サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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初便

 次の日の朝、カオルは前日より少しだけ早く会社に着いていた。

 

 初日を終えたことで、フロアの配置も、誰がどこに座っているのかも、なんとなく頭へ入っている。

 それだけで、昨日よりは余計な緊張が減っていた。

 

 それでも、自分がまだ“新しく入った人間”であることに変わりはない。

 

 フロアへ入ると、すでに何人かが仕事を始めていた。

 運航表を確認している事務職員。

 端末を開いて何かの報告をまとめている乗務員。

 朝のブリーフィングに向けて資料を整えている者もいる。

 

 静かだ。

 けれど、その静けさの中に、確かに仕事の音がある。

 

 カオルは自席へ鞄を置き、端末を立ち上げる前に、一度だけフロア全体へ視線を巡らせた。

 

 今日は、昨日の続きでパイロット側の業務説明が少しある。

 それを終えたあと、時間が取れれば、自分は一つやりたいことがあった。

 

 乗務員の動きを見ること。

 

 昨日、カイエ達に言われたことが頭へ残っていたからだ。

 

 操縦の先にある運航。

 信頼。

 乗務員を“別のパート”ではなく、同じ便の中にいる存在として見ること。

 

 それは言葉で聞いた。

 だが、聞いただけで分かるものでもない。

 だったら、まずは実際に見るのが早い。

 

 カオルはそう考えていた。

 

「おはよ」

 

 少し遅れて、軽い声が飛んでくる。

 

 振り向くと、エマが来ていた。

 その後ろにククル、少し離れてカイエもいる。

 

「おはよう」

 

 カオルが返す。

 

「今日は敬語なし?」

 

 エマがにやっとする。

 

「昨日、もういいって言われただろ」

 

「言ったけど、ちゃんと覚えてるんだ」

 

「そこまで物覚え悪くない」

 

「はは、たしかに」

 

 ククルが楽しそうに笑う。

 

「ねえカオル、昨日ちゃんと寝れた?」

 

「寝れた」

 

「ほんと?」

 

「ほんとだ」

 

「ならよかった」

 

 ククルは本当に安心したように頷く。

 

 カイエは、そのやり取りを見ながら、自分の席へ荷物を置いた。

 

「今日は午前、こっちは乗務員シミュレーションだよ」

 

「知ってる」

 

 カオルが言う。

 

「だから見に行こうと思ってた」

 

 その一言に、エマが少しだけ目を丸くした。

 

「へえ」

 

「動き、見たいんでしょ?」

 

 カイエが聞く。

 

「昨日の話の続きだ」

 

 カオルが短く言う。

 

「言われたまま納得するのは性に合わない。どう動いてるのか、自分で見たい」

 

 その答えに、カイエはほんの少しだけ目を細めた。

 否定はしない。

 でも、それがどういう結果になるかも何となく分かっている顔だった。

 

「見に来るのは別にいいけど」

 

「けど?」

 

「そのまま客室側に入ると、ちょっと面倒かもね」

 

「面倒?」

 

「見れば分かるよ」

 

 カイエのその言い方は、昨日の「会った方が早い」と少し似ていた。

 

 

 午前の準備が進み、乗務員シミュレーションの時間が近づく。

 

 今日はカイエが副パーサー役として全体をまとめる日らしい。

 エマとククル、それから数名の若手乗務員がシフトを組まれている。

 シミュレーションルームでは、実際の客室を模した区画を使って、乗り入れから体調不良対応、簡易サービス導線、緊急時の役割確認まで一連の流れを行うという。

 

 カオルは、その開始時間に合わせてフロアを出た。

 

 廊下を抜けて、シミュレーションルームの入口へ向かう。

 扉はまだ開いていて、中では何人かの乗務員が立ち位置を確認していた。

 

 その時だった。

 

 ふいに中の空気が、分かりやすくざわついた。

 

「え」

「うそ」

「来た」

「なんで?」

 

 小さな声だ。

 だが、カオルの耳には十分聞こえた。

 

 何人かの女性乗務員が、一斉にこちらを見る。

 年齢はカオルより少し上か。

 皆、制服姿で、まだ新人らしい硬さを残している。

 

 その視線が、妙に落ち着かない。

 

 カオルは一瞬だけ立ち止まり、少しだけ眉をひそめた。

 

(……何だ)

 

 自分が見られること自体は別に珍しくない。

 だが、今日のこの空気は、昨日の“新人パイロットが来た”という視線とは少し違っていた。

 

 興味。

 緊張。

 そして、どこか浮ついた感じ。

 

 その理由を、カオル自身は自分で認識していない。

 だが、周囲から見れば、カオルはいわゆる“目を引く男”だった。

 無駄のない体つき。

 整った顔立ちに、少し鋭い目元。

 口数が少ないせいで、余計に近寄りがたく見える。

 そういう意味で、女性受けする外見ではあるのだろう。

 

 だからこそ、若手の乗務員達がそわそわするのも、ある意味では自然だった。

 

「ね、ねえ」

「本当に来たんだけど」

「何しに?」

「見学……かな」

「やば……」

 

 そんな囁きが、また小さく飛ぶ。

 

 エマがそれに気づいて、少しだけ肩を落とした。

 

「うわあ」

 

 小声で呟く。

 

「始まった」

 

 その隣でククルも、あちゃあ、という顔をした。

 

「やっぱりこうなるかぁ……」

 

 一番早く動いたのはカイエだった。

 

 深くため息をつき、手にしていた資料を片手へまとめると、そのまま真っ直ぐカオルの方へ歩いてくる。

 

 カオルは、そのまま立って待った。

 

「何しに来たの」

 

 開口一番、それだった。

 

「見学」

 

 カオルが答える。

 

「乗務員の動きを見たい」

 

「そう」

 

 カイエは頷く。

 言っていること自体は分かるし、昨日の流れから予想もしていたのだろう。

 

「でも、今そのままここに立たれると、あっちの集中が飛ぶ」

 

 きっぱりと言う。

 

 カオルは一度だけルームの中へ視線を向けた。

 たしかに、まだ何人かがちらちらこちらを見ている。

 準備へ集中しきれていない。

 

「……悪かった」

 

「別にカオルが悪いわけじゃないけどね」

 

 カイエはまたため息をつく。

 

「でも、見るならモニター室で見て」

 

「モニター室?」

 

「うん」

 

 カイエが指で少し奥を示す。

 

「隣にあるから。中継カメラ入ってるし、音も拾える。見学するならそっちの方が邪魔にならない」

 

「分かった」

 

 カオルは素直に頷いた。

 

「……カイエ」

 

「なに?」

 

「お前、今ちょっと面倒くさそうだったな」

 

 カイエは、ほんの一瞬だけ無表情になった。

 

「だって面倒だもん」

 

 即答だった。

 

「新しく入ったイケメンが、シミュレーション前の女性乗務員の前に立った時の空気、見たことある?」

 

「ない」

 

「今が初体験。おめでとう」

 

「嬉しくない」

 

「私も嬉しくない」

 

 カイエは本気だった。

 

 そのやり取りの横で、エマが吹き出しそうになるのを堪え、ククルが口元を押さえて笑いをこらえている。

 

「とにかく、こっち」

 

 カイエが言う。

 

「見るならちゃんと見せる」

「でも客室の空気は乱さないで」

 

「了解」

 

 カオルは返し、そのままカイエに続いて隣のモニター室へ入った。

 

 

 モニター室は、シミュレーションルームの隣に設けられた小部屋だった。

 

 壁に複数のモニターが並び、客室全体を上から見る映像、通路のアップ、ギャレー付近、荷物棚付近、それぞれの位置から中継が入るようになっている。

 音声も拾われていて、完全ではないが、現場の会話もかなりはっきり聞こえた。

 

「ここなら落ち着いて見られるでしょ」

 

 カイエが言う。

 

「たしかに」

 

 カオルは椅子へ腰を下ろしながら頷いた。

 

「ちなみに」

 

 エマが横から覗き込む。

 

「さっきの空気、気にしなくていいからね」

 

「……何のことだ」

 

「いや、分かるでしょ」

 

