サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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A級ライセンス

 カオルはシミュレーション用のヘルメットを外し、ゆっくりと息を吐いた。

 

 試験用ブースの中は、さっきまでの張りつめた空気がまだ残っている。

 操縦桿から手を離した指先には、わずかに力の名残があった。

 額には汗がにじんでいる。けれど、呼吸は乱れていない。

 

 自分にとって、初めてのパイロットのライセンス試験だった。

 

 宇宙連邦連盟の認定試験。

 ここを越えなければ、職業パイロットとしての道は正式には開かれない。

 その意味で、今日という日はカオルにとって間違いなく大きな日だった。

 

 試験自体は、冷静に言えばそこまで難しくはなかった。

 

 姿勢制御。

 短距離航路での進入。

 予期せぬ機器異常への対応。

 通信と、最低限の緊急指示。

 全部、やるべきことをやっただけだ。手が止まる瞬間はなかったし、頭が真っ白になることもなかった。

 

 手応えは、ある。

 

 だが、カオルの中には、終わった直後から別の感情も渦巻いていた。

 

 A級は取れる。

 その自信はあった。

 

 問題は、その先だ。

 

「……」

 

 ヘルメットを横へ置いて、カオルは少しだけ天井を見上げる。

 

 S級。

 

 リュウジと同じ階級。

 あの男と肩を並べるには、そこへ届かなければ意味がないと、カオルはどこかで思っていた。

 

 もちろん、現実的には今回の試験でいきなりS級へ届くとは考えていない。

 訓練歴、搭乗時間、実務経験。

 どれを取っても、今の自分が足りていないことくらい分かっている。

 

 それでも。

 

 もし、ひとつでも試験官が目を見張るようなものを見せられたら。

 もし、“将来的にS級候補”とすぐに印象づけられるくらいの飛びが出来たら。

 そんな期待が、ゼロだったわけじゃない。

 

「……甘いか」

 

 誰にも聞こえない声で呟く。

 

 それが分かっているからこそ、少しだけ悔しかった。

 

 少し、ではないかもしれない。

 

 ブースの外に出ると、他の受験者達もそれぞれの顔で結果を待っていた。

 緊張している者。既に肩を落としている者。逆にやり切った顔をしている者。

 カオルは、そのどれにも見えない顔で、静かに壁際の椅子へ腰を下ろした。

 

 数分後、試験官に名前を呼ばれる。

 

「受験番号A-17、カオルさん」

 

 立ち上がる。

 

「結果通知を行います。こちらへどうぞ」

 

「はい」

 

 端末卓の前に立つと、試験官が簡潔に講評を始めた。

 

「操縦技術は安定しています。緊急時対応も落ち着いていて、過剰な修正舵が少ないのは評価できます」

「一方で、通信がやや簡潔すぎる。最低限は満たしていますが、実務ではもう少し相手へ分かる形で伝える必要があります」

 

「……はい」

 

 それは自覚があった。

 必要なことは言う。必要でないことは言わない。

 カオルの性格そのものだ。

 

 女性試験官が続ける。

 

「総合的に見て、A級ライセンスの付与は妥当と判断します」

「おめでとうございます」

 

 A級。

 

 分かっていた。

 そうなるだろうとは思っていた。

 

 けれど、耳で聞いた瞬間、胸の中に最初に来たのは安堵ではなかった。

 

 S級ではない。

 

 当たり前だ。

 当たり前なのに、心のどこかでほんの少しだけ期待していた自分がいたせいで、その現実が妙に重く感じられた。

 

「……ありがとうございます」

 

 短く礼を言う。

 

 試験官達は次の説明へ移る。

 実務登録、推薦企業への情報開示、就職支援プログラム。

 必要な話を聞き流しながら、カオルは自分の胸の中にある悔しさへ、ようやくはっきり気づいていた。

 

 A級は十分立派だ。

 初回受験ならなおさらだ。

 

 それでも、嬉しいより先に悔しいと思う。

 それが、自分でも少し嫌だった。

 

 会場の外へ出て、静かな通路で一人になると、カオルは端末を取り出した。

 

 まず送ったのは、短い一文だった。

 

 ――A級取った。

 

 送信先はリュウジ。

 

 数秒後、返ってきたのはやはり短い返事だ。

 

 ――そうか。おめでとう。

 

 その簡潔さが、今は少しだけ腹立たしかった。

 

 カオルは、迷った末にさらに打つ。

 

 ――Sは無理だった。

 

 少しだけ間があって、返事が来る。

 

 ――最初から取れると思ってたのか。

 

 その文面に、カオルは眉をしかめる。

 

 ――思ってない。

 

 すぐに送る。

 

 数秒後。

 

 ――なら今はAで十分だろ。

 ――悔しいなら、次を目指せ。

 

「……」

 

 何でもない文面だ。

 慰めてもいない。優しくもない。

 だが、リュウジらしい。

 

 カオルは、小さく息を吐いた。

 

「言われなくても」

 

 端末を握ったまま、そう呟く。

 

 悔しいなら次を目指せ。

 その通りだ。

 

 そこから数日の間、カオルは就職先を探すことになった。

 

 

 A級ライセンスを取得したカオルのもとには、想像していた以上に色々な企業から声がかかった。

 

 宇宙輸送系。

 旅客運航系。

 資源運搬。

 研究補助航路。

 民間シャトル運用。

 訓練校付きの企業もあれば、危険区域輸送を専門とするところもあった。

 

 カオルは片っ端から話を聞いた。

 

 業務の内容。

 航路の種類。

 会社の概要。

 訓練制度。

 将来的な昇格。

 どこもそれなりに魅力はある。

 だが、“ここだ”と思わせるものは、どこにもなかった。

 

 正直に言えば、どこでもよかった。

 

 飛べるなら。

 鍛えられるなら。

 S級へ近づけるなら。

 

 そんな気持ちで説明会を何社か回っていたある日、端末が鳴る。

 

 表示された名前を見て、カオルは少しだけ意外そうに目を細めた。

 

「ハワード……」

 

 通話を取る。

 

「もしもし」

 

『カオル! 僕だ!』

 

「見れば分かる」

 

『相変わらず冷たいなあ』

 

「何だ」

 

『本題に入るよ。うちに来ないか?』

 

「うち?」

 

『ハワード財閥の旅行会社さ』

 

 あまりにも直接的だった。

 

 カオルは一瞬だけ黙る。

 

「何で俺だ」

 

『A級ライセンス取ったんだろ?』

 

「そうだが」

 

『なら理由になるじゃないか』

 

「雑だな」

 

『雑じゃないよ。ちゃんと考えてる』

 

 そこでハワードの声色が少しだけ変わる。

 ふざけているようで、本気の時の声音だ。

 

『今うち、けっこう面白い時期なんだ。教育便もあるし、再建の流れもあるし、人も育ってきてる。それに、知ってる顔がいた方が、お前もやりやすいだろう?』

 

「知ってる顔?」

 

『エリンさん、だよ』

 

「……」

 

『もちろん、他も見ていい。でも、どこでもいいって思ってるなら、一回ちゃんと見てほしい。僕としては、お前に来てほしいんだ』

 

 カオルは少しだけ視線を落とした。

 

 どこでもいい。

 それは本音だ。

 だが、どうせ選ぶなら、多少でも知っている名前がある場所の方がいいのかもしれない。

 

 それに、ハワード財閥の旅行会社なら、運航規模も訓練環境も悪くないだろう。

 S級にはまだ遠い。

 なら、遠いなりに上を目指せる場所へ行けばいい。

 

「……分かった」

 

『え?』

 

「そっちにする」

 

『早っ!?』

 

「どこでもよかった」

 

『雑すぎるだろう! でも嬉しい!』

 

 ハワードの笑い声が響く。

 

