「待って、待って待って待って!」
ククルは、差し入れの袋を抱えたまま、慌てて三人の前へ身体を滑り込ませた。
ユアンは立ったまま、まだ肩で息をしている。
ナミの目は完全に冷え切っていて、けれどその奥には今にも零れそうな熱がある。
キャットは一歩引いた位置で立っているが、その表情もいつもの気だるさだけではない。
カオルは無言のまま、全体を見ている。
カイエは言葉を探しているが、見つからない。
シンゴは立ち尽くしていた。
ここで誰か一人でも、次の一言を間違えれば、終わる。
ククルはそれを本能的に感じていた。
「ちょっと待ってって!今、それ本気で決める流れじゃないでしょ!?いったん、いったん落ち着こ――」
その時だった。
「ククル! 慌てない!」
ぴしゃりと通る声が飛んできた。
ククルの背筋が、条件反射みたいに伸びる。
びくっと肩を震わせて振り返ると、開いたままのドアの向こうに二人の姿があった。
ペルシア。
そしてエリン。
ペルシアは、相変わらず飄々とした顔でドア枠へ肩を預けるみたいに立っている。
エリンはその横で、状況をひと目見ただけで空気の温度を測り終えたような顔をしていた。
ククルが、思わず小さく声を上げる。
「ペルシアさん!? エリンさん!?」
「やぁやぁ、ちゃんとやってる?」
ペルシアが軽口混じりにそう言う。
その声だけを聞けば、本当にただ見物に来たみたいだ。
けれど、タイミングが良すぎる。
ナミが、まだ険しい顔のままで口を開いた。
「何しに来たんですか」
語尾が冷たい。
いつものナミなら、せめて言い方を整える。
だが、今はもうその余裕もないのだろう。
ペルシアは、それを気にした様子もなく肩をすくめた。
「そろそろナミが限界かと思って、様子を見に来てあげたのに?」
「抜け出したの間違いでは?」
ナミが即座に返す。
「細かいこと言わないの」
ペルシアが笑う。
「抜け出したも見に来たも、大筋一緒でしょ?」
「全然違います」
「まぁまぁ」
ペルシアが手をひらひらさせた。
「そんなことより、あなた達の参考になると思って、差し入れを持ってきたのよ」
そう言って、抱えていた細長いケース――いや、正確には映像メディアの入ったケースをククルへ渡した。
ククルがそれを受け取り、目をぱちぱちさせる。
「これって……」
エリンが、静かに前へ出て言った。
「ラスペランッァのシミュレーション映像よ。勉強になると思うわよ」
その一言で、部屋の空気がまた変わった。
ユアンが眉を寄せる。
ナミの呼吸がわずかに止まる。
カオルも、初めてはっきりと視線を上げた。
シンゴは思わず一歩前へ出かける。
キャットは面白そうに目を細めた。
「ラスペランッァ……」
カイエが小さく繰り返す。
「ええ」
エリンが頷く。
「探索用シミュレーションの訓練映像。本来は内部資料だけど、今回は見せた方が早いと思って」
ペルシアが横から口を挟む。
「チャコが不在だった日の代替版ね。その時は、しょうがないから私がシステムエンジニアに入ったの」
「しょうがないって何よ」
エリンが少しだけ呆れたように言う。
「だって本当でしょ?」
ペルシアが笑う。
「チャコほど機械そのものには強くないし」
ククルが映像ケースをぎゅっと持ち直した。
そこでカオルが、そこで低く言った。
「再生してくれ」
短い一言だった。
けれど、その中に“見る”という意思がはっきりあった。
ククルはすぐに頷き、会議室のモニターへ映像媒体を接続する。
画面が一度暗く落ち、次の瞬間、記録映像が立ち上がった。
◇
訓練室の照明が一段落とされ、各コンソールの表示灯だけが薄暗い室内に色を落としていた。
