三日後。
宇宙海賊の襲撃、機械室の爆発、緊急着陸、病院での慌ただしい一夜――あまりにも濃すぎる数日を経て、今日は火星コロニーへ帰還する日だった。
早朝から宇宙港は妙にざわついている。
もともとのスペースホープの宇宙船は、宇宙海賊に機械室を爆破された影響で、当然ながらすぐに実戦投入できる状態ではない。
そこでペルシアが宇宙管理局へ掛け合い、管理局所有の大型宇宙船を一隻、今回の帰還便として手配したのである。
白銀の船体は無骨で、いかにも“官の船”といった印象だった。
華やかな民間船というより、緊急時に人と物を確実に運ぶための実務の塊みたいな船だ。
だが内部は広く、セキュリティや医療設備も整っている。
今回のような便には、たしかに最適だった。
そして何より、驚くべきことがひとつあった。
行きの時点では、宇宙海賊の件もある。
しかも船内で実際に襲撃と爆発が起きたのだ。
帰りの便は、せいぜい半分も埋まればいい方だろう、と多くの者が思っていた。
だが、蓋を開けてみれば――。
搭乗予定者は、行きと同じ全員。
企業の社長。
役員。
政財界の大物。
その秘書や護衛。
誰一人としてキャンセルしなかった。
恐怖を知ったはずなのに。
むしろそれを知ったからこそ、もう一度この便を選んだのだ。
◇
「エリンさんは遅れてくるんだっけ?」
搭乗前の準備をしながら、ミラが小さく言った。
広い搭乗ゲートの手前、スペースホープの乗務員達はすでに配置につき、制服の乱れやスカーフの向き、端末の確認、誘導ルートの再確認を進めている。
宇宙管理局の大型船を使う以上、導線は普段のスペースホープ機とは少し違う。
だからこそ、いつもよりも早めに集まって、細かいところまで繰り返し確認していた。
ランが、自分のブロックの乗務員達へ目配りしながら頷く。
「ええ、リュウジさんの転院の手続きを済ませてくるらしいよ」
「保護者みたいですね」
ユウコが、準備用の端末を持ちながらニヤニヤした。
その一言に、近くにいたクミコとアズサが一瞬だけ吹き出しそうになる。
ミラも、口元へ手を当てて小さく笑った。
「まあ、否定しにくいわね」
「なんでも、転院しないで退院するって言い張って、病院の先生が困って、エリンさんに連絡したみたいですよ」
そう言ったのはシルヴィアだった。
手には搭乗名簿。
顔は落ち着いているが、目元にまだ少しだけ疲労が残っている。
「なにそれ」
ミラが思わず笑う。
「リュウジさんって、変な所で子どもみたい」
ランも呆れ半分、でもどこか楽しそうに言った。
「そういう所が放っておけないんじゃないですか」
シルヴィアも、少しだけ笑いを含ませて続ける。
「たしかに、退院するって言い張る姿はちょっと目に浮かぶ」
クミコが言う。
「“俺は歩けます”とか言ってそう」
アズサも言った。
「言ってそうじゃなくて、たぶん言ったんだと思います」
シルヴィアが真顔で補足する。
その会話に、ユウコは肩を震わせながら言った。
「もー、それを無理やり連れてくるエリンさんも含めて、なんかもう、保護者じゃん」
「ユウコ」
低く、だが綺麗によく通る声が飛ぶ。
全員の背筋がぴんと伸びた。
そこに立っていたのはガーネットだった。
今日は、エリンが来るまでの間、実質的な現場の取りまとめ役を引き受けている。
ガーネットは制服姿のまま、真っ直ぐにユウコを見た。
「ほら、いつまでも話をしないで準備してください。今日はユウコが一ブロックを任されてるんですから」
「は、はい!」
ユウコが、慌てて姿勢を正す。
その様子を見て、ホーネットが少しだけ口元をゆるめた。
「でもさ、お姉ちゃん、スカーフってこの向きでいい?」
ホーネットが首元をいじりながら聞くと、ガーネットは眉を寄せて近づいた。
「違う。ちょっと動かない」
そう言って、ホーネットのスカーフの結び目を手早く直す。
左右のバランスを整え、襟元のラインを引き、最後に軽く肩を払った。
「ほら、曲がってる。ちゃんとしなさい」
「はーい」
ホーネットが返す。
「返事が軽い」
ガーネットが即座に言う。
「いや、してるじゃん、ちゃんと」
「口だけじゃなくて態度でも締めなさい」
ガーネットのその言葉に、ホーネットはさすがに小さく肩をすくめた。
「……はーい」
ガーネットは、それ以上は追及せず、視線を全員へ向ける。
「宇宙海賊が起こったのに、企業の社長、役員、政財界の大物、全員が搭乗するなんて異例なんだから」