 エマが笑う。

 

「見られてたやつ」

 

「別に」

 

 カオルは短く返した。

 

 ククルが、くすっと笑う。

 

「ほんとに興味ないんだね」

 

「何が」

 

「そういうの」

 

「ないな」

 

 即答だった。

 

「だろうねえ」

 

 エマが頷く。

 

「まあ、向こうもシミュレーション始まればすぐ戻るよ。仕事になったらちゃんと切り替える子達だし」

 

「そうだといいが」

 

「大丈夫」

 

 カイエが言った。

 

「切り替えが出来ないなら、そもそも乗務員続いてない」

 

 その言葉は、静かだが重みがあった。

 

 そして実際、シミュレーション開始の合図が入ると、ルームの中の空気はすぐに変わった。

 

 さっきまでちらちらこちらを見ていた若手達も、もう視線をモニターの外へ飛ばさない。

 立ち位置へ戻り、姿勢を整え、役割に入っていく。

 

「始めます」

 

 カイエの声が、モニター越しに流れる。

 

 さっきまで自分に向けていた時の少し呆れた調子とは違う。

 もう完全に、副パーサーとしての声だった。

 

「今日は乗り入れから、荷物収納、客室確認、途中で体調不良対応まで通す。役割は事前の通り、途中で止める時は止めるけど、まずは一回流れを見せて。いい?」

 

「はい!」

 

 返事が揃う。

 

 ククルが、モニター室のカオルの横で少し胸を張った。

 

「ほら、ちゃんと切り替えるでしょ」

 

「……ああ」

 

 カオルは、短く返す。

 

 だが、その目はもうモニターへ釘付けだった。

 

 

 シミュレーションが始まる。

 

 カオルは、最初は“動きの順番”を見ようと思っていた。

 誰がどこへ行き、何を確認し、どこで声を出すのか。

 それを把握するつもりだった。

 

 だが、実際に見始めると、目はもっと別のところへ引っ張られた。

 

 カイエの立ち方だ。

 

 副パーサー役として全体を見る彼女は、決して派手ではない。

 前に立ちすぎない。

 かといって引きすぎてもいない。

 全体の半歩前、でも目立ちすぎない位置。

 その立ち位置一つで、ルーム全体の流れが不思議と安定して見える。

 

「……」

 

 カオルは無言で見ていた。

 

 乗り入れの案内が始まる。

 若手が少しだけ笑顔を作りすぎて肩が上がる。

 カイエはそれを、その場で大げさに止めたりはしない。

 通りすがりに一言だけ落とす。

 

「肩」

 

 それだけ。

 

 言われた乗務員は、はっとしてすぐ直す。

 他の者もそれで自分の姿勢を正す。

 

「必要最低限なのに、届くんだよね」

 

 エマが小声で言う。

 

「カイエって、そのへん上手い」

 

 荷物収納の場面。

 一人がタイミングを測りかねて一瞬だけ動線を塞ぎそうになる。

 カイエは前に出すぎず、自分の半歩だけ位置をずらして流れを作る。

 そのことで詰まりがなくなる。

 

「見える?」

 

 ククルが聞く。

 

「さっき、荷物棚の前で一回空間空けたの」

 

「見えた」

 

 カオルが答える。

 

「あれ、一人分じゃないな」

 

「うん」

 

 ククルが嬉しそうに頷く。

 

「次に来る人の分まで先に空けてる」

 

 サービス導線の確認。

 カイエは一人一人を止めて細かく指摘するのではなく、流れを崩さない範囲で最小限の修正を入れる。

 それでも、その修正を受けた側はちゃんと意味を理解して動き直している。

 

「不思議でしょ」

 

 エマが言う。

 

「怒鳴ってるわけでもないのに、空気が締まるの」

 

 カオルは頷かなかったが、否定もしなかった。

 

 そして体調不良対応の想定に入る。

 

 客席の中央で、一人が“具合の悪い乗客役”になる。

 それを見つけた若手が最初の声掛けを入れ、近くの別の乗務員がカバーへ動き、通路の確保に入る。

 その全部を、カイエが把握している。

 

「右、遅い」

 

 短く指示。

 

「はい!」

 

「次、代わって」

「分かりました」

 

「声の高さ落として」

「はい!」

 

「通路あけて」

「はい!」

 

 指示が飛ぶ。

 短く、迷いがない。

 必要な相手へだけ届く。

 

 そして何より、カイエ自身が“全部自分でやろう”としていない。

 

 そこに、カオルは昨日言われた言葉の意味を少しだけ見る。

 

 信頼。

 任せること。

 

 カイエは副パーサーとして中心にいる。

 だが、中心にいるからといって全部を抱え込まない。

 むしろ、各自がちゃんと動く前提で全体を回している。

 それでいて、動きが乱れそうになったところだけ的確に拾う。

 

 カオルは、無意識のうちに椅子の前へ少し身体を寄せていた。

 

「凄いな……」

 

 思わず、声が漏れる。

 

 その一言に、横にいたエマとククルが同時に少しだけ笑った。

 

「でしょ?」

 

 ククルが嬉しそうに言う。

 

「最初見た時、私もそう思った」

 

「私も」

 

 エマが続く。

 

「カイエって、見た目は落ち着いてるけど、現場に立つと一気に空気変わるんだよね」

 

「カオル、今どこ見てた?」

 

 ククルが聞く。

 

「……」

 

 カオルは数秒だけ考えてから答える。

 

「全部、じゃない。でも、全部が見えてる気がした」

 

「うん」

 

 エマが頷く。

 

「それ近いかも」

 

「カイエはね、“全部を見よう”としてるんじゃなくて、“全部が崩れた時にどこから直すか”を見てる感じ」

 

「それを副パーサーって言うのか」

 

 カオルが聞く。

 

 エマは少しだけ首を傾げた。

 

「副パーサーにも色々あるけど」

「少なくとも、今のカイエはそういうタイプかな」

 

「本人に言うと嫌がるかもだけど、今日かなり調子いいよ」

 

 ククルが笑う。

 

「だって朝、カオルのせいでちょっと機嫌悪かったし」

 

「俺のせいか」

 

「少しは」

 

 ククルがにやっとする。

 

「向こうがそわそわしてたんだから、俺だけの問題じゃないだろ」

 

「それはそう」

 

 エマが笑う。

 

「でも、カイエからしたら“今から客室やるのに何しに来たの”って感じだったと思う」

 

「……言われた」

 

「だよねえ」

 

 モニターの向こうでは、一通りの流れが終わり、カイエが全体を止めてフィードバックへ入っていた。

 

「最初の通路確保は良かった。でも戻る時に視線が前だけになってた。後ろの詰まり見て」

 

「はい」

 

「声掛けは問題ない。でも代わりに入る時、笑顔が消えすぎ。ちょっと怖い」

 

「はい。」

 

 モニター室の中のエマが、それを見て苦笑した。

 

「これ、毎回言うんだよね」

 

「怖かったのか」

 

 カオルが聞く。

 

「うん」

「切り替えが早いのはいいんだけど、“大丈夫ですか”の顔じゃなくて、“どうしたの”の顔になるって」

 

 ククルがけらけら笑う。

 

「分かる!だってほんとなんだもん」

 

 モニターの中ではさらに続く。

 

「若手組、全体的に声が上ずる。大丈夫そうに見せたいのは分かるけど、落ち着いて、体調不良対応は、正しさより先に安心感。そのための声と姿勢」

 

 カイエの言葉は、どれも短い。

 だが短いだけではない。

 言葉の裏に、現場で何度も積み上げてきた感覚があるのが分かる。

 

 カオルは、それを見ていた。

 

 操縦とは違う。

 けれど、違うからこそ面白かった。

 

 自分は機体の中で、数字や挙動や姿勢を追う。

 彼女達は、客室の中で、人の目線や声の高さや空気の揺れを追う。

 見ているものは違う。

 だが、どちらも“流れを崩さないために必要な仕事”なのだ。

 

「……凄いな」

 

 今度は、はっきりそう言った。

 

 エマがその言葉を聞いて、少しだけ目を柔らかくする。

 