『じゃあ決まりだ! 手続き回すよ!』

 

 通話を切ったあとも、カオルは少しの間、端末を見下ろいていた。

 

 決めた。

 ハワード財閥の旅行会社へ行く。

 

 理由は、派手ではない。

 だが、それで十分だと思った。

 

 

 初出勤の日。

 

 ハワード財閥の旅行会社に到着したカオルは、まず部署の静けさに少し驚いた。

 

 もっと騒がしい場所だと思っていた。

 財閥の看板。旅行会社。旅客運航。

 勝手なイメージでは、華やかで、声が飛び交っていて、人の出入りも多く、賑やかな空間を想像していた。

 

 だが、実際に配属となった部署は、想像よりずっと落ち着いていた。

 

 もちろん、人はいる。

 けれど無駄な音が少ない。

 それぞれが、自分の作業と周囲の動きをきちんと分けているような静けさだ。

 

「……」

 

 受付を済ませ、案内された先のフロアを見渡す。

 モニター、デスク、シミュレーション予定表、ブリーフィング用の部屋。

 整っている。

 だが、息苦しい整頓ではない。

 

「カオルさん?」

 

 声がして振り返る。

 

 そこにいたのは、見覚えのない女性だった。

 すらりとした立ち姿。制服の着こなしも綺麗だ。

 年はカオルとそう離れていないように見える。

 だが、雰囲気に落ち着きがある。

 

「はい」

 

 カオルは反射的に敬語で返す。

 

 女性はにこっと笑った。

 

「カイエよ。今日、案内役を頼まれてる」

 

「……お願いします」

 

「よろしく」

 

 その返しが自然体だった。

 

 カオルは少しだけ意外に思う。

 もっと事務的な案内になるかと思っていた。

 

「最初に言っとくけど」

 

 カイエが歩き出しながら言う。

 

「敬語じゃなくていいよ」

 

「……え?」

 

「同期ってわけじゃないけど、年もそんなに変わらないし、ずっと敬語だと逆に疲れるでしょ」

 

「いや、でも」

 

「でもじゃない。タメ口でいい」

 

 言い切られて、カオルは少しだけ言葉に困る。

 

「……分かった」

 

「うん、それでいい」

 

 カイエは満足そうに笑った。

 

 そのままフロアを歩き始める。

 

「ここが乗務員と運航の共有フロア。教育便の準備とか、通常便のブリーフィングとか、報告書まとめとか、そういうのはだいたいここ」

 

「静かだな」

 

 思わず本音が出る。

 

「そう?」

 

「もっと賑やかだと思ってた」

 

「まあ、朝だからね。便の前後とか、シミュレーション終わりとかはもう少し騒がしい」

 

「なるほど」

 

 そこで、別の方向から明るい声が飛んできた。

 

「カイエー!」

 

 振り返ると、二人の女性がこちらへ歩いてくる。

 

 一人は、表情の動きが大きく、明るい雰囲気の女性。

 もう一人は、元気の良さがそのまま歩き方に出ているような、ぱっとした印象の女性だった。

 

「来たよ、新人さん?」

 

 前者が言う。

 

「来た」

 

 カイエが頷く。

 

「カオル。今日から入るパイロット」

 

「へえ」

 

 明るい方の女性が、興味深そうにカオルを見る。

 

「私はエマ。副パーサーやってる、よろしく」

 

「ククル! 同じく乗務員! よろしくね!」

 

 もう一人――ククルが元気よく名乗る。

 

 カオルは少しだけ姿勢を正した。

 

「……よろしくお願いします」

 

「うわ、敬語」

 

 エマが笑う。

 

「やっぱり最初そうなるよね」

 

「私もさっき言ったばっか」

 カイエが肩をすくめる。

 

「タメ口でいいって」

 

「え、ほんと?」

 

 ククルがすぐに乗る。

 

「じゃあタメ口でいいよ。その方が話しやすいし!」

 

「……分かった」

 

 カオルが頷くと、エマがにやっとした。

 

「よし、じゃあ今日から容赦なく話しかけるね」

 

「別に構わない」

 

「クールだねえ」

 

「そういう人なんじゃない?」

 

 カイエが言う。

 

「でも操縦は上手いらしいよ」

 

「らしい、って」

 

 カオルが少し眉を上げる。

 

「噂」

 

 エマが言う。

 

「A級取ったばっかの新人で、こんな静かな顔してるやつ、そりゃ気になるでしょ」

 

「静かな顔って何だ」

 

「そのままの意味」

 

 ククルが笑う。

 

「でも、なんか安心した。もっと怖い人かと思ってた」

 

「なんでだ」

 

「カオルって名前だけ聞いてると、ちょっと怖そうだったから」

 

「偏見だろ」

 

「そうとも言う」

 

 そんなやり取りに、気づけばカオルの肩の力が少しだけ抜けていた。

 

 初対面だ。

 エマもククルも、もちろんカイエも今日が最初。

 だが、不思議と話しづらくはない。

 

「じゃあ、改めて案内するね」

 

 カイエが言う。

 

「二人も来る?」

 

「行く」

 

 エマが即答する。

 

「私も!」

 

 ククルも元気よく続く。

 

「別に……一人でよかったんだけど」

 

 カオルが言うと、三人とも少し笑った。

 

「そういうこと言うタイプだと思った」

 

 エマが言う。

 

「でも慣れるまで、うるさいぐらいの方がちょうどいいよ」

 

「たぶんね」

 

 カイエも頷く。

 

「行こう」

 

 

 最初に案内されたのは、乗務員のシミュレーションルームだった。

 

「ここ」

 

 カイエが扉を開ける。

 

 中には、実際の客室を模した訓練区画が広がっていた。

 座席。荷物棚。通路。非常設備。

 本格的だ。

 

「へえ……」

 

 カオルが小さく声を漏らす。

 

「思ったよりちゃんとしてる?」

 

 エマが横から聞く。

 

「思ったより、は余計だ」

 

「あはは、やっぱりそう思ってたんだ」

 

「だって旅行会社だろ」

 

「旅行会社だからだよ」

 

 カイエが言う。

 

「乗務員はここで、歩き方から乗り入れ、誘導、緊急時対応まで一通りやる。便が少ない時ほど訓練で詰めるから、ここはかなり使う」

 

「歩き方から?」

 

 カオルが少し意外そうに聞き返す。

 

「うん」

 

 ククルが頷く。

 

「最初びっくりした?私も最初、“歩くだけ?”って思った」

 

「思うだろうな」

 

「でも、やると違うんだよねえ」

 

 エマが笑う。

 

「立ち方一つで見え方が変わるし、乗務員って最初に目に入る職種だから、結局そこが大事なんだって」

 

 カオルはルームの中を見回した。

 

 整理されている。

 使い込まれている痕跡はあるが、雑ではない。

 

「で、あっちがブリーフィングルーム」

 

 カイエが次の扉を指す。

 

「便の前後はそこでパイロットとも顔合わせる」

 

「パイロットの方は別なのか?」

 

「操縦系のシミュレーションは別?でも、運航全体で見る時は一緒」

 

「距離、近い方だと思うよ」

 

 エマが補足する。

 

「パイロットだけ、乗務員だけ、で閉じすぎると現場でズレるから」

 

「なるほど」

 

 説明は分かりやすい。

 カオルは歩きながら少しずつ、ここがどういう場所なのかを頭の中へ入れていった。

 

「次、パイロット用のシミュレーションルームね」

 

 カイエが先に立つ。

 

 そこへ向かう途中、エマがふと聞いた。

 

「で、どうだった?初ライセンス試験」

 

 カオルは少しだけ黙った。

 

「A級は取れた」

 

「おお」

 

 ククルが明るく声を上げる。

 

「すごいじゃん!」

 

