サヴァイヴ(オリジナル小説)   作:一塔

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二人

 

 

 ソーラ・デッラ・ルーナの訓練棟は、時間の感覚が薄くなる場所だった。

 

 外から見れば、月と太陽を重ねたような意匠を持つ美しい施設だ。照明は柔らかく、案内表示もどこか洗練されていて、初めて訪れた者は「空港」というより「都市の中の静かな中枢」だと感じるだろう。だが、その内部、とくに訓練棟の奥へ進むと印象は変わる。

 

 壁は無機質で、床は乾いた硬い音を返す。

 温度は低めに保たれ、空調は一定。

 モニターの光、計器の電子音、遠くで動くシミュレーターの駆動音。

 そこでは時間よりも、反応速度と手順の正確さのほうが重要だった。

 

 リュウジは、その環境が嫌いではなかった。

 

 むしろ、余計なものが削ぎ落とされているぶん、考えやすい。

 身体を動かし、神経を削り、操縦感覚だけを研ぎ澄ませる。

 それは、言葉を使わなくていい時間でもある。

 

 だから最近、彼はそこへ足を運ぶことが増えていた。

 

 ソーラ・デッラ・ルーナの訓練区画の一室。

 円形のシミュレーターポッドが三基並び、その一番奥で、リュウジは一人、繰り返し同じ訓練を回していた。

 

 手動操縦。

 低視認下。

 外部センサー遅延。

 不規則隕石帯。

 姿勢制御の一部欠損。

 重力嵐に類する乱流ノイズ。

 中継不安定。

 未知空間侵入時の応答遅れ。

 

 どれも、正式な任務として東の未探索領域が決まったわけではない今の段階では、少しやりすぎな内容だった。

 

 だが、リュウジは止めなかった。

 

「……もう一度」

 

 ポッドから出ることなく、次のシミュレーションを立ち上げる。

 

 視界に走るノイズ。

 不規則な揺れ。

 遅れて入る警告。

 操作と反応の間に生まれる、わずかな“間”。

 

 その間が、命取りになる。

 

 少なくとも、未探索領域では。

 

 いや、東の未探索領域だけではない。

 西も、北も、南も、危険はあった。

 救助任務も同じだ。

 ただ東は、その不確定要素が濃すぎる。

 

 先が読めない。

 規則がない。

 今までの経験が、そのまま答えにならない。

 

 だからこそ、少しでも身体に落とし込んでおきたかった。

 考えてから動くのでは遅い。

 身体が先に反応し、その上で頭が追いつくくらいでないと意味がない。

 

 警告が鳴る。

 左前方、隕石群。

 擬似重力低下。

 センサー遅延二・四秒。

 手動補正。

 

 リュウジの指が迷わず動く。

 姿勢を半拍ずらし、抜ける。

 だが次の瞬間、右側から別の群れが流れ込んできた。

 

「……遅い」

 

 小さく呟く。

 自分の反応に対してだ。

 

 避けきれはした。

 でも今のは、未探索領域基準なら遅い。

 

 次。

 次のケースへ入る。

 

 酸素供給安定。

 視界不良。

 内部通信ノイズ。

 外壁微損傷。

 再突入角修正。

 

 シミュレーションの中で、リュウジは何度も同じ死線を潜った。

 

 被弾。

 回避。

 再計算。

 押し戻される姿勢。

 外乱。

 わずかな読み違い。

 それを上書きするように、さらに次。

 

 額に汗がにじむ。

 呼吸が少しずつ深く、重くなる。

 それでも止めない。

 

 東の未探索領域は、まだ決まっていない。

 それは事実だ。

 だが、決まってから準備して間に合う場所でもない。

 

 もし行くなら。

 もし、本当にあそこへ向かうなら。

 今のままでは足りない。

 

 シミュレーターの終了音が鳴る。

 結果表示が浮かぶ。

 生還判定。

 だが、内部損耗率は高い。

 クルー負荷も基準を超えている。

 

 リュウジは表示を一瞥しただけで、次の設定を開いた。

 

 もっと厳しく。

 もっと読めない条件で。

 もっと実戦に近く。

 

 ポッドの外では、管理用端末に記録が溜まっていく。

 訓練開始時刻。

 セッション数。

 心拍。

 反応速度。

 疲労指標。

 

 もうかなり前から、休憩推奨表示は点灯したままだった。

 

 だが、リュウジは無視していた。

 

 ――あと一回。

 ――もう一回だけ。

 ――ここを抜けられないと意味がない。

 

 そうやって回し続けるうちに、時間の感覚は薄れていく。

 

 シミュレーターの天井が開いたのは、何周目かも分からなくなった頃だった。

 

「やり過ぎよ」

 

 よく通る声だった。

 

 静かだが、怒っている時のクリスタルの声だとすぐに分かる、少し低めの温度。

 

 リュウジが顔を上げる。

 ポッドの外に立っていたのは、クリスタルだった。

 

 ソーラ・デッラ・ルーナのメディカルスタッフ用の軽装。

 細い腕を組み、呆れたようにこちらを見下ろしている。

 

「……クリスタル」

 

「何回回したの」

 彼女は端末を軽く持ち上げた。

「途中から数えるのやめたけど、休憩推奨が出てからも普通に続けてるわよね」

 

「まだ平気だ」

 

「そういう返事する時は大体平気じゃないのよ」

 クリスタルは容赦なく言う。

「降りなさい」

 

 リュウジは数秒だけ黙った。

 それから、抵抗しても無駄だと悟ったのか、シートベルトを外してポッドから降りる。

 

 足を床につけた瞬間、わずかに身体が重い。

 それでも表には出さない。

 

 だがクリスタルは、そういう小さな揺れを見落とす人ではない。

 

「ほら」

 彼女が言う。

「もう重心が少し後ろに逃げてる。自分で分かってないだけで、かなり疲れてるわよ」

 

「……そこまでじゃない」

 

「そこまでなのよ」

 クリスタルは真顔で言った。

「未探索領域の調査を行う前に、バテるわよ」

 

 その言葉に、リュウジの視線がわずかに揺れる。

 

「まだ決まってない」

 低く返す。

 

「分かってるわよ」

 クリスタルも即答した。

「決まってない。でも、決まる前から身体を削ってるのは事実でしょ」

 

 リュウジは何も言わなかった。

 

 クリスタルは少しだけ息を吐く。

 怒っている。

 でも、その怒りは責めるためのものではない。

 

「ねえ、リュウジ」

 彼女は少しだけ声を落とした。

「準備するなって言ってるんじゃないの。ただ、準備で壊れたら意味がないって言ってるの。未探索領域に行くなら、あんた一人の身体じゃ済まない。神経も、判断も、呼吸も、全部使う。だから今、変な削り方しちゃ駄目」

