サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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三つ巴

 カオルは、初フライトを終えてから、ほとんど間を置かず次のフライトへ駆り出されていた。

 

 最初のきっかけは、マギーの報告だった。

 

 あの初便のあと、マギーは操縦ログと簡単な所見を上へ提出したらしい。

 その内容が、思っていたよりずっと強かったのだ。

 

 ――あいつの操縦は、ハワード財閥の旅行会社の中でも一、二を争う腕だ。

 

 もちろん、そこへ続けて「ただし新人らしく、客室や全体運航への馴染みはまだ粗い」「経験を積ませる価値がある」とも書いてあったらしい。

 だが、上の人間が拾ったのは、まず“腕がいい”という部分だった。

 

 もともと、旅客運航部門は人が足りていないわけではない。

 けれど、これから先を見て育てておきたい人材は常に欲しい。

 その中で、A級を取ったばかりの新人が、実便でマギーからあそこまで言われたのだ。

 

 なら、少しでも経験を積ませた方がいい。

 

 そういう上の判断が、わりと露骨に反映された。

 

 

「ずいぶん入れましたね」

 

 数日後、更新された運航表を見て、カオルは率直にそう言った。

 

 パイロット班の責任者は、端末から目を離さず返す。

 

「入れた。新人にしては多いだろ」

 

「そうですね」

 

 あっさり認める。

 

「上が回した、“今のうちに色んな便を踏ませろ”だと」

 

「……マギーの報告ですか」

 

「半分はな」

 

 責任者が、そこで少しだけ口元を歪めた。

 

「あいつ、褒める時は変に盛るんだよ“上手い”だけじゃ足りなくて、“今のうちに飛ばしとけ”まで勝手に書く」

 

「迷惑ですね」

 

「そうか?」

 

「ええ」

 

「でも、お前にとっては悪い話じゃない。経験は詰めるだけ詰んどけ」

 

 それは、正しい。

 カオルにも分かっている。

 

 A級を取った。

 だがS級には届かなかった。

 悔しさはまだ、自分の中へしっかり残っている。

 

 だったら、飛ぶしかない。

 

 操縦して。

 便を回して。

 相方を見て。

 客室との連携を覚えて。

 場数を重ねていくしかない。

 

「分かりました」

 

 短く答える。

 

「それでいい」

 

 責任者は言って、すぐに次の便の説明へ移った。

 

 

 それからのカオルは、驚くほどの速さで“初便の緊張”を次の便へ塗り替えられていった。

 

 ロカA2から木星。

 木星から中継コロニー。

 比較的短めの旅客便。

 たまに研究施設職員を多めに乗せた便。

 家族連れの多い便。

 逆に静かなビジネス客中心の便。

 

 相方も毎回違う。

 マギーのように腕に自信があって口が荒いタイプもいれば、寡黙で堅実な中堅、逆にやたら説明が細かい先輩もいた。

 

 飛ぶたびに、カオルは少しずつ客室側の見え方も気にするようになっていた。

 

 揺れの前に一言足す。

 “了解”だけで終わらせない。

 客室へ返す情報の温度を、ほんの少しだけ整える。

 

 大げさな変化ではない。

 でも、それだけでカイエ達の無線の受け取り方が滑らかになる時がある。

 そのことに気づいてからは、操縦の外側にある運航の感覚が、自分の中でも少しずつ繋がり始めていた。

 

 そして。

 

 いくつものフライトをこなし、会社へ戻ってくるたびに、必ず起きることがあった。

 

 

 最初に現れるのは、決まってカイエだった。

 

 フロアへ戻る。

 報告書を整える。

 管制と整備側への引き継ぎを終え、ようやく席へ着こうとする。

 

 すると、大抵、カイエがちょうどいいタイミングで自席から顔を上げる。

 

「お疲れ」

 

 声のトーンはいつも同じだ。

 明るすぎず、でも冷たくもない。

 仕事の終わりにちょうどいい、落ち着いた声音。

 

「ああ」

 

 カオルが返す。

 

