客室の中は、ようやく「崩壊を免れた直後」の静けさに包まれていた。
警報音はまだ鳴っている。
非常灯は明滅したままだ。
機械室の一部を吹き飛ばした爆発の余韻も、船体のどこかにまだ燻るように残っている。
けれど、客室そのものは持ちこたえた。
要人達は全員、緊急脱出スライドで地上へ降ろした。
秘書も護衛も、混乱しながらも、最後まで乗務員の指示に従った。
さっきまで“自分が最優先”という顔をしていた者達も、緊急時には皆、結局この客室の流れに預けるしかなかった。
そして、それを成立させたのは、間違いなくこの船の乗務員達だった。
エリンは客室全体を見渡していた。
前方。
中央。
右ブロック。
後方。
ラウンジ寄り。
飲食スペース側。
人は残っていないか。
意識を失った者はいないか。
転倒した者の取り残しはないか。
誰かが荷物を取りに戻ろうとしていないか。
乗務員達の動きが止まっていないか。
それらを、最後まで自分の目で確認する。
「エリンさん、乗客は全員脱出しました」
ミラが、少し息を上げながら言った。
その声で、ようやく“客を全員降ろし切った”という現実が、船内へ明確な形で落ちる。
「了解」
エリンは、短く頷いた。
「それじゃあ、乗務員全員も脱出スライドで降りなさい」
「エリンさんは?」
ランが即座に聞いた。
その問いに、クミコも、マユも、ホーネットも、サリーも、ユウコも、ナツキも、全員の視線が集まる。
今この場で、エリンだけを船へ残して自分達が先に降りるなど、感情としては到底納得できないのだ。
だが、エリンはその視線を正面から受け止めた。
「私はまだやる事があるから」
その言い方は、あまりにもいつも通りだった。
静かで、迷いがなくて、当然のように次の仕事へ向かう顔。
「やる事?」
クミコが、思わず聞き返す。
いや、本当は分かっていたのだ。
皆、薄々同じことを思っている。
――操縦室だ。
――リュウジさんだ。
でも、その名を口にしたら、何かが崩れそうな気がして、誰もそこまでは言えなかった。
その空気を、ユウコが少しだけ強引に断ち切った。
「まぁまぁ、邪魔しちゃ悪いから」
そう言いながら、クミコの背を軽く押す。
その声音には、さっきまで人質役を演じていた時の震えは、まだ少しだけ残っている。
けれど、それでも無理やりでも軽くしようとしているのが分かった。
エリンは、その小さな気遣いを見逃さなかった。
「ミラ、ラン、シルヴィア」
「はい」
「下に降りたら、皆んなで乗客を頼むわね」
「分かりました」
ミラが答える。
「こちらは任せて」
ランも続ける。
「エリンさんは……」
シルヴィアが言いかける。
だが、最後までは言わない。
エリンは、小さく頷いた。
「大丈夫よ」
その一言に、誰も完全には安心できなかった。
けれど、それでもそれ以上は言えなかった。
今、この人が“行く”と言ったなら、もう止められないと、皆が知っているからだ。
そして一人、また一人と、乗務員達が脱出スライドへ向かっていく。
ミラが最後までエリンの方を見ていた。
ランも、クミコ達を先に行かせながら振り返る。
シルヴィアは、ホーネットを押し出すように送りながら、それでも一度だけ深く頭を下げた。
「お願いします」
その一言に込められているものは、あまりにも大きい。
「ええ」
エリンは、それに短く返した。
やがて、客室に残る人影が減っていく。
警報音だけが残る。
非常灯の明滅が、空になった客席へ不規則な影を落としていた。
最後の乗務員がスライドへ消えるのを見送った時、ようやくエリンは一人になった。
◇
誰もいなくなった客室通路。
普段なら、エリンは絶対に走らない。
「客室通路は走るものじゃない」
それは何度も皆へ言ってきた言葉だ。
焦りは人に伝染する。
走る姿は不安を煽る。
チーフパーサーほど、それを見せてはいけない。
でも今は、そんなことを言っている場合ではなかった。
エリンは走った。
靴音が、空になった客室へ乾いて響く。
前方区画を抜ける。
補助通路へ入る。
操縦室へ続く扉の前まで、一気に駆け抜ける。
呼吸が乱れる。
頬が熱い。
胸の奥が嫌な形で脈打っている。
認証盤の前へ着くと、エリンは迷わず端末へ指を走らせた。
普段の彼女なら、こんな時でももう少し呼吸を整える。
だが今は違う。
早く。
一秒でも早く。
認証音。
ロック解除。
「リュウジ!?」
扉を押し開け、中へ入る。
「エリンさん!?」
中にいた若いパイロットの一人が、振り返って叫んだ。
「良かった……!」
その声色には、本気の安堵が滲んでいた。
だが同時に、次の言葉があまりにも切迫していた。
「急いで救急隊員を!?」
その声に、エリンは反射的に一歩前へ出た。
「え……」
何が、と問うより先に、足元で音がした。
ぴちゃ。
水音みたいな、ひどく小さな音。
エリンは、ゆっくりと足元を見た。
そして、ぞわっと全身が粟立った。
水ではない。
血だ。
床に落ちている。
黒い操縦室の床に、光を鈍く返しながら、確かに広がっている。
自分の靴のつま先が、その端に触れていた。
視線が、その血の筋を辿る。
辿った先にいるのは――。
操縦席の横。
身体を半ばずり落とすようにしているリュウジ。
コンソールへ片手がかかり、頭が少しだけ下がっている。
目は閉じている。
背中から肩にかけての服は、明らかに血を吸って色を変えていた。
その光景を見た瞬間、エリンの中で何かが壊れた。
「……いや」
小さく漏れる。
声になっていない。
その場に立っていられないほどの恐怖が、一気に胸へなだれ込んでくる。
「いやよ……」
それは否定だった。
見たくない。
認めたくない。
また、自分の前で。
「いやぁぁぁ!!!」
エリンの叫びが、操縦室に響いた。
その声は、今まで誰も聞いたことのないものだった。
チーフパーサーの声でも、落ち着いた大人の声でもない。
ただ、大切な人が傷ついたのを見てしまった一人の女の、剥き出しの悲鳴だった。
◇
その後の時間は、エリンにとって断片でしかなかった。
救急隊員が飛び込んできた。
担架が入った。
パイロット達が必死に説明していた。
誰かが「機械室爆発で破片が」と言い、誰かが「出血が」と叫んだ。
エリンはその場で何度もリュウジの名を呼んだ気がする。
