サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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第20話

朝日がゆっくりと地平線を照らし、波の音が静かに響いていた。

 昨日までの喪失と涙を、まるで優しく包み込むような穏やかな空気。

 仲間たちは仮設拠点に集合し、ついに――“オリオン号”の出航を迎えた。

 

 操縦席にはカオルとハワードが座っていた。

 両手で操縦桿を握るハワードは、やたらと目を輝かせている。

 

 「よーし、準備万端!オリオン号、いざ大空へ――ってな!」

 

 その言葉に、背後で見ていたシャアラが青ざめた顔で声を上げた。

 「えっ!?ハワードが……運転するの!?」

 

 「おいおい、人を疑うなよ。こういうのは最初が肝心なんだって!」

 ハワードは胸を張って笑う。だがその笑顔には、少しだけ空元気が混じっていた。

 

 ルナが思わず前のめりになる。

 「ちょ、ちょっと待って!最初はリュウジに任せたほうがいいんじゃない?

  システムも操縦も一番詳しいのはリュウジなんだし!」

 

 ハワードは笑いながら片手をひらひらと振った。

 「だいじょーぶ!任せとけって!僕だって昔、操縦ゲームは得意だったんだからさ!」

 

 その瞬間、カオルが眉間にしわを寄せた。

 「……ハワード」

 

 「ん?」

 

 「これは遊びじゃない。みんなの命がかかってる。……慎重にな」

 

 その声は低く、静かだったが、確かな重みを持っていた。

 ハワードの口元が引きつる。

 彼は一瞬、視線を泳がせて――ルナ、メノリ、アダム、シンゴ、シャアラの顔を見渡した。

 皆の表情が、不安と期待で揺れている。

 

 「……あー、しょうがないな!」

 ハワードは両手を上げて、渋々笑った。

 「ここはリュウジに譲ってやるよ!ほら、頼んだぜ相棒!」

 

 「まったく……」リュウジは呆れたように息をつきながらも、

 その口元にはわずかな笑みが浮かんでいた。

 

⬜︎

 

 その時、機械室からチャコの声が無線に入る。

 「――こっちは準備オーケーや!」

 

 「了解。」カオルが頷くと、リュウジに視線を向けた。

 「お前と一緒に操縦するのは、これが初めてだな」

 

 「そうだな。……ついてこれるか?」リュウジが笑みを見せる。

 

 「当然だ。お前こそ腕は鈍ってないだろうな?」

 

 「ほざけ」

 笑い合う二人の姿に、ルナは心の中で呟いた。

 ――頼もしいな。

 

⬜︎

 

 リュウジは操縦席に深く腰を下ろし、息を整えた。

 「――それじゃあ出発する。全員、しっかり捕まっておけ」

 

 全員がそれぞれの場所に身を固定し、息をのむ。

 

 「ソーラシステム、起動」

 リュウジがボタンを押すと、船体が低く震え、

 モニターのランプが順に緑へと点灯していった。

 

 「エネルギー出力、20%、30%、40%……安定」

 カオルの声が落ち着いたリズムで響く。

 

 「重力制御ユニット、起動!」

 リュウジがレバーをゆっくりと上げる。

 機体全体が光を帯び、床下から重低音が響いた。

 

 「全機関接続完了!システム・オールグリーン!

  エネルギー出力、安定している!」

 

 「――重力制御ユニット作動。これより浮上する!」

 リュウジは操縦桿をゆっくりと引いた。

 

 オリオン号の機体が、微かに震えながら持ち上がる。

 地面を離れ、空気の抵抗が船体を包んだ。

 全員の心臓が、同時に高鳴る。

 

 「オリオン号、発進」

 リュウジが静かに呟く。

 

⬜︎

 

 船体がゆっくりと傾き、近くに流れる川の上へと滑り出す。

 水面に映る朝日が眩しく反射する。

 

 ――ドンッ!

 着水の衝撃とともに、オリオン号が激しく揺れた。

 

 「カオル!」

 「分かってる!」

 カオルが素早く操縦桿を倒し、バランスを立て直す。

 

 「……流石だな」

 リュウジが小さく笑う。

 「当然だ」カオルも負けじと笑みを返した。

 

 オリオン号は勢いよく川を下り始めた。

 轟音とともに水しぶきが上がり、

 流れの速さに合わせてリュウジが巧みに操縦桿を操作する。

 

 「しっかり捕まってろ!」

 リュウジの声が響く。

 

 「きゃぁあああ!」とシャアラの悲鳴、

 「すっごーい!!」とハワードの興奮、

 「もう少し左!左ィ!」とメノリの指示、

 「ウチのセンサーが狂うでぇえ!」とチャコの悲鳴混じりの声――

 笑いと叫びが入り混じる中、オリオン号は勢いを増していく。

 

 川の終点、切り立った崖の先が見えてきた。

 そこを越えれば、目の前は海。

 

 「行くぞ!」

 リュウジが操縦桿を一気に引いた。

 

 ――ゴォォッ!!!

 

 オリオン号は水しぶきを上げながら空中へ躍り出た。

 そのまま海面に着水するが、

 衝撃に揺れながらも、海面を滑るように進み続ける。

 

 リュウジが重力制御ユニットのレバーを押し上げる。

 船体が一気に光を帯び、揺れが次第におさまっていく。

 波が遠ざかり、機体がゆっくりと浮かび上がった。

 

⬜︎

 

 「航路は?」

 「問題なし、進行方向クリア」

 

 リュウジはふぅっと息を吐き、

 握っていた操縦桿から手を離した。

 

 ルナが駆け寄り、満面の笑みで抱きつく。

 「やったね、リュウジ!」

 

 リュウジは少し驚いた顔を見せたが、

 そのまま微笑みを返した。

 

 「これで……本当に出発できたな」

 

 窓の外には、青い海がどこまでも広がっている。

 波の音が遠ざかり、エンジンの振動が胸に響く。

 “新しい大陸”へ――彼らの旅が、再び始まった。

 

⬜︎

 

朝日が海面を照らし、柔らかな光が船体を包み込む。

 “オリオン号”は穏やかな波に身を預けるように進み、

 新しい大陸への旅立ちは、静かで希望に満ちた幕開けとなった。

 

 操縦席では、リュウジとカオルが並んで座り、

 スクリーンに映る水平線を見つめていた。

 

 「風向き、安定してるな」

 「出力も問題なし。ソーラー系統、正常稼働中だ」

 

 カオルが端末を確認しながら答える。

 「いい調子だ」

 リュウジが口の端を上げて言うと、カオルは少し照れたように息を吐く。

 「当然だろ」

 

 そのやり取りに、背後で聞いていたハワードが笑い声をあげた。

 「ははっ、二人とも息ぴったりじゃないか! もう少しで漫才コンビになれそうだな!」

 

 「お前は黙って座ってろ」

 「うるさいっての、パイロット志望の血が騒ぐんだよ!」

 「……その血、落ち着かせとけ」カオルが呆れたように呟く。

 

 船内に漂う空気が和らぎ、

 リュウジは笑いながら操縦桿を微調整した。

 

⬜︎

 

 機械室では、チャコとシンゴが点検作業を続けていた。

 「ちょ、そこや!その配線、逆につけとるで!」

 「あっ、また!?……えっと、こっちがプラス?」

 「そうや!しっかりしてや、シンゴ!ウチの命がかかっとるんやで!」

 「そんな大げさな!」

 「大げさちゃう!オリオン号が爆発したらどうすんねん!」

 二人の声が船全体に響き、自然と笑いが起こった。

 

⬜︎

 

 食料区画では、メノリとアダムが荷物の整理をしていた。

 「これで食料は二週間分。……悪くないな」

 「メノリ!僕、お手伝いしてよかった!」

 「ふふ、助かった。アダムって意外と几帳面なんだな」

 「うん、リュウジにもそう言われたことある!」

 「……そう。それなら、きっと間違いないな」

 アダムが照れくさそうに笑う。その様子を見て、メノリも口元を緩めた。

 

⬜︎

 

 甲板ではベルが風を読みながら方位を見ていた。

 「……穏やかな海だ。風も追い風、悪くない」

 シャアラが隣で風に髪を揺らしながら微笑む。

 「ベルって本当に頼りになるね」

 「はは、そんな大層なもんじゃないよ。ただ、風を見ると少し落ち着くんだ」

 

 その時、ハワードが甲板に顔を出し、片手にバナナを持ちながら言った。

 「ようし、みんな仕事熱心だな!でも腹減ってんだろ?非常食パーティーしようぜ!」

 「……お前、散々食べただろう」メノリが呆れたように言う。

 「え? いや、試食だよ試食!」

 「その“試食”が一番減ってるんだ」

 「はっはっは!人間、燃料が命だっての!」

 

 その調子に、ルナは小さく笑った。

 ハワードがいると、空気が少し明るくなる。

 

⬜︎

 

 リュウジが通信機を手に取った。

 「全員、異常なし確認。速度と出力、安定」

 ルナが応答する。

 「了解。こちらも問題なし。みんな元気に動いてます」

 

 「いい返事だな」

 リュウジが微笑み、カオルも静かに頷く。

 「まるで本物の船長みたいだな」

 「まあ、実際そうだろ」

 「ふん……確かにな」

 

 彼らの視線の先には、青く広がる水平線があった。

 穏やかな波が反射する光は、まるで未来を示す航路のように続いている。

 