 

 リュウジは、床に視線を落とした。

 

 言っていることは正しい。

 正しすぎる。

 

 だから返しにくい。

 

「……分かってる」

 ようやく言う。

 

「分かってる人は、休憩推奨を無視しないのよ」

 クリスタルはぴしゃりと言う。

「それに」

 端末画面を見せる。

「反応速度、三本前から落ちてる。集中で押し切ってるだけ、こういう時のあんた、昔から一番危ないわ」

 

 昔から。

 

 その言葉に、リュウジは少しだけ目を細める。

 

 悲劇のフライトのあとも。

 サヴァイヴで生きていた時も。

 帰ってきてからも。

 

 止まれなくなる時の自分を、クリスタルはよく知っている。

 

「座って」

 彼女は近くのベンチを顎で示した。

「水飲んで、今の顔で“平気”は通らない」

 

 リュウジは、言われるまま近くの簡易ベンチへ腰を下ろした。

 クリスタルが無言で渡してきたボトルの水を受け取り、少しだけ口をつける。

 

「何」

 クリスタルが言う。

「不服そうな顔」

 

「別に」

 

「出た、別に」

 彼女は少しだけ呆れたように笑った。

「ほんと、そういうところは昔から変わらない」

 

 その時だった。

 

 リュウジの端末が、小さく震えた。

 

 通知音。

 新着メッセージ。

 

 何気なく画面を見て、リュウジの視線が止まる。

 

 差出人の名前は、エリンだった。

 

 クリスタルがその様子に気づく。

 

「……誰?」

 

「エリンさん」

 

 クリスタルの眉が、ほんの少しだけ上がる。

 

「へえ」

 

 リュウジは、それ以上の反応を返さずにメッセージを開いた。

 

 短い文章だった。

 

 ――今夜、家に来てほしい。

 

 それだけ。

 

 飾りもない。

 前置きもない。

 でも、エリンらしい言い方だった。

 

 今夜。

 家に。

 来てほしい。

 

 リュウジは、その短い言葉を数秒見つめたまま動かなかった。

 

「何て?」

 クリスタルが聞く。

 

「……今夜、家に来てほしいって」

 

「ふぅん」

 クリスタルはその返事を聞いて、わざとらしくもなく口元を緩めた。

「それはまた、ちゃんとした呼び方ね」

 

「……そうだな」

 

「行くんでしょ?」

 

「行く」

 リュウジは即答した。

 

「なら、なおさら今日はここで終わり」

 クリスタルはすぐに言う。

「その顔で行ったら、エリンにまず疲れすぎって怒られるわよ」

 

 それは十分ありそうだった。

 

 リュウジは端末を閉じ、小さく息を吐く。

 クリスタルは、そこでようやく少しだけ表情を和らげた。

 

「まあ」

 彼女が言う。

「よかったじゃない。向こうから呼んでくれたんでしょう?」

 

 リュウジはすぐには答えなかった。

 

 エリンが呼ぶ。

 今夜、家に来てほしい、と。

 

 それがどういう意味を持つのかは、まだ分からない。

 未探索領域のことだろう。

 他にない。

 

 だが、少なくとも“話す”つもりでいてくれるのだろう。

 それだけで、胸の奥に少しだけ深く息が入る感覚があった。

 

「……そうかもな」

 小さく言う。

 

 クリスタルは、その返答にそれ以上踏み込まなかった。

 

「じゃあ」

 彼女は立ち上がりながら言う。

「今日は終わり。軽くストレッチして、ちゃんと糖分入れて、無茶な移動しないこと、火星に行くなら、その前に一回休みなさい」

 

「分かった」

 

「ほんとに?」

 

「分かった」

 今度は、少しだけ素直に言う。

 

 クリスタルは満足したように頷いた。

 

「よろしい。あと……」

 少しだけ悪戯っぽく目を細める。

「エリンに変な顔見せないようにね」

 

「変な顔って何だ」

 

「今の、ちょっと削れた顔」

 クリスタルは容赦なく言う。

「ちゃんと人らしい顔で行きなさい」

 

 リュウジは小さく息を吐いた。

 

「……難しい注文だな」

 

「難しいから言ってるのよ」

 クリスタルは肩をすくめる。

「じゃ、行ってらっしゃい。今夜の話、無駄にしないで」

 

 

 火星へ移動する頃には、時間はすっかり夜に傾いていた。

 

 移動ポートの窓の外で、赤く鈍い火星の光が広がっている。

 人工航路の誘導灯が規則正しく並び、発着ゲートには遅い時間らしい静かな緊張感があった。

 

 リュウジは、移動中も必要以上には考えないようにしていた。

 

 考えれば、余計なことを考える。

 エリンが何を言うつもりなのか。

 どこまで話が進んでいるのか。

 認めるのか、認めないのか。

 それとも、また別の問いを突きつけられるのか。

 

 答えは、今考えても出ない。

 

 だから、無理に思考を回さなかった。

 

 火星の生活区画へ降りる。

 空気は木星圏と少し違う。

 乾いていて、でも夜の冷え方が静かだ。

 

 スペースホープの会社前に着くと、エリンはすでにそこにいた。

 

 会社の外灯の下。

 淡い色のコート。

 長い緑の髪。

 手には端末だけ。

 仕事帰りらしいが、少しだけ普段より力の抜けた格好だった。

 

 リュウジが近づくと、エリンは顔を上げる。

 

「来たのね」

 

「はい」

 リュウジは足を止めた。

「お待たせしました」

 

「そこまで待ってないわ」

 エリンが言う。

「時間通りだし」

 

 そのやり取りだけで、少しだけ肩の力が抜ける。

 

 完全に張りつめた空気ではない。

 でも、ただの雑談の温度でもない。

 

 エリンは少しだけ迷うような間を置いてから言った。

 

「じゃあ、行きましょうか」

 

「はい」

 

 二人で、会社前の通りを並んで歩く。

 

 火星の居住区画の夜は、木星圏よりも少しだけ灯りが低い。

 歩道脇の店舗は閉まり始めていて、人通りも少ない。

 生活音はあるが、遠慮がちだ。

 

 最初の数分は、ほとんど会話がなかった。

 

 気まずいわけではない。

 ただ、お互いに言葉を選んでいる感じだった。

 

 エリンの家は、会社からそう遠くない場所にあった。

 広すぎず、でも狭くもない。

 整っていて、エリンらしく必要なものが過不足なく並んでいる部屋だ。

 

 扉を開け、中へ入る。

 

