チーム甘党の余韻が、まだ会場の空気に残っていた。
客席のざわめきは一度大きく膨らみ、それから少しずつ落ち着きを取り戻していく。
巨大モニターには次の進行表が映し出され、舞台上の特設ブースではスタッフ達が次のシュミレーションに向けて素早く調整に入っていた。
だが、見ている側の熱は簡単には引かない。
特に、甘党の一部始終を目の当たりにした後ではなおさらだった。
スペースホープの客席では、ミラ、アズサ、ハズキが戻ってきたことでひとしきり空気が温まり、スリッピーが宇宙管理局側へ回収され、エマとマユミが甘いものを食べに行き、気づけばリュウジまで姿を消していた。
あまりにも“らしい”流れに、ホーネットやユウコが笑い、エリンが小さくため息をつき、ペルシアが面白がる。
そんなひと区切りのあと、会場は次の緊張へと切り替わっていった。
客席のモニターに、次のチームの紹介が映し出される。
ハワード財閥旅行会社。
操縦士――カオル。
副操縦士――ユアン。
システムエンジニア――ナミ。
メカニック――シンゴ。
医療従事者――キャット。
コックピットコンディション――カイエ。
追加メンバー――ククル。
その文字が並んだ瞬間、スペースホープ側の客席でも空気が変わった。
「来た……」
クミコが小さく息を呑む。
「いよいよだね」
ミドリも姿勢を正した。
「さっきまで戻ってきた三人に騒いでたのに、もうそんな気分じゃない」
マユが正直に言う。
「うん……」
サリーもこくりと頷いた。
「なんか、こっちまで緊張してきた……」
「まぁ、そうなるわよね」
エリンが静かに言った。
「さっきの甘党を見た後だもの。比較せずに見る方が難しいわ」
舞台上のブースに、カオル達が入っていく。
カオルは、いつも通り無駄のない足取りだった。
だが、その背中には前よりも確かな芯が通って見える。
ユアンはどこか気負いを押さえ込んでいるような顔をしていたが、視線はまっすぐ前を向いている。
ナミは既に端末しか見ていない。
シンゴは入るなり機器配置を一目で確かめ、手の位置を整えた。
キャットは相変わらずの余裕を見せつつも、医療席の周りだけは抜かりなく目を通している。
カイエは全員が見える位置に立ち、ククルはその少し後ろから、まるで空気の流れを掴むように視線を動かしていた。
「雰囲気、悪くないですね」
ミラが小さく言う。
「ええ」
シルヴィアが頷く。
「ちゃんと“チーム”の顔になってます」
「そうね」
エリンも静かに返す。
「少なくとも、今は噛んでいない」
開始ブザー。
会場全体の意識が、一気にステージへ集中する。
◇
最初の異常は比較的穏やかな入りだった。
軽いシステム遅延。
補助航路データの一時欠損。
環境系統の微細な揺らぎ。
探索用としては“まず見られるかどうか”を試す導入だ。
「システム、左補助航路に一時遅延」
ナミが即座に言う。
「主航路への波及はまだなし、ユアン、操縦直結だけ見て」
「見てる」
ユアンが返す。
「今のところ手動補正いらない。ただし二回目来たら気持ち悪い」
「シンゴ」
カイエが言う。
「機械側、嫌な匂いある?」
「まだ薄い」
シンゴがモニターを見ながら答える。
「今の段階じゃ仮説二つ。一つは単純遅延、もう一つは補助側の戻し遅れ、深追いはまだしない」
「いい」
カイエが言う。
「“まだしない”まで共有で十分。ククル、後ろどう?」
「まだ固くなってない」
ククルがすぐに返した。
「でも、ナミの声がちょっと速い、ユアンに渡す時、次は一拍落としてもいいかも」
「了解」
ナミが素直に言う。
「次から落とす」
客席でペルシアが少しだけ口元を上げる。
「ちゃんと拾ってるわね」
「ええ」
エリンが言う。
「しかも、拾われた側が変に反発しない。そこがいいわ」
カオルの操縦は安定していた。
派手さはない。
だが、必要な補正だけを迷いなく入れている。
ユアンの切り分けも、以前より明らかに鋭かった。
操縦直結ログだけを先に抜き、ナミへ必要な情報を渡す。
ナミも受け取ったものを抱え込まずに返す。
シンゴは仮説を出す時、必ず時間と重さを一緒に置く。
カイエは全体の温度を見て、流れが止まる前に声を差し込む。
ククルはその後ろで、視野が狭まりかける場所を先に見つけていた。
「……いいですね」
ランが思わず言った。
「ちゃんと、積み重ねが見える」
「うん」
ミラも頷く。
「“誰かが頑張ってる”んじゃなくて、“みんなで詰まらないようにしてる”感じ」
次に入ったのは、外部観測系の一時的なノイズ。
「外部観測、浅いノイズ」
ナミ。
「視界そのものは生きてる」
「操縦影響なし」
ユアン。
「補助盤側、まだ正常」
シンゴ。
「じゃあ今は切る」
カオルが言う。
「深追いしない、次が来た時だけ拾う」
その判断が速い。
しかも、それが一人よがりじゃない。
後ろからの情報を受けた上で、“今は切る”をはっきり言える。
客席のクリスタルが、そこで小さく頷いた。
「悪くない。カオル、受けてから決めてる」
「ええ」
エリンも言う。
「ちゃんと待てるようになったのね」
ホーネットが目を丸くする。
「これでまだ“後”があるの?」
「あるわよ」
ペルシアが笑う。
「今はまだ“整ってる時の強さ”を見てるだけだもの」
「でも、かなりいいですよね?」
ユウコが思わず言う。
「いいわよ」
エリンが素直に答える。
「かなりいいチームね」
その一言に、客席の若い乗務員達の顔がぱっと明るくなる。
「やった」
クミコが小さく拳を握る。
「なんか嬉しいね」
ミドリも笑う。
「うん」
マユもほっとしたように言う。
「さっきまでこっちまで緊張してたけど、今の見てると少し安心する」
舞台上では、なおも最初のセクションが続く。
環境値の軽微な上下。
補助系の反応遅れ。
居住区画側の誤検知。
それらをカオル達は、ほとんど淀みなく処理していく。
「医療側どう?」
カイエが声をかける。
「今のところ静か」
キャットが返す。
「静かすぎて逆に暇。でも、こういう時は暇なくらいでちょうどいい」
「その言い方」
ナミが少しだけ笑う。
「本音よ」
キャットが平然と言う。
「忙しい医療なんて、だいたい嫌な時だもの」
それに、ククルが小さく吹き出す。
「たしかに」
客席でエリンが言う。
