サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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宇宙海賊④

 中央ブロックで一人目を落としてから、空気は目に見えない形で変わった。

 

 もちろん、客室全体としてはまだ最悪の状況のままだ。

 宇宙海賊は残っている。

 エリンは機械室へ連れて行かれた。

 客席には要人達と秘書、護衛、そして恐怖を飲み込んだまま動けない乗客達がいる。

 

 けれど、完全な一方的支配ではなくなった。

 

 その事実だけが、ミラにも、ランにも、シルヴィアにも、そしてユウコにも分かった。

 

 リュウジは黒いヘルメットの奥から、客室全体を一瞬で見た。

 

 中央。

 前方。

 後方。

 海賊の残りの配置。

 警備員の位置。

 若い乗務員達の震え方。

 そして、エリンが連れて行かれた通路の方向。

 

 全部を拾ってから、短く言った。

 

「次に行く」

 

 その声は、まだ海賊の仲間を装うため、くぐもって低かった。

 けれど、すぐ近くにいたミラには、それがリュウジの声だともうはっきり分かっている。

 

 ユウコがこくりと小さく頷いた。

 さっきまで人質として操縦室へ連れて行かれた時の震えは、まだ喉の奥に残っている。

 でも今は、それを押さえ込めるだけの何かがあった。

 

 リュウジがいる。

 それだけで、客室の見え方が少し変わる。

 

 ダグラスも、拘束された海賊を部下へ任せながら、ごく小さく顎を引いた。

 了解、という合図だ。

 ここからは一発勝負になる。

 大きく動けば全部が崩れる。

 だが、動かなければエリンを取り戻せない。

 

 リュウジは、ユウコの頭へ銃口を当てるふりをしたまま、再び中央ブロックを抜けた。

 

 動きは自然だった。

 黒いレーザー服も、ヘルメットも、客室の照明の中では十分に海賊の一人に見える。

 何より、今の客室にはそれを細かく見抜く余裕がない。

 

 中央から前方へ。

 

 そこで二人目の海賊が、前方ブロック寄りを押さえながら警備員の動きを牽制していた。

 

「操縦室はどうなった?」

 

 その海賊が、振り向かずに聞いてくる。

 

 リュウジは歩幅も声も変えない。

 

「制圧した」

 

「遅い」

 

「人質が使えたからな」

 

 簡潔な会話。

 余計なことは言わない。

 

 その間に、ユウコは一瞬だけ前方寄りへ視線を流す。

 そこにはダグラスの部下がいた。

 壁際に沈むように立ち、何も見ていないふりをしている。

 

 だが、目だけは生きている。

 

 リュウジは、その気配を背中で感じながら二人目へ近づいていく。

 

 海賊は、エリンがいなくなって以降、客席を威圧し続けることに意識を割いていた。

 だから、同じ黒装束が真横へ来ても警戒が一瞬遅れる。

 

「少し位置を変え――」

 

 そこまで言いかけた時だった。

 

 リュウジの身体が、影のように沈む。

 銃を持つ腕の内側へ滑り込み、手首を払う。

 同時に肘を打ち込み、呼吸を詰まらせ、喉元へ深い一撃。

 

 海賊が声を出す間もなかった。

 

 その身体が崩れ落ちるより早く、前方寄りにいた警備員が入り、静かに押さえ込む。

 床へ膝が落ちる鈍い音すら、客室のざわめきの中に呑まれるほど小さかった。

 

 要人の一人が「何だ?」と顔を上げかけたが、ランの声がすぐ飛ぶ。

 

「確認のため、そのままでお願いします」

 

 それだけで、その男はまた視線を下ろした。

 

 客室は、まだ持つ。

 

 

 三人目は後方寄りにいた。

 

 シルヴィアとホーネットが担当しているブロックに近く、海賊は後方区画の出口を塞ぐように立っていた。

 

 ここは狭い。

 客席と通路の距離も短い。

 ひとつ失敗すれば、悲鳴も転倒も連鎖しやすい。

 

 だからこそ、リュウジは少しだけ歩調を落とした。

 

 ユウコも、それに合わせて呼吸を整える。

 後ろから見れば、怯えた人質を連れて戻る海賊の一人。

 それで十分だ。

 

「そっちは?」

 

 後方の海賊が聞く。

 

「操縦室は押さえた」

 リュウジが短く答える。

 

「そうか。なら次は――」

 

 その瞬間。

 

 ホーネットが、ほんのわずかにバランスを崩したふりをした。

 シルヴィアの視線がそれを許していたからだ。

 

「きゃっ」

 

 ごく小さな声。

 しかし通路が狭い分、海賊の意識が一瞬だけそちらへ流れる。

 

 リュウジは、それを待っていた。

 

 一歩。

 

 間合いへ入る。

 銃の軌道を外し、背中側へ回る。

 海賊が振り返ろうとした瞬間には、もう肘が首筋に落ちていた。

 

 それでも、こいつは少し粘った。

 

「っ、おい!」

 

 声が出た。

 そして体勢も半ば立て直しかける。

 

 だが、その横からシルヴィアが迷いなく入った。

 

 足元を払う。

 ホーネットが反対側から銃を蹴り飛ばす。

 

 その一瞬の連携で十分だった。

 

 リュウジの追撃が入り、海賊の身体から完全に力が抜ける。

 音を立てないように三人が支えたまま床へ沈める。

 

 ホーネットは、海賊の黒いヘルメットを見下ろしながら小さく息を吐いた。

 

「……今の、すご」

 

「静かに」

 シルヴィアが言う。

 

「分かってる」

 

 けれど、ホーネットの目は一瞬だけ明るくなっていた。

 恐怖の中でも、それだけは隠せなかった。

 

 

 これで客室に残る海賊は、実質あと一人。

 

 機械室へエリンを連れて行ったリーダーだけだ。

 

 拘束された海賊達は、客席から死角になる位置へ静かに移され、ダグラスの部下が押さえている。

 客室の秩序は、ぎりぎりで保たれたままだった。

 

 リュウジは、中央と前方の境目へ戻ると、そこでユウコへだけ聞こえる声で言った。

 

「ここからは一人でいい」

 

 ユウコが顔を上げる。

 

「え……」

 

「お前はもう十分だ」

 リュウジが低く言う。

「客室へ戻れとは言わない。ダグラスの側にいろ。必要なら、客室の状況を伝えてくれ」

 

「でも……」

 

