拍手は、しばらく止まなかった。
中央ホールのあちこちから送られるその音は、ただ「よくやった」という称賛だけではなく、驚きや、感嘆や、「あそこから立て直したのか」という半ば呆然とした感情まで含んでいるようだった。
特設ステージのブースの中で、カオル達はまだその拍手を受け止めきれていない顔をしていた。
ユアンは大きく肩で息をしながら、操縦席の横で前髪をかき上げる。
ナミは端末に手をついたまま、まだ自分の鼓動が速いことに今さら気づいたように息を吐いた。
シンゴは、ようやく全部の警告表示が落ち着いたモニターを見つめながら、呆けたように「終わった……」と小さく漏らしている。
キャットは、そんな全員の様子を見て「いい顔してるじゃない」と笑ったが、その本人もいつもより呼吸が深かった。
ククルは、拍手の波が押し寄せるたびに目を丸くし、何度も「すごい」「すごい……」と繰り返していた。
そしてカイエは、全員がちゃんとブースの中にいて、誰も崩れ落ちていないことを確認するみたいに一人ひとりへ視線を配っていた。
カオルだけは、ほんの少し遅れて、ようやく肩の力を抜いた。
前を向いたまま、大きく息を吸う。
それからゆっくり吐く。
さっき、あの過負荷の中で自分が何を掴んだのか。
それが、まだうまく言葉にならない。
ただ一つだけ分かるのは、あの瞬間、自分は今までと同じ場所にはいなかったということだ。
「……終わったな」
カオルがぽつりと言う。
「終わったぁ……」
ククルが、その場にへなへなとしゃがみ込みそうな勢いで言った。
「死ぬかと思った! いや、死なないんだけど! でも死ぬかと思った!」
「分かる」
シンゴが真剣に頷く。
「僕も、途中でほんとに胃が変な方向へ行きそうだった」
「胃で済んでるだけマシよ」
キャットが言う。
「私は途中で“統括官を後で蹴る”って決めてたもの」
「私も」
ナミが即答した。
「えっ、ナミも?」
ククルが目を丸くする。
「当然でしょ」
ナミはまだ少し尖った声で言う。
「明らかに私達だけ負荷が違った。気づかないわけないじゃない」
カイエも、その言葉に静かに頷いた。
「うん、普通に考えて、あれは重かった。途中から“あ、これ比較にならないやつだ”って分かった」
ユアンは椅子の背にもたれたまま、疲れたように笑った。
「でも、乗り切った……正直、最後の方はほとんど意地だったけどな」
「意地も実力のうちよ」
キャットがさらりと言う。
カオルは、その言葉に何も返さなかった。
ただ、目を閉じて、もう一度だけ呼吸を整える。
拍手はまだ続いている。
けれど、今はそれより先に行く場所があった。
「戻るか」
カオルが言った。
◇
客席では、スペースホープの面々もまだ拍手の余韻から抜け切れていなかった。
エリン、ペルシア、クリスタルの三人は、先ほどまでの鋭い観察の空気をまだ少し残したまま、舞台脇の導線を見ている。
ミラ、アズサ、ハズキは、さっきまでチーム甘党の一員としてブースに入っていたとは思えないほど、今はすっかり“見る側”へ戻っていたが、それでも目の奥には熱が残っていた。
「ほんとに、最後まで乗り切ったね」
ホーネットが言う。
「しかも途中からむしろ強くなってなかった?」
「なってた」
ユウコがすぐに言う。
「最初の落ち着いてる時より、崩れて戻した後の方が、なんか全員噛み合ってた」
「ええ」
エリンが静かに頷く。
「普通は逆なのよ。崩れた後は立て直すだけで精一杯。でも、あの子達はそこから安定感が増した。それが一番大きいわ」
クリスタルも腕を組んだまま言う。
「完全に、一段上へ行ったわね。特にカイエ、ククル、カオル」
その時だった。
客席側の通路から、やや荒い足音が近づいてきた。
最初に見えたのはナミだった。
いつものように整った歩き方ではない。
かなり強めに、一直線にこちらへ向かってくる。
その少し後ろにカイエ。
さらに、その横からククルも大股でついてきている。
遠くからでも、その三人が“ただ感想を言いに来た”わけではないと分かった。
ペルシアはそれを見つけるなり、まるで何も知らない人みたいに軽く手を振った。
「おーい」
「おーい!じゃないですよ!」
ナミがかなり強く言った。
その声に、近くの席の何人かがびくりとする。
だがナミは構わなかった。
ペルシアの前まで来ると、ぴたりと足を止め、言葉を畳みかける。
「私達だけ、明らかに負荷が重かったですよね!?」
「……あら」
ペルシアが目をぱちぱちさせる。
「気のせいじゃない?」
「気のせいなわけないでしょう!」
ナミが言う。
「途中から事象の種類も重なり方も、他のチームと全然違いました!」
「ペルシアさんの仕業ですよね」
カイエが、ナミほど声を荒げずに、しかしはっきりと言う。
その落ち着いた口調の方が、かえって逃げ場がない。
「大変だったんですよ!」
ククルが続ける。
「ほんとに! みんな止まりかけたし、私、喉痛いし! カオルなんてすっごい顔してたんですから!」
「喉って……」
ホーネットが思わず吹き出しそうになる。
だが、ナミもカイエもククルも、今は笑い事ではなかった。
「しかも」
ナミが言う。