その声に、周囲の空気が少しだけ引き締まる。
「本当だよね、何でだろうね」
ホーネットが素直に首を傾げる。
「それは貴方達の宇宙海賊の件での対応が良かったからよ」
ガーネットがきっぱり言った。
その一言で、何人かの表情がほんの少し変わる。
驚き。
そして、じわっと広がる実感。
「信頼を得たのよ。“危ない目に遭ったのに、もう一度この便に乗る”っていうのは、そういうこと。怖くなかったわけじゃない。でも、怖かった上で、それでもここを選んだの」
ガーネットは、順に乗務員達の顔を見る。
「ちゃんとやり切りなさい……………そろそろ搭乗させるわよ」
「はい!」
今度は、返事が揃っていた。
◇
搭乗が始まった。
ゲートが開く。
セキュリティを抜けた乗客達が、秘書や護衛を伴いながら、次々と乗り込んでくる。
最初の空気は、たしかに少し緊張していた。
だが、それは“ここは危ないのか”という一色ではない。
むしろ、“もう一度あの人達に任せる”という種類の静かな緊張だ。
「よろしく頼む」
最初にそう言ったのは、行きにも乗っていた企業の社長だった。
髪を綺麗に撫でつけた初老の男で、前回の便ではやや尊大な印象もあったが、今日は違った。
「はい」
ガーネットが柔らかく頭を下げる。
「本日もよろしくお願いいたします」
「前回は世話になった。君達が冷静で助かったよ」
「ありがとうございます」
ガーネットは微笑んだ。
「本日も安全にご案内いたします」
別の役員格の男も、歩きながらミラへ声をかける。
「この前の中央ブロックにいた人だね?」
「はい」
ミラが答える。
「あの時、落ち着いていてくれて助かった。今日も頼む」
「ありがとうございます。本日もよろしくお願いいたします」
乗客達の口から出るのは、行きの時にはあまり聞かなかった言葉ばかりだった。
――よろしく頼む。
――助かった。
――君達がいてよかった。
――今日もお願いする。
そして、その中で目立ったのは、やはり同じ問いだった。
「エリンさんはどこにいるんですか?」
ある秘書が言った。
それを皮切りに、別の乗客も、役員も、社長も、似たようなことを聞いてくる。
「前回、こちらを案内してくださったエリンさんは?」
「チーフパーサーの方は今日は?」
「彼女に一言礼を言いたいんだが」
「あと、あのS級パイロットの方も……」
そのたびに、ガーネットが前へ出てうまく捌いた。
「チーフパーサーのエリンは少し遅れておりますが、間もなく合流いたします。本日は私達が先にご案内いたしますので、どうぞご安心ください」
言葉が柔らかい。
でも曖昧に流してはいない。
相手に安心を渡しながら、必要な情報だけをきちんと出す。
シルヴィアが、その横でぽつりとミラへ言う。
「やっぱりガーネットさん、こういうの上手いですね」
「ええ」
ミラが頷く。
「すごく上手」
「怒る時と全然違う」
ホーネットが小さく言う。
「聞こえてる」
ガーネットが笑顔のまま返した。
「ひっ」
ホーネットが肩をすくめる。
その一連の動きに、近くにいたユウコが笑いを堪えきれずに少しだけ顔を伏せた。
そしてユウコは、今日初めて自分が任された一ブロックの乗客を案内していた。
「こちらでございます」
「お手元の端末は、離陸前モードのご準備をお願いいたします」
「お荷物は上の収納、もしくは足元へ」
最初は少しだけ声が硬かった。
だが、数人案内するうちに呼吸が整ってくる。
目の前の相手は企業の重役だ。
その横には秘書がいて、後ろには護衛もいる。
正直、プレッシャーがないと言えば嘘になる。
でも、皆の顔を見ていると分かる。
彼らは“偉い人”としてこちらを見ているのではなく、“任せる相手”としてこちらを見ているのだ。
それが分かった瞬間、ユウコの声が少しだけ落ち着いた。
「何かございましたら、すぐお声がけくださいませ」
「ありがとう」
年配の女性役員が言う。
「前回も、あなた方のおかげで落ち着いていられたわ」
「……ありがとうございます」
ユウコは、思わず少しだけ表情をやわらげた。
その様子を遠くから見ていたランが、小さく頷く。
「ちゃんとやれてる」
「ええ」
ミラも言う。
「思ったよりずっと落ち着いてるわ」
「緊張してる顔してるけど」
シルヴィアが言う。
「それでも声はぶれてない」
ランが答えた。
ガーネットが、近くを通りながら一言だけ残す。
「そのままよ、ユウコ。肩だけ上がってるから落として」
