サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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地球①

 

 統括官室の扉を開けた瞬間、ペルシアは少しだけ眉を上げた。

 

「……なに、全員集合?」

 

 中にはフレイとフォックスとスリッピーとファルコとクリスタルがいた。

 

 フレイはいつものように資料束を抱え、淡々とした顔で壁際に立っている。

 フォックスはソファに腰を下ろし、腕を組んだままペルシアを見た。

 スリッピーは端末をいじりながら、椅子をくるりと回してこちらへ体を向ける。

 ファルコは窓際に寄りかかるように立ち、いかにも面倒そうな顔をしていた。

 クリスタルはテーブルの前で腕を組み、完全に待ち構えていたらしい目をしている。

 

「遅かったわね」

 クリスタルが言う。

 

「そりゃ遅くもなるわよ」

 ペルシアは肩をすくめた。

「局長とも話してたんだから」

 

「で?」

 フォックスが低く言う。

「本当に行く気なのか」

 

 ペルシアは扉を閉めると、少しだけ息を吐いた。

 それから統括官用の椅子へ向かいながら言う。

 

「ええ、本気よ。東の未探索領域に行きたいって。しかも、理由はサヴァイヴ」

 

 その一言で、室内の空気がもう一段沈んだ。

 

 スリッピーの手が止まる。

 ファルコが小さく舌打ちする。

 フレイの表情はほとんど変わらなかったが、持っている資料束を持ち直した。

 クリスタルは予想通りだったらしく、ただ目を細める。

 フォックスだけが、静かに眉を寄せた。

 

「……無理だな」

 最初にそう言ったのはフォックスだった。

 

「ああ」

 ファルコも即答した。

「無理だ。あそこは普通の危険宙域とは違う。調査だろうが何だろうが、簡単に首を突っ込んでいい場所じゃねえ」

 

「私もそう思うわ」

 フレイが静かに言う。

「東の未探索領域は、危険度の質が違います。予測不能という意味で、通常の支援が支援として機能する保証がない」

 

 ペルシアは頷いた。

 

「でしょ。私も反対。エリンも反対」

 

「でも、止まらないんでしょ?」

 クリスタルが言う。

 

 ペルシアは、そこで小さく苦笑した。

 

「そうなのよねぇ。だから面倒なのよ」

 

「面倒で済ませるなよ」

 ファルコが言う。

「今回はかなり洒落になってない」

 

「分かってるって」

 ペルシアが返す。

「だから戻ってきてすぐ、こうして集めたんじゃない」

 

 フォックスが腕を組み直した。

 

「仮に行かせるにしても」

 クリスタルがそこで口を開く。

「サポートは絶対必要。一人で行かせるなんて論外よ」

 

「それは私も言った」

 ペルシアが言う。

「でも、リュウジは“同行者を危険に晒すつもりはないから一人で行く”って」

 

「そう言うだろうな」

 フォックスが低く言う。

「あいつらしい」

 

「らしいで済ませたくないんだけど」

 ペルシアが椅子へ座りながら言う。

「本当に一人で行かれたら最悪だもの」

 

 スリッピーがそこで、端末の画面を切り替えながら言った。

 

「ちなみにだけど、僕とナウスで、昔ちょっとだけシミュレーションしたことあるよ」

 

 室内の視線が集まる。

 

「……いつの話?」

 ペルシアが聞く。

 

「リュウジが帰還した直後じゃないけど、その後」

 スリッピーが言う。

「“もし同じようなルートを再現するとしたら”っていう仮定で、でも結論から言うと、安全なルートなんてないよ」

 

「やっぱり」

 クリスタルが言う。

 

「うん」

 スリッピーは頷いた。

「そもそも規則性がないんだよ、あそこ。いや、完全にないわけじゃないかもしれないけど、人間が“ここは安全”って切れるほどの規則性じゃない。群の流れが変わるタイミングも、重力の引かれ方も、センサーの拾い方すら安定しない。シミュレーションの中でさえ、“これなら通れるかも”って筋が、次の瞬間には死ぬ。現実なら、なおさらだよ」

 

「ナウスも同じ見立て?」

 フォックスが聞く。

 

「同じ」

 スリッピーが言う。

「むしろナウスの方が辛辣だった。“通れた例があることと、通行可能なルートが存在することは別”って」

 

「……正しいわね」

 フレイが静かに言った。

 

 ペルシアは指先で机を軽く叩く。

 

「そうよね。だから、調査って言われても、じゃあ何をもって安全域とするのか、そこから怪しいのよ」

 

「そもそも、オペレーションルームの体制は?」

 クリスタルが言う。

「仮に本当に動かす話になるなら、現場だけじゃなくて後ろが必要よ」

 

「そう」

 ペルシアが顔を上げた。

「ちなみに、オペレーションルームに入れるメンバーって本部にいる?」

 

 その問いに、フレイがすぐ答える。

 

「本部にいるのは、私とシャオメイとイーナだけです」

 

「少ないわね」

 クリスタルが眉を寄せる。

 

「少ないな」

 フォックスが言う。

「マリとナミを遠地に異動させすぎたな」

 

 ペルシアは頷いた。

 

「仕方ないわ。マリもナミも、配属されてからずっと本部だったからね。あの子達の事を考えると、一度、惑星開拓の現場は見ておいた方がいい。本部の中だけで育てるには限界があるもの」

 

 ファルコが腕を組んだまま聞く。

 

「今、二人はどこだっけ」

 

「ナミは惑星アルビオンの開拓途中の管制」

 ペルシアが指を折りながら言う。

「マリは冥王星の管制。どっちも、今すぐ“本部へ戻せばいい”って話じゃないわね」

 

「だな」

 フォックスが短く言う。

 

 フレイが補足する。

 

「アルビオンも冥王星も、まだ開拓途中で管制の熟練者が必要です。戦力として抜くには、現地側の負担が大きいかと」

 

「そうなのよね」

 ペルシアは少し考え込み、それからぽつりと言った。

「……ソーラ・デッラ・ルーナにいるローズは呼び戻しておこうかな」

 

 その名に、フォックスが少しだけ目を細めた。

 

「ローズか」

 

「ええ」

 ペルシアが言う。

「今のローズなら、重いオペレーションでも頭は切れるし、局所の緊急対応だけじゃなくて全体の構造も見られる。いざって時に、オペレーションルームの中核を一本増やせる」

 

「呼び戻せるのか?」

 ファルコが聞く。

 