「すごいよ」

 

 エマも頷く。

 

「最初からA級なら上出来でしょ」

 

「……でも」

 

 カオルは、それ以上を少し飲み込んでから、やはり言った。

 

「S級は無理だった」

 

 一瞬だけ、三人が静かになる。

 

 カオルは自分でも少し驚いた。

 初対面の相手に、そんなことをぽろっと言うとは思っていなかった。

 

 だが、言ってしまったものは仕方ない。

 

「そりゃ、そうじゃない?」

 

 最初に口を開いたのはカイエだった。

 

 あまりにも普通の調子だったので、カオルは逆に少しだけ拍子抜けする。

 

「……そうだな」

 

「いや、だっていきなりS級は普通取れないでしょ。リュウジさんみたいなのを基準にしたら駄目だって」

 

 エマが言う。

 

 ククルもすぐに頷いた。

 

「うんうん。比べる相手が悪すぎるよ」

 

「比べてるわけじゃない」

 

 カオルが低く言う。

 

「でも悔しいんでしょ」

 

 カイエが静かに言った。

 

「……」

 

 否定出来ない。

 

「悔しいなら、それでいいじゃん」

 

 エマがさらっと言う。

 

「最初から満足してるよりよっぽどいい。A級でちゃんと飛べるようになって、それからS級目指せばいいんだし」

 

「そうそう」

 

 ククルが笑う。

 

「悔しいって思えるなら伸びるよ、きっと」

 

 その言い方が、妙に軽くて、そして変に慰めてこないのがよかった。

 

 カオルは小さく息を吐いた。

 

「……そうかもな」

 

「うん」

 

 カイエが頷く。

 

「少なくとも、最初からS級取れないから終わり、って顔してるやつよりずっといい」

 

「それは誰のことだ」

 

「さあ?」

 

 少しだけ笑う。

 

 初対面のはずなのに、この三人は変な意味で遠慮がない。

 けれど、その距離の詰め方は不快ではなかった。

 

 

 パイロット用のシミュレーションルームは、乗務員側とはまた違う静けさを持っていた。

 

 操縦席の再現設備。

 通信系。

 航路投影。

 エラー再現プログラム。

 訓練用とはいえ、かなり高度な構成だ。

 

「ここはパイロット班が使う」

 

 カイエが説明する。

 

「更新試験前とか、新人育成とか、便前の確認とか」

 

 ひと通り案内を受けたあと、共有スペースへ戻る頃には、午前もかなり進んでいた。

 

「そろそろ昼だね」

 

 ククルが端末を見ながら言う。

 

「そうだね」

 

 エマも頷く。

 

 そこでカイエが自然に言った。

 

「カオル、もし良かったら昼、一緒に食べる?」

 

 その誘いは、まるで最初から決まっていたみたいに自然だった。

 

「歓迎ってほど大げさじゃないけど、初日だし」

 

「私もそのつもりだった!」

 

 ククルが元気よく言う。

 

「私も」

 

 エマも続く。

 

 カオルは三人を見た。

 

 断る理由は、別にない。

 むしろ、ここで一人になる方が居心地が悪いかもしれない。

 

「……ああ」

 

「決まり」

 

 エマがすぐに言った。

 

「じゃあ今日は食堂じゃなくて、近くの店にしよっか。会社の中だけ見ても分からないこともあるし」

 

「うん、それがいいかも」

 

 ククルが頷く。

 

「カオル、嫌いなものある?」

 

「特にない」

 

「好きなものは?」

 

「……別に」

 

「わー、困るタイプ」

 

 エマが笑う。

 

「じゃあ、こっちで勝手に決めるね」

 

「任せる」

 

 それで話がまとまる。

 

 カオルは、そんなやり取りを聞きながら、少しだけ不思議な気分になっていた。

 

 初日。

 新しい会社。

 初対面の相手。

 もっと硬く、もっとよそよそしく始まるものかと思っていた。

 

 なのに、ここではもう昼の予定が勝手に決まり、嫌いなものの有無まで聞かれている。

 

「……変な会社だな」

 

 思わず呟くと、三人ともすぐ反応した。

 

「いい意味で?」

 

 ククルが聞く。

 

「どうだろうな」

 

 カオルが答える。

 

「まだ分からない」

 

「じゃあ、これから分かるよ」

 

 カイエが静かに言った。

 

「うちは、入ってすぐ全部分かる会社じゃないから」

 

 その言葉は、妙にしっくりきた。

 

 静かな部署。

 無駄のない空気。

 でも、その下にはちゃんと人の温度がある。

 

 カオルは、まだ完全には掴めていない。

 けれど、“悪くないかもしれない”とは、もう思い始めていた。

 

 A級しか取れなかった悔しさは、まだ消えていない。

 S級へ届かなかった自分への苛立ちもある。

 けれど、だからこそ、ここでまた積み上げていけばいい。

 

 そういう場所として、この会社は案外悪くない。

 

「じゃあ、午後は正式なオリエンテーションね」

 

 カイエが言う。

 

「その前に昼。それ終わったら、責任者にも顔見せ」

 

「了解」

 

 カオルが短く返す。

 

「お、もう“了解”って言った」

 

 エマがにやりとする。

 

「敬語減ってきたね」

 

「別に意識してない」

 

「それでいいよ」

 

 ククルが笑った。

 

「その方が話しやすいし」

 

 カオルは、少しだけ目を伏せてから、小さく頷いた。

 

「……分かった」

 

 その答えを聞いて、三人が自然に笑う。

 

 その笑い声を聞きながら、カオルはようやく思う。

 

 ここでやっていくのも、悪くない。

 

 そうして、初日の午前はゆっくりと過ぎていった。

 新しい職場の空気。

 初めて会う仲間。

 A級ライセンスを取ったばかりの自分。

 そして、まだ遠いS級への道。

 

 全部を抱えたまま、それでもカオルは、少しずつこの場所へ足を馴染ませ始めていた。

 

 

ーーーー

 

 

 

 オリエンテーションは、カオルが思っていたよりも細かかった。

 

 会社の沿革。

 旅客運航部門の構成。

 教育便と通常便の違い。

 ブリーフィングの流れ。

 運航前後の報告。

 緊急時の連絡系統。

 パイロットと乗務員の関わり方。

 さらに、ハワード財閥の旅行会社としての方針や、近年の運航傾向、所属するパイロットの等級構成まで、一通り説明される。

 

 案内役の事務スタッフが去ったあと、カオルは小さく息を吐いた。

 

「……思ったより多いな」

 

「でしょ?」

 

 すぐ横で、エマが笑う。

 

 オリエンテーションの途中から、カイエ、エマ、ククルの三人も、空いた時間を見つけて顔を出していた。

 別に全工程へ付き合う必要はなかったはずだ。

 だが三人とも「どうせ暇だし」「初日の空気ぐらい知っといた方がいい」「案内された後の顔見るの好きなんだよね」と、それぞれ好き勝手な理由を口にして、結局最後までいた。

 

「最初はね、みんな“こんなに?”って顔する」

 

 カイエが、壁にもたれながら言う。

 

「でも乗る側になると、全部必要だって分かるよ」

 

「乗るって言っても、操縦だけじゃないってことか」

 

 カオルが聞く。

 

「そういうこと」

 

 カイエが頷く。

 

「パイロットって操縦桿握ってるだけに見えるかもしれないけど、実際は機体の中にある全部と繋がってるから、乗務員の動きも、乗客の流れも、管制との呼吸も、全部知らないと困る」

 

「それに」

 

 ククルが、前のめりに身を乗り出す。

 

「この会社、意外と“人の顔”覚えるの大事なんだよ。誰がどういう動きするか知ってるだけで、安心感が違うし」

 

「そこは本当にそう」

 

