店を出た時には、コロニーロカA2の夜気が少しひんやりしていた。
暖簾の内側にあった油と出汁の匂いがまだ服に残っていて、さっきまでの賑やかな空気が、そのまま身体にまとわりついている気がする。
最初に出てきたのはキャットだった。
「ふぅ。食べたわね」
「お前が一番食ってたろ」
ユアンが言う。
「失礼ね。ククルも相当だったわよ」
「え、私!?」
ククルが目を丸くする。
「だって走ってきたし! お腹空いてたし!」
「言い訳が小学生なんだよ」
ナミが呆れたように言った。
「なにそれぇ」
ククルがむっとする。
「ナミだってだし巻きめっちゃ食べてたじゃん」
「二切れよ」
「三切れ見た」
「細かい」
シンゴが、そのやり取りを横で聞きながら小さく笑った。
「でも、ちょっと安心した。ちゃんとみんな喋れてよかった」
「それはそう」
カイエが頷く。
「昨日の空気のまま解散してたら、たぶん明日もっと酷かった」
カオルは店の前で立ち止まり、財布をしまいながら全員を見た。
「今日はありがとう」
「まだ礼を言うのは早いでしょ」
キャットが言う。
「明日、ちゃんと回ってからよ」
「そうだな」
カオルは素直に頷いた。
「じゃあ、明日九時」
ナミが念押しするように言う。
「遅れないで」
「お前が一番早く来そうだな」
ユアンが言った。
「当然」
ナミは即答した。
「準備しないと気が済まないし」
「分かる」
シンゴが頷く。
「僕も早めに行く。映像、もう一回見返して整理したいし」
「僕も、って言い方がシンゴらしい」
ククルが笑う。
「絶対また早く行って端末並べてるじゃん」
「悪い?そういう時は先に触っといた方がいいんだよ」
「ううん、悪くない」
カイエが言う。
「助かる」
ククルがそこで、ぱっとカオルを見る。
「ねえ、カオル」
「なんだ」
「本当に私でいいの?」
さっき店の中では勢いで「やる!」と言った。
けれど、こうして外の空気に当たると、嬉しさと一緒に現実感も戻ってくる。
未探索領域を経験している。
それは事実だ。
でも、それと探索用シミュレーションの追加メンバーとして通用するかは、また別の話だ。
カオルは、そんなククルを見て一拍だけ間を置いた。
「いい」
短く、でもはっきりと言う。
「お前が必要だ。それはもう変わらない」
ククルは一瞬だけ目を瞬かせたあと、へへ、と少し照れくさそうに笑った。
「……そっか」
「そっか、じゃない」
ユアンが言う。
「もう引くなよ」
「引かないよ!」
ククルが言い返す。
「私、やるって言ったらやるもん!」
「そこは信用してる」
ナミが言った。
「え、ほんと?」
「ほんと」
ナミは肩をすくめる。
「その代わり、途中で空気読んで変に遠慮する方が面倒」
「うっ」
ククルが詰まる。
「それ、たまにやる……」
「知ってる」
カイエが苦笑する。
「じゃあ、そこは僕が見てる」
シンゴが言った。
「ククル、遠慮し始めると分かりやすいし」
「シンゴまで!?」
「分かりやすいよ」
キャットが笑う。
「顔に全部出るもの」
「うぅ……」
ククルは肩を落とした。
「みんな、私のこと分かりすぎじゃない?」
「それだけ一緒にいるってことだろ」
ユアンが言う。
その言葉に、ククルは少しだけ目を丸くしてから、にっと笑った。
「じゃあ、いいか!」
夜の通りに、ほんの少し笑い声が広がる。
それぞれ帰る方向が違うから、そこで自然と足が止まる。
「じゃあ、また明日」
カイエが言った。
「また明日」
シンゴ。
「遅れるなよ」
ユアン。
「ユアンに言われたくない」
ナミ。
「私は寝坊しないわよ」
キャット。
「私も!」
ククルが元気よく言う。
「……たぶん!」
「そこは断言しなさい」
ナミが即座に突っ込む。
最後に、カオルが一度だけ全員を見た。
「明日から、ちゃんと勝ちにいく」
その言葉に、全員が小さく頷いた。
◇
次の日。
シミュレーションルームの照明が点いた時、そこにいたのは予想通りナミとシンゴだった。
ナミは端末を二台開き、昨夜まとめたメモを画面に並べている。
シンゴは補助盤の図面と、ラスペランッァの映像を並べて、何やら一人でぶつぶつ言いながら整理していた。
「おはよう」
ナミが先に言う。
「おはよう」