「少し待ってて」

 エリンが靴を脱ぎながら言う。

「夕飯、作ってあげるから」

 

 その言葉が、思っていたより柔らかく落ちてきて、リュウジは少しだけ目を瞬かせた。

 

「……今からですか」

 

「そう」

 エリンは振り向く。

「嫌?」

 

「いえ」

 リュウジはすぐに首を振った。

「嫌じゃありません」

 

「ならいい」

 エリンはそう言ってキッチンへ向かった。

「適当に座ってて」

 

 リュウジは言われた通り、リビングの椅子へ腰を下ろした。

 

 部屋の中は、いつも通りきれいに整っている。

 ソファ。

 小さめのテーブル。

 本棚。

 観葉植物。

 キッチンからは、冷蔵庫を開ける音と、食器を出す音が聞こえる。

 

 その生活音を聞いていると、不思議と少しだけ落ち着いた。

 

 エリンは迷いなく冷蔵庫から材料を出していく。

 

 鶏肉。

 生姜。

 にんにく。

 調味料。

 片栗粉。

 ボウル。

 油鍋。

 

「……唐揚げですか」

 リュウジが小さく言う。

 

 キッチンに立ったまま、エリンが少しだけ口元を緩めた。

 

「そう、リュウジ、大好物なんでしょ」

 

 その言い方は、少しだけ得意そうで、少しだけ照れ隠しみたいでもあった。

 

 リュウジは、そこで小さく目を伏せる。

 

「……覚えていてくれたんですね」

 

「当たり前でしょう」

 エリンは下味をつけながら言う。

「何年の付き合いだと思ってるの」

 

 その返しが、妙にエリンらしかった。

 

 鶏肉へ調味料が揉み込まれていく。

 音がする。

 香りが少しずつ広がる。

 粉をまぶし、油を温める。

 

 リュウジは、しばらくその背中を見ていた。

 

 エリンの料理する姿は、派手ではない。

 手際がいい。

 無駄がない。

 でも、それだけではない。

 

 キッチン全体の空気が整っている。

 鍋と皿の位置。

 動く導線。

 使ったものの戻し方。

 全部が静かに揃っている。

 

 チーフパーサーをやる人間というのは、こういうところにも出るのかもしれないと、リュウジはぼんやり思った。

 

 やがて油の音が立ち始める。

 

 じゅ、と鶏肉が沈む。

 香ばしい匂いが一気に広がる。

 それだけで、部屋の温度が少し上がった気がした。

 

「……いい匂いですね」

 

「でしょ」

 エリンが少しだけ笑う。

「揚げたてが一番だから、ちゃんと待ってなさい」

 

「はい」

 

「返事が素直で逆に気持ち悪い」

 

「ひどいですね」

 

「本当のことよ」

 

 そんな軽いやり取りを挟みながらも、エリンの手は止まらない。

 

 付け合わせも用意し、味噌汁も温める。

 ご飯をよそう。

 テーブルへ並べる。

 

 揚げたての唐揚げが皿に盛られた時、部屋の空気はすっかり“夕飯の時間”になっていた。

 

「はい」

 エリンが言う。

「出来た」

 

 リュウジがテーブルへつく。

 エリンも向かいへ座る。

 

「いただきます」

 

「いただきます」

 

 最初の一口を食べた瞬間、リュウジの表情がわずかに緩んだ。

 

 衣は軽く、でもちゃんと香ばしい。

 中は熱い。

 味はしっかりしているのに重すぎない。

 

「……美味いです」

 

 その一言に、エリンはほんの少しだけ安心したように目を細めた。

 

「よかった」

「味、落ちてなくて」

 

「落ちるわけないだろうって思ってました」

 

「そういうこと、さらっと言うのね」

 エリンは少しだけ視線を逸らす。

「今さらだけど」

 

 唐揚げは、確かにリュウジの好物だった。

 それをエリンが覚えているのは当然だと彼女は言った。

 でも、その“当然”が、今は少しだけ重かった。

 

 昔から知っている味。

 知っている会話。

 知っている距離。

 

 けれど、今夜はそれら全部が少しだけ違う意味を持っている。

 

 リュウジは黙々と食べた。

 エリンも必要以上には喋らない。

 それでも、空気は張り詰めていない。

 

「ちゃんと噛んで」

 途中でエリンが言う。

 

 リュウジが少しだけ顔を上げる。

 

「……分かってます」

 

「分かってないから言ってるの」

 エリンは容赦ない。

「早い」

 

「そこまで早くないです」

 

「早い。今の、三回しか噛んでないでしょう」

 

 図星だった。

 

 リュウジが少しだけ黙ると、エリンはため息混じりに言う。

 

「未探索領域に行くかどうかはともかく、準備の前に胃を壊されたら馬鹿みたいよ」

 

 その言葉に、リュウジの動きが少し止まる。

 

 エリンは、そこでようやく真正面から視線を合わせた。

 

「クリスタルにも言われたんじゃない?」

 

「……言われました」

 

「でしょうね」

 

 エリンはそう言って、自分も唐揚げを一つ取った。

 

「やり過ぎよ」

 淡々と続ける。

「顔見れば分かる」

 

「そこまで分かりやすいですか」

 

「分かりやすい」

 エリンはきっぱり言う。

「少なくとも、私とクリスタルには」

 

 それ以上、リュウジは反論しなかった。

 

 食事は続く。

 

 味噌汁。

 ご飯。

 唐揚げ。

 少しの沈黙。

 

 その沈黙は、逃げている沈黙ではなかった。

 ちゃんと食べて、ちゃんと向き合う前の、必要な静けさだった。

 

 食べ終わる頃には、最初の緊張はかなり薄れていた。

 

 エリンが食器を下げようとすると、リュウジが立ち上がる。

 

「手伝います」

 

「いいわよ」

 エリンが言う。

 

「でも」

 

「じゃあ、運ぶだけ。洗うのは私がやる」

 

「分かりました」

 

 皿を運び、湯呑みにお茶が入る。

 キッチンの流水音がしばらく続く。

 リュウジはリビングで待ちながら、その音を聞いていた。

 

 この時間が、妙に落ち着く。

 

 ソーラ・デッラ・ルーナの無機質な訓練棟にいた数時間前とは、まるで別の世界みたいだった。

 

 やがてエリンが戻ってきた。

 手には湯呑みが二つ。

 

「はい」

 一つを渡す。

 

「ありがとうございます」

 

 リュウジが受け取る。

 

 湯気が立ち上る。

 リビングの空気は、夕飯後の少し柔らかい温度になっていた。

 

 エリンはソファではなく、向かいの椅子へ座った。

 リュウジも自然と姿勢を正す。

 

