サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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 ロッカー室に飛び込んだ瞬間、ミラは扉を閉めるのも半ば乱暴になっていた。

 

 ばたん、と重い音が響く。

 その音でようやく、自分がどれだけ取り乱していたのかを、少しだけ自覚する。

 

「っ……」

 

 息が、うまく吸えない。

 

 喉が熱い。

 胸の奥が苦しい。

 怒っていたはずなのに、今は怒りだけじゃなかった。

 悔しさも、情けなさも、恥ずかしさも、苦しさも、全部がごちゃごちゃに混ざっていて、何からどう吐き出せばいいのか分からない。

 

 ミラはその場で数歩よろめくように歩き、ロッカーの前まで行くと、そこへ背を預けるようにしてずるずると座り込んだ。

 

 膝を抱える。

 

 そうした瞬間だった。

 

 堰を切ったみたいに、涙が零れた。

 

「っ、う……」

 

 声を殺そうと思った。

 思ったのに、無理だった。

 

 目の奥が熱くて、鼻の奥もつんとして、口元を手で押さえても息が震える。

 涙が止まらない。

 

「なんで……」

「なんであんな……!」

 

 小さく呟いて、それが自分の声だと気づく頃には、もう嗚咽に近くなっていた。

 

 ミラは顔を膝へ埋めるようにして、思いきり泣いた。

 

 怒鳴ってしまった。

 詰め寄ってしまった。

 皆の前で、あんなに感情を剥き出しにしてしまった。

 副パーサーとして。

 エリンの隣に立つつもりでいた自分が。

 後輩達の前で、あんな姿を見せてしまった。

 

 けれどそれ以上に、頭の中で何度も何度も繰り返されるのは、ホーネットの言葉だった。

 

 腰抜け。

 コネ。

 だから役員が横領なんてして、乗務員がいなくなる。

 

「……っ!」

 

 思い出すだけで、また胸の奥が引きつる。

 

 違う。

 違う。

 何も違う。

 

 あの時、現場にいた自分達は何も出来なかった。

 何も悪くなかった。

 それでも、全部が壊れていくのを見ていることしか出来なかった。

 

 エマ。

 カイエ。

 ククル。

 同じ班だった人達。

 ドルトムントの、あの空気。

 皆で笑っていた時間。

 それが少しずつ崩れて、ばらばらになっていった時の、あのどうしようもなさ。

 

 そして、悲劇のフライトのあとに、自分が本気で乗務員を辞めようと思った夜のことまで思い出してしまう。

 

 やめたい。

 もう無理かもしれない。

 何のために立っているのか分からない。

 そう思ったあの暗い時間。

 

 でもその時も、頭のどこかにいたのはエリンだった。

 

 エリンさんだったら、きっと辞めない。

 きっと立つ。

 きっと、苦しくても前を向く。

 

 だったら――。

 

 あの人が目を覚ました時に。

 あの人が自分を見た時に。

 何も変わっていない自分を見せたくなかった。

 「あなたがいない間、私は逃げました」と、自分自身に言いたくなかった。

 

 だから、続けた。

 

 ランと二人で、スペースホープで乗務員を続けた。

 横領事件が起きても、また崩れても、それでも続けた。

 新人みたいな子達ばかりが残されて、どう見ても不安定な会社で、それでも立ち続けた。

 

 少しでも、自分の知っていることを残したかった。

 少しでも、“乗務員を諦めるしかない”って思ってほしくなかった。

 

 ようやく。

 本当にようやく。

 少しずつ前へ進めたと思っていたのに。

 

「……っ、う、ぅ……」

 

 また涙がこぼれる。

 

 ミラは、そのままどれくらい泣いたのか分からなかった。

 

 膝を抱えたまま、何度も息をつき、泣いて、少しだけ静かになったと思ったらまた涙が出て、を繰り返した。

 ロッカー室の空気は暗くて、少し冷えていて、静かだった。

 その静けさが逆にありがたかった。

 

 誰にも見られたくない。

 今の顔も、今の声も、今の情けない自分も。

 だから、この狭い部屋は今のミラにちょうどよかった。

 

 けれど、泣くというのは思っていた以上に体力を使う。

 

 怒鳴って、泣いて、肩で息をして、膝を抱えたままぐずぐずしているうちに、身体の芯から疲れが上がってきた。

 

 目も熱い。

 頭もぼうっとする。

 喉も渇いた。

 

 少しだけ、ほんの少しだけ壁に頭を預けようと思った、その瞬間。

 

 意識がすとんと落ちた。

 

 

 どれくらい眠っていたのか、最初は分からなかった。

 

 ただ、ふと目が覚めた時、視界が真っ暗で、どこにいるのか一瞬だけ理解が追いつかなかった。

 

「……っ」

 

 ミラは、がばっと顔を上げた。

 

 ロッカー。

 自分の膝。

 床。

 薄暗いというより、ほとんど真っ暗な室内。

 

 そこでようやく、ロッカー室で泣いて、そのまま眠ってしまったのだと思い出す。

 

「うそ……」

 

 口から小さく声が漏れた。

 

 慌てて端末を見ようとしたが、バッグの中だ。

 バッグは――と視線を巡らせると、ちゃんと脇に落ちずに置いてある。

 よかった、と一瞬だけ思う。

 でもその安心はすぐに別の焦りへ変わった。

 

 暗い。

 ここまで暗いということは、シミュレーションルームも、フロアも、もう終業時間を過ぎているのかもしれない。

 

「やっちゃった……」

 

 掠れた声で呟く。

 

 泣き疲れて寝てしまうなんて。

 子どもみたいだ。

 副パーサーだなんて偉そうに言っておいて。

 皆を置いて、一人で逃げるみたいにロッカー室へ飛び込んで、そのまま寝てしまうなんて。

 

 恥ずかしさが、遅れてどっと押し寄せてくる。

 

 ミラは慌てて立ち上がった。

 膝が少し痺れている。

 目元はきっと赤い。

 髪も少し乱れているに違いない。

 でも、そんなことを気にしている場合ではない。

 

 早く帰らないと。

 もう皆んな帰っただろうし。

 鍵だって閉まるだろうし。

 

 ミラはロッカー室の扉をそっと開けた。

 

 その先のシミュレーションルームも真っ暗だった。

 さっきまで人がいた気配が嘘みたいに、静まり返っている。

 床のマーカーも片づけられ、訓練用の荷物も戻されていた。

 つまり、本当に終わっているのだ。

 