「は、はい!」
ユウコは言われた通り、そっと肩を落とす。
それだけで少し呼吸がしやすくなる。
◇
搭乗は進み、ゲート前のざわめきも少しずつ収束していった。
それでも、ちらほらと聞こえる。
「エリンさんはまだ?」
「あのパイロットの方は?」
「今回は別の船なんだね」
「でも君達がいるなら安心だ」
その一つ一つが、乗務員達の胸の奥へ静かに積み重なっていく。
宇宙海賊に襲われた。
爆発もあった。
それでも“もう一度あなた達に任せる”と、目の前の人達は言っている。
怖かった出来事が、信頼へ変わる瞬間。
それは、乗務員として何より大きなことだった。
「……すごいね」
クミコが、搭乗の流れが少し落ち着いた隙に小さく呟いた。
「何が?」
アズサが聞く。
「皆んな、キャンセルしなかったどころか、“お願いする”って言ってくれるの」
クミコが言う。
「私、正直、もっと疑われると思ってた」
「私も」
アズサが頷く。
「でも……ちゃんと見てくれてたんだね」
ミラが、その言葉を拾って静かに言った。
「ええ、ちゃんと見てたから、また乗ってくれたのよ」
ホーネットが、後方通路を確認しながらぽつりと言う。
「なんかさ、“信頼を得た”って言われると、今さらちょっと怖くなるね」
「分かる」
シルヴィアが頷いた。
「前より気を抜けない感じ」
「でも、そういう怖さは持ってた方がいいわ」
ランが言う。
「変に慣れたら、そこで崩れるもの」
「はいはい、私も今日は真面目にやるから大丈夫」
ホーネットが返す。
「“今日は”って何」
ミラが即座に突っ込んだ。
「毎日真面目ですー」
「声が軽い」
ガーネットが後ろから言う。
「聞こえてた!?」
ホーネットが振り向く。
「当然」
ガーネットが平然と返した。
「ほら、後方ブロック、目配り止めない。今日はいつも以上に細かく見なさい」
「はーい」
「返事」
「……はい」
そう言い直すホーネットに、近くにいたクミコとアズサが揃って小さく笑った。
◇
搭乗がほぼ終わる頃。
ゲートの向こうから、ようやく見慣れた姿が現れた。
エリンだった。
歩幅はいつも通り整っている。
制服も綺麗だ。
ただ、ほんの少しだけ疲れが残っているのは、よく見れば分かる。
そして、その後ろには、医療スタッフに付き添われたストレッチャーではなく、ゆっくりした速度で動く移送用の簡易ベッドがあった。
白いシーツ。
点滴。
簡易モニター。
――リュウジだ。
もちろん、完全に横たわったままというわけではない。
上半身を少し起こしていて、顔色も三日前とは比べものにならない。
だが、それでも“本来、まだ大人しく寝ているべき人”であることに変わりはない。
エリンが、乗務員達を見るなり小さく手を上げた。
「ごめんなさいね」
その声だけで、場の空気がふっと和らぐ。
「エリンさん!」
ユウコが、つい半歩前へ出る。
「遅くなったわ」
エリンが言う。
「リュウジが我儘言うから、無理矢理ね。何とか手続きを済ませたわ」
口調は少し呆れている。
でも、どこか楽しそうでもあった。
それが、皆にはちゃんと分かった。
「何言ったんですか?」
ミラが聞く。
「“転院じゃなくて退院でいい”って」
エリンが言う。
ミラとランが、ほとんど同時に吹き出した。
「やっぱり」
ランが言う。
「言いそう」
ミラも頷く。
「言ったわよ」
エリンが肩をすくめる。
「先生に“ダメです”って三回くらい言われても納得しないから、最後は私が書類の前で立って、“いいからサインしなさい”って」
「保護者だ」
ユウコがまたニヤニヤした。
「ユウコ」
エリンが視線だけ向ける。
「すみません、でもそう見えます」
ユウコが言う。
エリンが小さく笑う。
「でも今日はこの宇宙船の医療ルームで移送することになったから、そこは安心して」
「安心してって、リュウジさん本人は?」
ホーネットが聞く。
ちょうどその時、移送用ベッドの上のリュウジが、こちらへ視線だけ向けた。
「……聞こえてる」
相変わらずの、どこか淡々とした声だった。
だが、その一言だけで何人かが顔をほころばせる。
「起きてる」
クミコが言う。
「そりゃ起きてるわよ」
エリンが言う。
「さっきまで“自分で歩ける”って言ってたんだから」
「無理ではないです」
リュウジが静かに言う。
「ダメ」
エリンが即答する。
「……はい」
そのやり取りが、あまりにも自然すぎた。
ミラとランは、思わずまた視線を交わした。
