いがあります」

 

 片方が、思い切ったように言った。

 

 エリンは、思わず少しだけ目を丸くする。

 

「どうしたの? 珍しいわね」

 

「もうすぐ宇宙連邦連盟のライセンス更新試験があるじゃないですか」

 

「ああ……」

 

 エリンは、すぐに思い当たった。

 

「来週だったかしら」

 

「はい」

 

 もう一人も頷く。

 

「そこで、それに向けて……」

 

 言いかけて、一度だけ深呼吸をした。

 そしてまっすぐエリンを見る。

 

「リュウジさんに指導を仰げないかと思いまして」

 

 その名が出た瞬間、近くで資料を整理していたミラが一瞬だけ手を止めた。

 ランも、表情こそ変えなかったが耳だけはこちらを拾っている。

 クミコ達に至っては、分かりやすくそわそわし始めていた。

 

「リュウジに?」

 

 エリンが言う。

 

「はい!」

 

 二人のパイロットは、揃って真っ直ぐ頷いた。

 

「僕達、C級から上がりたいんです!」

 

 その声には勢いがあった。

 若さゆえの無鉄砲さも少しある。

 でも、それ以上に切実さがあった。

 

「次の試験で、少しでも可能性を上げたいんです」

「独学だけじゃ足りないのは分かってます」

「でも、誰に頼めばいいか考えた時に……やっぱりリュウジさんしか思いつかなくて」

 

 続けざまに言われて、エリンは一度だけ小さく目を伏せた。

 

 確かに世界で若いパイロットが憧れ、教えを乞いたいと思う相手としては、これ以上ない名前だろう。

 S級パイロットで

 技量。

 実績。

 経験。

 どれを取っても一流どころか、その上にいる人間だ。

 しかも彼らに特別講師として一度、指導を頼んだこともある。

 

 ただ時間を作れるかも分からないし、そもそも本人が引き受けるかどうかも別問題だ。

 

 それでも。

 

 二人の表情は本気だった。

 憧れだけではなく、自分達もその先へ行きたいのだという気持ちがはっきり見えた。

 

 エリンは、その真剣さを前にして、曖昧に笑ってごまかすことが出来なかった。

 

「……分かったわ」

 

 そう言うと、二人の表情が一気に明るくなる。

 

「本当ですか!?」

「ありがとうございます!」

 

「ただし」

 

 エリンがすぐに続けると、二人はぴしっと背筋を伸ばした。

 

「間に入るのは私。でも、交渉はちゃんと自分達でやるのよ?」

 

「え?」

 

「私がリュウジに“こういう話がある”って伝えることは出来る。でも、その先で何を教わりたいのか、どうして頼みたいのか、どれくらい本気なのかは、あなた達が自分の口で言いなさい」

 

 二人は一瞬だけ目を見合わせた。

 それから、今度はさっきよりもずっと強い声で返事をした。

 

「はい!」

「やります!」

 

「よろしい」

 

 エリンは小さく頷いた。

 

「それじゃあ会議室に行こうか。今のうちに整理して。連絡してあげるから」

 

「はい!」

 

 二人の声は揃っていた。

 

 エリンは立ち上がると、資料を一つだけ手に取り、そのまま会議室の方へ歩き出した。

 若いパイロット達が、その後をぴったりと追う。

 

 その背中を、フロアの面々は何となく見送っていた。

 

「……すごいね」

「リュウジさんに直接お願いするんだ……」

「緊張で死にそう」

 

 クミコ、アズサ、ハズキがひそひそと話す。

 サリーは静かに資料を整えながらも、耳だけはこちらを向けていた。

 

 ミラが小さく笑う。

 

「あの二人も変わったね」

 

「そうだね」

 

 ランも頷く。

 

「ちゃんと上を見てる」

 

「エリンさん、引き受けましたね」

 

 マユが少し意外そうに言う。

 

「断るかと思った?」

 

 ミラが聞く。

 

「少しだけ……」

 

 マユが素直に答えた。

 

「でも、真剣だったからでしょうね」

 

 ランが言うと、皆がそれに頷いた。

 

 

 エリンが会議室へ入ったあと、宇宙事業部のフロアは、再び今日のシミュレーション準備へ戻っていった。

 

 端末の確認。

 資料の並べ替え。

 座席の想定。

 誰がどの役をやるかの再確認。

 

 そんな中で、扉の方から、少しだけ場の空気を変えるような足音が聞こえてきた。

 

 誰か来た。

 それだけなら珍しくない。

 だが、入ってきた二人の女性は、今このフロアにいる誰とも少し違う空気をまとっていた。

 

 一人は、長い黒髪を高い位置で二つに結んだ、印象の強い女性だった。

 歩くたびにツインテールが揺れ、目元の鋭さも相まって、立っているだけで妙に目立つ。

 年齢はエリンとそう離れていないように見えるが、その立ち居振る舞いには妙な自信と遠慮のなさがある。

 

 もう一人は、暗い緑色の肩までかかる髪をした女性だった。

 こちらは対照的に、落ち着きがあり、空気の読み方も上手そうだ。

 服装も動きやすさを残しつつ整っていて、職業人らしい気配がある。

 

 その二人を見た瞬間、ミドリが思わず声を上げた。

 

「ホーネットさんだ!」

 

 その声で、フロアの視線が一斉に扉へ向く。

 

「え?」

「ホーネット?」

「まさか、あの……?」

 

 アズサ、ハズキ、クミコが顔を見合わせる。

 ミラとランも、名前だけは知っていた。

 最近、旅行会社特集や業界誌でやたらと取り上げられている、スペンサー旅行会社のチーフパーサー。

 “三百六十度を見渡せる”とまで噂されている、才能型の現場指揮者。

 

 その当人が、なぜスペースホープにいるのか。

 

 皆が戸惑う中、長い黒髪のツインテールの女性――ホーネットは、きょろりとフロアを見回して、第一声を放った。

 

「エリンっていう人いる?」

 

 軽口のような、でも人を試すような声だった。

 

 その横で、暗い緑の髪の女性がすぐに眉を寄せる。

 

「ホーネット、いきなり失礼よ」

 

「あ、ここ乗務員のフロアじゃなかった?」

 

 ホーネットは気にした様子もなく言う。

 

「人少ないもんね」

 

 その一言で、フロアの空気が少しだけ変わった。

 

 ミラとランの表情が、ほとんど同時にきゅっと締まる。

 ユウコとナツキは露骨に嫌な顔をしていただろう。

 代わりに、今この場にいるクミコ達も、その言葉の棘に気づいていた。

 

「ホーネット!」

 

 隣の女性がきっぱりと叱る。

 

「だって、ウチの会社の半分以下の人数だし」

 

 ホーネットは肩をすくめた。

 

「事実でしょ」

 

 その事実の言い方が問題なのだ。

 マユが、ほんの少しだけ眉を寄せる。

 サリーは静かだが、目だけが冷えている。

 ミドリでさえ、憧れの相手だったはずなのに、目を丸くしたまま戸惑っていた。

 