シンゴも顔を上げた。
「カイエ、ちょっといい?昨日の映像のここの切り替えなんだけど」
カイエは部屋に入るなり、もうその流れを見て少しだけ笑った。
「おはよう、いいよ、見せて」
そこへユアンが入ってくる。
「……早いな」
「お前も来てるじゃん」
ナミが言う。
「俺はたまたまだ」
「そういうことにしとく」
ナミが、少しだけ口元を緩めた。
そのやり取りを横目に見ながら、ユアンも席につく。
昨日ほどの刺々しさはない。
完全に消えたわけではないが、少なくとも今日は、最初から噛みつく気配はなかった。
キャットはその少し後に現れた。
「みんな真面目ねえ」
「お前が言うな」
ユアンが言う。
「私は真面目よ」
キャットは平然と言う。
「ただ、力の抜き方を知ってるだけ」
「それ昨日も言ってた」
シンゴが小さく笑う。
そして最後に、ククルとカオルがほぼ同時に入ってきた。
「おはよう!」
ククルが元気よく言う。
「おはよう」
カオルが続く。
七人が揃う。
昨日までは六人だった空間に、ククルが一人入っただけで、不思議と空気の流れが少し変わった。
人数が増えた、というだけではない。
抜け道が一つ増えたような感じだ。
カイエはその全員を見渡して、前に立った。
「じゃあ、始めるね。今日はすぐに回さない」
誰も異論はない。
「まず、ラスペランッァの映像を細かく分けて見る。昨日話した通り、“誰が何をしてるか”じゃなくて、“誰が抜けた時に誰がどこまで入ってるか”を洗い出す。あと、エリンさんがどのタイミングで空気を整えてるかも見る」
「了解」
ナミ。
「うん」
シンゴ。
「分かった」
ユアン。
「はいはい」
キャット。
「りょーかい!」
ククル。
カオルは無言で頷いた。
映像が再生される。
左補助制御の異常。
火花。
ペルシアの仮の負傷。
クリスタルの切り替え。
サツキの仮説提示。
マリの監視範囲の広さ。
エリンの応急処置と、空気の微修正。
今度は誰も、ただ圧倒されるだけでは見ていない。
「止めて」
ナミが言う。
映像が止まる。
「ここ」
ナミが画面を示す。
「クリスタルは副操縦士席を完全には離れてない。でも、システム側へ手を伸ばしてる。これ、“席を離れる”か“離れない”かじゃなくて、“どこまで届くか”で考えてるんだと思う」
「うん」
シンゴが頷く。
「役割の切り替えっていうより、重ねてる感じ」
「それなら僕たちもできる」
シンゴは続けた。
「完全に役割交代するんじゃなくて、“届く範囲の補助”を先に作る。その方が穴が小さいまま済む」
「確かに」
カイエが言う。
「じゃあ、まずそこを組もう。“完全交代”の前に、“届く範囲の補助”」
ユアンが口を開く。
「俺なら、副操縦士席からシステムのログ確認まではいける。ただ、深い切り分けは無理だ。見るのは、“操縦に直結する異常かどうか”までだな」
「それで十分」
ナミが言う。
「そこが先に分かるだけで、私の負担はかなり変わる」
「私は逆に」
ナミが少し考えてから言う。
「システム側から操縦席に返す情報を、もう少し短くする。昨日までの私は“正確さ”を優先しすぎて長かった。今必要なのは、“今、何が危ないか”の先出し」
「助かる」
カオルが短く言った。
ナミは、その一言にわずかに目を細める。
昨日までなら、それを素直に受け取れなかったかもしれない。
でも今日は違う。
「サツキさんとマリさんは敬語だったよね」
ククルが画面を見ながら言う。
「でも、敬語でも全然遅くなってなかった」
「敬語かどうかは本質じゃないんだろうね」
キャットが言う。
「内容が渡ってるから、言い方で詰まらない」
「僕たちは全員普通に話すって決めたんだし」
シンゴが言う。
「だったら、なおさら“言葉の短さ”だけじゃなくて“渡し方”を揃えた方がいいと思う」
「うん」
カイエが頷く。
「そこは統一しよう。短くするけど、切らない。情報だけ投げない。誰に渡すかを言葉に入れる」
「つまり」
ユアンが言う。
「“見ろ”じゃなくて、“お前が見ろ”ってことか」
「そう」
カイエは言う。
「それだけで受け手の迷いが減る」
「なるほどね」
キャットが腕を組む。
「シンプルだけど、結構大きい」
映像はさらに進む。
