サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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ナミの意見

アルビオンの夜は、まだ完成していない。

 

 空の色そのものは穏やかだった。外縁へ張り巡らされた保護膜の向こうに見える仮設の空は、居住者の精神安定のために淡い藍色へ調整され、遠くには人工の星まで配置されている。けれど、そこに“完成した惑星”の静けさはない。

 

 どこかで重機が動いている。

 どこかで地盤補強用の杭が打ち込まれている。

 どこかで環境制御塔が、まだ不安定な空気の流れを必死に均している。

 

 人が住む場所を作るというのは、綺麗な言葉ほど整っていない。

 

 削る。

 繋ぐ。

 積む。

 押さえる。

 壊れないように一つずつ、崩れないように一つずつ、今日を明日に繋ぐ。

 

 ナミは、その真ん中にいた。

 

「第三搬入口、搬入機材の識別コードずれてる! そっちで一回止めて!」

「北区画の湿度補正、まだ掛けないで! 今それやると植物圏側が吸いすぎる!」

「はい、今見てる! だから同時に三つ投げないでって言ってるでしょ!」

 

 管制卓を挟んで三方向から飛んでくる声を、ナミは端末二枚と壁面モニターを見ながら捌いていた。

 

 アルビオンの開拓管制は、木星本部と違って“考えてから動く”余裕が薄い。もちろん考えていないわけではない。むしろ考え続けている。だが、ここで求められるのは、答えが出るまで座っていることではなく、答えが揺れている間に崩れないよう支えることだ。

 

 今この瞬間にも、誰かが外で汗を流し、誰かが仮設区画のボルトを締め、誰かが補給ラインの遅れに歯噛みしている。

 

 机の上の数字は、そのまま現場の呼吸と繋がっていた。

 

 ナミは、一瞬だけ肩を回した。

 

 重い。

 でも、嫌いじゃない。

 

 この仕事はしんどいが、自分の声一つで現場が持ち直す感覚もある。何を優先し、何を後回しにするか、その判断がそのまま明日の土台になる。宇宙管理局本部にいた頃には見えなかった“現場の硬さと脆さ”が、ここには剥き出しである。

 

 だからこそ、やりがいもある。

 

「ナミさん」

 隣の若い管制員が、おそるおそる声を掛ける。

「西の整備路、仮照明の電力配分が……」

 

「見せて」

 ナミは手を伸ばし、端末を半分だけ引き寄せた。

「……こっち過剰。居住仮区画から五だけ回して。人が多いのは向こうだけど、あっちは予備照明がもう入ってる。あと、次からは“どこが困ってるか”を最初に言って」

 

「は、はい!」

 

 若い管制員が慌てて戻っていく。

 

 ナミはそれを見送りながら、小さく息を吐いた。

 

 まだまだだ。

 現場が回り始めている分だけ、人の育ちも追いつかなければいけない。

 アルビオンは、土地も施設も未完成だが、人間もまた未完成のまま前へ出されている。

 

 そういう場所だ。

 

 だからこそ――。

 

 個人端末が控えめな振動を返した時、ナミは本気で眉を寄せた。

 

「……このタイミング?」

 

 差出人はフレイ。

 本部の優先連絡ライン。

 

 さっきの連絡で資料を送ると言われてはいた。だが、このタイミングで読む余裕なんてあるわけがない。そもそも今は、補助系統の切り替えと物資搬入が同時に重なっている一番面倒な時間帯だ。

 

 ナミは数秒だけ無視しようかと思った。

 

 でも、フレイは余計なことでは鳴らさない。

 鳴ったということは、向こうも“今じゃないと困る”か“今だからこそ流したい”かのどちらかだ。

 

 苛立ちをごく小さく胸の内に押し込み、ナミは管制卓の端を叩いた。

 

「五分だけ抜ける! その間、北区画の湿度制御は固定! 勝手に弄らないで!」

「はい!」

「何か起きたら呼んで! 小さいことでも!」

 

 返事を背中で受け取りながら、ナミは管制区画の隅へ移動した。

 

 資料はすでに共有フォルダへ入っていた。

 件名を見た瞬間、ナミは舌打ちを飲み込んだ。

 

 東部未探索領域外縁調査計画案。

 

「……ほんとに送ってきた」

 

 誰に言うでもなく呟く。

 

 少し前にフレイから通話で聞かされた時点で、面倒な内容だとは分かっていた。

 魔のゾーン。

 サヴァイヴ。

 リュウジ。

 

 軽い話のわけがない。

 

 ナミはその場で開きかけたが、すぐに閉じた。

 ここでは駄目だ。

 

 管制卓の横で読めるような資料じゃない。

 読むなら、読むための頭に切り替えなければならない。

 

「……休憩入ります」

 ナミが短く言うと、近くにいた中堅職員が驚いた顔をした。

「珍しいな」

「ええ。珍しいんです」

 ナミはそれだけ返し、管制区画を抜けた。

 

 

 アルビオンの仮設休憩室は、本部のそれよりずっと現実的だ。

 

 壁は簡素な複合板。

 ソファも柔らかさより耐久性優先。

 置いてある飲み物も“くつろぐため”というより“倒れないため”にある感じだ。

 

 それでも、今のナミには十分だった。

 

 紙コップに濃いコーヒーを一杯だけ落とし、端の席へ腰を下ろす。

 そこでようやく、資料を開いた。

 

 最初のページ。

 目的整理。

 想定航路ではなく、観測優先。

 成功条件の定義。

 撤退条件の数値化。

 

