サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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宇宙海賊

 宇宙管理局のオペレーションルームには、張りつめた空気が満ちていた。

 

 壁一面のモニターには、いくつもの航路図とレーダー情報、現在救護に向かっている船の位置、襲撃を受けた旅客機の現在座標が映し出されている。

 普段であれば、ここにはもっと抑揚のある会話や、各部署から飛んでくる報告、誰かの軽口も混じる。けれど今は違った。

 

 全員が、必要な言葉しか口にしない。

 

 その中で、ペルシアだけは椅子に深く腰掛けたまま、湯気の立つカップを口元へ運んでいた。

 お茶を啜る仕草は、いつも通りに見える。

 けれど、その目だけは少しも休んでいない。

 

 カップをソーサーへ戻しながら、ペルシアが言う。

 

「ナミ、レーダーには?」

 

 ナミは端末とモニターを交互に見比べながら、すぐに答えた。

 

「反応しません」

 

 短い答えだった。

 だが、その一言がこの場にいる全員の神経をさらに強く張らせる。

 

 ペルシアの隣で腕を組んでいたローズが、低く言った。

 

「ステルス機を使ってるのか?」

 

 ペルシアは、わずかに顎を引きながら視線をモニターへ向けた。

 

「分からない。ただ旅客機を襲って、すぐさま自分達の宇宙船に戻るなんて、船外活動に慣れてる連中ね」

 

 その声は静かだ。

 だが、そこに混じる冷たさが、今の事態の悪質さを何よりよく表していた。

 

 ただの無差別な襲撃ではない。

 相手は旅客機の構造も、外部から接触して侵入する手順も、離脱までに必要な時間も分かっている。

 そうでなければ、あれほど短時間で仕掛けて引くことなど出来ない。

 

 ローズが険しい顔のまま言う。

 

「過去のライセンス取得者を洗った方が良さそうだな」

 

「ええ、シャオメイとフレイに頼んで」

 

 ペルシアは即座に答えた。

 

 ローズも短く頷く。

 

「分かった」

 

 その返答を聞くと同時に、ペルシアは手元の通信端末へ指を伸ばした。

 迷いなく回線を開く。

 今この瞬間も、宇宙空間ではスターフォックスの面々が旅客機周辺を飛び回り、襲撃犯の痕跡を探しているのだ。

 

「フォックス、聞こえる?」

 

 数秒のノイズのあと、すぐに返答が返ってきた。

 

『ああ、聞こえる』

 

 落ち着いた声。

 緊迫した状況でも無駄に声を荒げないのは、フォックスらしい。

 

 ペルシアは、椅子へ座ったまま前を見据えて尋ねる。

 

「宇宙海賊の痕跡は?」

 

 返答まで、ほんの一拍だけ間があった。

 それだけで、答えの内容はだいたい想像できた。

 

『正直、厳しいな。しかもステルス機となると』

 

 やはり、状況はよくない。

 

 ペルシアはすぐ横の別モニターへ視線をずらした。

 そこにはスリッピーが調整した特殊レーダーの波形が流れている。

 通常の観測では拾えない微弱な残滓まで引っ掛ける仕様のはずだ。

 

「スリッピー、特製のレーダーにも反応なし?」

 

 今度は、少し軽いノイズのあとにスリッピーの声が返ってきた。

 

『うーん、残念だけど引っかからないよ』

 

 そこまで聞いて、オペレーションルームの空気がさらに重く沈んだ。

 

 痕跡がない。

 通常レーダーにもかからない。

 スリッピーの特製レーダーにも引っかからない。

 つまり、今ここで捜索を続けても、見つかる可能性はかなり低い。

 

 ペルシアは、無言で数秒だけ考えた。

 

 犯人を追うことは重要だ。

 けれど今、最優先にしなければならないのは何か。

 それは決まっている。

 

 襲撃を受けた旅客機だ。

 

 負傷者もいる。

 乗客も乗務員も混乱しているはずだ。

 護衛と救護を一秒でも早く厚くしなければならない。

 

 ペルシアは息をつき、はっきりと言った。

 

「……分かった。そしたら捜索を中断して、ファルコとクリスタルと一緒に旅客機の護衛に戻って」

 

 回線の向こうで、フォックスは即座に答えた。

 

『了解』

 

 その一言に迷いはない。

 無駄に食い下がらず、優先順位を理解して切り替えるのも、フォックスの強みだった。

 

 ペルシアはそのまま続ける。

 

「戻り次第、クリスタルを旅客機の中に送って、医療活動をしてあげて。こっちも救護船を向かわせてるから」

 

 回線の向こうで、短い沈黙が落ちる。

 フォックスも、その判断の意味をすぐに理解したのだろう。

 

 宇宙海賊を追うより先に、今は生きている人間を守る。

 そのための戦力の振り分けだ。

 

『分かった。そっちと接触次第、クリスタルを中へ入れる』

 

 それを最後に、通信はいったん切れた。

 

 オペレーションルームに戻った静寂の中で、ペルシアはもう一度カップを手に取った。

 けれど今度は口をつけない。

 そのまま視線だけを前へ向ける。

 

 ローズが低く言った。

 

「旅客機の方を優先したか」

 

「当然でしょ」

 

 ペルシアは答える。

 

「相手が消えた以上、今は追っても無駄足になる可能性が高い。それなら、襲われた方を守るのが先よ」

 

 ナミが端末を叩きながら、小さく頷く。

 

「救護船の到着予測、更新します」

 

「お願い」

 

 ペルシアはそう言って、再びモニターへ目を向けた。

 

 この時点では、まだ宇宙海賊の正体も、使っている機体の詳細も、目的のすべても分からない。

 ただ一つ確かなのは、相手が慣れていること。

 旅客機を襲い、必要なものだけを奪い、すぐに戻る。

 その動きは、恐ろしく無駄がなかった。

 

 だからこそ、厄介だ。

 

 ペルシアは唇をわずかに引き結ぶ。

 

 けれど今は、怒りに飲まれる時ではない。

 頭を冷やし、順番を間違えないこと。

 それだけを意識して、再びオペレーションルーム全体へ視線を巡らせた。

 

「ローズ」

 

「なんだ」

 

「シャオメイとフレイには、過去のライセンス取得者の中でも、船外活動経験のある連中を優先して洗わせて。旅客機に外から取りついて、短時間で戻れるなんて、普通の海賊じゃないわ」

 

「分かった」

 

 ローズは短く返す。

 

「ナミ、旅客機の位置と救護船の航路を固定表示して。あと、旅客機の中の状況報告が入り次第、全部ここに回して」

 

「はい」

 

 ナミも即座に応じた。

 

 各々が持ち場へ戻っていく。

 慌ただしい。だが混乱はしていない。

 それだけ、この場にいる面々が場数を踏んでいるということでもあった。

 

 ペルシアはようやくカップへ口をつける。

 

 ぬるくなったお茶が、喉へ流れた。

 

「まったく……」

 

 小さく呟く。

 

「厄介な相手が出てきたものね」

 

 その言葉には、怒りも、警戒も、そしてこれから先にやるべきことへの覚悟も滲んでいた。

 

 誰も声を出さない。

 だが、止まっている者は一人もいない。

 

 ナミはレーダー画面の前で指を走らせ、ローズは通信系統を切り替え、ペルシアは椅子に深く座ったままカップを持ち直した。

 けれど、彼女の目に休む色はなかった。

 

「ナミ、襲撃を受けた旅客機の現在位置と速度、もう一度」

 

