サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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嫌われ役

 

 翌日。

 

 木星の宇宙管理局本部は、朝から静かに回っていた。

 

 廊下を行き交う職員の足音。

 端末の通知音。

 会議室へ資料を運ぶフレイの規則正しい歩幅。

 窓の外に浮かぶ木星の縞模様は、昨日と同じなのに、今日の統括官室の空気は少しだけ違っていた。

 

 ペルシアは、朝一番で自分の机を整えたあと、端末を一つ開いて、そのまましばらく動かなかった。

 

 机の上には、リュウジが持ってきた資料。

 ナミから返ってきた所見。

 エリンとの通話記録。

 

 全部がそこにある。

 

 技術的には文句がない。

 でも本音が見えない。

 だから出させる。

 自分は、それが出てきたら認める。

 でもエリンは、それでも認めないと言った。

 

 昨日の電話のあとから、ペルシアの中で一つだけはっきりしたことがあった。

 

 もう次は、資料の話ではない。

 

 リュウジ本人の話だ。

 

「フレイ」

 ペルシアが顔を上げる。

 

「はい」

 フレイはすぐに反応した。

 

「リュウジ、来てる?」

 

「十分前に」

 フレイが淡々と答える。

「呼び出しに対して、妙に時間ぴったりですね」

 

「そういうとこだけ真面目なのよねぇ」

 ペルシアは小さく息を吐いた。

「通して」

 

 フレイが軽く会釈して外へ出る。

 

 統括官室に、一瞬だけ静けさが落ちる。

 

 ペルシアは椅子にもたれ、目を閉じた。

 

 自分は、何を聞くのか。

 

 それは決まっている。

 でも、どういう順番で引き出すかまでは、まだ決め切れていない。

 

 問い詰めたいわけじゃない。

 追い込んで吐かせたいわけでもない。

 ただ、隠れたままにさせたくない。

 

 リュウジが、何を取り戻したいのか。

 なぜそこまでサヴァイヴにこだわるのか。

 なぜ、魔のゾーンという場所に、もう一度足を向けようとするのか。

 

 そこを、自分の言葉で言わせなければならない。

 

 ノックの音がした。

 

「どうぞ」

 ペルシアが言う。

 

 扉が開き、リュウジが入ってくる。

 

「呼んだか」

 いつも通りの声だった。

 

「呼んだわよ」

 ペルシアは軽く顎を上げる。

「座って」

 

 リュウジは素直に従い、机の向かいの椅子へ腰を下ろした。

 背筋はまっすぐだ。

 表情も崩れていない。

 

 でも、昨日までと何かが違うのはペルシアにも分かった。

 

 資料を出して終わり、ではないと覚悟している顔だった。

 

「……で?」

 リュウジが先に言う。

「資料の件だろ」

 

「そう」

 ペルシアは頷いた。

「ナミにも見せた」

 

 リュウジの眉が、ほんの少しだけ動く。

 

「ナミに?」

 

「ええ」

 ペルシアは端末を指で叩いた。

「技術的には文句なしだって、綺麗に出来すぎてて腹立つくらいには、ね」

 

 リュウジは黙っている。

 

「でも」

 ペルシアが少しだけ身を乗り出す。

「気持ちが見えないって、何を考えて作ったのか、そこが抜けてるって」

 

 今度は、リュウジの沈黙が少しだけ重くなった。

 

 ペルシアは、その反応を見逃さない。

 

「図星?」

 

「……そうかもしれない」

 リュウジが低く答えた。

 

「でしょうね」

 ペルシアは背もたれに寄りかかる。

「だから今日は、資料の話じゃない。リュウジの話を聞く」

 

 リュウジは、少しだけ目を伏せた。

 

「どこまで話せばいい」

 

「全部」

 ペルシアは即答した。

「今さら、端折るの禁止。観測だの撤退条件だの支援要求だの、そういう通すための言葉じゃなくて、何でサヴァイヴじゃなきゃ駄目なのか。そこを聞く」

 

 リュウジは、すぐには答えなかった。

 

 統括官室の空気は静かだ。

 外の音は微かに聞こえる。

 でもこの部屋だけは、時間が少しだけ遅くなったみたいだった。

 

「……サヴァイヴが」

 ようやく、リュウジが口を開く。

「俺にとって、ただの遭難先じゃないからだ」

 

 ペルシアは黙って聞く。

 

「それは知ってるわ。でも、そこから先」

 

 リュウジは一度だけ息を吐いた。

 