だが、どこまで声に出ていたのか、自分でも分からなかった。
ただ、リュウジの血の色だけが、やけに鮮明だった。
◇
病院。
息を切らして、自動扉が勢いよく開いた。
「遅い!」
ガーネットの声が飛ぶ。
宇宙港から急ぎ足で駆け込んできたペルシアは、その場で膝へ手をついた。
肩で息をしながら、どうにか呼吸を整えようとする。
「ごめん……!」
そう言いながらも、顔は真っ青だった。
息を整えるより先に、ペルシアは顔を上げる。
「それよりリュウジは!?」
ガーネットの表情が、一瞬だけ陰る。
「治療は終わってるわ」
「終わってる……?」
「でも血を流しすぎたみたい」
その一言で、ペルシアの顔色がさらに変わる。
「爆発した機械室の破片が身体に刺さってたみたい」
「大丈夫なの!?」
ペルシアの声が、思わず強くなる。
ガーネットは、数秒だけ言葉を選んだ。
その沈黙が、ペルシアにとっては答えみたいなものだった。
「……今夜が山場みたい」
その言葉が落ちた瞬間、ペルシアの喉が詰まる。
「……そう」
短く返す。
でも、その短さの中へ、飲み込んだものが多すぎた。
「それより、エリンは……大丈夫なの?」
ペルシアが、無理やり話題を変えるように聞く。
ガーネットは、少しだけ視線を落とした。
「……今は乗務員達と無菌室で様子を見てるわ」
「分かった」
ペルシアはそれだけ言って歩き出した。
歩き出しながら、自分でも分かっていた。
リュウジが危ない。
でも今、もう一人壊れかけている人がいる。
それがエリンだ。
◇
無菌室の前。
ペルシアとガーネットが入った瞬間、空気の重さがまるで違った。
静かすぎる。
宇宙海賊に襲われた後だ。
大型便が爆発まで起こして緊急着陸した後だ。
普通なら、泣き声や怒りや混乱の声がどこかで漏れていてもおかしくない。
けれど、ここにはそれがない。
あるのは、押し潰されそうな沈黙だけだ。
ミラ、ラン、シルヴィア、クミコ、マユ、サリー、ハヅキ、ミドリ、アズサ、ユウコ、ナツキ、ホーネット。
スペースホープの乗務員達が、壁際や椅子の周りに立ち尽くしている。
誰も大きく動かない。
誰も、泣き声を上げない。
だが、それは落ち着いているからではない。
皆が、同じものを見てしまっているからだ。
ICUと無菌室を隔てるガラス。
その向こうで、管に繋がれ、静かに横たわるリュウジ。
そして、そのガラスへ手を当てたまま、涙を流しているエリン。
その姿が、自分達の知っているエリンとかけ離れすぎていた。
チーフパーサーのエリン。
いつも背筋が伸びていて、冷静で、何があっても客室を整え、誰より先に立ち、最後まで崩れない人。
そのエリンが、今はガラス越しにリュウジを見つめながら、ただ涙を流している。
誰も近づけなかった。
誰も、どう声をかけていいか分からなかった。
ペルシアは、その背中を見た瞬間、胸の奥を強く掴まれたような気がした。
「……エリン」
そっと呼ぶ。
その声で、エリンの肩がかすかに揺れた。
だが、すぐには振り向かない。
「どうして……」
ポツリと、エリンが呟いた。
それは独り言のようでいて、でも確実に誰かへ向けられていた。
「どうして……」
もう一度。
ペルシアが、静かに一歩近づく。
「エリン――」
その瞬間だった。
エリンが振り返る。
その顔を見て、ペルシアは一瞬だけ息を呑んだ。
泣き崩れている。
目元は赤く、頬は涙で濡れたまま、感情が全部むき出しになっている。
こんな顔を、ペルシアですら見たことがなかった。
次の瞬間、エリンの手が伸びた。
ペルシアの胸倉を荒っぽく掴む。
「どうして、リュウジにあんな危険な事を頼んだのよ!!!」
叫びだった。
泣き崩れた表情のまま、声を張り裂けるほどに。
「なんで私に何も言ってくれなかったのよ!!」
その言葉の一つ一つが、ペルシアの胸へ突き刺さる。
怒り。
恐怖。
後悔。
安堵しかけて、また突き落とされた感情。
全部がごちゃ混ぜになって、エリンの手からペルシアの胸倉へぶつけられていた。
ペルシアは、何も言えなかった。
言い返せない。
言い訳なんて出来ない。
確かに、自分が頼んだのだ。
一般客として乗れと。
あの子を助けてやってと。
最悪を避けてほしいと。
そして、リュウジは行った。
実際に助けて、実際に守って、今こうして命を削っている。
ペルシアは口を紡いだまま、顔を伏せる。
「……ごめん」
やっと出た声は、それだけだった。
謝って済むことではない。
分かっている。
でも、他に言えることがなかった。
その言葉を聞いた瞬間、エリンの指先から力が抜けた。
ゆっくりと、ペルシアの胸倉を離す。
「……ごめんなさい」
今度はエリンが言う。
「ペルシアが悪い訳じゃないのに……」
その声は、さっきまでの叫びとは違ってひどく小さかった。
疲れきって、壊れかけて、それでも理性だけがわずかに戻ってきた声だった。
エリンは、そのまままたガラス越しにリュウジへ視線を戻した。
ペルシアも、もうそれ以上は何も言えなかった。
ただ、エリンの肩がまだ小さく震えているのを見ていることしかできない。
◇
それから、ペルシアとガーネットは、どうにかミラ達をホテルへ帰した。
全員、この場へ残りたがった。
当然だ。
エリンもリュウジも心配で仕方がない。
しかも、自分達自身もまだ宇宙海賊の襲撃と緊急脱出の衝撃から完全には立ち直れていない。
だが、それでも今夜は帰さなければならなかった。
このまま全員をここへ置けば、明日の判断も、明後日の便も、何も立て直せない。
病院の外。
ホテルへ戻っていくミラ達の背中を見送りながら、ペルシアがぽつりと呟いた。
「ガーネットがいてくれて助かったわ」
ガーネットは、隣で腕を組んだまま言う。
「ホーネットから連絡をもらったからね」
「そう」
「だけど、ホーネットはともかく、他の皆んなは接客どころじゃないわね」
ガーネットのその言葉に、ペルシアは小さく頷いた。
「ええ、良くも悪くも、今の乗務員達はエリンを軸に育ってきたし、あそこまで弱ったエリンは、正直、私でも動揺したもの」
ガーネットが、それを聞いてゆっくり息を吐く。
「そうでしょうね、私が来た時には、お客様の前で皆んな立ち止まってたから」
「……そう」
ペルシアが目を伏せる。
それだけ、エリンの崩れ方は乗務員達にとって衝撃だったのだ。
