カオルは、初フライトを終えてから、ほとんど間を置かず次のフライトへ駆り出されていた。
最初のきっかけは、マギーの報告だった。
あの初便のあと、マギーは操縦ログと簡単な所見を上へ提出したらしい。
その内容が、思っていたよりずっと強かったのだ。
――あいつの操縦は、ハワード財閥の旅行会社の中でも一、二を争う腕だ。
もちろん、そこへ続けて「ただし新人らしく、客室や全体運航への馴染みはまだ粗い」「経験を積ませる価値がある」とも書いてあったらしい。
だが、上の人間が拾ったのは、まず“腕がいい”という部分だった。
もともと、旅客運航部門は人が足りていないわけではない。
けれど、これから先を見て育てておきたい人材は常に欲しい。
その中で、A級を取ったばかりの新人が、実便でマギーからあそこまで言われたのだ。
なら、少しでも経験を積ませた方がいい。
そういう上の判断が、わりと露骨に反映された。
◇
「ずいぶん入れましたね」
数日後、更新された運航表を見て、カオルは率直にそう言った。
パイロット班の責任者は、端末から目を離さず返す。
「入れた。新人にしては多いだろ」
「そうですね」
あっさり認める。
「上が回した、“今のうちに色んな便を踏ませろ”だと」
「……マギーの報告ですか」
「半分はな」
責任者が、そこで少しだけ口元を歪めた。
「あいつ、褒める時は変に盛るんだよ“上手い”だけじゃ足りなくて、“今のうちに飛ばしとけ”まで勝手に書く」
「迷惑ですね」
「そうか?」
「ええ」
「でも、お前にとっては悪い話じゃない。経験は詰めるだけ詰んどけ」
それは、正しい。
カオルにも分かっている。
A級を取った。
だがS級には届かなかった。
悔しさはまだ、自分の中へしっかり残っている。
だったら、飛ぶしかない。
操縦して。
便を回して。
相方を見て。
客室との連携を覚えて。
場数を重ねていくしかない。
「分かりました」
短く答える。
「それでいい」
責任者は言って、すぐに次の便の説明へ移った。
◇
それからのカオルは、驚くほどの速さで“初便の緊張”を次の便へ塗り替えられていった。
ロカA2から木星。
木星から中継コロニー。
比較的短めの旅客便。
たまに研究施設職員を多めに乗せた便。
家族連れの多い便。
逆に静かなビジネス客中心の便。
相方も毎回違う。
マギーのように腕に自信があって口が荒いタイプもいれば、寡黙で堅実な中堅、逆にやたら説明が細かい先輩もいた。
飛ぶたびに、カオルは少しずつ客室側の見え方も気にするようになっていた。
揺れの前に一言足す。
“了解”だけで終わらせない。
客室へ返す情報の温度を、ほんの少しだけ整える。
大げさな変化ではない。
でも、それだけでカイエ達の無線の受け取り方が滑らかになる時がある。
そのことに気づいてからは、操縦の外側にある運航の感覚が、自分の中でも少しずつ繋がり始めていた。
そして。
いくつものフライトをこなし、会社へ戻ってくるたびに、必ず起きることがあった。
◇
最初に現れるのは、決まってカイエだった。
フロアへ戻る。
報告書を整える。
管制と整備側への引き継ぎを終え、ようやく席へ着こうとする。
すると、大抵、カイエがちょうどいいタイミングで自席から顔を上げる。
「お疲れ」
声のトーンはいつも同じだ。
明るすぎず、でも冷たくもない。
仕事の終わりにちょうどいい、落ち着いた声音。
「ああ」
カオルが返す。
「今日どうだった?」
この問いかけが、最初の合図だった。
他の乗務員達は、もう半ば“始まった”みたいな顔をする。
だが、カオルがそのことへ気づいたのは、もう少し後のことだった。
カイエは、ただ労いの言葉だけを言うわけではない。
必ず、操縦の話を聞いてくる。
「揺れ、予測通りだった?」
「中盤はだいたい、後半は少し浅かった」
「客室への共有は?早めに入れられた?」