 ナミの目が、少しずつ細くなる。

 

「……え」

 

 一ページ。

 二ページ。

 三ページ。

 

 読み進めるごとに、眉間の皺が逆に深くなっていった。

 

 雑だと思えば切れる。

 勢いだけだと思えば捨てられる。

 感情論で押してくるなら、いくらでも突き返せる。

 

 でも、これは違った。

 

 整理されている。

 冷静だ。

 無理に美しく見せていない。

 危険性も甘くない。

 それでいて、“だからやめましょう”とは書いていない。

 

 むしろ、“これだけ危険だから、ここまで絞って、ここまで下げて、ここまで戻る線を引いた上で、それでも外縁だけは見に行きたい”という資料だった。

 

「……何これ」

 

 思わず声に出る。

 

 文句をつけたい。

 つけたいのに、つけにくい。

 

 技術的に破綻していない。

 観測段階に絞っているのも妥当。

 支援要求も、必要以上に盛っていない。

 撤退条件も、感覚ではなく基準になっている。

 

 正直に言って、良い資料だった。

 

「はあ……」

 

 ナミは紙コップを手に取り、一口だけコーヒーを飲む。

 

 苦い。

 でも頭は冴えた。

 

 ペルシアの「資料は文句のつけようがないのよ」という言葉の意味が、ようやく分かる。

 

 たしかにそうだ。

 これを読んで、“書類が甘いから無しです”とは言えない。

 そう言えたら、どれだけ楽か。

 

 だが、ナミはそこで、はたと指を止めた。

 

 違和感がある。

 

 確かに良い資料だ。

 でも――良すぎる。

 

 これを書いた人間の熱が、どこにも見えない。

 

 魔のゾーン。

 サヴァイヴ。

 東部未探索領域。

 どれも、本来ならもっと感情が滲んでいい言葉だ。

 

 なのに、この資料は、綺麗な骨格だけで出来ている。

 まるで提出者が、自分の一番大事な部分だけをわざと抜いているみたいに。

 

「……作った人の気持ちが、見えない」

 

 ナミはぽつりと呟いた。

 

 技術的には完成している。

 でも、心情がない。

 

 いや、ないのではない。

 隠してある。

 

 何を考えてこれを作ったのか。

 何を切り捨てて、何を残したのか。

 何を言わずにここまで絞ったのか。

 

 そこが、まるで見えてこない。

 

 ナミは椅子の背へ身体を預け、目を閉じた。

 

 リュウジ。

 

 魔のゾーン。

 悲劇のフライト。

 元ドルトムント出身。

 サヴァイヴ。

 

 言葉だけを並べても、切れ切れの情報にしかならない。

 でも、この資料を書いたのは、その全部を知っている男だ。

 

 悲劇のフライトのことを、ナミは全部知っているわけではない。

 記録で追える部分はある。

 けれど、“どこで何を選び、どう後悔したのか”まで、紙の上だけで分かるものじゃない。

 

 元ドルトムント出身。

 これも同じだ。

 ただの経歴ではない。

 そこにいたからこその矜持も、歪みも、背負い方もある。

 

 そして、サヴァイヴ。

 

 ナミはそこで、ゆっくりと目を開いた。

 

 サヴァイヴ。

 

 その単語だけが、急に別の重みを持った。

 

 サヴァイヴは、ただの“未知の惑星”じゃない。

 リュウジだけの記憶でもない。

 あそこには、同じように落ちて、同じように生き延びた人間達がいる。

 

 ルナ。

 チャコ。

 メノリ。

 シャアラ。

 カオル。

 ハワード。

 ベル。

 そして、リュウジ。

 

「……ベル」

 

 その名前が、不意に浮かんだ。

 

 今、このアルビオンにいる。

 

 学生として、実地研修に来ている。

 本配属ではない。

 開拓現場の“実際”を見るための短期実習だ。

 

 優しい。

 大人しい。

 でも、ただ弱いだけの人間ではない。

 あのサヴァイヴを生き抜いた男だ。

 

 そして、リュウジと同じ景色を見た一人。

 

「……そうだ」

 

 ナミは立ち上がった。

 

 資料そのものは、もう十分読んだ。

 ここから先に必要なのは、数字じゃない。

 この資料を書いた男が、何を隠しているのか。

 何を言わないまま、ここへ押し込めたのか。

 

 それを知るには、たぶん、技術者より証人だ。

 

 

 ベルは、第三居住仮区画の外縁側にいた。

 

 実地研修生用の黄色い腕章をつけ、搬入された生活資材の確認をしているところだった。大きな体を少しだけ屈め、端末の画面と実物の数量を照らし合わせている。周囲には他にも数人、学生らしい若者がいたが、その中でもベルは目立っていた。大柄なのに威圧感がなく、むしろ“そこにいてくれると安心する柱”みたいな存在感がある。

 

「ベル」

 ナミが声を掛ける。

 

 ベルが顔を上げ、すぐに目を丸くした。

 

「あ、ナミさん、どうしたんですか?」

 

「少し時間ある?」

 ナミは前置きなく言う。

「今すぐじゃなくてもいいけど、出来れば今がいい」

 

 ベルは端末を見て、それから横にいた指導担当の職員を見た。

 

「すみません、五分だけ抜けても大丈夫ですか」

 

「ああ、いいよ」

 年配の職員が頷く。

「ちょうど今の分は一段落してるし、でも、長くは無理だぞ」

 

「はい」

 

 ベルはそう言って、すぐにナミの方へ来た。

 