「はい」

 

 ナミが即座に答える。

 

「現在、第三旅客航路の外縁寄りを低速で航行中。推進系は生きてますが、外装損傷の影響で姿勢制御が少し不安定です。船外からの接触痕が複数。格納区画の外壁と後方連結通路に損傷あり」

 

「船内の気圧低下は?」

 

「応急隔壁で抑えています。ただし一部区画は閉鎖中です」

 

「死傷者」

 

「現時点で重傷二名、軽傷七名。パニック症状を訴える乗客が十数名。客室乗務員側も数名が応急対応に回っていて、手が足りていません」

 

「思ったより酷いわね」

 

 ペルシアが小さく呟く。

 

 その声音は静かだった。

 けれど、部屋の誰もが、その静かな声の方が危険だと知っている。

 

「ローズ」

 

「なんだ」

 

「救護船の到着予測」

 

「最短で二十八分。ただし、今の旅客機の速度維持が前提だ」

 

「二十八分……長いわね」

 

 ペルシアはカップを置いた。

 

「ならクリスタルを先に入れる判断は正解か」

 

 ローズが言う。

 

「ええ。あの子、見た目に反して人の扱いが上手いのよ」

 

「見た目に反して、は余計じゃないか?」

 

「事実でしょ」

 

 ペルシアは肩をすくめる。

 

「戦う時は怖いし、怒るともっと怖いけど、怪我人の前じゃちゃんと声が柔らかくなる。そういうの、大事なのよ」

 

 ローズはそれには返事をしなかった。

 否定しないということは、同意しているのだろう。

 

「シャオメイとフレイの方は?」

 

 ペルシアが聞く。

 

 オペレーションルームの奥、別卓で作業していた二人が振り返る。

 

「聞こえてます」

 

 シャオメイが端末を操作しながら言う。

 

「過去の船外活動ライセンス取得者と、近年失効した操縦ライセンス保持者、それから宇宙作業用装備の購入履歴を重ねてます」

 

「フレイは?」

 

 ペルシアが視線を向ける。

 

「こっちは襲撃位置の航路周辺で、不自然に通信を切った民間船と補給艇を洗ってます。でも、相手が本気でステルス使ってるなら、正面からはかなりきついです。」

 

「きついのは分かってる」

 

 ペルシアが言う。

 

「だから“見えない相手”を探すんじゃなくて、“見えなくても動かなきゃいけない痕跡”を探すの。船外活動が得意で、旅客機の弱いところを知ってて、数分で乗り込んで、奪って、戻れる連中。そんなの、ただの宇宙海賊じゃない」

 

 その言葉に、ローズが眉を寄せる。

 

「元プロか」

 

「その可能性は高いわね」

 

「旅客機の構造を知ってる……整備士崩れや、元乗務クルーの線もあるか」

 

「ええ。ライセンスの失効理由や過去の所属も洗って。あと、最近急に金回りが良くなった連中も」

 

「そこまで広げるのか」

 

「旅客機を襲うってことは、金になるからやってるのよ。理屈じゃなく暴れたいだけの連中なら、もっと雑に撃ってる。今回は違う。必要なものだけ抜いて、長居せず、被害は出しても沈めてない。半端に慣れてるのよ」

 

 ペルシアの目が細くなる。

 

「だから余計に性質が悪い」

 

 

 同時刻。

 

 襲撃を受けた旅客機の外周では、スターフォックスの小型機が慎重に位置を変えていた。

 

 船体の外板には、無理やり接触したような擦過痕と、工具でこじ開けたような傷がいくつも残っている。

 航行灯の一部は消え、後方の通路ユニットは応急封鎖で白い保護膜に覆われていた。

 

「こりゃひでえな」

 

 ファルコが低く言う。

 

「海賊ども、かなり手慣れてやがる」

 

「無理に近づかないで」

 

 クリスタルの声が通信に入る。

 

「相手が戻ってこない保証はないわ」

 

「分かってるよ」

 ファルコが返した。

「だが、お前を乗り込ませる以上、近接で見ねえと始まらねえだろ」

 

「フォックス、通路側のハッチ使える?」

 クリスタルが尋ねる。

 

「今スキャンしてる」

 フォックスの声が落ち着いて返る。

「主ハッチは損傷大。右舷補助接続口なら接触可能だ。ただし、内側が開くかは乗員側の協力次第だな」

 

「旅客機側へ繋いで」

 クリスタルが言う。

「私が入る」

 

「クリスタル」

 ファルコが少し低い声になる。

「無理はすんなよ」

 

「誰に言ってるの?」

 

「俺が言いてえのは、そういう返しじゃねえんだけどな」

 

 その短いやり取りのあと、旅客機側との回線が開く。

 

『……こちら、第三旅客便。補助接続口、応答可能』

 女性の声だった。呼吸は荒いが、必死に保っている。

 

「宇宙管理局から救援要員を送るわ」

 クリスタルが告げる。

「怪我人のいる区画まで最短で案内して。通れる?」

 

『通れます……でも、一部通路は塞がってます』

 

「それでいい。案内して」

 

 接続が始まる。

 

 細い振動のあと、補助通路が噛み合い、ロック音が鳴った。

 クリスタルはヘルメットのシールを確認し、最後に短く言う。

 

「じゃ、行ってくる」

 

「戻ってきたら茶くらい奢れよ」

 ファルコが言う。

 

「ファルコが奢るのよ」

 

「なんでそうなる」

 

「生きて帰ってきたご褒美」

 

「……へいへい」

 

 その会話を背に、クリスタルは旅客機の中へ入っていった。

 

 

 中は、ひどい有様だった。

 

 主客室そのものは大きく崩れていない。

 だが、照明は一部が明滅し、警告灯が低く赤い光を流している。

 乗客のざわめきは抑えられているものの、恐怖と疲労が空気の底へ沈殿していた。

 

 通路脇では、若い客室乗務員が乗客を落ち着かせようと必死に声をかけている。

 だが、その手も声も少し震えていた。

 

「宇宙管理局から来たわ」

 

 クリスタルがヘルメットを外しながら言う。

 

「医療対応の手伝いに入る。責任者は?」

 

「わ、私です……」

 額に汗をにじませた副責任者らしい乗務員が出てくる。

「チーフが後方区画で怪我人を見ています」

 

「案内して」

 

「は、はい」

 

 乗務員が振り返りかける。

 だがその時、近くの座席で小さな子どもが泣き出した。

 母親が「大丈夫、大丈夫よ」と抱きしめているが、自身の声にも余裕がない。

 

 クリスタルは一瞬だけ足を止め、その母子へ視線を向けた。

 

「すぐ、ちゃんとした医療班が来るわ」

 低すぎず、でもぶれない声で言う。

「ここまで来られたなら、もう大丈夫。息をゆっくり吸って」

 

 母親が、驚いたようにクリスタルを見る。

 

「……はい」

 

「お子さんの前で、まず貴方が呼吸を整えて、大丈夫。今は船も飛んでるし、護衛もついてる」

 

 それだけで、母親の肩から少しだけ力が抜けた。

 

 案内の乗務員が、小さく目を見張る。

 クリスタルは何も言わず、再び前を向いた。

 

「行きましょう」

 

「……はい!」

 

 後方区画へ向かう途中、状況はさらに悪くなっていく。

 

 非常隔壁で閉じられた通路。

 床へ散った工具。

 座席脇で手当てを受けている年配の男性。

 そして、壁際で膝をついたまま、別の怪我人の止血をしている女性がいた。

 

