サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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文句のつけどころがない

 エリンは、その日ずっとどこか上の空だった。

 

 もちろん、表には出さない。

 

 チーフパーサーとしての顔は崩れない。

 端末の画面を前にすれば必要な数字は読み取れるし、部下へかける言葉も、客室の流れを確認する視線も、いつもと同じ温度に整えられる。

 スペースホープの中で、エリンが露骨に乱れることはほとんどない。

 

 けれど、集中出来ているかと問われれば、出来ていなかった。

 

 リュウジの未探索領域の調査。

 

 東の未探索領域――魔のゾーン。

 その先にあるかもしれないサヴァイヴ。

 

 気持ちは分かる。

 分かってしまう。

 そこが余計に厄介だった。

 

 リュウジが無意味な無茶をしたいわけではないことは、エリンにも分かっている。

 ただ危険へ惹かれているのでもない。

 サヴァイヴには、彼にとって、それだけの意味がある。

 悲劇のフライトのあと、多くの命を救えなかったことを長く背負い、自分だけが前へ進んでいいのか分からなくなっていたあの人が、ようやく少しだけ前を向けた場所だ。

 

 だから、見つけたいと思うのは分かる。

 でも、認めるわけにはいかない。

 

 ――生きて帰ってくる保証がないのだから。

 

 エリンは、端末の画面に視線を落としながら、同じ箇所を三度見ていることにようやく気づいた。

 

「……駄目ね」

 

 小さく息を吐く。

 

 今見ていたのは、次便の予約状況と乗務員配置の確認表だ。数字自体は頭へ入っている。けれど、その奥で別の思考がずっと動いているせいで、必要以上に処理へ時間がかかっていた。

 

 ここ数日、エリンは主にデスクワークへ比重を置いていた。

 スペースホープ全体の進捗整理、各部署との連携確認、客室側の人材配置の見直し、今後の教育フローの再構築。

 会社として“動ける状態”を作るための仕事は山ほどある。

 

 普段なら、こういう積み上げる仕事は嫌いではない。

 むしろ、前へ出すぎずに全体を整える時間は、エリンにとって必要な静けさでもあった。

 

 でも、今日はその静けさが足りなかった。

 

 休憩時間に入り、エリンは一度だけ端末を伏せた。

 

 客室乗務員用の休憩スペースには、穏やかな空気が流れている。

 クミコとアズサは小声で何かのシフト相談をしていて、サリーは紙コップのスープを両手で包み、マユはその横で端末へ何か書き込んでいる。ハズキとユウコは少し離れたテーブルで訓練資料を見ていた。いつも通りだ。ちゃんと回っている。

 

 それが、エリンには救いでもあり、同時に少し苦かった。

 

 自分が揺れていても、現場は回る。

 それは誇らしいことのはずなのに、今日は妙に胸へ刺さる。

 

「……エリンさん?」

 

 近くから声がして、顔を上げる。

 

 ミドリとナツキだった。

 二人は休憩スペースの隅で何やら楽しそうに話していて、その流れのままエリンの方を見ていたらしい。

 

「どうしたの?」

 エリンが尋ねる。

 

「いえ、あの」

 ミドリが少し慌てたように言う。

「お疲れかなって」

 

「大丈夫よ」

 エリンはいつものように微笑んだ。

「少し考え事をしていただけ」

 

 ナツキが、そこで持っていたチラシをぱたぱたと揺らした。

 

「近くで舞台公演があるんです。それで、ミドリと“行く?”って話してて」

 

「舞台?」

 エリンが聞き返す。

 

「はい」

 ミドリが頷く。

「小劇場じゃないんですけど、そこまで大きすぎもしない会場で、この辺りだと少し評判になってるらしくて」

 

 そのまま何気なく、ミドリが持っていたチラシをエリンへ差し出した。

 

「もし興味ありましたら」

 

「ありがとう」

 

 エリンは受け取り、そこに目を落とす。

 

 舞台タイトル。

 日程。

 劇場名。

 そして出演者一覧。

 

 その中に、見覚えのある名前があった。

 

「……ハワード?」

 

 思わず口に出た。

 

 ミドリとナツキが「あっ」と同時に声を漏らす。

 

「そうなんです」

 ナツキが少しだけ嬉しそうに言う。

「エリンさん、知り合いなんですか?」

 

「ええ」

 エリンはまだチラシから目を離さなかった。

「知ってる子よ」

 

 ハワード。

 

 おしゃべりで、調子がよくて、軽口を叩いて、でも肝心なところで妙に真っ直ぐな子。

 大事なことほど冗談みたいに言う癖があって、だからこそ本音を拾うのが難しい子。

 けれど、一度“やる”と決めた時の努力は本物だ。

 

 エリンの脳裏に、以前聞いた話がよぎる。

 

 役者になるか、財閥を継ぐか。

 ハワードはいつだって軽く笑うように口にしていたけれど、その奥ではちゃんと悩み、ちゃんと足掻いていた。

 そして、少しずつでも前へ進もうとしていた。

 

 エリンは、チラシへもう一度視線を落とす。

 

 もしかしたら。

 

 もしかしたら、リュウジの気持ちを、ハワードから聞けるかもしれない。

 

