サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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宇宙海賊③

 

 今回のフライトが行われる前日。

 

 夜もだいぶ更けた時間だった。

 

 リュウジは部屋のデスクで端末を開き、明日以降の予定を淡々と確認していた。

 

 そんな中、端末が短く震えた。

 

 表示された名前を見た瞬間、リュウジは少しだけ眉をひそめる。

 

 ――ペルシア。

 

 こんな時間の通話で、ろくな内容だった試しがない。

 

 リュウジはすぐに通信を開いた。

 

「もしもし」

 

『もしもしじゃないわよ!』

 

 開口一番、ペルシアの強い声が飛んできた。

 

 声の勢いだけならいつも通りだ。

 だが、その奥に焦りが混じっている。

 

『あの子、一体何を考えてるのかしら!』

 

「……エリンさんのことか?」

 

『他に誰がいるのよ!』

 

 リュウジは、小さく息を吐いた。

 

 やっぱりか、と思う。

 最近の状況を考えれば、エリンが何か危ない方へ本気で首を突っ込んだとしても、そこまで不思議ではない。

 

「何があった?」

 

『あったもこうもないわよ!危険な便を引き受けたの』

 

「危険な便?」

 

『企業の社長、役員、政財界の大物をまとめて乗せる大型便!宇宙海賊の件で厳重注意が出てる、このタイミングでよ!?』

 

 リュウジは黙って聞いていた。

 聞いているうちに、額の奥が少しずつ重くなっていく。

 

「……断らなかったのか」

 

『断るべきだって、あの子だって最初は言ったわよ!でも会社の社長が、これを成功させればスペースホープはもう一度息を吹き返すって!それで結局、宇宙管理局の許可が出ればって条件つきで受けたの』

 

「そうか」

 

『そうか、じゃないわよ!』

 

 ペルシアの声が跳ねる。

 

『宇宙管理局から護衛をつけるけど、人が足りないのよ!他にも便はあるし、全部自由に動かせるわけじゃない!客室側がかなり抱え込む形になる』

 

 リュウジは、そこで椅子の背にもたれたまま目を閉じる。

 

 大型便。

 要人。

 警備は薄い。

 宇宙海賊の件は未解決。

 そして客室責任者はエリン。

 

 嫌な条件が揃いすぎていた。

 

『ねえ、聞いてる?』

 

「聞いてる」

 

『なら何か言いなさいよ!』

 

「何かって言われてもな」

 リュウジは低く返した。

「それで、宇宙管理局はどうするつもりなんだ?」

 

『護衛はつける。警備も回す!でも足りない!だから――』

 

 そこで、ペルシアが一拍だけ黙った。

 その沈黙だけで、次に何を言うのかはだいたい分かる。

 

『確証はないけど、頼むわよ』

 

 やっぱりな、とリュウジは思った。

 

『あんたが大好きなエリンを助けてあげて』

 

「言い方」

 

『うるさい!否定しない時点で図星でしょ』

 

「否定する必要を感じてないだけだ」

 

『はいはい、そういうことにしといてあげる』

 

 ペルシアの声が、ほんの少しだけやわらぐ。

 たぶん、リュウジが完全には断らないと分かったのだろう。

 

「それで?」

 リュウジが聞く。

「具体的には何をしろって?」

 

『一般客として乗りなさい』

 

「……」

 

『あの子、あんたが“護衛します”って前に出たら、たぶん嫌がるわよ!だから表じゃなくて裏!何もなければ、そのまま静かに帰ればいい!でも何かあった時、客室でも操縦室でも、あんたが動ける位置にいて』

 

 理屈としては間違っていない。

 

 エリンは、過剰に守られるのを嫌う。

 特に、自分が責任者として立っている便で、あからさまに誰かの庇護の下へ置かれるのは好まない。

 

『頼むわよ、リュウジ!あの子、平気な顔してる時ほど危ないんだから』

 

 その言葉に、リュウジは少しだけ目を開いた。

 

 平気な顔をしている時ほど危ない。

 それは、よく分かっていた。

 

「分かった」

 

 短く答える。

 

『ほんとに!?』

 

「ああ、一般客として」

 

 向こうで、ペルシアがほっと息を吐く音がした。

 

『助かるわ……』

 

「ただし」

 リュウジが言う。

「何もなければ、何もしない」

 

『それでいいわよ!むしろ何もないのが一番なんだから』

 

「便の情報は送ってくれ、搭乗客のざっくりした内訳と、警備配置も」

 

『分かってる。それと、あんたが乗るってこと、エリンには言わないから』

 

「そうしてくれ」

 

『……でも、ほんと』

 ペルシアが少しだけ声を落とす。

『最悪の最悪だけは、避けて』

 

「分かってる」

 

『お願いね』

 

 通話が切れる。

 

 リュウジは端末を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 

 宇宙海賊。

 要人便。

 エリン。

 大型宇宙船。

 警備は薄い。

 

 嫌な条件が揃いすぎている。

 だが、逆に言えば、揃いすぎているからこそ行く意味がある。

 

 リュウジは静かに立ち上がった。

 

「……面倒なことになりそうだな」

 

 誰に聞かせるでもなく呟き、必要最低限の荷物と、一般客として違和感のない服装、それから非常時に使える認証キーの確認を始めた。

 

 やるなら最初から最悪を想定して入る。

 それが今の自分の役目だと、もう理解していた。

 

 

 そして当日。

 

 リュウジは一般客として乗船した。

 

 目立たない席。

 だが、動こうと思えば動ける位置。

 前方にも中央にも出やすく、最悪の場合は操縦室へ向かえる導線が残る場所。

 

 搭乗の時点で、客室の張りつめ方は十分すぎるほど伝わってきた。

 

 エリン。

 ミラ。

 ラン。

 シルヴィア。

 

 堂々としている。

 だが、その堂々とした姿が、逆に今の便の重さを証明していた。

 

(本当に引き受けたんだな)

 

 リュウジは一度だけ前方区画を見た。

 

 エリンは、いつものように静かな顔で客を捌いている。

 迷いはない。

 だが、それは危険を理解した上で全部背負って立っている顔だ。

 

 離陸後もしばらくは問題なかった。

 

 客室は整っている。

 乗務員達もよく動いている。

 警備は少ないが、それを客室が埋めている。

 

 だからこそ、来るなら“少し安定した後”だろうとリュウジは考えていた。

 

 そして――。

 

 爆発。

 

 ドン、と鈍い音。

 続く衝撃。

 宇宙船が激しく揺れる。

 

 客席から悲鳴が上がり、護衛が立ち上がりかけ、どこかで金属が鳴る。

 

 その揺れの中で、リュウジは短くため息をこぼした。

 

「……ペルシアの予想が当たったか」

 

 冗談めいた響きはない。

 本気で、嫌な予感が当たったという声だった。

 

 座席の手すりを掴んで体勢を安定させる。

 客室を一瞬だけ見た。

 

 エリン達はもう動いている。

 驚きより先に、仕事へ入っている顔だった。

 

 なら、自分が向かう場所は一つだ。

 

 リュウジは、人の視線を最小限にしながら立ち上がった。

 一般客が慌てて逃げるような動きではなく、かといって目立つ速さでもなく、揺れに応じて自然に移動するふりをして、操縦室への導線へ入る。

 

 最悪を想定して一般客として乗った。

 なら今、最悪の入口が開いた以上、行くべき場所は操縦室だ。

 

 

 操縦室前。

 

 通常なら、ここへ一般客が近づけるはずもない。

 だが大型要人便ゆえに、操縦区画へ至るまでに複数の認証ロックがある代わり、補助用の外部ロックシステムも併設されていた。

 

 リュウジは、揺れが少し弱まった瞬間を狙って壁際の認証盤へ手を伸ばす。

 素早く、迷いなく、キーを入力する。

 

 ピッ、という短い認証音。

 続いてロック解除の低い作動音。

 

 そのまま扉を押し開け、中へ入った。

 

「誰ですか!?」

 

 スペースホープの若いパイロットの一人が、反射的に声を上げる。

 

 操縦室の中は緊迫していた。

 警告灯。

 揺れの名残。

 機器の確認に追われる二人のパイロット。

 その中へ、突然一般客の姿で男が入ってきたのだから当然だった。

 

 リュウジは、扉を閉めながら短く言った。

 

「落ち着け、俺だ」

 

 その声で、片方のパイロットがはっと顔を上げる。

 

「リュウジさん!?」

 

 もう一人も目を見開いた。

 

「どうしてここに……!」

 

「頼まれてな」

 

 リュウジは余計な説明を切った。

 

「それより宇宙船は?」

 

 その一言で、操縦室の空気が戻る。

 

 パイロットがすぐに答える。

 

「運航に問題はありませんが、後方外殻に損傷があります!」

 

「推進系は?」

 

「正常です!」

 

「姿勢制御」

 

「修正可能です!」

 

「気圧」

 

「維持してます!」

 

「……そうか」

 