 ユウコは、喉の奥にまだ震えを残したまま、それでも言った。

 

「エリンさんが」

 

「分かってる」

 

 短い言葉。

 だが、その短さの中に、もう迷いはなかった。

 

「だから行く」

 

 ユウコは、唇を噛んで頷く。

 

「……はい」

 

 リュウジは黒いヘルメットを少しだけ押し直し、レーザー銃を手にしたまま、前方通路の先――機械室へ向かう補助ラインへ入っていった。

 

 ダグラスが、すれ違いざまに低く声を落とす。

 

「一人で行く気か」

 

「ここから先は、騒がしい方がまずい」

 

「相手は一人とは限らん」

 

「分かってる」

 リュウジが言う。

「でも、今は一人でいい」

 

 ダグラスはそれ以上止めなかった。

 止めるべき場面ではないことを理解しているのだろう。

 

 ユウコは、その背中が遠ざかっていくのを見ながら、胸の奥で一つだけ祈った。

 

(お願い……)

 

 その願いが誰へ向いたものか、自分でも分からなかった。

 

 

 機械室へ向かう通路は、客室の空気とは別世界のように冷えていた。

 

 船体の奥深くへ進むほど、音が変わる。

 低く唸る機関音。

 振動を押し殺した金属の鳴り。

 冷たい空気と油の匂い。

 照明も落ち、壁の端に赤い非常灯が細く走っている。

 

 リュウジは足音を殺して進んだ。

 

 レーザー服とヘルメットのおかげで、遠目には十分に海賊に見える。

 だが、近くで見られれば、歩き方や間合いの取り方に違いは出る。

 だからこそ、見られる前に間合いへ入る。

 それだけを考えていた。

 

 補助ラインを抜けた先で、機械室の前室が見える。

 扉は半開き。

 中からは機関の低い重音に混じって、ほんのかすかに人の気配がする。

 

 リュウジはそこで一度だけ呼吸を浅く整えた。

 

 ヘルメット越しに、視界を絞る。

 

 そして、機械室へ入った。

 

 

 機械室は、赤い非常灯と機器のインジケーターだけで照らされていた。

 

 広い。

 だが整然とはしていない。

 太い配管、制御盤、保守用の足場、床へ這うケーブル。

 人が戦うための場所ではなく、機械が生きるための場所だ。

 

 その中央寄り、主機関の補助制御盤近くで、エリンは片腕を機械へロープで縛られて拘束されていた。

 

 片腕だけ。

 だが、その位置が悪い。

 動こうとすれば体勢が崩れるように計算されている。

 

 頬には、さっき殴られた痕がまだ赤く熱を残していた。

 血はもう大きくは流れていない。

 けれど、口の端に乾ききらない赤が少し残っている。

 

 エリンは、入ってきた黒いヘルメットの人影を見て、一瞬だけ“仲間の海賊か”と思った。

 

 だが、次の瞬間に違和感を覚える。

 

 足音。

 重心。

 こちらを見る目線の高さ。

 何かがおかしい。

 

 それは、客室で何度も人を見てきたエリンだからこそ拾える、小さな差だった。

 

 機械室の奥にいた宇宙海賊のリーダーらしき男も、同じことを感じたのだろう。

 

「……おい」

 

 低い声が飛ぶ。

 

 返事を待たない。

 

「誰だ」

 

 その瞬間、リーダーの銃口が動いた。

 

 レーザーが走る。

 

 赤い光線が機械室の空気を裂いた。

 

 リュウジは、すでに横へ跳んでいた。

 照準が合うより先に、機械の陰へ滑り込む。

 

 高熱の一撃が金属板を焼き、火花が散る。

 

「やっぱり仲間じゃないな!」

 

 リーダーが吼える。

 

 リュウジは返事をしない。

 声を出せば、もう誤魔化す意味がない。

 なら、必要なのは速度だけだ。

 

 二発目。

 三発目。

 

 リーダーは躊躇なく撃ってくる。

 機械室という閉所での射撃に慣れている動きだった。

 無駄撃ちに見えて、ちゃんと退路を潰しに来ている。

 

 リュウジは、配管の影から一気に踏み込んだ。

 

 リーダーもそれを待っていたように銃口を向ける。

 だがその瞬間、リュウジは自分のレーザー銃を投げるように当て、相手の手首の軌道を弾いた。

 

 光線が天井側へ逸れ、焦げた匂いが広がる。

 

 次の瞬間には、もう銃ではない。

 

 拳と肘。

 膝と肩。

 殴り合いが始まった。

 

 機械室は狭い。

 だからこそ、一撃の距離が近い。

 

 リーダーは強かった。

 

 ただの脅し要員ではない。

 腕の振り方、体幹の使い方、踏み込みの鋭さ。

 宇宙船の狭い通路や無重力訓練を経験してきた人間特有の、間合いの詰め方をしてくる。

 

 リュウジの拳が入る。

 だがリーダーも肘を返してくる。

 横腹へ鈍い痛み。

 肩を打たれ、壁へぶつかった配管が鳴る。

 

 エリンは、ロープに縛られたまま息を呑んでいた。

 

 何が起きているのか。

 誰なのか。

 でも、今入ってきた人間が“味方”であることだけは分かる。

 

 そして、その動きの鋭さに、胸の奥がわずかに揺れる。

 

(この間合い……)

 

 見たことがある。

 いや、知っている。

 

 リーダーが低く唸り、リュウジへタックルのように突っ込んでくる。

 体格差を活かした押し込み。

 狭い機械室では有効な選択だ。

 

 だがリュウジは、一歩引いて受けるのではなく、逆に半歩だけ内へ入った。

 肩をずらし、相手の勢いを流しながら顎下へ掌底を打ち込む。

 リーダーの頭が跳ねる。

 そこで間を空けず、腹へ膝。

 体勢が落ちたところへ首筋へ肘。

 

 それでも、リーダーはまだ倒れない。

 

「……っ!」

 

 低く息を吐きながら、なお拳を振ってくる。

 

 強い。

 かなり。

 

 だが、リュウジの方が一枚上手だった。

 

 相手の腕が大きく振られた、そのほんの一瞬の“空き”を見逃さない。

 外側へ流し、懐へ潜り、鳩尾へ深く、正確に、ためらいなく一撃を入れる。

 

 リーダーの呼吸が完全に止まる。

 

 その顔面へ、最後に短く、鋭い拳。

 

