サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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地球からの帰り

 翌朝。

 

 グレートフォックスの中で目を覚ました時、ルナは一瞬だけ、自分がどこにいるのか分からなくなった。

 

 天井は低い。

 壁は無機質で、夜間モードから朝の照明へ切り替わる途中の淡い光が、機内の金属面をぼんやり照らしている。どこかで空調の低い音が鳴り、遠くからは端末の起動音らしい電子音が短く聞こえてきた。

 

 そして、その次に思い出す。

 

 ――地球だ。

 

 カナダの比較的安定している区域。

 傷ついた地球の夜の上に着陸したグレートフォックスの中で、一夜を明かしたのだと。

 

 ルナは上半身を起こした。

 

 昨夜は、疲れているはずなのになかなか寝つけなかった。

 日本、中国、アメリカ。

 上空から見た景色、地上へ降りた旧都市圏の空気、あまりにも遠い現実。それでも残った“やりたい”という感情。

 

 頭の中で何度もそれらを反芻しているうちに、いつの間にか眠りへ落ちていた。

 

「……朝か」

 

 小さく呟いて、ルナは毛布を畳む。

 

 その向かいでは、チャコがすでに半分起きていた。猫型ロボットであるチャコに人間と同じ睡眠は必要ないが、こうして夜に合わせて休止モードへ近い状態を取るのは、ルナと行動を合わせるための習慣みたいなものだった。

 

「おはよ、ルナ」

 チャコがまだ少し眠たそうな声で言う。

 

「おはよう」

 ルナも返した。

「ちゃんと寝れた?」

 

「うちはまあまあやな」

 チャコが身体を伸ばすように小さく動く。

「ルナは?夜、なんか途中まで起きとったやろ」

 

「分かった?」

 ルナが少し苦笑する。

 

「分かるわ」

 チャコは当然のように言う。

「昨日の見たもん、そう簡単に寝れる内容ちゃうしな」

 

 ルナは頷いた。

 

「うん。でも、考えてた。今日、もっと見たいなって」

 

「それはええことや」

 チャコがにっと笑う。

「落ち込んで終わりやのうて、次を見ようってなっとるんやから」

 

 ちょうどその時、機内にペルシアの声が響いた。

 

『おはよう。地球二日目よ。起きてる人はさっさと顔洗って、十五分後に軽い打ち合わせね、ルナちゃんも、ちゃんと起きてるー?』

 

「起きてます!」

 ルナが少し大きめの声で答える。

 

 通信越しに、ペルシアがくすっと笑ったのが分かった。

 

『声がよろしい、その感じなら大丈夫そうね』

 

 ルナはチャコと顔を見合わせて、少しだけ笑う。

 

 昨日の重さは消えていない。

 でも、こうして朝が来て、次へ進む時間になると、不思議と身体も前へ向いていた。

 

 

 ラウンジ兼ブリーフィングスペースへ行くと、すでにほとんどの面々が揃っていた。

 

 フォックスは朝から変わらず無駄のない顔をしていて、機体の状況と地球近傍の大気データを並べた端末を睨んでいる。スリッピーは栄養バーを片手に、地図情報と気象変動のログを見比べていた。ペルシアは髪を軽くまとめ、昨日よりも完全に“仕事の顔”へ戻っている。リュウジは温かい飲み物を片手に黙って座っていた。

 

「おはようございます」

 ルナが言う。

 

「おはよう、ルナちゃん」

 ペルシアが先に返した。

「眠そうじゃないのは偉いわね」

 

「眠くはないです」

 ルナは素直に言う。

「頭はずっと動いてる感じですけど」

 

「それは分かる」

 スリッピーが言う。

「こういう視察の二日目って、疲れてるのに変に冴えてるんだよね」

 

「で、今日の予定だけど」

 ペルシアが端末を切り替えた。

「昨日は日本、中国、アメリカを見た。今日は北側からロシア、そこからヨーロッパ方面へ渡る。地表条件よりも、まず広域で“比較的安定してる帯”がどこに残ってるかを見るのが目的。無理に降りる場所を探すんじゃなくて、“降りられる可能性がある帯”を拾う」

 

「了解」

 フォックスが短く言う。

 

「ロシアは広いからねぇ」

 スリッピーが端末上に地図を出した。

「地殻変動の濃い地域と薄い地域が入り混じってるし、上空気流も癖が強い。昨日みたいに“ここなら降りられるかも”って場所が見つかるかは微妙だけど、見て損はない」

 

「ヨーロッパは?」

 ルナが聞く。

 

「残存都市構造の密度が高い分、逆に危ない可能性もある」

 ペルシアが答える。

「崩れてるなら崩れてるで、巨大な残骸が多い。でも、地下設備の再利用って意味では、捨てきれない地域でもあるわね」

 

 ルナはその言葉に頷いた。

 

 地球全体を前にすれば、日本から始めるとは言っても、それだけで終わるわけがない。広く見て、比較して、どこにどういう可能性が残っているのかを拾わなければならない。

 

 その“広く見る”ことが、今日の主題だった。

 

「じゃ、出るぞ」

 フォックスが立ち上がった。

「今日は地上へ降りる保証はない。そのつもりでいろ」

 

「はい」

 ルナは返事をした。

 

 

 カナダの安定域を発ったグレートフォックスは、再び灰色がかった空の中を進み始めた。

 

 昨日よりも雲の層が厚い。

 機体の窓から見える空は、どこか鉛みたいな色をしていて、ところどころに渦を巻くような雲の流れがある。昔の地球の空を知る映像とは、あまりにも違いすぎた。

 

 ルナは窓の外と端末を交互に見比べながら、見える地形と事前資料を重ねていく。

 

 ロシア領域へ入る頃には、地表の印象はまた変わった。

 巨大な森林地帯だったはずの場所は、黒ずんだ地面とまばらな緑が混在し、ところどころに広大な凍土のような白っぽい帯が見える。それも安定した氷ではなく、気温変化と地表異常で割れたまま再凍結したような、不自然な模様だった。