「エリンさんは今、外してて……」

 

 ミドリが、おそるおそる答える。

 

 ホーネットは「あ、そう」と軽く言っただけだった。

 

 その時。

 

「あら、お客様?」

 

 会議室の方から、ちょうどエリンが戻ってきた。

 

 若い二人のパイロットと話を終えてきたところなのだろう。

 資料を一つ抱えたまま、フロアの空気の違いにすぐ気づいたらしい。

 だが、その場の誰よりも自然な声色だった。

 

 ホーネットが、ぱっと顔を上げる。

 

「貴方がエリンね!」

 

 その声には、妙な勢いがあった。

 けれどエリンは、その勢いへすぐには乗らなかった。

 

 なぜなら、エリンの目に飛び込んできたのは、ホーネットではなく、その隣の女性だったからだ。

 

 一瞬。

 本当に一瞬だけ、エリンの表情がはっきりと変わった。

 

「シルヴィア!」

 

 資料を持ったまま、嬉しそうにその女性へ近づく。

 

「久しぶりじゃない」

 

 その声は、さっきまでフロアで使っていた落ち着いた業務声とは違っていた。

 もっと柔らかく、もっと素の温度に近い。

 

 暗い緑色の髪の女性――シルヴィアは、少しだけ目を細めて、丁寧に頭を下げた。

 

「エリンさん、ご無沙汰してます」

 

「やだ、ほんとに久しぶり」

 

 エリンのその顔を見て、ミラ達は一斉に目を丸くする。

 こんなふうに、昔からの知り合いに会って素直に感情を出すエリンを見る機会は、そう多くない。

 

「エリンさん、知り合いなんですか?」

 

 ミラが思わず聞く。

 

「ええ」

 

 エリンは振り返って答えた。

 

「ミラとランは会ったことないか」

 

 そう言って、少し懐かしむように笑う。

 

「元ドルトムントの時に、私が配属になった第一班で最初の同僚よ」

 

 その言葉に、フロアのあちこちから小さな驚きの声が上がる。

 

「第一班……」

「最初の同僚……」

「ってことは、かなり昔から……?」

 

 シルヴィアは、その反応に少しだけ苦笑した。

 

「同僚というより、部下ですよね」

 

「まあ、そう言われるとそうだけど」

 

 エリンが笑う。

 

「二年ちょっとだけだったわよ」

 

「はい。エリンさんには、第十四班へ異動になるまでの二年ちょっと、本当にお世話になりました」

 

 シルヴィアはそう言って、改めて小さく頭を下げた。

 

 その言葉に、スペースホープの乗務員達はさらに驚いた。

 エリンに“部下”がいた時代。

 しかもドルトムントの第一班。

 今でこそエリンはスペースホープのチーフパーサーとして前に立っているが、その前から、やはりそういう位置にいたのだと改めて実感させられる。

 

「ミラとランとも被ってるけど」

 

 エリンは二人へ視線を向けた。

 

「あなた達は入ってから一、二年で第十四班へ来てるから、知らなくても無理ないわね」

 

「なるほど……」

 

 ミラが納得したように頷く。

 

 ランもすぐに姿勢を正した。

 

「はじめまして。ランです」

 

「ミラです。エリンさんには、今とてもお世話になっています」

 

 二人が丁寧に頭を下げると、シルヴィアはやわらかく微笑んだ。

 

「はじめまして。シルヴィアです。エリンさんは今も変わらないですか?」

 

「え?」

 

 ランが目を瞬く。

 

「どんな所がですか?」

 

 ミラが少しだけ警戒したように聞くと、シルヴィアはくすっと笑った。

 

「厳しいけど、ちゃんと見てくれる人、ってところ」

 

 その答えに、ミラとランがほとんど同時に小さく笑う。

 

「はい、今も変わらないですね」

「ええ、変わらないと思います」

 

 その会話の空気は、どこか温かかった。

 

 だが、その様子を見ていたホーネットは、明らかにしびれを切らしていた。

 

「ちょっと!」

 

 ついに声を張る。

 

「私を無視しないでくれる!?」

 

 その一言で、場の空気が再びぴんと張る。

 

「あっ」

 

 エリンが我に返ったように振り向く。

 

「ごめんなさい」

 

 その謝罪は素直だった。

 シルヴィアへ向けていた顔とは少し違って、今度はきちんと目の前の来訪者として見る顔に変わる。

 

「それで、この方は?」

 

 エリンがシルヴィアへ尋ねる。

 

 シルヴィアは一歩だけホーネットの横へ寄った。

 

「スペンサー旅行会社でチーフパーサーをしています、ホーネットです」

 

 他社のチーフパーサーかとエリンが理解した。

 

「スペースホープでチーフパーサーをしています、エリンです。よろしく」

 

 エリンが微笑む。

 

 穏やかな、きちんとした挨拶だった。

 

 だがホーネットは、その穏やかさを受け取る気が最初からあまりないようだった。

 

「挨拶なんていい!」

 

 ぴしゃりと言う。

 

「それより、私と勝負しなさい、エリン!」

 

 今度こそ、フロアのあちこちから本気の驚きの声が上がった。

 

「勝負!?」

「えっ、いきなり!?」

「何の!?」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

 ミラとランが、同時に声を上げる。

 クミコは目を丸くし、アズサに至っては口を半開きにして固まっている。

 ハズキは「勝負って何ですか!?」と素で聞き返し、ミドリは憧れの相手を前にして完全に混乱していた。

 

 エリンだけが、ほんの一拍置いてから口を開いた。

 

「……勝負?」

 

 その問い返しは、驚きより確認の色が強かった。

 

「ええ!」

 

 ホーネットは一歩前へ出る。

 

「私、前から貴方に会ってみたかったのよ!」

 

「どうして?」

 

 エリンが首を傾げる。

 

「どうしても何も!」

 

 ホーネットは両手を広げた。

 

「シルヴィアからは“すごい”“怖い”“でも結局一番信頼できる”って散々聞かされるし、最近じゃスペースホープなんて小さな会社で、あのエリンがチーフパーサーをやってるって噂まで聞くし!」

 

「小さな会社で、は余計よ」

 

 シルヴィアがすぐに突っ込む。

 

「余計じゃないわよ」

 

 ホーネットは気にしない。

 

「だって本当でしょ。なのに、宇宙管理局の役員便も宇宙管理局の慰安旅行も、いきなり大手企業ばかり回したって聞いたら、そりゃ見たくなるじゃない!」

 

 その勢いに、スペースホープの面々は半ば呆気に取られていた。

 だが、エリンはその言葉の奥にあるものを、少しずつ読み取っていた。

 

 単なる嫌味だけではない。

 ホーネットは、本気で興味を持っている。

 そして、本気で比べてみたいと思っているのだ。

 

「何で勝負になるのか、まだ分からないんだけど」

 

 エリンは静かに言う。

 

「簡単よ!」

 