エリンが崩れないことを前提に、皆はずっと立ってきた。
その中心が、今日は目の前で壊れた。
しかも、理由がリュウジだ。
乗務員達の心がぐらつくのも当然だった。
「とりあえずスペースホープの方は私が何とかするわ」
ペルシアが言う。
「帰りの宇宙船の事もあるし」
「貴方こそ大丈夫なの?」
ガーネットが聞く。
「宇宙海賊の件もまだ全てが終わった訳じゃないんでしょ?」
「ええ」
ペルシアは頷く。
「だけど今は、エリンとリュウジの方が心配だしね」
ガーネットは、少しだけ遠くを見るような顔をした。
「……確かにね。あんなエリンさんは初めて見たわ」
その言葉へ、ペルシアは小さく笑うように息を漏らした。
「そうね、エリンは強く見えるけど、案外脆いのよ」
その返しに、ガーネットが横目で見た。
「ペルシアと同じようね」
「何それ」
「事実でしょ」
ガーネットはそれだけ言って、先に歩き出した。
「スペースホープの子達は私が立て直しておくわ。二日後のフライトまでには何とかしてみせるから。貴方はエリンさんに着いていてあげて」
ペルシアは、その背中を見ながら一瞬だけ黙った。
宇宙海賊。
リュウジ。
エリン。
スペースホープ。
全部が一度に自分の肩へ乗ってきている。
でも、今は優先順位を間違えられない。
「……ありがとう」
小さく、でもはっきり言う。
ガーネットは振り返らずに片手を上げた。
ペルシアはそれを見送ってから、ゆっくりと病院の方へ視線を戻す。
あの中には、命の境を彷徨っている男がいる。
そして、その男ひとりで崩れそうになっている女がいる。
ペルシアは、大きく息を吐いた。
「ほんとに……」
誰に向けた言葉でもない。
でも、その言葉の先にはきっと、二人の顔がある。
「ちゃんと戻ってきなさいよ」
そう呟いて、再び病院の中へ足を向けた。
ーーーー
無菌室の中に入っても、エリンは変わらない体勢でいた。
ICUと隔てる大きなガラスに片手を当て、もう片方の手は自分の腕を抱くように添えたまま、ただひたすらにその向こうを見つめている。
白いシーツ。
規則正しく鳴る機械音。
点滴の滴る小さな音。
胸の上下を確かめるように見てしまう視線。
そこに横たわっているのが、つい数時間前まで大型船の操縦桿を握っていたリュウジだということが、まだ現実のものとして受け入れきれないような、そんな顔だった。
泣き疲れているはずなのに、涙はまだ止まっていない。
ぼろぼろ、というほど派手に崩れているわけではない。
でも、その静かな崩れ方がかえって痛々しい。
ペルシアは、少しだけ唇を引き結んでから、無菌室の隅にある小さなテーブルへ飲み物をそっと置いた。
紙コップに入った温かい飲み物。
病院の自販機で買っただけのものだ。
けれど今のエリンには、それでも必要だと思った。
「エリン」
声をかける。
エリンは振り向かない。
ただ、視線をガラスの向こうに置いたまま、小さく返した。
「……」
「少し休んできて」
エリンは、数秒黙った。
それから本当に小さな声で言った。
「……大丈夫」
その返事に、ペルシアはため息を吐いた。
「そんなんじゃエリンが倒れるでしょ」
少しだけ語気を強める。
でも、エリンは動じなかった。
いや、動じる余力すら残っていないのかもしれない。
「……私が倒れてリュウジが助かるならいい」
その言葉が出た瞬間、ペルシアの眉が跳ねた。
「バカ言わないでよ!」
思わず声が強くなる。
普段の軽口とは違う、本当に腹の底から出た声だった。
けれどエリンは、それでも振り返らない。
ガラスの向こうのリュウジを見たまま、ただ小さく首を垂れる。
「だって……」
その声は、もうチーフパーサーのものではなかった。
ただ、大切な人が眠ったまま起きないことに怯えている女の声だった。
ペルシアは、一歩近づいた。
「悲劇のフライトで、リュウジもアンタの前で同じようにしてたわよ!」
その言葉で、ようやくエリンの肩がぴくりと揺れた。
ペルシアは構わず続ける。
「食べない、寝ない、目を離さない、息をしてるかどうかばっかり見て、アンタが目を覚まさない間、あの子、ずっとそうだったわよ!」
エリンの指先が、ガラスに触れたまま少し強くなる。
「リュウジが起きた時に、また同じ思いをさせる気なの?」
その問いは鋭かった。
怒鳴っているのとは違う。
逃がさないように、真正面から刺しに行く言葉だ。
エリンの顔が、そこでぐしゃりと歪んだ。
くしゃくしゃになる。
涙で濡れた顔が、もう取り繕うことも出来ずに歪んでいく。
「……っ」
首を横に振る。
何度も。
子どもみたいに、嫌だというように。
「嫌……そんなの……嫌よ……」
「だったらちゃんとしてなさい」
ペルシアが言う。
エリンは、ようやくゆっくり振り向いた。
頬は赤く腫れていて、目元は酷く充血している。
その顔のまま、かすれた声で言う。
「……ペルシアは、なんでそんな強いのよ」
その問いに、ペルシアはすぐには答えなかった。
少しだけ目を伏せる。
それから、壁にもたれるように立って、鼻で笑うみたいに息を吐いた。
「強くないわよ」
「……嘘」
「嘘じゃない」
ペルシアは言う。
「私だって泣きたいし、叫びたいわよ。リュウジに頼んだ本人としては、やっぱりね」
そこで、エリンの目がまた揺れる。
「……」
「でも」
ペルシアは続ける。
「私よりも先に壊れそうなぐらい崩れてる人が毎回いるから、私まで崩れるわけにはいかないでしょ」
静かな声だった。
軽くもないし、強がってもいない。
ただ本当にそういう経験を何度もしてきた人間の声だ。
「アンタもそう。エリンが今こんな顔してるから、ミラ達も皆んな、どうしていいか分かんなくなってる。ガーネットが来た時なんて、皆んなお客様の前で立ち止まってたって言ってたわよ」
エリンが、唇を噛む。
「……分かってる」
「分かってるなら、ちょっとは身体を動かしなさい」
ペルシアはテーブルに置いた紙コップを顎で示す。
「まずそれ飲んで」
「いらない」
「いらないじゃない」
「飲めない」
「飲みなさい」
エリンは、まるで子どもみたいに顔を背けた。
その仕草があまりにも“普段のエリンらしくない”から、ペルシアは余計に痛かった。
「エリン」
今度は、少しだけ声をやわらげる。
「アンタ、何時間ここに立ってると思ってるの」