 

「寒冷帯の方がマシかと思ってました」

 ルナが正直に言う。

 

「普通はそう思うよね」

 スリッピーが肩をすくめる。

「でも地球は“普通”が壊れてるから、昔は寒い地域ほど保存が利いたかもしれないけど、異常気象と地殻変動が混ざると、逆に内部の損傷が見えにくい」

 

「しかも」

 フォックスが前を向いたまま言う。

「この辺り、気流が悪い」

 

 その言葉が終わるより先に、グレートフォックスの船体がぐらりと揺れた。

 

 ルナの身体が少しだけシートへ押し戻される。

 

「わっ……!」

 

「ベルト締めといて正解やな」

 チャコが言う。

 

 機体はすぐに体勢を立て直したが、その直後、また別方向から煽られるような揺れが来る。窓の外では、雲の帯が流れているというより、何か巨大なものが空そのものをかき回しているように見えた。

 

「気流の層が重なってる」

 リュウジが低く言う。

「右から来る乱流、想定より強い」

 

「見えてる」

 フォックスが答える。

「速度落とす。このまま突っ込むと無駄に船体へ負荷がかかる」

 

 ペルシアがラウンジ側から声を張る。

 

「全員、ちゃんと固定して、ここからしばらく揺れるわよ」

 

 ルナはすぐにシートベルトを引き直した。

 チャコも座席の脇にしがみつくような格好をしている。

 

 グレートフォックスは、露骨に速度を落とした。

 

 進んではいる。

 でも、昨日のような安定した移動ではない。

 気流の層へ入るたびに機体が小刻みに揺れ、そのたびにフォックスとリュウジが操縦で微修正を入れていく。

 

「地球の空って、こんなに酷いんですね」

 ルナが思わず言う。

 

「場所によるけどね」

 スリッピーが端末を操作しながら返す。

「でも今の北側ルートはかなり悪い方。たぶん地殻変動で地表の温度差がまだ大きくて、そこに大気汚染の残りが混じってる。きれいに流れてくれないんだよ」

 

「つまり、空の上も活動拠点の足切り材料になるってことやな」

 チャコが言う。

 

「そういうこと」

 スリッピーが頷く。

「地上がマシでも、そこまで安全に行けないなら意味ない」

 

 ルナは、その言葉をしっかり頭へ刻んだ。

 

 見た目の地表だけではない。

 到達経路、気流、汚染層、上空での足場。

 人が住む場所を取り戻すということは、地面だけを直す話ではないのだ。

 

 グレートフォックスはその後も慎重に進み続けたが、乱流帯は思っていた以上に広かった。ロシアから西へ抜けるあたりまでずっと機体は煽られ、速度を上げることが出来ない。

 

 結果として、ヨーロッパ方面へ着く頃には、すでに日が大きく傾いていた。

 

 窓の外の光は薄く、灰色の雲の下で大地の輪郭も曖昧だ。

 遠くに崩れた都市圏らしき影は見える。

 しかし、そのどれもが夜へ沈みかけていて、上空から詳しく判別するには厳しい。

 

「……今日はここまでね」

 ペルシアが言った。

 

 その声には、少しだけ諦めと、でも妥当な判断への納得が混じっていた。

 

「二日目、ほとんど船の中やん」

 チャコが少し不満そうに言う。

 

「仕方ない」

 フォックスが短く返す。

「この気流で無理に見ようとしても、まともな判断にならん」

 

「ヨーロッパは明日回す」

 ペルシアが言う。

「今日は上空から大まかな輪郭だけ確認して、夜間の宿営可能域を優先して探す。無理はしない」

 

 ルナは少しだけ唇を噛んだ。

 

 せっかくここまで来たのに。

 そういう気持ちがないわけではない。

 

 でも、今日一日の揺れを経験したあとでは、その判断が正しいことも分かる。

 見たい気持ちだけで押しても、得られるものが薄くなるだけだ。

 

「……分かりました」

 ルナが言う。

 

 ペルシアはそんなルナを見た。

 

「拗ねてる?」

 

「少しだけです」

 ルナは正直に言った。

 

 それに、スリッピーが笑う。

 

「ルナ、そういうところ素直だよね」

 

「だって、見たかったですし」

 ルナが言う。

 

「でも、今ので“じゃあ無理して見ます”って言わないあたり、ちゃんと成長してるわよ」

 ペルシアが言う。

「昨日のルナちゃんだったら、もうちょっと食い下がったかも」

 

「……そうかもしれません」

 ルナは少しだけ肩をすくめた。

「でも、今日は見えないって分かったので」

 

「うん、それでいい」

 フォックスが言った。

 

 その一言で、ルナの中の少しだけくすぶっていた焦りが、ゆっくり落ちていった。

 

 

 二日目は、結局ほとんどグレートフォックスの中で過ごすことになった。

 

 ロシア上空の乱流帯を抜けるのに時間を取られ、ヨーロッパへ着いた頃には視界が悪く、地表の詳細確認はほぼ不可能。さらに夜間へ入ってからは、地球上空の不安定な気象帯を考慮して、無理に低空へ降りない判断が下された。

 

 結果、グレートフォックスは広域をゆっくり移動しながら、各所の大気データ、気流ログ、夜間赤外線観測、残存熱源の偏りなどを拾うだけで終わった。

 

 だが、その“船の中で過ごした時間”は、ルナにとって決して無駄ではなかった。

 

 むしろ、昨日とは違う意味で濃かった。

 

「ここ見て」

 スリッピーが補助モニターをルナへ向ける。

「ロシアから西へ抜けるこの帯、地表の安定度だけなら昨日より少しマシなんだ。でも気流が死んでる。こういう場所は、降りられるかより“継続的にアクセス出来るか”が問題になる」

 

「……ほんとだ」

 ルナがモニターへ顔を寄せる。

「地表だけ見てたら、候補に入れそうなのに」

 

「でしょ?」

 スリッピーが言う。

「だから怖いんだよ。“行けそうに見える”場所ほど、条件を分けて見ないと危ない」

 