「うん。そう思ってくれるなら、見てもらった意味あった」

 

 ククルも何度も頷いた。

 

「乗務員の訓練って、派手じゃないからさ。でも、一回ちゃんと見てもらうと印象変わるんだよね」

 

「変わった」

 

 カオルは短く答える。

 

「想像してたより、ずっと……運航の中心に近い」

 

 その表現に、エマが「お」と反応した。

 

「いい言い方するじゃん」

 

「ほんとだ」

 

 ククルが嬉しそうに笑う。

 

「そうなんだよ。客室って端っこじゃなくて、便の中の真ん中なんだよね」

 

 そこへ、モニターの向こうでカイエがこちらへ一瞬だけ視線を向けた。

 ガラス越しではないので直接目が合うわけではないが、たぶん“見てる?”という確認だろう。

 

 カオルは無意識のうちに、小さく頷いていた。

 

 それから数分後、シミュレーションは一度終了した。

 

 乗務員達が散り、役割表を確認し、次の流れへ向けて水を飲んだり声を掛け合ったりしている。

 さっきまでカオルを見てそわそわしていた若手達も、今はもう仕事の顔だ。

 

「……なるほどな」

 

 カオルが小さく言う。

 

「何が?」

 

 エマが聞く。

 

「朝、お前がモニター室で見ろって言った理由」

 

 その言葉に、ちょうどモニター室へ入ってきたカイエが少しだけ眉を上げた。

 

「何、ちゃんと分かったんだ」

 

「見学が目的なら、あれが正解だった」

 

 カオルは率直に言う。

 

「中に立ってたら、あいつらもこっちも集中出来なかった」

 

「うん、そういうこと」

 

 カイエが頷く。

 

「客室の空気って、意外と簡単に乱れるから、特に最初の数分」

 

 ククルが、少しだけ得意そうに言う。

 

「ね、言ったでしょ?ちゃんと切り替える子達だって」

 

「ああ」

 

 カオルは、そのままモニターへ視線を戻した。

 

「最初はそわそわしてたのに、始まったら別人だった」

 

「それも訓練だからね」

 

 カイエが言う。

 

「仕事になったら戻る。じゃないと、続かない」

 

「……」

 

 少しだけ沈黙が落ちたあと、カオルが静かに口を開く。

 

「カイエ」

 

「なに?」

 

「さっきの動き、あれ全部把握してるのか」

 

「全部っていうか」

 

 カイエは少しだけ考える。

 

「“全部見よう”とはしてないかな。でも、崩れそうなところは見てる」

 

「崩れそうなところ」

 

「そう。たとえば、声が上ずる子、周りが見えなくなる子、優先順位がずれる子。そのへんが出る場所って、だいたい決まってくるから」

 

「なるほど」

 

「あと、自分で全部やろうとすると逆に崩れる。だから、任せるところは任せる」

 

 その言葉で、昨日から何度も聞いている“信頼”の二文字が、また頭へ浮かぶ。

 

 カオルは、それを隠さず言った。

 

「……それも信頼か」

 

 カイエが一瞬だけ目を細める。

 

「昨日の続き?」

 

「まあ」

 

「そうだね。たぶん、近いと思う」

 

 エマがそこで口を挟んだ。

 

「カオル、今ちょっと分かったんじゃない?」

 

「何を」

 

「乗務員のこと」

 

「少しは」

 

 カオルが答える。

 

「まだ全部は分からない。でも、少なくとも“別の場所で何かやってる人達”ではないってのは分かった」

 

 それを聞いて、ククルが嬉しそうに笑った。

 

「うわ、それだけでだいぶ前進!」

 

「大げさだ」

 

「大げさじゃないよ」

 

 ククルは言い切る。

 

「そこが見えないまま飛んでるパイロット、ほんとにいるから」

 

「いるね」

 

 エマが頷く。

 

「しかも本人は悪気ないんだよ。でも、こっちからすると“見えてないなあ”って分かる」

 

「……お前らも分かるのか」

 

 カオルが聞く。

 

「分かるよ」

 

 カイエが答えた。

 

「全部じゃないけど。でも、“こっちを運航の一部として見てるか”くらいは、空気で分かる」

 

 その答えに、カオルは少しだけ目を伏せた。

 

 自分も、昨日まではまだその域にいなかったのだろう。

 そして今日、少しだけそこへ近づけたのかもしれない。

 

「……凄いな」

 

 もう一度、今度は少し違う意味で言う。

 

 最初の“凄い”は感嘆だった。

 今の“凄い”は、少しだけ敬意に近い。

 

 カイエは、その違いが分かったのだろう。

 ほんの少しだけ、表情がやわらいだ。

 

「そんなでもないよ」

 

「いや」

 

 カオルは首を振る。

 

「そんなでもある」

 

 短いが、はっきりした言い方だった。

 

 それを聞いて、エマがにやっと笑う。

 

「カオル、今日だいぶ素直じゃん」

 

「今日、って何だ」

 

「朝より、ってこと」

 

「うんうん」

 

 ククルも頷く。

 

「最初、もっと何も言わない人かと思ってた」

 

「今もそんなに言ってない」

 

「でもちゃんと見て、ちゃんと返してくれるようになった」

 

 カイエが静かに言った。

 

「それで十分」

 

 その評価は、妙に心地よかった。

 

 大げさに褒められているわけじゃない。

 でも、ちゃんと見てもらえている。

 

 カオルは、モニターに映る客室をもう一度見た。

 次の流れへ向けて、乗務員達が位置を確認している。

 動線を整理し、通路を空け、資料を持ち、声を掛け合っている。

 

 その一つ一つが、ようやく少しだけ、自分の中の“運航”と繋がってきた。

 

「……また見に来てもいいか」

 

 ぽつりとカオルが言う。

 

 カイエが、一瞬だけ目を丸くする。

 

「見学?」

 

「ああ」

 

「モニター室なら」

 

 そう言って、少しだけ口元を緩めた。

 

「客室に立たないなら、ね」

 

 エマが笑い、ククルは「やったね!」と何故か自分のことのように喜ぶ。

 

 カオルは、そんな二人を見て少しだけ呆れたような顔をしたが、心の中では、自分でも不思議なくらい納得していた。

 

 もう一度見たい。

 今日見たものを、もう一回確かめたい。

 それは純粋な興味だった。

 

 自分が上へ行くために必要なものの中へ、ここにいる彼女達の動きが確かに含まれている。

 そう思えたからだ。

 

 カイエは、その視線の先を見ながら、静かに言う。

 

「見て覚えるのは、悪くないよ」

 

「……ああ」

 

「ただ、そのうち見るだけじゃ足りなくなる」

 

「どういう意味だ」

 

「一緒に組むことになるってこと」

 

 カイエがカオルを見る。

 

「その時に、今日の“凄い”がどれだけ残ってるかで、たぶん飛び方が変わる」

 

 その言葉に、カオルは小さく頷いた。

 

「覚えとく」

 

 モニターの向こうでは、次のシミュレーション開始の合図が入る。

 

 カオルは椅子へ深く座り直し、もう一度画面へ目を向けた。

 

 今度は、最初よりもっと見える気がした。

 動きの意味も。

 指示の短さの理由も。

 その短さの中に含まれている“任せる”という感覚も。

 

 凄いな――と、今度は心の中だけで言う。

 

 そして、その“凄さ”をちゃんと凄いと思えたことに、自分でも少しだけ驚いていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 カオルの初フライトが決まったのは、入社してからまだそう日が経っていない頃だった。

 

 朝の運航表を確認していたパイロット班の責任者が、何気ない調子で呼んだのだ。

 

「カオル」

 

「はい」

 

「次の便、一本入る」

 

 カオルは端末から顔を上げた。

 

「初フライトだ」

 

 その一言に、周囲の空気がほんの少しだけ変わる。

 

 同じフロアにいた何人かの乗務員がさりげなく視線を向ける。

 近くで書類をまとめていた事務方も、手を止めるほどではないが、耳だけはこちらへ向いていた。

 

 カオルは、思っていたよりも冷静だった。

 