「分からない……」
「分かんないくらい動いてないってことでしょ!足、もう冷えてるんじゃないの」
言いながら、ペルシアは一歩近づいてエリンの腕に触れた。
「ほら、やっぱり」
冷たい。
見た目よりずっと。
エリンは、その手を振り払う気力すらなく、ただ小さく息を吐いた。
「怖いのよ……」
その一言が、ぽろっと零れ落ちた。
ペルシアは黙って聞く。
「すごく、怖いの。目を閉じたら、このまま起きなかったらどうしようって……少しでも顔色が違って見えると、今、止まるんじゃないかって……もう……息が出来なくなるの」
言葉が途切れ途切れになる。
感情が喉へつっかえて、うまく出てこないのだろう。
「どうして、あの人がこんな目に遭わなきゃいけないのかも分からない。どうして……」
また涙が落ちる。
ペルシアは、その顔を見ながら、胸の奥がじくじく痛むのを感じていた。
こうなる前に、もっと上手く出来たかもしれない。
エリンに話しておくべきだったかもしれない。
リュウジに頼むにしても、別の形があったかもしれない。
でも、今それを言っても仕方ない。
今必要なのは、エリンを責めることでも、自分を責めることでもない。
「エリン」
ペルシアが、もう一度名前を呼ぶ。
「アンタさ、今、自分が弱いことばっかり責めてるでしょ」
「……責めてる」
「だろうね。でもそれ、今やることじゃないわ」
エリンが少しだけ目を上げる。
「今はね、座ること、息を吸うこと、少しでも寝ること。それが仕事」
「仕事……」
「そうよ」
ペルシアは言う。
「リュウジが起きた時に、アンタまで倒れてたらどうするの。またあの子に、“守れなかった”って顔させたいの?」
エリンの肩が、また揺れた。
悲劇のフライトの時。
自分が目を覚ました時に見たリュウジの顔。
疲れきって、削れて、でも泣きもしないで、ただそこにいたあの顔。
あれをまた、この人に向けさせるのか。
今度は立場を逆にして。
そう思った瞬間、エリンの喉がまた詰まる。
「……嫌」
「でしょ」
「嫌よ」
「なら、ちゃんとしなさい」
ペルシアは繰り返す。
叱っているようでいて、実は何度も立たせようとしている言葉だ。
「ほら、座る」
そう言って、近くの椅子を引く。
エリンは少しだけ抵抗するみたいに立っていたが、結局その場で膝から力が抜けたように椅子へ座った。
ペルシアはすぐ紙コップを手に取って、エリンへ渡す。
「飲みなさい」
「……」
「少しでいいから」
エリンは、しばらくその紙コップを見ていた。
それから、震える指でようやく受け取る。
口へ運ぶ。
ほんの少し飲む。
そのたった一口で、喉の奥がじんと熱くなったのか、エリンはまた泣きそうな顔をした。
「うまくないでしょ」
ペルシアが言う。
エリンは、小さく笑いそうになって、でも笑えなくて、代わりに鼻を啜った。
「うん……」
「病院の自販機だからね」
「分かってる……」
そのやり取りだけで、ほんの少しだけ空気が変わる。
それでも、重さは消えない。
ガラスの向こうには、まだリュウジが眠ったままだ。
◇
しばらくして、ペルシアは椅子を引いてエリンの隣に座った。
同じようにガラスの向こうを見る。
白いシーツ。
無数のコード。
静かな顔。
「ねえ」
エリンが、ぽつりと聞く。
「ペルシア」
「なに」
「リュウジ、起きると思う?」
その問いは、本当に幼いくらいまっすぐだった。
強がりも、理屈もない。
ペルシアは、少しだけ黙る。
嘘を言えば、多分エリンはそれをすぐ見抜く。
でも、残酷なことをそのまま言う必要もない。
「起きるわよ」
結局、そう言った。
迷いなく。
「だって、あの子だもの」
エリンが、ゆっくりと顔を上げる。
「そんな理由……」
「十分でしょ」
ペルシアが言う。
「リュウジって、人の期待とか、勝手に背負って、勝手に無茶して、勝手に戻ってくるタイプ」
「褒めてるのか貶してるのか分からないわ」
「両方よ」
エリンの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑いにはならない。
でも、完全な無表情ではなくなった。
「それに」
ペルシアは続ける。
「アンタがまだ何も言ってないんでしょ」
「何を……?」
「何って」
ペルシアが肩をすくめる。
「言いたいこと、いっぱいあるんじゃないの」
エリンは、その言葉に黙り込む。
ある。
いっぱいある。
どうしてあんな無茶をしたの。
なんで自分を庇ったの。
怖かった。
助かった。
嬉しかった。
腹が立つ。
ありがとう。
無事でいて。
起きて。
多すぎて、一つにもならないくらいだ。
「……あるわよ」
「でしょ」
「ある」
エリンはもう一度言う。
「いっぱいある」
「なら、起きてもらわないと困るじゃない」
その言葉に、エリンはまた小さく頷いた。
◇
夜は長かった。
時計の針は少しずつ進む。
でも、その少しずつがあまりにも遅い。
途中で看護師が来て、エリンにもペルシアにも、少し休むように何度か声をかけた。
ペルシアはどうにかエリンへ水を飲ませ、病院の毛布を肩へかけさせ、椅子から立ち上がらせて軽く歩かせた。
エリンは最初は何を言われても「大丈夫」としか返さなかったが、ペルシアがそのたびに「全然大丈夫じゃない」と言い返し続けたせいで、少しずつ反応が戻ってきた。
「ねえ、エリン」
「なに」
「アンタ、まだチーフパーサーの顔して無理しようとしてるでしょ」
「してないわよ」
「してるわよ」
「してない」
「頑固ねぇ」
「ペルシアに言われたくないわ」
「はいはい、そうね」
そんなやり取りが、夜の後半には少しだけ出来るようになっていた。
けれど、気を抜けばすぐにエリンの視線はガラスの向こうへ吸い寄せられる。
リュウジの顔色。
胸の上下。
機械の数値。
ペルシアは、そのたびに隣から声をかける。
「今、瞬きしてなかったでしょ」
「してるわよ」
「嘘、三十秒くらい止まってた」
「そんなに?」
「そんなに」
そして、エリンが少しでも目を離せるように、あえてくだらない話もした。
ホーネットが本気で静かだったこと。
ユウコが泣きながらも「リュウジさんは絶対起きますよね」って三回くらい聞いてきたこと。
ナツキがそのたびに「知らないけど起きるわよ」ってぶっきらぼうに返して、でも目が真っ赤だったこと。