 ミラは胸がぎゅっと縮むのを感じた。

 

 みんな、きっと心配しただろう。

 それなのに自分は一人で泣いて、そのまま寝ていた。

 最悪だ。

 早く帰ろう。

 せめて、誰にも会わないうちに。

 

 そう思って宇宙事業部のフロアへ足を踏み入れた、その時。

 

「遅かったじゃない」

 

 暗がりの向こうから、声がした。

 

「っ!」

 

 ミラは本気で肩を震わせた。

 

 心臓が跳ね上がる。

 足まで止まった。

 

 恐る恐る振り返ると、そこには、帰り支度を整えていたエリンがいた。

 

 デスク横の照明だけが点いていて、その灯りの中にエリンの姿だけが柔らかく浮いている。

 上着を羽織り、バッグも持っている。

 もう帰る準備は終わっているのだろう。

 なのに、まだここにいる。

 

「……エリンさん」

 

 ミラは、小さな声で呟いた。

 

「うん」

 

 エリンはごく自然に答える。

 

「早く帰り支度しなさい。鍵、閉めるわよ」

 

「は、はい」

 

 ミラは慌てて返事をして、自分の席へ向かった。

 歩きながら、自分の顔が熱いのが分かる。

 泣き腫らした目も、きっと見られている。

 それでもエリンは、何もそこに触れなかった。

 

 その優しさが、逆に少し痛い。

 

 鞄を取って、端末をしまって、散らかったものがないか確認して。

 いつもなら何でもない帰り支度なのに、今日は指先が少しだけもたつく。

 

 エリンは、その間も急かさない。

 ただ静かに待っていた。

 

 やがて、ミラがようやく支度を終えて振り返ると、エリンが軽く首を傾げた。

 

「とりあえず、飲みにでも行こうか?」

 

「……え?」

 

 ミラは、目を瞬いた。

 

「たまにはいいでしょう?」

 

 エリンの声は、あまりにも自然だった。

 叱るでもなく、重たい話を始めるでもなく、ただ“今日はちょっと寄っていこうか”という程度の軽さで言っている。

 

「は、はい……」

 

 ミラは反射みたいに頷いた。

 他にどう答えていいか分からなかったのもある。

 でも、それ以上に、今一人で帰るのが少しだけ怖かった。

 

 

 宇宙事業部のビルを出て、夜の街へ出ても、ミラはほとんど一言も話せなかった。

 

 エリンも、無理に話しかけてはこなかった。

 並んで歩く。

 少し前を歩くエリンに、ミラが半歩遅れてついていく。

 ただそれだけだ。

 

 火星の夜の街は明るい。

 ビルの灯り、案内板、飲食店の看板、行き交う人々の声。

 でも、ミラにはどれも少し遠く感じられた。

 

 頭の中では、まだ昼間の出来事が何度も繰り返されている。

 

 ホーネットの言葉。

 自分の怒鳴り声。

 ランに止められた感触。

 ロッカー室で泣いたこと。

 眠ってしまったこと。

 そして、真っ暗なフロアで一人残っていたエリンの姿。

 

(待っててくれたんだ……)

 

 その事実が、遅れて胸に染みる。

 

 居酒屋へ着くまで、結局ミラはほとんど言葉を発せなかった。

 エリンはそれも気にしない。

 何度か「寒くない?」とか「大丈夫?」程度の確認はしたが、それ以上は何も言わずに歩いた。

 

 やがて、繁華街から少し外れた通りにある、こぢんまりした居酒屋の暖簾をくぐる。

 

「いらっしゃいませー」

 

 店員の明るい声が飛ぶ。

 中はほどよく賑わっていて、仕事帰りらしい客が何組か座っていた。

 騒がしすぎず、静かすぎず、話をするにはちょうどいい店だった。

 

「二人です」

 

 エリンが言うと、奥の小さめのテーブル席へ案内される。

 壁際で、少しだけ落ち着ける位置だ。

 

 席に着いて、ようやくミラは少しだけ息を吐いた。

 さっきまでずっと身体が強張っていたのだと、その時になって気づく。

 

「今日は私の奢りだから、遠慮しなくていいわよ」

 

 エリンが、メニューを開きながら言った。

 

「……ありがとうございます」

 

 ミラは、少し視線を落として答える。

 

 エリンは、まるで本当に“たまの飲み会”であるかのように、自然な調子でメニューを見ていた。

 

「最初はレモンサワーにしようかな」

 

 そう呟いてから、顔を上げる。

 

「ミラはどうする?」

 

「あ……」

 

 ミラは、慌ててメニューを見る。

 だが文字が少しだけ目に入りにくい。

 泣き疲れた後だからだろうか。

 

「私も、同じので……」

 

「うん」

 

 エリンは頷いて、卓上の注文用タブレットを操作し始めた。

 

「レモンサワー二つ……あと、どうしようかな。枝豆と、だし巻きと、焼き鳥は頼んじゃおうか」

 

「あ、そんなに……」

 

「こういう時は、何か口に入れないと」

 

 エリンがさらりと言う。

 

「お酒だけだと余計に沈むから」

 

 その言い方が少しおかしくて、ミラはほんの僅かだけ口元を緩めた。

 

 注文を終えると、再び短い沈黙が落ちる。

 だが、それはフロアにいた時のような重い沈黙ではなかった。

 まだ言葉が出なくても、息苦しくはない。

 

 それでもミラは、最初に言わなければならないことがあると思った。

 

「……今日は、すみませんでした」

 

 深く頭を下げる。

 

 テーブルに額がつきそうなほど、しっかりと。

 

「私……副パーサーなのに、我を忘れてしまいました」

 

 声が少し震えた。

 

「皆んなの前で、あんな……ランにも迷惑をかけて、エリンさんにも……」

 

「謝るのは私の方よ」

 

 エリンが、あっさりと言った。

 

 ミラは顔を上げる。

 思わず、ぽかんとする。

 

「え……?」

 

「ミラに全部を背負わせちゃったわね」

 

 エリンは、真っ直ぐミラを見ていた。

 

「私がもっと早く止めるべきだったし、もっと早く切り上げるべきだった。ホーネットがあそこまで口を滑らせる前に、線を引けたはずなのに」

 

「でも……」

 

「でも、じゃないの」

 

 エリンの声は優しい。

 でも、そこに迷いはない。

 

「あなた一人の責任じゃないわ」

 

 ミラの喉が、ひゅっと狭くなる。

 

