「東の未探索領域の調査を行いたい」
その一言が落ちた瞬間、空気が変わった。
さっきまで店内に流れていた、賑やかなざわめきも、焼き物の匂いも、隣の席の笑い声も、全部が遠くなったように感じた。
エリンも。
ペルシアも。
言葉を失う。
東の未探索領域。
その名を知らない宇宙事業関係者はいない。
通称――魔のゾーン。
別名――パイロット殺し。
無数の隕石群が帯のように、壁のように、時に濁流のように幾重にも連なって流れ続ける危険宙域。
しかも、その軌道に規則性はない。
昨日まで開いていた隙間が、今日は閉じる。
右へ逸れた群が、次の瞬間には左から食い込んでくる。
通常の観測で見える流れと、実際に中へ入って感じる流れが食い違うことさえある。
一歩でも足を踏み入れたら最後、帰ってきたものはいない。
――正確には、一人だけいた。
リュウジ。
サヴァイヴから帰還する際、重力嵐に飛ばされ、ネフェリス宇宙船ごと魔のゾーンの中心へ叩き込まれた。
そして、生還した。
だからこそ。
その場所へ、もう一度自ら行くと言われて、平然としていられるわけがなかった。
「……認められないわ」
最初に声を出したのはエリンだった。
低い。
静かだ。
けれど、その静かさの奥に、はっきりとした拒絶がある。
「私もよ」
ペルシアが続いた。
「それはダメ。話にならない」
リュウジは、二人の反応を予想していたのだろう。
表情をほとんど変えなかった。
「まだ理由を話していません」
「理由を聞いたら認めると思う?」
エリンが言う。
「思わないわよ。東の未探索領域なんて、そういう話じゃないもの」
「そうだよ」
ペルシアもテーブルに肘をつき、真っ直ぐリュウジを見る。
「あそこは“危ないけど準備すれば何とかなる場所”じゃない。行ったら死ぬ場所。それを一番知ってるの、あんたでしょ」
「知ってる」
リュウジが言った。
「だから言ってる」
エリンの眉が寄る。
「なら、なおさらよ、知っているなら、どうしてそんなことが言えるの?」
リュウジは一拍置いた。
それから、二人を正面から見た。
「惑星サヴァイヴを見つけたい」
今度こそ、エリンもペルシアも完全に固まった。
「……何ですって?」
エリンの声がわずかに掠れる。
リュウジは視線を逸らさない。
「恐らく、魔のゾーンの先にある」
その言葉に、ペルシアが先に我に返った。
「ちょっと待って、待って待って。今、何を言った?」
「惑星サヴァイヴを見つけたい」
リュウジはもう一度言う。
「そして、恐らくあの先にある」
「“恐らく”で行く気?」
ペルシアの声が鋭くなる。
「魔のゾーンよ?パイロット殺しよ?そこを越えた先にサヴァイヴが“あるかもしれない”で、あんたまた行くつもりなの?」
「あるかもしれない、じゃない」
リュウジが低く言う。
「可能性は高い」
「何を根拠に!?」
ペルシアが言う。
リュウジは、そこでようやく少しだけ視線を落とした。
「俺が帰還した時の記録。ネフェリスのログり重力嵐に流された時の座標のズレ。星図に残っていない重力の偏り。それと、あの時に見えた宙域の配置。断定はできない。けど――」
言葉が切れる。
それでも、その先を押し出すように続けた。
「サヴァイヴは、あの先にある可能性が高い」
エリンが、ゆっくりと息を吸った。
「……だから?」
エリンが言う。
「だから見つけに行くの?」
「はい」
リュウジは頷く。
「ダメよ」
エリンは即座に言った。
「それはダメ。認められない。絶対に」
リュウジは静かに受け止める。
だが、引かなかった。
「エリンさん。俺は、あの星を見つけたい」
「そんなの分かってるわよ!」
エリンの声が初めて強くなる。
「分かってるから言ってるの!でも、だからって貴方が行っていい理由にはならないわ!」
店内の空気が、さらに張る。
ペルシアも、今度ばかりは茶化さない。
「あんた」
ペルシアが低く言う。
「サヴァイヴを見つけたいのは分かる。分かるけど、それと“行く”は別だ。思いがあるからって、何でも通ると思うな」
「通すつもりはない」
リュウジが言う。
「だから、こうして話してる」
「話したからって認めるわけじゃない」
ペルシアが返す。
「分かってる」
リュウジは言った。
「でも、黙って動くつもりはなかった」
「そこだけは正解」
ペルシアが言う。
「でも、中身が最悪」
エリンは、まだリュウジを見たままだった。
「どうして?」
エリンが静かに言う。
「どうして、そこまでして見つけたいの?何を確かめたいの?」
リュウジは、少しだけ目を細めた。
「あの星は、ただの遭難先じゃない」
リュウジが言う。
「俺達が生きた場所だ」
そこでリュウジは一度言葉を切った。
「魔のゾーンの先に、本当にサヴァイヴがあるなら、今のまま“なかったこと”にしていい場所じゃない」
ペルシアが苦い顔をする。
「……そういう言い方、ずるいのよ。こっちが何も言えなくなるじゃない」
「言ってるだろ」
リュウジはペルシアにだけ、いつもの口調で返した。
「言ってるけど!」
ペルシアが即座に言い返す。