⬜︎

 

 太陽が傾き始めると、甲板にはオレンジの光が差し込んだ。

 ルナは船首に立ち、ゆっくりと風を受ける。

 「……ここから始まるんだね」

 隣に立ったリュウジが頷く。

 「そうだ。まだ見ぬ大地へ」

 

 その後ろから、ハワードが声を張り上げた。

 「よーし!今夜は祝杯だ!――いや、水だけどな!」

 「ははっ、それで十分だよ」とベルが穏やかに答える。

 「ウチは乾杯の音頭とるでぇ!」とチャコが張り切り、

 「じゃあ僕が照明点けるね!」とアダムがスイッチを押した。

 

 光がともり、夜風が心地よく吹き抜ける。

 笑い声と、波の音。

 それは、この惑星での新しい日常の始まりを告げるようだった。

 

 リュウジは空を見上げて、静かに呟く。

 「――ポルトさん。見てるか?」

 「きっと、空のどこかで笑ってるわ」ルナの声が背後から聞こえる。

 

 リュウジは小さく笑って答えた。

 「なら、安心だな」

 

 穏やかな海を進む“オリオン号”。

 その船に乗る仲間たちの笑顔が、まっすぐに朝の光へ向かっていった。

 

⬜︎

 

昼下がりの甲板には穏やかな風が吹き抜けていた。

船の動きにも慣れてきた頃、ルナは皆を甲板に集めていた。

 

 「えっと……今日は、これからの“航海中の役割分担”を決めようと思うの」

 ルナの声に、全員が頷いた。彼女の手には、メモと簡単な航行スケジュールが書かれた板がある。

 

⬜︎

 

 「まず、操縦を担当するのは二人。これは交代制にするけど、基本はリュウジとカオルでお願いしたい」

 「了解」カオルが短く答え、リュウジも頷いた。

 「異論はない。カオルの操縦も安定してるしな」

 「ふん……お前に言われる筋合いはない」

 その返しに、ハワードがすかさず笑う。

 「おっ、出た出た。ツンデレ操縦士コンビ!」

 「誰がツンデレだ」カオルが眉をひそめる。

 「お前だよ」リュウジが淡々と返すと、ハワードが吹き出した。

 チャコが尻尾を揺らして笑う。

 「まぁまぁ、二人が仲良うしてくれたらウチら安心して寝られるわ」

 「……」カオルはそっぽを向いた。

 

 ルナは苦笑しながら、次の項目に目を向けた。

 

⬜︎

 

 「次に、マストの見張り台の担当だけど……」

 「危険察知と気象確認の要だな」とメノリが補足する。

 「うん、そう。見晴らしが良い分、体力もいるけど、ベル、お願いしてもいい?」

 ベルは穏やかに頷いた。

 「もちろんだ。視力も悪くないし、風の変化にも気づける」

 「頼もしいな」とメノリが微笑む。

 「ありがと、ベル。万が一、異常があったらすぐ知らせてね」

 「任せてくれ。風の声は逃さないさ」

 

⬜︎

 

 「それから、甲板は二人一組で交代ね。

  船体のバランスとか、食料や水の確認、帆の調整をお願いしたいの」

 「ウチ、甲板がええ!風が気持ちええしな!」

 チャコが元気よく手を上げる。

 「ウチとシンゴのペアでどうや?」

 「うん!いいね、チャコ!僕、整備の合間に帆の調整も見たいと思ってたんだ!」

 「よし決まりや!」チャコが満足げに尻尾を立てた。

 

 ルナは笑みを浮かべながら続けた。

 「ありがとう、二人とも。

  それ以外の時間は、メノリとハワードに交代でお願いするわ」

 「了解だ」とメノリ。

 「まっかせなって!僕の航海センスに惚れるなよ!」

 「誰も惚れない」

 メノリが冷静に返し、全員が笑った。

 

⬜︎

 

 「船内の整理と補給は、シャアラとアダムにお願い」

 「う、うん!頑張るね!」

 アダムが元気よく答え、シャアラは微笑んで頷いた。

 「私たちにできることなら、何でもやるわ」

 「ありがとう、二人とも。食料の残量と水分はとても大事だから、頼りにしてる」

 

⬜︎

 

 ルナは一同を見渡して言った。

 「これから大陸までの航海は、きっと長くなると思う。

  でも、こうしてみんなで役割を分ければ、どんな嵐だって乗り越えられるはず」

 「……言うようになったな」リュウジが小さく呟く。

 「異論はない」カオルも淡々と同意した。

 ハワードが両手を上げる。

 「じゃあ決まりだな!“チーム・オリオン号”発進ってやつだ!」

 「……どこのヒーロー番組だ」とメノリが苦笑する。

 「ええやん、ノリは大事やで」とチャコが尻尾を振る。

 

 ルナは笑いながら、一人ひとりの顔を見渡した。

 その瞳には、確かな光が宿っている。

 

 「――行こう。みんなで、この海の向こうへ」

 

 風が帆を膨らませ、

 “オリオン号”は静かに、しかし確かに前へ進み始めた。

 

⬜︎

 

朝の海は穏やかに見えた。

 だが、“オリオン号”の内部では、その穏やかさとは裏腹に、三人のうめき声が響いていた。

 

 「うぅ……もう……だめ……」

 ベッドの端でシンゴが青ざめた顔を押さえる。

 隣ではアダムが毛布にくるまり、小さな声で唸っていた。

 「うぇ……あたま、ぐるぐるする……」

 「船の揺れは想定してたが……思ったより堪えるな……」

 カオルも額に汗を浮かべ、寝台に身を横たえていた。

 

 ルナは心配そうに三人を見回しながら、

 「無理しちゃだめ。少しでも落ち着いたら水分とってね」と優しく声をかけた。

 

 「はい……」シンゴが弱々しく返す。

 アダムも目を閉じたまま頷いた。

 

 ルナは静かに息を吐く。

 (これじゃ、今日の見張りは無理ね……)

 

⬜︎

 

 甲板に上がると、朝日が海面に反射して眩しかった。

 潮風が心地いい――だが、心のどこかに重い不安があった。

 

 甲板の上で、ハワードが果物を頬張っていた。

 「おはよ、ルナ。今日は気持ちいい朝だな!」

 「おはよう、ハワード。……ねえ、お願いがあるの」

 「ん? まさかまた荷物運びじゃないよな?」

 ルナは首を横に振った。

 「違うの。今日の見張りをお願いしたいの。カオルが……ちょっと体調崩してて」

 「ええっ!? カオルが? あの無敵の氷男が?」

 「船酔い。……それにシンゴもアダムも同じ。三人とも寝てるの」

 「マジかよ?!」

 ハワードは果物を落とし、頭を抱えた。

 「いやぁ~情けないなぁ~!僕なんて全然平気だぞ?この揺れがむしろ心地いいっていうか!」

 

 そのときだった。

 背後から、低く落ち着いた声が響く。

 「……能天気なやつだな」

 

 ハワードが振り返ると、見張り台からリュウジが降りてきていた。

 朝日を背にして立つその姿は、どこか凛としていて、ハワードは一瞬たじろいだ。

 

 「リ、リュウジ? おはよう。いやぁ、みんな寝込んでるらしいじゃん。だらしないよなぁ~」

 「ハワード」

 リュウジの声は静かだったが、確かな圧があった。

 「海を舐めるな」

 「……え?」

 「誰が酔ってもおかしくない」

 その言葉にハワードは思わず口を閉じる。

 「……そ、そういうもんなのか?」

 「そういうもんだ」

 リュウジは短く答え、見張り台の縄梯子に手をかけた。

 

 ルナはその背中を見上げながら、

 「ありがとう、リュウジ。今日は休憩してもいいのに」

 「いい。視界が遠くまで開けてる。こういう日は、何かが動く」

 「何かが……?」

 「ただの勘だ」

 それだけ言うと、リュウジは寝室へ降りていった。

 

⬜︎

 

 ハワードはしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。

 「嫌な事いうな、リュウジのやつ」

 「まぁまぁ」

 ルナが笑みを浮かべた。

 「リュウジはみんなを守るために動いてくれてる。それに……優しいところもあるでしょう?」

 「偶には優しい?ところもあるかもな」

 「うん」ルナは空を見上げながら頷く。

 「厳しい事も言うことはあるけど、本当は誰よりも仲間思い」

 「……なるほどね。じゃあ僕も、少しは見張り、真面目にやってみるかな」

 ハワードはニッと笑い、風向きを確かめるようにマストを見上げた。

 

 ルナは安堵の息をつきながら呟いた。

 「みんな、早く良くなりますように……」

 

 波の音が静かに響き、

 オリオン号は青い水平線へと進み続けていた。

 

⬜︎

 

船の揺れに合わせて、金属の軋む音が静かに響く。

 “オリオン号”の寝室は薄い光に包まれていた。

 ベッドに横たわるのは、シンゴ、アダム、そしてカオル。三人とも真っ青な顔で呻いている。

 

 リュウジは果物を片手に椅子へ腰かけ、のんびりとそれを頬張っていた。

 「……まさか、カオルがこんなにやられるとはな」

 そう呟きながら、隣のベッドを見る。

 そこでは、無表情が売りのカオルが額にタオルを乗せ、苦悶の表情でうつ伏せになっていた。

 その姿が珍しくて、リュウジはふっと笑みを浮かべた。

 