「何かあったんですか?」

 穏やかな声だった。

 けれど、ただ穏やかに聞いているのではなく、“ただ事じゃない”と察している声でもある。

 

「移動しよう」

 ナミは短く言う。

「ここだと、人も多いし」

 

 ベルは少しだけ不安そうにしたが、すぐ頷いた。

 

「うん」

 

 二人は資材区画から少し離れた、仮設展望回廊の端へ移動した。ここはまだ開拓途中で、人の出入りも少ない。透明な壁の向こうには、整備中の居住ブロックと、そのさらに先の土色の地表が見える。人工的に均された大地の向こうで、開拓機械がのろのろと腕を動かしていた。

 

「それで」

 ベルが先に口を開いた。

「何があったんですか?」

 

 ナミは、少しだけ迷った。

 

 資料を見せるべきか。

 先に話だけ聞くべきか。

 

 結局、端末を出してベルへ向ける。

 

「これ、リュウジが出してきた資料」

 

 ベルの目が少しだけ揺れた。

 

「……リュウジの?」

 

「東の未探索領域の調査計画案」

 ナミが言う。

「魔のゾーン。その先にサヴァイヴがあるかもしれないから、見に行きたいんだって」

 

 ベルはすぐには言葉を返さなかった。

 

 ただ、端末画面を見て、その文字列を目で追っている。追っているというより、ひとつひとつの単語が胸の内へ落ちていくのを待っているような、そんな沈黙だった。

 

「……そう」

 ようやく、ベルが小さく言う。

「そこまで、来たんだ」

 

「知ってたの?」

 ナミが聞く。

 

「ううん」

 ベルは首を振った。

「具体的に、ここまで形にしてるのは知らなかったです。でも……」

 一度言葉を切る。

「いつか、そう言い出すんじゃないかとは思ってた」

 

 ナミは、その返答を聞いてまっすぐベルを見た。

 

「どうして」

 

 ベルは、壁の向こうの工事区画へ視線を向けた。

 

「サヴァイヴって」

 ベルがゆっくり言う。

「僕たちにとって、ただの漂流現場じゃないから」

 

 ナミは黙って聞く。

 

「もちろん、怖かったですよ」

 ベルは続けた。

「落ちた時は、本当に終わったと思った。僕なんて、正直に言えば、最初は何をすればいいか全然分からなかったし、大きいだけで、気持ちは全然追いついてなくて、周りが動いてるのに、自分だけ遅れてる感じが、ずっとありました」

 

 ベルは、そこで少しだけ苦笑した。

 

「でも、リュウジは違った。最初から、違った」

 

「どう違ったの」

 ナミが鋭く聞く。

 

 ベルは少しだけ目を伏せて、言葉を選んだ。

 

「最初から動いてた……というより、最初から“止まれなかった”んだと思います」

 

 ナミの視線が細くなる。

 

「止まれなかった?」

 

「うん」

 ベルが頷く。

「リュウジって、昔からそういうところあるんです。平気そうな顔してるのに、一番止まっちゃいけない時に、自分に止まることを許さない。サヴァイヴに落ちた時もそうでした。安全確認して、水を見つけて、夜の場所を決めて、見張りを考えて、誰かが怖がってても、自分はそれを表に出さないで、先にやることを並べます」

 

「それは、単に優秀だったからじゃないの」

 ナミが言う。

 

 ベルは、少しだけ首を横に振った。

 

「それだけじゃなくて、優秀なのはそうです。でも、たぶん……あの時のリュウジは、“もう二度と間に合わなかった”って思いたくなかったんだと思います」

 

 ナミの指先が、端末の縁を軽く押した。

 

「悲劇のフライト」

 ナミが口にすると、ベルは静かに頷いた。

 

「はい。全部を知ってるわけじゃないです。でも、あの件でリュウジの中に“遅れたら終わる”みたいな感覚がずっと残ってたのは分かります。何か起きた時に、まず自分が動かなきゃ、自分が一番前に出なきゃって、そうしないと、また誰かが死ぬって、本気で思ってる感じがありました」

 

 ナミは黙っていた。

 

 資料の中にあった、過剰に整った撤退条件が頭に浮かぶ。

 あれは臆病さじゃない。

 “遅れたくない人間”の引き方だ。

 

「サヴァイヴでは、ずっとそんな感じだったの?」

 ナミが聞く。

 

「最初の頃は特に」

 ベルが答える。

「今よりもっと、刃みたいでした。誰かに頼る感じじゃなくて、自分が全部見て、自分が全部拾おうとしてました。でも、それって当然無理なんです。だって、八人いたんですから」

 

 ベルの声は静かだ。

 けれど、その静けさの奥に、あの時を本当に生きた人間にしか出せない重さがある。

 

「ルナは前を見てた、メノリは考えてた、シャアラは静かだけどよく見てた、シンゴは機械のことになると怖いくらい頼りになった、カオルは言葉少ないけど、いざって時に操縦でも判断でも前へ出た、ハワードは軽いように見えて、人を明るくするのが上手かった。僕は……」

 ベルは少しだけ笑う。

「たぶん、一番地味だった」

 

「そんなことないでしょ」

 ナミがすぐに返した。

 

 ベルは少し驚いたようにナミを見る。

 

「地味とか派手とかじゃなくて」

 ナミが言う。

「そういう時、一番崩れない人間がいるだけで違うのよ。声も落ち着いてて、場を変に煽らない。そういう人間が一人いると、周りは助かる」

 