「今日どうだった?」

 

 この問いかけが、最初の合図だった。

 

 他の乗務員達は、もう半ば“始まった”みたいな顔をする。

 だが、カオルがそのことへ気づいたのは、もう少し後のことだった。

 

 カイエは、ただ労いの言葉だけを言うわけではない。

 必ず、操縦の話を聞いてくる。

 

「揺れ、予測通りだった?」

 

「中盤はだいたい、後半は少し浅かった」

 

「客室への共有は?早めに入れられた?」

 

「温かい飲料だけ先に切ってもらった」

 

「うん、それで十分」

 

 あるいは、別の日には。

 

「今日の機長、どんなタイプだった?」

 

「細かい。たぶん俺より喋る」

 

「へえ、じゃあやりやすかった?」

 

「半分。でも、細かすぎて逆に客室が迷う場面もあった」

 

「なるほどね」

 

 カイエは、その返答をただ面白がって聞いているわけではない。

 ちゃんと自分の中で整理して、客室側から見た時の感覚と照らし合わせている。

 だから問いも少しずつ変わる。

 

「着陸前、客室の締め方はどう見えた?」

 

「悪くなかった。ただ、一回だけ無線入れるタイミング遅れた」

 

「誰が?」

 

「後方区画」

 

「……分かった。次組んだ時に見とく」

 

 こういう返しをするから、カオルも無駄に誤魔化さなくなった。

 

 最初の頃は、正直、カイエがそこまで聞いてくる理由がよく分からなかった。

 ただの興味かと思っていた。

 けれど違う。

 彼女は、自分が副パーサーとして便全体を見ているからこそ、パイロット側の見え方も知りたいのだ。

 

 そして、カオルの言葉は、ちゃんと次の便で乗務員側へ返されているらしい。

 

 それが分かってからは、この“お疲れ”のあとの短い会話も、ただの雑談ではなくなった。

 

 その日も、ロカA2から中継コロニーまでの戻り便を終えてフロアへ入ると、カイエが先にこちらへ気づいた。

 

「お疲れ」

 

「ああ」

 

「今日は長かったね」

 

「客層が面倒だった」

 

「家族連れ多かった便でしょ、大変だったね」

 

「大変だったのは客室だろ」

 

 カイエが少しだけ目を細める。

 

「へえ〜そういう見方するようになったんだ」

 

「……悪いか」

 

「悪くない」

 

 カイエは小さく笑う。

 

「で、どうだった?前半、ちょっと揺れた?」

 

「細かいのが続いた。でも大きくはならなかった」

 

「無線、早かったよ、“いまのうちに片付けてくれ”って、ちょうど欲しい時に来た」

 

「そうか」

 

「うん、助かった」

 

 たったそれだけのやり取りなのに、不思議と“帰ってきた”感覚があった。

 

 

 そして、カイエが終わると、だいたいその少し後にククルが現れる。

 

 現れるというより、突撃してくる。

 

 たいてい、手にはジュースがある。

 紙パックだったり、缶だったり、小さなボトルだったり。

 その日によって違うが、なぜか毎回何かを持っている。

 

「カオル、お疲れ様!」

 

 明るい声で来る。

 そして、半ば押しつけるように飲み物を差し出す。

 

「はい、これ!」

 

「……何だ」

 

「今日はリンゴ!昨日はオレンジだったから」

 

「なんでローテーションみたいになってるんだ」

 

「なんとなく!」

 

 ククルはこういうところが本当に理屈じゃない。

 

「別に毎回いらない」

 

「いるよ」

 

「いらない」

 

「いるって」

 

 押し問答になる。

 最初のうちは本気で返していたカオルも、今では半分諦めて受け取るようになっていた。

 

「……ありがとう」

 

「うん!」

 

 それでククルは満足そうに笑う。

 

 そして、その笑顔のまま、やっぱり操縦の話を聞いてくる。

 

 カイエの質問が“運航の全体”を見るものなら、ククルの質問はもっと素直だ。

 