 「まったく……人間、完璧じゃないってことか」

 口の端に果物をくわえたまま、何か思いついたように立ち上がる。

 ――ちょっとした悪戯心が、ふと湧いた。

 

 寝ているカオルの髪を指で軽くつまみ、前髪を一本にまとめて輪ゴムで結んだ。

 見事な“ちょんまげ”スタイル。

 リュウジは満足げに腕を組み、「……ふっ」と微笑む。

 

 ちょうどその時――。

 扉が開き、ルナとチャコが入ってきた。

 

 「みんなの様子はどう?」

 ルナが静かに声をかけると、リュウジは果物の皮をテーブルに置きながら言った。

 「こればっかりは慣れるしかないな。重力制御の揺れが一定じゃないから、どうしても酔う」

 

 「そうなんや~。ウチは平気やけどなぁ……」とチャコが言いながら、カオルの方に視線を向けた瞬間、

 「……ぶっ!!」と盛大に吹き出した。

 

 「な、なんやこれ! カオル、髪くくっとるやん!」

 リュウジは知らん顔で果物をもう一口。

 「俺じゃないぞ」

 「いや、絶対リュウジやろ!」チャコが笑いながら指差す。

 

 ルナも思わず頬を押さえて、

 「ふふっ……かわいいわね」

 「……ふん」

 リュウジはニヤリと笑みを浮かべ、いつもの無表情に戻った。

 

 カオルは寝ぼけたように目を開け、

 「……なんだ、この頭……?」と小さくつぶやいた。

 それを聞いてルナとチャコは堪えきれず、声を殺して笑う。

 

 「リュウジ、あなたも少しは休んでね。無理して倒れたら困るんだから」

 ルナの言葉に、リュウジは果物を食べ終え、ゆっくりと立ち上がった。

 「大丈夫だ。俺は船に酔わない」

 「強がり言うとるわ」チャコが呆れたように言う。

 「強がりじゃない」

 

 それだけ言うと、リュウジは椅子に腰をおろし、ルナとチャコは部屋を出た。

 通路を歩きながら、ルナはふと笑みをこぼした。

 「リュウジって、たまに子どもみたいね」

 チャコは尻尾をくねらせて笑う。

 「せやな。あのカオルの髪、忘れられへんわ」

 

 船室の奥では、再び波の音と、

 「……誰だ、俺の髪を……」というカオルのかすかな声が混じり合っていた。

 

⬜︎

 

昼の光が“オリオン号”の甲板を包み、波が船体を柔らかく揺らしていた。

 航行は順調――それでも船内には、穏やかでない空気が漂っていた。

 

 操縦席にルナとチャコが交代で入るとメノリが額に手を当て、苦しげに息をついていた。

 「……すまない、少し頭がふらつく」

 「無理しないで、メノリ」ルナがすぐに駆け寄る。

 ベルも隣で心配そうに覗き込み、

 「少し休んだ方がいい」

 「しかし……」

 「いいの」ルナが微笑みながら操縦席に手を置いた。

 「ここからは私たちに任せて。ね、チャコ」

 「まかせとき!ウチらでバッチリ舵とったる!」

 

 ベルは頷き、そっとメノリの肩を支えながら船室へと連れて行く。

 扉が閉まる音が響くと、操縦席にはルナとチャコだけが残った。

 

⬜︎

 

 「……なぁ、ルナ」

 チャコが静かに操縦盤に手を置く。

 「みんな、だいぶキツそうやな。カオルもまだ寝込んどるし、

  シンゴも食欲ないって言うとった」

 ルナは頷きながら、前方の水平線を見つめた。

 「ええ……だから、少しでも早く大陸に着きたいの」

 

 チャコがちらりとルナを見た。

 その横顔には、責任と焦り、そして強い優しさが宿っていた。

 

 「……焦っとるんやな」

 「うん」ルナは小さく笑って答えた。

 「でも、焦るっていうより……苦しいの。

  みんなが頑張ってるのに、何もできない自分が情けなくて」

 

 チャコは腕を組んで唸るように言った。

 「ルナは充分頑張っとるやろ。

  ここまで全員が生き延びてこれたのは、ルナがおったからやで」

 

 「……ありがとう、チャコ」

 ルナは深呼吸をして操縦桿に手を添える。

 「でもね、私はまだ“みんなを安全に導いた”って言えない。

  だから――この航海を、ちゃんと終わらせたいの」

 

 チャコは尻尾をピンと立て、いつもの明るい笑みを見せた。

 「ならウチが付き合ったる! ほな、ちょっと出力上げてみよか」

 「……え? 大丈夫なの?」

 「風がええ感じに追い風や。いけると思うで」

 

 チャコは軽やかに操作盤を動かし、風向計を確認する。

 「ソーラー出力、少しだけ上げるで。……10%上昇!」

 モーターの低い唸りが響き、船体がゆっくりと加速した。

 

 ルナはバランスを取りながら笑った。

 「ほんと、チャコって頼もしいね」

 「ウチはただの猫型ロボや。でも、仲間を笑顔にするのはウチの仕事や!」

 

 二人の声が船室に響き、揺れる海に少しだけ希望の風が吹き抜けた。

 ルナは操縦席から見える遠い水平線を見つめ、

 「……もう少し、がんばろう。

  みんなが笑顔で大陸に立てるように」と、心の中でそっと願った。

 

⬜︎

 

波が緩やかに船体を叩き、オリオン号の床がかすかにきしむ。

 リュウジは甲板下の寝室で、動力制御の整備計画を整理していた。

 そこへ、扉が勢いよく開き、ベルがメノリの肩を支えながら入ってきた。

 

 「おい……どうした」

 リュウジの声が低く響く。

 ベルは困ったように眉を寄せ、

 「……ちょっと酔っちゃって。さっきまで操縦してたんだけど、急に顔色が」

 と説明した。

 

 その言葉の通り、メノリの顔は蒼白で、唇もわずかに震えていた。

 「大丈夫だ……」と絞り出すように言うものの、

 その直後、彼女は口を押さえ、デッキへと駆け出した。

 

 寝室の奥で、扉が“カタン”と音を立てて開く。

 潮風とともに、苦しげな嗚咽が微かに聞こえてくる。

 

 しばらくして、メノリがデッキの扉から顔を覗かせた。

 「……すぐ行く」

 そう言いながらも、言葉の途中で再び口を押さえ、扉の向こうに身を引っ込める。

 リュウジは口を開いた。

 

 「無理するな。少し休んでおけ」

 短くそう言うと、リュウジは寝室を出て甲板へと向かった。

 

⬜︎

 

 甲板に出た瞬間、潮風が強く吹き抜ける。

 リュウジは目を細め、周囲を見回す。

 

 すぐ近くのベンチに、顔面蒼白のハワードがぐったりともたれかかっていた。

 その隣には、シャアラが両腕でお腹を押さえ、青ざめた顔で俯いている。

 

 「おい……まさか、ここでもか」

 リュウジは低く呟き、眉を顰めた。

 

 ハワードが弱々しく手を上げて、

 「リュウジぃ……船ってさ……こんなに、ゆれるもんだっけ?」と呻く。

 「揺れは一定だ。お前の三半規管がサボってるだけだ」

 「ひどいなぁ……優しくしてくれてもいいじゃん……」

 ハワードは「うぅ」と呻き、再びうつむいた。

 

 隣のシャアラが小さく「ごめんなさい……」と呟いた。

 「謝ることじゃない。体が慣れてないだけだ」

 リュウジの声は冷静だったが、その目は二人の様子を細かく見ていた。

 潮風の匂い、波の高さ、風の向き――

 どうやら、海流が微妙に変わり、船体が予想より大きく揺れている。

 

 「……チャコに調整を頼むか」

 そう呟いて、リュウジは舵室の方向に歩き出した。

 

 その背後で、ハワードが弱々しく叫ぶ。

 「なぁリュウジ……俺、死んだら船の名前にしてくれよぉ……」

 「勝手に死ぬな。縁起でもない」

 即答して歩き去るリュウジに、ハワードは「うぅ~」と呻き声を漏らした。

 

 ――船酔いという“敵”が、静かに仲間たちを苦しめていく中、

 リュウジはただひとり、冷静に海の動きを読み取っていた。

 

⬜︎

 

 “オリオン号”の寝室には、波の音とは違う、重く鈍い息遣いが満ちていた。

 

 ルナ、ベル、リュウジが集まり、沈んだ空気の中にチャコが駆け込んできた。

 「とりあえず、自動操縦に切り替えたで」

 小さく息をつきながら、チャコは胸の埃を払う。

 

 寝室の奥には、即席で作られた木製のベッドがずらりと並んでいた。

 その上で、カオル、メノリ、ハワード、シンゴ、シャアラ、アダム――皆がぐったりと横たわっている。

 呻き声が、時おり波音に混じって響く。

 

 「……うぅ、気持ち悪い……」

 「もう……地面に立ちたい……」

 ハワードが呻くと、シャアラが隣で小さく唇を噛みしめる。

 メノリも顔を覆い、枕に顔をうずめた。

 

 リュウジは腕を組み、苦しむ仲間を順に見渡す。

 「弱音を吐くな。二、三日で慣れる」

 淡々とした声だったが、その響きにはどこか厳しさが混ざっていた。

 

 「僕は今がピークだよ……!」シンゴがかすれた声で言う。

 「どこかに降ろしてくれよ……!」とハワードが続ける。

 