「でも私は……副パーサー失格です」

 

 ようやく口にしたその言葉は、思っていた以上に重かった。

 ずっと胸の中で固まっていたものが、やっと形になったような感覚がある。

 

「失格?」

 

 エリンが、少しだけ目を細める。

 

「はい」

 

 ミラは、視線を落としたまま続けた。

 

「冷静でいなきゃいけなかったのに、皆んなの前で、あんなふうに怒鳴って、感情のままに詰め寄って……副パーサーとして、一番やっちゃいけないことをしました」

 

 そう言い切ったところで、店員がレモンサワーを運んできた。

 

「お待たせしましたー、レモンサワー二つです」

 

「あ、ありがとうございます」

 

 エリンが受け取り、ミラの前へそっとグラスを置く。

 炭酸の泡が小さく立ちのぼっている。

 

 店員が離れたあと、エリンはグラスへ手を伸ばした。

 

「まずは、一口飲もうか」

 

 ミラもつられてグラスを持つ。

 

「今日は、お疲れ様」

 

 エリンが軽く掲げる。

 

「……お疲れ様です」

 

 グラスを合わせるほどではない、小さな乾杯。

 レモンサワーを口に含むと、思っていた以上に冷たくて、喉の奥に少しだけしみた。

 

 エリンは一口飲んでから、静かに言った。

 

「いいのよ」

 

「え……」

 

「皆んなの気持ちを代表して、言ってくれたんだもん」

 

 ミラは、その言葉に目を見開いた。

 

「代表、なんて……」

 

「そうよ」

 

 エリンは頷く。

 

「あなた一人だけが怒ってたわけじゃない。ランも、クミコも、アズサ達も、皆んな腹は立ってた。ただ、一番最初に声になったのがミラだっただけ」

 

「でも、あんな怒鳴り方……」

 

「綺麗ではなかったわね」

 

 エリンが少しだけ苦笑する。

 

「でも、綺麗じゃない怒りが必要な時もあるのよ」

 

 その言い方に、ミラはしばらく何も返せなかった。

 

「エリンさんは……」

 

 ようやく、ぽつりと問う。

 

「どうして怒らなかったんですか?」

 

 それは、ずっと気になっていたことだった。

 

「会社のことも、エリンさん自身のことまで言われて…私なら、あんなふうに平気な顔、出来ません」

 

 エリンは、グラスの中の氷を一度だけ見た。

 その表情は、少し考えるようでいて、実際にはもう答えを持っている顔だった。

 

「会社の事や、私自身のことを言われても」

 

 エリンが、静かに口を開く。

 

「別に構わないの」

 

「え……?」

 

「全部が本当じゃないにしても、少なくとも“外からそう見える”なら、そこには受け止めるべきものもあるでしょう?」

 

 ミラは、また言葉を失う。

 

 会社のことを言われても構わない。

 自分のことを言われても構わない。

 そんなふうに言える人が、本当にいるのだろうか。

 

 だが、エリンは本気だった。

 

「私はね」

 

 エリンが続ける。

 

「本気で怒る時は、大切な乗務員の皆んなが馬鹿にされた時よ」

 

 その一言が、ミラの胸へ深く入る。

 

「……っ」

 

「今日だって、私が一番嫌だったのはそこ」

 

 エリンの目が、少しだけ鋭くなる。

 

「会社がどうとか、私がどうとか、そこまではいいの。でも、今ここで必死に立ってる子達を、“可哀想”とか“腰抜けの下でやってる”とか、ああいうふうに見下すのは違う」

 

「じゃあ……」

 

 ミラは、少しだけ身を乗り出した。

 

「じゃあ、やっぱり怒ってたんですね」

 

「怒ってたわよ」

 

 エリンは、あっさり認めた。

 

「ただ、ホーネットを見てたら、怒るよりも“もったいない”って思っちゃってね」

 

「……もったいない?」

 

 ミラが、きょとんとする。

 

「ええ」

 

 エリンは頷いた。

 

「あれだけの才能があるのに、基礎がまるでなってないから」

 

 一瞬、ミラはぽかんとした。

 

 それから、何秒か遅れて、その意味がじわじわ理解に追いつく。

 

「……そこなんですか?」

 

「そこよ」

 

 エリンが真顔で言うので、ミラはつい笑ってしまった。

 

「ふふっ……」

 

 あんなに泣いて、あんなに怒って、まだ目元も腫れているのに、思わず笑ってしまう。

 

「やっぱりエリンさんはチーフパーサーですね」

 

「何それ」

 

「だって、普通そこじゃないです」

 

「そうかしら」

 

「そうです」

 

 ミラは、少しだけ肩の力を抜いて言った。

 

「私だったら、しばらく顔も見たくないって思います」

 

「私も、好きにはなれないわよ?」

 

 エリンが肩をすくめる。

 

「でも、嫌いと“もったいない”は両立するから」

 

 その言い方に、ミラはまた少し笑う。

 やっぱりこの人は、どこまで行ってもこの人なのだ。

 

 そのタイミングで、枝豆とだし巻きが届いた。

 

「お待たせしましたー、枝豆とだし巻きです」

 

「ありがとうございます」

 

 エリンが受け取って、だし巻きをミラの方へ寄せる。

 

「食べなさい」

 

「はい……」

 

 ミラは箸を持つ。

 正直、まだお腹は空いているのかいないのかよく分からない。

 でも、エリンが言うように、何か口に入れた方がいいのだろう。

 

 だし巻きを一口食べると、温かくて、出汁が優しかった。

 その優しさに、変なところでまた泣きそうになる。

 

 エリンはそれを見て、何も言わずに枝豆をつまんだ。

 少し待ってから、また口を開く。

 

「ミラ」

 

「はい」

 

「あなた、自分のことを副パーサー失格って言ったでしょう」

 

 ミラは、さっきの自分の言葉を思い出して、少しだけ肩を縮める。

 

「はい……」

 

「私は、そうは思わない」

 

 その言い方ははっきりしていた。

 

「でも」

 

 ミラは、反射的に言い返す。

 

「感情的になってしまいました。副パーサーなら、もっと冷静に……」

 

「冷静でいることが全部じゃないのよ」

 

 エリンが、言葉を重ねる。

 

「もちろん、便の中や、お客様の前で感情に振り回されるのは駄目。でも、今日は訓練で、しかも相手は他社のチーフパーサーだった。その場で、あなたが自分の痛みをごまかして綺麗に流した方が、私はむしろ危なかったと思う」