「今日どうだった?」

「怖かった?」

「景色、きれいだった?」

「お客さん、静かだった?」

「相方、優しかった?」

 

 聞き方が全部そのままだ。

 

 ある日、カオルが少し疲れた顔で戻ってきた時もそうだった。

 

「お疲れ様!」

 

 ククルが小走りで来る。

 手には小さなぶどうジュース。

 

「今日はこれ!」

 

「またか」

 

「今日は疲れてそうだから甘いやつ!ほら」

 

 ぐい、と差し出す。

 

「……見ただけで分かるのか」

 

「ちょっと分かるよ、だって、今日はいつもより目が重いもん」

 

「そんなに顔に出てるか」

 

「少しだけ」

 

 ククルは素直に頷いた。

 

「で、どうだった?今日、難しかった?」

 

「乗客が多かった」

 

「うん」

 

「しかも降機直前で、一人酔った」

 

「うわぁ!それ大変だ」

 

「客室側がな」

 

「でも、カオルも大変だったでしょ?」

 

「まあ」

 

 そこでククルは、少しだけ真面目な顔になる。

 

「無線、どうした?」

 

「どうした、って」

 

「客室にどう返したのかなって、その人が気分悪いってなった時」

 

「……減速入れるほどじゃない、でも姿勢だけ少し調整した。あと、客室へ“急がなくていい”って返した」

 

 ククルの目が少し丸くなる。

 

「“急がなくていい”って言ったの?」

 

「ああ」

 

「へえ」

 

 それから、すごく嬉しそうに笑った。

 

「いいじゃん!それ、客室側すごく助かるよ」

 

「そうなのか」

 

「そうだよ!“すぐ戻ってこい”とか“何分で片付けろ”とかじゃなくて、“急がなくていい”って言われると、ちゃんとお客さん見られるし」

 

「……」

 

 ククルのこういうところは、案外侮れない。

 

 言葉は軽い。

 だが、実際に乗務員として動いている側の本音が、そのまま出てくる。

 

「カイエにも似たようなこと言われた」

 

「やっぱり?じゃあそれ、かなり良かったんだと思う」

 

 ククルは、ジュースを渡した役目も忘れたみたいに頷いた。

 

「カオル、最近ちょっと柔らかくなったよね」

 

「何が」

 

「無線とか、返しとか、前より“客室に渡す言葉”がある」

 

「……」

 

「いいと思う」

 

 そう言うククル自身が、何だか嬉しそうなのが少し不思議だった。

 

 それで話が終わると、今度はククルがふっと立ち上がる。

 

「じゃ、次エマだから」

 

「何が次だ」

 

「順番」

 

 その言い方があまりにも当然で、カオルは少しだけ眉を寄せる。

 

「順番?」

 

「うん!だいたいそうなってるでしょ」

 

「……」

 

 たしかに。

 最近はほとんど毎回、カイエのあとにククルが来る。

 

 でも、それを本人達がそこまで自覚しているとは思わなかった。

 

「お前ら、わざとやってるのか?」

 

「半分くらいは偶然、半分くらいは、なんとなく?」

 

 ククルは楽しそうに笑って、そのまま去っていく。

 

 残されるカオルは、ジュース片手に少しだけ呆れるしかない。

 

 

 そして、ククルが終わると、最後にエマが来る。

 

 これも、驚くほど高い確率で同じ流れだった。

 

 エマは、ククルみたいに勢いよく来ない。

 カイエみたいに静かに“お疲れ”と切り出すでもない。

 

 自然に、気づいたら近くへ来ている。

 

 たいてい、自分の分のお菓子か小さなつまみを持っている。

 チョコレートだったり、クッキーだったり、ナッツだったり。

 それを自分でつまみながら、何食わぬ顔で話しかけてくるのだ。

 

「お疲れ」

 

「ああ」

 

「それ、ククルにまた飲み物渡されたでしょ」

 

「よく分かったな」

 

「見てたから」

 

 悪びれもせず言う。

 

「で?」

 

「何が」

 

