サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

198 / 198
信頼

 

エリンと別れたあと、リュウジはしばらく夜の通路を一人で歩いていた。

 

 火星圏の窓の外には、巨大な縞模様を抱えた火星が静かに浮かんでいる。通路の灯りは一定で、時間だけが淡々と進んでいるみたいだった。

 

 エリンは、最後まで認めなかった。

 

 サヴァイヴがどれだけ大切な場所でも。

 そこで自分を許すことにしたのだとしても。

 それで魔のゾーンを越えていい理由にはならない、と。

 

 その言葉は、予想していなかったわけじゃない。

 むしろ、そう言われるだろうとは思っていた。

 

 でも。

 

 あそこまで感情を露わにして、強く拒まれるとは思っていなかった。

 

「……」

 

 リュウジは立ち止まり、壁際へ寄る。

 今日の会話を頭の中で繰り返そうとして、途中でやめた。

 

 繰り返さなくても、もう十分に残っている。

 

 ――だから?

 ――それで、生きて帰って来れる確証にはならないでしょう?

 

 その言葉は、思っていた以上に深く刺さっていた。

 

 端末が震えたのは、その時だった。

 

 表示された名前を見て、リュウジは少しだけ目を細める。

 

 ペルシア。

 

 少し間を置いてから、通話を開いた。

 

「……もしもし」

 

『もしもし、リュウジ?』

 ペルシアの声は、いつも通り軽かった。

『ちゃんと話をした?』

 

「した」

 

『で?』

 

 その一言が、妙にペルシアらしい。

 遠回しに言わない。

 余計な慰めも挟まない。

 でも、聞くべきことは真っ直ぐ聞いてくる。

 

「話した」

 リュウジはもう一度言う。

「悲劇のフライトのことも、ドルトムントのことも、サヴァイヴで、自分を許すことにしたことも」

 

 電話の向こうが、少しだけ静かになる。

 

『……そこまで言ったの』

 

「ああ」

 

『ふぅん』

 ペルシアが小さく息を吐く。

『で、エリンは?』

 

 リュウジは少しだけ目を伏せた。

 

「認めなかった」

 

『まあ、そこはそうでしょうね』

 ペルシアは即答した。

『でも、どんなふうに?』

 

 リュウジは、少しだけ言葉を探した。

 

「……珍しく、かなり感情的だった」

 

『え?』

 今度は、ペルシアの方が本気で驚いた声を出した。

『エリンが?』

 

「ああ」

 

『あのエリンが?』

 ペルシアはもう一度聞き返す。

『静かに切るんじゃなくて?』

 

「違った」

 リュウジは答える。

「“だから?”と“それで、生きて帰って来れる確証にはならないでしょう”と、かなり強く言われた」

 

 電話の向こうで、数秒の沈黙が落ちた。

 

 それから、ペルシアが少し低い声で言う。

 

『……へぇ、それは』

 一拍置く。

『珍しいわね』

 

「ああ」

 

『相当ね』

 ペルシアは続ける。

『エリンって、感情が動いてる時ほど逆に静かになるでしょう。それがそこまで出たってことは、本当に相当だわ』

 

 リュウジは、何も言わなかった。

 

 自分でも、それは分かっていた。

 

 エリンは、普段あんなふうに言葉をぶつける人ではない。

 冷静に整理して、必要なところだけを切る。

 感情的に拒絶するより、ずっと静かに、でも逃げ場のない形で“駄目”を言う人だ。

 

 それが、あそこまで感情を前へ出していた。

 

『で』

 ペルシアが改めて言う。

『どうするの?』

 

 リュウジは壁へ背を預けたまま、少しだけ上を向く。

 

 火星圏の人工照明は均一で、どこまで行っても同じ色をしていた。

 

「……しばらく、時間を置く」

 リュウジが言う。

 

『時間を置く』

 

「ああ、今日のまま、すぐにまた話しても、多分駄目だから、エリンさんも、俺も、少し時間を置いた方がいいと思った」

 

 ペルシアは、しばらく何も言わなかった。

 

 だが、その沈黙は否定ではなかった。

 考えている沈黙だ。

 

『そうね』

 やがて、ペルシアが静かに言う。

『それは正しいかも、今日のエリン、たぶんかなり揺れたでしょうし、あんたも、あそこまで話したなら、それなりに削れたでしょ』

 

「……そうかもしれない」

 

 リュウジは正直に答えた。

 

 資料の中へ隠れていた言葉を、今日はちゃんと外へ出した。

 “本当はあの時に死ぬはずだった”と思っていたことも。

 “生き残ったこと自体が罪だと思っていた”ことも。

 サヴァイヴで、“一人で全部を背負う必要はない”と言ってくれる人がいて、ようやく自分を許す方向へ動けたことも。

 

 言ってしまえば少しは楽になるのかと思っていた。

 でも実際には、楽になるというより、剥き出しになった感覚に近い。

 

『ねえ、リュウジ』

 ペルシアが少しだけ声を柔らかくする。

『悲劇のフライトって、あんたにとってだけじゃなくて、エリンにとっても、相当大きかったのよ』

 

 リュウジは目を閉じたまま聞いていた。

 

『あんたが自分一人で罪を背負ってたのと同じように、エリンも、あの件のあと、ずっとあんたを見てきた。あんたがどこか壊れたまま飛んでたのも、止まれなくなってたのも、気づいてなかったわけがない』

 

 ペルシアの声は、今は軽くなかった。

 

 冗談めかすこともなく、ただ真っ直ぐに話している。

 

『だからね、きっとエリンは、あんたを失いたくないのよ』

 

 その一言に、リュウジの喉が少しだけ止まる。

 

『サヴァイヴがどれだけ大切でも、あんたがそこで自分を許したとしても、それで“じゃあ行っておいで”なんて言えないのは、理屈だけじゃない。怖いのよ。またあんたが帰ってこないかもしれないって思うのが』

 

 リュウジは、しばらく答えなかった。

 

 エリンの顔が浮かぶ。

 

 店の中で、珍しく感情を露わにしていた顔。

 “だから?”と返しながらも、怒りだけじゃなかった顔。

 怒っているのに、それだけじゃなかった。

 

「……ああ」

 ようやく、リュウジが低く答える。

「それは、分かる」

 