 同じように、修学旅行の途中で遭難して。

 同じように、サヴァイヴで生きて。

 同じ景色を見た一人として。

 

 エリンは静かにチラシを畳んだ。

 

「……行ってみようかしら」

 

「えっ」

 ミドリが目を丸くする。

「エリンさん、行くんですか?」

 

「ええ」

 エリンは答えた。

「少し、話したいこともあるから」

 

 ナツキがわずかに目を細める。

 

「ハワードさんに、ですか?」

 

 エリンは少しだけ笑う。

 

「さすがに鋭いわね」

 

「ちょっとだけです」

 ナツキが言う。

 

「舞台、今日の夜ですよ」

 ミドリが慌てて端末を開く。

「まだ席、あるかな……」

 

「取れそうならお願いしてもいい?」

 エリンが言う。

 

「もちろんです!」

 ミドリがすぐに言った。

「私も気になってたので、一緒に見ます?」

 

 エリンは少しだけ考えてから首を振る。

 

「ありがとう。でも、今日は一人で行くわ。観ることより、その後の方が大事かもしれないから」

 

 ミドリはすぐに事情を深く聞こうとはしなかった。

 

「分かりました。じゃあ、空いてる席だけ押さえておきますね」

 

「助かるわ」

 エリンはそう言って、再びチラシを見た。

 

 チラシに印刷されたハワードの名前は、想像していたよりもずっと現実味があった。

 

 

 その日の夕方。

 

 エリンは仕事を一通り片づけ、必要な引き継ぎを済ませてから劇場へ向かった。

 

 会場は木星圏の文化区画にある中規模の劇場だった。

 外観は過度に豪奢ではないが、どこか落ち着いた品があり、入り口前には既に開場を待つ観客が列を作っている。若い客もいれば、演劇慣れしていそうな年齢層の高い客もいる。花束を持っている人もちらほら見えた。

 

 エリンは自分の席番号を確認しながら、周囲の空気を静かに観察した。

 

 舞台公演前の観客独特の、少し浮き足立ったようなざわめき。

 パンフレットを開く音。

 小さな笑い声。

 まだ始まっていないのに、既に“何かがこれから始まる”空気が満ちている。

 

 その空気は、どこかフライト前の客室とも似ていた。

 

 そんなことを思いながらエリンが中へ入ろうとした時、視界の端に見覚えのある横顔が映った。

 

「……メノリ?」

 

 呼ぶと、細身の少女がこちらを振り向いた。

 

 黒髪を肩で揃え、派手さのない服装で立っている。表情はいつも通り落ち着いていて、どこか一歩引いた冷静さを纏っているが、その目だけは少しだけ驚いていた。

 

「エリンさん」

 メノリが言う。

「……来たんですか」

 

「ええ」

 エリンは歩み寄った。

「貴方も来ていたの」

 

「はい」

 メノリは当たり前のように言う。

「ハワードが出演しますから」

 

 その言い方に、エリンは少しだけ口元を緩めた。

 

「そうね」

 

 メノリは一瞬だけ視線を逸らしたが、すぐに戻した。

 

 以前のメノリなら、こういう場所で誰かと会っても、もう少し距離を取る言い方をしただろう。

 でも今は、以前より少しだけ、素直にそこにいる。

 

 それだけでも、ハワードが何かを動かしたのだと分かる気がした。

 

「ハワードの舞台、初めて?」

 エリンが聞く。

 

「何度かあります」

 メノリが頷く。

「ですが正式な公演としては、私も初めてです……」

 

 エリンは、そこで察した。

 

 メノリとハワードの間には、以前から“舞台”を挟んだ何かがあったのだろう。

 ハワードが見られることを怖がりながら、それでも逃げずに立っていたこと。

 自分の声を、自分の身体で作っていたこと。

 その努力が、メノリのような人の胸を動かしたこと。

 

 それは、エリンにも何となく想像できた。

 

「少し、聞きたいことがあるの」

 エリンが静かに言う。

 

 メノリはすぐに事情を問わなかった。

 ただ、少しだけ目を細めてエリンを見た。

 

「リュウジのことですか」

 

 エリンは、そこで苦笑した。

 

「本当に、皆鋭いわね」

 

「察しはつきます」

 メノリは淡々と言う。

「今、周りで一番重い話題でしょう」

 

「……そうね」

 エリンは認めた。

「ハワードに、少し話を聞けないかと思って、同じサヴァイヴを生きた一人として、どう見えているのか」

 

 メノリは少しだけ考えるように黙った。

 劇場スタッフが開場の案内を始める声が聞こえる。観客の列がゆっくり動き始めた。

 

「いいと思います」

 メノリが言う。

「舞台が終わったあとなら、私も話を聞きたいです」

 

 エリンはその返答に少しだけ安堵した。

 

「ありがとう」

 

「ただ」

 メノリが付け足す。

「舞台が終わった直後のハワードは、たぶんうるさいです」

 

 エリンは思わず笑った。

 

「それは想像できる」

 

「そうでしょう」

 メノリは小さく言った。

 

 

 舞台が始まった。

 

 客席の灯りが落ちる。

 ざわめきが静まり、幕の向こうに意識が集まる。

 