「今日の便、どうだった」

 

 エマの聞き方は、三人の中で一番“人”に寄っているかもしれなかった。

 

 カイエみたいに便全体の流れを聞くわけでもない。

 ククルみたいに素直な感想を聞くわけでもない。

 その中間で、“今日の相方はどうだった”“お前は何を思った”“そこで何を選んだ”みたいな、人と判断の話を掘ってくる。

 

「今日の機長、誰だったの?」

 

「イーサン」

 

「へえ、静かすぎる人だ!どうだった?」

 

「喋らない」

 

「それは知ってる」

 

 エマが笑う。

 

「でも、喋らない人の方が、案外客室に優しかったりするよね」

 

「……それは少し分かる」

 

「でしょ、必要な時だけ長くなるタイプでしょ」

 

「ああ」

 

 また別の日には、こうだった。

 

「今日はマギーだったんでしょ?」

 

「そうだ」

 

「どう?まだ雑?」

 

「雑だな」

 

 カオルが即答する。

 

 エマは吹き出した。

 

「やっぱり、でも操縦は上手いでしょ」

 

「上手い」

 

「だよねえ〜悔しいけど、あの人、腕だけで言えばほんと強いから」

 

「客室への返し、少しはマシになってた」

 

「へえ?」

 

 エマが少しだけ目を丸くする。

 

「カオルが言った?」

 

「少し」

 

「何それ、効いたんだ」

 

「さあな」

 

「効いたんだよ、それ。マギー、言われる相手選ぶから。ちゃんと聞いたってことは、あんたのこと少し認めてるんじゃない?」

 

 そういうことを、エマは平気で言う。

 

 からかっているだけではない。

 でも真面目すぎない。

 その塩梅がちょうどよくて、カオルもつい話してしまうのかもしれなかった。

 

 ある日、遅めの便を終えて戻ってきた時には、エマがチョコレートを一つ放り投げてきた。

 

「ほら」

 

「何だ」

 

「糖分、今日は顔が死んでる」

 

「生きてる」

 

「半分くらい死んでる」

 

 カオルは受け取って、しばらく手の中で見ていた。

 

「食べないの?」

 

「食べる」

 

「なら早く食べなよ」

 

 言われて包装を開ける。

 

 エマは、それを見てからようやく本題へ入った。

 

「で、今日何があったの」

 

 カオルは、チョコを口へ入れてから答えた。

 

「途中で予定になかった揺れが入った。客室側の片付けが少し遅れてた」

 

「うわ!それで?」

 

「大きくはならなかった。でも一段階だけアナウンス早めた」

 

「いいじゃん、で、客室への返しは?」

 

「“無理に片付けるな、まず固定”って」

 

 エマが、少しだけ目を細める。

 

「……うん。それ、かなりいい」

 

「そうか?」

 

「うん。急がせないで、優先順位だけ渡してる。前のカオルなら、そこまで言葉なかったと思う」

 

「前の俺、何だと思われてるんだ」

 

「操縦だけ見てる人」

 

 エマは、あっさり言った。

 

「でも今は、ちゃんと客室にも渡してる。だから聞いてて面白いんだよ」

 

「面白い?」

 

「うん、変わってくの見えるから」

 

 そこまで言って、エマはまた自分のクッキーを齧る。

 

 そういうところが、妙に自然でずるい。

 

 

 それが、日常になっていた。

 

 フライトを終える。

 戻る。

 まずカイエが「お疲れ」と言って、便全体の話を聞いてくる。

 それが終わると、ククルがジュースを持って現れて、素直な感想と客室目線の話を聞く。

 ククルが去ると、エマが何かしらのお菓子を持ってきて、人と判断の話を聞く。

 

 最初のうちは偶然だと思っていた。

 だが、さすがに何度も続くと偶然では済まない。

 

 そして、周りも当然それに気づいていた。

 

 若手の乗務員達はもちろん。

 事務方。

 整備へ向かう途中のスタッフ。

 時々フロアを横切る上の人間ですら、「あ、また始まった」という顔をする。

 