ペルシアが仮負傷して、エリンが応急処置へ入り、クリスタルがシステム補助へ手を伸ばす場面で、ククルが勢いよく手を挙げた。
「はい!」
「なに」
ナミが言う。
「エリンさん、ここでペルシアさんの手を見ながら、ちゃんとサツキさんとマリさんにも声かけてる」
ククルが言う。
「これって、“応急処置してる”じゃなくて、“応急処置しながら全体見てる”ってことだよね?」
「そう」
カイエが言う。
「多分そこが大事」
「でもそれ、一番難しくない?」
ククルが首を傾げる。
「一個やりながら、別の詰まりも見るんでしょ?」
「難しい」
カイエは素直に認める。
「だから、最初から全部は真似しない。でも、“一個の対応に没頭しすぎない”は意識する」
「だったら僕、そこは手伝えると思う」
シンゴが言った。
「僕、機械触ってる時は集中しすぎるけど、逆に誰かがハマり込んでるのは見つけやすい。だから、カイエが一個に入った時、僕が周りの詰まりを見る」
「いいね」
カイエが言う。
「お願いしたい」
ククルも、すぐに乗る。
「じゃあ私もやる!人の顔色とか空気の固まり方は分かるし、“今この人、視野狭くなってる”ってのは結構見えると思う」
「それだ」
ナミが言う。
「追加メンバーの役割、かなり見えてきた」
ククルが少し照れたように笑う。
「へへ」
「褒められるとすぐ顔に出る」
ユアンが言った。
「今それ言わなくていいじゃん!」
また小さく笑いが起きる。
◇
午前中いっぱいを使って、七人は映像を分解した。
誰が、どこで、どこまで入るのか。
完全交代と、届く範囲の補助。
誰かが詰まった時、誰が見るのか。
情報を誰に渡すのか。
その一つ一つを言葉にして、手元のシートへ落としていく。
昼前には、仮の役割表が出来上がっていた。
操縦士――カオル。
副操縦士――ユアン。
システムエンジニア――ナミ。
メカニック――シンゴ。
医療従事者――キャット。
コックピットコンディション――カイエ。
追加メンバー――ククル。
そして、その下に“補助範囲”が細かく書き足される。
「昼から一本目」
カオルが言う。
「完成度は求めない。まずは、止まらずに最後まで流す。詰まったら、その場で止める」
「了解」
ナミ。
「分かった」
ユアン。
「うん」
シンゴ。
「やってみましょうか」
キャット。
「任せて」
カイエ。
「よーし!」
ククルが拳を上げる。
「頑張る!」
その元気な声に、カオルはほんの少しだけ口元を緩めた。
◇
昼休憩を挟み、午後。
シミュレーションルームの空気が、また少し変わる。
今度は昨日までの張り詰め方じゃない。
緊張はある。
でも、その緊張の中に“やり直す”ではなく“始める”熱がある。
カオルが操縦席につく。
ユアンがその隣。
ナミがシステム側に端末を並べる。
シンゴが補助盤へ手を置く。
キャットが医療キットの配置を確認する。
カイエは全員が見える位置へ立つ。
ククルは後方から、それぞれの視線の動きと、呼吸の速さまで見ようとするように立った。
開始ブザー。
電子音が響く。
最初の異常は、左補助制御系の瞬間遅延。
続けて居住区画の環境値に小さな揺らぎ。
そして三十秒後、通信系の軽微なノイズ。
昨日までなら、ここで誰かが先に焦った。
だが今日は違う。
「左補助、瞬間遅延」
ナミが言う。
「操縦直結かどうか、ユアン見て」
「見てる」
ユアンが即答する。
「今は直結しない。けど二回目来たら嫌だ」
「シンゴ、機械側どう?」
カイエが渡す。
「機械応答はまだ正常」
シンゴが言う。
「制御寄りの匂い、深追いはまだしない」
「了解」
カオルが短く返す。
「姿勢維持そのまま」
「区画の環境値、揺らぎ小」
ククルが言う。
「でも、ここで乗員の不安が先に出るかも」
「いい」
キャットがすぐ受ける。
「その場合、僕――じゃなくて」
一瞬詰まってから、キャットが笑う。
「私が聞き取りに入る準備しとく」
その小さな言い直しに、シンゴが吹き出しそうになった。
「今のずるい」
ユアンが言う。
「何がよ」
キャットが平然と言う。
「いや、今“僕”って」
「気のせい」
キャットは真顔で返した。
一瞬だけ笑いが起きる。
でも、それで空気は崩れない。
「笑うのは後」