「絶対、わざとでしょう!途中から“どこまで耐えるか”を見に来てる感じ、丸出しでした」
「ええ、そうね」
クリスタルが横からさらりと言う。
「丸出しだったわ」
「クリスタルさんまで!?」
ナミが思わず振り向く。
「だって本当だもの」
クリスタルは淡々としていた。
「私も見ててそう思ったし」
ペルシアは、さすがにこれ以上とぼけても無駄だと悟ったのか、苦笑いを浮かべた。
「まぁ……うん、ちょっとだけ、盛った」
「ちょっとじゃなかったですよ!」
ナミが即座に返す。
「そうですよ!」
ククルも乗る。
「ちょっとじゃなくて、かなりです!」
「ええ」
カイエも静かに言う。
「少なくとも、普通の比較対象じゃなかった」
ペルシアはその三人を見て、少しだけ肩をすくめた。
「でも、ちゃんと乗り越えたじゃない。それはすごいことでしょ?」
「すごいことかどうかを決める前に、まず謝ってください」
ナミがきっぱり言う。
その真顔に、ペルシアがとうとう笑った。
「厳しいわねぇ」
「厳しくなりますよ!」
ナミはまだ怒っている。
「本当に、あれはきつかったんですから」
「そうですよ!」
ククルがまた言う。
「でも、でも、ちょっとだけ嬉しかったのもあります! でも大変だったのは大変だったんです!」
「どっちなの」
ホーネットが今度こそ吹き出した。
カイエは小さく息を吐いてから言った。
「……でも。本当に、途中までは危なかった、だから、ちゃんと見てたなら、そこも分かってるはずです」
その言い方には責めるだけじゃない重みがあった。
ただ怒っているのではなく、“見ていた人間”へ対して真剣に返しているのだ。
ペルシアはその空気を受けて、ようやく冗談を引いた。
そして、何も前置きせずに三人の前へ一歩出る。
「はいはい、分かった、分かった」
ナミがまだ何か言おうと口を開きかけた、その瞬間だった。
ペルシアは三人をまとめて抱えるように、ぐいっと抱きしめた。
「よく乗り越えた!」
ペルシアがはっきりと言う。
「私は嬉しいよ」
「ちょっ――」
ナミが目を丸くする。
「えっ、わっ」
カイエも完全に不意を突かれた顔になる。
「うわぁ!?」
ククルはそのまま腕の中で跳ねるように声を上げた。
だが、ペルシアは離さない。
三人ともまとめて抱き込むようにして、そのままぎゅっと引き寄せる。
「本当に」
ペルシアが言う。
「よくやった。正直、あそこまで持ち直すとは思ってなかった。最後のあれ、すごく良かった」
その声には、もう軽さはなかった。
茶化しも、からかいもない。
ただ真っ直ぐな称賛だけがあった。
ナミが、完全に調子を狂わされたような顔で固まる。
カイエも、珍しく本当に困った顔になる。
ククルは驚きと嬉しさで目をぱちぱちさせていた。
「ナミ」
ペルシアが少し身体を離して、その頭をくしゃっと撫でる。
「よく切った、途中で折れなかったの、偉い」
「……っ」
ナミが一瞬だけ言葉を失う。
「そういうの……急にやめてください」
だが、その声は少し震えていた。
ペルシアは次にカイエの頭へも手を乗せる。
「カイエも、すごかった。完全に場を持ち直したでしょ。しかも、自分で抱え込まないで」
カイエは目を見開いたまま、でも逃げなかった。
「……ありがとうございます」
その声は、ほんの少しだけ掠れていた。
すると、その横でククルが両手を上げる。
「私は!?私は撫でないんですか!?」
その言い方があまりにもククルらしくて、周りの何人かが思わず笑う。
ペルシアも吹き出した。
「はいはい、分かってるわよ」
そう言って、今度はククルの頭もわしゃわしゃと撫でた。
「ククルも、すごかった。一番怖いところで止めたでしょ、あれ、簡単に出来ることじゃないからね」
「えへへ……」
ククルが一気に顔を明るくする。
「でしょ!? 私、頑張りました!」
「頑張ったわよ」
ペルシアが笑う。
「すっごくね」
客席に、ようやく柔らかい笑いが戻る。
だが、その中でもエリンとクリスタルの目は、まだ真剣さを残していた。
エリンが、ナミ、カイエ、ククルの三人へ静かに言う。
「本当によくやったわ。ペルシアが余計なことしたのは事実だけど、それでも、あそこを越えたのは貴方達自身よ」
「……はい」
カイエがまっすぐ頷く。
ナミは、まだ少し顔を赤くしたまま、でもきちんとエリンを見る。
「ありがとうございます。でも、ほんとにきつかったです」
「分かってるわ」
エリンが言う。
「だからこそ、価値があるの」
クリスタルも続ける。
「最後の戻し、見事だった。特に三人。ナミは折れなかった。カイエは持たせた。ククルは止めた。どれが欠けても、あそこで終わってた」
その評価は重い。
だが、三人はもうそれを受け止められる顔をしていた。
ナミが少しだけ口を引き結ぶ。
「……私。途中、正直もう無理かと思いました」
「私も」
ククルがすぐに言う。
「ほんとに止まりかけました。でも、止まりたくなかったです」
「うん」
カイエが静かに言う。
「私も、あそこで一回本当に詰まった。でも、あのまま終わりたくなかった」
ペルシアは、その三人を見て、もう一度だけ柔らかく笑った。
「でしょ?だから盛ったのよ」
「やっぱりそこに戻るんですね」