 それを見て、エリンが小さく息を吐いた。

 

「そんなに構えなくていいわよ」

 

「……無理です」

 

「正直ね」

 

「今夜、家に来てほしいって言われて、構えるなは難しいです」

 

 その返しに、エリンは少しだけ口元を緩めた。

 

「それもそうね」

 

 少しの沈黙。

 

 湯呑みの中で、お茶の表面がわずかに揺れる。

 

 そして、エリンがようやく本題を切り出した。

 

「未探索領域の調査のこと」

 静かに言う。

「今日は、その話をするために呼んだの」

 

「はい」

 

「まず最初に言うけど」

 エリンはまっすぐリュウジを見た。

「私は今でも、東の未探索領域が危険すぎるって考えは変わってない」

 

「……はい」

 

「そこは変わらない。変えるつもりもない」

 

 その声は落ち着いていた。

 以前みたいに感情が先走ってはいない。

 でも、その分だけ芯が硬かった。

 

「でも」

 エリンは少しだけ視線を落としてから続ける。

「私、自分で少し整理がついたの」

 

 リュウジは黙って待つ。

 

「私はずっと」

 エリンが言う。

「東だから駄目なんだと思ってた。危険だから、魔のゾーンだから、帰ってこれる保証がないから、それは今も本当。でも、それだけじゃなかった」

 

 その言葉に、リュウジの胸が小さく動く。

 

 エリンは湯呑みへ一度だけ視線を落とし、ゆっくり顔を上げた。

 

「私が本当に嫌だったのは、貴方が“一人で行こうとしてる”ことだった」

 

 リュウジは、そこで目を伏せた。

 

 図星だった。

 少なくとも、最初の時点では。

 

「悲劇のフライトのあとから」

 エリンは静かに続ける。

「貴方は、ずっと一人で背負ってきた。それを私は見てきた。サヴァイヴで変わったことも、ちゃんと話してくれた、そこは分かってる。でも、それでも時々、貴方は一人で全部抱えようとする」

 

 リュウジはすぐには答えなかった。

 

 否定できない。

 

「だから」

 エリンが言う。

「もし、東の未探索領域に行くって話が、“リュウジが一人で決めて、一人で行く”話なら、私はやっぱり認めない」

 

「……はい」

 

「そこははっきり言う。絶対に認めない」

 

 その断言には、もう揺れがなかった。

 

「でも」

 エリンはそこから少しだけ声を変えた。

「もし、行くなら、“一人で抱えない形”が必要」

 

 リュウジが顔を上げる。

 

 エリンは、まっすぐ見返した。

 

「それは単に人数を増やせばいいって話じゃない。ただ護衛をつければいいってことでもない、役割が必要なの。誰が操縦を支えるのか、誰がコックピットの空気を整えるのか、誰が情報の流れを管理するのか、誰が無茶を止めるのか。そこまで含めて“行く形”を作れないなら、私は駄目」

 

 リュウジの脳裏に、テレビ会議での言葉がよぎる。

 未探索領域のような先が読めない任務では、操縦技術だけでは足りない。

 船全体の空気と情報の流れが判断を支える。

 エリンがいないと船内の温度が変わる。

 そういうことだ。

 

「……エリンさんは」

 リュウジがゆっくり口を開く。

「それを考えた上で、今、そう言ってるんですね」

 

「そうよ」

 エリンは頷く。

「サラ先生にも言われたし、タツヤ班長にも言われた。信頼と、預けることの話をね。だから考えた。私は何に怒ってたのか、何が嫌だったのか」

 

 そこで少しだけ苦笑する。

 

「厄介だったわよ。気づいたら気づいたで」

 

「……すみません」

 

「何で謝るのよ」

 

「厄介なことを考えさせたので」

 

「自覚あるんだ」

 

「あります」

 リュウジは素直に答えた。

 

 エリンは、その返しに少しだけ肩の力を抜いた。

 

「まあ、いいわ。で、ここからが本題」

 

 リュウジは自然と姿勢を正す。

 

「今の貴方の考えを、もう一度聞きたい」

 エリンが言う。

「東の未探索領域に行きたい理由も、そのために、今どういう形を考えているのかも。前みたいに“俺が行く”だけじゃなくて、どういうチームで、どういう支えが必要か、そこまで含めて話して」

 

 リュウジは、数秒だけ黙った。

 

 今まで何度か、自分の本音は話した。

 悲劇のフライト。

 サヴァイヴ。

 自分を許すこと。

 サヴァイヴをなかったことにしたくないこと。

 

 でも、今エリンが求めているのは、その先だった。

 

 “行きたい理由”だけではなく、

 “どうやって行くのか”。

 “誰と行くのか”。

 “どう支えるのか”。

 そこまで、自分が考えているか。

 

「……最初は」

 リュウジが静かに言う。

「正直、一人でやるつもりでした」

 

 エリンは何も言わない。

 ただ、続きを待つ。

 

「調査だけなら、一人でもいいと思ってた。無茶はしないつもりだった。入れるところまで外縁を見て、戻る。深く入らない、そういう前提で」

 

「うん」

 

「でも」

 リュウジは続ける。

「それは、たぶん違う、今はそう思ってる」

 

 エリンの目が少しだけ細くなる。

 

「理由は」

 

「一人でやるって考え方自体が、もうおかしい」

 リュウジは低く言う。

「東の未探索領域がどういう場所か、まだ分からない。分からない場所へ入るのに、操縦と判断を一人で抱えるのは、準備不足とか以前の問題だ。それに………」

 一拍置く。

「俺自身が、一人で抱えた時にどうなるか、今は前より分かってる」

 

 エリンは、その言葉をじっと聞いていた。

 

「未探索領域は、操縦技術だけの問題じゃない。判断を支える空気がいる。情報の流れがいる。止める人間がいる。そういう意味で」

 少しだけ視線を落とす。

「……エリンさんの言ってることは、正しいです」

 

 エリンは、そこで初めて少しだけ長く息を吐いた。

 

「そう。そこまで言えるなら、前よりずっと話が出来る」

 

 リュウジは頷く。

 

「ただ」

 エリンはすぐに続けた。

「ここで勘違いしないで、“分かった”って言っただけで、じゃあ行っていいわけじゃない。ここから先はもっと具体的な話になる」

 

「はい」

 

「もし、本当に東の未探索領域を調査するなら」

 エリンは指を折るように条件を置いていく。

「まず、単独は駄目。次に、操縦支援と情報管理の役割を明確にすること、コックピットコンディションを軽視しないこと、引き返し条件を事前に決めるこ。そして、その条件を破る気配があるなら、最初から行かないこと」