「短期ならたぶん」

 ペルシアが答える。

「完全復帰じゃなくて、一時召集の形なら通せると思う」

 

 クリスタルがゆっくり頷く。

 

「それは必要かもね。少なくとも、今の本部メンバーだけで魔のゾーン級の対応を想定するのは危ない」

 

「俺達はどうする?」

 ファルコが聞いた。

 

 ペルシアは少し考えてから、視線を順番に動かす。

 

「フォックスとスリッピーは、ルナちゃんの地球活動でのサポートがあるから、そっち優先。そこは崩せない」

 

「了解」

 フォックスは短く答えた。

 

「うん」

 スリッピーも頷く。

「地球案件は地球案件で、結構重いしね」

 

「ええ」

 ペルシアは続ける。

「だから、ファルコとクリスタルとナウスで対応を検討しよう」

 

「ナウスは遠隔前提か?」

 ファルコが言う。

 

「もちろん」

 ペルシアが答える。

「シミュレーション班と解析班を束ねてもらった方がいい。現場に出すより、後ろで頭を回してもらう方が活きる」

 

「それは同意」

 クリスタルが言った。

「ナウスは現場判断よりも、事前の切り分けと撤退ラインの設計の方が強い」

 

「で」

 フォックスが低く言う。

「結局、どこまで行かせるつもりだ」

 

 その問いに、ペルシアはすぐには答えなかった。

 

 視線を落とし、指先で机を軽く叩く。

 

「……そこなのよね。まだ“行かせる”とは決めてない。私は反対。今でも、そこは変わらない」

 

「だろうな」

 フォックスが言う。

 

「でも」

 ペルシアは続けた。

「完全に押し込めたら、黙って一人で行く可能性がある。だから最低限、机上調査と正式な計画書提出までは譲歩した。局長ともその話はした」

 

 フレイが少しだけ眉を上げる。

 

「局長に?」

 

「ええ」

 ペルシアが言う。

「“もし実行するのであれば、宇宙管理局として全力で支援しろ”って。もちろん許可じゃない。でも、個人の無茶として放り出すなって意味」

 

「……なるほど」

 クリスタルが小さく息を吐く。

「妥当ね。隠れて行かれるのが一番まずいもの」

 

「そういうこと」

 ペルシアが頷いた。

 

 ファルコは少しだけ不満そうに言う。

 

「でも、それって結局、“やる可能性”を残すってことだろ」

 

「残るわよ」

 ペルシアははっきり言った。

「だって、ゼロにしきれないもの。サヴァイヴの話を持ち出された時点で、感情だけで潰すと逆に危ない。上に漏れたらもっと面倒になるしね」

 

「最悪だな」

 フォックスが言う。

 

「最悪よ」

 ペルシアも即答した。

 

 その一言に、妙な実感がこもっていて、室内に小さな乾いた笑いが落ちた。

 

 けれど、すぐにフレイが真面目な顔へ戻る。

 

「リュウジには、どこまで伝えたんですか?」

 

「計画書を書けってこと」

 ペルシアが言う。

「観測仮説、危険度評価、撤退条件、支援要求、成功条件、全部。感情でも経験則でもなく、文書で出せって」

 

「それは必要ですね」

 フレイが頷く。

「少なくとも、本人の熱意だけで進めさせるのは危険です」

 

「ええ」

 ペルシアは椅子にもたれた。

「だから、次はそこ。細かく、逃げ道がなくなるくらい細かく書かせる」

 

 スリッピーがそこで口を挟む。

 

「ネフェリスの帰還ログ、もし本人が出すなら僕も見たい。当時の波形と今の観測のズレ、ちゃんと重ねないと意味ないし」

 

「分かってる」

 ペルシアが言う。

「そこは解析班に回す。ナウスにも投げる」

 

「うん」

 スリッピーが頷いた。

「あと、外縁観測の再配置も必要かも。今の観測網だと“通るか通らないか”以前に、“何が起きてるか”を捉えきれてない」

 

「それも」

 ペルシアは短く返した。

 

 クリスタルは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりと口を開く。

 

「……結局」

「今の段階で言えるのは一つね。魔のゾーンに入る話をするなら、現場だけじゃ絶対に足りない。船の中も、オペレーションルームも、観測も、撤退判断も、全部が揃って初めてスタートライン。そこまでやって、それでも危険」

 

「ええ」

 ペルシアが言う。

「だから私はまだ反対。そこは変わらない」

 

 フォックスが低く言う。

 

「でも、止めるだけでも終わらない」

 

「そう」

 ペルシアは苦く笑った。

「本当に面倒」

 

 ファルコが窓の外を一瞥してから、ぽつりと漏らす。

 

「サヴァイヴ、か」

 

 その一言に、室内の空気がまた少しだけ沈む。

 

 誰も軽々しく続けなかった。

 その名前は、ただの地名じゃない。

 リュウジ達にとっては“生きた星”であり、そして今も完全には終わっていない場所だ。

 

 だからこそ厄介だった。

 

「……見つけたい気持ちは分かるのよ」

 ペルシアが、珍しく少しだけ静かな声で言った。

「分かるけど、それと“行かせる”は別。そこをこっちは混ぜたくない」

 

 フレイが、その言葉に小さく頷く。

 

「本人は混ぜてるんでしょうね」

 

「ええ」

 ペルシアが言う。

「だから、こっちで分けるしかない」

 

 そう言って、ペルシアは机の上へ肘をつき、額を軽く押さえた。

 

「まずはローズを呼び戻す。ナウスに過去のシミュレーションを全部洗い直させる。ネフェリスの帰還ログを解析班へ、オペレーションルーム候補の再編成。それと……」

 顔を上げる。

「リュウジに、計画書を書かせる」

 

 その言い方には、もう迷いよりも仕事の色が強かった。

 

 反対は反対。

 でも、反対のままでも準備は進める。

 そうしないと、一番まずい形になると分かっているから。

 

 フォックスが小さく息を吐く。

 

「本気でやる気だな」

 

「やるしかないでしょ」

 ペルシアが言う。

「止めるなら、ちゃんと止める。通すにしても、ちゃんと縛る。どっちに転ぶにしても、中途半端が一番ダメ」

 

 クリスタルが、その言葉を聞いて少しだけ口元を緩めた。

 

「それでこそ、って感じね」

 

「褒めても何も出ないわよ」

 ペルシアが返す。

 