宇宙管理局の探索用シミュレーションルーム。
正面に主操縦席。
その右隣に副操縦席。
後方左右に通信システムとシステムエンジニアの端末。
側面にメカニック用の補助盤。
そして全体を俯瞰できる位置に、コックピットコンディションが立つ。
席に着いている六人は、もう雑談をしていなかった。
操縦士――リュウジ。
副操縦士兼医療従事――クリスタル。
メカニック――サツキ。
通信システム――マリ。
システムエンジニア――ペルシア。
コックピットコンディション――エリン。
誰も肩肘は張っていない。
だが、緩んでもいない。
開始前の静けさの中で、最初に声を出したのはエリンだった。
「全員、呼吸を一度整えて。今回は探索宙域内での長時間運用を想定した複合トラブル。最初の異常だけで終わると思わないで、一つ起きたら、二つ目、三つ目が被るつもりで動いてね」
「了解」
クリスタルが短く返す。
「はーい」
ペルシアが軽い調子で答える。
「了解しました」
マリ。
「はい」
サツキが姿勢を正す。
リュウジは無言のまま、操縦桿へ添えた手の位置をわずかに直しただけだった。
開始ブザー。
低い警告音が一度鳴り、メインスクリーンに探索宙域の簡易星図が立ち上がる。
航路は安定。
外部センサーも正常。
船体応答も問題なし。
最初の五秒は、静かだった。
六秒目に、左補助制御系の監視表示が黄色く点滅した。
続けて、鈍い警告音。
「左補助制御系、応答遅延」
マリが最初に読み上げる。
「外部通信系統は正常。内部ネットワーク異常なし」
「機体維持」
リュウジが言う。
「クリスタル、左側の挙動だけ追え」
「見てる」
クリスタルはすでに左側計器へ視線を固定していた。
「左側スラスタ応答、わずかに遅れ。現時点で姿勢制御への大きな影響はなし。ただし補助制御がさらに鈍ると、二次的に主制御へ負担が来る」
「サツキ」
リュウジが呼ぶ。
「うん」
サツキの指が補助盤を走る。
「機械側から見る。補助制御の駆動ログ、直近十五秒……え、待って、左系だけ、機械応答より制御命令の方が先に揺れてる」
「制御側ね」
ペルシアが言った。
「サツキ、そのログこっちへ飛ばして。マリ、左系統の回線遅延、ミリ秒単位で洗って」
「すぐ出します」
マリが端末を叩く。
「左補助制御の通信のみ、〇・二秒の瞬間遅延。ただし継続性はありません」
「〇・二秒なら、揺れ始めの原因っていうより結果ね」
ペルシアが椅子へ浅く腰かけたまま言う。
「左補助制御の命令返しが気持ち悪い。二重返りしてる」
「二重返り?」
サツキが顔を上げる。
「ええ」
ペルシアが画面を拡大する。
「ほら、命令の戻りログが一回で済まず、同じ値を浅く噛み直してる。制御盤の判断が遅いっていうより、“自分で迷ってる”出方ね」
「嫌な言い方するわね」
クリスタルが淡々と言う。
「嫌な出方してるんだからしょうがないでしょ」
ペルシアが言い返した。
その時、船体を模した床が、ごくわずかに震えた。
訓練室の振動ユニットが作る、小さな衝撃。
主スクリーン右下に新しい警告。
「外部微粒子接触、右舷後方」
マリが読み上げる。
「船体損傷判定は軽微」
「右舷後方の損傷図、出せ」
リュウジ。
「表示する」
マリが即座に返し、メインのサブウィンドウへ簡易損傷図を展開する。
「クリスタル、左はそのまま」
リュウジが言う。
「右の微粒子接触はまだ無視する」
「了解」
クリスタル。
「左補助遅延の方が先」
エリンは、その間ずっと後ろから全員の呼吸と声色を見ていた。
「サツキ、肩」
エリンが静かに言う。
「上がってる。首が固まるわよ」
「はっ……はい」