カイエが言う。
「今、全員いい感じ、そのまま流して」
その言葉で、また熱が揃う。
カオルは前を見たまま、ほんの少しだけ感じていた。
昨日までより、確かに流れている。
まだ荒い。
まだ不格好だ。
でも、止まり方が違う。
そして、その不格好さごと前へ出せる今の空気は、悪くなかった。
七人の最初の一歩は、そうして静かに、けれど確かに動き始めた。
ーーーー
開始ブザーが鳴った瞬間、七人の空気が一斉に締まった。
昼休憩を挟み、映像の分解と役割の再構築を終えてからのシュミレーション。ここでまた昨日までのように噛み合わなければ、せっかくのやり直しは形にならない。
逆に、少しでも流れれば、そこが新しい起点になる。
だからこそ、静かだった。
操縦席にカオル。
副操縦士席にユアン。
システムエンジニアにナミ。
メカニックにシンゴ。
医療従事者にキャット。
コックピットコンディションにカイエ。
追加メンバーとして後方から全体を見るククル。
七人。
まだ増えたばかりのその一人が、今は妙に大きく見えた。
最初の異常は、左補助制御系の瞬間遅延。
続いて居住区画Cの環境値が微弱に揺らぎ、さらに三十秒後には内部通信の浅いノイズ。
重なる。
だが、まだ軽い。
あくまで“入口”だ。
「左補助、瞬間遅延」
ナミが言う。
「操縦直結かどうか、ユアン見て」
「見てる」
ユアンが即答する。
「今の段階じゃ直結しない。けど、二回目が来たら嫌な揺れ方だ。カオル、姿勢修正はまだ要らない」
「了解」
カオルが短く返す。
「現状維持」
「シンゴ、機械側」
カイエが言う。
「機械応答はまだ正常」
シンゴが端末を見ながら返す。
「制御寄りの匂いが強い。仮説は二つ。今はまだ切らない」
「いい」
カイエが言う。
「“二つあって、まだ切らない”まで共有で十分」
「区画Cの環境値、揺らぎ小」
ククルが言う。
「でも、今の感じだと乗員の不安が先に出るかも。気分悪いって言い出す人が早めに出るタイプ」
キャットが椅子へ浅く腰かけたまま口元を上げた。
「そういうの、助かる。じゃあ私は聞き取り準備だけ先にする。ナミ、居住区画Cの在室情報出して」
「出す」
ナミが即答する。
「二名。うち一名、ストレス反応歴あり、もう一名は平常」
「いいわね」
キャットが言う。
「ククル、その二人のうち先に崩れそうなのはどっちっぽい?」
「履歴ある方」
ククルが迷わず答える。
「でも、たぶん本人より隣の人が気づくかも、“大丈夫?”って先に言う方のタイプ」
「そこまで読めるの?」
ユアンが少し驚いたように言う。
「分かる時は分かる!」
ククルが言った。
「未探索領域って、何もない時間の方が逆に怖いから“なんとなく嫌だな”が先に出る人って顔で分かることあるし」
「了解」
キャットが頷く。
「じゃあ聞き取りは隣の人から先に入る」
その会話の流れを、カイエは後ろから見ていた。
昨日までなら、ここで誰かが“なんでそんなことまでお前が決める”とか、“今はそこじゃない”とか言ったかもしれない。
だが今日は違う。
ククルの情報は、現場の“人”に関する仮説として受け取られている。
その受け方が違うだけで、空気の流れが変わる。
そして、次の異常。
右舷観測補助系に浅い電力揺らぎ。
その直後に、システム盤のサブログが一枚だけ読み込み遅延を起こす。
「右舷補助系、揺れてる」
ナミが言う。
「でも主観測にはまだ波及してない。ユアン、操縦系に影響ないかだけ先」
「ない」
ユアンが返す。
「今のところは切り離して考えていい」
「シンゴ」
カイエ。
「見る」
シンゴがすぐ返した。
「右舷補助系の電力揺らぎは、たぶん単独じゃない。左補助の遅延と根が一緒の可能性ある。ただ、機械側で今すぐ触る段階じゃない」
「ナミ」
カオルが言う。
「ログ遅延の一枚、危険か」
「危険ではない」
ナミが即答する。
「ただし“遅れたこと”自体は嫌。システム側の再帰判断が浅く暴れてるかも、ここから先、同時に三つ以上来たら詰まる」
「なら詰まる前提で構える」
カオルが言った。
ユアンが、その言い方に少しだけ目を動かした。
けれど、今日は噛みつかない。
「副操縦士側から補助する」
ユアンが言う。