ナミがすかさず言う。
「反省してないでしょ」
クリスタルが呆れる。
「反省はしてるわよ」
ペルシアが言う。
「ちょっとだけ」
「してない顔ですよ」
カイエが言った。
その言い方が妙に真面目で、今度はエリンが少し笑ってしまう。
「でも」
エリンが改めて三人を見る。
「今日の貴方達は、本当に良かった。ナミ、あの負荷の中で最後まで情報を切り続けたのは立派よ。カイエ、あそこから全体を立て直したのは見事だった。ククル、あの一声で全員を止めたのは本物ね」
ククルが、少しだけはにかんだ顔で言う。
「えへへ……でも、私だけじゃないですよ。カオルもすごかったし、カイエもすごかったし」
「そうね」
エリンは頷く。
「でも、貴方もちゃんとすごかったの。そこは受け取りなさい」
「……はい!」
ククルが元気よく返した。
ナミは、まだ少しだけ調子を狂わされたようにしていたが、それでも小さく息を吐いて言う。
「……認められると、変に悔しいですね」
「何が?」
ペルシアが首を傾げる。
「怒りきれなくなるので」
ナミが言う。
その返しに、今度はクリスタルまで少しだけ笑った。
「それはそう」
カイエが、ふと落ち着いた声で言う。
「でも、悔しいだけじゃないです。ちゃんと、嬉しいです」
ペルシアは、その言葉に目を細めた。
「そう言えるなら十分よ」
怒り。
悔しさ。
きつさ。
でも、それ以上に、今は乗り越えた側の熱があった。
そして、その熱を誰より真っ直ぐに受け取っていたのは、たぶんペルシア自身だった。
抱きしめて。
撫でて。
軽口を叩きながらも、ちゃんと嬉しそうに笑う。
それを見て、エリンは小さく目を細めた。
――ああいうところなのよね。
人を苛立たせるのも上手い。
余計なことをするのも上手い。
でも、越えた時に一番最初に真正面から喜ぶのも、たぶんあの人だ。
客席の一角は、さっきまでとはまた違う熱に包まれていた。
試された側の荒い呼吸。
迎える側の柔らかな笑い。
そこに、次の一歩へ繋がる何かが、確かに生まれていた。
ーーーー
探索用シュミレーションの全日程が終わる頃には、宇宙管理局本部の中央ホールも、昼間の熱狂が少しずつほどけていた。
巨大モニターの明るさは落とされ、特設ステージの周りでは撤収に向けたスタッフの動きが増えている。
昼間はあれほど人であふれていた客席も、今は帰路につく一般客と、まだ名残惜しそうに感想を語り合う関係者が入り混じる程度になっていた。
それでも、そこに残る空気は明らかに昼とは違っていた。
一日かけて、多くのチームが挑み、崩れ、立て直し、あるいは沈み、また浮かび上がった。
それを見た者の胸の中には、誰もが何かしらを持ち帰っていた。
スペースホープの乗務員達も同じだった。
ホーネットはまだ「チーム甘党」の名前を思い出しては笑い、ユウコは「あの時のククルさんの一声、ほんとに格好よかった」と何度も言い、ナツキは「でもカオルさんの最後のあの雰囲気、ちょっとぞくっとした」と真面目な顔で返す。クミコとミドリはパンフレットの余白にメモまで書き込み、マユとサリーは少し疲れた顔をしながらも「でも来てよかった」と何度も呟いていた。
そんな彼女達を、エリンは少し離れたところから静かに見ていた。
「……いい顔してるわね」
エリンがぽつりと言う。
その横で、ペルシアが肩を回しながら伸びをする。
「そりゃそうでしょ。今日は濃かったもの。見せがいがあったわ」
「貴方の“盛り”は余計だったけどね」
クリスタルが呆れたように言う。
「まだ言うの?」
ペルシアが口を尖らせる。
「結果オーライじゃない」
「結果論で済ませるには、あまりにも性格が悪いのよ」
エリンが言う。
「そこは褒めて?私、あの子達の底をちゃんと見たかっただけだし」
「だから、その言い方がもう試験官なのよ」
クリスタルが冷たく返す。
だが、エリンの口元には小さく笑みがあった。
正直、ペルシアが余計なことをしたのは事実だ。
しかも、だいぶ意地が悪い。
それでも、その“余計なこと”があったからこそ、見えたものもある。
カイエの再構築する力。
ククルの止める強さ。
カオルの熱を底へ落として前を預かる在り方。
そしてナミの切り続ける力。
見えたものは大きかった。
中央ホールから完全に人が引き始めた頃、ペルシアが急にぱん、と手を打った。
「よし!」
全員の視線が集まる。
「今日は私が奢るから、呑むわよ!」
一瞬、間が空いて――。
「やったー!」
真っ先に飛びついたのはホーネットだった。
「え、ほんとですか!?」
ユウコも顔を明るくする。
「ペルシアさん、ご馳走様です!」
クミコまで勢いよく言う。
「貴方達、ほんとに現金ね」
ナツキが呆れたように言ったが、その口元も少しだけ緩んでいた。
エリンはその反応を見て、少しだけ苦笑する。
「はいはい、はしゃぎすぎない。呑むのはいいけど、明日の予定がある子は無理しないこと」
「はーい!」
ホーネットとユウコがそろって返事をする。
「声が軽い」
エリンが即座に言う。
「はい!」
今度は多少そろった。
クリスタルが横で深いため息を吐く。
「なんでこういう時だけ、こんなに統率取れるのかしら」