 ホーネットは即答する。

 

「チーフパーサーとして、どっちが上か見せ合えばいいの!」

 

「雑ね……」

 

 エリンが小さく漏らすと、シルヴィアが深くため息をついた。

 

「本当にすみません、エリンさん」

 

「いえ、なんとなく分かってきたわ」

 

 エリンは苦笑した。

 

 その横で、ミラが小声でランへ囁く。

 

「……すごい人ね」

 

「ええ……」

 

 ランも同じように小声で返す。

 

「噂どおりというか、噂以上というか」

 

「でも」

 

 クミコが、目をきらきらさせながら言う。

 

「エリンさんと勝負って、ちょっと見てみたいです」

 

「分かる」

 

 アズサがすぐに頷く。

 

「すっごく怖いけど、見たい」

 

 サリーは黙っていたが、その目は明らかに興味を持っていた。

 マユも、ホーネットの勢いに戸惑いつつ、どこかで場の行方を見逃したくない顔をしている。

 ハズキとミドリに至っては、もう完全に“どうなるのこれ”という顔だった。

 

 エリンは、そんなフロアの空気を一度だけ見渡し、それから改めてホーネットへ向き直った。

 

「それで」

 

 穏やかな声で言う。

 

「何で勝負したいの?」

 

 ホーネットは、にやっと笑った。

 

「そう来なくちゃ」

 

 その笑い方は、挑発的で、自信に満ちていて、でもどこか楽しそうでもあった。

 

「シミュレーションよ」

 

 そう言い切る。

 

「今から、ここで」

 

 その言葉に、フロア全体の温度が一段上がった。

 スペースホープの面々は思わず息を呑み、シルヴィアはまた頭を抱えかける。

 

「ホーネット、突然すぎるわ」

「突然じゃない! こういうのは勢いよ!」

「勢いで他所の会社に勝負を挑まないで」

「じゃあ何? お手紙でも書けばよかった?」

「そういう問題じゃないの」

 

 シルヴィアとホーネットのやり取りに、エリンはつい吹き出しそうになった。

 まるで自分とペルシアを見ているようで。

 

 ホーネットは、そんなエリンの表情を見て、さらに前のめりになる。

 

「笑ってる場合じゃないわよ、エリン」

 

「笑ってないわよ」

 

「笑ってる!」

 

「ちょっとだけね」

 

 エリンがそう言うと、ホーネットは一瞬だけ目を丸くした。

 そして次の瞬間には、楽しそうに口角を上げる。

 

「やっぱり、嫌いじゃないかも」

 

「初対面で何その感想」

 

 エリンが返すと、今度はシルヴィアが小さく笑った。

 

「エリンさん、気をつけてください」

 

「なにを?」

 

「ホーネット、気に入った相手ほど面倒です」

 

「もう十分面倒そうだけど」

 

 その言い方に、フロアのあちこちで笑いが起きた。

 

 ホーネットは、そんな笑いも気にせずに胸を張る。

 

「とにかく勝負よ、エリン!」

 

 その宣言に、スペースホープの宇宙事業部のフロアは、朝のシミュレーション準備とはまったく違う熱を帯び始めていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 だが、エリンはホーネットの「勝負しなさい!」という勢いを、真正面から受け止めはしなかった。

 

 フロア中の視線が集まる中、エリンはほんの少しだけ首を傾げてから、穏やかな声で言った。

 

「ごめんなさいね」

 

 その一言に、ホーネットが目を丸くする。

 

「……は?」

 

「私、貴方と勝負する理由がないの」

 

 言い方は柔らかい。

 だが、きっぱりしていた。

 

「それに、乗務員として勝負して、何になるのかも分からないわ」

 

 その場の空気が、一瞬だけ静まり返る。

 

 ホーネットは、しばらく黙ってエリンを見ていた。

 まるで“今、何て言われた?”と頭の中で言葉をなぞっているみたいな顔だ。

 

「何になるか分からない?」

 

 やがて、少しずつ口元が引きつる。

 

「本気で言ってるの?」

 

「本気よ」

 

 エリンは微笑んだままだ。

 

「勝ち負けで見えることもあるでしょうけど、私は今、それをやる必要を感じていないの」

 

 それは、ホーネットの存在や力を軽く見ている言い方ではなかった。

 だが、だからこそ余計にホーネットには気に入らなかったのだろう。

 

「ふーん」

 

 ホーネットが、つまらなさそうに鼻を鳴らす。

 

「なるほどね。そうやって逃げるの」

 

「ホーネット」

 

 シルヴィアが、すぐに声を挟む。

 

「挑発しないの」

 

「挑発じゃないわよ」

 

 ホーネットは肩をすくめる。

 

「ただ、思ったことを言ってるだけ」

 

 その“思ったこと”が、ここからあからさまに棘を帯び始めた。

 

「だって、ここ見てよ」

 

 ホーネットはフロアをぐるりと見回した。

 

「人は少ない。設備だって、うちと比べたら簡素。乗務員の人数も足りてない。便の規模だって、今のところ大したことないんでしょ?」

 

 ミラの眉が、わずかに動く。

 ランは表情を変えない。

 だが、クミコやアズサ、ハズキの肩が少しだけ強張ったのが分かった。

 

「こんな小さな会社で“今は勝負する必要がない”なんて言ってる場合?」

 

 ホーネットは止まらない。

 

「それとも何? そのままぬるくやって、いつか自然に一流にでもなると思ってるの?」

 

「ホーネット、やめなさい」

 

 シルヴィアが一段強い声で言う。

 

「言い方が過ぎるわ」

 

「過ぎないわよ」

 

 ホーネットは切り返す。

 

「だって事実じゃない。ここ、うちの半分以下の規模でしょ? しかもチーフパーサーが、勝負から逃げる腰抜け」

 

 その言葉が落ちた瞬間、空気がぴんと張った。

 

 さすがに、誰も笑わない。

 

 ミラの表情は、もう目に見えて険しくなっていた。

 ランも、静かに口元を引き結んでいる。

 クミコは目を見開き、アズサは分かりやすくむっとした顔になった。

 ハズキは「は?」と小さく漏らし、マユは冷えた目でホーネットを見ている。

 サリーは何も言わないが、その沈黙自体が不機嫌だった。

 そして今日はシミュレーション見学と資料整理のためフロアにいたユウコとナツキも、露骨に嫌悪感を隠さなかった。

 

「こんな腰抜けのチーフパーサーだと」

 

 ホーネットが言い放つ。

 

「下が可哀想だわ」

 

 今度こそ、クミコが一歩前に出かけた。

 アズサも、言い返そうと口を開きかける。

 だが、その前にエリンが小さく息を吐いた。

 

 長くも短くもない、実にエリンらしいため息だった。

 

「だったら」

 

 エリンが、にこりと笑った。

 

 その笑顔を見た瞬間、ミラとランが同時に“あ”と小さく目を細める。

 何か考えた時の顔だ。

 

「こうしましょう」

 