「温かい飲料だけ先に切ってもらった」
「うん、それで十分」
あるいは、別の日には。
「今日の機長、どんなタイプだった?」
「細かい。たぶん俺より喋る」
「へえ、じゃあやりやすかった?」
「半分。でも、細かすぎて逆に客室が迷う場面もあった」
「なるほどね」
カイエは、その返答をただ面白がって聞いているわけではない。
ちゃんと自分の中で整理して、客室側から見た時の感覚と照らし合わせている。
だから問いも少しずつ変わる。
「着陸前、客室の締め方はどう見えた?」
「悪くなかった。ただ、一回だけ無線入れるタイミング遅れた」
「誰が?」
「後方区画」
「……分かった。次組んだ時に見とく」
こういう返しをするから、カオルも無駄に誤魔化さなくなった。
最初の頃は、正直、カイエがそこまで聞いてくる理由がよく分からなかった。
ただの興味かと思っていた。
けれど違う。
彼女は、自分が副パーサーとして便全体を見ているからこそ、パイロット側の見え方も知りたいのだ。
そして、カオルの言葉は、ちゃんと次の便で乗務員側へ返されているらしい。
それが分かってからは、この“お疲れ”のあとの短い会話も、ただの雑談ではなくなった。
その日も、ロカA2から中継コロニーまでの戻り便を終えてフロアへ入ると、カイエが先にこちらへ気づいた。
「お疲れ」
「ああ」
「今日は長かったね」
「客層が面倒だった」
「家族連れ多かった便でしょ、大変だったね」
「大変だったのは客室だろ」
カイエが少しだけ目を細める。
「へえ〜そういう見方するようになったんだ」
「……悪いか」
「悪くない」
カイエは小さく笑う。
「で、どうだった?前半、ちょっと揺れた?」
「細かいのが続いた。でも大きくはならなかった」
「無線、早かったよ、“いまのうちに片付けてくれ”って、ちょうど欲しい時に来た」
「そうか」
「うん、助かった」
たったそれだけのやり取りなのに、不思議と“帰ってきた”感覚があった。
◇
そして、カイエが終わると、だいたいその少し後にククルが現れる。
現れるというより、突撃してくる。
たいてい、手にはジュースがある。
紙パックだったり、缶だったり、小さなボトルだったり。
その日によって違うが、なぜか毎回何かを持っている。
「カオル、お疲れ様!」
明るい声で来る。
そして、半ば押しつけるように飲み物を差し出す。
「はい、これ!」
「……何だ」
「今日はリンゴ!昨日はオレンジだったから」
「なんでローテーションみたいになってるんだ」
「なんとなく!」
ククルはこういうところが本当に理屈じゃない。
「別に毎回いらない」
「いるよ」
「いらない」
「いるって」
押し問答になる。
最初のうちは本気で返していたカオルも、今では半分諦めて受け取るようになっていた。
「……ありがとう」
「うん!」
それでククルは満足そうに笑う。
そして、その笑顔のまま、やっぱり操縦の話を聞いてくる。
カイエの質問が“運航の全体”を見るものなら、ククルの質問はもっと素直だ。
「今日どうだった?」
「怖かった?」
「景色、きれいだった?」
「お客さん、静かだった?」
「相方、優しかった?」
聞き方が全部そのままだ。
ある日、カオルが少し疲れた顔で戻ってきた時もそうだった。
「お疲れ様!」
ククルが小走りで来る。
手には小さなぶどうジュース。
「今日はこれ!」
「またか」
「今日は疲れてそうだから甘いやつ!ほら」
ぐい、と差し出す。
「……見ただけで分かるのか」
「ちょっと分かるよ、だって、今日はいつもより目が重いもん」
「そんなに顔に出てるか」
「少しだけ」
ククルは素直に頷いた。
「で、どうだった?今日、難しかった?」
「乗客が多かった」
「うん」
「しかも降機直前で、一人酔った」
「うわぁ!それ大変だ」
「客室側がな」
「でも、カオルも大変だったでしょ?」
「まあ」