「航路は?」

 

「ロカA2から木星コロニーまで、通常の旅客便。搭乗率はそこそこ。満席ではないが、軽くはない」

 

「相方は」

 

「マギー」

 

 その名前に、カオルは少しだけ眉を上げた。

 

 初日にオリエンテーションで名前だけ聞いていた。

 A級パイロット。

 操縦にはうるさい。

 フランクだが口も荒い。

 良く言えば癖がある。

 悪く言えば、わりと面倒な先輩。

 

「……そうですか」

 

「嫌そうな顔だな」

 

 責任者が言う。

 

「別に」

 

「まあ、向こうもA級だ。初便の相方としては悪くない。手は抜かないし、飛ばし方も雑じゃない……ただし」

 

「ただし?」

 

「客室との無線は、少し雑だ,そのへんは見て覚えろ。真似するかは自分で決めろ」

 

 その忠告は妙に率直だった。

 

 カオルは小さく頷く。

 

「分かりました」

 

「乗務員側はカイエ班だ」

 

 責任者が続ける。

 

「副パーサーはカイエ」

 

「……」

 

 その編成に、カオルの中で小さく何かが落ち着いた。

 ククルもエマもいない。

 つまり、客室側で一番顔が分かっていて、なおかつ一番“話が通る”のはカイエということになる。

 

 それは悪くない。

 

 責任者は、端末を閉じて言う。

 

「初便だ。浮かれるなよ」

 

「浮かれません」

 

「緊張もしなくていい。ただ、初便だからこそ、余計な意地は持ち込むな」

 

 その言い方に、カオルは少しだけ目を細めた。

 A級しか取れなかった悔しさ。

 S級へ届かなかったことへの苛立ち。

 自分の中にあるそういうものまで見透かされたようで、少しだけ気に障る。

 

 だが、間違ってはいない。

 

「……分かってます」

 

「ならいい」

 

 責任者は短くそう言って、もう次の資料へ視線を戻した。

 

 それで話は終わりだった。

 

 けれど、カオルにとっては、そこでようやく“本当に始まる”という感覚が輪郭を持った。

 

 A級を取った。

 会社へ入った。

 オリエンテーションも受けた。

 シミュレーションもした。

 

 でも、それらは全部“前段階”だったのだと、今なら分かる。

 

 初フライト。

 実際に客を乗せて飛ぶ。

 乗務員がいて、相方のパイロットがいて、会社の看板を背負って出る。

 

 それが初めて、今、自分の前に来た。

 

 

 便の前日、カオルは予定されていたシミュレーションを終えてフロアへ戻ると、ちょうど客室側のブリーフィングが始まる前だった。

 

 カイエが資料を束ねているのが見える。

 副パーサーとしてその日の準備を仕切る時の顔は、前にシミュレーションで見た時と同じだった。

 静かで、でも全体がその人を中心に少しだけ締まるような空気。

 

「カイエ」

 

 カオルが声をかける。

 

 カイエが振り向いた。

 

「ん?」

 

「次の便」

 

「ロカA2から木星?うん、聞いてる」

 

「お前が副パーサーなんだな」

 

「そう嫌?」

 

 少しだけ口元を緩めて聞く。

 

「別に」

 

「ならよかった」

 

 その返しがあまりにも軽いので、カオルは少しだけ眉を上げた。

 

「もっと何か言うかと思った」

 

「何を?」

 

「初便なんだから頑張れとか」

 

「ああ」

 

 カイエは、そこで少しだけ考えるような顔をしてから言った。

 

「それは明日言うよ」

 

「……そうか」

 

「今言っても薄いでしょ」

 

「確かに」

 

 カオルは、少しだけだけ頷く。

 

 カイエは、その反応に小さく笑った。

 

「安心して、初便だからって、いきなり特別扱いはしない。でも、必要な時はちゃんと声かける」

 

「それでいい」

 

 カオルはそう返した。

 

 そのやり取りを少し離れたところで見ていた若い乗務員が、ひそひそと何か話している。

 だが、今日はカオルももう気にしなかった。

 見られること自体には、まだ慣れない。

 けれど、それで仕事がずれるほどではない。

 

 それよりも今は、明日の便の方が頭の中で大きかった。

 

 

 初フライト当日。

 

 ロカA2のエアポートは、朝の早い時間でも人の気配が絶えなかった。

 

 旅客便の乗り継ぎ客。

 観光客。

 ビジネス客。

 乗務員達。

 パイロット。

 整備員。

 案内表示の光と、離発着のアナウンスが、一定のリズムで空間を満たしている。

 

 カオルは、会社の指定した集合時間より少し早く着いていた。

 

 制服は着慣れていない。

 だが、着崩す気もなかった。

 鏡で確認した通り、問題はないはずだ。

 

 空港内のブリーフィングルームへ入ると、既にマギーがいた。

 

 想像していたより背が高く、肩幅もある。

 髪は短めで、目つきは鋭い。

 座り方はラフなのに、そこにだらしなさはなく、むしろ“無駄な緊張を持ち込まない人間”の空気があった。

 

「お、来たか」

 

 マギーが先に気づく。

 

「カオル?」

 

「はい」

 

「敬語か。まあ最初はそんなもんか。マギーだ。よろしく」

 

 言い方はフランクだ。

 だが、声には粗さもある。

 責任者が言っていた“性格は荒いタイプ”という評価は、なんとなく分かる。

 

「よろしくお願いします」

 

「A級、取ったばっかなんだろ」

 

「はい」

 

「なら今日は黙って見てろ、って言いたいとこだけど」

 

 マギーは少しだけ笑う。

 

「客乗せる以上、そうもいかねえ、出来るとこはやれ。出来ねえとこは口出す。それで行くぞ」

 

「分かりました」

 

 そこへ、客室側の扉が開く。

 

 カイエを先頭に、乗務員達が入ってきた。

 今日の便に乗るメンバーだ。

 ククルとエマはいない。

 代わりに、カイエの下で動く若手が数人。

 何人かは、先日のシミュレーションで見た顔だった。

 

 カイエは、ルームへ入るとまず全体を見て、それからパイロット側へ軽く会釈した。

 

「おはよう」

 

「おはよう」

 

 マギーが短く返す。

 

 カオルも続ける。

 

「おはよう」

 

「おはよう」

 

 カイエの返しは落ち着いていた。

 

 ブリーフィングが始まる。

 

 便の概要。

 搭乗率。

 客層。

 特記事項。

 木星到着後の地上対応。

 途中の揺れ予測。

 機体側で注意すべき点。

 客室側での対応予定。

 

 カオルは、必要なことをメモしながら聞いていた。

 マギーは最初からその多くを頭へ入れているのか、要点だけ確認している。

 

「揺れは中盤で少し出るかもしれねえ」

 

 マギーが言う。

 

「大きくはねえが、客室アナウンスは早めに入れてくれ」

 

「了解」

 

 カイエが頷く。

 

「客層は?」

 

「研究施設関連が少し多い。家族連れも何組かいる」

 

「了解」

 

 そのやり取りは、必要十分だ。

 ただ、声の調子だけで言えば、マギーはやはり少し雑だった。

 

 言葉が荒い。

 説明の余白も少ない。

 

 だが、内容は的確で、判断も早い。

 それはブリーフィングの段階から分かった。

 

 全部が終わり、客室側が席を立ち始めた時だった。

 

「カオル」

 

 カイエが、小さく呼ぶ。

 

 ブリーフィングルームの出口近くで、ほんの少しだけ足を止めている。

 

 カオルがそちらへ近づくと、カイエは他の乗務員に聞こえないくらいの声で言った。

 

「初便」

 

「ああ」

 

「変に気負わなくていいよ」

 

「……」

 

「緊張してもいい。でも、固くならないで」

 

 その言い方は静かだった。

 “頑張れ”でも、“大丈夫”でもない。

 もっと実務的で、でも温度がある。

 

 カオルは、その言葉を聞いて、ほんの少しだけ口元を動かした。

 

「俺が緊張すると思うか?」

 

 わずかに挑むような、いつもの調子で言う。

 