「三つ重なったら、操縦直結だけ僕が先に切り分ける」
「助かる」
ナミが言った。
短い。
だが、それだけで空気が少し良くなる。
シンゴはそれを感じながら、端末の表示を追う。
そうだ。
これだ。
昨日までなかったのは、この“一拍先に渡して、受けた側がちゃんと返す”流れだ。
その時。
警告音が、今までより一段鋭く響いた。
居住区画Cから、軽度の体調不良申告。
同時に、左補助制御系の遅延が二回目を記録。
そしてさらに、通信ノイズがほんの一瞬だけ全系統に浅く走る。
被った。
「来た」
ナミが低く言う。
「二回目」
「操縦へ食い込む」
ユアンが即座に返す。
「カオル、左だけ気をつけろ。まだ大きくは来ないけど、次は嫌だ」
「了解」
カオル。
「姿勢維持そのまま。深い修正なし」
「キャット」
カイエが言う。
「居住区画C」
「行ける」
キャットが立ち上がる。
「ただし完全に席は離れない。ククル、一緒に来て」
「え、私?」
ククルが目を丸くする。
「そう」
キャットが当然みたいに言う。
「今、誰が崩れやすいか分かるのあんたでしょ、医療判断は私がやる。でも、空気の入口はあんたの方が見える」
「わ、分かった!」
ククルは慌てて頷く。
「いい」
カイエが言う。
「キャット、ククル、聞き取り優先。ナミ、今の二人が入ってる間、医療端末の簡易ログも見て」
「見る」
ナミ。
「シンゴ」
カオルが呼ぶ。
「左補助、機械側はまだ正常か」
「正常」
シンゴが返す。
「でも制御の再帰判断が増えてる。次は“物理じゃない異常”として扱った方がいい。補助盤じゃなくて、システム側を浅く抑えた方が早いかも」
「受ける」
ナミがすぐに言う。
「ただし私一人だと少し重い。ユアン、副操縦士席から操縦直結ログだけ持って、そこだけ切り分けて私に投げて」
「了解」
ユアンが言った。
「操縦直結だけ拾う。それ以外は触らない」
そのやり取りを見て、カイエはほんのわずかに目を細めた。
届く範囲の補助。
まさに、午前中に決めた形だ。
ククルとキャットが後方の医療補助席へ移る。
居住区画Cとの音声回線が開く。
『……なんか、息苦しいです』
「うん、聞こえてる」
キャットが落ち着いた声で言う。
「今は座って。深呼吸は浅くでいい。ククル、隣の人どう?」
ククルは回線越しの相手の息遣いを聞きながら言う。
「隣の人、たぶん今、本人よりそっちが焦ってる。“大丈夫?”って二回続けて言ってる。そっち先に落ち着かせた方がいいかも」
「了解」
キャットは回線へ向けて言う。
「隣にいる人、聞こえてる?」
「今、一番大事なのは“何かしなきゃ”って慌てないこと、手を握るだけでいい。呼吸の速さを合わせて」
その言い方が、強くもなく、甘すぎもしない。
「……すごい」
シンゴが思わず小さく言う。
「何が?」
ナミが聞き返す。
「ククルの見方と、キャットの返し」
シンゴが言う。
「医療だけじゃなくて、その場の空気まで見てる」
「そこが欲しかったんでしょ、追加一名として」
ナミは画面を見たまま言う。
「うん」
シンゴは頷く。
「思ってた以上だ」
その間に、ユアンが操縦直結ログを拾って投げる。
「ナミ、左補助の遅延、操縦直結はまだ浅い、ただ三回目来たら切る」
「了解」
ナミが言う。
「それなら今のうちに再帰判断を一段抑える。シンゴ、制御に波が返る前に、補助盤側から“固定しない固定”できる?」
「できる」
シンゴが答える。
「仮ロックで暴れ幅だけ狭める。完全固定はしない」
「それでいい」
カイエが言う。
「シンゴ、その処置時間は?」
「十五秒」
シンゴが即答する。
「共有」
カイエが言う。
「シンゴ、十五秒で仮ロック。ナミ、再帰判断を一段抑える。ユアン、三回目だけ先に見る。カオル、姿勢維持。今の優先はそこ」
「了解」
全員の声がほぼ重なった。
熱が、揃った。
◇
十五秒後、左補助制御系の暴れ幅は目に見えて落ち着き始めた。
「仮ロック入った」
シンゴ。
「再帰判断、一段抑制」
ナミ。
「操縦直結への食い込み、消えた」
ユアン。
「いい」
カオルが短く言う。
「そのまま維持」
「居住区画C、症状落ち着きつつある」
キャットが言う。
「重症化なし。ククル、今はどう見える?」
「一人目は戻ってる」