 エマも続ける。

 

「特に旅客はね。貨物とか研究船みたいに、黙々と飛ばせばいいってもんじゃない。人が乗ってて、乗務員がいて、便の空気があって、その全部の上にパイロットがいるから」

 

「……」

 

 カオルは何も言わなかったが、聞いてはいた。

 

 正直、ここへ来る前の自分なら、そのあたりの話を「乗務員側の理屈だろ」と切り捨てていたかもしれない。

 だが、オリエンテーションの資料や現場の配置を一通り見た今は、その考えをそのまま通すほどには単純でいられなかった。

 

 操縦は孤独な技術だ。

 だが運航は孤独では成立しない。

 

 それくらいのことは、カオルにも分かる。

 

「で」

 

 エマが、わざとらしく手を叩く。

 

「座学ばっかりでもつまんないでしょ。せっかくだし軽くシミュレーション入れてもらったよ」

 

 カオルが、少しだけ眉を上げる。

 

「今日から?」

 

「今日から」

 

 エマがにやっと笑う。

 

「嫌だった?」

 

「いや」

 

 カオルは即答した。

 

「その方がいい」

 

「お、いい返事」

 

 ククルが嬉しそうに言う。

 

「私もそう思う。こういうのって、初日に一回やると全然違うし」

 

「パイロット班の責任者にも話通してある」

 

 カイエが補足する。

 

「簡単な基礎確認と、旅客便想定の短い流れだけ、今の段階でどれくらい出来るか見たいって」

 

「構わない」

 

 カオルは、そこでほんの少しだけ口元を引き締めた。

 

 実際に操縦して見せるなら、その方が話は早い。

 A級ライセンスは取った。

 けれど、それだけでは足りない。

 少なくとも自分の中では、まだ全然足りていない。

 

 だったら、早いうちにここでの“今の自分”を見せておきたい。

 

 

 午後、パイロット用のシミュレーションルームは、午前中とは違う緊張を含んでいた。

 

 ブースの中に入ると、操縦席まわりの機器が起動し、投影された航路図が淡い光を放つ。

 管制との通信設定。

 短距離旅客便想定。

 教育便より少し複雑で、通常便よりは簡略化されたルート。

 

 カオルは、ヘルメットを装着しながら、短く説明を受ける。

 

「出発から進入まで一通り、途中で軽い機器異常ひとつ。あと、客室側からの問い合わせが一回、それぐらいです」

 

 指導役のパイロット班責任者が淡々と言う。

 

「了解」

 

「乗務員側の窓口は、今日は簡易でカイエ達に見てもらう。本職の訓練じゃないから、あくまで連携の空気を見るためだと思ってください」

 

「分かった」

 

 ルームの外、ガラス越しの位置に、カイエ、エマ、ククルが並んでいるのが見えた。

 三人とも、乗務員の制服姿のまま、端末を手にしてこちらを見ている。

 

 カイエは落ち着いた顔で。

 エマは面白そうに。

 ククルは、期待と好奇心をそのまま表情へ出したまま。

 

「……見世物か」

 

 カオルが小さく呟く。

 

 通信越しではなく、自分だけに聞こえる声だった。

 でも、その言葉で少しだけ肩の力が抜けた。

 

 試験ではない。

 ここはまだ、入社初日の確認だ。

 

 だが、だからといって手を抜く気はない。

 

「始めます」

 

 責任者の声。

 

 起動シークエンスが進む。

 計器が揃う。

 カオルは操縦桿へ手を置き、呼吸を整えた。

 

 機体の設定確認。

 航路の確認。

 出発指示。

 推力調整。

 

 頭は静かだった。

 

 あの日の試験と同じだ。

 いや、試験より少しだけ楽かもしれない。

 “見られている”ことに変わりはないが、ここではまだ、失敗が即評価になるわけではない。

 その分、自分の操縦だけに意識を落とし込みやすい。

 

 進入は滑らかだった。

 必要な修正舵も最小限。

 機体の癖を完全に掴んでいるわけではないが、把握の速度は速い。

 

 途中、軽い機器異常が出る。

 姿勢制御補助の一部にラグ。

 大きな問題ではない。

 試験なら“確認のための罠”くらいのものだ。

 

 カオルは一瞬だけ計器を見て、補助系を切り替えた。

 その間にも推力の変化は最小限。

 余計な修正は入れない。

 

「……」

 

 責任者が何かを端末へ入力している。

 ガラスの向こうでエマが「お」と小さく口を動かしたのが見えた。

 

 続いて、客室側から問い合わせが入る。

 

『乗務員側より確認。機体に軽微な揺れが出ています。問題ありませんか』

 

 これは、今の旅客想定便なら自然な問いだ。

 

「問題ない。補助系の一時切替を行っただけだ。客室側への共有は“軽微な調整”で十分。過度なアナウンスは不要」

 

 カオルが返す。

 

 その返答は、簡潔だった。

 必要な情報はある。

 だが、やはりどこか少し短い。

 

 カイエがガラス越しに、ほんの少しだけ目を細めた。

 エマも何か感じ取ったようだったが、今は黙って見ている。

 

 そこから先は大きな乱れもなく、進入、減速、着地点の調整まで終わる。

 最後に停止シークエンスへ入り、シミュレーションは終了した。

 

「以上です」

 

 責任者が声をかける。

 

 カオルは操縦桿から手を離し、ゆっくりと息を吐いた。

 

 試験より短い。

 だが、見られていると分かっているぶん、神経は使う。

 

 ヘルメットを外してブースから出ると、最初に目に入ったのは、ガラスの向こうで待っていた三人だった。

 

 ククルが真っ先に手を振る。

 

「おつかれ!」

 

「……ああ」

 

「いや、上手いね」

 

 エマが率直に言う。

 

「思ったより、じゃなくて普通に上手い」

 

「うん」

 

 ククルも大きく頷く。

 

「すごい安定してた。見てて安心感あったよ」

 

 カイエも、少しだけ笑って言う。

 

「初日であれなら十分でしょ」

 

 責任者もその場で簡単な講評をした。

 操縦は滑らか。

 姿勢制御は安定。

 補助系切替も迷いがない。

 ただし、通信はまだ少し短い。

 そこだけは試験時の指摘と同じだった。

 

「通信は意識して直すこと」

 

「分かりました」

 

「それ以外は、想定以上です。今日はこれで十分」

 

 そう言って責任者が去ったあと、ルームの中にはカオルとカイエ、エマ、ククルだけが残った。

 

 エマが腕を組みながら言う。

 

「いやぁ、ほんと普通に上手かった。最初からこれだけ飛べるなら助かる」

 

「うんうん」

 

 ククルも、まだ興奮気味だ。

 

「滑らかだったし、怖さがなかった。なんか、“この人なら大丈夫”って思える感じ」

 

 カオルは、その感想を聞きながら、少しだけ視線を落とした。

 

 褒められている。

 それは分かる。

 だが、その褒め言葉だけでは、どうにも足りなかった。

 

「……どうだった」

 

 ぽつりと、カオルが言う。

 

「ん?」

 

 カイエが首を傾げる。

 

「どうだった、って?」

 

 カオルは、三人を順に見た。

 

「お前らは、リュウジの操縦を知ってるだろ」

 

 一瞬だけ、空気が変わった。

 

 知っている。

 もちろん、直接同じ会社にいたわけではない。

 けれど、教育便や共同訓練、見学、あるいは映像記録や実際の搭乗で、三人ともリュウジの飛びを見たことがある。

 

「今の俺と比べて、どうだった?」

 

 その問いは、静かだった。

 だが、奥にははっきりと棘があった。

 

 エマが最初に口を開く。

 

「いや、それは……」

 

「比べるのは良くないよ」

 

 ククルがすぐに続ける。

 