 それがある日、とうとうはっきりと耳へ入った。

 

 便を終えて戻り、ちょうどカイエが「お疲れ」と席を立った瞬間だった。

 

 少し離れたところで、若い乗務員二人が小声で言い合っている。

 

「始まった」

「今日はカイエさんからだ」

「次ククルさんで、最後エマさんかな」

「完全にルーティンだよね」

「ていうか、もう三つ巴の戦いじゃん」

 

 カオルは、ちょうどその“戦い”という単語だけを、はっきり聞いた。

 

「……」

 

 何も言わない。

 だが、耳には残る。

 

 カイエもその囁きを聞いたらしく、ぴたりと一瞬だけ動きが止まった。

 

「三つ巴って何」

 

 その場で振り向いて、あまりにもまっすぐ聞いた。

 

 若手二人が固まる。

 

「え、あ、いや、違います、何でもないです!」

 

「何でもない顔じゃなかったけど」

 

 カイエがじっと見る。

 

 すると、そこへククルがちょうどジュースを持って現れた。

 

「はい、今日はグレープフルーツ!」

 

「お前、今ちょうど空気読んでないな」

 

 エマが少し遅れて来ながら言う。

 

「え、何?どうしたの?」

 

「三つ巴の戦い、だって」

 

 カイエが無表情で言う。

 

 ククルが一瞬きょとんとして、それから吹き出した。

 

「えっ、何それ!誰が言ったの!」

 

「こっち」

 

 カイエが若手を指す。

 

「違いますっ!違うっていうか、いや違わないっていうか……!」

 

 若手達が本気で慌てる。

 そこへエマが面白そうに近づく。

 

「へえ〜三つ巴ねえ」

 

「エマ、乗らないで」

 

 カイエが呆れる。

 

「だってちょっと面白いじゃん。カイエ、ククル、私でしょ?」

 

「何が面白いなの」

 

「カオル帰ってくるたび、順番に捕まえてるじゃん」

 

「捕まえてない!」

 

「捕まえてるよ!本人が一番自覚ないだけで」

 

 その言い方に、ククルまで笑い始める。

 

「確かに!毎回そうなってる!」

 

「ククルも笑うな」

 

 カイエが本気で言う。

 

 そして、当然のように視線がカオルへ集まる。

 

「……何だ」

 

 カオルは低く言う。

 

「いや」

 

 エマがにやにやしながら言う。

 

「当事者、どう思ってんのかなって」

 

「別に」

 

「別に?」

 

「お前らが勝手に来るだけだろ」

 

「うわ、そう言った」

 

 若手の一人が小声で言う。

 

「冷たいのに正論」

 

「ずるい……」

 

 何がずるいのか、カオルには分からない。

 

「でも」

 

 ククルが、ジュースを持ったまま首を傾げる。

 

「嫌ならちゃんと言うでしょ?カオル、そういう人だし」

 

 その問いに、カオルは少しだけ考えた。

 

 嫌か、と言われれば、別に嫌ではない。

 面倒だと思う時はある。

 でも、嫌ではない。

 

「……嫌じゃない」

 

 ぽつりと、そう言った。

 

 一瞬、周囲がしんとした。

 

 次の瞬間。

 

「きゃー!」

「今の聞いた!?」

「嫌じゃないって!」

「それ、ほぼ肯定じゃん!」

 

 黄色い声が飛ぶ。

 カイエが本気で額へ手を当てる。

 ククルは何だか嬉しそうだし、エマは面白くてたまらない顔をしていた。

 

「ちょっと!変な意味に取らないで」

 

 カイエがすぐに言う。

 

「いやでも今のはだいぶ……」

 

「だいぶ何よ」

 

「だいぶ“いつもの三人”が、受け入れられてる感じした」

 

 若手が言い切ると、エマが肩を揺らした。

 

「まあ、それはあるかもね」

 

「エマまで!」

 

「だって本当じゃん!最初の頃より、カオルちゃんと話すし」

 