 

 ミラは、箸を持つ手を止める。

 

「危ない……?」

 

「そう」

 

 エリンは頷いた。

 

「あなた、ずっと我慢するでしょう?怒っても、自分の中へ入れちゃう。悔しくても、“ここで言うことじゃない”って飲み込む。そうやって積もったものが、いつか本番の便で別の形で出る方がよっぽど怖いの」

 

 その言葉に、ミラは思わず息を止めた。

 

 図星だった。

 

 たぶん、今日あそこで爆発しなかったら。

 ホーネットの言葉をそのまま飲み込んで、何もなかったみたいに笑っていたら。

 その怒りは消えずに、別のどこかで澱のように残っただろう。

 

 そして、疲れている時や、不安な時や、便の本番で余裕がない時に、思わぬ形で顔を出したかもしれない。

 

「だからね」

 

 エリンは、少しだけ柔らかく笑った。

 

「私は、今日あなたが怒ったこと自体は悪いと思ってない」

 

「でも、ランさんに止められました」

 

「止められるのは当然よ」

 

 エリンが即答する。

 

「詰め寄りすぎたもの」

 

 その率直さに、ミラは少しだけ肩を落とす。

 

「ですよね……」

 

「そこは反省しなさい」

 

「はい……」

 

「でも、“怒ったこと”と“行き過ぎたこと”は分けて考えるの」

 

 エリンはグラスを持って、一口だけレモンサワーを飲んだ。

 

「今日、あなたが怒った気持ちは正しい。ただ、身体が先に出たのは行き過ぎ。そこだけは切り分けておかないと、“私が全部駄目だった”って自分で自分を潰すでしょ」

 

 ミラは、黙って頷いた。

 

 もう、エリンにそんなところまで見抜かれるのにも慣れている。

 慣れているけれど、やっぱり毎回少しだけ驚く。

 

「エリンさんって……」

 

「なに?」

 

「本当に、すごいです」

 

 ぽつりと言う。

 

 エリンは少しだけ苦笑した。

 

「急にどうしたの」

 

「だって……」

 

 ミラは、グラスの縁を指でなぞりながら言った。

 

「私だったら、今日みたいな人を見たら、嫌いで終わると思います。でもエリンさんは、“もったいない”って言える。しかも、ちゃんと基礎が足りないところまで見えてる」

 

「見えちゃったから仕方ないのよ」

 

 エリンは平然としている。

 

「ホーネット、たしかに視界は広いの。何が起きてるか拾う速さもあるし、ああいう意味では才能型でしょうね。でも、その才能に身体がついてきてない」

 

「身体……」

 

「ええ」

 

 エリンは頷く。

 

「歩き方、姿勢、重心、距離感、優先順位の取り方?見えてるものをどう運用に落とすか、その土台が弱い。だからあのままだと、本人は“全部見えてる”つもりでも、実際には散るのよ」

 

 ミラは、その分析の細かさに半ば呆れ、半ば感心する。

 

「私はもう、嫌いって感情でいっぱいだったのに……」

 

「嫌いだったわよ、私も」

 

 エリンがさらりと言う。

 

「ただ、それと観察は別」

 

 また、その言い方があまりにもエリンらしくて、ミラは少しだけ笑ってしまう。

 

「やっぱり、エリンさんはすごいです」

 

「そう?」

 

「はい」

 

 ミラは、今度ははっきりと言った。

 

「チーフパーサーだなって、改めて思いました」

 

 エリンは、ほんの少しだけ目を細めた。

 

「ありがとう」

「でも、すごいかどうかはともかく」

 

 そこで、少しだけ声の温度を変える。

 

「ミラも、ちゃんと副パーサーよ」

 

 ミラは目を上げる。

 

「今日みたいに怒ったからって、それで全部が失格になるわけじゃない」

 

「でも……」

 

「でもじゃない」

 

 エリンは今度こそ少しだけ笑った。

 

「あなた、後輩を見て、流れを見て、便の中の空気を拾えてる。教育便でも、慰安旅行でも、あなたがいて助かったこと、何回あったと思ってるの」

 

 ミラは、言い返せなかった。

 

「副パーサーって、“いつも冷静で何も感じない人”のことじゃないのよ」

 

 エリンは続ける。

 

「ちゃんと感じて、その上で戻ってこられる人のこと。今日あなたは、一回崩れた。でも、それで終わりじゃないでしょう?」

 

 ミラは、ゆっくりと息を吸った。

 

 戻ってこられる人。

 その言葉が、胸の奥へ静かに落ちる。

 

「……戻って、いいんですか」

 

 小さく問う。

 

「当たり前でしょ」

 

 エリンが即答する。

 

「何のために私が待ってたと思ってるの」

 

「え……」

 

「真っ暗なフロアで、一人で鍵閉めるの嫌だったから?」

 

 エリンが少し意地悪く言う。

 

 ミラは、つい笑いそうになる。

 

「違いますよね……」

 

「違うわね」

 

 エリンも笑った。

 

「あなたが起きて、出てきた時、一番最初に見る顔が“誰もいない真っ暗なフロア”じゃなくてよかったと思ってるから」

 

 その言葉に、ミラの胸がぎゅっと締まる。

 

「……待っててくれたんですね」

 

「ええ」

 

 あまりにも自然に頷く。

 

「だって、あのまま一人で帰したくなかったもの」

 

 ミラは、また泣きそうになった。

 でも今度の涙は、さっきみたいに苦しいだけのものではない。

 

「ありがとうございます……」

 

 やっとそれだけ言う。

 

「うん」

 

 エリンは、だし巻きの最後の一切れをミラの皿へ置いた。

 

「もう一個食べて、泣いた後って、お腹空くから」

 

「そういうものですか?」

 

「そういうものよ」

 

 ミラは、小さく笑った。

 

 少しずつ。

 ほんの少しずつ。

 身体の中に、温度が戻ってくるような気がした。

 

 

 そのあとも、二人はゆっくりと話した。

 

 ランのこと。

 今日の後輩達のこと。

 明日、ミラがどうするか。

 ホーネットに対して謝る必要はないこと。

 ただし、ランにはちゃんと礼を言うこと。

 心配した後輩達には、変に強がらず「驚かせてごめん」とだけ言えばいいこと。

 

「全部説明しようとしなくていいわよ」

 

 エリンが言う。

 