「チーフ!」

 

 案内役の乗務員が叫ぶ。

 

 その女性が振り向く。

 頬に薄く傷があり、制服の袖は破れて血が滲んでいる。

 けれど、目はまだ死んでいなかった。

 

「医療支援?」

 

「ええ」

 クリスタルが近づく。

「怪我人の数と重症度、すぐ教えて」

 

 チーフ乗務員は短く息を整える。

 

「重傷二名。ひとりは肩口の裂傷、出血多め。もうひとりは肋骨をやってる可能性がある。軽傷者は客室側で散ってる。問題は、さっきからパニック症状が広がってることです」

 

「海賊は何を持っていったの?」

 

「貨物区画の積載ケース二つ。中身は機密扱いで、私達には不明。でも、狙いは明確だった。乗客から金品を奪う動きは、ほとんどありませんでした」

 

「……やっぱりね」

 

 クリスタルが小さく呟く。

 

 そしてすぐ、袖をまくる。

 

「じゃあ、まず重傷者から、応急処置具は?」

 

「こっちです」

 

「貴方は?」

 クリスタルがチーフの腕を見る。

「その怪我、縫うほどじゃないけど手当てした方がいいわ」

 

「後回しでいいです」

 

「よくない」

 クリスタルは即座に言う。

「でも今は言ってる場合じゃないわね。終わったら私が見る」

 

 その言い方に、チーフは少しだけ目を見開き、それから短く頷いた。

 

「……お願いします」

 

 

 一方、宇宙管理局。

 

 ペルシアは再び無線を開いた。

 

「クリスタル、聞こえる?」

 

『聞こえるわ』

 

「中は?」

 

『重傷二名。軽傷多数。パニック症状も広がってる。でもまだ持つ。客室乗務員が想像以上に踏ん張ってるわ』

 

「そう」

 ペルシアが少しだけ息をつく。

「船長は?」

 

『今、ブリッジに戻った。操縦そのものは維持できてるって、ただ、乗客側へ余裕を回す人手がない』

 

「分かった。フォックス達はもう護衛位置に戻ってるから、安心させる材料として使って。あと五分で救護船の位置情報を送る」

 

『了解』

 

 無線が切れると、ローズが口を開いた。

 

「救護船、十九分まで詰めた」

 

「優秀」

 

「俺じゃない。向こうが無理を聞いた」

 ローズが言う。

「ただし、これ以上は危険だ」

 

「十九分なら十分よ」

 

 ペルシアはそこでナミを見た。

 

「レーダー、まだ?」

 

「駄目です」

 ナミが悔しそうに言う。

「航路周辺、反応なし。デコイらしい波形も見当たりません」

 

「見事なくらい消えてるな」

 ローズが低く言う。

 

「だからこそ、消えた後を掘るしかないのよ」

 

 ペルシアが言う。

 

「フレイ」

 

「はい」

 

「襲撃時刻前後の補給記録、違法改造工場の出入り、それと宇宙服の大口購入履歴。特に、中古市場を通してるやつを重点的に」

 

「了解」

 

「シャオメイ」

 

「やってます」

 

「海賊っていうより、半分傭兵みたいな連中よ。旅客機の急所知ってる。船外活動が早い。引き際も綺麗。そういう連中が、最近どこに流れてるか見たい」

 

「分かってるわ」

 シャオメイが端末へ目を落としたまま言う。

「で、もう一つ聞くけど、これって貨物狙いで確定?」

 

「今のところはね」

 ペルシアが答える。

「でも、積荷の中身によっては話が変わる」

 

「中身、不明なんだろ?」

 

「ええ、だから今、旅客会社と管理局の上層が青い顔してるはずよ」

 

 ペルシアは、お茶を一口含んだ。

 

 もうぬるい。

 でも飲む。

 飲んで、喉を湿らせて、また次を考える。

 

「ローズ」

 

「なんだ」

 

「貨物の照会、まだ通らない?」

 

「上が渋ってる。管理局内でも閲覧権限が割れてる」

 

「面倒ね」

 

「面倒だ。だが、旅客機を襲ってまで奪うとなれば、ただの部品か金属資材じゃないだろうな」

 

「ええ」

 

 ペルシアの目が細くなる。

 

「そして、そういうものを欲しがる連中は、たいてい一組じゃない」

 

 そこへ、別回線が入る。

 ナミが受け、すぐペルシアへ繋いだ。

 

「救護船です。接触まで十八分」

 

「予定通りね」

 ペルシアが言う。

「そのまま直行。旅客機の右舷補助接続口へつけて。船内ではクリスタルが医療の一次対応に入ってる。着いたらすぐ引き継いで」

 

『了解しました』

 

 無線を切ったあと、ペルシアは椅子へ少し深く座り直した。

 

 その時だった。

 

「出た」

 

 シャオメイが、ぽつりと言った。

 

「何が?」

 ローズが振り向く。

 

「三年前、外縁航路で違法接舷と船外侵入の前科があるグループ。中心メンバーは解散扱い。でも二人行方不明。しかも、そのうちひとりは旅客船整備の経歴あり」

 

 オペレーションルームの空気が一気に変わる。

 

「名前」

 ペルシアが言う。

 

「まだ断定じゃないです。でも流れは近い。失効ライセンス、船外活動レベルA、整備士崩れ。最近、中古の推進ユニットと宇宙服部品を買い漁ってる痕跡もある」

 

「当たりかもしれないわね」

 

「まだ“かも”ですけど」

 

「十分よ」

 ペルシアが言った。

「その線、深掘りして。関係者、交友、最近の入出港、全部」

 

「了解」

 

 ローズが小さく息を吐く。

 

「見えない相手に、ようやく輪郭が出たな」

 

「ええ」

 ペルシアは前を見たまま言う。

「旅客機を襲った以上、もうただじゃ済まさないわ」

 

 その声は静かだった。

 でも、部屋の誰もが、その静かさの奥にある怒りを聞いていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 宇宙海賊による旅客機襲撃事件は、すぐさま各旅行会社へ影響を及ぼした。

 

 宇宙管理局から出された通達は簡潔だったが、重かった。

 

 旅客便運航会社各位。

 現状、外縁航路及び一部中継航路において不審船の活動が確認されている。

 各社は警戒態勢を強化し、乗務員及び乗客への安全対策を徹底すること。

 なお、護衛体制及び緊急時対応の見直しが完了するまでの間、要人輸送、高額貨物輸送、大規模団体輸送については、個別に管理局の確認を受けること。

 警備・運航体制が不十分と判断される場合、運航見合わせを勧告する。

 

 文面そのものは事務的だった。

 だが、それが持つ意味は誰にでも分かった。

 

 ――今は少しの判断ミスが命取りになる。

 

 その通達は、当然、エリンが出向しているスペースホープにも届いた。

 

 フロアに通達内容が回された時、乗務員達の空気は普段よりもずっと静かだった。

 事件そのものが他人事ではない。

 それに加えて、今のスペースホープは、ようやく信頼を積み直し始めたばかりの会社だ。

 このタイミングで何かあれば、立て直しどころではなくなる。

 

 けれど、幸いにも今は予約便がない。

 

 慰安旅行便や役員研修便が一通り終わり、次の予約まで少しだけ間が空いていた。

 宇宙海賊の件もあって、新規予約は慎重になっている。

 だからこそ、この空白期間を逆に使えると思っていた。

 