 黒いヘルメットが大きく揺れ、男の身体からようやく力が抜けた。

 

 崩れ落ちる。

 

 鈍い音。

 機械室に再び、機関の唸りだけが戻る。

 

 数秒の沈黙。

 

 リュウジは、すぐに周囲を確認した。

 もう一人いないか。

 死角はないか。

 爆発物や別の武装はないか。

 

 その全部を見た上で、ようやくエリンの方へ向く。

 

 そして、ゆっくりとヘルメットへ手をかけた。

 

 ロックを外す。

 持ち上げる。

 

 そこに現れた顔を見た瞬間、エリンは初めて、目をはっきり見開いた。

 

「……リュウジ?」

 

 声が、少し掠れていた。

 

 それは驚きだけじゃない。

 安堵が混ざった音だった。

 

 リュウジは、息を整えながら小さく頷いた。

 

「はい」

 

 その返事を聞いた瞬間、エリンの肩から、目に見えない何かが少しだけ落ちた。

 

 助かった。

 そう思ってしまった自分に、エリン自身が一瞬だけ驚くほど自然に。

 

 リュウジはすぐに近づき、ロープの結び目を確認する。

 雑だが、焦って解こうとすると逆に締まる結び方だ。

 

「少し待ってください」

 

「ええ」

 

 エリンは頷く。

 その声はまだ落ち着いている。

 けれど、さっきまでより明らかに力が抜けていた。

 

 リュウジがロープを外していく。

 片腕が自由になる。

 きつく締められていたせいで、手首に赤い痕が残っていた。

 

 エリンが小さく息を吐く。

 

「……ありがとう」

 

 その一言は、本当に静かだった。

 

 リュウジは、解いた手首を見て、それから頬へ目を向けた。

 殴られた側が、まだ赤く腫れ始めている。

 

「頬を殴られたんですね」

 

 その声は低い。

 抑えている。

 でも、抑えているからこそ、その奥の怒りが分かる。

 

 エリンは、頬の端を指先でそっと触れた。

 鈍い痛みがまだ熱を持っている。

 

「このぐらい大丈夫よ」

 

 そう言って、小さく笑おうとした。

 けれど、その笑みは少しだけ弱かった。

 

 リュウジは、その表情を見て一瞬だけ黙る。

 

 それから、安堵したように、しかし少しだけ険しくもある顔で言った。

 

「……無事で良かったです」

 

 その言葉が、エリンの胸の奥へ静かに落ちる。

 

 助けに来てくれた。

 しかも、こんな形で。

 一般客として乗っていたのか、どうやって操縦室まで入ったのか、聞きたいことはいくつもある。

 

 でも今は、それより先に、ここにリュウジがいるという事実がただ大きかった。

 

「来てくれたのね」

 

 エリンが、ほんの少しだけ肩の力を抜いて言う。

 

 リュウジは、拘束を外したロープを床へ落としながら答えた。

 

「ペルシアに頼まれまして」

 

「……そう」

 

 エリンは、小さく息を漏らした。

 

「なるほどね。だけど話をしてくれればいいのに」

 

 そんなことを言えるくらいには、少しだけ戻ってきた。

 けれど、その空気は長くは続かなかった。

 

 床に倒れていた宇宙海賊のリーダーが、低く笑ったからだ。

 

「……くくっ」

 

 エリンとリュウジの視線が、一斉にそちらへ向く。

 

 男は完全に意識を失っていたはずだった。

 だが、まだ終わっていなかった。

 

 口元から血を滲ませたまま、黒いヘルメットを半ば外した顔で笑っている。

 目だけが、嫌にぎらついていた。

 

「俺達がどうして……こないだ貨物船を襲ったか……分かるか?」

 

 リュウジの目が細くなる。

 

「……何だと」

 

 男は、息を荒くしながらも笑った。

 

「あの時奪ったのは、爆弾だ!」

 

 そう叫ぶように言って、片手を持ち上げる。

 

 その手には、小さな起爆装置のようなものが握られていた。

 赤いランプが、暗い機械室の中で不気味に点っている。

 

 エリンの顔色が変わる。

 リュウジも、ほんの一瞬だけ目を見開いた。

 

「俺達はこの船を落としてやる!!」

 

 男が叫び、スイッチを押した。

 

 その瞬間、リュウジは何も考えなかった。

 

 考える前に身体が動いた。

 

「エリンさん!」

 

 叫ぶのと同時に、エリンの身体を強く抱き寄せる。

 腕を回し、頭を庇い、そのまま飛び出るように機械室の出口側へ飛び込んだ。

 

 次の瞬間。

 

 機械室が爆発した。

 

 耳を潰すような轟音。

 視界を焼く閃光。

 床が跳ね、壁が裂け、金属片が嵐みたいに飛ぶ。

 

 リュウジは、エリンを自分の胸へ押し込むように抱えたまま、身体ごと通路側へ叩きつけられる。

 背中に衝撃。

 肩に熱。

 そして、破片が容赦なく飛んでくる。

 

 リュウジは、とっさに身を捻ってエリンを下へ隠す。

 

 エリンの顔のすぐ上を、焼けた金属片が掠めた。

 別の破片がリュウジの背側へ激しく当たる。

 空気が熱い。

 機械室の奥から噴き出した爆炎が、通路の端を舐めるように走る。

 

「っ……!」

 

 エリンが息を呑む。

 

 何が起きたか、理解が追いつかない。

 ただ分かるのは、今、自分はリュウジに庇われているということだけだった。

 

 抱き寄せられた腕。

 覆うように落ちてくる影。

 耳元で荒くなった呼吸。

 そして、すぐ上で響く破片の音。

 

 爆発の余波が、まだ止まらない。

 

 赤い警報灯が狂ったように明滅し、機械室の奥からは火花と煙が噴き出していた。

 熱風が通路を叩き、床の金属まで振動している。

 

 リュウジは、エリンを庇ったまま頭を低くし、破片の飛ぶ方向を一瞬で読む。

 もう一枚、太い破片が飛んでくるのが見えた。

 

 避けきれない。

 

 なら――。

 

 リュウジはさらに身体を丸め、エリンを完全に自分の内側へ押し込んだ。

 

 破片が背側へ飛ぶ。

 

 轟音。

 熱。

 煙。

 

 機械室の爆発は、まだ完全には終わっていなかった。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 爆発の衝撃が、ようやく少しずつ収まり始めた。