 チャコが別の画面を覗き込む。

 

「ほんで、こっちは?この赤い線、多いやつ」

 

「それは夜間熱源の偏り」

 スリッピーが答える。

「ヨーロッパ側の一部で、まだ地下活動が残ってるっぽい。地殻変動の名残か、地下設備の暴走か、自然熱かは切れないけど」

 

「地下設備が残っとる可能性もあるんか」

 チャコが言う。

 

「ある」

 フォックスが前から答えた。

「だが“残っている”と“使える”は別だ」

 

 ルナは、そのやり取りを聞きながら端末へ次々とメモを打ち込んでいく。

 

 着陸出来なかったから終わりではない。

 見られたもの、見られなかったもの、その理由。

 気流と地表の不一致。

 夜間の熱源偏差。

 継続アクセスの難しさ。

 

 昨日より、視点が一つ増えている気がした。

 

「ルナ」

 リュウジが少しだけ後ろを振り向いた。

 

「なに?」

 ルナは自然と通常口調で返す。

 

「今日の記録、感想だけで終わらせるな。“見られなかった理由”もまとめとけ」

 

「うん」

 ルナは頷く。

「それ、今まとめてる。今日は降りられなかったけど、その分“なんで降りられないか”はいっぱい見えたから」

 

「それでいい」

 リュウジが言う。

 

 チャコがそこへ乗る。

 

「ルナ、だいぶ現場脳になってきたなぁ。昨日までやったら、“残念”がもうちょい前に出とったで」

 

「残念だよ、今も」

 ルナが言う。

「でも、それだけじゃ意味ないし」

 

「ええやん」

 チャコが笑う。

「その感じやったら、現場でちゃんと強なるわ」

 

 夜が深くなるにつれ、機内の空気も少しずつ落ち着いていった。

 

 ペルシアはラウンジのテーブルに地球全体の暫定観測図を広げ、フォックスと何か短く話し込んでいる。スリッピーは途中から半分寝転ぶような格好で解析を続け、チャコはその横で勝手に感想を言い、リュウジは窓の外を一度見てから、また操縦席側へ戻った。

 

 ルナは、自分の席に端末を持ち込み、今日のまとめを整理していた。

 

 着陸できるポイントを見つけられなかった。

 それは事実だ。

 

 でも、地球開拓が“降りてみる”だけではないことも、今日でかなりはっきり分かった。

 

 安全な地表。

 継続アクセス出来る空路。

 活動を支える上空環境。

 夜間も含めた観測。

 その全部が揃って、ようやく一つの候補地になる。

 

 思っていたより、はるかに複雑で、はるかに遠い。

 

 それでも、不思議と諦めたいとは思わなかった。

 

 窓の外には、夜の地球が広がっている。

 暗い。

 静かだ。

 でも、その沈黙の中に、まだ“戻れる可能性”が完全に死んだわけではない気がする。

 

「……難しいなぁ」

 ルナが小さく呟く。

 

 すると、少し離れた席でビール缶を開けていたペルシアが、顔を上げもせずに言った。

 

「だから面白いのよ」

 

 ルナはその言葉に少しだけ笑う。

 

「それ、ペルシアさんらしいです」

 

「褒め言葉として受け取っとく」

 ペルシアが言った。

 

 その夜、グレートフォックスはヨーロッパ近傍の比較的安定した上空域をゆっくり漂いながら、二日目の記録を静かに積み上げていった。

 

 地上へ降りることは出来なかった。

 それでも、ルナにとってこの一日は“何も出来なかった日”ではなかった。

 

 むしろ、地球という惑星の厄介さを、上空からじっくり学ぶ日だった。

 

 そして、その学びが積み重なるほど、ルナの中の気持ちは逆に研ぎ澄まされていった。

 

 ――やっぱり、やりたい。

 

 簡単じゃない。

 遅い。

 遠い。

 でも、だからこそやる意味がある。

 

 揺れるグレートフォックスの静かな夜の中で、ルナはそんなことを考え続けていた。

 

 

ーーーー

 

  三日目の朝は、二日目までとは少し空気が違っていた。

 

 グレートフォックスの中で目を覚ましたルナは、最初に感じたその違いをうまく言葉にできなかった。けれど、昨夜までの“ひたすら広く見て、厳しさを受け止め続ける”時間とはどこか違う。疲れはある。体も少し重い。頭の中には日本、中国、アメリカ、ロシア、ヨーロッパと見てきた景色がまだぐるぐる残っている。

 

 それでも、不思議と今日は少しだけ前へ体が傾いていた。

 

「おはよう」

 チャコが、隣の簡易ベッドから先に声をかける。

 

「おはよう」

 ルナも身を起こしながら返した。

「……今日で最後だね」

 

「せやな」

 チャコが伸びをする。

「二泊三日、あっという間やったわ。まあ中身はだいぶ濃かったけどな」

 

 ルナは小さく笑った。

 

「うん。濃いっていうか、ずっと頭使ってる感じ、見ても見ても、簡単じゃないってことばっかり増えていくし」

 

「でも、やりたい気持ちは減ってへんやろ?」

 チャコが言う。

 

 ルナは少しだけ考えてから、はっきり頷いた。

 

「減ってない。むしろ、ちゃんと見たから、余計にそう思う。簡単じゃないから、やる意味があるんだって」

 

 チャコは、それを聞いてにやっと笑った。

 

「ほな大丈夫や。そう思えとるうちは、まだまだ前に進める」

 

 その時、機内放送の簡易回線が開いた。

 

『おはよう、最終日よ』

 ペルシアの声が響く。

『今日は午前中で切り上げるから、朝のうちに動くわ。朝食は簡単に済ませて、二十分後にブリーフィング』

 

「はい」

 ルナがすぐに返事をする。

 

 声はもう、最初の日よりも落ち着いていた。

 高揚感がなくなったわけではない。けれど、見たものが多すぎて、その高揚感が少しだけ重さを持ったのだ。

 

 