 

 その一つ一つは、厳しい。

 だが、現実的だった。

 

「リュウジ」

 エリンが言う。

「貴方は昔から、“ここで引く”が一番苦手なの。だから、そこを曖昧にしたら駄目」

 

 その通りだった。

 

 行ける。

 まだ行ける。

 あと少し。

 あと一手。

 

 そうやって先へ進みすぎるのが、自分の悪い癖だと分かっている。

 

「……はい」

 

「それと」

 エリンは少しだけ視線を逸らし、すぐに戻した。

「もし、私が乗る必要があるって結論になるなら、そこは別で考える」

 

 リュウジの目がわずかに揺れる。

 

「エリンさんが……」

 

「勘違いしないで」

 エリンがすぐに言う。

「“行く”って言ってるわけじゃない。ただ、コックピットの空気と情報の流れが必要だっていうなら、そこを誰が担うのかは避けて通れないってだけ」

 

 その言葉は、重かった。

 

 エリン自身がそこへ言及する。

 それは、前より一歩先へ進んでいる証拠でもある。

 

 リュウジは、湯呑みを持つ手へ少しだけ力を入れた。

 

「……ありがとうございます」

 

「何に対して」

 

「ちゃんと、そこまで考えてくれたことに」

 

 エリンは数秒だけ黙った。

 それから、少しだけ困ったように笑う。

 

「考えるわよ、考えたくなくても、貴方の話なんだから」

 

 その言い方は、優しいわけではない。

 でも、突き放してもいない。

 ちょうどエリンらしい温度だった。

 

「それで」

 エリンは改めて言う。

「貴方は、誰を考えてるの?」

 

「……まだ、全部は固まってません」

 リュウジは正直に言う。

「でも、操縦の補助や情報の拾い方だけじゃなくて、船内全体の呼吸を揃えられる人間が必要だと思ってる。それは、ただ技術がある人じゃ足りない。現場の空気を読めて、止める時に止められる人間。そういう意味では………」

 ほんの少しだけ言いにくそうにする。

「……やっぱり、エリンさんみたいな人間が必要なんだと思います」

 

 エリンは、その言葉にすぐには返事をしなかった。

 

 ただ、目だけが少し揺れる。

 

「それ、ずるいわね」

 小さく言う。

 

「すみません」

 

「最近そればっかり」

 エリンはため息混じりに言う。

「でも、本当にそう思ってるなら、そこを誤魔化しちゃ駄目。“一人でもいい”って顔してるくせに、本当はそうじゃないなら、最初から口にしなさい」

 

「……はい」

 

「私は」

 エリンが言う。

「貴方がまた一人で全部を抱えようとするのが嫌なの。危険だから嫌だっていうのも本当。でも、それ以上に、一人で行って、一人で決めて、一人で帰れなくなるのが嫌」

 

 その言葉は、以前よりずっと静かだった。

 でも、前よりも深く届いた。

 

 リュウジは、しばらく何も言えなかった。

 

 悲劇のフライトのあと。

 自分はずっと一人で背負ってきた。

 その流れの先に、今も時々立ってしまう。

 

 エリンは、それを見てきた。

 見てきたからこそ、今こうして言っている。

 

「……分かってるつもりだった」

 リュウジが低く言う。

「でも、まだ足りなかったのかもしれない」

 

「足りないわよ」

 エリンは容赦なく言う。

「だから今、こうして話してるんでしょう」

 

 その一刀両断ぶりに、リュウジは少しだけ苦笑した。

 

「厳しいですね」

 

「優しく言ってほしい?」

 

「……いえ。今は、そのままの方がいいです」

 

 エリンは、小さく頷いた。

 

「そう。なら、このまま言う」

 

 それから二人は、未探索領域の話をかなり具体的にした。

 

 外縁までの調査。

 どこを“侵入”と見なすか。

 どの時点で引き返すか。

 中継が途切れた場合の対応。

 船内で役割が崩れた時の優先順位。

 神経を削るのは操縦だけではないこと。

 コックピットコンディションが船全体を支える意味。

 支える人間自身が孤立しないための構成。

 

 エリンは、感情だけではなく、現場側の視点でも話した。

 リュウジは、それにひとつずつ答えた。

 

 途中で何度か、言葉に詰まる場面もあった。

 まだ考えが甘い部分もあった。

 エリンはそこを逃がさず指摘した。

 

「それじゃ足りない。そこは曖昧。その条件だと、貴方の“まだ行ける”が発動する」

 

 リュウジは、否定せずに聞いた。

 

 自分でも分かっているからだ。

 そして今夜は、否定するためではなく、ちゃんと見つめ直すための時間だったから。

 

 どれだけ時間が経ったか分からない頃、エリンがふっと息を吐いた。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

 リュウジが顔を上げる。

 

「……はい」

 

「全部の答えは、まだ出てない」

 エリンが言う。

「でも、前よりずっとマシ。少なくとも、“リュウジが一人で行く話”じゃなくなった」

 

 その言葉に、リュウジは静かに頷いた。

 

「ありがとうございます」

 

「だから、何に対してよ」

 

「話してくれたことに。ちゃんと、考えてくれたことに。俺を一人で行かせない形を考える余地があるって、示してくれたことに」

 

 エリンは、そこでほんの少しだけ目を伏せた。

 

「……勘違いしないで」

 少し間を置いて言う。

「私はまだ、簡単に認めるつもりはない。でも…‥貴方が一人で抱えないなら、話は変わる。そこまでは来た。それだけ」

 

 それだけ、と言いながら、それは十分に大きかった。

 

 リュウジは、その重さをちゃんと受け取った。

 

「はい」

 

「あと」

 エリンが最後に付け加える。

「次にソーラ・デッラ・ルーナで無茶なトレーニングして、クリスタルから先に苦情が来たら、今度は私が怒るから」

 

 その一言で、少しだけ空気が緩む。

 

「……もう伝わってるんですね」

 

「クリスタルを誰だと思ってるの」

 エリンは言う。

「そういうの、すぐ来るわよ」

 

「気をつけます」

 

「ほんとに?」

 

「はい」

 リュウジは今度こそ素直に答えた。

「気をつけます」

 

 エリンは、それを聞いて小さく頷いた。

 

「よろしい」

 

 湯呑みのお茶は、もうかなり冷めていた。

 でも、部屋の空気は少しだけ温かくなっていた。

 

 未探索領域の調査が正式にどうなるかは、まだ分からない。

 エリンが最終的にどう答えを出すのかも、まだこれからだ。

 

 それでも、今夜は確かに前へ進んだ。

 

 一人で行く話ではなくなった。

 一人で抱える話でもなくなった。

 