 リュウジは短く頷いた。

 

 最悪ではない。

 だが、安全とは程遠い。

 

「とりあえず管制に通信だ」

 

 リュウジが言う。

 

 だが、若いパイロットの表情が曇る。

 

「それが……爆発の影響か、外部通信が使えないんです」

 

「なに?」

 

 リュウジが、初めてはっきりと眉を上げた。

 

「主回線も?補助回線もか?」

 

「はい!短距離内部通信は一部生きてますが、外へ抜ける回線が死んでます!」

 

「爆発で?」

 リュウジが低く問う。

 

「今のところ原因不明です!単なる損傷なのか、外部からの干渉なのかも――」

 

「……」

 

 リュウジはそこで黙った。

 

 ほんの数秒。

 だが、その沈黙の間に、考えるべきことが一気に走る。

 

 外殻損傷。

 小規模爆発。

 宇宙海賊の可能性。

 そして、外部通信不能。

 

 嫌な予感が、はっきりと輪郭を持つ。

 

「嫌な予感がするな」

 

 リュウジが低く呟く。

 

 若いパイロット達の背筋が緊張で強ばる。

 

「りゅ、リュウジさん……」

 

「とりあえず、緊急回線をS級権限で開通する」

 

 その言葉に、二人が一斉に顔を向ける。

 

「S級権限で……!?」

 

「ああ」

 

 リュウジは、操縦席の横にある非常アクセス端末へ手を伸ばした。

 

 通常の旅客船では、ここまでの非常開放権限はそうそう使われない。

 だが、連盟上位ライセンス保持者、それもS級には、極限状況での回線開放権限が認められている。

 

 それだけ、S級が“最後の現場責任を背負う存在”として見なされているということでもあった。

 

「座標固定。損傷箇所ログ保存。通信障害箇所を分離。緊急回線だけ通す」

 

 リュウジが操作しながら言う。

 

「はい!」

 

 若いパイロット達が即座に動く。

 

 端末に認証コードが流れる。

 リュウジは迷いなく入力し、上位権限の承認を通す。

 操縦室の一角で、低い電子音が連続した。

 

「それより」

 リュウジが続ける。

「エリンさん達にも情報を共有するんだ」

 

「はい!」

 

 片方のパイロットがすぐに内部回線を開こうとする。

 だが次の瞬間、その顔が強ばった。

 

「……繋がらない」

 

「何?」

 

 もう一人も自分の端末を見る。

 

「客室統括回線、応答なし!補助もです!」

 

 遅かったか、とリュウジは舌打ちをした。

 

 爆発の衝撃だけではない。

 どこかで通信系統まで切られている。

 少なくとも、偶発だけでは片づけられない。

 

「客室だけか?」

 リュウジが聞く。

 

「いえ、ブロック単位で一部死んでます!生きてる回線と死んでる回線が混ざってる!」

 

「選んで切られてる可能性が高いな」

 

「リュウジさん、これって」

 

「宇宙海賊だろうな」

 

 否定はしなかった。

 

「少なくとも、ただの船体事故じゃない。爆発だけならまだしも、通信まで狙って落ちてるなら話は別だ」

 

 若いパイロットの喉がごくりと動く。

 

「じゃあ、客室は……」

 

「エリンさん達なら、今この瞬間も立て直してるはずだ」

 

 その言葉に迷いはなかった。

 

「でも、通信が切れてる以上、客室は全体像が見えてない。それがまずい」

 

 リュウジは端末の画面を見据える。

 

 S級権限による緊急回線が、あと少しで開通する。

 外部管制へ繋げれば、宇宙管理局との再接続もできる。

 だが、それだけでは足りない。

 

 今必要なのは、客室と操縦室の情報を繋ぎ直すことだ。

 

「内部優先回線の残りは?」

 

「一系統だけ、生きてる可能性があります!」

 

「どこへ繋がる」

 

「後方補助系統……でも客室直通ではなく、機関寄りの共有ラインです!」

 

「十分だ」

 リュウジが即答する。

「そこを使う。客室へ届くなら何でもいい」

 

「はい!」

 

 パイロットが急いで系統を切り替える。

 だがノイズが走り、画面には不安定な波形しか出ない。

 

「くそっ……!」

 

 若いパイロットが思わず舌打ちしかけるのを、リュウジが一言で止めた。

 

「焦るな。焦った手は必ず雑になる」

 

「……はい!」

 

 その声で、操縦室の温度が少しだけ戻る。

 

 リュウジは、機器へ手を置いたまま画面を睨む。

 

 客室では今、エリン達が乗客を抑え、状況を立て直しているはずだ。

 ミラ、ラン、シルヴィアもいる。

 だから、完全に崩壊することはない。

 

 だが、敵が本当に通信を狙って切っているなら、この次がある。

 

 もう一発。

 あるいは、船内侵入。

 もしくは別の区画で同時に仕掛けてくる可能性。

 

 それを考えた瞬間、リュウジの思考は一段深いところへ落ちた。

 

「機関区画の監視は?」

 

「今、確認します!」

 

「補助ハッチのロック状況。非常通路の圧力差。あと、船外接触センサーの残りログも全部拾ってくれ」

 

「はい!」

 

 若いパイロット達が端末を叩く。

 もう“どうしてここにいるんですか”と聞く余裕はない。

 今、この場にリュウジがいることの意味を理解し始めていた。

 

「リュウジさん……」

 

 片方のパイロットが、視線を画面へ貼りつけたまま言う。

 

「もし、本当に宇宙海賊だったら」

 

「だったら?」

 

「来ますよね」

 

 その問いに、リュウジは一瞬だけ窓の外へ視線を向けた。

 

 外は暗い宇宙だ。

 そこに何がいるか、今の時点では見えない。

 だが、見えないからいないわけではない。

 

「来る可能性は高いだろうな」

 

 静かに答える。

 

「この一撃が様子見なら、次はもっと正確に来る。逆に、こっちの混乱を確認するための一発だった可能性もある」

 

「そんな……」

 

「だから」

 リュウジは、若いパイロットの方を見た。

「今ここで、操縦室が一番やってはいけないのはパニックだ。飛べるなら飛ぶ。姿勢を維持する。情報を繋ぐ。切られたら別回線を開く。やることはまだある」

 

「……はい!」

 

 二人の返事が今度は揃った。

 

 その時だった。

 

 端末の一角で、緑の小さなランプが点る。

 

「開通……!」

 片方のパイロットが叫ぶ。

「S級緊急回線、通ります!」

 

「管制へ」

 リュウジが即座に言う。

「まず状況共有!次に客室との再接続支援を要請」

 

「了解!」

 

 外部回線がようやく動き出す。

 だが、それで安心できるほど状況は甘くない。

 

 リュウジは、まだ手を離さない。

 

「客室側にも、別手段で伝え続けろ!届かなくても構わない、繋がるまで投げ続ける」

 

「はい!」

 

 そうして操縦室は、ようやく“孤立した箱”から脱し始める。

 

 けれど、リュウジの胸の奥の嫌な予感は、少しも薄れていなかった。

 

 爆発。

 通信障害。

 外殻損傷。

 そして客室との断絶。

 

 これだけ揃っていて、相手がここで終わるとは到底思えない。

 

 リュウジは、もう一度だけ心の中で状況を並べた。

 

 エリンは客室を立て直している。

 ミラ、ラン、シルヴィアもいる。

 若い乗務員達も、きっと必死にしがみついている。

 

 だからこそ、こちらが崩れるわけにはいかない。

 

「……どうか、持ちこたえてくれ」

 

 それは誰に向けた言葉だったのか。

 客室へか。

 船へか。

 それとも、あの人へか。

 

 リュウジ自身にも分からなかった。

 

 ただ、操縦室の中で鳴る機器音の中、その低い呟きだけが一瞬だけ空気へ溶けた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 それは、本当に唐突だった。

 

 爆発の衝撃で一度ざわめきかけた客室を、エリン達がようやく押し戻し、全員を座席へ落ち着かせ、ラウンジと飲食スペースを一時封鎖した、その少し後だった。

 

 宇宙船全体には、張りつめた静けさが広がっていた。

 

 誰もが異変を察している。

 けれど、何が起きたのかまでは分からない。

 だからこそ、余計に怖い。

 

 前方メイン区画では、要人達が声を潜めて何かを囁き合い、秘書達が端末を握りしめたまま顔を上げられずにいた。

 中央ラウンジ寄りでは、さっきまで偉そうに足を組んでいた役員達が、今は背もたれへやや深く身を預けている。

 飲食スペース側では、出しかけた飲み物も料理も止まり、空気だけが乾いているようだった。

 

 その空気の中で、エリンは前方と中央の境を見渡せる位置へ立ち、ミラはラウンジ寄りのブロックを、ランは右列寄りを、それぞれ一歩も崩さず支えていた。

 シルヴィアも後方区画を落ち着かせるために、ホーネットと共に動いているはずだった。

 

 その時だった。

 