「欲望に素直だからでしょ」
ペルシアが平然と言う。
「生き物として正しいわよ」
「基準が嫌」
クリスタルが返した。
◇
夜。
宇宙管理局本部から少し離れた繁華街の一角にある居酒屋は、まだ仕事帰りの客でほどよく賑わっていた。
木目の濃い内装。
壁には季節のおすすめが並び、奥の方では仕事帰りらしい集団が笑いながらジョッキをぶつけている。
入り口近くには焼き物の香ばしい匂いが漂い、厨房からは油のはねる音が絶えない。
そんな居酒屋の一角、少し広めに取られた席へ、スペースホープの一団がどっと流れ込んだ。
「わぁ……」
クミコがきょろきょろと辺りを見回す。
「なんか、こういうの、ちょっと大人な感じしますね」
「居酒屋って初めて?」
ホーネットが聞く。
「いや、初めてじゃないですけど、こんな大人数ではあんまり……」
クミコが言う。
「私もです」
サリーが小さく頷く。
「ちょっと緊張します……」
「シュミレーション終わったあとに居酒屋で緊張するの、なんか可愛いわね」
ペルシアが笑いながら言う。
「むしろそっちの方が普通なんじゃないですか?」
ナツキが言った。
「今日が濃すぎたんです」
「それはそう」
ユウコが深く頷く。
店員に案内されて座席へ落ち着くと、ホーネットがすぐにメニューを広げた。
「なにこれ、めっちゃある!焼き鳥! 揚げ物! サラダ! うわ、デザートもあるじゃん!」
「お酒の前にデザート見る人いるんだ」
ナツキが呆れる。
「だって大事じゃん」
ホーネットは悪びれない。
「締めまで見ておかないと」
「まだ始まってもないのに?」
ユウコが笑う。
ミラはそんな様子を見ながら、少しだけ息を抜いたように微笑む。
「でも、今日はほんとにお疲れさまでした。こうしてみんなで座ると、やっと終わったって感じがするね」
「ええ」
ランも頷く。
「本部にいる間は、最後まで気が抜けなかった」
「そうね」
クリスタルが言う。
「昼間の空気のあとだと、この賑やかさの方が逆に落ち着くかも」
エリンは席へ座りながら、周囲を軽く見渡した。
「……ところで、エマ、ククル、カイエは?」
ペルシアがジョッキ用の飲み物メニューを見ながら答える。
「あの三人とカオルは、明日仕事だからってロカA2に戻ったわよ」
「そう」
エリンが頷く。
「まあ、あの子達らしいわね」
「切り替え早いですよね……」
クミコが少し感心したように言う。
「早いっていうより、戻らなきゃいけないのよ」
エリンが言った。
「仕事があるなら、そこは仕方ないでしょう?」
「それもそうですね」
クミコが素直に頷く。
クリスタルがそこで思い出したように言う。
「ナミはどうしたの?」
「ああ」
ペルシアがジョッキのビールを注文しながら答えた。
「ナミは仕事があるからって断られた」
「シュミレーションの後に仕事って大変ですね」
ミラが少し驚いたように言う。
「ほんと」
クリスタルがそう言って、わざとらしく横目でペルシアを見る。
「どっかの誰かに聞かせてあげたい」
だが、言われた当人はもう別のことに夢中だった。
「ねぇねぇ、クミコ達、最初何頼む?」
ペルシアはビールのジョッキを片手に、すっかりクミコ達の和へ加わっていた。
「枝豆は鉄板として、焼き鳥は塩派? タレ派?」
「えっ」
クミコが目を丸くする。
「わ、私は塩です!」
「私はタレ!」
ホーネットが即答した。
「私は塩かな」
ユウコが乗る。
「じゃあ両方頼めばいいじゃない」
ペルシアが笑う。
「今日は私の奢りなんだから、ケチくさいこと言わないの」
「うわー!」
「太っ腹!」
「ありがとうございます!」
その輪へどんどん入っていくペルシアを見て、クリスタルは深いため息をつく。
「……まったく」
エリンは、その光景を見て小さく笑った。
「ほんとね」
呆れるしかない。
だが、ああいうところもまたペルシアらしい。
さっきまで散々、人の底を見ようと負荷を盛り、ナミ達に怒られ、ククル達を抱きしめて褒めたくせに、今はもう若い乗務員達の輪に混ざって枝豆と焼き鳥の話をしている。
雑で、騒がしくて、でも人の懐へ入るのがうまい。
そして、そういう人がいるから、場が少し救われる時もある。
エリンは、何だかんだでそれを知っていた。
◇
居酒屋の中は徐々に温まっていった。
最初の乾杯で、ホーネットとユウコが勢いよく声を上げ、クミコが慌ててグラスをぶつけ、サリーが少しだけ遅れて「お、お疲れさまです……」と小さく続く。マユはそんなサリーへ笑いかけ、ミドリとハズキは静かに料理をつまみながら、昼間の気になったシーンをぽつぽつと話していた。
「私、やっぱりククルさんの“止まるな”が忘れられない」
ミドリが言う。
「普段の感じと全然違ったし」
「うん」
ハズキも頷く。
「しかも怒鳴ったっていうより、ちゃんと届く形で止めてた。そこがすごかった」
「わたしは、カイエさんの“任された”が好きでした」
サリーが少しだけ頬を上気させながら言う。
「あれで、なんか全部戻った気がして」
「分かる」
クミコが食い気味に言う。
「私もそこで、“あ、いけるかも”って思った!」
「ミラもすごかったよね」
ホーネットが焼き鳥を頬張りながら言う。