ククルが言う。
「二人目の方が、逆に今から遅れて緊張出そう。だから“終わった”って言い切らない方がいい」
「了解」
キャットが回線へ言う。
「二人とも、今は良くなってる。でも急に立たなくていい。そのまま、あと一分だけ座って」
マリの代わりに通信補助を拾っていたナミが、小さく息を吐いた。
「……流れてる」
「うん」
カイエが言う。
「今、ちゃんと流れてる」
それは誰に聞かせるでもない言葉だった。
けれど、その一言で室内の空気が少しだけやわらぐ。
そして最後に、右舷観測補助系の浅い電力揺らぎも、待機電力の再配分だけで収束した。
終了ブザー。
静かな電子音が鳴る。
その瞬間、七人が同時に大きく息を吐いた。
誰か一人が勝ったわけでもない。
誰か一人が全部解いたわけでもない。
けれど、最後まで流した。
止まらなかった。
そして、昨日までの自分達とは違う形で、ちゃんと回した。
その手応えが、全員にあった。
「……やった」
最初にぽつりと零したのはククルだった。
「うん」
シンゴが頷く。
「今の、よかった!すごくよかった」
「まだ荒いけど」
ナミが言う。
「でも、昨日までの“正しいことを叫んで終わる”じゃなかった」
「お前、言い方」
ユアンが苦笑する。
「事実でしょ」
ナミが言い返すが、そこに昨日までの刺はない。
「カオル」
カイエが呼ぶ。
「なんだ」
「今の、どうだった?」
カオルは少しだけ黙ってから答えた。
「勝ち筋が見えた」
その一言に、ユアンがにやっと笑う。
「それだな」
「うん!」
ククルが元気よく頷く。
「なんか今、ちゃんとチームって感じした!」
キャットは椅子へ深く座り直し、肩を回した。
「疲れたけど、悪くないわね」
シンゴが、そこで少し照れくさそうに言う。
「僕、さっきの十五秒、結構よかったと思う。ちゃんと先に言えたし」
「よかった」
カイエがすぐ返す。
「待てる形になってた」
「うん」
ナミも頷いた。
「こっちも受けやすかった」
その時だった。
シミュレーションルームのドアが静かに開いて、エマが顔を出した。
「……今、入って大丈夫?」
全員がそちらを見る。
エマは両手に紙袋を下げていた。
少し大きめの袋と、飲み物用の小さなトレイ。
その姿だけで、ククルがぱっと顔を明るくする。
「エマ!」
「お疲れさま」
エマが柔らかく笑う。
「差し入れ持ってきたよ、ククルに変わって私が差し入れ係」
「何その最高の役割」
ユアンが言う。
「勝手に任命したの」
エマは淡々と言う。
「ククルだけにやらせると量がおかしくなるから」
「ひどい!」
ククルが抗議する。
「でもちょっと分かる!」
また笑いが起きる。
エマは机の上へ袋を広げた。
「サンドイッチ。甘いの、しょっぱいの、あと冷たい飲み物」
「完璧すぎる」
シンゴが思わず言う。
「今の顔見たら、ちょうどこれかなって思って」
エマが言う。
「どうだった?」
「回った」
カオルが短く答える。
「へえ」
エマの目が少しだけやわらぐ。
「よかった」
「よかったじゃないよ!」
ククルがもうサンドイッチを取りながら言う。
「すっごいよかったんだから!今の、ちゃんと流れた!」
「ククル、落ち着いて食べて」
カイエが苦笑する。
「無理! お腹空いた!」
「通常運転ね」
キャットが笑った。
エマは、その様子を見て本当に安心したように小さく息を吐く。
部屋の空気は、たしかに昨日までとは変わっていた。
張りつめてはいる。
でも、今はその張りつめが同じ方向へ向いている。
差し入れを囲みながら、七人は今日の一本目の感触を何度も確認した。
ここが良かった。
ここはまだ遅い。
ククルの読みは使える。
ナミの短さは今の形がちょうどいい。
ユアンの切り分けは副操縦士としてかなり助かる。
シンゴの時間共有は次も継続。
キャットとククルの医療側の空気読みは想像以上。
カイエのまとめ方も、前よりずっと“整える”側へ寄っていた。
手応えはあった。
それを、誰も否定しなかった。
◇
その夜。
宇宙管理局では、まだ明かりの消えない部屋がいくつもあった。
探索用シミュレーション本番が近いせいか、資料室も統括官室周辺も、普段より人の出入りが遅い。
端末の立ち上がる音。