 ベルは一瞬だけ目を丸くしたあと、少し照れたように笑った。

 

「……ナミさんって、そういうところよく見てますよね」

 

「仕事柄ね」

 ナミが言う。

「で、続きを」

 

「うん」

 ベルは頷いた。

「とにかく、リュウジ一人じゃどうにもならなかった。たぶん、あそこで初めて、リュウジは“自分だけじゃ駄目だ”って本当に思い知ったんじゃないかな。悲劇のフライトの件を乗り越えて、誰かを守るって、自分が全部やることだけじゃくて、ちゃんと託して、預けて、それでも前に出ることなんだって」

 

 ナミは、その言葉に少しだけ反応した。

 

 資料の中の支援要求。

 観測班、航路解析班、重力気象班、オペレーションルーム。

 あれはただ体裁で入れていたのではなく、“一人でやらないための線”でもあるのかもしれない。

 

「じゃあ、サヴァイヴは」

 ナミがゆっくり言う。

「リュウジに“前を向く”ことを改めて知った場所だった?」

 

「うん」

 ベルは答えた。

「でも、それだけじゃない」

 

 ベルは壁の向こうを見たまま、静かに続ける。

 

「サヴァイヴって、綺麗だったんです」

 

 その言葉に、ナミは少しだけ意外そうな顔をした。

 

「綺麗?」

 

「うん。危険だったし、過酷だったし、死にかけたことも何度もあった。でも、綺麗でもあった。空も、水も、風も、あと、人が生きるってことも、あそこでは変に剥き出しだった」

 

 ナミは、何も言わずに聞く。

 

「学校にいた頃のリュウジって」

 ベルが言う。

「最初から孤独だった。ずっと“自分を削って前に出てる”感じだった。一人でいる方が楽そうで、でも楽しくはなさそうで、周りを見てないわけじゃないのに、あえて距離を置いてるような」

 

 ナミは、その表現に覚えがあった。

 

 資料でもそうだ。

 見えていないのではなく、見えているからこそ削っている。

 自分の余白を、最初から提出していない。

 

「でもサヴァイヴでは」

 ベルの声が少しだけ柔らかくなる。

「距離を置いたままじゃ、生きられなかった。ルナが笑ってるとか、シャアラが疲れてるとか、シンゴが目を輝かせてるとか、ハワードが空気を変えようとしてるとか、メノリが無理してるとか、そういう“一人ひとり”を、見ないふり出来なかった」

 

「だから変わった?」

 ナミが問う。

 

「変わったと思う」

 ベルは答える。

「全部が急に変わったわけじゃないですよ。でも、少しずつ、英雄とか、S級とか、悲劇のフライトとか、そういう大きいラベルじゃなくて、“今ここにいる誰か”のために動く時の顔になっていった」

 

 ナミの中で、何かが少しだけ繋がった。

 

 資料の完成度。

 冷静さ。

 抑え方。

 そして、抜け落ちている心情。

 

 あれは、“大きい目的”の資料に見せながら、本当は“誰か一人の顔”へ向かって書かれているのかもしれない。

 

「ねえ」

 ナミが少しだけ前へ出る。

「ベル、はっきり聞くけど、リュウジは、何を見つけたいの?」

 

 ベルはすぐには答えなかった。

 

 少しだけ考えて、それから静かに言った。

 

「サヴァイヴそのもの、だと思ってた。でも今は、少し違う気がする」

 

「どう違うの」

 

「証拠、かな」

 ベルが言う。

「自分があそこで生きたってことの。自分が、ただ失った人間じゃなくて、あそこで前を向けたものでもあったってことの。それを、ちゃんともう一度手に取りたいんじゃないかな」

 

 ナミは、その言葉を頭の中で反芻する。

 

 証拠。

 

 それは、技術資料には絶対に書けない単語だった。

 

「……面倒ね」

 ナミがぽつりと言う。

 

「うん」

 ベルも苦笑する。

「すごく面倒。だって、それって“ロマンだからやめろ”とも、“証明したいなら行け”とも言えないです」

 

「言えない」

 ナミは即答した。

「こっちは仕事で線を引く側なんだから、余計に言えない」

 

 ベルは、そこで少しだけ真面目な目になった。

 

「ナミさん、この資料、どう思いました?」

 

 ナミは端末を軽く持ち上げた。

 

「技術的にはほぼ文句なし、正直むかつくくらい綺麗。でも、その分だけ、本音が見えない。何を隠してるのか分からない」

 

 ベルは、それを聞いてゆっくり頷いた。

 

「たぶん、わざとですよ」

 

「やっぱり?」

 ナミが言う。

 

「うん」

 ベルは続ける。

「リュウジって、自分の気持ちを前に出すの、得意じゃないし、特に、許可を取るための資料ならなおさら。本音を書いたら、逆に通らないって分かってるんだと思う。だから、通すための言葉だけで組んだ」

 

「でも、そのせいで、資料の外が見えなくなる」

 ナミが言う。

 

「そう」

 ベルは頷いた。

「だからたぶん、今の資料だけじゃ駄目なんです。技術としては成立してても、“この人間を乗せていいか”の判断までは足りない」

 

 ナミは、そこで少しだけ目を細めた。

 

 ベルは優しい。

 でも、優しいだけではない。

 言葉の選び方が静かなだけで、見ているところはかなり鋭い。

 

 サヴァイヴを生き延びた人間だ。

 甘いだけであるわけがない。

 

「ベル」

 ナミが言う。

「あなたなら、どうする?リュウジを行かせる?」

 