 今なら、警戒体制を見直せる。

 今なら、客室対応も緊急時動線も、もう一度叩き込める。

 今なら、焦らずシミュレーションへ没頭できる。

 

 エリンはそう考えていた。

 

 

 その日も、午前のシミュレーションは張りつめていた。

 

「アズサ、笑顔が先に出てる」

「はい!」

 

「クミコ、前方区画の共有が半拍遅い」

「はい!」

 

「ホーネット、見えていても伝わらなければ意味がないわ」

「……はい」

 

「ミドリ、異変に気づいたなら、“確信してから”じゃなくて先に一言」

「はい」

 

「サリー、マユ、今の判断はいい。でも、副パーサーならその場で一歩前へ出る」

「……はい」

 

 宇宙海賊の件があってから、エリンの指導はさらに鋭くなっていた。

 

 客室は平時だけ回せればいいわけじゃない。

 不測の事態が起きた時に、どれだけ冷静に、人を動かし、恐怖を抑え、正しい優先順位を守れるか。

 そこまで含めて“乗務員の質”なのだと、エリンは昨日まで以上にはっきりと求めていた。

 

「もう一回流すわよ」

 エリンが言う。

「今日は“怪しい影を見た”“船外接触の可能性あり”を前提にして。客室の空気がざわついた時に、誰が何を拾うかまで見る」

 

 その一言で、フロアの空気は少しだけ冷えた。

 

 皆、宇宙海賊の件を知っている。

 今この時も、別の旅客便がどこかを飛んでいることも。

 だからこそ、想定に現実味がありすぎた。

 

 それでも、シミュレーションはやるしかない。

 

 エリンは、それを誰より知っている顔で前に立っていた。

 

 

 午前の流れが一段落し、エリンが一度だけ端末で訓練記録を確認していた時だった。

 

「エリンさん」

 

 少し離れたところから、控えめな声が飛ぶ。

 

 振り向くと、総務部の若い職員が立っていた。

 宇宙事業部の人間ではない。

 普段は総務のフロアにいる、気の弱そうな男の子だ。

 

「なあに?」

 

「その……社長がお呼びです。今、総務部の方へ来てくださいと」

 

 その一言で、周囲の空気がわずかに揺れる。

 

 社長。

 今このタイミングで直接呼ぶ。

 雑談ではない。

 しかも、わざわざ総務部のフロアへ。

 

 エリンの中で、反射的にいくつかの可能性が走った。

 

 宇宙海賊の件の追加通達。

 新たな予約。

 あるいは、宇宙管理局からの個別要請。

 

「分かったわ」

 

 エリンは短く答えた。

 

 端末を閉じ、手近にいたミラへ視線を向ける。

 

「少し外すわ。午前の振り返りは、今のメモを元にランと進めておいて」

 

「分かりました」

 ミラが頷く。

 

「ラン、シルヴィア、後で個別に見るから、今は流れだけまとめて」

 

「はい」

 ランが静かに返し、シルヴィアも真面目に頷いた。

 

 エリンはそれを確認すると、総務部の職員について歩き出した。

 

 

 総務部のフロアは、宇宙事業部とは空気が違う。

 

 こちらには客室のような熱や動きはない。

 代わりに、整えられた机、静かな会話、書類の積み上がる音、端末を叩く乾いたリズムがある。

 

 その一角、応接を兼ねた会議スペースに、すでに社長はいた。

 

「来ましたね」

 

 社長が言う。

 

「はい」

 エリンは短く頭を下げた。

「何かありましたか?」

 

 社長は、机の上に置かれた一枚の依頼書を指先で軽く叩いた。

 

「今、予約の連絡が入りました」

 

 その言い方に、エリンは一瞬だけ目を細める。

 

「予約?」

 

「そうです」

 

「このタイミングでですか?」

 

「このタイミングだから、だろうね」

 

 社長の声音は低かった。

 そこにはもう、ただの商談ではないという含みがある。

 

 エリンは、机の前へ立ったまま尋ねる。

 

「内容は?」

 

 社長は、目の前の資料をエリンの方へ滑らせた。

 

「三日後の旅行便です。搭乗客は企業の社長、役員、それに政財界の大物が複数。いわゆる、表に名前が出たら一気に騒ぎになる連中です」

 

 エリンは資料へ目を落とした。

 

 搭乗予定人数。

 同行秘書。

 護衛要員の有無。

 目的地。

 希望される船内環境。

 セキュリティ要件。

 そして、便の実施希望日。

 

 ――三日後。

 

 その瞬間、エリンの中で警鐘が鳴った。

 

「……厳重注意が引かれているから、どこも受けなかったから私達の元に話が来たのね」

 

 ぽつりと、そう言った。

 

 社長は否定しない。

 

「そうだろうね」

 

「当然です」

 

 エリンは資料から顔を上げた。

 

「宇宙海賊の襲撃があった直後です。しかも企業の社長や政財界の大物をまとめて乗せる便なんて、今引き受けたがる会社はほとんどない。引き受ける方がどうかしています」

 

 社長はその物言いに腹を立てる様子もなく、むしろ静かに聞いている。

 

「なら断るべきかな?」

 

 社長が問う。

 

「断った方がいいです」

 

 エリンは即答した。

 

 部屋の空気が少しだけ固まる。

 

「理由は明確です。まず三日後では準備が足りません。これだけの人数を乗せる大型宇宙船の選定、整備、安全確認、客室構成、搭乗導線、非常時対応、護衛計画、全部を今から詰めるには時間が短すぎます。まして、今は宇宙管理局から厳重注意が出ている状況です。少しでも判断を誤れば、スペースホープだけじゃ済まない」

 

 社長は考えるように口を挟んだ。

 

「宇宙船の手配が問題だと?」

 

「それだけではありません」

 

 エリンは言う。

 

「宇宙船、セキュリティ、乗務員の配置、情報管理、そのすべてです。これだけの相手が乗る便なら、乗務員にも通常以上の質と統率が必要になります。今のスペースホープの乗務員が未熟だと言いたいわけではありません。ですが、“何か起きるかもしれない”前提で完璧を求められる便へ、準備三日で乗せるにはリスクが高すぎます」

 

「ですが」

 

 社長が、そこで静かに言う。

 

「受けるべきだと私は思っています」

 

 エリンは、その言葉を聞いてもすぐには返さなかった。

 ただ社長の目を見る。

 

「理由は聞いてもよろしいですか?」

 

「これを成功させれば、スペースホープはもう一度、息を吹き返す」

 

 その言葉には、商売人としての打算も、経営者としての覚悟も両方含まれていた。

 

「今、どこの会社も尻込みしている。だからこそ、ここで受けて成功すれば、“今のスペースホープは違う”と示せる。それも、ただの小口便や研修便ではなく、最も神経を使う類の便でです」

 

 エリンは、わずかに息を吸った。

 

「賭けが大きすぎます」

 

「分かっています」

 

「失敗した時の代償も」

 

「それも分かっています」

 

 社長の返答は揺れない。

 

 エリンは、資料の上に指を置きながら、もう一度言った。

 

「しかし、これだけの人数を乗せる宇宙船や、セキュリティに特化した設備を兼ね備えた宇宙船を今から用意するのは――」

 

「そこは大丈夫です」

 

 社長が言葉を切った。

 

 エリンが顔を上げる。

 

「スペースホープが保有している大型宇宙船がある」

 

「……大型宇宙船?」

 