「言葉に出来るならする。出来ないなら無理にしない。それでも、顔を見せれば皆んな分かるから」

 

「はい……」

 

「あと」

 

 エリンはレモンサワーの残りを飲みながら続けた。

 

「今日はちゃんと眠りなさい」

 

「それは……そうします」

 

「ほんとに?」

 

「ほんとにです」

 

「怪しいわね」

 

「ちゃんと寝ます」

 

「よろしい」

 

 そのやり取りが、もう普段の二人に近かった。

 

 もちろん、胸の奥の痛みが全部なくなったわけではない。

 明日になれば、また今日のことを思い出すだろう。

 ホーネットの言葉が完全に消えることもない。

 でも、ミラは少なくとも“自分は副パーサー失格だ”という穴の底からは、少しだけ這い上がれていた。

 

 エリンが、それを見逃すわけがない。

 

「ミラ」

 

「はい」

 

「明日、また立ちなさい」

 

 短い言葉だった。

 

「ちゃんと、いつも通りに」

 

 ミラは、その言葉を真正面から受け取る。

 

「……はい」

 

 それしか言えなかった。

 でも、その“はい”には、さっきまでとは違う力があった。

 

 逃げない。

 戻る。

 ちゃんと立つ。

 

 そういう決意が、少しだけ戻ってきていた。

 

 エリンは、そんなミラを見て、ほんの少しだけ満足そうに笑った。

 

「よし」

 

「何がですか?」

 

「顔が戻ってきた」

 

「え?」

 

「さっきまで、ひどい顔してたもの」

 

「う……」

 

 ミラが思わず頬を押さえると、エリンが吹き出す。

 

「泣いた後なんだから仕方ないでしょ」

 

「それでも言わないでくださいよ……」

 

「大丈夫よ」

 

 エリンは悪戯っぽく笑った。

 

「今は、ちゃんといつものミラに戻ってる」

 

 その言葉が、妙に嬉しかった。

 

 ミラは、少し照れたように目を伏せて、それから本当に久しぶりに、力の抜けた笑みを浮かべた。

 

「……ありがとうございます、エリンさん」

 

「うん」

 

「今日、連れてきてくれて……よかったです」

 

 エリンは、少しだけ目を細める。

 

「私もよ」

 

 その答えが、また優しかった。

 

 店の外では、火星の夜がまだ明るい灯りを散らしている。

 けれど、ミラの中にあった重くて冷たい塊は、少しだけ形を変えていた。

 

 消えたわけではない。

 でも、もう抱えて潰されるだけのものではない。

 

 怒ってしまった。

 泣いてしまった。

 でも、それでも戻っていい。

 

 そう言ってくれる人がいる。

 待っていてくれる人がいる。

 それだけで、人はもう少しだけ前を向けるのだと、ミラは改めて思った。

 

 そして、その前を向く先には、きっとまた明日のフロアがある。

 ランがいて、クミコ達がいて、エリンがいる。

 

 だから、大丈夫だとまではまだ言えなくても。

 もう一回、立とうとは思えた。

 

 

ーーーー

 

 

 

 次の日の朝、宇宙事業部のフロアはいつもより少しだけ静かだった。

 

 それは、人が少ないからではない。

 むしろ、いつも通りの人数がいた。

 ランも、クミコも、アズサも、サリーも、ハズキも、マユも、ミドリも、ユウコも、ナツキも、他の乗務員達も、それぞれの席につき、朝の準備を進めている。

 

 けれど、皆がどこかで“昨日のこと”を胸の片隅へ置いたままなのだ。

 

 ホーネットの暴言。

 ミラの爆発。

 ロッカー室へ飛び込んでいったミラ。

 

 表立って誰もそこへ触れていないだけで、空気の下にはまだ薄く緊張が残っていた。

 

 そんな中で、フロアの扉が開いた。

 

 入ってきたのはミラだった。

 

 いつも通りの制服姿。

 髪もきちんと整っている。

 顔色も、昨日ロッカー室へ飛び込んだ時のような真っ赤さや涙の跡はもうない。

 ただ、目元だけがわずかに重そうだった。

 きっと、昨夜ちゃんと眠れたとしても、完全に何もなかった顔にはならないのだろう。

 

 それでも、ミラはまっすぐに歩いてきた。

 

 エリンは既に自席にいて、書類に目を通していた。

 ミラが来たことに気づくと、ほんの少しだけ顔を上げる。

 その視線は穏やかで、でも“ちゃんと自分で立ちなさい”と言っているようでもあった。

 

 ミラは一度だけ息を吸って、フロアの中央で立ち止まった。

 

「皆」

 

 声をかける。

 

 その一言で、フロアのあちこちから視線が集まった。

 

 クミコがすぐに椅子から半分立ち上がり、アズサも振り返る。

 ハズキとミドリは、少し緊張した顔でミラを見た。

 マユとサリーも手を止める。

 ユウコとナツキは腕を組んだまま、黙ってその続きを待っていた。

 ランは、すでにミラを見ていた。

 何も言わない。

 でも、ちゃんとそこにいる。

 

 ミラは、皆の顔を一人ずつ見た。

 

「昨日は」

 

 言葉の入りで、ほんの少しだけ喉がつかえる。

 でも、止まらない。

 

「昨日は、取り乱してごめん」

 

 そのあと、深く頭を下げた。

 

 フロアが静まり返る。

 ミラの髪が肩から流れ、そのまましばらく頭を上げない。

 

「副パーサーなのに、感情的になって、皆の前で怒鳴って、空気も乱して、心配もかけたし、びっくりさせたと思う」

 

 ミラの声は落ち着いていた。

 昨日のような激情はない。

 けれど、その落ち着きの中に、ちゃんと自分で言葉を選んできた重さがあった。

 

「本当に、ごめん」

 

 もう一度だけそう言って、ようやく頭を上げる。

 

 数秒の沈黙。

 

 そして、その沈黙を最初に破ったのは、意外にもユウコだった。

 

「いや」

 

 椅子の背にもたれたまま、少しだけ顎を上げて言う。

 

「よく言ってくれましたよ」

 

 ミラが目を瞬く。

 

「え……?」

 

「そうですよ」

 

 今度はナツキが続く。

 

「むしろ、あの場で誰かがあれ言わないと、ずっと気持ち悪かったし」

 

「ほんとですよ」

 

 アズサが勢いよく頷く。

 

「私、めちゃくちゃ腹立ってました!言い返したかったですもん!」

 

「私もです」

 