「悲劇のフライトのあと」

 低い声だった。

「俺は、生きる事を諦めていたと思う」

 

 ペルシアの指先が、机の上で止まる。

 

「分かってたの?」

 と、思わず聞いた。

 

「自覚はあった」

 リュウジが言う。

「でも、どうすればいいか分からなかった。もう二度と宇宙船を操縦する事もないと思っていた。」

 

 その言葉は、静かすぎるくらい静かだった。

 

 叫ぶわけでもない。

 苦しそうに歪むわけでもない。

 でも、だからこそ、胸の奥の深いところから引いてきた言葉なのだと分かる。

 

「助けられなかった人間がいる」

 リュウジは続ける。

「俺がもっと早く動けていたら、もっと違う判断が出来ていたら、助かったかもしれない人間がいる。それがずっと残ってた」

 

 ペルシアは、何も言わない。

 

 ここで慰める言葉は、きっと邪魔だ。

 

「だから、何かあるとすぐ思った」

 リュウジの視線は、机の一点に落ちている。

「今度は遅れるなって、今度は間に合わなかったって思うなって、止まるなって」

 

 ペルシアの胸が、少しだけ痛む。

 

 それは、サヴァイヴへ墜ちたあとも、確かに見てきた顔だった。

 大丈夫そうな顔をして、誰より前へ出る。

 疲れていても止まらない。

 自分が見なければ、自分が拾わなければ、また誰かが落ちると思っているような動き方。

 

「でもサヴァイヴで」

 リュウジが少しだけ顔を上げた。

「それじゃ足りないって分かった」

 

 ペルシアは、そこで初めて少しだけ表情を動かした。

 

「一人じゃ無理だったから?」

 静かに問う。

 

「そうだ」

 リュウジは頷いた。

「無理だった。一人で全部見ようとしても無理だった。ルナも、チャコも、メノリも、シャアラも、カオルも、ハワードも、ベルも、皆いたから、あそこで生きられた」

 

 その名前が、一つずつ落ちる。

 

 修学旅行。

 事故。

 遭難。

 サヴァイヴ。

 

 あの星は、リュウジ一人の場所ではない。

 そのことを、今、本人の口がきちんと認めている。

 

「……うん」

 ペルシアが小さく頷く。

 

「あと」

 リュウジは一瞬だけ言葉を切った。

「サヴァイヴは、綺麗だった」

 

 ペルシアの目が、ほんの少しだけ見開く。

 

「綺麗?」

 

「危険だったし、過酷だったし、死にかけた」

 リュウジは言う。

「でも、それでも綺麗だった。空も、水も、風も全部が、綺麗だった」

 

 その“綺麗”には、ただ景色を褒める軽さはなかった。

 

 削られたあとに残った、本当に必要なものだけを見た人間の言葉だった。

 

「悲劇のフライトのあと」

 リュウジは続ける。

「俺は、自分が生きてることにも、あまり意味を見つけられなかった」

 

 ペルシアの指先が、わずかに震える。

 

「でもサヴァイヴで」

 リュウジが言う。

「生きること自体に、もう一回ちゃんと重さが戻った。怖いとか、腹が減るとか、誰かが笑うとか、疲れて眠るとか、そういう当たり前のことが、ちゃんと当たり前じゃなくなった。そして悲劇のフライトで犯した罪に対して自分を許す事を知った。」

 

 統括官室の空気は、静かすぎるほど静かだった。

 

「だから」

 リュウジは、少しだけ声を落とした。

「サヴァイヴを、なかったことみたいにしたくない」

 

 その一言で、ペルシアの喉が詰まる。

 

 言葉としては、ひどく短い。

 でも、その中に入っているものが多すぎた。

 

 悲劇のフライト。

 救えなかった人達。

 サヴァイヴで生きた日々。

 そこでようやく前を向けたこと。

 そして、その全部を“ただの過去”として埋めたくないという意地。

 

「見つけたいの?」

 ペルシアが、少しだけ掠れた声で聞く。

 

 リュウジは、少しだけ目を伏せてから答えた。

 

「見つけたい。でも、それだけじゃない」

 

「じゃあ、何」

 

「証拠が欲しい」

 リュウジは言った。

「俺があそこで、ちゃんと生きたってことの、何も救えなかっただけじゃなくて、あそこで守れたものもあったってことの、それを、もう一回ちゃんと手に取りたい」

 

 そこまで聞いた時だった。

 

 ペルシアは、自分の頬に何か熱いものが伝う感覚に気づいた。

 