「別に期待してない」

 クリスタルは淡々としていた。

「ただ、ようやく統括官らしい顔してるなと思っただけ」

 

「昨日からずっと統括官だけど?」

 ペルシアが言う。

 

「昨日はだいぶ感情に引っ張られてたでしょ」

 クリスタルが言う。

「どうせ“私も乗る”なんて言うんじゃないかってヒヤヒヤしたもの」

 

 スリッピーが吹き出す。

 

「え、そうなの?」

 

「統括官なら言いかねない」

 フレイが平然と答える。

 

「うわぁ……」

 スリッピーが目を丸くする。

「でも、それくらい嫌だったんだね」

 

「嫌よ」

 ペルシアは即答した。

「今でも嫌。せめてこっちの土俵に引っ張り込むの」

 

 ファルコが少しだけ笑う。

 

「リュウジも災難だな」

 

「知らない」

 ペルシアが言う。

「こっちはもっと災難」

 

 その返しに、ようやく室内の空気が少しだけ緩んだ。

 

 だが、問題そのものは何も軽くなっていない。

 

 東の未探索領域。

 魔のゾーン。

 その先にあるかもしれないサヴァイヴ。

 そして、それを見つけたいと止まらないリュウジ。

 

 統括官室の中で、ペルシアは一人ずつ顔を見た。

 

 フレイ。

 フォックス。

 スリッピー。

 ファルコ。

 クリスタル。

 

 この話を背負うなら、もう一人で抱えるわけにはいかない。

 

「……とりあえず」

 ペルシアが言う。

「今日のところは、まず準備。反対するなら、反対するための材料を揃える。通す流れになったら、首輪をかける。どっちにしても、今のうちに動く」

 

「了解」

 フレイが最初に答える。

 

「俺もいい」

 フォックスが言う。

 

「シミュレーションは任せて」

 スリッピーが軽く手を上げる。

 

「面倒だが、やるしかないな」

 ファルコが言う。

 

「私は最初からそのつもりよ」

 クリスタルが言った。

 

 ペルシアは、小さく息を吐いた。

 

「……ありがと」

 

 その声は、さっきまでより少しだけやわらかかった。

 

 まだ何も始まっていない。

 でも、もう何も知らずに放っておく段階でもない。

 

 統括官室の朝は、いつの間にか完全に“次の段階”へ切り替わっていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 

 宇宙管理局本部、統括官室。

 

 午前の光が大きな窓から差し込み、室内の机や端末の縁を白く照らしている。壁際の資料棚には整然とファイルが並び、中央の大きなデスクには、整然としているようでいて、よく見れば「今日中に処理しなければいけないもの」と「本当は昨日までに終わらせたかったもの」が、きっちり分類されたうえで積み上がっていた。

 

 その山の前で、ペルシアは端末を睨みながら片手で書類にサインをし、もう片方の手で飲みかけのコーヒーを探し、結局カップが空だと気づいて小さく舌打ちした。

 

「……誰よ、私のコーヒー飲んだの」

 

「統括官が自分で全部飲みました」

 フレイが、視線を手元の端末に落としたまま言う。

 

「そうだったかしら」

 

「そうです」

 フレイは即答した。

「今朝から三杯目です」

 

「まだ三杯じゃない」

 ペルシアが言う。

「たった三杯よ」

 

「その“たった”がズレているんです」

 フレイが静かに返す。

 

 統括官室の中には、紙をめくる音と端末の入力音、それからフレイの淀みない報告の声が絶え間なく流れていた。

 

「こちらが昨夜分から持ち越しの案件一覧です」

「ルナさんの地球活動に関する視察計画、ローズ一時召集の打診、東の未探索領域関連の初期整理、探索シュミレーション後の人材評価資料、アルビオンからの現況報告、冥王星管制からの臨時支援要請――」

 

「待って待って」

 ペルシアが手を上げる。

「朝から一気に全部読むのやめて」

「耳が拒否する」

 

「耳ではなく、統括官の脳が拒否しているだけです」

 フレイが言う。

 

「それもっと悪いじゃない」

 

 だが、冗談を返しながらも、ペルシアの手は止まらなかった。サインを一つ、承認を一つ、差し戻しを一つ、保留を二つ。机の上に置かれた未処理ボックスには既に何件も書類が刺さっているが、それでも彼女の動きには妙な勢いがあった。

 

 そこへ、コンコンとノックが入る。

 

「どうぞー」

 ペルシアが、端末から目を離さずに言う。

 

 扉が開いた。

 

 入ってきた人物を見て、フレイが一瞬だけ目を上げる。ペルシアも遅れて顔を上げた。

 

「……あら。ほんとに来た」

 

 リュウジだった。

 

 しかも手には、分厚い資料束がある。

 

「おはよう」

 リュウジが言う。

 

「おはよう」

 ペルシアが言ってから、資料束へ視線を落とす。

「なにそれ」

 

 リュウジは、そのまま机の前まで歩いてくると、手に持っていた資料を静かに置いた。

 

「東の未探索領域の調査資料だ。昨日言っていた件の」

 

 ペルシアの眉がぴくりと動く。

 

「……もう作成したの?」

 

「前から作っていた」

 リュウジは、さも当然のことみたいに言った。

「東の未探索領域に関する資料自体は、以前から少しずつまとめていた。昨日の話をしたあと、今朝仕上げた」

 

「ふーん」

 ペルシアは資料束を一瞥した。

「本気ね」

 

「本気だ」

 リュウジは答える。

 

 フレイが、机の上の資料束の厚みを見て言う。

 

「随分ありますね」

 

「観測仮説、過去ログ、帰還時のネフェリス航行記録の要約、重力偏差の推定、外縁流の変化、撤退条件の草案まで入れている」

 リュウジが言う。

 

「草案まで」

 フレイが小さく繰り返す。

 

「ちゃんとやってるじゃない」

 ペルシアが言った。

 だが、その表情はすぐに仕事顔へ戻る。

 

 彼女は資料束を受け取ると、一度ぱらぱらと表紙と目次だけ確認し、それから――そのまま、机の上にある未処理ボックスへぽいと入れた。

 

 リュウジの目がわずかに細くなる。

 

「確認してくれ」

 

「順番」

 ペルシアが言う。

「統括官には他にも仕事が山ほどあるのよ」

 そう言って、未処理ボックスの中に収まった資料を指先で軽く叩く。

「はい、ちゃんとここに入れた。なくしてないだけ優しいでしょ?」

 