ユウコはもう口元を押さえている。
ホーネットに至っては、完全に笑いを堪える顔になっていた。
ガーネットだけが、一歩前へ出てエリンへ報告する。
「搭乗はほぼ完了です。遅れも最小限。今は持ち場を維持したまま待機しています」
「ありがとう」
エリンが頷く。
「助かったわ」
「こちらこそ」
ガーネットが言う。
「皆、よく動いてました」
その言葉に、若い乗務員達の背筋が少し伸びる。
エリンは、移送用ベッドを医療スタッフへ引き継ぎつつ、乗務員達へ向き直った。
「私はとりあえず、呼ばれていた人達に挨拶してくるわ。ユウコ、そのままブロックお願い」
「はい!」
「ミラ、ラン、後方と中央の流れ、もう一度だけ見直して」
「分かりました」
「了解」
「シルヴィア、ホーネット、後方の護衛の動き、少し硬いから空気やわらげて」
「はい」
「任せて」
「ガーネット」
エリンが少しだけ笑う。
「繋いでくれてありがとう」
ガーネットも、小さく口元をやわらげた。
「ちゃんと戻ってくると思ってましたから」
◇
そこからのエリンは、まるで少しも遅れていなかったみたいに自然に船内へ溶け込んだ。
前方ブロック。
中央ラウンジ寄り。
特別席。
役員席。
それぞれの場所にいる乗客達のもとへ、順番に顔を出していく。
「お待たせして申し訳ありません。本日もよろしくお願いいたします」
頭を下げる。
相手はすぐに手を振る。
「いやいや、君が来てくれて良かった」
「大変だったようだね」
「体調は?」
「私は大丈夫です」
エリンが穏やかに答える。
「この前は本当に冷静だった。秘書も、あの時君達がいてくれて助かったと言っていたよ」
「ありがとうございます。本日も安全にご案内いたします」
別の政界の大物が、わざとらしく小声で言った。
「それで、あのS級パイロットの青年は?」
エリンは、一瞬だけ目元をやわらげる。
「医療ルームにて移送中です。今回は乗務ではありませんので、ご安心ください」
「安心というか、ぜひ一言礼を言いたいんだがね」
「機会があればお伝えしておきます」
「頼むよ」
また別の女性役員は、エリンの顔を見るなり本気で安心したように息をついた。
「やっぱり、あなたがいると違うわね」
「ありがとうございます」
エリンが言う。
「そう言っていただけると嬉しいです」
「前回、最後まで声を聞いてるだけで落ち着けたの。今日もお願いね」
「もちろんです」
エリンは微笑んだ。
「本日も、安心してお過ごしいただけるよう努めます」
そのやり取りを、少し離れた位置から見ていたユウコが、小さく呟く。
「やっぱすごいなぁ……」
ミラが近づきながら聞く。
「何が?」
「空気ですよ」
ユウコが言う。
「エリンさんが一人挨拶して回ってるだけで、乗客の顔が変わるんですもん」
ランも、その光景を見ながら静かに言った。
「それがチーフパーサーなんでしょうね」
「私、今日一ブロック任されてるだけで心臓ばくばくしてるのに」
ユウコが言う。
「エリンさん、遅れて戻ってきてすぐこれだもんなぁ……」
「だから練習するのよ」
ミラが言った。
「こういう人達の前でも声がぶれないように」
「はい……」
ユウコが素直に頷く。
その横で、ホーネットがぽつりと言う。
「でもさ」
「なに?」
シルヴィアが聞く。
「エリンが戻ってきた瞬間、皆の顔ちょっと緩んだよね」
「そりゃそうだよ」
シルヴィアが言う。
「乗務員も、乗客も」
「なんか悔しいな」
ホーネットが言う。
「何で?」
「いや、だって」
ホーネットが少しだけ唇を尖らせる。
「分かってたけど、ほんとに“いるだけで違う”んだなって」
シルヴィアは、その言葉に少しだけやわらかく笑った。
「だから皆、あの人の下で学びたいんじゃない」
ホーネットはそれには返事をしなかった。
ただ、少しだけ真面目な顔でエリンの背中を見ていた。
◇
搭乗は、最終確認の段階へ入っていく。
医療ルームでは、リュウジの移送設備が固定され、担当の医療スタッフが状態を確認していた。
エリンも一度だけそこへ顔を出し、短く声をかける。
「無理しないでね」
「無理はしていません」
リュウジが言う。
「十分してるわよ」
エリンが返す。
「……」
「返事は?」
「……はい」
そのやり取りを見ていた医療スタッフが、思わず目を逸らしながら笑いを堪えていた。
エリンは、それ以上は何も言わず、でも最後にシーツの端を少しだけ整えてから医療ルームを出る。