「今は表へ出していないが、まだ眠らせている船が一隻あります。搭載人数、導線、船内設備、どれを取っても通常の旅客便より一段上、護衛用の補助区画もあります。」

 

 その言葉に、エリンの中で別の計算が走る。

 

 大型宇宙船。

 保有しているのは知っていた。

 だが、整備状態、現行基準への適合、クルー経験、それらはまだ確認していない。

 

「ですが」

 

 エリンは低く言う。

 

「危険かもしれません」

 

「危険かもしれません」

 

 社長はあっさり認めた。

 

「だが、危険だから全て降りるなら、スペースホープはずっと“立て直しかけの会社”で終わります」

 

 その言葉は重かった。

 

 エリンは黙る。

 

 社長は続ける。

 

「通常便だけを回していても、いずれ限界は来ます。大きな便。重い客。重い責任。そういう場を越えなければ、次へは行けません」

 

 総務部の女性が、少し不安そうに口を開く。

 

「ただし、警備面は本当に慎重にやる必要があります。宇宙管理局の許可なくしては無理ですし、護衛船の数も必要になる」

 

「分かっています」

 社長が言う。

 

「だから、エリンさんを呼んだんです」

 

 エリンはまだ答えない。

 

 脳の中では、もうかなり具体的な段取りが組み上がり始めている。

 

 大型宇宙船の現状確認。

 整備班の再招集。

 客室側の動線再設計。

 セキュリティ導線。

 要人対応可能な乗務員の選抜。

 護衛と管理局への申請。

 旅程自体の見直し。

 応急時の避難区画。

 通信用の暗号化。

 

 三日。

 短い。

 無茶だ。

 だが、完全に不可能かと言われれば――そこはまだ、言い切れない。

 

「……」

 

 エリンは、ゆっくりと資料を閉じた。

 

 社長も、他の二人も、その口が開くのを待っている。

 

「少し考えさせてください」

 

 エリンが静かに言う。

 

 社長は頷いた。

 

「構いません」

 

 数秒。

 沈黙が落ちる。

 

 エリンは窓の外を見た。

 火星の空気。

 航路へ出ていく光。

 今のスペースホープの乗務員達の顔が、次々と浮かぶ。

 

 まだ未熟だ。

 でも、ただ守っているだけでは上へ行けない。

 

 それに――この便を成功させれば、本当に会社は一段上へ進めるかもしれない。

 

 大きい。

 危険だ。

 でも、逃げた時に失うものもまた大きい。

 

 エリンは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……分かりました」

 

 その一言で、部屋の空気が変わる。

 

 社長の目が鋭くなる。

 総務部の女性も思わず姿勢を正した。

 

「受けます」

 

 エリンは、はっきり言った。

 

「ただし、条件があります」

 

「言ってください」

 

「宇宙管理局から許可が出れば、です」

 

 社長は即座に頷く。

 

「もちろんです」

 

「それから」

 エリンは続ける。

「船体確認、警備導線、乗務員の選定、その全部に私の判断を入れます。どれか一つでも“足りない”と判断したら、その時点で私はこの便を止めます」

 

 旅客運航部門長が目を細める。

 

「かなり強く出ますね」

 

「それくらいしないと引き受けられません」

 

 エリンの声は低い。

 

「これは普通の予約便ではありません。成功すれば会社は変わるでしょう。ですが、失敗した時に終わるのもスペースホープです。なら、現場の安全判断だけは譲れません」

 

 社長は、数秒だけエリンを見つめた。

 

 それから、口元を少しだけ上げる。

 

「いいでしょう」

 

 短く言う。

 

「許可が出れば、任せる」

 

 エリンは、そこで初めてほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

「ありがとうございます」

 

「ただし」

 社長が言う。

「時間はないですよ」

 

「分かっています」

 

「今日中に宇宙管理局へ打診する。大型宇宙船の整備ログも開示します」

 

「お願いします」

 

 エリンは頷いた。

 

 もう迷っている時間は終わった。

 

 引き受けると決めた以上、ここからは速度だ。

 大型宇宙船の状態確認。

 セキュリティ要件の洗い出し。

 護衛申請。

 客室の役割再設計。

 要人便に相応しい接遇と、有事対応の両立。

 

 頭の中で、もう次々と必要なタスクが並ぶ。

 

 それでも、胸の奥にはまだ別の感覚も残っていた。

 

 緊張。

 そして、冷たい覚悟。

 

 宇宙海賊の件が尾を引く中で、三日後に要人便を飛ばす。

 誰が聞いても無茶だと思うだろう。

 だからこそ、やるなら絶対に失敗出来ない。

 

 エリンは資料を手に取り、もう一度だけ確認した。

 

「……まず、宇宙管理局の許可ね」

 

 その声は、小さかったがはっきりしていた。

 

 部屋の中にいる全員が、その一言に今この便の命運がかかっていることを理解していた。

 

 許可が出れば、もう止まれない。

 出なければ、この話は流れる。

 

 だが、もし許可が出たなら。

 

 スペースホープは、三日後に賭けることになる。

 会社の信頼も、乗務員達の未来も、全部を乗せた一便へ。

 

 エリンは、静かに顔を上げた。

 

「フロアへ戻ります。今夜から体制を組み直します」

 

「分かった」

 社長が頷く。

 

エリンは踵を返した。

 

 総務部のフロアを出る頃には、もう迷いは消えていた。

 残っているのは、やるべきことの重さだけだ。

 

 宇宙事業部の扉を開けた時、きっと皆はまだ、さっきまでのシミュレーションの余韻の中にいるだろう。

 でも、それはここまでだ。

 

 これから先の三日間は、息をつく暇もない。

 

 エリンは、足を速めた。

 

 胸の奥で、静かに鳴る緊張を抱えたまま。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 エリンが総務部のフロアから戻ってきた時、宇宙事業部の空気は、まだ午前のシミュレーションの延長線上にあった。

 

 ミラとランが、エリンの指示どおり振り返りを進めている。

 クミコ達も、それぞれ端末とメモを前にしながら、まだ訓練の余熱を残していた。

 

 けれど、エリンの顔を見た瞬間、何人かはすぐに気づいた。

 

 ――何かあった。

 

 それも、軽いことではない。

 

「エリンさん?」

 

 最初に声をかけたのはミラだった。

 

「どうしました?」

 

 エリンは、その場で一度だけ皆の顔を見渡した。

 今ここで全部を言うには、まだ材料が揃っていない。

 宇宙管理局の許可も、大型宇宙船の整備ログも、警備側の返答も、まだ何も確定していない。

 

 だから、今言えるのは“覚悟だけしておいて”というところまでだった。

 

「少し話があるわ」

 

 その一言で、フロアのざわめきが止まる。

 

 クミコが姿勢を正し、マユが端末を閉じる。

 アズサは、いつものように反応が顔へ出そうになっていたが、ハズキに小さく腕をつつかれて慌てて背筋を伸ばした。

 ホーネットは腕を組み、シルヴィアは静かに視線を上げる。

 ユウコとナツキまで、今は口を挟まない。

 

 エリンは、少しだけ間を置いてから言った。

 

「三日後に、大きい便が入るかもしれないの」

 

 その言葉だけで、フロアの空気が変わる。

 

「かもしれない、ですか?」

 ランが確認する。

 

「ええ」

 エリンが頷く。

「まだ宇宙管理局の許可待ちだから、確定ではない。でも、ほぼ準備前提で動かなければ間に合わないと思って」

 