 後方ブロック側から、低く、規則的な足音が聞こえた。

 

 コツ、コツ、コツ、と。

 

 客室乗務員の靴音ではない。

 護衛の、静かに押し殺した靴音とも違う。

 もっと遠慮がなく、もっと“踏み込んでくる側”の足音だった。

 

 エリンの視線が、わずかにそちらへ流れる。

 ミラも、ランも、同じ瞬間に気づいている。

 

 そして後方区画の空気が、ほんの一瞬で凍りついた。

 

 現れたのは五人。

 

 全員が、黒のレーザー服。

 顔を隠す、艶のない黒いヘルメット。

 表情は読めない。

 声の温度も、呼吸も、個性も、それだけで消されていた。

 

 片手にはレーザー銃。

 

 その銃口が、客室の空気を一段深く冷やした。

 

「……っ」

 

 誰かが小さく息を呑む。

 

 後方席の乗客の一人が反射的に立ち上がりかけ、それを見たホーネットが思わず一歩前へ出そうとする。

 だが、その一瞬を、ミラの低い声が切った。

 

「そのまま」

 

 短い。

 けれど、十分だった。

 

 ミラは、両手をゆっくりと上げる。

 武器を持っていないこと、敵意がないこと、そして自分が冷静であることを見せるための動きだった。

 ランも同じように、手を上げたまま一歩だけ乗客側へ身を寄せる。

 

「大丈夫です」

 ランが静かに言う。

「立たないでください。そのまま、お席で」

 

 その声は震えていない。

 少しも。

 

 ミラも、視線を海賊達から外さずに言う。

 

「皆さん、動かないで、顔を上げなくていいです。そのままで大丈夫です」

 

 その言葉は、乗客へ向けられているようで、実際には客室全体へ向けられていた。

 若い乗務員達へ。

 今にも泣きそうな顔をしている秘書達へ。

 そして、自分自身へも。

 

 エリンも、すでに両手を上げていた。

 

 肩の高さまで。

 無駄に早すぎず、しかし一切迷わず。

 

 そのまま、後方ブロックから現れた海賊達の方へ、まっすぐ声を向ける。

 

「一体どこから入ったんですか」

 

 それは驚きでも、責めでもなかった。

 あまりにも落ち着いた声音だったので、むしろ乗客側が一瞬だけ息を止めたくらいだ。

 

 先頭にいた宇宙海賊の一人が、黒いヘルメット越しに鼻で笑うような音を漏らした。

 

「ふっ、さぁな」

 

 声は低く、くぐもっている。

 年齢も顔も分からない。

 分かるのは、こちらを完全に見下ろしているということだけだ。

 

 エリンは、それでも声を変えなかった。

 

「それより、乗客、乗務員には手を出さないと約束してください」

 

 その場の空気が、さらに緊張で硬くなる。

 

 要人の護衛達が、じり、とわずかに重心を変える。

 ダグラスも一歩だけ前へ出かけたが、まだ止まっていた。

 彼も分かっているのだ。

 ここで一人でも焦って動けば、最初に崩れるのは客室だと。

 

 宇宙海賊の一人が、銃口を少しだけ持ち上げた。

 

「お前らの態度次第だ」

 

 その返答は、肯定ではない。

 けれど、完全な拒絶でもない。

 

 エリンは、そこでほんのわずかに目を細めた。

 

「分かりました」

 

 短く答える。

 

 そして、海賊から視線を切らないまま、しかし声だけは乗客達へ落とした。

 

「皆さま、何も心配いりません」

 

 その言葉に、後方の乗客が信じられないものを見るような目を向ける。

 目の前にレーザー銃を持った宇宙海賊が五人。

 それなのに、このチーフパーサーは“何も心配いりません”と言ったのだ。

 

 だが、エリンは本気でそう言っていた。

 

 今この場で一番危険なのは、恐怖が客席全体へ伝染すること。

 叫びが叫びを呼び、立つ者が増え、護衛が走り、海賊が引き金へ指をかけること。

 

 だからこそ、まず抑える。

 声で。

 立ち姿で。

 落ち着きそのもので。

 

 宇宙海賊の先頭が、今度は少し強めに口を開いた。

 

「この船のチーフパーサーは誰だ?」

 

 その問いに、一瞬だけ空気が止まる。

 

 ミラも。

 ランも。

 シルヴィアも。

 クミコもマユも。

 誰もが答えを知っている。

 だからこそ、誰も言えない。

 

 その沈黙を切ったのは、エリン自身だった。

 

「私です」

 

 黒い銃口が、ほんの少しだけエリンへ寄る。

 

「人質になってもらう。来い」

 

 その言葉が落ちた瞬間、何人かの乗客がはっきりと息を呑んだ。

 マユの指先が強くこわばる。

 クミコの喉が動く。

 ホーネットが一歩踏み出しかけるのを、シルヴィアが視線だけで止めた。

 

「ちょっと待て」

 

 低く鋭い声が飛ぶ。

 

 ダグラスだった。

 

 宇宙管理局から回された警備主任の彼が、半歩前へ出ていた。

 その一歩は小さい。

 けれど、海賊達にとっては十分な“介入の気配”だ。

 

 次の瞬間、宇宙海賊の一人がレーザー銃をダグラスへ向けた。

 

 客室の空気が、今度こそ張り裂けそうになる。

 

「待ってください」

 

 エリンが、ほとんど反射の速度でその射線へ入った。

 

 ダグラスと海賊の間へ、体を滑り込ませる。

 手はまだ上げたまま。

 それでも、明らかに“止めた”動きだった。

 

 黒い銃口が、エリンの横顔すれすれへ寄る。

 

「人質の件は問題ありません」

 

 エリンが言う。

 

 その声は低く、落ち着いていて、ひどく静かだった。

 

「勝手な事をするな」

 

 宇宙海賊が吐き捨てる。

 

「申し訳ありません」

 

 エリンが即座に返す。

 

 謝罪の言葉。

 だが、媚びてはいない。

 あくまで、今この場で余計な火種を増やさないための選択だった。

 

 ダグラスは、エリンの背中越しに歯を食いしばる。

 止めたい。

 だが、止めた瞬間に引き金が落ちる可能性がある。

 

 エリンは、そこまで全部分かった上で、自分を前へ出している。

 

「なら、さっさと歩け」

 

 宇宙海賊が、エリンの後頭部へレーザー銃を突きつけた。

 

 冷たい金属の感触が、髪越しに伝わる。

 けれどエリンは、肩ひとつ震わせなかった。

 

「分かりました」

 

 そのまま、ほんの少しだけ首を傾ける。

 

「マユ、後は任せたわ」

 

 その一言で、マユの顔が強ばる。

 けれど、同時に目の奥が変わる。

 

「……はい」

 

 声はかすかに震えていた。

 だが、返事は返した。

 

 エリンが歩き出す。

 

 通路を一歩、また一歩。

 後頭部に銃口を押しつけられたまま。

 前には宇宙海賊。

 左右には凍った客室。

 

 それでも、エリンの背筋は崩れない。

 

 

 その移動の最中だった。

 

 エリンは、一度も振り返らなかった。

 けれど、視線だけは客室の端々を拾っていた。

 

 ミラ。

 ラン。

 シルヴィア。

 マユ。

 クミコ。

 ホーネット。

 サリー。

 アズサ。

 ミドリ。

 ハヅキ。

 ユウコ。

 ナツキ。

 

 それぞれへ、ほんの一瞬だけ目を送る。

 

 ――大丈夫。

 ――崩れないで。

 ――今は動かない。

 ――客を守る。

 ――役目を思い出して。

 

 そんな意味を、声ではなく視線で送っていた。

 

 ミラは、その視線を受けて、わずかに呼吸を整えた。

 

 泣きそうになる暇も、怒る暇もない。

 今、自分がやるべきことはただ一つ。

 客室を落とさないこと。

 

 ランも、目元を少しだけ引き締める。

 クミコの肩が今にも上がりそうだったのを、視線だけで制した。

 

「そのまま」

 ランが、小さく言う。

「見ないでいい。やることだけ見て」

 

 クミコは、唇を噛んで頷く。

 

 マユは、エリンから“後は任せた”と言われた言葉の重みで、一瞬だけ足がすくみそうになった。

 けれど、その直後にエリンが自分へ送った視線が、妙に静かだった。

 

 ――怖がっていい。

 ――でも止まらないで。

 

 そう言われた気がした。

 

「前方補佐、継続します」

 

 マユが、自分自身へ言い聞かせるように呟く。

 

 それを聞いて、ユウコが小さく息を呑む。

 

「マユ……」

 

「ユウコ」

 ナツキが低く言う。

「今は言葉を増やさないで」

 

「……うん」

 

 シルヴィアは、ホーネットの肘がぴくりと動いたのをすぐに見た。

 

「動かないで」

 

 小声。

 だが、芯がある。

 

「分かってる」

 ホーネットが歯の間から返す。

「でも……」

 