 エリンは、普段ならこういう文化的な時間をもっと冷静に楽しめたはずだった。

 けれど今日は、完全には切り替えられない。ハワードの演技を見る目と、終わったあとに何を聞くかを考える目と、リュウジのことを思う目が、全部一緒に動いていた。

 

 それでも。

 

 舞台が始まり、ハワードが登場して、エリンはすぐに少しだけ息を呑んだ。

 

 ――ちゃんと、立っている。

 

 まず最初にそう思った。

 

 ハワードは、いつものハワードではなかった。

 いや、正確には、ハワードらしさをどこかに残しながらも、完全に“役”としてそこにいた。

 

 声の通し方。

 視線の置き方。

 身体の使い方。

 客席へ見られることを怖がっていないわけではないのかもしれない。

 でも、逃げていない。

 

 冗談みたいに軽口を叩いて、笑って、場を回して、何でも軽く見せようとするハワードが、今はその軽さを武器ではなく技術に変えていた。

 

 エリンは、その努力が分かった。

 

 すぐに出来るものではない。

 訓練して、恥をかいて、何度も修正して、ようやくここまで持ってきたのだろう。

 

 隣の席を見るわけにはいかなかったが、メノリが以前に“努力を軽視する人間は嫌いだ”と思うタイプであるなら、この舞台のハワードを見て心が動くのも分かる気がした。

 

 役者としての完成度が突出している、というより。

 人前に立つための努力が、はっきり見えるのだ。

 

 そのことが、演技より前に胸へ届く。

 

 エリンは、そこでふと別のことを思った。

 

 リュウジも、そうだ。

 表へ出すタイプではない。

 でも、自分の中で決めたことに対しては、誰にも見せないところで積み上げる。

 無茶に見えることも、衝動に見えることも、実際にはかなり前から考え、準備し、形にしている。

 

 それは、舞台の上のハワードとは全く違う種類の努力だ。

 けれど“見えにくいところで積んでいる”という一点では、少しだけ似ているのかもしれなかった。

 

 舞台は最後まで観客を引っ張った。

 

 ハワードの場面では、客席から笑いも漏れたし、静かな場面では空気がきちんと沈んだ。ハワードは、それを受け止めながらも飲まれずに立っていた。

 

 終演の拍手が起こった時、エリンは率直に“良かった”と思っていた。

 

 ただの知り合いの子の舞台だからという甘さではない。

 ちゃんと、“努力した人の舞台”だった。

 

 

 終演後。

 

 劇場の外は、開演前よりもっと賑やかだった。

 

 観客達が感想を言い合いながら出てきて、出演者の名前があちこちで飛び交っている。ハワードの名前も何度か耳に入った。パンフレットを見ながら笑っている若い客、落ち着いた顔で演出について話している年配客、花束を抱えているファンらしき女性。

 

 エリンは劇場脇の控えめな待機スペースでメノリと合流した。

 

「どうでしたか」

 メノリが聞く。

 

「良かったわ」

 エリンは素直に答える。

「びっくりした。ちゃんと、立っていた」

 

 メノリは、その言葉にほんの少しだけ口元を緩めた。

 

「ええ、今日のハワードは、逃げなかったです」

 

 その言い方が、以前からの積み重ねを含んでいるようで、エリンは小さく頷いた。

 

「そうね」

 

 少し待つと、スタッフらしい若い男が二人のところへ来た。

 

「すみません、ハワードさんがお待たせしているので、控室の方へどうぞ」

 

 エリンとメノリは顔を見合わせ、小さく頷いて後についていく。

 

 舞台裏は、舞台の上と違ってずっと現実的だった。

 照明器具。

 大道具の残り。

 スタッフの往来。

 汗と化粧と布の匂い。

 

 その奥の控室の前で、スタッフが扉をノックする。

 

「ハワードさん、お連れしました」

 

「入っていいよ!」

 

 いつもの明るい声だった。

 

 エリンが扉を開けると、ハワードはまだ舞台衣装の上半分だけを脱ぎかけた状態で振り向いた。顔にはメイクの残りがあり、髪も少し乱れている。けれど目は明るく、舞台をやり切った後の高揚がそのまま出ていた。

 

「うわ、エリンさん!?え、何、この組み合わせ、ちょっと待って、僕いま変な格好してない!?」

 

「してる」

 メノリが即答した。

 

「ひどい!」

 ハワードが言う。

「今の僕、主演級の働きをした直後なんだけど!?」

 

「主演ではないだろ」

 メノリが淡々と返す。

 

「主演級の心意気って意味!」

 ハワードが胸を張る。

 

 エリンは、そのやり取りを見て少しだけ肩の力が抜けた。

 舞台の上では“役”だったハワードが、控室へ戻った瞬間にきちんとハワードへ戻っている。その切り替えが妙に可笑しくて、少しだけ救われる。

 

「舞台、良かったわ」

 エリンが言う。

 

 その一言に、ハワードの顔がぱっと明るくなる。

 

「ほんとに!?いや、もちろん良かったに決まってるんだけど、エリンさんにそう言ってもらえるのはかなり嬉しい!」

 

「逃げてなかった」

 エリンが続けた。

「ちゃんと、立っていたわ」

 

 ハワードは、その言葉に一瞬だけ目を見開いたあと、少しだけ照れたように笑った。

 

「……それは、うん、ありがとう。たぶん、それが一番言われたかったかも」

 