『なら、焦らないこと』

 ペルシアが言う。

『あの子がそこまで感情を出したなら、なおさら、今は押したら駄目。ちゃんと時間を置いて、ちゃんともう一回話しなさい』

 

「分かった」

 

『あと』

 ペルシアが少しだけ声色を戻す。

『だからって、勝手に一人でどっか行ったら、私が殺すからね』

 

 リュウジは、そこでほんの少しだけ目を細めた。

 

「物騒だな」

 

『当然よ』

 ペルシアが即答する。

『エリンに嫌われ役を全部やらせる気ないもの、私だって止める時は止める』

 

「分かってる」

 

『ほんとに?』

 

「うん」

 リュウジは、今度ははっきり答えた。

「ちゃんと時間を置く、それで、もう一度話す」

 

 通話の向こうで、ペルシアが小さく息を吐いたのが分かった。

 

『よろしい。それなら、今日はもう余計なこと考えないで寝なさい』

 

「努力する」

 

『そういう時だけ真面目な返事するの、なんか腹立つわね』

 

「悪い」

 

『謝らなくていい』

 ペルシアが少し笑う。

『でも、今日はそれでいい、ちゃんと話したなら、今日はもう十分』

 

 数秒の沈黙。

 

 それから、ペルシアが少しだけ低く言った。

 

『……リュウジ』

 

「ん?」

 

『サヴァイヴが、あんたにとって“自分を許した場所”だったのは分かった。でも、今ここで待ってる人間がいることも、ちゃんと忘れないで』

 

 リュウジは、目を閉じたまま小さく息を吐いた。

 

「分かってる」

 

『じゃあ、おやすみ』

 

「おやすみ」

 

 通話が切れる。

 

 リュウジは、そのまま端末を下ろさず、しばらく通路の中に立っていた。

 

 悲劇のフライト。

 サヴァイヴ。

 エリン。

 ペルシア。

 

 どれも、簡単に線を引けるものではなかった。

 でも今は、それでいいのだと思う。

 

 焦らない。

 押し切らない。

 時間を置いて、もう一度話す。

 

 それが今、自分に出来る最善だと、少なくとも今夜は思えた。

 

 リュウジはようやく壁から背を離し、ゆっくりと歩き出した。

 

 火星の光は、相変わらず遠くて大きかった。

 でも、その光の下で待っている人間がいるのだと、今夜はちゃんと分かっていた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

それから数日。

 

 エリンの中には、ずっと薄い霧のようなものが残っていた。

 

 リュウジに言った言葉は、間違っていない。

 サヴァイヴがどれほど大切な場所でも、あそこでようやく自分を許すことにしたのだとしても、それで魔のゾーンを越えていい理由にはならない。

 そう思っている。

 今も、その考え自体は変わっていない。

 

 ――それでも。

 

 胸の奥が、ずっと痛んでいた。

 

 リュウジの本音を聞いたせいだ。

 

 悲劇のフライトで、最後に操縦桿を握っていたのは自分だったこと。

 ナッシュが機長であっても、自分が殺したと思っていたこと。

 ドルトムントが全ての罪を押しつけても、反論する気にもなれなかったこと。

 生きる意味もなく、いつ死んでもいいとさえ思っていたこと。

 そんな人間が、サヴァイヴで初めて「一人で全部を背負う必要はない」と言われたこと。

 そして、あの星が“俺が俺を許した場所なんです”という言葉にまで繋がっていること。

 

 聞かなければ、もう少し簡単に突っぱねられたかもしれない。

 でも、聞いてしまった。

 

 知った上で、それでも認めない。

 

 その選択は、自分で思っていたよりずっと重かった。

 

 

「では、もう一度」

 

 スペースホープの訓練フロアに、エリンの声が響く。

 

「想定外対応が入った時、最初に見るのは“目立つ場所”じゃない。“崩れたら連鎖する場所”よ。派手な異変に引っ張られないで」

 

「はい」

 乗務員達の返事が揃う。

 

 訓練には、今日も多くの乗務員が参加していた。

 

 ミラ。

 ラン。

 シルヴィア。

 ホーネット。

 ユウコ。

 ナツキ。

 アズサ。

 クミコ。

 マユ。

 サリー。

 ハズキ。

 ミドリ。

 そしてその他の若い乗務員達。

 

 広めの訓練フロアには、模擬客室用の動線が仮設され、座席配置を簡易再現した区画、乗り入れ前の立ち位置確認用スペース、荷物棚を模したラック、簡易サービス台、緊急時の乗客誘導を想定した通路ブロックが置かれている。

 

 今日は、通常サービスの中に想定外対応を混ぜていく訓練だった。

 

 派手な事故対応ではない。

 むしろ、日常の延長にある小さな崩れ。

 乗客の不満、足の止まり、視線のズレ、言葉の遅れ。

 そういう“事故になる前の揺れ”を拾えるかどうか。

 

 エリンが一番重視している訓練の一つだ。

 

「ミラ」

 エリンが言う。

「今の場面、貴方なら先にどこへ入る?」

 

 ミラは一瞬だけ視線を動かし、すぐに答える。

 

「通路中央には入りません。先に、立ち止まったお客様の横へ入ります。後ろの流れを切るより、詰まりの原因になっている一点を動かした方が早いので」

 

「そう」

 エリンは頷く。

「理由まで含めて言えたのはいいわ」

 

「ありがとうございます」

 ミラが頭を下げる。

 

「ラン」

 エリンが続ける。

「その時、隣の区画で小さなクレームが出ていたら?」

 

 ランは、腕を組むでもなく、でも自然に姿勢を整えた。

 

「自分で両方は取りません。近い位置にいる乗務員へ目線と短い指示を飛ばします。“すぐ行きます”を先に作って、待たせる時間を可視化しないようにします」

 

「ええ」

 エリンは言う。

「自分が全部を抱え込まないこと、そこは大事よ」

 

 その一言を口にした瞬間、エリン自身の胸がわずかに痛んだ。

 

 全部を抱え込まないこと。

 

 今の自分が、一番出来ていないことかもしれない。

 

「シルヴィア」

 エリンが言う。

「貴方なら?」

 