 

 機械室の奥では、まだ何かが焼ける匂いがしている。

 熱を孕んだ空気が、赤い非常灯の明滅と一緒に細かく揺れていた。

 通路の床には焦げた破片が散り、壁の一部には黒い煤が走っている。

 

 耳鳴りが残る。

 

 世界が、さっきまでの形を完全に失ったみたいだった。

 

 それでも、リュウジは一番先に身体を起こした。

 腕の中に庇うように抱えていたエリンの肩へ、まだ自分の身体を半ば覆いかぶせたまま、まずは周囲を見た。

 

 火はどうか。

 追加の爆発はないか。

 機械室側の破口は広がっていないか。

 通路の気圧は維持されているか。

 

 見る。

 確認する。

 判断する。

 

 そのほんの数秒のあとで、エリンもようやく息を取り戻したように身体を起こしかけた。

 

「……っ、リュウジ!」

 

 その声は、珍しいほどに動揺していた。

 

「大丈夫!?」

 

 エリンが顔を上げる。

 

 目の前のリュウジは、まだ自分を庇う姿勢のまま、呼吸だけが少し荒い。

 黒い煤が頬に薄くついている。

 そして、服の肩口から背中の方にかけて、明らかに色が濃い場所がある。

 

 血だ。

 

 それを見た瞬間、エリンの喉がきゅっと詰まった。

 

 リュウジは、エリンの顔を見て、それでもまず先に頷いた。

 

「ええ、大丈夫です」

 

「嘘つかないで!」

 

 反射的に、エリンがそう返していた。

 

 声が少し裏返る。

 痛みでも、恐怖でもなく、別のものが胸の奥から一気に込み上げてきたせいだ。

 

 リュウジは、その言葉に少しだけ困ったような笑みを浮かべた。

 

「……困りましたね」

 

 その笑みは、いつもみたいに落ち着いていて、でも少しだけ力が抜けている。

 それが逆に、エリンの胸を締めつけた。

 

 大丈夫じゃない。

 少なくとも、まったく無傷ではない。

 でも、この人はきっと、今ここで自分のことを先に言わない。

 

「それよりも」

 

 やはり、リュウジはそう言った。

 

「エリンさんは客室へ行ってください。今の爆発で、客室が崩れかかってます」

 

 その言葉に、エリンは一瞬だけ息を止めた。

 

 客室。

 ミラ、ラン、シルヴィア、マユ、クミコ、サリー、アズサ、ミドリ、ハヅキ、ユウコ、ナツキ。

 要人。

 秘書。

 護衛。

 爆発音と振動を、向こうも聞いているはずだ。

 

 今、この船で一番崩れてはいけない場所。

 それが客室。

 

 分かっている。

 分かっているのに、エリンは珍しく、ほんの小さな声で聞いてしまった。

 

「……リュウジはどうするの?」

 

 その声は、自分でも驚くほど弱かった。

 

 問いかけというより、確かめるための声。

 目の前の人が、次の瞬間にもまた危険な場所へ戻っていくのだと分かっているからこそ、止められないまま零れた音だった。

 

 リュウジは、その声を聞いて少しだけ目を細めた。

 

「俺は操縦室に状況を確認します」

 

 迷いのない返答。

 

 やはりそうだ。

 この船を落とさないために、一番必要なのは操縦室側だと、リュウジは一瞬で判断している。

 

 エリンは、それを分かっていた。

 分かっているからこそ、止める言葉は出てこない。

 

「……分かった」

 

 小さく言う。

 

「無理はしないでね」

 

 そう言った瞬間だった。

 

 自分の頬を、温かいものが伝った。

 

 涙だと気づいたのは、リュウジの視線がそこへ落ちてからだった。

 

 エリンは、自分で少しだけ目を見開く。

 

 泣いている。

 自分が。

 

 今、この状況で。

 こんな時に。

 

 頬を殴られた痛みでも。

 爆発の衝撃でも。

 恐怖そのものでもなかった。

 

 助かった。

 助けてもらえた。

 その安堵が、一瞬だけ自分の中の何かを緩めてしまったのだと、遅れて気づく。

 

 リュウジは、その涙を見て、ほんの一瞬だけ本当に驚いた顔をした。

 

 それも無理はない。

 エリンがこういう場面で涙を見せることは、まずない。

 

 けれど次の瞬間には、表情を戻し、そっとその涙を指先で拭った。

 

 優しく。

 乱暴に触れないよう、壊れ物でも扱うみたいに。

 

「もう落とさせやしません」

 

 低い声だった。

 

 その言葉の意味が、エリンにはすぐに分かった。

 

 ――あの時。

 

 悲劇のフライト。

 

 あの時、落ちたもの。

 守れなかったもの。

 取り戻せなかったもの。

 どうしても救いきれなかった命と時間。

 

 その全部を知っている人の言葉だった。

 

 エリンは、唇を小さく噛んでから、頷いた。

 

「うん」

 

 涙で滲みそうになる視界を、無理やりまっすぐに戻す。

 

「あの時と同じように、客室は私が、操縦は任せたわよ」

 

 それは、単なる役割分担の言葉ではなかった。

 信頼そのものだ。

 今、この船が空に残るかどうかを、この人へ預けるという意味の言葉。

 

 リュウジは、その言葉へ迷いなく頷いた。

 

「はい」

 

 短く。

 でも、何よりも確かな返事だった。

 

 次の瞬間、二人はもう動いていた。

 

 エリンは客室へ。

 リュウジは操縦室へ。

 

 それぞれの持ち場へ戻るために。

 

 

 エリンが客室へ戻るまでの通路は、さっきまでよりずっと長く感じられた。

 

 機械室から離れるにつれて、爆発の熱は後ろへ引いていく。

 代わりに、客室側のざわめきが少しずつ耳へ戻ってきた。

 

 叫びまではいっていない。

 だが、完全に抑えきれてもいない。

 押し殺した悲鳴、呼吸の乱れ、低いざわめき。

 壊れかけた均衡が、ギリギリで引っかかっている音だ。

 

 エリンは、通路の角をひとつ曲がったところで、深く呼吸を整えた。

 

 涙はもう出ていない。

 頬の腫れはまだ熱い。

 口の中の鉄っぽい味も消えていない。

 

 でも、客室へ戻る以上、それを顔へ残すわけにはいかない。

 

 チーフパーサーとして戻る。

 それだけだ。

 