 ラウンジ兼ブリーフィングスペースには、もう全員が揃っていた。

 

 フォックスは朝から変わらず端末を見ている。夜間に取ったヨーロッパ周辺の気流データと、地表変動の残差予測を重ねているらしい。スリッピーは温かい飲み物を片手に、眠そうな顔のままでも指先だけはやたらと速く動いていた。ペルシアは完全に仕事の顔で、旅程表の最終確認をしている。リュウジは無駄なことを言わず、昨日までの記録を短く見返していた。

 

「じゃ、最終日」

 ペルシアが言う。

「今日は午前中で切り上げる。昨日、ロシアからヨーロッパへ入るところでかなり時間を取られたから、改めてヨーロッパを中心に見て回る。重点は、降りられる“可能性がある”場所。住めるかどうかじゃない。まずは降りて、そこから展開できるか」

 

 ルナが頷く。

 

「はい」

 

「昨日の続きだから、気流の悪さはある程度覚悟しといて」

 スリッピーが言う。

「でも夜間の観測で、いくつか“まだマシかも”って帯は拾えた。問題は、その“まだマシ”が地表まで繋がってるかどうか」

 

「ヨーロッパは建造物の残骸も多い」

 フォックスが低く言う。

「上から平らに見えても、降りたら周囲が死んでる可能性は高い。最終日だからって焦るな」

 

「はい、フォックスさん」

 ルナは素直に返した。

 

 ペルシアがルナの顔を見て、ほんの少しだけ口元を緩める。

 

「ルナちゃん、昨日よりだいぶ顔が締まったわね」

 

「そうですか?」

 ルナが少しだけ目を丸くする。

 

「ええ」

 ペルシアは頷いた。

「一日目は“見たい”が顔に出てた。二日目は“現実が重い”が出てた。今日はその二つがようやく同居してる感じ」

 

 ルナは、その言い方に少し照れたが、同時に少し嬉しくもあった。

 

「……ちゃんと見たいです。最後まで」

 

「よろしい」

 ペルシアが言った。

「じゃあ、行きましょう」

 

 

 グレートフォックスは、ヨーロッパ上空をゆっくりと進んだ。

 

 夜の間にやや落ち着いた気流も、完全に穏やかになったわけではない。雲の流れは依然として不規則で、ところどころに褐色の帯が混ざり、地表の上では細かな乱気流がまだ残っている。だが昨日ほどではなかった。機体の揺れも小さく、視界も夜よりはずっと良い。

 

 ルナは窓越しに地表を見つめた。

 

 ヨーロッパもまた、痛々しかった。

 

 かつて都市と都市が密に繋がっていた地域は、今では断裂した道路、崩れた建造物、沈んだ地盤、変色した河川の跡のようなもので満ちている。だが、その一方で“完全に形を失ってはいない”ように見える区域も、他の大陸より多かった。

 

「残ってる……」

 ルナが思わず呟く。

 

「残骸が多いだけとも言えるけどね」

 スリッピーが言う。

「でも、確かに“何もない”よりはずっとマシ。元のインフラの痕跡が多いから、逆に再利用の芽もあるかもしれない」

 

「ただし、そのまま使えるとは限らん」

 フォックスが言う。

 

「もちろんです」

 ルナは頷く。

 

 しばらく見て回ったが、やはり簡単にはいかなかった。

 

 地表が広く残っているように見える場所は、周辺の建造物が危険すぎた。逆に建造物の少ない場所は、地盤が不安定か、輸送路として使える導線が死んでいる。夜間観測で見えた熱源偏差の強い地域は、近づいてみると地下活動が続いている可能性が高く、拠点候補としては危険が大きすぎた。

 

「やっぱり厳しいですね……」

 ルナが端末へメモを取りながら言う。

 

「そりゃそうだ」

 リュウジが短く返す。

 

「でも、ヨーロッパならどこか一つくらいはありそうやのになぁ」

 チャコが窓にへばりつくようにして言う。

「昔の街もようけ残っとるし」

 

「残ってるのが逆に厄介なのよ」

 ペルシアが言う。

「建て直すなら更地の方が早いこともある。中途半端に残ってると、壊すか活かすかの判断が必要になるし、危険物も多い」

 

 ルナが小さく頷く。

 

「見えてるものが多いほど、逆に判断が増える……」

 

「そういうこと」

 ペルシアが言う。

 

 その時だった。

 

 前方を見ていたリュウジが、少しだけ身を乗り出した。

 

「……待て」

 

 その一言で、機内の空気が変わる。

 

「何かあった?」

 スリッピーがすぐに反応する。

 

 リュウジは窓の外を指した。

 

「フランス領域。少し南寄りだ。小高い平地がある」

 

 フォックスがすぐに視線を合わせる。

 スリッピーも端末を切り替えた。

 

 ルナは、示された方向へ視線を向けた。

 

 最初は分からなかった。だが、よく見ると確かに、なだらかに盛り上がった地形の上に、周囲より明らかに整った平坦面が残っている。完全な自然地形ではない。何かの広場か、公園か、都市施設だったのだろう。周辺には崩れた建造物の影もあるが、あの面だけは不自然なほど広く、開けていた。

 

「スリッピー?」

 ペルシアが聞く。

 

 スリッピーの目が、明らかに嬉しそうに光る。

 

「……いい。これ、いいよ。地盤反応、周囲よりずっと安定してる。下に大きい空洞もない。気流もこの高度なら許容範囲。その場所なら大丈夫だよ」

 

 ルナの胸が、一気に高鳴った。

 

「ほんとに……?」

 

「ほんとに」

 スリッピーが言う。

「少なくとも、今まで見た中では一番まとも。降りるだけじゃなくて、降りたあとに動ける可能性もある」

 

 フォックスが即座に判断する。

 

「降ろす。全員、準備」

 

 

 準備は一気に進んだ。

 

 ペルシアの指示で、全員が防護服とヘルメットを着用する。

 