「必ず確認してくれ」

 リュウジがもう一度言った。

 

「当たり前でしょう」

 ペルシアが即答する。

「ただ、私は忙しい身なのよ。貴方の資料だけ見て一日が終わるほど暇じゃないの」

 

「それは分かってる」

 リュウジが言う。

 

「分かってる顔に見えないのよねぇ」

 ペルシアがわざとらしく言うと、フレイが小さく咳払いした。

 

「統括官。そろそろ次の予定です」

 

「分かってるわよ」

 ペルシアが言って、それからふと思いついたようにリュウジを見る。

「……そういえば、リュウジ、しばらく暇?」

 

 リュウジが少しだけ眉を上げる。

 

「暇?」

 

「そう」

 ペルシアが椅子にもたれながら言う。

「東の未探索領域の資料を出して満足してるなら、少しくらい別件に付き合いなさいよ」

 

 リュウジは少し考えるようにしてから答えた。

 

「まぁ、やることはない」

 

「なら決まり」

 ペルシアが言う。

「今日の午後から、ルナちゃんの地球への下見として、二泊三日で地球に行くけど行かない?」

 

 リュウジが一瞬だけ目を見開いた。

 

「ルナの?」

 

「ええ」

 ペルシアが頷く。

「グレートフォックスで行くわ。フォックスとスリッピーも同行するし、地球での活動場所を決めるのよ。来月から本格的に動き始めるから、その下見」

 

 フレイがそこで、端末から目を上げて言った。

 

「統括官も行くので、リュウジには統括官の監視を」

 

「フレイ……」

 ペルシアがじとっとした目を向ける。

 

 フレイは一度だけ咳払いした。

 

「失礼しました。サポートを、です」

 

「全然訂正になってないわよ」

 ペルシアが言う。

 

 だが、リュウジはそのやり取りを聞いて、少しだけ息を吐いた。

 

「……分かった。行く」

 

「よろしい」

 ペルシアが言う。

「じゃあ、午前中のうちに着替えやら、必要品を買い揃えておきなさい。地球はこっちと気候が違う場所もあるし、ルナちゃんの下見ならある程度歩くことになるから」

 

「分かった」

 リュウジが答える。

 

「あと」

 ペルシアが続ける。

「資料出したからって、頭の中で魔のゾーンのことばっかり考えない。少なくとも二泊三日は、ルナちゃんの地球活動が最優先!いい?」

 

 リュウジはそれに対して、ほんの少しだけ沈黙した。

 

 フレイがその沈黙を横目で見たが、何も言わない。

 

「……分かった」

 リュウジがもう一度言う。

 

「よろしい」

 ペルシアは満足そうに頷いた。

「じゃ、昼まで自由解散。私は地獄の書類仕事に戻るから」

 

「統括官」

 フレイが静かに言う。

「その“地獄”の一つ一つは、統括官が昨日と今日に増やしたものも多いです」

 

「はいはい」

 ペルシアが手を振る。

「分かってる分かってる。だから働いてるんじゃない」

 

 リュウジは、そんな統括官室のやり取りを少しだけ見てから、静かに一礼した。

 

「じゃあ、午後に」

 

「ええ」

 ペルシアが返す。

「遅れないでね」

 

 

 午前中のうちに、リュウジは必要品を買い揃えた。

 

 地球へ行くのは久しぶりではない。けれど今回は“ルナの活動の下見”という名目がある以上、単に移動用の最低限だけというわけにもいかなかった。少し歩ける靴、温度差へ対応できる上着、携帯端末の予備電源、それから簡単な日用品。

 

 買い物をしながらも、頭の片隅には未処理ボックスの中へ入れられた資料のことが残っていた。

 けれど、午前中のうちに地球行きの準備をさせたのは、ペルシアなりの意図があるのだろうということも分かっていた。

 

 東の未探索領域のことだけを考えさせない。

 少なくとも今は、別の動きを入れて思考の流れを切る。

 

 それは、あの人らしいやり方だった。

 

 だからリュウジも、それ以上は何も言わなかった。

 

 

 午後。

 

 宇宙港の発着エリアの一角に、グレートフォックスが停泊していた。

 

 

 機体の前では、既にフォックスとスリッピーとペルシアがいた。

 

 フォックスは腕を組み、グレートフォックスの機体チェック状況を見上げている。

 スリッピーは端末を片手に、なにやら補助機器の最終接続を確認していた。

 ペルシアは視察用の資料端末と旅程表を持ち、珍しくきちんと統括官らしい顔をしている。

 

「遅くない?」

 ペルシアが端末を見ながら言う。

 

「予定の十分前だ」

 リュウジが答えた。

 

「そういうところ、ちょっとつまらないわね」

 ペルシアが言う。

 

「何がつまらないんだ」

 リュウジが返す。

 

 そのやり取りに、スリッピーがくすっと笑った。

 

「二人とも今日も元気そうで何より。でも、リュウジに時間ぴったりで来られると、たしかに突っ込みどころは減るよね」

 

「でしょ?」

 ペルシアが言う。

 

「別に突っ込まれたいわけじゃない」

 リュウジが淡々と返す。

 

 フォックスがそこで低く声を出した。

 

「地球行きなんだから、少しは肩の力抜け。今から魔のゾーンの顔されても困る」

 

 リュウジは一瞬だけフォックスを見る。

 

「……そんな顔していたか」

 

「してる」

 フォックスが即答した。

 

「私もそう思う」

 ペルシアが乗る。

「だから連れ出したのよ」

 

 リュウジはそれに対して何も言わなかった。

 否定しきれないのだろう。

 

 その時、少し離れた通路の向こうから、ぱたぱたと軽い足音が近づいてきた。

 

 先に見えたのは明るい茶色の髪。

 その少し後ろから、見慣れた関西弁が飛んでくる。

 

「うわ、やば、ちょっと遅れたやん!」

 

 ルナとチャコだった。

 

 ルナは小走りで駆けてきて、頬を少し赤くしている。

 服装は動きやすい私服だが、どこか意識して選んだのだろう、全体に明るくて軽やかな印象だった。肩からは小さめの荷物を下げ、目はきらきらしている。

 チャコはその少し後ろを同じように歩いてきているが、こちらはいつものマイペースさを失っていない。ただし目の奥には、ルナと同じ種類の高揚があった。

 