サツキが一瞬だけ肩を落とす。
「マリ、呼吸浅い。読み上げだけじゃなくて、自分の間も作って」
「はい」
マリが短く息を吸い直した。
そこへ、さらに新しいアラーム。
今度は短く鋭い、嫌な音だった。
システムエンジニア席の前面補助パネルから火花が散る。
白い閃光が、一瞬だけペルシアの顔を照らした。
「っ!」
ペルシアが反射的に右腕を引く。
椅子が鳴り、端末の一つが明滅する。
しかし、彼女は席を立たなかった。
「ペルシア」
エリンが一歩で横へ入る。
「平気」
ペルシアが短く言う。
「浅く焼けただけ。右前腕と手首外側。動くけど、細かい入力は今落ちる」
「見せて」
エリンはもう腰の医療ポーチを開いている。
「クリスタル、今こっちの端末拾える?」
「ええ」
クリスタルが即答した。
「リュウジ、十秒だけ左も右も見て。私はシステム側へ手を伸ばす」
「取る」
リュウジは迷わない。
「その間、浅い修正も俺が持つ」
クリスタルは副操縦席を完全には離れない。
身体を半分だけ右へずらし、補助端末へ左手を伸ばした。
右手は副操縦席の入力系統へ残したまま、視線を二つに割る。
「ペルシア、口で返して」
クリスタルが言う。
「入力は私が拾う」
「助かる」
ペルシアが短く返す。
「今、左補助制御の再帰判断が一回暴れた。火花はその戻りの巻き込み。端末一つ死んだけど、主ログはまだ生きてる」
「了解」
クリスタルが画面を追う。
エリンは、ペルシアの袖を迷いなくめくり、冷却パックを当てる。
赤みの走る前腕、手首。
深くはない。
しかし、このまま放置すれば動きは鈍る。
「痛みは?」
「ある」
ペルシアが顔をしかめた。
「でも喋る分には問題ない」
「喋るだけにして」
エリンが言う。
「今はそれで十分」
「はいはい」
ペルシアが息を吐く。
次の瞬間、居住区画の環境異常警告が立ち上がる。
「区画B、空気循環低下」
マリが読み上げる。
「二区画先で酸素濃度わずかに低下傾向」
「一気に来るわね」
ペルシアが言う。
「マリ、区画Bの環境ログ」
クリスタルが声を出す。
「私は今システム側を持つ。医療側の一次判断はエリン、お願い」
「分かった」
エリンが即答する。
「サツキ」
リュウジが言う。
「空気循環低下、物理か制御か」
「今見る!」
サツキが補助盤と環境制御図を同時に開く。
「……物理ならもっと広がるはず。今の出方、制御寄り。左補助の不具合と根っこが繋がってる可能性あり」
「あるわね」
ペルシアが同意する。
「左補助制御で暴れた再帰判断が、環境制御にも浅く食い込んでる。系統分離の優先度、今上げて」
「クリスタル」
リュウジ。
「やる」
クリスタル。
「左補助を切りすぎると姿勢が鈍る。だから全切り離しじゃなく、干渉部だけ浅く切る」
「時間」
リュウジが問う。
「二十秒」
クリスタルが返す。
「取る」
その間に、エリンは動いている。
「B区画、早めに循環戻したい」
「戻す」
ペルシアが言った。
「でも私の端末一枚落ちてるから、系統分離の補助はクリスタル経由。サツキ、左補助系の再帰判断を抑える仮手順、三つ出す。一番雑でいい、早く」
「了解です」
サツキが返す。
「一、左補助を浅く固定して波を止める」
「二、環境制御だけ先に手動へ逃がす」
「三、補助制御を二秒だけ切って主制御へ負荷集中」
「三は却下」
リュウジが即座に言う。
「今その負荷は持たせない」
「同意」
クリスタルが言う。
「一と二の併用ならいける。ペルシア、どう?」
「それで」
ペルシアが頷く。
「一で左補助を浅く固定、二で環境制御だけ分離。マリ、環境制御を切り出した後の区画B、監視優先度上げて」