「どんな便なんですか?」

 クミコが、思わず前のめりになって聞いた。

 

 エリンは、小さく首を振る。

 

「今日は詳細は言えないわ。まだ、こちらで整理しなければならないことが多すぎるの」

 

 ホーネットが眉をひそめる。

 

「言えないくらい、面倒ってこと?」

 

「ええ」

 

 エリンは、ホーネットの言い方を咎めることもなく、そのまま答えた。

 

「かなり大変な便になると思っていて、船体、警備、客層、乗務員構成、その全部を一から組み直す必要がある」

 

 その言葉に、ミラとランが顔を見合わせる。

 “エリンがそう言うなら、相当だ”という共通認識が、もうそこにはあった。

 

「明日にでも詳細を告げるわ」

 

 エリンが続ける。

 

「その時に、誰にどの役割を振るかも含めて話す。今日は皆、早く帰って。明日から、少し空気が変わると思っておいて」

 

 静かな言い方だった。

 でも、その静けさの中に、軽く流せない重みがあった。

 

 アズサが、珍しく冗談を挟まずに聞く。

 

「……エリンさん、危ない便、なんですか?」

 

 エリンは、その問いにすぐには答えなかった。

 数秒だけ、アズサの顔を見る。

 

「危なくない便なんて、本当は一つもないわ。でも、今回は、いつもより余計に考えないといけない便になる。それだけは言える」

 

 その言葉に、誰も軽く返せなかった。

 

「だから、今日は早く休んで、頭を空にして。出来ればしっかり食べて、しっかり寝ること」

 

 最後に少しだけ口調を緩める。

 

「明日から、容赦しないから」

 

 それでようやく、空気が少しだけ戻る。

 

「うわぁ……」

 アズサが小さく呻く。

 

「じゃあやっぱり大変なんじゃないですか」

 ユウコがぼそっと言う。

 

「大変なのよ」

 

 エリンはあっさり返した。

 

「でも、やるしかないでしょう?」

 

「……はい」

 クミコが頷く。

「やります」

 

「私も」

 マユが言う。

 

「もちろんです」

 ミラが短く言う。

 

 それに続くように、皆が頷いた。

 

 エリンは、その顔を見て小さく息をつく。

 

 まだ何も始まっていない。

 でも、こういう時にこの子達は、ちゃんと目を逸らさない。

 それだけで少し救われる気がした。

 

 

 その日の夜。

 

 フロアはすっかり暗くなっていた。

 

 外の照明と、非常灯に近い落ち着いた間接照明、それにエリンのデスク周りにだけ落ちる端末の光。

 人の気配はほとんどない。

 

 カタカタ、とキーボードを打つ音だけが規則的に響いている。

 

 エリンは、一人で端末に向かっていた。

 

 机の上には、大型宇宙船の旧整備ログ、過去の運航記録、現行の客室配置図、要人輸送時の基本警備指針、宇宙管理局から届いた厳重注意通達、そして今回の予約内容の概要メモが並んでいる。

 

「……大型船の導線は悪くない。でも後方ラウンジをそのまま使わせるのは危険ね。隔離区画は活かすとして、警備要員の立ち位置が……」

 

 小さく独り言が漏れる。

 

 キーボードを打ち、別画面へ切り替え、乗務員一覧へ目を通す。

 

 誰を乗せるか。

 誰を外すか。

 誰なら要人相手でも怯まないか。

 誰なら緊急時に前へ出られるか。

 

 ミラ、ラン、シルヴィア。

 ここはもう外せない。

 ホーネットは、監督下なら使える。

 クミコ、マユ、サリーは伸びているが、この便でどこまで背負わせるべきか。

 アズサの対人力は強い。

 ミドリの観察力も捨てがたい。

 ハズキは補佐で光る。

 ユウコとナツキは経験値では有力だが、今の二人をどう組み込めば最適か。

 

 そこまで考えた時だった。

 

 端末の脇に置いていた通信端末が震えた。

 

 表示名を見た瞬間、エリンはほんの少しだけ目を細める。

 

「……やっぱり」

 

 通話ボタンを押す。

 

「もしもし」

 

 出た瞬間、向こうから強い声が飛んできた。

 

『一体、何を考えてるのよ!こんな危険な時にそんなフライトを組むなんて!』

 

 ペルシアだった。

 

 予想通りというべきか。

 宇宙管理局へ話が上がれば、あの人が黙っているわけがない。

 

 エリンは、少しだけ肩の力を抜いた。

 

「宇宙管理局にもう話がいったのね」

 

『当たり前でしょ!要人輸送の確認が上がった時点で、こっちに回ってくるに決まってるじゃない!』

 

 ペルシアの声は本気で怒っていた。

 でも、その怒りの根っこにあるのが心配だということを、エリンは知っている。

 

「それで?」

 

 エリンが静かに促す。

 

『それで、じゃないわよ!宇宙海賊の件で厳重注意が出てるのよ!?しかも、今度は企業の社長や政財界の大物が集まる便?なにそれ、危険の見本市じゃない!』

 

 エリンは、思わず小さく笑ってしまいそうになるのを堪えた。

 

「言い方がひどいわよ」

 

『ひどくもなるわよ!あんたは分かってるの!?いま旅客機を狙ってる連中がいる中で、要人をまとめて乗せるなんて、向こうから見れば“どうぞ狙ってください”って言ってるようなものよ!』

 

「そこまでは言ってないわ」

 

『言ってるのと同じ!』

 

 ペルシアがぴしゃりと言い切る。

 

 エリンは、端末を肩と頬で挟みながら、キーボードから手を離した。

 

「……断るべきだとも思ったわ」

 

『思った、じゃなくて断りなさいよ!』

 

「でも、社長は受けるべきだと言ったの」

 

『社長はそう言うでしょうね!成功すれば会社の名前が上がるんだから!でも失敗したらどうなるか分かってる!?』

 

「分かってるわよ」

 

 エリンの声が少しだけ低くなる。

 

 その一言で、ペルシアも一瞬だけ黙った。

 

「分かってる。だから、宇宙管理局の許可が出ればという条件付きで受けることにしたの。船体確認、警備導線、護衛体制、乗務員の選定、その全部に私の判断を入れる。少しでも危険だと思ったら止める」

 

 通話の向こうで、ペルシアが息を吐く音がした。

 

『……そこまで条件をつけたのね』

 

「ええ」

 

『社長、よく飲んだわね』

 

「飲ませたのよ」

 

『あんた、そういうとこだけ妙に強いのよね』

 

 そこでようやく、ペルシアの声の熱が少しだけ落ちた。

 

『でも、それでも危ないことには変わりないわよ』

 

「分かってる」

 

『大型船を使うんでしょ?』

 

「ええ。表に出してない一隻があるらしいわ」

 

『“らしい”って、まだ見てないの!?』

 

「今から見るのよ」

 

『うわぁ……』

 

 ペルシアが、心底嫌そうな声を出す。

 

『それ、もう今夜徹夜コースじゃない』

 

「そうね」

 

『笑い事じゃないんだけど?』

 

「笑ってないわよ」

 

『声がちょっと笑ってるのよ、あんたは!』

 

 エリンは、そこで少しだけ頬を緩めた。

 

 ペルシアのこういう怒り方は、昔から変わらない。

 口調は荒い。

 でも、心配している時ほど早口になって、語尾が鋭くなる。

 

「護衛については?」

 

 エリンが話を戻した。

 

 ペルシアもすぐ切り替える。

 