「甘党の時、ほんとに後ろをずっと支えてたし」
「そうね」
ユウコも頷く。
「ミラさんって、前で引っ張るイメージ強かったですけど、ああいう支え方もできるんだって思った」
「私も見てて思った」
ナツキが言う。
「今日って、“人って変わるんだな”って思う場面多かった」
その言葉に、ミラは少しだけ困ったように笑った。
「変わったというか……今日みたいな場だと、変わらざるを得なかっただけかも」
「それを変わったって言うんだよ」
ホーネットが言う。
「そうよ」
エリンも静かに言った。
「必要な時に変われるのは強いことだもの」
料理が運ばれてくる。
枝豆。
焼き鳥。
だし巻き卵。
揚げ出し豆腐。
唐揚げ。
サラダ。
フライドポテト。
ペルシアは、そのほとんどに箸を出しながら、若い乗務員達の会話へするりと混ざっていた。
「で?今日のシュミレーション見て、一番印象残ったの誰?」
「えー、難しい!」
クミコが言う。
「でも私はカオルさんかも」
ユウコが即答する。
「最後、空気変わったの分かったし」
「分かる」
ナツキも頷く。
「怖いくらい落ち着いたよね」
「私はククルさん」
サリーが小さく手を上げるように言った。
「なんか……優しいのに、あんなに止められるんだって」
「私はカイエさんかな」
ミドリが言う。
「目立たないのに、全部回してる感じがして」
「みんないい見方するじゃない」
ペルシアが面白そうに笑う。
「教育の成果よ」
エリンがさらっと言う。
「自分で言う?」
クリスタルが横から返す。
「だって事実でしょう?」
エリンは涼しい顔だった。
居酒屋の空気は明るい。
疲れはある。
でも、それが嫌な重さではなく、“よく終わったね”という熱の中へ溶けている。
だが、その頃――。
◇
宇宙管理局本部の統括官室フロアは、夜になると昼間とは別の静けさを持つ。
昼間のような足音もなければ、各部署から飛び交う声もない。
聞こえるのは空調の低い音と、遠くで誰かが歩く気配だけ。
窓の外にはコロニーの夜景が淡く広がり、室内のモニターの光だけが机の表面を冷たく照らしていた。
その静かなフロアの一角で、ナミは一人、端末へ向かっていた。
シュミレーションは終わった。
今日は休んでもいいと、周囲から何度も言われた。
だが、それで手を止めるのは嫌だった。
今日のシュミレーションで何が起きたか。
どこが詰まり、どこで戻り、何が見えて、何がまだ足りなかったのか。
それをまとめる仕事を投げ出したくなかった。
だから残った。
端末には、録画データとログ、そして自分で取ったメモが並んでいる。
ナミはそれを一つずつ見ながら、要点を整理し、反省と評価を切り分け、報告用に整えていた。
だが、さすがに疲れはあった。
「……お腹空いたな」
ぽつりと、独り言みたいにそう漏らす。
声に出した瞬間、静かな部屋の中でその言葉だけが少し浮いたように感じた。
その時だった。
コンコン、と軽いノック音。
ナミが顔を上げる前に、扉が少し開く。
「やっぱり仕事してたのね、ナミ」
紙袋を持ったフレイが、そこに立っていた。
「フレイさん」
ナミが少し目を見開く。
フレイは、いつもの落ち着いた雰囲気のまま部屋へ入ってくる。
手にしている紙袋からは、ほんのり温かい匂いが漏れていた。
「案の定、仕事をしてると思ってね」
「……案の定、ですか」
ナミが少しだけ苦笑する。
「ええ」
フレイは当然みたいに言った。
「ナミなら、今日のシュミレーションをそのままにして帰らないでしょう?」
その言い方に、ナミは少しだけ言葉を詰まらせる。
「……そうですね。たしかに、そうかもしれません」
「でしょう?」
フレイは机の上へ紙袋を置いた。
「差し入れ」
ナミが目を落とす。
「差し入れ……?」
「そう」
フレイが頷く。
「牛丼」
「なんで牛丼なんですか?」
ナミが思わず言う。
フレイはきょとんとした顔をしてから、何でもないように答えた。
「ナミが好きって、ペルシアが言ってたから」
ナミの目が少しだけ丸くなる。
「……よく見てますよね、ペルシアさん」
そこで一瞬止まり、眉を上げる。
「あれ?今、ペルシアって言いました?」
フレイは紙袋の中身を取り出しながら、少しだけ笑った。
「本人がいない時はね」
「そうなんですね……」
ナミは少しだけ気の抜けた顔をする。
フレイは、そんなナミの前へまだ温かい牛丼を差し出した。
「ほら、冷める前に食べなさい」
ナミは素直に受け取る。
蓋越しにも分かる、ほっとするような匂いだった。
甘辛いタレの匂い。
牛肉の香り。
食欲を刺激する湯気。
その瞬間、自分が本当に空腹だったのだと気づく。
「……ありがとうございます」
ナミが少し小さく言う。
「どういたしまして」
フレイは、部屋の隅へ寄りかかるように立った。
ナミが蓋を開ける。
温かい湯気が立ち上る。
それだけで、張っていた肩が少しだけ下がった。
一口食べる。
「……美味しい」
思わず、そのまま言葉が漏れる。
「よかった」
フレイが言う。
「ペルシア、こういうところだけは妙に外さないから」
「こういうところだけ、ですか」
ナミが少しだけ笑う。
「そう」
フレイは平然としていた。