そこでククルは、少しだけ真面目な顔になる。
「無線、どうした?」
「どうした、って」
「客室にどう返したのかなって、その人が気分悪いってなった時」
「……減速入れるほどじゃない、でも姿勢だけ少し調整した。あと、客室へ“急がなくていい”って返した」
ククルの目が少し丸くなる。
「“急がなくていい”って言ったの?」
「ああ」
「へえ」
それから、すごく嬉しそうに笑った。
「いいじゃん!それ、客室側すごく助かるよ」
「そうなのか」
「そうだよ!“すぐ戻ってこい”とか“何分で片付けろ”とかじゃなくて、“急がなくていい”って言われると、ちゃんとお客さん見られるし」
「……」
ククルのこういうところは、案外侮れない。
言葉は軽い。
だが、実際に乗務員として動いている側の本音が、そのまま出てくる。
「カイエにも似たようなこと言われた」
「やっぱり?じゃあそれ、かなり良かったんだと思う」
ククルは、ジュースを渡した役目も忘れたみたいに頷いた。
「カオル、最近ちょっと柔らかくなったよね」
「何が」
「無線とか、返しとか、前より“客室に渡す言葉”がある」
「……」
「いいと思う」
そう言うククル自身が、何だか嬉しそうなのが少し不思議だった。
それで話が終わると、今度はククルがふっと立ち上がる。
「じゃ、次エマだから」
「何が次だ」
「順番」
その言い方があまりにも当然で、カオルは少しだけ眉を寄せる。
「順番?」
「うん!だいたいそうなってるでしょ」
「……」
たしかに。
最近はほとんど毎回、カイエのあとにククルが来る。
でも、それを本人達がそこまで自覚しているとは思わなかった。
「お前ら、わざとやってるのか?」
「半分くらいは偶然、半分くらいは、なんとなく?」
ククルは楽しそうに笑って、そのまま去っていく。
残されるカオルは、ジュース片手に少しだけ呆れるしかない。
◇
そして、ククルが終わると、最後にエマが来る。
これも、驚くほど高い確率で同じ流れだった。
エマは、ククルみたいに勢いよく来ない。
カイエみたいに静かに“お疲れ”と切り出すでもない。
自然に、気づいたら近くへ来ている。
たいてい、自分の分のお菓子か小さなつまみを持っている。
チョコレートだったり、クッキーだったり、ナッツだったり。
それを自分でつまみながら、何食わぬ顔で話しかけてくるのだ。
「お疲れ」
「ああ」
「それ、ククルにまた飲み物渡されたでしょ」
「よく分かったな」
「見てたから」
悪びれもせず言う。
「で?」
「何が」
「今日の便、どうだった」
エマの聞き方は、三人の中で一番“人”に寄っているかもしれなかった。
カイエみたいに便全体の流れを聞くわけでもない。
ククルみたいに素直な感想を聞くわけでもない。
その中間で、“今日の相方はどうだった”“お前は何を思った”“そこで何を選んだ”みたいな、人と判断の話を掘ってくる。
「今日の機長、誰だったの?」
「イーサン」
「へえ、静かすぎる人だ!どうだった?」
「喋らない」
「それは知ってる」
エマが笑う。
「でも、喋らない人の方が、案外客室に優しかったりするよね」
「……それは少し分かる」
「でしょ、必要な時だけ長くなるタイプでしょ」
「ああ」
また別の日には、こうだった。
「今日はマギーだったんでしょ?」
「そうだ」
「どう?まだ雑?」
「雑だな」
カオルが即答する。
エマは吹き出した。
「やっぱり、でも操縦は上手いでしょ」
「上手い」
「だよねえ〜悔しいけど、あの人、腕だけで言えばほんと強いから」
「客室への返し、少しはマシになってた」
「へえ?」
エマが少しだけ目を丸くする。
「カオルが言った?」
「少し」
「何それ、効いたんだ」
「さあな」
「効いたんだよ、それ。マギー、言われる相手選ぶから。ちゃんと聞いたってことは、あんたのこと少し認めてるんじゃない?」
そういうことを、エマは平気で言う。