 ホーネットが眉を上げる。

 

「何?」

 

「本当は午後からシミュレーションをやる予定だったの」

 

 エリンは、ホーネットではなく、フロア全体へも聞こえるように言った。

 

「でも、せっかくだし、今からやりましょう」

 

 クミコ達が一斉に顔を上げる。

 

「今から?」

 

 ホーネットも少し意外そうだった。

 

「そう」

 

 エリンは頷く。

 

「私達がいつもやってるシミュレーションに、一緒に参加して」

 

「……は?」

 

「色々とこの子達に教えてあげてほしいの」

 

 その場にいたスペースホープの面々が、一瞬だけ静まり返る。

 

 教えてあげてほしい。

 それは、ホーネットを持ち上げているようにも聞こえるし、同時に“勝負”とはまるで違う土俵へ引きずり込んでいるようにも聞こえた。

 

「なんで私が!?」

 

 ホーネットが、本気で嫌そうな顔をする。

 

「だって、チーフパーサーと言っても色々とタイプがあるでしょう?」

 

 エリンは、ごく穏やかに言う。

 

「私達以外の視野から、色々意見を聞けるのはありがたいもの」

 

「そしたら勝負してくれますか!?」

 

 ホーネットがすぐさま食いつく。

 

 エリンは、そこでほんの少しだけ考えるふりをした。

 

「うーん」

 

 わざとらしく小首を傾げる。

 

「考えてあげる」

 

「ぐっ……!」

 

 ホーネットが本気で悔しそうな顔をした。

 その反応を見て、ユウコが思わず口元を押さえる。

 ナツキは小さく肩を揺らしていた。

 

 ホーネットは数秒間、エリンを睨むように見ていたが、やがて観念したように大きく息を吐いた。

 

「分かったわよ!」

 

 ほとんど吐き捨てるみたいに言う。

 

「シルヴィア、行くわよ!」

 

「ホーネット!」

 

 シルヴィアは呆れた顔をしたが、結局その後を追うしかない。

 エリンは、それを見て満足そうに頷いた。

 

「それじゃあ、予定が変わって申し訳ないけど」

 

 今度はスペースホープの面々へ向けて言う。

 

「今からシミュレーションをやりましょう」

 

「はい!」

 

 返事は揃っていた。

 さっきまでの苛立ちが、一気に別の熱へ変わっているのが分かる。

 

 

 シミュレーションルームに移動すると、いつも通りの準備が始まった。

 

 訓練用の簡易客室。

 通路。

 座席。

 手荷物収納棚。

 乗り入れ導線。

 緊急時対応のための装備。

 

 今日の予定では午後から小規模の教育便を想定したシミュレーションを行うはずだった。

 だがエリンは、急な予定変更にも動じない。

 むしろ、そこへホーネットという“外の視点”が混ざったことで、場をどう使うかが明確になっていた。

 

「まずは歩き方と姿勢から」

 

 エリンが言うと、ホーネットが盛大に顔をしかめた。

 

「はぁ? 本気?」

 

「本気よ」

 

 エリンは即答する。

 

「基礎は何でも最初にやるもの」

 

「こんなの、今さらやる意味ある?」

 

「あるわ」

 

 その返答に迷いはない。

 

「乗り入れでも接客でも、最初に見えるのは立ち姿と歩き方だから」

 

 ホーネットは不服そうだったが、エリンはもう議論を終えていた。

 立ち位置の指示を出し、皆を並ばせる。

 

 スペースホープ組は慣れたものだ。

 ミラとランは前列寄り、クミコ、アズサ、ハズキ、マユ、サリー、ミドリ、ユウコ、ナツキ、その他の乗務員達がその後ろへ並ぶ。

 ホーネットとシルヴィアも、一番端に入る。

 

 そこでエリンは、シルヴィアとホーネットを見て、ほんの少しだけ表情を変えた。

 

 シルヴィアは、たしかに基本が残っている。

 癖はある。

 でも、エリンの知っている“基礎を叩き込まれた人間”の立ち方だ。

 

 一方でホーネットは――。

 

 足の置き方が雑だ。

 重心も少し不安定。

 肩がわずかに前へ入っていて、立っているだけで“今から何かへ飛び込もうとしている人”の姿勢になっている。

 

(ああ……)

 

 エリンは、そこで小さく納得した。

 

(なるほどね)

 

 視界が広い、先読みが出来る、才能型。

 そういう人間ほど、基礎の省略で上へ行ってしまうことがある。

 走れてしまうから、歩くことを整えない。

 見えてしまうから、立つことを磨かない。

 

 けれど、エリンは何も言わなかった。

 

「いつも通りいくわよ」

 

 そう言って、スペースホープ組の歩きを見始める。

 

「クミコ、少し早い。踵から入る意識、まだ残して」

「はい」

「アズサ、目線が上ずる時がある。笑顔を作る時ほど首が前に出ないように」

「はい!」

「ハズキ、右肩が上がる。力を抜いて」

「はい」

「ミドリ、悪くないけど最後の一歩だけ急ぐ」

「はい」

「マユ、安定してる。でも意識しすぎて硬い。もう少し自然に」

「はい」

「サリー、そのままで大丈夫」

「はい」

 

 指摘は細かい。

 だが、どれも的確だ。

 そして誰もそれに反発しない。

 もう慣れているし、自分の癖として受け取れるようになっている。

 

 その様子を見て、ホーネットが鼻で笑った。

 

「細か」

 

 その一言に、ミラの表情がまた少しだけ険しくなる。

 

「こんなの、実戦でいちいち気にしてる暇ないでしょ」

 

「そう思う?」

 

 エリンは、ホーネットを見ずに言った。

 

「思うわよ」

 

「そう」

 

 それだけで流す。

 

 ホーネットは、さらに面白くなさそうに肩をすくめた。

 

 だが、そのあと自分の番になって歩いた時、エリンはやはり何も言わなかった。

 明らかに足取りは乱雑で、姿勢も整っていない。

 なのに、ホーネットは自分が何も言われないことを“問題なし”だと受け取ったらしい。

 

「ほらね」

 

 少し顎を上げて言う。

 

「別にこんなの、やらなくても――」

 

「ホーネット」

 

 シルヴィアが低い声で止める。

 

「黙って」

 

 その声に、ホーネットは口を尖らせた。

 

 

 歩き方と姿勢の確認が一通り終わると、エリンは短い休憩を入れた。

 

「五分だけ。水飲んで」

 

 そう言って自分も端へ寄ると、シルヴィアがすぐに近づいてきた。

 

「やっぱり、エリンさんはこういう基礎の訓練をやると思いました」

 

「もちろん」

 

 エリンは水を一口飲みながら笑う。

 

「大事だもの」

 

「はい」

 

 シルヴィアも頷く。

 

「正直、ホーネットは嫌がるだろうなと思ってましたけど」

 

「嫌がるでしょうね」

 

 二人とも同じように苦笑した。

 