「……え?」

 

 反射的に指で触れる。

 

 濡れていた。

 

 涙だった。

 

「ちょ、ちょっと待って」

 ペルシアが思わず言う。

「何で私、泣いてるのよ」

 

 リュウジが、そこで初めて少しだけ顔を上げた。

 驚いたように、でもどうしていいか分からないように、ペルシアを見る。

 

「……知らない」

 としか言えない。

 

「でしょうね!」

 ペルシアが少しだけ声を荒げる。

「こっちだって知らないわよ!」

 

 でも、その言葉の途中で、また涙が落ちた。

 

 自分でも気づかないうちに、胸の奥に溜まっていたものが、どうしようもなく動いてしまっていた。

 

 嫌だったのだ。

 怖かったのだ。

 腹も立っていた。

 でも同時に、リュウジがそこまで言葉に出来るようになったことが、痛いほど分かってしまった。

 

 ふざけて流せる話じゃない。

 勢いでもない。

 単なるロマンでもない。

 

 本当に、自分の人生の一部を拾いに行こうとしているのだ。

 

「……もう、やだ」

 ペルシアは涙を拭いながら笑った。

「そういうの、ずるいのよ、そんなの聞かされたら、否定しきれなくなるじゃない」

 

 リュウジは黙っている。

 

 ペルシアは数秒だけ目を閉じた。

 それから、ゆっくり開く。

 

「認めるわ」

 ペルシアが言った。

 

 リュウジの目が、はっきりと揺れる。

 

「……ペルシア」

 

「ただし」

 ペルシアはすぐに言葉を重ねる。

「全部が思い通りになると思わないこと、これは、あんた一人の夢じゃない、宇宙管理局を使う以上、組織の話になる。そこは勘違いしないで」

 

「ああ」

 リュウジは短く答える。

 

「それと」

 ペルシアは、涙を拭ったあと、少しだけ表情を引き締めた。

「エリンは、それでも認めないって言ってた」

 

 その瞬間、リュウジの表情がわずかに止まる。

 

「……そうか」

 

「そうよ」

 ペルシアは言う。

「本音を言っても、サヴァイヴの意味をちゃんと語っても、それでも認めないって、生きて帰ってくる保証がないから。皆んなが認めても、自分だけは絶対に認めないって」

 

 リュウジは何も言わなかった。

 

 その沈黙が、ペルシアには少しだけ痛かった。

 

「リュウジ」

 ペルシアが静かに言う。

「エリンを説得しなくても、未探索領域の調査は出来るわ。局長と私が動けば、進める形は作れる。でも――」

 少しだけ間を置く。

「エリンが認めないのに、行く?」

 

 その問いは、軽くはなかった。

 

 統括官としての問いでもある。

 でも、それだけじゃない。

 

 エリンは嫌われ役を引き受けるつもりでいる。

 怖いから、認めないと言っている。

 そのエリンを置いたまま、本当に行くのか。

 

 リュウジは、しばらく黙っていた。

 

 その沈黙の間、ペルシアは何も言わなかった。

 急かさない。

 ここで急かしたら意味がない。

 

 やがて、リュウジがゆっくりと口を開く。

 

「……行かない」

 

 ペルシアは目を細める。

 

「説得出来るまでは?」

 

「ちゃんと話をする」

 リュウジは言った。

「エリンさんに、今まで、資料で通そうとしてた部分も含めて、ちゃんと自分の口で話す」

 

 ペルシアは、その答えにしばらく何も返さなかった。

 

 そして、ふっと小さく笑う。

 

「うん」

 それだけ言う。

「そうしなさい」

 

 リュウジは静かに頷いた。

 

 ペルシアは、まだ少し濡れている目元を指先で押さえながら、椅子にもたれた。

 

「ほんと、面倒」

 呟く。

 

「悪かった」

 リュウジが言う。

 

「そういう意味じゃない」

 ペルシアはすぐに返す。

「面倒っていうのはね、重いってこと、大事だから面倒なの、軽かったら、とっくに蹴ってるわよ」

 

 リュウジは、その言葉に少しだけ目を伏せた。

 

「……そうか」

 

「そう」

 ペルシアは言う。

「だから、次はエリン、逃げるの禁止。資料の中に隠れるのも禁止。ちゃんと、自分で言いなさい」

 

「ああ」

 リュウジは答えた。

 

 ペルシアは、その返事を聞いて小さく息を吐いた。

 

 まだ終わっていない。

 何も決まっていない。

 認めたとはいえ、それで全部通るわけでもない。

 