「そうだよ、初日だし、しかもリュウジさん相手って、基準としてちょっとおかしいし」

 

「聞かせてくれ」

 

 カオルは、短く言った。

 

「別に落ち込むために聞いてるわけじゃない。知りたいだけだ」

 

 カイエが、そんなカオルの顔をしばらく見ていた。

 

 悔しいのだろう。

 S級が取れなかったことも。

 自分ではまだ“上手い”で終わりたくないことも。

 その悔しさの延長線上に、今の問いがあることは分かる。

 

「……比べるのは、本当にあんまり好きじゃないんだけど」

 

 カイエが、ゆっくり言う。

 

「それでも?」

 

「それでも」

 

 カオルが頷く。

 

 エマとククルが、カイエを見る。

 カイエは小さく息を吐いてから、口を開いた。

 

「信頼、かな」

 

 その言葉に、カオルの眉がわずかに動く。

 

「信頼?」

 

「うん」

 

 カイエは頷いた。

 

「技術だけで言えば、正直、今のカオルもかなり高いと思う。滑らかだし、怖くないし、判断も早い、でも、リュウジさんの操縦って、そこにもう一個あるんだよね」

 

「もう一個?」

 

「私達への信頼」

 

 今度はエマが言った。

 

 カオルは黙って聞いている。

 

「リュウジさんって、最初から私達乗務員に対して、けっこう信頼してくれてたんだよ」

 

「最初から?」

 

「うん」

 

 ククルが大きく頷く。

 

「もちろん、全部丸投げって意味じゃないよ?ちゃんと見てるし、必要なら口も出す。でも、“こっちはできる限りやるから、そっちは任せる”って、最初からそういう空気があった」

 

「そう」

 

 カオルは短く返す。

 

 カイエが言葉を引き継ぐ。

 

「今のカオルは、まだそうじゃないでしょ」

 

「……」

 

「悪い意味じゃないよ。たぶん、まだ私達を“運航の一部”としてより、自分と別のパートとして見てる。だから通信も短いし、客室側への返しも必要最低限で終わる」

 

「最低限じゃ足りないのか」

 

「足りる時もある」

 

 エマが言う。

 

「でもね、乗務員って“足りる”だけだと動きにくい時があるんだよ。特にお客さん乗せてる便だと、機体の状態そのものより、“どのくらい安心していいのか”がほしいから」

 

 ククルも続ける。

 

「さっきの“軽微な調整で十分、過度なアナウンスは不要”って判断は正しかったと思う。でも、その言い方がちょっとだけ“俺は分かってるから、お前らも黙ってついて来い”に近く聞こえたかも」

 

 そこまで言われて、カオルは少しだけ視線を逸らした。

 

 自覚がないわけではない。

 必要なことを言えば十分だと思っていた。

 余計な説明は邪魔だと。

 だが、乗務員側からすれば、それは“自分達は信頼されていない”とも受け取れるのかもしれない。

 

「リュウジさんは」

 

 カイエが少しだけ言葉を選びながら続ける。

 

「“任せる”のがうまいんだと思う。いや、うまいっていうか、自然なんだよね。こっちに何を任せていいか、どこまで言えば十分か、その塩梅が最初から分かってる感じ」

 

「最初から、ってのがすごいよね」

 

 エマが言う。

 

「普通は何便か一緒に乗って、ようやく呼吸合ってくるじゃん?でもあの人、最初から“そこはそっちで大丈夫だろ”って空気があるの。で、実際、その空気に乗せられると、こっちもちゃんとやらなきゃってなる」

 

「うん」

 

 ククルも頷く。

 

「安心感って、操縦が滑らかなだけじゃ出ないんだよね。“この人、ちゃんと私達も見てるな”って思えると、急に怖さが減る」

 

 カオルは、しばらく何も言わなかった。

 

 技術ではなく、信頼。

 それは、自分が想定していた答えとは少し違った。

 

 もっと単純に、舵の切り方とか、間の取り方とか、そういう話が返ってくると思っていた。

 だが、三人が揃って口にしたのは、操縦そのものではなく、“操縦の外にあるもの”だった。

 

「……信頼、か」

 

 小さく呟く。

 

「うん」

 

 カイエが頷く。

 

「たぶん、そこ。今のカオルって、操縦は上手い。でも、まだ自分一人で全部背負って飛ぼうとしてる感じがする」

 

「……悪いか」

 

「悪いとは言ってない」

 

 エマが首を振る。

 

「最初はそんなもんだと思うし。むしろ責任感強いタイプなんだろうなって感じ」

 

「でも、旅客便って一人じゃないから」

 

 ククルが言う。

 

「そこがリュウジさんとの違いじゃないかなって思った」

 

 カオルは、三人の顔を順に見た。

 

 からかわれているわけではない。

 変に持ち上げられているわけでもない。

 率直に、でもちゃんと考えて、言葉を選んで伝えてくれている。

 

「……分かった」

 

 ぽつりと、そう言った。

 

 エマが少しだけ目を丸くする。

 

「意外。もっと“そうか”だけで終わるかと思った」

 

「そうか、でもある」

 

 カオルが返す。

 

「でも、分かったのも本当だ」

 

 ククルが、ちょっと嬉しそうに笑った。

 

「それならよかった。いや、責めたかったわけじゃないし」

 

「分かってる」

 

 カオルは頷いた。

 

「ただ、知りたかっただけだ」

 

「うん」

 

 カイエが、そこで少しだけ口元を緩めた。

 

「じゃあ、次はそこ意識して飛べばいいんじゃない。操縦そのものはもう十分だから」

 

「次があるなら、だけどな」

 

「あるでしょ」

 

 エマが笑う。

 

「入社初日でこれなんだから、どうせまた近いうちに確認あるし」

 

「その時、今度は乗務員側ともう少し話してから入る?」

 

 カイエが提案する。

 

「ブリーフィングで軽くでも顔合わせて、“ここは任せる”って先に言うだけでも全然違うと思う」

 

 カオルは少しだけ考えてから、頷いた。

 

「……そうしてみる」

 

「よし」

 

 ククルが手を叩く。

 

「じゃあ、それで一歩前進!」

 

「軽いな」

 

 カオルが言うと、エマが笑う。

 

「重く考えすぎると疲れるよ。悔しいのは分かるけどさ」

 

「……」

 

「S級取れなくて悔しいんでしょ?」

 

 あっさり言われて、カオルは少しだけ眉を上げる。

 

「顔に出てる?」

 

「ちょっとね」

 

 エマが言う。

 

「でも、その悔しさは別に隠さなくていいと思う。上目指してるやつが、最初から満足してたら怖いし」

 

「そうそう」

 

 ククルが頷く。

 

「今A級で、これからS級目指せばいいんだよ。その途中で、乗務員の信頼も拾っていけばいいし」

 

「簡単に言うな」

 

「簡単じゃないよ」

 

 カイエが静かに言った。

 

「でも、やることは案外単純。上手く飛ぶことと、ちゃんと任せること。たぶん、その積み重ねだから」

 

 カオルは、その言葉を黙って受け止めた。

 

 悔しさはまだ消えない。

 A級で止まった現実も変わらない。

 けれど、だからといって立ち止まる理由にはならない。

 

 リュウジとの差。

 それが単なる操縦技術ではなく、“人を乗せて飛ぶこと”そのものの深さにあるのだとしたら。

 

 そこへ近づく方法は、ちゃんとある。

 

「……お前ら」

 

 カオルがふと口を開く。

 

「ん?」

 

「エマとククルとカイエ、だったな」

 

「今さら確認する?」

 

 エマが吹き出す。

 

「いや」

 

 カオルは少しだけ言葉を探してから、素直に言った。

 

「参考になった」

 

 一瞬だけ、三人が黙った。

 