「だって他は結構好き勝手でしょ」
「それは……」
ナミは言いかけて、少しだけ考える。
「否定しにくいです」
フレイも薄く笑った。
少しの沈黙。
ナミはもう一口食べる。
温かい。
ちゃんと美味しい。
疲れている時に食べる牛丼って、なんでこんなに正解なんだろうと思う。
その様子を見ながら、フレイがふと口を開く。
「ペルシア、ナミのこと褒めてたわよ」
ナミの箸が、一瞬止まる。
「……え」
「誇らしそうに話してた」
フレイは続けた。
「今日のシュミレーションの後。“ナミ、最後まで折れなかったのよ”って、“あの負荷の中で、ちゃんと切り続けた”って、すごく嬉しそうだった」
ナミは、その言葉をすぐには飲み込めなかった。
「……あの人が?」
「ええ」
フレイは頷く。
「かなり」
ナミは、牛丼の蓋へ視線を落とす。
今日のシュミレーション。
きつかった。
正直、途中で本当に止まりそうになった。
情報が多すぎて、切る優先順位が崩れた。
カイエの声。
ククルの“止まるな”。
カオルの落ちた声。
全部思い出せる。
それを、ペルシアは見ていた。
しかも、“見ていた”だけではなく、誇らしそうに話していた。
胸の奥が、少しだけむず痒くなる。
「……なんか」
ナミがぽつりと言う。
「ずるいですね」
「何が?」
フレイが聞く。
「そうやって、本人のいないところで褒めるの」
ナミは小さく笑った。
「直接言えばいいのに」
「言ってるんじゃない?」
フレイがさらっと言う。
「抱きしめて、頭撫でてたって聞いたし」
ナミは、その光景を思い出してしまった。
突然抱きしめられて、頭を撫でられて、「よく乗り越えた」と真正面から言われた時の、あの調子の狂い方。
怒っていたはずなのに、全部持っていかれた感じ。
「……あれは」
ナミが少しだけ顔をしかめる。
「反則です」
「でしょうね」
フレイが笑う。
「でも、あの人なりの本音だったと思う」
ナミは、もう一口牛丼を食べる。
美味しい。
温かい。
腹に落ちるたびに、今日の重さが少しずつほどける気がする。
「ペルシアさんって」
ナミが静かに言う。
「なんであんなに、人を振り回すんでしょうね」
「振り回してる自覚が薄いからじゃない?」
フレイが言った。
「でも、その代わり」
少しだけ目を細める。
「本気で見てるわよ、人のこと」
ナミは、その言葉を受け止めて黙る。
たしかにそうだ。
負荷を盛った。
意地が悪い。
腹も立つ。
でも、ちゃんと見ていた。
自分達がどこで苦しみ、どこで持ち直したのかも、ちゃんと。
そして、その全部を見た上で、誇らしそうにしていた。
「……困りますね」
ナミが小さく呟く。
「何が?」
フレイがもう一度聞く。
「嫌いになりきれないじゃないですか」
ナミが言う。
フレイは、それを聞いてやわらかく笑った。
「それでいいんじゃない?たぶん、あの人もそういう位置にいたいんだと思うし」
ナミは答えず、黙って牛丼を食べた。
窓の外にはコロニーの夜景。
静かなフロア。
空調の音。
机の上の端末。
そして、温かい牛丼。
居酒屋の賑やかさとは全然違う夜だった。
でも、不思議と嫌じゃない。
ペルシアが、今どこで何をしているのかは何となく想像がつく。
たぶん若い乗務員達の輪へ混ざって、枝豆だの焼き鳥だのを頬張りながら、今日のシュミレーションの話でもしているのだろう。
そしてその合間に、きっとまた誰かを褒めている。
雑に。
でも本気で。
ナミは、小さく息を吐いた。
「……明日、文句言おう」
「そうしなさい」
フレイが笑う。
「でも、その前に食べ切って。今日のまとめも、少しは残ってるんでしょう?」
「はい」
ナミが素直に頷く。
「じゃあ、食べたらまた頑張りなさい」
フレイはそう言って、扉の方へ向かう。
「フレイさん」
ナミが呼び止める。
「なに?」
「……ありがとうございました」
ナミは少しだけ視線を逸らしながら言う。
「牛丼も。あと、その話も」
フレイは、少しだけ優しい顔で頷いた。
「どういたしまして、頑張りすぎない程度に、頑張りなさい」
そう言って部屋を出ていく。
扉が閉まり、また静けさが戻る。
ナミは牛丼をもう一口食べた。
さっきより、少しだけ味が深く感じた。
そして、食べ終わったら、今日のシュミレーションをちゃんとまとめようと思った。
投げ出したくない。
あの過負荷の中で、自分達が何を見つけたのかを、ちゃんと形にしたい。
それが、今日を越えた人間の仕事だと思えたから。
ーーーー
居酒屋を出る頃には、ペルシアはすっかり程よく酔っていた。
ぐでんぐでんというほどではない。
足元はしっかりしているし、言葉も回っている。
けれど、頬にははっきりと赤みがさしていて、普段より笑い方が大きい。目元も少しだけとろりとしていて、機嫌がいいのが分かりやすかった。
「はー、食べた食べた」
ペルシアは店の引き戸が閉まるのを背にして、大きく息を吐いた。
「やっぱり仕事終わりの一杯は最高ね」
「一杯で済んでないでしょ」
クリスタルが呆れたように言う。
「細かいこと言わないの」
ペルシアが手をひらひら振る。
「今日はめでたい日なんだから」
「何が“めでたい日”なんですか?」