 ベルは、一瞬だけ困ったように笑った。

 

「それ、嫌な質問ですね」

 

「答えて」

 ナミは引かない。

 

 ベルは小さく息を吐いた。

 

「僕は、行かせたくない」

 はっきりと言う。

「怖いから、戻ってこないかもしれないし、また、あの人が一人で全部背負おうとするのも分かるから」

 

 ナミは黙って聞く。

 

「でも」

 ベルが続ける。

「“そんなこと思うな”とも言えない。サヴァイヴのことを、なかったことみたいに扱ってほしくないから、僕たちにとっても、あそこはそういう場所じゃない」

 

 その言葉は、ナミの胸に真っ直ぐ落ちた。

 

 たしかにそうだ。

 

 もし魔のゾーンの先にサヴァイヴがあって、そこへ至る航路があるなら。

 それは、リュウジ一人の個人的執着では終わらない。

 同じように落ちて、生きた人間達にとっても、大きな意味を持ってしまう。

 

「……じゃあ」

 ナミが低く言う。

「一人では行かせない、か」

 

「うん」

 ベルが頷く。

「もし本当にやるなら、そうじゃないと駄目だと思います。一人で抱えさせない、一人で決めさせない、一人で“帰らなくていい理由”を作らせない」

 

 ナミの視線が、端末へ落ちる。

 

 資料の最後にある撤退条件。

 その数値は冷静だ。

 でも、それを実際に切る瞬間、提出者本人に委ねきっていいのか。

 

 答えは、もうかなり見えていた。

 

「……ありがと」

 ナミが言う。

 

 ベルは少しだけ目を丸くした。

 

「力になりました?」

 

「かなり」

 ナミは正直に答える。

「腹立つくらい」

 

 ベルが少し笑う。

 

「それは、褒められてますか?」

 

「半分くらいは」

 ナミが言う。

「でも本当に助かった。資料そのものじゃなくて、資料の外側が少し見えた」

 

 ベルは、それ以上何も求めなかった。

 ただ、小さく頷く。

 

「それなら良かったです」

 

 遠くで、搬入ブザーが短く鳴った。

 ベルの実習時間も、ナミの休憩時間も、もう終わりに近い。

 

「戻らなき」

 ベルが言う。

 

「そうね」

 ナミは端末を閉じた。

「こっちも戻る」

 

 だが、二人ともすぐには歩き出さなかった。

 

 アルビオンの地表へ目を向ける。

 未完成の惑星。

 人が住めるようにしている途中の場所。

 今日の判断が明日の土台になる場所。

 

 ナミはそこで、ふと思った。

 

 地球を人が住めるように戻そうとしているルナ達と、魔のゾーンの先にサヴァイヴを見つけたいリュウジ。

 方向は違うのに、どこかでやっていることは似ている。

 

 失われた場所を、もう一度人の手の届くところへ引き戻そうとしている。

 

「……ほんと、面倒」

 ナミがもう一度呟く。

 

「そうですね」

 ベルが優しく返した。

「でも、放ってはおけないんだと思います」

 

「それが一番面倒なのよ」

 ナミが言うと、ベルはまた少し笑った。

 

 

 管制区画へ戻ったナミは、仕事に復帰する前に一通だけメモを開いた。

 

 件名は、東部未探索領域外縁調査計画案/一次所見。

 

 指先が、迷わず動く。

 

 技術資料としての完成度は高い。観測段階への絞り込み、撤退条件、支援要求の整理ともに妥当。資料そのものには大きな瑕疵なし。

 

 そこまで打って、一度止まる。

 

 その先が本題だった。

 

 ナミは、ベルの言葉を思い出した。

 

 証拠。

 回収したい。

 一人では行かせない。

 帰らなくていい理由を作らせない。

 

 ナミは続けて打ち込む。

 

 ただし、本資料は提出者の心理的動機を過度に切り落としており、技術的整合性に対して人的評価情報が不足している。提出者本人に、サヴァイヴおよび悲劇のフライトを踏まえた目的の再言語化を求めるべき。

 

 さらに数行。

 

 特に、撤退判断を本人の精神状態へ過度に依存させない補助線が必要。常時監視側に、提出者の行動傾向を理解する人員を置くこと。可能なら同経験者の視点を、計画前提条件に追加することを推奨。

 

 そこで、ナミは小さく息を吐いた。

 

 冷静な所見だ。

 でも、今までよりは少しだけ芯を掴んでいる。

 

 技術の話だけではない。

 人間の話だ。

 

「ナミさん!」

 若い管制員が慌てて呼ぶ。

「北区画、気流偏差また増えてます!」

 

「今行く!」

 ナミは即座に端末を閉じた。

「その前に、保護膜出力は弄ってないわよね!?」

 

「触ってません!」

 

「ならまず外気流の読み直し! 順番にやる!」

 

 駆け足で戻りながら、ナミは思う。

 

 ペルシアは、これを読んでどう返すだろう。

 たぶん、嫌そうな顔をする。

 でも、必要なことだとは分かるはずだ。

 

 そして、その次は――。

 

 たぶん、リュウジ本人だ。

 

 資料の外にあるものを、あの男自身の口から言わせなければならない。

 そこまでやって、ようやく“計画”になる。

 

 ナミは再び管制卓へ滑り込み、端末を叩いた。

 

 アルビオンの現場は待ってくれない。

 でも、その忙しさの奥で、もう一つ別の流れが確かに動き始めていた。

 