 それだけで、以前とはもう違う。

 

 エリンが立ち上がる。

 

「帰るなら、気をつけて」

 そう言う。

 

 リュウジも立ち上がった。

 

「はい」

 それから少しだけ迷って、静かに続ける。

「……唐揚げ、美味かったです」

 

 エリンは、そこでほんの少しだけ驚いたように目を瞬かせたあと、笑った。

 

「知ってる」

 

 その返しが、妙に嬉しかった。

 

 リュウジは小さく目を細める。

 

「また、食べに来てもいいですか」

 

 言ってから、少しだけ早かったかと思った。

 だがエリンは、変に茶化さなかった。

 

「内容次第ね」

 そう言ってから、

「ちゃんと噛んで食べるなら、考えてあげる」

 

 少しだけ意地悪く付け足した。

 

 リュウジは、そこでようやく、今夜初めてはっきりと笑った。

 

「……分かりました」

 

 その笑みを見て、エリンもほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 

 夜の火星は静かだった。

 けれど、その静けさの中で、二人の間にあった張りつめたものは、来た時より確かにほどけていた。

 

 未探索領域の話は、まだ終わっていない。

 でも今夜、ようやく“同じ方向を向いて話す”ところまでは辿り着いたのだ。

 

 

 

ーーーー

 

 

 

 

次の日の朝。

 

 火星コロニーの朝は、木星圏の朝とは少し違う。

 

 光の色も、空気の乾き方も、人の歩く速さも、どこか人工的なのに、生活の熱だけはしっかりとそこにある。スペースホープの社屋の前に立ったエリンは、一度だけ小さく息を吐いた。

 

 昨夜は遅くなった。

 

 リュウジと話をした。

 自分の家に呼んで、唐揚げを作って、ちゃんと食べさせて、それから色々と話をした。

 

 全部が解決したわけじゃない。

 割り切れたわけでもない。

 でも、少なくとも前よりは、ずっとまともに向き合えた気がしている。

 

 リュウジが、一人で抱えたまま行こうとしていたこと。

 自分が、それを嫌だと思っていたこと。

 そして、ただ危険だから反対していたわけじゃないのだと、自分でもようやく気づけたこと。

 

 そんなことを思いながら、エリンは社屋へ入った。

 

 受付を抜け、エレベーターに乗り、宇宙事業部のフロアがある階へ上がる。いつもと変わらない流れのはずだった。

 

 ――なのに。

 

 扉が開いた瞬間、何かがおかしいと分かった。

 

 空気が、妙にざわついている。

 

 朝のフロアらしい、端末の起動音や椅子を引く音、資料をめくる音はちゃんとある。けれど、その奥に、明らかに仕事とは別の熱が混じっていた。

 

 エリンが一歩フロアへ足を踏み入れた、その瞬間。

 

 視線が、一斉に集まった。

 

「……何?」

 

 思わずそう口にしたのは、たぶん自然な反応だった。

 

 フロアが、一瞬だけ静まる。

 

 そして次の瞬間――。

 

「エリンさん!」

 と、真っ先に声を上げたのはユウコだった。

 

「ちょっと待ってください!」

 と、ナツキが続く。

 

 その二人の勢いに、エリンは条件反射みたいに眉を寄せた。

 

「何よ、朝から。そんなに元気よく詰め寄ってこないで」

 

「そこじゃないです」

 ユウコが真顔で言う。

 

「そこじゃないですね」

 ナツキも、やけに落ち着いた顔で頷いた。

 

 そのやり取りを見て、少し離れた場所でホーネットがにやっと笑った。

 

「お、始まった」

 と、まるで面白い催しでも始まったみたいな口調で言う。

 

「ホーネット」

 ランがすぐに低く言った。

「その顔やめて」

 

「えー、だって気になるじゃん」

 ホーネットは悪びれない。

「みんなそうでしょ?」

 

 その言葉に、フロアのあちこちで気まずそうに視線が揺れた。

 

 ミラは端末を開いているが、明らかに画面を見ていない。

 ランは呆れた顔をしているが、自分も完全に無関心ではない顔だ。

 シルヴィアは顔を赤くして、でも目だけはしっかりこっちを見ている。

 クミコ、アズサ、マユ、サリー、ハズキ、ミドリ、その他の若い乗務員達も、露骨に仕事の振りをしているだけで、耳は完全にこちらに向いていた。

 

 エリンは、それを見て小さく息を吐いた。

 

「……とりあえず、順番に話して、何なの」

 

 ユウコとナツキが、顔を見合わせる。

 

 その“よし来た”みたいな顔を見た瞬間、エリンはすでに少しだけ嫌な予感がした。

 でも、ここで聞かない方があとで面倒になるのも分かっている。

 

「昨日ですね」

 ユウコが妙に丁寧な口調で切り出した。

 

「私とユウコ、帰りにちょっと寄り道してたんですよ」

 ナツキが続ける。

 

「そう」

 エリンが冷たく返す。

 

「そしたら」

 ユウコが一拍置いて、周りをちらりと見る。

 

「会社の前の通りで、エリンさんと」

 ナツキも、なぜか声を落とす。

 

「……リュウジさんが」

 と、ユウコが言い切った。

 

 フロアの空気が、露骨にざわついた。

 

 シルヴィアが、思わず両手で口元を押さえる。

 クミコが「えっ」と小さく声を漏らし、アズサがその腕を掴んだ。

 ホーネットは口元を押さえて笑いを堪えている。

 ミラは無言のまま視線だけ少し落とし、ランは「やっぱりそれか」という顔で天井を見た。

 

「それで?」

 エリンは平坦に言う。

 

「並んで歩いてたんです」

 ユウコがきっぱり言う。

 

「かなり普通に」

 ナツキも続ける。

 

「普通に並んで、普通に話してて、それで、そのまま」

 

「……そのまま?」

 エリンが聞き返すと、

 

「そのまま、エリンさんの部屋に入っていきました」

 と、ユウコが言い切った。

 

 今度こそ、フロアが完全にざわついた。

 

「えっ」

「本当に?」

「見間違いじゃなくて?」

「いやでも二人がそう言うなら……」

 

 小声があちこちで飛び交う。

 ホーネットがとうとう机に片肘をついて笑い出した。

 

「いや、それはさすがに想像するって、夜に並んで歩いて、そのまま二人で部屋に入るのは強いでしょ」

 

「ホーネット」

 エリンが低く名前を呼ぶ。

 

「はい」

 ホーネットは素直に返事をした。

「でも事実だし」

 

「事実を面白がらないで」

 

「それは無理」

 ホーネットは即答した。

 