「言ってるけど、それでもダメだって言ってるの!サヴァイヴを見つけたい気持ちは否定しない!でも、あんたがまた魔のゾーンに入るなんて、認められるわけないでしょ!」
「俺しか行けない」
リュウジが言う。
「それをやめろって言ってるの!」
ペルシアがテーブルを軽く叩いた。
「“俺しかいない”って言い方!そうやって何でも背負って、自分が行くのが正しいみたいな顔するのやめて!」
「正しいとは思ってない」
リュウジの声は低い。
「でも必要だ」
「必要ない」
エリンがきっぱりと言った。
その一言は、刃のようだった。
「“貴方しか知らない”と“貴方が行くべき”は違う。そこを混同しないで」
リュウジがエリンを見る。
エリンの目は、怒っている。
でも、それ以上に怖がっていた。
「一回、生きて帰ったからって」
エリンが言う。
「二回目も帰れる保証なんてどこにもない。むしろ、一回目が奇跡だったってどうして思えないの?」
「奇跡だったと思ってる」
リュウジは答える。
「ネフェリスの性能も、重力嵐の抜け方も、あの時の判断も、全部が噛み合っていた。再現性が高いとは言わない」
「ならなおさらよ!」
エリンが言う。
「どうしてそこまでして行くの!また、貴方はそうやって……!」
言葉が切れた。
その先を言えば、別の傷まで開いてしまうと分かっているように。
だが、リュウジは止まらない。
「行かなきゃ、ずっと分からないままだ」
リュウジが言う。
「サヴァイヴが本当にあの先にあるなら、今のうちに可能性を確かめたい」
「“確かめたい”で死地に行くの?」
ペルシアが言う。
「冗談じゃない。見つけたい気持ちは分かる。だけど、見つける前にあんたが帰ってこなかったら何の意味もない」
「帰ってくる」
リュウジが言う。
「その前提が軽いの!」
ペルシアの語尾が跳ねた。
「みんな“帰ってくるつもり”で行って帰ってこなかったの!魔のゾーンは、そういう場所なんだよ!」
その言葉に、リュウジはほんの少しだけ黙る。
だが、諦める気配はなかった。
「それでも」
リュウジが言う。
「俺は行きたい」
「行きたい、じゃないでしょ」
エリンが静かに言う。
「行きたいで済む話じゃない。それはもう、リュウジ一人の願望じゃないもの。行けば、周りも巻き込む。誰が支援するの?誰が待つの?誰が止められなかった責任を背負うの?貴方は、そこまで考えてるの?」
「考えてます」
リュウジは答えた。
「足りないわ」
エリンが言う。
「全然足りない」
その言葉は、冷たかった。
でも、それは切り捨てる冷たさではない。
必死に止めるための冷たさだった。
「少なくとも、私は反対」
エリンが言う。
「今ここで、認めるなんて絶対に言わない」
「俺も反対」
ペルシアがすぐ続く。
「しかも全力で、サヴァイヴの話を出されたからって、そこだけは譲らない」
リュウジは、二人を順に見た。
そして静かに言った。
「それでも、止まるつもりはありません」
その一言に、今度はペルシアが本気で顔をしかめた。
「ほんっとに頑固、そういうところが嫌いなのよ」
「嘘つけ」
リュウジが、ペルシアにだけはいつもの調子で返す。
「今それ言う!?」
ペルシアが睨む。
「そういう軽口で流せる話じゃないでしょ!」
「流してない」
リュウジが言う。
「流してるのと同じ!」
ペルシアがまた言い返す。
エリンは、そんな二人のやり取りを挟まず、ただリュウジを見ていた。
「……少なくとも」
エリンがゆっくり言う。
「今の私は、絶対に認められない。それだけは変わらないわ」
リュウジは、小さく頷いた。
「分かっています」
「分かってないから言ってるのよ」
ペルシアがまた呟くように言う。
店のざわめきは変わらない。
笑い声も、グラスの音も、料理の匂いもそのままだ。
なのに、この三人の席だけ、まるで別の場所みたいに冷えていた。
東の未探索領域。
魔のゾーン。
パイロット殺し。
その先に、サヴァイヴがあるかもしれない。
それは、あまりにも強い言葉だった。
エリンもペルシアも、認められない。
でも、リュウジも止まらない。
その事実だけが、重く、深く、テーブルの上に沈んでいた。
リュウジは、二人の強い否定を真正面から受け止めながらも、声を落とさなかった。
「誤解しないでください」
リュウジが静かに言う。
「いきなり魔のゾーンを抜けて、その先まで行こうとしているわけではありません」
ペルシアが睨むように顔を上げる。
「じゃあ何よ」
「魔のゾーンを抜けるための調査」
リュウジは答えた。
「外縁の流れ方。重力の偏り。隕石群の密度。航路として成立する可能性のある筋を、まず確かめたい。今のままでは、何も分からない」
「……調査、ね」
ペルシアの声は低い。
「言い方を変えただけじゃない」
「違う」
リュウジは、今度はペルシアをまっすぐ見た。
「一人でやる。無茶はしない、深追いもしない。少なくとも最初は、外縁から流れを測るところまでだ」
「一人で?」
エリンの眉が寄る。
「一人だから大丈夫だとでも言うつもり?」
「同行者を危険に晒すつもりはありません」
リュウジが言う。