「上げます」
マリ。
「B区画の回線、優先表示へ変更」
エリンは、その間に冷却処置を終え、ペルシアの腕へ素早く仮固定の包帯を巻いていく。
「動かしすぎないで、でも席は離れなくていい。今のあなたは喋る方が仕事になる」
「了解」
ペルシアが少し笑った。
「それ、楽で助かるわ」
エリンはそこで一度、全員を見た。
サツキの呼吸はまだ少し速い。
マリは逆に息を詰めすぎている。
クリスタルは二つの役割を持ちながらも冷静だが、視線の切り替えが増えている。
リュウジはまだ安定。
ペルシアは痛みで少しだけ顔色が落ちている。
「サツキ、次の報告は結論から。マリ、言葉を削りすぎない。今は受け手が多いわ。クリスタル、二つ持ちしすぎるなら私に一個落として」
「了解」
クリスタルが返す。
「切り替え入ります」
サツキが言う。
「左補助固定、環境制御分離、三、二、一」
小さな警告音。
床の揺れが一段だけ抜ける。
「左補助、応答戻りつつあります」
クリスタル。
「まだ完全じゃないけど、主制御への食い込み消失」
「区画B、酸素濃度回復傾向」
マリが即座に返す。
「少し安定」
「よし」
リュウジが短く言う。
「このまま抜ける」
だが、ここで終わらないのが探索用シミュレーションだった。
新しいアラーム。
今度は右舷後方の観測機器一台が応答停止。
「観測ドローン二番、停止」
マリ。
「今度はそっちか」
ペルシアが吐き捨てるように言う。
「左補助のノイズが、右舷観測系の待機電力に飛び火したわね」
「サツキ、観測系まで追える?」
エリンが聞く。
「追えます」
サツキが即答するが、すぐに付け足した。
「……でも、今左の戻りも見てます」
「私が左を受ける」
クリスタルが言う。
「観測二番はサツキ、機械寄りの判断を」
「了解です」
役割が、また滑るように変わる。
クリスタルは本来、副操縦士兼医療従事。
だが今はシステムエンジニアの補助も担っている。
そこへさらに、メカニックが見ていた左補助の戻り監視まで一部引き受ける。
普通なら過負荷だ。
だが、それを“全部自分で背負う”形にはしていない。
「マリ」
エリンが言う。
「観測二番の最終応答地点、サツキへ送って」
「送ります」
マリ。
「あと、右舷後方の電力揺らぎ、ペルシアさんにも共有しますか」
「共有して」
エリンが答える。
「ペルシア、喋るだけで拾える?」
「拾えるわよ」
ペルシアが包帯を巻かれた右腕をかばいながら言う。
「観測二番、待機電力の再配分だけで戻る可能性ある。サツキ、物理損傷じゃなくて“死んだふり”の線も見て」
「了解です」
サツキが声を張る。
「観測二番、反応完全停止じゃないです! 波形、まだ浅く残ってます!」
「なら戻せる」
リュウジが言う。
「でも今、主制御に負担戻しすぎるのは危険」
クリスタルが返す。
「観測二番は後回しでも航路は死なない」
「そうね」
エリンが言う。
「今の優先は、機体と人。観測二番は“すぐ必要かどうか”で見て」
「すぐ必要じゃないです」
マリが即座に返す。
「観測窓は一枚落ちても、航路情報は維持できます」
「じゃあ後回し」
リュウジが決める。
「左補助と居住区画Bを先に完全安定」
迷いがない。
だが、その迷いのなさが独断に見えないのは、その前に全員分の情報が流れ込んでいるからだ。
エリンは、その空気のまま最後の一押しを入れる。
「全員、今の優先共有。一、機体姿勢維持。二、左補助の完全安定。三、区画Bの環境回復と経過観察。四、観測二番は保留監視。これ以外は後でいい」
「了解」
クリスタル。
「はい」
マリ。
「了解です」
サツキ。