 でも、確かに少しだけ進んだ。

 

 資料の外にいた本音が、ようやく言葉になった。

 そして、その言葉を持って、次はエリンの前に立たなければならない。

 

 それが一番厄介で、一番大事なことだと、二人とももう分かっていた。

 

 統括官室の窓の外で、木星の光が静かに揺れていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

それからしばらくの間、エリンの頭の中には、未探索領域の調査のことがずっと薄く居座り続けていた。

 

 完全に支配されているわけではない。

 仕事をしている間は、いつも通りに必要なことをこなせる。

 目の前の資料を読み、乗務員達の配置を確認し、運航の流れを整え、教育計画の修正点を拾い、必要な言葉を必要な相手へ渡すことも出来る。

 

 でも、ふとした瞬間に、頭の奥で別の思考が差し込んでくる。

 

 魔のゾーン。

 サヴァイヴ。

 リュウジの本音。

 ペルシアの「認める」という言葉。

 そして、自分はそれでも認めないと、はっきり言ったこと。

 

 言ったことに後悔はない。

 今も、その考えは変わっていない。

 

 気持ちが本物だとしても。

 サヴァイヴがどれだけ大切な場所だったとしても。

 悲劇のフライトの先に、あの星で救われた何かがあるとしても。

 

 それで、魔のゾーンを越えていい理由にはならない。

 

 そう思っている。

 

 なのに。

 

 なのに、思考はそこで終わらない。

 終わってくれない。

 

「……エリンさん」

 

 声を掛けられて、エリンははっと顔を上げた。

 

 客室訓練用のスペースだった。

 今日はスペースホープの乗務員達へ、イレギュラー発生時の客室内動線と判断の再確認を行っている最中だ。

 ミラ、ラン、シルヴィア、ユウコ、ナツキ、クミコ、マユ、サリー、ハズキ、ミドリ。

 シフトの都合で全員が揃っているわけではないが、今日は比較的多い。

 

 そして、さっきからエリンは明らかに二度、同じ指示を繰り返していた。

 

「あ……ごめんなさい」

 エリンは軽く首を振る。

「今のところ、もう一度言うわね」

 

「いえ」

 ミラがすぐに首を横へ振った。

「大丈夫です」

 

 大丈夫、という返事は自然だった。

 けれど、その声にはごくわずかな探るような色が混じっていた。

 

 ランも横で資料端末を持ったまま、さりげなくエリンの様子を見ている。

 シルヴィアに至っては、口には出さないものの、いつもより明らかに表情が固い。

 

 言わない。

 でも、感じている。

 

 エリンに余裕がないことを。

 

 本人には言えない。

 言える立場でもない。

 でも、客室の空気を扱う人間達だからこそ、そのほんのわずかなズレには敏感だった。

 

「じゃあ、もう一度」

 エリンが言う。

「乗客が二方向に同時に動いた時、先に制御するのは“数が多い方”じゃない。“崩れた時に広がる方”よ。人数だけで切らない。波及を見なさい」

 

「はい」

 ユウコが頷く。

 

「ナツキ」

 エリンが続ける。

「その場合、貴方なら最初にどこへ入る?」

 

 ナツキは一瞬だけ考え、すぐに答えた。

 

「広がる側の先頭へ入ります。完全に止めるんじゃなくて、流れを削る感じで、後ろに声の通る人を置いて、そこで一度、足を止めさせます」

 

「そう」

 エリンは頷く。

「全部を一人でやろうとしない。止める人、受ける人、流れを変える人。三つに分けて考えること」

 

 そこまでは、いつも通りだった。

 

 だがその直後、エリンは一瞬だけ言葉を切った。

 分ける。

 一人でやらない。

 そこから、頭の中に別の場面が差し込む。

 

 サヴァイヴ。

 リュウジ。

 “あそこで初めて、一人じゃ足りないと知った”。

 

 思考が、一瞬だけ訓練から外れる。

 

「……エリンさん?」

 今度はランが声を掛けた。

 

 柔らかいが、少しだけ慎重な声だった。

 

「ああ、ごめんなさい」

 エリンはすぐに表情を戻す。

「続けるわ。今のは大事だから、ちゃんと覚えておいて、一人で全部やろうとした時点で、客室は崩れる」

 

 その一言が、妙に自分の胸へ刺さった。

 

 ユウコが資料へメモを取りながら、ちらりとミラを見る。

 ミラも小さく目を伏せる。

 何も言わない。

 でも、皆、分かっている。

 