その背中を、リュウジはしばらく目で追っていた。
◇
そして、離陸前。
全員がそれぞれの持ち場へ戻り、船内の空気が少しずつ“出発前のもの”へ変わっていく。
乗客は全員搭乗済み。
護衛も着席。
役員達もシートへ収まり、秘書達も端末を閉じ始めている。
エリンは、最後に全体を見渡した。
行きとは別の船。
同じ乗客。
少し違う顔ぶれの乗務員の立ち位置。
でも、流れている空気は明らかに前回とは違う。
恐怖を知った上で、それでも進むための空気。
エリンは、静かに息を吸った。
「各乗務員、最終確認」
その声が船内へ落ちる。
「前方、完了」
ミラ。
「中央、完了」
ラン。
「後方、完了」
シルヴィア。
「一ブロック、完了です!」
ユウコ。
「補助導線、異常なし」
ホーネット。
順に声が返る。
どの声にも、以前より少しだけ芯がある。
エリンは、その返事を聞きながら、ゆっくりと頷いた。
「それじゃあ、帰りましょうか」
誰に向けたともつかないその言葉が、でも妙にあたたかく船内へ広がった。
火星コロニーへ向かう帰還便は、そうして静かに動き始めようとしていた。
ーーーー
帰りの便は、行きとはまるで違って穏やかに進んでいった。
もちろん、それはただ単に“何も起きなかった”という意味だけではない。
宇宙海賊の襲撃も、機械室の爆発も、緊急着陸も、全部を知った上でこの便に乗っている乗客達。
その乗客達を、前回の混乱を潜り抜けてきた乗務員達が迎え、案内し、見守り、そして送り届けていく。
その空気自体が、もう前回とは違っていた。
警戒はある。
緊張もある。
でも、それは疑いや恐怖だけで張りつめたものではなく、“前回を越えてここにいる者同士”の、静かな信頼の上に乗ったものだった。
宇宙管理局から借り受けた大型宇宙船は安定していた。
官用船らしい堅実な造りの船体は、多少の揺れがあってもぶれ方が小さい。
ラウンジの照明も落ち着いていて、医療ルームも静かだ。
行きの便で一度神経を削られた乗客達にとって、それはかなり大きな安心材料になっていた。
さらに、今日はエリンがいる。
ミラがいる。
ランがいる。
シルヴィアがいて、ホーネットがいて、ユウコやクミコやアズサ、マユ、サリー、ハヅキ、ミドリ、ナツキが、それぞれの持ち場でちゃんと立っている。
前回を知っている乗客達が、彼女達の顔を見るだけで肩の力を少し抜いていくのが分かった。
◇
「本日はご搭乗いただき、誠にありがとうございます」
エリンの声は、今日もよく通っていた。
前方ブロックの通路で軽く頭を下げながら、目配りを欠かさない。
乗客の表情。
護衛達の立ち位置。
秘書達の動き。
手元の端末を見ている役員が、少しでも眉を寄せたらすぐに拾えるような距離感。
でも、その全部をやりながら、声だけはやわらかい。
「どうぞごゆっくりお過ごしください。何かございましたら、いつでもお声がけくださいませ」
役員の一人が、シートへ腰を落ち着けたまま言う。
「今日は安心したよ」
エリンは、穏やかに微笑んだ。
「ありがとうございます。そう言っていただけるのは、とても嬉しいです」
別の企業の社長も、コーヒーを受け取りながらミラへ言った。
「この前も君だったね」
「はい」
ミラが答える。
「今回は穏やかでいい」
「ええ」
ミラも、小さく笑う。
「本日は最後まで落ち着いてお過ごしいただけるよう努めます」
ランのいる中央ブロックでも、空気は終始穏やかだった。
行きの便では警戒心の強かった護衛達も、今日は必要以上に客席を圧迫しない。
それは、前回“乗務員の指示に従った方が船内が整う”と身をもって知ったからだろう。
「お飲み物はいかがいたしましょうか」
ランが聞けば、年配の政治家が小さく頷く。
「温かいものをもらえるかな」
「かしこまりました」
「……君達、前回から三日くらいしか経っていないのに、驚くほど普通に見えるね」
その言葉に、ランは一瞬だけ目を細めた。
驚くほど普通。
それはきっと、最大級の褒め言葉だ。
「ありがとうございます。“普通に見える”ようにするのが、私達の仕事ですから」
相手が、少しだけ感心したように笑う。
「なるほど」
後方ブロックでは、シルヴィアとホーネットが並んでいた。
ホーネットは相変わらず元気だが、今日は浮ついていない。
視野の広さはそのままに、余計な軽口は必要な時以外ほとんど挟まず、乗客の動線を実にきれいに拾っている。