 カイエは、その返しを聞いて少しだけ目を細めた。

 

「思わない」

 

「ならそれでいい」

 

「うん」

 

 カイエは頷く。

 

「でも、緊張しないことと、固くならないことは別だから」

 

 その言葉に、カオルは一瞬だけ黙った。

 

 返しに少し迷って、結局短く言う。

 

「……覚えとく」

 

「それで十分」

 

 カイエはそう言って、先にルームを出ていった。

 

 その背中を見送りながら、カオルは小さく息を吐く。

 

 檄。

 そう言ってしまえば静かすぎる。

 だが、たしかにあれは、カイエなりの檄だった。

 

 

 搭乗前の機体確認が終わり、コックピットへ入る。

 

 機体の中は落ち着く。

 客室はまだ準備段階で、ざわついた気配が遠くにある。

 だが、操縦席へ座ると、そのざわめきも少し遠くなる。

 

 マギーは慣れた動きで機器を確認しながら言う。

 

「初便だからって、変な気合い入れるなよ」

 

「入れてません」

 

「そうか?新人って、大体二種類いるんだよ」

 

「二種類?」

 

「黙って固くなるやつと、無駄に張り切るやつ。お前は前者寄りだな」

 

 カオルは少しだけ眉をひそめる。

 

「そんなに分かりやすいですか」

 

「分かりやすい」

 

 マギーは即答する。

 

「でもまあ、余計なことしてくれるよりはマシだ。黙って見て、必要な時にだけ手を出せ」

 

「了解です」

 

「敬語もそのうち抜けるだろ」

 

 マギーが言う。

 

「飛んでりゃそうなる」

 

「……そうですか」

 

「そうだ」

 

 そこで、コックピットの外から客室側の確認が入る。

 

『客室側、準備まもなく完了します』

 

 カイエの声だ。

 

 マギーは無線を取る。

 

「了解。こっちは問題なし」

 

 その返答は、やはり少し短い。

 悪くはない。

 だが、“了解。準備進めてくれ”ぐらいの余白がない。

 

 カオルは、それを聞きながら思う。

 

 ――上手い。

 

 この人は、上手い。

 

 まだ離陸もしていない。

 だが、機器確認一つ、手の動かし方一つで分かる。

 無駄がない。

 A級パイロットなのも頷ける。

 姿勢の取り方も、計器の見方も、修正を入れるタイミングも、訓練で叩き込まれたものを完全に自分のものへしている人間のそれだ。

 

 ただし。

 

 無線の対応だけは、確かに雑だった。

 

 次の確認でもそうだ。

 

『客室側、搭乗開始の準備完了』

 

「了解」

 

 終わり。

 

 必要な情報は返っている。

 返ってはいるが、そこに“相手へ渡すための整え方”がない。

 

 カイエがそれで困る様子はない。

 おそらく、もうマギーのこういう返しに慣れているのだろう。

 だが、昨日言われた“信頼の見え方”という話を知った今だと、たしかにこれは少し足りないとカオルにも感じられた。

 

「何だ」

 

 マギーが、ふいにこちらを見た。

 

「いや」

 

「言いたいことある顔だぞ」

 

 鋭い。

 操縦だけではなく、人の顔もある程度は見る人間らしい。

 

「客室との無線」

 

 カオルが率直に言う。

 

「少し、短いですね」

 

 マギーは一瞬だけ黙った。

 それから、ふっと鼻で笑う。

 

「責任者に言われたか?」

 

「……少し」

 

「だろうな」

 

 意外にも、否定しない。

 

「分かってるよ。でも、俺は最低限通じりゃいい派だ」

 

「それで困ることは?」

 

「困る時もある」

 

 マギーは平然と言う。

 

「でも、余計なこと喋って事故るやつもいる。だったら、俺は今の方がマシだと思ってる」

 

 その理屈は、分からないでもない。

 要らない言葉で混乱を増やすより、最低限で正確な方がいい。

 たしかにそれはそうだ。

 

 だが、“それだけでは足りない場面もある”という感覚も、カオルの中にはもう生まれ始めていた。

 

「お前」

 

 マギーが操縦席の位置を微調整しながら聞く。

 

「客室側、見たのか?」

 

「シミュレーションを」

 

「へえ」

 

 少しだけ面白そうな顔をする。

 

「新人のくせに、変なとこ見てんな」

 

「変ですか」

 

「普通は自分の操縦だけで手一杯だ。まあでも、悪くねえ。変な方向に真面目なんだろうな」

 

「……悪いですか」

 

「悪いとは言ってねえ」

 

 マギーは言った。

 

「ただ、そういうやつは伸びるか、面倒になるか、どっちかだ」

 

「どっちだと思います」

 

「今から決められるか」

 

 その返しに、カオルは少しだけ口元を引いた。

 

 悪くない人だ。

 雑だが、見ていないわけではない。

 そして、操縦に対するこだわりは本物だ。

 

 だからこそ、余計に“惜しい”とも思う。

 

 この腕で、もう少しだけ客室側への目線が整ったら、たぶんかなり強い。

 

 そんなことを、初便の相方に対して思っている自分へ、カオル自身が少しだけ可笑しさを感じた。

 

 

 搭乗が始まる。

 

 客室側からの最初の流れは落ち着いていた。

 カイエの班だから、というのもあるのだろう。

 客層も比較的穏やかで、大きな混乱はない。

 

 モニターの一部へ映る客室映像を、カオルは前より少し意識して見るようになっていた。

 

「見てんな」

 

 マギーが言う。

 

「……何を」

 

「客室」

 

「まあ」

 

「いいことだ」

 

 意外にも、マギーはそう言った。

 

「見てないやつよりはマシ。ただ、見すぎて操縦疎かにするなよ」

 

「しません」

 

「ならいい」

 

 離陸前の最終確認。

 エンジン出力の安定。

 航路クリアランス。

 姿勢制御。

 全部、マギーの手は安定している。

 

 カオルは、その一連を見て、改めて思う。

 

 上手い。

 A級であることに、何の違和感もない。

 初便の相方がこの人でよかったと、素直に思えた。

 

 そして離陸。

 

 推力が乗る。

 機体が前へ押し出される。

 ロカA2の地表が少しずつ遠ざかっていく。

 

 マギーの操縦は、派手ではない。

 だが、無駄もない。

 必要なだけ上げて、必要なだけ傾ける。

 変に“上手く見せよう”としていないところが、逆に上手さを際立たせていた。

 

「どうだ」

 

 マギーが前を見たまま聞く。

 

「……上手いです」

 

「だろ」

 

 その返しに、カオルは少しだけ呆れたような顔になった。

 

「自分で言うんですね」

 

「事実は言う」

 

 マギーは平然としている。

 

「でも、客室への無線は雑です」

 

 カオルが付け加えると、マギーは吹き出した。

 

「お前、そこ気に入りすぎだろ」

 

「気になったので」

 

「まあ、その通りだけどな」

 

 そこで客室側から、最初の巡航安定確認が入る。

 

『客室側、巡航移行に伴いサービス準備へ入ります』

 

 カイエの声。

 

「了解」

 

 やはり短い。

 

 カオルは、その一言のあとに続けるべき言葉を、頭の中でいくつか思い浮かべていた。

 

 ――揺れ予測なし、通常通りでいい。

 ――何かあれば早めに共有してくれ。

 ――サービス開始タイミングは任せる。

 

 そういう一言があるだけで、客室側の受け取り方も変わるのではないか。

 昨日今日で、そう思うようになっている自分に気づく。

 

「……」

 

 マギーは、その沈黙に気づいたのだろう。

 

「言いたそうだな」

 

「少し」

 

「言ってみろよ」

 

 カオルは少し迷ったが、素直に口にした。

 

「“了解”だけだと、任せられてるのか、切られてるのか、少し分かりにくい気がします」

 

 マギーは、今度はすぐには返さなかった。

 

 前を見たまま、数秒考える。

 

「……なるほどな」

 

「変ですか」

 

「いや、変じゃねえ」

 

 そこでマギーは、少しだけ口元を歪めた。

 

「お前、案外めんどくせえぐらい真面目だな」

 