「キャットもいいわね。軽いけど、浮いてない」
「はい」
ミラも頷く。
「こういう空気の時のキャットさんって、逆に場を落ち着かせますよね」
「軽い人って、時々必要なのよ」
ペルシアが言った。
「全員が重くなると、それだけで詰まるから」
「なるほど……」
サリーが小さく呟く。
スクリーンの中のカオル達は、確かにいいチームに見えた。
決して派手ではない。
けれど、一人ひとりの役割が明確で、その上で役割の境目に柔らかさがある。
ユアンとナミの受け渡し。
シンゴの待てる仮説。
キャットの軽さ。
ククルの気づき。
カイエの整え方。
そして、それらを前で受けて決めるカオル。
少なくとも、ここまではほとんど文句のつけようがなかった。
「中々、いいチームね」
エリンが言った。
その声音には、素直な評価があった。
だが、その横でペルシアは小さく笑う。
「今のところはね」
客席の何人かが、その言葉に反応する。
「今のところ……?」
クミコが聞き返す。
ペルシアは、舞台から目を離さないまま言った。
「ここまでは、ちゃんと自分達の組み立てで回れてる。今のカオル達は“整った状態での強さ”を持ってる。でも――」
そこで、ペルシアの口元が少しだけ上がった。
「だけど、この後はどうかな?」
その一言とほぼ同時に、ステージ上のシステム表示が一段深く赤みを帯びた。
次のフェーズへ入る予兆みたいに。
ーーーー
次の瞬間だった。
耳をつんざくような警報アラームが、特設ステージのブース全体を揺らした。
それまで段階的に、まるで試すように差し込まれていた異常とは、明らかに質が違う。
一つの事象が起きたのではない。
複数の異常が、まるで最初から示し合わせていたみたいに、一斉に押し寄せてきたのだ。
巨大モニターの表示が赤と橙に染まり、数値と警告文が次々と重なっていく。
補助航路異常。
船内環境値低下。
通信ノイズ増大。
前方障害物の急接近。
機関部出力の偏り。
仮想乗員の急性ストレス反応。
外部センサーの不安定化。
しかも、それらが一拍ずつ来るのではない。
ほぼ同時だった。
「っ――!」
ブースの中で、カオルの目がわずかに見開かれる。
「警報、多数!」
ナミが反射的に声を上げた。
「補助航路三系統異常、船内環境値低下、通信ノイズ、外部センサー乱れ、居住区画Cで仮想乗員ストレス急上昇――待って、まだ増えてる!」
「前方、障害物反応!」
ユアンが鋭く言う。
「小群じゃない、ばらけてる! いや、軌道が読みにくい!」
「機関部、負荷偏ってる!」
シンゴが端末へ食い入るように言った。
「戻し先が死んでる、これ補助航路の異常と繋がってる!」
「医療席、居住区画Cの仮想乗員一名パニック傾向!」
キャットが言う。
「しかも環境値低下と連動してるから、放置するともう一人引っ張られる!」
「今、全部来てる!」
ククルが後方から声を張った。
「空気が一気に固くなった! ナミ、速い! ユアン、声が前に出すぎ!」
「分かってる!」
ナミが即座に返す。
だが、その返し自体がもう鋭かった。
「カイエ!」
カオルが前方スクリーンを睨んだまま言う。
「切れ!」
「どこを!?」
カイエが珍しく声を強くする。
「今、全部が前に出てる!」
客席で、それを見ていたエリンが目を細めた。
「……これはペルシアの仕業でしょ」
隣で腕を組んでいたペルシアは、口元だけで笑った。
「まぁね」
ホーネットがすぐに振り返る。
「えっ、やっぱり!?」
「だって、あの子達がどこまでできるか見たかったから」
ペルシアは悪びれもせずに言った。
「他のチームよりも重い事象を、いくつも仕込んでおいたの」
「仕込んでおいたの、じゃないでしょ……」
クリスタルが額を押さえる。
「本当にやることがえげつない」
「でも、ここを抜けないと意味ないじゃない」
ペルシアは楽しそうにモニターを見上げる。
「今のあの子達、整ってる時はかなり良いもの。だったら、崩した時にどうなるか見ないと」
エリンは小さく息を吐いた。
「試験官としては優秀ね、人としては最悪だけど」
「褒めてる?」
ペルシアが横目で見る。
「褒めてない」
だが、軽口を交わせるのは客席だからこそだった。
ブースの中では、もう明確に余裕が削られ始めていた。
◇
警報は止まらない。
ナミの前のモニターには、異常ログが重なり続けている。
ユアンの前では、操縦直結の必要情報と不要情報が混線しかけていた。
シンゴの前では、補助航路と機関負荷の相互悪化が仮説をいくつも生み、しかもそのどれもが完全には切れない。
キャットの医療席では、仮想乗員の精神反応が環境値低下と連動して不穏に上下していた。
ククルは全体の空気の歪みを感じ取っているが、どこへ先に手を伸ばすべきかの判断が一瞬ずつ遅れる。
カイエはそれを繋ぎ、整理し、誰に何を持たせるかを判断しようとしていたが、異常の量そのものが多すぎた。
「ナミ、優先順位!」
カイエが言う。
「全部言うな、今すぐ死ぬやつから!」
「分かってる!」
ナミが返す。
「今すぐ死ぬのは前方障害物、次が補助航路、環境値は即死じゃない、でも医療席は待てない!」
「それなら前方だけ先に寄越せ!」
ユアンが言う。
「細かい補足はいらない!」
「細かくない! 必要!」
ナミが噛みつくように返す。
「軌道のブレ幅まで言わないと、あんた後で文句言うでしょ!」
「今は文句じゃなくて避ける方が先だ!」
「二人とも!」
カイエが割って入る。
「ぶつからない!」
その間にも、カオルは前方の障害物群を見ていた。
視界上では細かい反応に見える。
だが、進路の死角へ潜り込むような軌道が混じっている。
しかも補助航路が不安定な今、手動で抜けるしかない。
カオルは操縦桿へ指先の圧を変えた。
「ユアン」
カオルが低く言う。
「前だけ見ろ。余計なログ切れ」
「やってる!」
ユアンは答える。
「でもナミの情報が多い!」
「多いなら必要なところだけ取れ!」
ナミが言う。
「全部受けようとするな!」
「それ、お前が言う!?」
ユアンの声に棘が混じる。
その瞬間、ククルが後ろから叫んだ。
「今それやってる場合じゃないって!」
珍しく、悲鳴に近い声だった。
ククルは、皆の首筋が少しずつ固くなっていくのが見えていた。