「こちら、少し段差がございますので」
その一言で、立ち上がった秘書の足元を先に見る。
視線が広い。
やはり本物だ。
シルヴィアは、その横でさりげなく支えに入る。
「お手元、よろしければお持ちいたしましょうか」
「ありがとう」
「いえ」
たったそれだけ。
でも、客室全体を見た時に、“あの二人がいるから後方は大丈夫だ”と思える動きだった。
ユウコも、自分に任された一ブロックをかなり落ち着いて捌いていた。
前回は人質役として宇宙海賊の目の前に立ち、今回は一つのブロックの空気を預かっている。
数日の間に経験したことがあまりにも濃すぎて、本人の中ではまだ整理しきれていないのだろう。
それでも、不思議と声はぶれなかった。
「こちらでございます。どうぞ、ごゆっくりお座りくださいませ」
そんなユウコを見て、ナツキが通路の端で小さく呟く。
「ちゃんとしてるじゃない」
ユウコは、聞こえていたのかいないのか、ほんの少しだけ肩を上げた。
「そりゃそうでしょ、今日は私が一ブロックなんだから」
「そういうところよ」
ナツキが小さく笑う。
◇
そして何より、今回の帰還便には“リュウジがいる”という安心が、乗客達の中にも薄く広がっていた。
ただし、彼は客室に出てきてはいない。
医療ルームで移送中。
それが今回の条件だった。
だが、“あの時助けてくれたS級パイロットが同じ船にいる”という事実だけで、前回の便を知る者達の表情は少し違った。
何人かは、エリンへそれとなく聞いてきた。
「彼は大丈夫なのかね」
「安静に移送しております」
エリンが答える。
「本日は医療ルームから外には出ておりませんが、状態は安定しております」
「そうか、それなら良かった」
そう言って、それ以上は踏み込まない。
それも、また前回を越えた者達の距離感だった。
◇
そして、火星コロニーへの帰還便は、本当に穏やかに進んでいった。
大きな揺れもなく。
怒号もなく。
レーザー銃もなく。
爆発もなく。
ただ、乗客達が少しずつくつろぎ、乗務員達がその空気を整え、必要なものを必要なだけ渡し、時間が過ぎていく。
それは、本来ならただの“普通のフライト”だ。
でも、前回のことを知っている者達にとって、その“普通”がどれほどありがたいものか、誰もが知っていた。
エリンは時々、通路の途中で小さく息を吐いた。
それは疲労でもある。
安堵でもある。
こんなに静かな便が、これほど胸に沁みるなんて思わなかった。
◇
やがて着陸の時が来る。
前回のような緊急着陸ではない。
けれど、着陸の案内が入った瞬間、何人かの乗客がほんの少しだけ肩を強張らせたのが見えた。
その一瞬の緊張を、乗務員達は見逃さない。
「どうぞご安心くださいませ」
「間もなく通常着陸でございます」
「お座席、シートベルトのご確認をお願いいたします」
行きと違って、声の端々に余裕があった。
それがそのまま、客室の安心へ変わっていく。
そして、火星コロニーへ到着した。
船体が静かに接続され、減圧も問題なく済み、ゲートが開く。
降機の案内が始まる。
◇
エリンは、笑顔で乗客を降ろしていった。
それは、前回とまるで違う意味の笑顔だった。
“無理やり安心させるため”ではない。
“崩れないために貼りつける笑み”でもない。
ちゃんと送り届けられた。
皆、無事だ。
そう思えるからこその笑顔。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、本日もご搭乗、誠にありがとうございました」
役員の一人が通り過ぎる時に言う。
「次も、君達に頼みたい」
「ありがとうございます」
エリンが微笑む。
「その時も、ぜひお待ちしております」
別の女性も、降り際に小さく手を握った。
「本当にありがとう、前回も、今回も」
「いえ」
エリンがそっと手を添え返す。
「無事にお送りできて何よりです」
ミラも、ランも、シルヴィアも、ホーネットも、他の乗務員達も、それぞれに乗客を送り出していく。
「お足元お気をつけて」
「本日はありがとうございました」
「またお待ちしております」
その声の重なりが、やわらかく船内へ響いていた。
◇
全員を降ろし終えたあと、船内はようやく乗務員達だけの空間になった。
ラウンジも空。
シートも静か。
役員達の秘書も護衛も、もういない。
残るのは、フライトを終えた疲労と、仕事を無事終えたあとの小さな達成感だけだ。