 魔のゾーンの先へ向かうかもしれない調査。

 サヴァイヴへ繋がるかもしれない、細い線。

 そして、その線を辿ろうとしている男の、本当の理由。

 

 ナミはモニターに映る数値を睨みながら、胸の奥で静かに決めた。

 

 ――次は、逃がさない。

 

 資料だけで済ませるつもりなら、甘い。

 あんたが何を抱えて、何を隠して、何を取り戻したいのか。

 

 そこまで、ちゃんと吐かせる。

 

 そういう種類の仕事が、もう一つ増えただけだと思えばいい。

 

 アルビオンの管制に、再びナミの声が飛ぶ。

 

「三番ライン、先に圧力均して! そのあと搬入路! 順番にやれば回るから、慌てない!」

 

 その声は、いつも通り鋭く、よく通った。

 

 だが、その奥では、リュウジが作った完璧すぎる資料の“外側”を見た人間の目が、もう次の手を考え始めていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 木星の宇宙管理局本部、統括官室。

 

 ペルシアは、端末の受信通知を見つけた瞬間、椅子の背にもたれていた身体を少しだけ起こした。

 

「来た」

 

 短く呟き、画面を開く。

 

 差出人はナミ。

 件名は素っ気ない。

 

 東部未探索領域外縁調査計画案/一次所見

 

「一次所見、ねぇ……」

 ペルシアは小さく鼻を鳴らした。

「ほんと、可愛げない」

 

 そう言いながらも、指先は迷わず本文を開いていく。

 

 統括官室の中は静かだった。

 壁際ではフレイが次の会議資料を揃えていて、別の端末ではローズから上がってきた運用報告が保留のまま光っている。未処理ボックスは相変わらず埋まっているし、今日中に切らなければならない判断もまだいくつもある。

 

 それでも今、ペルシアの視界は端末の中の文章だけを追っていた。

 

 ナミらしい文章だった。

 

 無駄がない。

 媚びがない。

 でも、必要なところだけはきちんと刺してくる。

 

 技術資料としての完成度は高い。観測段階への絞り込み、撤退条件、支援要求の整理ともに妥当。資料そのものには大きな瑕疵なし。

 

 そこまで読んで、ペルシアは小さく息を吐いた。

 

「やっぱり、そこは同じか」

 

 自分が感じたことと、ナミが感じたこと。

 最初の結論は一致している。

 

 問題は、その先だ。

 

 ペルシアはさらに読み進める。

 

 ただし、本資料は提出者の心理的動機を過度に切り落としており、技術的整合性に対して人的評価情報が不足している。提出者本人に、サヴァイヴおよび悲劇のフライトを踏まえた目的の再言語化を求めるべき。

 

 そこで、ペルシアの指がぴたりと止まった。

 

「……やっぱりナミに頼んで正解だった」

 

 その声は、少しだけ疲れていて、少しだけ安堵も混じっていた。

 

 フレイが資料から顔を上げる。

 

「ナミからですか」

 

「ええ」

 ペルシアは端末から目を離さずに答えた。

「やっぱりあの子に振って正解。資料の“中”は私も見れた。けど、“外”を言葉にしてくれたのはナミの方」

 

 フレイは机の端へ寄ってきた。

 

「何と?」

 

 ペルシアは、そのまま読み上げる。

 

「“技術的にはほぼ文句なし。正直むかつくくらい綺麗。でも、その分だけ、本音が見えない”」

 一拍置いて、くすっと笑った。

「まったく、ほんとに容赦ない」

 

「ですが、統括官も同じことを仰っていました」

 フレイが言う。

「資料は整っている。だが気持ちが見えない、と」

 

「そうなのよ」

 ペルシアは端末を机へ置いた。

「こっちは最初からそこに引っかかってた。でも、私が言うとどうしても感情論が混ざる。ナミが同じ場所をちゃんと拾ってくれたなら、これで“私だけがそう思ってる”ではなくなる」

 

 フレイは静かに頷いた。

 

 ペルシアはそのまま椅子へ深く座り直し、数秒だけ天井を見た。

 

 リュウジの資料。

 整いすぎている。

 危険を甘く見ていない。

 必要な線も引いている。

 でも、だからこそ不気味だった。

 

 あそこまで削って書いてくるのは、通したいからだ。

 通したいだけじゃなく、通すために“言わない方がいいこと”を自分で分かっているからだ。

 

 それが、腹立たしいくらいに分かる。

 

「統括官」

 フレイが言う。

「次はどうされますか」

 

 ペルシアは、そこで初めて目を閉じた。

 

 次。

 

 次に必要なのは、数字でも所見でもない。

 もう、そこは揃った。

 

 必要なのは――本人の口だ。

 

「……エリンに電話する」

 ペルシアが言った。

 

「エリンさんに、ですか」

 

「そう」

 ペルシアは短く答える。

「この件、あの子を外したまま進めるのは無理。無理っていうか、そんなことしたら後で絶対めんどくさい」

 

「それが理由ですか」

 フレイが淡々と聞く。

 

「半分はね」

 ペルシアは悪びれずに言う。

「でも半分は本気。エリンがどう思ってるか、今のうちにちゃんと聞いとかないと」

 

 そうしてペルシアは端末を取り上げ、エリンの連絡先を開いた。

 

 呼び出し音が一度。

 二度。

 三度目の前で、繋がる。

 

『……もしもし』

 エリンの声だった。

 少しだけ低い。

 仕事中の声だ。

 

「エリン?」

 ペルシアが言う。

「今、大丈夫?」

 