ナミの声が鋭くなり、ユアンの返しが速くなり、シンゴの言葉が一つ長くなり、カオルの沈黙が少しだけ冷たくなっている。
いつもなら、カイエがその歪みを先に整える。
でも今は、カイエ自身が過負荷の中にいる。
だから、ククルは出た。
「今、みんな前を向きすぎ!」
ククルが言う。
「詰まってるの、情報じゃなくて空気の方!」
「分かってる!」
ナミがまた返す。
「分かってない!」
ククルが一歩強く踏み込む。
「ナミは速い! ユアンは受けきれてない! シンゴは今、二つ先まで喋ってる!カオルまで黙りすぎてる!」
その言葉が刺さった。
正確には、全員に均等に刺さったわけではない。
でも、誰も完全には無視できなかった。
カオルの眉がわずかに寄る。
ユアンが歯を噛む。
シンゴの口が一瞬だけ止まる。
ナミの指先がほんの刹那、端末上で硬直した。
だが、その一拍が致命傷になるほど、今の事象は甘くない。
「障害物、来る!」
ユアンが叫ぶ。
カオルが手動補正へ深く入った。
機体は避ける。
だが、避けた代償として補助制御へ負荷が跳ね、シンゴのモニターが赤く染まる。
「っ、まずい!」
シンゴが言う。
「今の補正で負荷偏り拡大! 左補助系が完全に泣く!」
「泣くじゃ分からない!」
ナミが言う。
「数値で!」
「今出す!」
シンゴが返す。
「だから待って!」
「待てる状況じゃない!」
ユアン。
「医療席、C区画の一人が過呼吸傾向!」
キャットが低く言う。
「もう一人も引っ張られる。今、誰か一人寄越して、私一人じゃ遅い」
「誰が行ける!?」
カイエが言う。
「今、全員手が埋まってる!」
「私、行く!」
ククルが動きかける。
「待って!」
キャットがすぐ止める。
「ククルが抜けると、今度は後ろが死ぬ!」
「でも!」
「今はダメ!」
キャットが珍しく語尾を切った。
「今のククルは後ろにいなさい!」
ククルは唇を噛む。
分かる。
分かるけど、動けないのは苦しい。
客席で、そのやり取りを見ていたミラが静かに言う。
「……かなりきついですね」
「ええ」
ランも低く答える。
「連携が乱れ始めてる。まだ崩壊ではないけど、明らかに一手遅くなってる」
「対応が後手ね」
エリンが言う。
「最初は一歩先にいたのに、今は異常の後ろを追いかけ始めてる」
「そこが見たかったのよ」
ペルシアが腕を組んだまま言う。
「整ってる時は良い。でも、重さをかけた時にどうなるか、今のカオル達は、一つの異常なら先手で取れる。でも複数が絡んだ瞬間に、まだ“どこを捨てるか”が甘い」
その言葉の通りだった。
今のカオル達は、全員が真面目に全部を拾おうとしていた。
誰も怠けていない。
誰も投げていない。
だからこそ苦しい。
捨てるべきものを、捨てきれない。
◇
「ナミ!」
カオルが言う。
「今切れる情報だけ切れ!」
「切ってる!」
ナミが返す。
「でも切った先で別の異常と繋がる!」
「シンゴ、補助制御どうなってる!」
ユアン。
「戻してる途中!」
シンゴが叫ぶ。
「でも今度は機関側へ負荷が流れた!」
「なんでそうなるの!」
ナミ。
「僕に言わないでよ!」
シンゴ。
「だから、ぶつからないで!」
カイエが一段強く言う。
「ナミ、今すぐ死ぬやつだけ!シンゴ、時間付きで言って!ユアン、受ける量を自分で切って!カオル――」
一瞬、言葉が詰まる。
カオルの背中が、少しずつ硬くなっているのが見えたからだ。
今の彼は、操縦に集中している。
それ自体は正しい。
でも、前で一人になる方向へ寄り始めている。
カイエは、それを止めたかった。
けれど、止める言葉を選ぶ余裕が一瞬遅れた。
「カオル、今一人で持ちすぎ――」
「分かってる」
カオルが初めて強く返した。
その声に、場が一拍だけ凍る。
ククルが息を呑んだ。
ユアンも一瞬だけ視線を寄せる。
ナミの目が細くなる。
シンゴの指がほんの少し止まる。
キャットが眉を上げる。
その一拍が、また遅れを生む。
「今のズレで、前方再計算遅れた!」
ナミが舌打ち混じりに言う。
「先に言えよ!」
ユアン。
「今言ってる!」
「二人とも黙って!」
ククルが思わず叫んだ。
「今、声のぶつかりで何も入ってない!」
カイエがそこで深く息を吸い、声の高さをわざと落とした。
「聞いて」
カイエが言う。
「今、全員崩れかけてる。だから、一個ずつ戻す。ナミは前方だけ、シンゴは補助制御だけ、キャットはC区画だけ、ククルは空気の乱れだけ見て。ユアンはカオルの補助に専念、カオルは、前だけ抜けて」
短かった。
必要最低限だった。
だが、それが今の全員にはようやく届く。
「……了解」
ナミが最初に答えた。
「分かった」
シンゴ。
「任せて」
キャット。
「うん!」
ククル。
「了解」
ユアン。
最後に、カオルが一拍遅れて言う。
「……分かった」
その返事には、まだ硬さが残っていた。
でも、完全には切れていない。
そこから、ほんの少しずつ、チームは踏みとどまり始めた。
前方障害物の再計算。
補助制御の最低限の戻し。
C区画仮想乗員の一時安定。
空気の乱れの抑制。
すべてが一手遅れだ。
だが、一手遅れのままでも、崩壊だけは避ける。
そんな綱渡りの形へ、ようやく移りつつあった。
客席で、エリンが小さく息を吐く。
「踏みとどまったわね」
「ええ」
クリスタルが言う。
「ギリギリだけど」
「でも、綺麗じゃない」
ペルシアが笑う。
「かなり泥臭い、いいわね。そういうの、嫌いじゃない」
「貴方は本当に……」
エリンが呆れたように言う。
「壊しかけておいて、その感想?」
「壊れてないでしょ?」
ペルシアが言う。
「まだ生きてる。それなら上出来よ」
その言葉は、厳しいようでいて、どこか本心だった。
舞台の上では、まだ警報アラームが鳴り続けている。
カオル達の連携は、確かに乱れた。
対応は明らかに後手へ回った。
全員の言葉が前へ出すぎて、空気がぶつかり、詰まり、遅れた。
けれど、それでも。
まだ終わっていない。
まだ、崩れていない。
そのぎりぎりの線の上で、カオル達は歯を食いしばって立っていた。
ーーーー
それでも――警報は止まらなかった。
甲高いアラームが、容赦なく特設ブースの天井と壁を叩き続ける。
補助航路異常。
環境値低下。
通信ノイズ。
外部センサー乱調。
前方障害物接近。