「じゃあ、清掃に入りましょうか」
エリンが言う。
「はい」
「了解です」
返事がそれぞれから返る。
客室の清掃は、こういう時こそ丁寧にやる。
ゴミの回収。
忘れ物確認。
収納の締め直し。
ラウンジ周辺の整頓。
ブランケットの回収。
テーブルの拭き上げ。
マユとサリーが前方寄り。
ミラとランが中央。
シルヴィアとホーネットが後方。
クミコ達が補助に入る。
穏やかなフライトの後の清掃は、どこか心地いい。
まだ少しだけ緊張が残っている身体を、仕事の手順がやわらかくほどいていく感じがある。
エリンは、前方寄りの座席列の間を見ながら、落とし物がないか確認していた。
その時。
「エリンさん、大変です!?」
慌てた様子のサリーが、かなり急ぎ足で近づいてきた。
その声に、客室のあちこちで動いていた乗務員達の視線が一斉に集まる。
何かあった。
その空気が、さっと広がる。
「どうしたの?」
エリンが、しかし落ち着いた声で聞く。
サリーは、息を少し弾ませながら言った。
「リュウジさんがいなくなりました!?」
その場にいた全員が、一拍遅れて驚いた。
「えっ!?」
クミコが声を上げる。
「は!?」
ユウコも顔を上げる。
「もう!?」
ホーネットが言う。
「早い」
シルヴィアが思わず呟いた。
マユも、ミラも、ランも、一瞬だけ動きを止める。
だが、その中で。
エリンだけが、ほんの少しだけ口元をやわらげた。
「やっぱりね」
その一言に、皆が逆に固まる。
「やっぱりって……」
マユが驚いた顔で聞く。
「何でもお見通しなんですね」
ナツキが半ば呆れたように言う。
「そりゃそうよ」
ユウコが小さく笑う。
エリンは、そんな反応を流すように小さく肩をすくめた。
「ほら、無駄口は叩かなくていいから。清掃しちゃいましょ」
「え、でも」
サリーがまだ戸惑っている。
「探さなくていいんですか?」
「大丈夫」
エリンが言う。
「たぶん今頃、もう確保されてるから」
「確保って」
ホーネットが吹き出しそうな顔になる。
ちょうどその時だった。
エリンの携帯端末が、小さく震えた。
画面を見下ろす。
短いメッセージが一つ。
確保
送り主を見て、エリンはくすっと笑った。
「ね?」
その“ね?”には、少しの呆れと、かなりの納得と、そして少しだけ安堵が混ざっていた。
◇
その少し前。
リュウジは、案の定、医療ルームから抜け出していた。
いや、本人の中では“抜け出す”ではなく、“もう十分だから動く”くらいの感覚だったのかもしれない。
だが周囲から見れば、どう考えても抜け出しである。
火星コロニーの宇宙港内は、それなりに広い。
帰還便のゲート周辺は関係者で賑わっていたが、少し離れれば他便の案内や移動客もいて、流れに紛れること自体は難しくない。
リュウジは、移送用の簡易車椅子を“借りるだけだ”と半ば強引に押し、途中からは普通に自分で立って歩こうとして、医療スタッフに止められ、最終的には「少しだけですよ」と言い残して出てきたのである。
当然、少しだけで済む気は最初からなかった。
彼が向かっていたのは、冥王星便の搭乗ゲートの方角だった。
ベッドの上でじっとしているのが性に合わない。
背中の傷は痛む。
それでも歩ける。
なら動く。
そんな、いかにもリュウジらしい理屈で足を進めていた。
だが。
「どこに行くつもりだ」
低い声が、前から飛んだ。
リュウジは、ぴたりと足を止めた。
少し遅れて、別の声も聞こえてくる。
「予想通りすぎるんだけど」
その声音には呆れがたっぷり混じっていた。
リュウジは、ゆっくりと顔を上げる。
「……メノリ」
通路の先に立っていたのはメノリだった。
腕を組み、眉間にうっすら皺を寄せている。
その横にはシャアラもいる。
腰へ手を当て、まるで“またか”と言わんばかりの顔だ。
「シャアラもか」
リュウジは、思わずため息を零した。
「どうしてここに」
メノリが、ほんの少しだけ片眉を上げる。
「エリンさんから連絡がきた」
その一言に、リュウジの表情がわずかに固まる。
シャアラが、そこで悪びれもせずに言った。
「リュウジが抜け出すだろうから、捕まえておいてってね」
その言い方があまりにも自然で、リュウジはまた一つ深いため息を吐く。
「……そこまで読まれてたか」
「読まれるに決まってるでしょ」
シャアラが言う。
「病院から無理やり転院させられたばっかりで、すぐ大人しくしてるような人じゃないもの」
「否定しないんだな」