「でも、じゃない。今動いても、エリンさんを助けることにはならない」

 

 その一言が、ホーネットをぎりぎりで止めた。

 

 悔しさで、喉の奥が焼ける。

 前へ出たい。

 あの銃を持っている手首を折ってやりたい。

 けれど、それで客室が壊れたら終わりだ。

 

 シルヴィアも、本当は前へ出たい気持ちを押し殺していた。

 それでも止まる。

 止まって、今は全体を見る。

 

 エリンがそうしろと言っているから。

 

 

 乗客達もまた、エリンの視線に奇妙な形で救われていた。

 

 普通、人質にされる人間はもっと怯える。

 震える。

 泣く。

 怒る。

 それが普通だ。

 

 なのに、あのチーフパーサーは違う。

 

 後頭部へ銃を突きつけられながら、乗客の方へ目を向けている。

 しかも、その目が“安心しろ”と告げている。

 

 おかしい。

 どう考えても普通ではない。

 

 だが、その普通ではなさが、今は救いだった。

 

 誰かが大きく取り乱せば、客室は終わる。

 けれど、チーフパーサーがこうしている以上、自分も今は叫べない。

 立てない。

 崩れられない。

 

 そんな空気が、不思議な形で客席全体へ広がっていく。

 

 要人の一人が、思わず立ち上がりかけた秘書の腕を掴んで座らせた。

 ラウンジ側で半ば腰を浮かせていた役員も、歯を食いしばって座り直す。

 護衛達も、今は“人質を取られている状況で勝手に動けない”という理性を必死で保っていた。

 

 エリンが作った静けさが、まだ生きている。

 

 

「止まれ」

 

 宇宙海賊の一人が言う。

 

 エリンが足を止める。

 

 場所は、前方区画と中央ブロックの境目に近い位置だった。

 通路は十分に広い。

 人質を立たせ、見せしめにするには都合のいい場所だ。

 

 宇宙海賊達は五人。

 うち二人が後方寄りの客席を押さえ、一人がダグラス達警備側を牽制し、残る二人がエリンを中心に位置を取っている。

 

 配置に無駄がない。

 

 エリンは、そのことを一瞬で理解した。

 

(船内の動きに慣れてる)

 

 ペルシアやダグラスが言っていたとおりだ。

 ただ乱暴に乗り込んできた連中ではない。

 客室のどこが見通せて、どこへ立てば全体を脅せるかを、感覚で分かっている。

 

 だからこそ厄介だ。

 

「ここでいい」

 先頭の宇宙海賊が言う。

「お前は動くな」

 

「分かりました」

 

 エリンが答える。

 

「あと」

 海賊が続ける。

「誰か一人でも妙な動きをしたら、最初に撃つのはお前だ」

 

 その言葉に、客室の空気がぎりっと縮む。

 

 だが、エリンはそれにも表情を変えない。

 

「承知しました」

 

 その返答の仕方があまりにも静かで、逆に海賊の方が一瞬だけ拍子を狂わせたように見えた。

 

 後方で銃を向けている別の海賊が、苛立ったように言う。

 

「何だこいつ……」

 

「口を利くな」

 先頭が制する。

 

 エリンは、そのやり取りの間にも客室を見ていた。

 

 今、乗務員達が崩れなければ、まだ持つ。

 まだ客室は死んでいない。

 なら、次に必要なのは――時間だ。

 

「ひとつだけ、お願いしてもいいですか」

 

 エリンが口を開く。

 

 黒いヘルメットが一斉にそちらを向く。

 

「何だ」

 

「乗客の中には高齢の方もいます。極度に怯えると体調を崩す可能性がある、だから、大きな声は控えてください」

 

 その言葉に、ホーネットが思わず目を見開いた。

 クミコも、ミラも、ランも、一瞬だけ信じられないものを見るような顔になる。

 

 今、自分が人質だ。

 それなのに、この人はまだ乗客の体調の方を気にしている。

 

 海賊の一人が、ヘルメットの奥で鼻で笑ったような音を漏らした。

 

「お前、変わってるな」

 

「そうですか?」

 

「普通は自分の命乞いをするところだ」

 

「今それをして、状況がよくなるならしますけど」

 エリンが言う。

「そうではないでしょう?」

 

 ほんの一瞬だけ、宇宙海賊の側が沈黙した。

 

 その間に、エリンはまた客室へ視線を流す。

 

 ――大丈夫。

 ――今はそのまま。

 ――持ち場を離れないで。

 

 ミラは、その視線を受けて小さく顎を引いた。

 ランも、クミコの立ち位置を少しだけ修正しながら目だけで返す。

 シルヴィアはホーネットを自分の斜め後ろへ残したまま、視界全体を広げる。

 

 ダグラスは、まだ動かない。

 動けない。

 だが、その目は完全に死んでいない。

 機会を待っている目だ。

 

 エリンは、それも確認する。

 

 なら、まだ繋がっている。

 

 船は揺れた。

 爆発も起きた。

 宇宙海賊も入ってきた。

 自分は人質になった。

 

 それでも、まだ全部は切れていない。

 

 客室。

 警備。

 視線。

 呼吸。

 

 それらが、まだ細い糸のように繋がっている。

 

(なら、切らせない)

 

 エリンは心の中でそう決める。

 

 そして、後頭部へ突きつけられたレーザー銃の冷たさを感じながらも、ほんの少しだけ背筋を伸ばした。

 

 人質である以上、自分に今できることは限られている。

 だが、限られているから何もできないわけではない。

 

 立ち方。

 声の落ち着き。

 視線の配り方。

 それだけでも、客室の崩れ方は変えられる。

 

 だからこそ、エリンは怯えた顔をしない。

 

 客に見せるべきではないから。

 乗務員に見せるべきでもないから。

 そして、自分自身が恐怖へ引きずられないためにも。

 

 宇宙海賊の一人が、前方の客席を見回して言う。

 

「全員、そのままだ!誰も喋るな」

 

 それに対し、もう一人がラウンジ側へ銃口を向け直す。

 

 黒いヘルメット。

 黒いレーザー服。

 冷たい銃。

 

 だが、客室の中心にはまだ、エリンが立っていた。

 

 人質になっても。

 銃を突きつけられても。

 彼女はなお、客室のチーフパーサーのままだった。

 

 そして、その姿が残っている限り、ミラもランも、シルヴィアも、若い乗務員達も、完全には崩れない。

 

 宇宙船の中を満たす緊張は極限まで高まっていた。

 誰かの息ひとつで壊れそうなほど、細く危うい均衡。

 

 その均衡の中心で、エリンは静かに立っていた。

 

 まるで、自分が人質であることすら、今は優先事項ではないとでも言うように。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 客室を満たしていた緊張は、すでに極限に近かった。

 

 誰も大きく動かない。

 誰も大きな声を出さない。

 けれど、静かだからこそ、そこにある恐怖はむき出しだった。

 

 前方席では要人の一人が唇を引き結び、指先だけを膝の上で強く握り込んでいる。

 中央ラウンジ寄りでは、先ほどまで偉そうに脚を組んでいた役員が、今は背もたれへ身体を押しつけるようにして息を殺していた。

 飲食スペース側では、半端に立ち上がりかけていた秘書達が、結局、椅子の縁へ腰を戻しきれないまま硬直している。

 

 宇宙海賊は五人。

 後方ブロックから現れた時と同じように、黒のレーザー服に黒いヘルメット。

 個性を消したようなその姿は、人間というより、客室へ侵入した“脅威そのもの”に見えた。

 

 レーザー銃の銃口は、少し動くだけで空気を切り裂くような冷たさを持っている。

 

 その中で、エリンだけが異質なほど静かだった。

 

 後頭部へ銃を突きつけられ、人質として客室の中心へ立たされている。

 それなのに、その背筋は崩れない。

 呼吸は浅く乱れず、視線は客室全体の空気をまだ拾い続けている。

 

 その様子を、黒いヘルメットの奥から宇宙海賊のリーダーらしき男がじっと見ていた。

 

 数秒。

 たったそれだけなのに、その沈黙が客室中の喉を絞め上げるようだった。

 

 やがて、男が低く言った。

 

「お前は慣れてるのか?」

 

 その問いは、ただの興味ではない。

 値踏みだ。

 今、自分達の前にいるこの女が、どの程度まで壊れないのかを測っている声だった。

 

 エリンは、ほんのわずかに視線だけを向ける。

 

「二回目なのは確かですが」

 

 その返答に、何人かの乗客が息を呑んだ。

 ミラも、ランも、シルヴィアも、その一言の意味を理解している。

 悲劇のフライト。

 あの事故。

 あの惨事を、この人は生きて越えている。

 

 宇宙海賊の男は、わずかに顎を動かした。

 

「二回目、か」

 

「慣れると思いますか?」

 

 エリンが言う。

 

 その声に、怒りも、恨みも、震えもない。

 ただ事実を事実として返す、静かな温度だけがあった。

 

「それにしては落ち着いてるな」

 