 そういうやり取りの中で、ククルがようやく本来の目的を思い出したようにジュースを差し出す。

 

「はい、これ!今日はグレープフルーツだからちょっと苦いよ」

 

「なんで苦いの渡す」

 

「大人だから」

 

「意味が分からない」

 

「でも疲れてる時、これいいんだって」

 

 カオルは受け取った。

 それを見て、また周囲がざわつく。

 

「受け取った!」

「やっぱり断らないんだ」

「もう完全に恒例行事じゃん……」

 

 カイエが、その空気に小さくため息をついてから、いつものように切り出した。

 

「今日はどうだった?」

 

 その一言で、黄色い声援はようやく少し収まる。

 

 皆、結局その話の流れは見たいのだ。

 

 カオルは、少しだけ疲れた顔のまま答える。

 

「前半静かで、後半少し揺れた!でも大きくはならなかった」

 

「客室への共有は?」

 

「早めに入れた。“急ぐな、固定優先”で返した」

 

「うん」

 

 カイエが頷く。

 

「それなら十分」

 

「今日は後方が少し詰まってた」

 

「見てたの?」

 

「モニターで少し」

 

「……なるほど」

 

 カイエは、その一言だけで少しだけ満足そうな顔をした。

 

 それが終わると、今度はククルの番だ。

 

「景色どうだった?木星側、今日は綺麗だった?」

 

「まあ、悪くなかった」

 

「うわ、カオルにしては褒めてる!じゃあほんとに綺麗だったんだ」

 

「そういう受け取り方するな」

 

「するよー」

 

 ククルは嬉しそうに笑う。

 

「お客さんどうだった?」

 

「静か。でも子どもが多かった」

 

「へえ〜それで?カオル、ちょっと困った?」

 

「少しは」

 

「やっぱり!でも最近、子どもに慣れてきたんじゃない?」

 

「慣れてない」

 

「そうかなあ」

 

 そうしてククルの一通りが終わると、最後にエマが小袋のクッキーを片手に寄ってくる。

 

「で、今日の相方は?」

 

「ハルト」

 

「うわ、理屈っぽい人だ」

 

「その通りだ」

 

「でしょ?どうだった? 疲れた?」

 

「少し」

 

「だろうねえ」

 

 エマがクッキーを一つ口に入れる。

 

「でも、そういう便の方が勉強になるでしょ」

 

「まあな」

 

「客室への返し、今日は?」

 

「早めに二回。片付けと着席」

 

「いいじゃん」

 

「……」

 

「前より、客室のタイミング見てるよね」

 

 カオルは、それを否定しなかった。

 

「必要だと思っただけだ」

 

「うん、それがいいんだよ」

 

 エマが笑う。

 

 そのやり取りを、周囲の若手達は半ば頬杖をつきながら見ていた。

 

「やっぱり順番だ……」

「完全にそうだよね」

「カイエさんは仕事の話」

「ククルさんは感想」

「エマさんは人の話」

「分担できてる……」

「三つ巴っていうか、もう役割分担完璧では?」

 

「何が完璧なのよ」

 

 カイエが聞き返すと、若手達は「いえ別に」と笑って誤魔化す。

 だが、フロア全体がその流れに慣れているのはもう隠しようがなかった。

 

 

 それは、次の日も、その次の日も、だいたい同じだった。

 

 カオルが飛ぶ。

 帰ってくる。

 カイエが労いと共に運航全体の話を聞く。

 ククルがジュースと感想を持ってくる。

 エマが菓子を食べながら人と判断の話を聞く。

 

 ある日には、三人がほとんど同時に近づきかけて、そこで若手達が「今日は乱戦だ!」と勝手に盛り上がったこともあった。

 

「カオル、お疲れ――」

 

「はいジュース――」

 

「で、今日の――」

 

 三人が一瞬重なる。

 

 その瞬間、後ろから。

 

「きた!」

「乱戦!」

「三つ巴の本気!」

 

「うるさい!」

 

 珍しくカイエが即座に振り返って怒った。

 