 そして、客室へ戻った。

 

 最初に気づいたのはミラだった。

 

「……エリンさん!」

 

 その声に、ランも、シルヴィアも、マユも、クミコも、何人もの乗務員が一斉に振り向く。

 

 生きている。

 戻ってきた。

 

 その事実だけで、客室の空気がほんの少し変わる。

 

「声を下げて」

 

 エリンは、まずそれを言った。

 

 いつもの声だった。

 少しだけ低く、でもはっきりしている。

 

「大丈夫。宇宙海賊は全て制圧したわ」

 

 その一言に、乗務員達の顔が一斉に揺れる。

 

「全部……?」

 クミコが息を呑む。

 

「ええ」

 エリンが頷く。

「ただし、機械室でトラブルが起きた、今の爆発はそのせい」

 

 ダグラスが、すぐに一歩寄ってくる。

 

「機械室は?」

 

「損傷が酷いです」

 エリンが答える。

「でも、今それを客席へ広げる必要はない。客室を守る方が先です」

 

 その判断に、ダグラスも短く頷いた。

 

 エリンは、そこで客室全体を見渡した。

 

 まだざわついている。

 ラウンジ寄りの秘書が今にも立ちそうだ。

 要人の一人は明らかに怒りを押し込めている。

 護衛達は混乱を隠そうとして逆に硬い。

 若い乗務員達も、持ちこたえてはいるが限界が近い。

 

 なら、やることは一つだ。

 

「それでも客室を守るために、いつも通りにやるわよ」

 

 エリンが言う。

 

 その言葉は、妙なくらい静かだった。

 だが、誰の耳にも真っ直ぐ届いた。

 

「飲食スペース、封鎖継続。でも、私達の動きまで止める必要はないわ。お客様は不安になってる、だから、私達が“止まらない”ことが大事」

 

 ミラが頷く。

 

「了解」

 

「ラン、立ちそうな人を先に拾って」

 

「はい」

 

「シルヴィア、空気が割れないように、ホーネットを使って押して」

 

「分かりました」

 

「クミコ、マユ、サリー、アズサ、ミドリ、ハヅキ、ユウコ、ナツキ。今から“平常のふり”でいい、完璧じゃなくていいから、いつも通り声を出して」

 

 その一言で、若い乗務員達の表情が少しだけ戻る。

 

 完璧じゃなくていい。

 いつも通りでいい。

 

 それが今、一番必要な言葉だった。

 

 エリンは、通路の中央へ一歩出た。

 

「皆さま」

 

 その声だけで、客席のざわめきが一段下がる。

 

「先ほど大きな衝撃がありましたが、現在、外部要因への対処は完了しております。船内の一部設備にトラブルが起きましたが、運航は継続可能です。安全確認を進めながら参りますので、どうかそのままお席でお待ちください」

 

 嘘は言っていない。

 だが、全部も言っていない。

 

 それでいい。

 今は“客室を守る言葉”だけを出す。

 

「ご不安なお気持ちは当然です。ですが、私達がついております。どうか、慌てずに」

 

 その一言が、また客室の息を少しだけ整えた。

 

 乗務員達が動き出す。

 ミラは中央寄りを滑らかに押し直し、ランは右列の空気を細く整え、シルヴィアは後方区画の余計な視線のぶつかり合いを切っていく。

 

 エリンが戻っただけで、やはり船内の動きの質が変わる。

 

 誰も口には出さない。

 だが、全員がそれを感じていた。

 

 

 一方、操縦室。

 

 こちらは客室以上に悲鳴に近い音で満ちていた。

 

 アラームが鳴り響いている。

 

 高い警告音。

 低く唸る異常表示。

 機関系統、補助電源、圧力ライン、姿勢制御補助。

 複数の警報が重なり、赤と橙のランプが休みなく点滅していた。

 

 若いパイロット達は懸命にコンソールへかじりついている。

 だが、その動きにはまだ“処理しきれない数の異常へ飲まれそうな気配”が残っていた。

 

 そこへ、機械室から戻ってきたリュウジが低く言う。

 

「変われ」

 

 その一言で、二人が同時に顔を上げる。

 

「リュウジさん!」

 

「凄い血が!?」

 

 片方のパイロットが、思わず声を上げた。

 

 たしかに、リュウジの服の背中側には血が滲んでいた。

 機械室の爆発で飛んだ破片のいくつかを、背で受けた痕だ。

 黒い服だから目立たないだけで、決して軽くはない。

 

 だが、リュウジは眉ひとつ動かさない。

 

「問題ない」

 

「でも――」

 

「問題ない」

 

 今度は少しだけ強く言う。

 

 それだけで、若いパイロットは口を噤んだ。

 

 リュウジは操縦席へ滑り込むように座る。

 コンソールへ手を置く。

 指先が迷わない。

 

 まず全系統の生存確認。

 主機関。

 補助推進。

 姿勢制御。

 重力維持。

 圧力安定。

 機械室主系の断絶箇所。

 火災隔壁の展開状況。

 補助設備への切り替え。

 

 アラームの洪水の中で、必要なものだけを拾っていく。

 

「機械室主ライン、ここで切るり補助循環はB系統へ、圧力差、左舷後方だけ拾え。姿勢制御、まだ生きてるな」

 

 リュウジが低く呟くたび、若いパイロット達が必死に追従する。

 

「はい!」

 

「B系統移行確認!」

 

「圧力差、限定的です!」

 

 リュウジは、次々と画面を切り替えながら、ふっと息を吐いた。

 

「……さすが大型船だ」

 

 その声に、若いパイロット達が一瞬だけ顔を上げる。

 

「え?」

 

「機械室以外にも補助設備が用意してある。これなら問題なくエアポートに止まれる」

 

 その一言で、操縦室の空気がほんの少しだけ変わる。

 

 止まれる。

 落ちない。

 それは今、この船の中で何より大きい言葉だった。

 

 その時だった。

 

 通信回線が弾けるように入る。

 ノイズを挟んだあと、聞き慣れた声が飛んできた。

 

『リュウジ! 大丈夫なの!?』

 

 ペルシアだった。

 

 宇宙管理局側の緊急回線へようやく繋がったのだ。

 

 リュウジは、コンソールから目を離さずに返す。

 

「問題ないが、機械室が吹っ飛んでる。念のため準備を頼む」

 

『分かってる! 手配済みよ!』

 