仮想乗員の心理反応悪化。
機関部出力偏差。
異常の表示は消えるより先に増え、対処したはずの項目の横にまた別の警告が重なっていく。
まるで、どれか一つを掴んだ瞬間に別の二つが逃げ出すみたいだった。
カオル達は、まだ崩れていない。
だが、明らかに食われ始めていた。
先に動くのではなく、後から追う形。
組み立てるのではなく、壊れないように支える形。
最初の整った強さは、もう見えない。今あるのは、噛み合いきらない歯車を必死に押し戻す音だけだった。
「補助航路、また一つ死ぬ!」
ナミが言う。
「戻し先が足りない、しかも通信ノイズのせいで外部予測の精度が下がってる!」
「前方障害物、まだ散ってる!」
ユアンが声を張る。
「いや、散ってるんじゃない、こっちの進路へ寄せられてる! これ、嫌がらせだろ!」
「機関部の負荷配分、もう限界に近い!」
シンゴが端末を睨みながら言う。
「でも、どれを先に切るか一個でも間違えたら、今度は別のところが死ぬ!」
「C区画、二人目が追従反応!」
キャットが言う。
「一人が崩れると、もう一人も引っ張られる! 環境値のせいで焦燥が増幅してる!」
「後ろの空気、また詰まってる!」
ククルが言う。
「今、誰もが“先に言わなきゃ”になってる!」
だが、ククルがそう言っても、場はすぐには戻らなかった。
ナミの指は速い。
ユアンの反応も速い。
シンゴの仮説も鋭い。
キャットの判断も遅くない。
だからこそ、止まりかける。
全員が“自分が最適を出さなきゃいけない”に入ってしまえば、チームは時々、一人ひとりの正しさで沈む。
ナミの手が、端末の上で一瞬だけ止まった。
「っ……」
その目に、初めて迷いが走る。
「優先順位が、また変わる……今度はどっちを先に――」
ユアンも、前方障害物と補助航路情報の狭間で歯噛みする。
「くそ……これ、どっちだ……前を抜けても後ろが死ぬ。後ろを待つと前が遅れる……」
シンゴの喉が鳴る。
「僕……いや、違う、今は――これ、どの仮説を最初に言えば――」
キャットも、珍しく眉間へ皺を寄せた。
「……まずいわね。こっちも、切る順番を一個でも間違えると空気ごと持っていかれる」
観客席の巨大モニターに映るのは、ほんの数秒の沈黙にも満たない揺らぎだ。
だが、見る者が見れば、それがどれほど危ういものかは一目で分かった。
客席で、ペルシアが小さく息を吐く。
「……ここまでかな」
その言葉は、諦めではなかった。
冷たい判定だった。
まだ終わってはいない。
だが、このままなら終わる。
今の一瞬で、それが見えたのだ。
ホーネットが思わず振り返る。
「え……」
ユウコも息を呑む。
「そんな……」
エリンは何も言わなかった。
ただ、じっと見ていた。
ブースの中。
止まりかけた空気。
誰もが自分の正しさに閉じかけた瞬間。
その時だった。
「止まるな!」
声が重なった。
ほとんど同時だった。
カオル。
カイエ。
ククル。
三人の声が、一つの刃みたいに場へ走った。
観客席の空気まで、一瞬で裂けたように感じるほどの強さだった。
ユアンが反射的に顔を上げる。
ナミの指先が止まる。
シンゴが息を呑む。
キャットの視線が前を向く。
「深呼吸しろ」
カオルが言った。
短い。
でも、低く、芯がある。
「そんな場合じゃ――」
ユアンが反射で言い返しかける。
「ほら、みんな」
カイエが通す。
「今」
「こうやって!」
ククルが、自分で大きく息を吸い込んでみせた。
吸って。
吐いて。
たったそれだけの行為。
だが、それが今のチームには、一番遠かった。
ククルはわざと大げさなくらい、肩が上下する呼吸を見せる。
「吸って!吐いて!いいから、一回だけ!」
カイエも続ける。
「今、手を止めていい!一秒だけでいいから、呼吸!」
ナミが歯を食いしばる。
ユアンが舌打ちを飲み込む。
シンゴが端末から目を離せずにいたが、それでも一度だけ目を閉じた。
キャットは浅く息を吐いてから、深く吸った。
そして――。
全員が、深呼吸した。
たった一回。
たった一回だけ。
でも、その一回で、張りつめきった糸がほんの少しだけ緩んだ。
ナミの肩が落ちる。
ユアンの顎が下がる。
シンゴの指先から力みが抜ける。
キャットの瞳の焦点が戻る。
その瞬間だった。
「カイエ、頼む」
カオルが言う。
「操縦は任せろ」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
強くはある。
だが荒くない。
押しつけでもない。
“前は俺が持つ。だから後ろを整えてくれ”という、明確な委ね方だった。
カイエの目が細くなる。
一拍。
「任された」
カイエが声を出した。
その返答に迷いはない。
カオルが前を持つ。
なら自分は、後ろを整える。
その決断が、カイエの中で一瞬で定まる。
「ユアン」
カイエが言う。
「ナミと一緒にシステム対応。二人で優先順位を作って。ユアンは操縦補助だけじゃない。ナミの情報を切る役目も持って」
「……了解」
ユアンが短く返す。
「ナミ」
カイエはすぐに続ける。
「一人で全部決めようとしない。ユアンに投げて、二人で順番を決めて、今の二人ならできる」
ナミの目が、わずかに揺れた。
それは迷いではなく、届いた証拠だった。
「分かった」
ナミが言う。
「二人で切る」
「シンゴ」
カイエが視線を送る。
「躊躇わずに言って、正しいかどうかを整えてからじゃなくて、今見えてる危険を先に出して。シンゴならできる」
シンゴは、大きく息を吸った。
「……うん。今見えてる一番危ないやつから出す」
「そう」
カイエが頷く。
「それでいい」
ククルが一歩前へ出る。
「私はキャットの所に行く、みんな、いつも通りにやろう」
その一言は不思議だった。
“頑張ろう”でも、“負けるな”でもない。
“いつも通り”。
それだけで、場が戻る。
キャットが、少しだけ口元を上げた。
「助かる。来なさい、ククル。今は“医療を助ける”じゃなくて、“ここの空気を止めない”方を一緒にやるわよ」
「うん!」
ククルが頷く。
◇
そこで、変わった。
最初に変わったのは空気だった。
そして、その中心にいたのはカオルだった。
操縦席に座るカオルの雰囲気が、一段落ちる。
冷たくなったわけじゃない。