 それでも、エマは吹き出しているし、ククルは笑いを堪えきれていない。

 カオルだけが少し離れた目でその騒ぎを見ていた。

 

「……お前ら、面白がってるだろ」

 

「少し」

 

 エマがあっさり認める。

 

「少しどころじゃない」

 

 カオルが言うと、ククルがにこにこしながらジュースを差し出した。

 

「はい、今日は桃」

 

「なんでこういう時でも渡すんだ」

 

「ルーティンだから」

 

「誰が決めた」

 

「空気」

 

 意味が分からない。

 

 けれど、結局カオルは受け取る。

 それを見て、後ろでまた小さな歓声が上がる。

 

「はいはい、静かに」

 

 今度はカイエが、呆れ半分で周囲を制した。

 

「仕事終わりだからって騒ぎすぎ、自分達の報告終わったの?」

 

「終わりましたー」

「だから見てるんですー」

 

「見なくていい」

 

「でも見たいです」

 

 そう返されて、カイエがまたため息をつく。

 

 そのため息すら、今ではだいぶこのフロアの日常に近づいていた。

 

 

 カオル自身も、最初はこの流れへ戸惑っていた。

 

 なぜ毎回聞かれるのか。

 なぜ毎回飲み物や菓子が出てくるのか。

 なぜ他の乗務員達が、そんな自分達を見て妙に盛り上がるのか。

 

 だが、便の回数が増えるにつれて、それが少しずつ“煩わしいもの”から“帰ってきた時にあるもの”へ変わっていった。

 

 飛んで、戻る。

 席に着く前に、まず誰かが声をかける。

 何があったかを少しだけ言葉にする。

 その短いやり取りの中で、便の中で感じたことが自分の中でも整理される。

 

 カイエに話せば、運航全体の流れとしてまとまる。

 ククルに話せば、客室の温度として変換される。

 エマに話せば、人の癖や判断の面白さとして返ってくる。

 

 同じ便の話でも、三人に話すと見え方が違う。

 

 だから、気づけばカオルの方も、フライトから戻るたびに少しだけ“今日は誰から来るか”を無意識に待つようになっていた。

 

 それに自分で気づいたのは、ある日の夕方だった。

 

 その日は便が一本飛んだだけで、戻りも比較的早かった。

 フロアへ入る。

 だが珍しく、カイエが席にいない。

 

「……」

 

 カオルは、鞄を置いてから少しだけ周りを見る。

 

 すぐに自分で、その動きへ気づいた。

 

(何やってる)

 

 待っているみたいじゃないか。

 

 そう思った瞬間、後ろから声が飛んできた。

 

「お疲れ」

 

 振り向くと、少し遅れて戻ってきたカイエが立っていた。

 

「……ああ」

 

「何、その間」

 

「別に」

 

「今、探してたでしょ」

 

「探してない」

 

「探してた」

 

 カイエは少しだけ笑う。

 

「ほら、座って。今日どうだった?」

 

 その問いかけを聞いた瞬間、カオルは不思議なくらい自然に息を吐いていた。

 

「……今日は、思ったより静かだった」

 

 ぽつりとそう言うと、カイエは何も言わず頷いた。

 

 それだけで、何となく戻ってきた気がしたのだ。

 

 

 周りの噂は、だんだん大きくなっていった。

 

 三つ巴の戦い。

 新人イケメンパイロット争奪戦。

 カイエ・ククル・エマ包囲網。

 好き勝手な呼び名が、若手達の間を飛び交う。

 

 もちろん、本人達は一様に否定する。

 

「争ってない」

 

 カイエが言う。

 

「争ってないよ!」

 

 ククルが言う。

 

「まあ、面白がってるだけだしね」

 

 エマは否定しきっていない気もするが、少なくとも本気で張り合っているわけではない。

 

 カオルも、その噂に対しては「勝手に言ってろ」としか返さなかった。

 

 けれど、ある日、若手の一人がぽろっと言った言葉が、妙に残った。

 

「でも、なんかいいですよね」

 