「即答しない」

 

 ユウコが身を乗り出す。

 

「で、何だったんですか?」

 

「何が」

 

「いや、全部ですよ」

 ユウコはまったく遠慮がない。

「何でリュウジさんと会ってたのか、何で夜だったのか、何で並んで歩いてたのか、何でそのまま部屋に入ったのか、何話したのか、何時まで一緒にいたのか」

 

「最後の方、完全に事情聴取だね」

 ホーネットが横から言う。

 

「だって気になるでしょ」

 ナツキが真顔で言う。

「うちら、昨日あのあとしばらく固まったからね」

 

「『今の見た?』って、三回くらい確認したし」

 ユウコが頷く。

 

「三回で済んだんだ」

 ホーネットが感心したように言う。

 

「そこ、感心するところじゃない」

 シルヴィアが小さく言った。

 

 だが、そのシルヴィア自身も明らかに気になっている顔だった。

 顔が赤い。

 でも、目だけはきらきらしている。

 

 エリンは、その全員を見回して、心の底から深いため息をついた。

 

「……仕事は?」

 静かに言う。

 

 フロアが一瞬だけ静まる。

 

「あります」

 ミラがようやく口を挟んだ。

「でも」

 一瞬だけ視線を泳がせる。

「気になることがあるのも事実です」

 

「ミラ」

 ランが少し低く言う。

「そこは正直すぎるよ」

 

「でも本当だし」

 ミラが小さく返す。

 

 エリンは、そのやり取りに軽く目を閉じた。

 

「……貴方たちまで」

 呆れたように言う。

 

「すみません」

 ミラは素直に頭を下げた。

「ただ、エリンさんが夜に誰かと並んで歩いて、そのままご自宅に入るって、ちょっと想像の外で」

 

「言い方」

 

「すみません」

 

 ランは額に手を当てながら、小さく息を吐いた。

 

「でも、みんな気になるのは分かります。エリンさん、普段こういう話題から一番遠い感じですし」

 

「そうそう」

 ホーネットがすぐに乗る。

「そこだよ、エリンって、そういうの一番なさそうな顔してるもん」

 

「なさそうな顔って何」

 エリンが言う。

 

「なんかこう」

 ホーネットは身振りを交えて言った。

「恋愛より仕事!色気より効率!甘い話より編成表!みたいな」

 

 フロアのあちこちで吹き出す気配があった。

 

「ホーネット」

 ランが少し本気で言う。

「それ以上はさすがに危ない」

 

「でも大体合ってるじゃん」

 ホーネットは悪びれない。

 

 その時、シルヴィアがおずおずと手を上げた。

 

「え、えっと……わ、私は、その……別に詮索したいとかではないんですけど……」

 

「してますよ」

 ナツキが横から即座に言う。

 

「で、でも……!」

 シルヴィアは慌てて言い直す。

「やっぱり、その……気になります」

 

「かなり?」

 ユウコが拾う。

 

「……かなり、です」

 シルヴィアは真っ赤になりながら、でも頷いた。

 

「素直」

 ホーネットが笑う。

 

 クミコも、おずおずと口を開いた。

 

「わ、私も……その、気になります。え、エリンさんって、そういうことを、あまり……見せないので……」

 

「そうそう」

 アズサが頷く。

「だから余計に」

 

「夜に二人でっていうのも、ちょっと強いし」

 マユが言う。

 

「並んで歩いてたっていうのも」

 サリーが小さく続ける。

 

「しかも会社前から」

 ハズキが冷静に補足する。

 

「絵として強いですね」

 ミドリが、妙に冷静に結論づけた。

 

 エリンは思わず額に手を当てた。

 

「何でそういう時だけ語彙が的確なのよ……」

 

 フロアの空気が、少しだけ明るく笑いへ流れる。

 

 その流れを見て、エリンは覚悟を決めた。

 

 どうせこのままでは収まらない。

 適当にごまかした方が、あとで余計に長引く。

 

「……ただ、一つだけ先に言っておくわ」

 エリンが言う。

 

 全員の視線が集まる。

 

「仕事の話は聞かないこと、昨日のことについても、外で勝手に騒がない。それは約束して」

 

 その一言で、フロアの空気が少しだけ締まる。

 

 ミラが真っ先に頷いた。

 

「はい」

 静かに言う。

 

 ランも続く。

 

「分かりました」

 

 ユウコとナツキも、今度はちゃんとふざけずに頷いた。

 

「分かりました。それは守ります」

 

 ホーネットも珍しく真面目な顔をした。

 

「そこは大丈夫。私たちも一応、乗務員だから」

 

 その返事に、エリンは小さく頷いた。

 

「よろしい」

 それから一拍置いて、

「じゃあ、昨日はただ、少し話があっただけよ」

 

「少し?」

 ユウコが即座に反応する。

 

「少し、で、夜に、部屋に?」

 ナツキも続く。

 

「そこを膨らませない」

 エリンはぴしゃりと言った。

「会社の外で話す内容じゃなかった。それだけ」

 

「じゃあ、何で家だったんですか?」

 シルヴィアが、おずおずと聞く。

 

「落ち着いて話せる場所がよかったの」

 エリンは答えた。

 

「うわ」

 ホーネットが小さく言う。

 

「何よ」

 

「いや、正しいんだけど、響きがちょっと」

 

「響きを評価しないで」

 

「でも分かる」

 ユウコが言う。

「“落ち着いて話せる場所がよかった”は、そりゃそうなんだけど、家なんだ、ってなる」

 

「なるね」

 ナツキも頷く。

 

 ミラが少しだけ咳払いをして、口を開いた。

 

「エリンさん、その……嫌じゃなければ、もう一つだけ」

 

「何」

 

「夕飯、作ったんですか?」

 

 フロアの空気がぴたりと止まる。

 

 全員、そこだったのかと言いたげな顔だ。

 いや、全員、そこが一番聞きたかったのだろう。

 

 エリンは数秒だけ黙った。

 

 でも、その沈黙でたぶん全員に伝わった。

 

「作ったんだ」

 ホーネットが言う。

 

「え、本当に?」

 ユウコが目を見開く。

 

「しかも手料理」

 ナツキが言う。

 

「……作ったわよ」

 エリンは観念して言った。

「それが何よ」

 

「何よ、じゃないです」

 ユウコが両手を合わせる。

「大事件です」

 

「そこまでではないでしょう」

 エリンが返す。

 

「いや、そこまでです」

 ナツキが真面目な顔で言う。

「だってエリンさんですよ?」

 

「私が何だっていうのよ」

 

「夜に男の人を自分の部屋に呼んで」

 ホーネットが指を折りながら言う。

「しかも夕飯作るって、それは普通に強いよ」

 