 そしてエリンは、改めてシルヴィアの立ち姿を見た。

 

「シルヴィアも、だいぶ良くなってるわね」

 

「本当ですか!?」

 

 その反応が、昔の部下そのままで、エリンは少しだけ懐かしくなる。

 

「ええ」

 

 エリンは頷いた。

 

「無駄な動きが減ったし、重心も前より安定してる」

 

「よかった……」

 

 シルヴィアがほっとする。

 

「ただ」

 

 エリンはそこで少しだけ目を細めた。

 

「たまに癖で少し猫背になるのは変わらないわね」

 

「う……」

 

 シルヴィアの肩が、ほんの僅かに縮む。

 

「意識してるんですけど、どうしても」

 

「分かってるわ」

 

 エリンは責める声ではなく、あくまで昔と同じ調子で言った。

 

「あなたの場合、肩を後ろへ引く意識だけだと逆に硬くなるのよ。だから“胸を上げる”じゃなくて、“みぞおちから糸で吊られてる”みたいに思ってみて」

 

「みぞおちから……?」

 

「そう。肩はあくまでついてくるだけ」

 

 そう言いながら、エリンは実際に軽く手で位置を示した。

 

「ここが少しだけ上へ伸びると、猫背を直そうとしなくても背中が勝手に入るでしょ」

 

 シルヴィアが、その場で試してみる。

 肩へ力を入れず、みぞおちの少し上を意識して、ほんの少しだけ身体を引き上げる。

 

「あ……」

 

 顔が変わる。

 

「入りました」

 

「でしょ?」

 

「ほんとだ……」

 

 シルヴィアは少し感動したように自分の姿勢を確かめる。

 

「これ、すごく楽です」

 

「無理に“直そう”とするより、自分の身体に合うイメージを見つける方が早いこともあるの」

 

「はい」

 

 シルヴィアは素直に頷いた。

 

 その様子を少し離れたところで見ていたホーネットが、つまらなそうに言う。

 

「何、それ。そんな細かいことやって、意味ある?」

 

 エリンは、今度はちゃんとホーネットの方を見た。

 

「あるわよ」

 

「実戦で役に立つの?」

 

「立つわ」

 

 穏やかだが、迷いのない声だった。

 

「姿勢が崩れると視線が落ちる。視線が落ちると拾える情報が減る。情報が減ると先読みが鈍る。繋がってるの」

 

 ホーネットは、一瞬だけ何も言えなかった。

 自分が“視界の広さ”を武器にしていることを、見抜かれたような気がしたのだろう。

 

「……ふん」

 

 結局、そうやって鼻を鳴らすことしか出来ない。

 

 だがその反応を見て、エリンは内心でほぼ確信した。

 

 ホーネットは、持っているものは本物だ。

 ただ、その使い方と土台が整っていない。

 

 

 休憩が終わると、次は実際の運航シミュレーションへ移った。

 

 乗り入れ。

 荷物収納。

 座席誘導。

 サービス動線。

 そして緊急時対応。

 

 今日の想定は、少人数の研修便を少しだけ複雑化した内容だ。

 乗客役と乗務員役を分け、途中で手荷物トラブルや急な体調不良、さらに軽度の機器異常まで入れる。

 

 ホーネットとシルヴィアにも、当然、乗務員側へ入ってもらう。

 

「なんで私までちゃんとやらなきゃいけないのよ」

 

 ホーネットは文句を言いながらも、位置についた。

 

「教えてあげるんでしょ?」

 

 エリンがにこりと笑う。

 

「だったら、まず見せて」

 

「……言い方が気に入らない」

 

「よかった。私も貴方の言い方、あんまり気に入ってないの」

 

 その返しに、ミラが思わず吹き出しかけた。

 ランは目を伏せて堪えている。

 クミコ達は“エリンさんが静かに刺してる”と分かって、少しだけ胸がすく思いだった。

 

 シミュレーションが始まる。

 

 最初の乗り入れは、スペースホープ組がいつも通りの流れで入った。

 ミラが前を開き、ランが中ほどの揺れを整え、クミコとアズサが乗客役の誘導を行う。

 サリーとマユが荷物収納へ入り、ハズキとミドリが座席案内を補助する。

 

 エリンはその全体を見ながら、必要なところへだけ声を差し込む。

 

「クミコ、誘導の最後が少しだけ急いでる」

「はい」

「アズサ、笑顔はいい。そのまま手の位置だけ下げて」

「はい!」

「マユ、後ろの荷物二つ先に上げた方が流れが止まらない」

「分かりました」

 

 そこへ、ホーネットが割って入るように動く。

 

 確かに、視界は広い。

 どこで誰が止まっているか、どこへ人が詰まりかけているか、その拾い方は早い。

 でも、だからこそ身体の動きが雑だった。

 

 焦りはない。

 だが、足運びが大きすぎる。

 座席と通路の距離感を、才能と勢いで詰めてしまう。

 荷物へ手を伸ばすタイミングも、相手の身体へ入る角度も荒い。

 

 シルヴィアはそれを見て、小さく眉を寄せていた。

 分かっているのだろう。

 ホーネットの“やれてしまうがゆえの粗さ”を。

 

 だが、ホーネット本人は、エリンが指摘を飛ばしているのがスペースホープ組ばかりなのを見て、また鼻で笑う。

 

「ほらね」

 

 ぽつりと言う。

 

「そっちの子達、直すところばっかり」

 

 クミコが、ぴくりと反応する。

 アズサもムッとした顔になる。

 だが、今度は誰も言い返さなかった。

 

 ユウコが後方で腕を組みながら、小さくナツキへ言う。

 

「無視でいい」

 

「うん」

 

 ナツキが頷く。

 

「今、あの人に乗ったら面倒」

 

 ミラは、ずっと何も言わない。

 だが、その表情だけは、最初からずっと険しいままだった。

 

 次の段階へ進む。

 

 今度はサービス導線と、途中で入る体調不良対応。

 ここでもホーネットの視界の広さは本物だった。

 誰が止まっているか、どこで導線が詰まるか、こちらが言わなくてももう見えている。

 

 だが、見えているだけだった。

 

 それを“先回りしてほどく”ところまでは行かない。

 自分の頭の中では見えていても、それを身体の動きと優先順位の整理へ落とし込めていない。

 

(もったいない)

 

 エリンは、そう思った。

 

(本当にもったいない)

 

 最後に入れたのは、緊急時対応の流れだった。

 

 軽度の機器異常から、乗客役の動揺、誘導、声掛け、位置確認。

 ここは、エリンが特に重視しているパートだ。

 

 そして案の定、ホーネットはここがまるでなっていなかった。

 

 視界は広い。

 異常の発生場所も、動揺している乗客役の表情も、止まりそうな導線も見えている。

 だが、その全部が見えているせいで、逆に優先順位が定まらない。

 身体だけが一歩出て、しかし次の一手が遅れる。

 

「違う」

 

 エリンが、初めてホーネットの動きへ声を入れた。

 