『まだ何とも言えない。でも、宇宙管理局が許可を出すなら、最低でも通常より厚い護衛をつける話になる。ただし、今の状況だと、こっちだって余裕があるわけじゃないのよ』

 

「そうでしょうね」

 

『旅客機襲撃の件、まだ犯人の輪郭が薄い。だから戦力を全部一便へ寄せるのは無理。そこ、分かって組みなさいよ』

 

「分かってる」

 

『あと、要人側の警備担当とも噛み合わせなさい。民間警備と宇宙管理局の警備がぶつかると、むしろ危ないから』

 

「ええ」

 

『エリン』

 

 そこで、ペルシアの声が少しだけ低くなる。

 

『本当にやるのね?』

 

 その問いは、さっきまでの怒鳴り声よりずっと重かった。

 

 エリンは、数秒だけ黙って、端末の向こうへ答える。

 

「やるわ」

 

『……』

 

「怖くないわけじゃない。でも、逃げるだけじゃ、たぶんこの会社はずっと“立て直しかけ”のまま終わる。それに、あの子達にも、いつかはこういう便を背負う覚悟が必要になる」

 

『いつかは、ね。でも“三日後”は、いきなりすぎるのよ』

 

「それはそうね」

 

『まったくもう……』

 

 ペルシアが深くため息をつく。

 

『分かった。こっちも通るように出来るだけ話は回す。でも、無茶はしないで』

 

「努力する」

 

『努力じゃなくて約束しなさい』

 

「……善処する」

 

『政治家みたいなこと言うんじゃないの!』

 

 その言い方に、エリンはとうとう少し笑った。

 

「分かったわよ。無茶はしない」

 

『よろしい』

 

 そしてペルシアは、最後に少しだけ声を和らげた。

 

『でも、本当に危ないと思ったら止めなさい。会社の未来とか、信頼回復とか、そういうのも大事だけど、あんたが倒れたり誰かが取り返しつかなくなったら意味ないんだから』

 

 その一言が、静かに胸へ入る。

 

「……ええ」

 

『じゃ、進捗、ちゃんと報告して』

 

「はいはい」

 

『返事が軽い!』

 

「ありがとう、ペルシア」

 

 そう言うと、向こうがほんの一瞬だけ黙った。

 

『……別に。感謝されることしてないわよ』

 

「してるわよ」

 

『うるさい、切るわね!』

 

 そこで通話は切れた。

 

 エリンは、端末を見つめたまま、小さく息を吐く。

 

「……ほんとにもう」

 

 でも、その顔は少しだけやわらかかった。

 

 

 電話が終わると、エリンは再びパソコンに向き直った。

 

 大型船の旧設計図を開き、客室の座席構成を一度全部外す。

 通常便の導線ではなく、要人便用の動線へ組み替える。

 警備担当が立つ位置、死角になる場所、避難導線、客室乗務員の分担、対応優先順位。

 

 画面の中では線と文字が増えていく。

 頭の中では、さらにその先の実際の人の動きまで想像している。

 

 そこへ、フロアの入口が小さく開く音がした。

 

 エリンは視線を上げる。

 

「……まだ誰かいたの?」

 

 入ってきたのは、ミラとランだった。

 

 ミラは紙袋を二つ持っていて、ランは保温ボトルを提げている。

 

「差し入れです」

 

 ミラが言う。

 

「差し入れです」

 ランが続ける。

 

 エリンは、ほんの少しだけ目を丸くした。

 

「貴方達……帰ったんじゃなかったの?」

 

「帰ったんですけど」

 ミラが言う。

「でも、エリンさん、一人で残ってるだろうなと思って」

 

「夕飯くらい持ってきた方がいいかと」

 ランが補う。

 

 紙袋の中には、お弁当が二つ。

 片方は軽めのもの、もう片方は少ししっかりした量のものだ。

 

「二つも?」

 

「選んでください」

 ミラが言う。

「夜中までいるなら、少なすぎても駄目ですから」

 

 エリンは、その紙袋を受け取りながら、ふっと笑った。

 

「ありがとう」

 

「ちゃんと食べてください」

 ミラが言う。

 

「食べるわよ」

 

「絶対?」

 ランが確認する。

 

「絶対」

 

 それでようやく、二人は少し安心した顔になった。

 

 けれど、そこで帰る気配はない。

 

「……何?」

 

 エリンが聞く。

 

「少しだけ見ていってもいいですか?」

 ランが言う。

 

「大型船の客室構成、どう考えてるのか気になります」

 

「私も」

 ミラが言う。

「今の段階で、何を一番重く見てるのか知りたいです」

 

 エリンは、一瞬だけ二人を見た。

 

 断る理由はない。

 むしろ、この二人には、いずれ一番近いところまで見せておくべきだ。

 

「いいわよ」

 

 そう言って端末を少し横へ向ける。

 

「ただし、見たら帰りなさい」

 

「はい」

 ミラが言う。

 

「分かりました」

 ランが言う。

 

 その少し後だった。

 

 またフロアの扉が開く。

 

 今度は、シルヴィアとホーネットだった。

 

 シルヴィアが手に持っているのは飲み物の入った袋。

 ホーネットは両手に紙コップを持っている。

 

「差し入れでーす」

 

 ホーネットが言う。

 

「温かいのと冷たいの、両方持ってきました」

 シルヴィアが静かに続ける。

 

 エリンは、呆れたように、でも嬉しそうに笑った。

 

「何、貴方達まで」

 

「だって、ミラとランが行くの見えたから」

 ホーネットが言う。

「なら私達もって」

 

「便乗したのね」

 

「ええ」

 シルヴィアがさらりと頷く。

「ただ、飲み物は必要だと思ったので」

 

「ありがとう」

 

「エリン、これ夜中までやる気?」

 ホーネットが端末を覗き込む。

「うわ、もう図面ぐちゃぐちゃ」

 

「ぐちゃぐちゃじゃないわよ」

 エリンが言う。

「整理された途中段階」

 

「それを世間では、ぐちゃぐちゃって言うのよ」

 

「言わないわ」

 

 そのやり取りへ、ミラが横から口を挟む。

 

「ホーネット、邪魔しない」

 

「してない!」

 

「してる」

 シルヴィアが言う。

「少し下がって」

 

「はい……」

 

 そうして少し賑やかになったフロアへ、また次の気配が近づく。

 

 今度は、ぱたぱたと足音が多い。

 

「エリンさん、差し入れ持ってきました!」

 

 先頭で入ってきたのはクミコだった。

 その後ろに、アズサ、ハズキ、ミドリ、マユ、サリーが続く。

 

 それぞれ手にしているのは、小さなお菓子の袋や、個包装の焼き菓子、チョコレート、ナッツ、クラッカーなどだ。

 

「何、皆んな揃ったわね」

 

 エリンが、思わず嬉しそうに言った。

 

 クミコが、少しだけ照れたように笑う。

 

「差し入れ、何か必要かなって思って、甘いものの方が頭、回るかなと思って」

 

「それと、しょっぱいのも」

 ミドリが言う。

「甘いのばっかりだと飽きるので」

 

「素晴らしい配慮ね」

 エリンが笑う。

 

「えへへ……」

 

 アズサが、妙に得意げだ。

 

「私達、そういうとこ気が利くんです!」

 

「アズサは今、乗ってきただけでしょ」

 マユが小さく突っ込む。

 

「えー、でも私もちゃんと選んだよ!エリンさん、これ好きそうだなって!」

 