重くなったわけでもない。
ただ――静かになった。
あれだけ前へ出ていた焦りが、すっと沈む。
怒りも、苛立ちも、勝ちたいという熱も、全部一回底へ落ちたようだった。
残ったのは、ただ冷静さだけ。
巨大モニター越しでも、それは分かった。
カオルの肩から余計な力が抜ける。
視線が狭まるのではなく、むしろ広がる。
前方障害物だけでなく、その奥にある流れごと掴むみたいに目が変わる。
「……え」
ホーネットが、思わず声を漏らした。
「なに、今」
ユウコも小さく呟く。
エリンは何も言わない。
だが、その目ははっきりと開かれていた。
ペルシアも、初めて笑みを消していた。
カオルの声が、もう一度飛ぶ。
「ユアン、前方障害物の予測は三つ先までいらない。次の二手だけでいい。ナミの情報は、お前が先に切れ」
「了解」
ユアンが返す。
今度は迷いがない。
「ナミ」
カオルが続ける。
「今すぐ死ぬのは前方と補助航路だけ。環境値はキャットに任せる。だから、お前はそこへ迷うな」
「……分かった」
ナミが短く答える。
声から余計な尖りが消えていた。
「シンゴ、一番危ない負荷だけ。理由は後でいい」
「右補助制御!」
シンゴが即答する。
「ここが落ちると前方回避の戻しが全部死ぬ!」
「それで十分だ」
カオルが言う。
そのやり取りは、数秒前までのカオルとは別人みたいだった。
急いでいないわけじゃない。
だが、急ぎの中で慌てていない。
前で全部を受けているのに、前へ出すぎない。
後ろの人間が何を持って、何を捨てるべきかを、もう言葉にしなくても分かる位置に立っている。
客席の遠く。
一般席から少し外れた、関係者用のエリア。
そこに座っていたリュウジの背筋が、すっと凍った。
気配に近いものだった。
モニターの中のカオルの変化。
その冷たさではない冷静さ。
前へ立つ人間だけが持つ、あの静かな温度。
「……」
リュウジは何も言わない。
だが、その眼差しが一段深くなる。
その隣にいたブライアンも、腕を組んだままゆっくりと目を細めた。
「おいおい……」
低い声が漏れる。
「今の、分かったか」
さらにその横、ブルンクリンも口元の笑みを消していた。
「ええ」
ブルンクリンが静かに言う。
「踏み込んだな」
リュウジの視線は、ずっとカオルのままだった。
そして、心の中で理解する。
――カオルが、こちら側に今、一歩踏み入れた。
それは技術の話だけではない。
操縦がうまい、判断が速い、そういうレベルではない。
極限の中で、前を預かる人間が持つ“空気の温度”。
自分が焦れば全員が死ぬと分かった時に、熱を底へ沈めて、ただ冷静さだけを残す在り方。
それが、今のカオルには確かにあった。
ブライアンが低く笑う。
「面白ぇじゃねえか。ようやくかよ」
ブルンクリンも、小さく息を吐いた。
「まだ一歩だ」」
リュウジは答えない。
ただ、その目だけがカオルを追っていた。
◇
ブースの中では、その変化がはっきり効き始めていた。
「ユアン」
カオルが言う。
「前方二手先、切って」
「切った」
ユアンが返す。
「次は左へ半歩。その後、右の死角に小さいのが二つ」
「十分」
カオル。
「ナミ、補助航路の戻し、右からやると遅い。左から切り返せ」
「そうね」
ナミが端末を叩く。
「左起点なら、通信ノイズの影響も少ない。いける」
「シンゴ、そのまま補助制御支えろ。落ちる前に戻す」
「了解!」
シンゴの声が、ようやくいつもの熱に戻る。
「右補助、もう少しで持ち直す!」
後方では、カイエがその流れを見ながら短く全体を繋いでいく。
「いい」
カイエが言う。
「今のまま、誰も二つ先まで持たなくていい。一個先だけ、確実に渡して」
その言葉は、命令ではある。
でも、支配ではない。
場を押さえつけず、整えるための声だ。
ククルはキャットの横へつき、医療席の空気を回していた。
「大丈夫」
ククルが言う。
「焦ってるのは“痛い”からじゃない。怖いから、だから今は、落ち着く言葉の方を先に渡す」
「うん、それ」
キャットがすぐに拾う。
「C区画一人目へ安心ワード先行、二人目は呼吸誘導。ククル、テンポ合わせて」
「任せて!」
ククルが言う。
ククルの凄みは、そこだった。
普段のククルは明るい。
元気で、勢いがあって、場の空気を軽くする。
けれど本当に必要な時、ククルは“軽さ”を捨てないまま、場の芯へ踏み込める。
強い言葉で押しつぶさない。
でも、止めるべきものは止める。
柔らかいのに逃げない。
それが、今は誰よりも効いていた。
カイエの凄みは別の場所にある。
カイエは、自分が目立つことへ執着しない。
誰が今、何を持つべきか。
どの言葉を前へ出し、どの言葉を切るべきか。
その組み立てに徹する。
自分が全部やらない。
だが、全員に“自分の役割”を持たせる。
それができる人間は、実は少ない。
そして、カオルの凄みは――今、ようやく表へ出た。
極限で熱くならないこと。
冷たくもならないこと。
ただ静かに、前を預かること。
それは、一見すると何も変わっていないようにも見える。
だが、それを感じ取れる人間には分かる。
今のカオルは、さっきまでのカオルとは違う。
あらゆるノイズの中で、捨てるべきものを捨てる。
受けるべき情報だけを受ける。
自分の焦りを、誰にも触らせない。
それでいて、後ろを信じて委ねる。
「……っ」
ユアンが小さく息を吐いた。
「今ならいける」
「いけるわ」
ナミが答える。
「今、ちゃんと見えてる」
「僕も戻せる!」
シンゴが言う。
「あと少しで右補助が持ち直す!」
「そう」
カイエが言う。
「それでいい」
ククルも笑った。
「ほら、大丈夫じゃん!」
「まだ大丈夫と決めるのは早い」
キャットが言う。
「でも、さっきよりはずっといい」
「それで十分!」
ククルが明るく返す。
そして、その明るさはもう軽くは見えなかった。
今のククルの声には、ちゃんと重さを越えてきた人間の明るさがあった。
客席で、エリンが小さく呟く。
「……すごいわね」
誰へ向けた言葉なのか、一瞬では分からない。
カオルへか。
カイエへか。
ククルへか。
たぶん、その全部だった。
ペルシアは、ゆっくりと口元を上げる。
「まだ終わってないけど、面白くなったじゃない」