 その返答は速かった。

 やはり、ペルシアはこういう時の仕事が異常に早い。

 

「流石だな」

 

『当たり前でしょ!』

 

 ペルシアの声が少しだけ跳ねる。

 だが、その勢いの奥に、はっきりとした安堵が滲んでいた。

 

『救護班も、消火班も、補助牽引も全部動かしてる!エアポート側も緊急受け入れに切り替えてるわ!だからあんた、ちゃんと連れて帰ってきなさいよ!』

 

 その言葉に、リュウジはほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「分かってる」

 

『今度は無事に帰ってきなさいよ!』

 

 その“今度は”の中に、過去の全部が含まれている。

 悲劇のフライト。

 あの事故。

 帰れなかった者達。

 救えなかった便。

 

 だからこそ、リュウジの返事は短かった。

 

「分かってる」

 

 もう一度、そう言った。

 

 ペルシアは、それ以上余計なことを言わなかった。

 言えば、逆に崩れると分かっているのだろう。

 

『到着までの補助ルート、こっちで組む!細かい数字は送るから、あとはあんたがやりなさい!』

 

「了解」

 

 通信が切れる。

 

 操縦室の中では、まだアラームが鳴っている。

 まだ、完全には落ち着いていない。

 けれど、もう“終わりの音”ではない。

 

 持ちこたえられる。

 落とさない。

 止められる。

 

 その見通しが、ようやく現実のものとして見え始めていた。

 

 リュウジは、血の滲む背中の痛みを無視してコンソールへ手を走らせる。

 

「重力維持はこのまま、着陸時の姿勢、補助スラスター側へ少し寄せる。主推進は最後まで温存。無理に美しく降ろさなくていい、とにかく確実に止める」

 

「はい!」

 

「了解!」

 

 若いパイロット達の返事にも、さっきまでより芯が入っている。

 

 客室では、エリンが客室を守っている。

 操縦室では、自分がこの船を落とさない。

 役目はもうはっきりしていた。

 

 

 客室では、エリンが再び全体を整えていた。

 

 頬はまだ赤い。

 けれど、その表情はもう完全に戻っている。

 

「ミラ、中央ラウンジの再圧迫が来たら、今度は席を切り替えて。サリー、付き添って」

 

「分かった」

 

「ラン、不安が大きい人を先に拾って。クミコは水と呼吸対応」

 

「はい」

 

「シルヴィア、後方はまだ揺れる。ホーネットを使って“立たない空気”を作って」

 

「了解しました」

 

 乗務員達が、それぞれの動きを戻していく。

 さっきまでの恐怖は消えていない。

 でも、手は動く。

 声も出る。

 それが大事だった。

 

「いつも通りでいいわ」

 エリンは、近くにいた若い乗務員達へ改めて言う。

「完璧じゃなくていい。でも、お客様の前では止まらないで」

 

 その一言で、アズサが頷き、ミドリが端末を握り直し、ハヅキが呼吸を整え、ユウコとナツキも視線を交わして頷く。

 

 船はまだ飛んでいる。

 機械室は吹き飛んだ。

 宇宙海賊もいた。

 それでも、まだ終わっていない。

 

 むしろ、ここからが“絶対に落としてはいけない時間”だった。

 

 エリンは、一度だけ客室の前方を見た。

 

 目には見えない。

 でも、その先に操縦室があって、そこにはリュウジがいる。

 

 さっきの言葉を思い出す。

 

 ――もう落とさせやしません。

 

 胸の奥に、その声がまだ残っている。

 

「……任せたわよ」

 

 誰にも聞こえないくらい小さく、エリンはそう呟いた。

 

 そして次の瞬間には、もうチーフパーサーの顔で客席へ向き直っていた。

 

 客室は私が守る。

 操縦は、あの人に任せる。

 

 それだけを、迷いなく信じて。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 操縦室の中では、警報音が絶え間なく鳴り続けていた。

 

 赤いランプが点滅し、補助系統の画面が次々と切り替わる。

 機械室の一部を失った大型船は、見た目以上に繊細だった。

 主機関が生きている。

 補助系統も残っている。

 姿勢制御も辛うじて効く。

 だが、“辛うじて”がいくつも重なれば、それはもう簡単な着陸にはならない。

 

 リュウジは、コンソールへ指を走らせながら、低く息を吐いた。

 

「かなり揺れるな……」

 

 その言葉に、若いパイロット二人の顔が一瞬だけ曇る。

 

「や、やっぱりですか……」

 片方が言う。

 

「仕方ない」

 リュウジは短く返した。

「機械室があの状態で、綺麗な降ろし方はもう捨てる。今は“落とさず、滑走路に入れる”ことだけを考える」

 

「はい!」

 

「補助スラスター、まだ温度は?」

 

「限界ギリギリです!」

 

「なら最後の減速まで温存。ここで無駄に使うな」

 

 画面の向こうで、エアポートの進入ルートが明滅している。

 宇宙管理局とエアポート側は、すでに緊急受け入れ態勢へ切り替わっていた。

 通常便の離着陸は止められ、緊急車両が滑走区画の脇へ並び始めている。

 

 リュウジは、その情報を一瞬で頭へ入れたあと、客室への回線を開いた。

 

「客室、聞こえますか」

 

 ノイズが少し混じる。

 だが今度は、ちゃんと返ってくる。

 

『聞こえるわ』

 

 エリンの声だった。

 

 短い。

 でも、それだけで妙に気持ちが落ち着く返答だった。

 

「もうすぐでエアポートに到着します」

 リュウジが告げる。

「緊急着陸の指示を出します」

 

『了解』

 

 本当に、それだけだった。

 

 余計な質問はしない。

 “どれくらい危ないの”“本当に大丈夫なの”とも聞かない。

 今、操縦室が必要としているのは、客室が迷わず動いてくれるという事実だけだと分かっている返事だった。

 

 リュウジは、その一言へ小さく頷く。

 

「頼みます」

 

『任せて』

 

 通信が切れる。

 

 若いパイロットの一人が、思わずこぼした。

 

「……すごいですね」

 

「何がだ?」

 

「エリンさんです。普通、もっと色々聞きたくなると思うんですけど……」

 

 リュウジは、画面から目を離さないまま言う。

 

「こっちを信頼してくれてるんだ。今は客室を落ち着かせる方が先だ」

 

 そう言いながら、自分でも分かっていた。

 