からかっているだけではない。
でも真面目すぎない。
その塩梅がちょうどよくて、カオルもつい話してしまうのかもしれなかった。
ある日、遅めの便を終えて戻ってきた時には、エマがチョコレートを一つ放り投げてきた。
「ほら」
「何だ」
「糖分、今日は顔が死んでる」
「生きてる」
「半分くらい死んでる」
カオルは受け取って、しばらく手の中で見ていた。
「食べないの?」
「食べる」
「なら早く食べなよ」
言われて包装を開ける。
エマは、それを見てからようやく本題へ入った。
「で、今日何があったの」
カオルは、チョコを口へ入れてから答えた。
「途中で予定になかった揺れが入った。客室側の片付けが少し遅れてた」
「うわ!それで?」
「大きくはならなかった。でも一段階だけアナウンス早めた」
「いいじゃん、で、客室への返しは?」
「“無理に片付けるな、まず固定”って」
エマが、少しだけ目を細める。
「……うん。それ、かなりいい」
「そうか?」
「うん。急がせないで、優先順位だけ渡してる。前のカオルなら、そこまで言葉なかったと思う」
「前の俺、何だと思われてるんだ」
「操縦だけ見てる人」
エマは、あっさり言った。
「でも今は、ちゃんと客室にも渡してる。だから聞いてて面白いんだよ」
「面白い?」
「うん、変わってくの見えるから」
そこまで言って、エマはまた自分のクッキーを齧る。
そういうところが、妙に自然でずるい。
◇
それが、日常になっていた。
フライトを終える。
戻る。
まずカイエが「お疲れ」と言って、便全体の話を聞いてくる。
それが終わると、ククルがジュースを持って現れて、素直な感想と客室目線の話を聞く。
ククルが去ると、エマが何かしらのお菓子を持ってきて、人と判断の話を聞く。
最初のうちは偶然だと思っていた。
だが、さすがに何度も続くと偶然では済まない。
そして、周りも当然それに気づいていた。
若手の乗務員達はもちろん。
事務方。
整備へ向かう途中のスタッフ。
時々フロアを横切る上の人間ですら、「あ、また始まった」という顔をする。
それがある日、とうとうはっきりと耳へ入った。
便を終えて戻り、ちょうどカイエが「お疲れ」と席を立った瞬間だった。
少し離れたところで、若い乗務員二人が小声で言い合っている。
「始まった」
「今日はカイエさんからだ」
「次ククルさんで、最後エマさんかな」
「完全にルーティンだよね」
「ていうか、もう三つ巴の戦いじゃん」
カオルは、ちょうどその“戦い”という単語だけを、はっきり聞いた。
「……」
何も言わない。
だが、耳には残る。
カイエもその囁きを聞いたらしく、ぴたりと一瞬だけ動きが止まった。
「三つ巴って何」
その場で振り向いて、あまりにもまっすぐ聞いた。
若手二人が固まる。
「え、あ、いや、違います、何でもないです!」
「何でもない顔じゃなかったけど」
カイエがじっと見る。
すると、そこへククルがちょうどジュースを持って現れた。
「はい、今日はグレープフルーツ!」
「お前、今ちょうど空気読んでないな」
エマが少し遅れて来ながら言う。
「え、何?どうしたの?」
「三つ巴の戦い、だって」
カイエが無表情で言う。
ククルが一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「えっ、何それ!誰が言ったの!」
「こっち」
カイエが若手を指す。
「違いますっ!違うっていうか、いや違わないっていうか……!」
若手達が本気で慌てる。
そこへエマが面白そうに近づく。
「へえ〜三つ巴ねえ」
「エマ、乗らないで」
カイエが呆れる。
「だってちょっと面白いじゃん。カイエ、ククル、私でしょ?」
「何が面白いなの」
「カオル帰ってくるたび、順番に捕まえてるじゃん」
「捕まえてない!」
「捕まえてるよ!本人が一番自覚ないだけで」