 メノリは黙ってその横顔を見ていた。

 その表情はいつも通り落ち着いていたが、舞台の後だからか、ほんの少しだけ柔らかかった。

 

「で?」

 ハワードが二人を見る。

「舞台の感想だけで二人が揃って来るわけじゃないよね?特にエリンさんが来る時点で、絶対何かある」

 

 やはり鋭い。

 

 エリンは、少しだけ息を整えた。

 

「リュウジのことよ」

 エリンが言った。

 

 ハワードの表情が変わる。

 浮ついた明るさが一段落ち、ちゃんと話を聞く顔になる。

 

「……ああ、その感じか」

 

「東の未探索領域」

 エリンは続ける。

「魔のゾーンの調査をしたいって言ってる。サヴァイヴがその先にあるかもしれないから」

 

 ハワードは、しばらく何も言わなかった。

 

 メイクを落とす途中だったタオルを机の上へ置き、椅子へ座る。

 それから、メノリとエリンを順番に見た。

 

「気持ちは分かる」

 最初にそう言ったのはハワードだった。

 

 メノリは黙っている。

 反対もしない。

 否定もしない。

 ただ、その言葉を待っていたように見える。

 

「僕も分かる」

 ハワードが続ける。

「だって、サヴァイヴって、僕達にとってそういう場所だから」

 

 エリンは、その先を促すように静かに聞いた。

 

「どういう意味で?」

 

 ハワードは少しだけ笑ったが、その笑いはいつもの軽さだけではなかった。

 

「僕ね、昔から、やりたいことを冗談みたいに言う癖があるんだよ。本気だと見透かされるの、怖いから、役者になりたいとか、舞台に立ちたいとか、そういうことも、どこかで“ほら、またハワードが騒いでる”って空気に逃がしてた」

 

 メノリが、そこでほんの少しだけ視線を動かした。

 何も言わないが、その話は彼女にも思い当たるところがあるのだろう。

 

「でもサヴァイヴでは」

 ハワードが言う。

「そういう逃げ方、あんまり出来なかったんだ。“僕はこう見られたい”とか“軽い方が楽”とか、そういうの全部、一回剥がれた」

 

 エリンは、ハワードの口から出るその言葉を黙って受け止める。

 

「リュウジも、たぶん同じだと思う」

 ハワードは言った。

「あいつの場合、僕なんかよりもっと深いところで、色んなものが剥がれた。悲劇のフライトのこともあったし、救えなかった人のことも、たぶんずっと消えてない。でもサヴァイヴで」

 一度言葉を切る。

「ようやく、“それでも前に進む”っていう感覚を掴めたんじゃないかな」

 

 メノリが、そこで初めて口を開いた。

 

「リュウジは、サヴァイヴで前を向いた」

 静かな声だった。

「完全に切り離して帰ってきたわけじゃない。だから、探したいのだと思います」

 

 その言い方は、感情的ではない。

 でも、その分だけ真実味があった。

 

 エリンは、小さく目を伏せる。

 

「……そうでしょうね。私も、そう思う。だから余計に困ってるのよ。気持ちが分かるからこそ、頭ごなしに切れない。でも、認めるわけにもいかない」

 

 ハワードが少しだけ眉を寄せた。

 

「生きて帰ってくる保証がないから?」

 

「ええ」

 エリンは頷く。

「魔のゾーンよ、一回、偶然みたいな形で生きて帰ったからって、二回目も通れる保証なんてどこにもない。そんな場所へ、“気持ちは分かるから行ってきなさい”なんて言えるわけない」

 

 ハワードは、ゆっくりと息を吐いた。

 

「……うん。それも分かる」

 

 控室の中に短い沈黙が落ちる。

 

 遠くではまだスタッフの足音がしている。

 舞台は終わったのに、こちらの話はまるで別の本番みたいに重い。

 

「ハワード」

 エリンが言う。

「貴方はどう思う?リュウジのこと」

 

 ハワードは、少しだけ視線を天井へ向けた。

 

「僕はね」

 ゆっくりと言う。

「リュウジがサヴァイヴを見つけたいって思うこと自体は、止められないと思う。だって、それはたぶん“やりたいこと”っていうより、“そこに自分の一部がある”って感覚に近いから」

 

 メノリが小さく頷く。

 

「近い」

 それだけ言う。

 

 ハワードは続けた。

 

「でも、だからって一人で行っていい話じゃない。サヴァイヴって、僕達みんなで生きた場所でしょ、リュウジだけのものじゃない。だったら、そこへ至る道を作る話も、本当はリュウジ一人で抱えるべきじゃないと思う」

 

 エリンは、その言葉にわずかに顔を上げた。

 

 それは、まさに今宇宙管理局側が無理やりでもやろうとしていることに近かったからだ。

 個人の衝動のまま行かせない。

 枠へ入れる。

 計画にする。

 支援と撤退条件を作る。

 

「貴方、思ってたより冷静ね」

 エリンが少しだけ苦笑する。

 

「何それ」

 ハワードが言う。

「僕、いつも軽く見えるかもしれないけど、別に何も考えてないわけじゃないよ?……まあ、そう見える努力はしてるけど」

 

「そういうところだ」

 メノリが淡々と言った。

 