ミラとランが最後まで「明日の乗客のフォローは私がやります」って言い張ったこと。
ガーネットがそれを全部まとめて押し返したこと。
エリンは、そういう話を聞くたびに少しだけ顔を伏せる。
「皆んなに迷惑かけたわね」
「今さら?」
ペルシアが言う。
「それはお互い様でしょ」
「……そうね」
「アンタが皆んなを立たせてきたんだから、こういう時くらい皆んなに支えられなさい」
エリンはその言葉に、静かに頷いた。
◇
夜が更けるほどに、病院の空気は不思議な静けさを増していった。
廊下を行き来する看護師の靴音。
遠くで鳴る点滴交換の合図。
時々開く自動扉の音。
それら全部が、夜の病院特有の薄い膜の向こうにあるみたいに聞こえる。
ペルシアは、途中で一度だけ自分も壁にもたれて目を閉じた。
本当は疲れている。
頭も痛いし、足も重い。
宇宙海賊の件だって終わっていない。
連絡を返すべき相手も山ほどいる。
それでも今夜だけは、ここを離れる気になれなかった。
エリンがぽつりと聞く。
「ペルシア」
「なに」
「もし……」
「うん」
「もし、リュウジが起きなかったら、私……」
そこまで言って、言葉が詰まる。
ペルシアは、即座に遮った。
「起きる」
「でも」
「起きる」
エリンが黙る。
ペルシアは、少しだけ身を乗り出して言う。
「起きなかった時の話は、起きなかった時にしなさい。今は起きる方に賭けるの」
「……」
「アンタ、普段は人に“最悪を先に考えすぎ”って顔するくせに、自分のことになるとすぐそれやるわよね」
その言葉に、エリンは少しだけ苦笑した。
「……そうかもしれない」
「そうなの!だから今は、起きた後に何を言うか考えときなさい」
「何を言えばいいのか分からないわよ」
「いっぱいあるって言ってたじゃない」
「ありすぎてまとまらないの」
「じゃあ最初は一個でいいじゃない」
ペルシアが言う。
「“おはよう”とか」
その言い方があまりにも普通で、エリンは思わず少しだけ笑ってしまった。
「なによ、それ」
「大事よ?だって長い夜が明けた後に言うなら、“おはよう”って、案外すごくいい言葉じゃない」
エリンは、その言葉を小さく反芻する。
「……おはよう、ね」
「うん」
「……言えるかしら」
「言いなさいよ」
ペルシアが鼻で笑う。
「それぐらいなら、アンタにも出来るでしょ」
◇
そして、朝方。
窓の外の色が、ほんの少しだけ変わり始めていた。
夜の底が、うっすらと薄くなっていく時間。
無菌室の中の空気は変わらない。
でも、時間だけが確かに進んでいる。
エリンは、結局またガラスの前へ立っていた。
ただし、今度はもう立ち尽くしているだけではない。
隣にペルシアがいて、少しだけ呼吸の仕方を思い出した顔になっている。
その時だった。
小さな違和感があった。
エリンの目が、はっと動く。
「……ペルシア」
「なに?」
「今……」
ガラスの向こう。
ベッドの上のリュウジの指先が、ほんのわずかに動いた気がした。
エリンは、息を止めた。
見間違いかもしれない。
そう思うのに、視線を逸らせない。
数秒。
そして今度は、確かに瞼がわずかに震えた。
「……っ!」
エリンの手がガラスへ触れる。
「看護師さん!」
ペルシアがすぐに声を上げた。
近くにいた看護師が振り向き、慌てて中へ入る。
モニターを確認し、呼びかける。
「聞こえますか?リュウジさん、分かりますか?」
エリンの胸が激しく打つ。
今度こそ、今度こそ、と祈るみたいに見つめる。
リュウジの瞼が、ゆっくりと開いた。
最初は焦点が合っていない。
ぼんやりとしたまま、天井を見ている。
それから少しずつ、視線が動く。
酸素マスク越しの呼吸。
まだ苦しそうだ。
でも、生きている。
意識が戻った。
「リュウジ……!」
エリンの声が震える。
ガラス越しに呼んだその名前へ、リュウジの目がゆっくりと向く。
完全に覚醒しているわけではない。
それでも、見た。
見えている。
ペルシアが、隣で小さく息を吐く。
「……もう、ほんと、手がかかるんだから」
その声は笑っているのか泣いているのか、自分でも分からないみたいだった。
エリンは、ガラスへ手を当てたまま、涙を零した。
でも今度の涙は、夜の途中で流したものとは違う。
安堵だった。
崩れるような安堵。
喉の奥が痛いくらいに熱くて、でも、胸の真ん中へようやく空気が戻ってくるような。
リュウジは、まだ言葉を発せない。
でも、ガラスの向こうでほんのわずかに目を細めた。
それだけで十分だった。
エリンは、泣きながら、それでも口元を少しだけ整えて、ガラス越しに小さく言った。
「……おはよう」
ペルシアが、その横でふっと笑う。
「ちゃんと言えたじゃない」
エリンは返事をしなかった。
ただ、涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、何度も何度も頷いていた。
長い夜が、ようやく明けたのだった。
ーーーー
朝方。
夜がようやく明けた頃になって、病院の空気も少しだけ色を変えていた。
夜通し張りつめていた緊張が、朝の白い光に少しずつ薄められていく。
もちろん、完全に安心出来る状況になったわけじゃない。
宇宙海賊の件だって終わってはいないし、リュウジの身体だってまだ万全とは程遠い。
それでも――“意識が戻った”という事実はあまりにも大きかった。
あの長い夜を知っている者にとっては、世界の色が少し変わるくらいには。
ペルシアは、そんな朝の病院の廊下を、スペースホープの乗務員達を引き連れて歩いていた。
その顔ぶれは見事なものだった。
全員、揃いも揃って目の下にうっすらクマが出来ていた。
いや、うっすらではない。
はっきり、だった。
「……アンタ達」
先頭を歩いていたペルシアが、ちらりと振り返る。
「ほんとに寝てないのね」
ミラが小さく肩をすくめた。
「寝られるわけないじゃないですか」
「分かるけど」
ペルシアが言う。
「それにしたって、顔がひどいわよ」
「ペルシアさんもです」
ランが静かに返す。
「私はいいのよ」
ペルシアが即答する。
「大人だから」
「その理屈はちょっと分かりません」
ミドリが真顔で言った。
ホーネットが、小さく欠伸を噛み殺しながら言う。
「ホテル帰ったのに、結局誰も寝てないの笑えるんだけど」