 チャコが呆れ顔で肩をすくめる。

 「降ろす言うても、近くに島なんかないで」

 「だったら戻ればいいだろ……!」

 「……え?」ルナが驚いた顔をする。

 

 ハワードは枕を掴み、息荒く続けた。

 「だから僕は反対したんだ! こんな無理な航海、やめときゃよかった!」

 「ハワード!」ベルが声を上げるが、彼は耳を塞ぐように顔を背けた。

 

 その時、メノリが苦しそうに身体を起こし、息を整えながら言った。

 「……確かに、他の手も……考える必要があったかもしれない」

 「でも、もう出発して三日も経ったのよ」とルナは訴えるように言う。

 「人ごとだと思って……!」ハワードが睨むように吐き捨てる。

 「思ってないよ!」ルナが反論する声は、涙をこらえたように震えていた。

 

 メノリが再び枕に手を置きながら言う。

 「……一度、島に戻って、船酔いに慣れてから出直す……じゃ、ダメなのか?」

 その言葉に、リュウジが腕を解き、冷静に一言。

 「いまさら何言ってるんだ」

 その低い声が、船室の空気をさらに重くした。

 

 「……あー、もういいよ!」ハワードが枕を投げ出すように言う。

 「どうせ最後は、ルナの言うとおりになるんだ!」

 

 その一言に、ルナの瞳が揺れた。

 「そんな……」

 俯いたまま、小さく震える唇から言葉がこぼれる。

 

 「ちょっと、なんやその言い方!」

 チャコが思わず声を荒げた。

 「ルナはみんなのために必死に――!」

 「いいの、チャコ」

 ルナは首を横に振り、かすかに笑った。

 「ごめん……みんなが苦しいのは分かってる。

  それでも――戻るわけにはいかない」

 

 そのまま、ルナは寝室の扉を開け、走り出した。

 「ルナ!」とベルが呼ぶが、彼女は振り返らず、甲板へと消えていった。ベルはすぐに後を追った。

 

 静まり返った寝室で、しばし沈黙が流れる。

 リュウジは壁に背を預け、深く息を吐いた。

 

 「……またルナ一人に背負わせるつもりか」

 誰に言うでもなく、その言葉が静かに落ちた。

 

 チャコは何も言えず、ただうつむく。

 やがて、リュウジは腕を下ろし、寝室を出て行った。

 残されたチャコは小さく呟く。

 「ホンマ……あの子、強いけど、壊れそうなんや……」

 

⬜︎

 

傾き始めた太陽が、海面を赤く染めていた。

 波のきらめきは黄金色に変わり、オリオン号の白い船体を淡く照らしている。

 潮風は穏やかで、焦げるような夕陽の匂いが漂っていた。

 

 甲板では、ルナとベルが並んで立っていた。

 海を見つめながら、どちらともなく口を開く。

 

 「……やっぱり、みんな辛そうだね」

 ルナの声は、沈む太陽に溶けるように柔らかい。

 

 「そうだね」ベルは頷いた。

 「無理もない。船の揺れに慣れてないんだ。

  でも、ルナがいたから、皆んなここまで、来れたんだ」

 

 「そんなこと……ないよ」

 ルナは小さく笑い、海へ視線を逸らした。

 夕陽が彼女の横顔を照らし、頬のあたりが淡く輝いて見える。

 

 その時、足音が近づいてきた。

 リュウジの肩からは、ライフジャケットが二つぶら下がっている。

 

 「……気にするな。放っておけばいい」

 開口一番、低い声。

 風に混ざるその声は、どこか疲れと優しさが入り混じっていた。

 

 ルナはきょとんと顔を上げる。

 「放っておけばって……」

 「酔いなんて寝りゃ治る」

 そう言いながら、リュウジは海の方を見たまま、ライフジャケットをひとつ差し出した。

 

 「風が出てきた。……念のために着ておけ」

 橙色の布が、夕陽に照らされて燃えるように輝く。

 

 ルナが受け取ろうと手を伸ばしたが、リュウジは軽く動かして、

 ルナの前でその手を止めた。

 

 「……お前も、少し休んだ方がいい」

 その声には、命令でも心配でもない――ただ、静かな思いやりが滲んでいた。

 

 ルナはその言葉を受け止めて、

 ほんの少しだけ目を細めて微笑む。

 「私なら大丈夫よ。ありがとう」

 

 リュウジは、わずかに間を置いてから手渡した。

 「……そうか」

 

 ルナは素早くライフジャケットを身に着けると、

 マストの方へと歩いていく。

 夕陽が海面に反射して、マストの影を長く引き延ばしていた。

 

 「ルナ、どこ行くんだ?」ベルが尋ねる。

 「見張りよ。風の向きが少し変わってる。上から確かめたいの」

 「ひとりで大丈夫か?」

 「うん。大丈夫」

 ルナは笑みを浮かべ、マストに手をかけた。

 

 陽の光が髪を透かし、橙から金に変わる。

 彼女は軽やかにステップを刻み、上へと登っていった。

 

 見上げるリュウジの瞳に、どこか安心と焦燥が入り混じる。

 やがて深く息を吐くと、横のベルに向かって言った。

 

 「……頼んだ、ベル」

 「任せといて」

 ベルは静かに頷き、ルナの背を見守る。

 

 赤く染まる空の下、マストの上で風に吹かれるルナの姿が、

 まるで夕陽とともに溶けていくようだった。

 

⬜︎

 

低くうなる機関音と、オレンジ色に染まった海のきらめき。リュウジがドアを押し開けると、操縦席にはチャコがちょこんと座り、前方をじっと見ていた。もう一席にリュウジが腰を落ち着けると、計器の針が安定しているのを確認してから、ふっと息を吐く。

 

 「風向き、さっきより安定してる」

 「オートも舵も問題なしや。……なぁ、リュウジ」

 「なんだ」

 

 チャコは身体をこちらへ向け、耳と尻尾がぴこんと立つみたいに、声色を少しだけ柔らかくした。

 

 「さっき寝室で言うてくれて、ありがとな。“またルナ一人に背負わせるつもりか”ってやつ。ウチ、胸んとこスッとしたわ」

 「当然だ。あいつに全部押しつけるのは違う」

 「せやろ? ルナ、みんなの前やと“泣かへん顔”してまうタイプや。ええ顔やけど、あれ続けたら折れてまう。誰かが声に出して止めたらな、あの子も“頼ってええんや”って分かる」

 

 リュウジは前方の水平線に視線を戻し、短くうなずく。

 

 「……リーダーでも、弱音は必要だ。タイミングを作るのは周りの仕事だろ」

 「それ、本人にも言うたれや」

 「機会があればな」

 「出た出た、“機会があれば”。さっき甲板でライフジャケット渡して、“少し休んだ方がいい”言うて心配だけ置いとくんは器用やのに」

 「……見てたのか」

 「全部は見とらん。けど、分かるんや。リュウジ、ルナのこと、よう見とる」

 

 短い沈黙。機器のインジケータが規則正しく点滅し、船腹を撫でる波のリズムが操縦室の床まで伝わってくる。

 

 「礼ならいらない。……次、同じ流れになったら、俺が先に言う。戻る戻らないの話でも、判断の矢面は俺が立つ」

 「ウチは“数字”で横から支える。風速、潮流、出力、消費。ごちゃごちゃ言うやつには“はい、データ”で黙ってもらう。二人で挟んだら、ルナは真ん中で息できるやろ」

 「そうだな」

 

 チャコは小さく笑って、足をぶらぶらさせた。

 

 「ウチ、ルナが“みんなで行く”言うた時な、嬉しかってん。ウチら全員で作ったこの船、全員で大陸に着けたら最高や。せやから――“一人で背負わせへん”って、いまの誓い、ずっと続けよ」

 「……ああ。約束する」

 

 夕陽がさらに傾き、操縦室の壁を赤から金色へと染め替える。リュウジは計器に手を伸ばし、わずかにトリムを調整した。船体の振動が一段やさしくなる。

 

 「なぁ、リュウジ。ウチ、もうひとつ言うとく」

 「なんだ」

 「さっきの一言、ルナにも効いとった。あの子、顔には出さんけど、肩の力ちょっと抜けてたわ。……ありがと」

 「……そうか」

 

 短い返事。けれど声は、いつもよりわずかに温度が高い。チャコは満足げに目を細める。

 

 「よっしゃ。じゃ、段取り確認しとこ。夜の当直はウチとリュウジ。ルナが下りてきたら“ちゃんと休め”って、今度は必ず休ませるんや」

 「了解。……お前の関西弁、案外効くからな」

 「せやろ? 説教も子守歌もオールインワンや」

 

 二人の冗談に、機械の鼓動が低く応える。

 彼らの前に伸びる航路は穏やかだ。けれど、その穏やかさは偶然じゃない――“一人に背負わせない”と決めた乗組員たちの、静かな舵取りが続いているからだ。

 

⬜︎

 

海の青は、いつの間にか鉄のような鈍色に変わっていた。

 厚い雲が空を覆い、遠くで雷鳴が小さく唸る。窓の外には、黒い雲の壁が迫ってくる。

 波が高くなり、オリオン号の船体がきしむ。

 

 リュウジはすぐに操縦席に腰を下ろし、通信機のスイッチを入れた。

 「ルナ、応答しろ。聞こえるか?」

 