「今さらです」

 

「違いねえ」

 

 そう言って、次の客室側からの確認が来た時、マギーは少しだけ言葉を足した。

 

『前方二区画のサービス開始します』

 

「了解。揺れ予測は今のところなし。そのまま進めてくれ」

 

 それだけ。

 

 たったそれだけだ。

 だが、昨日までのマギーなら言わなかったはずの一言だった。

 

 カオルがわずかに目を向けると、マギーは前を見たまま言う。

 

「こんなもんか?」

 

「……十分です」

 

「だろ」

 

 その返しは相変わらずだったが、少しだけ印象が変わって見えた。

 

 この人は、雑なだけではない。

 必要だと思えば変えることも出来る。

 単に“今までその必要をあまり感じていなかった”だけなのかもしれない。

 

 初フライトのコックピットは、そんなふうに少しずつ形を作りながら進んでいく。

 

 緊張しているかと問われれば、していないわけではない。

 だが、カイエへ返した通り、カオルはそれを表へ出すタイプではなかった。

 

 代わりに、目と耳だけはいつも以上に働いている。

 

 マギーの操縦。

 機体の反応。

 客室の流れ。

 無線の温度。

 

 その全部を、一度の便の中で少しでも多く掴もうとしていた。

 

 そして、その“掴もうとすること”こそが、すでに初フライトの時点で、カオルというパイロットの癖なのかもしれなかった。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 巡航へ入り、機体が安定してからしばらくは、コックピットの中にも一定の静けさがあった。

 

 木星までのフライトは、距離そのものは短くない。

 だが、危険な航路というわけでもなく、気流も今のところ大きく荒れてはいない。

 客室側ではサービスが始まっている頃だろう。

 カイエ達が動き、乗客達の反応を見ながら、それぞれの持ち場を回しているはずだ。

 

 カオルは、正面の計器と、サブモニターへ映る機体情報を静かに追っていた。

 

 マギーの操縦はやはり無駄がない。

 離陸から巡航まで、一つ一つの判断が速い。

 必要な修正だけを入れ、余分な動きをしない。

 A級パイロットなのも頷ける――その印象は、時間が経つほど強くなる。

 

 ただ、その一方で、客室側への無線はやはりぶっきらぼうだった。

 

『前方三区画、飲料サービス完了。後方へ移ります』

 

「了解」

 

 短い。

 

 カオルは横目でマギーを見た。

 マギーも、自分が短いことは分かっているのだろう。

 けれど、それで回るならいいという考えも本気で持っている。

 

「なんだよ」

 

 マギーが、視線は前に向けたまま言う。

 

「いや」

 

「また“短いですね”って顔してる」

 

「顔に出てますか」

 

「出てる」

 

 マギーは鼻で笑った。

 

「でも、まあ、さっきよりは少し足したぞ」

 

「そうですね」

 

「で、どうだ?そのくらいで変わるもんか?」

 

 カオルは、少しだけ考えてから答えた。

 

「変わると思います。少なくとも、“切られた”感じは減る」

 

「切られた、ねえ」

 

 マギーが少しだけ口元を歪める。

 

「お前、ほんと変なところ見てるな」

 

「見た方がいいと言われたので」

 

「誰に」

 

「昨日から色々」

 

「色々、か」

 

 マギーは、それ以上は聞かなかった。

 だが、軽く頷きだけはした。

 

 そこで、マギーが操縦席の位置を少しだけ引き、隣のサブコンソールを軽く叩く。

 

「よし、少し触るか」

 

 カオルが顔を上げる。

 

「俺が?」

 

「他に誰がいる」

 

「……いいんですか」

 

「いいも悪いも、初便だろ、何も触らせず終わらせたら、相方の意味がねえ」

 

 マギーの言い方はぞんざいだ。

 だが、その中に試す色と、ある程度の信頼が含まれているのが分かる。

 

「今から少しだけ流れ変わる。中盤で軽い揺れが出るかもしれねえ。そこまでの維持と、その先の微修正、お前やれ」

 

「分かりました」

 

「焦るな、上手く見せようとするな。今まで通りやれ」

 

「はい」

 

「……その返事、硬えな」

 

「了解」

 

「それでいい」

 

 マギーが少しだけ笑う。

 

 操縦権の一部を受ける。

 カオルは深く息を吐き、意識を一本に絞った。

 

 手を置く。

 重さを確かめる。

 機体の応答を見る。

 ほんのわずかな入力に対して、どれくらい素直に返るのか。

 この機体の今日の癖を、もう一度身体へ馴染ませる。

 

「……」

 

 声は出さない。

 必要な確認だけを短く行う。

 

「維持、入ります」

 

「了解」

 

 マギーが短く返す。

 

 カオルは操縦を引き継いだ。

 

 最初の数秒は、空気そのものが少しだけ張る。

 初便。

 初めて客を乗せている。

 隣にいるのは、腕もプライドもあるA級パイロット。

 その状況で操縦権を渡されたのだ。

 

 だが、手が震えることはなかった。

 

 揺れそうで揺れない微妙な気流の変化を、機体はわずかに示している。

 その兆候を拾いながら、必要以上に構えない。

 構えるほど機体は固くなる。

 固くなれば、余計な修正が増える。

 

 カオルは、それを知っている。

 

 だから、静かに待ち、静かに先回りする。

 少しだけ姿勢を整える。

 ほんの僅かな傾きの兆しに対し、余裕を残したまま修正を入れる。

 揺れの“前”で止めるように。

 

 マギーが、横で何も言わない。

 

 それが逆に、カオルにはやりやすかった。

 

 無言の数十秒が流れる。

 巡航維持。

 微修正。

 気流の薄い歪みに合わせた姿勢調整。

 

 その途中、客室側から無線が入った。

 

『客室側、やや細かい揺れを感じるとの声あり。サービス継続は可能?』

 

 カイエの声だ。

 

 カオルは一瞬だけ客室のことを思い浮かべる。

 今の程度なら、継続は可能。

 だが、あと数分で一段浅い揺れが来る可能性がある。

 

 マギーが、あえて黙っている。

 答えろ、ということだ。

 

「継続は可能、ただし、三分程度で一段細かい揺れが来るかもしれない。温かい飲料は一旦区切った方がいい」

 

 自分でも分かるくらい、言葉は少しだけ長かった。

 でも、必要なことは言えたはずだ。

 

 無線の向こうで、ごく短く間が空く。

 

『了解。サービス内容調整します』

 

 カイエの返答は静かだった。

 その“了解”に、どこか滑らかなものがあった。

 

 マギーが、小さく息を鳴らす。

 

「へえ」

 

 それだけ。

 

 だが、その一言には少しだけ意味があった。

 

 そして、予測していた通り、三分後に細かな揺れが入る。

 大きくはない。

 だが、飲料サービスの手元を少しだけ気にする程度には、客室へ影響する揺れだ。

 

 カオルは、そこへ合わせるように機体の姿勢を保ち、不要な揺れの増幅を避ける。

 完全には消せない。

 だが、暴れさせない。

 

 その数十秒を越えた時だった。

 

 マギーが、前を向いたままぽつりと呟いた。

 

「……上手いな」

 

 カオルが、わずかに目を向ける。

 

 マギーは視線を返さない。

 ただ計器を見たまま続ける。

 

「それに、恐ろしいほど落ち着いてる。初便でこれかよ」

 

「……」

 

「褒めてる」

 

「ありがとうございます」

 

「そこで敬語出るんだな」

 

「まだ抜けません」

 

「まあいい」

 

 マギーはそこでようやく少し笑った。

 

「でも、悪くねえ、余計な見栄もないし、機体の癖見るのも早い。客室への返しも、俺より丁寧だったな」

 

「……そこは」

 

 カオルは少しだけ口を閉じてから言う。

 

「見ておいた方がいいと思ったので」

 

「昨日今日で何があったか知らねえけど、お前、ちょっと面白い方向に真面目だな」

 

 そう言われても、否定はしなかった。

 

 やがて、マギーが操縦権を戻し、終盤の進入準備へ入る。

 カオルはその流れを、今度は少し違う目で見る。

 