「分かった」
ペルシア。
そこで初めて、全体が一つへ揃う感じがあった。
◇
シミュレーション終盤。
左補助制御は六割から八割へ回復。
居住区画Bの環境値は正常圏へ戻り、乗員の症状も軽快。
観測二番は完全停止せず、待機電力再配分後に応答回復。
ブザーが鳴る。
終了。
だが、そこで六人は一気に緩まなかった。
「マリ、B区画の経過ログ」
エリンが言う。
「出します」
マリ。
「サツキ、左補助と観測二番の処置時間」
クリスタル。
「まとめてます」
サツキ。
「ペルシア、火傷の記録」
エリン。
「仮の負傷でしょ?」
ペルシアが笑う。
「訓練だからこそ、記録するの」
エリンがきっぱり言う。
「はいはい、分かりました」
ペルシアが肩をすくめた。
「クリスタル」
リュウジが言う。
「副操縦士側のログと医療判断、後で合わせる」
「分かった」
クリスタルが頷く。
そこでようやく、エリンが静かに息を吐いた。
「お疲れさま。今のは、ちゃんと立て直せてた」
誰も大きく喜ばない。
だが、その一言で初めて全員の肩が少し落ちた。
映像はそこで止まる。
それだけだった。
ただの訓練映像。
なのに、そこには“空いた穴を皆でカバーする”流れと、“その空気を整える一人がいる”強さが、はっきり焼き付いていた。
ーーーー
映像が終わった。
モニターの光がゆっくりと暗転し、訓練室の映像は黒い画面へ沈んでいく。
誰も、すぐには動けなかった。
ほんの数分前まで、この部屋には怒気と苛立ちが渦巻いていた。
ユアンが立ち上がり、ナミが降りると言い、キャットまで続いて。
ククルが飛び込んできて、やっとその場だけは止めた。
けれど今は、また別の重さがそこにあった。
静かだった。
だが、その静けさは落ち着きではない。
胸の内側を掴まれるような、息苦しい沈黙だった。
同じ探索用シミュレーション。
同じ六人。
同じように、複数のトラブルが重なった状況。
なのに、あまりにも違う。
自分達がさっきまでやっていたものは、何だったのか。
同じ訓練をしていたはずなのに、まるで別物だと思うほど、流れも、受け渡しも、空気も違った。
その現実を、誰もまだ言葉にできないでいた。
部屋の後ろで、ペルシアがふっと鼻で笑うように息を吐いた。
「まぁ、そういう事だから」
その声音は軽かった。
軽いのに、その一言だけがやけに鋭く会議室へ落ちた。
ペルシアは机へ腰を預けていた身体を起こし、わざとらしいくらい気楽な顔で続ける。
「探索シミュレーション当日を楽しみにしてるわ」
口元に浮かんだのは、ほとんど嘲笑うみたいな笑みだった。
実際には、試すような、挑発するような、そんな顔だったのだろう。
けれど、今のカオル達には“笑われた”ようにしか見えなかった。
エリンは、そんなペルシアの横で小さく息を吐いた。
「またね」
それだけ言って、軽く会釈をする。
叱りもしない。
慰めもしない。
何かを教えるわけでもなく、エリンはただ静かに踵を返した。
ペルシアが先に歩き、エリンがその後を追う。
ドアが閉まる。
それで完全に、六人とククルだけが会議室へ残された。
沈黙。
モニターにはまだ、ラスペランッァの映像の終了画面が映っている。
白い文字と、停止したままの黒い背景。
それが妙に冷たく見えた。
誰も口を開かない。
開けない、という方が近かった。
最初にその静けさを壊したのは、ユアンだった。
「なんなんだよ……」
絞り出すような声だった。
それから、急に吐き捨てるように言葉が強くなる。
「なんなんだよ! こんな映像、見せやがって!」
その声が、会議室の壁に硬く跳ね返る。
シンゴがびくっと肩を揺らした。