「はい」

 シルヴィアは、背筋を伸ばしたまま答える。

「私はまず、待たせるお客様に対して“状況を把握している”と伝える言葉を先に置きます。その上で、動いている側の乗務員の補助へ入ります。場が静かに焦るのが、一番危険ですので」

 

 エリンは、その答えに少しだけ目を細めた。

 

「そうね。言葉で“見えている”を伝える。そこは以前より良くなってる」

 

「ありがとうございます」

 シルヴィアは少しだけ頬を赤くした。

 褒められるとまだ少し硬くなる。

 でも、以前よりはずっと自然に受け止められるようになっている。

 

 その後も訓練は続いた。

 

 ホーネットは相変わらず動き出しが速く、目の前の乗客役の表情を変えるのがうまい。

 ユウコは声の通りがよく、場の空気を掴む速度がある。

 ナツキは一歩引いた位置から全体を見るのが早い。

 アズサは最初の緊張が消えると一気に手数が増える。

 クミコは丁寧で、丁寧すぎるがゆえの遅れがまだ残る。

 マユとサリーは細かい気配りが出来る一方で、前へ出る判断で迷いが残る。

 ハズキは受けに回る時に強く、ミドリは場の流れを言語化するのがうまい。

 

 皆、少しずつ伸びている。

 確実に。

 ちゃんと。

 

 ――なのに。

 

 フロアの空気には、説明しにくい引っかかりがあった。

 

 エリンの指示は的確だ。

 切るところは切っている。

 褒めるところも、前よりは増えた。

 

 それでも、どこかがおかしい。

 

 本人には言えない。

 でも、口に出来ないまま、皆が同じ違和感を持っていた。

 

「……エリンさん」

 ユウコが一度だけ声を掛けたが、その先をすぐに呑み込んだ。

 

「何?」

 エリンが視線を向ける。

 

「いえ」

 ユウコは小さく笑った。

「なんでもないです」

 

 何でもないわけではない。

 でも、何と言っていいのか分からない。

 

 前より優しい。

 前より少しだけ柔らかい。

 なのに、それが逆に引っかかる。

 

 エリンさんらしくない、というわけでもない。

 でも、少しだけ何かがずれている。

 

 ナツキも、離れた位置で同じことを感じていた。

 ミラも。

 ランも。

 シルヴィアも。

 

 ただ、誰も口にしない。

 

 言ってしまえば、たぶん今の空気が本当に崩れるからだ。

 

「じゃあ次」

 エリンが言う。

「乗客役と乗務員役を入れ替える」

「今度は“対応する側”じゃなく、“見られる側”に立って」

「自分がどこで不安になるのか、ちゃんと拾いなさい」

 

「はい」

 

 返事は揃う。

 でも、その揃い方の奥に、微かな張りが残る。

 

 午後の訓練が半分を過ぎた頃には、疲労も重なって、皆の集中は少しずつ削れていた。

 いつもならエリンがそこを見て、わずかな言葉や順番の組み換えで立て直す。

 だが今日は、その“立て直し”が半拍遅い。

 

 遅いといっても、外から見れば大した差ではない。

 でも、現場を回す人間達には、それが分かる。

 

 ミラは、ランと視線を合わせた。

 ランもわずかに頷く。

 言わない。

 でも、分かっている。

 

 エリンさんは今、何かを抱えたまま立っている。

 

 

 夕方に差しかかる頃だった。

 

 訓練フロアの扉が開き、そこへ一人の女性が姿を見せた。

 

 白に近い淡い色合いの上品なスーツ。

 姿勢の正しさ。

 歩幅の正確さ。

 室内へ入ってきただけで、空気の温度がわずかに変わる。

 

「……サラ先生」

 ミラが小さく呟いた。

 

 サラだった。

 

 エトワール養成学校で長く教鞭を執ってきた人。

 エリンやペルシアにとっても、技術だけではなく“乗務員としての基準”そのものを叩き込んだ人物だ。

 

 その姿を見た瞬間、フロアの空気がぴんと締まる。

 

「皆さん、こんにちは」

 サラは穏やかな声で言った。

「近くで講演がありましたので、皆さんの様子を見に来ました」

 

 その言葉だけなら柔らかい。

 だが、柔らかいからといって甘い人ではないことを、この場の多くが知っている。

 

「サラ先生」

 エリンがすぐに姿勢を整える。

「お久しぶりです」

 

「ええ」

 サラが頷く。

「少し見ないうちに、随分とフロアらしい空気になりましたね」

 

 その言葉に、何人かの乗務員が少しだけ表情を明るくした。

 褒められたのかもしれないと思ったのだ。

 

 だが、サラはそこでふっと室内を見渡し、静かに続けた。

 

「皆さん、少し休憩にしましょう」

 

 フロアの空気が少し揺れる。

 

「エリン、構わないですね」

 

「は、はい」

 エリンはほんのわずかに反応が遅れたが、すぐに頷いた。

 

「ありがとうございます」

 サラはそう言って、手に持っていた紙袋を持ち上げる。

「甘い菓子を持ってきました」

 

 その一言で、ホーネットが少しだけ目を輝かせた。

 

「甘い菓子」

 小さく呟く。

 

「聞こえていますよ、ホーネット」

 サラが淡々と言う。

 

「ありがとうございます!」

 ホーネットは即座に姿勢を正した。

 

 ユウコが思わず吹き出しそうになり、隣のナツキに肘で軽くつつかれる。

 

 サラは紙袋から箱を二つ取り出し、ミラとランへ渡した。

 

「ミラさん、ランさん」

「皆さんへ配っていただけますか」

 

「はい」

 ミラが受け取る。

 

「分かりました」

 ランも頷いた。

 

 二人は箱を開け、中の個包装された焼き菓子を一つずつ配り始める。

 ほのかに甘い香りが広がる。

 張りつめていた空気が、少しだけゆるむ。

 

「え、可愛い」

 アズサが小さく言う。

 

「ほんと」

 マユも頷く。

 

「ありがとうございます」

 クミコが受け取りながら言う。

 

「サラ先生、優しい」

 サリーが小声で言うと、ハズキが「しー」と笑いながら肩をつついた。

 

 シルヴィアも丁寧に受け取り、

「ありがとうございます」

 と頭を下げた。

 

 一方でサラは、そのままエリンの方へ歩いていた。

 