 ハズキは、紙袋をそっと机に置いた。

 

「夜遅いので、食べやすいものだけにしました」

 

「ありがとう」

 

 サリーは、机の上の資料を見て少しだけ眉を寄せる。

 

「もう船体確認まで始めてるんですね」

 

「始めてるわよ」

 エリンが言う。

「三日後だもの」

 

「……やっぱり、かなり大変そうです」

 サリーが静かに呟く。

 

「大変よ」

 

 エリンはあっさり答えた。

 

「だからこそ、今日の差し入れはありがたく受け取るわ」

 

 その言葉に、クミコ達の顔が少し明るくなる。

 

 けれど、それで終わりではなかった。

 

 最後に、また入口が勢いよく開いた。

 

「待ちなさいよ、私の方が絶対喜ばれるって!」

 

「何言ってるの!エリンさんは、こっちの方が好きに決まってるでしょ!」

 

 言い合いながら入ってきたのは、ユウコとナツキだった。

 

 二人とも、それぞれ手に小さな箱を抱えている。

 

「……貴方達まで来たの?」

 

 エリンが、少し笑いを噛み殺すように言う。

 

「もちろんです!」

 ユウコが胸を張る。

「差し入れ持ってきました!」

 

「私のスイーツの方が絶対喜ばれるから」

 ナツキが言う。

 

「いや、私の方が」

 ユウコが返す。

 

「うるさい」

 

 ミラが一言で切った。

 

 二人はぴたりと止まる。

 

 それを見て、ホーネットが吹き出した。

 

「相変わらず見事ね」

 

「ほんとに」

 

 シルヴィアも小さく笑う。

 

 こうして気づけば、フロアにはほとんど全員が揃っていた。

 

 机の上には、弁当、飲み物、お菓子、スイーツ。

 端末の光と、資料の山と、不規則に集まる人の影。

 

 エリンは、その光景を見て、胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。

 

 明らかに大変な便が来る。

 危険もある。

 しかも時間はない。

 

 それなのに、この子達は、こうして勝手に集まって、勝手に差し入れを持ってきて、勝手に心配している。

 

 そして、その“勝手”が、今はたまらなくありがたかった。

 

「……何、皆んな揃ったわね」

 

 もう一度、少しだけ声をやわらかくして言う。

 

 その言い方に、皆が少し照れたように笑う。

 

「せっかく集まったし」

 

 エリンは、そこでわざと少し間を置いた。

 

「シミュレーションでもやる?」

 

「え?」

 

 全員が、見事なくらい同時に固まった。

 

 クミコが目を丸くし、アズサが口を半開きにし、ホーネットが本気で一歩引く。

 ユウコとナツキに至っては、差し入れの箱を抱えたまま完全に停止した。

 

「え、今から!?」

 アズサが叫ぶ。

 

「差し入れ持ってきたのに!?」

 ユウコが言う。

 

「それ、罠だったの!?」

 ホーネットが本気で言う。

 

「そういう集め方あり!?」

 ナツキが眉をひそめる。

 

 ランが、わずかに目を細めた。

 

「……エリンさん」

 

 ミラは呆れたように額へ手を当てる。

 

「さすがにそれは、ちょっと」

 

 サリーでさえ、珍しく困った顔をしていた。

 

 その反応を見て、エリンはとうとうくすっと笑った。

 

「冗談よ」

 

 一拍遅れて、皆が一斉に息を吐く。

 

「よかったぁ……」

 クミコが本気で肩を落とす。

 

「びっくりした……」

 ハズキが胸元へ手を当てる。

 

「今の心臓に悪いです」

 ミドリが真顔で言う。

 

「エリンさん、ちょっと楽しみましたよね」

 マユが言う。

 

「少しだけね」

 

 エリンが悪びれもなく答えると、また小さな笑いが起きる。

 

 そうして、ようやく本当に場の空気がやわらいだ。

 

 差し入れは机の上へ広げられ、椅子が引き寄せられ、自然と輪ができる。

 大型船の図面は端に寄せられたまま。

 だが、完全に仕事を止めたわけではない。

 今はその前に、皆が“ここにいる”ことの方が大事だった。

 

「これ、温かいうちに食べてください」

 ミラが弁当を押し出す。

 

「まずこっちからです」

 ランが保温ボトルを開ける。

 

「飲み物は、糖分あるのとないの、両方あります」

 シルヴィアが整えて並べる。

 

「私はこのプリン押し!」

 ホーネットが机の中央へ箱を置く。

 

「その前に、私達のお菓子も」

 クミコが言う。

 

「いや、甘いのは最後でしょ」

 サリーが静かに指摘する。

 

「じゃあ塩気系から?」

 アズサが袋を開ける。

 

「待って、机の上、ちょっと整理しよう」

 ミドリが言う。

 

「ユウコ、それ今ぶつけたら潰れるわよ」

 ナツキがスイーツ箱を支えながら言う。

 

「わ、分かってるって!」

 

 その騒がしさの中で、エリンはようやく椅子へ深く座った。

 

 目の前には、差し入れが山のようにある。

 周りには、心配して来たのに、結局いつものように賑やかにしている子達がいる。

 

 大型船の資料も。

 警備導線も。

 宇宙管理局の許可も。

 全部、重い。

 

 でも、今この瞬間だけは、その重さを一人で抱えなくてもいい気がした。

 

「……ありがとう」

 

 エリンが、ぽつりと言う。

 

 皆の手が少し止まる。

 

「正直、今日は一人で最後まで詰めるつもりだった。でも、貴方達が来てくれてよかった」

 

 その言葉に、今度は誰もすぐには軽口を返さなかった。

 

 ミラが、少しだけ目を細めて言う。

 

「一人で詰めるのは、いつもの悪い癖ですよ」

 

「分かってるわ」

 

「分かっててもやるじゃないですか」

 ランが言う。

 

「やるわね」

 

 エリンが素直に認める。

 

「でも、今日は途中で止められた」

 

「止めたんじゃないです」

 クミコが言う。

「押しかけただけです」

 

「同じようなものよ」

 

 エリンが少し笑う。

 

「なら、これからもたまには押しかけてあげる」

 ホーネットが言う。

 

「状況によるわね」

 

「即答で切られた……」

 ホーネットが肩を落とし、シルヴィアが小さく笑う。

 

 そのあと、しばらくの間、フロアには本当に穏やかな時間が流れた。

 

 弁当を食べながら、少しだけ仕事の話をして。

 誰かが大型船の名前を予想し、誰かが「それ本当に三日で間に合うんですか」と聞き、エリンが「間に合わせるしかないでしょう」と返す。

 ユウコとナツキは、結局どっちのスイーツがより喜ばれるかでまた小さく言い合い、ミラにまとめて睨まれる。

 ホーネットはプリンを勧めすぎてシルヴィアに止められる。

 アズサは何度も「やっぱり大変ですよね」と聞き、そのたびにエリンが「大変よ」と言って笑う。

 

 そうして、ただ賑やかなだけではない、ちゃんと気持ちの通った夜が少しずつ深まっていった。

 

 エリンは、差し入れの山と、皆の顔と、端へ寄せた大型船の図面を順に見た。

 

 大変な便になる。

 危険もある。

 不安だってある。

 

 でも、たぶん自分は、この子達とならやれる。

 

 そう思えたことが、何より大きかった。

 

 フロアの暗さの中で、端末の画面が静かに光っている。

 その前に集まる人影は、決して一人ではなかった。

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