ナツキが苦笑する。
「そりゃもちろん」
ペルシアがにやっと笑う。
「若い子達がちゃんと育ってるのが見えた日、ってやつよ」
「うわ、急にいいこと言い出した」
ホーネットが言う。
「急にって何よ」
ペルシアはむっとしたふりをする。
「私はいつだっていいこと言ってるでしょ」
「言ってる時もある」
クリスタルが淡々と返す。
「時もある、って何よ!」
ペルシアが大げさに抗議した。
店の前の通りには、夜のコロニーらしい柔らかな灯りが並んでいる。
仕事帰りの人々が三々五々歩き、居酒屋やバーの前では酔客達の笑い声がこぼれていた。少し離れた通りでは配送ドローンが低く飛び、上空には人工夜空が穏やかに広がっている。
スペースホープの面々も、店を出たことでまた少しだけ緩んだ空気になっていた。
「でも、ほんとに美味しかったですね」
クミコがぽつりと言う。
「私、あのお出汁の卵焼き、もう一回食べたいです」
「分かる!」
ユウコがすぐ乗る。
「あれ、めっちゃ美味しかった!」
「貴方達、結局最後までよく食べてたわよね」
エリンが少し呆れたように言う。
「だって、美味しかったですし……」
クミコが少しだけ肩をすくめる。
「それに今日は頭使ったから!」
ホーネットが言う。
「見てるだけでも疲れたし!」
「見てるだけでそれなら、出た人達はもっと疲れてるでしょ」
ミラが苦笑しながら言った。
「それはそうですね」
ハズキも小さく頷く。
「でも、疲れたあとって余計に食べたくなるんですよね」
「貴方も結構食べてたものね」
ミドリが言う。
「……否定はしない」
ハズキが真顔で返すと、何人かがくすっと笑った。
その時、ペルシアが突然くるりと振り返って皆を見る。
「よし」
いかにも思いついたという顔だった。
「私とエリンは二次会に行くから、皆んなはちゃんと帰るのよ」
「えっ」
ユウコがすぐ反応する。
「二次会!?」
「ずるい!」
ホーネットが言う。
「私も行きたい!」
「ダメ」
エリンが即答する。
「早っ」
ホーネットが不満そうに口を尖らせた。
「今日はもう十分でしょう」
エリンが言う。
「それに明日、貴方達だって仕事の子はいるんだから、ここから先は大人の時間よ」
「えー」
「なにそれー」
ホーネットとユウコがほとんど同時に言った。
「貴方達、その反応ほんとに子どもみたい」
ナツキが呆れたように言う。
「だって気になるじゃん!」
ホーネットが言い返す。
「二次会って何するの!?」
「普通に呑むだけよ」
ペルシアがけろっと言う。
「あと、ちょっと話したいこともあるし」
「その“ちょっと”が怪しいんですよ」
シルヴィアが静かに言った。
「怪しくないわよ」
ペルシアが言う。
「たぶん」
「たぶんって言いましたよね、今」
シルヴィアがすぐに返した。
その横で、クリスタルはもうすっかり諦めた顔をしていた。
「エリン、私は?」
「クリスタル、お願いね」
エリンが穏やかに言う。
「皆んながちゃんと帰るよう見ていて」
「でしょうね」
クリスタルが深くため息を吐く。
「そうなると思ったわ」
「お願い」
エリンが少しだけ笑う。
「はいはい」
クリスタルは肩をすくめた。
「その代わり、そっちも無茶しないでよ」
「しないわよ」
ペルシアが言う。
「貴方が言うと信用度が落ちるのよ」
クリスタルが即座に切り返す。
若い乗務員達の間にまた小さな笑いが起こる。
「それじゃあ、ほんとに帰るの?」
クミコが少しだけ名残惜しそうに言う。
「ええ」
エリンが頷く。
「今日はもう十分でしょ」
「分かりました……」
クミコは素直に頷いたが、顔には少しだけ残念そうな色があった。
「そんな顔しない」
ミラがやわらかく笑う。
「またこういう機会あるよ」
「そうね」
ランも頷く。
「今日は今日で十分すぎるくらい濃かったし」
「それはほんとにそう」
ナツキが言う。
そうして、一度そこで別れる流れができた。
クリスタルを中心に、スペースホープの若い面々がまとまり始める。
ホーネットは最後まで「ほんとに二次会いいのー!?」と騒いでいたが、ユウコとナツキに両脇を取られて半ば引きずられるように離れていく。クミコ達も何度か振り返りながら手を振り、ミラとランも「また明日」と軽く頭を下げて、皆と一緒に通りの向こうへ消えていった。
その場に残ったのは、エリンとペルシアだけになった。
夜風が少しだけ冷たかった。
「……ほんと、あの子達元気ね」
エリンが小さく息を吐く。
「いいじゃない」
ペルシアが笑う。
「元気なのは才能よ」
「何でも才能にしないの」
エリンが言う。
「でも本当に思うわよ」
ペルシアは歩き出しながら言った。
「今日の見せ方、良かったと思う。刺激になったでしょ」
「ええ」
エリンは頷く。
「少なくとも、“世界は広い”ってことはちゃんと伝わったわね。それだけでも大きい」
「でしょ?」
ペルシアが得意げに笑う。
「私、今日はかなりいい働きしたと思うんだけど」
「重い事象を盛ったことまで含めて?」
エリンが横目で見る。
「そこも含めてよ」
ペルシアは悪びれない。
「相変わらずね」
エリンは呆れたように言ったが、口元には少し笑みがあった。
◇