「だから一人で行きます」
「その発想がもう無茶だって言ってるの!」
ペルシアが声を荒げた。
「一人で行く方が余計に危ないでしょ!あんた、本当に何を言ってるのか分かってる!?」
「分かってる」
リュウジは言う。
「だからこそ、一人で行く」
ペルシアの頬が、酔いの赤みとは別に熱を持ったように見えた。
「……っ」
拳が、テーブルの上で小さく震える。
エリンはその横顔を見た瞬間、ペルシアの怒りがただの反発じゃないことを悟った。
怖いのだ。
怒っているのは、怖いからだ。
「ペルシア……」
「トイレ」
ペルシアが、ほとんど噛みつくように言った。
立ち上がる動作も勢いが強い。
椅子が少し音を立てて引かれ、ジョッキの中のビールがわずかに揺れた。
「ちょっと頭冷やしてくる」
ペルシアが言う。
「今このまま座ってると、私、ほんとに殴るかもしれないから」
そう言い捨てて、ペルシアは振り返らずに歩いていった。
その背中が見えなくなるまで、エリンは黙って見送った。
リュウジも、何も言わない。
店のざわめきは変わらない。
隣の席の笑い声も、奥から聞こえる皿の触れ合う音も、そのままだ。
なのに、この席だけが妙に静かだった。
エリンは、目の前に置かれた湯呑みに指先を添えたまま、しばらく口を開かなかった。
やがて、小さく息を吐く。
「……分かってあげて」
その声は、さっきまでの強い拒絶とは違っていた。
静かで、どこか疲れていて、それでも真っ直ぐだった。
リュウジは、少しだけ目を伏せる。
「分かっています」
「いいえ、分かってないわ」
エリンは首を横に振った。
「少なくとも、今のリュウジは、ペルシアがどうしてあんなに怒ったのか、全部は分かってない」
リュウジは黙る。
エリンは続けた。
「悲劇のフライトで、私とリュウジが傷ついた時。ペルシアは、悲しみの淵にいたのよ」
リュウジの表情が、ほんの少しだけ揺れた。
エリンは、それを見ても言葉を止めなかった。
「皆んなを守るために宇宙管理局に行ったのに、それが出来なかったって、ずっと、自分を責めていた。リュウジが助かったあとも、私が動けるようになったあとも、簡単には戻れなかった」
エリンの声は穏やかだった。
でも、その穏やかさがかえって、あの頃の重さを思い出させる。
「ペルシアは強そうに見えるでしょう?実際、強いわ。でも、あの人は、守れなかったことを簡単に流せる人じゃない。表には出さなくても、ずっと抱えるの」
リュウジはテーブルの上の箸袋を見つめたまま、低く言う。
「……そうですね」
「もし貴方が今度は帰ってこなかったら」
エリンは、そこで一度言葉を切った。
それを口にするだけで、胸の奥が冷える。
それでも、言わなければならなかった。
「ペルシアも、私も悲しむ」
はっきりと、そう言った。
リュウジの指先が、膝の上でわずかに強張る。
「私達だけじゃないわ」
エリンは続けた。
「皆んな、リュウジが思ってる以上にリュウジを見てる。だから、“一人で行くから大丈夫”なんて、そんな言い方で片づく話じゃないのよ」
「……片づけるつもりはありません」
リュウジが言う。
「ただ、誰かを巻き込みたくないだけです」
「それがもう違うの」
エリンは静かに返した。
「巻き込んでるのよ、もう。こうして話をした時点で。リュウジが“行きたい”って言った時点で、私達はもう、巻き込まれてる」
リュウジは言葉を失う。
エリンは、そんな彼を見ながら小さく目を細めた。
「リュウジは、昔からそう。自分が抱えればいい、自分が背負えばいいって思ってる。でも、そうじゃない。貴方が勝手に背負おうとするたびに、周りも一緒に背負うことになるのよ」
店員が少し離れた場所で「お待たせしました」と別の席へ料理を置いていく。
その何でもない日常の音が、今だけ妙に遠く聞こえる。
「……俺は」
リュウジが、ようやく口を開いた。
「サヴァイヴを見つけたいんです」
エリンは何も言わない。
その先を待つ。
「見つけたい、というより……」
リュウジは言葉を探すように少し黙ってから続けた。
「やりたいんです。カオルはサヴァイヴまでルナ達を連れて操縦するのが夢なんです。なら俺はそこまでの航路を見つけたい」
「分かるわ」
エリンはすぐに言った。
「そこは分かる。私だって、リュウジ達がいたあの星を、ただの遭難先だったなんて思っていない。でも」
そこでエリンは少しだけ身を乗り出した。
「分かることと、認めることは違うの」
リュウジは顔を上げる。
「私は、リュウジの気持ちを否定しない。でも、そのために貴方が魔のゾーンに入ることは、やっぱり認められない」
「……エリンさん」
「ごめんなさい」
エリンは先に言った。
「これは譲れない。今の私には、どうしても“行ってきて”なんて言えない」
その言葉は、拒絶でありながら、祈りにも近かった。
リュウジはその重さを受け止める。
受け止めた上で、まだ諦めていない顔をしている。
エリンは、それを見て小さく苦笑した。
「ほんとに、止まらないのね」
「……止まれません」
リュウジが答える。
「ええ、知ってる」