 昨日は地上活動班が限られていたが、今回は“活動拠点の適性”を広く見る意味もあり、全員が外へ出ることになった。チャコも、簡易型ではあるが防塵・防酸性対応の外装保護とヘルメットを装着する。猫型のシルエットに少し不格好な透明ヘルメットがついている姿は、緊張しているはずなのにどこか可笑しくて、ルナは少しだけ笑いそうになった。

 

「チャコ、その格好……」

 ルナが言う。

 

「言うな」

 チャコが即座に返す。

「うちも分かっとる。でも今回は“全員着用”やろ。しゃーないやん」

 

「似合ってるわよ」

 ペルシアがにやっと笑う。

 

「絶対思ってへんやろ」

 チャコが言う。

 

「思ってる思ってる」

 ペルシアは適当に返した。

 

 フォックスとリュウジは、昨日と同じくレーザー銃も携行する。スリッピーが最終確認をしながら、一本一本の安全装置と出力設定を見直した。

 

「はい、フォックス。はい、リュウジ。使わないで済むのが一番だけど、地表活動は何があるか分かんないからね」

 

「了解」

 フォックスが受け取る。

 

「分かった」

 リュウジも腰へ固定する。

 

 ペルシアが、全員へ向けて言った。

 

「活動時間は四十分。昨日より短く取る。今日は“ここが使えるか”を見ることが目的で、長時間調査じゃない。良さそうだからって深追いしない。少しでも危ないと思ったら戻る。いい?」

 

「はい!」

 ルナが一番に返事をした。

 

「よろしい」

 ペルシアが頷く。

「じゃ、行きましょうか」

 

 

 地上へ降りた瞬間、ルナは昨日とは違う空気を感じた。

 

 もちろん、空はまだ濁っている。

 空気もそのまま吸えるものではない。

 風も、地球特有の重さを含んでいる。

 

 けれど――。

 

「……昨日より、ずっとマシ」

 ルナが思わず言う。

 

「ええ」

 ペルシアも周囲を見回しながら頷いた。

「少なくとも、立ってるだけで“ここは無理”って感じじゃない」

 

 そこは、小高い丘のような地形の上に広がる平地だった。

 

 完全な自然地形ではない。かつて整備された公園か、軍事施設か、あるいは大規模な広場を含んだ地区だったのだろう。地面はひび割れている箇所もあるが、昨日まで見たような崩落や沈み込みは少ない。周辺の建造物も完全に密集しているわけではなく、視界が開けている。

 

「輸送路の想定も立てやすいな」

 リュウジが、周囲の導線を見ながら言う。

「大型輸送艇を直で降ろすのは無理でも、近くに仮設の荷下ろしポイントは作れそうだ」

 

「ああ」

 フォックスも短く答える。

「地盤も悪くない。少なくとも、最初の前進拠点としては現実味がある」

 

 チャコは少し先へ行って、高い位置へぴょんと飛び乗った。

 

「お、おお……」

 チャコが思わず声を上げる。

「ルナ、こっち見てみ!」

 

 ルナがそちらへ向かう。

 視界の先に、何か大きな鉄骨構造が見えた。

 

 一瞬、何かの通信塔かと思った。

 

 でも違う。

 

 無数の鉄骨が交差する独特の輪郭。

 上へ向かって細くなるシルエット。

 崩れながらも、まだ立っているその姿。

 

「これ……」

 ルナが息を呑む。

 

「エッフェル塔やな」

 チャコが言った。

 

 その少し離れた位置には、大きな門のような石造構造物も見える。上部は傷み、周辺も瓦礫だらけだが、その形はまだ分かる。

 

「こっちは凱旋門」

 チャコが続ける。

「昔のフランスの有名なやつや」

 

 ルナは、しばらく言葉が出なかった。

 

 資料で見たことはある。

 映像でも見た。

 でも、実際にこうして地球の地上で、自分の目で見ると、意味が全然違った。

 

 文明の跡が、まだここにある。

 壊れていても、傷ついていても、確かに残っている。

 

 ペルシアもその景色を見ながら、少しだけ声を失っていた。

 

「……すごいわね」

 素直にそう言う。

 

「フランスの象徴みたいなもんやからな」

 チャコが答える。

「残っとるだけでも、だいぶすごいで」

 

 ルナは、周辺の地形へ改めて視線を巡らせた。

 

 塔と門、その周囲に広がる比較的開けた地面。完全な都市中心部ではあるが、日本の旧都市圏ほど壊滅的に詰まっていない。むしろ、広場や放射状の道路の名残があるおかげで、導線がまだ読み取りやすい。

 

「この場所なら」

 リュウジが言う。

「建設も輸送路も問題なさそうだな」

 

 その言葉に、ルナの心臓が跳ねた。

 

 問題なさそう。

 

 それは、この地球で回ってきた中で、初めて聞いた種類の言葉だった。

 

「ほんとに?」

 ルナが思わず聞く。

 

「もちろん条件付きだ」

 フォックスが冷静に言う。

「そのまま住めるわけじゃない。防護圏の構築、地盤補強、周辺の危険物除去、気流観測、地下設備の確認、全部必要だ。だが」

 一拍置く。

「“始める場所”としてなら、今まで見た中で一番現実的だ」

 

 スリッピーも地表スキャンを見ながら嬉しそうに言った。

 

「うん、いいよ、ここ。周辺のノイズも昨日までほど酷くない。少なくとも“最初の一歩”を置くには、かなりマシ。これ、ほんとに当たりだ」

 

 ペルシアは、その言葉を聞いてからルナを見た。

 

 ヘルメット越しでも分かる。

 ルナの目が、昨日までとは比べものにならないほど強く輝いていた。

 

「ルナちゃん」

 ペルシアが言う。

「どう思う?」

 

 ルナは周囲を見た。

 

 地球の空。

 まだ濁っている。

 人がそのまま生きられる場所ではない。

 

 でも、ここには可能性がある。

 

 崩れた文明の跡がある。

 導線がある。

 広場がある。

 そして何より、“ここから始められるかもしれない”という感触がある。

 