 配る流れをミラとランに任せ、自分はまっすぐエリンの前に立つ。

 

「皆さんの動きが良くなりましたね」

 サラが言う。

 

「はい」

 エリンが答える。

 

「十分な実力を身につけていますね」

 

「はい」

 エリンは頷いた。

「まだまだ足りない所もありますが、着実に成長してくれています」

 

「足りない所?」

 サラが少しだけ考える素振りを見せる。

 

 その間の沈黙が、妙に鋭い。

 

「エリン」

 サラが言う。

「今後のフライトの編成表を見せてくれますか?」

 

「え?」

 エリンは一瞬だけ目を瞬かせた。

「構いませんが……」

 

 端末を差し出す。

 

 サラはそれを受け取り、すぐに画面を開いた。

 

 編成表が並ぶ。

 定期便。

 短期教育便。

 視察フライト。

 研修便。

 火星周回観測ステーション向けの便。

 

 サラは静かに目を配っていく。

 速くはない。

 でも、飛ばしもしない。

 

 エリンは、その横顔を見ながら、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなるのを感じていた。

 

 ミラとランは、菓子を配り終えたあとも、無意識にそちらへ意識を向けている。

 ユウコも、ナツキも、アズサも、クミコも。

 皆、表向きは休憩していても、空気は完全にそちらへ引かれていた。

 

 やがてサラは画面を閉じず、そのまま言った。

 

「エリン、私は、エトワール養成学校で教えてきた中で、エリンとペルシア以上の乗務員に出会った事がありません」

 

 フロアの空気が、一瞬だけ静かになる。

 

 それはあまりにも大きな評価だった。

 軽い気持ちで言う人ではないと、誰もが分かっているからだ。

 

 エリンはわずかに目を伏せた。

 

「……ありがとうございます」

 

「それに」

 サラは続ける。

「貴方はドルトムントでは、いきなり副パーサーだった。その下にはペルシアがいた…………なるほど」

 

「サラ先生?」

 エリンが少しだけ眉を寄せる。

 

 サラは、端末を持ったまま静かにエリンを見る。

 

「エリン。貴方、他の会社の乗務員を見た事がありますか?」

 

 エリンは一瞬だけ考え、首を振った。

 

「いえ、私はドルトムントの後は、ハワード財閥の旅行会社に移りました。そして、すぐにここに来ていますから」

 

「そうでしょうね」

 サラは頷く。

 

 それから、わずかに視線を動かし、フロアの向こうを見た。

 

「ミラさん、ランさん」

 静かに呼ぶ。

「それと、あの子」

 視線はシルヴィアに向く。

「シルヴィアさん」

 

「は、はいっ」

 シルヴィアが思わず大きな声を出す。

 

 サラは、その反応にも表情を変えない。

 

「他社のチーフパーサーと比べても、遜色はありません」

 

 今度こそ、フロア全体の空気が揺れた。

 

 ミラが目を見開き、ランもさすがに少しだけ表情を動かす。

 シルヴィアは、自分が呼ばれたこと自体にまだ追いついていない。

 

「え……」

 ミラが小さく漏らす。

 

「それは」

 ランも言葉を探しかける。

 

 サラは続けた。

 

「他の子たちも、副パーサーとして遜色がない子がいます。ユウコさん、ナツキさん、ホーネットさん。クミコさん、アズサさん、マユさん、サリーさん、ハズキさん、ミドリさん。もちろん、まだまだ粗いところはあります。けれど、“任せられない”という段階ではない」

 

 名を呼ばれた乗務員達が、思わず顔を見合わせる。

 

 ホーネットだけは、

「やった」

 と小さく呟いたが、ランにじろりと見られて口を閉じた。

 

 ユウコは驚いたように眉を上げ、ナツキは黙って息を吐く。

 クミコは両手で菓子を持ったまま固まり、アズサは目を丸くしたまま「えっ」と小さく声を漏らす。

 マユ、サリー、ハズキ、ミドリも、それぞれに戸惑いと嬉しさを抱えた顔になる。

 

 エリンは、その空気の中心で、少しだけ息を詰めた。

 

 サラは、そこで初めて端末を閉じた。

 

「それなのに」

 静かに言う。

「この編成表では、全てに貴方が入っていますね。何故ですか?」

 

 その問いは、柔らかい声で発せられた。

 でも、逃げ場はなかった。

 

「それは……」

 エリンが言葉を探す。

 

「この子達は、信頼できませんか?」

 サラが言う。

 

 その瞬間、フロアの空気が完全に止まった。

 

 誰も声を出さない。

 誰も、菓子の包みを開ける音すら立てない。

 

 あまりにも、まっすぐな問いだった。

 

「違います」

 エリンはすぐに言った。

「そういう意味ではありません」

 

「では、どういう意味ですか?」

 サラは一歩も引かない。

 

 エリンは、そこで初めて言葉に詰まった。

 

 信頼していないわけではない。

 そんなことはない。

 

 ミラは伸びた。

 ランも、シルヴィアも。

 ユウコも、ナツキも、ホーネットも。

 アズサも、クミコも、マユも、サリーも、ハズキも、ミドリも。

 皆、確実に力をつけている。

 

 それは、誰より自分が知っている。

 

 でも。

 

「……私が入った方が」

 エリンがようやく口を開く。

「確実だからです」

 

「確実」

 サラが繰り返す。

 

「まだ、不安定なところもあります」

 エリンは続ける。

「急な揺れや、想定外の流れに対して、完全に崩れずに立てるかと言われたら、まだ不安が残る子もいます。だから、私が入った方が」

 

「確実」

 サラがもう一度言う。

 

 その声の静けさに、エリンは少しだけ息を呑んだ。

 

「エリン」

 サラが言う。

「それは、“この子達の未熟さ”の話ですか?それとも、“貴方の不安”の話ですか?」

 

 フロアの奥で、ミラの指先が小さく動いた。

 ランも黙ってエリンを見ている。

 

 エリンは、答えられなかった。

 

 その問いは、あまりにも正確だったからだ。

 

 サラは、少しだけ声を落とした。

 

「信頼というのは、“何があっても大丈夫だと思うこと”ではありません。“この人はまだ未熟だが、ここまでなら任せられる”と線を引き、その線の中で預けることです」

 