その声には、さっきまでの試すような悪意ではなく、純粋な興味と愉悦が混じっていた。
舞台の上では、警報はまだ鳴っている。
異常は消えていない。
事象の重さも変わらない。
だが、チームの空気だけが変わった。
後手のままでも、死なない。
遅れていても、崩れない。
その形へ、今、確かに踏み込んでいた。
そして、その中心で。
カオルは、静かに前を見ていた。
ククルは、明るいまま誰よりも深く踏み込み、
カイエは、全員の力を一つの流れへ変え続けていた。
それは、ただ上手いだけでは届かない場所の凄みだった。
ーーーー
それでも、警報は消えなかった。
耳に刺さるアラームは相変わらずブースの中で鳴り続け、モニターの端には赤い警告表示がいくつも残ったままだ。
前方障害物の注意喚起。
補助航路の異常。
環境値低下。
通信ノイズ。
機関部負荷偏り。
仮想乗員の精神反応。
何一つ、優しくなってはいない。
なのに――。
チームの空気だけが、少しずつ変わり始めていた。
さっきまでのカオル達は、警報の後ろを追いかけていた。
押し寄せる異常へ反応するたび、一歩遅れ、一手遅れ、その遅れを埋めようとしてさらに詰まる。
だが今は違う。
状況の重さは変わっていない。
むしろ、負荷そのものはなおも高いままだ。
それでも、あの一度の深呼吸と、三人の「止まるな」の声から、場に一本の芯が通っていた。
「ユアン」
カオルが低く言う。
「前方障害物、次の二手だけでいい、ナミの情報から先に切れ」
「了解」
ユアンの返答は、もうさっきみたいに尖っていない。
「前方二手、右上の小群を切れば、その後は左の死角に小が二つ、大きいのは来ない」
「十分だ」
カオルが言う。
「ナミ、補助航路は左起点で戻せ。通信ノイズに引っ張られるな」
「分かった」
ナミが即答する。
「右は捨てる、左から戻す。今必要なのはそこだけ」
「それでいい」
カイエが、全体へ届く声で言う。
「今、全部を綺麗にしなくていい、死ぬものを先に殺さない。それだけ」
「右補助制御、まだ苦しい!」
シンゴが言う。
「でも、今なら戻せる!二十秒あれば最悪ラインは超えない!」
「言い切って」
カイエがすぐに返す。
シンゴが、大きく息を吸った。
「二十秒で戻す!少なくとも崩壊ラインは越えさせない!」
「よし」
カイエが頷く。
「その言葉で十分」
ククルはキャットの横につき、医療席の情報と仮想乗員の空気の両方を拾っていた。
「一人目、まだ怖がってる」
ククルが言う。
「苦しいより、怖いが先に来てる。二人目はそれに引っ張られてる、言葉、強くしない方がいい」
「うん」
キャットがすぐに拾う。
「安心ワード優先、呼吸誘導、ゆっくり。ククル、テンポ合わせて」
「任せて」
ククルが言う。
その返しの軽さが、今は頼もしかった。
アラームは消えない。
事象も重い。
けれど、もう誰もそれに“飲まれて”はいない。
◇
客席側でも、その変化ははっきりと見えていた。
「……落ち着いた」
ミラが、思わずそう呟いた。
「ええ」
ランが頷く。
「まだ危ないですけど、さっきみたいな“全員が前に出る怖さ”が消えました」
「そうね」
エリンが言う。
「負荷は変わっていないわ。でも、見ている場所が変わった」
「見ている場所?」
クミコが聞き返す。
エリンはモニターを見たまま答える。
「さっきまでは、みんな“自分が今見てる異常”に食われてた。でも今は違う。“自分は何を持つべきか”が戻ってるの。そこが違うのよ」
「ほんとだ……」
ミドリが言う。
「同じ警報が鳴ってるのに、雰囲気が全然違う」
「それがチームの強さ」
クリスタルが静かに言った。
「状況が軽くなったから落ち着くんじゃない。重いままでも、自分達の流れへ戻せるかどうか」
ホーネットが、目をまんまるにしてモニターを見ていた。
「すご……さっき、ほんとに終わるかと思ったのに」
「私も一瞬そう思った」
ユウコが素直に言う。
「でも今、全然違って見える。なんか、怖くない。いや、怖いんだけど……でも、もう“大丈夫じゃない”感じではないというか」
「分かります」
サリーも小さく言う。
「危ないのに、変に安心する感じです。ちゃんと、誰かが前に立ってるから……」
その言葉に、ペルシアが口元を上げた。
「いい見方ね。誰かが前に立つって、ああいうことよ」
◇
ブースの中では、カオルの空気がさらに落ち着きを増していた。
冷たいわけじゃない。
情がないわけでもない。
ただ、熱が静かに沈んでいる。
あれだけ重なった異常の中で、カオルは今、自分の焦りをもう誰にも触らせていない。
前方障害物を抜ける。
必要な指示を飛ばす。
後ろへ預ける。
返ってきたもののうち、必要なものだけを取る。
その流れが、恐ろしいほど滑らかになり始めていた。
「ユアン」
カオルが言う。
「次の障害、右を切って左へ半歩。その後、補助航路戻しの揺れが来る。そこだけ見ろ」
「了解」
ユアンが即答する。
「右切り、左半歩、補助揺れ見る。今の俺、それだけでいいんだな?」
「それでいい」
カオル。
ユアンは、そこで初めて迷いなく動いた。
副操縦士としての自分の持ち場が、今、明確に見えている。
それ以上でも、それ以下でもない。
そこへ集中していいと前から言われるだけで、人はこんなにも変わる。
「ナミ」
カオルは続ける。
「システムは補助航路だけ見ろ。他は今いらない」
「了解」
ナミの声から、ようやく棘が消えた。
「補助航路へ集中する。通信ノイズは切る。環境値は共有済み」
「シンゴ」
「右補助制御、崩壊ラインの手前で固定できるか」
「できる!」
シンゴが今度ははっきり言った。
「綺麗には戻せないけど、死なせない」
「それでいい」
カオルが言う。
その一言が、シンゴの背を押した。
綺麗じゃなくていい。
完璧じゃなくていい。
今は死なせないことが優先。
その切り替えが、ようやく全員へ浸透し始めていた。
「キャット、C区画どう?」
カイエが聞く。
「一人目、呼吸戻りつつある」
キャットが言う。
「二人目も追従落ち着いてきた、ククルの言葉選びが効いてる」
「ククル」
カイエが呼ぶ。
「うん!」
「今のまま、いい」
「任せて!」
ククルが返す。
その明るさに、もう無理はなかった。
さっきの「止まるな」で、ククルは自分の踏み込み方を決めたのだ。