エリンは言った。
「だから困ってるのよ」
その時だった。
少し乱暴に足音が戻ってくる。
ペルシアだった。
さっきほど顔は赤くない。
たぶん、本当に水で顔でも洗ったのだろう。
でも、目の奥にある熱はまだ消えていなかった。
「……少しは落ち着いた?」
エリンが聞く。
「落ち着いた」
ペルシアが答える。
「でも、賛成はしない。そこは一ミリも変わってないから」
リュウジは、ペルシアの顔を見て静かに言う。
「そうだろうな」
ペルシアは、そんな彼をじっと見つめてから、低く言った。
「……リュウジ」
「あんたがサヴァイヴを大事に思ってるのは分かる。分かるし、そこは茶化さない。でも、だからこそ聞く」
店の喧騒の中で、その声だけが妙に真っ直ぐ通る。
「サヴァイヴを見つけるために、今ここで自分を失う価値があるの?私には、そうは思えない」
リュウジは少しだけ黙った。
エリンも何も言わない。
今は、ペルシアの言葉を最後まで聞くべきだと思ったからだ。
「私、あの時」
ペルシアが言う。
「悲劇のフライトの時、本当に嫌だったの。宇宙管理局に行って、皆んなを守る側に立ったつもりでいたのに。結局、何も守れなかった」
その声は、怒っているのに、どこか掠れていた。
「だから、今度は嫌なの。また“分かってたのに止められなかった”ってなるの。そんなの、私はもう嫌」
エリンが静かに目を伏せる。
ペルシアは、ジョッキに残ったビールを一口だけ飲んでから、テーブルへ戻した。
「もし貴方が今度は帰ってこなかったら」
ペルシアが言う。
「私は絶対、また自分を責める。エリンもきっと、そうなる。だから反対。理屈じゃなく、反対」
その言葉に、リュウジはようやく本当に言葉を失ったようだった。
反対されることは予想していた。
でも、ここまで真正面から、感情ごと置かれると、簡単には返せない。
「……悪い」
しばらくして、リュウジが小さく言う。
「謝ってほしいわけじゃない」
ペルシアはすぐに返した。
「止まってほしいの」
リュウジは沈黙する。
エリンが、その沈黙の中でゆっくり言った。
「少なくとも、今ここで許可は出ない。それは変わらないわ」
「ええ」
ペルシアも頷く。
「全力で反対。サヴァイヴの名前を出されても、そこは譲らない」
リュウジは、二人を交互に見た。
そして、静かに言う。
「……それでも、考えは変わらない」
ペルシアが小さく目を閉じる。
「ほんとに頑固」
「知ってるでしょう?」
リュウジが、ペルシアにだけはいつもの調子で返した。
「知ってるよ」
ペルシアは苦く笑った。
「だから余計に厄介なの」
エリンは二人のやり取りを見て、胸の奥に重いものが沈むのを感じていた。
サヴァイヴ。
魔のゾーン。
リュウジの決意。
ペルシアの恐怖。
自分自身の恐怖。
全部が絡み合って、簡単に解ける話ではない。
それでも、今はまだ答えを出せない。
認められない。
でも、止まらない。
その膠着が、店の喧騒の中で異様なほど鮮明に浮かび上がっていた。
ーーーー
「とりあえず今日は帰る!」
ペルシアが、半ば言い切るようにそう言った。
さっきまでの二次会めいた空気は、もう残っていない。
ビールの酔いも、途中からほとんど飛んでいた。
エリンはリュウジを見た。
テーブルの上には、食べ終えた皿がいくつも重なっている。けれど、その光景の妙な生活感さえ、今はこの場の張り詰めた空気を和らげるには足りなかった。
「……少し考えて」
エリンが静かに言う。
強い否定でも、慰めでもない。
ただ、それだけを置くように。
リュウジはその言葉を受け止め、ほんの少しだけ目を伏せた。
「はい」
それ以上は言わない。
今ここで言葉を重ねても、もう前へは進まないと分かっているのだろう。
ペルシアは席を立つと、リュウジの方を見ずに伝票をつかんだ。
「今日は私が払う……あんたはもう少し、その頭冷やしなさい」
「分かった」
リュウジが言う。
その返事に、ペルシアは小さく舌打ちしそうな顔をした。
「そういうとこよ。素直に返されると、余計腹立つの」
エリンが小さく息を吐く。
「ペルシア」
「分かってるわよ」
ペルシアがぶっきらぼうに言う。
「これ以上は店の人に迷惑」
そうして二人は席を立ち、リュウジを残して店を出た。
引き戸が閉まる直前、エリンは一度だけ振り返った。
リュウジは席に座ったまま、もうこちらを見てはいなかった。テーブルの上の空いた湯呑みに手を添え、何かを考え込むように視線を落としている。
あの顔を、エリンは知っている。
ああいう時のリュウジは、止まっているように見えて、止まっていない。
自分の中で、もう次の一手を考えている。
だからこそ、怖かった。
◇
外へ出ると、夜の空気が少しだけ冷たかった。
夜景はどこか人工的に整いすぎていて、だからこそ逆に、今のエリンとペルシアの感情には馴染まなかった。店から漏れる灯り、通りを歩く人影、上空を静かに流れていく輸送艇の光。それらは穏やかな夜のはずなのに、二人の間にはまだ、店の中の重さがそのまま残っている。
しばらく、どちらも口を開かなかった。