「笑えないわよ」
ナツキが言う。
「ホーネットもずっとソファでスマホいじってたじゃない」
「寝ようとはしたのよ!でも、目閉じると昨日のレーザー銃が浮かぶんだって!」
「それは私もです」
クミコが小さく言ってから、慌てて口をつぐむ。
ユウコが横からうんうんと頷いた。
「私なんて、頭にレーザー銃突きつけられた感触が残っててさぁ……変な夢見そうで眠れなかった」
「夢じゃなくて現実だったですもんね」
アズサがぼそっと言う。
「やめて!?」
ユウコが本気で嫌そうな顔をした。
そんなやり取りを聞きながら、ペルシアは内心で少しだけ安堵していた。
この子達、ちゃんと昨日の延長線上にまだいる。
怖さも、疲れも、動揺も抱えたまま。
でも、こうして口が動いている。
それならまだ立て直せる。
「とりあえず、入る前に言っとくけど」
ペルシアが言う。
「リュウジは朝方に目を覚まして、もうICUから一般病棟へ移ってる」
その一言で、全員の顔が一斉に上がった。
「ほんとですか!?」
クミコが思わず声を上げる。
「ほんとよ」
ペルシアが頷く。
「だから叫ばない。泣かない。倒れない。分かった?」
「……三つ目は怪しいです」
サリーが冷静に言った。
ミラが小さく笑いそうになる。
ランも、ほんの少しだけ口元が和らいだ。
「ガーネットも安心してたし」
ペルシアが続ける。
「だからアンタ達も、少しはまともな顔して入りなさい」
「まともな顔って言われても……」
ハヅキが困ったように言う。
「それに皆んな寝てないので……」
マユが小さく続けた。
「私もだから大丈夫よ」
「それ、全然大丈夫じゃない言葉ですよ」
ミドリがまた真顔で返した。
◇
一般病棟の個室前に着くと、ガーネットがちょうど扉の前に立っていた。
「おはよう」
ペルシアが声をかける。
「おはよう」
ガーネットが返す。
「朝とは思えない顔ぶれね」
「見れば分かるでしょ、全員寝てないのよ」
ペルシアが言う。
「貴方もね」
「私は別」
「はいはい」
ガーネットは呆れたように笑ったが、その表情は昨日の夜よりずっと柔らかかった。
それだけで、本当に“山場は越えた”のだと分かる。
「リュウジ、今は?」
ミラが、珍しく少し硬い声で聞く。
「寝ているわ」
ガーネットが答える。
「でも、まだ完全に元気って感じではないわね。それと」
そこで、ガーネットの口元が少しだけ妙な形に緩んだ。
「エリンさんもいる」
その言い方が、少しだけ意味深だった。
ペルシアが眉を上げる。
「何その言い方」
「入れば分かる」
ガーネットが扉へ手をかける。
皆が、ほんの少しだけ息を詰めた。
そして病室の扉が、静かに開く。
◇
中を見た瞬間、全員が一瞬止まった。
そこにあった光景は、確かに“驚くべき姿”だった。
病室の白いベッド。
その上で眠っているリュウジ。
まだ顔色は万全とは言えない。
点滴もしているし、胸元にはいくつか医療機器の線も残っている。
けれど、昨夜のICUの姿よりはずっと“生きてここにいる”感じが強かった。
そして、そのベッドの脇。
床に膝をつき、上半身だけをベッドへ預けるようにして、リュウジの胸へそっと顔を寄せたまま、エリンが寝息を立てていた。
完全に寝落ちしている。
片手は、リュウジのシーツを少し掴んだまま。
頬の腫れはまだ少し残っている。
涙の跡も、完全には消えていない。
でも、今はただ、張りつめていた糸が全部切れたように静かに眠っていた。
その姿が、病室の空気を妙に柔らかくしていた。
「……え」
クミコが、思わず声にならない声を漏らす。
「うそ……」
アズサが目を丸くする。
「え、え、え……?」
ユウコが口元を両手で押さえる。
ミラもさすがに無言になった。
ランは目を細め、マユとサリーは揃って頬を赤くしている。
ホーネットなどは、完全にニヤけそうな顔を必死に引き締めていた。
シルヴィアは目を逸らそうとして、でも逸らしきれず、結局また見てしまっている。
その中で、ペルシアだけがニヤッと笑みを浮かべた。
「へぇ……」
その顔は、昨夜の重さを知っているからこその笑みだった。
からかい半分。
安堵半分。
いや、安堵の方が大きいかもしれない。
「ようやくエリンも寝たか」
そう小さく呟いてから、何のためらいもなく携帯を取り出す。
そして。
パシャリ。
シャッター音。
「何で撮ったんですか!?」
クミコが慌てて小声で叫ぶ。
「ちょ、ちょっとペルシアさん!?」
ミラも声を潜めながら言う。
ペルシアは、画面を見ながら満足げに頷いた。
「記念にかな」
「記念って何のですか!」
ユウコが言う。
「貴重なものが撮れた記念?」
「最低です」
ナツキが呆れたように言う。
「でも消さないでください」
ホーネットが小声で言った。
「アンタねぇ!?」
シルヴィアが肘で軽くつつく。
「いやだって、これは……」
ホーネットが本気で頬を赤らめている。
「すごいじゃない」
「何が“すごい”んですか……」
マユが、でも自分も少しだけ頬を赤らめながら言う。
ミラとランは、互いに一瞬だけ視線を交わした。
何も言わない。
でも、その視線の中にはいろんな感情があった。
助かった。
良かった。
そして、ああ、やっぱりそうなんだな、という妙な納得。
◇
その小さなシャッター音に、リュウジが気づいた。
ゆっくりと瞼を開く。
まだ完全に覚醒した顔ではない。
でも、意識ははっきり戻っている。
最初に見えたのは、病室の天井。
次に、見慣れた顔ぶれが視界へ入る。
「……何だ、全員集合か」
掠れた声だった。
だが、その一言だけで、空気がまた少しだけ軽くなる。
「リュウジさん!」
クミコが、今度こそ泣きそうな顔になる。
「静かに」
ペルシアが即座に言う。
「病院」
「す、すみません……!」
リュウジは、そのやり取りへ少しだけ口元を緩めかけて、それから自分の胸元へ重みがあることに気づいた。
視線を落とす。
エリンがいる。
自分の胸へ顔を預けるようにして、床に膝をついたまま眠っている。
頬にはまだ痕が残っていて、呼吸は深い。
疲れ果てたあとに、ようやく落ちた眠りだと一目で分かる。
リュウジは、その姿を見て一瞬だけ目を細めた。
「……」
そして、本当にそっと、起こさないように身体を少し起こし、エリンの肩へ手を添える。
「エリンさん」