 男の声が少しだけ低くなる。

 

 周囲にいた別の宇宙海賊も、黒いヘルメット越しにエリンを見ていた。

 普通なら、ここまでで目が泳ぐ。

 呼吸が乱れる。

 声が掠れる。

 それがない。

 

 それが、彼らにとっては逆に不快なのだろう。

 

 エリンは、ほんの少しだけ間を置いて答えた。

 

「悲劇のフライトを経験しているからかしらね」

 

 その言葉が落ちた瞬間、客室のどこかで誰かの喉が鳴った。

 わずかに聞こえたその音は、恐怖か、驚きか、それとも別の感情か。

 

 宇宙海賊のリーダーらしき男が、黒いヘルメットの奥で“ほぅ……”と低く漏らした。

 

 それは感心でも同情でもない。

 獲物の予想外の反応を見た時のような、冷たい興味だ。

 

「それはそれで面白くないな」

 

 その一言に、客室の空気がぞっと冷える。

 

 エリンの眉が、ごくわずかに動いた。

 

「え?」

 

 それは、問い返しというより、ほんの反射に近い音だった。

 

 次の瞬間だった。

 

 頬に衝撃が走った。

 

 乾いた、重い音。

 レーザー銃の柄で殴られたのだと理解するより先に、エリンの視界がぐらりと傾く。

 

 痛みが遅れて追いついてくる。

 頬骨のあたりへ鋭く、鈍く、熱を伴った衝撃が広がる。

 耳鳴り。

 一瞬だけ抜ける呼吸。

 

「――っ」

 

 曇った声が漏れ、その場へ倒れた。

 

 客室の何人かが思わず声を上げそうになる。

 クミコの肩が跳ね、マユの目が見開かれ、ホーネットが半歩出かける。

 だが、その全部が次の瞬間、凍りつく。

 

「立て!」

 

 宇宙海賊が怒鳴る。

 

 銃口が下へ向けられる。

 倒れたままなら、そのまま撃たれる。

 そう思わせるには十分な圧だった。

 

 エリンは、床へ片手をついた。

 頬の内側を切ったのか、口の中に鉄っぽい味が広がる。

 でも意識は飛んでいない。

 むしろ、痛みで逆に妙に澄んだ。

 

 立たなければならない。

 ここで崩れたら、客室の均衡ごと壊れる。

 

 ゆっくりと身体を起こす。

 乱暴に掴まれる前に、自分から立つ。

 それが今、自分に出来る最善だ。

 

 ミラの喉の奥から、押し殺した声が漏れそうになる。

 ランは、クミコの前へほんのわずかに身を滑らせる。

 シルヴィアはホーネットの腕を視線だけで止めた。

 

 誰も動けない。

 でも、誰も目を逸らせない。

 

 エリンは立ち上がると、頬の端を親指でそっと拭った。

 指先に薄い赤がつく。

 けれど、それを見ない。

 

 宇宙海賊のリーダーらしき男が、淡々と告げた。

 

「お前は見せしめにはならないが、人質として使える。機械室に移動する」

 

 その言葉に、客室の空気がまた一段冷える。

 

 機械室。

 

 その単語の意味を、ここにいる護衛達はすぐに理解した。

 客室から切り離す。

 交渉材料にする。

 あるいは、船そのものを押さえるための駒にする。

 

 エリンは、頬の熱を感じながらも、小さく頷いた。

 

「……分かりました」

 

 その声はまだ掠れていない。

 完全には。

 

 歩け、と銃口で示される。

 

 エリンは一歩を踏み出した。

 通路の床はいつもと同じなのに、客席からの視線が痛いほど重い。

 乗客達は、ただ見ているしかない。

 護衛達も、今は銃を向けられたまま動けない。

 

 だが、その中でもエリンは、歩きながら周囲へ視線を送った。

 

 ミラへ。

 ランへ。

 シルヴィアへ。

 マユへ。

 クミコへ。

 そして、ユウコ、ナツキ、ハヅキ、ミドリ、アズサ、ホーネット、サリーへ。

 

 言葉はない。

 でも、その目はいつもと変わらない。

 

 ミラは、その視線を受けた瞬間、胸の中でせり上がってきた怒りをぎりぎりで押し止めた。

 殴られた。

 目の前で。

 あの人が。

 それなのに今、自分がすべきことは飛び出すことではない。

 

 客室を落とさないことだ。

 

 そのことが、悔しいくらい分かってしまう。

 

 ランもまた、顔色ひとつ変えずに立っていた。

 でもその指先は、スカートの布をほんのわずかに掴んでいる。

 怒りではなく、制御のための力だ。

 

 クミコは、涙が出そうになるのを必死に堪えていた。

 叫びたい。

 止めたい。

 でもエリンが今、振り返りもせずに自分へ“任せる”視線をくれた。

 

 なら、泣くわけにはいかない。

 

 マユは、頬の血を見た瞬間に心臓が縮む思いがした。

 けれど同時に、エリンから受けた「後は任せた」の一言が、胸の中央へ突き刺さったまま残っている。

 

 その重さが、逆に足を止めさせない。

 

 ホーネットは、歯を食いしばっていた。

 自分より先にシルヴィアが止めていなければ、たぶん本当に飛び出していた。

 そんな自分が、今は痛いほど分かる。

 

 だからこそ、動かない。

 今動けば、それはただの自己満足だと、エリンの背中が教えている。

 

 シルヴィアは、その全員の空気を感じ取りながら、なお前を見ていた。

 今ここで、一人でも崩れたら終わる。

 だから自分が、ホーネットも後方区画も、全部支えなければならない。

 

 その緊張が、指先から肩までを冷やしていく。

 

 エリンが歩く。

 黒いレーザー服の海賊達が、その前後左右を固めるようについていく。

 

 その途中だった。

 

 リーダーらしき男が、少しだけ頭を横へ向ける。

 

「操縦室を押さえておけ」

 

 低い声。

 

 別の男が、短く返す。

 

「了解」

 

「強奪はその後に行う」

 

 その一言は、客室のごく一部にしか聞こえなかった。

 だが、聞こえた者にとっては十分すぎるほど重かった。

 

 ダグラスの目が、一気に鋭くなる。

 

(やはり狙いはそこか)

 

 単なる脅しではない。

 見せしめでも、ただの金品目的でもない。

 最終的にはこの船を押さえるつもりだ。

 

 その事実が、客室の緊張をさらに別の質へ変えた。

 

 ダグラスは、宇宙海賊達がエリンを連れて前方から離れていく背中を見ながら、歯の裏で静かに息を吐いた。

 

 今ここで動くべきではない。

 だが、次に動く時は一瞬だ。

 その瞬間を逃せば、操縦室も機械室も両方押さえられる。

 

 その横で、ミラがごく小さな声で言った。

 

「ラン」

 

「分かってる」

 

「客室を落とさない」

 

「ええ」

 

 たったそれだけ。

 でも、そのやり取りの中に、今の自分達が何を最優先にすべきかが詰まっていた。

 

 エリンがいなくなった。

 それでも客室は崩してはならない。

 

 乗客を守る。

 パニックを防ぐ。

 乗務員を立たせる。

 そして、次に来る動きへ備える。

 

 シルヴィアも、少し離れた位置から低く言う。

 

「ホーネット」

 

「うん」

 

「今からは私達が前に出る。出来る?」

 

 ホーネットは、黒いヘルメットの海賊達を睨むのをやめずに答えた。

 

「出来る」

 

「ならいい」

 

 その声には、迷いがなかった。

 

 客室の温度は、恐怖の熱ではなく、極限まで冷えた集中へ変わり始めていた。

 

 そして、その中心には、まだエリンの背中が残っている。

 

 頬を打たれても。

 人質として連れ出されても。

 振り返らず、でも客室へ“崩れないで”と送り続けたその背中が。

 

 だから、まだ終わっていない。

 

 宇宙海賊達がエリンを連れて通路の先へ消えていくまで、誰一人大きな声を出さなかった。

 誰も立ち上がらなかった。

 それは恐怖だけの結果ではない。

 

 あのチーフパーサーが、最後の最後まで客室を任せて行ったからだ。

 

 その意味を、ここにいる全員が、それぞれの形で理解していた。

 

 だからこそ、次の瞬間から、この宇宙船の客室は“エリンがいた時のまま崩れないこと”を宿命のように背負うことになる。

 

 機械室へ向かう通路の向こうで、黒い影が消える。

 

 残された客室に、音のない圧力だけが重く沈んだ。

 

 

ーーーー

 

 

 

 宇宙海賊達に連れられていくエリンの背中が、前方通路の先へ消えようとしていた、その時だった。

 

 残された客室の空気は、壊れる寸前の薄いガラスみたいに張りつめていた。

 

 誰も声を出さない。

 誰も大きく動かない。

 けれど、それは落ち着いているからではない。

 ほんの少しでも何かが触れれば、一気にひび割れてしまいそうな均衡の上で、全員が息だけで立っている状態だった。

 