ヒールの音と、ペルシアの少し早い足音だけが並ぶ。
最初に沈黙を破ったのはペルシアだった。
「……本気ね」
エリンは前を見たまま答える。
「ええ、本気」
「いつかは言い出すんだろうって分かってたけど、改めて聞くと最悪だわ」
ペルシアが吐き捨てるように言う。
「東の未探索領域、魔のゾーン。しかも、サヴァイヴを見つけたいからって」
その言葉の中には怒りがある。
でも、それだけじゃない。
「言われた瞬間、ほんとに酔いが飛んだ」
ペルシアが言う。
「一気に醒めた」
「私もよ」
エリンは静かに言った。
二人の歩幅は、自然と少しずつ揃っていく。
「……でも」
ペルシアが少しだけ声を落とす。
「分からないわけじゃないのよね」
エリンは、そこで小さく目を伏せた。
「ええ」
「サヴァイヴを見つけたいって気持ちは、分かる」
ペルシアが言う。
「リュウジにとっては“たまたま漂着した星”だけじゃない。分かるから、余計にタチ悪い」
「そうね」
エリンが言う。
「ただの無茶なら、もっと簡単に切れるのに」
ペルシアが苦く笑った。
「でしょ?“見つけたい理由”がちゃんとしてるのが厄介なのよ。しかも本人が、実際に魔のゾーンから帰ってきた唯一の人間だし」
「だから、余計に止まらない」
エリンが言った。
少しだけ風が強くなった。
エリンは前髪を耳へかける。
「リュウジって」
ペルシアがぽつりと言う。
「本当に、一度“行く意味がある”って思ったら止まらないわよね」
「ええ」
エリンは頷く。
「自分の中で筋が通ってしまうと、止まれない人だもの」
「しかも、筋が通ってるから周りも完全には否定しきれないのが最悪」
ペルシアが言う。
「ただの無謀ならまだ怒りやすい。でも、サヴァイヴって言われると……ね」
エリンは返事をしなかった。
代わりに、少しだけ歩く速度を落とす。
彼女の胸の中にも、同じものがあったからだ。
サヴァイヴ。
あの星の名前を聞けば、色々な感情が一緒に揺れる。
悲しさ。
懐かしさ。
失ったもの。
でも、確かに生きた時間。
リュウジがそこに執着する理由を、エリンは誰より分かってしまう。
だからこそ、否定しきれない。
でも、だからといって、魔のゾーンに行かせられるわけがない。
「……私ね」
エリンがようやく口を開く。
「サヴァイヴを見つけたいって言葉だけなら、否定しないの」
「うん」
ペルシアも頷く。
「見つけたいわよ、私だって」
エリンは静かに言った。
「もし本当にあの先にあるなら、確かめたい。でも、それと“リュウジが行く”は別なのよ」
「そう」
ペルシアが言う。
「そこをあいつ、分かってるようで分かってない。“俺しか知らない”“俺しか行けない”って、またああいう考えになる」
「ええ」
エリンの声は低かった。
「いつもそう。自分が背負えば済むと思ってる。でも、背負われる側はそうじゃない」
ペルシアは、そこで少しだけ顔をしかめた。
「……あいつ、一人で行くかも」
その一言に、エリンの指先がわずかに強張る。
「私もそう思った」
エリンは足を止めた。
ペルシアは視線を少し逸らした。
それが答えみたいなものだった。
「……ねぇ」
ペルシアが静かに言う。
「もし、今度こそ帰ってこなかったらって考えた?」
エリンは、返事をしなかった。
しなかったのではなく、出来なかった。
考えたくない。
でも、考えてしまう。
それがどれだけ恐ろしいことかも分かっている。
「私は嫌」
ペルシアが続ける。
「ほんとに嫌。また“分かってたのに見送った”ってなるの。そんなの、もう耐えられない」
「私もよ」
エリンがやっと言った。
声が、少しだけ掠れていた。
「耐えられない」
少しの沈黙。
遠くで、酔客の笑い声が上がる。
何でもない夜の音なのに、妙に現実感がなかった。
「だから、明日」
ペルシアが歩き出しながら言う。
エリンも並んで歩く。
「局長には話をしてみる」
エリンが顔を上げる。
「……そうね」
「もう私達だけで抱える話じゃない」
ペルシアが言う。
「リュウジの性格も、魔のゾーンの危険性も、サヴァイヴの話も、全部含めて、上には上で、止め方を考えてもらわないと」
「ええ」
エリンが頷く。
「少なくとも、正式な枠組みの中へ入れないと。このままだと、本当に勝手に動きかねないもの」
「でしょ」
ペルシアが言う。
「“ちゃんと段階を踏め”っていう首輪を付けさせないと」
「首輪って言い方」
エリンが少しだけ苦笑した。
「でもそういうことでしょ」
ペルシアが言う。
「好きに飛び出させないための。それでも、完全には安心できないけど」
「……そうね」
エリンは認める。
リュウジは、きっと簡単には引かない。
局長に話しても、正式な資料を出させても、それで全部が終わるとは思えない。
でも、何もしないよりはずっといい。
少なくとも、彼が“自分一人の判断”で前へ出ようとするのを、少しでも遅らせられる。
「局長、なんて言うかしら」
エリンが小さく言う。
「頭抱えるわよ、きっと」
ペルシアが即答した。
「で、“なんでこんな話を持ってくるんだ”って私に言う。でも、持ってくわ。言われても持ってく」