 今日はエリンが少し違う。

 集中が切れているわけではない。

 ただ、どこか上の空だ。

 

 そして、その理由も、たぶん一つしかない。

 

 リュウジだ。

 

 

 訓練が終わったあと、ミラとランとシルヴィアは資料を片づけながら、小さく息を吐いた。

 

「……やっぱり、ちょっと違ったよね」

 ミラが、周囲に聞こえない程度の声で言う。

 

「うん」

 ランも頷く。

「エリンさん、ずっと頭の中で別のこと考えてる感じだった」

 

 シルヴィアは、少しだけ迷ったあと口を開いた。

 

「たぶん……リュウジさんの件、ですよね」

 

 ミラとランが視線を向ける。

 

「私達が言うことじゃないって分かってるけど」

 シルヴィアは小さく続けた。

「でも、やっぱり心配になります。エリンさん、ちゃんと立ってるのに、余裕がない時って、逆に見てる方が怖いです」

 

 その言い方は、シルヴィアらしかった。

 

 大げさにはしない。

 でも、感じたことはちゃんと言葉にする。

 

「分かる」

 ランが静かに言う。

「崩れてるわけじゃないんだよね。崩れてないから余計に、気づきにくい」

 

「でも本人には言えない」

 ミラが苦笑する。

「そんなの、絶対言えない」

 

「ですよね……」

 シルヴィアが頷く。

 

 そこへ、少し離れたところからユウコが近寄ってきた。

 

「言えないけど、感じてるのはみんな同じですね」

 小声で言う。

 

「ユウコ、聞いてたの?」

 ミラが少し呆れたように言う。

 

「たまたまです」

 ユウコは言うが、たぶん半分は嘘だ。

 

「でも」

 ユウコが少しだけ真面目な顔になる。

「エリンさん、ああいう時、自分で自分を休ませないでしょ。だから、せめて周りはいつも通りでいた方がいいのかなって」

 

 ランが、その言葉にわずかに目を細めた。

 

「……そうだね」

「変に気を遣いすぎる方が、逆に空気が崩れる」

 

「うん」

 ミラが頷く。

「私達は私達の役割をちゃんとやる。それで、エリンさんが戻って来られる場所を普通に保つ。今はたぶん、それが一番いい」

 

 シルヴィアも、静かに頷いた。

 

「はい。そうします」

 

 そのやり取りを、少し離れた位置にいたナツキとミドリも聞いていた。

 何も言わない。

 けれど、それぞれが同じようなことを考えていた。

 

 エリンは今、揺れている。

 だからこそ、客室側は余計に基準を落とせない。

 

 リュウジが言うところの“怖さを知る”とは、たぶんこういうことでもあるのだろう。

 表に出ない揺れを感じた時、自分が崩れずに立つこと。

 

 

 日が落ちる頃には、オフィスの人影はかなり減っていた。

 

 スペースホープの事務所フロアは、昼間の賑わいが嘘みたいに静かになっている。

 照明は必要な区画だけが点いていて、空調の低い音と、たまに端末の通知音が響くくらいだ。

 

 エリンは、その静けさの中で一人残っていた。

 

 机の上には、今日中に確認しておきたかった資料がいくつも積まれている。

 乗務員訓練の修正案。

 定期便の客室構成。

 新人のチェックリスト。

 クルーズ社長宛の定期報告の下書き。

 

 いつもなら、こういう“静かな残業”は嫌いではない。

 誰にも邪魔されずに考えを整えられる時間は、エリンにとって必要でもある。

 

 でも今日は、どれだけ資料を読んでも、思考の奥に一つの影が居座っていた。

 

 ――リュウジは、ちゃんと話をすると言った。

 

 ペルシアからそう聞いたあと、エリンはそれ以上何も追っていない。

 追わないようにしている。

 聞けば、たぶん待ってしまうからだ。

 

 あの人が何を言いに来るのか。

 どこまで言葉に出来るのか。

 それを聞いてしまったら、自分の中の何かが揺れるのが分かっている。

 

 だから、仕事をしていた。

 目の前の文字を追い、数字を整理し、客室のことを考える。

 そうやって、“まだ来ていない会話”から目を逸らしていた。

 

 気がつけば、端末の時刻表示はかなり遅くなっていた。

 

「……帰らないと」

 

 エリンは小さく息を吐き、端末を閉じた。

 

 肩が少し重い。

 疲れているのだろう。

 気づかないふりをしていただけで、頭も体も今日はかなり使っている。

 