 雑音が一瞬走り、すぐにルナの声が返ってくる。

 『リュウジ?どうしたの?』

 「嵐だ。雲が近い、風も変わってる。見張り台からすぐ降りろ!」

 

 通信の向こうで、ルナが息をのむ音が聞こえた。

 『リュウジの方は? そっちは大丈夫なの?』

 「安心しろ。こっちは持たせる」

 

 その声は、短く、それでいて確信に満ちていた。

 しばらくして――少し安堵したようなルナの声が、無線越しに響く。

 『……うん、わかった。すぐに降りるね』

 

 通信が切れる。

 リュウジは舵を握りしめ、外の様子を確認した。

 黒雲の下では、波頭が砕け、白い泡が風に散っていく。

 すでに船のバランスがわずかに狂い始めていた。

 

 「……まずいな」

 額に汗がにじむ。

 舵輪を握る手のひらにも、湿り気を帯びる。

 

 風が一段と強くなり、海面の反射が歪み、雷光が空を裂いた。

 リュウジは息を整え、計器に視線を走らせる。

 「重力制御、出力八〇パー……安定値キープ」

 彼は独り言のように呟きながら、再び前方を見据えた。

 

 ――雲が、目前に迫っている。

 

 その向こうには、真昼のように光る稲妻が走り、

 続いて重く腹の底に響くような轟音が海を震わせた。

 

 リュウジは低く息を吐く。

 「ここからが本番か……」

 

 嵐の前の静けさが、ほんの数秒だけ操縦室を包み込む。

 その直後、突風が船体を叩き、視界が一瞬、白い波しぶきで覆われた――。

 

⬜︎

 

海はすでに怒号のように荒れ狂っていた。

 稲妻が空を裂き、真っ黒な雲がオリオン号の上空を覆う。

 船体は大きく揺れ、床を滑る水しぶきが足元を濡らす。

 

 「リュウジ! 重力制御ユニット、出力限界や! このままやと転覆するで!」

 チャコの声が悲鳴のように響く。

 計器のランプが次々と赤く点滅し、警告音が鳴り止まない。

 

 リュウジは舵を握ったまま、冷静に状況を見極めた。

 「……わかった。重力制御ユニット、停止する」

 「な、なに言うてんねん!? そんなんしたら船、浮かへんくなるで!」

 「浮かせなくていい。――“持たせる”」

 

 その瞬間、リュウジの指が迷いなくスイッチを叩いた。

 重力制御ユニットの出力計が一気にゼロへと落ち、船体が海に落ち、大きく傾ぐ。

 甲板から悲鳴のような軋みが伝わる。

 

 「姿勢制御ユニット、全出力に切り替える!」

 リュウジは操縦桿を押し込み、ブースター系統のバルブを全開にする。

 「チャコ、補助電源を姿勢制御に回せ!」

 「わ、分かった! 電力転送ルート、リダイレクト中!」

 

 チャコが素早く操作盤の端子を切り替え、コードを差し替える。

 パネルの表示が「ENERGY FLOW: RE-ROUTED」と切り替わり、姿勢制御ユニットに青いランプが灯った。

 

 「姿勢制御ユニット、エネルギー流入確認!」

 「よし――」

 リュウジは舵を切り、波の頂点で操縦桿を軽く引いた。

 

 轟音と共に、船底のスラスターが唸りを上げる。

 オリオン号の傾きが徐々に戻り、海のうねりに合わせて船体が姿勢を立て直していく。

 

 「……持ち直した、か!?」

 チャコの声が震える。

 

 「まだだ。風向きが変わる――左舷、3度修正!」

 「了解!」

 チャコが舵をサブモードに切り替え、機体バランスを補正する。

 

 雷光が再び空を貫き、真白な閃光が操縦室を照らした。

 だがその瞬間、リュウジの表情には、恐怖ではなく研ぎ澄まされた集中が宿っていた。

 

 「――耐えろよ、オリオン号」

 

 激しい風と波に翻弄されながらも、

 リュウジの指先は微細な調整を繰り返し、船体を安定させ続ける。

 

 チャコはちらりと隣の横顔を見た。

 汗が流れ落ちているはずなのに、その目はまるで嵐を見透かしているようだった。

 

 「……ほんまに、すごい奴やな」

 チャコが呟く。

 

 リュウジは短く息を吐き、舵を固定した。

 「制御安定。……嵐は正面を抜ける。あとは時間の問題だ」

 

 オリオン号は、荒れ狂う波の中で再び直立を保ち、

 まるで意志を持つ生き物のように、逆巻く風を切り裂いて進み続けた――。

 

⬜︎

 

船体がきしむたび、梁が低く唸った。壁に吊した布がばさりと舞い、次の瞬間、床下の隙間から冷たい海水が一気に噴き上がる。

 

 「きゃっ――!」

 シャアラが悲鳴をのせ、シンゴが跳ね起きた。

 

 「やばい! 入ってきてる!」

 「バケツ! 布! なんでもいい、掻き出して!」

 ルナの声が一気に空気を締める。ハワードは「うぇ、冷たっ……」と顔をしかめつつもバケツを手に、ベルは黙々と床の水を押しやる。アダムは小さな容器を握りしめ、「僕、がんばる!」と往復を始めた。シンゴは板に布を巻きつけ、即席のワイパーを作って水を掃く。

 

 「こっちの隙間を塞げ。流れを一方向に集めれば、効率が上がる」

 寝室の出入口に、青ざめた顔のカオルがふらつきながら現れた。額には汗、足取りはまだ重い。それでも視線は鋭い。

 「ベル、右舷側を頼む。ハワード、流れの先にバケツ置いとけ。シャアラ、布で吸っては絞れ。リズム崩すな」

 「……了解だ」ベルが穏やかに頷き、ハワードも「僕に任せろ!」とぎこちない笑顔で持ち場に走る。

 「私、やる……!」シャアラは震える手で布を絞り、再び床に膝をついた。

 

 「いいわ、その調子!」

 ルナは全体を見渡しながら、個々に短く声をかけ続ける。呼吸が合い、動きが揃う。何度も波が叩きつけるたびに室内が揺れたが、誰ひとり手を止めなかった。

 

 十数分が永遠のように過ぎ――やがて水の勢いが鈍った。

 「……止まった?」

 ハワードがおそるおそる顔を上げる。

 「まだ油断はするな。だが――いったんは凌いだ」メノリが息を荒くしながらも、落ち着いた声でまとめた。

 ルナは皆の顔を見て、ほっと笑う。

 「みんな……船酔いは?」

 「なんか、忘れてたよ」ハワードは柔らかく頷いた。

 「私も……大丈夫」シャアラが小さく笑みを見せ、アダムも「僕、もう平気!」と胸を張る。

 「私も大丈夫だ」とメノリが一つ息を吐いて告げる。「寝たら治っちゃった」とシンゴは笑っている。

 カオルは壁にもたれ、息を整えながら短く言う。「やれる。まだいける」

 その様子にルナはホッと息を吐くとともに、笑顔を見せた。

 

 一方その頃ーー

 

 操縦室。

 雨ではなく、まるで海そのものが空から叩きつけているようだった。

 窓の外は真っ白で、波頭がまるで生き物のようにうねりながら船体を叩く。

 リュウジの両手は操縦桿を握り締め、額からは汗が滲み落ちていた。

 チャコは計器盤の前で警報音を止めようと懸命に指を走らせている。

 

 「姿勢制御ユニットの出力、限界や! このままやと横転するで!」

 「……わかってる!」

 リュウジは舌打ちをして、指先で操作スイッチを切り替えた。

 「姿勢制御に全エネルギーを回す。チャコ、調整できるか!」

 「やってみる! でも負荷がデカすぎるで、ユニットがもたんかもしれん!」

 

 計器の針が赤く振り切れる。

 船が大きく持ち上がったかと思えば、海へ叩きつけられる。

 衝撃で天井パネルが外れ、火花が散った。

 

 「くっそ……!」

 リュウジは操縦桿を両手で押さえ込み、船体を波の角度に合わせて舵を切る。

 「右舷、当て舵二度! 姿勢制御ユニットを30%維持!」

 「了解っ!」

 チャコの耳がぴくりと動き、即座に操作を追従した。

 オリオン号の船体がわずかに浮き上がり、波の谷間を滑るように走る。

 

 それでも――前方の海が、黒い壁のように立ち上がった。

 まるで“山”が動くように、波が生き物のように迫ってくる。

 

 「次の波はデカいで! 山みたいなんがくる!」

 「分かってる……ッ!」

 操縦席のリュウジは舵を握る手にさらに力を込めた。

 両肩にかかる負荷で、筋肉が軋む。

 まるで操縦桿そのものが、生きた獣のように暴れているかのようだった。

 

 そのとき――無線が割れた。

 

 『……リュウジ! ルナが海に落ちた! 右舷側だ!』

 メノリの声だった。悲鳴にも似た声が、雷鳴を割って操縦室に響き渡る。

 

 「……なんだと!?」

 リュウジの顔が一瞬にして蒼白になる。

 「どの方角や!」

 『右舷側、後方に流された! 波が強くて、見えない!』

 

 チャコの指が止まり、リュウジを見た。

 「まさか……!」

 リュウジは舌打ちし、すぐに舵を操作しようとした。

 だが――チャコが叫んだ。

 「やめぇ! 今ここで向きを変えたら、波に叩き潰されるで!」

 「それでも行くしかないだろ!! ルナが……海に落ちたんだぞ!」

 