「ごめんなさい!」

 ルナが息を弾ませながら言う。

「最後に確認したいものがあって、ちょっとだけ遅くなっちゃいました」

 

「ちょっとだけ、で済んどるうちはセーフや」

 チャコが言う。

「ほんまにあかん時は、ペルシアの顔がもっと怖い」

 

「もう十分怖いんだけど」

 ペルシアが言う。

 

「ほらな」

 チャコが笑う。

 

 そして、ルナの視線がリュウジへ向いた。

 

「リュウジ、来てくれたんだ」

 

 その声には、嬉しさが隠しきれていなかった。

 

 リュウジは、いつもの落ち着いた顔のまま頷く。

 

「ああ」

 

「リュウジも行ってくれるの?」

 ルナがもう一度、今度は少しだけ弾む声で聞く。

 

「ああ」

 リュウジは短く答えた。

「ルナの地球活動の下見だろ。付き合う」

 

 ルナの顔がぱっと明るくなる。

 

「よかった!なんか、ちょっと安心した」

 

「安心?」

 スリッピーが面白そうに聞く。

「僕とフォックスとペルシアじゃ足りない?」

 

「そういう意味じゃないです」

 ルナは少しだけ照れたように笑った。

「リュウジがいると、なんか“いよいよ始まる”って感じがするんだよ」

 

 その言葉に、ペルシアがふっと目を細める。

 

「へぇ、いいこと言うじゃない、ルナちゃん」

 

「ほんとですよ?」

 ルナは真っ直ぐ言う。

「だって、今日ってただの下見じゃないです。来月から始まる地球での活動の、最初の一歩ですし、支援してくれる企業の人達とも会うし、場所も見るし、ちゃんと動き出すんだって思うと、なんか……」

 胸の前で手を握る。

「嬉しいんです」

 

 その“嬉しい”は、軽い弾みではなかった。

 

 緊張もある。

 不安もある。

 でも、それよりずっと大きく、高いところにある感情が伝わってくる。

 

 ルナはずっと、この日を待っていたのだろう。

 

 地球で活動する。

 支援を受けながら、自分のやりたいことを形にしていく。

 ただ憧れていただけじゃなく、ようやく実際に動き始める。

 

 その高揚が、ルナの全身から素直に溢れていた。

 

「ルナ、目ぇきらっきらやな」

 チャコが横で笑う。

「今、たぶん誰より楽しみにしとる顔しとるで」

 

「そりゃ楽しみだよ!」

 ルナは振り返って言う。

「だって地球だよ?しかも、ただ遊びに行くんじゃなくて、これからやることのために行くんだよ?下見って言っても、私にとっては最初の一歩だもん」

 

「ええことや」

 チャコが頷く。

「そのくらいワクワクしてた方が、周りもやる気出るしな」

 

「チャコは?」

 ルナが聞く。

「楽しみじゃないの?」

 

「楽しみやで」

 チャコはにっと笑う。

「うちは地球やと、ルナがどんな顔して動くんか見るんが一番楽しみや。絶対、目ぇもっと輝くやろ」

 

「なにそれ」

 ルナが笑う。

 

 その笑顔は、本当に軽かった。

 

 昨日までの探索シュミレーションの重さとも、魔のゾーンの話の重さとも違う。

 ここにあるのは、“これから始まる”という真っ直ぐな熱だ。

 

 フォックスがそのやり取りを見ながら、低く言う。

 

「……いい顔だな」

 

 スリッピーがこくこく頷く。

 

「うん。こういう時のルナって、見てるとこっちまで前向きになる」

 

「だからこそ、下見の価値があるのよ」

 ペルシアが言う。

「夢のまま始めるんじゃなくて、ちゃんと地面を見せる。どこで、誰と、何をするのか、それを自分の目で確認してから進めるの」

 

「はい」

 ルナが力強く頷く。

「ちゃんと見たい。雰囲気とか、動線とか、人の流れとか、どこで話すのがいいのかとか、そういうの全部、自分で感じたいです」

 

 リュウジは、そのやり取りを少し離れた位置から見ていた。

 

 ルナのこういう顔を見るのは久しぶりではない。

 けれど、今日はいつもより強い。

 楽しみと、不安と、決意と、希望が全部一緒になって、まだ形になりきっていない高揚として溢れている。

 

「……緊張はしてないのか」

 リュウジが聞いた。

 

 ルナは、少しだけ驚いたようにリュウジを見る。

 

「してるよ、すごく」

 そう言ってから、ふっと笑う。

「でも、それ以上に楽しみ。変かな?」

 

「いや」

 リュウジは答える。

「それでいいと思う」

 

「そっか」

 ルナは嬉しそうに笑った。

 

 その笑顔を見て、チャコが肘でルナをつつく。

 

「ほらな、リュウジもええ言うてるやん」

 

「うん」

 ルナは頷いた。

「じゃあ、もう遠慮なく楽しみにしとく」

 

「最初から遠慮してないやろ」

 チャコが言って笑う。

 

 ペルシアが端末を確認しながら言う。

 

「そろそろ搭乗するわよ、今回の目的はあくまで下見。観光気分だけで飛び出さないこと、でも、必要なことはちゃんと見て、聞いて、感じること。ルナちゃん、分かった?」

 

「はい!」

 ルナが元気よく返事をする。

 

「声がよろしい」

 ペルシアが満足そうに言う。

 

「うちもちゃんと聞いてるでー」

 チャコが手を上げる。

 

「チャコは時々、聞いてる顔だけして別のこと考えるでしょう」

 ペルシアが言う。

 

「ひどない?」

 チャコが言う。

「今日はちゃんと仕事モードやで」

 

「半分くらい信じる」

 ペルシアが返す。

 

 フォックスが機体側を見ながら短く言った。

 

「乗り込むぞ、時間だ」

 

 その一言で、皆の空気が少し締まる。

 

 ルナはグレートフォックスを見上げた。

 

 

 今のルナにとっては、それがただの移動手段には見えなかった。

 

 これに乗って地球へ行く。

 ただ会いに行くのではない。

 ただ見るのでもない。

 来月から始まる自分の活動のために、最初の場所を、自分の目で確かめに行く。

 

 胸の奥が、熱い。

 

 地球で何が待っているのか、まだ全部は分からない。

 支援企業との打ち合わせがうまくいくかも分からない。

 見に行った場所が本当に自分に合うかも、まだ分からない。

 

 でも、それでもいいと思えた。

 