ナミの眉が寄る。
キャットは腕を組んだまま、モニターを見ていた。
「私達を、見下してるのよ」
キャットが、椅子へ深く座りながら言った。
その声は落ち着いていた。
落ち着いているのに、だからこそ余計に嫌な響きがあった。
「どれだけ劣ってるか、見せつけたかったの。“ほら、あなた達はこんなにも出来てない”ってね」
「……私もそう思う」
ナミが低く言った。
顔はまだモニターを見ている。
だが、その横顔は少し青ざめて見えた。
「タイミングも、見せ方も、全部そうだった。答えを教えるんじゃなくて、差を突きつけるための映像みたいだった」
その言葉を聞きながら、ククルは何も言わずにモニター端末へ歩いていった。
操作盤に手を置く。
カチ、と小さな音。
映像が巻き戻され始める。
「……何してんだよ、ククル」
ユアンが苛立ち混じりに言う。
ククルは振り返らなかった。
巻き戻しのバーがゆっくりと戻っていくのを見つめたまま言う。
「ペルシアさんが持ってきてくれた映像だよ?」
「だから何だよ」
ユアンが言う。
「ただの嫌がらせだって」
ククルは、そこでやっと振り返った。
「本気で言ってるの?」
「言ってる」
ユアンが即答する。
「じゃなきゃ何だよ。こんなもん見せられて、“はい、頑張ります”ってなるわけないだろ」
ナミも、少しだけ苦い顔のまま言う。
「正直、私もそう見えた。わざわざ今、このタイミングで持ってくる意味が……」
ユアンが、そこでカイエを見た。
「カイエはどう思うんだ?」
全員の視線が集まる。
カイエは、しばらく黙っていた。
エリンとペルシアの背中を思い出す。
あの顔。
あの去り方。
あの、一言も説明しない置き方。
そして、今の自分達の有り様。
「……嫌がらせだと思う」
カイエが言った。
自分で言って、喉の奥が少し痛くなる。
「私もそう思う」
ナミが続いた。
「少なくとも、あの見せ方は優しくない」
ククルの手が、そこでぴたりと止まった。
巻き戻しの動きも止まる。
会議室の中へ、小さな機械音だけが残った。
ククルがゆっくり振り返る。
その顔を見て、シンゴが思わず息を呑んだ。
いつものククルじゃなかった。
明るくて、勢いで押し切って、場を軽くしてしまうあの顔ではない。
真っ直ぐで、怒っていた。
しかも、その怒りは感情の爆発ではなく、“それは違う”と本気で言い切る時の顔だった。
「二人とも、本気で言ってるの?」
ククルの声は低くない。
けれど、妙に芯があった。
カイエもナミも、すぐには返せない。
「どうしてペルシアさんがこの映像を持ってきたのか、分かる?」
「そんなの――」
ユアンが口を挟もうとした瞬間。
「うるさい! 黙って!」
ククルが初めて強く言った。
ユアンが目を見開く。
シンゴが固まる。
カオルでさえ、少しだけ目を細めた。
ククルは、そのまま真正面からカイエとナミを見る。
「カイエ。ナミさん」
名前を呼ばれ、二人は口を閉ざしたままククルを見返す。
「ペルシアさんは、カイエとナミさんのためにこの映像を持ってきたんだよ」
「……私達のため?」
ナミが、思わず聞き返す。
「そうだよ」
ククルは言う。
「昔、私が十班の応援に入った時、失敗して、本気で、十四班を辞めようと思ってたことあるの……カイエも知ってるよね」
カイエは、その言葉にゆっくり頷いた。
「……うん。知ってる」
あの時のことを、忘れるわけがない。
応援に出た先で、ククルはうまく噛み合えなかった。
ミスそのものより、その後に飛んできた言葉の方が深く刺さっていた。
なんであなたみたいなドジの子が十四班にいるのか不思議だわ。