 操縦桿にかけた手が震える。

 それは恐怖ではなく、焦燥。

 頭の奥で、かつての事故――「悲劇のフライト」の記憶が甦る。

 助けられなかった、あの絶望の瞬間。

 

 「……同じこと、もう二度と繰り返さない」

 低く、誰にも聞こえない声で呟き、リュウジは舵を右へ切る。

 

 「チャコ、右舷姿勢制御、フル稼働だ! 波を切る!」

 「無茶やっちゅうねん! 船体が裂けるで!」

 「構うか!!」

 

 リュウジは全身で舵を押し込み、エネルギーを再配分。

 姿勢制御ユニットが悲鳴を上げるような音を立て、オリオン号の船体が強引に横波へと突っ込んでいく。

 雷光が閃き、前方の海が一瞬だけ白く照らされた。

 その一瞬の中で――リュウジの目は確かに見た。

 波間に浮かんだ、オレンジ色のライフジャケット。

 

 「いたっ……!」

 だが次の瞬間、巨大な波が襲いかかり、視界が再び暗転した。

 波の壁に飲まれ、ルナの姿は完全に見えなくなった。

 

 「ルナァ――ッ!!!」

 リュウジの叫びは嵐の轟音に掻き消された。

 

 船体は上下に激しく揺さぶられ、計器が悲鳴を上げる。

 「リュウジ! もう出力もたへん! ユニットが焼けるで!」

 「まだだ! ……まだなんとかなる!」

 彼の額を汗と雨が流れ落ち、視界は歪んでいた。

 

 チャコは歯を食いしばり、計器を睨む。

 「ルナ、どこにおるんや……頼む、無事でおうてくれ……!」

 

 雷鳴が空を裂き、波が一層高くなる。

 オリオン号の姿勢制御ユニットが限界音を発し、船体が大きく軋んだ。

 

 リュウジは舵輪を離さない。

 その目は、嵐の闇の奥を、ただひたすらに――

 ルナの姿を探していた。

 

⬜︎

 

――嵐が過ぎた夜。

 

 長く続いた怒涛のような風と雨は、いつの間にか静まり返っていた。

 波のうねりは弱まり、砕ける音も消え、ただ穏やかな海が月明かりを受けてゆるやかに光っている。

 

 雲の切れ間から顔を覗かせた満月は、まるで嵐の爪痕を癒すように、静かで、そしてどこか寂しげだった。

 

 リュウジは操縦席に座り、沈黙の中で計器を見つめていた。

 まだわずかに震える手で、重力制御ユニットのレバーに指をかける。

 「……重力制御ユニット、再起動」

 小さく呟くと、船内に低い唸り音が広がる。

 数秒後、制御パネルに緑のランプが灯り、エネルギーが安定したことを告げた。

 

 「……ふぅ」

 ようやく息を吐き、彼は背もたれに体を預けた。

 それでも目の奥にはまだ緊張が残っていた。

 あの嵐の中で――ルナが海へ消えていった光景が、頭から離れない。

 舵を握りながら、彼は心のどこかでまだ信じていた。

 ルナが、あの海のどこかでまだ生きていると。

 

 「チャコ……船体、どうだ」

 「……なんとか無事や。姿勢制御は一部オーバーヒートしとるけど、沈む心配はなさそうや」

 「そうか……助かったな」

 リュウジはそう言いながらも、顔を上げようとしなかった。

 船外の静けさが、逆に重くのしかかる。

 

 チャコは少し間を置き、そっと言葉を続けた。

 「……ルナのこと、気にしとるんやな」

 リュウジは何も答えなかった。

 ただ、指先がわずかに震えているのをチャコは見逃さなかった。

 「ウチらが助けられへんかったこと、ウチも悔しい。でも……ルナはあんな簡単に沈む子やない。そうやろ?」

 

 リュウジはゆっくりと目を閉じた。

 嵐の轟音、雷光の中で見たオレンジの光――

 波に飲まれたその一瞬の姿が、網膜に焼きついて離れない。

 

 「……そうだな。あいつは、簡単に死ぬようなやつじゃない」

 「せやろ?」

 「でも……今は、無事でいてくれと願うしかない」

 リュウジの声はかすかに震えていた。

 

 チャコは静かに頷き、尾を小さく振った。

 「ほな、みんなのとこ行こ。心配しとる」

 「ああ……行こう」

 

 リュウジは重力制御ユニットの出力を止め、オリオン号のエンジンを静かに落とす。

 船内の機械音が次第に消えていき、代わりに満月の光が窓から差し込んだ。

 リュウジはその光を見上げ、ひとつ小さく息を吐く。

 

 「……ルナ、どこにいるんだ」

 

 そう呟き、彼は操縦席を離れた。

 足取りは重く、それでも彼は歩き出す。

 ――仲間たちの元へ。

 

 その背に、チャコが静かに言った。

 「リュウジ。ウチら、絶対にルナを見つけるで」

 

 彼は振り返らずに答えた。

 「……ああ。必ずだ」

 

 満月の光が、静かな海面に揺れていた。

 それはまるで、遠くどこかでまだ――

 ルナが生きていると、そう告げているかのようだった。

 

 ⬜︎

 

 リュウジとチャコが寝室の扉を開けた瞬間、胸を締めつけるような光景が広がった。

 

 アダムは床に座り込んで大声で泣いていた。

 小さな手が震え、涙で濡れた頬を何度もぬぐう。

 「ルナぁ……ルナぁっ……!」

 その声は、幼い祈りのようで、誰の心にも突き刺さった。

 

 シャアラも隅の壁に背を預け、両手で顔を覆って泣いていた。

 「うそ……こんなの、うそよ……!」

 その肩が震えるたびに、髪が涙で頬に張りつく。

 

 シンゴは拳を握りしめ、嗚咽まじりに叫んだ。

 「僕のせいだっ! もっとちゃんとした船を作っていれば……! ルナは……!」

 ベルが黙って近くの床を拳で叩いた。

 「なんで……俺は、守れなかったんだよ……!」

 その音が、静まり返った寝室に何度も鈍く響いた。

 

 ハワードは壁際に座り込んでいた。

 両膝を抱え、俯いたまま動かない。

 「……これ、夢だよな。だって……ルナが、いなくなるなんて……」

 その声は掠れ、かつての軽さはどこにもなかった。

 

 メノリは海をじっと見つめている。

 「すまない、ルナ」

 その声は震え、まるで自分を責めているようであった。

 

 カオルは黙って壁に背を預け、腕を組んだまま目を閉じていた。

 その顔には深い後悔が滲んでいる。

 彼は一言も発さず、拳を強く握りしめたままだ。

 

 リュウジはその光景を黙って見つめていた。

 誰もが悲しみに沈み、言葉を受け取れる状態ではなかった。

 声をかけても届かない――そう思った。

 

 彼はアダムの隣にしゃがみこみ、肩にそっと手を置いた。

 「……アダム。ルナの声は、聞こえるか?」

 アダムはぐしゃぐしゃに涙で濡れた顔を上げ、鼻をすする。

 「……何にも聞こえない……何にも、もう……」

 その小さな声に、リュウジは何も返せなかった。

 

 ――一瞬、言葉が喉で止まる。

 自分が言うべき言葉が、見つからなかった。

 

 ただ静かに、ひとつ息を吐くと、リュウジは立ち上がり、寝室を出た。

 チャコが心配そうにその背を追う。

 

 「リュウジ……どこ行くんや……?」

 「……操縦室に行く」

 短く答えた声には、押し殺した怒りと悔しさが滲んでいた。

 

 操縦室の入り口まで来ると、リュウジは拳を握りしめ――

 そのまま、全力で扉を殴りつけた。

 「クソッ……!!!」

 金属の壁が鈍い音を立てて凹み、拳の皮が裂ける。

 流れた血が、月明かりに赤く光った。

 「ルナを海に落としたのは俺のミスだ」

 

 チャコは驚いて声を失い、数秒の沈黙のあと、静かに言葉をかけた。

 「……リュウジ。今、嵐も止んどる。ルナのこと、ウチも諦めたくない」

 リュウジは扉に額を押しつけたまま、目を閉じた。

 

 「……諦めてたまるか」

 「せやろ? せやけど、今のまま動いても、見つけられへん」

 チャコは操縦室の窓を見上げ、月明かりを見つめた。

 「とりあえず、この辺りを回ってみよ。どこかに流れ着いとるかもしれへん」

 

 リュウジは深く息を吐き、拳をゆっくりと開いた。

 「……ああ、そうだな」

 そして血の滲む手で、そっと壁を撫でながら呟いた。

 「ルナ……絶対に見つけるからな」

 

 満月が静かに輝き、波の音だけが聞こえる夜。

 その光が、ふたりの決意を照らしていた。

 

⬜︎

 

――夜が明けた。

 

 操縦室の窓から差し込む朝日が、疲れ切ったリュウジとチャコの顔を淡く照らしていた。

 二人はほとんど眠らず、夜通しレーダーと外の海を交互に確認していた。

 ライトを照らし、周囲を旋回しても――ルナの姿はどこにもなかった。

 

 静まり返った操縦室。

 計器のかすかな電子音と、波が船体を叩く音だけが響いている。

 チャコはモニターの明滅を見つめながら、小さく呟いた。

 「もう何周、回ったか分からんわ……」

 リュウジは答えず、ただ視線を前方の海に向けたまま。

 目の下には濃い隈ができ、瞳は赤く充血していた。

 