 分からないまま進むのではなく、分からないものを見に行ける。

 そのこと自体が、ルナにはたまらなく嬉しかった。

 

「……よし」

 ルナが小さく自分に言う。

 

 その声を、チャコが聞き逃さない。

 

「気合い入っとるなぁ」

 

「うん」

 ルナは頷く。

「だって、いよいよだもん」

 

 その一言には、あまりにも素直な高揚があった。

 

 ペルシアがその顔を見て、少しだけ優しい顔になる。

 

「そうね、いよいよよ、ルナちゃん」

 

 リュウジも、そのやり取りを見ながら静かに言った。

 

「しっかり見てこい」

 

「うん」

 ルナは真っ直ぐ頷く。

「ちゃんと見てくる。それで、ちゃんと始める」

 

 フォックスが先に乗り込み、スリッピーが続く。

 ペルシアが最後に全員を確認し、ルナとチャコを先へ促した。

 

 ルナはタラップへ足をかける前に、一度だけ振り返って宇宙港の風景を見た。

 

 ここから、地球へ。

 そして、その先の活動へ。

 

 胸が鳴る。

 

 怖くないわけじゃない。

 でも、もう止まりたくない。

 

 ルナは、弾むような足取りでグレートフォックスへ乗り込んだ。

 

 その背中には、これから始まる時間への高揚が、はっきりと宿っていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 グレートフォックスのタラップへ足をかける直前、ルナはもう一度だけ振り返った。

 

 宇宙管理局の宇宙港は、昼過ぎの淡い光の中で静かに機能している。発着の案内表示、整備員達の往来、遠くを滑る輸送艇の光。見慣れたはずの景色なのに、今日は全部が少し違って見えた。

 

 ここから地球へ行く。

 

 ただ会いに行くのではない。

 ただ見学するだけでもない。

 

 今はもう、人が住める場所ではなくなった地球を。

 もう一度、人間が生きていける星へ戻すための、最初の下見だ。

 

 ルナは、胸の奥に強く灯った熱を、そのまま抱えたままグレートフォックスへ乗り込んだ。

 

 

 機内は、実用一点張りの造りだった。

 

 豪華ではない。

 むしろ必要なものだけを残して削ったような構造で、座席も通路も、整然としていて無駄がない。前方は操縦室、中央が小規模なラウンジ兼ブリーフィングスペース、後方に観測機器と資材置き場がある。

 

「ルナちゃん、そっちの席でいいわよ」

 ペルシアが言う。

「離陸まではベルトきっちりね」

 

「はい、分かりました」

 ルナはすぐに返事をして、指定された席へ向かった。

 

 その声が少しだけ弾んでいるのを、ペルシアは聞き逃さなかった。

 

「すっごい楽しみそうね」

 ペルシアが肩越しに笑う。

 

「はい」

 ルナは素直に答えた。

「楽しみです!緊張もしてますけど、それ以上に、ちゃんと始まるんだなって思って」

 

「ええ」

 ペルシアは頷いた。

「今日はそのための日だもの」

 

 チャコはその隣へ、どかっと腰を下ろした。

 

「ルナ、顔に出すぎやで、目ぇめっちゃ輝いとる」

 

「そう?」

 ルナが少し笑う。

 

「そうや」

 チャコがにっと笑う。

「昨日からずっとソワソワしとったしな」

 

「だって、しょうがないじゃん」

 ルナは少し身を乗り出す。

「いよいよなんだよ?ただ準備してるだけじゃなくて、ちゃんと自分の目で地球を見るんだよ?しかも、これから私がやることのために」

 

「分かっとる分かっとる」

 チャコが手をひらひら振る。

「そういう顔するんもルナらしくてええやん」

 

 その少し前の席で、スリッピーが振り返った。

 

「二人とも、離陸前にテンション上げすぎると、あとで耳詰まるよー」

 

「それ、ほんまなん?」

 チャコが聞く。

 

「半分くらい嘘」

 スリッピーが言う。

 

「なんやそれ」

 チャコが呆れて笑う。

 

 フォックスは、前方の操縦席側から低い声で言った。

 

「スリッピー、余計なこと言ってないで接続確認終わらせろ」

 

「はーい」

 スリッピーは返事こそ軽いが、手元は速い。補助機器の起動状況、観測端末の同期、地球近傍の大気データ受信確認、航法系の予備ラインまで、ひとつずつ滑るように見ていく。

 

 操縦室の前方へ目を向けると、そこにはフォックスとリュウジが並んでいた。

 

 今回の地球行きはフォックスがメインで舵を取り、リュウジが副操縦席で支援に入る形だ。長距離輸送艇であるグレートフォックスの癖と、地球近傍の不安定な気象圏への対応、その両方を考えると、その組み合わせが最も安定すると判断されたのだろう。

 

 ルナは、その光景を見るだけでまた胸が高鳴った。

 

 フォックスとリュウジ。

 

 名前を聞くだけで十分強いのに、実際に二人が前へ座っていると、それだけで「本当に行くんだ」という現実味が増す。単なる視察じゃない。ちゃんとした任務として、自分達は今から地球へ向かうのだと、嫌でも実感させられる。

 

「リュウジ」

 ルナが少し声を張った。

 

 リュウジが肩越しに振り向く。

 

「何だ」

 

「来てくれてありがと」

 ルナは、少しだけ笑って言った。

 

 リュウジは一瞬だけ目を細めたが、表情は大きく崩さない。

 

「気にするな」

「ルナの下見なんだろ」

 

「うん」

 ルナは頷く。

「でも、リュウジがいると安心する」

 

 その言葉に、チャコが横からにやっとした。

 

「せやろなぁ、うちもおるけど、操縦席にあれ二人並んどったら、そら安心するわ」

 

「チャコもいると安心するよ」

 ルナがすぐ言い返す。

 

「お、ええこと言うやん」

 チャコが笑う。

 

 ペルシアが前方通路から顔を出した。

 

「はいはい、離陸前のおしゃべりはその辺で、最終確認入るわよ」

 

 ルナはすぐ背筋を伸ばした。

 

「はい、ペルシアさん」

 

「よろしい」

 ペルシアは端末を見ながら、淡々と確認事項を読み上げる。

「今回の目的は、地球活動の下見。本格活動の開始前に、現地の状況、候補地の導線、受け入れ側の状態、活動範囲の選定に必要な情報を自分達の目で確認すること。観光じゃない。でも、ちゃんと見て、感じて、考えること。ルナちゃん、そこは大丈夫?」