 それからククルがぱっと笑う。

 

「やった!」

 

「素直に言うじゃん」

 

 エマもにやっとする。

 

「最初より全然いいね」

 

 カイエも少しだけ嬉しそうだった。

 

 初対面。

 静かな会社。

 A級しか取れなかった悔しさ。

 全部そのままだ。

 

 それでも、ここでやっていく足場が、少しだけ見えた気がした。

 

「行くぞ」

 

 カオルが先にそう言うと、三人が揃って少し意外そうな顔をした。

 

「お」

 

 エマが笑う。

 

「今の、ちょっと打ち解けた感じあった」

 

「そう?」

 

 ククルが嬉しそうに言う。

 

「うん、あった。じゃあ、行こ行こ」

 

 カイエが自然に先導する。

 

 シミュレーションルームの扉が開き、昼の明るさが廊下へ流れ込んでくる。

 

 カオルは、その光の中へ歩き出しながら、心の中で一つだけ静かに思った。

 

 S級には、まだ遠い。

 けれど、その遠さを悔しがれるうちは、まだ進める。

 

 そして、もしリュウジとの差が“信頼”にあるのなら。

 それもまた、ここで飛びながら学べばいい。

 

 悔しさを抱えたままでも、前に進むことは出来る。

 そんな当たり前のことを、カオルはこの初日、静かな会社の中でようやく少しだけ実感し始めていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 会社が終わる頃には、フロアの空気は朝とはまた違う静けさを帯びていた。

 

 朝は、これから始まる一日のための静けさ。

 今は、一日を終えた者達がそれぞれの疲労を抱えながら、しかし最後の整理だけはきっちり済ませていくための静けさだった。

 

 端末が閉じられる音。

 椅子が軽く引かれる音。

 報告書を送信する前の最終確認。

 ブリーフィングルームの灯りが一つずつ落ちていく気配。

 

 カオルは、自分の席で端末を閉じた。

 

 初日。

 長かったといえば長かった。

 オリエンテーション、施設案内、初顔合わせ、昼食、午後の簡単なシミュレーション。

 内容自体は詰まっていたが、無駄に疲れる感じではなかった。

 むしろ、自分が思っていたよりも“仕事を始めた”感覚がきちんとある一日だった。

 

 それでも、体の奥にはじわりとした重さが残っている。

 新しい環境へいるだけで、神経は使うものだ。

 

「……帰るか」

 

 誰に言うでもなく、小さく呟く。

 

 鞄を取って、椅子を戻し、フロアを出ようとした、その時だった。

 

「カオル」

 

 呼び止めたのはカイエだった。

 

 少し離れた位置で立っている。

 もう帰り支度は終わっているらしく、上着も羽織っていた。

 その隣にはエマとククルもいる。

 

「何だ」

 

「このあと予定ある?」

 

 カイエが聞く。

 

「ない」

 

「よかった」

 

 エマが、にやっと笑った。

 

「どうしてもカオルに会いたいって人がいる」

 

「……会いたい?」

 

 カオルが眉をひそめる。

 

「うん」

 

 ククルが元気よく頷く。

 

「どうしても、だって」

 

「断れない感じか?」

 

 カオルが聞くと、カイエは少しだけ肩をすくめた。

 

「たぶん、断っても来るタイプ」

 

「……面倒だな」

 

「まあ、そう言うと思った」

 

 エマが笑う。

 

「でも、今日はちゃんと話した方がいいと思う。悪い相手じゃないから」

 

「それに、私とエマとククルも一緒だから」

 

 カイエが、少しだけ落ち着いた声で補足する。

 

「一人で行かせるわけじゃない。そこは安心していいよ」

 

 カオルは三人を見た。

 

 今日知り合ったばかりの相手だ。

 なのに、妙にこういうところで言葉に重みがある。

 

「……分かった」

 

 小さく頷く。

 

「行く」

 

「よし」

 

 ククルがぱっと笑う。

 

「じゃあ決まり!」

 

「なんだその、最初から断らせない流れ」

 

 カオルが言うと、エマがあっさり返した。

 

「だって断る気だったでしょ?」

 

「少しはな」

 

「だと思った」

 

 カイエが苦笑する。

 

「でも、会っといて損はないと思う」

 

「誰だよ」

 

 そう聞くと、三人は一瞬だけ顔を見合わせた。

 

 それから、ククルが少し楽しそうに口を開く。

 

「それは着いてからのお楽しみ!」

 

「……帰るぞ」

 

「ちょっと待って待って!」

 

 ククルが慌てて腕を引くふりをする。

 カオルは本気で振り払うほどではなく、ただ面倒そうにため息をついた。

 

「ククル、そういう言い方すると余計警戒するでしょ」

 

 カイエが言う。

 

「ごめん」

 

「でもまあ、説明しにくいんだよね」

 

 エマがそう言って笑う。

 

「会った方が早いタイプ」

 

「だいたい想像ついた」

 

 カオルがぼそっと言う。

 

「絶対、面倒くさい大人だろ」

 

 三人が、今度はわりと揃って黙った。

 

「……当たり?」

 

 ククルが小声で言う。

 

「当たり」

 

 エマが頷く。

 

「でも、悪い人じゃない」

 

 カイエが、さっきと同じことを繰り返した。

 

 それなら、なおさら会うしかないのだろう。

 

 

 三人に連れられて会社を出ると、夜の街へ空気が変わる。

 

 昼間よりも少し落ち着いた通り。

 仕事帰りの人間が流れ、飲食店の灯りが一つずつ濃く見える。

 会社の中とは違う、人の気配の緩みがある。

 

「近いのか」

 

 カオルが聞く。

 

「そんなに遠くない」

 

 カイエが答える。

 

「歩いて十分ちょっと」

 

「この辺、意外と美味しい店多いんだよ」

 

 エマが言う。

 

「歓迎会とか、打ち上げとか、ちょっとした愚痴会とか。わりとこのあたりで済ませること多い」

 

「愚痴会って言い方」

 

 ククルが笑う。

 

「でもあるでしょ」

 

「ある」

 

 カイエがあっさり認めた。

 

 カオルは、そんな三人の会話を半分聞き流しながら歩いていた。

 誰に会うのか。

 予想は何となく立っている。

 “会った方が早いタイプ”“断っても来るタイプ”“面倒くさい大人”。

 そういう条件に合う人間は、それほど多くない。

 

「カオル」

 

 不意にカイエが呼ぶ。

 

「何だ」

 

「今日、疲れた?」

 

「多少は」

 

「そっか」

 

「何だ急に」

 

「いや、もし本当に疲れてて嫌そうなら、今のうちに心の準備した方がいいかなって」

 

 カイエのその言い方に、カオルは少しだけ嫌な予感を覚える。

 

「そんなにか」

 

「そんなに」

 

 エマが即答する。

 

「でも、話し始めると面白いよ」

 

「面白い、か?」

 

「面白い振り回されるけど」

 

 ククルが元気よく頷く。

 

「でも、なんか元気になる時もある」

 

「……雑な評価だな」

 

「雑じゃないよ?ほんとにそうなんだって」

 

 ククルはけらけら笑う。

 

 やがて、三人が一軒の居酒屋の前で足を止めた。

 

 暖簾のある店だ。

 大きすぎず、小さすぎず。

 外からも人の賑わいが程よく伝わってくる。

 

「ここ」

 

 カイエが言う。

 

「普通だな」

 

「普通の店だよ」

 

 エマが返す。

 

「中身は普通じゃないかもだけど」

 

「だからその言い方」

 

 カオルが眉をひそめる。

 

 だがもうここまで来た以上、戻る気はなかった。

 

 暖簾をくぐる。

 店内の熱気と匂いが一気に肌へ触れる。

 