「ええ」
エリンは頷く。
「その方がいい」
ペルシアは少しだけ空を見上げた。
「はーあ……二次会のつもりだったのになぁ」
「十分、濃い二次会だったじゃない」
エリンが言う。
「濃すぎるのよ」
ペルシアが言った。
「もう少し、こう……焼き鳥食べながらくだらない話で終わりたかったわ」
「それは私も同感」
エリンが少し笑う。
ほんの少しだけ、空気がやわらぐ。
でも、そのやわらぎの奥にはまだ重いものが残っている。
魔のゾーン。
サヴァイヴ。
リュウジの決意。
自分達の恐怖。
どれも簡単に片付くものじゃない。
エリンは歩きながら、ふと呟くように言った。
「……少し考えて、って言ったけど、たぶん、リュウジは今夜ずっと考えるでしょうね」
「ええ」
ペルシアが言う。
「で、考えた結果、さらにやる気になる可能性もある」
「ありそうね」
エリンが苦く笑う。
「ほんとに厄介」
ペルシアが言う。
「でも」
少しだけ間を置いて続ける。
「放っておけないのよね」
エリンは、その言葉に何も返さなかった。
返す必要もなかった。
同じことを思っていると、分かっていたから。
夜の道を、二人は並んで歩いていく。
明日、局長へ話す。
そこからまた、別のやり取りが始まるだろう。
今夜はまだ終わらない。
でも、少なくともこの問題は、もう二人とリュウジだけのものではなくなり始めていた。
ーーーー
翌朝。
宇宙管理局本部は、前日の探索シュミレーションの熱が嘘みたいに、いつもの朝の顔へ戻っていた。
長い廊下を行き交う職員達。
端末を片手に足早に移動する技術班。
各フロアから聞こえてくる報告の声。
大型モニターには各宙域の気象データと航路状況が並び、何事もなかったみたいに“今日の仕事”が始まっている。
その中で、ペルシアだけは珍しく機嫌が悪かった。
他人に当たり散らすほどではない。
でも、分かる人には分かる程度に眉間の皺が深く、歩く速度が少しだけ速い。
昨夜、リュウジから聞かされた話。
東の未探索領域――魔のゾーン。
その先にあるかもしれない、惑星サヴァイヴ。
その全部が、一晩経っても喉の奥に刺さったまま抜けていなかった。
「統括官、おはようございます」
フレイが軽く会釈する。
「……おはよう」
ペルシアは返したものの、声は少し低かった。
フレイが一瞬だけその顔を見る。
「局長のところですか?」
「ええ」
ペルシアは短く答えた。
「今のうちに話しといた方がいいと思って」
「そう」
フレイはそれ以上踏み込まない。
ただ、少しだけ柔らかい目をする。
「コーヒー、持っていきましょうか?」
「いらない」
ペルシアは言ってから、一拍置く。
「……やっぱり持ってきて、濃いやつ」
「分かりました」
フレイがわずかに口元を緩めた。
◇
局長室の扉の前で、ペルシアは一度だけ呼吸を整えた。
昨日、エリンの前ではかなり感情が出た。
リュウジ相手にも、だいぶ強く言った。
でも、局長に持っていくなら順番が違う。
怒りや恐怖だけではなく、事実と危険性と、最悪の想定まで含めて話さなければならない。
コンコン、と扉を叩く。
「どうぞ」
返ってきた声は落ち着いていた。
いつもの局長の声だ。
ただ、今日はほんの僅かに柔らかい。
ペルシアが中へ入ると、局長は机の上の書類から顔を上げた。
「朝から珍しいな」
局長が言う。
「昨日のシュミレーションの報告なら、午後でもよかっただろう」
「報告っていうより相談」
ペルシアは言った。
その言い方に、局長の目が少し細くなる。
「重い話か」
「かなりね」
局長は黙って向かいの席を示した。
ペルシアが座る。
ちょうどその時、フレイがノックをして入り、濃いコーヒーを一つ置いて、何も言わずに出ていった。
局長は、その様子を見てから言う。
「で?」
ペルシアは局長をまっすぐ見た。
「リュウジが、東の未探索領域――魔のゾーンの調査をしたいって言ってる」
局長の表情は変わらなかった。
でも、ペルシアには分かった。
その内側で何かが一瞬止まったことを。
「……理由は?」
局長がゆっくり聞く。
「惑星サヴァイヴを見つけたい」
ペルシアは言う。
「恐らく、魔のゾーンの先にある可能性が高いって本人は考えてる。帰還時のネフェリスの航行ログ、重力嵐の偏差、当時の星図にない流れ、それを根拠にしてた」
局長はしばらく黙っていた。
窓の外には、ロカA2の朝の光が薄く差している。
机の上の端末には今日のスケジュールが並んだままだが、局長はもうそれを見ていなかった。
「……気をつけた方がいいな」
局長がやがて言った。
ペルシアは少しだけ眉を寄せる。
「気をつける?」
「東の未探索領域は、宇宙開発が始まってからずっと、何も分かっていない場所だ」
局長の声は低く、慎重だった。
「危険だ、近づくな、という共通認識だけがあって、実態はほとんどブラックボックスのまま放置されてきた。だからこそ、もしその話が役員や宇宙連邦連盟に聞かれたら」
一拍置く。
「無理にでも調査をしろ、と言いかねない」
ペルシアは、そこで初めてはっきり目を見開いた。