 その時、操縦室の扉が静かに開いた。

 メノリが入ってくる。

 両手に、簡素な朝食と水の入ったカップを持っていた。

 「……少しでも口にした方がいい。何も食べてないんだろう?」

 その声は掠れていて、彼女の頬には乾ききらない涙の跡が残っていた。

 

 リュウジは一瞬だけ振り向き、メノリを見た。

 だが、手は動かない。

 「……みんなは、どうしてる」

 低い声で尋ねると、メノリは少し俯きながら答えた。

 「アダムは、ずっとルナを呼んでる。甲板に立って、テレパシーで何かを伝えようとしてるみたいだ」

 「……そうか」

 「シンゴとベル、それにカオルとハワードは甲板のあちこちを探してる。

  シャアラも見張り台に上がって、遠くを見続けてるわ」

 

 言葉を続けるうちに、メノリの声がわずかに震えた。

 「……皆、何かしてないと、落ち着かないんだ」

 

 リュウジは黙ったまま、外の水平線を見つめていた。

 その表情は、感情を押し殺しているようで、それでいてどこか祈るようでもあった。

 

 「……リュウジ、お前も少し休め」

 メノリが静かに言う。

 「一晩中、探してたって聞いている。そんな状態で倒れたら……今度こそ、誰も立てなくなる」

 

 リュウジは短く息を吐き、首を横に振った。

 「……寝てる場合じゃない。海は気まぐれだ。今も流されてるかもしれない」

 その声音には焦りよりも、冷たい決意のような響きがあった。

 

 メノリは少し黙り、リュウジの横顔を見つめた。

 夜明けの光が頬を照らし、その影はどこか儚かった。

 「……わかった。でも、無理だけはするな」

 小さくそう告げて、メノリは静かに操縦室を後にした。

 

 扉が閉まる音が響いたあと、再び静寂が戻る。

 チャコはレーダーに映る波形を見ながら、低く呟いた。

 「……ウチ、思うねん。ルナはどっかで、まだ笑っとる気がする」

 リュウジはわずかに口元を動かした。

 「だったら……探すしかないだろ」

 

 窓の外、朝の光が海を照らす。

 静まり返った青い水面を、二人の影を乗せたオリオン号が、ゆっくりと進んでいった。

 

⬜︎

 

――海上の朝は静かだった。

夜明けの太陽が、薄く雲を染めながら昇っていく。

だがその光景を眺める余裕など、リュウジとチャコにはなかった。

 

操縦室では、チャコが投影している簡易的な航路図が映し出されていた。

リュウジは肘をつきながら航路図に視線を落とし、短く言った。

 

「……このまま同じルートを回っても、見つかる確率は低い」

「せやな。潮の流れも変わっとるし、風も昨夜とは違う方向や」

チャコは電子コンパスを確認しながら頷く。

「ルナが落ちたんは南東の方角。せやけど、夜のうちに潮が東へ流れたなら……今はもっと先に流されとるかもしれへん」

 

リュウジは顎に手を当て、考え込む。

その目は鋭く、眠気の影さえ見せない。

「……よし、探索範囲を広げる。

 南東から東の海域、こっから十キロ圏内を重点的にだ。

 波の流れと風の向きを計算すれば、おそらくこのラインだ」

 

リュウジは指で航路図をなぞり、示した。

「こっから外れたら、今度は南に進路を取る。潮流の反転も考えとかないとな」

「せやけど、食料と水が気になるな……」

チャコはモニターの残量計を確認して、眉を寄せた。

「大陸のことを考えると、このペースやと、探索時間はあと一日半が限界やで」

 

「わかってる。けど、今は止まるわけにはいかない」

リュウジの低い声に、決意が滲む。

「……ルナは、きっとどこかで生きてる」

 

チャコはその言葉を聞き、少しだけ尻尾を揺らした。

「……ウチも、そう信じとる。

 ルナはな、仲間思いのええ子や。ウチらが諦めへん限り、あの子も絶対に諦めへん」

 

リュウジは小さく頷き、操縦席のスイッチを押し込んだ。

「よし、これより探索範囲を拡大する。

 重力制御ユニット、出力30%――推進方向、東南東へ」

 

機体がゆっくりと唸りを上げ、海を滑るように動き出す。

リュウジは操縦桿を握りながら、静かに呟いた。

 

「ルナ……待ってろ。必ず、見つけ出す」

 

その隣で、チャコがモニターの波形を見つめながら言った。

「ウチらの船、“オリオン号”はまだ動ける。せやから――ウチらも止まらへんで」

 

朝の光が海面に反射し、眩しく輝いた。

その光はまるで、失われた仲間へと続く希望の道のようだった。

 

⬜︎

 

そして、夜明けを越えて二度目の昼が過ぎた。

 

 海は穏やかで、雲ひとつない。だが、その静けさがかえって胸を締めつけた。

 ルナの手がかりは、依然として何一つ見つからない。

 

 操縦席に座るリュウジの目は赤く充血し、頬はやつれていた。

 レーダーの画面を食い入るように見つめ、波のきらめきを探る。

 その視線の先には、わずかな希望さえ逃すまいという焦燥があった。

 

 隣ではチャコが、椅子の上で尻尾を小さく揺らしながらリュウジの横顔を見ていた。

 「なぁ、リュウジ……」

 チャコの声は静かだったが、どこか心配が滲んでいた。

 「少し休んできたらどうや? 本当に倒れてまうで」

 

 リュウジはただ首を横に振った。

 「……寝てる場合じゃない」

 その声にはいつもの冷静さがなかった。

 焦りと苛立ち、そして――責任感。

 全てが重なって、張り詰めた糸のように震えていた。

 

 チャコは短くため息をつき、腕を組む。

 「カオルとウチは交代で休んどる。

  リュウジまで倒れたら、誰がこの船動かすんや」

 「心配するな。まだ動ける」

 「ウチは機械やけどな、人間は限界あるんやで」

 

 それでもリュウジは聞かなかった。

 夜も昼も関係なく、あの海を見つめ続ける彼の背に、誰も軽々しく声をかけられない。

 

 そのとき――無線機が突然鳴った。

 「……リュウジ、チャコ、聞こえるか?」

 メノリの声だった。いつもは落ち着いた彼女の声音が、わずかに震えている。

 「全員、甲板に集合してくれ。……すぐに」

 

 チャコとリュウジは顔を見合わせた。

 「何かあったんかいな……?」

 「行ってみよう」

 

 リュウジは操縦桿から手を離し、短く操作パネルを叩いた。

 「自動操縦に切り替える。速度維持、進路そのまま」

 「了解っと」チャコが頷き、システムをチェックする。

 

 オリオン号のエンジン音が安定したのを確認して、

 二人は立ち上がり、甲板へ向かう通路を歩き出した。

 

 チャコは歩きながらちらりとリュウジを見上げた。

 「……ほんま、無茶ばっかりするわ。

  ウチが倒れる前にお前が倒れそうや」

 「倒れてる暇があったら、ルナを探す」

 そう言うリュウジの声は低く、しかしその奥には確かな熱があった。

 

 操縦室の扉を開け、潮風が吹き込む。

 朝焼けが海面を照らし、眩しい光が二人の顔を照らした。

 

 リュウジはまぶしそうに目を細めながらも、

 胸の奥にたった一つの願いを抱いていた。

 

 ――どうか、ルナが生きていてくれ。

 

⬜︎

 

――甲板の上に、重たい沈黙が流れていた。

雲は薄く、海は穏やかに見える。だが、誰一人としてその静けさを美しいとは思えなかった。

 

 「……すまない」

 メノリが、俯きながら口を開いた。

 その声は震えていて、かすかに波音にかき消される。

 「これ以上、ルナを探すわけにはいかない」

 

 その言葉が響いた瞬間、皆の表情が一変した。

 

 「な、何言ってるんだよ!」とシンゴが叫んだ。

 「見捨てる気かよ!」とハワードも声を張り上げる。

 

 だが、メノリは揺れない。

 「……これ以上、ルナの探索に時間をかければ、いずれ食料も水も底をつく」

 静かな声だった。だが、その冷静さがかえって皆の胸に刺さった。

 

 「それはそうやけど……」とチャコが眉を寄せた。

 「まだ諦めるには早すぎるやろ」

 

 「僕もいやだ!」

 アダムが小さな拳を握りしめて叫ぶ。

 その目には涙が浮かんでいた。

 

 メノリはついに声を荒らげた。

 「わがままを言うな!」

 その瞬間、全員が息を呑んだ。

 「……私だって、ルナを置いて大陸に行くことは嫌だ。

  でも、ルナが命を懸けてここまで導いてくれた。その想いを無駄にするわけにはいかないんだ!」

 

 彼女の語尾が震え、風にかき消されそうになる。

 「分かって……くれ……」

 そう呟いて、メノリはゆっくりと俯いた。

 

 甲板に、重たい沈黙が落ちた。

 誰も、次の言葉を見つけられない。

 ただ、波の音と風のうねりだけが響いていた。

 

 その中で――リュウジが一歩、前に出た。

 「……メノリの判断は正しい」

 

 全員の視線が、いっせいに彼へと向かう。

 「ルナがいない以上、今はお前の意見に賛成するつもりだ」

 リュウジは一瞬だけ言葉を切り、顔を上げた。

 「……だが、断る」

 