「何が」

 

 カオルが聞くと、その若手は少しだけ照れくさそうに笑った。

 

「帰ってきたら、ちゃんと誰かが“お疲れ”って言ってくれるの。しかも毎回、飛んだ話をちゃんと聞いてくれるじゃないですか」

 

「……」

 

「羨ましいです。うちのパイロット、帰ってきてもそのまま報告して終わりの人、多いし」

 

 その言葉を聞いて、カオルは一瞬だけ何も言えなかった。

 

 羨ましい。

 そう見えるのか。

 

 自分にとっては、いつの間にか当たり前になりつつあるその流れが、外から見ればそういうふうに映るらしい。

 

「……そうか」

 

 それだけ返す。

 

 若手は少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。

 

「はい。なんか、いいなって思います」

 

 その日、便を終えて戻った時。

 

「お疲れ」

 

 いつものようにカイエが言い。

 

「はい、今日はアップルソーダ!」

 

 ククルが飲み物を差し出し。

 

「で、今日の相方どうだったの」

 

 エマが菓子をつまみながら聞いてくる。

 

 その全部を、カオルは前より少しだけ静かな気持ちで受け止めていた。

 

 うるさい。

 面倒だ。

 そう思う時もある。

 

 でも、それだけじゃない。

 

 飛んで、戻ってきて、自分の便のことを誰かに話す。

 その話を、三人がそれぞれ違う角度で受け取って返してくる。

 それがあるから、また次の便へ出ていける。

 

 そういう流れが、気づけば日常になっていた。

 

 カオルは、自席へ戻りながら、ククルから受け取ったジュースを机へ置いた。

 

「……お前ら」

 

 三人がほとんど同時に「ん?」と顔を上げる。

 

「何?」

 

「どうしたの?」

 

「なに、珍しい」

 

 カオルは、少しだけ言葉を探した。

 

 言う必要のないことかもしれない。

 でも、その日は何となく口に出したくなった。

 

「毎回、聞いてくるだろ」

 

「うん」

 

 カイエが頷く。

 

「それが?」

 

「……悪くない」

 

 一瞬、三人とも止まった。

 

「え」

 

 ククルが最初に声を漏らす。

 

「今なんて?」

 

「悪くない、って言った?」

 

 エマが目を細める。

 

「……聞こえただろ」

 

 カオルが少しだけ目を逸らす。

 

「だから毎回そんなに言わせるな」

 

 その言い方が、妙に照れ隠しめいていて、三人は一拍遅れてから揃って笑った。

 

「うわあ」

 

 ククルが嬉しそうに言う。

 

「それ、すっごく嬉しい」

 

「ね」

 

 エマも笑う。

 

「こういうの、ちゃんと口にするんだ」

 

「珍しいね」

 

 カイエは少しだけ目を細めた。

 

「でも、言ってくれてありがと」

 

 その言葉に、カオルは返事をしなかった。

 ただ、少しだけ視線を伏せただけだ。

 

 周りではまた、若手達が小さく盛り上がっている。

 

「聞いた!?」

「今の聞いた!?」

「完全に公式イベントじゃん!」

「やっぱり三つ巴じゃなくて、もう帰還儀式だよ!」

 

「何よ帰還儀式って」

 

 カイエが言うと、エマが吹き出す。

 

「それちょっと面白い!採用しようかな」

 

「採用しなくていい!」

 

 ククルはもうジュースを握ったまま笑っている。

 

 カオルは、そんな騒がしさを聞きながら、小さく息を吐いた。

 

 初フライトから、まだそんなに時間は経っていない。

 けれど、飛ぶたびに少しずつ自分の中へ積み重なるものがある。

 

 操縦。

 客室との連携。

 相方との呼吸。

 そして、帰ってきた時に待っている声。

 

 A級しか取れなかった悔しさは、まだ消えていない。

 S級は、今も遠い。

 でも、その遠さへ向かう道の途中に、こういう日常があることを、カオルは少しずつ悪くないと思い始めていた。

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