その言い方に、ククルまで笑い始める。
「確かに!毎回そうなってる!」
「ククルも笑うな」
カイエが本気で言う。
そして、当然のように視線がカオルへ集まる。
「……何だ」
カオルは低く言う。
「いや」
エマがにやにやしながら言う。
「当事者、どう思ってんのかなって」
「別に」
「別に?」
「お前らが勝手に来るだけだろ」
「うわ、そう言った」
若手の一人が小声で言う。
「冷たいのに正論」
「ずるい……」
何がずるいのか、カオルには分からない。
「でも」
ククルが、ジュースを持ったまま首を傾げる。
「嫌ならちゃんと言うでしょ?カオル、そういう人だし」
その問いに、カオルは少しだけ考えた。
嫌か、と言われれば、別に嫌ではない。
面倒だと思う時はある。
でも、嫌ではない。
「……嫌じゃない」
ぽつりと、そう言った。
一瞬、周囲がしんとした。
次の瞬間。
「きゃー!」
「今の聞いた!?」
「嫌じゃないって!」
「それ、ほぼ肯定じゃん!」
黄色い声が飛ぶ。
カイエが本気で額へ手を当てる。
ククルは何だか嬉しそうだし、エマは面白くてたまらない顔をしていた。
「ちょっと!変な意味に取らないで」
カイエがすぐに言う。
「いやでも今のはだいぶ……」
「だいぶ何よ」
「だいぶ“いつもの三人”が、受け入れられてる感じした」
若手が言い切ると、エマが肩を揺らした。
「まあ、それはあるかもね」
「エマまで!」
「だって本当じゃん!最初の頃より、カオルちゃんと話すし」
そういうやり取りの中で、ククルがようやく本来の目的を思い出したようにジュースを差し出す。
「はい、これ!今日はグレープフルーツだからちょっと苦いよ」
「なんで苦いの渡す」
「大人だから」
「意味が分からない」
「でも疲れてる時、これいいんだって」
カオルは受け取った。
それを見て、また周囲がざわつく。
「受け取った!」
「やっぱり断らないんだ」
「もう完全に恒例行事じゃん……」
カイエが、その空気に小さくため息をついてから、いつものように切り出した。
「今日はどうだった?」
その一言で、黄色い声援はようやく少し収まる。
皆、結局その話の流れは見たいのだ。
カオルは、少しだけ疲れた顔のまま答える。
「前半静かで、後半少し揺れた!でも大きくはならなかった」
「客室への共有は?」
「早めに入れた。“急ぐな、固定優先”で返した」
「うん」
カイエが頷く。
「それなら十分」
「今日は後方が少し詰まってた」
「見てたの?」
「モニターで少し」
「……なるほど」
カイエは、その一言だけで少しだけ満足そうな顔をした。
それが終わると、今度はククルの番だ。
「景色どうだった?木星側、今日は綺麗だった?」
「まあ、悪くなかった」
「うわ、カオルにしては褒めてる!じゃあほんとに綺麗だったんだ」
「そういう受け取り方するな」
「するよー」
ククルは嬉しそうに笑う。
「お客さんどうだった?」
「静か。でも子どもが多かった」
「へえ〜それで?カオル、ちょっと困った?」
「少しは」
「やっぱり!でも最近、子どもに慣れてきたんじゃない?」
「慣れてない」
「そうかなあ」
そうしてククルの一通りが終わると、最後にエマが小袋のクッキーを片手に寄ってくる。
「で、今日の相方は?」
「ハルト」
「うわ、理屈っぽい人だ」
「その通りだ」
「でしょ?どうだった? 疲れた?」
「少し」
「だろうねえ」
エマがクッキーを一つ口に入れる。
「でも、そういう便の方が勉強になるでしょ」
「まあな」
「客室への返し、今日は?」
「早めに二回。片付けと着席」
「いいじゃん」
「……」
「前より、客室のタイミング見てるよね」
カオルは、それを否定しなかった。
「必要だと思っただけだ」
「うん、それがいいんだよ」
エマが笑う。
そのやり取りを、周囲の若手達は半ば頬杖をつきながら見ていた。
「やっぱり順番だ……」