「……そっち?」
「そっちだ」
局長は言う。
「“分からない危険宙域の先に、有人生存実績のある惑星があるかもしれない”しかも、それを実際に通過して帰ってきた唯一の人間がいる。そうなれば、上は黙っていない。危険性を理解して止める者より、可能性に飛びつく者の方が多い」
ペルシアは、じわりと背中が冷えるのを感じた。
昨夜までは、まだ個人の無茶に近い話だと思っていた。
危険で、感情的で、止めるべきもの。
もちろんそれは今も変わらない。
でも、局長の言葉は別の怖さを持っていた。
もしこの話が“個人の執着”ではなく、“宇宙開発上の未踏課題”として上に拾われたら。
もし役員や連盟が、利益や名誉や歴史的意義を見たら。
リュウジ個人の暴走では済まなくなる。
「……最悪」
ペルシアがぽつりと言う。
「最悪だ」
局長はあっさり頷いた。
「だからこそ、話の持っていき方を間違えるな。感情論だけで止めようとすれば、逆に“宇宙管理局は保守的すぎる”と取られる。かといって、軽く扱えば本当に動き出す。かなりまずい話だ」
ペルシアはコーヒーに手を伸ばし、一口飲んだ。
濃い。
苦い。
でも、その苦さが今はちょうどよかった。
「局長は、どう思う?」
ペルシアが聞く。
「私は反対。エリンも反対。でも、あいつは止まらない。しかも、このまま押し込めたら黙って一人で動くかもしれない。でも、正直、それすら嫌」
局長はペルシアを見た。
「お前はどうしたい?」
その問いに、ペルシアはすぐには答えられなかった。
反対は反対だ。
それは本当だ。
魔のゾーンにリュウジを行かせたくない。
サヴァイヴを理由にされたところで、その気持ちは揺らがない。
でも。
完全に押し込めて、黙って飛ばれるのも嫌だった。
何も知らないまま、後から“行っていた”と聞かされる未来はもっと嫌だ。
それに、もし本当にサヴァイヴがあの先にあるなら――その可能性を、全部無視していいのかと問われれば、それも簡単には言えない。
「……反対は反対なんだけど」
ペルシアが口籠る。
局長はその様子を見て、ほんの少しだけ目元を和らげた。
「迷ってるな」
「迷うに決まってるでしょ」
ペルシアは苦く笑う。
「止めたいに決まってる。でも、止め切れない。それに、もし本当にあいつが行くなら、せめて宇宙管理局の目の届く範囲に置きたい」
「そうだろうな」
局長は静かに言った。
そして、机の上で指を軽く組む。
「もし実行するのであれば」
局長がゆっくり言う。
「宇宙管理局として、全力で支援しなさい」
ペルシアは、はっきりと目を見開いた。
「……いいの?」
局長はすぐには答えなかった。
窓の外へ一瞬だけ視線を向け、それからまたペルシアを見る。
「よく聞け」
局長の声は落ち着いていた。
「“行け”と言ってるわけじゃない。“やらせろ”と言ってるわけでもない。ただ、もし止めきれずに実行段階へ入るなら、個人の無茶として放り出すな。宇宙管理局が責任を持って管理しろ、という意味だ」
ペルシアは黙って聞く。
「隠れて行かれるのが一番まずい」
局長は続けた。
「リュウジが一人でネフェリスを出して、誰にも見送られず、誰にも管理されず、撤退ラインもなく、通信も支援も曖昧なまま入る。それが最悪の形だ」
「……うん」
ペルシアが小さく返す。
「だから、もし本当に動くなら」
局長は言う。
「観測班、航路解析班、重力気象班、機関整備班、医療支援班、全部を噛ませろ、ログの再解析も、外縁観測の再配置も、撤退条件の設定も、単独判断にさせるな。やるなら徹底的に縛る。その上で、それでもなお“行く価値がある”と組織として認めるかどうかを判断する」
ペルシアは、そこでようやく局長の意図を正しく飲み込んだ。
許可ではない。
支援の約束でもない。
だが、“もしそうなるなら、個人の衝動のままにはさせない”という、組織側の覚悟ではある。
「……局長」
ペルシアが言う。
「それってつまり、最初から可能性をゼロにはしてないってことよね」
局長は、少しだけ考えるようにしてから答えた。
「ゼロに出来るなら、したい。東の未探索領域は、そのくらい危険だ。本音では反対だよ。だが、現実としてリュウジのような人間がいて、サヴァイヴの可能性があり、しかも上に知られたら政治案件に変わる。その状況で、“感情的にダメだ”だけでは長く持たない」
その言葉は重かった。
ペルシアはカップの縁に指を添えたまま、しばらく黙る。
「……あいつ、本当に面倒」
ペルシアが小さく言う。
「今さらか」
局長がほんの少しだけ口元を動かす。
「今さらだけど」
ペルシアは息を吐く。
「サヴァイヴを見つけたいって言われたら、完全には切れない。でも、行かせたくもない。最悪」
「だから、お前に聞いた」
局長が言う。
「お前はどうしたいのか、と」
ペルシアは少しだけ視線を泳がせた。
どうしたいか。
そんなの、本音は一つだ。
止めたい。
やめてほしい。
サヴァイヴがどうであれ、魔のゾーンなんかに二度と近づいてほしくない。
でも、その一方で。
もし本当に、あの先にサヴァイヴがあるなら。