 その一言に、場がぴたりと止まる。

 

「今は全部を見るんじゃないの。最初に一つ、軸を作るの」

 

 ホーネットが、明らかに不満そうな顔で振り返る。

 

「見えてるから動いてるんだけど?」

 

「見えてるのは分かるわ」

 

 エリンは静かに言う。

 

「でも、見えてるだけじゃ人は動かせない」

 

 その言葉が、ホーネットの顔から少しだけ余裕を奪った。

 

「最初に何を固定するか。誰を止めるか。どこを空けるか。そこを決めないと、視界の広さは散るだけよ」

 

 数秒の沈黙。

 

 ホーネットは、唇をきゅっと結んだ。

 反論したいのだろう。

 でも、自分でも少し心当たりがあるから、すぐには返せない。

 

 それでも、次にエリンがスペースホープ組へ指摘を戻した時、ホーネットは相変わらず馬鹿にするように笑った。

 

「はいはい、また細かいの来た」

 

 だが今度は、誰も気に留めなかった。

 

 クミコはクミコで、指摘された足の位置を直している。

 マユは荷物収納の高さをもう一度試し、サリーは自分の声の出し方を微調整していた。

 アズサも、さっきのホーネットの言葉にむっとはしたが、今はそれより自分の課題の方へ意識が向いている。

 ユウコとナツキに至っては、もはや“ああいう人もいる”という顔で受け流していた。

 

 ただ一人。

 

 ミラだけは、相変わらず何も言わないまま、ずっと表情が険しかった。

 

 それは単にホーネットの態度が気に入らない。

 

 それが、腹立たしかった。

 

 ランは、そんなミラの横顔を一度だけ見た。

 何も言わない。

 でも、ミラが相当溜めていることは分かる。

 

 エリンもまた、それをちゃんと見ていた。

 

 だが、この場ではまだ何も言わない。

 今は、シミュレーションを最後まで通すことが先だった。

 

 ホーネットという外から来た嵐が、スペースホープのフロアへ何を残すのか。

 それを見極めるには、まだもう少し時間が必要だった。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

シミュレーションが終わると、エリンはいつも通り、まず全体へ視線を回した。

 

 歩き方。

 姿勢。

 乗り入れ。

 荷物収納。

 誘導。

 緊急時対応。

 

 一通り、流れは終えた。

 途中で止めた箇所もあったが、それも含めて今日の訓練は訓練として成立していた。

 何より、スペースホープの面々は、ホーネットの露骨な嘲りを受けながらも、最後まで動きを崩さなかった。

 

「お疲れ様」

 

 エリンが静かに言う。

 

 スペースホープの面々が一斉に「お疲れ様でした」と返す。

 呼吸は少し上がっている者もいる。

 ただ、それは肉体的な疲れだけではない。

 今日のシミュレーションには、明らかに余計な疲労が混ざっていた。

 

 ホーネットは、その返事のあとを待っていたみたいに一歩前へ出た。

 

「それで?」

 

 顎を少しだけ上げる。

 

「勝負は?」

 

 その一言で、シミュレーションルームの空気がまた少しだけ張る。

 

 シルヴィアがすぐに眉を寄せた。

 

「ホーネット、まだ言うの?」

 

「まだって何よ。私は最初からそれを言ってるんだけど?」

 

 不機嫌そうな声だ。

 だが、その不機嫌さの奥には、どこか焦れたような色もある。

 

 エリンは、少しも慌てなかった。

 

「しないわよ」

 

 その一言はあまりにも自然で、逆にホーネットの方が一瞬、反応に遅れた。

 

「……は?」

 

 少し間の抜けた声が漏れる。

 

「だから、しないって言ってるの」

 

 エリンは穏やかに繰り返した。

 

「今日ここで、貴方と勝ち負けを決めるつもりはないわ」

 

 その言い方は静かだった。

 けれど、そこには最初から変わらない意志があった。

 

 エリンは内心で、はっきり分かっていた。

 

 ここで本気の“勝負”なんてする必要はない。

 自分の会社の乗務員相手なら話は別だ。

 誰かが上を目指すために、自分の限界を知るために、あるいは悔しさごと次へ持っていくために、あえて叩きのめすような形を取ることもあるかもしれない。

 

 でも、ホーネットは他社のチーフパーサーだ。

 

 しかも、まだ若い。

 未成熟な部分は明らかにある。

 視界の広さという才能がありながら、それを土台へ落とし込めていない。

 だからこそ、ここで真正面から実力差を見せつけるのは違うと、エリンは思っていた。

 

 相手のプライドを折ることは簡単だ。

 でも、それで何が残るのか。

 少なくとも、今ここでそれをやる意味はない。

 

 だが、ホーネットはそんなエリンの考えなど知るはずもない。

 

「はぁ……」

 

 長く息を吐いたあと、口元が歪む。

 

「何、それ」

 

 その声には、はっきりと嘲りが混じっていた。

 

「結局、逃げるんだ」

 

「そう受け取りたいなら、どうぞ」

 

 エリンは、まだ表情を崩さない。

 

 その落ち着きが、ホーネットをさらに苛立たせたのだろう。

 

「嘘つき」

 

 ぽつりと、しかしはっきり言う。

 

 それだけなら、まだよかった。

 

「“考えてあげる”とか言ってさ」

 

 ホーネットの声が、じわじわと熱を持ち始める。

 

「結局やらないんじゃない。だったら最初からそう言えば? 人を使って訓練に付き合わせて、教えてあげてほしいとか言っといて、都合よく逃げるのね」

 

 シルヴィアが一歩前へ出た。

 

「ホーネット、もうやめなさい」

 

「やめない」

 

 即答だった。

 

「だって本当でしょ。スペースホープの訓練を見て、別に怖くも何ともなかったし」

 

 その瞬間、ミラの表情がわずかに動いた。

 

 さっきからずっと険しかった。

 だが、今の一言で、その険しさの質が変わる。

 

「細かいところばっかりつついて、基礎だ基礎だって。そんなのやってる間に、もっと上に行ける人はどんどん先に行くわよ」

 

ホーネットは、なおも口を止めなかった。

 

「コネで仕事を取ってきて、その程度で“頑張ってます”みたいな顔してるの、滑稽よ」

 

 その言葉に、シミュレーションルームの空気がひやりと冷える。

 

 クミコの指先がぴくりと動いた。

 アズサは露骨に眉をひそめ、ハズキは思わず「ちょっと」と小さく漏らす。

 マユは視線を落とさないままホーネットを見つめ、サリーの目も静かに冷えていた。

 ユウコとナツキも、あからさまに嫌そうな顔をしている。

 

 だが、ホーネットはそんな空気を感じ取ってなお、言葉を重ねた。

 

「そもそも、こういう会社ってそういうものでしょ? 大きいところにいた人間の名前や繋がりを使って仕事をもらって、それで何とか回してるだけ」

 

 ミラの顔から、最後の柔らかさが消えていく。

 