「メノリ、今のは味方してもいいところじゃない?」

 ハワードが言う。

 

「しない」

 メノリは即答した。

 

 エリンは、そんなやり取りの奥で、少しだけ救われるような気持ちを覚えていた。

 

 ハワードは、感情だけでリュウジの背中を押すわけではなかった。

 分かる。

 でも、それと進めるは別。

 そこをちゃんと切り分けている。

 

「……ハワード」

 エリンが改めて言う。

「ありがとう。少し、整理できた気がするわ」

 

「ほんと?」

 ハワードが言う。

「それなら嬉しいけど、でも、たぶん整理できても楽にはならないよ」

 

「そうね」

 エリンは苦く笑う。

「それはもう分かってる」

 

 メノリがそこで、静かに言った。

 

「リュウジを止めたいなら、感情だけでは止まらない。でも、感情がなければ、止める理由も弱い、どちらも必要」

 

 その言葉は、メノリらしく短く、鋭かった。

 

 エリンは頷く。

 

「ええ、本当にその通りね」

 

 ハワードが、少しだけ真面目な顔で言う。

 

「エリンさん、リュウジのこと、よろしくね」

 

 エリンは、その言葉に一瞬だけ驚いた。

 でも、すぐに分かる。

 

 それは“行かせてあげて”ではない。

 “見ていてあげて”に近い。

 

「……ええ」

 エリンは静かに答えた。

「言われなくても、そのつもりよ」

 

 控室の外からスタッフが呼ぶ声がした。

 ハワードにはまだ片づけや挨拶が残っているのだろう。

 

「ごめん、そろそろ行かなきゃ」

 ハワードが立ち上がる。

「でも、来てくれて嬉しかった。エリンさんが来るとは思わなかったし、メノリは……」

 少しだけ口元を緩める。

「来ると思ってた」

 

「何だそれは」

 メノリが少しだけ眉を寄せる。

 

「だって来たでしょ?」

 ハワードがにやっと笑う。

 

「うるさい」

 メノリが切った。

 

 そのやり取りに、エリンは思わず笑ってしまった。

 

 劇場を出る頃には、夜の木星圏の空気が少し冷たくなっていた。

 

 エリンは劇場前の階段をゆっくり下りながら、さっきまでの話を反芻する。

 

 サヴァイヴに自分の一部を置いてきている。

 見つけたいというより、回収したい。

 リュウジだけのものじゃない。

 でも、一人で抱える話でもない。

 

 整理できたわけではない。

 楽になったわけでもない。

 

 でも、少しだけ“何を相手にしているのか”は、はっきり見えた気がした。

 

 リュウジは、ただ危険へ惹かれているのではない。

 ただの無茶でもない。

 サヴァイヴという場所に置いてきたものを、自分の中で回収しようとしている。

 

 だからこそ、簡単には止まらない。

 だからこそ、こちらも簡単な言葉では止められない。

 

 エリンは夜空を見上げる。

 

 木星の光は、今日も遠く巨大だった。

 

「……本当に、厄介ね」

 

 小さく呟く。

 

 けれど、その声音は少しだけ前より落ち着いていた。

 

 怖い。

 反対の気持ちは変わらない。

 生きて帰ってくる保証がない以上、認めるつもりもない。

 

 それでも、ただ感情だけで押し返すのではなく、どう向き合うかは少しだけ見えた。

 

 劇場の灯りを背に、エリンは静かに歩き出す。

 

 明日になれば、また仕事がある。

 スペースホープは回り続ける。

 その中で、自分もまた考え続けるしかない。

 

 リュウジを止めるために。

 そして、もしそれでも止まらないなら、せめて生きて帰る形へ縛るために。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 宇宙管理局本部、統括官室。

 

 白い照明の下で、端末の画面だけが静かに光っていた。

 

 窓の外には木星圏の薄い光が広がっている。

 だが、その穏やかさとは裏腹に、統括官室の中は朝から仕事の気配で満ちていた。未処理ボックスには書類が積まれ、承認待ちの端末通知は絶えず増え、フレイの持つタブレットには次から次へと連絡事項が流れ込んでくる。

 

 その中に、リュウジが置いていった資料束がある。

 

 東の未探索領域。

 魔のゾーン。

 その先にあるかもしれないサヴァイヴ。

 それらを前提にした、調査計画の叩き台。

 

 未処理ボックスの中に入れてから、ペルシアはしばらく意図的にそれへ触れなかった。

 

 理由は単純だ。

 

 見たくないからだ。

 

 開けば、そこにあるのはただの夢物語ではない。

 リュウジが、ずっと前から本気で考えていた痕跡の集合だ。

 勢いで言い出したことではないと、紙の厚みだけで分かってしまう。

 

 それが、嫌だった。

 

「……統括官」

 フレイが静かに声をかける。

「午前中の承認案件は、こちらが残り三件です」

 

「分かってる」

 ペルシアは端末から目を離さずに答える。

「あと五分で片づける」

 

「十分だと思います」

 フレイが言う。

「統括官の“あと五分”は信用していませんが」

 

「なにそれ、ひどくない?」

 ペルシアが言いながらも、手は止まらない。

 承認、差し戻し、保留。

 必要なところだけを素早く切り、いらない説明は削る。

 こういう時のペルシアは、やはり速い。

 