ククルの凄みはそこにある。
普段のククルは、明るい。
元気で、人懐こくて、勢いで空気を柔らかくする。
けれど、本当に必要な時、ククルはその明るさを失わないまま、恐ろしいほど深いところまで踏み込める。
人の焦りを見逃さない。
誰が今、言葉でぶつかりそうか分かる。
何を言えば止まって、何を言うと逆に硬くなるかも、感覚で掴む。
しかも、それを“怒り”だけでやらない。
押しつぶすのではなく、止める。
あの瞬間、ナミとユアンとシンゴとカオル、全員へ届く声を出せたのは、今の場ではククルしかいなかった。
◇
客席のエリンが、その姿を見つめながら小さく言った。
「……すごいわね」
その声に、ペルシアが静かに頷く。
「ええ、正直、想像以上」
クリスタルも腕を組み直した。
「ククル、かなり深いところまで見てる。ただ場を和ませるだけじゃない、止めるべき時に、ちゃんと止められる」
「そう」
エリンが言う。
「それも一人か二人じゃなくて、複数に同時に届く形で、しかも、無理やりじゃない」
ホーネットが目をぱちぱちさせる。
「ククル、そんなにすごいの?」
「すごいわよ」
ペルシアがあっさり言う。
「今のククル、チーフパーサー級」
「ち、チーフパーサー級!?」
ユウコが目を丸くする。
「ええ」
ペルシアはさらっと言った。
「少なくとも、“空気が死ぬ一歩手前”を察知して、あの形で切れるなら、その域に足を突っ込んでる」
クミコが息を呑む。
「そんなに……」
「そんなに、よ」
エリンが静かに言う。
「まだ若いし、荒さもある。でも、今の踏み込み方は本物。必要な時に、自分が嫌われるかもとか、出しゃばりと思われるかもとか、そういうのを超えて場へ入れる人は強いの」
「しかも」
クリスタルが続ける。
「さっきのククル、自分が目立とうとしてない。“私が何とかする”じゃなくて、“みんなを戻す”方へ入ってる。そこが一番大きい」
ミラが、じっとモニターを見つめたまま言う。
「……ほんとだ。前に立つんじゃなくて、前に立てるように空気を戻してる」
「ええ」
エリンが頷く。
「それが出来る人は、上に行けるわ」
そして、カイエ。
ブースの中で、カイエは目立った動きをしていない。
前へ出て、全部を指揮しているようにも見えない。
でも、全員の情報がどこで詰まり、どこで流れ、誰に何を持たせるべきか、その判断だけはぶれずに続いていた。
「カイエも良いわね」
クリスタルが言う。
「ええ」
エリンの声に、わずかな熱が混じる。
「本当に良い。今のカイエ、完全に“整える人”になってる」
「前のカイエなら、あそこで自分が全部拾いに行ったでしょ」
ペルシアが言う。
「でも今は違う。ユアンにはユアンの役目を持たせて、ナミにはナミの役目を持たせて、シンゴには“言い切れ”って押し出してる、自分が全部やる方が、たぶんあの子には楽なのにね」
「そうなのよ」
エリンが言う。
「自分で抱えた方が早いって思える人ほど、人に持たせるのは難しい。でも、カイエは今それをやってる。しかも、場を押さえつけずに」
ランが、小さく息を漏らした。
「……カイエさん、すごいですね」
「すごいわ」
エリンははっきり言った。
「今のカイエも、チーフパーサー級。少なくとも、“自分が全部やらないことで、全体を強くする”って意味では、もうそこまで来てる」
「ええっ」
クミコがまた声を上げそうになり、慌てて口を押さえる。
「それ、そんなにすごいことなんですか?」
ミドリが聞く。
「すごいことよ」
クリスタルが言う。
「自分が優秀な人ほど、つい自分で回したくなるから。でも、本当に強い上役は、人に役割を持たせる、その方がチームが死なないって知ってるから」
「今のカイエ、完全にそれだものね」
ペルシアが笑う。
「自分が目立つ形は選ばないのに、いないと絶対回らない。いやらしいくらい強いわ」
エリンは、その言葉に少しだけ口元を緩めた。
「ええ、本当にね」
◇
そして、カオル。
モニターの向こうで、彼は今も前を見ている。
警報はなお鳴っている。
負荷は軽くなっていない。
だが、今のカオルの周囲には、もうさっきまでの焦りがない。
それは単なる落ち着きじゃない。
極限の中で、前を預かる人間だけが持つ温度だった。
冷たくない。
重くない。
ただ、静かで、ぶれない。
前方障害物の次の二手。
補助航路の戻し。
システムの切り方。
全部を見ているわけではない。
だが、自分が見るべきものだけを絶対に外さない。
その姿を見ながら、エリンは低く言った。
「……カオルも、完全に変わったわね」
「ええ」
ペルシアの声にも、もう軽さはなかった。
「驚いた、あそこまで落とせるとは思わなかった」
「落とせる?」
ユウコが聞き返す。
クリスタルが答える。
「熱を、よ。焦りとか、苛立ちとか、“自分が何とかしないと”っていう熱を、一回底へ落としたの。そうすると、前に立つ人間の視界は一気に変わる」
「それって……」
ナツキが小さく言う。
「そんな簡単に出来ることじゃないですよね」
「出来ないわよ」
エリンが即答した。
「普通は」
そして、わずかに目を細める。
「今のカオル、S級に遜色ないわ」
その言葉は、若い乗務員達の胸へ重く落ちた。
「そこまで……?」
クミコが小さく言う。
「ええ」
エリンは頷く。
「技術だけじゃない。極限で前を預かる在り方が、もうその域へ足をかけてる」
「今の一歩、すごく大きい」
クリスタルが言った。
「まだ完全に“向こう側”へ渡ったわけじゃない。でも、今のあれを一回でも掴んだ人間は強い。しかも、それを一人で完結させてない、後ろへちゃんと委ねてる。そこがさらに怖い」
ペルシアが、珍しく感心を隠さずに笑った。
「へぇ……面白いわね、あの子。勝ちたいって熱い顔してたくせに、あそこまで冷静になれるんだ」
「熱いからこそよ」
エリンが言う。
「本当に勝ちたい人って、最後は熱だけじゃ足りないって分かるもの。そこで、ああやって落とせるかどうか」
ホーネットが、思わず身を乗り出した。
「なんか、もう別の人みたい」
「別人じゃないわよ」
エリンは小さく首を振る。
「もともと持ってたものが、今ようやく出ただけ」
「そう」
ペルシアが言う。
「だから怖いのよ。“今、突然覚醒しました”の方がまだ読みやすい。もともとあって、まだ表に出てなかっただけの方が、ずっと厄介」