 

「はい」

 ルナはしっかり頷く。

「ちゃんと見ます」

 

「スリッピー」

 ペルシアが視線を移す。

 

「観測系、問題なし」

 スリッピーが端末を上げずに答える。

「大気サンプル受信ラインも生きてるし、地球上空の過去観測ログも入れた。着いてから比較できるよ」

 

「フォックス」

 

「航法問題なし」

 フォックスが短く言う。

「離陸後、標準ルートから地球近傍の管理航路へ接続。その後、上空の監視区域へ入る。大気圏内は高度を保ったまま一周。まずは上から見る」

 

「リュウジ」

 

「補助操縦と地球側の気流監視を受ける」

 リュウジが答える。

「必要なら大気圏内の微修正はこっちで入れる」

 

「よし」

 ペルシアが端末を閉じた。

「じゃ、行きましょうか」

 

 

 離陸は静かだった。

 

 グレートフォックスの船体が、低い振動とともに港から浮き上がる。外壁越しにロカA2の都市部がゆっくり遠ざかり、人工空の明るさが薄れていく。やがて、コロニー外縁の光が帯のように伸び、その先に深い宇宙が広がった。

 

 ルナは窓へ顔を寄せるようにして、その景色を見ていた。

 

 何度も宇宙は見てきた。

 発着も経験している。

 でも、今日のこの離陸は違う。

 

 行き先が違うのだ。

 

 地球。

 

 かつて人類の故郷だった星。

 今はもう、人が住める場所ではなくなってしまった星。

 

 オゾン層の破壊。

 大気汚染。

 温暖化による異常気象。

 さらに連鎖するように起きた大規模な地殻変動。

 

 人間の活動が積み重ねたダメージは、やがて惑星そのものの均衡を崩し、地球は“生きていける環境”ではなくなった。安全圏だったはずの地域は酸性雨に侵され、海岸線は何度も形を変え、都市は崩れ、空は濁り、風は狂った。

 

 それでも、人類は地球を完全には捨てきれなかった。

 

 捨てきれないからこそ、ルナのような“惑星開拓”の仕事がある。

 再び人間が住める場所にするべく、少しずつ、少しずつ条件を整え直す。

 大地を調べ、空気を読み、危険を切り分け、居住可能圏を作り直していく。

 

 その最初の下見を、今から行う。

 

 しかも、最初は日本という国からだ。

 

 地球全土を一気に見ることは出来ない。

 だからこそ、まずは足がかりが必要だった。過去の記録、地形の残存状況、観測拠点の再利用可能性、政治的・文化的な意味合いまで含めた時、日本から順番に見ていくのが最も現実的だと判断されたのだ。

 

 ルナは、その“現実的な判断”にすら嬉しさを感じていた。

 

 ただ夢を見るだけじゃない。

 ちゃんと、始まる。

 

「……すごい」

 思わず、そう呟く。

 

「まだ宇宙やで?」

 チャコが横から言う。

 

「分かってるよ」

 ルナは笑う。

「でも、これから地球に行くって思うだけで、なんか全部違って見える」

 

「ルナ、こういう時ほんま顔に出るなぁ」

 チャコが楽しそうに言う。

「見てるこっちまで楽しくなるわ」

 

 前方から、フォックスの声が飛んだ。

 

「ルナ」

 

「はい、フォックスさん」

 

「今のうちに頭の中を整理しとけ。着いたら見るものは多い。感情で見て、感情で終わるな」

 

「……はい」

 ルナは真剣に頷いた。

「分かってます」

 

 スリッピーが少しだけ身体をひねって言う。

 

「でも、最初に“うわぁ”ってなるのは別に悪くないよ。地球は今でも、人間の感情を揺らすだけのものはあるからね。ただ、その後にちゃんと見る。ルナはそこが出来る子だと思ってる」

 

「ありがとうございます、スリッピーさん」

 ルナは嬉しそうに言った。

 

 ペルシアは、そんなやり取りを聞きながら資料端末へ目を落としていたが、ふと顔を上げる。

 

「ルナちゃん」

 

「はい、ペルシアさん」

 

「今回、日本を最初に見る理由、もう一回自分の言葉で言える?」

 

 ルナは一瞬だけ考え、それからはっきり答えた。

 

「過去の観測データと地形の安定性、それから既存施設の残骸や地下設備の利用可能性が、他の地域よりまだ検討しやすいからです。あと、文化的な意味も大きいです。“人が戻る場所”として象徴性がある地域の一つだから。ただ、それだけで決めるんじゃなくて、実際に見て、活動拠点として現実的かを判断します」

 

 ペルシアは満足そうに頷いた。

 

「うん、よろしい。ちゃんと頭入ってるじゃない」

 

「昨日の夜から何回も確認しました」

 ルナが少しだけ照れたように言う。

 

「でしょうね」

 チャコがすぐ笑う。

「ルナ、絶対寝る前も資料見とったやろ」

 

「見たよ」

 ルナはあっさり認める。

「だって大事だもん」

 

「その素直さ、ほんまええわ」

 チャコが言う。

 

 

 航行は順調だった。

 

 途中、スリッピーが地球近傍の大気変動ログを受信し、ペルシアが現地で会う予定の支援企業側との最終確認を行い、チャコが「これ、地球着いたら何から見るん?」とルナへ質問を投げ、ルナが一つ一つ答える。

 

「まずは上から日本列島全体の状態を見て、そのあと、候補地域を絞って降りる。今回は視察だから、すぐに“ここに住める”とかじゃなくて、どういう環境制御が必要か、どの程度の保護設備がいるか、既存の地下区画が使えるか、そういうところを見たい」

 

「へぇ」

 チャコが感心する。

「ルナ、ちゃんと考えとるなぁ」

 

「ちゃんと考えてるよ!」

 ルナが言う。

「これでも本気なんだから」

 

「知っとる知っとる」

 チャコは笑った。

 

 前方では、フォックスとリュウジが必要最低限の会話だけを交わしていた。

 

「右側、気流の層がずれてる」

 リュウジが言う。

 

「見えてる」

 フォックスが答える。

「日本上空へ入る頃には少し収まるはずだが、外れたらお前が修正入れろ」

 

「分かった」

 

 たったそれだけのやり取りなのに、無駄がない。

 

 ルナは、その背中を見るだけでまた胸が高鳴った。

 