 ミラは中央寄りの位置で、乗客全体の空気と海賊達の配置を同時に見ていた。

 ランはクミコを自分の半歩後ろへ置いたまま、右ブロックの視線を切らさない。

 シルヴィアは後方区画を押さえつつ、ホーネットが飛び出さないよう、言葉ではなく立ち位置で止めている。

 マユは、前方区画の端で、エリンがいなくなった場所を一瞬だけ見そうになった自分の目を、必死に客室へ戻していた。

 

 全員が理解していた。

 

 ここで崩れたら終わる。

 そして、今あの背中を追うことは、エリンの意図に反する。

 

 だから踏みとどまる。

 

 そんな張りつめた客室の中で、海賊の一人が不意に銃口を動かした。

 

 ぐるり、と。

 

 その先にいたのは、ユウコだった。

 

「――っ」

 

 ユウコの喉が、ひゅ、と鳴る。

 黒いレーザー服の男が、何のためらいもなくその頭へレーザー銃を突きつけたのだ。

 冷たい銃口が髪越しに押し当てられ、ユウコの肩が目に見えて強ばる。

 

「お前」

 

 低い声だった。

 感情がない。

 だから余計に怖い。

 

「このまま操縦室に行け」

 

 ユウコは一瞬、返事が出来なかった。

 視界の端でミラがわずかに動き、ランが目だけで“動くな”と伝えてくる。

 ナツキは奥歯を噛んでいた。

 アズサが今にも泣きそうな顔をしている。

 クミコは自分でも気づかないうちに手を握りこんでいた。

 

 でも、一番強く感じたのは、さっきまで客室の中心にいたエリンの視線の残滓だった。

 

 ――崩れないで。

 ――役目を忘れないで。

 

 ユウコは、震える喉を無理やり開いた。

 

「わ、分かりました」

 

 その返事は掠れていた。

 だが、ちゃんと聞こえた。

 

 海賊は銃口を押しつけたまま、ユウコの後ろへ立つ。

 別の一人が客席へ銃を向け、残りはダグラス達警備側を牽制したままだ。

 

「変な真似はするな」

 

「……はい」

 

 ユウコは小さく答え、通路へ一歩を踏み出した。

 

 その背中を、客室中の視線が追う。

 

 

 操縦室へ向かう通路は、客室のざわめきから切り離されているようでいて、逆に音がよく響いた。

 

 ユウコの靴音。

 海賊の靴音。

 レーザー銃がわずかに制服へ触れる音。

 自分の呼吸だけが妙にうるさい。

 

(怖い……)

 

 そう思う。

 怖くないわけがない。

 

 頭へ銃を突きつけられたまま、操縦室へ向かって歩かされている。

 足がうまく前へ出ない。

 膝の裏が冷える。

 でも、止まれない。

 

 ユウコは、頭の中で何度も、今までエリンに言われたことを思い出していた。

 

 慌てるな。

 パニックは人に移る。

 声の高さを上げるな。

 怖い時ほど、まず一つだけやることを決めろ。

 

 今、やることは一つ。

 

 ――生きて、時間を稼ぐ。

 

 それだけを何度も心の中で繰り返す。

 

 やがて、操縦室前の認証盤が見えてきた。

 

 重厚な扉。

 横には認証盤。

 その隣には、緊急時に客室側から呼びかけるためのインターホン。

 

 ユウコは、そこまで来た瞬間、反射的にインターホンへ手を伸ばしかけた。

 

 だが次の瞬間。

 

「何をやっている」

 

 低い声と同時に、銃口がぐいっと頭を押した。

 

「っ……!」

 

 ユウコの額が少し前へ揺れる。

 

「認証盤を使え!」

 

「わ、分かりました……!」

 

 ユウコは、慌てて手を引っ込めた。

 インターホンから、認証盤へ。

 指先の行き先を変える。

 

 海賊が、さらに低く吐き捨てる。

 

「下手な真似をしたら、頭を撃ち抜く!代わりはいくらでもいる」

 

 その言葉が、胃の奥へ氷みたいに落ちる。

 

 代わりはいくらでもいる。

 

 つまり、自分は今、名前も顔も意味もなく、“扉を開けるための道具”として扱われている。

 それが理解できてしまうから、なおさら怖かった。

 

 ユウコは、震える指先で認証キーを押していく。

 

 落ち着け。

 間違えるな。

 焦るな。

 

 そう思えば思うほど、指先が言うことをきかない。

 けれど、どうにか順番を崩さずに入力する。

 

 電子音。

 認証完了。

 低い作動音とともに、操縦室の扉が開いた。

 

 

 中にいたパイロット達が、当然のように驚いた。

 

 緊張しきった操縦室の中へ、乗務員のユウコが現れる。

 しかも、その背後には黒いレーザー服の男。

 手には銃。

 それだけで、今の状況は十分すぎるほど伝わる。

 

「なっ――」

 

 若いパイロットの一人が息を呑む。

 

「人質がいる」

 

 宇宙海賊が、銃口をユウコの頭から離さずに言った。

 

「下手な真似をしないで、予定通り目的地に向かえ」

 

 その声は、さっき客室で聞いたものと同じ、感情の削がれた低さだった。

 

「わ、分かった!」

 パイロットの一人が、反射的に頷く。

「だ、誰も撃ってないな?」

 

 その問いは、現実逃避のようでもあり、確認でもあった。

 少しでも“まだ間に合う”と思いたかったのだろう。

 

 宇宙海賊は鼻で笑ったように言う。

 

「お前らが大人しくしていればな」

 

 ユウコは、その場に立たされたまま、呼吸を必死に整えていた。

 だが、その一瞬の間にも操縦室の異様さに気づく。

 

 通常より人が多い。

 そして、どこかで見た背中がある。

 

 だが、そこへ意識を向ける前に、若いパイロットの一人が、ユウコへ問いかけた。

 

「乗務員、宇宙海賊は何人だ?」

 

「え、えっと……」

 

 ユウコは反射的に口を開いてしまった。

 客室に残った海賊の人数。

 それくらいなら言える。

 いや、言うべきかもしれない。

 

「五人です」

 

 答えた瞬間、宇宙海賊が怒鳴った。

 

「おい! 勝手に話すな!」

 

 銃口がさらに強く押しつけられる。

 ユウコの肩が跳ねる。

 

 その時だった。

 

「ああ、もう聞くことはない」

 

 背後から声がした。

 

 落ち着いた、よく通る男の声。

 宇宙海賊が「なっ!?」と振り返る、その頃にはもう遅かった。

 

 リュウジだった。

 

 死角に入っていたのか、それとも海賊がユウコとパイロット達へ意識を寄せた瞬間を待っていたのか。

 いずれにしても、その動きはあまりにも速かった。

 

 黒い影の懐へ、一歩で入る。

 銃を持つ腕の軌道を外し、そのまま肘で首筋を打ち、もう一方の手で顎の下を押し上げる。

 相手が完全に体勢を崩した瞬間、躊躇なく鳩尾へ深く打ち込む。

 

 宇宙海賊の身体から力が抜ける。

 銃が床へ落ちるより先に、意識が刈り取られていた。

 

 鈍い音を立てて、海賊が崩れ落ちる。

 

 ユウコは、一瞬何が起きたのか理解できなかった。

 目の前で黒い影が倒れ、その奥にいたのがリュウジだと認識したのは、ほんの少し遅れてからだ。

 

「……っ」

 

 呼吸が戻ると同時に、膝が抜けそうになる。

 

 だがリュウジは、倒れた海賊へ目もくれず短く言った。

 

「とりあえず拘束しておけ」

 

 その一声で、若いパイロット達が一気に我に返る。

 

「は、はい!」

 

 片方が飛びつくようにして拘束具へ手を伸ばし、もう一人が落ちた銃を蹴り飛ばして距離を取る。

 

 その間に、ユウコはようやくリュウジをはっきり見た。

 

「りゅ、リュウジさん!?」

 

 声が震える。

 それでも、その名前はしっかり出た。

 

 リュウジは、まだ周囲の気配を探る目のまま、ほんの少しだけユウコを見る。

 

「よく頑張ったな」

 

 その一言で、ユウコの喉がぎゅっと詰まる。

 

 怖かった。

 本当に。

 足も、指先も、今さら遅れて震え始める。

 

 でも、その“頑張った”の一言で、自分がただ怯えて連れて来られただけじゃなく、ちゃんと役目を果たしたのだと、初めて少しだけ思えた。

 

「わ、私……」

 ユウコがうまく言葉を継げない。

 

「話は後だ」

 

 リュウジは静かに言った。

 声は低いが、乱れていない。

 今、ここで誰よりも冷静なのは間違いなくこの人だった。

 

「もう少し協力してくれ」

 

 ユウコは、目を瞬かせる。

 

「きょ、協力……?」

 

「ああ」

 

 リュウジは、拘束されていく海賊を横目で見ながら続けた。

 