そんな言葉を、ククルは明るい顔の裏で真正面から受けてしまっていた。
そして、帰ってきた後に、笑えなくなった。
ククルは、その時の自分を思い出すように、少しだけ目を伏せた。
「カイエは知らないと思うけど、その件で、ペルシアさん、十班に乗り込んだんだよ」
ユアンが眉を寄せる。
「乗り込んだ?」
「そう」
ククルが頷く。
「私のために。“次に彼女へ傷つける言葉を投げかけたら――容赦しない”って言ってくれたの」
会議室の空気が、そこで少しだけ変わった。
ナミが息を止める。
シンゴも、目を丸くする。
キャットは腕を組んだまま、けれど少しだけ表情を動かした。
ククルは、その反応に構わず続ける。
「まだペーペーの私なんかのために、自分よりも上の立場の人にも向かってくれるんだよ、ペルシアさんは、大事な人を守ってくれるの。必要だと思ったら、絶対に引かない人なの」
その声は震えていなかった。
まっすぐだった。
「でも」
ククルは言う。
「簡単に答えを言わないのも、ペルシアさんなんだよ。カイエやナミさんが、自分で答えを見つけられるって信じてるから。だから、あの人は“こうしなさい”って簡単には言わない。きっと、この映像にも意味があるんだよ」
ナミは、少しだけ唇を噛んだ。
「……本当に?」
キャットがそこで言う。
「本当に意味があるの?ただ“差”を見せたかっただけじゃなくて?」
ククルは、すぐにキャットを見る。
「うん。ペルシアさんが諦めてるなら、何もしないと思う」
その返しには、一点の迷いもなかった。
「本当に、見限ってるなら、わざわざあの人、こんなタイミングで映像なんて持ってこない。だって、面倒くさいじゃん。仕事抜け出して、エリンさんまで引っ張ってきて、私達の前に出るなんて……そんなことするの、見捨ててないからだよ」
ククルは、そこで一歩だけ前へ出た。
「もし、本気で信じられないなら、シミュレーションなんてやる意味がないよ」
静かな言い方だった。
けれど、その一言が一番重かった。
「だって、誰かが持ってきたもの全部を“嫌がらせだ”って受け取るなら、もう、見る意味ないもん。一回、頭を冷やして考えてよ」
言い切ってから、ククルはふっと息を吐いた。
それから、もう一度モニターへ視線を戻す。
巻き戻し途中で止めた映像が、静止画のままそこにある。
リュウジが前を見て、クリスタルが端末へ手を伸ばし、エリンが誰かへ声を飛ばそうとしている場面だった。
ククルは、その画面を見たまま動かない。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
◇
最初に動いたのはユアンだった。
苛立ちと、悔しさと、言い返したい何かを顔に残したまま、椅子を乱暴に引く。
「……俺、帰る」
吐き捨てるみたいに言う。
だが、さっきまでとは違った。
降りる、ではない。
帰る、だった。
ククルは振り返らない。
ユアンはその背中を見たまま、何か言いかけて、結局何も言えずにドアの方へ向かう。
キャットが、その次に立ち上がった。
「私も出るわ」
声はいつも通り軽い。
けれど、そこにさっきまでの挑発的な響きは少なかった。
「ちょっと静かなところで考えたい」
それだけ言って、ゆっくりと歩き出す。
続いて、ナミ。
端末を抱え上げる動作が、少しぎこちなかった。
「……私も、今、ここで何か言うと、たぶんまた拗らせる」
カイエは、それを止めなかった。
止められなかったのではない。
今は、止める時ではないと分かったからだ。
ナミはドアへ向かう途中で、一度だけ立ち止まる。
ククルの背中を見る。
それから小さく唇を結んで、何も言わずに部屋を出ていった。