 机の上を軽く整え、必要なものだけをバッグへ入れる。

 オフィスの灯りを必要最低限に切り替え、最後にフロア全体を見回す。

 

 誰もいない。

 静かだ。

 

 それを確認してから、エリンは事務所を出た。

 

 

 夜の火星圏は、昼とは違う静けさがある。

 

 スペースホープの事務所が入っている区画を出ると、通路の先には大きな窓があり、向こうに木星の縞模様が見える。人通りは昼よりずっと少なく、遠くの店舗から漏れてくる明かりだけが温度を持っている。

 

 エリンは、少しだけ肩を回しながら歩いた。

 

 帰ったら、今日は早く休もう。

 そう思っていた。

 

 でも。

 

 ふと、足を止める。

 

 気配がした。

 

 この距離、この間合い。

 完全に背後を取ろうとしているわけではない。

 隠れているつもりも薄い。

 でも、こちらが気づくまで待っていた気配。

 

 エリンは前を向いたまま、小さく息を吐いた。

 

「……前にも同じようなことがあったわね」

 

 その声に、気配が少しだけ動く。

 

「ええ」

 すぐ後ろから、落ち着いた声が返ってきた。

「またご飯にでも行きませんか?」

 

 エリンは、そこでようやく振り向いた。

 

 リュウジがいた。

 

 壁際の薄い影の中に立っている。

 私服姿。

 大きく構えているわけでもないのに、妙に存在感がある。

 

「ほんとに貴方、こういう出方好きね」

 エリンが呆れたように言う。

 

「好きでやってるわけじゃありません」

 リュウジが言う。

 

「じゃあ何、待ち伏せ?」

 

「その言い方はやめてください」

 リュウジが少しだけ眉を寄せる。

「ちゃんと出てくるまで待っていただけです」

 

「それを待ち伏せって言うのよ」

 

 エリンはそう言ったが、完全に怒っているわけではなかった。

 少しだけ疲れていて、少しだけ呆れていて、そして少しだけ――安堵していた。

 

 来たのだ、と思った。

 ちゃんと話すと言っていた、その“ちゃんと”を持って。

 

「……今から?」

 エリンが聞く。

 

「遅いですか」

 リュウジが聞き返す。

 

「遅いわよ」

 エリンは即答する。

「でも、帰るだけだったから構わない」

 

 リュウジは、その返事にほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

「じゃあ、近くで」

 

「ええ」

 エリンは頷く。

「歩きながら決めましょう」

 

 

二人が入ったのは、火星圏の居住区側にある小さな食堂だった。

 

 深夜まで開いている、定食と軽食と酒がある店。洒落た店ではないけれど、その分だけ落ち着く。遅い時間でも数組の客が静かに食事をしていて、店の奥に少し照明の落ちた二人席があった。

 

「ここでいい?」

 エリンが聞く。

 

「構いません」

 リュウジが答える。

 

 向かい合って座る。

 エリンは温かいスープと軽い食事。

 リュウジは、相変わらずこんな時間でも普通に定食を頼んだ。

 

「ちゃんとお腹空いてるのね」

 

「身体を動かしていたので」

 リュウジは答える。

 

「そう」

 エリンは小さく笑う。

「貴方らしいわ」

 

 料理が来るまでの間、二人の間には少しだけ沈黙が落ちた。

 

 重たい。

 でも、逃げるための沈黙じゃない。

 

「……で?」

 エリンが先に言う。

「今日は、ちゃんと話すために来たんでしょう?」

 

「はい」

 リュウジが頷く。

 

「資料の中じゃなくて?」

 

「はい」

 その返答にも迷いはない。

 

 ちょうどその時、料理が運ばれてきた。

 スープ。

 定食。

 湯気。

 短い中断。

 

 でも、その数十秒が逆に、二人の呼吸を整えた。

 

 エリンはスプーンを持ったが、すぐには口をつけずに言った。

 

「聞くわ。何を考えてるのか」

 

 リュウジは、目の前の湯気を少しだけ見てから口を開いた。

 

「悲劇のフライトのあと」

 低い声だった。

「俺は、自分一人で罪を背負っていました」

 

 エリンは、何も言わずに見つめる。

 

「ナッシュが機長でした」

 リュウジは続ける。

「でも、最後に操縦桿を握っていたのは俺でした。だから、俺が殺したと考えていました」

 

 エリンの指先が、テーブルの下で強く握られる。

 