「強いって言い方やめて」

 

「でも事実だし」

 ホーネットはあっさりしている。

 

 クミコが、おずおずと手を上げるみたいに言った。

 

「あ、あの……何を作ったんですか?」

 

 エリンは、そこでほんの少しだけ視線を逸らした。

 

 唐揚げ。

 昨夜、リュウジの顔を見ながら、迷いなく作ったそれ。

 理由は簡単だった。

 

 リュウジが大好きだから。

 それを知っていたから。

 

「……唐揚げ」

 小さく言う。

 

 その瞬間、フロアが再び揺れた。

 

「唐揚げ!?」

 ユウコが叫ぶ。

 

「よりによって唐揚げ!?」

 ナツキも言う。

 

「え、でも」

 マユが思わず笑う。

「なんか、すごく分かる」

 

「分かる」

 サリーも頷く。

 

「唐揚げ、リュウジさん好きそう」

 アズサが言う。

 

「好きそうじゃなくて、大好きなんでしょ?」

 ホーネットがにやっと笑う。

 

 エリンは、そこでようやく正面から言った。

 

「そうよ。リュウジ、唐揚げ大好きだから、だから作ったの。それだけ」

 

 その一言に、フロアの空気が少しだけ変わる。

 

 からかいの熱の中に、ほんの少しだけ別の温度が混じった。

 

「……へえ」

 ミドリが小さく言う。

「リュウジさんの好み知ってるんですね」

 

「何年の付き合いだと思ってるの」

 エリンが言う。

 

 その返しは、昨夜リュウジに言ったのと同じ言葉だった。

 

 ミラが、その言葉を聞いてわずかに目を細める。

 

「それは、まあ……確かに、そうですね」

 

 ランも静かに頷いた。

 

「長い付き合いだし、好きなものくらい知ってるよね」

 

 そのランの言葉は、場を整えるためのものでもあった。

 

 “唐揚げを作った”という事実を、必要以上に恋愛の方向へ膨らませすぎないための、上手い置き方だ。

 

 だが、ユウコとナツキはそこまで素直ではなかった。

 

「でもさ」

 ユウコが言う。

「“好きだから作った”って、言い方だけ聞くとだいぶ強いですよね」

 

「ご飯が好きだから、の意味よ」

 エリンが即座に返す。

 

「分かってますよ」

 ナツキが言う。

「分かってるけど、朝からその情報量は強いって話」

 

「ほんとに」

 ホーネットが笑う。

「唐揚げって家庭感あるし、しかもエリンが作るの、なんか余計に」

 

「何よ、その“余計に”は」

 

「普段のエリンが家で揚げ物してる絵が、ちょっと破壊力ある」

 ホーネットは真顔で言う。

 

「破壊力で判断しないで」

 

 シルヴィアが、そのやり取りを聞きながら両手をぎゅっと握っていた。

 

「で、でも……」

 少しだけ勇気を出して言う。

「なんだか……よかったです」

 

 エリンがそちらを見る。

 

「何が?」

 

「その……」

 シルヴィアは少しだけ目を泳がせる。

「エリンさんが、ちゃんと誰かをお部屋に呼んで、お料理して、落ち着いて話せるって、なんていうか……」

 少し考える。

「勝手ですけど、少し安心しました」

 

 その言葉に、ユウコとナツキも意外そうな顔をした。

 でも次の瞬間、二人とも小さく頷いた。

 

「それは分かる」

 ユウコが言う。

 

「うん」

 ナツキも続く。

「気になるし、騒ぎたくもなるけど、でも、ちゃんとそういう時間があるんだって分かると、少し安心する」

 

 エリンは、その言葉に少しだけ目を瞬いた。

 

 安心。

 

 それは、昨夜ミラにも似たようなことを言われた気がした。

 自分がちゃんと誰かに預けたり、呼んだり、話したりするんだと分かって、少し安心した、と。

 

 サラに言われたこと。

 信頼しなさい。

 抱え込みすぎるな。

 

 そういうものが、こんな形で周りにも伝わっているのかもしれなかった。

 

「……貴方たちね」

 エリンは小さく息を吐いた。

「朝から人を質問責めにしておいて、最後にそんなこと言うの」

 

「だって本音だし」

 ホーネットが言う。

 

「あなたは本音しかないの?」

 

「かなりそう」

 ホーネットは胸を張った。

 

 ランが即座に言う。

 

「胸を張ることじゃない」

 

 その一言で、フロアにまた小さな笑いが広がった。

 

 エリンは、その空気を見て、もう一度だけため息をつく。

 

「……はい、ここまで、これ以上は仕事の邪魔。休憩終わり」

 

「えー!」

 と、何人かの声が揃う。

 

「えー、じゃない」

 エリンがぴしゃりと言う。

「今日の便、誰が入るか分かってるでしょう。朝の確認もまだある。そこを崩したら、本当に許さないわよ」

 

 その一言で、空気が一段締まる。

 

 ミラが真っ先に立ち上がった。

 

「はい、戻ります」

 

 ランも続く。

 

「みんな、引きずらないで、そこはちゃんと切り替えて」

 

「はーい」

 ユウコが返す。

 

「……了解」

 ナツキも頷く。

 

 ホーネットは最後までにやにやしていたが、それでもちゃんと持ち場へ戻る。

 

 シルヴィアは去り際に、こっそりとエリンへ頭を下げた。

 クミコたちも、それぞれに仕事の顔へ戻っていく。

 

 フロアは、ようやく本来の朝へ戻り始めた。

 

 エリンは、その背中を見ながら、心の中で小さく息を吐く。

 

 面倒だった。

 ものすごく面倒だった。

 

 でも同時に、少しだけ可笑しくもあった。

 

 昨夜、自分の家で作った唐揚げが、こんなふうにフロア全体を騒がせることになるなんて思いもしなかった。

 

「……ほんと、もう」

 

 小さく呟く。

 

 すると、すぐ近くからミラの声がした。

 

「でも」

 エリンがそちらを見ると、ミラは端末を抱えたまま少しだけ笑っていた。

「唐揚げは、確かに強いです」

 

 エリンは数秒、無言になった。

 

 そして。

 

「ミラ」

「はい」

「後で覚えてなさい」

 

 そう言うと、ミラは初めて年相応の、少しだけ悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

 宇宙事業部のフロアには、また仕事の音が戻っていく。

 

 でも、その奥には、朝から一度大きく揺れたあとの、少しだけ明るい温度が残っていた。

 それはたぶん、エリンにも、皆にも、少しだけ必要な騒がしさだったのだ。

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