 エリンは黙って聞く。

 

「貴方は、ずっと前を引いてきたのでしょう」

 サラが言う。

「ドルトムントでは、いきなり副パーサー。下にはペルシア、周囲は完成された人材ばかり、自分が落ちれば、全体へ響く環境にいた」

 

 エリンの眉がわずかに動く。

 

「そういう場所にいた人間ほど」

 サラは静かに続ける。

「“自分が入れば確実”を手放しにくい、でも、それは時に、“他人の成長を信じない”ことと同じ形になります」

 

 エリンの胸に、その言葉が重く落ちる。

 

 信じていないわけじゃない。

 なのに、外から見ればそう見える。

 そういうことなのだろう。

 

「……私は」

 エリンが低く言う。

「信頼していないわけではありません」

 

「ええ」

 サラは頷いた。

「それは分かります。むしろ、信頼したいのだと思います。でも、怖いのでしょう」

 

 その一言で、エリンははっと顔を上げた。

 

 怖い。

 

 その単語が、今の自分の中の何かにぴたりと重なった。

 

 サラは、エリンの目を静かに見返した。

 

「何が怖いのかは聞きません。ここで皆の前で話すことではありませんから。でも、怖さを抱えたまま“自分が全部入る”を続けると、この子達はいつまで経っても“預けられる側”のままです」

 

 ミラが、そこで小さく息を吐いた。

 ランも、わずかに視線を伏せる。

 

 痛いほど分かる。

 エリンは育ててくれた。

 守ってもくれた。

 でも、その守り方が今、少しだけ過剰になっているのだと、皆うすうす感じていた。

 

「……では」

 エリンが、少しだけ乾いた声で言う。

「私はどうすればいいんですか」

 

 サラは、そこで初めて少しだけ表情を柔らかくした。

 

「簡単です。信頼しなさい」

 

「……」

 

「信頼とは、丸投げではありません」

 サラは言う。

「任せる範囲を決める。失敗しても潰れない編成を作る。その上で、前に立たせる。戻ってきた時に、何が足りなかったかを言葉にする。それを繰り返すことです」

 

 そしてサラは、もう一度端末を開いて編成表を見せた。

 

「この便」

 指先で一つ示す。

「何故、ミラさんをチーフパーサーにしないのですか」

 

 ミラが目を見開く。

 

「え」

 

 エリンは一瞬だけ黙った。

 

「まだ、早いかと……」

 

「何がですか?」

 サラがすぐに問う。

 

「全体を見る視点はあります。声の通りもよく、落ち着きもある。足りないのは、“任された経験”でしょう。経験は、任せなければ増えません」

 

 次に、ランへ視線が移る。

 

「ランさんは、後方支援型のチーフパーサーになれます。全体を支える位置で非常に強い。表に立つだけがチーフパーサーではありません」

 

 ランは静かにその言葉を受け取る。

 目を伏せるでもなく、まっすぐに。

 

「シルヴィアさん」

 サラが言う。

「貴方は緊張が出やすいですが、それでも基準を落としませんね。それは大きな武器です。今のままでも十分に人を率いられます」

 

「……はい」

 シルヴィアは小さく、でもはっきり答えた。

 

 サラはそこで周囲の面々を見渡す。

 

「ユウコさん、声で空気を掴むのが上手い」

 

「はい」

 

「ナツキさん、一歩引いた位置から流れを読むのが早い」

 

「……ありがとうございます」

 

「ホーネットさん、前で場を変える力が強い。雑さはありますが、それは磨けば武器になります」

 

「やった」

 ホーネットが小さく言う。

 

「喜ぶのは後です」

 サラが静かに返す。

 

「はい」

 ホーネットはすぐに真顔になったが、口元は少しだけ緩んでいた。

 

「クミコさん、丁寧さを恐れず、しかし速度を上げなさい。アズサさん、自信を後から出すのではなく、最初の一歩から出しなさい。マユさん、サリーさん、ハズキさん、ミドリさん、貴方達は“目立つ強さ”ではなく、“崩れない強さ”を持っています。副パーサーに必要なのは、むしろそこです」

 

 一人ずつ、言葉が渡されていく。

 

 それは褒めるためだけの言葉ではない。

 立たせるための言葉だった。

 “出来る”と言い切って、逃げ道をなくすための言葉でもある。

 

 エリンは、その光景を見ていた。

 

 サラは、人を甘やかさない。

 でも、疑いもしない。

 出来る人間には、“出来る”と冷静に言い切る。

 

 それが、どれほど強い信頼かを、エリンは知っている。

 

「エリン」

 サラが、もう一度エリンへ向き直る。

 

「はい」

 

「貴方は、この子達を育てました。それは紛れもない事実です。そして今、この子達は、貴方が思うよりずっと育っています」

 

 エリンは、言葉を返せない。

 

「貴方がすべきことは」

 サラは静かに言う。

「全ての便に乗ることではありません。全ての便に自分を入れることでもない。この子達が、自分の足で立てる編成を作ることです。そして、戻ってきた時に受け止めることです」

 

 その言葉に、エリンの胸が強く打たれる。

 

 戻ってきた時に受け止めること。

 

 ――聞かない代わりに、いつでも帰って来られる場所を作る。

 そんなふうに思っていた時期が、確かにあった。

 

 今の自分は、いつの間にかそこから少しずれていたのかもしれない。

 

 守ることと、縛ることを、混同しかけていたのかもしれない。

 

「……先生」

 エリンが、ようやく絞り出すように言う。

「私は、少し……」

 言葉を選ぶ。

「怖がっていたのかもしれません」

 

 サラは、その答えに大きく反応しなかった。

 ただ、静かに頷く。

 

「でしょうね。人は、怖い時ほど自分で抱え込もうとします。でも、乗務員は一人で完成しません。チームで飛ぶ仕事です。だから、信頼しなさい」

 

 その“信頼しなさい”は、命令ではなく、でも逃げられない形で落ちてきた。

 

 エリンはしばらく黙っていた。

 それから、ゆっくりとフロアの面々を見る。

 

 ミラ。

 ラン。

 シルヴィア。

 ホーネット。

 ユウコ。

 ナツキ。

 アズサ。

 クミコ。

 マユ。

 サリー。

 ハズキ。

 ミドリ。

 その他の若い乗務員達も、皆こちらを見ている。

 