「ドルトムントは、あの件の罪を全部俺に被せました」

 リュウジは言う。

「でも、俺は何も言えなかった。反論する気にもなれませんでした。エリンさんも知っていますが、最後に操縦桿を握っていたのが俺だったから」

 

 エリンは、息を整えるようにゆっくり吸う。

 

 想像していなかったわけではない。

 でも、本人の口から聞くと重さが違う。

 

「俺は」

 リュウジの声は静かだった。

「本当は、あの時に死ぬはずだったと思っていました。生き残ったこと自体が罪だと思っていました。死ぬことさえ、許されないと思っていました」

 

 その言葉は、エリンの胸の奥へそのまま落ちた。

 

 そうだろう。

 この人はそういうふうに背負う。

 知っていた。

 でも、知っていたことと、目の前で聞くことはまるで違う。

 

「生きる意味もないと思っていました」

 リュウジは続ける。

「でも、それ以上はありませんでした。自分が生きていていい理由を、自分で作るつもりはなかった」

 

 エリンは、思わずスプーンを置いた。

 

 店の音が、少し遠くなる。

 

「何か起きると」

 リュウジは言う。

「今度こそ遅れるなと思っていました。今度こそ間に合わなかったと思うなと。だから、止まれなかった。止まったら、また同じことになる気がして」

 

「……うん」

 エリンは小さく頷く。

「そうでしょうね」

 

「サヴァイヴに落ちた時も」

 リュウジは言う。

「最初は同じでした。俺が先に動かなきゃいけないと思っていました。俺が見なきゃいけないと思っていました。でも、サヴァイヴで」

 少しだけ、声が落ちる。

「違う言葉をもらいました」

 

 エリンの眉がわずかに動く。

 

「違う言葉?」

 

「はい」

 リュウジは頷く。

「俺は、悲劇のフライトの加害者だと思っていた。でも、そうじゃなくて、俺も、あの悲劇のフライトの被害者の一人だと。一人で全てを背負う必要はないと、言ってくれる人がいました」

 

 エリンは、そこで一瞬だけ視線を落とした。

 

 あまりにも、その言葉が重い。

 

 この人はたぶん、ずっとそういう言葉を受け取ることすら、自分には許されないと思っていたのだろう。

 救われることすら、裏切りのように感じていたのだろう。

 

「最初は受け入れられませんでした」

 リュウジは言う。

「そんなことを言われても、変わるわけがないと思っていました。でも、サヴァイヴで、生きるために動いて、ルナも、チャコも、メノリも、シャアラも、カオルも、ハワードも、ベルもいて、皆で繋いで、生きて、その中で少しずつ」

 言葉を選ぶ。

「俺は、全部を一人で背負わなくていいのかもしれないと思うようになりました」

 

 エリンは、じっと聞いていた。

 

「サヴァイヴは」

 リュウジが静かに言う。

「俺が、俺を許した場所なんです」

 

 その言葉が落ちた瞬間、エリンの中で何かが揺れた。

 

 店の中の空気が遠くなる。

 湯気。

 食器の触れる音。

 隣の席の会話。

 

 全部が膜の向こうへ行ったようだった。

 

 リュウジは、まっすぐエリンを見ていた。

 

「だから」

 続ける。

「サヴァイヴを、なかったことにしたくないんです。俺があそこで生きて、あそこでようやく自分を許したことを、ただの過去で終わらせたくない」

 

 エリンは、そこでようやく口を開いた。

 

「……だから?」

 

 リュウジの目が止まる。

 

「え?」

 

「だから?」

 エリンはもう一度言った。

「それが何?サヴァイヴが貴方にとってそういう場所だったから、何?」

 

 自分でも分かる。

 声が強くなっている。

 珍しく感情が前に出ている。

 

 でも、止まらなかった。

 

「それで、生きて帰って来れる確証にはならないでしょう?」

 エリンが言う。

「サヴァイヴで自分を許した? だから?悲劇のフライトで背負っていたものが少し軽くなった? だから何?そんなもの、魔のゾーンを越えられる理由にはならないわよ!」

 

 リュウジは何も言わない。

 ただ、じっと聞いている。

 

 そのことが、余計にエリンを止まれなくした。

 

「本音が本物なのは分かる!」

 エリンの声が少し上がる。

「苦しかったことも、背負っていたことも、サヴァイヴがどれだけ大切かも、分かる!でも、それで危険が消えるの?それで帰還率が上がるの?違うでしょう!」

 

 店の空気が一瞬だけ揺れた気がした。

 でも、今のエリンにはそれを気にする余裕がなかった。

 