「客室に残ってるのは四人だ。こっちは今、操縦室を一つ取り返しただけに過ぎない」

 

 その言葉が、冷水みたいにユウコの頭を冷やす。

 

 そうだ。

 終わっていない。

 今ここで海賊一人を落としたからといって、客室側の危機が消えたわけじゃない。

 

 むしろ、こちらの動きが露見すれば、エリン達の方が危ない。

 

「……何をすればいいですか」

 

 ユウコが、小さくてもはっきり聞く。

 

 リュウジは、その問いへすぐに答えた。

 

「まず、落ち着け。呼吸を戻せ」

 

「はい……!」

 

「それから、客室の状況を思い出せるだけ全部言ってくれ。誰がどこにいたか。海賊の立ち位置。細かいほどいい」

 

 ユウコは、何度か浅く呼吸を整えた。

 まだ震えは止まらない。

 でも、頭の中へ客室の光景を戻していく。

 

 エリン。

 銃。

 ミラの位置。

 ランがクミコを止めたこと。

 シルヴィアとホーネット。

 ダグラス。

 後方ブロックから現れた海賊。

 そして機械室へ向かった通路。

 

「前方と中央の境目です」

 ユウコが言う。

「そこにエリンさんが立たされて……ミラさんは中央寄り、ランさんは後方ブロック、シルヴィアさんは前方にいて。海賊は……後方から出てきた五人で、一人は私をここまで連れてきて、残り三人は客室にいるはずです。それと……」

 

 ユウコは、息を吸って続けた。

 

「リーダーっぽい男が、機械室にエリンさんを連れて行って、あと、“操縦室を押さえておけ。強奪はその後に行う”って、別の海賊に言ってました」

 

 それを聞いた瞬間、若いパイロット達の顔が変わる。

 

「強奪……!?」

 

「やっぱり狙いは船そのものか」

 

 リュウジの声が一段低くなる。

 

 単なる脅しではない。

 客と船、両方を押さえるつもりだ。

 それなら機械室を狙う理由も、操縦室を押さえたがる理由も繋がる。

 

「通信は?」

 

 リュウジがパイロットへ聞く。

 

「外部緊急回線は維持してます!でも客室側との通常回線はまだ不安定です!」

 

「十分だ」

 リュウジが即答する。

「宇宙管理局には今の情報を送れ。“操縦室に海賊一名侵入、制圧済み。残り四名。機械室と客室を制圧中の可能性。強奪意図あり”でいい」

 

「了解!」

 

 操縦室の中にはまだ警告灯が点いている。

 船外の危険も消えていない。

 客室ではエリンが機械室へ連れて行かれたままだ。

 宇宙海賊は残り四人。

 そのうちの一人は、もしかしたらもうこちらの異変に気づき始めているかもしれない。

 

 時間はない。

 だが、手はまだある。

 

 

ーーーー

 

 

 

  中央ブロックでは、ミラとサリーが手を上げたまま、乗客全体へ視線を配っていた。

 

 宇宙海賊が現れてからというもの、客室の空気は完全に変質していた。

 さっきまで“運航中の張りつめた静けさ”だったものが、今は“引き金ひとつで壊れる沈黙”になっている。

 

 誰も大声を出さない。

 誰も立ち上がらない。

 けれど、それは落ち着いているからではなかった。

 

 要人の何人かは、背筋を硬くしたまま前だけを見ている。

 秘書達は、膝の上で端末を握りしめる指先が白くなるほど力を込めていた。

 護衛達は身動きひとつ取れないまま、しかし海賊の足運びと客室の死角を必死に見ている。

 全員が限界まで耐えている。

 そんな空気だった。

 

 その中で、ミラは両手を肩の高さに上げたまま、客席のひとつひとつを見ていた。

 

 海賊の位置。

 ラウンジから中央ブロックへの通路。

 飲食スペースを一時封鎖した位置。

 サリーの立ち位置。

 ランのブロックとの距離。

 そして、乗客一人ひとりの様子。

 

 今、客室を壊すのは海賊だけじゃない。

 恐怖から起きる発作、過呼吸、パニック。

 そのどれもが、引き金ひとつ分の危険を孕んでいる。

 

 だからこそ、ミラは海賊だけを見てはいなかった。

 

 その時だった。

 

 中央ブロックの左列、窓側から二席目に座っていた年配の男が、シートの肘掛けを異様なほど強く握りしめているのが目に入った。

 

 指が白くなっている。

 肩が不自然に上下している。

 呼吸が浅い。

 顔色も悪い。

 

(まずい)

 

 考えるより先に身体が動いた。

 

「大丈夫ですか?」

 

 ミラは、反射的にその乗客へ一歩寄っていた。

 声は低く、落ち着いている。

 手を上げたまま近づくのではなく、片方だけ少し下ろして、相手の背中へそっと手を当てる。

 

「ゆっくり息を吸ってください。大丈夫、座ったままでいいですから」

 

 その瞬間。

 

「おい! 勝手に動くな!」

 

 中央ブロックを見張っていた宇宙海賊が、レーザー銃を向けたまま怒鳴った。

 

 客室の空気がまた一段冷える。

 銃口がミラへ向く。

 サリーの喉がきゅっと詰まり、すぐ横の乗客が小さく息を呑んだ。

 

 それでもミラは、背中をさする手を止めなかった。

 

「気分が悪いみたいです。お水を持ってこさせてください」

 

 静かな声だった。

 頼み込むようでいて、媚びてはいない。

 あくまで客室の乗務員として必要なことを言っているだけ、という立ち方だった。

 

 宇宙海賊は、銃の照準をぶらさないまま低く言う。

 

「自分の立場が分かっているのか?」

 

 ミラは、その問いに一瞬だけ海賊の方を見た。

 

「分かってます!」

 

 声は少しだけ強かった。

 でも震えてはいない。

 

「それにチーフパーサーを人質に取られてるのに勝手な事はしません!」

 

 その一言が、客室の何人かの胸を締めつける。

 エリン。

 人質。

 その事実を、改めて突きつけられたような気がしたからだ。

 

 宇宙海賊は数秒だけミラを見た。

 その後、銃口を少しだけずらし、別の方向へ動かした。

 

「なら、お前! こっちにこい」

 

 サリーへ向けて言ったのだ。

 

「……っ」

 

 サリーの身体がほんのわずかに強ばる。

 だが、その瞬間、ミラが間に入った。

 

「ちょっと待ってください!」

 

 海賊が銃口を戻す。

 

「対応している間は私が人質になります」

 

 ミラはそう言って、ゆっくり立ち上がり、宇宙海賊へ近づいた。

 両手は上げたまま。

 でも歩き方に迷いはない。

 

 サリーが、思わず小さく声を漏らす。

 

「ミラさん……」

 

 ミラは一度だけ振り返り、いつもの冷静な顔で言った。

 

「サリー、いつも通りでいいからお水をお客様に」

 

 その言葉に、サリーの表情が変わる。

 

 怖い。

 けれど、“いつも通りでいい”というその一言が、逆に自分を立たせた。

 

「分かりました」

 

 静かに答え、サリーは乗客への対応へ移る。

 

 宇宙海賊は、銃口をミラへ突きつけたまま低く笑った。

 

「お前、肝が座っているな」

 

 ミラは、小さく息を吐いて言う。

 

「そんな事はないですよ」

 

 それは本音だった。

 

 全然平気じゃない。

 足の裏は冷たいし、手のひらには汗がにじむ。

 喉だって乾いている。

 

 でも、平気じゃないことと、立っていられないことは違う。

 

 ミラはそれを、この数か月で嫌というほど学んだ。

 

 ドルトムントで仲間が散り散りになった時も。

 悲劇のフライトのあと、乗務員を辞めようかと何度も考えた時も。

 スペースホープの横領事件で、会社そのものが沈みかけた時も。

 

 怖くても、苦しくても、それでも立っていなきゃいけない時がある。

 今がまさにそれだった。

 

 サリーは、震えを押し込んで水を持ってくる。

 乗客の前へしゃがみ込み、声を低くする。

 

「少しずつでいいです。無理に飲まなくて大丈夫なので、私の声だけ聞いてください」

 

 乗客は、浅い呼吸のままサリーを見た。

 そして、どうにか少しだけ頷いた。

 

 中央ブロックは、かろうじて持ちこたえていた。

 

 

 しばらくして。

 

 客室の時間感覚はすでに壊れかけていた。

 数秒が長い。

 数分があまりにも遠い。

 

 その中で、不意に後方から足音が戻ってきた。

 

 通路の奥、操縦室側からだ。

 

 黒いレーザー服。

 黒いヘルメット。

 そして、その横にはユウコ。

 

 ユウコの頭には、またレーザー銃が突きつけられていた。

 

 クミコが小さく息を呑む。

 ナツキの目が鋭くなる。

 ミドリが思わず一歩引きそうになるのを、アズサが横からそっと止めた。

 

 海賊の一人が声を飛ばす。

 

「操縦室は?」

 