 だが、その視線はどこか落ち着かなかった。

 

 フレイは、それに気づいている。

 けれど、あえて触れない。

 

 やがて、最後の案件に署名を終えたペルシアは、ようやく椅子へ深くもたれた。

 

「……よし」

 小さく息を吐く。

 

 そして、少しだけ間を置いてから、未処理ボックスへ手を伸ばした。

 

 リュウジの資料を引き抜く。

 

 表紙には、きっちりとした文字で件名が打たれていた。

 

 東部未探索領域外縁調査計画案。

 

「嫌々で見てる顔してますね」

 フレイが淡々と言う。

 

「嫌々よ」

 ペルシアは即答した。

「誰が好き好んでこんなの読むの」

 

「統括官です」

 フレイが返す。

 

「そこは否定して」

 

 そう言いながらも、ペルシアは表紙を開いた。

 

 

 最初の数ページは、前提整理だった。

 

 東の未探索領域の既存観測記録。

 重力変動の偏差。

 隕石群の不規則流。

 既知の危険要因。

 そして、リュウジがサヴァイヴから帰還した際のネフェリス航行記録との突き合わせ。

 

 ペルシアは、最初こそ露骨に気だるそうな顔をしていた。

 椅子へ浅く座り、片手で紙をめくり、いかにも“義務だから読んでいる”という態度だった。

 

 だが、数ページ進むごとに、その顔から余計な色が消えていく。

 

 静かになった。

 

 フレイはその変化を、机の向こうから黙って見ていた。

 

 ペルシアが資料を読む時、本当に駄目なものにはすぐ反応が出る。

 ページをめくる手が荒くなる。

 鼻で笑う。

 「甘い」「雑」「話にならない」と口に出す。

 

 でも今は違った。

 

 何も言わない。

 

 ただ、静かに読んでいる。

 

 ページをめくる速度も、途中から一定になった。

 飛ばさない。

 戻らない。

 必要なところへ細く目を通し、要点を拾い、次へ進む。

 

 リュウジが整理した項目は、思っていた以上に細かかった。

 

 外縁部への接近段階で必要となる観測項目。

 航路確保ではなく、まず危険帯の“揺らぎ方”を捉えることに主眼を置いている。

 調査の成功条件も、“突入して向こう側へ抜ける”ではなく、“一定時間の外縁観測を持ち帰ること”へ抑えられている。

 撤退条件も曖昧ではない。

 観測不能域へ入った場合。

 重力波形が想定から一定以上外れた場合。

 隕石群の密度が基準を超えた場合。

 通信遅延が想定外に増加した場合。

 

 ひとつひとつが、雑ではなかった。

 

 ペルシアは、ページをめくる手を一度止めた。

 

「……なによ、これ」

 

 小さな声だった。

 

 フレイが顔を上げる。

 

「問題がありますか」

 

「あるわよ」

 ペルシアが資料から目を離さずに言う。

「問題しかない話でしょ、これ自体が」

 一拍置く。

「……文句のつけどころがないのよ」

 

 フレイは、そこで初めて少しだけ眉を動かした。

 

「そうですか」

 

「嫌になるくらい」

 ペルシアが言う。

「ここが甘い、ここが雑、ここが勢い任せ、って言えたらまだ楽だった。でも、それが出来ない。ちゃんと“止められる前提”で書いてる。その上で、止められても押し返せるだけの筋を通してる」

 

 フレイは無言で聞く。

 

 ペルシアはさらに数ページ進めた。

 

 サヴァイヴの推定位置に関する記述。

 過去の帰還ログと星図の不一致。

 重力嵐で流された方向と、既知の観測空白帯との重なり。

 仮説としては大胆だが、論の立て方は破綻していない。

 

 そして最後に、支援要求。

 

 観測班。

 航路解析班。

 重力気象班。

 機関整備班。

 オペレーションルームからの常時監視体制。

 段階的撤退判断権限の明確化。

 

 そこまで読んで、ペルシアはようやく資料を閉じた。

 

 静かな音が机に落ちる。

 

「……フレイ」

 

「はい」

 

「この、リュウジが持ってきた資料」

 ペルシアは資料表紙を指先で叩く。

「アルビオンにいるナミに送って」

 

 フレイはすぐには動かなかった。

 

「理由を伺っても?」

 

 ペルシアは少しだけ椅子へ深く座り直した。

 

「はっきり言って」

 そこで一度言葉を切る。

「資料は文句のつけようがないのよ」

 

 フレイは黙って聞いている。

 

「もちろん、計画として通すかどうかは別」

 ペルシアが続ける。

「危険性の話も、現実性の話も、まだ全然終わってない。でも、“資料が雑だから突き返す”ってことは出来ない」

「だからこそ」

 少しだけ目を細める。

「はっきりした意見が欲しい」

 

「それでナミですか」

 フレイが聞く。

 

「そう」

 ペルシアは頷く。

「私だと、どうしても感情が混ざる。反対したい気持ちもあるし、でも内容がちゃんとしてるのも分かるし、正直、いま一番面倒な状態。その点、ナミなら遠慮なく切るでしょ。甘いと思えば甘いって言うし、筋が通ってればそこも言う。今ほしいのは、ああいう人間の目なのよ」