「本音だから何なのよ!」

 エリンは、珍しく本気で感情を露わにしていた。

「本物の気持ちだからって、行っていい理由になるわけじゃない!それがどれだけ大事でも、死なない保証にはならないのよ!」

 

 リュウジは、少しだけ目を伏せた。

 

「……はい」

 静かに答える。

 

「はい、じゃないのよ!」

 エリンは強く言った。

「私は、貴方の本音を聞いた上で言ってるの!それでも認めない!絶対に認めない!」

 

 沈黙。

 

 重い沈黙だった。

 でも、もう逃げる場所のない沈黙だった。

 

 やがて、リュウジが低く口を開く。

 

「……それでも、話してよかったと思っています」

 

 エリンは眉を寄せた。

 

「何で」

 

「隠したまま行くのは違うと思ったからです」

 リュウジは言う。

「認めてもらうために話したわけではありません。でも、俺が何を抱えていて、何でそこへ行きたいのかは、エリンさんには知っていてほしかった」

 

 エリンは、数秒だけ何も言えなかった。

 

 困る。

 こういう言い方は、本当に困る。

 

「……私は」

 エリンがゆっくり言う。

「それでも認めないわ」

 

「はい」

 リュウジは頷く。

 

「サヴァイヴがどれだけ大事でも。貴方がそこで自分を許したとしても、それは、魔のゾーンを越えていい理由にはならない。そこは変わらない」

 

「分かっています」

 

「本当に?」

 エリンが少しだけ目を細める。

 

「はい」

 リュウジは答える。

「だから、止めるならエリンさんに止めてほしいと思いました」

 

 エリンは、その言葉に一瞬だけ固まった。

 

「……何よ、それ」

 

「俺が本当に駄目な方へ行くなら」

 リュウジは言う。

「たぶん、エリンさんの言葉が一番効くからです」

 

 エリンは、そこでぎゅっと唇を結んだ。

 

 ずるい。

 そう思う。

 

 こんな本音を話したあとで、さらにそんなことまで言うなんて反則だ。

 

「ほんとに、ずるいわね」

 エリンは低く言う。

 

「すみません」

 リュウジが答える。

 

「謝ればいいって話じゃないのよ」

 

 でも、その声はさっきより少し弱くなっていた。

 

 エリンはスープを一口飲んだ。

 温かい。

 でも、喉を通る感覚は少し遠い。

 

「……ただ」

 エリンはゆっくり言う。

「話してくれてよかったとは思う。資料の中に隠れたままじゃなくて、そこは、良かった」

 

 リュウジは小さく頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

「でも、それと認めるかは別よ」

 エリンはすぐに言い添える。

「勘違いしないで」

 

「はい」

 

 そのやり取りのあと、エリンはそれ以上、もう店の中にいられなかった。

 

 胸の中にあるものが、うまく整えられなかったからだ。

 怒りなのか、恐怖なのか、哀しみなのか、全部が一緒になっていて、これ以上ここに座っていたら、きっとまともに顔を見ていられなくなる。

 

 エリンは勢いよく立ち上がった。

 

「エリンさん?」

 リュウジが少し驚いたように見る。

 

「もう無理」

 エリンはバッグを掴んだ。

「今日は、ここまで」

 

 そう言って、会計伝票を取ろうとする。

 

「俺が払います」

 リュウジがすぐに言う。

 

「そうして」

 エリンは即答した。

「今日はそれくらいしなさい」

 

 その言葉を最後に、エリンは本当に店を飛び出すように外へ出た。

 

 夜の通路へ出た瞬間、冷たい空気が頬に当たる。

 呼吸が乱れているのが、自分でも分かった。

 

「……っ」

 

 足を止める。

 でも、振り返らない。

 

 リュウジの本音を聞いた。

 悲劇のフライトで何を背負っていたのか。

 どれだけ生きる意味を失っていたのか。

 サヴァイヴでようやく、自分を許すことにしたのか。

 

 全部、聞いた。

 

 それでも。

 

「それでも、駄目なのよ……」

 

 エリンは、夜の火星圏の通路の中で、ほとんど自分に言い聞かせるみたいにそう呟いた。

 

 胸が痛い。

 でも、答えは変わらない。

 

 気持ちは分かる。

 それでも認めない。

 

 エリンは、そのままリュウジを待たずに歩き出した。

 

 夜の通路を、少し早い足取りで。

 まるで、今聞いた本音に追いつかれないようにするみたいに。

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