「しかも、そんな中途半端な環境で“育成してます”とか言ってるの、外から見たらただの言い訳よ」

 

 ランが、静かに言った。

 

「ホーネットさん」

 

 声は穏やかだったが、止める響きがあった。

 

「そのあたりで」

 

「何?」

 

 ホーネットが鼻で笑う。

 

「だって本当のことじゃない。こんな腰抜けのチーフパーサーの下でやってるなんて、下の子達が可哀想」

 

 クミコが息を呑む。

 アズサが一歩前へ出かける。

 ハズキも顔をしかめ、マユがそっとその腕を押さえた。

 

 そしてホーネットは、決定的な一言を投げた。

 

「だから役員が横領なんてして、乗務員がいなくなるのよ!」

 

 一瞬だった。

 

 誰よりも先にシルヴィアが「ホーネット!」と声を上げかけた、その直前。

 

「ふざけんな!!!」

 

 シミュレーションルームの空気を震わせたのは、ミラの怒声だった。

 

 それは、誰も予想していなかったほど鋭く、強く、腹の底から出た声だった。

 

「ミラ……!」

 

 エリンとランが目を見開く。

 クミコも、アズサも、ハズキも、マユも、サリーも、ユウコも、ナツキも、皆んな本気で息を止めた。

 

 ミラは、もう止まらなかった。

 

 足が勝手に動くようにホーネットへ詰め寄る。

 その目は、怒りで真っ赤に燃えていた。

 

「黙って聞いてれば、さっきから好き放題言って!!」

 

 声が震えている。

 でも、その震えは弱さじゃない。

 怒りと悔しさで、身体が追いついていないだけだった。

 

「何も知らないくせに! 見てきたみたいな顔して! 分かったような口きかないでよ!!」

 

 ホーネットが一瞬たじろぐ。

 けれどミラは、その隙すら与えない。

 

「乗務員の関係ないところで起きた事件で、どれだけの人が傷ついたか知ってるの!?」どれだけの人が泣いたと思ってるの!?どれだけの人が、何も悪くないのに仕事も居場所も失ったと思ってるの!!」

 

 その一言一言が、鋭く、重く、部屋の空気へ突き刺さる。

 

「皆んな、好きで辞めたんじゃない! 好きでバラバラになったんじゃない!! 残った人だって、平気だったわけないでしょ!!!」

 

 ミラの目には、もうはっきりと涙が滲んでいた。

 それでも止まらない。

 いや、止められない。

 

「私達が、どんな気持ちでここまで来たと思ってるの!? どんな顔して、また制服を着たと思ってるの!? どんな思いで“もう一回やろう”って立ったと思ってるの!!!」

 

 ホーネットは、完全に言葉を失っていた。

 さっきまでの嘲りの笑みは、もうどこにもない。

 

 ミラはさらに詰め寄る。

 

「事件を起こしたのは乗務員じゃない! 現場に立ってた私達じゃない!!ーーーそれなのに、何も知らないあんたが! その痛みを利用して! こっちを馬鹿にする材料みたいに言うな!!!」

 

 クミコの目にも涙が浮かぶ。

 アズサは唇を噛み、ハズキは真っ赤になった目でミラの背中を見つめていた。

 マユもサリーも何も言えない。

 ユウコとナツキでさえ、今は口を挟めなかった。

 

「コネ!? ぬるい!? 腰抜け!? 何にも知らないくせに、そんな言葉で片づけないでよ!!」

 

 ミラの声が、もう怒鳴り声だけではなく、叫びに近くなる。

 

「皆んな必死だったんだよ!! エリンさんだって! ランだって! ここにいる皆んなだって!! 傷ついて、悔しくて、でも立ち止まれなくて、必死で前向いてきたんだよ!!!」

 

 ここで初めて、ホーネットが何か言おうとした。

 

「私は、ただ――」

 

「ただ何!?」

 ミラが即座に被せる。

 

「ただ本当のこと言ってるつもり!? だったら最悪だよ!! 人が一番痛いところに土足で踏み込んで、それを“本当のこと”で済ませるなら、そんなのチーフパーサーでも何でもない!!!」

 

 その言葉に、シルヴィアがはっと息を呑んだ。

 エリンの目も、ほんのわずかに揺れた。

 

 ミラは、もう完全に感情のまま叫んでいた。

 

「現場を見てるなら分かるでしょ!? 乗務員がどんな顔で立ってるか見れば、少しは分かるでしょ!? なのに、見ようともしないで、勝手に決めつけて、見下して!! あんたみたいな人に、私達の何が分かるの!!!」

 

「ミラ!」

 

 エリンが、ついに一歩前へ出る。

 だが、ミラはまだ止まらない。

 

「私はっ……!」

 

 そこで声が一度、大きく詰まった。

 

「私は、あの時……っ、何も出来なくて……! 辞めていく人を見てることしか出来なくて! 残ったのに、残っただけでいいのかって何度も思って! それでも、ここでもう一回やるって決めたの!!」

 

 涙が、ついに頬を伝う。

 

「それを……それを、あんたなんかに……! そんなふうに言われたくない!!!」

 

 次の瞬間、ミラの身体がさらに前へ出ようとした。

 

 まずい、と判断したのはランだった。

 

「ミラ!!」

 

 背後から腕を回して、強く引く。

 

 ミラが勢いよくもがく。

 

「離して!!」

「駄目!!」

「離してラン!!」

「落ち着いて!!」

「落ち着けるわけないでしょ!!!」

 

 ランの腕の中で、ミラは本気で暴れた。

 いつもの穏やかなミラからは想像も出来ないほど、身体全体で怒っている。

 

「何も知らないくせに! 何も見てないくせに!! 皆んなのこと、エリンさんのこと、あんなふうに言うな!!!……言うな!!!」

 

 ランが必死に押さえる。

 

「ミラ、駄目!」

「離して! まだ言いたいことある!!」

「今は駄目!」

「なんで!?」

「これ以上言ったら、ミラが苦しくなるから!!」

 

 その言葉に、ミラの動きが一瞬だけぶれる。

 だが、怒りはまだ止まらない。

 

「苦しいに決まってるでしょ!! 今までだってずっと苦しかったよ!! 皆んな何も言わないで頑張ってきたのに! なんで、あんな言い方されなきゃいけないの!!」

 

 シミュレーションルームは、もう完全に訓練の場ではなくなっていた。

 重く、痛く、張りつめた空気だけがある。

 

ランの腕の中で、ミラは本気で暴れた。

 普段のミラからは想像も出来ないほど、感情が剥き出しだった。

 

 クミコが、蒼白になって立ち尽くす。

 アズサは口元を押さえ、ハズキは完全に動けなくなっている。

 マユとサリーは、何かあればミラを押さえるために一歩だけ前へ出ていた。

 ユウコとナツキも、表情は険しいままだが、今はミラよりエリンとランの動きを見ている。

 

 ホーネットは、数秒間、本気で言葉を失っていた。

 だが、やがてそれを誤魔化すみたいに鼻を鳴らす。

 