 

 フレイは短く頷いた。

 

「分かりました。要点は添えますか?」

 

「添えなくていい」

 ペルシアはすぐに言う。

「余計な誘導なしで読ませたい。ただし、“私が意見を聞きたい”ってことだけは伝えて。それなら、あの子も完全には流さない」

 

 フレイはもう一度頷き、資料を受け取った。

 

「では、アルビオン管制宛に最優先ではないが高優先で送ります」

 

「お願い」

 ペルシアが言う。

 

 フレイが通信端末を操作し始めると、ペルシアは小さく息を吐いた。

 

 悔しい。

 腹が立つ。

 でも認めざるを得ない。

 

 リュウジは、ちゃんと書いてきた。

 しかも、こっちが逃げ道に使えそうな甘さを潰してきた。

 

「ほんと……」

 ペルシアが小さく呟く。

「厄介な男」

 

 

 惑星アルビオン。

 

 開拓途中の管制区画は、木星の宇宙管理局本部とはまるで空気が違っていた。

 

 壁材は簡素で、照明も必要最低限。

 端末の数は多いが、全部が使い込まれていて、新品のような綺麗さはない。

 人も多い。

 いや、正確には“必要な数しかいない”のだが、その全員が常に何かに追われているので、体感としては本部の倍くらい密度があるように見える。

 

 ナミは、その中央にいた。

 

「北側保護膜、圧力変動二ポイント上がってます!」

「三番ラインの補助電源、戻りました!」

「外縁区画の搬入シャトル、到着予定五分押しです!」

「原因は?」

「地表側の気流乱れです!」

 

 声が飛び交う中、ナミは端末を二つ同時に見ていた。

 ひとつでは現在の管制ログ。

 もうひとつでは、惑星開拓区域の進行表と、今週中に処理しなければならないタスク群。

 

 アルビオンは、まだ“整った現場”ではない。

 

 人が住むための基盤を今まさに作っている途中だ。

 環境制御膜。

 搬入路の安定化。

 開拓機材の運用。

 居住区画と作業区画の切り分け。

 どれも進んでいるが、どれもまだ脆い。

 

 本部のように“最終的な判断をまとめる場所”ではなく、ここは“毎日何かが剥がれ落ちそうになるのを支えながら回す場所”だった。

 

「ナミさん!」

 若い管制員が声を上げる。

「第五搬入口、許可コードの更新がまだです!」

 

「今やります!」

 ナミが返す。

「その前に二番ルートの気流偏差を固定して! 順番にやって、全部一度に投げないで!」

 

「す、すみません!」

 

 怒鳴っているわけではない。

 だが、声の芯は強い。

 ここでぼんやりしている余裕はないのだ。

 

 そんな中で、ナミの個人端末が控えめな通知音を鳴らした。

 

 仕事用の優先連絡ライン。

 差出人は――フレイ。

 

「……今?」

 ナミが小さく眉を寄せる。

 

 アルビオンへ来てからというもの、本部からの連絡はないわけではなかったが、今このタイミングでフレイから個別に飛んでくるのは珍しい。

 

 ナミは一瞬だけ無視しかけた。

 だが、フレイは無駄な連絡をよこす人ではない。

 

「すみません、二十秒だけ」

 周囲へそう言って、ナミは少しだけ通路脇へ移動し、通話を開いた。

 

「……はい」

 ナミが言う。

「こちらアルビオン管制」

 

『知っている』

 フレイの声はいつも通り静かだった。

『だからこそ手短に言う』

 

「だったら助かります」

 ナミは端的に返す。

「何ですか?」

 

『統括官からの依頼。資料を一件、確認して意見をちょうだい』

 

「は?」

 ナミは露骨に眉を寄せた。

「資料?今、私にですか?結構忙しいんですけど」

 

『承知しているわ』

 フレイは少しも動じない。

 

「承知した上なんですね」

 ナミは即答した。

「今、本当に手が足りないんですよ。この前もそうでしたけど、本部の人って“遠地にいるから余裕がある”みたいに思ってません?」

 

『思っていない』

 フレイは淡々と返した。

『統括官も、そこは十分承知しているわ』

 

「ならなおさら、なんで今なんですか」

 

 フレイはそこで少しだけ間を置いた。

 

『統括官が、ナミの意見を聞きたいそうなの』

 

 ナミの言葉が一瞬止まる。

 

「……私の?」

 

『ええ。はっきりした意見が欲しいみたい』

 

 ナミは、そこで少しだけ目を伏せた。

 

 ペルシアが、自分の意見を聞きたい。

 

 その言い方をされると弱い。

 

 アルビオンへ来てから、ナミは本部との距離を嫌というほど感じていた。

 物理的にも遠いし、扱う仕事の性質も違う。

 だからこそ、時々、本部はもう自分がいなくても普通に回っているのだと感じて、妙な疎外感を覚えることもあった。

 

 でも、ペルシアは時々こうして、絶妙なタイミングで“お前の目が必要”と言ってくる。

 

 それが、ずるい。

 

「……何の資料ですか」

 ナミが少しだけ声音を落として聞く。

 

『リュウジの持ち込んだ調査計画案。東の未探索領域関連』

 

 その瞬間、ナミは小さく息を呑んだ。

 