 不安そうでもない。

 ただ、待っている。

 

 エリンが何を言うのか。

 どう決めるのか。

 それを、ちゃんと見ている。

 

「……分かりました」

 エリンが言った。

 声は少し低かったが、揺れてはいない。

「編成、見直します」

 

 フロアの空気が、わずかに動いた。

 

「明日までに」

 エリンは続ける。

「チーフパーサー候補、副パーサー候補を振り分け直す。私が全部に入る形はやめる。その代わり、任せる範囲は明確にする。戻ってきた時に、何が足りなかったかは私が拾う――それで、進めるわ」

 

 ミラが、思わず目を瞬かせた。

 ランは静かに息を吐く。

 シルヴィアは胸の前で指先を握りしめる。

 ユウコが小さく笑いそうになり、ナツキがそれを横目で見る。

 ホーネットは、今度こそはっきりと嬉しそうな顔をした。

 

 サラは、その様子を一通り見て、ゆっくり頷いた。

 

「よろしい」

 それだけ言う。

 

 でも、その“よろしい”には十分すぎる重みがあった。

 

「では、休憩を終えましょう」

 サラが言う。

「次は、編成を変えたつもりで動いてみなさい。エリンは見なさい。皆が“自分で立つ瞬間”を」

 

「はい」

 エリンが答える。

 

 その返事は、少しだけ前より深かった。

 

 

 休憩後のフロアは、さっきまでとは少し違った。

 

 甘い菓子で気持ちがほぐれたからだけではない。

 言葉が落ちたからだ。

 

 自分達は、もう“任せられない側”ではない。

 ミラとランとシルヴィアは、他社のチーフパーサーと比べても遜色がない。

 他の子達にも、副パーサーとして遜色のない者がいる。

 

 その言葉が、静かに場の骨を変えた。

 

「じゃあ、次」

 エリンが言う。

「ミラ、前へ」

 

「……はい」

 ミラが出る。

 

「ラン、後方全体を見る」

 

「うん」

 ランが頷く。

 

「シルヴィア、中央導線。ホーネットは前方の乗客役を変える。ユウコとナツキは左右から補助。クミコ、アズサ、マユ、サリー、ハズキ、ミドリは後ろへ回って支えなさい」

 

 指示が落ちる。

 

 でも、前より少しだけ違う。

 “自分が入る前提”の指示ではなく、“自分が見ている前提”の指示だ。

 

 ミラが一歩前へ出る。

 ランが後ろへ滑り、シルヴィアが中央へ立つ。

 ホーネットはにっと笑い、乗客役の前へ出る。

 ユウコとナツキは左右へ散り、クミコ達も所定位置へ入る。

 

 サラは腕を組んで、何も言わない。

 エリンもまた、前へ出ない。

 

 初めてではない。

 でも、今日のこの立ち位置は、今までと少し意味が違っていた。

 

 任せる。

 見る。

 戻ってきたら受け止める。

 

 それが“信頼”なのだと、サラは言った。

 

 エリンは、静かに皆の動きを見つめる。

 

 怖さは、消えていない。

 完全には消えないだろう。

 

 でも、それでも。

 それでも、預けなければならない時がある。

 

 守るために。

 育てるために。

 そして、ちゃんと戻ってこられる現場を作るために。

 

 ミラが声を出した。

 

「お待たせしました。こちらでご案内します」

 

 その声は、確かに前より通っていた。

 

 ランの視線は後方全体を捉え、シルヴィアは中央で揺れを殺し、ホーネットは軽やかに空気を変え、ユウコとナツキがその流れを支える。後ろではクミコ達が、目立たない場所で崩れない土台を作っている。

 

 エリンは、その光景を見て、胸の奥で小さく思った。

 

 ――ああ、そうか。

 

 この子達は、もうここまで来ていたのだ。

 

 自分が思っていたより、ずっと。

 

 サラの言う通りだった。

 

 信頼とは、何があっても大丈夫だと思うことじゃない。

 ここまでなら任せられると線を引いて、その線の中で預けること。

 

 エリンは、その言葉を胸の中で繰り返しながら、静かにフロアを見続けた。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 休憩が終わったあとの訓練フロアは、さっきまでと空気が少し違っていた。

 

 甘い菓子の香りがまだ微かに残っている。

 けれど、それだけじゃない。

 

 サラが落とした言葉が、場の骨を変えたのだ。

 

 ミラとランとシルヴィアは、他社のチーフパーサーと比べても遜色がない。

 他の子達にも、副パーサーとして遜色のない者がいる。

 そして、エリンはこの子達を“全部自分が入る形”で持ち続けていた。

 

 それを、皆が聞いた。

 

 聞いてしまった以上、もう前と同じ空気には戻れない。

 

「じゃあ、次」

 エリンが言う。

「さっきと同じ配置はやめる。今度は、“私が入らない前提”で回す」

 

 その一言に、何人かの背筋が目に見えて伸びた。

 

 ミラが一歩前へ出る。

 ランは一度だけ目を伏せて、呼吸を整えてから顔を上げる。

 シルヴィアは緊張したままでも、手を膝の前で揃えず、ちゃんと前を見ていた。

 ユウコは口元に笑みを乗せながらも、目だけは真面目だ。

 ナツキは一歩引いた位置から全体を見渡し、ホーネットは「やるよ」とでも言いたげに軽く肩を回す。

 クミコ、アズサ、マユ、サリー、ハズキ、ミドリ、他の若い乗務員達も、それぞれに空気を変えていた。

 

「ミラ」

 エリンが言う。

「前方の空気を作るのは貴方。ランは後方全体。シルヴィアは中央導線。ユウコとナツキは繋ぎ。ホーネットは前方寄りの崩れを拾って、クミコ、アズサ、マユ、サリー、ハズキ、ミドリは後方の波を殺しなさい」

 

「はい」

 返事が揃う。

 

 それは、さっきより少し深い返事だった。

 

 エリンは自分が前へ出るのではなく、一歩引いた位置に立った。

 サラの言葉が胸の中にまだ残っている。

 

 信頼とは、何があっても大丈夫だと思うことじゃない。

 ここまでなら任せられると線を引き、その中で預けること。

 