「完全にそうだよね」
「カイエさんは仕事の話」
「ククルさんは感想」
「エマさんは人の話」
「分担できてる……」
「三つ巴っていうか、もう役割分担完璧では?」
「何が完璧なのよ」
カイエが聞き返すと、若手達は「いえ別に」と笑って誤魔化す。
だが、フロア全体がその流れに慣れているのはもう隠しようがなかった。
◇
それは、次の日も、その次の日も、だいたい同じだった。
カオルが飛ぶ。
帰ってくる。
カイエが労いと共に運航全体の話を聞く。
ククルがジュースと感想を持ってくる。
エマが菓子を食べながら人と判断の話を聞く。
ある日には、三人がほとんど同時に近づきかけて、そこで若手達が「今日は乱戦だ!」と勝手に盛り上がったこともあった。
「カオル、お疲れ――」
「はいジュース――」
「で、今日の――」
三人が一瞬重なる。
その瞬間、後ろから。
「きた!」
「乱戦!」
「三つ巴の本気!」
「うるさい!」
珍しくカイエが即座に振り返って怒った。
それでも、エマは吹き出しているし、ククルは笑いを堪えきれていない。
カオルだけが少し離れた目でその騒ぎを見ていた。
「……お前ら、面白がってるだろ」
「少し」
エマがあっさり認める。
「少しどころじゃない」
カオルが言うと、ククルがにこにこしながらジュースを差し出した。
「はい、今日は桃」
「なんでこういう時でも渡すんだ」
「ルーティンだから」
「誰が決めた」
「空気」
意味が分からない。
けれど、結局カオルは受け取る。
それを見て、後ろでまた小さな歓声が上がる。
「はいはい、静かに」
今度はカイエが、呆れ半分で周囲を制した。
「仕事終わりだからって騒ぎすぎ、自分達の報告終わったの?」
「終わりましたー」
「だから見てるんですー」
「見なくていい」
「でも見たいです」
そう返されて、カイエがまたため息をつく。
そのため息すら、今ではだいぶこのフロアの日常に近づいていた。
◇
カオル自身も、最初はこの流れへ戸惑っていた。
なぜ毎回聞かれるのか。
なぜ毎回飲み物や菓子が出てくるのか。
なぜ他の乗務員達が、そんな自分達を見て妙に盛り上がるのか。
だが、便の回数が増えるにつれて、それが少しずつ“煩わしいもの”から“帰ってきた時にあるもの”へ変わっていった。
飛んで、戻る。
席に着く前に、まず誰かが声をかける。
何があったかを少しだけ言葉にする。
その短いやり取りの中で、便の中で感じたことが自分の中でも整理される。
カイエに話せば、運航全体の流れとしてまとまる。
ククルに話せば、客室の温度として変換される。
エマに話せば、人の癖や判断の面白さとして返ってくる。
同じ便の話でも、三人に話すと見え方が違う。
だから、気づけばカオルの方も、フライトから戻るたびに少しだけ“今日は誰から来るか”を無意識に待つようになっていた。
それに自分で気づいたのは、ある日の夕方だった。
その日は便が一本飛んだだけで、戻りも比較的早かった。
フロアへ入る。
だが珍しく、カイエが席にいない。
「……」
カオルは、鞄を置いてから少しだけ周りを見る。
すぐに自分で、その動きへ気づいた。
(何やってる)
待っているみたいじゃないか。
そう思った瞬間、後ろから声が飛んできた。
「お疲れ」
振り向くと、少し遅れて戻ってきたカイエが立っていた。
「……ああ」
「何、その間」
「別に」
「今、探してたでしょ」
「探してない」
「探してた」
カイエは少しだけ笑う。
「ほら、座って。今日どうだった?」
その問いかけを聞いた瞬間、カオルは不思議なくらい自然に息を吐いていた。
「……今日は、思ったより静かだった」
ぽつりとそう言うと、カイエは何も言わず頷いた。
それだけで、何となく戻ってきた気がしたのだ。
◇
周りの噂は、だんだん大きくなっていった。
三つ巴の戦い。
新人イケメンパイロット争奪戦。
カイエ・ククル・エマ包囲網。