もし本当に、リュウジがそこへ向かう理由を持ってしまっているなら。
全部を蓋するだけでは、たぶん終わらない。
「……止めたい」
ペルシアが、ようやく言った。
「本音は、反対。今でも、そこは変わらない」
「だろうな」
局長が言う。
「でも」
ペルシアは続ける。
「もし本当にやる流れになるなら、絶対に一人で行かせたくない。宇宙管理局の管理外で動かしたくない。ちゃんと縛って、ちゃんと見て、ちゃんと止められる形にしないと嫌」
局長は小さく頷いた。
「それでいい」
「いいの?」
ペルシアが、また同じことを聞く。
「いい」
局長は答えた。
「お前が反対であることと、組織として最悪を避けるための準備を進めることは両立する。むしろ、そうでなければならない」
ペルシアはそこで、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。
許可ではない。
でも、何もかも自分一人で抱えなくていいと分かっただけで、少しだけ息がしやすくなる。
「まず何をする?」
ペルシアが聞く。
「リュウジに正式な計画書を書かせろ」
局長が即答する。
「感情や経験則ではなく、観測仮説、危険度評価、撤退条件、成功条件、支援要求、その全部を文書で出させる。ネフェリスの帰還ログも解析班へ回す。ただし、話はまだ限定しろ。役員にも、連盟にも、今は上げるな。噂で漏れたら面倒になる」
「分かった」
ペルシアが頷く。
「それと」
局長が続ける。
「エリンにも共有しておけ、情で止める役と、現実で縛る役、両方必要だ」
ペルシアが、少しだけ苦く笑う。
「エリンは、たぶん今日も反対するよ」
「当然だ」
局長は言う。
「それでいい。誰かが“嫌だ”と言い続けることも必要だ。そういう声がなくなると、人はすぐに無茶を正当化する」
その言葉に、ペルシアは静かに頷いた。
たしかにそうだ。
自分も昨日、途中で感情に引っ張られて「私もネフェリスに乗る」と口走った。
あれは本気だった。
だからこそ、危なかった。
エリンが止めてくれなければ、あのまま話が別の方向へ転がっていたかもしれない。
「……局長」
ペルシアが言う。
「もし、本当に魔のゾーンの先にサヴァイヴがあるとしたら」
局長はすぐには答えなかった。
「その時は」
局長がゆっくり言う。
「宇宙開発の歴史が動く、そして同時に、多くの人間がそこへ群がる。だからこそ、余計に慎重でなければならない」
ペルシアは、その重さを受け止める。
サヴァイヴは、リュウジ達にとっては帰れなかった星であり、生きた星であり、忘れられない場所だ。
だが、それが“見つかる価値のある惑星”として世の中へ出た瞬間、別の欲望が一気に乗る。
資源。
航路。
居住可能性。
宇宙連邦連盟の名誉。
企業の利益。
歴史的発見。
ロマンだけでは済まない。
「だから、気をつけた方がいい」
局長が、最初の言葉をもう一度繰り返した。
「リュウジ個人の問題として見ているうちは、まだ小さい。だが、話が外へ広がった途端に、別の手で動かされる。その前に、こちらで握れ」
「……うん」
ペルシアは深く頷いた。
もう、ただ反対して怒っているだけでは駄目だ。
止めるにしても、支えるにしても、先に枠を作らなければならない。
局長は最後に言った。
「お前は、反対の立場でいろ。その上で、逃げ道も潰せ。それが今の最善だ」
ペルシアは立ち上がった。
「分かった。じゃあ、まずはエリンと話して、リュウジに計画書を書かせる」
「そうしろ」
局長が言う。
「ただし、急がせすぎるな。焦った計画は、だいたい死ぬ」
「うん」
ペルシアは答えた。
扉の前まで行き、ふと足を止める。
「局長」
「なんだ?」
「……ありがとう」
ペルシアが言う。
「正直、もう少し“絶対ダメだ”で切られるかと思ってた」
局長は、机の上の書類へ視線を戻しながら言う。
「切れるなら切ってる。だが、切れない話もあるんだよ」
その言葉は、やけに現実的だった。
ペルシアは小さく苦笑して、局長室を後にした。
◇
廊下へ出ると、さっきより少しだけ足取りが軽くなっている自分に気づく。
状況は何も好転していない。
むしろ、見えた危険は増えたくらいだ。
でも、少なくとも進め方は見えた。
感情だけで止めるのではなく、形にさせる。
リュウジの衝動を、組織の枠へ押し込む。
その上で、誰がどこまで許容できるかを見極める。
「……ほんとに面倒」
ペルシアが小さく呟く。
でも、そう言いながら、口元にはかすかな苦笑もあった。
あいつは止まらない。
だから、止まらないなら止まれないなりに、こちらで縄をかけるしかない。
エリンには何て言おうか。
たぶん、顔をしかめるだろう。
それでも必要な話だ。
そして、リュウジには――。
「計画書、地獄みたいに細かく書かせてやる」
ペルシアは、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた。
少なくとも、簡単には前へ進ませない。
進むなら、全部を晒させる。
そのくらいはしてやるつもりだった。