資料をめくる音。
電子承認の通知音。
夜なのに、静かな忙しさがそこかしこにあった。
統括官室のドアがノックされ、ローズが分厚いファイルを抱えて入ってくる。
「持ってきたぞ」
机の向こうで頬杖をついていたペルシアが、ちらりと視線を上げた。
「うわ、分厚!何それ、凶器?」
「探索シミュレーションの本番資料だ」
ローズが言う。
「最終版に近い」
「気合い入ってるね」
ペルシアがファイルの表紙を見て言う。
「ローズが企画したシミュレーションだけあるわね」
「お前も少しは手伝えよ」
ローズが呆れたように言う。
「企画段階では口出したくせに、詰めに入ったら知らん顔しやがって」
「無理」
ペルシアは即答した。
「私はルナちゃんの地球での活動の手続きがあるから」
「またルナか」
ローズが肩をすくめる。
「本当にお前、あの件になると動きが早いな」
「当然でしょ」
ペルシアが言う。
「大事な案件なんだから」
「お前の“大事”は偏りすぎなんだよ」
「何よ、今さら」
ローズが資料を机へ置く。
どさり、と重い音。
「とにかく目を通せ」
ローズが言う。
「お前の管轄に関わるところもある」
「はいはい」
ペルシアが気のない返事をする。
「あとでね」
「今だ」
ローズが即座に言う。
「厳しくない?」
ペルシアが嫌そうな顔をした、その時だった。
ドアが勢いよく開く。
「統括官! 承認ください!」
活気のある声だった。
張っている。
けれど、昨日までの刺々しい張り方ではない。
忙しさごと前へ出る声だ。
ナミだった。
端末を抱え、少しだけ息を弾ませている。
髪はきちんとしているのに、目の奥だけ熱がある。
その顔を見た瞬間、ペルシアの口元に笑みが浮かんだ。
「お」
小さくそう漏らす。
ナミは机の前まで来て、端末を差し出した。
「ロカA2側の探索シミュレーション関連、補助承認です。今日中じゃないと回らないので、お願いします」
「元気じゃない」
ペルシアが言う。
「忙しいだけです」
ナミが答える。
「ふぅん」
ペルシアは端末を受け取る前に、突然立ち上がった。
「え、ちょっ――」
ナミが反応するより先に、ペルシアの手がその頭へぽん、と乗る。
そして、わしゃわしゃと撫でた。
「よく戻ってきた」
「な、何するんですか!」
ナミが目を丸くする。
「統括官!」
「いいじゃない」
ペルシアが嬉しそうに言う。
「元気そうだからつい」
「つい、で撫でないでください!」
ナミが顔を赤くする。
「子どもじゃないんですから!」
「でもいい顔してる」
ペルシアは手をどけながら言う。
「昨日よりずっと」
ローズが、そのやり取りを腕組みしたまま見ていた。
「なんだ、機嫌いいじゃないか、お前」
「そりゃね」
ペルシアが端末へ承認を入れながら言う。
「ちゃんと進んでるって顔してるもの」
ナミは、まだ少しだけ居心地悪そうにしながらも、端末を受け取った。
「……進んでます」
小さく言う。
「そう」
ペルシアが笑う。
「で、どうだったの」
ナミは一瞬だけ言葉を選ぶ。
それから、答えた。
「今日は一本、ちゃんと流れました。まだ荒いです。でも、昨日までのとは全然違いました」
「へぇ」
ペルシアは嬉しそうに目を細める。
「よかったじゃない」
「はい」
ナミは頷いた。
「ククルも入ったので、空いた穴を見る人が一人増えただけで、思ったより全体が変わって」
「でしょ?」
ペルシアが言う。
「私は最初から言ってたじゃない」
「言ってません」
ナミが即答する。
「押し込んだだけです」
「細かいなあ」
ローズが、そこでふっと笑った。
「探索シミュレーションの方、動いたのか」
「はい」
ナミが向き直る。
「まだ本番レベルではないです。でも、勝ち筋は見えました」
「勝ち筋、か」
ローズが繰り返す。
「いい言葉使うようになったな」
「借り物です」
ナミが言う。
「でも、嫌いじゃないです」
ペルシアは、それを聞いて机の端へ軽く腰を預けた。
「ナミ」
「はい」
「明日もやるんでしょ?」
「やります」
ナミは答える。
「今度は二本目まで回す予定です。一本目で流れを確認して、二本目で負荷を上げます」
「うんうん」
ペルシアが満足そうに頷く。
「その顔なら大丈夫そうね」