 クミコがすぐに言う。

 

「正直、あの人の言い方、許せませんでした。ミラさんが言ってくれて、ちょっと救われたところあります」

 

「えっ、クミコも?」

 

 アズサが目を丸くする。

 

「そりゃそうでしょ」

 

 クミコが真顔で返す。

 

「だって、あんな言い方ないもん」

 

「……まあ、方法は良くなかったかもしれないですけど」

 

 マユが少しだけ肩をすくめる。

 

「怒ること自体は、全然おかしくないと思います」

 

「ええ」

 

 サリーも静かに頷いた。

 

「私も、止めるべきとは思いましたけど、怒ったこと自体を悪いとは思いません」

 

「私もです」

 

 ハズキが慌てて言う。

 

「びっくりはしましたけど……でも、ミラさんが怒るの、すごく分かりました」

 

 ミドリも、それに続いて小さく頷いた。

 

「私、昨日ちょっとショックで……でもミラさんが悪いなんて思えなかったです」

 

 ミラは、しばらく何も言えなかった。

 謝ったら、せめて“次から気をつけて”ぐらいは返ってくると思っていた。

 責められないとしても、少しは気まずい空気になると思っていた。

 

 でも、返ってきたのは“よく言った”だった。

 

「……皆」

 

 ミラの声が少しだけ揺れる。

 

「でも、私……本当に冷静じゃなかったし」

 

「冷静じゃない時ぐらいありますよ」

 

 ユウコが、あっさりと言う。

 

「いつも冷静な人が一回切れたら、逆に相当だなって分かるじゃないですか」

 

「それはある」

 

 ナツキが頷く。

 

「むしろ、ミラさんがあそこまで怒るってことは、それだけ酷かったって、あの場にいた皆が分かったと思う」

 

「はい!」

 

 アズサがまた勢いよく返事をする。

 

「ほんとにそうです!」

 

 クミコも、小さく笑った。

 

「ミラさん、普段全然怒らないですし」

 

「怒らないっていうか、困った顔で笑って流す方だよね」

 

 ハズキが言う。

 

「それが爆発したんだもん。そりゃ、相手が悪いってなりますよ」

 

 その言い方に、フロアの空気が少しだけ和らいだ。

 

 ミラは、何か言おうとして、でもすぐには言葉が出なかった。

 

 そんなミラへ、ようやくランが口を開いた。

 

「ミラ」

 

「うん……」

 

「おかえり」

 

 短い一言だった。

 でも、それは昨日の全部を越えて、今日またここへ立ったミラをちゃんと迎える言葉だった。

 

 ミラの目元が、また少しだけ熱くなる。

 

「……ただいま」

 

 ようやくそれだけ返すと、フロアのあちこちで小さな笑みがこぼれた。

 

 その様子を、エリンは自席から静かに見ていた。

 無理に口を挟まない。

 今は、皆とミラの間で交わされる言葉の方が大事だと分かっているからだ。

 

 少ししてから、エリンがぱたんと資料を閉じた。

 

「それじゃあ」

 

 その声で、自然と皆の意識が戻る。

 

「そろそろシミュレーションを始めようか」

 

「はい!」

 

 今度の返事は、昨日よりずっとまっすぐだった。

 

 

 シミュレーションルームに入ると、いつも通りの空気を取り戻すための準備が始まる。

 

 座席位置の確認。

 資料の配布。

 役割分担。

 緊急時対応の想定。

 エリンが前に立ち、全体へ向けて今日の流れを説明し始める。

 

「今日は、昨日の途中で切れた流れを一度整理してからやるわ。歩き方と姿勢は短めに確認して、乗り入れと荷物収納、それから体調不良対応まで通す。昨日のことは昨日のこととして、今日はまたちゃんと“今日の訓練”に戻りましょう」

 

「はい」

 

 全員が頷く。

 

 その時だった。

 

 シミュレーションルームの扉が、こんこんと控えめに叩かれた。

 

 皆が一斉にそちらを見る。

 

「どうぞ」

 

 エリンが言うと、扉が開いた。

 

 入ってきたのは二人だった。

 

 一人はシルヴィア。

 そして、もう一人は――ガーネットだった。

 

 その姿を見た瞬間、フロアの空気が一気に和らぐ。

 

「ガーネットさん!」

「お久しぶりです!」

「わぁ、来てくれたんですね!」

 

 クミコ、アズサ、ハズキ、ミドリがすぐに声を上げる。

 ミラもランも、表情をわずかにやわらげた。

 

 ガーネットは、相変わらずきりっとした雰囲気を持つ女性だった。

 だが、その表情は今日は少しだけ硬い。

 

「久しぶりね」

 

 エリンが言う。

 

「はい」

 

 ガーネットが頷く。

 

「急に来てすみません」

 

 その横で、シルヴィアは入ってきた時からずっと申し訳なさそうな顔をしていた。

 そして、ルームへ入るなり深く頭を下げる。

 

「昨日は、本当に申し訳ありませんでした」

 

 その声は真剣だった。

 もう昨日のような“ホーネットを追いかける側”の顔ではない。

 自分もまた当事者の一人として、ここへ来ているのだという覚悟がある。

 

「でも悪いのはホーネットさんでしょ」

「そうですよ」

「シルヴィアさんが謝ることじゃ……」

 

 アズサやハズキがすぐに言う。

 クミコも困った顔で頷いた。

 

「そうよ、シルヴィア」

 

 エリンも静かに言う。

 

「貴方が全部被る必要はないわ」

 

「それでもです」

 

 シルヴィアは頭を上げて、はっきりと言った。

 

「私、止めきれなかったので」

 

 その真面目さが、逆にシルヴィアらしかった。

 

 そこで、ガーネットが一歩前へ出た。

 

「エリンさん」

 

「はい」

 

「そして皆さん」

 

 ガーネットは、真っ直ぐに全員を見た。

 

「妹がご迷惑をお掛けしました」

 

 その一言に、ルームの中が一瞬だけ静まり返る。

 

「……妹?」

 

 ミドリが、きょとんとする。

 

「え?」

「妹って……」

「まさか……」

 

 クミコ、アズサ、ハズキ、マユ、サリー、ユウコ、ナツキ、皆の視線が一斉にシルヴィアではなく、ガーネットへ向かう。

 

 ガーネットは深く息を吐いた。

 

「ホーネット」

 

 その呼び方は、さっきまでのガーネットとは少し違っていた。

 強く、容赦がない。

 姉としての声だ。

 