カイエは、最後までその場に立ち尽くしていた。
頭の中では、まだ“嫌がらせだと思う”と自分で言った声が残っている。
その一方で、ククルの言葉も深く刺さっていた。
ペルシアが、本当に見限っていたら何もしない。
簡単に答えを言わないのは、自分で見つけられると信じているから。
それを、信じたいと思う自分と、今はまだ素直に受け取れない自分が両方いた。
ククルは、やはり振り返らない。
「……カイエ」
シンゴが、小さく呼ぶ。
カイエは、その声でようやく我に返った。
「……うん」
「行かないの?」
シンゴの問いは優しい。
でも、それが余計に今のカイエにはきつかった。
「行く」
カイエは言う。
「今は、一回離れた方がいい」
ククルは、そこでやっと少しだけ横顔を見せた。
怒っているというより、強張っている顔だった。
たぶん、言いたいことを全部吐き切ったあとで、ようやく自分でも疲れを感じているのだろう。
カイエは、何か言おうとして、言えなかった。
ありがとう、も。
ごめん、も。
今はまだ、どちらも違う気がした。
結局、軽く息を吐いてから、ドアへ向かう。
カイエが部屋を出る時、ククルはまだモニターを見つめたままだった。
◇
会議室に残ったのは、ククル、カオル、シンゴの三人だけになった。
重たい沈黙が、今度はさっきとは違う形で落ちる。
シンゴが、そっとカオルを見る。
カオルは立ったまま、ドアが閉まった方を見ていた。
さっきまでユアンにぶつけられた言葉。
ナミの怒声。
キャットの静かな“降りる”。
ククルの叱責。
全部がまだ胸の中に残っているような顔だった。
やがて、カオルが低く言った。
「……悪い」
その声は、ククルに向けたものだった。
ククルは、そこでようやく振り返った。
「何が?」
「止めさせた」
カオルが言う。
「お前にまで」
ククルは少しだけ目を細める。
「謝らなくていい」
きっぱりとした声だった。
「だけど」
ククルは続ける。
「このままだと、本当にシミュレーションどころじゃないよ」
その言葉には、もう怒鳴るような強さはなかった。
でも、逃がさない厳しさがあった。
「カオルもちゃんと考えて」
まっすぐだった。
カオルは、その視線を正面から受け止める。
少しだけ目を伏せ、それから小さく頷いた。
「ああ」
短い。
だが、さっきまでのように切り捨てる響きではない。
シンゴは、そのやり取りを黙って見ていた。
そして、自分も何か言わなければいけない気がした。
「……僕も」
シンゴが言う。
「考える。自分のことも、みんなのことも」
ククルは、今度は少しだけ柔らかく笑った。
「うん」
それだけだった。
それで十分だった。
カオルは、もう一度だけモニターを見た。
巻き戻されたまま止まっているラスペランッァの静止画。
あの流れ。
あの受け渡し。
あの、一拍分の信頼。
まだそこへは届かない。
でも、今の自分達がどこで歪んでいるのかは、やっと少し見えてきた気がした。
カオルが踵を返す。
「行くぞ」
シンゴが頷く。
「うん」
ドアへ向かう前に、カオルは一度だけククルの方を見た。
何かを言う代わりに、小さく顎を引く。
ククルも、それに小さく頷き返した。
そして、二人も部屋を後にする。
最後に残ったのはククルだけだった。
静かな会議室。
止まった映像。
開けられたままの差し入れの袋。
食べられなかったお菓子。
ククルは、モニターの前へ歩き、映像をもう一度だけ見上げた。
「……ちゃんと見つけてよ」
誰に向けたのか、自分でも分からないくらい小さな声だった。
それでも、その声は確かに、静まり返った会議室の中へ落ちていった。