「魔のゾーン……」

 

『ええ』

 

「……はぁ」

 ナミは額へ手を当てた。

「それ、絶対軽い話じゃないじゃないですか」

 

『軽くはない』

 フレイは即答した。

 

「でしょうね」

 ナミが言う。

「で、ペルシアさんは何て?」

 

『資料には文句のつけようがない。だからこそ、ナミの意見を聞きたい』

 

 ナミは、その言葉を聞いて少しだけ顔をしかめた。

 

 資料に文句のつけようがない。

 ペルシアがそんな言い方をするなら、本当にかなり整っているのだろう。

 そして、ペルシア自身がそこで詰まっているということでもある。

 

 ナミには分かる。

 

 ペルシアは今、本部で普通に回っているように見えて、その実かなり無理をしている。

 エリンの役割に近いものまで見ながら、自分の統括官としての役割も整理し、ローズや周囲に引き継ぎを入れ、本部全体の温度を落とさないようにしている。

 それをナミは、以前からかなり正確に見ていた

 

 だから、そんなペルシアが“ナミの目がほしい”と言うなら、簡単には断れない。

 

「……分かりました」

 ナミが、ようやく言った。

「渋々ですけど、見ます」

 

『ありがとう』

 

「ただし」

 ナミはすぐに続ける。

「今すぐは無理です。このシフト帯が落ち着いてから、最低でも二時間はください」

 

『分かった』

 フレイが答える。

『急ぎではないけど、即答を求めているわけでもない。読み込んだ上での意見を希望しているから』

 

「ならなおさら時間かかりますよ」

 ナミが言う。

「適当に“反対です”って返せる話じゃないんでしょ?」

 

『そうでしょうね』

 フレイの声音には、ほんの少しだけ同意が混じっていた。

 

「あと」

 ナミが言う。

「ペルシアさんに伝えてください。私に振るってことは、たぶん自分でもかなり迷ってるんでしょうけど、それでも、逃げないで最後まで読んだのは偉いって」

 

 通話の向こうで、フレイが一瞬だけ黙る。

 

『……そのまま伝える?』

 

「そのままでいいです」

 ナミは言った。

「どうせあの人、嫌がるでしょうけど」

 

『分かった』

 フレイが答える。

『資料を送っとくわ』

 

 通話が切れる。

 

 ナミは端末を見下ろしたまま、小さく息を吐いた。

 

「なんでこういう時だけ、ちゃんと私を指名するのよ……」

 

 愚痴みたいな声だった。

 でも、その口元は少しだけ苦く緩んでいた。

 

 戻らなければ。

 アルビオンの管制は待ってくれない。

 

 ナミは端末を閉じると、すぐに持ち場へ戻った。

 

「ナミさん!」

 さっきの若い管制員が再び声を上げる。

「第五搬入口、更新終わりました!」

 

「よし」

 ナミは即座に頭を切り替える。

「次、六番ラインの負荷見て、そのあと北側保護膜の再確認。順番にやれば回るから、慌てないで!」

 

「はい!」

 

 声がまた飛び交い始める。

 

 けれど、仕事の流れを捌きながらも、ナミの頭の片隅にはもう別の重さが入り込んでいた。

 

 リュウジの資料。

 魔のゾーン。

 ペルシアが文句をつけられなかった計画案。

 

 そして、その意見を自分に求めてきたこと。

 

「……あとで絶対、面倒なやつだ」

 

 そう呟きながらも、ナミの目はもう前を向いている。

 

 忙しい。

 たしかに忙しい。

 

 それでも、引き受けた以上は中途半端には読まない。

 どうせなら、ちゃんと切る。

 甘ければ容赦なく切るし、通っているならそこもはっきり言う。

 

 ナミはそういう人間だった。

 

 そして、ペルシアもそれを知っているからこそ、自分へ振ってきたのだと分かっていた。

 

 

 一方、木星の宇宙管理局本部。

 

 フレイは通話を終えると、端末を少し下げてペルシアを見た。

 

「了承しました」

 フレイが言う。

「今は忙しいので、二時間後以降に確認するそうです」

 

「十分」

 ペルシアが答える。

 

「あと」

 フレイは少しだけ間を置いた。

「統括官へ伝言です。“自分でもかなり迷っているんでしょうけど、それでも逃げないで最後まで読んだのは偉い”と」

 

 ペルシアの顔が、露骨にしかめられた。

 

「……なによそれ」

 

「そのままです」

 フレイが答える。

 

「褒められてるのに、全然嬉しくない」

 ペルシアは椅子にもたれた。

「ナミ、絶対分かってて言ってるでしょ」

 

「たぶん」

 フレイは淡々と言う。

 

 ペルシアは小さく息を吐き、それから机の上に置いたままの資料をもう一度見た。

 

「……ほんとに、厄介な男」

 誰へ向けたのか分からないような声で呟く。

 

 だが、その目は逃げていなかった。

 

 ナミが読む。

 そして、はっきり言うだろう。

 

 その意見を、今の自分はたぶん必要としている。

 

 嫌だけれど。

 面倒だけれど。

 それでも、必要だから読むし、回すし、また考えるしかない。

 

 ペルシアは資料の端を軽く指で叩き、静かに言った。

 

「……さあて、これで、次はナミの番ね」

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