小さく呼ぶ。
反応はない。
「寝てるわよ」
ペルシアが言う。
「そうか」
リュウジは、それ以上は起こさず、慎重にエリンの身体を支えた。
床に膝をついたままでは身体が痛むだろう。
だから、壊れ物みたいに扱いながら、そっとベッド脇の椅子へもたれさせる。
膝掛けを引き寄せ、肩へかける。
その動きがあまりにも自然で、乗務員達はまた妙な顔になった。
「……」
「……」
言葉がない。
リュウジは、ようやく全員へ顔を向けた。
「心配かけたな」
そう言ったあと、静かに続ける。
「皆んな無事で良かった」
その一言に、ミラが少しだけ目を伏せた。
ランも、クミコも、サリーも、皆どこか泣きそうな顔になる。
だが、そんな空気を、ペルシアがいつもの調子でぶった切った。
「血を流しすぎよバカ」
ぴしゃりと言う。
リュウジは、きょとんとしたように瞬きをした。
「そうか」
「そうかじゃないわよ!」
ペルシアが言う。
「今夜が山場って言われたんだから!」
「結果的に山は越えたんだろ」
「そういう問題じゃないの!何なのその省エネ反応!」
だが、リュウジはその言葉を右から左へ流すように、徐に身体についている機器へ手をかけた。
「ちょ、何してるの」
ペルシアが眉をひそめる。
「外す」
「は?」
「肉を食べに連れてけ」
その一言に、病室の空気が一瞬だけ止まった。
全員が「今なんて?」という顔になる。
ペルシアが、心底信じられないものを見る目で言う。
「は?」
リュウジは、本気で不思議そうな顔で続けた。
「血を補充するには持ってこいだろ」
「バカじゃないの?」
ペルシアが言う。
「バカじゃないの?」
なぜか二回言った。
ユウコが、思わず吹き出しかけて口を押さえる。
ホーネットが肩を震わせ、ミドリが真顔のまま目だけを丸くする。
ナツキは「この人ほんとに……」という顔で額を押さえた。
リュウジは、相変わらず真顔だった。
「うるさい」
「うるさくないわよ!」
「食えば戻るだろ」
「戻るか!」
ペルシアが言う。
「まず安静! それから医者! その次に食事!」
リュウジは少しだけ考えるような顔をした。
「順番が面倒だな」
「何言ってるのよこの人!」
ペルシアが天を仰ぐ。
しかし次の瞬間、ふっと肩をすくめた。
「……まぁいいか、私もお腹空いたし」
「切り替え早すぎません?」
アズサが思わず言った。
「私は現実主義者なの」
ペルシアが言う。
「それに、食べられる元気があるのはいいことじゃない」
そして、少し得意げに顎を上げる。
「私が奢ってあげる」
「当たり前だ」
リュウジが即答する。
「何でそこはそんなに偉そうなのよ!」
ペルシアが噛みつく。
「頼んだのはそっちだろ」
「ぐ……!」
その理屈を出されると少し弱いのか、ペルシアが一瞬だけ詰まる。
それを見て、ホーネットが今度こそ口元を押さえて笑ってしまった。
リュウジは、そこでようやくミラ達へ目を向ける。
「お前たちはどうする?」
その問いに、全員が微妙な顔をした。
行っていいのか。
今この状況で。
でも、お腹は空いている。
そして何より、昨日からほとんど何も食べていない。
悩みが顔へ丸出しだった。
「それは……」
クミコが口ごもる。
「ちょっと行っていいものか……」
マユも珍しく歯切れが悪い。
そこへ、ガーネットが口を挟んだ。
「行ってきなさい、エリンさんは私が見てるから」
全員が一斉にそちらを見る。
「でも……」
ミラが言いかける。
「でもじゃない」
ガーネットがきっぱり言う。
「アンタ達、顔色が揃ってひどい。今ここで全員倒れられたら、後の方が困るの」
それはもっともすぎる言葉だった。
ミラは、少しだけ迷ってから頷く。
「……それじゃ」
「行ってきなさい」
ガーネットが繰り返す。
その言葉で、ようやく全員が少しずつ賛同する。
「じゃあ、少しだけ……」
「食べてきます」
「すぐ戻ります」
口々にそう言って、病室を出る準備を始めた。
そんな中、シルヴィアだけは椅子へもたれたまま言った。
「私は眠いからここで寝てます」
全員が一斉にそちらを見る。
「え?」
ホーネットが言う。
「シルヴィア、行かないの?」
「行かない」
シルヴィアは真顔だった。
「エリンさんに怒られるよりは」
ガーネットが思わず吹き出す。
「賢明ね」
「はい」
シルヴィアは、本当に眠そうな顔のまま答えた。
そうして、ペルシアとミラ達はぞろぞろと病室を出ていく。
シルヴィアだけが残り、ガーネットと一緒にエリンの様子を見ることになった。
◇
それからしばらくして。
焼肉を食べ終え、少しだけ顔色を戻したペルシアとミラ達が、病室へ戻ってきた。
ちなみに、焼肉の席でもリュウジは「やっぱり肉だな」とか言いながらしっかり食べていた。
ペルシアは「食欲だけは一級品ね」と呆れ、ミラ達は「本当にこの人、朝まで重症だったんですよね?」と何度も確認したくらいである。
そして問題は、その“食べ終わった後”だった。
病棟の廊下に、看護師の怒声が響いていたのだ。
看護師が、仁王立ちだった。
「患者さんですよね!?」
「そうですが」
「そうですが、じゃありません!!何してたんですか!?」
「肉を食べに」
真顔で返すリュウジ。
その瞬間、ペルシアが横で肩を震わせ、クミコが「うわぁ……」という顔をし、ホーネットは壁に頭をぶつけそうになるくらい笑いを堪えていた。
看護師のこめかみに、ぴき、と何かが走る。
「何考えてるんですか!!」
「今は安定してるんだろ」
リュウジが言う。
「安定してるからって外へ出ていいわけありません!!」
「しかし肉を食べないとな」
「肉は病院食の許可が出てからです!!」
「病院食じゃ足りないだろ」
「足ります!!!」
その押し問答は数分続いた。
そして当然のように、リュウジはこっぴどく叱られた。
点滴を勝手に外そうとしたこと。
機器を外したこと。
安静指示を無視しようとしたこと。
血を流しすぎた人間の行動ではないこと。
全部、正論だった。
ペルシアはその横で、最初こそ楽しそうに見ていたが、途中から「いやほんと何してるのよ」と本気で呆れ始めていた。
ミラ達も、さすがに同情する気にはなれず、でも笑っていいのかは微妙で、妙な顔になっていた。
やがて、ようやく看護師の説教が一区切りついた。
リュウジは、さすがに少しだけ疲れた顔をして病室へ戻る。