 自分がさっき触った機体。

 自分の返した無線。

 客室側との繋がり。

 その全部が、最初にコックピットへ入った時よりも少しだけ近くなっていた。

 

 

 木星コロニーへの進入は、安定していた。

 

 マギーの操縦は、最後までぶれない。

 だからこそ、カオルも終盤は余計な力を入れずに、必要な確認とサポートへ集中出来た。

 

 着陸。

 減速。

 停止。

 そして、機体が完全に落ち着く。

 

『客室側、問題なし』

『搭乗客、順次降機開始します』

 

 カイエの声。

 

「了解」

 

 マギーが返す。

 

 やはり短い。

 だが、そこにもう少しだけ温度があれば、という感覚も、カオルの中では昨日より鮮明になっていた。

 

「どうだった」

 

 乗客の降機が始まり、コックピット内が少しだけ緩んだ頃、マギーが聞いた。

 

「……勉強になりました」

 

「真面目な答えだな」

 

「本音です」

 

「そうか」

 

 マギーはシートベルトを外しながら言う。

 

「ならいい、お前、飛べるよ」

 

 カオルは、その言葉を聞いて少しだけ目を伏せた。

 

 飛べる。

 それはたぶん、A級ライセンスをもらった時よりも、今の方が重い言葉だった。

 

「ありがとうございます」

 

「ただし」

 

 マギーが指を一本立てる。

 

「真面目すぎて一人で抱えるな。客室も使え、相方も使え、そういう飛び方しないと、そのうち自分が持たねえ」

 

 その忠告は、昨日から言われ続けていることと重なる。

 

「……分かってます」

 

「いや、まだ分かり切ってねえ顔してる」

 

 マギーは笑った。

 

「でも、気にしてるだけマシか」

 

 

 降機が終わり、整備士への引き継ぎが入る。

 

 機体の状態。

 中盤の軽微な揺れ。

 補助系の挙動。

 着陸後の温度とログ。

 

 カオルは必要な報告を淡々と済ませた。

 整備士も手慣れていて、余計な会話はない。

 それが心地よかった。

 

「じゃ、こっちは以上で」

 

「了解」

 

 整備側が去り、カオルは管制側への最終報告へ向かうことになった。

 

 空港内の通路は、到着直後の少し慌ただしい空気をまだ残している。

 客が流れ、案内表示が光り、スタッフが次の便の準備へ動いている。

 

 カオルは、一人で歩いていた。

 

 初便を終えた。

 大きな失敗はない。

 マギーからも悪くない評価をもらった。

 客室との無線も、自分なりには一歩踏み込めた。

 

 その事実だけで十分なはずなのに、頭の中はまだ妙に静かだった。

 達成感で浮つく感じがない。

 たぶん、初便が終わったからといって、自分の中の“上を見ている感覚”は消えないのだろう。

 

 そんなふうに考えながら歩いている時だった。

 

 少し先の通路の端で、小さな男の子が一人、困ったように立っているのが見えた。

 

 年は四、五歳くらいか。

 小さな鞄を肩から下げ、きょろきょろと周囲を見ている。

 泣きそうというほどではない。

 でも、明らかに所在が分からなくなっている顔だった。

 

「……」

 

 カオルは、一瞬だけ足を止める。

 

 正直、子どもの相手は苦手だ。

 

 何をどう話せばいいのか分からない。

 大人より反応が読みにくいし、変に怖がらせても困る。

 放っておけば、すぐに係員か親が来るかもしれない。

 

 そう思ったのに、次の瞬間、カオルの頭へふと別の顔が浮かんだ。

 

 アダム。

 

 サヴァイヴで一緒にいた、あの島の男の子。

 まっすぐで、少し甘えん坊で、でもちゃんと強くて。

 周りの俺たちを何度も見上げていた目。

 

 目の前の少年は別人だ。

 顔も、髪も、何もかも違う。

 それなのに、一瞬だけ“似ている”と思った。

 

 その瞬間だった。

 カオルは、自分でも気づかないうちにその子へ歩み寄っていた。

 

「どうした?」

 

 声をかける。

 

 男の子が、びくっとして顔を上げた。

 

「……あ」

 

「一人か?」

 

 低い声だったかもしれない。

 だが、カオルは意識して少しだけ目線を下げた。

 

 男の子は、不安そうに口を開く。

 

「ママ、いなくなっちゃった」

 

「はぐれたのか」

 

 男の子がこくんと頷く。

 

「どこから来たか分かるか?」

 

「えっと……おふね、おりて……それで……」

 

 うまく説明出来ないらしい。

 

 カオルは少しだけ困った。

 やはり、子どもは難しい。

 

「名前は?」

 

「……ユウト」

 

「そうか。ユウトか」

 

 その名を一度口に出すと、少しだけ距離が近づく気がした。

 

「俺はカオルだ」

 

「かおる?」

 

「ああ」

 

「おにいさん、ぱいろっと?」

 

 その問いに、カオルは少しだけ目を瞬いた。

 

「そうだ」

 

「すごい!」

 

 ユウトの目が、少しだけ明るくなる。

 さっきまで不安そうだったのに、その反応は妙に素直だった。

 

 その顔がまた、少しだけアダムを思い出させた。

 

 思わず、カオルの口元へわずかに笑みが浮かぶ。

 

「すごいかは知らない」

 

「すごいよ!だって、おふねうごかすんでしょ?」

 

「まあな」

 

「ママが、ぱいろっとはえらいって言ってた!」

 

「そうか」

 

「うん!」

 

 そこでようやく、ユウトの表情から少しだけ不安が抜けた。

 

 カオルは、自分の端末を取り出しながら言う。

 

「じゃあ、ママ探すか」

 

「うん」

 

「でも勝手に動くなよ」

 

「わかった」

 

「いい返事だ」

 

 そう言った自分の声が、少しだけ柔らかいことへ、カオル自身が一瞬だけ驚く。

 

 近くの案内スタッフを呼ぼうとしたその時だった。

 

「ユウトー!」

 

 少し離れた方から、女性の声が飛んできた。

 

 母親だろう。

 こちらへ走ってくる。

 顔は青ざめていて、本気で探していたのが一目で分かった。

 

「ママ!」

 

 ユウトが、その瞬間だけ完全に子どもの顔へ戻って駆け出そうとする。

 

 カオルは反射的にその肩を軽く押さえた。

 

「走るな」

 

「……うん!」

 

 だが、声はもう弾んでいる。

 

 女性が駆け寄り、ユウトを抱きしめた。

 

「よかった……! 本当に、もう……!」

 

「ごめんなさい……」

 

 ユウトが少しだけしゅんとする。

 

 女性は、それからカオルへ向き直り、深く頭を下げた。

 

「すみません、ありがとうございました」

 

「いえ」

 

 カオルは短く答える。

 

「見つかってよかったです」

 

「本当に助かりました」

 

 女性は何度も頭を下げる。

 その間、ユウトがカオルを見上げていた。

 

「かおるおにいさん、ばいばい!」

 

「……ああ」

 

「うん!」

 

 元気に手を振る。

 

 カオルも、小さく手を上げた。

 

 母親とユウトが去っていく。

 その背中を見送りながら、カオルは少しだけ息を吐いた。

 

「……疲れた」

 

 思わず本音が出る。

 

 子どもの相手は、やはり苦手だ。

 でも、不思議と嫌ではなかった。

 

 アダムを思い出したからか。

 あるいは、あの素直な目を見て、何かがほぐれたのかもしれない。

 

 そんなことを考えながら、再び管制へ向かって歩き出した、その時だった。

 

 不意に、背中のあたりへ柔らかい衝撃が当たる。

 

「っ」

 

 反射的に振り返る。

 

 そこにいたのは、カイエだった。

 

 走ってきたわけではない。

 だが、意図的に軽く身体をぶつけてきたのだと分かる距離感だった。

 

「……何してる」

 

 カオルが言う。

 

 カイエは、どこか楽しそうで、どこか照れくさそうな顔をしていた。

 

「いや」

 

 少しだけ口元を緩める。

 