「……ここなら」

 ルナはゆっくりと言った。

「ここなら、活動拠点を作れるかもしれません。最初の拠点として、地球へ戻るための最初の足場として」

 

 チャコがにっと笑う。

 

「やっと見つかったな」

 

「うん」

 ルナが頷く。

「やっと、やっと、“ここから始めたい”って思える場所を見つけた」

 

 フォックスは周囲を見渡し、リュウジへ目を向ける。

 

「時間は?」

 

「まだ余裕はある」

 リュウジが答える。

「だが、深追いはしない方がいい。今日は位置の確認と初期評価までだ」

 

「賛成」

 ペルシアがすぐに言った。

「“見つけた”勢いで欲張るのが一番危ないもの、ここは候補地として押さえる。詳細は改めて、正式な調査班と機材を入れてから」

 

 ルナはそれにしっかり頷いた。

 

「はい。でも、十分です。ここを見つけられただけで」

 

 その声には、最初の日の高揚とはまた違う熱があった。

 

 それは、現実を二日半見たうえで、ようやく掴んだ手応えだった。

 夢ではない。

 ただの希望でもない。

 “ここなら始められるかもしれない”という、現実の中にある小さな確信。

 

 フランスの傷ついた大地の上で、エッフェル塔と凱旋門の残骸を遠くに見ながら、ルナは自分の胸の奥が熱くなるのを感じていた。

 

 地球はまだ、人が住める場所ではない。

 でも、ここなら。

 ここからなら。

 

 もう一度、始められるかもしれない。

 

 その最初の活動拠点を、ようやく見つけたのだった。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 木星の宇宙管理局に戻ってきたのは、地球を発ってから数時間後のことだった。

 

 巨大な窓の向こうに木星の縞模様が見える管理局本部は、相変わらず静かで、冷たく整っている。地球の荒れた空気と、崩れた大地と、ひしゃげた都市の残骸を見てきた後だと、その整然とした無機質さが、逆に妙に安心できた。

 

 グレートフォックスのタラップを降りたルナは、ようやく肩から力が抜けるのを感じた。二泊三日。長かったような、短かったような。でも間違いなく、自分の中で何かが一段変わった時間だった。

 

「お疲れさま、ルナちゃん」

 

 横を歩くペルシアが、端末を脇に抱えたままルナを見る。

 

「はい」

 ルナは小さく頷いた。

「本当に、濃かったです」

 

「でしょうね」

 ペルシアが笑う。

「見てるこっちもだいぶ濃かったもの」

 

 スリッピーとフォックスは先に機体の引き渡しと報告へ向かい、リュウジも一度別の通路へ消えていった。チャコはルナの隣で、ロボットらしからぬ大きな欠伸をするふりをしながら歩いている。

 

「いやぁ、さすがにうちも情報量多すぎて、頭ん中ぐるんぐるんやわ」

 チャコが言う。

「でも、最後に見つかったフランスのあそこは、ほんまに大きかったな」

 

「うん」

 ルナがすぐに頷く。

「大きかった。日本も、中国も、アメリカも、ロシアも、ヨーロッパも見て、ずっと“厳しい”ばっかりだったから、最後に、あそこで“始められるかもしれない”って思えたの、本当に大きかった」

 

 ペルシアは、その言葉を聞いて満足そうに目を細めた。

 

 そのまま三人は管理局の簡易報告室へ入り、まずは地球視察の速報だけをまとめることになった。

 

 テーブルに端末を広げ、ペルシアが短く確認する。

 

「じゃ、ルナちゃん、活動の目処はつきそう?」

 

 ルナは、一度だけ画面へ視線を落とした。

 

 日本の旧都市圏。

 中国の内陸部。

 アメリカの崩壊した平野。

 ロシア上空の乱れた気流。

 そしてフランスの、小高い平地。

 

 見たものが全部、頭の中で一瞬にして並ぶ。

 

「はい」

 ルナは顔を上げて答えた。

「まだ地質や地盤の調査は必要ですが、あの場所でしたらテラフォーミングマシンの建設も問題なさそうですし、予定通りに運びそうです」

 

 その答えに、ペルシアは嬉しそうに頷いた。

 

「それが聞ければ十分。細かい調査はこれからだけど、“始められる場所がある”ってだけで、全然違うもの」

 

「はい」

 ルナも頷く。

 

 チャコが横からにっと笑った。

 

「ルナ、めっちゃええ顔しとるで、最初の日のワクワクとも、二日目のしんどそうな顔とも違うわ。ちゃんと“やる顔”になっとる」

 

「そうかな」

 ルナは少し照れたように笑う。

 

「そうや」

 チャコは断言した。

「地球見てきたあとで、その顔できるんは強いで」

 

 ペルシアも同意するように頷いた。

 

「ええ、ほんとによくやったわ、ルナちゃん」

 

 その一言に、ルナは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。

 

 

 簡易報告と機体側の処理がひと段落したあと、ペルシアは唐突に言った。

 

「よし、今日は焼肉」

 

「えっ」

 ルナが目を丸くする。

 

「なにその顔」

 ペルシアが肩をすくめる。

「地球から帰ってきた日くらい、いいでしょ。ルナちゃんもチャコも、今日は付き合いなさい」

 

「うちは大歓迎や」

 チャコが即答する。

「むしろ何で迷うん」

 

「迷ってないよ!」

 ルナが慌てて言う。

「ただ、急だなって」

 

「急な焼肉ほど良いものはないの」

 ペルシアが言い切る。

 

 結局、その勢いに押し切られるようにして、ルナとチャコはペルシアに連れられて管理局近くの焼肉屋へ来ていた。

 

 店は木星圏らしい重力安定区画の中にある落ち着いた店で、個室まではいかないが、周囲の視線が気になりにくい半個室風の席が多い。肉の焼ける匂いと、たれの甘辛い香りが混ざり合い、地球で見てきた荒れ果てた景色を知っている今には、妙に贅沢で、妙に生っぽい時間だった。

 