『大丈夫じゃないって言ったら切るの?』

 

「切らない」

 即答だった。

 

 電話の向こうで、エリンが小さくため息をつくのが聞こえた。

 

『そうでしょうね。それで、何』

 

「ナミから返ってきたわ」

 ペルシアが言う。

「リュウジの資料の件」

 

 少しだけ、間が空く。

 

『……そう』

 エリンの声が少しだけ硬くなる。

『何て?』

 

「技術的には文句なし」

 ペルシアは端的に言う。

「でも、整いすぎてて、本音が見えないって、資料そのものじゃなくて、資料の外側を出させるべきだってさ」

 

 電話の向こうで、エリンはすぐには答えなかった。

 

 ペルシアには分かる。

 たぶん今、エリンも同じところへ辿り着いている。

 

「それでね」

 ペルシアが続ける。

「私、今回の件――リュウジがちゃんと本音をぶつけてきたら、認めてあげようと思うの」

 

 言った瞬間、電話の向こうの空気が変わった。

 

 静かだった。

 でも、その静けさが一段重くなる。

 

『……認める?』

 エリンが低く聞き返す。

 

「そう」

 ペルシアは言う。

「もちろん、何でもかんでも“はいどうぞ”じゃないわよ。でも、今のあの子はまだ資料の中に隠れてる。観測だの撤退条件だの支援要求だの、全部ちゃんとしてる。でもそれって、通すための言葉でもある。私が欲しいのはそこじゃない。何でサヴァイヴじゃなきゃ駄目なのか。何を取り戻したいのか。そこを自分の口で吐いたら、その時はちゃんと認めてあげようって思ってる」

 

 電話の向こうで、エリンは沈黙した。

 

 その沈黙は、迷いではない。

 むしろ、何かを噛み締めている沈黙だった。

 

『……昨日』

 やがてエリンが言う。

『ハワードとメノリに会ったの』

 

「え?」

 ペルシアが少しだけ目を瞬く。

「何その組み合わせ」

 

『舞台を観に行ったのよ。ハワードが出ていたから、そこで、少し話を聞いた』

 

「ふぅん」

 ペルシアは椅子へ浅く座り直した。

「それで?」

 

『ハワードが言ってた』

 エリンの声は静かだった。

『リュウジは、サヴァイヴに自分の一部を置いてきているみたいなものだって、見つけたいっていうより、回収したいんじゃないかって』

 

 ペルシアは、そこで軽く目を閉じた。

 

「……同じようなこと、ベルも言いそう」

 

『ええ』

 エリンが続ける。

『メノリも、少し違う言い方だったけど似たようなことを言っていた。サヴァイヴは、ただの事故現場じゃない。あそこで、ようやく前を向けた部分がある。だからこそ、簡単には切れないんでしょうね』

 

「そう」

 ペルシアは低く言った。

「だから私は、本音を聞くべきだと思ってる。そこまで言葉に出来るなら、その時はもう、単なる衝動じゃないって認めるしかない」

 

 少しだけ強く言った、その直後だった。

 

『それでも私は認めない』

 

 エリンの声が、はっきりと落ちた。

 

 ペルシアは一瞬、言葉を失った。

 

「……エリン?」

 

『聞こえたでしょう』

 エリンが言う。

『ペルシアや皆んなが認めても、私は絶対に認めない』

 

 その声は強かった。

 怒鳴っているわけではない。

 泣いているわけでもない。

 でも、譲らない人間の芯が、そのまま声になっていた。

 

 ペルシアは、ゆっくりと息を吸った。

 

「理由、聞いていい?」

 

『簡単よ』

 エリンは即答した。

『生きて帰ってくる保証がないから』

 

「……」

 

『本音を言ったから何。サヴァイヴが大切だから何。悲劇のフライトの先にあの星があるから何』

 

 言葉が一つずつ、静かに落ちる。

 

『そんなもの、魔のゾーンを越えられる理由にはならない。気持ちが本物なら、危険が消えるの?。本音を吐いたら、帰還率が上がるの?違うでしょう』

 

 ペルシアは何も言えなかった。

 

 電話越しに、エリンの呼吸だけが聞こえる。

 少しだけ速い。

 でも崩れてはいない。

 

『私、分かるのよ』

 エリンが続ける。

『分かるから困ってる。サヴァイヴがどういう場所だったかも、あの人が何を置いてきたかも、何を取り戻したいのかも、たぶん想像はつく』

 

 その声が、わずかに震えた。

 

『でも、だからって“行ってきて”とは言えない、言えるわけがない。だって、もし帰ってこなかったらどうするの』

 

 ペルシアは、そこでようやく口を開いた。

 

「エリン」

 

『私ね』

 エリンは止まらなかった。

『皆んなが認めるなら、余計に認めない。ペルシアも、局長も、ナミも、ハワードも、ベルも、サヴァイヴを知ってる人間がみんな“気持ちは分かる”ってなるなら、だったら私は、その逆に立つ。あの人に“それでも駄目”って言う側に立つ』

 

「それじゃあ……」

 ペルシアが言いかける。

 

『分かってる』

 エリンがすぐに返した。

『嫌われ役よ。でも、誰かがやらなきゃ駄目でしょう。本音を聞いたら認める? そんな優しいこと、私は出来ない』

 

 統括官室の静けさが、少しずつ重くなっていく。

 

 フレイは遠くで仕事をしていたが、今はさすがにこちらを見ない。

 ペルシア一人に、この電話を預けている。

 