 その“預ける”を、今の自分はやらなければいけない。

 

「始めて」

 エリンが言う。

 

 訓練が動き出す。

 

 前方ではミラが、少し低めの落ち着いた声で最初の流れを作る。

 通路へ立つ角度、目線の運び方、声の置き方。

 まだエリンほどの“何も起きていないのに場が整う”空気には届かない。

 でも、前よりずっといい。

 

 ランはその後ろで、目立たないまま全体を支えていた。

 乗客役の足がどこで止まりそうか。

 荷物棚役の位置で誰が詰まりそうか。

 視線の向きだけで周囲に小さく合図を送り、前へ出る人間が走りやすいように見えない道を作っていく。

 

 シルヴィアは中央で、少しだけ硬い。

 けれど、その硬さが今日は悪い方へ出ていなかった。

 言葉を雑にしない。

 確認を飛ばさない。

 緊張しているからこそ、基準を落とさない。

 

 ユウコはその隙間をうまく埋めた。

 明るく、でも軽すぎず、必要な時だけ声を通す。

 ナツキは一歩引いた位置から全体を読み、ユウコが前へ寄りすぎた瞬間に自然と横へ入る。

 

 ホーネットは、やはり前方で強い。

 乗客役の感情を変えるのが早い。

 まだ少し雑だが、その雑さが今日は“勢い”として機能していた。

 

 後方では、クミコが丁寧に足場を作り、アズサが一歩踏み込む勇気を少しだけ早く出し、マユとサリーが温度を置き、ハズキが抜けそうな場所を埋め、ミドリが崩れの前兆を見つけて小さく言葉にしていた。

 

 皆、確かに動けている。

 

 エリンは、それを一歩引いた位置から見ていた。

 

 前なら、ここで自分が入っていた。

 ミラの前方を少し整え、ランの補助へ小さな目線を送り、ユウコの声の置き方をほんの少し修正し、ホーネットの雑さを即座に削り、後方の詰まりを一手早くほどいていた。

 

 でも今日は違う。

 

 入らない。

 見て、拾って、終わったあとに返す。

 

 それが、こんなに落ち着かないとは思わなかった。

 

「……っ」

 エリンは、無意識に自分の指先が少しだけ強く握られていることに気づく。

 

 怖いのだ。

 崩れるのが。

 任せた結果、想定以上にずれるのが。

 そして、それを見ているしかない自分が。

 

 でも。

 

 前方でミラが一度だけ間を置き、その瞬間にランが後ろの流れを吸い、ユウコが通路中央へ笑顔を差し込み、ホーネットが軽く空気を散らし、シルヴィアが中央の芯を保った。

 

 その一連の流れを見た時、エリンの胸の奥で何かが静かに変わった。

 

 出来る。

 

 まだ粗い。

 まだ危うい。

 でも、“任せられない”ではない。

 

 サラの言葉は正しかった。

 

 自分が思っているより、この子達はずっと育っている。

 

 

 訓練が一段落したのは、日が完全に落ちたあとだった。

 

 フロアの照明は少しだけ落とされ、疲れた空気が漂う。

 けれど、いつもの疲労と少し違う。

 今日は皆、疲れていても顔つきが少しだけ前を向いていた。

 

「お疲れさまでした」

 ミラが最初に言う。

 

「お疲れさまでした」

 ランも続く。

 

 そのあとに、他の乗務員達もそれぞれ挨拶を交わし始める。

 

 ホーネットは、

「今日、ちょっと楽しかった」

 と悪びれずに言い、ユウコが「分かる」と頷き、ナツキが「楽しいだけで終わらせないでよ」と小さく笑う。シルヴィアはまだ緊張の余韻を引きずっているが、目の奥は前より明るかった。クミコとアズサは小声で反省点を言い合い、マユとサリー、ハズキとミドリも今日の流れを振り返っている。

 

 サラは、その光景を少し離れた位置から見ていた。

 

「先生」

 エリンが近づく。

 

「何ですか」

 サラが視線を向ける。

 

「……ありがとうございました」

 エリンが言う。

「今日、来ていただいて」

 

 サラは少しだけ目を細めた。

 

「礼を言われることはしていません。私は、言うべきことを言っただけです」

 

「それでもです」

 エリンは静かに言う。

「少し……見えた気がします」

 

「そうですか」

 サラは短く答えた。

「なら、次は編成表ですね」

 

 エリンは、そこで苦笑した。

 

「逃がしてはもらえないんですね」

 

「当然です」

 サラは言う。

「言葉だけで終わるなら、今日の訓練の意味がありません」

 

 エリンは、その厳しさに少しだけ安心する。

 

 サラは、いつだってそうだ。

 感情で場を温めて、そのまま甘くはしない。

 必要なところで必ず、次の責任を置いていく。

 

「見直します」

 エリンははっきり言った。

「今日のうちに」

 

「よろしい」

 サラが頷く。

 

 それから、ふとミラ達の方へ視線を向ける。

 

「ミラさん、ランさん、シルヴィアさん」

 サラが静かに呼ぶ。

「今日の動きは覚えておきなさい。“立たされた”ではなく、“立った”記憶として」

 

「……はい」

 三人の返事が重なる。

 

「他の皆さんも」

 サラは続ける。

「副パーサーは“その下”の役職ではありません。前を作る人間を立たせ、支え、繋ぎ、戻ってこさせる役目です。今日の感覚を忘れないように」

 

「はい」

 今度は、フロア全体から返事が返った。

 

 サラはそれを聞くと、小さく頷き、踵を返した。

 

「では、私はこれで。エリン、次に来た時は、今の編成表を期待しています」

 

「……はい」

 エリンが答える。

 

 サラはそのままフロアを出ていく。

 後ろ姿は最後まで整っていて、歩幅も乱れなかった。

 

 扉が閉まったあと、少しだけ静寂が落ちる。

 

「……すごい」

 誰かが小さく呟いた。

 

「うん」

 別の誰かが頷く。

 

 でも、その“すごい”はサラだけに向けたものではない。

 今このフロアに落ちた言葉全体に対してだった。

 

 

 そのあと、乗務員達を帰し、フロアが静かになってから、エリンは一人で編成表を開いていた。

 