「……フン」

 

 あまりにも薄っぺらい反応だった。

 

 それが余計に場の怒りを煽りかねなかったが、エリンがすぐに視線で押さえた。

 

「ホーネット」

 

 名前を呼ぶ声は低くない。

 でも、冷たかった。

 

「今日はもう帰って」

 

「言われなくても帰るわよ」

 

 ホーネットが吐き捨てるように言う。

 

 まだ強がっている。

 けれど、その目にはさっきまでの余裕はなかった。

 

「行くわよ、シルヴィア」

 

 踵を返す。

 

「ホーネット!」

 

 シルヴィアは、今度こそ本気で怒った顔をした。

 だが、それでもホーネットは止まらない。

 

 シルヴィアは一度だけ、エリンと、そしてスペースホープの面々に向き直った。

 

「本当に申し訳ありません」

 

 深く頭を下げる。

 その謝罪は、言葉以上に重かった。

 

「私、ちゃんと止めるべきだったのに……」

 

「シルヴィア」

 

 エリンが短く呼ぶ。

 

 だが、今ここで何を言っても追いつかないのは分かっていた。

 

「後で連絡するわ」

 

 それだけ言う。

 

 シルヴィアは小さく頷き、すぐにホーネットの後を追った。

 

 シミュレーションルームの扉が開き、閉まる。

 二人の足音が遠ざかると、残された空気はひどく重かった。

 

 

「離して!」

 

 まだミラが暴れている。

 

 ランは必死だった。

 腕の力を強くしすぎないように、でも絶対に離さないように。

 ミラの呼吸が荒い。

 肩が上下し、怒りで身体が震えている。

 

「ミラ、落ち着いて」

 

「落ち着けない!」

 

「分かるけど!」

 

「分かってない!!」

 

 ミラが叫ぶ。

 その声が、さっきの怒鳴りよりもむしろ痛かった。

 

「分かってるなら、あんなこと聞いて平気な顔してられない!!」 

 

「平気な顔なんてしてない!」

 

 ランも思わず声を張る。

 だが、すぐに気づいて少しだけ呼吸を整えた。

 

「……してない」

 

 低く言い直す。

 

「してないよ、ミラ」

 

 その声だけが、わずかにミラの耳へ届いたらしい。

 暴れる勢いが、ほんの少しだけ落ちる。

 

 だが、怒りはまるで治まらない。

 まだ怒っている。

 でも、怒りだけではなくなっていた。

 

「皆んな……っ、頑張ってるのに……!」

 

「うん」

 

「エリンさんだって、ランだって、皆んなだって……!」

 

「うん」

 

 エリンは、それ以上何も言わずに頷く。

 

 ランは、そこでようやく少しずつ腕の力を緩めた。

 ミラが今すぐ飛びかかることはないと分かったからだ。

 

 だがその瞬間。

 

「離して!」

 

 ミラは反射みたいにランの腕を振り払った。

 

 ランがよろめく。

 

「ミラ!」

 

 エリンが叫ぶ。

 

 だがミラは、そのままシミュレーションルームを飛び出した。

 向かった先は、ロッカー室の方だ。

 

 足音が廊下へ響き、扉が乱暴に開いて、ばたんと閉まる。

 

 あとに残ったのは、誰もすぐには動けない沈黙だった。

 

 

 重たい沈黙だった。

 

 さっきまでホーネットへの怒りでいっぱいだった空気が、今はミラの痛みへ形を変えてルームの中へ広がっている。

 

 アズサが、ぽろっと言う。

 

「ミラさん……」

 

 声が震えていた。

 

 ハズキも、どうしていいか分からない顔で立ち尽くしている。

 クミコは、今にもロッカー室へ追いかけたそうに半歩出て、でもエリンを見て止まった。

 

 ユウコが舌打ちしそうな顔で言う。

 

「……最悪」

 

「ほんと」

 

 ナツキも珍しく笑っていない。

 

「ライン越えすぎ」

 

 サリーは目を伏せていた。

 マユも拳を握ったままだ。

 ランは、さっきミラを押さえていた腕を見て、少しだけ唇を噛んでいる。

 

「ごめん」

 

 ランがぽつりと言った。

 

「もっと早く止めればよかった」

 

「違うわ」

 

 エリンがすぐに返す。

 

「ランは止めてくれた」

 

「でも」

 

「でも、じゃない」

 

 その声は強くはない。

 でも、きっぱりしていた。

 

「ミラがあそこまで行ったのは、ランのせいじゃない」

 

 ランは、それでも悔しそうだった。

 自分の腕の中で暴れていたミラの感触が、まだ残っているのだろう。

 

 クミコが、おずおずと口を開く。

 

「エリンさん……追いかけなくていいんですか?」

 

 その問いに、何人もの視線がエリンへ向いた。

 

 当然の疑問だった。

 今すぐ行って、声をかけて、落ち着かせるべきではないのか。

 

 だがエリンは、すぐには動かなかった。

 

 ロッカー室の方角へ、ほんの一瞬だけ視線を向ける。

 その目にあるのは冷たさではない。

 むしろ、よく知っている人を見る目だった。

 

「今は、いいわ」

 

 静かに言う。

 

「え?」

 

 アズサが思わず聞き返す。

 

「ミラ、今は誰の言葉も入らないから」

 

 その言い方に、ランがわずかに目を上げた。

 

 分かるのだ。

 エリンも同じような怒りや悔しさを、ずっと胸の中へ抱えてきた人だから。

 

「少し一人にする」

 

 エリンは続ける。

 

「泣くなら泣いた方がいいし、怒るなら怒った方がいい」

 

 それは突き放しているのではない。

 無理に落ち着かせようとする方が、今のミラには残酷だと分かっているのだ。

 

 ユウコが、小さく息を吐いた。

 

「……でも、あんなの聞かされて平気な方がおかしいですよ」

 

「そうね」

 

 エリンは頷いた。

 

「平気じゃないわよ」

 

 その一言に、部屋の空気が少しだけほどける。

 平気じゃない。

 それをエリンがちゃんと言ったことが、大きかった。

 

「皆んな」

 

 エリンが改めて言う。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

 反論する者はいなかった。

 

「片づけだけして、少し休んで」

 

「はい……」

 

 返事には、まだ沈んだ色が残っている。

 でも、その返事をすることで、ようやく皆が“次に何をするか”へ少しだけ意識を戻せた。

 

 エリンは、それを見届けてから、もう一度だけロッカー室の方を見た。

 

 扉の向こうにいるミラが、どんな顔をしているかは分からない。

 怒りで震えているのか。

 泣いているのか。

 それとも、両方か。

 

 でも、今はまだ見守るしかない。

 

 エリンは、その場から動かなかった。

 ただ静かに、ミラが飛び込んでいった方角を見つめていた。

 その視線には、厳しさも、甘さも、両方があった。

 そして何より、“その気持ちは分かる”という深い理解が滲んでいた。

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