 フォックスとリュウジが操縦を持っている。

 それだけで、地球という危険な惑星へ向かう不安の輪郭が少し薄くなる。

 

 不安がなくなるわけではない。

 でも、それを飲み込めるくらいの安心がある。

 

「……すごいなぁ」

 ルナが小さく呟く。

 

「何が?」

 チャコが聞く。

 

「フォックスさんとリュウジ」

 ルナは正直に言う。

「なんか、言葉少ないのに全部噛み合ってる感じ」

 

「そらそうやろ」

 チャコが言う。

「片っぽは昔からの大ベテランやし、もう片っぽはあれで変なとこだけ妙に上手いからな」

 

「変なとこって何だ」

 前からリュウジの声が返ってきた。

 

「聞こえとったんかい」

 チャコが笑う。

 

「聞こえる距離だ」

 リュウジが答える。

 

「ほら、そういうとこや」

 チャコが言って、ルナもつられて笑った。

 

 

 やがて、グレートフォックスは地球近傍の管理航路へ入った。

 

 前方モニターへ、青くも緑でもない、濁った色の惑星が映し出される。

 

 地球。

 

 かつて人類の故郷だった星。

 

 今は、遠くから見ても分かるほど傷ついていた。

 

 雲の色は均一ではなく、灰色とも茶色ともつかない帯がいくつも広がっている。海も昔の記録映像のような深い青ではない。大陸の輪郭はまだあるが、ところどころ不自然な色の変化が見え、巨大な裂け目のような影も点在していた。

 

 ルナは、無意識に息を止めていた。

 

「……これが」

 

 誰へともなく漏れた声は、小さかった。

 

 チャコも、今ばかりは笑わない。

 窓の外を見ながら、静かに言う。

 

「やっぱ、映像で見るんと全然ちゃうな」

 

「うん……」

 ルナは頷く。

「全然違う。もっと、こう……」

 言葉を探す。

「遠いと思ってた。でも、実際に見ると、ちゃんと“星”なんだね。壊れてるのに、まだそこにある」

 

 ペルシアがその言葉を聞いて、少しだけ横目でルナを見る。

 

「感傷だけで終わらせない」

 そう言いかけて、でもやめた。

 

 今はまず、この感情をきちんと通らせた方がいいと判断したのだろう。

 

 フォックスの声が飛ぶ。

 

「日本列島上空に入る。高度は維持する。まずは全体を見るぞ」

 

「了解」

 リュウジが短く返す。

 

 スリッピーが補助モニターを操作する。

 

「旧日本列島領域の気圧差、局地ごとに大きい。酸素濃度もばらつきあるなぁ。北側はまだマシだけど、中央域は地殻変動の影響が濃い。沿岸部、昔の地図とかなり変わってる」

 

 ルナは、その数字の羅列よりも先に、窓の外の景色へ目を奪われていた。

 

 日本。

 

 かつて国と呼ばれ、多くの人が暮らし、文化を築き、都市があり、町があり、日常が息づいていた場所。

 

 今見えるのは、その面影をかろうじて残した、傷だらけの大地だった。

 

 海岸線は崩れ、山肌は裂け、都市部だったはずの場所は巨大な影と錆びた骨組みのような残骸へ変わっている。あちこちに植物のような色も見えるが、それが生態系の回復なのか、変質した繁茂なのかは、この高度からでは分からない。

 

「……ひどい」

 ルナが、思わず呟いた。

 

 その言葉には痛みがあった。

 でも、それだけじゃない。

 

 その景色を見てもなお、ルナの目の奥から熱は消えなかった。

 

 むしろ、強くなった。

 

「でも」

 ルナは小さく続ける。

「ここからなんだね」

 

 ペルシアが聞く。

 

「何が?」

 

 ルナは、日本列島を見下ろしたまま答えた。

 

「私がやること、ここを、もう一度人が住める場所にしていく。まだ全然、何も始まってないけど、でも、ちゃんとここからなんだって思った」

 

 その声は、震えていなかった。

 

 怖い。

 ひどい。

 現実は重い。

 

 それでも、見たからこそ、余計に“やりたい”が強くなっている。

 

 ペルシアは、そこでようやく少しだけ笑った。

 

「……そう。なら、来た意味はもう半分くらいあったわね」

 

 ルナは頷く。

 

「はい。すごくあります」

 

 リュウジは、そのやり取りを聞きながら前方を見たままだった。

 

 けれど、その横顔は少しだけ柔らかかった。

 

 地球。

 今はもう人が住めない場所になった星。

 それでも、ルナは怯むどころか、その現実を見た上でさらに前を向いている。

 

 その熱は、見ていて悪いものではなかった。

 

 フォックスが低く言う。

 

「日本の南側から回る。ルナ、見たい地域があれば今のうちに言え」

 

「はい、フォックスさん」

 ルナはすぐに端末を取り出した。

「まずは中央域の旧都市圏を見たいです。それから、地下施設の残存可能性が高いって言われてる山間部。最後に、比較対象として沿岸部も」

 

「欲張るな」

 フォックスが言う。

「今日は見る順番を決めるところまでだ」

 

「……はい」

 ルナは少しだけ肩をすくめた。

 

 チャコがそれを見て笑う。

 

「もう仕事の顔やな」

 

「だって、見たいんだもん」

 ルナが言う。

 

「知っとる」

 チャコが頷く。

「でも、その“見たい”がほんまに大事なんやろな」

 

 ルナは窓の外へ目を向けた。

 

 傷ついた星。

 崩れた国。

 でも、そこに確かに残っている大地。

 

 ルナの胸は、いよいよ始まるという高揚でいっぱいだった。

 

 夢みたいな話じゃない。

 現実はひどい。

 やることは山ほどある。

 簡単じゃない。

 たぶん、これから何度も壁にぶつかる。

 

 それでも。

 

 それでも、自分はこの場所へ戻ってきたいと思った。

 この星に、もう一度人が住めるようにしたいと思った。

 

 その気持ちは、地球を目の前にした今、昨日までよりずっと鮮明だった。

 

 グレートフォックスは、日本列島上空をゆっくりと進んでいく。

 

 その船内で、ルナはただの夢見る少女ではなくなり始めていた。

 

 これから始まる仕事の重さを、自分の目で見て。

 それでもなお、前へ進みたいと思っている。

 

 その高揚は、軽いものではなかった。

 強く、まっすぐで、そしてこれからを本当に動かしていく人間だけが持つ熱だった。

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