「来なさい」

 

 扉の外から、少し間を置いて、気まずそうな気配が近づいてくる。

 

 そして、ほんの少しだけ開いていた扉の隙間から、ホーネットが顔を覗かせた。

 

 昨日の勢いは、さすがになかった。

 バツが悪そうに目を逸らしている。

 ツインテールも今日はどこか元気がなく見える。

 

「ちゃんと中へ入って」

 

 ガーネットが言う。

 

 ホーネットは、しぶしぶというより観念したように、中へ入ってきた。

 

 クミコ達は、昨日のことを思い出して少しだけ緊張する。

 ミラも、表情こそ穏やかだが目だけは静かにホーネットを見ていた。

 ランは、その横へ自然に立っている。

 

「ちゃんと謝れ」

 

 ガーネットが低く言う。

 

「……」

 

 ホーネットが口を結ぶ。

 

「ホーネット」

 

 今度の声には、有無を言わせない力があった。

 

 ようやく、ホーネットは小さく息を吸った。

 

「……すみませんでした」

 

 声は小さい。

 でも、昨日みたいな棘はなかった。

 

 ルームの空気はまだ固い。

 たったそれだけで全部が帳消しになるわけではない。

 それはホーネット自身も分かっているのだろう。

 

 ガーネットは、そんな妹の様子を見て、深くため息をついた。

 

「本当に……」

 

 呆れと疲れと、でもどこかで妹を見捨てきれない感情が混ざったため息だった。

 

「エリンさんに憧れているからって、いきなり勝負を仕掛けるなんて、どこの馬鹿な妹なのかしら」

 

 その言葉に、皆が一斉に「え?」という顔をした。

 

「憧れて……?」

 

 クミコが思わず口にする。

 

 アズサも目を丸くした。

 

「ホーネットさんが、エリンさんに?」

 

 ホーネットの顔が、見る見るうちに赤くなる。

 

「ちょ、ちょっとガーネット!余計なこと言わないで!」

 

「余計じゃないわ」

 

 ガーネットは容赦ない。

 

「どうせ、昔からエリンさんの話を聞いて、勝手に張り合って、勝手に意識して、勝手に拗らせてたんでしょう」

 

「違うし!」

 

「違わないわよ」

 

 シルヴィアが横から即座に言う。

 

「ホーネット、ずっとエリンさんの名前気にしてたじゃない。“本当にそんなにすごいの?”とか、“私の方が見えてるし”とか、会う前から張り合ってたでしょう」

 

「シルヴィアまで!?」

 

 ホーネットが本気で慌てる。

 だが、もう止まらない。

 

 ミドリが、小さく呟く。

 

「なんか……思ってたより子どもっぽい……」

 

 ユウコが腕を組んだまま、ぼそっと言う。

 

「だいぶ面倒な憧れ方してるじゃん」

 

 ナツキも肩をすくめる。

 

「不器用っていうか、こじらせすぎでしょ」

 

 エリンは、そのやり取りを見ながら、少しだけ苦笑していた。

 

「そういうことだったの?」

 

「そういうことです」

 

 ガーネットが、きっぱりと言う。

 

「素直じゃないんです。この子」

 

 その場の空気が、昨日とは違う意味で少しずつほどけ始める。

 もちろん、全部が笑って済むわけではない。

 でも、ホーネットが単なる悪意だけの人間ではないことは、今のやり取りで少しだけ見えてきていた。

 

 そこで、シルヴィアが改めて前へ出た。

 

「それで」

 

 深く息を吸う。

 

「エリンさん。私とホーネットは、今日、スペンサーを辞めてきました」

 

 今度こそ、シミュレーションルーム全体が本気でざわめいた。

 

「え!?」

「辞めた!?」

「今日!?」

「そんな急に!?」

 

 クミコとアズサが同時に声を上げる。

 ハズキは口を開けたまま固まり、ミドリも目を見開いていた。

 ユウコとナツキですら、さすがに驚きを隠せない。

 

 エリンだけが、一拍置いてから静かに尋ねる。

 

「……いいの?」

 

「はい」

 

 シルヴィアは迷いなく頷いた。

 

「もう一度、エリンさんの下で学びたいです。スペースホープで働かせてください」

 

 その声は、昨日の謝罪よりも、さらに真剣だった。

 

「ホーネットも?」

 

 エリンが視線を向ける。

 

 ホーネットは、一瞬だけ目を逸らした。

 それから、悔しそうな顔のまま、しかしはっきりと答える。

 

「……はい」

 

「お願いします、でしょう」

 

 ガーネットがすかさず横から刺す。

 

 ホーネットの顔がさらに歪む。

 でも、ここで引いたら本当に終わりだと分かっているのだろう。

 

「……お願いします」

 

 そう言って、ようやく頭を下げた。

 

 その光景に、皆の顔へ一斉に困惑が浮かぶ。

 

 昨日、自分達を腰抜けだのコネだのと罵った相手が。

 今日、自分達の会社へ入りたいと言っている。

 簡単に飲み込める話ではない。

 

 シルヴィアは、その空気を読んだうえで、さらに言葉を足した。

 

「こう見えて、ガーネットは広告塔としてスペンサーでチーフパーサーになっただけなんです」

 

「ちょっと」

 

 ガーネットが眉を上げる。

 

 だが、シルヴィアは続けた。

 

「だから、スペンサーでもホーネットは浮いてて」

 

「そんなことない!」

 

 ホーネットが即座に言い返す。

 

「そんなことある」

 

 シルヴィアも即答する。

 

「ホーネットは、見えるものが多い分、ずっと独走してた。でも独走してるだけじゃ、現場はついてこないんです。私も、何度もそう言った」

 

 ホーネットは悔しそうに唇を噛む。

 反論したいのに、全否定は出来ない顔だ。

 

「ホーネットがしてきたことは、許されることじゃないです」

 

 シルヴィアの声が低くなる。

 

「昨日のこと、私は簡単に“なかったことにしてください”なんて言うつもりはありません。……でも」

 

 そう言って、深く頭を下げた。

 

「どうか、お願いします」

 

 その隣で、ホーネットもぎこちなく、しかしちゃんと頭を下げた。

 

「……お願いします」

 

 その姿に、ルームの中の全員が、どう反応していいか分からなかった。

 

 怒っている気持ちは消えていない。

 昨日の言葉は、簡単に流せるものではない。

 でも、ここまで来られると、ただ追い返せばいいとも言い切れない。

 