だが、その足取りはまだ“何で怒られたんだろうな”という雰囲気を残していた。
その瞬間だった。
「……安堵してる所悪いけど」
低い声が響いた。
全員がそちらを向く。
病室の入口に立っていたのは、目を覚ましたエリンだった。
ガーネットが横で腕を組み、シルヴィアが少しだけ目を逸らしている。
つまり、全部見られていたのだ。
エリンは、まだ少し眠そうな顔をしていた。
だが、それ以上に、“完全に起きたチーフパーサーの顔”へ戻っていた。
リュウジは、それを見て一瞬だけ本気で固まった。
「……あ」
「正座」
即答だった。
病室の空気が、今度は耐えきれずに少しだけ揺れる。
ホーネットが吹き出しそうになるのを必死に堪え、ユウコが肩を震わせ、アズサは口元を押さえた。
リュウジは、ほんの少しだけ観念したように息を吐くと、その場で本当に正座した。
「……すみません」
「聞こえない」
「すみませんでした」
言い直す。
エリンは、まだ腕を組んだままだ。
「何で焼肉を食べに行ったの」
「血を」
「補充するには肉がいい、はさっき聞いた」
リュウジが口を噤む。
「何で医師にも看護師にも確認しないの。何で点滴を勝手に外すの。何で自分の体力を自分で見誤るの。何でそういうところだけ昔から変わらないの」
「……」
「何か言うことは?」
リュウジは、少しだけ視線を上げた。
「肉は美味かったです」
一瞬、全員が固まる。
次の瞬間、ペルシアが腹を抱えて吹き出し、ホーネットがとうとう笑いを堪えきれず壁に寄りかかり、ユウコは「ダメだこの人!」と小さく叫び、ミラは額を押さえた。
エリンだけが、数秒黙っていた。
その沈黙が逆に怖い。
「……もう一回聞くわね」
エリンが静かに言う。
「何か言うことは?」
リュウジは、今度こそ少しだけ素直な顔になった。
「……すみませんでした」
「よろしい」
エリンが、ようやく小さく息を吐く。
ああ、戻ってきたんだな。
そう思える怒りだったからだ。
ペルシアは、その様子を横で眺めながら、病室の外で買ってきた焼肉弁当を勝手に広げていた。
「はい、お土産。ガーネット、シルヴィアも食べる?」
「食べます」
シルヴィアが即答する。
「アンタ、そういうとこ図太いわね」
ペルシアが笑う。
「眠いので、食べないと無理です」
「正しいわ」
ガーネットは、受け取った焼肉弁当の蓋を開けて言う。
「これ、お土産って言うの?」
「言うのよ」
ペルシアが言った。
「病院で怒られて、病室でも怒られるリュウジ見ながら食べる焼肉弁当なんて、なかなかないんだから」
「最低ね」
ガーネットが言う。
「でも美味しそう」
シルヴィアが真顔で言った。
実際、美味しそうだった。
その横で、エリンは今度はペルシア達へ矛先を向けていた。
エリンが、ゆっくりとこちらを見た。
「お帰りなさい」
声は静かだ。
静かだが、明らかに怒っている。
ペルシアが、愛想笑いを浮かべる。
「た、ただいま?」
「ただいま、じゃないわよ」
エリンが言う。
その一言で、全員の背筋がぴんと伸びた。
「全員、焼肉食べに行ったんですって?」
「えっと……」
ミラが口を開きかける。
だがエリンは、そちらを一瞬見てから、また全員へ視線を戻した。
「食べるのはいいわ。休むのも大事。でも、その顔で病院へ戻ってきたの?」
全員が黙る。
確かに、焼肉を食べた程度でクマは消えない。
ミラもランも、まだ顔色は万全じゃない。
クミコ達など、焼肉で少し元気が出た分、余計に疲れが見えやすくなっているくらいだった。
「ペルシア」
エリンが言う。
「はい」
「保護者役なんでしょ?」
「たぶん?」
「疑問形にしないで」
エリンがぴしゃりと言う。
「だったら、少しはこの子達をちゃんと寝かせなさい」
「はい……」
ペルシアが、珍しく素直に返事をした。
「ミラもランも、クミコ、マユ、サリー、アズサ、ハヅキ、ミドリ、ユウコ、ナツキ、ホーネット、全員よ!ちゃんと休まないと、次に何かあった時に動けないでしょ」
その一言一言に、全員が小さく「はい」と返す。
怒られている。
でも、その怒りが妙に心地いいのだ。
ああ、戻ってきた。
エリンさんが戻ってきた。
皆が、どこかでそう思っていた。
シルヴィアが、壁際から小さく呟く。
「戻りましたね」
「戻ったわね」
ガーネットが笑いを噛み殺しながら言う。
エリンが、ため息を吐く。
「どうしてそうなるの。ユウコもナツキも、目の下ひどいわよ!アズサもミドリもハヅキも、今にも寝そうな顔してるし、ホーネットに至っては笑う元気だけ残ってるじゃない」
「すみません」
ホーネットが、でも笑いを堪えきれない顔で言う。
エリンは、全員を見渡してもう一度ため息を吐いた。
そして、少しだけ口元を緩めた。
「……でも、ありがとう」
その一言に、皆が顔を上げる。
「皆んながちゃんと客室を守ってくれたから、最後まで降ろし切れたの。だから、そこはちゃんと誇っていい。でも、だからって休まなくていい理由にはならない」
「はい……」
全員が小さく頷いた。
ペルシアが、焼肉弁当を食べているガーネットへ小声で言う。
「どう?戻ったでしょ、うちのチーフパーサー」
「戻ったわね」
ガーネットも、肉を口へ運びながら頷く。
「強いじゃない」
「だから言ったでしょ」
ペルシアが言う。
「脆いけど、戻るのも早いのよ」
「アンタに似てるわね」
「何回それ言うのよ」
シルヴィアは、その二人の会話を聞きながら、もぐもぐと焼肉弁当を食べていた。
「でも、こういう方が安心します」
「何が?」
ガーネットが聞く。
「エリンさんが怒ってる方が」
シルヴィアは真顔で言う。
「昨日みたいに泣いてる方が、怖いです」
ペルシアとガーネットは、一瞬だけ顔を見合わせた。
「……それは、そうね」
ペルシアが静かに言う。
病室の真ん中では、正座したリュウジが、今度はエリンにこっぴどく叱られ続けている。
看護師に怒られたばかりだというのに、まだ終わらない。
けれど、その光景は不思議と明るかった。
誰も笑っていいのか迷っていた昨日の夜とは違う。
今は、ちゃんと笑える。
ちゃんと呆れられる。
ちゃんと怒れる。
それだけで、十分に“戻ってきた”のだと分かった。
リュウジが助かったこと。
その事実が、病室の空気を確かに変えていた。