好き勝手な呼び名が、若手達の間を飛び交う。
もちろん、本人達は一様に否定する。
「争ってない」
カイエが言う。
「争ってないよ!」
ククルが言う。
「まあ、面白がってるだけだしね」
エマは否定しきっていない気もするが、少なくとも本気で張り合っているわけではない。
カオルも、その噂に対しては「勝手に言ってろ」としか返さなかった。
けれど、ある日、若手の一人がぽろっと言った言葉が、妙に残った。
「でも、なんかいいですよね」
「何が」
カオルが聞くと、その若手は少しだけ照れくさそうに笑った。
「帰ってきたら、ちゃんと誰かが“お疲れ”って言ってくれるの。しかも毎回、飛んだ話をちゃんと聞いてくれるじゃないですか」
「……」
「羨ましいです。うちのパイロット、帰ってきてもそのまま報告して終わりの人、多いし」
その言葉を聞いて、カオルは一瞬だけ何も言えなかった。
羨ましい。
そう見えるのか。
自分にとっては、いつの間にか当たり前になりつつあるその流れが、外から見ればそういうふうに映るらしい。
「……そうか」
それだけ返す。
若手は少しだけ驚いた顔をして、それから笑った。
「はい。なんか、いいなって思います」
その日、便を終えて戻った時。
「お疲れ」
いつものようにカイエが言い。
「はい、今日はアップルソーダ!」
ククルが飲み物を差し出し。
「で、今日の相方どうだったの」
エマが菓子をつまみながら聞いてくる。
その全部を、カオルは前より少しだけ静かな気持ちで受け止めていた。
うるさい。
面倒だ。
そう思う時もある。
でも、それだけじゃない。
飛んで、戻ってきて、自分の便のことを誰かに話す。
その話を、三人がそれぞれ違う角度で受け取って返してくる。
それがあるから、また次の便へ出ていける。
そういう流れが、気づけば日常になっていた。
カオルは、自席へ戻りながら、ククルから受け取ったジュースを机へ置いた。
「……お前ら」
三人がほとんど同時に「ん?」と顔を上げる。
「何?」
「どうしたの?」
「なに、珍しい」
カオルは、少しだけ言葉を探した。
言う必要のないことかもしれない。
でも、その日は何となく口に出したくなった。
「毎回、聞いてくるだろ」
「うん」
カイエが頷く。
「それが?」
「……悪くない」
一瞬、三人とも止まった。
「え」
ククルが最初に声を漏らす。
「今なんて?」
「悪くない、って言った?」
エマが目を細める。
「……聞こえただろ」
カオルが少しだけ目を逸らす。
「だから毎回そんなに言わせるな」
その言い方が、妙に照れ隠しめいていて、三人は一拍遅れてから揃って笑った。
「うわあ」
ククルが嬉しそうに言う。
「それ、すっごく嬉しい」
「ね」
エマも笑う。
「こういうの、ちゃんと口にするんだ」
「珍しいね」
カイエは少しだけ目を細めた。
「でも、言ってくれてありがと」
その言葉に、カオルは返事をしなかった。
ただ、少しだけ視線を伏せただけだ。
周りではまた、若手達が小さく盛り上がっている。
「聞いた!?」
「今の聞いた!?」
「完全に公式イベントじゃん!」
「やっぱり三つ巴じゃなくて、もう帰還儀式だよ!」
「何よ帰還儀式って」
カイエが言うと、エマが吹き出す。
「それちょっと面白い!採用しようかな」
「採用しなくていい!」
ククルはもうジュースを握ったまま笑っている。
カオルは、そんな騒がしさを聞きながら、小さく息を吐いた。
初フライトから、まだそんなに時間は経っていない。
けれど、飛ぶたびに少しずつ自分の中へ積み重なるものがある。
操縦。
客室との連携。
相方との呼吸。
そして、帰ってきた時に待っている声。
A級しか取れなかった悔しさは、まだ消えていない。
S級は、今も遠い。
でも、その遠さへ向かう道の途中に、こういう日常があることを、カオルは少しずつ悪くないと思い始めていた。