 あの人は今、客室で同じように“やるべきことだけ”を見ている。

 だからこちらも、着陸だけを見ればいい。

 

 

 客室。

 

 エリンは、リュウジの通信を聞き終えた直後、ほんの一度だけ目を閉じた。

 もうすぐ着く。

 だが、その着陸は通常のものではない。

 

 機械室損傷。

 外殻被害。

 補助系統への切り替え。

 大型船の緊急着陸。

 

 かなり揺れる。

 少しでも準備が遅れれば、客席は簡単に崩れる。

 

「各乗務員、緊急着陸対応に移るわよ」

 

 その声が客室へ落ちた瞬間、乗務員達の空気が一気に切り替わる。

 

 ミラが中央ブロックを見渡す。

 ランが視線を拾う。

 シルヴィアはでに身体を向けている。

 マユ、サリー、クミコ、ホーネットも、それぞれの統括の動きに一拍も遅れずに続いた。

 

 エリンは、前方区画の中央へ一歩出る。

 

「皆さま、これより緊急着陸に備えていただきます」

 

 その声は、はっきりと、しかし決して煽らない高さだった。

 

「眼鏡、ペン、端末など、お身体へ当たる恐れのあるものは全て外してください。バッグやお荷物には触れないで結構です。姿勢を低く、足と足の間へ頭を入れるようにお願いします。腕はお手元で固定、前の座席へ無理に手を伸ばさないでください」

 

 要人達の何人かが戸惑ったような顔をする。

 普段、自分がこんな姿勢を取らされることなどないのだろう。

 秘書達も、護衛も、反射的に何か言いかける。

 だがエリンは、迷う隙を与えない。

 

「今はご自身の体勢を優先してください。警備の方も同様です。立ったままでは危険です」

 

 ダグラスが、その一言をすぐに拾った。

 

「全警備、着席体勢を取れ!主の近接を維持したまま低くなれ!」

 

 その号令で、護衛達もようやく“守るために座る”という現実を飲み込んでいく。

 

 エリンは、その流れを見ながらさらに言葉を重ねる。

 

「メガネを外して。はい、そうです」

「ペンは胸元から抜いて」

「端末は座席ポケット、もしくは足元へ」

「焦らなくて大丈夫、まだ間に合います」

 

 その声を追うように、各ブロックでも乗務員達が案内を始める。

 

「こちらです、足の間へ頭を」

 ミラが中央で言う。

 

「腕は前で固定してください」

 サリーが重ねる。

 

「右列、まだ立たないで」

 ランが言う。

 

「お子様を抱えている方、そのまま胸へ寄せて」

 クミコが声をかける。

 

「後方、荷物は置いてください!」

 シルヴィアが通る声で押す。

 

「そうそう、その姿勢でいい!」

 ホーネットが珍しく的確に補助する。

 

 エリンは、各ブロックの動きが揃い始めたのを見て、今度は無線で乗務員全体へ声を流した。

 

「大丈夫。うちのパイロットを信頼しなさい」

 

 その一言は、乗客に向けたものではなく、乗務員へ向けたものだった。

 だが、その声は客席にも届く。

 

「着陸した後の乗客を降ろす手順を、頭の中でシミュレーションしておきなさい。誰がどのスライドを担当するか、誰が誘導するか、今のうちに確認。着地の衝撃が来たら、数秒止まる。それから動く」

 

 その声が聞こえてくるだけで、不思議とまだ大丈夫と思える。

 

 それは乗務員達だけではなかった。

 客席にいる要人達ですら、その落ち着いた指示の流れを聞いているうちに、少なくとも“今ここで叫ぶべきではない”と理解していく。

 

 声とは、空気だ。

 そのことを、エリンはずっと知っている。

 

 

 操縦室。

 

 進入角が詰まり始める。

 

 エアポートの灯りが、遠くから徐々に輪郭を持ってくる。

 通常ならもっと滑らかに降ろす。

 もっと余裕のある角度で。

 もっと客室に衝撃を与えないように。

 だが今は、それを言っていられない。

 

 リュウジは操縦桿へ手を置いたまま、低く息を吐いた。

 

「姿勢制御、まだ遅れるな」

 

「補助が少し食われてます!」

 若いパイロットが叫ぶ。

 

「分かってる。ここは俺が持つ」

 

 コンソールを睨み、揺れを読み、船体の癖を身体で拾っていく。

 大型船だ。

 小型艇のようには曲がらない。

 その代わり、残された補助設備が思った以上に粘る。

 

「大型船で良かったですね……」

 片方のパイロットが呟く。

 

「良かったかどうかは、止まってから言え」

 

 リュウジが返す。

 

「……はい!」

 

 警報音が一段高くなる。

 船体が左右へ少し振られる。

 上から押されるような感覚に、操縦室の天井がきしむ。

 

「かなり揺れるな」

 

 リュウジがもう一度言う。

 

 だが、その声に焦りはない。

 ただ、事実を言っているだけの声。

 

「着地速度、やや高め!でも許容内です!」

 

「そのままでいい」

 リュウジが言う。

「今は無理に落とすな、滑走路へ噛ませる方を優先」

 

 エアポートが近づく。

 赤、白、青の誘導灯。

 緊急車両の列。

 そして、その向こうに開けた着陸帯。

 

 ここで一歩でもミスをすれば、全部が終わる。

 

 だが、逆に言えば、ここへ入れればまだ勝てる。

 

 

 客室では、緊急着陸姿勢がほぼ整っていた。

 

 前方も。

 中央も。

 右ブロックも。

 後方も。

 

 全員が低くなり、頭を下げ、腕を固定している。

 

 要人も、秘書も、護衛も。

 誰もが結局、この船の中では同じ一人の乗客になるのだ。

 

 エリンは、最後まで立って確認していた。

 

 ミラが中央で低くなる直前に、エリンへ目だけで合図する。

 ランも、クミコを自分の視界に入る位置へ残して沈む。

 シルヴィアはホーネットと位置を揃え、後方の死角がないことを最後に確認している。

 

「全員、姿勢維持」

 エリンが言う。

「衝撃が来てもすぐに顔を上げないで!私の声があるまでそのまま」

 

 そうして、ようやくエリン自身も前方区画の補助席へ身体を落とした。

 

 頬の痛み。

 爆発の余韻。

 リュウジの背中の血。

 全部が一瞬だけ脳裏をよぎる。

 

 でも、今は考えない。

 