二次会の場所も、結局は居酒屋だった。
ただし、さっきよりも少しだけ落ち着いた店だ。
賑やかではあるが、仕事帰りの大人達が静かに呑んでいるような雰囲気で、照明も少し暗い。カウンター席の向こうでは店主が焼き物を返し、奥の座敷からは低い笑い声が聞こえる。
「結局また居酒屋なのね」
エリンが半ば呆れたように言う。
「いいじゃない」
ペルシアが楽しそうに答える。
「こういう日の二次会は、こういうのでいいのよ」
「本当にお酒が好きね」
「好きよ?」
ペルシアはあっさりと言って、店内へ入った。
店員に「二人です」と声をかけて中へ進もうとした、その時だった。
エリンの足がふと止まる。
「……あら」
「ん?」
ペルシアも視線を上げる。
奥の席。
壁際のテーブル席に、一人で座っている姿があった。
見慣れた黒髪。
無駄のない姿勢。
目の前には、すでにかなりの数の皿と丼と空いた小鉢。
リュウジだった。
しかも、一人でかなりの量を食べていた。
「……何してるの、あれ」
ペルシアが思わず言う。
リュウジは、ちょうど焼き物の皿から最後の一切れを箸で取り上げたところだった。二人に気づくと少しだけ目を上げるが、慌てる様子はない。
「お久しぶりです」
リュウジが落ち着いた声で言う。
「……というほど時間は空いてませんが」
「ほんとにね」
エリンが少し笑う。
「貴方、ここで何してるの?」
「食事です」
リュウジは当然のように答えた。
「今日は操縦で神経を使ったので」
その答えに、ペルシアがすぐににやっと笑う。
「本当はカオル達に負けたから、やけ食いじゃなくて?」
エリンが「ちょっと」と目でたしなめるが、ペルシアは気にしない。
今日の最後、局長からの講評で「総合的に最も良かったのはカオル達のチームだ」と評価が出ていたのだ。もちろん、チーム甘党が悪かったわけではない。むしろ即席チームとしては驚くほど完成度が高かった。だが、あくまで総合評価ではカオル達が一番だった。
リュウジは、その挑発めいた言葉を受けても表情をほとんど変えなかった。
「それもないとは言いません」
リュウジが静かに言う。
「ただ、本当に腹は減っていました」
「正直ねぇ」
ペルシアが笑う。
エリンは、テーブルの上に並ぶ皿の量を見て、小さく息を吐いた。
「でも、即席チームなのにあそこまで回せたのは、やっぱり凄かったわよ」
その言葉は、変な慰めではなかった。
率直な評価だった。
リュウジは一瞬だけエリンを見て、それから小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
そのやり取りを聞いて、ペルシアが口元を緩めた。
「ほら、エリンが褒めてくれてるんだから、もうちょっと嬉しそうにしなさいよ」
「十分嬉しい」
リュウジが言う。
「分かりにくいのよ」
ペルシアが言って、店員に追加の席を頼んだ。
結局、エリンとペルシアはそのままリュウジの席へ合流することになった。
「二次会って、まさかここ?」
エリンが座りながら聞く。
「違うわよ」
ペルシアが言う。
「でも、こういう偶然も悪くないじゃない」
「偶然ねえ」
エリンがちらりとペルシアを見る。
「何よ、その目」
ペルシアが肩をすくめる。
「今回は本当に偶然よ」
リュウジはそれに口を挟まず、ただ湯気の立つ味噌汁を一口飲んだ。
少し間が空く。
店員が新しいおしぼりと飲み物の注文を取りに来て、ペルシアは迷わず「とりあえずビール」と言い、エリンは少し考えてから温かいお茶を頼んだ。
その間にも、リュウジの前の皿は着実に減っていく。
「……それで」
ペルシアがジョッキが来る前に言った。
「何かあるんでしょ?」
リュウジが、そこで初めて少しだけ目を上げる。
「何のことだ?」
「惚けないでよ」
ペルシアが笑う。
「わざわざこんなタイミングで一人でここにいて、私達と鉢合わせて、しかも、あんたのことだから“たまたま会ったから話そうと思ってた”なんて言う気じゃないでしょ」
エリンも、そこで少しだけ表情を引き締めた。
「何かあるの?」
リュウジは数秒だけ黙った。
ちょうどその時、店員がビールとお茶を持ってきて、ペルシアの前にジョッキが置かれる。ペルシアはそれを受け取り、一口飲んでから「で?」と目だけで続きを促した。
リュウジはその視線を受け止めて、ゆっくりと言った。
「ペルシア、シュミレーションに参加した約束は果たした」
「ええ」
ペルシアが頷く。
「それはそうね」
「だから」
リュウジの声は淡々としていた。
「こっちの条件ものんでもらう」
ペルシアは、ジョッキを持ったまま肩をすくめる。
「分かってるって、私にできることならね」
「できる」
リュウジは即答した。
エリンが、そこで静かにリュウジを見る。
ペルシアは、少しだけ表情を引き締めた。
「……で?何をしてほしいの?」
店の中は相変わらず賑やかだった。
遠くの席では誰かが笑い、隣のテーブルでは焼き物の皿が置かれる音がする。
けれど、この席だけは、その瞬間、妙に静かになったように感じた。
リュウジは、二人をまっすぐ見た。
「東の未探索領域の調査を行いたい」
その言葉に。
エリンも。
ペルシアも。
固まった。