 その重たくて迷う空気の中で、一歩前へ出たのはミラだった。

 

 誰もが、思わずそちらを見る。

 

 ミラは、昨日のように怒ってはいない。

 表情はむしろ静かだった。

 ただ、まっすぐホーネットを見ていた。

 

「スペースホープは」

 

 ゆっくりと言う。

 

「厳しいけど、いいの?」

 

 ホーネットが、少しだけ目を瞬かせる。

 まさかミラから最初に話しかけられると思っていなかったのだろう。

 

「……えっと」

 

 言葉が詰まる。

 

 ミラは、そこでさらに一歩だけ近づいた。

 

「あなたに耐えられるかしら」

 

 その言葉は、昨日の怒りとは違う。

 静かで、でも確実に試している声だった。

 

 ホーネットは、一瞬だけ唇を噛む。

 さっきまでの勢いなら、ここで「余裕よ」とでも返していたかもしれない。

 でも今のホーネットは、ちゃんと考えてから答えた。

 

「……大丈夫」

 

 その答えは、強がり半分、意地半分、でも本気もちゃんと混ざっていた。

 

 ミラは、その顔をしばらく見つめていた。

 

 昨日、自分はこの人に本気で怒った。

 許せないと思った。

 今でも、許せたわけではない。

 

 それでも。

 こうして頭を下げて、ここへ来て、厳しいと言われてもなお「大丈夫」と答えたその意地だけは、嫌いではないとも思った。

 

 だから、ミラはふっと口元を緩めた。

 

「ようこそ、スペースホープへ」

 

 その一言に、ルームの空気が大きく揺れた。

 

 ホーネットが、本当に驚いた顔をする。

 

「……え?」

 

「ただし」

 

 ミラはすぐに続ける。

 

「昨日みたいなこと、もう一回やったら容赦しない」

 

 その言い方は静かだったが、妙に迫力があった。

 

「……はい」

 

 ホーネットが、小さく返す。

 

 そこで、エリンは嬉しそうに頷いた。

 

 その頷きは、ミラへ向けたものでもあり、場全体へ向けたものでもあった。

 

「じゃあ」

 

 エリンが前へ出る。

 

「細かい話はこれからだけど。少なくとも、ここに来た以上は外の人じゃないわ。ホーネット、シルヴィア。入るなら、最初から容赦しないわよ」

 

 その言葉に、ホーネットは思わず背筋を伸ばした。

 

「……はい」

 

「もっと元気よく」

 

 ガーネットが横から刺す。

 

 ホーネットが睨みかけるが、すぐに諦めて言い直す。

 

「はい!」

 

 その返事に、アズサが小さく吹き出した。

 クミコも堪えきれずに笑い、ハズキが「なんか急に後輩みたい……」と呟く。

 ミドリはまだ状況についていけていない顔をしながらも、どこかで少し嬉しそうだった。

 

 シルヴィアは、やっと少しだけ肩の力を抜いた。

 ガーネットもまた、小さく息を吐く。

 

「本当に、ありがとうございます」

 

 ガーネットがエリンへ頭を下げる。

 

「いいのよ」

 

 エリンが苦笑する。

 

「でも、ここまで来て追い返すのも違うでしょう?」

 

「……そうですね」

 

 ガーネットがわずかに笑う。

 

「ただ」

 

 エリンは、そこでホーネットを見た。

 

「貴方は本当に、基礎からやり直しよ」

 

「えっ」

 

「歩き方、姿勢、距離感、優先順位、全部」

 

「全部!?」

 

 ホーネットが思わず声を上げると、ミラとランがほとんど同時に小さく笑った。

 昨日までなら、その笑いには棘があったかもしれない。

 でも今は少し違う。

 

「頑張って」

 

 ランが言う。

 

「スペースホープ、そういうところ容赦ないから」

 

「……知ってる」

 

 ホーネットがぼそっと返すと、ユウコが腕を組んだまま口元を緩めた。

 

「知ってるなら話早いじゃん」

 

「でも、ミラさんが受け入れるとは思わなかった」

 

 ナツキが素直に言う。

 

 ミラは、その言葉に少しだけ照れたように目を伏せた。

 

「私も、こんなふうになるとは思ってなかった」

 

「じゃあ、何でですか?」

 

 アズサが尋ねる。

 

 ミラは一瞬だけホーネットを見る。

 それから、小さく答えた。

 

「昨日、あれだけ言い返したから」

 

「え?」

 

 クミコが首を傾げる。

 

「言いたいこと、ちゃんとぶつけたから。だから、もう次に進んでもいいかなって思ったの」

 

 その言葉に、エリンがまた静かに頷く。

 

「いい考えね」

 

 そう言って、全体を見渡す。

 

「それじゃあ、今日は予定変更。シミュレーションはもちろんやるけど、その前に二人の立ち位置とレベル確認も入れるわ」

 

「はい!」

 

 クミコ達が返事をする。

 今度の返事は、朝よりもずっと賑やかだった。

 

「ホーネット、シルヴィア。まずは並んで」

 

「今から!?」

 

 ホーネットが目を丸くする。

 

「今からよ」

 

 エリンがにこりと笑う。

 

「スペースホープの一員なんでしょう?」

 

 その笑顔に、ホーネットが一瞬だけ言葉を失う。

 けれどその隣で、シルヴィアが「はい」とすぐに頷いた。

 

「よろしくお願いします、エリンさん」

 

「こちらこそ」

 

 エリンが返す。

 

 シミュレーションルームの空気は、昨日までとはまるで違うものに変わっていた。

 

 怒りがあった。

 痛みがあった。

 でも、それを越えた先で、また新しい流れが動き始めている。

 

 ミラは、その中心に立ちながら、自分の中にまだ完全には消えていない痛みがあることも知っていた。

 けれど、それでも一歩前へ出て「ようこそ」と言えた自分を、少しだけ誇らしくも思っていた。

 

 エリンは、そんなミラの横顔を見て、ほんの少しだけ目を細める。

 

 昨日、ロッカー室で泣き崩れた子が。

 今日、またここで、新しい誰かを迎えている。

 

 それだけで十分だった。

 

 スペースホープのシミュレーションルームには、再び人の声と、訓練前の張りつめた熱が戻っていた。

 ただし今度は、その列の中に、ツインテールの少し不機嫌そうな新入りと、どこかほっとした顔の元同僚まで加わっていた。

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