 サラの言葉。

 ミラ達の動き。

 今日の訓練の流れ。

 全部を頭の中で重ねながら、便の枠を一つずつ見ていく。

 

 定期便。

 教育便。

 視察便。

 短距離観測便。

 

 どこに誰を置くか。

 どこまで任せるか。

 何を支えとして入れるか。

 

 初めて、“自分が入らない便”を前提に考える。

 

「……」

 

 端末の画面を見つめながら、エリンは小さく息を吐いた。

 

 怖い。

 やはり、怖い。

 

 でも、サラは言った。

 信頼しなさい、と。

 

 信頼とは、丸投げじゃない。

 線を引いて預けることだと。

 

 エリンは、ゆっくりと一便目を組み直した。

 ミラを前へ。

 ランを後方支えへ。

 シルヴィアを中央へ。

 ユウコとナツキで繋ぎ。

 後ろをクミコとアズサ、ミドリで支える。

 

 自分の名前は、そこから外した。

 

 その瞬間、胸の奥に小さな痛みが走る。

 でも同時に、少しだけ深く呼吸が入る。

 

 これが、預けるということなのだろう。

 

 次の便。

 その次。

 エリンは、一つずつ見直していく。

 

 どれだけ時間が経ったか、分からなくなりかけた頃だった。

 

 端末が震えた。

 

 表示された名前を見て、エリンの指先が一瞬だけ止まる。

 

「……タツヤ班長?」

 

 こんな時間に、珍しい。

 

 エリンは通話を取った。

 

「もしもし」

 

『おう、エリンか』

 聞き慣れた、少し間の抜けたようでいて、芯のある声だった。

『遅くに悪いねぇ。まだ起きてた?』

 

 タツヤ班長。

 

 今は民間の配送業をしている。

 けれど、リュウジ達にとっては今でも“班長”だ。

 

 のらりくらりとした口調で話すくせに、要所ではきちんと締める。

 その独特の空気は相変わらずだった。

 

「起きてます」

 エリンは答える。

「どうしたんですか?」

 

『いやぁ』

 タツヤ班長が、電話の向こうで少しだけ笑う気配を見せる。

『ちょっとね。聞きたいことと、伝えたいことがあってさ』

 

 その声音に、エリンはほんの少しだけ姿勢を正した。

 

 何の話かはまだ分からない。

 でも、こういう時のタツヤ班長は、ただの雑談では終わらない。

 

『ま、長くなると悪いし』

 班長が言う。

『今、少し時間あるかい?』

 

 エリンは、端末の画面に残る編成表を見た。

 未完成の便。

 自分の名前を外した初めての枠。

 そして、夜の静かなフロア。

 

「……あります」

 エリンが言う。

 

『そっか』

 タツヤ班長は、どこかのんびりした声で言った。

『じゃあ、少しだけ話そうか』

 

 エリンは端末を持ち直し、静かに息を整えた。

 

 まだ終わらない。

 

 今日という日は、まだもう少し先へ続いているのだと、その電話が告げていた。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(必須:5文字~500文字)
※評価値0,10は一言の入力が必須です。参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

家事代行先は闇堕ち寸前魔法少女の家でした~貧乏一人暮らしの俺は生活力を買われて内緒の焦れ甘同棲生活を始めることになる~(作者:水瓶シロン)(オリジナル現代/恋愛)

「ぎゅって、して……?」▼「構ってくれないと闇落ちしちゃうよ……?」▼ 高校入学を機に一人暮らしを始めた『御守望』は、青春を勉強とバイトに費やすような限界貧乏生活を送っていた。▼ 幼くして両親を失っている望が頼れる人は、田舎に住む祖父母くらいだが、なるべく負担は掛けたくない。▼ そのため、睡眠時間を犠牲にして死に物狂いで勉強することによって好成績を維持し、入…


総合評価:4523/評価:8.71/連載:87話/更新日時:2026年06月21日(日) 19:04 小説情報

ネブカドネザル号乗組員消失事案に関する資料(作者:統合惑星連盟特務調査局)(オリジナルSF/ホラー)

恒星間移民調査船ネブカドネザル号は、西暦3000年に外縁宙域への航行中に乗員1,000名全員が消失した。船体および艦内設備に損傷は認められず、緊急脱出ポッドは全基未使用のまま残されていた。しかし復元された航行ログおよび乗員の私的記録には、現行の科学的知見では説明不能な現象が複数記録されていた。▼本書は、事案の真相究明を目的として特務調査局Ω班が収集・編纂した…


総合評価:1493/評価:8.82/完結:15話/更新日時:2026年03月17日(火) 21:16 小説情報

カス女ハーレム(作者:大豆亭きなこ)(オリジナル現代/恋愛)

カス女でハーレムを作ろうとする男が奔走する話。▼『愛でどこまで許容できるのか。露悪的ラブコメディ』▼※カクヨム、なろうにも投稿中です。


総合評価:5860/評価:8.92/連載:15話/更新日時:2026年06月20日(土) 15:35 小説情報

古の灯火(作者:丸亀導師)(オリジナル歴史/戦記)

▼1894~95年の日清戦争で日本が勝利し、遼東半島を獲得したが、ロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により返還を余儀なくされた。これを契機にロシアは南下政策を強め、1898年に旅順・大連を租借、1900年の義和団事件を口実に満州を占領し、撤兵を約束しながらも駐兵を継続した。一方、日本は朝鮮半島での優位を確保するため、1902年にイギリスと日英同盟を締結し、対…


総合評価:1129/評価:7.93/連載:162話/更新日時:2026年05月03日(日) 06:00 小説情報

心配性の実力者は今日も鍛え続ける(作者:大気圏突破)(原作:魔法少女リリカルなのは)

 青信号で横断歩道を渡っている時に上級国民が運転する暴走車に轢かれてしまい彼は命を落とした。本来ならもう67年ほど生きる予定だったが天国に来てしまった。定員オーバーなので神は二次創作特有のアニメ作品内に彼を転生させる▼ 部屋で目を覚ました彼は9歳の姿になっていた。そして机の上置かれていた手紙に▼「その世界は実力が無いと死んじゃうから頑張って鍛えてね♡ byゴ…


総合評価:3405/評価:7.15/完結:63話/更新日時:2026年05月02日(土) 20:55 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>