客席の遠く。
関係者席に座るリュウジは、モニターの中のカオルから一瞬たりとも目を離していなかった。
その隣のブライアンも、ブルンクリンも同じだった。
「おいおい……」
ブライアンが低く笑う。
「本気でこっち来やがったな」
「ええ」
ブルンクリンが静かに言う。
「まだ一歩。だが、大きい」
リュウジは何も言わない。
ただ、その眼差しだけが深かった。
◇
ブースの中では、ようやく事象の波が少しずつ薄くなり始めていた。
補助航路が戻る。
環境値の低下が鈍る。
前方障害物は抜けた。
C区画の仮想乗員反応も、キャットとククルの連携で落ち着きを取り戻していく。
アラームの音量が、一段下がる。
「右補助制御、戻った!」
シンゴが言う。
「補助航路、最低限復旧!」
ナミが続く。
「前方クリア」
ユアン。
「C区画、安定」
キャット。
カオルは、その全部を聞いた上で、最後に短く言う。
「そのまま保て、終わりまで崩すな」
「了解」
全員の声が重なった。
その重なり方が、もう最初とは違う。
勢いではない。
揃っている。
やがて、最後の確認が流れ、シミュレーション終了の電子音が鳴った。
ほんの一瞬の静寂。
そのあと――。
会場全体が拍手に包まれた。
大きな拍手だった。
最初は波のように広がり、次第に中央ホール全体を満たしていく。
一般客も、企業関係者も、参加チームの控え選手達も、皆それぞれの驚きと熱を込めて拍手していた。
あの重い事象の束を。
あの崩れかけた流れを。
あそこから持ち直し、最後は安定感さえ増して終えたのだ。
拍手が大きくならないわけがなかった。
客席で、ホーネットが目を輝かせた。
「やった!」
「すごい……」
ユウコが思わず言う。
「ほんとに乗り切った」
「すごいじゃ済まないかも」
シルヴィアが静かに呟く。
その横で、エリンとペルシア、クリスタルの表情はむしろ引き締まっていた。
拍手に紛れて笑うでもなく、ただ真剣にモニターの中のカオル達を見ている。
「あのまま、乗り切ったか」
ペルシアが低く言う。
「ええ」
クリスタルが頷く。
「しかも、崩れたところから持ち直して、そこから安定感が増した」
「そうね」
エリンも静かに言う。
「普通なら、崩れかけた後は“立て直しただけ”で終わる。でも、あの子達は違った。立て直した後の方が、最初より噛み合ってた」
それは、驚くべきことだった。
整った状態から始まって、崩れかけて、そこから戻る。
普通は戻るだけで精一杯だ。
だが、カオル達は戻った先で、最初よりも明確な役割分担と温度を手に入れていた。
「ククルとカイエと、カオルの声かけは良かったわね」
エリンが言う。
ペルシアが頷く。
「ええ、どれか一人だけでも足りなかった。三人とも、違う役割で止めてた」
「ククルは空気」
クリスタルが言う。
「カイエは構造、カオルは前」
「そう」
エリンの声は静かだったが、熱があった。
「ククルは“今、みんなが何に飲まれてるか”を一番早く見つけた。カイエは“誰に何を持たせるか”を再構築した。カオルは“前を預かる人間の温度”を一段変えた」
「しかも、全部一瞬だった」
ペルシアが言う。
「躊躇ったら終わる場所で、ちゃんと切った。いやぁ……ほんと、面白い」
その“面白い”は、もう軽さではなかった。
「カイエは完全にチーフパーサー級ね」
クリスタルが言う。
「今のはもう“優秀なコックピットコンディション”の枠じゃない。人を持たせて、場を再構築して、全体を生かしてる。上に立つ人間のやり方よ」
「ええ」
エリンは頷いた。
「ククルもそう、タイプは違うけど、あの子もチーフパーサー級。場の死にかけた空気を、あの形で切って戻せるのは強い。しかも、明るさを失わないのがさらにいい」
「分かるわ」
ペルシアが笑う。
「ククルって、ふわっとしてるように見えて、一番怖いところで逃げないもの。必要な時に、自分が嫌われるかもとか、出しゃばりかもとか、そういうのを全部飛び越えて入れる。それ、上に立つ人間に必要なのよ」
「そしてカオル」
クリスタルがそこで言葉を切った。
「……あれは、もうS級に遜色ない」
その断言に、若い乗務員達が息を呑む。
だが、エリンもペルシアも否定しなかった。
「ええ」
エリンが静かに言う。
「少なくとも、今のあの瞬間は完全にそうだった。技術だけなら元々高かった。でも、今日のは違う。極限で、前を預かる人間の温度を持った」
「S級って、結局そこなのよね」
ペルシアが言う。
「上手いだけじゃなれない。速いだけでも、強いだけでも足りない。全員の命綱が自分へ集まった時に、熱を落として冷静になれるかどうか。今のカオルは、それをやった」
エリンは、モニターの中で拍手を浴びるカオル達を見つめながら、ほとんど独り言みたいに呟く。
「追いかけてきたのね」
「ここまで」
「追いつきかけてるわね」
ペルシアが言う。
「少なくとも、もう“ただ見上げる側”じゃない」
そして、その言葉の意味を一番強く理解していたのは、きっと遠くの関係者席にいるリュウジ本人だった。
だが、今この客席の一角でも、十分すぎるほど伝わっていた。
カオルは、強くなった。
ククルは、深くなった。
カイエは、上へ上がった。
その事実が、拍手の中でもはっきりと感じられた。
中央ホールの熱気はなおも高い。
けれど、スペースホープの客席だけは別の熱を持ち始めていた。
誇らしさ。
驚き。
少しの悔しさ。
そして、もっと高い場所を知ってしまった時の、静かな高揚。
エリンはゆっくりと息を吐いた。
「……いいものを見せてもらったわね」
その声音には、教師の満足も、先輩の誇りも、そして同じ“前を預かる人間”としての素直な敬意も混じっていた。
ペルシアが小さく笑う。
「でしょ?私、結構いい仕事したんじゃない?」
「事象を盛ったこと?」
クリスタルが冷たく返す。
「そこも含めてよ」
「最低」
クリスタルが言う。
エリンは苦笑したが、否定はしなかった。
たしかに。
あれだけ重く、意地悪で、過負荷な事象だったからこそ、今のカオル達の実力ははっきりと浮かび上がったのだから。
拍手の中。
モニターの向こう。
崩れかけた先で一段上へ進んだ三人の姿は、あまりにも鮮烈だった。