 戻ってきた“宇宙海賊”が、ヘルメット越しに曇った声で答える。

 

「制圧済みだ」

 

 その声は低く抑えられている。

 ヘルメット越しで、くぐもっている。

 だから誰も、その瞬間には違和感を持てなかった。

 

 中央ブロックでミラへ銃を向けていた海賊が、小さく頷く。

 

「そうか」

 

 ユウコへ銃を突きつけたまま、戻ってきた海賊がその横を抜ける。

 歩幅も自然。

 銃の持ち方にも乱れがない。

 

 ほんの一歩、二歩。

 

 ミラのすぐ近くを通った、その瞬間だった。

 

 黒い影が、ふっと沈んだ。

 

 いや、沈んだように見えたのは、動きが速すぎたからだ。

 

 ユウコの頭へ向けていたレーザー銃がわずかに外れる。

 その一瞬に、戻ってきた“宇宙海賊”が身体を反転させ、ミラへ銃を突きつけていた海賊の死角へ滑り込む。

 

 肘が入る。

 喉元の角度をずらす。

 首筋へ正確な一撃。

 そのまま意識の落ちる急所へ、無駄なく追撃。

 

 ミラが「なっ!?」と声を上げるより先に、その海賊の膝から力が抜けていた。

 

 黒い身体が崩れ落ちる。

 レーザー銃が床へ転がる音が、妙に乾いて響いた。

 

「……っ!」

 

 ミラが目を見開く。

 何が起きたのか、一瞬本当に分からなかった。

 

 だが次の瞬間、ユウコが人差し指を自分の鼻へ当てた。

 

「しぃー!」

 

 小さく、だが必死の顔でそう言う。

 

 その仕草があまりにもユウコらしくて、逆にミラの思考が一気に戻る。

 

 同時に、前方ブロック側から警備員が二人、壁を滑るように入ってきた。

 ダグラスの手勢だ。

 

 大声は出さない。

 ジェスチャーだけで“静かに”と示し、そのまま倒れた海賊の両腕を押さえて拘束する。

 

 すべてが、一瞬だった。

 

 客席のほとんどは何が起きたのか把握しきれていない。

 だが、近くにいた乗務員達には分かった。

 

 ――味方だ。

 

 ミラは、倒れた海賊と、ユウコと、戻ってきた“海賊”を見た。

 そして、その男の立ち方に、ようやく気づく。

 

「……どういうこと?」

 

 ミラが低く言う。

 

 ユウコは、まだ喉を震わせながらも、小さく答える。

 

「実は……」

 

 だが、その先をすぐには言えない。

 今はまだ客室を大きく揺らせないからだ。

 

 戻ってきた“海賊”は、黒いヘルメットの奥からミラを見た。

 声を変えないまま、小さく言う。

 

「客室を崩すな」

 

 その言い方で、ミラはすべてを理解した。

 

「……リュウジさん」

 

 ごく小さく、呟くように言う。

 

 ヘルメットの奥で、ほんの一瞬だけ視線が動いた。

 それが肯定の代わりだった。

 

 ミラは、そこでようやく胸の奥の何かが少しだけ戻るのを感じた。

 

 まだ終わっていない。

 でも、完全な孤立ではない。

 

 その事実が、中央ブロックの足元を支え直した。

 

 

 少しだけ時間は戻る。

 

 操縦室。

 

 リュウジは、床へ倒した宇宙海賊のヘルメットを手に取っていた。

 

 黒いヘルメット。

 黒のレーザー服。

 客室を圧迫するには十分な“記号”だ。

 

 若いパイロットの一人が、目を見開いたまま聞く。

 

「りゅ、リュウジさん……まさか」

 

「ああ」

 

 リュウジは短く答えた。

 

「とりあえず俺が宇宙海賊のフリをして一人ずつ制圧していく」

 

 ユウコが、拘束された海賊とその装備を見比べながら、ごくりと喉を鳴らす。

 

「で、ですけど……バレませんか?」

 

 その不安はもっともだった。

 

 声。

 体格。

 歩き方。

 少しでも違和感があれば、海賊達はすぐに気づくかもしれない。

 

 だがリュウジは、妙に落ち着いた顔で言う。

 

「大丈夫だ」

 

 ヘルメットを片手で持ち上げる。

 

「ヘルメットもあるから、声でバレることもない」

 

「でも……」

 

「完璧に似せる必要はない」

 リュウジが言う。

「短く答えて、余計なことを話さなければいい。それに向こうも、今は客室と船の制圧を優先してる。細かい違和感を拾う余裕はないはずだ」

 

 そう言いながら、リュウジは手早く海賊の上着を脱がせる。

 レーザー服の重さと、装甲の入り方を手で確かめる。

 ヘルメットの内側も短く見る。

 

 ユウコは、その動きの速さにただ呆然とするしかなかった。

 

 迷わない。

 躊躇しない。

 必要なことだけを拾って、もう次へ進んでいる。

 

「その代わり」

 リュウジが言う。

「ユウコは人質のフリをして付き合ってくれ」

 

「ひ、人質の……」

 

「そうだ」

 リュウジは頷く。

「操縦室から戻るのに、一人で戻ったら不自然だ。お前が頭に銃を突きつけられていれば、向こうも深く考えない」

 

 ユウコは、一瞬だけ唇を噛んだ。

 また頭に銃を突きつけられる。

 また、あの恐怖の中へ戻る。

 

 怖い。

 たまらなく。

 

 でも、エリンはもっと危ない場所へ連れて行かれた。

 客室にはミラ達が残っている。

 自分がここで怖いと言って止まったら、その先に繋がらない。

 

「……分かりました」

 

 ユウコが言う。

 

 その声はまだ少し震えていた。

 けれど、返事としては十分だった。

 

 リュウジは、ヘルメットを被り、レーザー服を整える。

 体格差を完全に消すことは出来ない。

 だが、照明の落ちた客室で、なおかつ緊張状態の中なら十分ごまかせる。

 

 若いパイロットが、小さく息を呑んで言った。

 

「すごい……本当に海賊に見えます」

 

「見えればいい」

 

 リュウジは短く答えた。

 そして床のレーザー銃を拾う。

 重さを確認し、構えを自然な位置へ落とす。

 

「頼む」

 

 その一言は、ユウコだけに向けたものだった。

 

 ユウコは、まっすぐ頷く。

 

「はい」

 

 それだけで十分だと、リュウジは判断した。

 

「客室に戻ったら、まず中央を見る。ミラがいるはずだ」

 

「はい」

 

「俺が仕掛けるまで、目だけで合わせろ。声は出すな」

 

「はい」

 

「怖かったらそれでいい、でも足を止めるな」

 

 ユウコは、そこで初めて少しだけ笑いそうになった。

 

 怖かったらそれでいい。

 その言い方が、妙に救いになったからだ。

 

 リュウジは、銃口をユウコの頭へ当てるふりの位置に置いた。

 

 やさしくはない。

 だが本当に当てすぎてもいない。

 “海賊が人質を使っているように見える”絶妙な圧だった。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

 そうして二人は操縦室を出た。

 

 

 そして今、中央ブロックで一人を落としたところまで来ている。

 

 警備員が静かに拘束を進めている横で、ユウコはようやくミラへ耳打ち出来るだけの余裕を取り戻していた。

 

「実は……」

 

 ミラが身を寄せる。

 

「操縦室にリュウジさんがいて、海賊一人を制圧して、その人のふりで戻ってきたんです」

 

 ミラの目が、一瞬だけ大きくなる。

 

「……そういうこと」

 

「はい」

 ユウコが頷く。

「だから、まだ静かに、客室を崩したら、向こうに気づかれます」

 

 ミラは、そこで短く息を整えた。

 

 まだ終わっていない。

 でも、道はできた。

 

 なら、次にやることは一つだ。

 

 客室を、このまま壊さずに持たせること。

 

 ミラは、倒れた海賊から視線を切り、すぐに乗客の方へ向き直った。

 

「皆さま」

 低く、よく通る声で言う。

「慌てないでください、そのまま、お席で」

 

 さっきまでよりも、声が少しだけ芯を増していた。

 

 サリーも、そこへ重ねる。

 

「大丈夫です。こちらで対応しています」

 

 クミコも、少し離れた位置で呼吸を戻しながら同じ空気を作る。

 ランは右ブロックの流れを切らさない。

 シルヴィアは後方でホーネットへ視線を送り、「今は客室維持」と無言で伝える。

 

 リュウジは黒いヘルメットのまま、倒れた海賊を警備員へ引き渡し、次の動線を見ていた。

 

 残りは三人。

 機械室へ行ったリーダー格とエリン。

 そしてまだ客室に残っている海賊。

 

 ここから先は、一手でも誤れば全部が崩れる。

 

 それでも、今この中央ブロックで、最初の綻びはこっちに引き寄せられた。

 

 その事実だけが、薄く、しかし確かに、この宇宙船の中へ希望の筋を引いていた。

 

 

 

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