「いらっしゃいませー」

 

 店員の声。

 その奥、座敷席の方から、よく通る女の声が飛んできた。

 

「おーい、こっち!」

 

 声の主を見た瞬間、カオルは内心で「やっぱりか」と思った。

 

 手を振っていたのは、ペルシアだった。

 

 椅子の背へ軽くもたれ、片手にグラスを持ったまま、いかにも“待ってました”という顔をしている。

 その表情には、酒が入っている者特有の緩さと、しかし人を見る時だけ妙に鋭くなる目の両方があった。

 

 そして、カオル達が席へ近づくと、ペルシアは満足そうに頷く。

 

「カオルも連れてきたね。よしよし」

 

 その言い方が、妙に上からで、でも嫌味ではない。

 

 カオルは席の前で立ち止まる。

 

「……ペルシアさん」

 

「そう、ペルシアさん」

 

 ペルシアはにやりと笑った。

 

「ちゃんと話をするのは初めてだね」

 

 たしかに、そうだった。

 

 顔を合わせたことがまるでないわけではない。

 ルナ達と一緒にいた場で見たことはあるし、見送りの場や宇宙管理局の端で視界に入ったこともある。

 だが、“腰を据えて一対一で話す”となると、これが初めてだ。

 

「……そうだな」

 

 カオルは短く答える。

 

「どうも」

 

「硬い硬い」

 

 ペルシアが笑う。

 

「今日はそんな堅苦しい会じゃないのよ。ほら、座りなさい」

 

 言われて、カオルは空いている席へ座る。

 その並びは自然と、ペルシアの正面にカオル、左右にカイエとエマ、ククルが少し斜めの位置へ収まる形になった。

 

「とりあえず乾杯する?」

 

 ペルシアがグラスを持ち上げる。

 

「もう飲んでるだろ」

 

 カオルが言うと、ペルシアは眉を上げた。

 

「細かいこと言わないの、大人は待ってる間に一杯ぐらい飲むものなのよ」

 

「それ、ルールなんですか?」

 

 ククルが笑う。

 

「今作ったルール」

 

 ペルシアがしれっと言う。

 

 エマが呆れたように肩をすくめた。

 

「相変わらずですね」

 

「誉め言葉として受け取っとくわ」

 

「誉めてないです」

 

 そんな会話のあと、店員がカオル達の飲み物を持ってきた。

 

「じゃあ」

 

 ペルシアが改めてグラスを掲げる。

 

「カオルのA級ライセンス取得と、ハワード財閥の旅行会社入りに乾杯」

 

「乾杯」

 

 グラスが軽く触れ合う。

 

 カオルはウーロン茶だ。

 初日から酒を飲む気分ではない。

 ペルシアはそのことについて何も言わず、ただ楽しそうに一口飲んだ。

 

「で」

 

 早々に本題へ入る。

 

「改めて、おめでとう。A級ライセンス」

 

「……ありがとう」

 

「でも、顔はそんなに嬉しそうじゃない」

 

 いきなり核心だった。

 

 カオルは黙る。

 カイエ達はそのことをもう知っている。

 今日のシミュレーション後に、S級が取れなくて悔しいとまではっきり言ったわけではないが、その感情がにじんでいたことは、三人も察していた。

 

「S級が取れなかったから?」

 

 ペルシアが、あまりにも軽く言い当てる。

 

 カオルの眉がぴくりと動く。

 

「……分かるのか」

 

「そりゃ分かるわよ」

 

 ペルシアは笑った。

 

「A級取ったばっかりの人間が、“ありがとうございます!”って浮かれずに、こんな静かな顔で座ってる時点でね。嬉しいより先に悔しいんでしょ」

 

「……」

 

「図星」

 

 エマが、横からぼそっと言う。

 

「うるさい」

 

 カオルが返すと、ペルシアはますます面白そうな顔になった。

 

「でも、嫌いじゃないわ、そういうの」

 

「何が」

 

「満足してないところ」

 

 ペルシアがグラスを揺らす。

 

「初回でA級取って、そこで“よし、出来た”って顔されるよりは、よっぽどいい」

 

「……そういうものか」

 

「そういうものよ」

 

 カイエも頷く。

 

「悔しいって思えるなら、まだ伸びるでしょ」

 

「さっきも似たようなこと言われた」

 

「そりゃ言うよ」

 

 ククルが笑う。

 

「だって本当にそうだし」

 

「でもね」

 

 ペルシアがそこで少しだけ声の調子を変える。

 

「悔しいのはいい。でも、それで人の話が耳に入らなくなるタイプだったら面倒なのよ」

 

 カオルは、ペルシアを見る。

 

 ペルシアは相変わらず笑っている。

 でも、今の言葉は軽くない。

 

「聞いてるつもりだ」

 

「つもり、ね」

 

 ペルシアが頷く。

 

「今日は何か聞けた?この三人から」

 

「……」

 

 カオルは答えるまでに少しだけ間を置いた。

 

「操縦のことなら、そこそこ」

 

「そこそこ?」

 

 エマが反応する。

 

「ちゃんと答えたじゃん」

 

「答えてもらった」

 

 カオルが言い直す。

 

「違いは、信頼だって」

 

 ペルシアは、その言葉に少しだけ目を細めた。

 

「ああ、なるほど、いいとこ突いたじゃない」

 

 カイエが小さく肩をすくめる。

 

「私達なりにはね」

 

「いや、ほんとにそこだと思うわよ」

 

 ペルシアは、今度はカオルを見たまま言う。

 

「リュウジって、操縦だけ見たら当然すごい。でも、あいつの怖いところは、機体の中にいる人間のことまで自然に操縦の一部へ入れてるところなのよね」

 

「……」

 

 その表現は、カオルに少しだけ刺さった。

 

「乗務員がどう動くか、客室がどんな空気になるか。誰が何を拾って、どこで不安になるか、そこを最初から“あるもの”として飛んでる」

 

「それを、信頼って言うのか」

 

 カオルが聞く。

 

「少なくとも私はそう思う」

 

 ペルシアは頷いた。

 

「だって、“こっちはできる限りやるから、そっちは任せる”って空気を最初から出せるのって、結局相手を信じてないと無理だから」

 

「信じてるっていうか」

 

 エマが補足する。

 

「“動ける前提”で見てくれてる感じかな」

 

「そうそう」

 

 ククルも頷く。

 

「だから、こっちも“じゃあちゃんとやる”ってなるんだよね」

 

 カオルはその言葉を黙って受け止める。

 

 ペルシアが、少しだけ顔を覗き込むようにした。

 

「で、カオルは?今、乗務員をどこまで運航の中へ入れて見てる?」

 

「……まだ」

 

 カオルは、正直に言った。

 

「まだ足りないんだろうな」

 

「うん、足りないと思う」

 

 ペルシアがあっさり言う。

 

「でも、それは別に悪くない。悪いのは“足りないのに満足してるやつ”であって、足りないことを知ってるなら話は早い」

 

「言い方はきついけど、わりとその通り」

 

 カイエが苦笑する。

 

「でしょう?」

 

 ペルシアは得意げだ。

 

 そこへ店員が料理を運んできた。

 焼き鳥、だし巻き、ポテト、刺身の盛り合わせ。

 いかにも居酒屋らしいメニューが並ぶ。

 

「ほら、食べなさい」

 

 ペルシアが言う。

 

「こういう話は、腹減ってると変に刺さるから」

 

「それは分かります」

 

 エマが頷く。

 

 ククルがすぐに箸を伸ばす。

 

「いただきます!」

 

 カオルも手をつけたが、やはりペルシアの視線が気になった。

 

 ペルシアはそれを見逃さない。

 

「なんで私が来たか、まだ聞いてない顔してる」

 

「……」

 

「図星」

 