「いい所、あるじゃない」

 

「は?」

 

「子ども」

 

 カイエが顎でさっきの親子が去っていった方向を示す。

 

「苦手なのかと思ったけど」

 

「……」

 

「案外、優しいところあるじゃない」

 

 その言い方は、からかい半分ではない。

 純粋に、見たままを少し嬉しそうに言っている感じだった。

 

 カオルは、一瞬だけ言葉に詰まる。

 

「見てたのか」

 

「見てた」

 

 カイエはあっさり認めた。

 

「客室側の片付け終わって、こっち来たらちょうど、最初は“あ、声かけるんだ”って思って、次に“あ、笑った”って思って」

 

「笑ってない」

 

「笑ってた」

 

 カイエは即答する。

 

「ちょっとだけだけど、ちゃんと」

 

「……気のせいだ」

 

「そういうことにしといてもいいけど」

 

 カイエは、少しだけ肩を揺らして笑った。

 

「でも、ああいう時に自然に声かけるんだね。正直、もっと放っておくタイプかと思ってた」

 

「俺もそう思ってた」

 

 カオルがぼそっと返す。

 

 それが本音だった。

 

「でも、放っておけなかった」

 

 カイエの目が、少しだけ柔らかくなる。

 

「へえ」

 

「子どもは苦手だ」

 

「うん」

 

「でも……」

 

 そこでカオルは少しだけ言葉を切った。

 

 アダムの名前を出すのは、まだ少し違う気がした。

 だから、ほんの少しだけぼかす。

 

「知ってる子に、少し似てた」

 

「そうなんだ」

 

 カイエは、それ以上深く聞かなかった。

 ただ、その答えだけで十分だったらしい。

 

「それで、声かけたの?」

 

「ああ」

 

「ふうん」

 

 その返事が、なぜか少し嬉しそうだった。

 

「……何だよ」

 

 カオルが聞く。

 

「いや別に」

 

 カイエはそう言いながらも、口元が少し緩んでいる。

 

「なんか、思ってたよりずっと人間味あるなって」

 

「失礼だな」

 

「そう?」

 

「そうだ」

 

「でも、今日の便の中でも思った。操縦してる時、すごく静かで落ち着いてるのに。さっきみたいなところ、ちゃんとあるんだなって」

 

「……」

 

 カオルは返せない。

 

 褒められている。

 たぶん。

 でも、正面から受けるには少し照れくさい。

 

 そんな微妙な沈黙の中で、少し離れた場所から黄色い声が飛んだ。

 

「きゃー!」

「なに今の!」

「ちょっと近くない!?」

「カイエさんずるーい!」

 

 振り向くと、少し先の通路で今日の便に乗っていた若い乗務員達がこちらを見ていた。

 片付け帰りなのだろう。数人が固まって立っていて、明らかに今のやり取りを見ていたらしい。

 

 カイエが身体をぶつけてきたところ。

 そのあと、二人で立ち話をしていたところ。

 距離が近いように見えたのだろう。

 

「……」

 

 カオルは無言になる。

 

「はぁ、見られてた」

 

 カイエが小さく呟く。

 だが、その声はどこか少し笑っている。

 

「カイエさん、何それー!」

「初便終わりでいきなり距離近くないですか!?」

「カオルさん、今ちょっと笑ってましたよね!?」

 

「笑ってない」

 

 カオルが少し大きめの声で返すと、今度は本当に黄色い声が上がった。

 

「わあ、返された!」

「やっぱり顔いい!」

「やばい、近くで見るともっとすごい!」

 

「ちょっと、あなた達」

 

 カイエが呆れたように言う。

 

「仕事終わったからって騒がないの」

 

「だってぇ!」

「今の、めっちゃ良かったです!」

「カイエさん、ぶつかってたし!」

 

「ぶつかったっていうか、ちょっと触れただけでしょ」

 

「それがもう良いんですよ!」

 

 別の乗務員が力説する。

 

「意味分かんないんだけど」

 

 カイエが本気で言うと、ますます笑いが広がる。

 

 ククルやエマがいたら、たぶんこの状況をもっと面白がっていたに違いない。

 だが今はいない。

 だからこそ、カイエ一人が少しだけ照れくさそうに、でもどこか楽しそうに矢面へ立っていた。

 

「カオルさん、子どもに優しいの反則です!」

「見てましたよー!」

「めっちゃ自然にしゃがんでた!」

 

「……見すぎだろ」

 

 カオルが低く返す。

 

「見ますよ!だって目立つし!」

 

「目立つって」

 

「目立つんです!」

 

 その勢いに、カイエがとうとう吹き出した。

 

「ほら、だから言ったでしょ、来た時点で客室の空気飛ぶって」

 

「……お前の言う通りだったな」

 

「でしょ?」

 

 どこか得意そうだ。

 

 カオルは、そんなカイエを見てほんの少しだけ眉を寄せた。

 

「なんでお前が嬉しそうなんだ」

 

「知らない、でも、ちょっと面白い」

 

 その答えが妙に正直で、カオルは返す言葉を失う。

 

 若い乗務員達は、まだきゃあきゃあと騒いでいる。

 

「カイエさん、報告会してください!」

 

「え?なんの?」

 

「今の会話の詳細です!」

 

「いらないでしょ」

 

「需要あります!」

 

「ないでしょ」

 

 その応酬が、もう完全に仕事終わりの空気だった。

 

 カオルは、そんな喧騒の中で少しだけ息を吐く。

 

 初フライトは、無事終わった。

 操縦も、客室との繋がりも、自分なりに一歩前へ進めた気がする。

 そして最後に、子どもへ声をかけて、カイエに見つかって、訳の分からない黄色い声まで浴びることになるとは思わなかった。

 

「……疲れるな」

 

 ぽつりと漏らす。

 

「一日が?」

 

 カイエが聞く。

 

「ああ」

 

「そうだね」

 

 カイエは素直に頷いた。

 

「でも、悪くなかったでしょ」

 

 その問いに、カオルは少しだけ考える。

 

 そして、小さく答えた。

 

「……悪くはない」

 

「うん」

 

 カイエは満足そうに微笑んだ。

 

「それなら十分」

 

 そこへまた後ろから声が飛ぶ。

 

「カイエさん、今の顔ずるいですー!」

 

「はぁ、疲れる」

 

「カオルさんもちゃんと見てくださいよー!」

 

「見なくていい」

 

 カオルが即答すると、今度はその反応にまた悲鳴じみた歓声が上がった。

 

「うわー!」

「冷たいのに優しい!」

「もう無理!」

 

「何が無理なのよ……」

 

 カイエが呆れながら笑う。

 

 その笑い声を聞きながら、カオルはふと、今日一日の始まりより少しだけ自分の立つ場所が近くなった気がした。

 

 まだ新人だ。

 まだA級だ。

 S級には遠い。

 飛び方にも、任せ方にも、足りないものは多い。

 

 それでも。

 

 こうして一便終えて、誰かと話して、笑われて、少しだけ認められる。

 そういう一つ一つが、きっと“ここで飛ぶ”ということなのだろう。

 

 カイエが、小さく肩でカオルを押した。

 

「ほら、管制行くんでしょ」

 

「ああ」

 

「じゃあ行きなよ、そのまま固まってると、また見られるよ」

 

 振り返ると、乗務員達がまだこちらを見ていた。

 

「……ほんとに疲れるな」

 

「だから言ったでしょ」

 

 カイエは笑う。

 

「でも、たぶんそのうち慣れる」

 

「慣れたくない」

 

「無理だと思う」

 

 そう言って、また楽しそうに笑う。

 

 カオルは一度だけため息をついてから、ようやく足を前へ出した。

 

「じゃあな」

 

「うん」

 

 カイエが軽く手を振る。

 

「お疲れ」

 

 その声を背中で聞きながら、カオルは管制へ向かって歩き出した。

 

 後ろではまだ少し騒ぎが続いていたが、もうさっきほど気にはならなかった。

 むしろ、その騒がしさが妙に心地よくすらあった。

 

 初フライトの一日は、そうして少しだけ賑やかな余韻を残しながら終わっていった。

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