 その言葉に、風が止まったかのように空気が張り詰めた。

 リュウジの瞳には、強い光が宿っていた。

 

 「食事の量を減らせば、まだ時間は稼げる。

  ルナを見捨てるつもりはない。……それだけは絶対に、俺は認めない」

 

 メノリは唇を噛みしめ、何も言わなかった。

 彼女の中でも、理性と感情がぶつかり合っていた。

 

 リュウジは一歩、近づいた。

 そして、静かに頭を下げた。

 

 「頼む」

 

 誰も息を飲むことすらできなかった。

 リュウジが頭を下げる――それは、彼を知る者にとって想像もしなかった光景だった。

 その姿には、命懸けで仲間を守ってきた男の“決意”があった。

 

 やがて、メノリは震える手を胸に当て、絞り出すように言った。

 「……分かった。リュウジの想い、受け取った」

 

 その瞬間、緊張がほどけ、全員が小さく息を吐いた。

 ルナはまだ見つかっていない。

 だが、彼らの心は一つになった――

 “もう一度、希望を探しに行く”ために。

 

⬜︎

 

海が水平線に伸びている中て、リュウジは無言のままマストを登っていった。

 

 潮風が肌を打ち、髪を乱す。

 錆びた手すりを掴む掌には、昨日からほとんど休んでいない疲労の震えが残っていた。

 それでも――登る手を止めなかった。

 

 「……ルナ、どこにいるんだ」

 誰に聞かせるでもなく、かすれた声がこぼれた。

 

 見張り台の上に辿り着くと、リュウジは両腕を縁にかけ、遠くを見渡す。

 昼の海はあまりにも静かで、まるで何もなかったかのように穏やかだった。

 けれどその広さが、今は残酷だった。

 あの小さな体が、あの荒れ狂う波の中で消えた――その事実を思い出すたび、胸が痛む。

 

 リュウジは目を細めながら、思い出す。

 

 ――あの夜、焚き火の光の中で笑っていたルナ。

 仲間を励ましながら、時には怒り、時には泣き、

 それでも誰よりも前を見ていた。

 

 『絶対に、みんなを大陸に連れていく。約束する』

 彼女の言葉を思い出す。

 

 「……嘘つきだな、お前」

 リュウジは苦笑しながら、呟いた。

 けれど、その目にはわずかに滲む光があった。

 

 ――あの夜、彼女が見せた強い瞳。

 仲間を守るために立ち上がった姿。

 それを知るリュウジには、彼女が死んだとはどうしても思えなかった。

 

 「まだ……どこかで、生きてるんだろ」

 風が彼の声を攫い、海へと流れていく。

 

 そのとき、甲板の下からチャコの声が響いた。

 「おーい、リュウジ! そっち、何か見えへんかー?」

 

 リュウジは小さく息を吸い、海原を見渡す。

 「……何も見えない」

 けれど、その目はどこか遠くを追っていた。

 まだ、何かを信じている瞳だった。

 

 海の向こう。

 いつか、またあの声が聞こえる気がした。

 ――“大丈夫、きっとまた会えるよ”

 

 リュウジはその幻のような声を胸に刻み、

 見張り台からゆっくりと空を仰いだ。

 

 朝の太陽が昇り始める。

 彼の決意を、静かに照らしていた。

 

⬜︎

 

――茜色が、海と空を包み込んでいた。

沈みゆく太陽の光が、波に反射してきらめく。

その光の帯の中、リュウジは見張り台の上で無言のまま、

どこまでも続く水平線を見つめていた。

 

 頬を撫でる潮風は冷たく、まるで心の奥まで染み渡るようだ。

 長時間の探索で、瞳は赤く充血し、指先は塩で荒れていた。

 それでも彼は、視線を外さない。

 

 「……ここまでしても、見つからねぇか」

 その声は、風にかき消されるほど小さかった。

 

 どれほど探しても、あの笑顔は現れない。

 仲間も限界に近い。

 理性が告げていた――どこかで「覚悟」を決めねばならない、と。

 

 だが、胸の奥がそれを拒んでいた。

 諦めた瞬間、ルナとのすべてが過去になる気がして。

 それだけは、どうしてもできなかった。

 

 リュウジは息を吐き、遠くの海へともう一度目を凝らす。

 そのときだった。

 

 ――光った。

 

 ほんの一瞬、水平線の先で何かが反射した。

 見間違いかと思ったが、再び光が瞬く。

 リュウジは身を乗り出し、額に手をかざす。

 

 「……なんだ?」

 

 夕陽の彼方――海の上に、小さな影が見えた。

 島だ。

 孤島のように、ぽつりと浮かぶその影の上空に、薄く立ち上る“煙”。

 

 リュウジの胸が高鳴った。

 呼吸が速くなる。

 喉が熱くなり、頬を伝うものを抑えられなかった。

 

 「……いた……!」

 

 思わず声が漏れた。

 見張り台の風が、涙を乾かすように吹き抜ける。

 リュウジは手で目元を覆った。

 指の隙間から、雫がひとつ――海へと落ちていく。

 

 その瞬間、胸の奥で確信に変わった。

 “あそこに、ルナがいる”

 

 リュウジはすぐに見張り台の無線機に手を伸ばした。

 呼吸が荒く、指が震える。

 スイッチを押し込み、全チャンネルに切り替える。

 

 「ルナを見つけた! 島だ! 南南西の水平線上、煙が上がってる!」

 

 無線の向こうで、誰かの息を呑む音が聞こえた。

 「ルナを……!?」

 それは、震えるようなメノリの声だった。

 

 リュウジは無線機を強く握りしめた。

 「間違いない、あの煙は人のものだ! すぐに準備を――!」

 

 その声は、甲板の隅々まで響いた。

 絶望の中に沈んでいた仲間たちの胸に、再び“灯”がともった瞬間だった。

 

 ――海の彼方に、希望の煙が立ちのぼる。

 それは、ルナがまだ生きていることを告げる“光”だった。

 

⬜︎

 

 茜色の空の下、波打ち際に人影があった。

 ルナだった。

 ボロボロの服の裾を潮風が揺らし、髪は濡れて頬に張りついている。

 それでも彼女は――眩しい笑顔で、両腕を大きく振っていた。

 

 「――みんなぁーっ!!!」

 その声はかすれていたが、確かに届いた。

 

 オリオン号の甲板にいた全員が、その瞬間、息を呑んだ。

 「ルナだ……!」「嘘……!」

 メノリが涙を溢れさせ、ハワードが目を見開く。

 シンゴは声を詰まらせ、アダムは無言で甲板の手すりにしがみついていた。

 

 リュウジは、すぐにマストを駆け下りた。

 海岸に向かう彼の足はふらついていた。

 嵐の中、二晩も寝ずに操縦と探索を続けた身体は、限界に近かった。

 それでも、止まることができなかった。

 

 「ルナ……!」

 

 甲板から降りる梯子を滑るように下り、リュウジは砂浜を目指す。

 仲間たちが後を追おうとした時――彼の身体がふらりと傾いた。

 

 「リュウジ!」

 

 先に駆け下りていたカオルが、倒れ込む彼の身体を抱きとめた。

 リュウジの肩は熱く、呼吸が荒い。

 「無茶しすぎだ」

 カオルの声には苛立ちと、同時に心配が滲んでいた。

 

 リュウジは薄く笑った。

 「……バカ野郎、こんなの、いつものことだろ」

 そう言っても、力が入らない。

 カオルはため息をつきながら、そのまま彼を肩に担ぎ上げた。

 「ほら、もう喋るな。寝てろ」

 

 甲板に戻ると、チャコとメノリが駆け寄る。

 「リュウジ!? 意識は!?」「寝かせてやれ!」

 カオルは短く言い、リュウジを寝室のベッドにそっと降ろした。

 その後、静かに扉を閉めて外へ出ていった。

 

 ルナは砂浜の上でチャコに支えられていた。

 「ルナ。よう頑張ったなぁ……! ウチ、もう心臓止まるか思たわ」

 チャコが涙ぐみながら笑う。

 

 シャアラは大粒の涙をポロポロ流している。

 「本当に良かったよ」

 

 メノリが駆け寄り、ルナの頬をそっと撫でる。

 「顔が……ひどい。無理しすぎだ」

 「へへ……みんなの顔が見たくて」ルナはかすれた声で答えた。

 チャコがルナの頬にセンサーを当て、数秒後にピピッと音が鳴る。

 

 「軽い脱水症状やな。けど、問題ないわ」

 チャコが安堵の声を上げると、周りからもほっとした息が漏れた。

 「よかった……」とベルが微笑む。

 

 「ルナ、本当によく……戻ってきた」

 メノリが震える声で言うと、ルナはかすかに笑った。

 「……ただいま、みんな」

 

 その笑顔を見て、誰もが泣いた。

 ハワードでさえ目元を拭い、ベルは言葉も出せず頷くだけだった。

 アダムはその小さな手でルナの手を握り、まるで母に触れるように離さなかった。

 

 ルナは弱々しく笑いながら、空を見上げた。

 雲の切れ間から光が差し込み、まるで祝福のように彼女の頬を照らした。

 

 その頃――寝室のベッドでは、リュウジが静かに目を閉じていた。

 外のざわめきが聞こえていた。

 その安堵を胸に、彼はようやく深い眠りに落ちた。

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