「何で呼んだ」

 

 カオルが単刀直入に聞く。

 

 ペルシアは、少しだけ笑い方を変えた。

 

「そういうとこ、嫌いじゃない。理由は簡単。リュウジの知り合いで、ルナちゃん達の仲間で、ハワード財閥の旅行会社に来た新人パイロットなら、一回くらい顔見とこうと思ったの」

 

「顔を見て、何する」

 

「別に何もしないわよ」

 

 ペルシアは肩をすくめる。

 

「ただ、どんな目してるか見たかっただけ。リュウジの周りの子って、変に真っ直ぐだったり、変なところで意地っ張りだったりするから」

 

「ひどい言い方ですね」

 

 カイエが笑う。

 

「誉めてるのよ」

 

「そうは聞こえません」

 

 エマが突っ込む。

 

「でも、わりと合ってるかも」

 

 ククルが楽しそうに言う。

 

 ペルシアは、そこでカオルをじっと見た。

 

「で、今日見て思ったのは、思ってたより静か。でも中はちゃんと熱い」

 

「……」

 

「いいじゃない。少なくとも、最初から腐ってる目じゃない」

 

 その言い方は軽い。

 けれど、たぶんペルシアは本気でそう見ているのだろう。

 

「お前」

 

 カオルがふと口を開く。

 

「……ん?」

 

「いつもそんな感じで人を見てるのか」

 

 ペルシアは、少しだけ面白そうに目を細めた。

 

「そんな感じって?」

 

「何でも分かったみたいに」

 

 その言葉に、カイエとエマが「おお」と少しだけ顔を見合わせる。

 ククルは、わくわくした顔で二人を見ていた。

 

 ペルシアは数秒黙ってから、ふっと笑った。

 

「分かったみたい、じゃなくて、分かる時はあるのよ。声色とか、目線とか、呼吸とか、人って、案外ごまかせないの」

 

「便利だな」

 

「便利よ」

 

 ペルシアは即答する。

 

「便利だけど、疲れる時もある。見たくないものまで見えることあるしね」

 

 その言い方に、ほんの少しだけ本音が混じった気がした。

 カオルはそれを聞き流しはしなかったが、そこを深掘りする気もなかった。

 

「で、カオル」

 

 ペルシアが箸を置く。

 

「この会社で何を目指すの?」

 

「何を」

 

「そう。就職しただけで終わりじゃないでしょ。A級取って、ハワードのとこに来て、それで?」

 

 単純だが、逃げ道のない質問だった。

 

 カオルは少しだけ考える。

 

「S級だ」

 

 答えは短い。

 

「やっぱり」

 

 ペルシアは笑う。

 

「リュウジと同じところ?」

 

「同じところ、っていうか」

 

 カオルは少しだけ言葉を探してから言った。

 

「届くところまで行く。その上にS級があるなら、そこだ」

 

「へえ」

 

 ペルシアは、そこで少しだけ満足そうに頷く。

 

「嫌いじゃないわ、そういうの」

 

「さっきからそればっかだな」

 

「だって本当にそうなんだもの」

 

 エマがそこで口を挟む。

 

「でも、カオル。S級目指すのはいいけど、今のままだとちょっと危ないよ」

 

「何が」

 

「一人で詰めすぎるとこ」

 

 エマは、さっきのシミュレーションの時より少しだけ柔らかく言った。

 

「悔しいのも、上を見てるのも分かるけど。それで周りが見えなくなると、結局遠回りになる」

 

「……」

 

 カオルは返さない。

 

 ククルが、そこで明るい声のまま続ける。

 

「別に“もっと仲良くしよう!”って意味じゃないよ?ただ、乗務員のことを“自分と別のパート”じゃなくて、“同じ便の仲間”として見られるようになると、きっと飛び方変わると思う」

 

「信頼、ね」

 

 ペルシアが繰り返す。

 

「たぶん、カオルが次に覚えるのはそこ。操縦の先の話」

 

 カオルは、そこでようやく少しだけ力を抜いた。

 

「……今日、全員同じこと言うな」

 

「それだけ大事ってこと」

 

 カイエが静かに言う。

 

「一人だけがそう見たんじゃなくて、私達が揃ってそう感じたなら、たぶん本当にそうなんだと思う」

 

「納得しろって?」

 

「いや」

 

 カイエは首を振る。

 

「すぐに納得しなくていい。でも、持って帰って考えるぐらいはしてほしい」

 

 その言い方が、妙にしっくり来た。

 

 押しつけではない。

 でも、軽く流していい話でもない。

 その塩梅が、今のカオルにはちょうどよかった。

 

「……分かった」

 

 小さく頷く。

 

 ペルシアは、その返事を聞いてにやっとした。

 

「素直じゃない」

 

「うるさい」

 

「でも最初よりは素直」

 

「確かに」

 

 ククルが笑う。

 

「最初、もっと壁ある感じだったもん」

 

「まだあるだろ」

 

 カオルが返すと、エマが肩を揺らした。

 

「あるけど、ちゃんとこっちに返してくれるようになった」

 

「初日でそれなら十分だね」

 

 カイエが言う。

 

 ペルシアは、そこで満足したようにグラスを持ち上げる。

 

「じゃあ、今日はこれでよし、カオルの顔も見れたし、話も出来たし」

 

「それだけのために呼んだのか」

 

「それだけ、って大事なのよ」

 

 ペルシアは真顔で言う。

 

「人って、最初にちゃんと顔見て話しとくと、その後が全然違うから。特に、あんたみたいな口数少ないタイプはね」

 

 カオルは少しだけ目を逸らした。

 

 否定はしない。

 

「それに」

 

 ペルシアが少しだけ笑う。

 

「リュウジの周りの子が、どんなふうに大人になってくのか見るの、わりと好きなのよ」

 

「俺は見世物か」

 

「半分くらいは」

 

「最低だな」

 

 そう言いながら、カオルもほんの少しだけ口元を緩めていた。

 

 その変化を、ククルは見逃さない。

 

「あ、今ちょっと笑った!」

 

「笑ってない」

 

「笑ったって!」

 

「見間違いだ」

 

「いや、絶対笑った」

 

 ククルが騒ぎ、エマが「たしかに少しだけ」と面白がり、カイエが「ククル、そこしつこい」とたしなめる。

 

 ペルシアはそのやり取りを眺めながら、どこか満足そうに目を細めていた。

 

 こうして、カオルの初日の夜は、静かな会社の延長線上にあるようでいて、少しだけ熱のある時間の中で過ぎていく。

 

 A級しか取れなかった悔しさは、まだ消えない。

 S級への距離も、そのままだ。

 

 だが、ここで出会った人間達の言葉は、たぶん少しずつ残るだろう。

 

 信頼。

 一人で背負いすぎないこと。

 操縦の先にある運航。

 

 その全部を、カオルは今夜すぐに理解したわけではない。

 でも、少なくとも無視は出来ないと思った。

 

「カオル」

 

 帰り際、ペルシアが最後に声をかけた。

 

「何だ」

 

「焦るのはいいけど、焦り方だけ間違えないようにね」

 

 その言葉だけは、少し真面目だった。

 

「上に行きたいなら、ちゃんと周りも使いなさい。一人で突っ走るだけが速さじゃないから」

 

 カオルは、その言葉をしばらく黙って受け止めたあと、短く答える。

 

「……覚えとく」

 

「それで十分」

 

 ペルシアが笑う。

 

 その笑いは、さっきまでより少しだけ柔らかかった。

 

 店を出る頃には、夜もだいぶ更けていた。

 だがカオルの中には、初日の朝より少しだけ、ここでやっていく輪郭が見えていた。

 まだ曖昧だ。

 でも、ただ“どこでもよかった”だけの場所では、もうなくなり始めていた。

 

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