 今はただ、あの人が操縦室で船を降ろしている。

 それだけを信じる。

 

 

 着陸。

 

 最初に来たのは、船体が滑走路へ噛みつくような衝撃だった。

 

 ドン、と腹へ突き上げるような重い一撃。

 続いて、左右へ大きくぶれる。

 客室全体から押し殺した悲鳴が漏れ、シートベルトが軋み、荷物棚の中で何かが激しく鳴った。

 

「姿勢維持!」

 

 エリンの声が飛ぶ。

 

 同時にミラ、ラン、シルヴィアの声も重なる。

 

「そのまま!」

「上げないで!」

「頭を下げて!」

 

 大型船は、さらに一度大きく跳ねた。

 摩擦音。

 焦げる匂い。

 滑走路を削るような長い震動。

 

 操縦室では、リュウジが歯を食いしばったまま、操縦桿とスラスター制御の両方を握っていた。

 

「左、少し食われる!」

 

「補助で戻す!」

 若いパイロットが叫ぶ。

 

「戻しすぎるな!」

 リュウジが低く飛ばす。

「そのまま、流して真っ直ぐ持っていく!」

 

 大型船は唸りを上げながら滑る。

 だが、横転はしない。

 機体はまだ死んでいない。

 

 長い。

 とてつもなく長い数十秒だった。

 

 やがて、震動が少しずつ小さくなる。

 警報音の質が変わる。

 そして最後に、機体が大きく一つだけ沈み込むような感覚のあと、完全に停止した。

 

 着陸したのだ。

 

 リュウジは、操縦桿から手を離さないまま一つ息を吐いた。

 

「……止まったな」

 

 若いパイロット達が、一瞬だけ呆然とする。

 生きている。

 止まった。

 本当に。

 

 リュウジは、その確認を終えると、ほんの少しだけ背を預けた。

 

 視界の端が、すっと暗くなる。

 

「後は……任せましたよ」

 

 ぽつりと呟く。

 

 その声は、もう誰へ向けたものかはっきりしていた。

 客室のあの人へ。

 そして、今この船にいる全員へ。

 

 次の瞬間、リュウジの意識が落ちた。

 

「リュウジさん!?」

 若いパイロットが叫ぶ。

 

「リュウジさん!!」

 

 だが、その声はもう届いていない。

 

 

 客室では、停止の感覚を誰もが感じていた。

 

 揺れが終わった。

 船が止まった。

 まだアラームは鳴っている。

 でも、飛んではいない。

 

 エリンは、数秒だけそのまま姿勢を維持した。

 

 まだだ。

 完全に安全確認が取れるまでは、ここで急に立たせてはいけない。

 

「そのまま」

 声を飛ばす。

「まだ頭を上げないで」

 

 数秒。

 

 そして、外から緊急車両の音と、接続完了を示す警告表示が入る。

 

 エリンは一気に動いた。

 

 バックルを外す。

 立つ。

 前方区画を見渡す。

 

「全乗務員、脱出準備!」

 

 その号令で、ミラも、ランも、シルヴィアも、全員が一斉にシートベルトを外して立ち上がる。

 

「緊急脱出スライドを開放して!」

 

 エリンの声が通る。

 

 乗務員達が一斉に各ドアへ散る。

 確認、外の安全、開放。

 動きに迷いがない。

 

 こういう緊急時こそ、普段のシミュレーションがものを言う。

 

 何度も繰り返した。

 “もし本当に来たら”を想像しながら、嫌になるほど繰り返した。

 その全部が、今ここで形になっている。

 

「お荷物はそのまま置いていただき、まずは乗務員の指示に従い、落ち着いて行動してください!」

 

 エリンが声を張る。

 

 ミラも続ける。

 

「立ち上がる方から順にこちらへ!」

 

 ランが右列を押す。

 

「押さないで! 歩幅を合わせて!」

 

 シルヴィアが後方から流す。

 

「一列ずつ! 大丈夫です、急がなくていいです!」

 

 乗務員達も同じように声を重ねていく。

 

「お荷物は置いてください!」

「手すりを持って!」

「足元を見て!」

「そのまま前へ!」

 

 緊急脱出スライドが開放される。

 外気が一気に入り、警報音の向こうに、地上の喧騒が聞こえ始めた。

 

 客席の誰かが我先に動こうとした瞬間、エリンの声が切る。

 

「押さないで!」

 

 それだけで、その男は止まった。

 止まらせる力が、まだ客室にはあった。

 

 前方の要人から順に降ろしていく。

 秘書。

 護衛。

 役員。

 一般乗客。

 一人ひとりを丁寧に、しかし止めずに流す。

 

 ミラは、震える秘書の肩へ一瞬だけ手を置いてスライドへ送る。

 サリーは高齢の乗客の足元を支えながら、遅れを作らない。

 ランは、焦って逆流しようとする護衛を一言で押し戻す。

 クミコは涙目の女性へ「大丈夫です」と言い続けながら誘導する。

 シルヴィアは後方の塊を見事に一列へ整え、ホーネットはその横で普段より低い声で“前へ、前へ”と押し続ける。

 アズサは子どもを抱えた親子を滑らかに送り、ミドリは転びそうな人をいち早く拾い、ハヅキは空いたラインへ即座に人を回す。

 ユウコとナツキも、さっきまでの恐怖を押し込めたまま、今はもう完全に乗務員の顔で客を送り出していた。

 

 誰も完全には平静じゃない。

 でも、手は止まらない。

 

 それがプロだと、エリンは思う。

 

 最後の列が近づく頃には、客室の空気は“恐怖”から“脱出の流れ”へ変わっていた。

 もう叫ぶ者は少ない。

 代わりに、乗務員の声だけが明確に響く。

 

「そのまま前へ!」

「大丈夫です!」

「急がなくていい、止まらないで!」

「下まで行ったらその場を空けてください!」

 

 エリンは、流れの中心でそれを見ていた。

 

 守れた。

 まだ終わってはいない。

 でも、この客室は最後まで壊れなかった。

 

 そしてその事実の奥で、ひとつの不安がゆっくりと大きくなる。

 

 操縦室だ。

 

 船は止まった。

 着陸もした。

 でも、あの人は。

 

 エリンは、最後の乗客を送り出すまで、その不安を顔に出さなかった。

 

 チーフパーサーは、最後まで客室に残る。

 それが仕事だから。

 

 そうして、一人一人を丁寧に降ろしていった。

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