メノリが言う。
「否定しても無駄だろ」
「無駄だな」
メノリはきっぱり言った。
そして、一歩前へ出る。
「観念しろ、さっさと病院に行くぞ」
リュウジは、少しだけ眉をひそめる。
「もう十分だろ」
「十分じゃない」
メノリが即答した。
「十分ではないわね」
シャアラも言う。
「背中に破片刺さって、大量出血した人が何言ってるの」
「もう抜けた」
リュウジが言う。
「抜けたあとも治るまでが怪我なの」
シャアラが返す。
「何、子どもみたいなこと言ってるの」
「お前に言われたくない」
「何ですって?」
メノリが、二人の間へ低い声を落とす。
「そこ、今やるな」
ぴたりと空気が締まる。
リュウジはそれ以上言い返さなかった。
シャアラも肩をすくめて口を閉じる。
「で」
メノリが言う。
「自分で戻るか、引きずられて戻るか、どっちだ」
リュウジは、さすがに少しだけ本気で考えた。
今の身体で、メノリ相手に強引に抜けるのは無理だ。
しかもシャアラまでいる。
この二人がわざわざここに立っている時点で、逃がす気が一切ない。
そして、何より。
「逃げたらルナに言いつけるからね」
シャアラが、にっこり笑ってそう言った。
その瞬間、リュウジの肩がわずかに落ちた。
「……卑怯だな」
「有効でしょ?」
シャアラが得意げに言う。
メノリは、鼻で小さく息を吐いた。
「今回は諦めるか」
リュウジは、半ば観念したようにそう言って肩を落とした。
「最初からそうしろ」
メノリが言う。
「本当よ」
シャアラも続ける。
「こっちだって、呼び出されて来てるんだから」
「エリンさん、ちゃんと先回りしてたんだね」
リュウジが小さく呟く。
「そりゃそうだ」
メノリが言う。
「お前の行動くらい、今のあの人なら読む」
その言葉に、リュウジはほんの少しだけ目を細めた。
否定はしない。
むしろ、妙に納得している顔だった。
そして、シャアラが端末を取り出し、短くメッセージを打つ。
「送っとくね」
「何を」
「確保って」
シャアラが言う。
「安心するでしょ」
リュウジは、それには何も言わなかった。
少しだけ視線を逸らしただけだ。
メノリは、それを見て静かに言う。
「ほら、戻るぞ」
「……はいはい」
「返事が軽い」
メノリが言う。
「誰かに似たんだろ」
「誰だ」
「さあな」
シャアラが笑いながら言う。
「似たのはたぶん、頑固な方でしょ」
そうして三人は、宇宙港の奥へと引き返していった。
◇
一方その頃、客室ではエリンが端末のメッセージを見て、くすっと笑っていた。
確保
たったそれだけ。
でも、それだけで十分だった。
サリーが、まだ少し不安そうに聞く。
「本当に大丈夫なんですか?」
「ええ」
エリンが端末をしまいながら言う。
「たぶん、今頃ふてくされて戻ってるわ」
「想像つく」
ホーネットが笑う。
「すごいなぁ……」
クミコが言う。
「ほんとに何でも読まれてる」
「だって、エリンさんですから」
ミラが穏やかに言う。
ランも、小さく笑った。
「それに、相手がリュウジさんだし」
「そうね」
エリンが頷く。
「放っておいたら、絶対そのうち冥王星便に乗る顔してたもの」
「顔で分かるんですか?」
ユウコが聞く。
「分かるわよ」
エリンが即答する。
「どういう顔なんですか」
ナツキが聞く。
「無駄に静かで、妙に素直な顔してる時ほど怪しいの」
「分かるかも……」
シルヴィアが言う。
「私も分かる」
ミラが頷く。
「皆んな分かるんですね」
アズサが言う。
「ええ」
ランが小さく息を吐く。
「でも、それを先回りするのは、やっぱりエリンさんくらいだと思う」
エリンは、それには何も言わず、ただ小さく笑うだけだった。
その笑みは、呆れ半分、安心半分、そして少しだけ楽しそうでもあった。
穏やかな帰還便。
無事に送り届けた乗客達。
そして案の定、医療ルームを抜け出すリュウジ。
最後の最後まで、やはり“普通”では終わらない。
でも、それでこそ彼ららしいのかもしれない。
「ほら」
エリンが言う。
「清掃、終わらせちゃいましょ」
「はい!」
返事があちこちから返る。
客室には、もう乗客はいない。
残っているのは、乗務員達の笑いをこらえた空気と、仕事を終えた後の少し軽い疲れだけ。
その中で、エリンはもう一度だけ端末へ視線を落とした。
確保
たった二文字のその報告が、妙に可笑しくて。
エリンは、誰にも聞こえないくらい小さく、もう一度だけ笑った。