「……エリン」

 ペルシアは、少しだけ柔らかく言った。

「あなた、それ、自分が一番きつい立ち位置に立つって分かって言ってるでしょ」

 

『分かってる』

 

「本音を言わせて、それでも切る側になるってことよ?リュウジからすれば、一番残酷な壁になる」

 

『それでも』

 エリンは言った。

『それでも私がやる。だって、本音を言ったら認めてもらえるなんて思われたくないもの』

 

 ペルシアは眉を寄せた。

 

「それはどういう意味?」

 

『本音は免罪符じゃないってことよ』

 エリンが言う。

『苦しかった。辛かった。取り戻したい。全部分かる。でもそれで“じゃあ行っていいよ”にはならない。そんなふうにしてしまったら、あの人は余計に危ない。だって、“ちゃんと言えば分かってもらえる”って思うから』

 

 ペルシアは黙る。

 

 それは、たしかにエリンらしい見方だった。

 

 優しいくせに、甘やかさない。

 理解しているくせに、そこへ逃がさない。

 

 だからリュウジは、昔からエリンの言葉を正面から受けるのだ。

 ペルシアの軽口は流しても、エリンの“駄目”は、流せない。

 

『私、皆んなが認めても認めない』

 エリンがもう一度言う。

『絶対に。あの人が本音を言ったら、私はその本音ごと抱えて否定する』

 

「……重いわねぇ」

 ペルシアは、苦い笑いを漏らした。

 

『重いわよ』

 エリンは即答した。

『重いに決まってるでしょう』

 

「でも、嫌いじゃない」

 ペルシアが言う。

 

 電話の向こうで、エリンが少し黙った。

 

『何が』

 

「そういうとこ」

 ペルシアは端末を握り直した。

「甘くないくせに、逃げてもない。ほんと、エリンって感じ」

 

『褒められてる気がしない』

 

「半分は褒めてる」

 ペルシアは言った。

「半分は、呆れてる」

 

 ようやく、電話の向こうでエリンが小さく息を吐いたのが分かった。

 ほんの少しだけ、温度が戻る。

 

『でも』

 エリンが言う。

『ペルシアが言いたいことも分かる。本音を出させるべきだっていうのは、その通りだと思う。資料の中に隠れてるままじゃ駄目。あの人自身の口で言わせなきゃいけない』

 

「でしょ」

 ペルシアが言う。

「だからそこは一致してるのよ。私は“言わせた上で認める”あなたは“言わせた上で止める”立ち位置は違うけど、次にやることは同じ」

 

『……そうね』

 エリンが静かに言った。

 

 ペルシアはそこで、少しだけ笑う。

 

「安心した」

 

『何が』

 

「あなたがまだちゃんと怒ってて」

 ペルシアは言う。

「ちゃんと怖がってて、ちゃんと、あの子に帰ってきてほしいって思ってるのが分かって」

 

 エリンは、すぐには返さなかった。

 

 でも、その沈黙自体が答えだった。

 

『当たり前でしょう』

 ようやく返ってきた声は、少しだけ低かった。

『帰ってきてほしいに決まってる。だから認めないのよ』

 

「うん」

 ペルシアが頷く。

「そこは、もう疑ってない」

 

 統括官室の窓の外で、木星の光がゆっくり動く。

 電話の向こうでは、たぶんスペースホープのフロアがもう本格的に回り始めている頃だ。人の気配、端末の通知音、誰かの話し声が、微かに混じって聞こえる。

 

「じゃあ」

 ペルシアが言う。

「次は、本人ね」

 

『ええ』

 エリンが答える。

『逃がさない』

 

「私も」

 ペルシアは笑った。

「珍しく、そこは完全一致」

 

『嬉しくない一致ね』

 

「ほんとにね」

 

 電話を切ったあと、ペルシアはしばらく動かなかった。

 

 端末を机へ置き、背もたれへ身体を預ける。

 目を閉じると、エリンの声がまだ耳の奥に残っていた。

 

 皆んなが認めても、私は絶対に認めない。

 

「……強いなぁ」

 ペルシアがぽつりと呟く。

 

 フレイが、少しだけ顔を上げた。

 

「エリンさんですか」

 

「そう」

 ペルシアは苦笑する。

「本音を言わせるまでは一致。でも、その先は真逆。私は言わせたら認めるつもり、エリンは言わせても認めないつもり」

 

「らしいですね」

 フレイが淡々と返す。

 

「らしいわよね」

 ペルシアは言って、それから机の上の資料をもう一度見た。

「でも、たぶんそれでいいのよ。片方だけじゃ駄目。認める側も、止める側も、両方いないと」

 

 フレイは何も言わなかった。

 否定も、同意も、必要ないと思っている顔だった。

 

 ペルシアは指先で資料の端を叩く。

 

 次は、リュウジだ。

 

 ナミが資料の外側を見つけた。

 ベルがその意味を言葉にした。

 エリンは、その本音を聞いても止めると決めた。

 ペルシアは、そこまで来たら認めると決めた。

 

 もう、資料の中へ隠れる余地はない。

 

「……さあて」

 ペルシアが椅子から立ち上がる。

「逃げられないわよ、リュウジ」

 

 その声は軽かった。

 でも、その軽さの奥には、きちんと刃があった。

 

 統括官室の空気が、少しだけ引き締まる。

 

 次に開くのは、資料ではない。

 人間の口だ。

 

 そして、その口から出た本音は、ようやく許されるためではなく、ようやく裁かれるために、皆の前へ出されることになるのだった。

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