「はぁ……生き返る」

 ペルシアが最初の一口目のビールを飲みながら言う。

「やっぱり仕事終わりはこれよね」

 

「ほんまそれや」

 チャコも賛同する。

「地球であれだけ重たいもん見てきたあとやと、なおさら沁みるわ」

 

 ルナは、そんな二人を見ながら少しだけ笑った。

 

「良かったわね」

 ペルシアが焼け始めた肉をひっくり返しながら言う。

「ちゃんと“始める場所”を見つけられて、一日目の日本だけで終わってたら、だいぶ空気重かったと思うわよ」

 

「はい」

 ルナは素直に頷いた。

「本当に良かったです。最後にあの場所を見つけられてなかったら、きっと今も“どうしよう”が先に来てたと思います」

 

「でも、ようやくスタート地点が見えた感じやな」

 チャコが言う。

「これで“やること”がちゃんと形になってきた」

 

「ええ」

 ペルシアが嬉しそうに頷く。

「だから今日は祝いも兼ねてるのよ」

 

 そう言って、ふとルナを見る。

 

「ルナちゃんも、もう十八なんだし、お酒飲む?」

 

 ルナは、そこで少しだけ目を丸くした。

 

「えっ、私ですか?」

 

「そうよ」

 ペルシアが当然のように言う。

「一杯くらいならいいでしょ、せっかくのお祝いなんだし」

 

 チャコがすぐに口を挟む。

 

「お、ええやん、ルナの初酒やん」

 

「初酒っていう言い方やめてよ」

 ルナが少し笑う。

 

 でも、少しだけ考えてから、頷いた。

 

「……せっかくなので、一杯だけ」

 

「よし」

 ペルシアがすぐに店員を呼ぶ。

「じゃあ、ルナちゃんに軽めのやつ、飲みやすいのでお願い」

 

 ルナは少しだけ緊張しながら、でもどこか嬉しそうでもあった。

 地球の視察を終え、活動の見通しが少し立って、その夜に初めての一杯。そういう区切りは、なんだかちゃんと“始まる前の儀式”みたいに思えた。

 

 やがて運ばれてきた薄い色の酒を、ルナは慎重に口へ運ぶ。

 

「……」

 一瞬止まる。

 

「どう?」

 ペルシアが面白そうに見る。

 

「思ってたより……」

 ルナは少しだけ眉を寄せる。

「苦くないです。でも、変な感じです」

 

 チャコが吹き出した。

 

「感想が初心者すぎるやろ」

 

「だってほんとにそうなんだもん」

 ルナが言うと、ペルシアも笑った。

 

「そのうち分かるわよ、まあ今日は一杯だけにしときなさい。酔って大事な話を聞き逃されたら困るし」

 

 その一言に、ルナが首を傾げる。

 

「大事な話?」

 

 ペルシアは肉を網へ置きながら、少しだけ顔を曇らせた。

 

「……ええ。大事っていうか、面倒っていうか。ちょっとね」

 

 チャコがすぐに反応する。

 

「なんや、その前置き、絶対軽い話ちゃうやろ」

 

「軽くはないわね」

 ペルシアがビールを一口飲んだ。

「リュウジが、魔のゾーンの調査と、サヴァイヴを見つけたいって言ってる」

 

 ルナの手が止まった。

 チャコも、箸を持ったまま動きを止める。

 

「……え?」

 ルナが小さく声を漏らす。

 

「東の未探索領域」

 ペルシアが続ける。

「その先にサヴァイヴがあるかもしれないから、調査したいんですって」

 

 チャコが、先に顔をしかめた。

 

「いや、それは……だいぶ無茶やな」

 

「無茶よ」

 ペルシアは即答した。

「私もエリンも反対。でも、あいつは折れない」

 

 ルナはすぐには何も言えなかった。

 

 サヴァイヴ。

 

 その名前を聞いた瞬間、胸の中で色々なものが一緒に揺れた。

 

 修学旅行。

 ソリア学園の生徒達。

 宇宙船の事故。

 そこから、サヴァイヴへの遭難。

 

 ルナ、チャコ、メノリ、シャアラ、カオル、ハワード、ベル、リュウジ。

 修学旅行の途中で遭難したのは、あの八人だった

 

 あの時の空気。

 空の色。

 水の匂い。

 土の手触り。

 怖さ。

 飢え。

 でも、確かにそこで生きた時間。

 

 ルナはゆっくりと息を吐く。

 

「……気持ちは分かります」

 ルナが静かに言った。

 

 ペルシアがルナを見る。

 

「ルナちゃんも?」

 

「はい」

 ルナは頷く。

「サヴァイヴって、私達にとってただの遭難先じゃないです。修学旅行の途中で事故に遭って、あそこへ落ちて。本当に大変だったし、怖かったし、何度も終わるかもって思った。でも……」

 少しだけ視線を落とす。

「それでも、あそこでしか得られなかったものもあるから」

 

 チャコも、そこで大きく頷いた。

 

「うちも分かるわ。無茶やとは思う。止めなアカンとも思う、でも、リュウジがなんでそんなこと言い出すんかって聞かれたら、そら分かる」

 

 ペルシアは、その反応に少しだけ苦く笑った。

 

「やっぱりそうなるわよね」

 

 そして、ビールを置いて少し声を落とした。

 

「私は、リュウジが帰還したあとの報告も、サヴァイヴ関連の記録も、それなりに見てるの。本人の帰還後の様子、聞き取り、周辺の報告も含めて」

 

 ルナもチャコも黙って聞く。

 

「悲劇のフライトのあと」

 ペルシアが言う。

「リュウジは、多くの人を死なせてしまったことをずっと悔やんでた」

 

 ルナの胸が痛んだ。

 

 その部分は、ルナにも分かっていた。

 リュウジは元々そういう人だ。

 大きな声で弱音を吐く人ではない。

 でも、だからこそ、背負ったものを一人でずっと抱え込む。

 