「顔で判断しないでください」
「するわよ」
ペルシアが言う。
「だって、ナミ分かりやすいもの」
「どこがですか」
「声」
ペルシアが即答した。
「昨日までのあんた、言葉の端が全部尖ってた。今は忙しいけど、前向いてる時の尖り方」
ナミは、少しだけ口を閉じた。
悔しいが、否定しきれない。
実際、自分でも今日は違うと分かっている。
「……そうかもしれません」
素直に認めると、ペルシアはまた笑った。
「素直でよろしい」
「だから、頭撫でるのやめてください」
「もうしてないでしょ」
「さっきしました」
「今はしてない」
「そういう問題じゃないです」
統括官室に、小さく笑いが広がる。
ローズは資料を机へぽんと叩いた。
「で、機嫌良くなったなら、そろそろこれも見ろ」
分厚い探索シミュレーション資料を顎で示す。
「企画者としては、お前の反応も欲しい」
「えー」
ペルシアがあからさまに嫌な顔をする。
「今いい流れだったじゃない。こう、ナミが元気になって、私も嬉しくて、ハッピーエンドで終われそうだったじゃない」
「仕事は終わってない」
ローズがばっさり言う。
「厳しい」
ペルシアが言う。
「ほんと厳しい。ナミ、この人どうにかならない?」
「なりません」
ナミが即答する。
「ローズさんはたぶん最初からこうです」
「裏切り者」
「事実です」
ローズは腕を組み直し、わずかに笑った。
「元気ならちょうどいい。ナミ、お前も今の進捗、あとで私にも寄越せ。現場の生の反応が欲しい」
「分かりました」
ナミが頷く。
「整理して送ります」
「今日中に」
「……はい」
「よし」
ローズが満足そうに言う。
ナミは端末を抱え直した。
「じゃあ、戻ります」
「うん」
ペルシアがひらひらと手を振る。
「頑張りなさい」
「統括官も資料、頑張ってください」
「ええー?」
ペルシアが露骨に嫌そうな声を出す。
「それじゃ」
ナミは小さく笑ってから、統括官室を後にした。
ドアが閉まる。
廊下へ出た時、ナミは少しだけ立ち止まった。
胸の中にあるのは、昨日までの重苦しさではない。
忙しさはある。
課題も山積みだ。
でも、その奥に確かな熱がある。
シミュレーションは、ちゃんと動き始めた。
ククルも加わった。
カイエも見えてきた。
ユアンもシンゴも、自分の役割を一段深く掴み始めている。
カオルは前を見ている。
「……勝ち筋、か」
小さく呟く。
その言葉は、思っていたより自分に馴染んでいた。
ナミは歩き出す。
夜の宇宙管理局の廊下を、今度は昨日までより少しだけ速い足取りで。
◇
一方、統括官室では。
ペルシアが、まだナミが出ていったドアの方を見て、にやにやしていた。
「嬉しそうだな」
ローズが言う。
「そりゃ嬉しいでしょ」
ペルシアが言う。
「ちゃんと戻ってきたし」
「最初から分かってたみたいな顔してるな」
「分かってたわけじゃないわよ」
ペルシアは肩をすくめる。
「でも、あの子はちゃんと自分で戻れると思ってた」
「信頼してるんだな」
ローズが言う。
「してるわよ」
ペルシアが即答した。
「だって、見てるもの。ただちょっと刺さりすぎるだけで」
「お前に言われたくないだろうな」
ローズが苦笑する。
「何よ、それ」
「事実だ」
「事実ばっかりぶつけてくる人、嫌い」
「じゃあお前、自分のこと嫌いだろ」
「それはそうかも」
ローズが思わず吹き出した。
「自覚あるんだな」
「あるわよ」
ペルシアが言う。
「でも、自覚あるからいいの」
「雑な理屈だ」
「細かいのはフレイがいるし」
そのフレイが、ちょうど資料を抱えて入ってきた。
「統括官、笑ってる場合ではありません。その資料、今日中に見てください」
「ほら来た」
ペルシアがげんなりする。
ローズは肩を揺らして笑いながら、分厚いファイルをもう一度机の中央へ押しやった。
「逃げるなよ」
「逃げないわよ」
ペルシアが言う。
「ただ、心が折れそうなだけ」
「折る前に手を動かしてください」
フレイが淡々と言った。
統括官室の夜は、まだ終わりそうになかった。
けれど、その長い夜のどこかで、ロカA2の若いチームが少しずつ形になり始めている。
それを思うと、ペルシアの口元には、また小さな笑みが浮かぶのだった。