「自分がもっと上手くやれていれば、自分がもっと早く動けていれば、そういう“もしも”を、あいつはかなり長く抱えてた」

 ペルシアは続ける。

「表に大きく出す人じゃないから、余計に分かりづらいけどね」

 

 チャコが、少しだけ真面目な顔になる。

 

「……そやろな」

 

「でも」

 ルナは言った。

「サヴァイヴで、ようやく少し前を向けたんです。もちろん、綺麗な思い出だけの場所じゃないです。死にかけたし、辛かったし、苦しかった……でも、それでも、あそこでリュウジは“まだ生きてていい”って少しだけ思えるようになったんだと思います」

 

 ペルシアは、その言葉をじっと聞いていた。

 

 サヴァイヴは、ルナにとっても特別な場所だ。

 

 あそこで出会い直したものがある。

 守りたいと思ったものがある。

 人の強さも、弱さも、諦めなかった時間も、全部あそこに置いてきた。

 

 そして、それはリュウジにとっても同じなのだろう。

 

「……そっか」

 ペルシアが小さく言う。

「サヴァイヴは、リュウジが前を向けた場所でもあるんだね」

 

 チャコが、そこで肉を一つ取ってから言う。

 

「そら見つけたい言うわな。しかもリュウジやろ?一回、自分の中で筋が通ったら、そう簡単に止まらへんやつやん」

 

「そうなのよ」

 ペルシアが顔をしかめる。

「そこがほんとに厄介。気持ちは分かる。でも、行かせたくない。その両方が同時にあるから最悪なの」

 

 ルナは、自分のグラスを見つめた。

 

 地球を見てきたばかりだからこそ、少し分かることがある。

 

 “やりたい”だけでは進めない。

 でも、“やりたい”を切り捨てたら始まらないこともある。

 

「……少しだけ、似てるかも」

 ルナがぽつりと言う。

 

「何が?」

 ペルシアが聞く。

 

「地球の活動と」

 ルナは答えた。

「私も最初は、“地球をもう一度人が住める場所にしたい”って気持ちの方が大きかったです。でも、実際に見たら、それだけじゃ絶対に動けないって分かった。サヴァイヴも、きっと同じなんですよね。見つけたい気持ちは本物でも、それだけで行けるわけじゃない」

 

 ペルシアは、その言葉に少しだけ感心したようにルナを見た。

 

「……ルナちゃん、ほんとにちゃんと見てきたのね」

 

「まだ全然ですけど」

 ルナが少し照れながら言う。

「でも、地球を見たら、“行きたい”と“行けるようにする”は別なんだって、少し分かったので」

 

 チャコが頷く。

 

「せやな。ルナ、ちゃんと現場見て帰ってきた顔しとるわ」

 

 ペルシアは、そこで小さく息を吐いた。

 

「そう。だからこそ、私も今、リュウジにそれをやらせてる。計画書を書かせて、観測仮説を出させて、撤退条件も支援要求も全部明文化させてる。黙って一人で行かれるのが一番最悪だから」

 

「うわぁ……」

 チャコが顔をしかめる。

「それ、めっちゃ大変そうやな」

 

「大変よ」

 ペルシアは即答した。

「しかも、サヴァイヴの話が上に漏れたら、今度は役員だの連盟だのが“調査しろ”って言いかねない。ロマンで済まないのよ」

 

 ルナは、小さく頷いた。

 

 フランスで見つけた活動拠点候補。

 それがいずれ、地球再生の足場になるかもしれないように。

 

 もし魔のゾーンの先にサヴァイヴがあるなら、それもまた個人の思いだけでは済まなくなる。

 

 世界は、そういうふうに大きく動いてしまうのだ。

 

「……でも」

 ルナが静かに言う。

「私は、リュウジがサヴァイヴを見つけたいって思うこと自体は、やっぱり否定できないです」

 

「うちもや」

 チャコが言う。

「止めるべきなんは分かる。でも“そんなこと思うな”とは言えへん」

 

「ええ」

 ペルシアも認める。

「私もそこは否定してない、否定してないからこそ、魔のゾーンに行くのは反対。そこなのよ」

 

 少しだけ沈黙が落ちた。

 

 焼ける肉の音。

 周りの席の笑い声。

 ビールの缶を置く小さな音。

 

 その中で、三人の席だけが少しだけ深い場所へ潜っていた。

 

「……まあ」

 ペルシアが気配を変えるように言う。

「今日は祝いの焼肉なんだから、重い話ばっかりしても仕方ないわね」

 

「ペルシアさんから振ったんじゃないですか」

 ルナが思わず言った。

 

 チャコが吹き出す。

 

「ルナ、今のナイスや!」

 

「ちょっと」

 ペルシアが笑う。

「ルナちゃん、お酒一杯でちょっと口が回ってきてない?」

 

「まだ一杯目です」

 ルナが言う。

 

「その言い方が危ないのよ」

 ペルシアが肉を皿へ乗せる。

「ほら、食べなさい。地球もサヴァイヴも重いけど、今日は祝い。ちゃんと美味しいもの食べて、また明日から考えればいいの」

 

「はい」

 ルナが少し笑って頷く。

 

「せやな」

 チャコも言う。

「今は焼肉優先や」

 

 ペルシアがビールを持ち上げる。

 

「じゃあ改めて」

「ルナちゃんの地球活動の第一歩に」

 

 ルナもグラスを持ち上げた。

 チャコも合わせる。

 

「乾杯」

 

 三人の声が重なった。

 

 グラスの触れ合う音のあと、ルナは一口だけ酒を飲んだ。

 

 少しだけ身体が熱くなる。

 

 地球のこと。

 サヴァイヴのこと。

 どちらも遠くて、重くて、簡単じゃない。

 

 でも、それでも誰かが見て、考えて、形にしていくしかない。

 

 ルナは、向かいでビールを飲むペルシアと、隣で肉を頬張るチャコを見ながら、胸の奥で静かに思った。

 

 ――私も、ちゃんと前へ進まなきゃ。

 

 その夜の焼肉は、祝いであり、区切りであり、そしてまた次へ向かうための時間だった。

 

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